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1 | 名称 | 区 | 地区 | よみがな | 標識の説明 |
2 | 馬橋みち | 杉並区 | 成田東 | うまばしみち | 五日市街道の「馬橋みち」といわれた古い道で、 急坂な難所の一つでした。 |
3 | 御成門通り | 品川区 | 北品川 | おなりもんどおり | 江戸時代のはじめに品川御殿と呼ばれる将軍の館が設けられていました。とくに三代家光によって東海寺が建てられてからは、東海寺へのお成りや茶会、鷹狩り時の休息所などとして品川御殿を訪れています。将軍がお成りになった道筋としてその名が残ったとも推定できます。 |
4 | 小泉長屋 | 品川区 | 北品川 | こいずみながや | 北品川宿の字名で、面積五反八歩(四九八四平方メートル)の地域です。寛文四年(一六六四)に板倉主税の抱地になった地で、その後、祐心という人物の所持となって百姓地となり、寛政のころ(一七四八〜五〇)に祐心が小泉屋金左衛門に譲り、同地に貸長屋を建てたため小泉長屋と呼ばれました。 |
5 | 虚空蔵横町 | 品川区 | 北品川 | こくうぞうそんよこちょう | 東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、現在は虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には、毎月13日にお参りをしていました。今は毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露店が出店しています。 |
6 | 五十間道 | 台東区 | 千束 | ごじゅっけんみち | 日本堤から吉原大門までは五十間道と呼ばれ、三曲りの道となっていた |
7 | 清水谷 | 千代田区 | 紀尾井町 | しみずだに | 紀尾井町を南北に貫いているこの公園の前の通りは、中でも、公園を出て右に上がった交差点の辺りは江戸時代から「清水谷」と呼ばれてきました。尾張屋版江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。それは周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。 |
8 | 陣屋横町 | 品川区 | 北品川 | じんやよこちょう | 本来は東海道から目黒川に架かっていた大正橋に抜ける横町を呼んでいましたが 現在は山手通りから入る横町に変わっています。宝永から正徳年間(一七〇四〜一七一五)の頃この横町の北側に本陣があったことによる名称です。 |
9 | 竹屋横町 | 品川区 | 北品川 | たけやよこちょう | 東海道から目黒川本流(現在のなぎさ通り)に至る横町で、一八〇〇年頃品川宿を描いた「東海道分間延絵図」に記載があります。「地記御調書上」に「相分り不申候」とあり、地名の由来については不明です。 |
10 | 溜屋横町 | 品川区 | 北品川 | ためやよこちょう | 法禅寺の前から海岸へ出る横町で、利田新地へ渡る鳥海橋(後の品川橋)に海岸線で通ずる横町です。 |
11 | 道灌通り | 品川区 | 北品川 | どうかんどおり | 江戸時代の地誌のひとつ「江戸砂子」などのほか多くの書物の中に「御殿山は太田道灌が居住した地と言い伝えがある」と書かれています。道灌ゆかりの地として通りの名となったのでしょう。 |
12 | 戸越銀座 | 品川区 | 戸越 | とごしぎんざ | 「戸越」という地名は、江戸を越えた土地という意味の「江戸越え」に由来すると言われています。当時、この地に住む人々は「とごえ」 と呼んでいたそうです。その後、大正12年の関東大震災で被害を受け た銀座(東京都中央区)から、当時ガス灯用のガス発生炉用耐 火レンガとして使用されていた白レンガを戸越の人々が譲り受 け、当時水はけの悪かった戸越の大通り等に再利用しました。現在日本には数多くの銀座と名のつく地名がありますが、こうした経緯によって日本で1番はじめに銀座という名前を譲り受け、「戸越銀座」という地名が誕生しました |
13 | 日本橋 | 中央区 | 日本橋室町 | にほんばし | 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 |
14 | 馬車みち | 杉並区 | 久我山 | ばしゃみち | 明治の頃、井の頭行の馬車が通った道 |
15 | へび道 | 文京区 | 千駄ヶ谷 | へびみち | 藍染川(現在は暗渠)の跡 台東区と文京区の境 |
16 | 馬込文士村散策の道 | 大田区 | 山王 | まごめぶんしむらさんさくのみち | 今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。馬込の大根畑の真ん中に若い、尾崎士郎・宇野千代が移ってきたのは大正十二年(一九二三)のこと。士郎は文学仲間を次々に誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。大正十二年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。 |
17 | 道しるべ | 渋谷区 | 恵比寿南 | みちしるべ | 江戸時代中期の安永八年(一七七九)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀仏、その左側にゆうてん寺道、右側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒訪問から別所坂を登り麻布を経て江戸市中に通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そしてこの台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけでなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味を持った道しるべが必要だったのでしょう。 |
18 | 薮下通り | 文京区 | 千駄木 | やぶしたみち | 本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「薮下道」とも呼ばれ親しまれている。 |