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タイムスタンプ名前第1章について考えたこと。第2章について考えたこと。第3章について考えたこと。 第4章について考えたこと。 第5章について考えたこと。 第6章について考えたこと。 第7章について考えたこと。 全体について考えたこと
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2024/09/22 9:23:35おがしょどんなものにも神が宿っているというアニミズム発想はとても単純であるが、奥深い。仮に社殿が消失しても、そこから木が生えればそれが信仰の対象になる。こうした想像上で物語を綴るのはとても高度な知的営みであるといえる。
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2024/09/22 9:25:19おがしょ果たしてそれは擬人法か?という発想が面白い。現代の考え方にいかに我々は支配されているのかがわかる。神様がそこに「ある」のであり、それをありのままに詠んでいるにすぎない、と考えるととても、エモい。
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2024/09/22 9:28:03おがしょ人格、神格のほかに、地格が居るのが面白い。これが国津神と天津神という考えにもつながっているのだろうか。
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2024/09/22 9:56:12おがしょそういえば昔あるおばさんから「一つだけ欺けないものがあるの、何かわかる?」と聞かれて、「おてんとうさまですかね」、といったら「そうじゃないの、自分よ」っていわれたことがある。しかし本当だろうか。あるいみ神を悟ることは、欲求にまみれた自分を欺くことではないだろうか。むしろ、自分を欺いていることを神だけが見透かしているのではないだろうか。一つだけ欺けないものがあるとしたら、やはりそれは神ではないだろうか。本全体で「古代的思考」という言葉を使っている。「」に入っているように、一般的な用語ではないし、本書は学術書ではないので、学術的に解明された事実ではなく、あくまでも筆者のエッセイとして読むことが大事であろう。しかし、文学作品や歴史的事象から当時の人々の考え、いわば時代精神のようなものを読み込む作業は大変貴重で、高尚である。そして、これがまさしく文学を研究する意味であると、感じる。
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2024/09/22 9:58:03おがしょ和を貴ぶ原恩主義にも裏表がある。他方で、マナーを共通しない人々は排除されるであろうし、習慣を逸脱すると(たとえばお布施が安いなど些細な事)で村八分にあってしまう。ある意味現代人にとっては息苦しいのではないだろうか。そういった負の側面をかかえつつも、いかに共同体を保持していくべきか。保守主義の課題である。
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2024/09/22 10:00:18おがしょ誰がいったか、「解説を読みに博物館にいっているのか」と問いている人がいた。それを聞いてから作品を集中してみるようにしたが、やはりわからない。そんな時、49頁からの一節は身に染みる。「知識ではなく、感じることの方に重きが置かれている」。(それからこのことはあとがきにも書かれている)展示されているものがなんだか頭でわからなくても、なんかスゲーもんをいま目にしているんだな、昔の人はこんなのつかっていたんだな、と感じられれば、それでよいのであろう、と楽観的になった。
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2024/09/22 10:02:13おがしょカムナビというのは初めて聞いたので、単純に興味深かった。知らない万葉集を味わえたこともこの章の醍醐味である。齋く、斎う、という読み方・意味も初めてしって、だから斎藤さんって多いんだな、となんとなく感じた。
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2024/09/22 10:04:26おがしょ「ミモロの 神の帯ばせる 泊瀬川」の句が好き。川を山の木綿の帯と捉えるのは何とも雅だ。
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2024/09/22 10:06:07おがしょメモ:ミモロ=明日香というイメージがでていた。祝(はふり)と呼ばれる宗教者によって管理されていた森がミモロ(78頁)
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2024/09/22 10:14:39おがしょ指標物、とくにカキが禁忌を生み出す、という考えが非常に興味深かった。たんに囲っているだけにみえて、実はそこに結界が張られているというのは、感慨深い。稜線を作者がイメージにしているのが面白かった。そういえば乳頭山というのがあるが、これは秋田側からみたら乳頭にみえるからそういう名前だったらしい。他方で岩手川からみると鳥帽子にいえるから、鳥帽子岳。ビルといった高い建物がなかった時代、中心の町を360度パノラマで山が囲っているのは、今とはまったく異なる感覚を生むのだろう、と改めて思った。
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2024/09/22 10:19:27おがしょビが場所を示すということは知らなかった。川ビ、浜ビ。少しかわいい。カムナビを山と直接考えず、助詞の「ノ」に注目して、必ずしも山岳である必要がない、と考察する点が、興味深かった。
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2024/09/22 10:23:12おがしょ飛鳥京592-645。カムナビが明日香・藤原の時代に、近き守り神として機能した。天皇の都を護る守護神となった。このように、その地のたんなる一柱の神を巻き込んで天皇と結ばれていいく姿は、なんとも日本らしく、ほほえましく感じる。
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2024/09/22 10:25:06おがしょ歴史に立体感を感じる。何々時代はこうだった、とただ単調に論じるのではなく、おじいちゃん・おばあちゃんが暮らしていた明日香を偲んで、詠んだのだ、というのもなんともエモい。1000年後、2000~2100年はこんな時代だったんだと歴史教科書にはざっくり載るかもしれないが、これが、バブル期を経験した大人世代を、2020年代の若者は妬んだのだ、と分析されれば、なんだかとても親近感がわかないか。
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2024/09/22 10:26:51おがしょカムナビから大和三山へと宮都を護る役割が変わっていったことも感慨深い。一時のブームの終焉を感じる。そして過去のものになればなるほど、それが遠い、尊いものとなる。このようにして歴史は歩まれていく。
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2024/09/22 10:34:13おがしょ明日香に住む人々は、飛鳥寺や橘寺を今日の東京タワーや東京スカイツリーを眺めていたようにみていたはずである(138頁)、というイメージがとてもわかりやすかった。
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2024/09/22 10:34:58おがしょメモ:天皇は、献上された新穀を食することによって、大和の統治者としての力を得る(146頁)。それとともに献上歌もある。
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2024/09/22 10:37:09おがしょメモ:風俗歌の献上には、その国の魂を奉る意味合いもあるので、その国を代表する聖なる山や聖なる川を謳いこむ必要があるのである。つまり、この常套表現は、その土地を代表する神を表象する歌表現といえる(148頁)
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2024/09/22 10:38:01おがしょメモ:仰ぐ、昇という二つが、聖なる山に対する接し方(157頁)。
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2024/09/22 10:40:36おがしょメモ:神の帯にせる、神の帯ばせる、という表現は、国津神、国魂のいます山から流れる、聖なる河を歌う常套表現であった(150頁)ミモロをどこかと特定する必要もない、という点に日本の宗教の広い普遍性を感じる。そこに神様がいると思ったら神様なのだ。
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2024/09/22 10:44:27おがしょ子育ての話が書いてあった。この前読んだ小林秀雄のなかでも、教養とは耕されることである、という趣旨の事がかいてあった。植物のイメージである。同じように子どもを何かの型にはめて鋳造するのではなく、自由にのびのびと太陽に向かって伸びるように育てる、これが本来の子どもの育て方ではないだろうか。他方で七歳まで現世と霊界の狭間にいたので、間引きも良く行われていたらしいが‥‥。
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2024/09/22 10:49:32おがしょ近代合理主義について、「すべてを確率の問題として処理し、すべてを一つのシステムとして理解しようとする考え方」(169頁)、に対する違和感を私も共有する。この世には不確実なものばかりである。昨日まで敵対していたものが、今日は友好的になる、その逆もいわんをや。そのきっかけがささいであり不合理なことであることもしばしばである。したがって、不確実な世界に説明項を求めるのが人間の性にしても、それを一つのシステムに落とし込むことには限界がある。自然を説明してくれる「神聖なるもの」の複数性は、その一律性をぬぐってくれる。すなわちさまざまな性格をもち、長短をもっているので、かならずしや合理的にものが運ばない。さまざまな失敗をくりかえしながら、人間が有限なるものへとなっていったことが理解されていくのである。上に続けて、人間は未知数を抱え込む存在である、という言葉がある。神に祈れば、鎮まってくれるときもあれば鎮まってくれないこともある。よいこともあれば、害を及ぼすこともある。こうした複数性が日本人の物の見方を支えているように思える。
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2024/09/22 10:50:15おがしょ「何人も赤ん坊とは契約できない」(175頁)という表現が好き。
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2024/09/22 10:52:08おがしょ国津神の要求を察知する能力のない天皇は、力がない、と考えられていたことが『日本書紀』の記述が読み解かれていた。あの雄略天皇も、大物主神のまえにおびえ震えてしまう。斎戒沐浴をして、身を清めなければ、神の怒りを買う。そういった神を「慮る」力が、天皇の力量ともいえるであろう。
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2024/09/22 10:53:14おがしょメモ:神は、怒りっぽくて、気まぐれで、制御できない神。だから泣く子のお守をするように、お守りしなくてはならない(174、186頁)
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2024/09/22 10:54:41おがしょメモ:大物主神は国を亡ぼすほどの祟りをなす神であった。それを祀ることこそが天皇のマツリとマツリゴトの本願とすること(190頁)。そして神の考えを察知する能力が天皇の力量であった。
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2024/09/22 10:58:30おがしょ第8章。人はうつせみである、について。現実世界に生きて存在する人であり、この世界そのものである。それは人が神の臣下(うつしみお)だからである。たとえ天皇でも人間である限り、神の臣下であり、神と争うことなどできやしない。古事記では崇神天皇など百歳を超える長寿として描かれている。しかし、重要な点は、天皇の年齢が有限になって描かれているということである。我々はこのうつせみから抜け出すことはできないのだから、神の国を歴史的に支え、紡いでいく一人として自覚をもち、せいいっぱい生きていくしかないのであろう。
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2024/09/22 11:01:42おがしょ折口信夫の『天子非即神論』も読んでみたいところ。万葉集では天皇は神と讃えられ、自然がまるで天皇の奉仕者のように描かれている。しかし、神らしく振る舞うときにのみである。やはり天皇は自然の神々の奉仕者である。天皇は儀式や行幸のなかで、時して神と讃えられた。もちろんそれは素晴らしいことであり、人間の英知である。私たちはそれをただフィクションとあざ笑うのではなく、それが1500年も受け継がれ、信じてきた、その人々の努力に敬意を示すべきであろう。
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