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1 | 室町時代年表 将軍と南北朝及び項目 | |||||||||||||||||||||||||||
2 | 年号 | 将軍 | 代数 | 将軍在位 | 朝廷(北朝) | 南朝 | 項目 | 海外 | 中国王朝 | |||||||||||||||||||
3 | 1333 | 後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵 | 元 | |||||||||||||||||||||||||
4 | 1333 | 鎌倉幕府滅亡。北条高時・金沢貞顕・長崎円喜ら北条一門、鎌倉東勝寺で火を放った後に自刃。 | ||||||||||||||||||||||||||
5 | 後醍醐天皇 南朝樹立 | 建武の新政 | ||||||||||||||||||||||||||
6 | 足利直義が後醍醐天皇皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。 | |||||||||||||||||||||||||||
7 | 1334 | |||||||||||||||||||||||||||
8 | 1335 | 中先代の乱。北条時行が関東で挙兵し、足利尊氏がこれを滅ぼす | ||||||||||||||||||||||||||
9 | 足利尊氏が朝廷への叛意を明らかにする。後醍醐天皇は新田義貞を大将とする追討軍を派遣(これより建武の乱)。 | |||||||||||||||||||||||||||
10 | 1336 | 光明天皇 | 湊川の戦い。楠木正成戦死。 | |||||||||||||||||||||||||
11 | 建武式目 | |||||||||||||||||||||||||||
12 | 1336 | 足利尊氏 | 1 | 1338-1358 | ||||||||||||||||||||||||
13 | 1336 | 足利尊氏、建武の乱に勝利。 足利尊氏が持明院統(北朝)の天皇を擁立し、幕府を開く 室町時代の始まり | ||||||||||||||||||||||||||
14 | 1337 | 後醍醐天皇が京都を脱出して吉野へ移り南朝を開く(南北朝時代の開始) | ||||||||||||||||||||||||||
15 | 1337 | 百年戦争。1337~1453年。 フランス王国対イギリス王国 | ||||||||||||||||||||||||||
16 | 1338 | 北畠顕家戦死 新田義貞戦死 征夷大将軍に任ぜられる | ||||||||||||||||||||||||||
17 | ||||||||||||||||||||||||||||
18 | 1339 | 後醍醐天皇崩御 足利尊氏・足利直義盛大な法要 後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺創建を決定 しかし創立間もない足利幕府には経済的余裕がなかったため、鎌倉幕府の例に倣い、交易で建築費用を賄う事も決定された。 | ||||||||||||||||||||||||||
19 | 1339 | 後村上天皇 | ||||||||||||||||||||||||||
20 | 1342 | 足利直義が天龍寺船(てんりゅうじぶね)を元に派遣 | ||||||||||||||||||||||||||
21 | 1345 | 京都の嵐山に、天龍寺(霊亀山 天龍資聖禅寺)が建てられる。後醍醐天皇七回忌に合わせて落慶法要。 | ||||||||||||||||||||||||||
22 | 1347 | ペストの大流行の始まり。~1357年。2度のパンデミックで農奴不足となり、荘園制度に大きな影響を及ぼした。 | ||||||||||||||||||||||||||
23 | 1348 | 四条畷の戦い。 | ||||||||||||||||||||||||||
24 | 1348 | 高師直、楠木正行を敗死させ、吉野の行宮を焼き払い、 南朝を奥地の賀名生に追いやる。 | ||||||||||||||||||||||||||
25 | 崇光天皇 | すこう | ||||||||||||||||||||||||||
26 | 1349 | 足利尊氏の四男基氏が初代鎌倉公方として下向。 | ||||||||||||||||||||||||||
27 | 1349 | 政務を執る弟足利直義と革新派の執事高師直の対立が起こる | ||||||||||||||||||||||||||
28 | 1350 | 観応の擾乱。 尊氏・高師直派vs直義派 1351年高師直は直義派に殺害されるが、尊氏が形勢逆転を成功させ、直義は幽閉された後、急死(毒殺?)。 | ||||||||||||||||||||||||||
29 | 1351 | 紅巾の乱。白蓮教徒による反乱は瞬く間に広がり、元の衰退を招いた。 | ||||||||||||||||||||||||||
30 | 1352 | 南朝、京都を攻撃 | ||||||||||||||||||||||||||
31 | 1353 | イルハン朝滅亡 | ||||||||||||||||||||||||||
32 | 後光厳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||
33 | 観応半済令 尾張・美濃・近江の3国の年貢の半分を1年限定で、 兵糧米にする権限を認めた。 守護は、国人の被官化を進めていった。 | |||||||||||||||||||||||||||
34 | 1356 | 一条良基が『菟玖波集』(連歌)を著す | ||||||||||||||||||||||||||
35 | 神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を発布 | |||||||||||||||||||||||||||
36 | 1359 | 足利義詮 | 2 | 1359- 1367 | 1258年尊氏死去。足利義詮が2代将軍に。 | |||||||||||||||||||||||
37 | 1359 | 筑後川の戦い(九州の南朝勢力)。懐良親王・菊池武光が少弐頼尚らを破り(筑後川の戦い)、南朝が九州を支配。 | ||||||||||||||||||||||||||
38 | 1364 | 足利直冬(尊氏庶子で直義養子)派幕府に帰順。 幕府内部の分裂終了。 | ||||||||||||||||||||||||||
39 | 1367 | 高麗が倭寇の禁止を要請 | ||||||||||||||||||||||||||
40 | 1368 | 応安の半済令(応安の大法) | ||||||||||||||||||||||||||
41 | 長慶天皇 | |||||||||||||||||||||||||||
42 | 元の滅亡。 明の建国(~1644)。 洪武帝(朱元璋) | |||||||||||||||||||||||||||
43 | 1369 | 足利義満 | 3 | 1369-1395 | 1368年足利義詮死去。11歳で将軍就任。 管領細川頼之補佐。幕府権力の安定化。 | |||||||||||||||||||||||
44 | 明の洪武帝が倭寇の禁止を要請する | |||||||||||||||||||||||||||
45 | 高麗、明の太祖に国王として封じられる。当時の王恭愍王は元の支援を背景に即位したが、明の台頭を見るや、親明政策をとった。 | |||||||||||||||||||||||||||
46 | 1370 | この頃までに『太平記』がまとめられる | ||||||||||||||||||||||||||
47 | 1371 | 後円融天皇 | ||||||||||||||||||||||||||
48 | 今川了俊、九州探題に就任 | |||||||||||||||||||||||||||
49 | 明が海禁令を発布。 | |||||||||||||||||||||||||||
50 | 1372 | 今川了俊、南朝征西将軍府を攻撃、太宰府占拠、奪還。 | ||||||||||||||||||||||||||
51 | 1374 | 明が寧波・泉州・広州の市舶司を廃止し、民間貿易を全面的に禁止。 | ||||||||||||||||||||||||||
52 | 4月-7月、イングランドで善良議会 | |||||||||||||||||||||||||||
53 | 1378 | 義満、室町台(花の御所、花営(かえい))に移る。 | ||||||||||||||||||||||||||
54 | 1382 | 後小松天皇 | ||||||||||||||||||||||||||
55 | 1383 | 後亀山天皇 | 南朝最後の天皇 | |||||||||||||||||||||||||
56 | 1386 | ウィンザー条約。イングランド・ポルトガル間で結ばれた同盟条約。現存する最古の2国間同盟。 | ||||||||||||||||||||||||||
57 | 1388 | イングランドで非情議会が招集 誕生 | ||||||||||||||||||||||||||
58 | 1392 | 明徳の乱。山名氏が室町幕府に対して反乱を起こす。 山名氏=全国66か国のうち、11か国を治め、 六分一殿と呼ばれた。 義満は強大な山梨の分裂内紛をはかる 激戦の末、幕府軍の勝利。明徳記。 | ||||||||||||||||||||||||||
59 | 1392 | 明徳の和約。南北朝時代終了 | ||||||||||||||||||||||||||
60 | 李成桂、高麗王朝を滅ぼし李氏朝鮮を開く | |||||||||||||||||||||||||||
61 | 1395 | 足利義持 | 4 | 1395-1423 | 足利義持4代将軍に就任。 足利義満出家。斯波義将が補佐。 | |||||||||||||||||||||||
62 | 足利義満、太政大臣となる。同年、出家。出家して院政を行った法皇たちを意識。 | |||||||||||||||||||||||||||
63 | 1397 | 京都北山に舎利殿を中心とする山荘北山第(北山殿)を造営。1399年ころ完成。後の鹿苑寺金閣。義満は北山に活動の拠点を移し、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化が生まれた。義満は猿楽の観阿弥・世阿弥父子を庇護した。 | ||||||||||||||||||||||||||
64 | 1398 | 建文帝(太祖洪武帝の孫) | ||||||||||||||||||||||||||
65 | 1399 | 靖難の変 | ||||||||||||||||||||||||||
66 | イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を議決。ランカスター朝が始まる | |||||||||||||||||||||||||||
67 | 1399 | 応永の乱。義満は、有力守護大名の弱体化を図り、また大内義弘が朝鮮使節から莫大な進物を受け取っていたなどにより、義弘を幕府に挙兵させて滅ぼした。 | ||||||||||||||||||||||||||
68 | 相国寺八角七重塔完成。高さが約109mとされ、20世紀初頭まで国内で最も高い木造建築であったという。1416年に落雷で焼失。 | |||||||||||||||||||||||||||
69 | 1401 | 日明貿易。義満、「日本国准三后源道義」名義で博多商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣。建文帝、足利義満を日本国王に冊封。明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立した。 (朝貢貿易は、国王でないとできないため、長い交渉の末、義満が出家の末、幕府から離れたのち、明側に認めてもらった) | ||||||||||||||||||||||||||
70 | 足利義満が相国寺を五山の第1とする。(義満の時のみ) | |||||||||||||||||||||||||||
71 | 足利義満が僧侶の祖阿と肥富を明に派遣する。 | |||||||||||||||||||||||||||
72 | 1402 | 永楽帝 靖難の変によって帝位を奪った | ||||||||||||||||||||||||||
73 | 1404 | 日本国王が明の皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が始まる。遣唐使廃止以来、510年ぶりの正式国交。しかし、明皇帝の新加となる朝貢貿易に対して不満や批判も多くあった。 | ||||||||||||||||||||||||||
74 | 1405 | 明の武将・鄭和が第1次航海に出発 | ||||||||||||||||||||||||||
75 | 1408 | 義満死去。相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。明治の廃仏毀釈による鹿苑院が廃寺の憂き目に遭い、義満の墓所は位置不明になっった。 | ||||||||||||||||||||||||||
76 | 明の永楽帝義満を悼み、義満の死の翌年に弔問使を日本につかわし諡号を送る | |||||||||||||||||||||||||||
77 | 永楽大典 | |||||||||||||||||||||||||||
78 | ハンガリー王ジギスムントがドラゴン騎士団を設立 | |||||||||||||||||||||||||||
79 | 土倉・酒屋役の制が定められる | |||||||||||||||||||||||||||
80 | 若狭国小浜に南蛮船来航。初めて生きた象が来日か? | |||||||||||||||||||||||||||
81 | 如拙が退蔵院瓢鮎図を描く | |||||||||||||||||||||||||||
82 | 1409 | ライプツィヒ大学が開学 | ||||||||||||||||||||||||||
83 | 1410 | 足利義持、対外通行に積極的だった管領斯波義将の死をきっかけに永楽帝の勅使を追い返す。 | ||||||||||||||||||||||||||
84 | 南朝最後の天皇後亀山上皇が吉野へ出奔。これを機に各地の急南朝系の勢力が放棄し、反乱頻発する。後亀山天皇はその後、幕府の説得で1416年に帰京。 | |||||||||||||||||||||||||||
85 | タンネンベルクの戦い | |||||||||||||||||||||||||||
86 | 周文、芭蕉夜雨図 | |||||||||||||||||||||||||||
87 | 1411 | 足利義持、明使の入京拒否。国交を断絶。 | ||||||||||||||||||||||||||
88 | 1412 | 称光天皇 | 行状に問題多く、後小松上皇や足利義持をたびたび悩ませたという。義持は後小松上皇との父子関係をよく取り持った。病弱で後継ぎはいなかったため、後光厳流は断絶した。 | |||||||||||||||||||||||||
89 | 若狭国小浜に南蛮船来航。初めて象が来日か? | |||||||||||||||||||||||||||
90 | 1413 | ヘンリー5世英国王に | ||||||||||||||||||||||||||
91 | 1416 | 上杉禅秀の乱。室町幕府が南北朝時代に関東統治のために設置した鎌倉府の鎌倉公方の補佐である関東管領の前任者である上杉氏憲(上杉禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して起こした反乱。 | ||||||||||||||||||||||||||
92 | 1418 | 大津の馬借が強訴 | ||||||||||||||||||||||||||
93 | 1419 | 応永の外寇。李氏朝鮮が倭寇対策として対馬を襲撃。国交を断絶した足利義持を快く思わなった明の永楽帝の意を受けたともいわれる。 | ||||||||||||||||||||||||||
94 | 1420 | 紫禁城が完成 | ||||||||||||||||||||||||||
95 | イングランド王国がパリを占領 | |||||||||||||||||||||||||||
96 | 1423 | 足利義量 | 5 | 1423-1425 | よしかず。病弱かつ大酒で健康をさらに損ない早世 | |||||||||||||||||||||||
97 | 1424 | 洪熙帝 | ||||||||||||||||||||||||||
98 | 鎌倉公方の足利持氏が室町幕府の第4代征夷大将軍・足利義持と和睦する | |||||||||||||||||||||||||||
99 | 1425 | 宣徳帝 | ||||||||||||||||||||||||||
100 | 5代征夷大将軍・足利義量が急死して征夷大将軍が不在となり、幕政は前将軍・足利義持が統括する。 |