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形態呼称本文 ※太字は年実記、朱字は要検討付帯情報出典月日年比定伝来補記解釈
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言及北条藤菊丸
義氏様御元服之次第。御理髪、御座御祝言之次第。北条左京大夫氏康。公方様。初献御荷用之次第。めし佐々木左衛門尉、御盃本間孫三郎、御杓佐々木源五郎、進上御弓・箙、氏康自身持参候、御手移に御太刀被下候。二献に御荷用之次第。めし簗田平二郎、御盃ハ佐々木源七郎、御杓簗田次郎、進上 御甲・鎧、先ニ梶原平七、跡に北条藤菊丸、氏康次男、御腰物御手移ニ被下候。三献御荷用之次第。めし印東大膳亮、御盃高彦四郎、御杓簗田右馬允持参候を氏康請取、御杓に参、其後簗田中務大輔請取。公方様前に指置、其時御手を懸させられ氏康に被下、進上御太刀作大原実守、御腰物作一文字則宗、氏康我と持参候、被下候物御馬、三々九度之御祝言如斯。氏康、指南者簗田。御内座にて氏康御酒被下候時、御太刀進上、作一文字助宗、又七尾と云名もあり、又於京都あらなミと云名もあり。御宿老中御座御祝言之次第。一番御座。二階堂者、一色老・佐々木こと嫌祇候申さす候。左、一色・佐々木・町野、植野ハ町野とあらそひ不詰申候。公方様。右、野田・梶原・印東。御荷用之次第。めし佐々木左衛門尉、御盃簗田平三郎、御杓簗田次郎、進上御太刀・御馬、何茂同前。二番御座。左、畠山・小笠原。公方様。右、野田・平三郎。御荷用之次第。めし佐々木源七郎、御盃簗田平七郎、御杓佐々木源五郎、進上御太刀・御馬何茂同前。三番御座。公方様、簗田。御荷用之次第。めし印東大膳亮、御盃佐々木源六郎、御杓権木治部少輔、本名二階堂、進上 御太刀・御馬何茂同前。以上三々九度之御祝言之事、如斯、
古記録
新八王子市史資料編2_0455「足利義氏元服次第」(国学院大学図書館所蔵)
1555(天文24/弘治元)年
★11_月22日比定義氏様御元服の次第。御理髪、御座御祝言の次第。北条左京大夫氏康。公方様。初献御荷用の次第。めしは佐々木左衛門尉、御盃は本間孫三郎、御杓は佐々木源五郎、進上の御弓・箙は氏康自身が持参しました。直接御太刀下されました。二献目の御荷用の次第。めしは簗田平二郎、御盃は佐々木源七郎、御杓は簗田次郎。御甲と鎧を進上しました。先に梶原平七、あとに北条藤菊丸(氏康次男)、御腰物を直接下れされました。三献目の御荷用の次第。めしは印東大膳亮、御盃は高彦四郎、御杓は簗田右馬允が持参したものを氏康が請け取り、御杓いたしました。そのあとを簗田中務大輔が請け取り、公方様の前に指し置きました。その時に御手をおかけになり氏康に下されました。御太刀(作大原実守)・御腰物(作一文字則宗)を進上しました。氏康自ら持参しました。御馬を下されました。三々九度の御祝言はこのようでした。氏康の指南は簗田でした。御内座で氏康が御酒を下された時、御太刀(作一文字助宗、また七尾とも京都ではあらなみという名もある名刀)を進上。御宿老が揃って御祝言を述べた次第。一番手の二階堂は、一色老・佐々木を嫌って挨拶しませんでした。左列では、一色・佐々木・町野。植野は町野と争っていたので欠席しました。中央に公方様。右列は、野田・梶原・印東でした。御荷用の次第。めしは佐々木左衛門尉、御盃は簗田平三郎、御杓は簗田次郎。御太刀・御馬を進上しました、何れも同前のご対応。二番目の御座では、左列に畠山・小笠原。公方様が中央で、右列は野田・平三郎。御荷用の次第。めしは佐々木源七郎、御盃は簗田平七郎、御杓は佐々木源五郎、御太刀・御馬を進上し何も同前のご対応。三番の御座は公方様、簗田でした。御荷用の次第。めしは印東大膳亮、御盃は佐々木源六郎、御杓は権木治部少輔、本名に階堂でした。御太刀・御馬を進上し何も同前のご対応。以上、三々九度の御祝言はこのように行なわれました。
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言及北条藤菊丸(表)相州田倉郡渋谷庄座間郷。奉遷宮鈴鹿大明神再造成就処。弘治二年丙辰五月二日、大旦那北条藤菊丸殿。(裏)造畢之入目五千疋。施主若林大炊助。右、奉為天長地久御領円満、殊当郷安穏諸人快心中所願皆本満子孫繁栄旨如件、古記録
新八王子市史資料編2_0457「鈴鹿明神社棟札銘」(鈴鹿明神社所蔵)
1556(弘治2)年★05_月02日実記
近世初頭に改竄の痕跡があるとの指摘(『神奈川県の地名(日本歴史地名大系第14巻)』p.475)
<表>相模国田倉郡渋谷庄座間郷。遷宮し奉る鈴鹿大明神の再造が成就したところ。弘治二年丙辰五月二日、大旦那は北条藤菊丸殿。<裏>建設費は5,000疋。施主は若林大炊助。右、天長地久・御領円満のため奉る。ことに当郷の安穏、諸人快心中、所願皆本満、子孫繁栄の旨件のごとし。
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言及大方之孫
二日、丁亥、天晴、○今日大方、中御門女中、大方之孫、相州北条次男也、等湯山江被越云々、仍各留守之間午下刻老母見舞に罷向、牛黄円、麝香丸二貝宛進之、先雑煮にて一盞有之、次大方之庭等見物、次晩飡有之、供衆各迄有之云々、戌刻迄雑談、次罷帰了、次大沢左衛門大夫、住持、納所、喝食松的等招寄一盞勧了、暫雑談、予喝食に竹門御筆短冊二枚遣之
古記録言継卿記1556(弘治2)年★10_月02日実記二日、丁亥、天晴、○今日大方[寿桂]・中御門女中[宣胤の妻で寿桂娘]・大方の孫で相州北条次男[北条氏規]は、湯山へ行ったという。皆が留守なので、午下刻に老母[御黒木・寿桂の妹]の見舞い向かう。牛黄円・麝香丸を2貝渡した。まず雑煮で一盞。次に大方の庭を見物。次に夕食があり、供衆にもそれぞれいただいたとのこと。戌刻まで雑談し帰った。次に大沢左衛門大夫・住持・納所・喝食の松的を招き一盞を勧めた。暫く雑談し、喝食に竹門の御筆短冊2枚を与えた。
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言及孫がいえい若子
廿八日、癸丑、自暁晴、○自御黒木鯛(あえ)二かけ、鈴(伊豆酒)一対、蜜柑一蓋、餅等賜之、畏入者也、住持所望之間、鳥子一枚に百人一首令書写送之、礼に湯瓶持来、自他受用了、次今井入道来、勧酒了、次中御門来談、同鱸入道来談了、次甘利佐渡守来、夕方大方可有見参之由案内也、一盞勧了、及黄昏福島八郎左衛門迎に来、先老母方江罷向、次大方江入見参、孫がいえい若子出座、盃出、若子へ太刀、勅筆之御短冊三枚送之、上臈、号冷泉、円明院母云々、帯二筋、薫物三貝遣之、奥殿、元上臈、今尼也、帯二筋、金龍丹二貝遣之、中臈頭、小宰相、帯二筋、薫物三貝遣之了、次三献盃、初献予、二献老母、三献大方被始了、三献酌予取之、予には大方酌也、各々予酌沙汰了、次亥刻計帰了、沢路隼人二献に召出、三献むし麦相伴也、三献之時、男衆五六人召出有之
古記録言継卿記1556(弘治2)年★10_月28日実記廿八日、癸丑、自暁晴、○御黒木[寿桂の妹・言継養母]より鯛を2かけ、伊豆酒を1対、蜜柑1蓋、餅を賜る。畏れ入る。住持が所望したので、鳥子1枚に百人一首を書き写して送った。礼として湯瓶を持って来た。皆でいただいた。次に今井入道が来て酒を勧めた。次に中御門[宣綱]が来て談じた。同じく鱸入道も話に来た。次に甘利佐渡守が来て、夕方に大方へ見参できるだろうとのことを伝えた。一盞を勧めた。黄昏に福島八郎左衛門が迎えに来て、まず老母[御黒木]に会いに行き、それから大方[寿桂]へ見参した。孫の若子(がいえい)[北条氏規]も同席。盃が出て、若子へは太刀と勅筆の御短冊3枚を送った。上臈(冷泉と号し円明院の母という)へ帯2筋と薫物3貝を与えた。奥殿(元上臈で今は尼)には帯2筋、金龍丹2貝を与えた。中臈頭の小宰相には帯2筋と薫物3貝を与えた。ついで三献盃となり、初献は私、二献は老母、三献は大方が始めた。三献の酌は私が取り、私には大方が酌をしてくれた。各々の酌が終わり亥刻くらいに帰った。沢路隼人は二献に召し出され、三献の蒸し麦に相伴した。三献の時、男衆5〜6人が召し出された。
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言及伊豆之若子
十八日、癸卯、天晴、天一天上、○大沢左衛門大夫鈴携来、雪消歟、招寄住持一盞有之、自住持被送二首、如此。旅人の富士はともしもとひもせはいかゝいふへき今朝のみな◎しらヵ雪めつらしや雪ふる里に来てみれはいつくとさらにかわぬ白たへ。予贈答。つくりなすみきりの山をかさねあけてふしもやこゝに今朝のしら雪。積らぬとこゝに聞しか故郷をみせてや雪のふりもきぬらん。行て見ぬわかためとてや庭の面にたかねの雪を送る山かせ。次沢路隼人佑使にて、朝比奈丹波守に伏見殿御短冊五ゝ、同蔵人に竹門同三枚、由比四郎右衛門に伏見殿詩歌一、竹門短冊二、岩本六郎右衛門に竹門円頓者遣之、今日伊豆之若子祝言云々、中御門無興云々
古記録言継卿記1556(弘治2)年★12_月18日実記十八日、癸卯、天晴、天一天上、○大沢左衛門大夫が酒を携えて来た。雪は消えたのだろうか。住持を招いて一盞した。住持より2首を送られた。旅人の富士はともしもとひもせはいかゝいふへき今朝のみな◎しらヵ雪めつらしや雪ふる里に来てみれはいつくとさらにかわぬ白たへ。私も贈答する。つくりなすみきりの山をかさねあけてふしもやこゝに今朝のしら雪。積らぬとこゝに聞しか故郷をみせてや雪のふりもきぬらん。行て見ぬわかためとてや庭の面にたかねの雪を送る山かせ。次に、沢路隼人佑を使いにして、朝比奈丹波守[親徳]へ伏見殿御短冊五ゝ、同じく蔵人へ竹門三枚、由比四郎右衛門へ伏見殿詩歌1、竹門短冊2、岩本六郎右衛門へ竹門円頓を与えた。今日は伊豆の若子[北条氏規]が祝言だという。中御門[宣綱]は面白くなかったようだ。
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言及伊豆之若子
廿三日、戊申、雨降、天一天上、○自住持持菓子、小せんべい一蓋、茶、一やきん、被送之、次御黒木江罷向、御屋敷江小鬼子廿巻立入見参、此内五可進之由申候了、則五、こぎいた、いかだ、かご、幸びし、雨字、被留、伊豆之若子二、矢、車字、被留之、則自大方はつり一包、雉之羽十一具賜之、又若子より羽三具被送之、次雁之汁にて晩飡相伴、暮々帰寺了、午時当寺之塔頭勢林周等庵へ移初了、樽一、両種送之、湯豆腐にて酒有之、住持、西林軒、永宗、良哲等相伴也
古記録言継卿記1556(弘治2)年★12_月23日実記廿三日、戊申、雨降、天一天上、○住持より菓子、小せんべい1蓋、茶、1やきんが送られた。次に御黒木[寿桂の妹・言継養母]へ向かった。御屋敷へ小鬼子20巻を立ち入れて見参。この内5巻を進呈すると言った。その5巻はこぎいた・いかだ・かご・幸びし・雨字を留められた。伊豆の若子[北条氏規]は2巻、矢・車字を留められた。そして大方[寿桂]より、はつり1包、雉之羽11具を賜る。また若子より羽3具をお送りいただいた。次に、雁の汁にて夕食を相伴し、日が暮れてから寺に帰った。午時に当寺の塔頭である勢林が周等庵へ引っ越した。樽1と両種を送る。湯豆腐で酒を飲み、住持・西林軒・永宗・良哲が相伴した。
北条氏規、酒井忠次と、妙音院・一鴎軒の情報を共有しようとする
 内々に今日申し上げたいことがあると思っていたところ、一昨27日のご書状を現在の未刻に拝見しています。一、すぐにお帰りになられるだろうとの仰せ。この度はお目にかかれませんこと、残念です。2月はご参府なさっているでしょうから、その時にお目にかかって申し上げましょう。一、ご隠居様がまたご隠居なさるとのこと仰せです。前に私が上洛の時分よりひたすら引きこもられて、どんな些事であろうと再び揺らぐことがあってはならぬと仰せになってしまいました。どうにもならないご様子だと存じております。一、一両日より前に妙音院・一鴎軒が参着したそうですが、口上をお聞きになりましたでしょうか。私の所へも「冨田・津田の書状を送るだろう」と妙音院から言ってきたと、お話がありました。一昨27日の御書が参りまして、もとより口上は是非を承り届けていません。はたまた一昨日朝比奈弥太郎が家康のためにお使いに参りました。この口上を家康へも関白殿が仰せになられたので、然るべくお返事するのがもっともとのこと、この一理をもって参上したとのことです。朝比奈弥太郎が妙音院が申したこととして物語した分は、この度のことは、沼田のことで参りました。そちら側の為に、しかるべき『御模様』とのこと申して、きっとご談合がおありになるでしょう。何かあったら、仰せ下されるでしょう。一、足利のこと。いかようにも検討なされるのは大切なことと考えております。きっと方々からの陳情があるでしょう。お味方になさるほどのことでしたらば、殿様のお手前相違のないように以前から申し上げられるのは、ごもっともなことでしょうか。但し、何事も入りがたい世の中ですから、私のようなことは『遠州』のことでも何のことでも取り合ってもらえないでしょう。年をとってしまいましたので、どうにか善処いただこうとそればかりです。返す返すも、この度お目にかかれませんでしたこと、どうにもこうにも戸惑うばかりです。なお、この者より申し上げることをご披露下さい。 追記:一種を下されましたこと、私には過分なことだと思っています。そしてもう殊のほかの末期になりました。また、一種を進上します。ご披露を。
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言及若子
廿四日、己酉、天晴、天一下艮、○御黒木に雁之汁にて朝飡相伴、次昨日之大方、若子等小鬼子取寄、木れん子をすけ薄置之了、若子被来被見之、同晩飡又相伴了、次当寺之永宗小鬼子連々所望之間二、吉更、ちきり、遣之、同教伝被所望之間一、八唐花、遣之了、次住持来談亥刻迄
古記録言継卿記1556(弘治2)年★12_月24日実記廿四日、己酉、天晴、天一下艮、○御黒木[寿桂の妹・言継養母]と雁の汁で朝食を相伴した。次に、昨日大方[寿桂]・若子[北条氏規]に渡した小鬼子に木れん子を透け薄に置いたと、若子が来てお見せになった。前日と同じく夕食を相伴した。次に当寺の永宗が小鬼子を連々所望していたので吉更・ちきりを与えた。同じく教伝も所望したので八唐花を与えた。次いで住持が来て亥刻まで談じた。
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言及伊豆之若子賀永
二日、丁巳、天晴、八専、○自御黒木樽一荷両種并さつか紙一束賜之、大沢左衛門大夫使也、同大野見掃部助礼に来、樽代十疋送之、対面盃礼飲之、次寺僧衆龍寿庵、西林軒礼に被来、茶、やきん一つゝ、持来、一盞勧了、次永宗礼に来、蜜柑一盆持来、勧一盞了、次住持へ一荷両種送之、則罷向、引付、吸物、あつ麦三献有之、及数盃了、次龍寿、西林、永宗等へ罷向、扇一本つゝ遣之、次自御黒木蜂蜜来、薫物沈二両半合調進之、次住持被申薫物、沈一両合調遣之、三条亜相へ薬研返遣之、次伊豆之若子賀永へ令所望はま弓矢等到
古記録言継卿記1557(弘治3)年★01_月02日実記二日、丁巳、天晴、八専、○御黒木より樽1荷・両種とさつか紙1束を賜る。大沢左衛門大夫が使者。同じく大野見掃部助が挨拶に来て、樽代10疋を持ってきた。対面して挨拶の盃を交わした。次に寺僧衆の龍寿庵・西林軒が挨拶に来られた。茶・やきんを1つずつ持って来て、一盞を勧めた。次に永宗が挨拶に来て、蜜柑1盆を持って来た。一盞を勧めた。次に住持へ1荷・両種を送った。すぐに来て、引付・吸物・あつ麦で三献酌み交わした。数盃に及んだ。次に龍寿・西林・永宗へ扇1本ずつ与えた。次に御黒木[寿桂の妹・言継養母]より蜂蜜が来た。薫物沈2両半を調合して進呈した。次に住持に言われた薫物・沈1両を調合して与えた。三条亜相[三条西実枝]へは薬研を返した。次に伊豆の若子賀永[北条氏規]へ所望されていた破魔弓矢を渡した。
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言及賀永
九日、癸巳、天晴、十方暮終、自今日天一天上、○勢林為使喝食松的里江、庵原大蔵母、牛黄円三貝遣之、従来十二日於当寺之庭、女房狂言勧進有之云々、仍普請有之、次晩頭御黒木江罷向、予十炷香張行、人数御黒木二、大方三、予(筆取)二、賀永四、御まん二、奥殿(火もと)二、山宰相二、中将二、小少将無、お乳(か永)二、あこう二、客人二、あち二、こち六、城桶検校無、等也、次入麺、吸物、食籠等にて盃三、酒勧之、同自大方樽一荷、饅頭、食籠等被持之、各懸物高名三人被取之、残者鬮取也、丑刻罷帰了、奥殿、小宰相等に牛黄円二貝、宛遣之、召出大沢左衛門大夫、沢路隼人佑、甘利太郎右衛門等也
古記録言継卿記1557(弘治3)年★02_月09日実記九日、癸巳、天晴、十方暮終、自今日天一天上、○勢林を使いとして喝食の松的里へ。庵原大蔵の母へ牛黄円3貝を与えた。来たる12日より当寺の庭において、女房狂言の勧進があるとのことで、普請があった。次に晩頭に御黒木[寿桂の妹・言継養母]へ向かい、私は十炷香を張行した。人数は御黒木が2、大方が3、私(筆取)2、賀永[北条氏規]が4、御まんが2、奥殿(火もと)が2、山宰相が2、中将が2、小少将は無し、賀永の乳母が2、あこうが2、客人が2、あちが2、こちが6、城桶検校は無し。次に入麺・吸物・食籠にて酒盃を3杯勧められる。同じく大方[寿桂]より樽1荷・饅頭・食籠が来て、各々の懸物は高名の3人が受け取った。残りはくじ引きとなった。丑刻に帰った。奥殿・小宰相に牛黄円2貝を与えた。召し出したのは大沢左衛門大夫・沢路隼人佑・甘利太郎右衛門。
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言及賀永
廿九日、癸丑、天晴、○従御黒木音曲本十六冊被返之、并富士海苔一折賜之、次松井弥介紙一束、養生薬ヽヽ持来、次中御門暇乞に被来、紙一束、ふすべ草二枚、鳥目百疋被送之、同隼人に五十疋、与二郎、与三郎等に二十疋宛被遣之、勧一盞了、同法一座頭来、次三浦内匠助来、尻かひ一懸送之、不及見参罷帰云々、次松平和泉守暇乞に来、雁一送之、勧一盞了、次従三条亜相木村左衛門大夫為使来、紙二包、四束、尻かい一懸被送之、次牟礼備州百疋、飯尾長門守五十疋持来、勧一盞了、次住持紙十五帖、浜納豆一箱持来、寺へ暇乞に罷向、蒸麦にて酒有之、次甘利佐渡守麦食一、奥尻かい一懸持来、勧一盞、次太守、五郎殿、朝比奈備中守、大方等へ暇乞に罷向、申置了、牟礼長門守、甘利等同道了、次蒲原右衛門尉、自太守為使鞠一足被送之、勧一盞了、次太守礼来儀、太刀千疋被送之、五郎殿各和為使太刀被送之、次御黒木へ罷向、大方に晩飡有之云々、次甘利佐渡守為使、自大方黄金二両、島つむき三端、紙一束、従賀永段子一端、紙一束、従冷泉局紙二束、自奥殿紙一束、引物二、師子皮こ一対、自小宰相香箸、紙一束等被送之、次大方へ晩飡に罷向、相伴老母、大方、予、奥殿、牟礼備前守、大沢左衛門大夫、沢路隼人、飯尾長門守等也、従大方隼人に二百疋、雑色両人に百疋つゝ賜之、次福島八郎左衛門手縄五筋送之、次三条亜相暇乞に被来、於御黒木見参、勧一盞了
古記録言継卿記1557(弘治3)年★02_月29日実記廿九日、癸丑、天晴、○御黒木より音曲本16冊を返した。富士海苔を1折賜った。次に松井弥介が紙1束・養生薬を持って来た。次に中御門[宣綱]が暇乞いに来られ、紙1束・ふすべ草2枚・現金100疋をいただいた。同じく隼人に50疋、与二郎・与三郎に20疋ずついただいた。一盞を勧めた。同じく法一座頭が来た。次に三浦内匠助が来て、鞦1懸いただいた。直接会わずに帰られたという。次に松平和泉守[親乗]が暇乞に来て、雁1をいただいた。一盞を勧めた。次に三条亜相[三条西実枝]より木村左衛門大夫が使いとして来て、紙2包・4束、鞦1懸をいただいた。次に牟礼備州が100疋、飯尾長門守が50疋を持って来た。一盞を勧めた。次に住持が紙15帖・浜納豆1箱を持って来た。寺へ暇乞いに行って、蒸麦で酒を飲んだ。次に甘利佐渡守は麦食1、奥鞦1懸を持って来た。一盞を勧める。次に太守[今川義元]・五郎殿[今川氏真]・朝比奈備中守[泰朝]・大方へ暇乞いに向かう。これは事前に申し置いておいた。牟礼長門守・甘利が同道した。次に蒲原右衛門尉が、太守からの使いで来て鞠1足をいただいた。一盞を勧めた。次に太守の挨拶として、太刀1000疋をいただいた。五郎殿は各和を使いとして太刀をいただいた。次に御黒木へ向かい、大方[寿桂]に夕食を誘われる。次に甘利佐渡守を使いとして、大方より黄金2両・島つむき3端・紙1束、賀永[北条氏規]より段子1端・紙1束、冷泉局より紙2束、奥殿より紙1束・引物2・獅子皮こ1対、小宰相より香箸・紙1束をいただいた。次に大方へ夕食へ向かう。相伴は老母[御黒木・寿桂の妹]・大方・私・奥殿・牟礼備前守・大沢左衛門大夫・沢路隼人・飯尾長門守であった。大方より隼人に200疋、雑色両人に100疋ずつ賜った。次に福島八郎左衛門に手縄5筋をいただいた。次に三条亜相[三条西実枝]が暇乞に来られた。御黒木で会い、一盞を勧めた。
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受給助五郎
文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様体長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候。猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)
戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)
1558(永禄元)年★03〜05_月日未詳
言継卿記から1558(弘治4)年2月29日まで賀永と名乗っていたことが判る。この年6月以降は三河案件が出てくるため、その間を比定。
お手紙をいただき、ありがたいことだと拝見しました。この間は小田原で皆さんお揃いでいらっしゃいました。元気そうでしたから、ご安心下さい。あなたの噂をしていました。春にはいらっしゃいということなので、何事も頑張りましょう。どの兄弟衆も大人びた様子ですから、見限られてしまったら散々なことでしょう。追伸:お手紙嬉しかったです。上達しましたね。ますます手習いしましょう。2〜3日のうちにここを出立するので、20日頃には参ります。上[寿桂ヵ]にもこのことをお伝え下さい。何事もお会いした時に申しましょう。
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言及助五郎殿
遠江法多山仏供田灯明田等之事。一、六町七段、助五郎殿知行、浅羽庄之内。一、六段、各和■■進。一、参町壱段、小笠原美作守知行、石野郷之内。一、壱町、朝比奈丹波守■行、曽哦庄領家内。一、五段、料所曽哦庄之内、横地方。一、六段、曽哦庄■所々、但此内■段百■藤右衛門寄進。一、弐段三杖、料所高部郷之内。一、壱段、諸井郷之内松■■和守寄■。一、三杖、河井郷山脇源三郎寄進。右、如前々当寺門前棟別・四分一之外、諸役寺領等、任先例領掌了、次甲乙人等喧𠵅狼藉殺生等、堅停止之、同従隣郷竹木以下不可伐取■也、諸役免除之上者、諸職人不可有其役、於当寺諸勧進、是又所停止之也、向後当寺領等、領主雖為相違、寄進之上者、永不可有相違、寺務一円可被相計之、守此旨、弥可被専修理勤行之状如件、
永禄五壬戌年六月廿三日/上総介(花押)/(貼紙:法多山)
戦国遺文今川氏編1824「今川氏真判物」(袋井市豊沢・尊永寺文書)
1562(永禄5)年★06月23日実記
『戦国遺文今川氏編』0658「今川義元判物」ではほぼ同文ながら浅羽庄の知行主は記載なし
遠江国法多山の仏供田・灯明田のこと。一、6町7段、助五郎殿[北条氏規]知行、浅羽庄の内。一、6段、各和■■進。一、3町1段、小笠原美作守知行、石野郷の内。一、1町、朝比奈丹波守[親徳]知行、曽哦庄領家内。一、5段、料所曽哦庄の内、横地方。一、6段、曽哦庄内所々、但しこのうち■段100杖は藤右衛門寄進。一、2段3杖、料所高部郷の内。一、1段、諸井郷之内松井大和守寄進。一、3杖、河井郷、山脇源三郎寄進。右、前々のように当寺の門前棟別・四分一のほか、諸役・寺領は、先例のとおり掌握するものとする。次に甲乙人の喧嘩・狼藉・殺生は堅く停止とする。同じく竹木以下は隣郷よりの伐採を不可とする。諸役免除の上は、諸職人は負荷を負うべきではなく、於当寺での諸勧進はこれもまた停止する。今後の当寺領は領主に相違があったとしても、寄進した上は、永く相違があってはならない。寺務一円を運営し、この旨を守ってますます修理を専らとして勤行するべきこと。
14
言及北条助五郎氏規
光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚書。永禄六年五月日。(中略)外様衆、大名在国衆、号国人。摂津守中原晴門朝臣、細川六郎。畠山左衛門秋政、山名次郎義祐、改名左京大夫。一色左近大夫、赤松次郎。御相伴、武田孫八元次、若狭国。同、佐々木左衛門大夫入道承禎、御使。同佐々木、同、同右衛門尉義弼、同、朝倉左衛門督義景。同、大友左衛門督入道宗麟、大友、同五郎義宗。御相伴、北条相模守氏康、北条左京大夫氏政。御相伴、今川上総介氏実、駿河。上杉弾正少弼輝虎、越後長尾之事也。武田大膳大夫入道晴信、法名徳栄軒信玄、甲斐国。畠山修理大夫、能登国之守護、義継。一色治部大輔、改義紀、美濃国、斎藤山城守龍興歟。北畠中納言、伊勢国司、同少将、伊勢国司。長野若狭守、伊勢、姉小路中納言、飛騨国司。同宰相、姉小路、織田尾張守信長、任弾正忠、尾張国。仁木左京大夫長政、丹波、島津陸奥守貴久。同修理大夫義久、相伴、伊東三位入道義祐、日向国。同左京大夫義益、相良修理大夫義頼。毛利陸奥守元就、安芸国、同少輔太郎輝元。小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守。尼子三郎四郎義久、出雲国、松浦肥前守隆信、肥前国。河野左京大夫通宣、伊予国。種子島左近大夫入道、大隈国。有馬修理大夫義真、肥前国、同太郎義純。宇都宮遠江守、伊予国、島津薩摩守義俊。三吉安房守隆亮、肥後国、宗刑部大輔、対馬国。御相伴、三好左京大夫義継、伊達次郎晴宗、任左京大夫、奥州。蘆名修理大夫盛重、奥州会津。北条助五郎氏規、氏康次男、松平蔵人元康、三河。水野下野守、三河、佐脇上野介、尾張衆。仁木右兵衛督義広、伊勢丹波仁木殿御奉公。関東衆。古河足利左馬頭義氏、簗田中務大輔、武州。里見安房守、安房、千葉介胤富、下総。庁南上総介、上総。佐竹修理大夫義昭、常陸。小田讃岐守、常陸、宇都宮弥三郎、下野。佐野小太郎、下野、横瀬信濃守、由良。長尾但馬守、上野、太田美濃守資正、武州。常陸大據清就、常陸府中、市田太郎、上州。上杉正栄、上州、葛西、奥州。氏家修理亮、奥州大崎、南部大膳亮、奥州。九戸五郎、奥州二階堂、最上出羽守、奥州。相馬次郎、奥州、岩城掃部助、奥州。長沼淡路守、下野、結城左衛門尉、下総。成田下総守長泰、武蔵。右永禄六年諸役人附以伊勢貞春本校合了、
古記録
戦国遺文今川氏編1921「永禄六年諸役人附」(群書類従第五一一巻)
1563(永禄6)年★05_月日実記<固有名の羅列であるため解釈略>
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発給朱印修禅寺番匠壱人公方役、御侘言ニ付而、除之被進者也、仍如件、
癸亥十一月廿八日/日付に(虎朱印)南条民部丞奉之/修禅寺
小田原市史資料編小田原北条0581「北条家虎朱印状」(修禅寺所蔵)
1563(永禄6)年★11_月28日実記
『戦国遺文後北条氏編』832では北条氏規朱印状とする。
修禅寺番匠1人の公方役、陳情があったので、これを除外して進めることとする。
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発給朱印給飯米銭書出。拾七貫六百文、下中村之郷田地にて被下。此内三貫六百文、飯米銭三人分。三貫文、御蔵出。以上弐拾貫六百文、給飯米之辻。右、給飯米銭如此被仰付候、自当暮可致所務者也、仍如件、
甲子六月八日/日付に(朱印「真実」)/朝比奈藤一郎殿
駒沢史学90号p180「北条氏規朱印状」(小西平八郎氏収集文書)
1564(永禄7)年★06_月08日実記給飯米銭の書出。17貫600文、下中村郷の田地で下された。この内3貫600文は飯米銭3人分。3貫文は御蔵出とする。以上20貫600文が、給飯米の合計である。右は、給飯米銭をこのようにご指示になったので、当月末より所務するように。
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発給朱印伊豆奥手石郷右衛門桑園之地、田畠合二貫文、五百文加増、如先規除諸役、而永代養真軒被下候、同住所於修福寺不可有諸役候、若於横合非分之儀者、可申上旨、被仰出候状如件、
永禄八年乙丑正月廿八日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉/養真軒
戦国遺文後北条氏編0891「北条氏規朱印状写」(伊豆順行記)
1565(永禄8)年★01_月28日実記伊豆国奥郡手石郷の右衛門桑園の地、田畠を合わせて2貫文、500文を加増し、先規のように諸役を免除。永代で養真軒に下された。同じ住所にある修福寺にも諸役を課してはならない。もし横合いより非分を言われたら報告するようにとの仰せである。
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発給平氏規
如承意、未申通候処、貴札再三披見本望候、向後之儀者、別而可申承所存候、爰許相応之儀可蒙仰候、又可憑入候、於御同意者、可為本望候、仍御調合之薬三種被懸御意候、祝着候、自是一包進之候、寔一儀迄候、委細者高城兵部口上憑候条、令期来信之時候、恐々謹言、
二月十九日/平氏規(花押影)助五郎封皮云/謹上芹沢佐渡守殿御報
茨城県立歴史館史料叢書20p237「北条氏規書状写」(安得虎子七)
1566(永禄9)年★02_月19日未詳
1566(永禄9)年10月11日に氏政が氏規を介して豊前氏に治療を謝している(戦国遺文今川氏編0767)。芹沢土佐守も医師だが、氏規としては初信であり官途を間違えていることから、この年に豊前氏と合わせて芹沢氏にも接触したと考えられる。
ご指摘の通り、ご連絡を今までしていなかったところ、お手紙を再三拝見して本望に思います。今後は格別にご意向を承りたい所存です。こちらで仰せを受ければ相応な対応をしますし、こちらからもご依頼するでしょう。ご同意いただければ本望です。ご調合の薬3種をいただき祝着です。こちらから1包進呈します。本当に形ばかりです。詳細は高木兵部の口上に頼みますので、次のお手紙を期します。
19
発給朱印本光院殿御施餓鬼銭。弐貫文、土肥吉浜年貢ニ可出。以上。右、施餓鬼銭、毎年於彼地、従代官・百姓前、可有御請取者也、依如件、丙寅七月十二日/■印/本光寺納所
小田原市史資料編小田原北条0648「北条某朱印状写」(本光寺文章)
1566(永禄9)年★07_月12日実記
虎朱印状・氏康朱印状・氏規朱印状の可能性あり。『戦国遺文後北条氏編』963は氏規朱印状とする。
本光院殿の御施餓鬼銭。2貫文、土肥吉浜の年貢から出すように。以上。右、施餓鬼銭として、毎年かの地の代官・百姓より受け取るように。
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言及助五郎今度彼煩諸医者失行、既不可有存命由存処、貴辺以御療治得験気、平癒候、誠奇妙不浅次第候、於氏政厚恩不知謝所候、仍刀一、正宗、久令所持不離身候、并黄金卅両、進之候、委細猶助五郎可申候、恐々謹言、十月十一日/氏政/宛所欠
戦国遺文後北条氏編0985「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)
1566(永禄9)年★10_月11日比定今度のあの煩いはどの医者も手立てを失い、既に存命は叶わないだろうとのことだったところ、あなたの御療治によって回復し平癒しました。本当に奇跡だと思っています。北条氏政は厚く恩を感じ感謝にたえないところです。そこで刀を一つ、正宗の銘で久しく身に帯びていたものと、黄金30両を進呈します。詳しくは更に北条氏規が申します。
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発給朱印かつら網、改而被仰付候、於何事も、無沙汰なく可走廻候、如前ゝ、網之うほ可被下者也、仍如件、
乙卯弐月十一日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/助右衛門
戦国遺文後北条氏編1009「北条氏規朱印状」(横須賀市立図書館所蔵永島文書)
1567(永禄10)年★02_月11日実記葛網について、改めて仰せ付けられた。何事においても、無沙汰なく走り廻るように。以前の通り、網にかかった魚を下されるだろう。
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発給朱印鋳物師商買之事、金沢・神奈川之津不可有相違候、若依難風自金之津江付候共、此印判為先代官・領主江可被断、猶族之義有之者、急度可申上者也、仍如件、
永禄十年丁卯二月廿三日/日付に(朱印「真実」)/野中修理亮殿
戦国遺文後北条氏編1011「北条氏規印判状写」(上総国古文書)
1567(永禄10)年★02_月23日実記鋳物師の商買の事。金沢・神奈川の津で相違があってはならない。もし遭難して金之津へ着岸したとしても、この印判をまず代官・領主へ提示せよ。なお逆らう輩がいれば、取り急ぎ申し上げるように。
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発給氏規急度申届候、向地無事候哉、然者海上其方ニ任置上者、日夜可相稼候、只今陣之時分候間、半手之儀堅可申付候、是非之理、此方へ可申上候、爰元昼夜普請候、修理亮打着候者、談合普請可被致候、謹言、三月十八日/氏規(花押)/山本信濃守殿
戦国遺文後北条氏編4015「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★03_月18日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。
取り急ぎ申し届けます。向かい地は無事でしょうか。海上はあなたにお任せしましたから、日夜ご健闘下さい。現在は交戦中ですから半手の件は堅く指示して下さい。応諾の状況はこちらへ報告をお願いします。こちらは昼夜普請です。修理亮が到着したら相談して普請に加わるでしょう。
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発給朱印御預ヶ之かつら網之為御用、船壱艘可仕立之由申上候、於彼舟不可有諸点役候、若横合非分有之付而者、為先此御印判可致披露、於自今以後者、かつら網船何艘も仕立可申、諸役等可有御赦免、何も以此文言、御印判可被下者也、仍如件、
永禄十年丁卯三月廿五日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/田津舟持助右衛門(後筆:永島出雲守)
戦国遺文後北条氏編1014「北条氏規朱印状」(横須賀市立図書館所蔵永島文書)
1567(永禄10)年★03_月25日実記お預かりした葛網御用のため、船を1艘仕立てるように申し上げた。かの船への諸税は課税してはならない。もし横合いから非分を言うものがあれば、この御印判をまず披露するように。今後は葛網の船を何艘も仕立てよ。諸役等はご赦免されるだろう。いずれもこの文言をもって、御印判を下されるものである。
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発給氏規
去八日ニ津之崎を押廻、井戸・河名両郷へ動由、肝要候、なき日ニ者少之郷村成共動候て、打散度候段、素家之体成共焼払所肝要候、一、此方へ用所之儀者、何時も十一艘之舟十一番ニ■候て、舟一艘役ニ可致注進候、猶以なき日ニ者南浦賀近辺へ五艘三艘乗廻尤候、謹言、
四月十二日/氏規(花押)/山本太郎左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編4016「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★04_月12日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。
去る8日に津之崎を押し廻り、井戸・河名の両郷へ出動したとのこと。肝要なことです。凪いだ日には少しの郷でも出動して打ち散らし、民家だけだったとしても焼き払うのが肝要です。一、こちらで命じたなら、どんな時でも11艘の船を11番に組んで、船1艘役として報告して下さい。なお、凪いだ日には南浦賀近辺へ数艘で乗り廻るのが望ましいでしょう。
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発給氏規今日当手之人衆、物主矢野右馬助被仰付候、何事も致談合加御下知可走廻候、万乙矢野申候之儀背仁有之者、めいけいニ可申上候、致彼所ニ付而ハ奉行人可処越度候、遠山衆之儀者彼家中衆可為下知次第候、仍如件、卯月十四日/氏規判/矢野右馬助殿
戦国遺文後北条氏編4017「北条氏規判物写」(藩中古文書十二)
1567(永禄10)年★04_月14日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。
今日のこちらの部隊編成で、物主は矢野右馬助が務めることとなった。何事でも矢野が言うことに背いたなら、明鏡に申し上げるように。そこに至ったら奉行人の落ち度とする。遠山衆のことは、あの家中衆の下知次第とせよ。
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発給氏規向地へ相動、注進状披見、心地好肝要候、殊廻船六艘引取由、是又肝要候、謹言、五月六日/氏規(花押)/山本殿
戦国遺文後北条氏編4018「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★05_月06日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。
向かい地へ出動した報告を拝見しました。心地よく肝要なことです。特に廻船6艘を引き取ったとのこと。こちらも肝要です。
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発給氏規今度金沢船参艘被取海賊処、於渡中追落取返之由候、殊敵船与出合、得勝利、敵船弐艘を富津浦江追上由、心地好働無比類候、自今以後、弥相稼可走廻状、如件、六月三日/氏規(花押)/山本左衛門太郎殿
戦国遺文後北条氏編4019「北条氏規感状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★06_月03日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。ただし『戦国大名領国の支配構造』では永禄12年と比定。
金沢船3艘を海賊が奪ったところ、渡中で追い落として取り返したとのこと。特に、敵船に遭遇して勝利し敵2艘を富津浦へ追い上げたとのこと。心地よい活躍で比類がない。今後もますます戦果を上げるように。
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発給氏規注進状披見、仍向地へ相動、高名無比類候、弥可走廻候、謹言、八月十七日/氏規(花押)/山本新七郎殿
戦国遺文後北条氏編4022「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★08_月17日未詳
同書では元亀元年比定だが三船台合戦が8月23日にあったことから永禄10年に比定する。
注進状を拝見しました。向かい地へ出撃した高名は比類がありません。ますますのご活躍をお願いします。
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発給氏規
態申届候、仍向地半手之儀、一切我ゝニ被下由、令持■■■屋形様被仰出候、海上之儀者一切其方へ任置間、弥相稼半手可被申進候、向地自何之郷何と申越候趣、重而委細書付可被申越候、半手納方以下之儀、野中を然与可被申付候、猶以於海上之儀者、畢竟其方物主任置間、少も無相違様可被走廻候、一、其地普請・用心以下、有修理談合、無油断可被申付候、謹言、
十月八日/氏規(花押)/山本信濃入道殿・同新七郎殿
戦国遺文後北条氏編4026「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★10_月08日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。ただし『戦国大名領国の支配構造』では永禄12年と比定。
折り入ってお伝えします。向こう地の半手のこと、全てを我々に下されたとのこと。所持するようにと屋形様が仰せ出しになりました。海上のことは一切をあなたへお任せしますから、半手での活躍をますます進めて下さい。向こう地において何の郷で何かがあったかという報告を、細かく書付にして改めて報告して下さい。半手の収納先については野中にしっかり指示しました。なお、海上のことは最終的にあなたを物主にしてお任せしますから、少しの相違もないように走り廻って下さい。一、その地の普請・用心について修理と相談して油断のないよう差配なさいますように。
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発給朱印
毎年定施餓鬼銭并御霊供米銭書出。弐貫文、施餓鬼銭。但、卯歳一回土肥・吉浜可出、従辰歳上中村岩倉分ヨリ可出。参貫文、御霊供米銭。此米拾弐俵、但三斗六升俵之別二百五十文宛、十二月分、一ヶ月一俵宛。以上五貫文。右、毎年之御定代物上中村岩倉分、下中村ニ寺領之内有之田畠之内、愈毎年可有直納、但、納法之事者、年別随国法ニ御所務可被成候、少モ不可有非儀候者也、依如件。猶来春者、如被定置候、五貫文可遣之由、被申候、可御心易候、
永禄十年丁卯十月十二日/(後筆:朱印)南条因幡守奉之/本光寺
戦国遺文後北条氏編1048「北条氏規朱印状写」(本光寺文章)
1567(永禄10)年★10_月12日実記毎年の定施餓鬼銭・御霊供米銭の書き出し。2貫文は施餓鬼銭。但し、卯歳の1回は土肥吉浜から拠出、辰歳よりは上中村の岩倉分より拠出せよ。3貫文は御霊供米銭。この米12俵(但し3斗6升俵ごとに150文ずつ、12月分は1ヶ月に1俵ずつで5貫文)。右、毎年お定めになった代物について、上中村は岩倉分、下中村は寺領の内にある田畠で、毎年直接納付するように。但し納法は、年ごとの国法に従って所務せよ。少しでも非儀があってはならない。なお、来春は決めたとおりに5貫文を遣わされると申されたので、ご安心なさるように。
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発給氏規注進状披見候、仍向地吉浜へ相動、敵討捕并虜致之由、心地好肝要候、謹言、十二月十日/氏規(花押)/山本新七郎殿
戦国遺文後北条氏編4028「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1567(永禄10)年★12_月10日未詳
1567(永禄10)年の他文書より仮比定。ただし『戦国大名領国の支配構造』では永禄12年と比定。
報告書を拝見しました。向こう地の吉浜へ出撃し、敵を討ち捕り捕虜にしたとのこと。心地よく肝要なことです。
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言及助五郎
廿五日御状、廿八日未剋到着候、本納外曲輪敵乗取由注進候間、則氏政致出馬処、敵退散由方ゝ申来候、先以延引候、今度、則、刻有御出陣、後詰ノ行御催由辱候、息助五郎始遠山以下至船橋打出候間、乍定可申入候、何様自是可申入候、恐々謹言、
十二月廿八日/氏康(花押)/千葉介殿
戦国遺文後北条氏編1368「北条氏康書状写」(小田原編年録首巻下)
1567(永禄10)年★12_月28日比定25日の御状、28日未刻に到着しました。本納が、外曲輪を敵に乗っ取られたと報告してきましたので、すぐに北条氏政が出馬すべきところですが、敵が撤退したとあちこちから聞きました。とりあえず出馬は延期します。次は即刻御出陣します。後詰の行軍を開始されたとのこと、かたじけなく思います。息子の北条氏規が遠山政景ヵ以下を率いて船橋へ出撃しています。関係ないかもしれませんが申し上げます。何事もこちらからご連絡いたします。
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発給氏規幸便候間一筆申、仍新茶給候、真之初にて候、目驚候、御心指と云、初云賞味此事候、其元ハ御遊山と浦山敷候、当国之事者そもし如御存知、爰元にても日夜普請計にて日を暮シ候、以面物語申度候、急候条、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
三月五日/氏規(花押)/宛所欠(上書:岡五兵参 美濃守)
戦国遺文後北条氏編4014「北条氏規書状」(孕石文書)
1568(永禄11)年★03_月05日未詳
岡部元信に音信を出せるのは永禄11年まで。武田義信妻が甲斐から伊豆へ写ったのが永禄10年2月21日で、そこから韮山普請が始まったことから翌年の文言と比定。
伝手がありましたので一筆申し上げます。新茶をいただきましたが、本当の初物で驚きました。お心遣いといい、初物であることといい、賞味とはこのことです。そちらはご遊山とか。羨ましいことです。当国は、あなたもご存知のように、こちらでも日夜普請ばかりで暮らしています。お会いして申したいのですが、時間もないので手短に申しました。
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発給朱印制札。右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/日付に(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院
戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)
1568(永禄11)年★12_月15日比定制札。右の通り、この度の加勢衆による乱暴・狼藉を禁止しているのは当方の御法度である。この旨に背く輩がいれば、取り急ぎ注進するように。その上で命令を下すものである。
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発給朱印制札。右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十八日/日付に(朱印「真実」)岡部和泉守奉之/須津之内八幡別当多聞坊并宿中
戦国遺文後北条氏編1124「北条氏規制札」(多聞坊文書)
1568(永禄11)年★12_月18日比定制札。右の通り、この度の加勢衆による乱暴・狼藉を禁止しているのは当方の御法度である。この旨に背く輩がいれば、取り急ぎ注進するように。その上で命令を下すものである。
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言及助五郎
乍卒爾儀お企一翰候意趣者、駿甲相破、既被動干戈、依之縦駿州如被申越者、房相逐一和向甲ニ可発大軍旨、■歎候、惣而房・相御弓矢無際限、諸卒之労煩、万民之愁歎、余多折角ニ候、愚老隠遁之身上、雖其憚繁多候、捨思慮、忘遠慮申入候、此度駿之媒、是則天之教候歟、相互被抛御無心、引詰而成就、可為珍重候、委細息助五郎可申入候、恐ゝ敬白、
正月廿日/氏康/後
戦国遺文後北条氏編1145「北条氏康書状写」(安房妙本寺文書)
1569(永禄12)年★01_月20日比定卒爾ながらお手紙をお出しした趣旨をご説明します。今川氏真と武田晴信の同盟が破綻して既に干戈を交え、これによって氏真より申し越されたのは、里見義弘と北条氏政が和睦して、晴信に対して大軍を発してほしいとのこと。今の状況は嘆かわしいことです。総じて、里見家と北条家の抗争は際限がなく、兵も疲弊し民も苦しんでいます。多数の無理はありますが、愚老は隠遁の身の上、その憚りが多くあったとはいえ、思慮を捨て、遠慮を忘れて申し入れます。この度氏真の仲立ちは、これはすなわち天の教えでしょうか。相互に御無心をなげうって、詳細を詰めて成就すれば、珍重となるでしょう。詳細は息子の北条氏規が申し入れます。
38
言及助五郎殿船橋之杉板弐■■助五郎殿へ渡可■■者也、仍如件、
巳二月十六日/日付に(虎朱印)山角刑■■■■/矢部殿
小田原市史資料編小田原北条0781「北条家虎朱印状」(矢部文書)
1569(永禄12)年★02_月16日比定船橋の杉板2枚を北条氏規殿へ渡すように。
39
発給朱印多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/日付に(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)
1569(永禄12)年★04_月24日実記多賀郷の代官・百姓にあなたが貸した兵粮について、いずれもの返済が難航しているとの申し出。厳密に催促し受け取るように。この上においても返済しないならば、取り急ぎ披露せよ。上意を得てその罪を訴え出よう。人の物を借りて返さないなどは御国法にはない。証文の通り力づくで返済させるように。
40
言及助五郎
就氏真帰国、家康へ以誓句申届処、御返答之誓詞、速到来本望候、殊氏真并当方へ無二可有御入魂由、大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後者、家康へ別而可申合候条、可然様ニ馳走任入候、仍馬一疋黒進之候、猶弟助五郎可申候、恐々謹言、
五月廿四日/氏政(花押)/酒井左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編1229「北条氏政書状」(致道博物館所蔵酒井文書)
1569(永禄12)年★05_月24日比定今川氏真の帰国について、徳川家康へ起請文を届けたところ、ご返答の起請文が速やかに到着し本望に思います。特に、氏真と当方へ二心なく親しくしていただけるとのこと、とても喜ばしいことです。とりわけ、懸河から出城する際に、そちらの証人を途中まで付き添わせていただいたそうで、本当に手厚いご対応で嬉しく思います。これ以降家康へは特別にご相談しますので、しかるべきご活躍をお願いします。黒馬1疋を進呈します。さらに弟の北条氏規が申します。
北条氏規、徳川家康に、氏直父子の取り成しを依頼する
 お手紙の内容を氏直父子に詳しく申し聞かせました。詳細は直接申し渡しました。お心得あり、しかるべきようにお取り成しをと仰せのところです。御意を得ますように。
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言及北条助五郎
従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿
戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」(長野県・玉井玲太郎所蔵文書)
1569(永禄12)年★07_月02日比定こちらからご連絡すべきところ、わざわざご挨拶いただき祝着に思います。そもそも、この度伊豆国へ向かい思いがけず作戦を行なったところ、三島以下をことごとく撃破し、更には北条という地でこちらの先鋒部隊と北条助五郎兄弟が一戦、味方が勝利して小田原方の主だった者を500余人討ち取りました。すぐに小田原へ馬を進めようと思いましたが、足柄・箱根の両坂が難所だったので、駿河国富士郡へ陣を移しました。そこで大宮の城主富士信忠が、今後は穴山信君に属して今日明日のうちに城を明け渡すことが決まりました。この上はなるべく早く帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。
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発給氏規
不寄存候処、此度就致出陣、御使特御折紙、披閲本望之至存候、昨日者、興国寺へ罷移、万端申付候、陣屋等無之間、打返黄瀬川端陣取申候、明日者、吉原辺迄陣寄、一両日之内、富士筋地形見聞、彼口之様子可申達覚語候、委曲大草方口上頼入候、恐々謹言、
七月十二日/氏照(花押)・氏規(花押)/宛所欠(上書:韮山江御報 北条源三・■■■)
川崎市文化財調査集録55「北条氏照・氏規連署書状」(王禅寺文書)
1569(永禄12)年★07_月12日比定思いがけずこの度出陣したことについて。ご使者、特にお手紙を拝見し本望の至りです。昨日は興国寺へ移動し、万端指示しました。陣屋がないので引き返し黄瀬川沿いに陣取りました。明日は吉原の辺りまで陣を寄せ、一両日のうちに富士筋の地形を見聞します。あの方面の様子をお伝えする覚悟です。詳しくは大草方の口上に頼み入ります。
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発給平氏規円覚寺之内続灯庵、従前ゝ為祈願所之間、至于何年、横合非分之儀不可申懸、就被成不入所、万乙於有狼藉之事者、可預註進之状如件、己巳九月廿日/平氏規(花押)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1315「北条氏規判物写」(相州文書所収鎌倉郡続灯庵文書)
1569(永禄12)年★09_月20日実記円覚寺内の続灯庵。前々より祈願所としていたので、何年経とうとも、横合・非分を言い立ててはならない。不入所となられていることについて、万が一狼藉の事があるならば、注進するように。
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言及助五郎
急度以飛脚申候、今度関東へ出張、経数ヶ所之敵城而、向于小田原及行、為始氏政館悉放火、其外彼一類城郭不貽撃砕、剰帰国之砌氏政舎弟北条源三・同新太郎・助五郎引卒六七千之人数慕候之間、遂一戦新太郎・助五郎已下二千余人討捕、如信玄存分得勝利、可御心易候、委曲山県三郎兵衛尉万可被申候、恐々謹言、
十月拾五日/信玄(花押影)/遠山駿河守殿
埼玉県史料叢書12_0373「武田晴信書状写」(古裂会目録平成十一年)
1569(永禄12)年★10_月15日比定取り急ぎ飛脚によってご連絡します。この度関東へ出撃し、数箇所を敵城を経て小田原へ進軍しました。北条氏政の館を初めとしてことごとく放火し、そのほか後北条方の城郭を残さず撃砕しました。更には帰国の際に、氏政の弟である北条氏照・氏邦・氏規が率いる兵6〜7,000人が追撃してきたので、一戦して氏邦・氏規以下2,000余人を討ち取りました。信玄の思うがままに勝利しましたので、ご安心下さい。事情は山県昌景が万事申します。
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言及助五郎
就于今度出陣、 於于 神前、被抽精誠、御玉会・守苻令頂戴畢、抑北条氏政居住之地撃砕、武相両国悉放火、剰至于相州見増坂遂一戦、北条新太郎・助五郎已下之凶徒二千余人討捕、如存分達本意条、併当社之神力故候、八州令静謐者、諏方一郡不貽卓錐之土、可寄附両社候、以此旨、無由断精誠可為肝要候、恐ゝ謹言、
十月拾六日/信玄(花押)/諏方大祝殿
神奈川県史資料編3下7875「武田晴信書状」(諏訪子爵家文書)
1569(永禄12)年★10_月16日比定この度の出陣において、神前において精誠にぬきんでられ、御玉会・守札を頂戴しました。そもそも北条氏政の居住地を撃砕し、武蔵国・相模国の両国をことごとく放火し、更には相模国三増坂にて一戦を遂げました。北条氏邦・氏規以下の凶徒2,000余人を討ち取り、思い通りに本意に達しました。しかして当社の神力によるものです。関八州の制圧となれば、諏訪一郡寸土も残すことなく両社へ寄進いたしましょう。この旨をもって、油断なく精誠なさるのが肝要です。
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言及助五郎十四日書状同廿三到着候、至于塩沢御着陣之由候、深雪之時節と云、御大儀令職察候、此方之使氏政則申付候、委曲御使鶴木方可在口上候、恐ゝ謹言。追而、如顕先書、息助五郎・六郎韮山へ致越山候、遠左指越候間、不及御報候、以上、十一月廿四日/氏康(花押)/山吉孫二郎殿
戦国遺文後北条氏編1341「北条氏康書状」(神奈川県立文化資料館所蔵山吉文書)
1569(永禄12)年★11_月24日比定14日の書状が23日に到着しました。塩沢にてご着陣とのこと。雪が深い時期ですから大変だったろうとお察しします。こちらの使者を氏政がすぐに指図しました。詳細はご使者の鶴木からご報告があるでしょう。追伸:先の書状に書いた通り、息子の北条氏規・北条氏忠が韮山へと山越えしました。遠山康光を遣りましたので、お知らせするには及びませんでした。
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発給朱印鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当
戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)
1570(永禄13/元亀元)年
★02_月12日実記鴨居の郷にある観音堂寺中の竹木を切り取る事は堅く停止させる。合わせて飛脚・押立使と称して出家から人や物を徴発することは、今後申し付けてはならない。諸項目で狼藉を申す者がいたら、これ以降は名を記して申し上げるように。
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発給助五郎氏規
急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対す和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)
1570(永禄13/元亀元)年
★08_月10日比定取り急ぎご報告します。今日未明に敵が当城へ取り懸かかりました。苅田はしていません。町場・和田島の両口へ攻め寄せて、町場を破壊しました。我々自身が迎撃して、江川橋前から押し返しました。<欠字>山角が物主でした。大藤が精一杯活躍しました。そして和田島は伊奈四郎[武田勝頼]・小山田[信茂]・武田左馬助[武田信豊]がこの衆の物主で、和田島に対して2度破壊しようとしました。精一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。きっと明日は総攻撃をかけてくると思います。間合いを計って応戦するよう指示しました。とはいえご安心いただければと思います。そうして今、午刻、遠山新四郎のかせ者が敵へ走り入りました。その後、信玄旗本衆が十八町へ鑓を取って、段々に帰ろうとしましたので、十八町へは鉄炮を増派して堅固に申し付けました。現在は引き退いています。全兵員が入っています。先日も申し上げましたように鉄炮が不足しています。射手はいますので、銃器をお借りできないでしょうか。もし十八町が破壊されると困ってしまいます。あるがままを申し上げ、御披露をお願いします。
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言及助五郎
去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)
1570(永禄13/元亀元)年
★08_月12日比定去る9日のご書状が12日に届きました。7日のご書状も同様ですが、丹念に励まれ折々に飛脚を送ってくれているので、喜ばしいことと申されています。武田晴信が今日伊豆国韮山方面で日々軍事行動をしています。この時を逃すわけにはいかないので、一戦を遂げるべく兵を全て集めました。物主衆は皆駆けつけましたが、兵数が揃わなかったため、一両日延期しました。来たる18〜19日には必ず乗り向かい一戦します。勝利は疑いのないところです。敵は8,000ばかり、こちらは各城に籠城させているとはいえ、当地より出撃するのは7,000〜8,000にはなるでしょう。ことに地形は好都合なので、晴信を討ち取ることも眼前だと思います。韮山籠城衆は氏政の弟である氏規と氏忠、そのほか清水康英・大藤政信・山中康豊ヵ・倉知源太左衛門尉・大屋善左衛門尉ヵが3手に分かれて立て籠もっているので、城内についてはご安心下さい。去る9日、町庭口という韮山城から1里ばかり離れた宿に、山県昌景・小山田信茂・武田勝頼を物主として5〜6手に分かれて攻め寄せてきたので、城内より部隊を出して迎撃し、敵10余人を城内で討ち取りました。あの地形は一段と難所なので、敵の負傷者は際限がなかったとのことです。詳しくは北条氏照が申しますので、こちらからは申しません。しかるに、越後からのご出馬が遅々として進まず、どうにもなりません。急いでおりますから、早々にご連絡下さい。
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発給氏規
注進状披見候、仍向地へ相動、新七郎自身高名候由、心地好仕合肝要候、然者敵動候由、無心元候、乍去於敵動者、其地へ可有御加勢之由、遂日心易候、殊ニ小田原ニ御馬被立間者、郡内へ之動ハ有間敷与校量候、昼夜無油断可被申付候、一、当城へ敵毎日取懸、此度者手きふく取詰候へ共、諸口共堅固之及防戦候、就中此方持口和田島、如何ニも堅固ニ候、心易可被存候、取乱候間、口上ニ委細可有之候、謹言。追而申候、海賊衆走廻候由、肝要候、各苦労候、
九月十七日/氏規(花押)/山本信濃入道殿
戦国遺文後北条氏編4023「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1570(永禄13/元亀元)年
★09_月17日比定注進状を拝見しました。向かい地へ出撃し、新七郎が自身で高名を挙げたとのこと。心地よい仕合わせで肝要なことです。敵が攻撃しているとのこと、心もとなく思います。とはいえ敵が出撃するならば、その地へ御加勢があるだろうとのこと。日をおって安心しています。特に小田原で御出馬があるでしょうから、郡内への攻撃はないだろうと推測しています。昼夜で油断しないようにご指示下さい。一、当城へは敵が毎日取り懸かり、この度は手厳しく取り詰めていますが、諸口は堅固な防戦をしています。とりわけこちらが担当する和田島は物々しく堅固にしています。ご安心いただければと思います。取り乱していますので、口上で詳しくお伝えします。追伸:海賊衆が奔走しているとのこと。肝要です。各々苦労だと思います。
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言及五郎殿
此春よりの御よろこひめてたさ、いつ御かたもおなし御事とおほへさせをハしまし候、さてハこんと御いつせんに御さため候て、うちまささま、うちてるさま、うちさねさま、五郎殿・六郎殿・大郎殿・四郎殿、いつれもおのゝゝ御たちなされ候、御しんせんにおいて御ゆたんなくおこたらす御きねん候へよし、御せんさまおほせ事にて候、御こそてを御おさめなされ候、おほしめすまゝにきりかちなされ候やうに、御せいに御入かんにやうにて候、御きりかちなされ候うへにて、一かとの御事あるへく候、めてたふ、あなかしく。なおゝゝ申候、御ゆたんなく御せいに入られ、御きねん御申あるへく候、めてたふ、あなかしく、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:ゑのしま、ゆわもとはうへまいる申給へ をた原より、本しやうつほね)
埼玉県史料叢書12_0408「本しやうつほね書状」(岩本院文書)
1571(元亀2)年月日欠比定この春からのお喜び・目出度さ、いつのお方も同じ御事と仰せさせております。さて、今度の御一戦に思いを定めて、氏政様・氏照様・氏真様、氏規殿・氏忠殿・氏邦殿・氏光殿、何れも各々お立ちなされました。御神前においてご油断なく怠らず御祈念なさっていただきたいと、御前様のご指示です。小袖を奉納なさいました。お願い通りに戦勝なさるように、精を入れるのが大切です。戦勝したなら、一廉のご褒賞があるでしょう。めでたく、あなかしこ。なおなお、ご油断なく精を入れられご祈念いただきますように。めでたく、あなかしこ。
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発給朱印天蕙院殿霊供銭拾貫文、施餓鬼銭参貫文、并沙弥給弐貫四百五十文、都合拾五貫四百五十文也、於豆州平井郷以田地任御所望進置候、諸役銭彼内爾書加候、此外少も諸役之儀有間敷候、従当申年永可有御寺務者也、仍如件、
元亀三年壬申閏正月十六日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/天蕙院
戦国遺文後北条氏編1578「北条氏規朱印状」(修禅寺文書)
1572(元亀3)年★01閏月16日実記天蕙院殿の霊供銭10貫文、施餓鬼銭30貫文、合わせて沙弥給20貫450文、合計15貫450文。伊豆国の平井郷において、田地をもって御所望に任せて進上します。諸役銭はその証文に書き加えました。このほかに少しの課税もあってはなりません。この申年より末永く御寺務なさいますように。
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発給朱印於三崎法満寺之屋敷、付、脇坊共ニ所役赦免、自兼日南条因幡守陣屋之儀ニ候間、誰人雖望之、被下間敷候、殊彼寺屋敷之儀者、従古来之寺地之由、於何事モ不可有相違、若有横合非分之儀者、為先此印判、可申上者也、仍如件、
元亀三年九月十五日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/法満寺
戦国遺文後北条氏編1613「北条氏規朱印状」(円照寺文書)
1572(元亀3)年★09_月15日実記三崎法満寺の屋敷と脇坊はともに諸税を免除します。かねてより南条因幡守の陣屋のこともありますので、誰が望もうとしても、与えられることはありません。特にあの寺屋敷のことは、古来より寺地とのこと。何事においても相違があってはなりません。もし横合いから非分を言う者があれば、まずこの印判を使って通達して下さい。
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発給平氏規
為改年之祝儀、早ゝ蒙仰候、祝着候、殊両種給候、珍重候、自是も一種・一荷進之候、一儀迄候、然者小四郎方帰国之儀承候、如先段申入、於拙者少も無相違存候キ、如何様ニも御帰国簡要之段、涯分令助言候、可御心安候、雖委細申度候、御使者急候条、令期永日之時候、恐ゝ謹言、
正月十四日/平氏規(花押)/岡部丹波守殿参
戦国遺文後北条氏編4010「北条氏規書状」(孕石文書)
1573(元亀4/天正元)年
★01_月14日未詳
天野氏が武田方になったのが元亀3年12月14日(静岡県史資料編8_0558)、岡部丹波が武田方になったのが天正元年11月17日(静岡県史資料編8_0709)であるため
年初の祝儀として早々にご挨拶いただき祝着です。特に2種をいただいたのは珍重です。こちらからも1種・1荷を進呈します。小四郎方が帰国とのこと承りました。先段の通りの申し入れ、拙者としては少しの相違もありませんでした。どうしてもご帰国が重要なのだと、精一杯助言いたしましょう。ご安心下さい。細かく申し上げたいのですが、ご使者がお急ぎになっているので、お手隙の折を期します。
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発給朱印葛網如毎年無ゝ沙汰可走廻候、当年之儀者、菅谷織部丞大手御陣へ被召連候間、山本隼人・御厨一助両人被仰付候、彼両人相談、可走廻者也、仍如件、
酉二月廿三日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1634「北条氏規朱印状」(横須賀市立図書館所蔵永島文書)
1573(元亀4/天正元)年
★02_月23日比定葛網を毎年の通り無沙汰なく奔走するように。当年のことは、菅谷織部丞が大手御陣へ召集されているから、山本隼人・御厨一助の両人に仰せ付けられる。その両人へ相談し、奔走するように。
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発給朱印本光寺殿御霊供銭、并施餓鬼銭五貫文之事、年来者、平井郷就退転、半分進置候、至于来争者於中村下岩倉、如兼約可有御所務候、若相違之儀者、為覚此印判、此方エ可承者也、仍如件、
癸酉極月十八日/(後筆:朱印)南条因幡守奉之/本光寺納所
戦国遺文後北条氏編1678「北条氏規朱印状写」(本光寺文章)
1573(元亀4/天正元)年
★12_月18日実記本光寺殿の御霊供銭と施餓鬼銭5貫文のこと。年来負担していた平井郷が退転したので、半分を拠出する。来年は中村の下岩倉を、兼ねて約束していたように御所務するように。もし相違する事態があれば、この印判を覚書としてこちらで受理するだろう。
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言及北条助五郎
去秋爰元滞留之由候、御存分委細承候了、勢州河中退治在陣之砌、取紛不遂面謁候、意外候、仍新田表謙信出馬候由候、隻方備之躰為可承以飛脚申候、可被相達候、河野衆方謙信与和與之儀、可有如何候哉、対一味者尤可然候由、即此方へも可通之旨候条、為自他可令馳走候、第一甲州之儀可及行之間、其余旁以可然候、信州も謙信於相談者、即時可為本意候、彼是無事珍重、大坂之儀寺内一所ニ追入候、如何様不可有程候、然者即、駿・甲・信発向利運勿論候、幻庵・北条助五郎・北条左衛門大夫書状遣候、御馳走簡要候、恐ゝ謹言、
二月十日/(織田信長朱印)/小笠原右近大夫殿
織豊政権と東国大名「織田信長朱印状」(唐津小笠原家宮内省呈譜)
1575(天正3)年★02_月10日比定去る秋にこちらに滞在していたとのこと。お考えは詳しく承りました。伊勢国河中の退治で在陣した折には、諸事に取り紛れてお会いできず残念でした。新田方面へ上杉輝虎が出馬したとのことです。双方の戦況を、飛脚を使ってお伺いできるか、ご検討下さい。河野衆と輝虎の和睦は、いかがでしょうか。その同意は、尤もであって然るべきとのこと。すぐにこちらへも話を通すようにとのことですから、皆のために奔走しましょう。第一に、甲斐国(武田晴信)のことは出撃の段取りに入ります。何があろうと時間をかけることはありません。ですから、すぐに駿河国・甲斐国・信濃国に発向する好機となるのは勿論です。北条宗哲・氏規・綱成の書状をお送りします。奔走するのが肝要です。
58
受給助五郎愛宕・伊勢へ被指上者上下四人、角屋船ニ便船不可有異儀者也、仍如件、乙亥卯月四日/日付に(虎朱印)宗甫奉之/助五郎殿
小田原市史資料編小田原北条1191「北条家虎朱印状」(角屋文書)
1575(天正3)年★04_月04日実記愛宕・伊勢へ指し上らせる者、上下4人。角屋船に乗せることに異義を差し挟んではならない。
59
発給朱印
諸半手書立。百首・天神山・篠部・川名・荒井。野中ニ申付候。西川・青木。小林。大堀・端沢。半助。吾妻・江川・葛間。杉山。中島・名良輪。勘助。椎津・河崎・今土。蒔田。以上。右、如此可被申付候、年来野中為一人申付故、半手一切不調候、近年之様ニ者有間敷候、右之衆ニ申付、諸郷何与ゝゝ可進納様子可申届候、其上依申様半手を立郷も可有之候、又可打別候、此一左右約候、以上、
子三月廿八日/日付に(朱印「真実」)朝比奈右衛門尉奉之/山本太郎左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編4007「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
1576(天正4)年★03_月28日比定諸半手の書き立て。百首・天神山・篠部・川名・荒井。野中に申し付けた。西川・青木。小林。大堀・端沢は半助。吾妻・江川・葛間は杉山。中島・名良輪は勘助。椎津・河崎・今土は蒔田。以上。右、このように申し付ける。年来は野中一人に申し付けたので、全ての半手が調わなかった。そうならないよう、右の衆に申し付け、諸郷でそれぞれが進納するように指示せよ。その上で、申告次第では半手を立てる郷もあるだろう。また分類することを、この指示で約束する。
60
発給氏規伊豆奥手石郷石門寺菜園地田畠合二貫文、五百文加増、如先規除諸役而永代養真軒被下候、同住所於修福寺不可有諸役候、若於横合非分之儀者、可申上旨被仰出候、状如件、天正四年丙子五月二日/氏規(花押)/修福寺
戦国遺文後北条氏編1850「北条氏規判物写」(伊豆順行記)
1576(天正4)年★05_月02日実記伊豆国奥郡の手石郷、石門寺菜園地の田畠、合計2貫文(500文加増)。先規の通り諸役を免除して末永く養真軒に下される。同じ住所の修福寺も諸税をかけてはならない。もし横合いから非分を言い立てる者がいれば、申し上げるようにとの仰せ出しである。
61
受給北条助五郎至当国移座処、毛利令馳走、既海陸及行候、委細輝元可申越条、可相談事肝要候、就其差下大蔵院候、然者、縦雖為遺恨重畳、此節是非共氏政遂三和、抽戦功候様、意見可為神妙候、猶昭光可申候也、六月十二日/(足利義昭花押)/北条助五郎とのへ
戦国遺文後北条氏編4471「足利義昭御内書」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)
1576(天正4)年★06_月12日比定当国へ移動するため、毛利輝元が馳走してすでに海陸で行動を開始している。行動に及ぶ詳細は輝元へ伝えてあるから、相談することが肝要である。それについては大蔵院を派遣している。であるから、たとえ遺恨が度重なってあったとしても、今回はぜひとも氏政と三和を遂げ、戦功にぬきんでるように意見するのが神妙だろう。さらに昭光が申すだろう。
62
言及氏規
夫替之事。壱疋、公郷寺分、御酒夫。壱疋、同所、御厩夫。弐貫八百文、同所、富野・賀藤。壱疋、公郷佐竹方、石上孫一。半疋、同所、御台所夫。壱貫四百文、同所、富野・賀藤。以上四疋、但現夫并夫銭共。此夫梶原知行より出ニ付而、梶原へ被下。此替夫。壱夫、現夫、鴨居郷。弐疋、同、三浦郡諸郷廻夫。壱疋、夫銭、安藤前より可出。以上四疋。右、件夫、氏規へ申断之処ニ、夫替合点畢、然間、其方件夫ニ如此取替置候、永不可有相違者也、仍状如件、
天正四年丙子九月廿三日/「朱印」/梶原備前守殿
小田原市史資料編小田原北条1234「北条家虎朱印状ヵ写」(紀伊続風土記附録十)
1576(天正4)年★09_月23日実記夫役交代のこと。1疋、公郷寺分、御酒夫。1疋、同所、御厩夫。2貫800文、同所、富野・賀藤。1疋、公郷佐竹方、石上孫一。半疋、同所、御台所夫。1貫400文、同所、富野・賀藤。以上4疋、但し現在の夫役と夫銭も同様。この夫役は梶原知行より出でいたので、梶原へ下される。この替えとなる夫役。1夫、現在の夫役、鴨居郷。2疋、同、三浦郡諸郷廻夫。1疋、夫銭、安藤良整ヵより出すだろう。以上4疋。右、くだんの夫役、北条氏規へ申請していたところ、夫役交代を諒解した。であるから、そちらでくだんの夫役をこのように取り替えて置くように。末永く相違があってはならない。
63
言及左馬助鷹之鶴初ニ候、浦山敷候、小田原へ則遣候、将又動之模様をハ、左馬助ニ委細書付渡候、三浦にて彼書付、其方可入披見候、両人を当所ニ致候、恐ゝ謹言、九月廿七日/氏政(花押)/上総入道殿
戦国遺文後北条氏編1875「北条氏政書状」(堀内久勇氏所蔵文書)
1576(天正4)年★09_月27日実記鷹狩での鶴の初物、うらやましく思います。小田原へすぐに送りました。また、敵情を北条氏規に詳細の書付を渡しました。三浦でその書付をそちらに見せることでしょう。両人を当所に置くように。
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発給朱印
仰出之条ゝ。一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事。一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事。一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事。右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/日付に(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
1577(天正5)年★04_月06日実記仰せ出しの条目。一、山本左衛門尉の進退が立ち行かなくなり、30貫文の地所を10年期で売りたいとのこと。尤もなことで心得えた。一、伊豆国奥郡の手遠について、三浦での在陣と軍務も立ち行かないとのこと。知行を替えてほしいとの陳情に任せる所存だ。別紙に書き付けたように下されること。一、知行役のこと、3<欠字>貫文は10年期が明けたので負担すべきこと。右、この条目の通りで間違いがあってはならないが、信濃入道は前々より忠信を持ち今も活躍している。子である左衛門太郎は眼前で討ち死にし、忠信は浅からぬものである。今の太郎左衛門尉のことは、若輩ながら海上を任されて無二に奔走しているのだから、他者と全く同じ扱いにはできない。これにより、申し上げた通りに御納得されたとの仰せ出しである。ますます身命を抛ち活躍するよう、太郎左衛門尉に申し聞かせるように。
65
発給左馬助氏規
預御状候、仍先日者、自三浦申入候■、御祝着之由■預候、本望候、三崎之普請就出来申、参府申候、然者麦上之御調候、被御申請度之由、無御余儀候、定而御別条有間敷候、氏邦就御参府者、涯分得御作意、聊無ゝ沙汰可令馳走候、次蝋燭一箱被懸御意候、祝着候、委細重而可申条、令省略候、恐ゝ謹言、
卯月十七日/左馬助氏規(花押)/六郎殿御報
戦国遺文後北条氏編1904「北条氏規書状」(堀口久太郎氏所蔵文書)
1577(天正5)年★04_月17日比定お手紙でいただいたように、先日は三浦から申し入れがありました。御祝着とのことを承りました。本望です。三崎の普請が完成した報告で小田原に参りました。そして麦上の調儀をご申請されたいとのこと、余儀のないことです。きっとご異議はないでしょう。氏邦が小田原にいらっしゃったことには、とてもご尽力をいただきました。少しの無沙汰もないように活動なさいますように。次いで、蝋燭1箱をいただきました。祝着です。詳しくは重ねて申しますので、省略させていただきます。
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発給朱印武之東漸寺、長島附寺領指置由、申上ニ付而、鉄炮押、向後令免許候、其外大細之事共ニ、寺内へ御用之刻者、以御印判可被仰付者也、仍如件、
丁丑卯月廿七日/日付に(朱印「真実」)長谷河九郎左衛門尉奉之/武之東漸寺
戦国遺文後北条氏編1906「北条氏規朱印状写」(相州文書所収三浦郡東漸寺文書)
1577(天正5)年★04_月27日実記武蔵国の東漸寺から、長島へ寺領を拠出すると申し上げたことについて、鉄炮押しは今後免許となる。そのほか事の大小を問わず、寺内への御用の時は御印判をもって仰せ付けになる。
67
発給氏規
乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参
戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)
1577(天正5)年★08_月20日比定卒爾ながら、書状を差し上げます。貴国のことは年来承っていました。去る春に不思議な便宜を得て、朝比奈右兵衛尉に貴殿の事を承りましたので内意を申し届けましたところ、この度わざわざ飛脚によってご連絡いただきました。遠国のことで、本当に真心を感じました。本望であり、かたじけなく思います。そもそも貴国と当国で協調できるのは念願でした。両国が親しくなるのは、天下の覚えとなり相互のためにも、これに過ぎるものはないでしょう。ご熟慮の上、お取り成しいただくのが肝要です。当国においては若輩ながら精一杯活動させていただきます。詳しくは右兵衛尉が申し入れますので、省略させていただきます。
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発給氏規
此度於佐貫前ニ房州海賊懸合、佐貫浜陸地へ押上、船三艘取候由、無比類仕合心地能満足候、殊其方最前ニ高名、数ヶ所鑓疵蒙由、無比類動不及是非候、上意ニも無比類走廻候由、御直ニ被仰出間、満足候、心安可存候、御感以下可被下仰出之間、従是可申遣候、然者長南・池和田御取成令申、御味方ニ引着候、房州之本意不可有程、信濃入道ニ此趣可為申聞候、謹言、
九月晦日/氏規(花押)/山本太郎左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編4025「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書)
1577(天正5)年★09_月晦日比定この度佐貫前において安房衆の海賊と交戦、佐貫浜の陸地へ押し上げ、船3艘を奪ったとのこと。比類なき仕合わせで、心地よく満足です。特にあなたは前線で高名を挙げ、数ヶ所の鑓疵を受けたとのこと。比類なき働きなのは論ずるまでもありません。比類なき活躍であるとの上意を、直接仰せ出されて満足です。ご安心なさって下さい。ご感悦の言葉などを仰せ出されますから、こちらからお伝えします。そして長南・池和田と交渉して味方に引き入れました。房州での本意は程なくでしょう。信濃入道にこの趣旨を申し聞かせて下さい。
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発給氏規今度於佐貫前、敵船ニ懸合、陸地へ押上、早船三艘切取、殊数ケ所、致鎗手、自身愛河、を、被討捕ノ事、誠ニ無比類候、仍太刀一腰、未紀、遺之候、弥可抽忠節之状、如件、
天正五年丑十二月二日/氏規在判/山本太郎左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編1957「北条氏規感状写」(水月明鑑十二)
1577(天正5)年★12_月02日実記今度佐貫前において、敵船を攻撃して陸地へ押し上げ、早船3艘を鹵獲しました。特に数ヶ所の鎗疵を負い、自身で愛河を討ち捕られたこと、誠に比類がありません。太刀1腰(未紀)を贈ります。ますます忠節にぬきんでるように。
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言及美濃守
不存寄候処、芳墨披見、誠祝着候、如来意、輝宗へ其以来依無指儀、申遠候、背本意無念千万候、此度預御状、自今以後別而可有御相談旨候間、於氏政不可存心疎、無二無三可申合候、悉皆其方御馳走任入迄候、何様以使可申届候、畢竟遠境故、御等閑之様、所存之外候、将亦若大鷹到来、喜悦候、自是も表祝儀、太刀一腰作助真、并八丈島弐拾端、進候、委曲美濃守可申届候、恐ゝ謹言、
正月廿五日/氏政(花押)/遠藤内匠助殿
戦国遺文後北条氏編1964「北条氏政書状」(斎藤報恩館所蔵遠藤文書)
1578(天正6)年★01_月25日比定思いもかけなかったところ、お手紙を拝見し、本当に祝着です。仰るように伊達輝宗へはそれ以来さしたることもなかったので筆が遠のいておりました。本意ではなく無念千万です。この度預かりましたご書状で、今より以降は格別にご相談いただけるとのことで、北条氏政においては心を隔てることはありません。何より優先して申し合わせましょう。全てをそちらのご活躍にお任せするまでです。何事も使者によってお伝えします。遠距離ということもあり、ご無沙汰してしまったのは思ってもみなかったことです。また、若い大鷹が到着しまして喜んでいます。こちらからも形ばかりではありますが、太刀1腰(助真作)と八丈島20反を進呈します。詳しくは北条氏規がお伝えするでしょう。
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発給美濃守姉崎ニ被懸置船之事、於海上自何方も横合非分有間敷候、若有相違之儀ハ、為先印判可被相断、不承引者、可有披露者也、仍如件、
天正六年戊寅十一月四日/日付に(虎朱印)美濃守奉之/武田兵部太輔殿
戦国遺文後北条氏編2029「北条家虎朱印状」(田中左門所蔵文書)
1578(天正6)年★11_月04日実記姉崎に懸け置かれた船のこと。海上においては何者からであっても妨害してはならない。もし相違のことがあれば、先の印判のように報告するように。承認しなければ、披露するように。
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言及美濃守殿新地塀之用、太平之郷星屋拘内、くり・こなら六十六本可進上候、堅木なくハこなら類にても、ふとさ八九寸一尺迄、美濃守殿代ニ可為切候、定之外壱本も過上為切間敷候、仍如件、己卯十月二日/日付に(虎朱印)/星屋殿
小田原市史資料編小田原北条1326「北条家虎朱印状写」(判物証文写北条)
1579(天正7)年★10_月02日実記新しく築造する曲輪の塀として、大平郷で星屋が管理している分から、栗・小楢66本を進上するように。堅い木がなければ小楢のたぐいでも太さが8〜9寸で1尺までのもの。北条氏規代官へ伐採して提出するように。規定以上に1本でも伐採してはならない。
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発給朱印禁制。■■■寺中惣門之内仏殿■■■。■■■■等地階之石取崩■■。■■■竹木伐取、同菜園■■。■■事。■■ゝ於背掟者、急度■■■■仕者、尋交名可■■■■■定所、如件、■正八年二月五日/日付に(朱印「真実」)/永明院
戦国遺文後北条氏編2136「北条氏規禁制」(香山寺文書)
1580(天正8)年★02_月05日実記禁制。<欠字>寺中で惣門のうち仏殿<欠字>、地階の石を取り崩す者<欠字>竹木を伐り取り、同菜園の<欠字>こと。<欠字>掟に背く者は、取り急ぎ<欠字>仕る者は、交名を尋ねて<欠字>定めるところである。
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発給朱印木古庭之郷領主宮下、闕落ニ付而、諸百姓等郷中明之由申上候、何之郷ニ有之共、早ゝ罷戻、如前ゝ諸役等可走廻、如何様之権門不入之地ニ致居住云共、為御国法間、早速可罷戻者也、仍如件、巳二月二日/日付に(朱印「真実」)/木古庭百姓中
戦国遺文後北条氏編2218「北条氏規朱印状写」(相州文書所収三浦郡僧右衛門所蔵文書)
1581(天正9)年★02_月02日比定木古庭郷の領主宮下が闕落したことについて。諸百姓が郷中でいなくなっているとのこと報告があった。どの郷に逃げていたとしても、早々に戻し、前々のように諸役に使うように。いかなる権門不入の地に居住していたとしても、御国法であるから、早急に戻すように。
75
発給美濃守氏規
芳墨本望候、如承意、今度者敵其表へ就出張、不移時日御出、被押詰候処、敵敗北被打遁、御無念令察候、併只今之敵之手刷ニ候者、遂日御勝利迄与令察候間、御心易候、仍網懸鶴給候、一段忝存候、自愛不過之候、秘蔵可申候、委細可申候得共、御使急候条、自是可申入候、恐ゝ謹言。追而蜜柑一箱、任到来進之候、乏少之至、憚入候、
十月十八日/美濃守氏規(花押)/六郎殿御報
戦国遺文後北条氏編4027「北条氏規書状写」(岡山大学所蔵池田文書)
1581(天正9)年★10_月18日未詳
1569(永禄12)年11月24日の氏康書状で氏規・氏忠が韮山に出撃したとあるので、それにかけて比定。
お手紙をいただき本望です。承ったように、今度敵がその方面に出撃しました。時間をかけずに迎撃して押し詰めたところで敵が敗北し、逃げました。ご無念はお察しします。合わせて、現在の敵の手段・作戦では、日をおかずのご勝利は間違いないので、ご安心下さい。網にかかった鶴をいただきました。一段とかたじけなく思います。愛らしいことこの上なく、秘蔵いたしましょう。詳しくお伝えしようと思うのですが、ご使者がお急ぎなのでこちらから改めます。追伸:蜜柑1箱が来たので進呈します。数が少なくて恐れ入ります。
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言及美濃守殿
塀弐間可致之事。此道具大方之積。弐本、男柱、長八尺・廻九寸一尺。弐本、間柱、長七尺、廻七寸八寸。木ハ何にても。三本、大竹、但五寸六寸。三束、小竹、但五十本結。拾弐房、縄。拾弐把、萱。拾弐把、すさわら。已上。右、此分致支度、来月朔日宝蔵寺へ持寄、従二日可致之、一日ニ成共、三日四日ニ成共、人足稼次第ニ可致之、出来之上、美濃守殿得御下知、可罷帰、万一奉行非分申懸候者、可上目安者也、仍如件、
辛巳十月廿三日/日付に(虎朱印)/佐野村百姓
小田原市史資料編小田原北条1399「北条家虎朱印状写」(相州文書・三浦郡小左衛門所蔵)
1581(天正9)年★10_月23日実記塀2間を築造すること。この道具は大まかな見積で。2本は男柱で長さは8尺。2本は間柱で長さ7尺で廻りは7寸か8寸。木は何でもよい。3本は大竹で5〜6寸。3束は小竹で50本を結うこと。12房の縄。12把は萱。12把は苆藁。以上。右の通り支度せよ。来月1日に宝蔵寺へ持ち寄り、2日より作業し、1日でも3〜4日になろうとも、人足の働き次第で作業して、完成したら北条氏規のご指示を受けて帰るように。奉行に万が一無理な指示をされたら、目安を申し上げるように。
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言及北条美濃守寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、十二月八日/勝頼(花押)/小野沢五郎兵衛殿
戦国遺文武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書)
1581(天正9)年★12_月08日比定寄親である松田上総介が、勝頼への忠節の始めとして去る10月28日に韮山に向かって行軍したところ、北条氏規が迎撃して一戦を遂げた。その時に首級1を討ち取ったのは神妙である。よって太刀1腰を与える。今後も武功に励むように。
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発給氏規乍御報芳書披見本望候、殊大暏筋給候、祝着候、随而其許如何様之御事候哉、拙者ハ于今韮山在番申候、家康江尻被御着之由候間、節々被得御意候、満足ニ候、委細申残候得共、急候条、重而可申達候、恐々謹言、三月十三日/氏規(花押)/酒井小五郎殿御報
小田原市郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p42「北条氏規書状写」(酒井家旧記)
1582(天正10)年★03_月13日比定ご連絡いただいたお手紙を拝見し本望です。特に大暏筋をいただき祝着です。そちらはどのようなご様子でしょうか。拙者は今韮山に在番しています。家康が江尻へご到着とのことですから、折々に御意を得られて満足です。急いでいますので詳しくは伝え残しますが、また改めてご連絡します。
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言及美濃守殿まなつるのかつき衆之内、いかにも上手弐十人、明日廿一、三浦へ罷越、自美濃守殿下知、大のしむくへし、京都へ之御用ニ候間、いかにもなかく、手きわをよくむくへし、日数者十日之可致支度、仍如件、午卯月廿日/日付に(虎朱印)/真名鶴代官石上殿
戦国遺文後北条氏編2333「北条家虎朱印状」(五味源太郎氏所蔵文書)
1582(天正10)年★04_月20日比定真鶴の潜水夫のうち腕の良い者を20人、明日21日に三浦へ送り、北条氏規の指示で大熨斗を剥くように。京都への献上品なので、なるべく長く手際よく剥くこと。日数10日の支度をするように。
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言及氏規
きせう文之事。何事においても、氏のり御しんたいのき、ミはなし申候間敷候事。右、此むねそむくにおゐてハ、日本国中大小の神、ふし、白山、天満天神、八満大ほさつ、あたこの御はつをこむり、来せにてハ、一こ申ねんふつむになり可申候者也、仍如件、
十月廿四日/三河守家康(花押)/みのゝかミ殿参
戦国遺文後北条氏編4492「徳川家康起請文」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)
1582(天正10)年★10_月24日比定起請文のこと。何事においても氏規のご進退を見放すことはないこと。右、この旨に背いたならば、日本国中の大小の神、富士・白山・天満天神・八幡大菩薩・愛宕の御罰をこうむり、来世においては一期で申した念仏が無になるでしょう。
81
言及美濃殿さま
(表紙:天正十年馬のとし 相州御道者賦日記)一、無上一斤、御屋形様。一、無上一斤、御隠居様。一、中三■、御せんさま。一、中三袋、奥州さま。一、中三袋、美濃殿さま。一、中三袋、房州さま。一、中三袋、左衛門佐殿。一、中三袋、右衛門佐殿さま。一、中二袋、糟屋豊後殿。一、中二袋、石井入道殿。一、中二袋、石井四郎衛門殿。一、中三袋、北条上総入道殿。一、中三袋、北条左衛門大夫殿。一、中三袋、玉滝坊。一、中三袋、なこや安井玄蕃殿
古記録
埼玉県史料叢書12_0657「相州道者賦日記」(御師関係文書断簡五)
1582(天正10)年月日欠実記<表紙:天正10年午の年 相州御道者賦日記>一、無上1斤、北条氏直様。一、無上一斤、北条氏政様。一、中三袋、御前様。一、中三袋、北条氏照さま。一、中三袋、北条氏規殿さま。一、中三袋、北条氏邦さま。一、中三袋、北条氏忠殿。一、中三袋、北条氏光殿さま。一、中二袋、糟屋豊後守殿。一、中二袋、石井入道殿。一、中二袋、石井四郎衛門殿。一、中三袋、北条綱成入道殿。一、中三袋、北条氏勝殿。一、中三袋、玉滝坊。一、中三袋、なこや安井玄蕃殿
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言及美濃守其地江被納御馬之由、先以目出度存候、仍拙者儀、駿甲為見廻与、此地迄令出馬候、程■候之間、節ゝ可申談候、委細猶濃州迄申入候条、不能詳候、恐ゝ謹言、三月十九日/家康/宛所欠
戦国遺文後北条氏編4507「徳川家康書状写」(諸州古文書)
1583(天正11)年★03_月19日比定その地へ御馬が納められたとのこと。まずもってめでたいことです。私は駿河国・甲斐国を見回るためにと、この地へ出馬いたしました。距離も近いので折々にご連絡を取り合いましょう。詳しくは更に北条氏規が申し入れますので、詳らかにはしません。
83
言及氏規
尊書謹拝領、抑拙者夫妻六月牌銭進上申候処、慥着山、御請取被下候、■宮城公五対、墨五挺、贈賜候、難申尽奉存候、態計仁京銭三十疋進之候、誠以表一儀迄ニ候、氏規被仰合候卵塔日牌銭未進、来秋中可為皆済候、諸余尭順房口上申達候条、不能具候、恐惶敬白、
三月廿八日/信治(花押)/進■■室院尊報
戦国遺文後北条氏編4280「某信治書状」(高室院文書)
1583(天正11)年★03_月28日未詳
過去帳に桂林院殿の供養があったため比定。
ご書状を謹んで拝領しました。そもそも拙者夫妻は6月に牌銭を進上しましたところ、お受け取りを下さり、■宮城公5対、墨5挺を賜りました。申し尽くすのも難しく思います。とりあえず仁京銭30疋を進呈します。本当に形ばかりのことです。氏規がご相談なさって卵塔・日牌銭の未進について、来る秋中に皆済するでしょう。諸余は尭順房の口上にてご報告しますので詳しくは申しません。
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言及北条美濃守殿
遠路尊札忝頂戴令申候、如御意、先日者近衛殿様御坐候付而俄罷帰、御執合不申候、無念奉存候、堅大久保治部へ申候間、只今書状遣候、御内見被成可被遣候、別条有間敷候、就中一花堂之儀、北条美濃守殿再三家康へ被仰候間、今少被仰候儀者御延引尤候、相済可申候条、北美近日駿へ御出候間、御待可被成候、将又従上方注進候、当月中 御馬可被納ニて候間、拙者も来月可罷上覚悟候、恐惶謹言。猶委細段、三寮へ令申候、
六月廿四日/忠次(花押)/上人様御納所御中
静岡県史資料編8_1650「酒井忠次書状」(山形県・致道博物館所蔵文書)
1583(天正11)年★06_月24日比定遠いところ、お手紙を頂戴してかたじけなく思います。仰るとおり先日は近衛殿様のご来訪があって急に帰ることとなり、お話もできず無念に存じます。大久保忠隣に堅く申しまして、ただいま書状を送ることとなりました。ご内見なさるように送るもので、異義はありません。とりわけ一花堂のことは北条氏規殿が再三にわたり家康へ仰せになっていたので、仰せになるのを少し延引されるのがご尤もです。済みましたらお伝えしますので、氏規が近日駿河国へおいでになる間はお待ちいただけますでしょうか。また上方より報告があり、今月中にご帰還になるそうですから、私も来月上洛する覚悟でおります。
85
発給朱印於三浦郡雨乞之御祈念、尤ニ候、雖為苦労、可被抽精誠候、雨乞成就之上、相当之布施可進者也、仍如件、
癸未七月朔日/日付に(朱印「真実」)山中上野介奉之/延命寺・妙音寺
戦国遺文後北条氏編2552「北条氏規朱印状写」(相州文書所収三浦郡延命寺文書)
1583(天正11)年★07_月01日実記三浦郡において雨乞いの御祈念をされるのは尤もである。苦労だが、精誠にぬきんでるように。雨乞い成就の上は、相当な布施を進上するだろう。
86
発給朱印為桂林院殿本渓宗光卵塔石塔、日牌料■拾参貫文之所、来■■可渡進候、先為証文、黄金参両相渡申者也、仍如件、
癸未七月十三日/日付に(朱印「真実」)南条因幡守奉之/宛所欠
戦国遺文後北条氏編2556「北条氏規朱印状」(高室院文書)
1583(天正11)年★07_月13日実記桂林院殿本渓宗光のため、卵塔・石塔、日牌料<欠字>3貫文の地所、来たる<欠字>に渡すものとする。まず証文として、黄金3両を渡すものである。
87
発給氏規来翰披見本望候、仍筆十対・墨十梃送給候、珍重候、従是任嘉例百疋令進之候、委曲南条因幡守可申条令省略候、恐ゝ謹言、八月五日/氏規(花押)/謹上高室院尊報
戦国遺文後北条氏編4021「北条氏規書状写」(集古文書七十二)
1583(天正11)年★08_月05日未詳
過去帳に桂林院殿の供養があったため比定。
お手紙を拝見し本望です。筆10対と墨10挺をいただき、珍重です。こちらから嘉例に任せて100疋を進呈します。詳しくは南条因幡守が申しますので省略します。
88
言及氏規
雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中
戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)
1583(天正11)年★08_月05日未詳
過去帳に桂林院殿の供養があったため比定。
まだご挨拶しておりませんでしたが、一筆申し上げます。南条因幡守が在陣中なので、拙者が詳しくご報告するようにと、氏規から指示されました。さて、石塔・日牌銭の未進のこと、23貫文、今度は確かにご使僧に渡します。重ねてご便宜にお受け取りする段のお札を仰せ蒙るべく、合わせて毎年100疋とご返答、これもまたご使僧にお渡しします。なおもって、重ねてのご便宜として、右の分のお受け取りのご連絡をお待ちしております。詳しくは来たる連絡の時を期します。尊意を得られますように。
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発給北条美濃守氏規
御札拝見申候、昨日以飛脚如被申入候、去十五御着輿、氏政歓喜不大形候、御状之趣、石一口上承届、具氏政へ為申聞候、何篇ニも可被任置之由被申候、拙者事、大細内外毛頭無疎意、無二無三可走廻候、乍恐可御心安候、委細朝比奈弥大郎倩口上候之条、重而可得御意候、恐ゝ謹言、
八月十七日/北条美濃守氏規(花押)/徳川殿人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編2566「北条氏規書状写」(紀伊国古文書所収藩中古文書四)
1583(天正11)年★08_月17日比定お手紙を拝見しました。昨日飛脚によって申し入れられたように、去る15日に御輿が到着。氏政の歓喜は並大抵なものではありませんでした。御手紙の趣旨、石原安定の口上で承りまして、つぶさに氏政へ申し聞かせました。いかようにも任せ置かれると申されました。拙者は大事でも小事でも・内でも外でも毛頭疎意はありません。無二無三に奔走するでしょう。恐れながらご安心下さい。詳しくは朝比泰勝の口上に頼みますから、重ねて御意を得られますように。
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言及美濃守殿様
其以来者節久不申承候、音絶覚外之至候、抑当国上州之儀者、無残所小田原へ属御幕下候、名地候厩橋之儀も今度御出陣、翌日奥州様奉憑御侘言仕候而、去月十八日出仕申候、北条者城外へ罷出節、城之儀御請取、自廿一日至于今日大御普請大方出来、漸明日隙候、上州之儀者沼田をハ従家康可有御渡候、御約束治定ニ候、一ヶ所も無残所候、佐野之儀ハ三千余貫之御礼銭毎年進上可申与御詫言申候得共、城ヲ罷下儀、被仰付、于今未落着候、然共御詫言可被成様ニ申候、両皆川・壬生・下妻・下館各御詫言申、両皆川者過半落居由候、然ニ卒爾之儀ニ候へ共、只今貴国之御模様、様々申廻候、此時ニ候之条、御忠信ニ極候、依御忠信真里谷一跡ニ而も大膳亮一跡仁而毛可為御望次第候、か様之儀、拙者自分計仁而不及申入候、御一類衆御請御内儀申入候、奥州様成共美濃守殿様へ成共御存分次第引付申、御望次第可有之候、千言万句於其国一ヶ所被乗取御忠信ニ極候、小田喜歟、久留里歟、佐貫歟、三之間御塩味可有之候、此書札御披見之上火中可有之候、両野州并常州衆ニ御赦免之御詫言不被申衆者一人も無之候、悉当表者明日隙候、可然時分之間申達候、恐々謹言。追啓、美濃守殿様へ被為寄、御申可然候、
十月十一日/左政辰判/左大御宿所
埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」(藩中古文書十二)
1583(天正11)年★10_月11日比定それ以来は久しくご連絡せず、ご無沙汰していたのは思いのほかでした。そもそもこの上野国のことは、残す所なく小田原の支配下に入ることになりました。城外へ出たら北条が受け取る段取りになっていて、21日から今日までで大普請はほぼ完成しています。ようやく明日時間ができます。上野国については沼田を家康よりお渡しになるでしょう。お約束になったことですから、一箇所も残してはなりません。佐野については3,000余貫の御礼銭を毎年進呈しますと陳情してきましたが、下城せよとのご指示になり未だに落着していません。とはいえ陳情はこのように行なわれています。両皆川・壬生・下妻・下館は各々が陳情し、両皆川は半ば以上落城とのこと。しかるに、卒爾のこともあるでしょうが、ただいま貴国の状況を色々と議論しています。この時こそがご忠信を働く時の極みです。ご忠信によっては、真里谷一跡にても大膳亮一跡にてもお望みのままです。このようなことを私一人で勝手に言っているわけではなく、御一門衆の起請文を内々でお願いしています。北条氏照様なりとも北条氏規殿様なりとも、ご希望次第で沙汰を下しお望み次第となるでしょう。千言万句、その国において一箇所でも占領なさったらご忠信の極みです。小田喜か久留里か佐貫か、3箇所でご検討下さい。この書状はご覧になったら火中に投じて下さい。上野国・下野国と常陸国の衆へご赦免の陳情を申す者は一人もいません。こちら方面は明日には全て手が空きますから、よい時宜だとご連絡しました。追伸:氏規殿様へお寄せになるのが宜しいでしょう。
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言及北条美濃守石塔、卵塔、日牌。桂林院殿本渓宗光。付箋、北条美濃守、南条因幡守奉之。氏康公御息女甲州武田殿御前古記録
平塚市史資料編 古代・中世 付録「北条家過去帳 北条家家系図」
1583(天正11)年月日欠実記小田原一手役の書立て。御旗本。北条氏照殿、八王子。清水康英、伊豆。北条氏邦殿、鉢形。笠原某、伊豆。北条氏規殿、三浦。山角康定、小田原。北条氏忠殿、小田原。垪和氏続、小田原。北条光殿、小机。依田康信、小田原。北条氏隆殿、久野。大藤政信、田原。北条氏勝殿、玉縄。内藤直行、津久井。北条直重殿、小田原。太田肥後守、江戸。北条氏房殿、岩付。富永政辰、江戸。北条直重殿、佐倉。北条氏秀殿、江戸。松田憲秀ヵ殿、小田原。足軽衆頭10人。遠山直景殿、江戸。(見せ消ち:簗田殿)大道寺政繁殿、川越。(見せ消ち:一色殿)上田長則殿、松山。(見せ消ち:佐々木殿)成田氏長殿、忍。羽生衆。上杉氏憲殿。小幡信真殿。内藤昌月殿。安中広盛ヵ殿。和田信業殿。倉賀野家吉殿。合木某殿。白井長尾憲景。大胡高繁殿。北条高広殿、厩橋。那波顕宗殿。由良国繁殿。長尾顕長殿。佐野宗綱ヵ殿。皆川広照殿。壬生義雄殿。原邦房殿、臼井。武田豊信殿。井田胤徳殿。房州衆。大須賀政朝殿。助崎某殿。酒井康治、土気。酒井政辰、東金。高木胤辰ヵ、小金。豊島貞継ヵ、布川。土岐治綱殿、江戸崎。岡見治広。岡見宗治。相馬治胤殿。簗田持助殿。一色義直殿。毛呂又十郎。近藤綱秀。佐倉御旗本。佐々木某殿、
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発給美氏規
態以飛脚申入候、仍御加勢之儀、先日河尻ニ具ニ承候、則氏政父子へ為申聞候之処ニ、家康御存分次第、親子之内一人成共御立可被成之由候、上方御本意ニ候へハ、関東迄之覚ニ候之間、急度御加勢可被申存分ニ候、就其拙者儀、当地韮山ニ被指置候間、此趣於御前ニ堅御請尤ニ候、委曲其地之模様、御待入候、恐ゝ謹言、
四月六日/美氏規(花押)/朝弥太参
戦国遺文後北条氏編2664「北条氏規書状」(不破文書)
1584(天正12)年★04_月06日比定折り入って飛脚を使って申し入れます。御加勢のこと、先日河尻から具さに承りました。すぐに氏政父子へ申し聞かせるところですが、家康のお考え次第で、親子の内一人なりとも出立すべきだろうとのこと。上方で御本意になれば、関東にまで評判が及ぶでしょうから、取り急ぎ御加勢するというお考えになるでしょう。拙者は当地韮山に配備されていますから、この趣旨を御前にて堅くお請けするのが尤もです。そちらの状況など詳しくお待ちしています。
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言及北条美濃守
無御心元存、折々外かまへまて人を進候へ共、不致参着罷帰申候、一段迷惑申候処ニ、小右衛門尉殿被参様子承届、もちろんニ候へ共、御けんこの旨尤ニ存候、御使札則殿様・ いへやすさまへ令披露候、御機嫌不斜候、御うしろまきの儀則被成候間、其段御心得可在候、何事も口上ニ申渡候ゝゝ、御長三無何事候、可御心安候ゝゝ、各々へ以書状申度候へ共、此人持参間敷之由被申間如此候、猶々さまゝゝ御調略之儀も御座候、先半年ハ御ろう城尤ニ存候、今まて御うしろまきなき事ハ、先日吉内参、五三日中ニ落居之様被申候間、さてハ何之御儀も出来与思召延申候、恐々謹言。返々長三何事なく候、御使ニもミせ申候、御うしろまきの事さいそく申候、五三日中たるへく候、又申候、そか又六以書状可申入候へ共、御まへにて貴殿さまへ御状したゝめ申候とて如此候、此状も御しつけニ御まへにて書進申候間、書中早々申候、(裏書:追而申候、此二通北条美濃守よりの状にて候、関東勢之儀、自然不案ニ思召候ハんかととて、家康より被遣之候)
五月廿六日/雄吉(花押)・三吉(花押)/宛所欠
愛知県史資料編12_0503「長島三吉・小坂雄吉連署状」(不破文書)
1584(天正12)年★05_月26日比定心配に思い、折々に外曲輪まで人を送っていますが、到着せずに帰ってきています。一段と困惑していたところに西尾吉次殿がいらっしゃって状況を届けてくれました。論ずるまでもないことですが、堅固に防御しているようです。御使者がすぐに織田信雄殿様と家康様へ報告したところお喜びでした。後詰の派兵をすぐに起こされましたので、そのようにお心得下さい。何事も口頭で申します。人質に出した秀忠は何事もありません。ご安心下さい。各々へ書状を出したいのですが、この人が持参してはならないとのことです。更にあれこれと作戦の件もあります。まず半年はご籠城されるのが尤もに思います。今まで後詰がなかったことは、先日吉内が来て、程なく落城すると報告がありましたので、これなら何事も起きないだろうと思い延引していました。追伸:返す返すも不破長三は何事もありません。ご使者にも見せています。後詰の催促は近日中に行ないます。また、曽我尚祐が書状で申し入れますが、御前にてあなた様へご書状をしたためるようにとのことで、このようになりました。この書状も指示されて御前にて書き進めました。書中で早々に申します。裏書:追って申します。この2通は北条氏規からの書状です。関東勢のことは万が一思いがけないこともあるかと、家康から送ったものです。
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発給北美氏規
雖無指儀候、其以来者不申達候間、以飛脚申候、御心得御披露可給候、于今清洲御在陣ニ候哉、無際限御苦労、難尽筆帋候、然者、羽柴重而可有出張由、風聞申候、実儀候哉、承届度候、御備之様子朝暮無心元存許候、将又東陣之儀者、佐竹通用之巷、号岩船由所、去十五日被乗取候、依之様ゝ悃望申由候、軈而可被明隙候間、可御心安候、猶以其表之御様子、具御報待入候、恐ゝ謹言、
七月廿六日/北美氏規(花押)/酒左御陣所(上書:表書「酒井左衛門尉殿 北条美濃守」、裏書「〆自韮山・酒左御陣所・北美」)
戦国遺文後北条氏編2691「北条氏規書状」(本光寺所蔵田島文書)
1584(天正12)年★07_月26日比定さしたる用事もありませんが、あれ以来ご連絡していませんので、飛脚を使ってご連絡します。お心得いただき、ご披露下さいますでしょうか。今は清洲にご在陣でしょうか。際限のないご苦労、筆紙に尽くしがたいことです。羽柴が重ねて出撃してくるだろうとの風聞を聞きました。本当なのでしょうか。承りたく思います。お備えの様子、朝も暮れも心もとなく思います。また、関東陣のことは、佐竹が行き来する岩船という場所を、去る15日に乗っ取りました。これによりあれこれ懇望してきたそうです。すぐに手が明くでしょうから、ご安心下さい。なお、そちら方面のご様子、具さなご報告を待ち入ります。
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発給美氏規
先日者預一簡候、祝着候、面談之心地面詠入候、陸地之通用可有之事猶有間敷候、必一夜備ニ御越彼むかしを承届度候、自先年者少年寄候へ共、彼覧之昔を承度候、仍箱一給候、御心指祝着候、秘蔵可申候、但茶之湯与成らん不存候間如何然共自家康節ゝ無上御音信候、賞味不浅候、遂面上積御物語申度候、委細者朝弥可被申候条早ゝ申候、恐ゝ謹言。追而到来之間、鮭進之候、
九月廿三日/美氏規(花押)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編4024「北条氏規書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)
1584(天正12)年★09_月23日未詳
1584(天正12)年4月2日の自署に「美氏規」とあり、宛所が朝比奈泰勝と比定。
先日はお手紙をいただきまして、祝着です。直接お話した気持ちを面に詠み入りました。陸地の通行が可能になることはまだなさそうです。夜明かしする前提でお越しいただき、あの昔話をお聞きしたく思います。先年よりは少し年寄りになりましたが、『彼覧』の昔を承りたく。茶1箱をいただきました。お気持ち嬉しく思います。秘蔵いたしましょう。但し、茶の湯とかいうものを知らないので、どうかと思っていましたが、家康から折々に無上をいただき、浅からぬ賞味をしています。お会いして積もるお話をしたいものです。詳しくは朝比奈泰勝が申しますから、手短かに申します。追伸:手元に到着したので、鮭をお送りします。
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言及美濃守対美濃守給候書状、披見申候、抑重而家康御出馬之由、其聞候間、無御心元候処、羽柴悃望、因茲被遂和親由、誠以肝要之至、不及申立候、委細模様承度候、為其氏直以飛脚申候条、及一翰候、具回報待入候、猶重而可申候、恐ゝ謹言、
十一月十七日/氏政(花押)/酒井左衛門尉殿(上書:酒井左衛門尉殿 北条氏政)
小田原市史資料編小田原北条1637「北条氏政書状」(島原市・片山秀賢所蔵)
1584(天正12)年★11_月17日比定北条氏規に対していただいた書状を拝見しました。そもそも、家康が再びご出馬と聞き不安に思っていたところ、羽柴秀吉が敗北宣言し和睦がなったとのこと。本当に肝要の至りなのは言うまでもありません。詳しくお話を承りたく思います。氏直が飛脚を送るというので一筆したためました。詳しいご返答をお待ちしています。更にまたご連絡もいたします。
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発給朱印長沢之郷之北之作屋敷ヲ立、致居住仕候地、田畠ヲモ可致手作之段申上候、尤モ品々国屋敷、於■野ハ永代年貢并不可為諸役、扨又本帳之内田畠開発之処、其領主・代官相談、荒野之年貢相定、可出之覚、仍如件、
天正十三乙正月廿四日/井出内匠助奉之/松島采女殿・同又三郎殿
小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p25「北条氏規朱印状写」(北浦志録)
1585(天正13)年★01_月24日実記長沢郷の北、作屋敷を建てて居住している地で、田畠を手作りするだろうとの報告。尤もなことで、品々の国・屋敷・荒野においては永代年貢・諸役は課さない。そしてまた、本帳の内で田畠を開発したら、その領主・代官と相談して、荒野の年貢を定めて、覚書を出すように。
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発給朱印
平井之郷へ被仰出条ゝ。一、平河散田入落八百五十文之処、永代為御赦免間、永新百姓可申付事。一、前ゝ乗田給田百姓名田畠悪地之由、依之十一くハん文余之内弐くハん文指置之由申上候、尤も自当年弐くハん文之所、為御赦免間、早ゝ召返如前ゝ百姓可申付事。一、四郎左衛門尉闕落彼田畠、助左衛門尉・七郎左衛門尉・甚左衛門尉・六郎左衛門尉・藤左衛門尉・九郎左衛門尉彼等ニ申付可為致出作、扨又彼四郎左衛門尉不罷帰間者、惣百姓諸役等可致弁済事。一、諸百姓等号他国境目踏越雖居住候、既ニ遠相両国被仰合上、殊ニ此方御奏者之事、何之郡郷ニ有之云共召返、徒類共ニ可有御成敗、此筋目百姓等ニ可為申聞事。一、諸給人等至于時ニ非分を申懸百姓等為致退転付而者、如先掟給人等ニ其跡者諸役等可被仰付事。以上。右条ゝ任申上如此御仕置被仰出候、畢竟聊之所も田畠不致不作様ニ可走廻、然ニ郷中田畠をハ指置、寸歩之所も他郷致出作者有之付而者可申上、徒類共ニ可被処罪科者也、仍如件、
天正十三年乙酉四月三日/日付に(朱印「真実」)朝比奈右衛門尉・井手内匠助奉之/杉崎但馬守
戦国遺文後北条氏編4755「北条氏規朱印状」(杉崎文書)
1585(天正13)年★04_月03日実記平井郷へ仰せ出される条項。一、平河散田で入り落ちとなった850文の地所は永代でのご赦免となるので、末永く新百姓に申し付けること。一、前々の乗田・給田・百姓名の田畠が悪地とのこと。これにより11貫文余りの内2貫文を控除してほしいとの申し出。尤もなので、当年2貫文のところを御赦免とする。早々に召し返し、前々の通りに百姓へ申し付けること。一、四郎左衛門尉が闕落したので、その田畠は助左衛門尉・七郎左衛門尉・甚左衛門尉・六郎左衛門尉・藤左衛門尉・九郎左衛門尉に申し付け耕作させるように。そしてまた四郎左衛門尉が帰ってこないので、惣百姓に諸役を弁済させること。一、諸百姓が他国境目を踏み越えて居住しているとはいえ、すでに遠相両国が和睦した上は(特にこちらが御奏者なので)、何の郡・郷にいたとしても召し返し、徒類ともにご成敗とする。この筋目を百姓に申し聞かせること。一、諸給人が時折非分を申し懸け、百姓が退転することについては、先の掟の通り、給人にその後の諸役を仰せ付けられること。以上。右の条項を申し出に任せてこのようにご判断を仰せ出された。最終的に僅かな田畠でも耕作放棄しないように奔走し、そして郷中の田畠を分担せよ。寸歩の地所でも他郷に出稼ぎをする者がいれば報告せよ。徒類とともに罪科に処すものとする。
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発給朱印天恵院殿領、任先印判之旨、至于当住も無相違可有寺務、弥修理勤行不可有怠慢者也、仍如件、
天正十三年九月十八日/日付に(朱印「真実」)南条民部丞奉之/天恵院
戦国遺文後北条氏編2861「北条氏規朱印状」(修禅寺文書)
1585(天正13)年★09_月18日比定天恵院殿の領地。先の印判の趣旨に任せて、今の住持に至っても相違なく寺務するように。ますます修理・勤行をして、怠慢があってはならない。
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発給朱印去大風ニ御構破損ニ付而、人足五人中十日被為倩候、くわ・もツこ為持来、廿六日小田原指越、奉行如申付普請可致之、公用重而可被下間、不立御用者指越ニ付而ハ、一人之無沙汰五人宛可被召仕者也、仍如件、酉九月廿日/日付に(朱印「真実」)/公郷百姓中
小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p44「北条氏規朱印状」(石渡文書)
1585(天正13)年★09_月20日比定去る大風で外構えが破損したので、人足5人、中10日で雇うように。鍬・もっこ・を持参し、26日に小田原へ指し越し、奉行の指示に従って普請せよ。公用として重ねて下されているので、御用に応じない者については、1人の無沙汰で5人分を使役することとする。