ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWX
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新紀元社刊「お好み焼きの物語」より お好み焼きに直接関連する資料の詳細 先頭の連番については別シート参照
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連番名称店舗形態場所時期from時期to店名内容出典出典
媒体
備考
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1600*文字焼屋台江戸16001868魚(鯛?) 亀が吊り下げられている
P11
”文字焼(もじやき) この商人は香具師(やし)の一種にて原料は饂飩粉に砂糖を加味して銅板(どういた)の上にて圖の柄杓にて文字の形なり或は鳥獸草木なり心の儘に燒なり此者らの出る場所は神佛の縁日又市街辻々に荷を下して子供を集む又子供らにも焼種を賣て燒すされは子供らはここに群来たりしばしの遊所とするなり”
明治28年4月発行 風俗画報85 江戸市中世渡り種雑誌
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1600*文字焼屋台江戸16001887P319
亀”頭にカミコヨリ” 文字の「寿」 ”文字をかく故文字焼とよぶ”
江戸と東京風俗野史 伊藤晴雨伊藤晴雨は明治15年生まれ
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1600*文字焼駄菓子屋江戸16001887P319
江戸時代から明治初期の駄菓子屋
”文字焼は現今のドンドン焼の元祖(?)でウドン粉を砂糖蜜に溶解したものを鉄板で焼いて喰ふのだが、子供は此「ナマヤケ」を喰つてノベツ腹を下す者が多かつた”
江戸と東京風俗野史 伊藤晴雨伊藤晴雨は明治15年生まれ
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1600*その他その他その他16001945P82
お好み焼き

”起源は江戸後期の雑菓子「麩の焼」あたりから発したらしく、もと春秋の仏事用として焼いたのが、商品となって「ふのやき」とよばれたのは、精進料理用の焼麩と区別するためだったという”

”小麦粉を水溶きして焼鍋に薄く流して焼いた片面に味噌を塗って巻いたのがはじまりで、後に練餡を詰めるようになってからは京阪では「銀つば」、江戸に移って「金つば」とよばれた”

”明治年間河竹黙阿弥作の『水戸黄門記』に出る麹町名物の「助惣焼」というのもこの類であったが明治以降一部の駄菓子屋に還元されて「文字(もんじ)焼」と名づけ、鉄盤と小麦粉の溶液とを備えて集まりくる童幼の思うままに焼かせたのは、大正一二(一九二三)年関東大震災の不如意時代に簡易な捕食の意味で流行し、甘味のほかに塩味も応用して「お好焼」と名づけ、魚菜その他の肉類にも配合するようになった。”
飲食事典 本山荻舟
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18061焼鍋屋台江戸18061824焼鍋の屋台の絵 魚(鯛?) 宝船が吊り下げられている職人尽絵詞 鍬形蕙斎文化3年の作品と推定される(近世職人尽絵詞: 江戸の職人と風俗を読み解く 大高洋司、小島道裕、大久保純一編 P163)。鍬形蕙斎は明和元年(1764年)生まれ。
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18141不明屋台江戸18141814文字焼?の屋台の絵北斎漫画北斎漫画一編 文化十一年(1814年)
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18211文字焼不明江戸18211821花暦八笑人 第二編 文政4年に
文字焼の記述
花暦八笑人 第二編 文政4年
滝亭鯉丈
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18271文字焼屋台江戸18271827川柳「杓子ほど筆では書けぬ文字焼屋」江戸の庶民が拓いた食文化
渡辺信一郎 柳多留九十四
川柳
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18321文字焼屋台江戸18321832川柳「文字焼の匕(さじ)ひり懸かる瓶のへり」(うどん粉がくっつく)江戸の庶民が拓いた食文化
渡辺信一郎 柳多留一一八
川柳
13
18331文字焼屋台江戸18331833川柳「文字焼屋杓子で飯を食っている」江戸の庶民が拓いた食文化
渡辺信一郎 柳多留一二四
川柳
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18332文字焼屋台江戸18331833川柳「文字焼の鯛も焼物子の料理」江戸の庶民が拓いた食文化
渡辺信一郎 柳多留一二六
川柳
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18351文字焼家庭江戸18351835川柳「焙烙で文字焼をして大困り」江戸の庶民が拓いた食文化
渡辺信一郎 柳多留一三九
川柳
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18551文字焼屋台江戸18551878P86
江戸時代から明治初期の縁日商人の一覧に文字焼(もんじやき)
“外(ほか)に縁日に多く出る商ひ物は(中略)飴細工、新粉細工、文字焼”
江戸の夕栄 鹿島万兵衛鹿島万兵衛は嘉永二年(1849年)生まれ
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18571文字焼屋台江戸18571868文字焼き屋台の絵 魚(鯛?) 亀 籠の鳥?
”子供等も三人寄れバ文字焼、智恵も進ミて亀の子を焼”
世渡風俗圖會 清水晴風清水晴風は嘉永四年(1851年)生まれ
18
18572文字焼屋台江戸18571868P50
“文字焼ハ、うとんの粉にみつを入て容解せしを子供に宛へ、小なるさじにて文字を書が如く、自由に銅板の上にたらせバ、直に焼るを以て文字焼と云。四文より商ふ。子供等も三人寄れバ文字焼、智恵も進ミて亀の子を焼”
街の姿〈江戸篇〉―晴風翁物売り物貰い図譜 清水晴風清水晴風は嘉永四年(1851年)生まれ
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1868*どんどん焼屋台東京18681941P15
どんどん焼 もともと船のコックだった店主 そのうち「万両屋」という店を持った 屋台の頃は子供に焼かせていたが 店を持ってからは店主しか焼かなかった
古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和4証言者 小林としゑ 生年不詳 中川静江 生年不詳
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1868*文字焼屋台東京18681912P15-17
大道でも子供に焼かせるのがあった。
職人が焼くのは1銭から5、6銭。
文字焼の種類 寿に亀 亀 籠の鳥 提灯 軍人 鯛 潮吹き おはち おかしわ カタ(丸 梅の花 鼓? 瓢箪等)。
籠の鳥の説明”二寸位の高さのアミ状を焼き、丸めて籠として中に干菓子の鳥を入れてある。いずれも糸につけ、竹枝に吊るして持って歩けるようにしてある”
軍人、鯛、潮吹きの説明”細工人は細き口のブリキ土瓶か片口付きの大匙、又は油差しなどを用いて細線を初めに画いて、軍人、鯛、潮吹き、などを作る、又これらの線画きをして、やや焦げ色のつく頃、色つけをした溶液(うどんこに食用紅を入れて桃色状にしたもの、又は黄色状のものもあり)などで塗りつぶして焼く、こうして出来上つたものは焦色と薄色との調和が面白く出来て、文字焼の真味はこれにある”
おはちの説明”又、うどんを主として、四寸高さ位のべい形にして中に餡を入れ、ふたをつけ、又は三寸高さくらいの丸筒の中に、点滴を焼いた小粒を一ぱい入れて、蜜をかけて竹楊子を添えた「おはち」というもの”
おかしわの説明”又は三寸丸を二つに折り中に餡を入れたもの、そのまま餡を入れてグルグルと巻いた「おかしわ」”
焼板はほとんどが銅 まれに真鍮。
子供が焼くためにカタ(真鍮のわっか)を貸し与える”子供の焼く方には、真鍮で作った高さ二分位の色々の形にした金輪を鉄板の上に置いて、この中に溶液をたらし込んで、焼けた頃、枠をはずして、はがして蜜をつけて食べる、この真鍮形を、子どもはカタと云つてる”
郷土史東京第3巻6号 東京回顧十四 宮尾しげを雑誌宮尾しげをは明治35年生まれ
時期は明治とのみ記述されている
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1868*文字焼駄菓子屋東京18681912P15
明治30年代より大正初期までの値段は茶飲み茶碗に一杯で5厘。これに糖蜜を少しそえる。
郷土史東京第3巻6号 東京回顧十四 宮尾しげを雑誌宮尾しげをは明治35年生まれ
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1868*文字焼屋台東京18681912P204-205
”文字焼は駄菓子屋の店先にあつたばかりではない。別に車を引いて賣りに來るのがあつた。これは飴細工やしんこ細工と同じく、註文に應じて何かを燒いてくれるのである。
”例へば先づ細い線で龜の甲の輪郭を描き、その上から甲の全體に當る溶液を流すと、前の輪郭は少し焦げてゐるからはつきりする。それに餡を入れて兩面から燒いたやうな氣がする。”
”駄菓子屋の店先のは片端から燒いて食ふだけのものであつたが、この方は細工人があるだけに若干の意匠がある。文字焼の稱は細工人のある方に冠せられるべきものかも知れぬ。”
”文字焼の名はいつか遺却され、お好み焼へと名を變へて存在してゐる”
柴田宵曲文集 第5巻
明治の話題
柴田宵曲は明治30年生まれ
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1868*ボッタラ焼駄菓子屋東京18681912P48
”軒先の縁台に据えた火鉢でお手ずからのボッタラ焼き”
明治世相百話 山本笑月山本笑月は明治6年生まれ
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1868*文字焼駄菓子屋東京18681912P149
茶碗に一杯、おちょこに一杯の黒蜜がついて5厘。文字焼が街頭に出て太鼓を叩いて「どんどん焼」となり、芸者街で「お好み焼」になった。
下町今昔 秋山安三郎秋山安三郎は明治19年生まれ
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1868*文字焼駄菓子屋東京18681941P338
駄菓子屋で文字焼ややきそばを焼かせていた。水溶き小麦粉は浅い茶碗に入っている。牛てん、餡まき、餅まき。文字焼をのの字焼というところもある(のの字に焼くため)。
下タ町風物誌 宮尾しげを宮尾しげをは明治35年生まれ
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1868*文字焼屋台東京18681912P338
行商の文ン字焼屋
下タ町風物誌 宮尾しげを宮尾しげをは明治35年生まれ
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1868*文字焼駄菓子屋東京18681926P75
”大阪、と言えば、昭和二十年の終戦後から東京にも流行り出しているあの「お好み焼」なるものは、どうやら大阪が発信源ではあるまいか。”
P76
炭団の火鉢に銅か鉄の板をのせ、子供は飯茶碗にいっぱいのウドン粉を水で溶いたもの、猪口にいっぱいの黒蜜を5厘で買う。真鍮の「ヘガシ」とサジでやく。1時間は楽しめる。
”(駄菓子屋の文字焼きは)たしか、小学校の教育方針でこれが”不衛生”となり大正末ころには駄菓子屋の店からこの子供風俗が滅亡したと思う。それから子供自製の「もんじゃき」にわって、おじさんが屋台を曳き、太鼓をドン、ドンと叩きながら子供相手に売る「どんどん焼」となり、昭和のはじめには大人にも売る「お好み焼」ともなった”
P77
”大阪を発信源と私に思わせたのは、あの”法善寺”小路がお好み焼屋で櫛比しているのを見たときからである。”
東京っ子 秋山安三郎秋山安三郎は明治19年生まれ
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1868*ボッタラ焼不明東京18681912P63
”お好み焼のことを、家の老人たちは、べったら焼といっていた。”
母の作品 芥川比呂志 日本の名随筆 42 母 水上勉編所収家の老人は養祖母と大伯母 生年不詳
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1868*お好み焼き駄菓子屋東京18681941P123
”お好み焼き屋と同じようなものですが、昔の屋台で売りに来たのは、お好み焼きとは、ちょっと違います。”

”昔の下町には、駄菓子屋の店の奥に、子ども相手のお好み焼きをやらせる店がよくありました。子ども相手ですから、ろくなものはありません。それでも子どもたちは勝手に焼いて食べていました。”
幻景の東京下町 森義利 画 沼田陽一 聞き書き森義利は明治31年生まれ
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1868*どんどん焼屋台東京18681941P123
”町に来る屋台のどんどん焼きは、客には焼かせないし、結構高級なものです。この屋台は主に花柳界で商売をしていました。芸者置屋の脇につけて、そこで注文されたものを焼いて売るんです。”
芳町の三河屋という置屋の前によく出ていた。おしんこ細工のような職人芸。アンコ巻きはうどん粉をといたのを円型に焼いてあんこを乗せ、半月形にたたんで蜜を塗る。
”どうかすると、亀の形に焼く種類もある。ヘラでうどん粉を亀の形にしてしまい、それに小さく切って、いためてある牛肉を、箸でちょんちょんと置き、青豆をぱらぱらとまいて、これにソースを塗って、「へい、お待ちどう」って渡してやる。”
他に桜えびや青のりを使っていた。種類はそれほど多くはなかった。
幻景の東京下町 森義利森義利は明治31年生まれ
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1868*焼きそば屋台東京18681941P125
"戦前でいえば、屋台の食べ物としては、ラーメンより普及していたのがソース焼きそばでした。ソース焼きそばは、いまはどこでも、ちょっと人が集まるところには、必ず店が出ていますが、戦前は町には売りに来ていなかった。縁日の時に出ていて、客は子どもばかりでした。三銭かそこいらで、脂でぎとぎとになったところにソースをジューッとぶっかけてから、麺を新聞紙の切った上に乗せて出す。子どもは箸ではなく串一本で食べていました"
幻景の東京下町 森義利森義利は明治31年生まれ
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1868*文字焼駄菓子屋東京18681912P224
文字焼
”「お好み焼」の前身だが明治時代には、子供相手の駄菓子屋の副業が多かった。多く裏横丁のささやかな商売。”
明治語録 植原路郎
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1868*一銭洋食屋台大阪18681940P110
”たこ焼は知ってますけど、あれは戦後いいだしたんとちがいますか。一銭洋食いうて、いまのお好み焼にあたるのは戦前からありましたね。はじめはメリケン粉とねぎを焼いたのに、青のりとソースがかかっていて、だんだんぜいたくになると、上焼きといって肉とか天かすもはいるようになりました。”

p111
”扇町から天神橋五丁目のガードの下にはそういった屋台が多くて、関東煮きや一銭洋食、どて焼もありました。”
たこやき 熊谷真菜坂本健一(闇市時代からの本屋)の証言 生年月日不詳
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1868*一銭洋食駄菓子屋大阪18681940P110
”たこ焼は知ってますけど、あれは戦後いいだしたんとちがいますか。一銭洋食いうて、いまのお好み焼にあたるのは戦前からありましたね。はじめはメリケン粉とねぎを焼いたのに、青のりとソースがかかっていて、だんだんぜいたくになると、上焼きといって肉とか天かすもはいるようになりました。”

p111
”一文菓子屋では一銭洋食とか、夏場はところてんを出してました。アルミのペコペコのお皿にのったところでんに、黒蜜かお酢をかけてくれるんです。”
たこやき 熊谷真菜坂本健一(闇市時代からの本屋)の証言 生年月日不詳
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18681ボッタラ焼番太郎東京18681868P137
明治初年の子供遊び
”倦きれば町内の番太郎へ集まつて、ぼったら焼きや駄菓子の箱にかじりついて、天保銭や五厘玉の散財、大きな声で「おくれつ」と飛び込む威勢のよさ”
明治世相百話 山本笑月
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18721ボッタラ焼家庭東京1872118721P32
小麦粉を薄く焼いて卵黄を塗り、生姜を漬けた砂糖蜜をかけて食べる菓子を「ボツタラヤキ」と表現
西洋料理通 下巻
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18741ボッタラ焼駄菓子屋東京18851885駄菓子屋から居酒屋に 成功物語
明治5,6年頃まで会津にいてそれから上京、駄菓子屋でボッタラ焼を営む
”明治五六年頃迄は奥州會津に居て左のみよき身代でも無かりしが明治の初年に夫が病死し子も孫もなく一人者の氣樂さは何處へ行くも身輕にて聊(いささ)か煩ひの無い處より喰稼ぎの為め出京して今の處に店を借り店には少しばかりの駄菓子を置き賃仕事の片手間に近所の子供を集めボツタラ焼をして細い烟(けぶ)りを立て居る”
読売新聞明治18年3月28日朝刊新聞
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18761ボッタラ焼不明東京18761882P435
”蜜豆は、一文菓子のボツタラ焼と共に、裏店の子供等の好物なり、その蜜豆が貴女淑女に賞翫さるる時になれり”
法華三昧 三田村鳶魚全集第廿七巻所収三田村鳶魚は明治3年生まれ
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18771不明屋台東京18771877P67
子どもの市(縁日)における屋台。老人が箱のストーブを持つ。炭火の上に石が乗っている。米粉、卵、砂糖を混ぜた衣(batter)を入れた壺がある。老人はカップにその衣を入れて売る。子どもはそれを焼く。
日本その日その日 2 E・S・モース
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18781ボッタラ焼不明東京18781878投書欄に、文字焼やボッタラ焼きは銅板でうどん粉を焼いており、酸化銅などの毒があり不潔という投書。読売新聞明治11年7月7日新聞
41
18782文字焼不明東京18781878投書欄に、文字焼やボッタラ焼きは銅板でうどん粉を焼いており、酸化銅などの毒があり不潔という投書。読売新聞明治11年7月7日新聞
42
18831ボッタラ焼屋台東京18831883ボッタラ焼きを開業したが長続きしなかった男の話読売新聞明治16年2月23日新聞
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18832籠焼き屋台大阪18831889P52
”うどん粉で細い線の画をかき、こがした上にうどん粉を流して、うら返すと、ちゃんと画ができている。これを籠焼きともいって、籠までうどん粉焼きで造るのである。”(注 焼くのは子供ではなくおっちゃん)
實川延二郎も食べている
大阪繁盛記 鍋井克之鍋井克之は明治21年生まれ。年上の實川延二郎も食べている(注 實川延若 (2代目) 明治10年生まれ)。
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18851ボッタラ焼屋台東京18851885火鉢から火が燃え移り火傷したボツタラ焼きの老人読売新聞明治18年3月13日朝刊新聞
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18871文字焼駄菓子屋東京18871888P231
”四つか五つの時私が此處へ引越して來た。その前からあつた駄菓子屋だつた。同じ年頃の子供が大勢集まって文字焼(もんじやき)をやつてゐるのを羨ましく美しく思つたものだ。”
黒犬 志賀直哉 志賀直哉全集第三巻所収本(フィクション)志賀直哉は明治16年生まれ
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18891ボッタラ焼不明東京18891889P39(P89は誤植)
”蜜豆はその出時からあつたが、あれは町角でぼつたら燒を賣る婆さんが、一杯一錢位で賣つてゐたものだ。蜜豆が今のやうに出世したのも不思議だ。”
續銀座五十年 西村誠三郎
食通昭和十二年十一月号
雑誌P38に明治22年の思い出があり、「銀座五十年」という表題からもその頃の思い出話か
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18901ボッタラ焼不明不明18901890P35
廃娼論への反対に関連職業の失業があるが、鉄道でも車夫は失業する、車夫が失業するとボッタラ焼、煮込店が難儀する
女學雜誌第10巻202号雑誌公娼廃止運動への反論に対する再反論
大人がボッタラ焼を食べる事例だが、ボッタラ焼の内容がわからない
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18911文字焼屋台東京18911897P172
縁日の店に文字焼とぼったら焼があった
明治の宵―円朝・菊五郎・大根河岸 藤浦富太郎藤浦富太郎は明治18年生まれ
49
18912ボッタラ焼屋台東京18911897P172
縁日の店に文字焼とぼったら焼があった
明治の宵―円朝・菊五郎・大根河岸 藤浦富太郎藤浦富太郎は明治18年生まれ
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18913文字焼屋台東京18911891P561
縁日の屋台一覧に文字焼(もんじやき)。明治東京逸聞史1 (森銑三著)によると泉鏡花が調べた。
紅白毒饅頭 尾崎紅葉 紅葉全集 第2巻所収本(フィクション)明治24年作
51
18931文字焼駄菓子屋東京18931893P22
貧民の職業として”文字焼をなす一文菓子の小店”
最暗黒の東京 松原岩五郎
52
18932ボッタラ焼不明東京18931893P87
文久店(駄菓子屋のことか?)において ”三十文を投じてボツタラを焼く"
最暗黒の東京 松原岩五郎
53
18933ボッタラ焼駄菓子屋東京18931899P11
”ぼつたら焼などと云ふのは菓子の部には入らないかも知れないが、一文菓子を僅かばかり並べた低い庇の下に縁台を置き、四角い木の火鉢の上に乗せた銅板を圍んだ鼻たれ子達が、腰の曲がつたお婆さんの手から小茶碗を受けとると我が世を取つたやうに、どろどろに溶いたうどん粉を銅板の上に零して泡を立てて焼き上って来るのを待つ面構えが、今日の子供達の顔からは汲みとりやうもない逞ましさであつたと思ふ。もんじやきを短かめて、もんじゃきとも云ひ、ぼつたら焼とも云った。今日のお好み焼の元祖であらうが、うどん粉一式に玉砂糖か何かで甘味をつけてあるのだらう。雨の續く日などには一文菓子屋の眞似をして、銅板の代用に卵焼をする四角い容器へうどん粉を垂らして亀の子だのお櫃をこしらえて、食べるよりも焼き上る種々な形を並べて愉しんだものであつた。”
あまカラ1954年6月号 駄菓子 長谷川かな女雑誌長谷川かな女は明治20年生まれ
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18934文字焼駄菓子屋東京18931899P11
”もんじやきを短かめて、もんじゃきとも云ひ、ぼつたら焼とも云った。今日のお好み焼の元祖であらうが。”
あまカラ1954年6月号 駄菓子 長谷川かな女雑誌長谷川かな女は明治20年生まれ
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18941文字焼屋台東京18941894祖母がモデルの小説。明治天皇銀婚式の明治27年以前の話。”大安楽寺の門前までゆくと、文字焼のおばさんと”西川小りん 長谷川時雨 旧聞日本橋所収本(フィクション)長谷川時雨は明治12年生まれ
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18942文字焼駄菓子屋東京18941900P176
”また狭い店頭に四角い火鉢をかこんで文字焼(もんじやき)をやっている子供もいた”
明治商売往来 仲田定之助仲田定之助は明治21年生まれ
57
18951文字焼駄菓子屋東京18951901P93
”駄菓子屋に上り込んで鉄板の上で文字焼をする事、円や四角や鯛や人間の形などを描いて食べる事などは作画をも補長する事で下町の子供の雨降りなどには楽しい事でした。”
油絵の手ほどき 横井弘三(脱俗の画家 横井弘三の生涯 飯沢匡 より孫引き)横井弘三は明治22年生まれ
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18952文字焼屋台東京18951895”文字焼の屋台を囲み居たる”門三味線 斎藤緑雨 明治文學全集 28 齋藤緑雨集所収本(フィクション)明治28年作
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18961文字焼不明神奈川18961902P13
”子供は文字燒を舐り、肉桂を噛り”
昨今川崎宿 佐藤惣之助
食道楽昭和十年十一月号
雑誌佐藤惣之助は明治23年生まれ
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18971文字焼屋台東京18971897P216
筆者の記憶する明治30年頃の日本橋南茅場町薬師様縁日露店
”モンヂヤキ屋は、今のオコノミ焼の如きものだったが、ウドン粉だけのものである。よく、ドビンと云ふてどびん形にしてそれを紙縒(こより)に通したもので、又別品で、円錐形にして、その中へ、モンジ焼の液を入れたものが、一番美味だつた。”
露店研究 横井弘三 昭和6年
近代庶民生活誌17 見世物・縁日所収
横井弘三は明治22年生まれ
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18972文字焼不明神奈川18971899P27
7歳の時横浜の貧乏長屋での生活
”モンジヤキとか、犬だか豚の臓物だか知れない怪しげな串焼の味も知った”
忘れ残りの記 吉川英治吉川英治は明治25年生まれ
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18973ボッタラ焼屋台東京18971897ぼったら燒
”子供相手の文久商内なれども資本かからねば一日二十五銭から三十五銭は取る”
(注 記事中の他の商売は屋台なので、ぼったら燒も屋台と思われる)
読売新聞明治30年12月22日東京版新聞
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18974ボッタラ焼東京18971897下層階級の職業例としてぼったら燒読売新聞明治30年12月20日東京版新聞
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18975牛天屋台東京18971906P49
縁日
”いろいろの屋台店の中で、街の子供たちが集まるのは、「牛天」であった。鉄板の上にウドン粉を溶いたものを流し、それに挽肉(正体不明〉とネギとを入れて焼いたもの。明治三十年代には一個二銭。これを新聞紙に包んで渡す。”
明治語録 植原路郎
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18981文字焼駄菓子屋東京18981902P19
文字焼
饂飩粉を水に溶いたのが茶碗1杯。黒蜜がついて1銭か2銭。亀の子を焼いたり文字を焼いたり。
浅草っ子 渋沢青花渋沢青花は明治22年生まれ
この本に書いてあるのは明治31-35年頃の浅草の風景
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18982文字焼店舗東京18981899P65
”僕の十二三時分、腕白盛りの僕が泰明小學校から歸ると鞄を玄關からほうり出して「只今……お母さんゼゼ」と叫ぶ「サア」と渡された五厘を持つて飛んで行くは、大概文字焼やであつた(文字焼とはどんどん燒とも云ふ)メリケン粉をとかしたやつを茶碗に入れて鐵板の上で自分自身で焼くのである。”
食道楽昭和六年三月号
射倖心と食べ物 西村楽天
雑誌西村楽天は明治19年生まれ
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18983どんどん焼店舗東京18981899P65
”僕の十二三時分、腕白盛りの僕が泰明小學校から歸ると鞄を玄關からほうり出して「只今……お母さんゼゼ」と叫ぶ「サア」と渡された五厘を持つて飛んで行くは、大概文字焼やであつた(文字焼とはどんどん燒とも云ふ)メリケン粉をとかしたやつを茶碗に入れて鐵板の上で自分自身で焼くのである。”
食道楽昭和六年三月号
射倖心と食べ物 西村楽天
雑誌西村楽天は明治19年生まれ
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19001文字焼駄菓子屋東京19001906”子供の遊びも今とは違う。今のお好み焼きは昔子供の「文字焼」。これも「モンジヤキ」といって、冬の子供の社交場で、店先へ友達が、「おくれ」と入ってくると、なかにいる子供が、「おくれ(暮)が済んだらお正月」”昔の言葉と悪口 三代目 三遊亭金馬 日本の名随筆52 話 木下順二 編所収3代目三遊亭金馬は明治27年生まれ
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19011文字焼駄菓子屋東京19011907P22
”今、こっちの花柳界で流行つてゐるお好み燒といふ、小藝妓たちがよろこんで出入する謂はば、わたしたち子供の時分、駄菓子屋のほこりぽい土間の店頭でうどん粉に砂糖を混ぜて水に溶かしたものを、燒いてたべた文字燒、あれのきれいな設備をして、もつと材料を豊富にしたものを自分々々で丸い鐵盤の上で燒せる家がある”
長命寺の櫻餅その他 品川陣居
食通昭和十二年四月号
雑誌品川陣居は明治28年生まれ
70
19021ボッタラ焼駄菓子屋東京19021908P34
駄菓子屋の瀬戸物の火鉢に鉄板がのせられた
P35
ボツタ焼
火鉢に炭団が2つ
大が一銭(湯のみに一杯)小にして五厘(茶のみ茶碗に一杯)のウドン粉の溶き水 杯に蜜 焼けると蜜をつけて食べる
漫談ボツタヤキ 大辻司郎
食道楽昭和四年五月号所収
雑誌大辻司郎は明治29年生まれ
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19031文字焼屋台東京19031903藤田タカ鶴や亀を作る。今は文字を焼くことはない。神田区鍋町に藤田タカという名人がいて籠入りの蕎麦を得意とする。文字焼の起源は太宰府天満宮の菅原道真。焼板は鉄製が多い。ボッタラ焼は駄菓子屋で焼く。読売新聞明治36年4月30日朝刊新聞実業の栞(安藤直方, 多田錠太郎 1904年)および無資本実行の最新実業成功法(実業力行会 編 1910年大阪)がこの記事の内容をコピーしている
ただし無資本実行の最新実業成功法では、関西では「落し焼」というなど、出版地関西の情報を追加している
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19032ボッタラ焼不明不明19031903”先ずボッタラ焼の種位なドロドロの物にして”食道楽 秋の巻 村井弦斎 食道楽(下) 岩波文庫所収本(フィクション)村井弦斎は文久3年生まれ
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19033文字焼屋台東京19031912P82
”食用と玩具をかねた子供相手の店は、この屋のほかに、しん粉細工と文字焼があった。(中略)文字焼と云うのは、うどん粉にちょっぴり炭酸を入れ、溶いたものを小さな竹柄杓で鉄板のうえに亀の子とか鯛、宝船なぞの形に垂らしながら図柄を描いて焼きあげ、紙縒で手に下げるようにしてくれた。それにお柏といって丸く焼いた上に砂糖を載せたり、黒豌豆を載せたりしたのを紙に包んでくれた。”
明治の銀座職人話 野口孝一明治31年生まれの浅野喜一郎の回想録
おおよそ明治36,7年から大正初年に渡る記録
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19034文字焼屋台東京19031912P181
“鍋町角の道端に白い壁を背にしん粉細工のおじさん、新勝という常床店があった。(中略)もう一方では、丸い鉄板の上で亀の子、お柏、帆かけ舟などを焼く文字焼をやっていた。”
明治の銀座職人話 野口孝一明治31年生まれの浅野喜一郎の回想録
おおよそ明治36,7年から大正初年に渡る記録
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19041文字焼屋台東京19041904読売新聞明治36年4月30日朝刊のコピー実業の栞 安藤直方 多田錠太郎
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19042お好み焼き屋台東京19041910P95
”お好み焼。これは一名龜の子焼とも、或はドンドンやとも云つた。太鼓を叩いて來るからである。火の上に掛けた鐵板の上で、うどん粉を水でといたものを燒いて、これに餡を入れたり、豆や乾し蝦を入れたり、それに蜜を掛けたりするが我々が望むものを立所にこしらへて呉れるので面白かつた。近所へ來るのに一人非常にうまいのがゐて、僕は感心して見たものである。就中その人はオハチが上手だつた。つーつと一本太い線を引き、別なところにくるくると圓を描いてそれを塗りつぶすと、それでオハチの蓋が出來た。それから、太い長方形をつくり、別に丸形をつくると、それでオハチは完成した。オハチの中へ豆を入れて渡して呉れた。パンヂウなぞあの味に劣ること幾何なるか知らない。”

”下手なのに掛ると紅をうどん粉の中に入れて下繪を描く、そんなのにうまいのがあつたためしはない。”
食道楽昭和五年四月号
追憶片々草(一) 高橋邦太郎
雑誌高橋邦太郎は明治31年生まれ
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19043亀の子焼屋台東京19041910P95
”お好み焼。これは一名龜の子焼とも、或はドンドンやとも云つた。”
食道楽昭和五年四月号
追憶片々草(一) 高橋邦太郎
雑誌高橋邦太郎は明治31年生まれ
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19044どんどん焼屋台東京19041910P95
”お好み焼。これは一名龜の子焼とも、或はドンドンやとも云つた。”
食道楽昭和五年四月号
追憶片々草(一) 高橋邦太郎
雑誌高橋邦太郎は明治31年生まれ
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19045文字焼駄菓子屋東京19041910P74
十文菓子屋について
”そして、それらとは別なところにボツタラ燒をさせる設備がある。ボツタラ燒は別名をモンヂヤ燒とも云う”
食道楽昭和五年五月号
追憶片々草(二) 高橋邦太郎
雑誌高橋邦太郎は明治31年生まれ
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19046ボッタラ焼駄菓子屋東京19041910P74
十文菓子屋について
”そして、それらとは別なところにボツタラ燒をさせる設備がある。ボツタラ燒は別名をモンヂヤ燒とも云う”
食道楽昭和五年五月号
追憶片々草(二) 高橋邦太郎
雑誌高橋邦太郎は明治31年生まれ
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19047ボッタラ焼19041904子守の少女の発言
”二銭貰つたから、金米糖と蜜豆と団子を買って、ぼツたら焼して遊ぶのよ”
風俗画報明治三十七年二月号
女百姿
雑誌明治東京逸聞史2より孫引き
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19048籠焼き不明大阪19041905P56
”今でもあるメリケン粉で書いてゆくかご焼き藝術は此の頃始つた。今川焼はもっと後”
思ひ出の夜店 岸本水府
上方昭和七年七月号
雑誌岸本水府は明治25年生まれ 12,3歳ごろの話
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19051文字焼屋台東京19051905藤田タカP242-243
文字焼の名人藤田タカの話。縁日などに出る。麻布更科の更科蕎麦の文字焼が絶品。ほかに向島籠入桜餅、猫など。50歳ぐらいの老婆。材料は上等の小麦粉と砂糖、晒し水飴、玉子。園遊会にも呼ばれる。
隠逸伝(初出 新小説第10年第六巻 明治38年6月1日)横山源之助全集第9巻 横山源之助、立花雄一所収
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19061どんどん焼屋台東京19061912P138
銀座お地蔵様の縁日”子供たちはドンドンやきのおじさんが焼く、牛てんや鉄砲まきをまちかねていた”
銀座の詩情 第1 平野威馬雄平野威馬雄は明治33年生まれ
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19062文字焼不明東京19061912母の芥川文はお好み焼きの正式名称は文字焼きだと教えてくれた母の作品 芥川比呂志 日本の名随筆 42 母 水上勉編 所収芥川文は明治33年生まれ
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19071文字焼屋台東京19071907縁日に出る文字焼。柏餅、鯛、お吸物、亀。職人が焼く。文芸界明治38年1号 明治東京逸聞史2より雑誌
87
19072文字焼駄菓子屋東京19071907うどん粉に蜜を加えて銅の板の上で子ども自身が焼く。五厘でも一銭でも。ボッタラ焼ともいう。文芸界明治38年1号 明治東京逸聞史2より雑誌
88
19073ボッタラ焼駄菓子屋東京19071907うどん粉に蜜を加えて銅の板の上で子ども自身が焼く。五厘でも一銭でも。ボッタラ焼ともいう。文芸界明治38年1号 明治東京逸聞史2より雑誌
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19074文字焼駄菓子屋東京19071912P143
明治30年台終わりから40年代の駄菓子屋。一尺角ぐらいの鉄板が箱火鉢に。1銭でそばちょこぐらいの猪口にウドン粉を水で溶いたような液体。茶さじですくって鉄板にたらし、真鍮の小さいヘラですくって食べる。その際蜜か何か甘みを塗って食べたような気がするが記憶がはっきりしない。もんじやきと読む。
銀座育ち 小泉孝 小泉和子小泉孝は明治34年生まれ
90
19075文字焼駄菓子屋東京19071912P205
駄菓子屋の火鉢の上でもんじゃ焼き
江東ふるさと文庫5 古老が語る江東区の町並みと人々の暮らし 下証言者の加藤タネは明治34年生まれ
91
19076文字焼屋台東京19071912P8
明治末年の縁日。文字焼とお好み焼が両方出てくる。
”縁日の裸電球やアセチリンの灯火の下では、いろいろの店が客を呼んでいた。ブドウもち、いりたて豆、いり豆屋、金太郎あめ、あめ湯、みかん水、蓄音機、お好み焼、文字焼、あめ細工、しんこ細工、ほうずき屋、山吹鉄ぽう、うつし絵、人体解ぼう、記憶術、源水のこままわし、甘酒、さらし飴の実演、揚まんじう、立川文庫、たけなが屋、十銭均一、やき栗、やき芋、電気あめ(綿菓子)手品(馬の尻尾)(明治末年)”
かんだ三号初春号
おででこ野郎 田中鼎三
雑誌
92
19077お好み焼き屋台東京19071912P8
明治末年の縁日。文字焼とお好み焼が両方出てくる。
”縁日の裸電球やアセチリンの灯火の下では、いろいろの店が客を呼んでいた。ブドウもち、いりたて豆、いり豆屋、金太郎あめ、あめ湯、みかん水、蓄音機、お好み焼、文字焼、あめ細工、しんこ細工、ほうずき屋、山吹鉄ぽう、うつし絵、人体解ぼう、記憶術、源水のこままわし、甘酒、さらし飴の実演、揚まんじう、立川文庫、たけなが屋、十銭均一、やき栗、やき芋、電気あめ(綿菓子)手品(馬の尻尾)(明治末年)”
かんだ三号初春号
おででこ野郎 田中鼎三
雑誌
93
19078ボッタラ焼屋台東京19071913P32
麹町平賀天神の縁日
”当時は天神の境内はもちろん、 今、堀久作さんの邸のあるあたりまで一帯に夜店がたった。天神の境内の両側は今のおこのみ焼、われわれの時分はボッタラ焼の店がずっとならんでいました。”
明治百年を語る古老のつどい
千代田区編
寺田治郎作(明治34年生まれ)の子供の頃の証言
94
19079文字焼駄菓子屋東京19071917p50
明治末期から大正はじめの浅草馬車道の駄菓子屋
”冬になるとモンジャ焼と云うものをした。土間の上りかまちの 所に大きな火鉢と鉄板を出して、その上でウドン粉に桜エビの乾物などまぜて溶いたものをジューと焼いたりする。おこのみ焼と近頃称しているアレである。どうしてモンジャ焼と呼んだのか知らないが、「三人寄れば文殊の智恵」というあれで、この火鉢の周囲にはいつも三四人の子供が集まるから誰ともなしに文珠焼、それを浅草の子供 はモンジャ焼と訛ったのかも知れない。料金は、いづれにしても一銭が単位であった。”
あまカラ1955年11月号 駄菓子の味 桶谷繁雄雑誌
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19081ボッタラ焼駄菓子屋東京19081914P100
ボッタ。鉄板の上にうどん粉を流す。1銭。
古老がつづる下谷・浅草の明治大正昭和1証言者の濱中藤一郎は明治35年生まれ
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19082文字焼駄菓子屋東京19081914P40
もんじやき
”砂糖で水ときしたうどん粉を、鐵盤の上で焼いて喰ふ”
”湯のみかなにかに、うどん粉のといたの五厘か、一銭”
”小さなへらで取って食べる”
駄菓子の追想 小川正之助
江戸と東京昭和14年5月号所収
雑誌キャラメルがではじめたころのはなし。(注 明治41年 森永製菓ポケットミルクキャラメル発売 大正3年 森永ミルクキャラメル発売)
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19083文字焼屋台神奈川19081914P17
”その六道の辻に、毎日「もんじ燒き屋」が出てゐた。 私は又その「もんじ燒き」が大好きで、よく買ひ喰ひしたのだが、ウチの親父に「大道商人のものなど喰べるな。」と叱られて仕方なく道具を買つて貰つて家でこしらへてみたのだが、手製 の「もんじ燒き」では美味しくないので、そっと內證で買ひに行つたりした。今、一流の喫茶店でホットケーキなどなど片假名でメニユーにのつてゐるから、ウチの親父だつて「もんじ燒き」の進化したものだとは思ふまいが、あれは要するにアメリカのもんじ燒きである。”
駄菓子 北林余志子
食道楽昭和十年五月号
雑誌北林余志子は明治35年生まれ
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19091お好み焼き屋台東京19091915P142
”車ひっぱってくるのは、お好み焼き屋。細長くして、底こしらえたお鉢の中に、黄粉と蜜をまぜて、しゃくえるようにしゃもじつけたり、エンドウ豆といくらか甘味いれて、おせんべみたいに焼いたのを売ってました”
江東ふるさと文庫6 古老が語る江東区のよもやま話証言者の北畠栄子は明治36年生まれ
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19092文字焼屋台東京19091909もんじやぎ賣(原文ママ)の写真。車付きの屋台。焼台が高くて子どもは焼けない。太鼓がある。風俗画報399 明治42年発行
東京市中世渡り種
雑誌
100
19093どんどん焼、文字焼、亀の子焼屋台東京19091915P90
”そして、やつぱり、縁日の小さな屋臺では、ドンドン燒きが幅を利かしてゐた。”
”ドンドン燒きとは、現今のお好み燒の元祖であるが、お好み燒とは、大分違ふ。”
”第一、現今流行のお好み燒は、ちやんと店を構へて、お座敷でやつてあるのがゐるが、その頃のは、外で、屋臺の立賣りが専門だつた。”
”それに、いまのは、甘いものばかりでなく、海老を入れたり、肉を入れたりしてゐるが、その頃のは、甘いの一方であつた。”
”それも、鐵板の上へ、オヂさんが、うまいことウドン粉の溶いたのを、たらたらとたらして龜の子の形を焼き上げる。”
”龜の子ばつかりだった。”
”だから、ドンドン燒きは、はじめ龜の子燒と云つてゐたやうだ。龜の他に、器用なオヂさんになると、壽といふ字を、くづして、書いて燒くのもゐた。”
”それで、これを文字燒(モンジヤキ。又、これを子供が、なまつたのか、モンジヤヤキとも云つた)とも云つたのである。”
”だから、現在の、お好み焼と違つて、やつぱり一つの細工もの、オヂさんの腕を見せる藝術品だつたのだ。”
駄菓子巡禮 古川緑波
淡交1954年9月号
雑誌古川緑波は明治36年生まれ