ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZAAABACADAEAFAGAHAIAJAKALAMANAOAPAQARASATAUAVAWAXAYAZBABBBCBDBEBFBGBHBIBJBKBLBMBNBOBPBQBRBSBTBUBVBWBXBYBZCACBCCCDCECFCGCHCICJCKCLCMCNCOCPCQCRCSCTCUCV
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879879稲垣足穂 一千一秒物語2003/10/29
 これまでタルホについては何度も綴り、何度も発言してきた。ぼくの青春時代の終わりに最大の影響を与えたのだから当然だが、最近はタルホを読まない世代というか、稲垣足穂の名前すら知らない連中ばかりがまわりに多くて、いちいち説明するのが面倒になってきた。ふん、もう教えてやらないぞ。自分で辿れ!
 けれども先だって鎌田東二君が主宰しているらしい東京自由大学という、名前は凄いが教室は神田のビルの小さな一室というところで、タルホについて話してくれというので、久々に気分に任せたタルホ語りをしてみた。「薄板界」に「AO円筒」というイメージを被せて最初に話してみたら、何人かのタルホ好きを除いて目をまるくしていた。そうなのだ、タルホに目をまるくすること、それこそぼくがタルホを伝えて皆にそうなってほしかったことだった。
 だからこのときの語りは、いくぶん気持ちがよかった。よかったのだが、やはりタルホの文章を諸君が読んでいるかいないかということは、ちょっと決定的なのだ。
 それは本当に曾て在ったことではないはずのに、なんだかまるで記憶が知覚に追いつくというように、そのことをとっくに知っていたと思えるようなことがある。知っての通り、ぼくはこれをしばしば「未知の記憶」とよんできた。
 この感覚を最初に論じたのはベルグソンであるけれど、そのベルグソンの持続と瞬間のエスキースを語った直後、タルホはこんな説明だけではまだ何も説明したことにならないと言って、堤中納言の「みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ」をあげ、さらに六月の都会の夕暮の光景とテニソンの詩を引き合いに出して、そこに自動車のエグゾーストの芳香に青き音楽が交じり、ムーヴィーフィルムの切れっ端がひょぃひょい躍るのはなぜかと問うて、こういう感覚はむしろ「宇宙的郷愁」とでも言わなければ気がすまないことなのではないかと書く。
 これは『美のはかなさ』の冒頭に書いてあることで、このエッセイを五分の一ほど読むだけでも、諸君の人生はみごとに一変するはずなのである(『美のはかなさ』は本書に収録されている)。
 しかしもうちょっと読みすすむと、その「未知の記憶」あるいは「宇宙的郷愁」ともいうべきものが、そもそも1900年ちょうどのクリスマスが近い12月にマックス・プランクが量子定数“h”を発表したときから突如として六月の都会の夜に広まったもので、それは「世界線の不連続性」にかかわる秘密とともに都会の隅々に「薄板界」として洩れ出していたことが見えてくる。
 さらにすすむと、このクリスマス近くの1900年12月某日というのは、実は稲垣足穂が大阪船場に生まれた刻限近くのことであって、この世界不連続性にまつわる消息とは、ここに生まれたタルホ少年がその後に神戸六甲は摩耶山近くの小学校で飛行少年に憧れて、麦藁帽子のリボンの結び目に竹のプロペラをつけて疾走しはじめた夢見心地と浅からぬ因縁をもっていたことに、しだいに気がついていく。
 やがてタルホ少年はこの消息を求めてRちゃんやSちゃんとお尻遊びをしつつ、本当の宇宙よりも「黒板に描かれた白墨宇宙」のほうを、実在の芸術よりもそれがもたらす「髭のついた印象」のほうを、本物の青いお尻よりも「A感覚の幾何学」のほうを、まるで天体模型のように大切にするのであるが、なぜそのようにするべきなのかということが、その後のタルホのすべての文章の存在学になったのである。
 こうして1923年のマニフェストとして『一千一秒物語』が残されることになる。それは銀紙とボール紙で作られた「世界線の不連続性」のための模型細工なのである。
 ついでに言っておくけれど、この『美のはかなさ』こそはぼくが最初にオスカー・ベッカーと出会った記念すべき紙碑であり、ぼくが最初にフラジリティの存在学に向かう勇気を与えた香ばしい手榴弾だった。
 本書新潮文庫版でいうなら、288ページから「第二部・芸術家の冒険性」が始まるのだが、その冒頭に“fragility”がバヴァリア製の脆うい色鉛筆の赤い芯の“こぼれ”とともに顔を出す。
 ここは見逃してはいけない。とくにタルホがカントの「無関心の快楽」を俎上にしながら、シェリングやゾルゲルの「壊れやすさ」をへて、フロイト、ハイデガーを駆使しての「無意識の無限性」をフラジリティに託すあたり、この「よるべなきもの」の「よるべ」を求めるタルホの思索の独壇場を味わうべきである。
 さて、『一千一秒物語』である。これはタルホが17歳くらいからちょこちょこ綴っていた「夜景画の黄色い窓からもれるギターを聞いていると、時計のネジがとける音がして、向こうからキネオラマの大きな月が昇り出した」に始まるハイパーコントとでもいうもので、さっきも書いたように1923年に未来派の玉手箱のように上梓された。
 これを最初に読んだときは、たまげた。こんなにシャレたものが世の中にあること自体が奇蹟のように思われた。まずは次のハイパーコントの3つ、4つを読まれたい。
 ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン! 黄色い煙になってしまった頭の上でキャッ! 
 窓をあけると 尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた。
「お月様が出ているね」 「あいつはブリキ製です」 「なに、ブリキ製だって?」 「ええどうせ旦那、ニッケルメッキですよ」
昨夜 メトロポリタンの前で電車から跳び下りたはずみに 自分を落としてしまった
ある晩 露台に白っぽいものが落ちていた 口へ入れると冷たくて カルシュームみたいな味がした 何だろうと考えていると だしぬけに街上へ突き落とされた とたん 口の中から星のようなものが飛び出して 尾をひいて屋根のむこうへ見えなくなってしまった 自分が敷石の上に起きたとき 黄色い窓が月下にカラカラとあざ笑っていた
 ここは「薄い街」なのである。ここでおこるルールは口元であっというまに移ろっていく。だから自分以外の人間はまったく出てこない。すべては天体と関与して、かつどんなことも一瞬のうちに起承転結になる。誰が「どうして?」と問うても、虚空には笑い声だけが響いて、何も答えはない。
 タルホがここでショーイングしてみせたのは、存在学に雲母の音がする自己撞着である。論理学や現代思想がしばしば自己言及系を問題にしてきたなかで、これはこれはなんとも唐突な論理の脱出であり、主体性の打擲だった。ぼくはとりわけ次のハイパーコントを読んで、胸のプロペラが唸り声をあげたのを聞いた。
 ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつむくとポケットからお月様がころがり出て 俄雨に濡れたアスファルトの上を ころころころころ どこまでもころがっていった お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった。
 この「お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた」は、これまでのあらゆる哲学と論理学の将来をポンプで圧縮して、フッと紙風船にして飛ばしてしまったような破格の魅力をもっている。
 ぼくが「主体性」という用語を極端に嫌ってきたのは先刻ご承知のことだろうとおもうけれど、これほど胸のすく表現で主体性を笑いとばした一文はない。しかもこの主体性はたちまち二つに分かれ、しだいに互いの間隔が遠くなって、結局は自身を見失ってしまうのである。これは、バンザイ、だ。
 しかし、バンザイはこれで終わるのではない。知っての通りタルホには「模型少年」「天体嗜好」「飛行家願望」とともに「少年愛の抽象化」という他の追随を許さない“お題”があるのだが、この少年愛議論に先駆的一石を投じた『A感覚とV感覚』(これも本書に収録されている)の、次のような細部に存在の消息を及ばせる一節こそが、タルホの主体性の彼方の存在学の面目躍如というところなのである。
 短いコントを散りばめた『一千一秒物語』はこんなふうに続行連打されるのだ。最後の一行まで、ご賞味いただきたい。
例えば、かれらがいましも玄関の上り框に腰をおろし、うつ向いて、新しい編上靴の緒を結んでいるとすれば、かれらは何事を想うであろうか。なんだか靴をおろすのが惜しいと思う。この惜しいという気持はいつかそんな靴の内部に足先を入れて、しかもこんなにまでぴったりと合っているということを自覚している自分自身の問題にまで移行している。ではこの、底部まで艶出しされた新しい靴を穿いた自分はどうありたいと云うのか? 
 綺麗なリノリュームや坦々としたアスファルトの上にのみありたいのか。コトコトと舞台の床を鳴らして、何か芝居の一段をつとめたいのか。はたまた塵一つない自動車の操縦席に腰をうずめてクラッチの上に載っけてみたいのか? いっそ、この靴をはいたまま何か手荒に取扱われたいのである。
 話はたんに靴なのだ。誰もがどこかで感じている靴との出会い。それなのに、その靴と足が出会う一刻だけをここまで念入りに記述する。この尖端の消息に関する記述があってこそ、タルホは靴と足の背後に控える「AとVとP」にまつわる前代未聞の解読を一千一秒間にわたって、展開できるのである。
 その議論を一度も読んだことのない読者のために一部を披露すれば、V感覚(ヴァギナ)はA感覚(アヌス)から分離した片割れなのである。Vはその荒々しい扮装にもかかわらず、その一部のKをどこかで問題にしないかぎりは動揺しない代物である。けれども男性が偉ぶるP感覚(ペニス)となると、それ以下のもの、その出来ばえにしてVを裏返して突起されたものにすぎず、いつだって慌ただしい種蒔き器械を任せられているだけの、つまりは肉体の外部に暫定的に取付けられたコックの身分なのである。
 これに対してA感覚は、口腔から肛門に突き抜ける無底のAO円筒をきずきあげている存在学そのものである。すなわちAは感覚の感覚であって、存在の存在である。しかもそのAには、つねに失笑がつきまとう。この失笑こそがAを普遍芸能にも、永遠の少年の痒みにもしてくれる。
 タルホはこうしてA感覚をその存在学の全域のサドルにし、その自転車に少年と飛行機と彗星を一緒に乗せて、六月の都会の夜を疾走する。
 すでに知られているように、タルホは自分が生涯かけて書くものは『一千一秒物語』の脚注にすぎないだろうと予告した。まさにタルホはその予告に違わず、つねにそのようにしつづけた。
 脚注か。ぼくもそんなことを言ってみたいと思ったものだ。しかし何の脚注にすればいいのだろうか。タルホは自分のお尻に脚注をくっつけた。では、ぼくは? そのことを考えると、居ても立ってもいられずに、ぼくは京都桃山のタルホを訪れた。
 この話はまだ書いたことがなかっようにおもうのだが、ぼくが最初に稲垣足穂を訪れたときのことである。そこでタルホが言ってくれたのは、「ちゃんと準備をしたら、あとは好きなようにしやはったらええんや」ということだった。ちゃんと準備をしたら? そうなのだ、われわれは最初に一番小さな模型をつくることなのだ。その模型をつくらずして、われわれは外出してしまいがちになる。
 われわれはどこかに月の人がいると思いすぎている者なのだ。タルホはすでに『一千一秒物語』に書いていた――。
 月の人とは ちょうど散歩からかえってきてうしろにドアをしめた自分であったと気がついた
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6ジョナサン・グリーン 辞書の世界史2000/03/01
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7ベンチョン・ユー 神々の猿2000/03/02
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8新戸雅章 バベッジのコンピュータ2000/03/03
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9丸谷才一 新々百人一首2000/03/04
そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。
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2022/05/1710ルネ・デュボス 内なる神2000/03/07
 われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも2つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。
 インスピレーション(inspiration)が稀薄だということは、いつのまにかわれわれにインスパイア(inspire)が出入りしなくなっているということである。内示してくるものが衰え、外示するものが来てくれない。これでは「ひらめき」が乏しくなる。直観が鈍るのは当然だ。
 トポスにこだわれないのは、場所に対する執着が薄くなっているということである。食う寝るところも住むところも贅沢をいわなければ適当に選べるし、旅をするのも友を訪ねるのもいつでもできるので、特定の場所にはこだわらない。しかしトポス(topos)がどうでもよくなればトピック(topic)もどうでもいいわけで、したがってユートピック(u-topic)にも夢を感じないということになる。
 そんなことを、死んだ父親が残した借金をやっと返しおわって、さて一文なしになってこれからをどうしようかと左見右見しているころに考えていた。1970年の晩夏のことだ。そして、ふいに思い立った。一年後に雑誌を創刊してみようと決めたのだ。オブジェ・マガジン「遊」と銘打ち、そこをトポスとして、さまざまなインスピレーションが飛び交う場にしたいとも決めた。
 場所について本気で考えてみたかったので、「遊」創刊号からしばらく「場所と屍体」を連載した。父の死に遭遇して感じたこと、中村宏の《場所の兆》というタブロオを見て触発されたことを書いた。そのすぐあとベルクソンの卒業論文「アリストテレスの場所論」を読み(そのまま白水社の『ベルクソン全集』をそこそこ読んだが)、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺をあれこれさまよった。
 それから三年ほどしてからだったか、ルネ・デュボスの『内なる神』が翻訳されたのだ。びっくりした。抜きん出た場所論だった。
 デュボスを読むのは初めてだったが、第六章の「場所の永続性」に惹かれて前後を読みすすむうちに、端倪すべからざる生命思想の持ち主であることが伝わってきた。実在のかくれた側面、連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合を対比させながら見るといった問題意識は、ほとんどこの本からもらったもので、それはそのままぼくの知覚や思索のバリアを食い破ってきた。
 いまおもえば生物学者が「複雑系としてのシステム」について言及してみせた最初の、おそらくは最も高度な思想書だったのではないかとおもう。デュボスは1970年代の初期に「多型系・非線形」としての複雑さをめぐって、MITのジェイ・フォレスターと深い議論をしてもいた。
 しかしデュボスがもっとすばらしいのは、「人間の精神」というものをトポスとインスピレーションの交差で語れていたことだった。「測定されたこと」を、つねに「設計されるもの」と「変化するもの」によって照射しつづけようとしたことだった。
 デュボスは1901年にフランスで生まれて十代でアメリカに渡り、前半生を微生物学者としてロックフェラー研究所を中心におくった。
 世界細菌学界のリーダーで、医療世界を一新した抗生物質の研究開発者でもあった。デュボスによって抗生物質が誕生し、デュボスによって抗生物質が広まった。「細菌生態学」というニュージャンルも開拓した。戦後すぐの1945年にはいまでも名著として数えられている『バクテリア細胞』(未訳)を書いた。
 こういう経歴だったから、いかにも微生物化学や医化学技術の最先端に君臨しているように見えるので、最初はそこになんらかの注目すべき思想があることなど期待してはいなかったのであるが、どっこい、そうではなかった。むしろ抗生物質によって何でもクスリに頼ればいいという安易な風潮が広まり、医療技術の発達が自然界と身体界に対する「恐れ」と「畏れ」を稀薄にしてしまったことを反省しつつ、自分はできるかぎり「精神の原郷」のための「内なる神」に言及しておきたいということを強調する、たいへんな思想者だった。
 話題はまさに古今におよび、引用されている発言は多岐にわたっていた。それにもかかわらず、その大半はみごとに厳選されているリベラル・アーツ(教養)であって、その根っこも深いところに突き刺さっている。こうしてデュボスの本のほとんどを読むことになったのである。
 デュボスの場所論は2つの「ここ」に根差している。「生きている場所」あるいは「人間の生きる風土」だ。アリストテレスやベルクソンの場所論には目もくれていない。もっと新しい視点で構成されている。
 デュボスは、場所にはもともと「エンシオスの神」がいると言った。エンシオス(entheos)は“enthusiasm”の語源にあたるギリシア語である。これは「インスピレーション」(inspiration)の語源だ。デュボスは、場所には「内なる神」としてのインスピレーションが潜在していて、このインスピレーションを取り出すことが人間の精神の力であり、そうだとすればそれこそが「場所の精神」のルーツだろうと言ったのである。
 こういうことに気がついた科学者はきわめて少ない。文学者や芸術家は少しく気づいた。D・H・ロレンスが「土地の精神」を綴り、ロレンス・ダレルが「場所と精神」を較べ、ジェラード・マンリー・ホプキンズが「心景」(inscape)ということを言った。建築家にとっては「ゲニウス・ロキ」(地霊)という言葉がおなじみだろう。
 これらには魂や 霊 が出入りしていた。インスピレーションが跳ねていた。ただ、このままでは「科学」にはならない。そこをデュボスは踏みこんで、「地球についての神学」を足場に組み、地球と遊離酸素の関係を吟味しながらしだいに神学的な脚立を取りはらい、ついでは自然という見方だけでは場所にひそむ胚胎の本質が見えないと言って、場所が萌芽させる生命の動向、すなわち有機体としての分子の声に耳を傾けていったのである。
 有機体を哲学するという発想はすでにホワイトヘッドが『過程と実在』(松籟社・みすず書房)などで、あらかたの体系をつくりつつあった。
 だからデュボスもそこに与したことになるのだが、デュボスはその有機体としての活動概念のなかから、正確に生命活動に適応できた動向だけを取り出し、「反応」と「応答」の相違を抜き出した。そのうえで地球と生命の関係、あるいは場所と人間の関係を切り離さずに相互作用として記述できる可能性の探検に向かっていった。
 デュボスの探索はそこにとどまらなかった。あらかた生命の問題を叙述しおえると、ついでは場所というものがその後の人間の共同体によって部落や都市や国家になっていったことを眺め、そこにもう一度、原初の「内なる神」が本気で躍動しているかどうかを調査した。調査の結果は残念なものだった。部落や都市や国家がつくりあげたはずの「文化」はいつのまにか「技術」に取って代わられていた。デュボスはそこに読者の目を導いていく。産業社会や工業社会がすでに「内なる神」を失いつつあることを指摘し、これでは人間の理性はインスピレーションを喪失したままになるだろうという警告を発したのだった。
 デュボスの思想の語り方は独特だ。本書以外でもその語り方をした。数あるデュボスの著書のなかで、いくつかの印象にのこったことをメモっておく。
 順不同でいくが、『生命の灯』(思索社)はタイトルからは想像がつかないかもしれないが、人間を考えるには生命以前の段階から観察を始めて、どこから生命の点火がおこったのかを考えるべきだと主張したものだ。物質がどこから生命になっていくかを考えることが、人間が自然界のどこから人間になるのかということを推理させうると言ったのである。
 『人間への選択』(紀伊國屋書店)は、人類という生物学的な普遍性が人間であることを選んだ理由を考えるには、人文学者も社会学者も自然科学者も「聖地」の特色をちゃんと知るべきだということを提案している。聖地とは何か。パワースポットなどではない。古代中世人が「かたじけないもの」を感じて選地した「聖地」と対面しなさいというのだ。聖地としてのトポスを論じていて示唆深い。
 タイトルが意外な『理性がまどろむ時』(思索社)は原タイトルが『理性という名の怪物』であったことを知れば、その意図の見当がつくかもしれない。17世紀に始まった理性主義が科学を曖昧にしていった意味を問うたのだ。ぼくはフランシス・ベーコンを分析しているところに興味をもった。今日の科学者でベーコンのイドラ(偶像)をめぐる議論の限界を問題にできる科学者など、いなかった。
 大著『人間と適応』(みすず書房)では、デュボスのありったけの知を駆動させた。われわれがとっくの昔から外部環境の諸因子をとりこんでいて、それを一方では栄養として他方では体内細菌として活用しながらも、大気汚染や環境汚染や人為的な化学汚染をふりまいてきたため、さしものホメオスタシスが少しずつ狂いはじめていることを指摘し、このままでは適応と制御の意味を変更せざるをえなくなっていると警告を発した。もっと多因子系の研究が必要だというのである。
こうしたなか、ぼくが気にいったのは『健康という幻想』(紀伊國屋書店)である。これは人類がどのように健康や長寿を求めたかという歴史を、ふつうなら病気の歴史にしてしまうところを180度ひっくりかえして「健康幻想史」にしてみせた。人類が「健康」という観念とそれにまつわるでたらめな規準をつくりあげてしまってから、人間は健やかなるものを失ったという説だ。それを抗生物質の発明者が書くところが、デュボスのデュボスたるゆえんなのである。ただしぼくは、この本によって「健康なんてくそくらえ」という方針を確立させてしまい、おかげで健康から見放されることになってしまった曰くつきの本だった。
 さて、ルネ・デュボスが81歳で亡くなる直前の1982年2月20日、「遊」の内田美恵がニューヨークの自宅に赴いて貴重なインタビューをした。遺著となった『生命の祭祀』(未訳)が刊行されたばかりだった。
 内田はアメリカ領事の娘で6歳から英語を喋り、フォーラム・インターナショナルの通訳者・翻訳者として工作舎に来てからは、ぼくの担当になって多くのセイゴオ・コンテキストを英語にしたり、多くの外国語書籍を一緒に“解読”したりするパートナーになっていた。だからぼくの好みはよくわかっていて、デュボスにぞっこんなのも知っていたので、ニューヨークに行った折に会ってきてくれたのだ。
 23歳まで英語を話せなかったフランス人デュボスと、16歳まで日本語がカタコトだった内田が、場所や風土や言語を通して雑談を交わしながら、生物や人間に出入りするパターンやプロセスの話題を深めていくというインタビューだ。
 そこでデュボスが強調したのが、“Use it or lose it”ということだった。「使うか、失うか」という意味だが、デュボスは生物も人間も社会も、ずうっと「使うか、失うか」を試してきたのに、そこから何を選択していいのかわからないような文明をつくってきたことを、振りかえった。これは科学者がずっとかかえてきた問題、いわゆる「合流させるのか、分離するのか」にもあてはまっていた。
 内田が持ち帰ってきたテープを聞きながらデュボスを偲びつつ、もっと聞いておきたかったことがいろいろあったなあと嘆息した。とくに訊ねておきたかったのは、ぼくにはついつい発生に立ち戻ってものごとを考えるくせがあるのだが、デュボスのように細胞や細菌や微生物のあたりから前後左右に思索と推理の翼を広げるには、どうしたらいいのか。そこにはきっと何らかの“王道”があるようにも思うのだが(仏教でいうなら「中」の思想)、科学者がそのようなミドルウェアの思想をもちつづけられ、そこにいつもエンシオス(インスピレーション)の神を出入りさせられるにはどうしたらいいのかということだった。
 あれからまた20年ほどがたった。まもなく21世紀だ。デュボスは『内なる神』のあとがきを「私は多くの春を過ごしてきた」と書き始めたものだったが、ぼくもそういう幾多の春を思い出しつつ、その著書をくりかえし啄むしかなくなっている。
 デュボスのことばかりではない。大半の本の著者たちが、もはや会えない著者ばかりなのだ。ぼくは本の中で、新たに「エンシオスの逬り」を浴びるか発揮するしかなくなったのである。だったら、そうしよう。あえて既読したものにもう一度触れなおし、エンシオスの着脱に感じいってみよう。
 こうして一週間ほど前から「千夜千冊」という試みを始めたわけである。毎夜、ウェブの中で本を啄んでみようという試みだ。いま第10夜にやっと届いたばかりだ。第1夜が中谷宇吉郎の『雪』、2夜がロード・ダンセーニの『ペガーナの神々』、昨夜が丸谷才一で、そして今夜がルネ・デュボスなのである。
 もう一言、付け加えておきたい。今日的な意味でデュボスの言葉に耳を傾けておいてほしいのは、きっと次のことに尽きているからだ。それは、デュボスが何度も「未来に対する創造性を期待するなら、経済の発展と技術の革新に目を集中させないことだ」と言ってきたということだ。これについては、デュボスが1972年から六年間にわたって国連人間環境主義のアドバイザーを務めたときの、もっと有名な言葉がある。“Think globally, Act locally”というものだ。日本にこそあてはまる。
附記¶デュボスの本はみな出色であるが、おもしろく読み進むには、『人間であるために』(紀伊国屋書店)、『人間への選択』(紀伊国屋書店)、『目覚める理性』(紀伊国屋書店)、『理性がまどろむ時』(思索社)、『生命の灯』(思索社)、『人間と適応』(みすず書房)、『いま自然を考える』(思索社)、『環境と人間』(ブリタニカ)、『パストゥール』(河出書房)などという順で読むと入りやすいかと思う。専門書の『バクテリア細胞』は『細菌細胞』という邦訳が昭和27年に岩波書店が出した。ちなみに、ぼくは大好きなのだが、『健康という幻想』(紀伊国屋書店)は危険な書かもしれない。禁煙運動をしたいような諸君は読まないほうがいい。
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プレフィックス作成
≪01≫  われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも2つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。
≪02≫  インスピレーション(inspiration)が稀薄だということは、いつのまにかわれわれにインスパイア(inspire)が出入りしなくなっているということである。内示してくるものが衰え、外示するものが来てくれない。これでは「ひらめき」が乏しくなる。直観が鈍るのは当然だ。
≪03≫  トポスにこだわれないのは、場所に対する執着が薄くなっているということである。食う寝るところも住むところも贅沢をいわなければ適当に選べるし、旅をするのも友を訪ねるのもいつでもできるので、特定の場所にはこだわらない。しかしトポス(topos)がどうでもよくなればトピック(topic)もどうでもいいわけで、したがってユートピック(u-topic)にも夢を感じないということになる。
≪04≫  そんなことを、死んだ父親が残した借金をやっと返しおわって、さて一文なしになってこれからをどうしようかと左見右見しているころに考えていた。1970年の晩夏のことだ。そして、ふいに思い立った。一年後に雑誌を創刊してみようと決めたのだ。オブジェ・マガジン「遊」と銘打ち、そこをトポスとして、さまざまなインスピレーションが飛び交う場にしたいとも決めた。
≪05≫  場所について本気で考えてみたかったので、「遊」創刊号からしばらく「場所と屍体」を連載した。父の死に遭遇して感じたこと、中村宏の《場所の兆》というタブロオを見て触発されたことを書いた。そのすぐあとベルクソンの卒業論文「アリストテレスの場所論」を読み(そのまま白水社の『ベルクソン全集』をそこそこ読んだが)、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺をあれこれさまよった。
≪06≫  それから三年ほどしてからだったか、ルネ・デュボスの『内なる神』が翻訳されたのだ。びっくりした。抜きん出た場所論だった。
≪07≫  デュボスを読むのは初めてだったが、第六章の「場所の永続性」に惹かれて前後を読みすすむうちに、端倪すべからざる生命思想の持ち主であることが伝わってきた。実在のかくれた側面、連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合を対比させながら見るといった問題意識は、ほとんどこの本からもらったもので、それはそのままぼくの知覚や思索のバリアを食い破ってきた。
≪08≫  いまおもえば生物学者が「複雑系としてのシステム」について言及してみせた最初の、おそらくは最も高度な思想書だったのではないかとおもう。デュボスは1970年代の初期に「多型系・非線形」としての複雑さをめぐって、MITのジェイ・フォレスターと深い議論をしてもいた。
≪09≫  しかしデュボスがもっとすばらしいのは、「人間の精神」というものをトポスとインスピレーションの交差で語れていたことだった。「測定されたこと」を、つねに「設計されるもの」と「変化するもの」によって照射しつづけようとしたことだった。
≪010≫  デュボスは1901年にフランスで生まれて十代でアメリカに渡り、前半生を微生物学者としてロックフェラー研究所を中心におくった。
≪011≫  世界細菌学界のリーダーで、医療世界を一新した抗生物質の研究開発者でもあった。デュボスによって抗生物質が誕生し、デュボスによって抗生物質が広まった。「細菌生態学」というニュージャンルも開拓した。戦後すぐの1945年にはいまでも名著として数えられている『バクテリア細胞』(未訳)を書いた。
≪012≫  こういう経歴だったから、いかにも微生物化学や医化学技術の最先端に君臨しているように見えるので、最初はそこになんらかの注目すべき思想があることなど期待してはいなかったのであるが、どっこい、そうではなかった。むしろ抗生物質によって何でもクスリに頼ればいいという安易な風潮が広まり、医療技術の発達が自然界と身体界に対する「恐れ」と「畏れ」を稀薄にしてしまったことを反省しつつ、自分はできるかぎり「精神の原郷」のための「内なる神」に言及しておきたいということを強調する、たいへんな思想者だった。
≪013≫  話題はまさに古今におよび、引用されている発言は多岐にわたっていた。それにもかかわらず、その大半はみごとに厳選されているリベラル・アーツ(教養)であって、その根っこも深いところに突き刺さっている。こうしてデュボスの本のほとんどを読むことになったのである。
≪014≫  デュボスの場所論は2つの「ここ」に根差している。「生きている場所」あるいは「人間の生きる風土」だ。アリストテレスやベルクソンの場所論には目もくれていない。もっと新しい視点で構成されている。
≪015≫  デュボスは、場所にはもともと「エンシオスの神」がいると言った。エンシオス(entheos)は“enthusiasm”の語源にあたるギリシア語である。これは「インスピレーション」(inspiration)の語源だ。デュボスは、場所には「内なる神」としてのインスピレーションが潜在していて、このインスピレーションを取り出すことが人間の精神の力であり、そうだとすればそれこそが「場所の精神」のルーツだろうと言ったのである。
≪016≫  こういうことに気がついた科学者はきわめて少ない。文学者や芸術家は少しく気づいた。D・H・ロレンスが「土地の精神」を綴り、ロレンス・ダレルが「場所と精神」を較べ、ジェラード・マンリー・ホプキンズが「心景」(inscape)ということを言った。建築家にとっては「ゲニウス・ロキ」(地霊)という言葉がおなじみだろう。
≪017≫  これらには魂や 霊 が出入りしていた。インスピレーションが跳ねていた。ただ、このままでは「科学」にはならない。そこをデュボスは踏みこんで、「地球についての神学」を足場に組み、地球と遊離酸素の関係を吟味しながらしだいに神学的な脚立を取りはらい、ついでは自然という見方だけでは場所にひそむ胚胎の本質が見えないと言って、場所が萌芽させる生命の動向、すなわち有機体としての分子の声に耳を傾けていったのである。
≪018≫  有機体を哲学するという発想はすでにホワイトヘッドが『過程と実在』(松籟社・みすず書房)などで、あらかたの体系をつくりつつあった。
≪019≫  だからデュボスもそこに与したことになるのだが、デュボスはその有機体としての活動概念のなかから、正確に生命活動に適応できた動向だけを取り出し、「反応」と「応答」の相違を抜き出した。そのうえで地球と生命の関係、あるいは場所と人間の関係を切り離さずに相互作用として記述できる可能性の探検に向かっていった。
≪020≫  デュボスの探索はそこにとどまらなかった。あらかた生命の問題を叙述しおえると、ついでは場所というものがその後の人間の共同体によって部落や都市や国家になっていったことを眺め、そこにもう一度、原初の「内なる神」が本気で躍動しているかどうかを調査した。調査の結果は残念なものだった。部落や都市や国家がつくりあげたはずの「文化」はいつのまにか「技術」に取って代わられていた。デュボスはそこに読者の目を導いていく。産業社会や工業社会がすでに「内なる神」を失いつつあることを指摘し、これでは人間の理性はインスピレーションを喪失したままになるだろうという警告を発したのだった。
≪021≫  デュボスの思想の語り方は独特だ。本書以外でもその語り方をした。数あるデュボスの著書のなかで、いくつかの印象にのこったことをメモっておく。
≪022≫  順不同でいくが、『生命の灯』(思索社)はタイトルからは想像がつかないかもしれないが、人間を考えるには生命以前の段階から観察を始めて、どこから生命の点火がおこったのかを考えるべきだと主張したものだ。物質がどこから生命になっていくかを考えることが、人間が自然界のどこから人間になるのかということを推理させうると言ったのである。
≪023≫  『人間への選択』(紀伊國屋書店)は、人類という生物学的な普遍性が人間であることを選んだ理由を考えるには、人文学者も社会学者も自然科学者も「聖地」の特色をちゃんと知るべきだということを提案している。聖地とは何か。パワースポットなどではない。古代中世人が「かたじけないもの」を感じて選地した「聖地」と対面しなさいというのだ。聖地としてのトポスを論じていて示唆深い。
≪024≫  タイトルが意外な『理性がまどろむ時』(思索社)は原タイトルが『理性という名の怪物』であったことを知れば、その意図の見当がつくかもしれない。17世紀に始まった理性主義が科学を曖昧にしていった意味を問うたのだ。ぼくはフランシス・ベーコンを分析しているところに興味をもった。今日の科学者でベーコンのイドラ(偶像)をめぐる議論の限界を問題にできる科学者など、いなかった。
≪025≫  大著『人間と適応』(みすず書房)では、デュボスのありったけの知を駆動させた。われわれがとっくの昔から外部環境の諸因子をとりこんでいて、それを一方では栄養として他方では体内細菌として活用しながらも、大気汚染や環境汚染や人為的な化学汚染をふりまいてきたため、さしものホメオスタシスが少しずつ狂いはじめていることを指摘し、このままでは適応と制御の意味を変更せざるをえなくなっていると警告を発した。もっと多因子系の研究が必要だというのである。
≪026≫ こうしたなか、ぼくが気にいったのは『健康という幻想』(紀伊國屋書店)である。これは人類がどのように健康や長寿を求めたかという歴史を、ふつうなら病気の歴史にしてしまうところを180度ひっくりかえして「健康幻想史」にしてみせた。人類が「健康」という観念とそれにまつわるでたらめな規準をつくりあげてしまってから、人間は健やかなるものを失ったという説だ。それを抗生物質の発明者が書くところが、デュボスのデュボスたるゆえんなのである。ただしぼくは、この本によって「健康なんてくそくらえ」という方針を確立させてしまい、おかげで健康から見放されることになってしまった曰くつきの本だった。
≪027≫  さて、ルネ・デュボスが81歳で亡くなる直前の1982年2月20日、「遊」の内田美恵がニューヨークの自宅に赴いて貴重なインタビューをした。遺著となった『生命の祭祀』(未訳)が刊行されたばかりだった。
≪028≫  内田はアメリカ領事の娘で6歳から英語を喋り、フォーラム・インターナショナルの通訳者・翻訳者として工作舎に来てからは、ぼくの担当になって多くのセイゴオ・コンテキストを英語にしたり、多くの外国語書籍を一緒に“解読”したりするパートナーになっていた。だからぼくの好みはよくわかっていて、デュボスにぞっこんなのも知っていたので、ニューヨークに行った折に会ってきてくれたのだ。
≪029≫  23歳まで英語を話せなかったフランス人デュボスと、16歳まで日本語がカタコトだった内田が、場所や風土や言語を通して雑談を交わしながら、生物や人間に出入りするパターンやプロセスの話題を深めていくというインタビューだ。
≪030≫  そこでデュボスが強調したのが、“Use it or lose it”ということだった。「使うか、失うか」という意味だが、デュボスは生物も人間も社会も、ずうっと「使うか、失うか」を試してきたのに、そこから何を選択していいのかわからないような文明をつくってきたことを、振りかえった。これは科学者がずっとかかえてきた問題、いわゆる「合流させるのか、分離するのか」にもあてはまっていた。
≪031≫  内田が持ち帰ってきたテープを聞きながらデュボスを偲びつつ、もっと聞いておきたかったことがいろいろあったなあと嘆息した。とくに訊ねておきたかったのは、ぼくにはついつい発生に立ち戻ってものごとを考えるくせがあるのだが、デュボスのように細胞や細菌や微生物のあたりから前後左右に思索と推理の翼を広げるには、どうしたらいいのか。そこにはきっと何らかの“王道”があるようにも思うのだが(仏教でいうなら「中」の思想)、科学者がそのようなミドルウェアの思想をもちつづけられ、そこにいつもエンシオス(インスピレーション)の神を出入りさせられるにはどうしたらいいのかということだった。
≪032≫  あれからまた20年ほどがたった。まもなく21世紀だ。デュボスは『内なる神』のあとがきを「私は多くの春を過ごしてきた」と書き始めたものだったが、ぼくもそういう幾多の春を思い出しつつ、その著書をくりかえし啄むしかなくなっている。
≪033≫  デュボスのことばかりではない。大半の本の著者たちが、もはや会えない著者ばかりなのだ。ぼくは本の中で、新たに「エンシオスの逬り」を浴びるか発揮するしかなくなったのである。だったら、そうしよう。あえて既読したものにもう一度触れなおし、エンシオスの着脱に感じいってみよう。
≪034≫  こうして一週間ほど前から「千夜千冊」という試みを始めたわけである。毎夜、ウェブの中で本を啄んでみようという試みだ。いま第10夜にやっと届いたばかりだ。第1夜が中谷宇吉郎の『雪』、2夜がロード・ダンセーニの『ペガーナの神々』、昨夜が丸谷才一で、そして今夜がルネ・デュボスなのである。
≪035≫  もう一言、付け加えておきたい。今日的な意味でデュボスの言葉に耳を傾けておいてほしいのは、きっと次のことに尽きているからだ。それは、デュボスが何度も「未来に対する創造性を期待するなら、経済の発展と技術の革新に目を集中させないことだ」と言ってきたということだ。これについては、デュボスが1972年から六年間にわたって国連人間環境主義のアドバイザーを務めたときの、もっと有名な言葉がある。“Think globally, Act locally”というものだ。日本にこそあてはまる。
≪036≫ 附記¶デュボスの本はみな出色であるが、おもしろく読み進むには、『人間であるために』(紀伊国屋書店)、『人間への選択』(紀伊国屋書店)、『目覚める理性』(紀伊国屋書店)、『理性がまどろむ時』(思索社)、『生命の灯』(思索社)、『人間と適応』(みすず書房)、『いま自然を考える』(思索社)、『環境と人間』(ブリタニカ)、『パストゥール』(河出書房)などという順で読むと入りやすいかと思う。専門書の『バクテリア細胞』は『細菌細胞』という邦訳が昭和27年に岩波書店が出した。ちなみに、ぼくは大好きなのだが、『健康という幻想』(紀伊国屋書店)は危険な書かもしれない。禁煙運動をしたいような諸君は読まないほうがいい。
≪037≫ 
14
11渡辺保 黙阿弥の明治維新2000/03/08
15
12ポール・ヴァレリー テスト氏2000/03/09
16
13ユルジス・バルトルシャイティス 幻想の中世2000/03/10
17
14ハーバート・ノーマン クリオの顔2000/03/13
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15鈴木正幸編 王と公2000/03/14
 日本の「王権」をめぐる論考パラダイムは、網野善彦あたりを嚆矢に、赤坂憲雄・今谷明らの研究の出現によって一挙に確立された感があるが、それとはべつに長きにわたる天皇制をめぐる議論のパラダイムというものがあった。ところが二つのパラダイムはまったくといってよいほど重なってはこなかった。
 実は天皇制度のほうも、近代以降の天皇制の確立を問題にするものと、近代以前の大嘗祭などのしきたりを研究する二つの系譜に分かれてしまっていて、ほとんど交じらなかった。困った傾向なのである。
 本書は、30代前後の研究者が鈴木のもとに集まって編集構成されたものだけに、いささか深みと一貫性に欠けるきらいはあるものの、従来のパラダイムを破ろうとする意気ごみがはっきり感じられた。一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている。
 そもそも日本は、唐・新羅との東アジア的な緊張関係をまともにかぶるなかで、それなりの国家としての体制をとらざるをえなくなった国である。
 しかし、生産力も技術力もまだまともに発揮できないでいた日本が、隣国の百済のように没落しないようにするためには、できるかぎり迅速に社会的分業力と中央管理システムの両方をうまくくみあわせる必要に迫られていた。それには王権(大君=天皇制)こそが各地の生産と再生産システムに適合するようにつくられるべきだった。それに、技術力を導入するには海外のエリートに頼る必要があったが、かれらの専横を封じる手段も用意しておかなければならなかった。
 これには官僚が対抗するだけでは足りない。どうしても神権をもった「王」を戴いておく必要があった。このようなことは、明治国家が海外列強に対して力を一挙にたくわえ、不平等条約を改善していくときの、あの手法にも援用されている。
 明治国家がなぜ立憲君主を戴いたかというと、すなわちなぜ幕末維新の志士たちが、古代さながらの「祭政一致」と「王政復古」を考えたかというと、それは古代東アジア世界からの自立をはかろうとしたときとまったく同様の決断が必要になったからなのだ。
 もうひとつは、中国の華夷秩序とどのように対応するかということである。
 中国はこれをもっぱら「法」と「礼」をもって律していたから、それをそのまま日本に入れたのでは、中国とぶつかってしまうことになる。何かを譲らなければならない。今日の日本とアメリカの関係のようなものだ。そこで、日本的な“翻訳”に微妙な創意工夫をすることになる。
 そこで生まれてきたというか、工夫されたのが「詔」と「召」ということである。すなわち「みことのり」によって、上からのオーダーと下からのプロダクションとを、上からのオーガニゼーションと下からのディストリビューションとを、何かで縦横にくるんでしまうことだった。「王民共同体」としての日本的王権システムが確立したのは、おそらくこうした背景による。
 本書は、こうした王民共同体の原理を中世・近世にあてはめて説明することには、あまり成功していない。また近代日本や昭和日本が天皇を戴いてきた理由を明快に説明することも、遠慮しているところがある。
 しかし、本書の示すようなパラダイムからしか、これからの日本史は浮上してこないこともはっきりしている。本書は平成時代の日本人が足かがりにするべき日本論の礎のひとつであろう。
参考¶近代の天皇問題のスコープと王民共同体のその後の変遷については、編者の鈴木正幸に『近代天皇制の支配秩序』(校倉書房)、『近代の天皇』(吉川弘文館)、『皇室制度』(岩波書店)などがあるので、これらを参考にするとよい。また、網野善彦や赤坂憲雄などともに佐藤弘夫『神・仏・王の中世』(法蔵館)今谷明『武家と天皇』(岩波新書)など、さらには坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版)、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店)、山口昌男『天皇制の文化人類学』(立風書房)なども読みごたえがある。
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≪01≫  日本の「王権」をめぐる論考パラダイムは、網野善彦あたりを嚆矢に、赤坂憲雄・今谷明らの研究の出現によって一挙に確立された感があるが、それとはべつに長きにわたる天皇制をめぐる議論のパラダイムというものがあった。ところが二つのパラダイムはまったくといってよいほど重なってはこなかった。
≪02≫  実は天皇制度のほうも、近代以降の天皇制の確立を問題にするものと、近代以前の大嘗祭などのしきたりを研究する二つの系譜に分かれてしまっていて、ほとんど交じらなかった。困った傾向なのである。
≪03≫  本書は、30代前後の研究者が鈴木のもとに集まって編集構成されたものだけに、いささか深みと一貫性に欠けるきらいはあるものの、従来のパラダイムを破ろうとする意気ごみがはっきり感じられた。一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている。
≪04≫  そもそも日本は、唐・新羅との東アジア的な緊張関係をまともにかぶるなかで、それなりの国家としての体制をとらざるをえなくなった国である。
≪05≫  しかし、生産力も技術力もまだまともに発揮できないでいた日本が、隣国の百済のように没落しないようにするためには、できるかぎり迅速に社会的分業力と中央管理システムの両方をうまくくみあわせる必要に迫られていた。それには王権(大君=天皇制)こそが各地の生産と再生産システムに適合するようにつくられるべきだった。それに、技術力を導入するには海外のエリートに頼る必要があったが、かれらの専横を封じる手段も用意しておかなければならなかった。
≪06≫  これには官僚が対抗するだけでは足りない。どうしても神権をもった「王」を戴いておく必要があった。このようなことは、明治国家が海外列強に対して力を一挙にたくわえ、不平等条約を改善していくときの、あの手法にも援用されている。
≪07≫  明治国家がなぜ立憲君主を戴いたかというと、すなわちなぜ幕末維新の志士たちが、古代さながらの「祭政一致」と「王政復古」を考えたかというと、それは古代東アジア世界からの自立をはかろうとしたときとまったく同様の決断が必要になったからなのだ。
≪08≫  もうひとつは、中国の華夷秩序とどのように対応するかということである。
≪09≫  中国はこれをもっぱら「法」と「礼」をもって律していたから、それをそのまま日本に入れたのでは、中国とぶつかってしまうことになる。何かを譲らなければならない。今日の日本とアメリカの関係のようなものだ。そこで、日本的な“翻訳”に微妙な創意工夫をすることになる。
≪010≫  そこで生まれてきたというか、工夫されたのが「詔」と「召」ということである。すなわち「みことのり」によって、上からのオーダーと下からのプロダクションとを、上からのオーガニゼーションと下からのディストリビューションとを、何かで縦横にくるんでしまうことだった。「王民共同体」としての日本的王権システムが確立したのは、おそらくこうした背景による。
≪011≫  本書は、こうした王民共同体の原理を中世・近世にあてはめて説明することには、あまり成功していない。また近代日本や昭和日本が天皇を戴いてきた理由を明快に説明することも、遠慮しているところがある。
≪012≫  しかし、本書の示すようなパラダイムからしか、これからの日本史は浮上してこないこともはっきりしている。本書は平成時代の日本人が足かがりにするべき日本論の礎のひとつであろう。
≪013≫ 参考¶近代の天皇問題のスコープと王民共同体のその後の変遷については、編者の鈴木正幸に『近代天皇制の支配秩序』(校倉書房)、『近代の天皇』(吉川弘文館)、『皇室制度』(岩波書店)などがあるので、これらを参考にするとよい。また、網野善彦や赤坂憲雄などともに佐藤弘夫『神・仏・王の中世』(法蔵館)今谷明『武家と天皇』(岩波新書)など、さらには坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版)、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店)、山口昌男『天皇制の文化人類学』(立風書房)なども読みごたえがある。
≪014≫ ≪015≫ ≪016≫ ≪017≫ ≪018≫ ≪019≫ ≪020≫ ≪021≫ ≪022≫ ≪023≫ ≪024≫ ≪025≫ ≪026≫ 
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16サン=テグジュペリ「夜間飛行」2000/03/15
 1944年7月31日、いまだ第二次世界大戦の戦火が激しいなか、サン=テグジュペリはコルシカ島から南仏グルノーブルおよびアヌシー方面の偵察飛行あるいは出撃に飛び立ったまま行方不明となり、そのまま大空の不帰の人となった。44歳だった。この年、ぼくが生まれた。
 2年ほど前、この行方不明になったサン=テグジュペリを追ったテレビ・ドキュメンタリーを見た。なかなかいい番組で、手元にメモがないので詳細は伝えられないのだが、飛行ルートをずうっと追いかけてそのあいだに彼の生涯をはさみ、ついに推理の旅が北アフリカのダカールやコートダジュールの廃屋にたどりつくという映像だったとおもう。なんだが胸がつまって、しっかり見なかったような記憶がある。ついで「フィガロ」誌にその後の推測が出て、おそらくドイツ戦闘機に撃墜されたのだろうということになっていたが、死の謎は謎のままだった。
 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを『星の王子さま』の作者として愛しているのは、それはそれですばらしいけれど、それだけではいかにももったいない。いまはあきらかにそう断言できるのだが、かくいうぼくも長いあいだ、この飛行家サン=テグジュペリの文学や生涯に疎かった。
 それが急激に近しくなったのは、サン=テグジュペリが1900年の生まれで、稲垣足穂がやはり1900年の生まれで、二人ともがこよなく飛行機を偏愛していたという符牒に合点してからのことである。
 サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていったという一線にぴったり重なって飛行している。なにしろ三歳のときにライト兄弟が初飛行をし、9歳のときにルイ・ブレリオが英仏海峡を横断し、13歳のときはローラン・ギャロスが地中海を横断したのである。中田がペルージャに入り、名波がヴェネチアに入っただけでも少年がサッカーに熱中するのだから、当時の飛行家の冒険は、もっともっと少年の胸にプロペラの爆音を唸らせたのである。
 サン=テグジュペリは19歳で海軍兵学校の入試に失敗をして、やむなく兵服して飛行連隊に入隊、志願して飛行練習生になったのちは、行方不明になる44歳までひたすらに大空の夢を見る。
 ところが運命はいたずらなもので、なかなか防空眼鏡に白いマフラーをなびかせた飛行士としての定席にめぐまれない。そこで地上でいくつかの勤務につくうちに、民間郵便飛行の仕事にありついた。それも有為転変が激しくて、なかなか一定の勤務にはならず、スペイン山岳地帯、ブエノスアイレス、ニューヨーク、北アフリカなどを転々とする。いつも危険をともなう飛行計画を好んだ。そのあいだに書いたのが有名な『南方郵便機』であり、『人間の土地』であり、アメリカで書いた『戦う操縦士』と『星の王子さま』である。
 こうしたなか、サン=テグジュペリは大戦にまきこまれていく。けれどもそれは大空を滑空する最後の夢をかなえる機会でもあった。教官を薦められながらもつねに実戦部隊を選んだのは、そのせいだった。連合軍の北アフリカ上陸のニュースが伝わるとじっとしていられず、出撃飛行を申し出て、かくして四三歳、北アフリカの部隊に入ったサン=テグジュペリは当時最高の性能を誇っていた最新戦闘機P38ライニングの操縦訓練をうけて、実戦に突入していった。やきり撃墜してしまったのかもしれない。
 本書『夜間飛行』は、そうしたサン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」を描いた感動作である。
 物語はたった一夜におこった出来事で、そのわずか十時間ほどのあいだに、チリ線のアンデスの嵐、パラグアイ線の星と星座、パタゴニア線の暴風との闘いとの遭遇が描かれ、最後に主人公の飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨し、それがおそらくは罠であることを知りながらも、夢のような上昇を続けていくという顛末を、もう一人の主人公であるリヴィエールが地上からずうっと瞑想のごとく追送しているという構成になっている。
 サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに「精神の飛行」の物語なのである。航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない。なんとしてでも読まれたい。序文をよせたアンドレ・ジッドの文章も、こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる。
 この作品は実は400ページの草稿が181ページに切りつめられて完成した。三分の一に濃縮したエディトリアル・コンデンスの結晶である。その短い二三章にわたる映像的な「引き算の編集術」には、ぼくもあらためて学びたいものがいっぱいつまっている。
 この作品でも十分に伝わってくるのだが、サン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」をさらに知りたいのなら、『人間の土地』を読むべきだ。堀口大學の訳で新潮文庫に入っている。不時着したサハラ砂漠の只中で奇蹟的な生還をとげた飛行家の魂の根拠を描いた。小説とはいえない。体験と思索を摘んだ文章の花束のようなもの、それらが「定期航空」「僚友」「飛行機」「飛行機と地球」「砂漠の中で」「人間」というふうに章立てされている。
 そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。
 『人間の土地』の最後は次の言葉でおわっている。もって銘ずべし。「精神の嵐が粘土のうえを吹いてこそ、初めて人間はつくられる」
 と、ここまで書いてサン=テグジュペリの話をおえるわけにはいかないだろう。では、『星の王子さま』はどうなのかということだ。
結論ははっきりしている。この名作は『人間と土地』の童話版なのである。ただし、ここにはサン=テグジュペリのすばらしい想像力とすばらしい水彩ドローイングの才能がふんだんに加わって、ついついファンタジックに読んでおしまいになりそうになっている。それがもったいないのである。
いまさら物語を紹介するまでもないだろうが、この童話には語り手がいて、その語り手が子供のころに「象を呑んだウワバミの絵」を外側から描いたところ、大人たちがみんな「これは帽子だ」と言う。それでウワバミの内側を説明しようとすると、そんなことより勉強しなさいと言う。この語り手が長じて飛行家になって、あるときサハラ砂漠に不時着すると、そこで子供に出会う。子供はヒツジの絵を描いてくれとせがむ。いろいろ描いても満足しない。そこで箱の絵を描いて「ヒツジはこの中で眠っている」と説明すると、やっとほほえんだ。この子供がどこかの星に住んでいた星の王子さまなのである。
 ここまでですぐ見当がつくように、これは実際にサハラ砂漠に不時着したとき、灼熱のもとで飢えと渇きに苦しんだサン=テグジュペリが、三日目にベドウィン人に水をさしだされて助けられた体験にもとづいている。さらには、内側に本来のものがあるというサン=テグジュペリの思想にもとづいている。けれどもその内側がたとえ見えずとも、外側からでも感じられるものがあるはずで、それは大空から地球を眺めていたサン=テグジュペリ自身の視線なのである。
 しかし、これもサン=テグジュペリが何度も体験して辛酸を嘗めたことなのだが、この内側と外側の関係を伝えようとすると、みんなは一緒の感じをもってくれない。そこで星の王子さまに登場してもらったのだった。
 星の王子は一人ぼっちである。一人ぼっちだっただけでなく、一つずつのことに満足していた。ところがその感覚がくずれていった。たとえば星にいたころはたった一本の薔薇の美しさが大好きだったのに、地球にやってきてみて庭にたくさんの薔薇が咲いているのを見て悲しくなった。
 自分はありきたりの一本の薔薇を愛していたにすぎないことが悲しかったのだ。では、この気持ちをどうしたらいいのか。それを教えてくれたのはキツネだった。サン=テグジュペリはここでキツネと王子の会話を入れる。王子はキツネと遊びたい。キツネは王子と遊ぶには「飼いならされていない」からそれができないと言う。そこで王子がだんだんわかっていく。自分が星に咲いていた一本の薔薇が好きだったのは、水をやり風から守っていたせいで、一本という数をもつ薔薇に恋をしたわけではなかったことを知る。
 こうしてキツネの話から、王子はどこの星の世でもなにより「結びつき」というものが大切であることに気がついて、自分の星に帰る決心をする。飛行家にもこのことを伝えると、金色の砂漠のヘビにくるぶしを咬ませ、一気に軽い魂の飛行体となって飛んでいった。
 御存知、物語はこういうハコビになっている。途中、地球に来る前にあたかもガリヴァー船長(第324夜)が訪れた国のように陳腐な星を旅するのだが、そこにはサン=テグジュペリの「人間の土地」に対する哀しいまでの観察が戯画化されている。この戯画は、子供のころはガリヴァーの話やトルストイ(第580夜)の『三匹のこぶた』やアンデルセン(第58夜)の『裸の王さま』同様に大笑いしたエピソードだったけれど、いつ再読したのかは忘れたが、長じてサン=テグジュペリを読むようになって『星の王子さま』をあらためて読んだときは、とても震撼としてしまったものだった。
 サン=テグジュペリ。あなたの飛行精神こそ、ひたすらに胸中のプロペラをぶんまわします。
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プレフィックス作成
≪01≫  1944年7月31日、いまだ第二次世界大戦の戦火が激しいなか、サン=テグジュペリはコルシカ島から南仏グルノーブルおよびアヌシー方面の偵察飛行あるいは出撃に飛び立ったまま行方不明となり、そのまま大空の不帰の人となった。44歳だった。この年、ぼくが生まれた。
≪02≫  2年ほど前、この行方不明になったサン=テグジュペリを追ったテレビ・ドキュメンタリーを見た。なかなかいい番組で、手元にメモがないので詳細は伝えられないのだが、飛行ルートをずうっと追いかけてそのあいだに彼の生涯をはさみ、ついに推理の旅が北アフリカのダカールやコートダジュールの廃屋にたどりつくという映像だったとおもう。なんだが胸がつまって、しっかり見なかったような記憶がある。ついで「フィガロ」誌にその後の推測が出て、おそらくドイツ戦闘機に撃墜されたのだろうということになっていたが、死の謎は謎のままだった。
≪03≫  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを『星の王子さま』の作者として愛しているのは、それはそれですばらしいけれど、それだけではいかにももったいない。いまはあきらかにそう断言できるのだが、かくいうぼくも長いあいだ、この飛行家サン=テグジュペリの文学や生涯に疎かった。
≪04≫  それが急激に近しくなったのは、サン=テグジュペリが1900年の生まれで、稲垣足穂がやはり1900年の生まれで、二人ともがこよなく飛行機を偏愛していたという符牒に合点してからのことである。
≪05≫  サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていったという一線にぴったり重なって飛行している。なにしろ三歳のときにライト兄弟が初飛行をし、9歳のときにルイ・ブレリオが英仏海峡を横断し、13歳のときはローラン・ギャロスが地中海を横断したのである。中田がペルージャに入り、名波がヴェネチアに入っただけでも少年がサッカーに熱中するのだから、当時の飛行家の冒険は、もっともっと少年の胸にプロペラの爆音を唸らせたのである。
≪06≫  サン=テグジュペリは19歳で海軍兵学校の入試に失敗をして、やむなく兵服して飛行連隊に入隊、志願して飛行練習生になったのちは、行方不明になる44歳までひたすらに大空の夢を見る。
≪07≫  ところが運命はいたずらなもので、なかなか防空眼鏡に白いマフラーをなびかせた飛行士としての定席にめぐまれない。そこで地上でいくつかの勤務につくうちに、民間郵便飛行の仕事にありついた。それも有為転変が激しくて、なかなか一定の勤務にはならず、スペイン山岳地帯、ブエノスアイレス、ニューヨーク、北アフリカなどを転々とする。いつも危険をともなう飛行計画を好んだ。そのあいだに書いたのが有名な『南方郵便機』であり、『人間の土地』であり、アメリカで書いた『戦う操縦士』と『星の王子さま』である。
≪08≫  こうしたなか、サン=テグジュペリは大戦にまきこまれていく。けれどもそれは大空を滑空する最後の夢をかなえる機会でもあった。教官を薦められながらもつねに実戦部隊を選んだのは、そのせいだった。連合軍の北アフリカ上陸のニュースが伝わるとじっとしていられず、出撃飛行を申し出て、かくして四三歳、北アフリカの部隊に入ったサン=テグジュペリは当時最高の性能を誇っていた最新戦闘機P38ライニングの操縦訓練をうけて、実戦に突入していった。やきり撃墜してしまったのかもしれない。
≪09≫  本書『夜間飛行』は、そうしたサン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」を描いた感動作である。
≪010≫  物語はたった一夜におこった出来事で、そのわずか十時間ほどのあいだに、チリ線のアンデスの嵐、パラグアイ線の星と星座、パタゴニア線の暴風との闘いとの遭遇が描かれ、最後に主人公の飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨し、それがおそらくは罠であることを知りながらも、夢のような上昇を続けていくという顛末を、もう一人の主人公であるリヴィエールが地上からずうっと瞑想のごとく追送しているという構成になっている。
≪011≫  サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに「精神の飛行」の物語なのである。航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない。なんとしてでも読まれたい。序文をよせたアンドレ・ジッドの文章も、こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる。
≪012≫  この作品は実は400ページの草稿が181ページに切りつめられて完成した。三分の一に濃縮したエディトリアル・コンデンスの結晶である。その短い二三章にわたる映像的な「引き算の編集術」には、ぼくもあらためて学びたいものがいっぱいつまっている。
≪013≫  この作品でも十分に伝わってくるのだが、サン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」をさらに知りたいのなら、『人間の土地』を読むべきだ。堀口大學の訳で新潮文庫に入っている。不時着したサハラ砂漠の只中で奇蹟的な生還をとげた飛行家の魂の根拠を描いた。小説とはいえない。体験と思索を摘んだ文章の花束のようなもの、それらが「定期航空」「僚友」「飛行機」「飛行機と地球」「砂漠の中で」「人間」というふうに章立てされている。
≪014≫  そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。
≪015≫  『人間の土地』の最後は次の言葉でおわっている。もって銘ずべし。「精神の嵐が粘土のうえを吹いてこそ、初めて人間はつくられる」
≪016≫  と、ここまで書いてサン=テグジュペリの話をおえるわけにはいかないだろう。では、『星の王子さま』はどうなのかということだ。
≪017≫ 結論ははっきりしている。この名作は『人間と土地』の童話版なのである。ただし、ここにはサン=テグジュペリのすばらしい想像力とすばらしい水彩ドローイングの才能がふんだんに加わって、ついついファンタジックに読んでおしまいになりそうになっている。それがもったいないのである。
≪018≫ いまさら物語を紹介するまでもないだろうが、この童話には語り手がいて、その語り手が子供のころに「象を呑んだウワバミの絵」を外側から描いたところ、大人たちがみんな「これは帽子だ」と言う。それでウワバミの内側を説明しようとすると、そんなことより勉強しなさいと言う。この語り手が長じて飛行家になって、あるときサハラ砂漠に不時着すると、そこで子供に出会う。子供はヒツジの絵を描いてくれとせがむ。いろいろ描いても満足しない。そこで箱の絵を描いて「ヒツジはこの中で眠っている」と説明すると、やっとほほえんだ。この子供がどこかの星に住んでいた星の王子さまなのである。
≪019≫  ここまでですぐ見当がつくように、これは実際にサハラ砂漠に不時着したとき、灼熱のもとで飢えと渇きに苦しんだサン=テグジュペリが、三日目にベドウィン人に水をさしだされて助けられた体験にもとづいている。さらには、内側に本来のものがあるというサン=テグジュペリの思想にもとづいている。けれどもその内側がたとえ見えずとも、外側からでも感じられるものがあるはずで、それは大空から地球を眺めていたサン=テグジュペリ自身の視線なのである。
≪020≫  しかし、これもサン=テグジュペリが何度も体験して辛酸を嘗めたことなのだが、この内側と外側の関係を伝えようとすると、みんなは一緒の感じをもってくれない。そこで星の王子さまに登場してもらったのだった。
≪021≫  星の王子は一人ぼっちである。一人ぼっちだっただけでなく、一つずつのことに満足していた。ところがその感覚がくずれていった。たとえば星にいたころはたった一本の薔薇の美しさが大好きだったのに、地球にやってきてみて庭にたくさんの薔薇が咲いているのを見て悲しくなった。
≪022≫  自分はありきたりの一本の薔薇を愛していたにすぎないことが悲しかったのだ。では、この気持ちをどうしたらいいのか。それを教えてくれたのはキツネだった。サン=テグジュペリはここでキツネと王子の会話を入れる。王子はキツネと遊びたい。キツネは王子と遊ぶには「飼いならされていない」からそれができないと言う。そこで王子がだんだんわかっていく。自分が星に咲いていた一本の薔薇が好きだったのは、水をやり風から守っていたせいで、一本という数をもつ薔薇に恋をしたわけではなかったことを知る。
≪023≫  こうしてキツネの話から、王子はどこの星の世でもなにより「結びつき」というものが大切であることに気がついて、自分の星に帰る決心をする。飛行家にもこのことを伝えると、金色の砂漠のヘビにくるぶしを咬ませ、一気に軽い魂の飛行体となって飛んでいった。
≪024≫  御存知、物語はこういうハコビになっている。途中、地球に来る前にあたかもガリヴァー船長(第324夜)が訪れた国のように陳腐な星を旅するのだが、そこにはサン=テグジュペリの「人間の土地」に対する哀しいまでの観察が戯画化されている。この戯画は、子供のころはガリヴァーの話やトルストイ(第580夜)の『三匹のこぶた』やアンデルセン(第58夜)の『裸の王さま』同様に大笑いしたエピソードだったけれど、いつ再読したのかは忘れたが、長じてサン=テグジュペリを読むようになって『星の王子さま』をあらためて読んだときは、とても震撼としてしまったものだった。
≪025≫  サン=テグジュペリ。あなたの飛行精神こそ、ひたすらに胸中のプロペラをぶんまわします。
≪026≫ 
22
17堀田善衞 定家明月記私抄|正・続2000/03/16
23
18アンリ・ポアンカレ「科学と方法」2000/03/17
数学するということが予見することである、と感じられたのだ。この快感に酔ったぼくは、すぐに「数学的自由」という造語をつくったほどだ(ガウスからの影響もあった)。そのあとは勇んでヒルベルトとコーン=フォッセンの『直観幾何学』(みすず書房)に突入していったのかとおもう。
ポアンカレが鉱山学校で結晶学を修めていたことに注目したい。一八五四年にナンシーで生まれ、高校生のときには“数学好きの怪物”だと噂され、文学と科学でバカロレア(フランス教育省が認定する中等教育修了資格)をとると、グランゼコール(高等職業教育機関)でも数学に熱中した。
エコール・ポリテクニクを卒業すると、鉱山学校に入って結晶学に打ち込んだ。結晶学こそ数学思考を鍛錬するにもってこいだったからだろう。群論的感覚と解析的視野はここで養ったのではないかと思う。一八七九年には採鉱技師として働いてもいる。
鮮やかな方法的発見はそのあともずっとつづく。ポアンカレは位置幾何学や位相幾何学の創始者であって、複素変数関数論の立役者であった。もっと有名なのは三体問題やフェルマーの定理などの難問を提出したことだ。複雑系の科学やカオス理論の先駆的予見者でもあった。
ポアンカレはこのことを「数学的発見における精神活動の関与」とよんだ。これはのちにマイケル・ポランニーが「暗黙知」と名づけたものが動いていたということを暗示する。ポアンカレは暗黙知の数学の発見者でもあったのである。ぼくがポアンカレに参りはじめたのは、ここからだったのだ。
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19アンソニー・サマーズ マリリン・モンローの真実2000/03/24
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20佐藤春夫 晶子曼陀羅2000/03/27
 自分には詮索癖のようなものがある、と佐藤春夫は書いている。どの程度の詮索癖かは知らないが、ちょっとしたエピソードや歌の動機のようなものが気になるらしい。が、それだけではこの本は書けない。晶子に対する尋常ならざる関心がある。
 佐藤春夫は『晶子曼陀羅』を読売新聞に連載する前年に、与謝野晶子の歌を一千首選ぶという仕事をおえ、新潮社から刊行している。そのおりに晶子に関するさまざまなおもいが渦巻いたのであろう。この連載はまことに一気に、淡々とはしているが、彫刻刀で削ったような名文で痛切に綴られていて、多くの晶子論とは一線を画した。昭和29年には新橋演舞場で新派上演もされ、さらに翌年に読売文学賞を受賞した。ようするに、当時の大向こうを唸らせた小説なのである。
 この本は与謝野晶子の生涯を追ったものではない。少女晶子が浪漫にめざめて古典をむさぼり、歌を詠み、鉄幹と出会って恋に落ち、みずから時代を奔って「女」になるまでを扱っている。
 だから、その後の晶子が平塚雷鳥に『青鞜』の序詞を頼まれ、その後は雷鳥からも伊藤野枝からも批判されて怯まず闘いつづけたとか、11人もの子供をどのように育てたとか、さらには西村二朗の文化学院の創立にどのようにかかわったとか、そういう事情にはいっさいふれられていない。あくまで晶子が有名になるまでの生涯の四分の一ほとが扱われている。
 そこで、佐藤春夫の目はいきおい山川登美子にも注がれる。登美子は晶子ともに鉄幹を愛した女であり、鉄幹も登美子が夭折するまで心から離せなかった「明星」の歌人である。ときに晶子を上回る歌を詠んだ。
 晶子もずっと登美子を意識した。いや、嫉妬さえしていた。その晶子の感情は長詩「ふたなさけ」によくあらわれている。佐藤春夫もその「ふたなさけ」に注目をして、晶子と登美子のあいだに蹲る意識に硝子のようなものを見つめている。
 最近、晶子については、まったく新しい視点からその生き方が注目されるようになった。
 そのひとつは、センセーショナルな売れ行きを示した永畑道子の『華の乱』と『夢のかけ橋』に集約されているのだが、晶子と有島武郎の関係に光をあてようとしたものである。いまのところ晶子と武郎がどのような関係であったかということについて、”文学史上の史実”が確証されているわけではないのだが、この視点は新たな晶子像を世に公開し、それが深作欣二の演出、吉永小百合と松田優作の主演で映画化されたことも手伝って、おおいに話題になった。ぼくもこの映画を大学の講義につかったが、それまで与謝野晶子などろくに読んでもいなかった学生たちの多くが、晶子に異様で新鮮なな興味をもちはじめたものだった。
 もうひとつは俵万智が『チョコレート訳・みだれ髪』をあらわし、実は『サラダ記念日』が『みだれ髪』の衝動に直結していたことがあきらかになったことである。そんなことは短歌の近現代史を見ている者には最初から見えていたことだが、一般的には驚きをもって迎えられた。
 いずれにしても、今日の女性にとって与謝野晶子はさまざまな意味での”原点”にあたるはずである。これはまちがいがない。
 生き方が根本からちがっている。根性があって、それが叙情の果てまでつながっている。スーザン・ソンタグに近い。こういう女性はめったにいない。かの平塚雷鳥も及ばない。実際にも『青鞜』創刊号に寄せた晶子の巻頭文「山の動く日来る」は、雷鳥以下の女性たちを震撼とさせ、未曾有の勇気を与えたものだった。まず、晶子の歌を、ついで厖大なエッセイを読むとよいが、ぼくとしては、日本で最初に『源氏物語』(1569夜)の現代語訳にとりくんで、かつその後のどんな現代語訳をも凌駕している『与謝野晶子訳・源氏物語』を読んでもらいたいというのが、本音なのである。晶子の源氏にくらべれば、円地源氏も瀬戸内源氏もお話にならない。ぼくは吉本隆明の古典の読み方にはいささか文句があるのだが、吉本が「源氏は晶子のものが群を抜いている」と評価していることには一目おいている。
 ちなみに佐藤春夫の『晶子曼陀羅』は、話が一区切りすすむたびに選び抜かれた晶子の歌が提示されていて、一種の歌垣にもなっている。
 ぼくも、ここでは『みだれ髪』から「髪」を詠んだ歌を示しておいた。収録順である。いずれも女性誌か詠めない歌であることはむろんだが、その「髪」に何がさしかかり、何が残光し、何の残響を詠もうとしているかが、図抜けて冴えている。そこを感じられたい。次のものも、そうだ。
 『みだれ髪』に敬意を表して「髪」の歌ばかりを選んだが、晶子の歌は当然にまことに広く取材し、つねづね深く遊び、ひたすら遠くに飛んだ。そうした多様な歌のなかで、「日本の精神」というか「女が嗅いだやまとたましひ」というか、あるいは「男神をねだる心」ともいうべきものを詠んだ歌も数かぎりない。ぼくはその面でも晶子に脱帽し、そのような晶子がさらに知られることを希っている。
 その「をのこ神」を過敏にも幽遠にも走らせた歌を、やはり『みだれ髪』から示したい。他の歌集から選べばおそらくはさらに百首・千首にいたるのではないかとおもう。
 佐藤春夫についても一言二言、加えておかなくてはならない。春夫は新宮中学時代にすでに「明星」「スバル」などに短歌を投稿していた。鉄幹・晶子は師匠筋だった。上京して生田長生に師事して、ここで晶子から生涯の友を紹介された。堀口大學である。二人は揃って慶応義塾に入り、大逆事件に出会って社会の鉄槌を知った。ここからオスカー・ワイルドなどに惹かれて油絵を描いたり新劇女優と同棲したりの”芸術放浪”に遊ぶのだが、神奈川郊外の中里村に住んでからは『田園の憂鬱』につながる思索も始めた。
 このあとの春夫はあれほど仲のよかった谷崎潤一郎との決別をへて、大杉の虐殺、芥川の自殺に感じて、しだいにぼくが好きな春夫になっていった。このころ春夫に師事したのが稲垣足穂だった。
 6歳のときに、すでにこんな歌を詠んでいたというのだから、やはり天性の詩人というべきだ。「しらうをやかはのながれはおとたへず」。
 参考¶与謝野晶子については、どんな出版社のものでもまずは『みだれ髪』である。が、その後の晶子の奔放な歌は晶子が自選した『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)が堪能できる。3000首が選ばれていて、これはさすがに佐藤春夫より豊富である。晶子は文章も抜群にうまい。説得力もあるし、センスもある。いろいろ読んでほしいところだが、ひとまず『愛・理性及び勇気』(講談社文芸文庫)を推しておく。山川登美子も最近はふたたび脚光があたっている。毎日芸術賞に輝いた竹西寛子の『山川登美子』(講談社文芸文庫)がいいだろう。有島武郎との関係云々は、時代背景を知るという意味でなら、やはり永畑道子の『華の乱』『夢のかけ橋』(新評論)がおもしろい。なお、芳賀徹に『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)という、晶子の黒髪感覚を幕末明治にさぐった好著がある。
  夜の帳にささめき盡きし星の今を 下界の人の鬢(びん)のほつれよ
  髪五尺ときなば水にやはらかく 少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ
  その子 二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
堂の鐘のひくきゆふべを前髪の
桃のつぼみに経(きょう)たまへ君
春の國戀の御國のあさぼらけ
しるきは髪か梅花(ばいか)のあぶら
人かへさず暮れむの春の宵ごこち
小琴(をごと)にもたす亂れ亂れ髪
春の夜の闇の中くるあまき風
しばしかの子が髪に吹かざれ
みだれ髪を京の島田にかへし朝
ふしてゐませの君ゆりおこす
紫に小草(をぐさ)が上へ影おちぬ
野の春かぜに髪けづる朝
春三月(みつき) 柱(ぢ)おかぬ琴に音たてぬ
ふれしそぞろの宵の亂れ髪
あるときはねたしと見たる友の髪に
香の煙のはひかかるかな
たけの髪をとめ二人に月うすき
今宵しら蓮色まどはずや
歌にねて昨夜(よべ)梶の葉の作者見ぬ
うつくしかりき黒髪の色
夜の神のあともとめよるしら綾の
鬢の香 朝の春 雨の宿
くろ髪の千すぢの髪みだれ髪
かつおもそみだれおもひみだるる
秋の神の 御衣(みけし)より曳く白き虹
ものおもふ子の額に消えぬ
神の背にひろきながめをねがはずや
今かたかたの袖ぞむらさき
百合にやる天(あめ)の小蝶のみづいろの
翅(はね)にしつけの絲をとる神
みどりなるは學びの宮とさす神に
いらへまつらで摘む夕すみれ
夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき
消えしともしび神うつくしき
酔に泣くをとめに見ませ春の神
男の舌のなにかするどき
春の虹ねりのくけ紐たぐります
羞(はぢろひ)神の暁(あけ)のかをりよ
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プレフィックス作成
≪01≫  自分には詮索癖のようなものがある、と佐藤春夫は書いている。どの程度の詮索癖かは知らないが、ちょっとしたエピソードや歌の動機のようなものが気になるらしい。が、それだけではこの本は書けない。晶子に対する尋常ならざる関心がある。
≪02≫  佐藤春夫は『晶子曼陀羅』を読売新聞に連載する前年に、与謝野晶子の歌を一千首選ぶという仕事をおえ、新潮社から刊行している。そのおりに晶子に関するさまざまなおもいが渦巻いたのであろう。この連載はまことに一気に、淡々とはしているが、彫刻刀で削ったような名文で痛切に綴られていて、多くの晶子論とは一線を画した。昭和29年には新橋演舞場で新派上演もされ、さらに翌年に読売文学賞を受賞した。ようするに、当時の大向こうを唸らせた小説なのである。
≪03≫  この本は与謝野晶子の生涯を追ったものではない。少女晶子が浪漫にめざめて古典をむさぼり、歌を詠み、鉄幹と出会って恋に落ち、みずから時代を奔って「女」になるまでを扱っている。
≪04≫  だから、その後の晶子が平塚雷鳥に『青鞜』の序詞を頼まれ、その後は雷鳥からも伊藤野枝からも批判されて怯まず闘いつづけたとか、11人もの子供をどのように育てたとか、さらには西村二朗の文化学院の創立にどのようにかかわったとか、そういう事情にはいっさいふれられていない。あくまで晶子が有名になるまでの生涯の四分の一ほとが扱われている。
≪05≫  そこで、佐藤春夫の目はいきおい山川登美子にも注がれる。登美子は晶子ともに鉄幹を愛した女であり、鉄幹も登美子が夭折するまで心から離せなかった「明星」の歌人である。ときに晶子を上回る歌を詠んだ。
≪06≫  晶子もずっと登美子を意識した。いや、嫉妬さえしていた。その晶子の感情は長詩「ふたなさけ」によくあらわれている。佐藤春夫もその「ふたなさけ」に注目をして、晶子と登美子のあいだに蹲る意識に硝子のようなものを見つめている。
≪07≫  最近、晶子については、まったく新しい視点からその生き方が注目されるようになった。
≪08≫  そのひとつは、センセーショナルな売れ行きを示した永畑道子の『華の乱』と『夢のかけ橋』に集約されているのだが、晶子と有島武郎の関係に光をあてようとしたものである。いまのところ晶子と武郎がどのような関係であったかということについて、”文学史上の史実”が確証されているわけではないのだが、この視点は新たな晶子像を世に公開し、それが深作欣二の演出、吉永小百合と松田優作の主演で映画化されたことも手伝って、おおいに話題になった。ぼくもこの映画を大学の講義につかったが、それまで与謝野晶子などろくに読んでもいなかった学生たちの多くが、晶子に異様で新鮮なな興味をもちはじめたものだった。
≪09≫  もうひとつは俵万智が『チョコレート訳・みだれ髪』をあらわし、実は『サラダ記念日』が『みだれ髪』の衝動に直結していたことがあきらかになったことである。そんなことは短歌の近現代史を見ている者には最初から見えていたことだが、一般的には驚きをもって迎えられた。
≪010≫  いずれにしても、今日の女性にとって与謝野晶子はさまざまな意味での”原点”にあたるはずである。これはまちがいがない。
≪011≫  生き方が根本からちがっている。根性があって、それが叙情の果てまでつながっている。スーザン・ソンタグに近い。こういう女性はめったにいない。かの平塚雷鳥も及ばない。実際にも『青鞜』創刊号に寄せた晶子の巻頭文「山の動く日来る」は、雷鳥以下の女性たちを震撼とさせ、未曾有の勇気を与えたものだった。まず、晶子の歌を、ついで厖大なエッセイを読むとよいが、ぼくとしては、日本で最初に『源氏物語』(1569夜)の現代語訳にとりくんで、かつその後のどんな現代語訳をも凌駕している『与謝野晶子訳・源氏物語』を読んでもらいたいというのが、本音なのである。晶子の源氏にくらべれば、円地源氏も瀬戸内源氏もお話にならない。ぼくは吉本隆明の古典の読み方にはいささか文句があるのだが、吉本が「源氏は晶子のものが群を抜いている」と評価していることには一目おいている。
≪012≫  ちなみに佐藤春夫の『晶子曼陀羅』は、話が一区切りすすむたびに選び抜かれた晶子の歌が提示されていて、一種の歌垣にもなっている。
≪013≫  ぼくも、ここでは『みだれ髪』から「髪」を詠んだ歌を示しておいた。収録順である。いずれも女性誌か詠めない歌であることはむろんだが、その「髪」に何がさしかかり、何が残光し、何の残響を詠もうとしているかが、図抜けて冴えている。そこを感じられたい。次のものも、そうだ。
≪014≫  『みだれ髪』に敬意を表して「髪」の歌ばかりを選んだが、晶子の歌は当然にまことに広く取材し、つねづね深く遊び、ひたすら遠くに飛んだ。そうした多様な歌のなかで、「日本の精神」というか「女が嗅いだやまとたましひ」というか、あるいは「男神をねだる心」ともいうべきものを詠んだ歌も数かぎりない。ぼくはその面でも晶子に脱帽し、そのような晶子がさらに知られることを希っている。
≪015≫  その「をのこ神」を過敏にも幽遠にも走らせた歌を、やはり『みだれ髪』から示したい。他の歌集から選べばおそらくはさらに百首・千首にいたるのではないかとおもう。
≪016≫  佐藤春夫についても一言二言、加えておかなくてはならない。春夫は新宮中学時代にすでに「明星」「スバル」などに短歌を投稿していた。鉄幹・晶子は師匠筋だった。上京して生田長生に師事して、ここで晶子から生涯の友を紹介された。堀口大學である。二人は揃って慶応義塾に入り、大逆事件に出会って社会の鉄槌を知った。ここからオスカー・ワイルドなどに惹かれて油絵を描いたり新劇女優と同棲したりの”芸術放浪”に遊ぶのだが、神奈川郊外の中里村に住んでからは『田園の憂鬱』につながる思索も始めた。
≪017≫  このあとの春夫はあれほど仲のよかった谷崎潤一郎との決別をへて、大杉の虐殺、芥川の自殺に感じて、しだいにぼくが好きな春夫になっていった。このころ春夫に師事したのが稲垣足穂だった。
≪018≫  6歳のときに、すでにこんな歌を詠んでいたというのだから、やはり天性の詩人というべきだ。「しらうをやかはのながれはおとたへず」。
≪019≫  参考¶与謝野晶子については、どんな出版社のものでもまずは『みだれ髪』である。が、その後の晶子の奔放な歌は晶子が自選した『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)が堪能できる。3000首が選ばれていて、これはさすがに佐藤春夫より豊富である。晶子は文章も抜群にうまい。説得力もあるし、センスもある。いろいろ読んでほしいところだが、ひとまず『愛・理性及び勇気』(講談社文芸文庫)を推しておく。山川登美子も最近はふたたび脚光があたっている。毎日芸術賞に輝いた竹西寛子の『山川登美子』(講談社文芸文庫)がいいだろう。有島武郎との関係云々は、時代背景を知るという意味でなら、やはり永畑道子の『華の乱』『夢のかけ橋』(新評論)がおもしろい。なお、芳賀徹に『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)という、晶子の黒髪感覚を幕末明治にさぐった好著がある。
≪020≫   夜の帳にささめき盡きし星の今を 下界の人の鬢(びん)のほつれよ
≪021≫   髪五尺ときなば水にやはらかく 少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ
≪022≫   その子 二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
≪023≫ 堂の鐘のひくきゆふべを前髪の
桃のつぼみに経(きょう)たまへ君
≪024≫ 春の國戀の御國のあさぼらけ
しるきは髪か梅花(ばいか)のあぶら
≪025≫ 人かへさず暮れむの春の宵ごこち
小琴(をごと)にもたす亂れ亂れ髪
≪026≫ 春の夜の闇の中くるあまき風
しばしかの子が髪に吹かざれ
≪027≫ みだれ髪を京の島田にかへし朝
ふしてゐませの君ゆりおこす
≪028≫ 紫に小草(をぐさ)が上へ影おちぬ
野の春かぜに髪けづる朝
≪029≫ 春三月(みつき) 柱(ぢ)おかぬ琴に音たてぬ
ふれしそぞろの宵の亂れ髪
≪030≫ あるときはねたしと見たる友の髪に
香の煙のはひかかるかな
≪031≫ たけの髪をとめ二人に月うすき
今宵しら蓮色まどはずや
≪032≫ 歌にねて昨夜(よべ)梶の葉の作者見ぬ
うつくしかりき黒髪の色
≪033≫ 夜の神のあともとめよるしら綾の
鬢の香 朝の春 雨の宿
≪034≫ くろ髪の千すぢの髪みだれ髪
かつおもそみだれおもひみだるる
≪035≫ 秋の神の 御衣(みけし)より曳く白き虹
ものおもふ子の額に消えぬ
≪036≫ 神の背にひろきながめをねがはずや
今かたかたの袖ぞむらさき
≪037≫ 百合にやる天(あめ)の小蝶のみづいろの
翅(はね)にしつけの絲をとる神
≪038≫ みどりなるは學びの宮とさす神に
いらへまつらで摘む夕すみれ
≪039≫ 夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき
消えしともしび神うつくしき
≪040≫ 酔に泣くをとめに見ませ春の神
男の舌のなにかするどき
≪041≫ 春の虹ねりのくけ紐たぐります
羞(はぢろひ)神の暁(あけ)のかをりよ
≪042≫ ≪043≫ 
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21ボリス・ヴィアン 日々の泡2000/03/28
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22川上紳一 縞々学2000/03/29
 だいたい1990年前後のことだったろう。水沢国立天文台の内藤勲夫は地球の変動にはどうも倍周期があるらしいことに気がついた。徳島大学の川上博は非線形力学系のファレイ数列に一組のリズム関係があることに注目していた。
 すでに東工大の丸山茂雄や磯崎行雄が地球史プロジェクトと称して世界各地の岩石を収集して、これを横断的にさかのぼる研究をはじめていた。丸山さんのプロジェクトにはぼくも注目していて、ときどきシンポジウムに出てもらった。そこへさらに名古屋大学の熊沢峰夫はGET(全地球的事変テクトニクス・セミナー)を開催して、地球的規模でおこる変動や突発事態に共通する変数の発見を共同研究することをよびかけた。
 これらは、総じてプレートテクトニクス理論の登場によって従来の地球科学の壁が突破されたことをきっかけに、新たなテクトニクスの未来をさぐろうという試みであり、その試みが研究者仲間のあいだでいつしか「縞々学」とよばれるようになっていたものだった。なにしろテクトニクスなら大地震や大海溝の多い日本が本場なのである。ネーミングは川上紳一が名古屋大学の修士だったころの水谷仁・深尾良夫らの仲間の一人であった古本宗充によるらしい。
 縞々学とは、ようするに「全地球史解読計画」(これをDEEPという)をリズムの解読ですすめようというプロジェクトのことである。
 リズムとは周期的変動性のことをいう。地球の磁場のリズム、気候のリズム、太陽活動のリズム、月のリズム、銀河のリズム、さらには生物活動がつくっているリズム、地軸の傾きがつくるミランコビッチ・サイクルなど、地球にひそむリズムはそうとうに多様で、複雑になっている。縞々学はこれらのなかに共鳴関係を見出そうというわけだ。
 縞々学はもともと寺田寅彦に発している。そうおもいたい。寺田寅彦は「割れ目」の模様に着目した世界で最初の科学者だった。化学的な縞模様をつくるリーゼンガング現象なども寺田寅彦によって初めて意義深いものになっている。
 この「割れ目」学がやがて平田森三の名著『キリンのまだら』となり、さらにはフォン・ベルタランフィの一般システム理論やウォディントンの発生現象学などと結びついたころ、ぼくは「割れ目」学の継承者であることを宣言して、当時の『遊』にとりあげたものだった。
 が、縞々学はさきほども書いたように生物学や化学から生まれたというよりも、プレートテクトニクス理論以降の地球科学から生まれた。今後はこれらがふたたび「生きもの」をまきこんでくれることを期待する。
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≪01≫  だいたい1990年前後のことだったろう。水沢国立天文台の内藤勲夫は地球の変動にはどうも倍周期があるらしいことに気がついた。徳島大学の川上博は非線形力学系のファレイ数列に一組のリズム関係があることに注目していた。
≪02≫  すでに東工大の丸山茂雄や磯崎行雄が地球史プロジェクトと称して世界各地の岩石を収集して、これを横断的にさかのぼる研究をはじめていた。丸山さんのプロジェクトにはぼくも注目していて、ときどきシンポジウムに出てもらった。そこへさらに名古屋大学の熊沢峰夫はGET(全地球的事変テクトニクス・セミナー)を開催して、地球的規模でおこる変動や突発事態に共通する変数の発見を共同研究することをよびかけた。
≪03≫  これらは、総じてプレートテクトニクス理論の登場によって従来の地球科学の壁が突破されたことをきっかけに、新たなテクトニクスの未来をさぐろうという試みであり、その試みが研究者仲間のあいだでいつしか「縞々学」とよばれるようになっていたものだった。なにしろテクトニクスなら大地震や大海溝の多い日本が本場なのである。ネーミングは川上紳一が名古屋大学の修士だったころの水谷仁・深尾良夫らの仲間の一人であった古本宗充によるらしい。
≪04≫  縞々学とは、ようするに「全地球史解読計画」(これをDEEPという)をリズムの解読ですすめようというプロジェクトのことである。
≪05≫  リズムとは周期的変動性のことをいう。地球の磁場のリズム、気候のリズム、太陽活動のリズム、月のリズム、銀河のリズム、さらには生物活動がつくっているリズム、地軸の傾きがつくるミランコビッチ・サイクルなど、地球にひそむリズムはそうとうに多様で、複雑になっている。縞々学はこれらのなかに共鳴関係を見出そうというわけだ。
≪06≫  縞々学はもともと寺田寅彦に発している。そうおもいたい。寺田寅彦は「割れ目」の模様に着目した世界で最初の科学者だった。化学的な縞模様をつくるリーゼンガング現象なども寺田寅彦によって初めて意義深いものになっている。
≪07≫  この「割れ目」学がやがて平田森三の名著『キリンのまだら』となり、さらにはフォン・ベルタランフィの一般システム理論やウォディントンの発生現象学などと結びついたころ、ぼくは「割れ目」学の継承者であることを宣言して、当時の『遊』にとりあげたものだった。
≪08≫  が、縞々学はさきほども書いたように生物学や化学から生まれたというよりも、プレートテクトニクス理論以降の地球科学から生まれた。今後はこれらがふたたび「生きもの」をまきこんでくれることを期待する。
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23エミール・シオラン 崩壊概論2000/03/31
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24永田耕衣 耕衣自伝2000/04/03
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25レオナルド・ダ・ヴィンチ レオナルド・ダ・ヴィンチの手記2000/04/04
 この手記の序に選ばれた言葉群には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能にあらず」の文句がある。そして、青年時代のぼくを驚かせた「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。
 この「終わりを考えよ」という示唆は、文章ばかりが好きなテキスト派の知識人たちには見当のつきにくいことかもしれない。なぜ「終わり」が重要なのか。けれども、彫刻や建築を一度でも仕事にしたか、あるいは考えてみた者にとっては、ごくあたりまえのことになる。また、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になる。が、このあたりまえのことに最初に気が付いたのがレオナルドだった。
 『手記』をモンテーニュやパスカルの随想録のように読むことは可能である。随所に「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」とか「想像力は諸感覚の手綱である」といった章句がちりばめられているからだ。
  なかには、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」「点とは精神も分割しえないものである」といったヴィトゲンシュタイン顔負けの章句もあるし、「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は趣意を占める」といったハイデガー顔負けの章句も少なくない。
 しかし、この『手記』に学ぶことはやはりその芸術論や視覚論である。芸術論といっても抽象的なものではなく、一種の名人の言葉や達人の言葉に近い。たとえば、レオナルドは彫刻と絵画を区別するにあたって、どうしたか。彫刻は上からの光に左右されるが、絵画はいたるところに光と影を携えられると見た。
 「鋳物は型次第」というメモがある。なんでもないようだが、職人の達成を感じさせるメモである。とくにぼくが好きなのは「喉仏は必ずよっている足の踵の中心線上に存在しなければならぬ」といった“極意”のメモである。
 絵画論のなかの白眉は、空気遠近法についてのレオナルドの見方がのべられている箇所だろうか。
 ぼくにこの部分を読むように勧めてくれたのは、画家の中村宏であった。そして、ヴィルヘルム・ライヒの理論との相似性について語ってくれた。
 レオナルドは空気遠近法の実際を指導して、遠くのものを青色で描くようにしなさいと言っているのだが、その青色を探求したのがライヒだというのである。ぼくはライヒについてはすぐに読まなかったようにおもうが、やがてライヒに出会って驚いた。なんとライヒは「青色物質」を天空に採取しようとして、オルゴン・ボックスなるものを“発明”していたのだった。
 レオナルドの影響は、このようなライヒに見られる特異なものから、ヴァレリーや花田清輝の思索をへて、渦巻の科学やヘリコプターの開発におよぶまで、まことに巨大な光陰を発している。その万能の天才ぶりにあらためて言及するのがみっともないほどである。
 しかし、一度はレオナルドの『手記』は手にとってみたほうがいい。おそらく、諸君に名状しがたい自信をもたらすだろうからである。
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プレフィックス作成
≪01≫  この手記の序に選ばれた言葉群には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能にあらず」の文句がある。そして、青年時代のぼくを驚かせた「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。
≪02≫  この「終わりを考えよ」という示唆は、文章ばかりが好きなテキスト派の知識人たちには見当のつきにくいことかもしれない。なぜ「終わり」が重要なのか。けれども、彫刻や建築を一度でも仕事にしたか、あるいは考えてみた者にとっては、ごくあたりまえのことになる。また、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になる。が、このあたりまえのことに最初に気が付いたのがレオナルドだった。
≪03≫  『手記』をモンテーニュやパスカルの随想録のように読むことは可能である。随所に「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」とか「想像力は諸感覚の手綱である」といった章句がちりばめられているからだ。
≪04≫   なかには、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」「点とは精神も分割しえないものである」といったヴィトゲンシュタイン顔負けの章句もあるし、「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は趣意を占める」といったハイデガー顔負けの章句も少なくない。
≪05≫  しかし、この『手記』に学ぶことはやはりその芸術論や視覚論である。芸術論といっても抽象的なものではなく、一種の名人の言葉や達人の言葉に近い。たとえば、レオナルドは彫刻と絵画を区別するにあたって、どうしたか。彫刻は上からの光に左右されるが、絵画はいたるところに光と影を携えられると見た。
≪06≫  「鋳物は型次第」というメモがある。なんでもないようだが、職人の達成を感じさせるメモである。とくにぼくが好きなのは「喉仏は必ずよっている足の踵の中心線上に存在しなければならぬ」といった“極意”のメモである。
≪07≫  絵画論のなかの白眉は、空気遠近法についてのレオナルドの見方がのべられている箇所だろうか。
≪08≫  ぼくにこの部分を読むように勧めてくれたのは、画家の中村宏であった。そして、ヴィルヘルム・ライヒの理論との相似性について語ってくれた。
≪09≫  レオナルドは空気遠近法の実際を指導して、遠くのものを青色で描くようにしなさいと言っているのだが、その青色を探求したのがライヒだというのである。ぼくはライヒについてはすぐに読まなかったようにおもうが、やがてライヒに出会って驚いた。なんとライヒは「青色物質」を天空に採取しようとして、オルゴン・ボックスなるものを“発明”していたのだった。
≪010≫  レオナルドの影響は、このようなライヒに見られる特異なものから、ヴァレリーや花田清輝の思索をへて、渦巻の科学やヘリコプターの開発におよぶまで、まことに巨大な光陰を発している。その万能の天才ぶりにあらためて言及するのがみっともないほどである。
≪011≫  しかし、一度はレオナルドの『手記』は手にとってみたほうがいい。おそらく、諸君に名状しがたい自信をもたらすだろうからである。
≪012≫ ≪013≫ ≪014≫ ≪015≫ ≪016≫ ≪017≫ ≪018≫ ≪019≫ ≪020≫ ≪021≫ ≪022≫ ≪023≫ ≪024≫ ≪025≫ ≪026≫ ≪027≫ ≪028≫ ≪029≫ ≪030≫ 
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26レイモンド・チャンドラー さらば愛しき女よ2000/04/05
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27ロビン・マランツ・ヘニッグ ウイルスの反乱2000/04/06
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プレフィックス作成≪01≫ ≪02≫ ≪03≫ ≪04≫ ≪05≫ ≪06≫ ≪07≫ ≪08≫ 
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28山本周五郎「虚空遍歴」2000/04/07
 ぼくの山本周五郎遍歴は大学時代からである。先輩のゴリゴリのマルクス主義者が勧めてくれたのがきっかけだった。 彼がなぜ周五郎を読むのかは、最初に手にとった『樅の木は残った』を読みすすむうちにすぐにわかった。周五郎には人情あふれる御政談があるのだ。
 が、そのうち御政談ができる周五郎ではない周五郎に惹かれていった。それは黒澤明が『赤ひげ』や『どですかでん』の原作を周五郎に求めた気分とおそらく同様のもので、作者は何も主張していないにもかかわらず、そこにはすべてを感じとれる物語が路地の植木のように存分に用意され、しかもそこにはたっぷり水が注がれているということだった。
 『虚空遍歴』は、江戸で端唄の名人と評判がたった若き中藤冲也が、そういう評判に包まれて浮名がたつほどだったにもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれている物語である。
 さすがに才能のある冲也による浄瑠璃は、第一作がすぐに中村座にかかって好評を博するのだが、はたして冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていく。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまったからだった。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまう。
 こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていく。物語は江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転する。その変転に冲也に惚れるおけいがかかわって、独白の挿入が入ってくる。長い独り言である。おけいはもともとは色街育ちなのであるが、冲也の芸を聞き、毛虫が蝶になったような身震いをうけた女である。そのおけいが筋書の進展とは別に、淡々と胸の内をあかしていく。そうなると、そのおけいの独白が次にどうなるか、読者は居ても立ってもいられぬ気持ちになってくる。
 山本周五郎はこの作品を書くために40年を費やしたという。最初は『青べか物語』の一節に入れる予定だった。それがやがて「私のフォスター伝」というメモに変わっていき、さらにフォスターが時と所を越えて江戸の端唄師にワープした。こういうことができるのが周五郎の文学なのである。
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≪01≫  ぼくの山本周五郎遍歴は大学時代からである。先輩のゴリゴリのマルクス主義者が勧めてくれたのがきっかけだった。 彼がなぜ周五郎を読むのかは、最初に手にとった『樅の木は残った』を読みすすむうちにすぐにわかった。周五郎には人情あふれる御政談があるのだ。
≪02≫  が、そのうち御政談ができる周五郎ではない周五郎に惹かれていった。それは黒澤明が『赤ひげ』や『どですかでん』の原作を周五郎に求めた気分とおそらく同様のもので、作者は何も主張していないにもかかわらず、そこにはすべてを感じとれる物語が路地の植木のように存分に用意され、しかもそこにはたっぷり水が注がれているということだった。
≪03≫  『虚空遍歴』は、江戸で端唄の名人と評判がたった若き中藤冲也が、そういう評判に包まれて浮名がたつほどだったにもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれている物語である。
≪04≫  さすがに才能のある冲也による浄瑠璃は、第一作がすぐに中村座にかかって好評を博するのだが、はたして冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていく。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまったからだった。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまう。
≪05≫  こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていく。物語は江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転する。その変転に冲也に惚れるおけいがかかわって、独白の挿入が入ってくる。長い独り言である。おけいはもともとは色街育ちなのであるが、冲也の芸を聞き、毛虫が蝶になったような身震いをうけた女である。そのおけいが筋書の進展とは別に、淡々と胸の内をあかしていく。そうなると、そのおけいの独白が次にどうなるか、読者は居ても立ってもいられぬ気持ちになってくる。
≪06≫  山本周五郎はこの作品を書くために40年を費やしたという。最初は『青べか物語』の一節に入れる予定だった。それがやがて「私のフォスター伝」というメモに変わっていき、さらにフォスターが時と所を越えて江戸の端唄師にワープした。こういうことができるのが周五郎の文学なのである。
≪07≫ ≪08≫ 
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29ジャン・シャロン レスボスの女王2000/04/10
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30イアン・ビュルマ 日本のサブカルチャー2000/04/11
 なぜ山口百恵が三浦友和の世話をするためにスターの座を捨てたことを、日本の女性週刊誌は一斉に称賛するのか。なぜ谷崎潤一郎は母に対する思慕を裏返してナオミを偏愛し瘋癲老人を描いたのか。なぜ日本のラブシーンは「濡れ場」とよばれるのか。
 まだ、ある。ノーパン喫茶のクライマックスがなぜウェイトレスが着けていたパンティの競売になりうるのか。オスカルとアンドレが天国に行って結ばれることがなぜ宝塚やそのファンにとって必要なのか。
 まだ、言いたりない。少女マンガの日本人の主人公はなぜわざわざ茶色や亜麻色の流れるような髪になるのか。篠田正浩は高校球児にとって甲子園が聖地であることをなぜあんなに強調するのか。鈴木清順は《けんかえれじい》にどうして北一輝を出す必要があるのか。デラックス東寺(京都)のストリッパーは踊っているときはすました無表情なのに、“特出し”のときになってなぜ急にお母さんのように微笑するのか。高倉健と鶴田浩二はなぜギリギリまで我慢するのか――。
 一読、こんなふうにあけすけに日本の大衆文化像を見た書き手がかつていただろうかと思った。のちのちドナルド・リチーの弟子筋だったと知って「さもありなん」と納得したが、今度ざっと読み返して、著者が提起した謎かけはいまだ日本人からの返答がないままだということに気がついた。あまりに素頓狂で配慮のない「疑い」だからだろうが、その後の日本でちっとも回答が得られていないことばかりなのだ。
 イアン・ビュルマ(ブルマとも表記)がこの本でとりあつかったのは、昭和日本の大衆やマスメディアや表現者が祭り上げたヒーローやヒロインである。ガイジンにとっては目をそむけたくなるような、あるいは一部の日本人にはどうしてそんなことで日本を議論できるのかというような、そんなアイテムとアイコンばかりである。
 日本語版の序文と「まえがき」で、日本のサブカルチャーが説明すべきことについての本書の意図が述べられている。
 第一に、著者は日本が大好きなのだが、納得できないことも少なくない。その理由を学者やメディアに求めてもなかなか得られない。なぜなのか。そこを考えてみたかった。第二に、そうなっているのは日本の「高尚な文化」に対する説明と「低俗な文化」に対する説明とが示し合わせたかのように分断しているからだろうと思った。そこで第三に、著者自身が見聞した大衆文化に関する興味と疑問をそこそこに列挙してみた。
 しかし第四に、日本人は自分たちが溺れているかもしれない大衆文化はガイジンに理解されなくたっていいと思っているようなので、そこを突破するには日本人が好む英雄と悪役を虚像とみなさず、日本人が以前から培ってきたであろう神話性や選好性にもとづいて考えてみることにした。かくして第五に、欧米諸国のガイジンが培ってきた「想像力の産物」と、日本人が好んできた「想像上の英雄と悪役」には何か大きな違いがあるのだと思わざるをえないという結論を得た。
 こうして本書が綴られたのだが、書きすすむうちに「あること」を日本人に問い返す必要があることを痛感したようだ。それは端的に言えば、「日本人のやさしさ」と「日本人の暴力性と色情性」とを重ねあわせられる何らかの説明を、日本人はもっているのだろうかということだった。
 高校球児が涙ながらに甲子園の砂を小さな袋につめて持ち帰る姿と、キャンディーズや山口百恵が「フツーの女の子」に戻る姿に喝采をおくることと、ノーパンしゃぶしゃぶで茶髪の女子のお尻に触り、大学生がコンパでイッキ飲みをして女子学生を“落とす”ことは、別々なのだ(そのはずだ)。いいかえれば、日本人の行動規範の多くは、大衆的な遊びのなかでは何ひとつ守られていないし、生かされてもいないけれど、それでよろしいのかという問い返しだ。ようするに日本のサブカルチャーにはほとんどの説明可能な道徳もそれをくつがえす反道徳の哲学もないのだとしたら、日本人は快楽と暴力をよそおうことでしか日本的なペシミズムを回避できないということになるが、それでもいいんですね、ということである。
 イアン・ビュルマはこんなことを推理する。日本神話においては、スサノオは絶対的な悪神ではない。風によって木がなぎ倒されるように、他に迷惑をかけるから悪い神だとみなされているにすぎない。親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言った。こうした例を見ていくと、日本人の思考には絶対的な悪は存在しないように思える。ケガレを恐れているだけとも思える。
 ひょっとして日本人が「悪」と「ケガレ」を混同しているかもしれないという指摘に続いて、著者はスサノオが「ミソギ」(禊)をする理由の説明に移って、日本人は「悪」と「ケガレ」を一緒くたに水に流せるという原状回復力に可能性を見いだし、さらにはいったん出雲(根の国)に放逐されたスサノオがヤマタノオロチなどを退治して、美女を獲得する英雄として蘇生するという復活可能性に拍手をおくれるようにしたことに注目する。なぜこんなふうな展開を選んだのか。
 こうした物語の類型はギリシア・ローマ神話やオセアニア神話にもあるけれど、日本ではそれが「罪」や「罰」として継承されるよりも、新たな変容や変身の物語になることが多い。著者はそこに日本人の判官贔屓、「忠臣蔵好き」、西鶴の好色一代男の遍歴礼讃などに共通するモードを読みとり、それが谷崎潤一郎の痴女の観音化や今村昌平の《にっぽん昆虫記》の好色礼讃につながりうることを発見する。ついで、これらが日本の大衆メディア文化の、女性週刊誌や少女マンガに至ったイメージの系譜を追い、ここには「変容肯定主義」とでもいうものがあるのではないかと推断した。
 そして、これらのことはドイツ文学者の種村季弘が言うところの「日本的な浄化の儀式」でもあったことに、多少納得するのだ。
 本書のイギリス版の原題は『日本の鏡』で、アメリカ版は『仮面の裏』だった。それが日本語版で『日本のサブカルチャー』になった。版元と訳者の意向だろうが、いわゆるサブカル論ではない。映画についての言及は多いけれど、マンガ、ファッション、商品、Jポップ、学習塾、サブカル小説などは、ほとんどとりあつかっていない。
 しかし、昭和日本の大衆文化のかなり奇妙な一面を浮上させるには、そこそこの説得力をもっていた。日本人が好んだイメージ・セオリーに「変容肯定主義」の傾向が強いという観察も、けっこう当たっていた。たしかに日本には「かわる」(変)と「わかる」(判)という傾向があるからだ。
 イアンは一九五一年にオランダのハーグに生まれ、ライデン大学で中国語と日本語と日中の歴史を専攻した。在学中にアムステルダムで公演した寺山修司の天井棧敷を見て衝撃をうけ、さっそく日本に来て日大の芸術学部で日本映画を学んだ。小津安にもクロサワにも鈴木清順にも詳しいのはそのせいだ。
 その後はジャーナリストとして東京・ニューヨーク・香港に滞在し、二〇〇三年からはアメリカに行って大学教授となり、何冊もの本を書いた。翻訳されているものは少ないが(二〇〇〇年現在)、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(ちくま学芸文庫)は仲正昌樹の『日本とドイツ―二つの戦後思想』(光文社新書)とともにいまや日本人の必読書だろうし、オリエンタリズムならぬオクシデンタリズムの虚を突いた『反西洋思想』(新潮新書)は、『近代日本の誕生』(ランダムハウス講談社)と交差して、読ませた。
 この本は英語で書かれた。欧米社会ではかなりの反響があったらしい。だいたいの批評が「これまで触れにくかった日本をよくぞ巧みに描きだした」というものだったようだ。ただし、ぼくは、フィリップ・ウインザーの書評に出ていた次の一節のほうに感服した。
 「フロイトが日本で生まれていたら、自分の仕事をやめただろう。というのも、日本には父権的な宗教や、その派生物である西洋の道徳的な伝統がないのにもかかわらず、日本人は西洋と同じように多くのエディプス・コンプレックスをつくりだして、働くときや遊ぶときの特性としているからだ」。
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≪01≫  なぜ山口百恵が三浦友和の世話をするためにスターの座を捨てたことを、日本の女性週刊誌は一斉に称賛するのか。なぜ谷崎潤一郎は母に対する思慕を裏返してナオミを偏愛し瘋癲老人を描いたのか。なぜ日本のラブシーンは「濡れ場」とよばれるのか。
≪02≫  まだ、ある。ノーパン喫茶のクライマックスがなぜウェイトレスが着けていたパンティの競売になりうるのか。オスカルとアンドレが天国に行って結ばれることがなぜ宝塚やそのファンにとって必要なのか。
≪03≫  まだ、言いたりない。少女マンガの日本人の主人公はなぜわざわざ茶色や亜麻色の流れるような髪になるのか。篠田正浩は高校球児にとって甲子園が聖地であることをなぜあんなに強調するのか。鈴木清順は《けんかえれじい》にどうして北一輝を出す必要があるのか。デラックス東寺(京都)のストリッパーは踊っているときはすました無表情なのに、“特出し”のときになってなぜ急にお母さんのように微笑するのか。高倉健と鶴田浩二はなぜギリギリまで我慢するのか――。
≪04≫  一読、こんなふうにあけすけに日本の大衆文化像を見た書き手がかつていただろうかと思った。のちのちドナルド・リチーの弟子筋だったと知って「さもありなん」と納得したが、今度ざっと読み返して、著者が提起した謎かけはいまだ日本人からの返答がないままだということに気がついた。あまりに素頓狂で配慮のない「疑い」だからだろうが、その後の日本でちっとも回答が得られていないことばかりなのだ。
≪05≫  イアン・ビュルマ(ブルマとも表記)がこの本でとりあつかったのは、昭和日本の大衆やマスメディアや表現者が祭り上げたヒーローやヒロインである。ガイジンにとっては目をそむけたくなるような、あるいは一部の日本人にはどうしてそんなことで日本を議論できるのかというような、そんなアイテムとアイコンばかりである。
≪06≫  日本語版の序文と「まえがき」で、日本のサブカルチャーが説明すべきことについての本書の意図が述べられている。
≪07≫  第一に、著者は日本が大好きなのだが、納得できないことも少なくない。その理由を学者やメディアに求めてもなかなか得られない。なぜなのか。そこを考えてみたかった。第二に、そうなっているのは日本の「高尚な文化」に対する説明と「低俗な文化」に対する説明とが示し合わせたかのように分断しているからだろうと思った。そこで第三に、著者自身が見聞した大衆文化に関する興味と疑問をそこそこに列挙してみた。
≪08≫  しかし第四に、日本人は自分たちが溺れているかもしれない大衆文化はガイジンに理解されなくたっていいと思っているようなので、そこを突破するには日本人が好む英雄と悪役を虚像とみなさず、日本人が以前から培ってきたであろう神話性や選好性にもとづいて考えてみることにした。かくして第五に、欧米諸国のガイジンが培ってきた「想像力の産物」と、日本人が好んできた「想像上の英雄と悪役」には何か大きな違いがあるのだと思わざるをえないという結論を得た。
≪09≫  こうして本書が綴られたのだが、書きすすむうちに「あること」を日本人に問い返す必要があることを痛感したようだ。それは端的に言えば、「日本人のやさしさ」と「日本人の暴力性と色情性」とを重ねあわせられる何らかの説明を、日本人はもっているのだろうかということだった。
≪010≫  高校球児が涙ながらに甲子園の砂を小さな袋につめて持ち帰る姿と、キャンディーズや山口百恵が「フツーの女の子」に戻る姿に喝采をおくることと、ノーパンしゃぶしゃぶで茶髪の女子のお尻に触り、大学生がコンパでイッキ飲みをして女子学生を“落とす”ことは、別々なのだ(そのはずだ)。いいかえれば、日本人の行動規範の多くは、大衆的な遊びのなかでは何ひとつ守られていないし、生かされてもいないけれど、それでよろしいのかという問い返しだ。ようするに日本のサブカルチャーにはほとんどの説明可能な道徳もそれをくつがえす反道徳の哲学もないのだとしたら、日本人は快楽と暴力をよそおうことでしか日本的なペシミズムを回避できないということになるが、それでもいいんですね、ということである。
≪011≫  イアン・ビュルマはこんなことを推理する。日本神話においては、スサノオは絶対的な悪神ではない。風によって木がなぎ倒されるように、他に迷惑をかけるから悪い神だとみなされているにすぎない。親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言った。こうした例を見ていくと、日本人の思考には絶対的な悪は存在しないように思える。ケガレを恐れているだけとも思える。
≪012≫  ひょっとして日本人が「悪」と「ケガレ」を混同しているかもしれないという指摘に続いて、著者はスサノオが「ミソギ」(禊)をする理由の説明に移って、日本人は「悪」と「ケガレ」を一緒くたに水に流せるという原状回復力に可能性を見いだし、さらにはいったん出雲(根の国)に放逐されたスサノオがヤマタノオロチなどを退治して、美女を獲得する英雄として蘇生するという復活可能性に拍手をおくれるようにしたことに注目する。なぜこんなふうな展開を選んだのか。
≪013≫  こうした物語の類型はギリシア・ローマ神話やオセアニア神話にもあるけれど、日本ではそれが「罪」や「罰」として継承されるよりも、新たな変容や変身の物語になることが多い。著者はそこに日本人の判官贔屓、「忠臣蔵好き」、西鶴の好色一代男の遍歴礼讃などに共通するモードを読みとり、それが谷崎潤一郎の痴女の観音化や今村昌平の《にっぽん昆虫記》の好色礼讃につながりうることを発見する。ついで、これらが日本の大衆メディア文化の、女性週刊誌や少女マンガに至ったイメージの系譜を追い、ここには「変容肯定主義」とでもいうものがあるのではないかと推断した。
≪014≫  そして、これらのことはドイツ文学者の種村季弘が言うところの「日本的な浄化の儀式」でもあったことに、多少納得するのだ。
≪015≫  本書のイギリス版の原題は『日本の鏡』で、アメリカ版は『仮面の裏』だった。それが日本語版で『日本のサブカルチャー』になった。版元と訳者の意向だろうが、いわゆるサブカル論ではない。映画についての言及は多いけれど、マンガ、ファッション、商品、Jポップ、学習塾、サブカル小説などは、ほとんどとりあつかっていない。
≪016≫  しかし、昭和日本の大衆文化のかなり奇妙な一面を浮上させるには、そこそこの説得力をもっていた。日本人が好んだイメージ・セオリーに「変容肯定主義」の傾向が強いという観察も、けっこう当たっていた。たしかに日本には「かわる」(変)と「わかる」(判)という傾向があるからだ。
≪017≫  イアンは一九五一年にオランダのハーグに生まれ、ライデン大学で中国語と日本語と日中の歴史を専攻した。在学中にアムステルダムで公演した寺山修司の天井棧敷を見て衝撃をうけ、さっそく日本に来て日大の芸術学部で日本映画を学んだ。小津安にもクロサワにも鈴木清順にも詳しいのはそのせいだ。
≪018≫  その後はジャーナリストとして東京・ニューヨーク・香港に滞在し、二〇〇三年からはアメリカに行って大学教授となり、何冊もの本を書いた。翻訳されているものは少ないが(二〇〇〇年現在)、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(ちくま学芸文庫)は仲正昌樹の『日本とドイツ―二つの戦後思想』(光文社新書)とともにいまや日本人の必読書だろうし、オリエンタリズムならぬオクシデンタリズムの虚を突いた『反西洋思想』(新潮新書)は、『近代日本の誕生』(ランダムハウス講談社)と交差して、読ませた。
≪019≫  この本は英語で書かれた。欧米社会ではかなりの反響があったらしい。だいたいの批評が「これまで触れにくかった日本をよくぞ巧みに描きだした」というものだったようだ。ただし、ぼくは、フィリップ・ウインザーの書評に出ていた次の一節のほうに感服した。
≪020≫  「フロイトが日本で生まれていたら、自分の仕事をやめただろう。というのも、日本には父権的な宗教や、その派生物である西洋の道徳的な伝統がないのにもかかわらず、日本人は西洋と同じように多くのエディプス・コンプレックスをつくりだして、働くときや遊ぶときの特性としているからだ」。
≪021≫ ≪022≫ 
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31中勘助 銀の匙2000/04/12
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32ロープシン 蒼ざめた馬2000/04/14
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33ルドルフ・シュタイナー 遺された黒板絵2000/04/17
 この一冊は説明するものではない。なぜなら、これは絵を読むための一冊であるからだ。ルドルフ・シュタイナーが黒板にさまざまなドローイングをしながら講義をしていたことは伝え聞いていた。が、それがどういうものかは、ワタリウムの和多利恵津子さんが展覧会をするまでは知らなかった。一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。
 なぜ1920年代のシュタイナーの黒板絵が残っていたかということは、事情を知らない者にとってはちょっとした謎である。が、すぐれたスタッフにはときどきそういう人たちがいて、歴史をつくってくれるものだが、シュタイナーにもそういうスタッフがいたわけである。あるスタッフがシュタイナーがいつも描く黒板のドローイングがこのうえなく貴重なものにおもえ、そのドローイングの模写をトゥゲニエフという女性画家に依頼したのがはじまりだった。けれども模写ではシュタイナーその人の味は出きらない。そこで生徒の一人が黒板に黒い紙を貼ってしまうことをおもいついた。シュタイナーはそれでも同じように黒板的黒紙に図示をし、絵を描きつづけた。これで奇跡的にも、その黒紙が保存されたのである。1919年からシュタイナーがドルナッハで死ぬまでの6年間のドローイング、約1000点がこうして残された。
 一枚、このドローイングのなかから好きな絵を選べといわれれば、ぼくなら1923年10月6日のドローイングを選ぶ。これは「地球が月になるとき」(When Earth Becomes Moon)というもので、不束な地球が月の動きをうけてその精神を受胎しているような構図がふわふわと描かれていて、フラジャイルなのである。
 この絵についてはシュタイナーは次のように考えていた。もともと人間は地球につながっている。その地球に新たな人間たちが生まれてくるときは、月の作用が女性たちになんらかのものをもたらして、その新たな人間がよく育つようにするはずだ。そして新たな人間を迎えることになる女性たちはきっと月になっていく。それが証拠に、地球は毎年クリスマスが近づくたびに、地球のすぐの内側にとても月に似た部分をつくっているものなのだ、というふうに。いかにもシュタイナーらしい。
 ルドルフ・シュタイナーに接するには、「神智学」と「人智学」という二つの用語がもつ領域と社会性をちょっとばかり知っておかなければならない。
 神智学はやたらに広い。古代の原始キリスト教神秘主義とともに始まっていて、神学・新プラトン主義・グノーシス・カバラ・ヨアキム主義そのほかがまるごと含まれることもある。しかし狭義の神智学はヘレーネ・ブラヴァツキー(しばしばマダム・ブラヴァツキーとよばれる)によって唱導されたスピリチュアリズムのことをさしていて、なかでも1875年にアメリカの農場でブラヴァツキーとオルコットによって設立された神智学協会をさすことが多い。
 ブラヴァツキーは1831年のロシアの生まれだが、やがてロシアを出奔して世界各地を放浪し、それぞれの地の神話や伝承や秘教を吸収していった。そこまでは過去の神秘主義者とたいして変わらないオカルト派だったのだが、しだいに英米中心のオカルティストとは異なるヴィジョンをもつようになっていった。「再生」を確信し、精神の根拠を物質的な実証性にもたないようになったのである。
 そのころ、多くのオカルティストは霊媒を信用していて、しきりに降霊術をおこなって、死者の言葉や霊魂がたてる音やエクトプラズム現象に関心を示していた。ブラヴァツキーはこれらに疑問をもち、いっさいの物的証拠とは無縁の霊魂の存在を確信するようになり、さらにユダヤ・キリスト教では否定されていた「再生」に関心を示した。この再生感覚はむしろ仏教思想に近いものだった。実際にもブラヴァツキーはインドに行ったか、もしくはその近くでのインド仏教体験をしたと推測されている。
 こうして神智学協会が設立されたのだが、その種火は小さなアマチュアリズムに発していたにもかかわらず、ブラヴァツキーが人種・宗教・身分をこえた神秘主義研究を訴えたためか、その影響は大きかった。この神智学協会の後継者ともくされたのがシュタイナーなのである。ついでに言っておくのだが、神智学協会の活動は1930年代には衰退したにもかかわらず、その波及は収まらず、その影響はたとえばカンディンスキー・モンドリアン・スクリャービンらの芸術活動へ、また日本にも飛び火して鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともした。日本の神智学協会運動は三浦関造の竜王会が継承しているというふれこみになっている。
 人智学という用語はもともと16世紀のころからつかわれていて、19世紀には人類学のトロクスラーやヘルバルト派の哲学者ツィマーマンによって学術用語とされた。しかし、いまではシュタイナーが設立した人智学協会やその主唱する学術的神秘思想全般をさすようになっている。
 人智学を提唱する前のシュタイナーはきわめて本格的なゲーテ研究者であった。1861年にクラリュベック(のちにユーゴスラヴィアに編入)に生まれたシュタイナーは、ウィーン工科大学を出たあと、1883年から14年間にわたってキュルシュナーの国民文学叢書で「ゲーテ自然科学著作集」全5巻の編集にかかわった。これがその後のシュタイナーの思想の根底を用意した。ゲーテの有機体論と形態学こそはその後もずっとシュタイナーの総合エンジンとなったのである。のちに「ゲーテアヌム」をつくるのも、このゲーテ主義にもとづいている。
 ついで1900年ころにブラヴァツキーの神智学運動にふれて大きな共感をもつと、1902年には神智学協会のドイツ支部事務総長になっていた。その後、協会のアニー・ベサントがクリシュナムルティをキリストの生まれ替わりだと言い出すにおよんでシュタイナーを呆れさせ、結局は人智学協会の設立に向かわせた。1913年のことである。協会は1923年に「一般人智学協会」、および「霊学のための自由大学」に発展する。いずれもスイス・ドルナハのゲーテアヌムに本部がおかれた。
 シュタイナーは何をしようとしたのだろうか。それを手短かに語ることは勘弁してほしい。シュタイナーを語るにはシュタイナー主義者になる必要がある。それはいまのぼくにはできそうもない。そのかわり、シュタイナーが仕掛けた発信装置がいまや世界各地のゲーテアヌムとして、オイリュトミーとして、シュタイナーハウスとして根を下ろしていることを伝えたほうがいい。黒板絵の前に立ってみることもそのひとつだ。
 しかし、ひとつだけぼくも強調しておきたいことがある。シュタイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえばウル思想ということである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みたのである。
 超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていた。ハイゼンベルグだってウルマテリア(原物質)を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それをひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。
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プレフィックス作成
≪01≫  この一冊は説明するものではない。なぜなら、これは絵を読むための一冊であるからだ。ルドルフ・シュタイナーが黒板にさまざまなドローイングをしながら講義をしていたことは伝え聞いていた。が、それがどういうものかは、ワタリウムの和多利恵津子さんが展覧会をするまでは知らなかった。一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。
≪02≫  なぜ1920年代のシュタイナーの黒板絵が残っていたかということは、事情を知らない者にとってはちょっとした謎である。が、すぐれたスタッフにはときどきそういう人たちがいて、歴史をつくってくれるものだが、シュタイナーにもそういうスタッフがいたわけである。あるスタッフがシュタイナーがいつも描く黒板のドローイングがこのうえなく貴重なものにおもえ、そのドローイングの模写をトゥゲニエフという女性画家に依頼したのがはじまりだった。けれども模写ではシュタイナーその人の味は出きらない。そこで生徒の一人が黒板に黒い紙を貼ってしまうことをおもいついた。シュタイナーはそれでも同じように黒板的黒紙に図示をし、絵を描きつづけた。これで奇跡的にも、その黒紙が保存されたのである。1919年からシュタイナーがドルナッハで死ぬまでの6年間のドローイング、約1000点がこうして残された。
≪03≫  一枚、このドローイングのなかから好きな絵を選べといわれれば、ぼくなら1923年10月6日のドローイングを選ぶ。これは「地球が月になるとき」(When Earth Becomes Moon)というもので、不束な地球が月の動きをうけてその精神を受胎しているような構図がふわふわと描かれていて、フラジャイルなのである。
≪04≫  この絵についてはシュタイナーは次のように考えていた。もともと人間は地球につながっている。その地球に新たな人間たちが生まれてくるときは、月の作用が女性たちになんらかのものをもたらして、その新たな人間がよく育つようにするはずだ。そして新たな人間を迎えることになる女性たちはきっと月になっていく。それが証拠に、地球は毎年クリスマスが近づくたびに、地球のすぐの内側にとても月に似た部分をつくっているものなのだ、というふうに。いかにもシュタイナーらしい。
≪05≫  ルドルフ・シュタイナーに接するには、「神智学」と「人智学」という二つの用語がもつ領域と社会性をちょっとばかり知っておかなければならない。
≪06≫  神智学はやたらに広い。古代の原始キリスト教神秘主義とともに始まっていて、神学・新プラトン主義・グノーシス・カバラ・ヨアキム主義そのほかがまるごと含まれることもある。しかし狭義の神智学はヘレーネ・ブラヴァツキー(しばしばマダム・ブラヴァツキーとよばれる)によって唱導されたスピリチュアリズムのことをさしていて、なかでも1875年にアメリカの農場でブラヴァツキーとオルコットによって設立された神智学協会をさすことが多い。
≪07≫  ブラヴァツキーは1831年のロシアの生まれだが、やがてロシアを出奔して世界各地を放浪し、それぞれの地の神話や伝承や秘教を吸収していった。そこまでは過去の神秘主義者とたいして変わらないオカルト派だったのだが、しだいに英米中心のオカルティストとは異なるヴィジョンをもつようになっていった。「再生」を確信し、精神の根拠を物質的な実証性にもたないようになったのである。
≪08≫  そのころ、多くのオカルティストは霊媒を信用していて、しきりに降霊術をおこなって、死者の言葉や霊魂がたてる音やエクトプラズム現象に関心を示していた。ブラヴァツキーはこれらに疑問をもち、いっさいの物的証拠とは無縁の霊魂の存在を確信するようになり、さらにユダヤ・キリスト教では否定されていた「再生」に関心を示した。この再生感覚はむしろ仏教思想に近いものだった。実際にもブラヴァツキーはインドに行ったか、もしくはその近くでのインド仏教体験をしたと推測されている。
≪09≫  こうして神智学協会が設立されたのだが、その種火は小さなアマチュアリズムに発していたにもかかわらず、ブラヴァツキーが人種・宗教・身分をこえた神秘主義研究を訴えたためか、その影響は大きかった。この神智学協会の後継者ともくされたのがシュタイナーなのである。ついでに言っておくのだが、神智学協会の活動は1930年代には衰退したにもかかわらず、その波及は収まらず、その影響はたとえばカンディンスキー・モンドリアン・スクリャービンらの芸術活動へ、また日本にも飛び火して鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともした。日本の神智学協会運動は三浦関造の竜王会が継承しているというふれこみになっている。
≪010≫  人智学という用語はもともと16世紀のころからつかわれていて、19世紀には人類学のトロクスラーやヘルバルト派の哲学者ツィマーマンによって学術用語とされた。しかし、いまではシュタイナーが設立した人智学協会やその主唱する学術的神秘思想全般をさすようになっている。
≪011≫  人智学を提唱する前のシュタイナーはきわめて本格的なゲーテ研究者であった。1861年にクラリュベック(のちにユーゴスラヴィアに編入)に生まれたシュタイナーは、ウィーン工科大学を出たあと、1883年から14年間にわたってキュルシュナーの国民文学叢書で「ゲーテ自然科学著作集」全5巻の編集にかかわった。これがその後のシュタイナーの思想の根底を用意した。ゲーテの有機体論と形態学こそはその後もずっとシュタイナーの総合エンジンとなったのである。のちに「ゲーテアヌム」をつくるのも、このゲーテ主義にもとづいている。
≪012≫  ついで1900年ころにブラヴァツキーの神智学運動にふれて大きな共感をもつと、1902年には神智学協会のドイツ支部事務総長になっていた。その後、協会のアニー・ベサントがクリシュナムルティをキリストの生まれ替わりだと言い出すにおよんでシュタイナーを呆れさせ、結局は人智学協会の設立に向かわせた。1913年のことである。協会は1923年に「一般人智学協会」、および「霊学のための自由大学」に発展する。いずれもスイス・ドルナハのゲーテアヌムに本部がおかれた。
≪013≫  シュタイナーは何をしようとしたのだろうか。それを手短かに語ることは勘弁してほしい。シュタイナーを語るにはシュタイナー主義者になる必要がある。それはいまのぼくにはできそうもない。そのかわり、シュタイナーが仕掛けた発信装置がいまや世界各地のゲーテアヌムとして、オイリュトミーとして、シュタイナーハウスとして根を下ろしていることを伝えたほうがいい。黒板絵の前に立ってみることもそのひとつだ。
≪014≫  しかし、ひとつだけぼくも強調しておきたいことがある。シュタイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえばウル思想ということである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みたのである。
≪015≫  超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていた。ハイゼンベルグだってウルマテリア(原物質)を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それをひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。
≪016≫ 
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34アルフレッド・ジャリ 超男性2000/04/18
 最近の日本ではスポーツがどんどん強化され、ますます衆愚化され、一方的に聖化されている。一人のJリーガーや競歩選手や格闘技家の苦しみに満ちたトレーニングと、その苦痛をこえて勝ちとろうとしている栄冠に対する強靭な意志などを執拗に描いたドキュメント番組は、たいていの日本人の心を打っている。かつては、そういう扱い方は甲子園球児などには向けられていたものの、スポーツ全般や多くのアスリートたちに向けられるなどということはなかったものだ。
 いったい何がスポーツにひそんでいるというのだろうか。おそらくは、他のものに見いだしにくくなったさまざまなこと、熱中や挫折や競争力や、鍛錬性やチーム力といったものが、スポーツから発見しやすいからにちがいない。しかし、そこが考えどころだ。スポーツの裏側や内側に秘められているもの、汗や勝敗や闘いのシナリオやスポ魂ではないもの、ひょっとしたらもっと普遍的で、そうでありながら歪んでしまったものが、そろそろ考えられる必要がある。
 スポーツにひそむとんでもないもの、それを早々に発見したのがアルフレッド・ジャリだった。ジャリはスポーツの本質とセックスの本質と機械の本質とが同質のものであることを見抜いたのだ。スポーツの側から発見したわけではない。身体というものにひそむ本来的な衝動と緊張を追跡していくことによって、スポーツに出入りしてやまない「性機械」の飛沫ともいうべきを暴いた。超男性とはそのことである。
 ジャリは世紀末に機械のような青春をおくって、二十世紀の初頭に早々とオイルを切らし、さっさと三四歳で倒れた風変わりなブルターニュ人である。 酒とピストルと自転車を偏愛し、悪趣味と韜晦と男性自身をこよなく好み、どんなばあいも「複雑な全体」というシステムに全身で敬意を払いつづけた。そのような好みの世界をジャリ自身の肉体がフィジカルにもメタフィジカルにもまるごと引き取ってしまうことが、ジャリの生き方だった。
 とりわけ一八九六年に、パリにセンセーションをまきおこした『ユビュ王』(現代思潮新社)が上演されてからというものは、そのときまだ二三歳だった作者のジャリは“異常なユビュ”としての登場人物の人生を自ら演じはじめた。UBUとは、それ自体が遍在的(ユビック)でありながら円環をなしてしまう存在の代名詞であり、おそらくはジャリ自身のことである。そのようなジャリの哲学を、ジャリ自身の命名によって、われわれは「パタフィジック」(pataphysique)とよんでいる。形而上学を超えたものという意味だ。さしずめ「形而超学」とでも訳したい。
 今夜とりあげた『超男性』には意外な副題がついている。なんと「現代小説」というものだ。これは、前作の『メッサリーナ』(一九〇一)に「古代ローマ小説」という副題がついていることを踏襲したジャリのブンガク作法ともいうべきもので、前作では鬘をつけていたローマ皇帝クラウディウスの皇妃メッサリーナに超女性を演じさせていたのに対照して、『超男性』では主人公アンドレ・マルクイユを現代そのものに仕立ててみたかったという、そういう趣向だった。
 この「現代小説」はそんじょそこらの現代小説ではなかった。主人公のアンドレ・マルクイユはつねに競争しつづける機械そのものなのである。最初は五人のサイクリストと一万マイルを競走する。競走者たちには小人や影と列車も加わった。マルクイユは自転車で参加して、並みいる競走者を抜きさった。 次の競争は、リュランスの城の大広間における愛の競争だ。セックスやりまくり競争だ。性交回数が競われる。マルクイユはエレンとの死闘をくりひろげるが、そこにはまさにスポーツを観戦するかのように、ガラス窓をへだててバティビウス博士、七人の娼婦、怪物のような蓄音機が、目撃者として参加した。最後の競争は、この現代小説を包みこむ全体としての全身競争ともいうべきもので、もはやパタフィジックとしかいいようのない愛と機械の競争である。新しい神話としか名づけようのない神学的でエロティックな永久運動そのものがひたすら提示されるのだ。 こういう現代小説は、ジャリだけが描きえた文学の近代五種競技であり、言葉のトライアスロンだった。
 アルフレッド・ジャリにはまことしやかな伝説がつきまとう。一八七三年九月八日、フランスのラヴァルの一隅で、ある助産婦が、とりあげた男の子を見て気を失ってしまったらしい。その子は毛むくじゃらで、顔には髭さえ生えていた。  この幼児はガルガンチュアほどの巨児ではなかったが、一人で歩き、母親の補助をはねのけ、買ってもらった半ズボンがはじけ、やむなく長ズボンを仕立てたところ、下腹部がきつすぎた。ジャリは幼くして巨根の持ち主だったのだ。仕立て屋の「右寄りですね」という言葉がのこっているという。  中学校に入ると厖大な量の本を読むようになった。なかなか眠らない。母親のほうがノイローゼになり、ジャンブリュー、レンヌ、パリなどと何度も引っ越した。引っ越しはジャリの知能をそのつど化けもののように飛躍させた。行く先々の学校でトップの成績を示しただけでなく、中学校修了時にはバカロレアに合格するも、高等師範学校の受験は失敗、三年かけて挑戦し、ついにあきらめた。  受験はうまくいかなかったけれど、文芸コンクールで頭角をあらわし、それに勝ってジャリを夢中にさせたのがスポーツ競技と自転車だった。スポーツは万能で、数々の記録を塗り替えたが、異常なほどに熱中したのは自転車だ。チームを組んで蒸気機関車と競争してこれを追い抜きもした。ただ、このときチームの一員が自転車に乗ったまま呼吸停止した。
 しばらくしてパリに奇っ怪な男が出現した。あちこちのカフェを訪れては、客たちに理解不可能な話をふっかけて煙に巻き、そのたびに酒をしこたま飲んでいく。 ともかく何でもよく知っている。化学者を相手に現代錬金術を説き、陸軍士官に軍事戦略の細目を説く。そして二三歳のときに、突如として謎のような『ユビュ王』を執筆上演して、パリっ子の肝をつぶしてみせた。パリっ子には納得のできない猥雑と不条理が渦巻いていた。 酒量は尋常ではなかったという。女ともだちのラシルド夫人の証言によると、ジャリの一日は朝の二リットルのワインに始まり、アブサンを昼までに三度に分けて飲み、昼食時は魚と肉にあわせて赤か白のワインとアブサン、午後は珈琲にマール酒とその日の好みのカクテル、夕食ではふんだんにアペリティフをたのしんだうえで、たいてい三本以上のワインを飲みほし、就寝前には酢とアブサンを混ぜたジャリ・カクテルをやりながら寝入っていたらしい。 趣味も多彩だ。今日ならばジムでトレーニングするような運動をする、自転車をはじめとする機具・機械のたぐいに精通する、カードやダイスなどの賭け事に挑む、そして精力絶倫のセックスを欠かさない。一九〇二年、アメリカ人のエルソンが掲げた「人は二四時間で、どんだけセックスできるか」という課題に挑み、エルソンの娘を相手に監視のもと、実に八二回に及んだ。親友であったギヨーム・アポリネールによると、ピストル・フェチでもあった。
 ジャリが超男性だったのである。独身機械だったのである。カフカの独身者の機械もデュシャンの独身者による機械の花嫁も、早熟の異才ジャリが真っ先に体現してみせたことだった。欲望のままに体現したのではない。ジャリはそれが従来の科学に代わる真の科学になるとみなし、これをパタフィジック(形而超学)にしてみせた。 このことについては『ユビュ王』や『超男性』とともに『フォーストロール博士言行録』(国書刊行会「フランス世紀末文学叢書」)を閲さなければならない。これまた奇書中の奇書というもので、生まれながらにして六三歳のフォーストロール博士は体を自在に変形しながら、執達吏と狒々ボス・ド・ナージュとともに三次元の旅に出るという驚天動地の奇行譚を見せる。ブルトンもデュシャンもボリス・ヴィアンもこれにいかれた。 これらのパタフィジックな想像力は、とうてい今日の読者や作家やアーティストが追随できるものではなくなりつつある。おそらく今日においてジャリを踏襲しても何とかなりそうなのは、そのスポーツ観、ないしはアスリート像だけだろう。ところが、それですら今日のメディア・スポーツ時代は、ジャリ的スポーツ力には到っていないままなのかもしれない。
 今日のスポーツと、それをとりまく観察と熱狂の視線というものは、このままほっておけばあらゆる「人生の代名詞」となっていくだけだろうと思う。そこには競争も忍耐も克服も、参加も失望も没落も裏切りもある。人生がほぼ縮図されている。 はたしてそれでいいのか。スポーツをそんなふうに人生の縮図めいて堪能するだけでいいのかと問わなければなるまい。喜怒哀楽をスポーツに短縮ダイヤルしてばかりいていいのか。次に、こうも問わなければなるまい。ではセックスは人生の縮図ではないのか。機械は人生の縮図をめざしていないのか。セックスも機械もその可能性があるような気がするというなら、では、スポーツとセックスと機械はなぜ一緒に語られなくなったのか、というふうに。最近のメディアが騒ぐスポーツはこういうことに注目しなくなったのである。 二一世紀に向かって驀進する肉と魂の神学的機械に変更させる可能性を、アルフレッド・ジャリのほうに舵を切って堪能しなければならない。超男性とはスポーツに投身するすべての精神と身体が向かっているものの象徴なのである。 ジャリは書いた。「定理。神は無限小である」と。独身者は世界最小の神である、ということだった。独身者はそれ自体が「独身者の機械」だったのだ。
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35加藤郁乎 日本は俳句の国か2000/04/19
 永井荷風は「白魚や発句よみたき心かな」といった絶妙の俳諧味をもっていた。日野草城には「うぐひすのこゑのさはりし寝顔かな」がある。 こういう一句を抜け目なく拾う眼力は、よくよく俳句に親しむか、ないしは書や陶磁器を一発で選べる性来の趣味をもっているか、そのどちらかによる。加藤郁乎にはその両方があった。
本書は厖大に出回っている俳句に関する本の中でも白眉の一冊といってよい。 それが加藤郁乎の初のエッセイ集であったなどとは、まったく信じられない。ぼくはまた、郁乎さんならもうとっくに何冊も俳諧論をはじめとする含蓄の書を出しているとばかりおもっていた。
 ところが、そうではなかった。そのことをあらためて知ってみると、そうか、浩翰な本というものは、やはりむやみに執筆をしている連中にはとうてい書けないのかなどともおもえてくる。郁乎さんの親友でもある松山俊太郎がやはり、なかなか本を書かないインド哲学者なのである。
 本書を読む愉楽は、選びぬかれた俳句を次々に見る醍醐味にある。そのうえで加藤郁乎が言葉を凝結して織りなす評釈に心を奪われる快感がやってくる。
 ただし、この本はよほどの俳句好きか、さもなくば、よほどの江戸趣味、それも野郎歌舞伎くらいまでの時期の前期江戸趣味の持ち主ではないかぎり、また現代の俳句でいうなら、富沢赤黄男や永田耕衣ばかりがやけに好きな者でないかぎり、あまり遊べないかもしれない。けれども、そこが極上なのである。
 では、加藤郁乎が本書に紹介した俳句から、ぼくが気にいった句を何句かあげておく。本書に出てくる順である。
雪とけや八十年のつくりもの  竹島正朔
西行も未だ見ぬ花の郭かな  山東京伝
何の木の花とはしらずにほひかな  松尾芭蕉
散花に南無阿弥陀仏とゆふべ哉  荒木田守武
紅梅やここにも少し残る雪  中村吉右衛門
しらぬまにつもりし雪のふかさかな 久保田万太郎
雪の日の世界定めや三櫓  細木香以
竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな  永田耕衣
沈丁もみだるるはなのたぐひかな  永田耕衣
しばらくは雀まじへぬ冬の山  永田耕衣
いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣
この道を向き直りくる鬼やんま  三橋敏雄
柏手を打てば雪降る男坂  角川春樹
露草のつゆの言葉を思うかな  橋間石
憤然と山の香の付く揚羽かな  永田耕衣
淋しさに二通りあり秋の暮  三橋敏雄
猫の恋老松町も更けにけり  三橋敏雄
何か盗まれたる弥勒菩薩かな  火渡周平
襲名は熟柿のごとく団十郎  筑紫磐井
むめのはなきそのゆめみしゑひもせず 角川春樹
秋天に表裏山河の文字かなし  加藤楸邨
白扇のゆゑの翳りをひろげたり  上田五千石
おとろへてあぢさゐ色の齢かな  草間時彦
この国の言葉によりて花ぐもり  阿部青蛙
一ぴきの言葉が蜜を吸ふつばき  阿部青蛙
ろはにほへの字形なる薄哉  西山宗因
日本語はうれしやいろはにほへとち  阿部青蛙
或るときは洗ひざらしの蝶がとぶ  阿部青蛙
うかんむりの空を見ながら散歩する  阿部青蛙
炎天をゆく一のわれまた二のわれ  阿部青蛙
尾を上げて尾のした暗し春雀  永田耕衣
むさし野のさこそあるらめ馬場の月  大田南畝
五月雨やただ名はかりの菖蒲河岸  永井荷風
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プレフィックス作成
≪01≫  永井荷風は「白魚や発句よみたき心かな」といった絶妙の俳諧味をもっていた。日野草城には「うぐひすのこゑのさはりし寝顔かな」がある。 こういう一句を抜け目なく拾う眼力は、よくよく俳句に親しむか、ないしは書や陶磁器を一発で選べる性来の趣味をもっているか、そのどちらかによる。加藤郁乎にはその両方があった。
≪02≫ 本書は厖大に出回っている俳句に関する本の中でも白眉の一冊といってよい。 それが加藤郁乎の初のエッセイ集であったなどとは、まったく信じられない。ぼくはまた、郁乎さんならもうとっくに何冊も俳諧論をはじめとする含蓄の書を出しているとばかりおもっていた。
≪03≫  ところが、そうではなかった。そのことをあらためて知ってみると、そうか、浩翰な本というものは、やはりむやみに執筆をしている連中にはとうてい書けないのかなどともおもえてくる。郁乎さんの親友でもある松山俊太郎がやはり、なかなか本を書かないインド哲学者なのである。
≪04≫  本書を読む愉楽は、選びぬかれた俳句を次々に見る醍醐味にある。そのうえで加藤郁乎が言葉を凝結して織りなす評釈に心を奪われる快感がやってくる。
≪05≫  ただし、この本はよほどの俳句好きか、さもなくば、よほどの江戸趣味、それも野郎歌舞伎くらいまでの時期の前期江戸趣味の持ち主ではないかぎり、また現代の俳句でいうなら、富沢赤黄男や永田耕衣ばかりがやけに好きな者でないかぎり、あまり遊べないかもしれない。けれども、そこが極上なのである。
≪06≫  では、加藤郁乎が本書に紹介した俳句から、ぼくが気にいった句を何句かあげておく。本書に出てくる順である。
≪07≫ 雪とけや八十年のつくりもの  竹島正朔
≪08≫ 西行も未だ見ぬ花の郭かな  山東京伝
≪09≫ 何の木の花とはしらずにほひかな  松尾芭蕉
≪010≫ 散花に南無阿弥陀仏とゆふべ哉  荒木田守武
≪011≫ 紅梅やここにも少し残る雪  中村吉右衛門
≪012≫ しらぬまにつもりし雪のふかさかな 久保田万太郎
≪013≫ 雪の日の世界定めや三櫓  細木香以
≪014≫ 竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな  永田耕衣
≪015≫ 沈丁もみだるるはなのたぐひかな  永田耕衣
≪016≫ しばらくは雀まじへぬ冬の山  永田耕衣
≪017≫ いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣
≪018≫ この道を向き直りくる鬼やんま  三橋敏雄
≪019≫ 柏手を打てば雪降る男坂  角川春樹
≪020≫ 露草のつゆの言葉を思うかな  橋間石
≪021≫ 憤然と山の香の付く揚羽かな  永田耕衣
≪022≫ 淋しさに二通りあり秋の暮  三橋敏雄
≪023≫ 猫の恋老松町も更けにけり  三橋敏雄
≪024≫ 何か盗まれたる弥勒菩薩かな  火渡周平
≪025≫ 襲名は熟柿のごとく団十郎  筑紫磐井
≪026≫ むめのはなきそのゆめみしゑひもせず 角川春樹
≪027≫ 秋天に表裏山河の文字かなし  加藤楸邨
≪028≫ 白扇のゆゑの翳りをひろげたり  上田五千石
≪029≫ おとろへてあぢさゐ色の齢かな  草間時彦
≪030≫ この国の言葉によりて花ぐもり  阿部青蛙
≪031≫ 一ぴきの言葉が蜜を吸ふつばき  阿部青蛙
≪032≫ ろはにほへの字形なる薄哉  西山宗因
≪033≫ 日本語はうれしやいろはにほへとち  阿部青蛙
≪034≫ 或るときは洗ひざらしの蝶がとぶ  阿部青蛙
≪035≫ うかんむりの空を見ながら散歩する  阿部青蛙
≪036≫ 炎天をゆく一のわれまた二のわれ  阿部青蛙
≪037≫ 尾を上げて尾のした暗し春雀  永田耕衣
≪038≫ むさし野のさこそあるらめ馬場の月  大田南畝
≪039≫ 五月雨やただ名はかりの菖蒲河岸  永井荷風
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36陳舜臣 日本人と中国人2000/04/20
50
37米川明彦編 集団語辞典2000/04/21
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38トルーマン・カポーティ「遠い声・遠い部屋」2000/04/24
作家の個性から零れ落ちたスタイルをはずす文体もある。理知的な文体、話しこむ文体、パスティーシュの文体、病理的文体、言辞にはまっていく文体、日記的文体、推理小説の文体など、いろいろだ。ゴーリキーからブレヒトへ、サリンジャーから村上春樹へというふうに、同種感染する文体というものもある。なかで「時の場」に冒され、「物」と「心」がつながっていく文体がある。これはぼくが好きな文体で、ナラティヴの対象によって変化する。
『遠い声 遠い部屋』や『ミリアム』(新潮文庫『夜の樹』収録)は裸電球で部屋の中の一つひとつの事物を青白く照らしているような「夜の文体」になっている。
のちになって注意することは、その本をどの時期に、どんな気分で読んだのかということだ。その時期と気分によっては、別様のことに気をとられてその本のおもしろさがまったくつかめず、十年以上もたってふたたび手にしてみて、しまったと思うこともけっこうおこる。これはこれで、読者の役得だ。
カポーティはアルコールと薬物中毒で後半生を苦しんでしまったが(五九歳で没した)、ミス・スックとの日々の輝きをずっと大事にした作家生涯でもあったはずである。
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≪01≫ 作家の個性から零れ落ちたスタイルをはずす文体もある。理知的な文体、話しこむ文体、パスティーシュの文体、病理的文体、言辞にはまっていく文体、日記的文体、推理小説の文体など、いろいろだ。ゴーリキーからブレヒトへ、サリンジャーから村上春樹へというふうに、同種感染する文体というものもある。なかで「時の場」に冒され、「物」と「心」がつながっていく文体がある。これはぼくが好きな文体で、ナラティヴの対象によって変化する。
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39高田博厚 フランスから2000/04/25
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40オスカー・ワイルド ドリアン・グレイの肖像2000/04/26
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41柘植元一・植村幸生編 アジア音楽史2000/04/27
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42鴨長明「方丈記」2000/04/28
ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
長明が遁世の方丈に求めたことは、ただ「閑居の気味」というこのひとつのこと、生と死を重ね結ぶことだけである。閑居して、その気味を感じてみたい。縮めればそれだけのことである。長明はそのことを実現して、やっと「空蟬の世をかなしむ」ことができた。そうすれば「観念の便り、なきにしもあらず」であった。
 古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 時代の転形期を読み切るのは容易ではない。肌で感じるのはもっと困難だ。まして予想もつかぬ地異や変動が次々におこった転形期にいあわせて、そのめまぐるしい動向の渦中で激しく揺動する天秤を、目を泳がせずにひたすら凝視するにはずいぶんの魂胆がいる。長明にその魂胆があったとしたら(あまりなかったとはおもうが)、それは長明が失意の人であって、典型的な挫折者であったからだ。内田魯庵のいう理想負け、山口昌男のいう敗け組だったからだ。
 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
 鴨長明は後白河がまだ天皇だった在位期に生まれた。死んだのは61歳で後鳥羽院の時代である。その半世紀のあいだ、日本史上でも特筆すべき大きな変化がつづいた。武家が登場し、その代表の清盛がまたたくまに貴族社会を席巻して新たな「武者の世」を準備したのもつかのま、その武家を大きく二分する源平の争乱が列島各地を次々に走った。
 予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々になりぬ。
 源平の争乱は鎌倉殿によって仕切られ、それで収まるかとおもえば、初めて東国に幕府を構えた頼朝政権はわずか3代で潰えた。まさに「世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず」。平家があっというまに滅亡し、そして源氏がすぐさま政権からずり落ちたのである。見れば、「むかしありし家はまれなり」「古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり」なのだ。
 そのなかで法然や親鸞が、栄西や道元が、明恵や重源が新しい価値観を求めて立ち上がっていった。文芸史上では、俊成・定家の親子が和歌の世界を仕切って、いわゆる新古今時代をつくった。のちに本居宣長が言っていることだが、このとき日本語がはっきりと姿をあらわした。けれども民衆は悲惨だった。戦乱と災害と飢饉で苦しんだ。
 世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。
 長明はこういう転形期に人生を送ったのである。その半世紀におこったことは列島一国の中だけの激動ではあるものの、この国の最も大きな価値観の転倒をもたらした。最近の現代の事情とくらべるわけにはいかないが、あえて比較をすればソ連の崩壊やユーゴの解体などにあたる体験だったろう。
 が、その長明も、『方丈記』を綴る晩年にいたるまではただただ目を泳がせていた。目を泳がせていたからこそ、最後の出家遁世の目が極まったともいえた。
 すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計ふべからず。
 長明は賀茂御祖神社の禰宜の次男に生まれている。いまの下鴨神社である。ぼくも子供時代によく遊んだ糺の森が長明の実家のあったところだ。前半生はよくわかっていないのだが、清盛の子の徳子が入内したころ、父を失った。18歳あたりのことだったろう。長明はそういう喪失の境涯のみずからを「みなし児」とよんだ。
 その「みなし児」が父を継ぎ、禰宜になれれば、われわれの知る長明はいなかった。ところが、欠員が生じたにもかかわらず長明は禰宜に推されずじまいとなり、見かねた後白河院が鴨の氏社を昇格させてそこを担当させようとはからったのだが、長明は拗ねて行方をくらました。家職を継ぐことが長明の安定だったのに、それがかなわぬことを知ったとき、そこにわれわれの知る長明が誕生するのである。
 わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む。その後縁欠けて身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむることをえず。三十あまりにして、さらにわが心と一つの庵を結ぶ。
 33歳のころ、長明の歌が一首だけ『千載和歌集』に採られたことがある。「思ひあまりうちぬる宵の幻も浪路を分けてゆき通ひけり」というものだ。けっして上等な歌ではないが、どこか正直な浪漫がある。
 長明はこの歌が採用されたことをかなりよろこんだ。そのことは『無名抄』に綴られている。長明は、自分の歌風を定家風に修正していった。有心体である。当時の定家風あるいは寂蓮風のスタイルを当時の言葉で「近代」というのだが、まさにモダンを装ったのだ。感興の表現を「今の世」のモダリティに変えた。つまりは新しい日本語の調子を気取ったのだ。
 この気取りは功を奏した。46歳で後鳥羽院の北面に召され、おりから建仁元年(1201)に設けられた和歌所の寄人となった。このときは首尾よく宮廷歌人33人の1人に入った。けれども、定家の『明月記』を見るかぎり、長明の歌は定家によって無視しつづけられた。長明はかくて歌人としての名声は得られなかったのである。
 すべてあられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて、家を出て世を背けり。
 こうして長明は出家遁世した。「家を出て、世を背けり」だ。ついに覚悟した。50歳のころだった。何を覚悟したのか、本人にもよくわからなかったものの、そういう男が大原へ、日野へ隠棲して、わずか一丈四方の庵に暮らしはじめた。一丈とは3メートルほどである。日野は都はずれの山林にある。そんなところで日々をおくるのは「世捨て人」になるということだ。58歳のときに『方丈記』を綴りはじめた。
 その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移さむがためなり。
 長明はもともとの気質が数寄者なのだろうと思う。琵琶は中原有安について、けっこう腕自慢であった。和歌は俊恵に教わった。二人とも当代のトップクラスのインストラクターだ。とくに琵琶についてはよほどの自信があったとみえる。
 隆円法師の『文机談』によると、長明が秘曲の伝授を受けきらぬうちに師の有安が死んだ。そこで長明は絃楽の名人達人を集めてサロンを催し、みずから秘曲《啄木》を弾いた。参加者たちは「知らぬ国に来たりぬ心地」がしたという。そのことが楽所預の藤原孝道に伝わり、後鳥羽院に上奏された。「啄木を広座にほどこす事、未だ先例を知らず」という、長明にとっては予期せぬ非難が返ってきた。いたずらに芸道の伝統を乱したというのであった。
 きっと長明はいったん興じたら図に乗る性向をもっていた。啄木事件はそのことをあらわしている。数寄をかこつのに、その態度に度がすぎた。数寄とはどこか度がすぎることこそが本質なのだが、それが周囲の目を曇らせたのだ。長明はついてなかったのだ。歌人としての道もいまひとつ、まして禰宜への道もおもわしくない。
 そこで、そのような「無制限な数寄」の気分をさらに梳いて漉いて自身を「極小の数寄」となし、徹して捨てるべきものを捨てようとしたのが大原への幽隠であり、その5年後の日野への隠遁だったのである。だから、『方丈記』は長明の「最後の出発」と「最初の凝視」を表現したものとならなければすまなかったはずである。また、そのように『方丈記』を読むことがわれわれの身心を注意深くする。
 それ、三界はただ心一つなり。心もしやすからずは、象馬、七珍もよしなく、宮殿、楼閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。
 日本の文芸史上、『方丈記』ほど極端に短くて、かつ有名な文芸はない。目で追いながら読むには30分もかからない。声を出しても、せいぜい2時間くらいであろう。
 しかし、その「言語としての方丈記」には凝結の気配が漲っている。省略の極北があらわれている。それゆえ『方丈記』がつくった文体ほどその後の日本で流行した文体もない。それは、漢文の調子そのままを和文に巧みに移した和漢をまたぐ名文であり、それ以前の何人も試みなかった文体だった。
 長明は、この文体によって、初めて歌人であることと神官であろうとすることを離れたのである。けれどもそのためには、もうひとつ離れるべきことがあった。「世」というものを捨てる必要があったのだ。「閑居の気味」に近づく必要があった。それが長明の「数寄の遁世」の本来というものだった。
 そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。
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≪01≫ ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
≪02≫ 長明が遁世の方丈に求めたことは、ただ「閑居の気味」というこのひとつのこと、生と死を重ね結ぶことだけである。閑居して、その気味を感じてみたい。縮めればそれだけのことである。長明はそのことを実現して、やっと「空蟬の世をかなしむ」ことができた。そうすれば「観念の便り、なきにしもあらず」であった。
≪03≫  古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
≪04≫  時代の転形期を読み切るのは容易ではない。肌で感じるのはもっと困難だ。まして予想もつかぬ地異や変動が次々におこった転形期にいあわせて、そのめまぐるしい動向の渦中で激しく揺動する天秤を、目を泳がせずにひたすら凝視するにはずいぶんの魂胆がいる。長明にその魂胆があったとしたら(あまりなかったとはおもうが)、それは長明が失意の人であって、典型的な挫折者であったからだ。内田魯庵のいう理想負け、山口昌男のいう敗け組だったからだ。
≪05≫  知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
≪06≫  鴨長明は後白河がまだ天皇だった在位期に生まれた。死んだのは61歳で後鳥羽院の時代である。その半世紀のあいだ、日本史上でも特筆すべき大きな変化がつづいた。武家が登場し、その代表の清盛がまたたくまに貴族社会を席巻して新たな「武者の世」を準備したのもつかのま、その武家を大きく二分する源平の争乱が列島各地を次々に走った。
≪07≫  予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々になりぬ。
≪08≫  源平の争乱は鎌倉殿によって仕切られ、それで収まるかとおもえば、初めて東国に幕府を構えた頼朝政権はわずか3代で潰えた。まさに「世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず」。平家があっというまに滅亡し、そして源氏がすぐさま政権からずり落ちたのである。見れば、「むかしありし家はまれなり」「古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり」なのだ。
≪09≫  そのなかで法然や親鸞が、栄西や道元が、明恵や重源が新しい価値観を求めて立ち上がっていった。文芸史上では、俊成・定家の親子が和歌の世界を仕切って、いわゆる新古今時代をつくった。のちに本居宣長が言っていることだが、このとき日本語がはっきりと姿をあらわした。けれども民衆は悲惨だった。戦乱と災害と飢饉で苦しんだ。
≪010≫  世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。
≪011≫  長明はこういう転形期に人生を送ったのである。その半世紀におこったことは列島一国の中だけの激動ではあるものの、この国の最も大きな価値観の転倒をもたらした。最近の現代の事情とくらべるわけにはいかないが、あえて比較をすればソ連の崩壊やユーゴの解体などにあたる体験だったろう。
≪012≫  が、その長明も、『方丈記』を綴る晩年にいたるまではただただ目を泳がせていた。目を泳がせていたからこそ、最後の出家遁世の目が極まったともいえた。
≪013≫  すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計ふべからず。
≪014≫  長明は賀茂御祖神社の禰宜の次男に生まれている。いまの下鴨神社である。ぼくも子供時代によく遊んだ糺の森が長明の実家のあったところだ。前半生はよくわかっていないのだが、清盛の子の徳子が入内したころ、父を失った。18歳あたりのことだったろう。長明はそういう喪失の境涯のみずからを「みなし児」とよんだ。
≪015≫  その「みなし児」が父を継ぎ、禰宜になれれば、われわれの知る長明はいなかった。ところが、欠員が生じたにもかかわらず長明は禰宜に推されずじまいとなり、見かねた後白河院が鴨の氏社を昇格させてそこを担当させようとはからったのだが、長明は拗ねて行方をくらました。家職を継ぐことが長明の安定だったのに、それがかなわぬことを知ったとき、そこにわれわれの知る長明が誕生するのである。
≪016≫  わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む。その後縁欠けて身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむることをえず。三十あまりにして、さらにわが心と一つの庵を結ぶ。
≪017≫  33歳のころ、長明の歌が一首だけ『千載和歌集』に採られたことがある。「思ひあまりうちぬる宵の幻も浪路を分けてゆき通ひけり」というものだ。けっして上等な歌ではないが、どこか正直な浪漫がある。
≪018≫  長明はこの歌が採用されたことをかなりよろこんだ。そのことは『無名抄』に綴られている。長明は、自分の歌風を定家風に修正していった。有心体である。当時の定家風あるいは寂蓮風のスタイルを当時の言葉で「近代」というのだが、まさにモダンを装ったのだ。感興の表現を「今の世」のモダリティに変えた。つまりは新しい日本語の調子を気取ったのだ。
≪019≫  この気取りは功を奏した。46歳で後鳥羽院の北面に召され、おりから建仁元年(1201)に設けられた和歌所の寄人となった。このときは首尾よく宮廷歌人33人の1人に入った。けれども、定家の『明月記』を見るかぎり、長明の歌は定家によって無視しつづけられた。長明はかくて歌人としての名声は得られなかったのである。
≪020≫  すべてあられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたがひめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて、家を出て世を背けり。
≪021≫  こうして長明は出家遁世した。「家を出て、世を背けり」だ。ついに覚悟した。50歳のころだった。何を覚悟したのか、本人にもよくわからなかったものの、そういう男が大原へ、日野へ隠棲して、わずか一丈四方の庵に暮らしはじめた。一丈とは3メートルほどである。日野は都はずれの山林にある。そんなところで日々をおくるのは「世捨て人」になるということだ。58歳のときに『方丈記』を綴りはじめた。
≪022≫  その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移さむがためなり。
≪023≫  長明はもともとの気質が数寄者なのだろうと思う。琵琶は中原有安について、けっこう腕自慢であった。和歌は俊恵に教わった。二人とも当代のトップクラスのインストラクターだ。とくに琵琶についてはよほどの自信があったとみえる。
≪024≫  隆円法師の『文机談』によると、長明が秘曲の伝授を受けきらぬうちに師の有安が死んだ。そこで長明は絃楽の名人達人を集めてサロンを催し、みずから秘曲《啄木》を弾いた。参加者たちは「知らぬ国に来たりぬ心地」がしたという。そのことが楽所預の藤原孝道に伝わり、後鳥羽院に上奏された。「啄木を広座にほどこす事、未だ先例を知らず」という、長明にとっては予期せぬ非難が返ってきた。いたずらに芸道の伝統を乱したというのであった。
≪025≫  きっと長明はいったん興じたら図に乗る性向をもっていた。啄木事件はそのことをあらわしている。数寄をかこつのに、その態度に度がすぎた。数寄とはどこか度がすぎることこそが本質なのだが、それが周囲の目を曇らせたのだ。長明はついてなかったのだ。歌人としての道もいまひとつ、まして禰宜への道もおもわしくない。
≪026≫  そこで、そのような「無制限な数寄」の気分をさらに梳いて漉いて自身を「極小の数寄」となし、徹して捨てるべきものを捨てようとしたのが大原への幽隠であり、その5年後の日野への隠遁だったのである。だから、『方丈記』は長明の「最後の出発」と「最初の凝視」を表現したものとならなければすまなかったはずである。また、そのように『方丈記』を読むことがわれわれの身心を注意深くする。
≪027≫  それ、三界はただ心一つなり。心もしやすからずは、象馬、七珍もよしなく、宮殿、楼閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。
≪028≫  日本の文芸史上、『方丈記』ほど極端に短くて、かつ有名な文芸はない。目で追いながら読むには30分もかからない。声を出しても、せいぜい2時間くらいであろう。
≪029≫  しかし、その「言語としての方丈記」には凝結の気配が漲っている。省略の極北があらわれている。それゆえ『方丈記』がつくった文体ほどその後の日本で流行した文体もない。それは、漢文の調子そのままを和文に巧みに移した和漢をまたぐ名文であり、それ以前の何人も試みなかった文体だった。
≪030≫  長明は、この文体によって、初めて歌人であることと神官であろうとすることを離れたのである。けれどもそのためには、もうひとつ離れるべきことがあった。「世」というものを捨てる必要があったのだ。「閑居の気味」に近づく必要があった。それが長明の「数寄の遁世」の本来というものだった。
≪031≫  そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。
≪032≫ 
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43椹木野衣 日本・現代・美術2000/05/01
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44幸田文 きもの2000/05/02
 幸田文のこの作品は、生前には発表されなかったものである。短編ではない。長編小説といってよい長さがある、幸田文の最も自伝性が濃い作品といってよい。それなのに作者はこれをまるで反故にするかのようにほったらかしにしていたようだ。
 実は幸田文には、いつしか小説という様式に対して期待をもてなくなっていたふしがある。『流れる』のような、あんなにすごい小説を書けた作者があっさり小説を離れるのを訝しむむきもあるだろうが、そこが幸田文の比類ない気性というものなのだ。持ち前の「気っぷ」というものなのかもしれない。
 幸田文が小説を書くのは幸田露伴が死んでからのことである。それまでずっと抑制されてきた創造力の香気が一挙に吹き出した。ぼくは、ぼくの父が文さんと交流があったことも手伝って、幸田文という人にたいへん粋な親しみをもってきた。
 実際に、文さんが父のやっていた呉服屋で着物を買ったことがあるかどうかは、知らない。文さんの趣味からいうと、うちの呉服ではまにあわなかっただろうとも思われる。それでも、文さんは京都にくると、ときどきは父を呼び出していた。ぼくも二度ほどくっついていったことがあるが、まさに「気っぷ」のいい、声も笑顔もすばらしいおばさんだった。
 そんなわけで、青年のぼくが読むには好尚がよすぎる文芸ではあったのに、ぼくはしばしば幸田文の小説や随筆を読んできた。それはなんというのか、母の鏡台の匂いをこっそり嗅ぐようなものだった。
 この作品は明治が終わるころに生まれた主人公のるつ子が、「お母さん」に着せられた着物の一枚一枚と、るつ子の相談役でもあった「おばあさん」の目を通して、時代とともにしだいにめざめていく物語である。女性の心身が育まれる物語というふうにもうけとれる。
 そういえば、この本が単行本として死後刊行されて話題になっていたころ、ぼくは堤清二さんや下河辺淳さんと話す機会があり、当時は“旬の話題”だったこの作品のことを持ち出したところ、堤さんが「うん、あれは女性の本格的な教養小説ですよね」と言ったものだった。のちに辻井喬として堤さんが本書の解説を書いているときも、この作品がビルドゥングス・ロマン(精神の修成をたどる物語)であることを強調していた。
 たしかに着物は女性の心身なのである。それは、今日のファッションが女性の関心の大きな部分を占めていることでもわかる。 しかし、着物は洋服よりもずっと心身を感じさせてくれる動機に満ちている。着物にはいくらでも妖精や魔物が、想像力や出来事が棲みこんでいる。いや、染みこんでいる。
 そもそも「着換えがはじまった」という一行だけを書いて、そのあとたっぷりと着換えのことを綴っていて、それで存分な小説になることが貴重なのである。それはたとえばジョルル・カルル・ユイスマンスやヴィクトル・ユゴーが大聖堂やノートルダム寺院の大伽藍の一部始終を観察して、それをもって小説にしたことに匹敵することなのだ。 幸田文は、それができることを身をもって伝えてくれた希有の「日本のおばさん」であった。
 そのやりかたは、泉鏡花が着物の柄や形を乱舞させて艶やかな女の妍を表現するという方法ではなく、また森田たまの『もめん随筆』や志村ふくみの『一色一生』のような、着物や染物が文化の腑に落ちるというための方法でもなく、いわば腑に落ちるも腑に落ちないも、そのすべてを引き取って人生を着て、人生に帯をしめていくという方法だったのである。
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45船戸与一 国家と犯罪2000/05/08
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46ライナー・マリア・リルケ マルテの手記2000/05/09
62
47北大路魯山人・平野雅章編 魯山人書論2000/05/10
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48ケネス・バーク 動機の文法2000/05/11
 いっときコンピュータに物語性や演劇性を入れることがハシカのように流行したことがある。そのことをめぐって、ブレンダ・ロレールやスコット・フィッシャーがぼくを囲んで質問攻めをしたものだ。90年代あたまのロスアンゼルスでのことだった。
 たしかに、われわれの思考や行動は、どこかにたえず「劇学」(ドラマティズム)とでもいうべきものを孕んで動いている。われわれはつねに何かを演出しようとしているのだと、つねに自分をどこかに出演させている。
  そんなことはない、とは抗弁しないほうがいい。たとえば、会話をしているときも、どこかの店で買い物をしたり食べたりしようとしているときも、われわれは自己演出と自己出演をしている者なのであり、学校へ行っていても旅に出ていても、喫茶店で待ち合わせをしているときも、われわれには劇学としての物語的演劇性というものがはたらいている。それは、ひょっとすると子供のころからやりつづけていることなのである。
 それでは、そのドラマティズムをコンピュータにいれれば、すごいプログラムができると思ったのが、まちがいのもとだった。いや早計だった、決定的に欠けているものがあったのだ。
 われわれの劇学がどのように構成されているかというと、必ずやなんらかの動機によって支えられている。その動機には見えない文法があるかもしれない。問題はその動機の文法なのだ。
 それゆえ、その動機がどのような特徴をもっているかがわかれば、われわれの思考や行動の編集的構造もつかめてくる可能性もある。そう考えて、ケネス・バークが洞察に富んだ分析をしてみせたのが本書なのである。発刊当初から名著の誉れに包まれた。ぼくはローレルやフィッシャーに、ケネス・バーグを読みなさいと勧めたものだった。
 バークは動機を五つに分けた。行為 act、場面 scene、作用者 agent、媒体 agency、意図 purposeである。われわれはどんなときも、この五つの組み合わせによって劇学の当事者になっているというのだ。
この機能の分類は、いまおもえば必ずしも十全なものではない。とくに作用者と媒体はもっとダイナミックな関係に移すべきだろう。しかし、戦争の渦中の1940年代に、バークがこの5つの「動機の文法」をあげられたということは、まことに怖るべき炯眼だった。これはほとんど認知科学の先取りだったのだ。
 バークの考察は鋭かった。ぼくなりにごく簡単にいうが、次の点で鋭かったのである。このことは、まだコンピュータ屋さんに説明してあげたことはない。
 まず、[1]認識や行動には、「入れるもの」と「容れられるもの」があると喝破した。これを身体と言語とみなしてもいいし、ハードウェアとソフトウェアと言ってもいいし、わかりやすくコップとミルクの関係だとおもってもいい。
 次に、[2]どんな知覚や行為も、そこには互いに矛盾するかもしれない一連の定義群がひそんでいることを見抜いていた。この、矛盾するかもしれない定義群が、いい。われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしているのだけれど、それらは必ずしも一対一のコンパイル定義の裡に縛られているのではないからだ。
 ということは、バークはすでに、[3]認識や行為には「範疇自体のはげまし」というものがあることをうすうす見抜いていたということなのだ。コンピュータ・テクノロジストたちの多くは、この「はげまし」の意味がわかっていない。
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プレフィックス作成
≪01≫  いっときコンピュータに物語性や演劇性を入れることがハシカのように流行したことがある。そのことをめぐって、ブレンダ・ロレールやスコット・フィッシャーがぼくを囲んで質問攻めをしたものだ。90年代あたまのロスアンゼルスでのことだった。
≪02≫  たしかに、われわれの思考や行動は、どこかにたえず「劇学」(ドラマティズム)とでもいうべきものを孕んで動いている。われわれはつねに何かを演出しようとしているのだと、つねに自分をどこかに出演させている。
≪03≫   そんなことはない、とは抗弁しないほうがいい。たとえば、会話をしているときも、どこかの店で買い物をしたり食べたりしようとしているときも、われわれは自己演出と自己出演をしている者なのであり、学校へ行っていても旅に出ていても、喫茶店で待ち合わせをしているときも、われわれには劇学としての物語的演劇性というものがはたらいている。それは、ひょっとすると子供のころからやりつづけていることなのである。
≪04≫  それでは、そのドラマティズムをコンピュータにいれれば、すごいプログラムができると思ったのが、まちがいのもとだった。いや早計だった、決定的に欠けているものがあったのだ。
≪05≫  われわれの劇学がどのように構成されているかというと、必ずやなんらかの動機によって支えられている。その動機には見えない文法があるかもしれない。問題はその動機の文法なのだ。
≪06≫  それゆえ、その動機がどのような特徴をもっているかがわかれば、われわれの思考や行動の編集的構造もつかめてくる可能性もある。そう考えて、ケネス・バークが洞察に富んだ分析をしてみせたのが本書なのである。発刊当初から名著の誉れに包まれた。ぼくはローレルやフィッシャーに、ケネス・バーグを読みなさいと勧めたものだった。
≪07≫  バークは動機を五つに分けた。行為 act、場面 scene、作用者 agent、媒体 agency、意図 purposeである。われわれはどんなときも、この五つの組み合わせによって劇学の当事者になっているというのだ。
≪08≫ この機能の分類は、いまおもえば必ずしも十全なものではない。とくに作用者と媒体はもっとダイナミックな関係に移すべきだろう。しかし、戦争の渦中の1940年代に、バークがこの5つの「動機の文法」をあげられたということは、まことに怖るべき炯眼だった。これはほとんど認知科学の先取りだったのだ。
≪09≫  バークの考察は鋭かった。ぼくなりにごく簡単にいうが、次の点で鋭かったのである。このことは、まだコンピュータ屋さんに説明してあげたことはない。
≪010≫  まず、[1]認識や行動には、「入れるもの」と「容れられるもの」があると喝破した。これを身体と言語とみなしてもいいし、ハードウェアとソフトウェアと言ってもいいし、わかりやすくコップとミルクの関係だとおもってもいい。
≪011≫  次に、[2]どんな知覚や行為も、そこには互いに矛盾するかもしれない一連の定義群がひそんでいることを見抜いていた。この、矛盾するかもしれない定義群が、いい。われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしているのだけれど、それらは必ずしも一対一のコンパイル定義の裡に縛られているのではないからだ。
≪012≫  ということは、バークはすでに、[3]認識や行為には「範疇自体のはげまし」というものがあることをうすうす見抜いていたということなのだ。コンピュータ・テクノロジストたちの多くは、この「はげまし」の意味がわかっていない。
≪013≫ ≪014≫ ≪015≫ ≪016≫ ≪017≫ ≪018≫ ≪019≫ ≪020≫ ≪021≫ ≪022≫ ≪023≫ ≪024≫ ≪025≫ ≪026≫ ≪027≫ ≪028≫ ≪029≫ ≪030≫ ≪031≫ ≪032≫ ≪033≫ ≪034≫ ≪035≫ ≪036≫ ≪037≫ ≪038≫ ≪039≫ ≪040≫ 
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49マイルス・デイビス&クインシー・トループ マイルス・デイビス自叙伝2000/05/12
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50稲垣史生 時代考証事典2000/05/15
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51郡司ペギオ幸夫/松野孝一郎/オットー・レスラー 内部観測2000/05/18
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52淀川長治 淀川長治自伝2000/05/17
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53川端康成 雪国2000/05/18
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54高木貞治 近世数学史談2000/05/19
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55ヒュー・ロフティング ドリトル先生アフリカゆき2000/05/23
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56カルロ・ギンズブルグ 闇の歴史2000/05/24
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57マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ デュシャンは語る2000/05/25
74
58ハンス・C・アンデルセン「絵のない絵本」2000/05/26
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59青木正児 華国風味2000/05/30
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60谷崎潤一郎「陰翳礼讚」2000/05/31
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61フリードリッヒ・マイネッケ 歴史主義の成立2000/06/01
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62ィリアム・ギブスン ニューロマンサー2000/06/02
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63伊藤ていじ 重源2000/06/05
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64フランツ・カフカ 城2000/06/06
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65鎌田東二 神道とは何か2000/06/07
神道は神教ではない。 そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。静かなものである。そこがわからないと神道の感覚はなかなかわからない。
 ところが、中世近世の神道の歴史には、神道を神教にしたがった“神道家”たちの主張の歴史が、そうとうに交じっていた。言挙げばかりであった。
 たとえば、度会家行・延佳によって確立された「外宮の神学」と『神道五部書』による伊勢神道、卜部吉田兼倶による唯一神道と反本地垂迹論、家康を大権現にするために企画された天海の山王一実神道、山崎闇斎の垂加神道などなど、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。 あげくが明治維新後の国家神道なのである。
 こういう「理屈の神道」と「上からの神道」がありすぎて、神道が本来もっているはずのナチュラルでアニミスティックな感覚を静かなものだと唱えるのがしだいに困難になっていた。
 逆に、静かに神道に奉じる者たちは、こうした日本の歴史が抱えてきたうるさい歴史に目を閉じるようになってきた。オウム真理教の事件がおころうとも、森首相の「神の国」発言があろうとも、神社の社会はひたすら沈黙をまもるようになっていったのである。
 これらの両方に目をむけて、かつ揺るがない立場をもつ者の登場が待たれたものの、そのような勇猛果敢はなかなかあらわれなかった。
 鎌田東二は国学院の出身で、若いころからぼくのところに遊びにきていた俊英である。『遊』もよく読んでくれていた。
 ぼくが7人と8匹で住んでいた渋谷松濤の通称ブロックハウスにも、汗をかきかきよく訪れてきて、そのころブロックハウスで満月の夜に開いていた「ジャパン・ルナ・ソサエティ」での俳句会などにも顔を出し、「お月さまぼくのお臀にのぼりませ」などという“名句”を披露してくれていた。この句はその夜の句会の一席になっている。
 もっとも当時の鎌田君は立川密教やオカルティズムやニューポップスに関心をもっていて、水神祥のペンネームでしきりに大胆な仮説を書いていた。彼の友人にも密教関係者が多かったとおもう。
 しかし、鎌田君の本来はそもそもは少年期のころから神々との交流にあったようで、しばらくするうちに日本各地のミステリースポットや世界の聖地をまわるようになっていた。世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。
 ついで、30代半ばで神職の資格を得てからは、“神界のフィールドワーカー”としての活動に積極的に徹するようになった。いわばフリーランスの神主になったのである。いまもそうだとおもうけれど、そのころから石笛や法螺貝を携帯し、いつでもその笛を吹いて心を鎮めているようだった。
 そのうち、彼こそが“神道の現代的解説者”としての期待を担うことになったのである。
 そのような期待に応えて講演や執筆をする“解説者”は、実は鎌田君のほかにも出てきているのだが、ぼくが見るかぎりでは、やはり鎌田東二の気っ風が群を抜いている。
 本書は、自分の息子がいつのまにか高校生になってしまったことに驚く著者が、ペダンティックな宗教的表現を捨てて、それこそ高校生にも伝わるように神道の心を平易にまとめようとした神道入門書である。
 その努力はなかなか功を奏していて、ところどころにまことにわかりやすい、しかも本質的な、鎌田東二ならではの説明が顔をのぞかせている。
 本書では、神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだという立場が採用されている。
 「センス・オブ・ワンダー」はレーチェル・カーソンの著書のタイトルでもあるが、神道はもともとその感覚をもってきた、そのように、鎌田君はつかまえた。これを神道用語でいえば「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということになる。
 このセンス・オブ・ワンダーを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。
 むろん、このことは日本だけに特有しているものではない。そこには「環太平洋祭祀文化圏」とでもいうものが広がっていて、日本はそのアジアと太平洋に広がる祭祀文化圏との共鳴のもとに、それなりに独自な神道を発展させていった。
 しかし、なぜ日本の神道は独自なものになったというふうに見えるのか。鎌田君も神道が韓国や台湾のものとずいぶんちがっていることを認めている。
 本書では、そうした日本の神道が独自なものになっていった歴史の全プロセスは、実は「神神習合」のプロセスによるものだったというふうにとらえている。
 神仏習合、本地垂迹、反本地垂迹、儒教理論による神道論、宣長や篤胤の神道論、黒住教や大本教などの神道派新興宗教の動向‥‥。これらは結局は「神神習合」のプロセスのあらわれだったというのである。 ようするに多神なのである。
 多神教なのではない。ただ、多神なのである。 なぜ多神になったのかといえば、日本がハイブリッド型のクレオール文化として成長してきたからだと、鎌田君は言う。その理由や説明は入門的な本書では省かれている。
 そのあたりの説明は省かれているものの、そうしたハイブリッドでクレオール的な文化を雑多にとりいれた日本のような国では、むしろ一つの主張にこだわらない神道のような祈りが発達してきたという理由については、本書ではなんとなくわかるように綴られている。鎌田君もそのへんのことを理屈で説明したくはなかったのであろう。
 一方、「きよきもの」「あかきもの」を重視する神道が、歴史のなかではしばしば汚濁にまみれてきたことは、否定することができない。
 それならキリスト教だって、たとえば魔女裁判をはじめ、異教弾圧の歴史をくりかえしてきたではないかと言うだろうが、成功しているかどうかは別として、キリスト教はそうした歴史の矛盾を克服するための神学をつねに検討し、みずからグローバリズムに身をさらしてその昇華を試みてきた。
 マックス・ウェーバーの有名な仮説になるが、プロテスタンティズムは資本主義の“倫理”さえつくりだしたのである。
 それに対して神道は、たしかに日本人の感情には浸透しているような気がするものの、そこに国際性を求めようとはしなかったし、市場をつくろうとしたわけでもなかった。
 また、社会の事件を克服するための神道的苦闘を強いられてもこなかった。しかも大東亜共栄圏を旗印としたときは、アジアに対して神社をおしつけたところもあった。
 それなのに、ここが不思議なところでもあるところだが、神道には心を洗うものがある。神道に名状しがたい清潔感があること、神道が宗教とはちがうものをもっていそうなことについては、すでにラフカディオ・ハーンをはじめとする海外の知識人たちが何度も指摘してきたことだった。 それもまた否定できないことなのである。
 神道を理解するにあたっては、仏教と比較するのがわかりやすいときもある。
 仏教とのちがいは神道側もしきりに説明しようとしてきたし、国家神道が断行されたときも、廃仏毀釈という神仏分離の問題がおこっている。
 ただし、この問題をうまく説明するのは、なかなか難しい。日本の宗教史というものは、つねに神仏習合型に発展してきたからで、そこに神道と仏教を截然と区分するのは困難なのである。
 そこで、だいたいはこの問題は避けて議論されるのが“常識”だった。 が、鎌田君はこの問題にもわかりやすい説明をしてみせた。生活感覚のなかで「神と仏」は次のようなちがいをもってきたのではないかというのだ。
 1. 神は在るもの、仏は成るもの。  2. 神は来るもの、仏は往くもの。  3. 神は立つもの、仏は座るもの。
 この比較は言い得て妙である。これらの感覚的な「ちがい」は、たしかに『梁塵秘抄』や『閑吟集』のようなものを読んでいても感じられてくる。おそらくは、日本人の多くにもピンとくるものだろう。
 詳しくは折口信夫などを読むのがよいだろう。あきらかに神はどこからかやってきて、そこにありつづけ、気がつくとそこに立っているものなのだ。
 もっとも、ここには触れられてははいないが、神はまた帰ってしまうものでもあった。
 いずれにしても、このような神仏感覚のちがいを前提に、神道と仏教はときに反目し、ときに習合し、ときに溶融さえおこして、つまりは鎌田君のいうところの「神神習合」をおこしてきたということになる。
 21世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。
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プレフィックス作成
≪01≫ 神道は神教ではない。 そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。静かなものである。そこがわからないと神道の感覚はなかなかわからない。
≪02≫  ところが、中世近世の神道の歴史には、神道を神教にしたがった“神道家”たちの主張の歴史が、そうとうに交じっていた。言挙げばかりであった。
≪03≫  たとえば、度会家行・延佳によって確立された「外宮の神学」と『神道五部書』による伊勢神道、卜部吉田兼倶による唯一神道と反本地垂迹論、家康を大権現にするために企画された天海の山王一実神道、山崎闇斎の垂加神道などなど、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。 あげくが明治維新後の国家神道なのである。
≪04≫  こういう「理屈の神道」と「上からの神道」がありすぎて、神道が本来もっているはずのナチュラルでアニミスティックな感覚を静かなものだと唱えるのがしだいに困難になっていた。
≪05≫  逆に、静かに神道に奉じる者たちは、こうした日本の歴史が抱えてきたうるさい歴史に目を閉じるようになってきた。オウム真理教の事件がおころうとも、森首相の「神の国」発言があろうとも、神社の社会はひたすら沈黙をまもるようになっていったのである。
≪06≫  これらの両方に目をむけて、かつ揺るがない立場をもつ者の登場が待たれたものの、そのような勇猛果敢はなかなかあらわれなかった。
≪07≫  鎌田東二は国学院の出身で、若いころからぼくのところに遊びにきていた俊英である。『遊』もよく読んでくれていた。
≪08≫  ぼくが7人と8匹で住んでいた渋谷松濤の通称ブロックハウスにも、汗をかきかきよく訪れてきて、そのころブロックハウスで満月の夜に開いていた「ジャパン・ルナ・ソサエティ」での俳句会などにも顔を出し、「お月さまぼくのお臀にのぼりませ」などという“名句”を披露してくれていた。この句はその夜の句会の一席になっている。
≪09≫  もっとも当時の鎌田君は立川密教やオカルティズムやニューポップスに関心をもっていて、水神祥のペンネームでしきりに大胆な仮説を書いていた。彼の友人にも密教関係者が多かったとおもう。
≪010≫  しかし、鎌田君の本来はそもそもは少年期のころから神々との交流にあったようで、しばらくするうちに日本各地のミステリースポットや世界の聖地をまわるようになっていた。世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。
≪011≫  ついで、30代半ばで神職の資格を得てからは、“神界のフィールドワーカー”としての活動に積極的に徹するようになった。いわばフリーランスの神主になったのである。いまもそうだとおもうけれど、そのころから石笛や法螺貝を携帯し、いつでもその笛を吹いて心を鎮めているようだった。
≪012≫  そのうち、彼こそが“神道の現代的解説者”としての期待を担うことになったのである。
≪013≫  そのような期待に応えて講演や執筆をする“解説者”は、実は鎌田君のほかにも出てきているのだが、ぼくが見るかぎりでは、やはり鎌田東二の気っ風が群を抜いている。
≪014≫  本書は、自分の息子がいつのまにか高校生になってしまったことに驚く著者が、ペダンティックな宗教的表現を捨てて、それこそ高校生にも伝わるように神道の心を平易にまとめようとした神道入門書である。
≪015≫  その努力はなかなか功を奏していて、ところどころにまことにわかりやすい、しかも本質的な、鎌田東二ならではの説明が顔をのぞかせている。
≪016≫  本書では、神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだという立場が採用されている。
≪017≫  「センス・オブ・ワンダー」はレーチェル・カーソンの著書のタイトルでもあるが、神道はもともとその感覚をもってきた、そのように、鎌田君はつかまえた。これを神道用語でいえば「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということになる。
≪018≫  このセンス・オブ・ワンダーを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。
≪019≫  むろん、このことは日本だけに特有しているものではない。そこには「環太平洋祭祀文化圏」とでもいうものが広がっていて、日本はそのアジアと太平洋に広がる祭祀文化圏との共鳴のもとに、それなりに独自な神道を発展させていった。
≪020≫  しかし、なぜ日本の神道は独自なものになったというふうに見えるのか。鎌田君も神道が韓国や台湾のものとずいぶんちがっていることを認めている。
≪021≫  本書では、そうした日本の神道が独自なものになっていった歴史の全プロセスは、実は「神神習合」のプロセスによるものだったというふうにとらえている。
≪022≫  神仏習合、本地垂迹、反本地垂迹、儒教理論による神道論、宣長や篤胤の神道論、黒住教や大本教などの神道派新興宗教の動向‥‥。これらは結局は「神神習合」のプロセスのあらわれだったというのである。 ようするに多神なのである。
≪023≫  多神教なのではない。ただ、多神なのである。 なぜ多神になったのかといえば、日本がハイブリッド型のクレオール文化として成長してきたからだと、鎌田君は言う。その理由や説明は入門的な本書では省かれている。
≪024≫  そのあたりの説明は省かれているものの、そうしたハイブリッドでクレオール的な文化を雑多にとりいれた日本のような国では、むしろ一つの主張にこだわらない神道のような祈りが発達してきたという理由については、本書ではなんとなくわかるように綴られている。鎌田君もそのへんのことを理屈で説明したくはなかったのであろう。
≪025≫  一方、「きよきもの」「あかきもの」を重視する神道が、歴史のなかではしばしば汚濁にまみれてきたことは、否定することができない。
≪026≫  それならキリスト教だって、たとえば魔女裁判をはじめ、異教弾圧の歴史をくりかえしてきたではないかと言うだろうが、成功しているかどうかは別として、キリスト教はそうした歴史の矛盾を克服するための神学をつねに検討し、みずからグローバリズムに身をさらしてその昇華を試みてきた。
≪027≫  マックス・ウェーバーの有名な仮説になるが、プロテスタンティズムは資本主義の“倫理”さえつくりだしたのである。
≪028≫  それに対して神道は、たしかに日本人の感情には浸透しているような気がするものの、そこに国際性を求めようとはしなかったし、市場をつくろうとしたわけでもなかった。
≪029≫  また、社会の事件を克服するための神道的苦闘を強いられてもこなかった。しかも大東亜共栄圏を旗印としたときは、アジアに対して神社をおしつけたところもあった。
≪030≫  それなのに、ここが不思議なところでもあるところだが、神道には心を洗うものがある。神道に名状しがたい清潔感があること、神道が宗教とはちがうものをもっていそうなことについては、すでにラフカディオ・ハーンをはじめとする海外の知識人たちが何度も指摘してきたことだった。 それもまた否定できないことなのである。
≪031≫  神道を理解するにあたっては、仏教と比較するのがわかりやすいときもある。
≪032≫  仏教とのちがいは神道側もしきりに説明しようとしてきたし、国家神道が断行されたときも、廃仏毀釈という神仏分離の問題がおこっている。
≪033≫  ただし、この問題をうまく説明するのは、なかなか難しい。日本の宗教史というものは、つねに神仏習合型に発展してきたからで、そこに神道と仏教を截然と区分するのは困難なのである。
≪034≫  そこで、だいたいはこの問題は避けて議論されるのが“常識”だった。 が、鎌田君はこの問題にもわかりやすい説明をしてみせた。生活感覚のなかで「神と仏」は次のようなちがいをもってきたのではないかというのだ。
≪035≫  1. 神は在るもの、仏は成るもの。  2. 神は来るもの、仏は往くもの。  3. 神は立つもの、仏は座るもの。
≪036≫  この比較は言い得て妙である。これらの感覚的な「ちがい」は、たしかに『梁塵秘抄』や『閑吟集』のようなものを読んでいても感じられてくる。おそらくは、日本人の多くにもピンとくるものだろう。
≪037≫  詳しくは折口信夫などを読むのがよいだろう。あきらかに神はどこからかやってきて、そこにありつづけ、気がつくとそこに立っているものなのだ。
≪038≫  もっとも、ここには触れられてははいないが、神はまた帰ってしまうものでもあった。
≪039≫  いずれにしても、このような神仏感覚のちがいを前提に、神道と仏教はときに反目し、ときに習合し、ときに溶融さえおこして、つまりは鎌田君のいうところの「神神習合」をおこしてきたということになる。
≪040≫  21世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。
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66宇野千代「生きて行く私」2000/06/08
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67朝永振一郎 物理学https://1000ya.isis.ne.jp/0067.htmlとは何だろうか2000/06/09
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68モーリス・メーテルリンク 青い鳥2000/06/12
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69西部邁「思想史の相貌」2000/06/13
 この人とは会ったことはないが、「朝までテレビ」などで見ていて、なんとか「本物」の発言をしようとしているのだなということは、よく伝わっていた。
 それに、この人は思想に対して「正直」だ。どういうことかというと、知たり顔、わがもの顔をしないということで、世間の思想や歴史の思想というものを、いつ、どのように自分が入手したかということを、そのシチュエーションをふくめてちゃんと言明できる言葉の能力をもっている。正直などという言葉は思想者にはふさわしくないかもしれないものの、ぼくはたいせつにしている。
 西部自身はこう書いている。「思想とは、物事を区分けし、そして道を立てつつ、言葉による表現活動としての人間の生に形を与えようとする営みのことである」。
 本書は明治から現代におよぶ13人の思想家をとりあげて、これに論評を加えた。 13人は、明治の福沢諭吉・夏目漱石、大正昭和の吉野作造・北一輝・川合栄治郎・和辻哲郎ときて、ここで伊藤博文と吉田茂という二人政治家が入り、ついで昭和も戦後にかかって坂口安吾・竹内好・吉本隆明の3人をつづけ、最後に小林秀雄を、そしていささか長めの議論を展開してドンジリで福田恆存をじっくり示すという、そういう結構をとっている。
 本書が西部の書いたもののなかで、どれくらい成果の高いものかは、まだこの人のものを2、3冊しか読んでいないので、知らない。
 それは知らないが、ぼくが読んだかぎりは、本書の原型が「ビッグマン」というマイナーなビジネス誌の連載で、一回ずつの枚数を制限されているなかで書きついだものだという事情を勘定にいれると、かなり高質なものになっているとおもわれる。
 西部が保守思想を堅固に標榜していることは、つとに知られている。 この人は「戦後日本が“平和と民主”という仮面をかぶることによって、あの戦争から眼を背け」、「日本が自己固有性を見失ってしまったこと」が、がまんならない。そして、いまや「思想なるものが瀕死に達していること」を嘆きつつも、あえて思想の本来を少しずつでも回復させたいとおもっている。 そのためには、いま思想界を覆う「ヒューマニズムの錯誤」を払いたい。そういう立場を決然と表明している人である。
 むろん、そういうことに気がついたのは、この人ばかりではない。すでに多くの思想者が新たな地平をひらくために、試みの言葉を放ってきた。そこで、明治以降、そうした試みに挑んだかとおぼしい13人をとりだし、その言説に論評を加え、これからの日本の思想史がどのような相貌をもつべきか、そこをかれらの長所と短所とともに綴ってみようとした。そこが本書の基本的な狙いになっている。
 福沢諭吉については、福沢が「書生の熱狂」を嫌って「一身独立」と「人間交際」を主張したことを評価する一方、あまりに実学と数理を重視して「便利の思想」に走ったことに限界を見る。また、それが福沢の「やせがまん」の出処進退を決しているとも読む。
 漱石からは、「二重性の哲学」と「エゴから離れた自己本位」を導いて、今日の日本に欠けているのがハイデガーのいわゆるゾルゲ(生の憂慮)にもとづいた悲観的楽観、すなわち「ニヒリスティック・ヒロイズム」の一種かもしれないと告げる。
 ついで、吉野の民本主義は「死者の民主主義」にすぎないのではないか、川合には「権力に対する鈍感」があるのではないか、和辻の堕落は「全体意志」をもちだしたところではないか、という指摘がつづく。
 伊藤博文論は国体論批判と不磨大典批判に、吉田茂論は戦後現実主義批判と社民主義に妥協したことに対する批判に、それぞれ焦点をあてている。とくに吉田が「平和と民主」とアメリカ迎合の政治によって民主主義の堕落した形態としての衆愚政治をよびこんだことに、手きびしく文句をつける。
 西洋が西洋史の矛盾に気がつき、いよいよ虚無を抱きはじめたとき、日本は近代化をむかえて西洋の表面的模倣に走ることになった。
 西洋は自身の矛盾に気がついて、やっと階級意識(マルクス)を、ルサンチマン(ニーチェ)を、そしてリビドー(フロイト)を、人間の歴史の奥に発見しようとしていた。が、日本はそんなことにはおかまいなしに、近代化を突っ走り、無謀な戦争に走った。
 これではろくな日本はつくれない。表層だけが西洋になるばかりで、かれらの苦悩とは無縁のままの西洋主義になる。 それでも唯一、日本がそのような表層をとっぱらって自身の内面に向きあう機会はあったはずである。それが敗戦直後の状況である。坂口安吾はその機会をとらえて『堕落論』を書いた。
 その坂口を西部は認めようとする。日本が日本になるために正しく堕ちるべきだと主張した坂口を継承しようとする。「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」。
 そこで残ったのが福田恆存である。西部は驚いたことに、この連載を書くまでは、福田のものをあまり読まないようにしていたらしい。そういうことを告白するのもこの人の「正直」なところだが、その“照れ”を破ってここではおおいに読み、おおいに傾倒してみせた。 そこが本書の、最も本書らしいところである。
 福田恆存には醒めきった「精神の型」がある。それをこの人は「保守思想の神髄」とよぶ。 もともと福田が闘いつづけたのは“戦後の風潮”というものだった。バカバカしい戦争のあとにやってきた、もっとバカバカしい時代を、福田は一貫して冷たくあしらった。そういう福田を小林は「良心をもった鳥のような人だ」といい、坂口は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」といった。
 西部も福田のそうした「精神の型」に敬服している。そして、「ヨーロッパの韻にあはせた日本的ミニアチュア」と「近代精神の外装である自我主義」を福田とともに壊したいと考えている。
 本書の全体の叙述が、そのような福田の計画、すなわち保守計画をうまく引きついだのかどうかは、わからない。ちょっと急ぎすぎているようにも見える。
 が、20年前なら、おそらくたいして関心をもてなかったであろうこの人の論法に、ぼくはいまなら傾聴すべきものがあるようにおもわれて、ついつい本書を精読してしまったのである。
 最後に一言。本書は戦後日本が犯した「ヒューマニズムの錯誤」を告発する一書。
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プレフィックス作成
≪01≫  この人とは会ったことはないが、「朝までテレビ」などで見ていて、なんとか「本物」の発言をしようとしているのだなということは、よく伝わっていた。
≪02≫  それに、この人は思想に対して「正直」だ。どういうことかというと、知たり顔、わがもの顔をしないということで、世間の思想や歴史の思想というものを、いつ、どのように自分が入手したかということを、そのシチュエーションをふくめてちゃんと言明できる言葉の能力をもっている。正直などという言葉は思想者にはふさわしくないかもしれないものの、ぼくはたいせつにしている。
≪03≫  西部自身はこう書いている。「思想とは、物事を区分けし、そして道を立てつつ、言葉による表現活動としての人間の生に形を与えようとする営みのことである」。
≪04≫  本書は明治から現代におよぶ13人の思想家をとりあげて、これに論評を加えた。 13人は、明治の福沢諭吉・夏目漱石、大正昭和の吉野作造・北一輝・川合栄治郎・和辻哲郎ときて、ここで伊藤博文と吉田茂という二人政治家が入り、ついで昭和も戦後にかかって坂口安吾・竹内好・吉本隆明の3人をつづけ、最後に小林秀雄を、そしていささか長めの議論を展開してドンジリで福田恆存をじっくり示すという、そういう結構をとっている。
≪05≫  本書が西部の書いたもののなかで、どれくらい成果の高いものかは、まだこの人のものを2、3冊しか読んでいないので、知らない。
≪06≫  それは知らないが、ぼくが読んだかぎりは、本書の原型が「ビッグマン」というマイナーなビジネス誌の連載で、一回ずつの枚数を制限されているなかで書きついだものだという事情を勘定にいれると、かなり高質なものになっているとおもわれる。
≪07≫  西部が保守思想を堅固に標榜していることは、つとに知られている。 この人は「戦後日本が“平和と民主”という仮面をかぶることによって、あの戦争から眼を背け」、「日本が自己固有性を見失ってしまったこと」が、がまんならない。そして、いまや「思想なるものが瀕死に達していること」を嘆きつつも、あえて思想の本来を少しずつでも回復させたいとおもっている。 そのためには、いま思想界を覆う「ヒューマニズムの錯誤」を払いたい。そういう立場を決然と表明している人である。
≪08≫  むろん、そういうことに気がついたのは、この人ばかりではない。すでに多くの思想者が新たな地平をひらくために、試みの言葉を放ってきた。そこで、明治以降、そうした試みに挑んだかとおぼしい13人をとりだし、その言説に論評を加え、これからの日本の思想史がどのような相貌をもつべきか、そこをかれらの長所と短所とともに綴ってみようとした。そこが本書の基本的な狙いになっている。
≪09≫  福沢諭吉については、福沢が「書生の熱狂」を嫌って「一身独立」と「人間交際」を主張したことを評価する一方、あまりに実学と数理を重視して「便利の思想」に走ったことに限界を見る。また、それが福沢の「やせがまん」の出処進退を決しているとも読む。
≪010≫  漱石からは、「二重性の哲学」と「エゴから離れた自己本位」を導いて、今日の日本に欠けているのがハイデガーのいわゆるゾルゲ(生の憂慮)にもとづいた悲観的楽観、すなわち「ニヒリスティック・ヒロイズム」の一種かもしれないと告げる。
≪011≫  ついで、吉野の民本主義は「死者の民主主義」にすぎないのではないか、川合には「権力に対する鈍感」があるのではないか、和辻の堕落は「全体意志」をもちだしたところではないか、という指摘がつづく。
≪012≫  伊藤博文論は国体論批判と不磨大典批判に、吉田茂論は戦後現実主義批判と社民主義に妥協したことに対する批判に、それぞれ焦点をあてている。とくに吉田が「平和と民主」とアメリカ迎合の政治によって民主主義の堕落した形態としての衆愚政治をよびこんだことに、手きびしく文句をつける。
≪013≫  西洋が西洋史の矛盾に気がつき、いよいよ虚無を抱きはじめたとき、日本は近代化をむかえて西洋の表面的模倣に走ることになった。
≪014≫  西洋は自身の矛盾に気がついて、やっと階級意識(マルクス)を、ルサンチマン(ニーチェ)を、そしてリビドー(フロイト)を、人間の歴史の奥に発見しようとしていた。が、日本はそんなことにはおかまいなしに、近代化を突っ走り、無謀な戦争に走った。
≪015≫  これではろくな日本はつくれない。表層だけが西洋になるばかりで、かれらの苦悩とは無縁のままの西洋主義になる。 それでも唯一、日本がそのような表層をとっぱらって自身の内面に向きあう機会はあったはずである。それが敗戦直後の状況である。坂口安吾はその機会をとらえて『堕落論』を書いた。
≪016≫  その坂口を西部は認めようとする。日本が日本になるために正しく堕ちるべきだと主張した坂口を継承しようとする。「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」。
≪017≫  そこで残ったのが福田恆存である。西部は驚いたことに、この連載を書くまでは、福田のものをあまり読まないようにしていたらしい。そういうことを告白するのもこの人の「正直」なところだが、その“照れ”を破ってここではおおいに読み、おおいに傾倒してみせた。 そこが本書の、最も本書らしいところである。
≪018≫  福田恆存には醒めきった「精神の型」がある。それをこの人は「保守思想の神髄」とよぶ。 もともと福田が闘いつづけたのは“戦後の風潮”というものだった。バカバカしい戦争のあとにやってきた、もっとバカバカしい時代を、福田は一貫して冷たくあしらった。そういう福田を小林は「良心をもった鳥のような人だ」といい、坂口は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」といった。
≪019≫  西部も福田のそうした「精神の型」に敬服している。そして、「ヨーロッパの韻にあはせた日本的ミニアチュア」と「近代精神の外装である自我主義」を福田とともに壊したいと考えている。
≪020≫  本書の全体の叙述が、そのような福田の計画、すなわち保守計画をうまく引きついだのかどうかは、わからない。ちょっと急ぎすぎているようにも見える。
≪021≫  が、20年前なら、おそらくたいして関心をもてなかったであろうこの人の論法に、ぼくはいまなら傾聴すべきものがあるようにおもわれて、ついつい本書を精読してしまったのである。
≪022≫  最後に一言。本書は戦後日本が犯した「ヒューマニズムの錯誤」を告発する一書。
≪023≫ 
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70マーシャル・マクルーハン グーテンベルクの銀河系2000/06/14
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71武田泰淳「ひかりごけ」2000/06/15
 戦後文学の最高の実験作のひとつが『ひかりごけ』である。 まず、構成が意外なしくみになっている。
 最初は淡々とした小説のように始まっていて、文筆家の「私」が羅臼を訪れたときのことを回顧しているように見える。なぜ、こんな北海道の果てに来たのかわからないままに、その最果ての漁村の光景の描写がつづいたあと、これはヒカリゴケを見る途中の話だということがわかってくる。
 「私」は中学の校長に案内され、自生するヒカリゴケの洞窟に入る。ヒカリゴケはこの世のものとはつかない緑色の光をぼうっと放っている。
 帰途、校長が「ペキン岬の惨劇」の話をする。漂流した船の船長が乗組員の人肉を食べ、なにくわぬ顔で羅臼にやってきたという話である。「私」は札幌に来て、知人を訪れる。札幌ではちょうどアイヌに関する学会が開かれていて、そこに出席していた知人は、その学会で昔のアイヌ人が人肉を食べていたという報告があったことに憤慨していた。
 校長と知人の話に関心をもった「私」は『羅臼村郷土史』を読む。
 ここから話は昭和19年の事件の記録に入っていく。事件を報告している記録者の言葉に、「私」はどこかひっかかるものを感じる。
 ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である。
 読者はすっかり事件に関心をもたせられるのだが、そのとき急に、この話はかつて野上弥生子が『海神丸』で描いてみせた話だということを知らされ(たまたまぼくはこれを読んでいたが)、さらに大岡昇平の『野火』のテーマにつながるという文学的な話題に転換させられるのである(ちなみに『野火』も、ぼくが衝撃をうけた小説だった)。
 これは妙なことである。 読者は作者の用意してくれた虚構の船から突然に降ろされて、武田泰淳の作家としての現実的な問題意識につきあわされるからだ。
 ところが、そこで武田泰淳は、ほんとうに戯曲を書いてみせ、読者はそれを読むことになっていく。まるで、ほんとうはこの戯曲が最初に書かれ、そのプロローグとしてここまでの物語があとから加わったというふうなのである。
 こうして息をのむような迫真の戯曲がはじまる。 それも意外な構成で、第1幕は難破した船で生き残った4人の船員が洞窟にいる。そのうち船長と西川が二人の人肉を食べると、西川の首のうしろにヒカリゴケのような淡い光が浮かび上がる。
 西川は罪悪感にさいなまれるが、船長が自分を食べようとしているのを察知して、海に身を投げようとするのだが、船長は結局のところ西川を追いつめて食べてしまう。
 第2幕は法廷の場である。船長が被告になっている。ところが、おそろしいことに、ト書には「船長の顔は洞窟を案内した校長の顔と酷似していなければならない」と指定されている。
 船長は検事や裁判長を前に、「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と奇妙なことを言う。一同が呆然としているなか、船長の首のうしろが光りはじめる。船長はさあ、みんなこれを見てくださいと言うが、誰も光が見えない。
 そのうち船長を中心に舞台いっぱいにヒカリゴケのような緑色の光がひろがっていったところで、幕。
 この作品のテーマは必ずしも新しくはない。
 しかし、『野火』や『海神丸』では人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまった人間が主人公になっていて、そこに一種の「救い」が描かれているのに対して、この作品では最初から最後まで安易な救済をもちこまず、徹して宿命の行方を描こうとした。
 そこに浮かび上がるのは不気味な人間の姿そのものなのである。これはひとり武田泰淳にして描きえた徹底である。
 その後、ずいぶんたって、日本人による人肉事件がおこって、世界中に報道された。
 フランスでドラムカンに人間を煮詰めて食べたという、いわゆる佐川事件である。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にした。
 人肉を食べること、これをカニバリズムという。 カーニバルとはそのことである。
 本書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつであろう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品である。
 ちなみに『海神丸』は1922年の作品で、ぼくが知るかぎりはカニバリズムにひそむ人間の苦悩を扱った文学史上初の作品だとおもう。野上弥生子は日本が生んだ最もスケールの大きい作家の一人で、いまこそ読まれるべき女流作家であろう。高村薫・宮部みゆきからさかのぼって、山崎豊子・有吉佐和子・円地文子・平林たい子らをへて野上弥生子に戻るべきである。
 さて、武田泰淳という人は、ぼくの青春期にとっては特別の文学者であった。
 べつだん高級な意味ではない。ぼくは武田家と親しくなって、しょっちゅう赤坂の家に出入りしていたのである。当時はまだ珍しいマンションだった。『富士』の連載がはじまるころだったろうか。そのように、ぼくが足繁く家に出入りした文学者は、あとにもさきにも武田泰淳だけである。
 当時、武田家は深沢七郎と親しくて、しばしば送ってくる深沢味噌がふんだんにあり、ぼくはときどきそれを分けてもらっていた。
 また、子猫をもらうことにもなった。何を隠そう、ぼくが最初に飼った猫は武田家の子猫なのである。大文学者にちなんで「ポオ」という名をつけた。茶色のトラの牡猫である。
 もっとも武田家でぼくのお相手をしてくれるのは、百合子夫人と写真が好きな花ちゃんで、大文学者はなんとなく雑談につきあうだけで、あえてわれわれが交わす話題に介入するようなことはしなかった。
 といって、なんとなくぼくの話を聞いていて、ときどき「君はそんなことを考えるんだね」というような口を挟んでくる。それが泰然自若、どこかで見透かされているようで、妙に怖かったものだった。
 花ちゃんは、その後、ぼくの後輩の写真家とつきあうようになり、そして別れたようだ。その後の花ちゃんのことは、彼女の写真集に詳しい。
 心に残っているのは、武田泰淳の本棚を自由に閲覧できたことである。
 ふつうの本屋ではお目にかかれない本ばかりを覗いてみたものだ。そして、「この本、お借りしてもいいですか」というと、たいていは「あげるよ、ちゃんと読みなさい」と言われたものだった。が、そう言われると、次に会ったときに「あの本、どうだったかね」と言われそうなので、だんだん借りにくくなっていった。
 武田泰淳という人、いまの日本の文学がすっかり失った文学者であった。
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プレフィックス作成
≪01≫  戦後文学の最高の実験作のひとつが『ひかりごけ』である。 まず、構成が意外なしくみになっている。
≪02≫  最初は淡々とした小説のように始まっていて、文筆家の「私」が羅臼を訪れたときのことを回顧しているように見える。なぜ、こんな北海道の果てに来たのかわからないままに、その最果ての漁村の光景の描写がつづいたあと、これはヒカリゴケを見る途中の話だということがわかってくる。
≪03≫  「私」は中学の校長に案内され、自生するヒカリゴケの洞窟に入る。ヒカリゴケはこの世のものとはつかない緑色の光をぼうっと放っている。
≪04≫  帰途、校長が「ペキン岬の惨劇」の話をする。漂流した船の船長が乗組員の人肉を食べ、なにくわぬ顔で羅臼にやってきたという話である。「私」は札幌に来て、知人を訪れる。札幌ではちょうどアイヌに関する学会が開かれていて、そこに出席していた知人は、その学会で昔のアイヌ人が人肉を食べていたという報告があったことに憤慨していた。
≪05≫  校長と知人の話に関心をもった「私」は『羅臼村郷土史』を読む。
≪06≫  ここから話は昭和19年の事件の記録に入っていく。事件を報告している記録者の言葉に、「私」はどこかひっかかるものを感じる。
≪07≫  ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である。
≪08≫  読者はすっかり事件に関心をもたせられるのだが、そのとき急に、この話はかつて野上弥生子が『海神丸』で描いてみせた話だということを知らされ(たまたまぼくはこれを読んでいたが)、さらに大岡昇平の『野火』のテーマにつながるという文学的な話題に転換させられるのである(ちなみに『野火』も、ぼくが衝撃をうけた小説だった)。
≪09≫  これは妙なことである。 読者は作者の用意してくれた虚構の船から突然に降ろされて、武田泰淳の作家としての現実的な問題意識につきあわされるからだ。
≪010≫  ところが、そこで武田泰淳は、ほんとうに戯曲を書いてみせ、読者はそれを読むことになっていく。まるで、ほんとうはこの戯曲が最初に書かれ、そのプロローグとしてここまでの物語があとから加わったというふうなのである。
≪011≫  こうして息をのむような迫真の戯曲がはじまる。 それも意外な構成で、第1幕は難破した船で生き残った4人の船員が洞窟にいる。そのうち船長と西川が二人の人肉を食べると、西川の首のうしろにヒカリゴケのような淡い光が浮かび上がる。
≪012≫  西川は罪悪感にさいなまれるが、船長が自分を食べようとしているのを察知して、海に身を投げようとするのだが、船長は結局のところ西川を追いつめて食べてしまう。
≪013≫  第2幕は法廷の場である。船長が被告になっている。ところが、おそろしいことに、ト書には「船長の顔は洞窟を案内した校長の顔と酷似していなければならない」と指定されている。
≪014≫  船長は検事や裁判長を前に、「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と奇妙なことを言う。一同が呆然としているなか、船長の首のうしろが光りはじめる。船長はさあ、みんなこれを見てくださいと言うが、誰も光が見えない。
≪015≫  そのうち船長を中心に舞台いっぱいにヒカリゴケのような緑色の光がひろがっていったところで、幕。
≪016≫  この作品のテーマは必ずしも新しくはない。
≪017≫  しかし、『野火』や『海神丸』では人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまった人間が主人公になっていて、そこに一種の「救い」が描かれているのに対して、この作品では最初から最後まで安易な救済をもちこまず、徹して宿命の行方を描こうとした。
≪018≫  そこに浮かび上がるのは不気味な人間の姿そのものなのである。これはひとり武田泰淳にして描きえた徹底である。
≪019≫  その後、ずいぶんたって、日本人による人肉事件がおこって、世界中に報道された。
≪020≫  フランスでドラムカンに人間を煮詰めて食べたという、いわゆる佐川事件である。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にした。
≪021≫  人肉を食べること、これをカニバリズムという。 カーニバルとはそのことである。
≪022≫  本書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつであろう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品である。
≪023≫  ちなみに『海神丸』は1922年の作品で、ぼくが知るかぎりはカニバリズムにひそむ人間の苦悩を扱った文学史上初の作品だとおもう。野上弥生子は日本が生んだ最もスケールの大きい作家の一人で、いまこそ読まれるべき女流作家であろう。高村薫・宮部みゆきからさかのぼって、山崎豊子・有吉佐和子・円地文子・平林たい子らをへて野上弥生子に戻るべきである。
≪024≫  さて、武田泰淳という人は、ぼくの青春期にとっては特別の文学者であった。
≪025≫  べつだん高級な意味ではない。ぼくは武田家と親しくなって、しょっちゅう赤坂の家に出入りしていたのである。当時はまだ珍しいマンションだった。『富士』の連載がはじまるころだったろうか。そのように、ぼくが足繁く家に出入りした文学者は、あとにもさきにも武田泰淳だけである。
≪026≫  当時、武田家は深沢七郎と親しくて、しばしば送ってくる深沢味噌がふんだんにあり、ぼくはときどきそれを分けてもらっていた。
≪027≫  また、子猫をもらうことにもなった。何を隠そう、ぼくが最初に飼った猫は武田家の子猫なのである。大文学者にちなんで「ポオ」という名をつけた。茶色のトラの牡猫である。
≪028≫  もっとも武田家でぼくのお相手をしてくれるのは、百合子夫人と写真が好きな花ちゃんで、大文学者はなんとなく雑談につきあうだけで、あえてわれわれが交わす話題に介入するようなことはしなかった。
≪029≫  といって、なんとなくぼくの話を聞いていて、ときどき「君はそんなことを考えるんだね」というような口を挟んでくる。それが泰然自若、どこかで見透かされているようで、妙に怖かったものだった。
≪030≫  花ちゃんは、その後、ぼくの後輩の写真家とつきあうようになり、そして別れたようだ。その後の花ちゃんのことは、彼女の写真集に詳しい。
≪031≫  心に残っているのは、武田泰淳の本棚を自由に閲覧できたことである。
≪032≫  ふつうの本屋ではお目にかかれない本ばかりを覗いてみたものだ。そして、「この本、お借りしてもいいですか」というと、たいていは「あげるよ、ちゃんと読みなさい」と言われたものだった。が、そう言われると、次に会ったときに「あの本、どうだったかね」と言われそうなので、だんだん借りにくくなっていった。
≪033≫  武田泰淳という人、いまの日本の文学がすっかり失った文学者であった。
≪034≫ 
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72キャリー・マリス マリス博士の奇想天外な人生2000/06/19
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73小川未明童話集より 赤いろうそくと人魚2000/06/17
93
74ニール・ボールドウィン マン・レイ2000/06/20
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75岡倉天心 茶の本2000/06/21
 大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。
 驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。
 たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。
 そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。
 そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。
 けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。
 それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。
 かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。
 五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。
 若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。
 それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。
 それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。
当初、その境涯の発端は父親が越前藩士として松平春獄の命で橋本左内らとともに脱藩したことにあった。ここには遠く朝倉一乗谷の景色がある。天心はこの記憶のなかで生を受けた。
 その天心が生まれ育ったのは横浜である。そこは欧米に向かって開かれた「窓」だった。そこには和洋折衷の典型としてのローマ字をおこしたヘボンも、英学校をつくったバラー宣教師も西洋思想を説いたブラウン教父もいた。7歳の天心はまさにヘボン塾とブラウン塾で英語を教わっている。この塾からはのちに富士見町教会を創設する植村正久も横浜ニューグランドホテルでボーイをしていた北村透谷も出た。が、9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、ここで漢籍に夢中になる。このことは、ついで14歳で東京開成学校(東大)に入った天心が森春濤{もりしゅんとう}に漢詩を習い、奥田晴湖に学んで大和絵の指導をうけたことともつながって、天心の山水思想を育んだ。ここでは省くが、この時期の天心の漢詩を読むと、師の水準をはるかに抜いているのがわかる。
 こうして天心は東大生になる。その在学中にハーバード大学からお雇い教師として来日した俊英アーネスト・フェロノサと出会い、早々に英語力を認められて通訳として重宝がられる。18歳で結婚もした。ここではやくも境涯を分けるちょっとした出来事がおこる。卒論に天高く「国家論」を書くのだが(このことにも注目したいのだが)、幼すぎる若妻がヒステリーかなんかをおこしてこれを燃やし、やむなく「美術論」でまにあわせたのがフェノロサを驚かせたこと、卒業して文部省の音楽取調掛に就職したところ、翌年にアメリカから帰ってきた伊沢修二とソリが合わず内記課に移ったことである。この偶然が天心をフェノロサの美術調査に随行させることになった。
 なかでも千年の眠りから覚めた夢殿観音との逢着はフェノロサよりも天心を決定的に「東洋の夢」に走らせた。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも境涯を大きく左右した。九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城したのだ。が、それはまだ先の話になる。
 当時もうひとつ、天心を決定づけたことがある。とびぬけたエリート官僚であった天心は23歳で図画教育調査委員にも任命されるのだが、そこで学生指導の方法をめぐって小山正太郎と正面からぶつかった。これがよかった。小山は明治美術教育の大立者となった洋画家で、このときは洋風鉛筆の指導を主張したのだが、天心はこれをよく反撃した。毛筆にこだわったのだ。のちに東京美術学校で断固として「洋画科」を採用しようとしなかった方針は、ここに発している。だいたい時の権威者とぶつかれなかった者が時代を切り開けるわけがない。
 明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第98夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。
 明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身である。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたした。さらに高橋健三とは日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつけた。まだなお28歳である。
 東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったかは省略する。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから、あとは想像がつくだろう。ともかくもここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽した。それまで日本画という言葉はなかったのだ。大和絵か国画か和画だった。
 ぼくが感嘆したのは、この美術学校時代の天心の美術史講義である。帰国したフェノロサに代わって担当した。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』はごく端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるのだろうが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。
 ともかくもこのころの天心の境涯、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ(あまり知られていないが第758夜鴎外を美術解剖学の講師として招いたりもして)、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催した。ここにおいて、天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させたのだ。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」なのである。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだったのである。
 ここまでまとめていえば、天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させていた。いわば文化行政のすべてにおいて試行しなかったものはなかったのである。なぜここまで手を打てたかということは、うまい説明がない。おそらくは天心が「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていたこと、すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていたためではないかと、ぼくは読んでいる。
 しかし、そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。その後の経緯ははぶくけれど、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。
 これでは学校は蛻(もぬけ)の殻である。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったのだが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師であってコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。
 この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」である。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を、ときどきもったという。
 その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。
 またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものである。いずれも天心は世界と対峙したという実感をもったにちがいない。
 しかし天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明するのである。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ。西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいである。
 けれどもどんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくていよいよ五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移ったのは大観・観山・武山・春草である。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だったという。
 この先の点景は書かないですますことにする。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていくのだが、今夜はどうもそれを書く気分になれそうもないからだ。
 むろんその寂寞は天心が望んだことだった。それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。とはいえ、この寂寞は天心ほどの者をも静慮させるのだ。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をしたものだ。それでもハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴がじょじょに大きな空洞になっていくだろうという予感をもたらした。つまりは天心は日本の将来に不安をもったのであり、ということは日本の本来が失われていくであろうことを直観したのであり、そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていたのだった。
 それを天心の言葉で端的にあらわすなら、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになろう。想像力が負の花を咲かせるのである。ほんとうは、ここから先こそぼくが書かなければならない天心なのだが……。
モナドロジー
なお、本書はいろいろの版が出ているが、日本語としては岩波文庫が、英文が併設されているものとしては学術文庫が入手しやすくよくできているので、二冊を併記しておいた。また、その後に五浦は修改がおこなわれ五浦美術館として(内藤廣設計)、また茨城大学五浦美術文化研究所による五浦美術叢書の刊行も始まった。実は『岡倉天心アルバム』というものすらこれまでなかったのだが、これも五浦美術文化研究所の監修で、やっと中央公論美術出版から陽の目を見ることになった。
95
プレフィックス作成
≪01≫  大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。
≪02≫  驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。
≪03≫  たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。
≪04≫  そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。
≪05≫  そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。
≪06≫  けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。
≪07≫  それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。
≪08≫  かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。
≪09≫  五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。
≪010≫  若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。
≪011≫  それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。
≪012≫  それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。
≪013≫ 当初、その境涯の発端は父親が越前藩士として松平春獄の命で橋本左内らとともに脱藩したことにあった。ここには遠く朝倉一乗谷の景色がある。天心はこの記憶のなかで生を受けた。
≪014≫  その天心が生まれ育ったのは横浜である。そこは欧米に向かって開かれた「窓」だった。そこには和洋折衷の典型としてのローマ字をおこしたヘボンも、英学校をつくったバラー宣教師も西洋思想を説いたブラウン教父もいた。7歳の天心はまさにヘボン塾とブラウン塾で英語を教わっている。この塾からはのちに富士見町教会を創設する植村正久も横浜ニューグランドホテルでボーイをしていた北村透谷も出た。が、9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、ここで漢籍に夢中になる。このことは、ついで14歳で東京開成学校(東大)に入った天心が森春濤{もりしゅんとう}に漢詩を習い、奥田晴湖に学んで大和絵の指導をうけたことともつながって、天心の山水思想を育んだ。ここでは省くが、この時期の天心の漢詩を読むと、師の水準をはるかに抜いているのがわかる。
≪015≫  こうして天心は東大生になる。その在学中にハーバード大学からお雇い教師として来日した俊英アーネスト・フェロノサと出会い、早々に英語力を認められて通訳として重宝がられる。18歳で結婚もした。ここではやくも境涯を分けるちょっとした出来事がおこる。卒論に天高く「国家論」を書くのだが(このことにも注目したいのだが)、幼すぎる若妻がヒステリーかなんかをおこしてこれを燃やし、やむなく「美術論」でまにあわせたのがフェノロサを驚かせたこと、卒業して文部省の音楽取調掛に就職したところ、翌年にアメリカから帰ってきた伊沢修二とソリが合わず内記課に移ったことである。この偶然が天心をフェノロサの美術調査に随行させることになった。
≪016≫  なかでも千年の眠りから覚めた夢殿観音との逢着はフェノロサよりも天心を決定的に「東洋の夢」に走らせた。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも境涯を大きく左右した。九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城したのだ。が、それはまだ先の話になる。
≪017≫  当時もうひとつ、天心を決定づけたことがある。とびぬけたエリート官僚であった天心は23歳で図画教育調査委員にも任命されるのだが、そこで学生指導の方法をめぐって小山正太郎と正面からぶつかった。これがよかった。小山は明治美術教育の大立者となった洋画家で、このときは洋風鉛筆の指導を主張したのだが、天心はこれをよく反撃した。毛筆にこだわったのだ。のちに東京美術学校で断固として「洋画科」を採用しようとしなかった方針は、ここに発している。だいたい時の権威者とぶつかれなかった者が時代を切り開けるわけがない。
≪018≫  明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第98夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。
≪019≫  明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身である。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたした。さらに高橋健三とは日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつけた。まだなお28歳である。
≪020≫  東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったかは省略する。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから、あとは想像がつくだろう。ともかくもここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽した。それまで日本画という言葉はなかったのだ。大和絵か国画か和画だった。
≪021≫  ぼくが感嘆したのは、この美術学校時代の天心の美術史講義である。帰国したフェノロサに代わって担当した。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』はごく端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるのだろうが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。
≪022≫  ともかくもこのころの天心の境涯、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ(あまり知られていないが第758夜鴎外を美術解剖学の講師として招いたりもして)、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催した。ここにおいて、天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させたのだ。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」なのである。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだったのである。
≪023≫  ここまでまとめていえば、天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させていた。いわば文化行政のすべてにおいて試行しなかったものはなかったのである。なぜここまで手を打てたかということは、うまい説明がない。おそらくは天心が「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていたこと、すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていたためではないかと、ぼくは読んでいる。
≪024≫  しかし、そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。その後の経緯ははぶくけれど、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。
≪025≫  これでは学校は蛻(もぬけ)の殻である。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったのだが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師であってコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。
≪026≫  この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」である。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を、ときどきもったという。
≪027≫  その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。
≪028≫  またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものである。いずれも天心は世界と対峙したという実感をもったにちがいない。
≪029≫  しかし天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明するのである。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ。西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいである。
≪030≫  けれどもどんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくていよいよ五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移ったのは大観・観山・武山・春草である。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だったという。
≪031≫  この先の点景は書かないですますことにする。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていくのだが、今夜はどうもそれを書く気分になれそうもないからだ。
≪032≫  むろんその寂寞は天心が望んだことだった。それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。とはいえ、この寂寞は天心ほどの者をも静慮させるのだ。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をしたものだ。それでもハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴がじょじょに大きな空洞になっていくだろうという予感をもたらした。つまりは天心は日本の将来に不安をもったのであり、ということは日本の本来が失われていくであろうことを直観したのであり、そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていたのだった。
≪033≫  それを天心の言葉で端的にあらわすなら、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになろう。想像力が負の花を咲かせるのである。ほんとうは、ここから先こそぼくが書かなければならない天心なのだが……。
≪034≫ モナドロジー
≪035≫ なお、本書はいろいろの版が出ているが、日本語としては岩波文庫が、英文が併設されているものとしては学術文庫が入手しやすくよくできているので、二冊を併記しておいた。また、その後に五浦は修改がおこなわれ五浦美術館として(内藤廣設計)、また茨城大学五浦美術文化研究所による五浦美術叢書の刊行も始まった。実は『岡倉天心アルバム』というものすらこれまでなかったのだが、これも五浦美術文化研究所の監修で、やっと中央公論美術出版から陽の目を見ることになった。
≪036≫ ≪037≫ ≪038≫ ≪039≫ ≪040≫ ≪041≫ ≪042≫ ≪043≫ ≪044≫ ≪045≫ ≪046≫ ≪047≫ ≪048≫ ≪049≫ ≪050≫ ≪051≫ ≪052≫ ≪053≫ 
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76三木のり平 のり平のパーッといきましょう2000/06/22
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77オギュスタン・ベルク「風土の日本」2000/06/23
 オギュスタン・ベルクとはこれまで2度にわたって話しこんだ。 そのつど漠然と教えられることが多かった。精緻な言葉ではない。あくまで漠然としていた。しかしながら、「漠然とした暗示」は、「鋭利な指摘」よりずっと効果が高いことがあるものなのだ。ベルクの会話にはつねにそれが満ちていた。
 ベルクが書くものはどうか。そこにも「漠然とした暗示」が溢れている。必ずしも論理や理屈だけでは攻めてはこない。それでいて、全体のことも部分のことも、そして超部分のことも、じっくり伝わってくる。これはベルクが「日本」を相手にしているからだろうか。
 ベルクの『空間としての日本文化』(Vivre l’espace au Japon)を読んだとき、日本語だけにあってフランス語にはめったにないオノマトペイアの特徴をたくみにつかって、これからのべる日本文化論の入口にアプローチしようとしている冒頭に虚をつかれた。
 このぶんではずいぶん意外な論法で押しまくられるなとおもったが、その後の議論の調子はゆっくりとして、はなはだ悠揚迫らない。ひたすら静かに日本語の特質に入っていく。そこで、なんだこれなら一安心とおもっていると、たとえば「おもかげ」などという、日本人でもその説明をちゃんとできない概念について、まことに適確な分析を始める。
 そしてついには「日本人の公は私の中にある」といった、日本人にとっても最も重大で、かつややこしい「公私の感覚」の底辺を深くえぐっていくような議論を、まるで畳職人のように仕上げてしまうのであった。ようするに、すべてはベルクのペースなのである。
 が、これが外(ほか)でもない日本論なのだ。ベルクが見た日本の風土なのだ。われわれに関する問題なのだ。
 そういうベルクが2冊目に発表した日本文化論が『風土の日本』である。さすがにぼくも警戒をして読んだおぼえがある。
 結論から先にいう。 ぼくは本書を警戒して読んだにもかかわらず、ベルクの術中にはまってしまっていた。
 一茶の「夕立やかみつくやうな鬼瓦」から話が始まっているのが、よくなかった。フランス人が一茶をさらりと出して日本のことを出すなんて、とんでもない。ベルクは日本人の気象感覚をヨーロッパ人と比較するためにこの句を持ち出しているのだが、一茶の感覚がぞっこん好きなぼくは、その手練にやすやすとのってしまったのである。
 これで、もういけない。「花冷え」「晩春」「入梅」「残暑」といった感覚の内奥を、ぼくは存分に知っていながらも、その存分に知っている感覚の裏地のようなものをフランス人から次々に教えられてしまった。
 むろんちょっとは抵抗もする。「風景の共感覚」などという言葉にだまされないぞとおもってもみる。が、その「風景の共感覚」の例として、「石山の石より白し秋の風」なんぞをすっと出されるので、またまた気分がよくなってくる。困ったものである(ちなみに、この句が誰の句かは、「千夜千冊」の読者は御存知ですよね。もし知らないのなら、諸君はベルクからではなく、日本の古典からやりなおすべきである)。
 こういうわけで、なんのことはない、結局のところ、ぼくはベルクとは共同戦線を張ることにした。二人で、近ごろ不毛な日本文化論を驀進しようじゃないかということになったのである。ぼくが『日本流』や『日本数寄』をたてつづけにまとめようとおもったのは、この会話がひとつのきっかけになっている。
 だいたい日本人は、『古今集』で扱いが9番目にすぎなかった「月」が、『新古今集』で最も多い歌題になったからといって、ああ、そんなものかとしか思わないだらしないところがある。
 また、仮にそういう問題に研究者たちが関心をもっても(そういう人はたくさんいるが)、かれらはそこから日本文化の本質を導きだしたりはしない。ところが、オギュスタン・ベルクはそこから“日本のゲシュタルト”まで進み、そこにレヴィ=ストロース、ピアジェ、フーコー、ドゥルーズを通過して、さらには和辻哲郎から唐木順三までを駆使して、われわれの心情の底流を言葉で埋め尽くしてしまうのである。
 それだけではなく、本書ではとくに古田織部の表現性と富士谷御杖の言語論の考え方が強調される。新古今の確立はここまで流れをいたすのだ。
 ときには、日本人の学者がこういう本を読むべき理由が、こういうところにもある。
 もともとベルクが日本研究の出発点にしたのは、和辻哲郎の『風土』である。
 ベルクは「風土」を“milieu”ととらえた。あいだにあるもの、である。その風土の概念を、ベルクは多彩な知識を援用してヨーロッパの哲学や地理学と照らしたうえで、ふたたび独自な概念として上昇させ(たとえば風土性=mediance)、そこに加えてベルク自身の風土観念を仕込ませていった。
 こうしてできあがったのが「通態」(trajet)や「通態性」(trajectivitet)という概念である。
 気象や植物などの空間を構成するものと、そこにいると精神や観念がふと能動的になる場所的なものとが、互いに作用しあい、組み合わさってつくられる風土的な特性のことをいう。なかなか暗示的である。
 ベルクはこの「通態性」をもって、日本人のわれわれが「ふるさと」とよんだり、「おもかげ」とよんだり、あるいは「みやび」「さび」「あはれ」とよぶものを解明しようとしたのであった。
 実のところ、この最後の試みは、まだ成功しているとはいいがたい。
 実際にも「通態」の真価は、その後の環境論をめぐる著作『地球と存在の哲学』(ちくま新書)などで初めて発揮されていて、それがふたたび日本論や日本風土論に適用されてはいないように見える。
 ベルクは、日本論を手がかりにして、もっと普遍的な問題のほうに行ってしまったのだろうか。そういう気もする。
 そうだとすれば、それは一面、寂しいことであるが、一面、日本論とはむしろそういう寂しい方向を本質的にもつべきものだとも、いえるのである。かつてフランスやドイツに学んだ九鬼周造がそうだったように。ぼくが『日本流』に綴ったように。
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プレフィックス作成
≪01≫  オギュスタン・ベルクとはこれまで2度にわたって話しこんだ。 そのつど漠然と教えられることが多かった。精緻な言葉ではない。あくまで漠然としていた。しかしながら、「漠然とした暗示」は、「鋭利な指摘」よりずっと効果が高いことがあるものなのだ。ベルクの会話にはつねにそれが満ちていた。
≪02≫  ベルクが書くものはどうか。そこにも「漠然とした暗示」が溢れている。必ずしも論理や理屈だけでは攻めてはこない。それでいて、全体のことも部分のことも、そして超部分のことも、じっくり伝わってくる。これはベルクが「日本」を相手にしているからだろうか。
≪03≫  ベルクの『空間としての日本文化』(Vivre l’espace au Japon)を読んだとき、日本語だけにあってフランス語にはめったにないオノマトペイアの特徴をたくみにつかって、これからのべる日本文化論の入口にアプローチしようとしている冒頭に虚をつかれた。
≪04≫  このぶんではずいぶん意外な論法で押しまくられるなとおもったが、その後の議論の調子はゆっくりとして、はなはだ悠揚迫らない。ひたすら静かに日本語の特質に入っていく。そこで、なんだこれなら一安心とおもっていると、たとえば「おもかげ」などという、日本人でもその説明をちゃんとできない概念について、まことに適確な分析を始める。
≪05≫  そしてついには「日本人の公は私の中にある」といった、日本人にとっても最も重大で、かつややこしい「公私の感覚」の底辺を深くえぐっていくような議論を、まるで畳職人のように仕上げてしまうのであった。ようするに、すべてはベルクのペースなのである。
≪06≫  が、これが外(ほか)でもない日本論なのだ。ベルクが見た日本の風土なのだ。われわれに関する問題なのだ。
≪07≫  そういうベルクが2冊目に発表した日本文化論が『風土の日本』である。さすがにぼくも警戒をして読んだおぼえがある。
≪08≫  結論から先にいう。 ぼくは本書を警戒して読んだにもかかわらず、ベルクの術中にはまってしまっていた。
≪09≫  一茶の「夕立やかみつくやうな鬼瓦」から話が始まっているのが、よくなかった。フランス人が一茶をさらりと出して日本のことを出すなんて、とんでもない。ベルクは日本人の気象感覚をヨーロッパ人と比較するためにこの句を持ち出しているのだが、一茶の感覚がぞっこん好きなぼくは、その手練にやすやすとのってしまったのである。
≪010≫  これで、もういけない。「花冷え」「晩春」「入梅」「残暑」といった感覚の内奥を、ぼくは存分に知っていながらも、その存分に知っている感覚の裏地のようなものをフランス人から次々に教えられてしまった。
≪011≫  むろんちょっとは抵抗もする。「風景の共感覚」などという言葉にだまされないぞとおもってもみる。が、その「風景の共感覚」の例として、「石山の石より白し秋の風」なんぞをすっと出されるので、またまた気分がよくなってくる。困ったものである(ちなみに、この句が誰の句かは、「千夜千冊」の読者は御存知ですよね。もし知らないのなら、諸君はベルクからではなく、日本の古典からやりなおすべきである)。
≪012≫  こういうわけで、なんのことはない、結局のところ、ぼくはベルクとは共同戦線を張ることにした。二人で、近ごろ不毛な日本文化論を驀進しようじゃないかということになったのである。ぼくが『日本流』や『日本数寄』をたてつづけにまとめようとおもったのは、この会話がひとつのきっかけになっている。
≪013≫  だいたい日本人は、『古今集』で扱いが9番目にすぎなかった「月」が、『新古今集』で最も多い歌題になったからといって、ああ、そんなものかとしか思わないだらしないところがある。
≪014≫  また、仮にそういう問題に研究者たちが関心をもっても(そういう人はたくさんいるが)、かれらはそこから日本文化の本質を導きだしたりはしない。ところが、オギュスタン・ベルクはそこから“日本のゲシュタルト”まで進み、そこにレヴィ=ストロース、ピアジェ、フーコー、ドゥルーズを通過して、さらには和辻哲郎から唐木順三までを駆使して、われわれの心情の底流を言葉で埋め尽くしてしまうのである。
≪015≫  それだけではなく、本書ではとくに古田織部の表現性と富士谷御杖の言語論の考え方が強調される。新古今の確立はここまで流れをいたすのだ。
≪016≫  ときには、日本人の学者がこういう本を読むべき理由が、こういうところにもある。
≪017≫  もともとベルクが日本研究の出発点にしたのは、和辻哲郎の『風土』である。
≪018≫  ベルクは「風土」を“milieu”ととらえた。あいだにあるもの、である。その風土の概念を、ベルクは多彩な知識を援用してヨーロッパの哲学や地理学と照らしたうえで、ふたたび独自な概念として上昇させ(たとえば風土性=mediance)、そこに加えてベルク自身の風土観念を仕込ませていった。
≪019≫  こうしてできあがったのが「通態」(trajet)や「通態性」(trajectivitet)という概念である。
≪020≫  気象や植物などの空間を構成するものと、そこにいると精神や観念がふと能動的になる場所的なものとが、互いに作用しあい、組み合わさってつくられる風土的な特性のことをいう。なかなか暗示的である。
≪021≫  ベルクはこの「通態性」をもって、日本人のわれわれが「ふるさと」とよんだり、「おもかげ」とよんだり、あるいは「みやび」「さび」「あはれ」とよぶものを解明しようとしたのであった。
≪022≫  実のところ、この最後の試みは、まだ成功しているとはいいがたい。
≪023≫  実際にも「通態」の真価は、その後の環境論をめぐる著作『地球と存在の哲学』(ちくま新書)などで初めて発揮されていて、それがふたたび日本論や日本風土論に適用されてはいないように見える。
≪024≫  ベルクは、日本論を手がかりにして、もっと普遍的な問題のほうに行ってしまったのだろうか。そういう気もする。
≪025≫  そうだとすれば、それは一面、寂しいことであるが、一面、日本論とはむしろそういう寂しい方向を本質的にもつべきものだとも、いえるのである。かつてフランスやドイツに学んだ九鬼周造がそうだったように。ぼくが『日本流』に綴ったように。
≪026≫ 
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78ジュール・ミシュレ ジャンヌ・ダルク2000/06/26
100
79上村一夫 菊坂ホテル2000/06/27