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記事見出し年月日新聞資料集頁数分類記事本文
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滿蒙開拓へ/靑少年義勇軍/県下から数百名募1938(昭和13)年2月6日高知新聞朝刊107
滿満蒙開拓靑少年義勇軍編成という重要な使命を帯びた大日本聰合靑年團主事補五百蔵幸碌、農村更生協会主事久保佐土美の両氏は4日来高、直に縣社會課、教育課を訪問、打合せをなしたが、義勇軍に對する滿蒙の現地における希望は全國各地から5萬人の靑少年を集めたいといふのであるが、議會開會中のためこの拓務豫算が決定しないので、縣内の募集人員もハッキリしないとは言へ數百名を募集する豫定であり、これが趣旨徹底並に募集事務打合せのため下記日程で縣下各地の町村長、小學校長、靑年學校長、靑年團長らを召集して協議會を開催する事になっている。
5日幡多郡中村町   6日高岡郡窪川町   7日吾川郡伊野町
8日香美郡山田町   9日香美郡野市町
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靑少年義勇軍高知中隊/想ひは大陸へ/けふ愈々高知驛を出發1942(昭和17)年3月5日高知新聞朝刊74斎藤中隊
想いを滿洲の桃源鄕に馳せ三月五日内原滿蒙開拓靑少年義勇軍訓練所へと晴れの壯途にのぼる高知中隊は四日に鄕土における最後の一日下記の行事を行ったが出發を前に全隊員の旅装も軽々しく紅顔の靑少年には何がなんでもやりぬく決意が表明され筑波颪(おろし)の荒れすさぶ内原の酷寒をものともせず農業報國に挺身する見事な意氣込が窺(うかが)はれたこの日午前九時より各出身町村で激励の町村壯行式を行った全隊員は午後二時縣庁正面内廣場に勢揃ひ郡小隊を編成、小隊毎に點呼をとり國民儀礼を行った後阿部學部長から新調の隊旗を授與(じゅよ)され午後二時半、隊伍を整へた高知中隊は初春の陽光を浴びて燦と輝く眞新の隊旗を碧空に簸(ひ)して縣庁正面出發本町から乗出(のりだし)を経て山内神社に至り参拝をなしそれより乗出に出で電車通を東進
靑柳橋渡り護國神社に参拝、更に電車通を西進目貫街を堂々行進、新京橋を經て帯屋町を西進、追手筋は天理教會の宿舎に入り、最後の一夜を係官主任からの指示を受け、父兄と共に楽しき懇談を交へたがいよいよ今日五日は縣公會堂に集合壯行式に臨み午後一時二十六分高知驛發晴れの首途にのぼるが、これら義勇軍隊員の輸送保護に池田主任係官、上田幹事以下十名が當ることになっている
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“靑少年義勇軍一同元氣だ”/池田主事補歸る1942(昭和17)年7月19日高知新聞朝刊74-75斎藤中隊本日二日に現地に到着し土の戰士として滿洲開拓の聖鍬をふるつてゐる本縣最初の靑少年義勇軍高知中隊を引率して無事輸送の大任をはたしこの程歸縣(きけん)した縣職業課池田拓務主事補は現地の狀況につき次の如く語った
一行は六月二十八日大連市長、井上訓練本部長の歓迎會にのぞみ特に本縣出身岡村霞氏の案内で忠靈塔参拝、市内見學ののち開拓會館に一泊、二十九日旅順見學、第十一師団
奮戰の各戰跡を辿り白寶山の納骨堂に詣で土州健兒として祖先の名をはづかしめぬことを堅く誓ひ同夜北上、七月一日朝海北驛に着きそれより對店(たいてん)大訓練所まで齊藤中隊長を先頭に行軍、こゝには愛媛、香川両縣の中隊も高知中隊と並び新宿舎が建築されてゐた、風呂場、炊事場、倉庫等の設備も整い何ら不自由はない、隊員は一同元氣旺盛で土佐魂を發揮し奮闘してゐる
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滿洲へ敎學奉仕員出發1942(昭和17)年8月9日高知新聞朝刊75斎藤中隊滿洲の曠野(こうや)に建設の聖鍬をふるふ靑少年義勇軍高知中隊へ卿土の報告と慰問を兼ねて魂の錬成に務める敎學奉仕員高岡郡檮原國民學校訓導梅原榮兎喜、同郡高東國民學校教頭西原傳、吾川郡伊野町國民學校訓導中山卯月、幡多郡中村町國民學校訓導北代方夫の諸氏は八日午前八時縣學務部長室で擧行(きょこう)された出發式にのぞみ藤野総務部長から訓示と激勵をうけ勇躍同九時四十分高知驛發準急で渡満の途についた、一行は九月十五日まで豫定の訓練所で敎學奉仕を行つて歸縣する
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慰問視察の敎員團九月十日出發渡滿1942(昭和17)年8月28日高知新聞朝刊75斎藤中隊高知縣、縣敎育會共同派遣の滿蒙開拓義勇軍、在滿部隊慰
並に視察旅行團(中等學校、國民學校敎員の一行)は九月十日
上田縣敎育會幹事引率して出發する
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家族からの傳言と慰問狀を受託する/本縣からの渡滿教員團1942(昭和17)年9月4日高知新聞夕刊76斎藤中隊縣及び縣敎育會では今回滿洲靑少年義勇軍訓練所、滿洲開拓團及び在滿部隊の慰問並びに敎學奉仕のため下の通り視察員を派遣することになり一行は九月十四日午後一時二十六分高知驛發(えきはつ)渡満の途に上る事となつたが縣教育會ではこの機會に家族からの傳言(でんごん)と慰問狀を派遣員に委託する事になつてゐるので希望者は遠慮なく教育會へ持参するやう呼びかけてゐる
【一斑】(班長)中村高女岡淳、白瀧國民小路吾三郎、中村中學大家數雄、和食國民村田茂敏、夜須國民山崎喜一、第一高女中村義猪、師範付屬國民岡本眞雄
【第二班】(班長)縣敎育會上田茂穗、佐川高女野田淸壽、新居國民痲岡義雄、須崎國民見元功、高知工業榊原武彦、在所第二國民高橋敏明、須崎工業橋本淸美
【第三班】(班長)縣立農業小田春樹、靑敎養成所秦泉寺一、窪川靑年都築兼正、清水町國民宮崎茂、本山町國民三谷泉保
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鄕土便りを携行/渡滿教員團の日程決る1942(昭和17)年9月11日高知新聞夕刊76-77斎藤中隊在滿部隊の慰問ならび靑少年義勇軍訓練所、開拓團を歴訪して敎學奉仕をするために縣及び縣教育會共同派遣の教員團は十四日午後一時二十六分高知驛發、往復二十三日の豫定で鄕土と前線を結ぶ激勵と敎育的収穫が期待されてゐるが、全員出發後三班に分れるはずでその日程は下の通り決定し、故鄕からの懐かしの便りを携行することになってゐる
▷第一班=九月十四日高知驛發、十六日京城見學、十八日奉天、十九日新京、二十日哈爾濱見學、二十一日から昂々渓、齊々哈爾、北安、黒河、海倫を経て對店義勇軍慰問、二十七日大石頭義勇軍慰問、二十八日吉林、新京見學、二十九日奉天、大石橋を経て三十日大連見學、十月一日旅順見學、二日撫順、四日平壌、五日釜山、六日午後五時四十五分高知驛着
▷第二班=二十日まで第一班と同じ行程、二十一日綏化、慶城を経て土佐鄕見學、土佐鄕
泊、二十二日不二訓練所見學、鐵驪泊、二十三日神樹を経て佳木斯泊、二十四日彌榮見
學、千振泊、二十五日虎林着、二十六日勇士を慰問、二十七日林口、牡丹江、哈爾濱を経
て二十八日新京着、第一班と合流以後同行程
▷第三班=二十日まで第一、第二と同行程、同日午後薩爾圖着、二十一日勤勞奉仕團慰問、昂々渓を経て札蘭屯泊、二十二日高北鄕慰問、二十三日牙克石泊、二十四日牙克石慰問、二十五日哈爾濱見學、二十六日平安高知慰問、拉法泊、二十七日金錢保慰問、新京にて第一、第二班と合流、十月六日歸縣
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大陸へ先生の慰問團/勇躍出發1942(昭和17)年9月26日高知新聞夕刊77斎藤中隊
嚴として北方の守りに任ずる鄕土勇士ならびに大陸建設に聖鍬をふるふ開拓團、靑少年義勇軍などを心から慰問する縣ならびに縣敎育會協同主催の慰問視察團員二十一名は上田茂穂團長に引率されて二十五日午後一時二十九分高知驛發列車で一路大陸に向け出發した。この慰問視察團は縣下中等學校、實業學校、國民學校、靑年學校の敎員から成るもので一行は午前十時半縣廳廣場に集合、藤野學務部長から訓辭(くんじ)をうけた後打揃つて山内神社に参拝、ついで高知教育會館の壯行式に臨んだが式は國民儀禮に始まり支部長代理白石副會長ならびに野田淸壽氏の力強い挨拶や注意などがあつて萬(まん)歳(さい)を三唱して閉式、晝食ののち一行を三班に分け旅装も軽やかに市中を堂々行進午後一時頃高知驛發車中の人となりやがて勇ましく出發した
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元氣な高知中隊/缺かすな慰問と激勵/開拓靑少年義勇隊/敎學奉仕隊員の歸高談1942(昭和17)年12月29日高知新聞朝刊77斎藤中隊
滿洲開拓靑年義勇隊敎學奉仕隊冬季班高知市城東國民學校敎員岡本良太、長岡郡東豊永同原敬之、安藝郡吉良川同横山福吉、長岡郡長岡靑年學校敎員下村重徳の四氏は去る十一月十九日全國各府縣から集まつた二百二十二名の敎員と下關で落合つて渡満、三十五日間に亘り現地鄕土義勇隊に敎學奉仕したが二十七日午後零時二十九分高
知驛着元氣で歸高、以下は一行の談話を綜合したものである
本年三月送出の靑年義勇隊ははじめて一個中隊を編成して北安省對店訓練所で齋藤中隊長のもとに零下二十余度の寒氣を物ともせず元氣溌溂(はつらつ)として訓練を受けてゐる、まづ午前七時半ラツパを合圖に起床し禮拝場(れいはいじょう)に集合東方に向ひ一禮二拍手して國歌を嚴かに齊唱(せいしょう)し天皇陛下の彌榮(いやさか)を心から奉唱、續いて義勇隊綱領を朗々と唱へ、同八時三十分作業を開始、午後五時時夕食、同八時就寢、これが一日の日課であり決意を滲ませて奮勵(ふんれい)努力する隊員諸君に頭が下つたが、義勇隊の發展は幹部によき人を得ることだ、その意味で鄕土中隊に然るべき幹部を增員してほしい、さらに他府縣では義勇隊後援會を設立して非常な成績を擧げてゐるのを目撃して羨ましく思つた、要するに並々ならぬ隊員の勞苦を偲んで慰問激勵を缺(か)かさぬ熱意を要望するとともに卿里を蘺れ懐かしい父母の膝下をはなれて酷寒の曠野に黙々として挺身する靑年義勇隊諸君に無限の感謝を捧げやう
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開拓戦線を視る/滿洲にて/山崎本社特派員 (1)1942(昭和17)年10月4日高知新聞朝刊78-79斎藤中隊
一眸千里厖大な滿洲平原は熟地(既耕地)千八百五十余萬町歩のほか實に三千百六十余萬町歩の可耕地が拓士の聖鍬を待つてゐる、記者は開拓陣營視察行の第一旅程としてまづ若人の意氣と情熱を結集した土の白虎隊靑年義勇隊對店訓練所高知中隊を訪ふべ
くハルピン驛發(えきはつ)の夜行で北黒線を急ぐ、坦々たる鐵
路をはさんで両翼に展ける原野は魔物のやうにグツ
スリ寢靜まりただレールをきしる車輪の音のみが強
く耳朶(じだ)を打ち北邊(ほくへん)の重要輸送路にさまざまの印象が浮かんでくる、北へ北へ列車はひた走りやがて東の
空はかすかに明けて來た、地平線は遠く雲表に接し
さへぎる何物もない、なんといふ雄大な景観であら
う翌朝七時半豫定予定よりおくれて訓練所の最寄驛海北に着く、こゝは昭和七年六月九日夜來襲した千餘の馬占山軍と當時海北鎮守備に任じてゐた歩兵第五十聨隊石川大隊と大激戰を演じ惜しくも奈良本少佐の戰死をみた滿洲事變の戰跡地である、訓練所本部と連絡をする驛近くので辯事所(べんじしょ)で折よく對面した高知中隊長齋藤基正氏(吉良川出身)と同道でトラックの便をかり東南方三十一キロを疾駆(しっく)する、名物の黄塵(こうじん)が荷物満載の上に乗つかつた記者の頭上から容赦なく降りかかり速成泥人形が出来上がるかつて中支戦線に従軍した當時がしのばれてなつかしいさて建設へひたぶる精進を續けてゐる義勇隊訓練所は北滿へ六十八ケ所、南滿へ十三ケ所設置され昭和七年の春、元農相石黒忠篤、農博那須晧、現内原訓練所長加藤完治諸氏が滿洲開拓運動の主唱者として政府當局に開拓民送出を進言したがその機に到らぬため加藤氏は蹶然渡滿し關東軍並に現地官憲と折衝を重ねた結果奉天北大營に約百町歩の土地を借うけ昭和七年五月北大營日本國民高等學校を開設したのが訓練所の濫觴期(らんしょうき)で、高知中隊は本年七月一日現地に到着、井上(宮崎)川原(富山、群馬)中島(山口)浴本(山口)石澤(福島)門田(愛媛)淺野(香川)野口(香川)丸山(熊本)若田(愛媛)福本(佐賀、長崎、福岡)の先遣中隊を一團とする訓練本部を置き缺員中の所長は近く退役陸軍少将が赴任のはずで総務、経理訓練、增健各部にわかれ本部員貞岡淸(山北村出身)氏が齋藤中隊長、農事擔任教諭大越之夫(福島縣)敎練指導員竹内秀三(福井縣)諸氏とともに鄕士隊員の錬成に協力してをり齋藤中隊長は入植當時の苦難にも屈せず身魂(しんこん)をさゝげて涙ぐましい活躍中である(つづく)
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開拓戰線を視る(2)/滿州にて/山崎本社特派員 1942(昭和17)年10月6日高知新聞朝刊79斎藤中隊
高知中隊は入植翌日の二日から直にトラクターで耕地を鋤(す)き起し二十五日に豫定反別の耕転をおはつて大根蔬菜(そさい)を植ゑつけ來年度は水田を拓いて食糧自給の方針を立てゝゐる、中隊組織は5ケ小隊から成りすべて軍隊式で一糸みだれぬ統制を保ち各幹部家族の子弟を敎養する在滿對店(たいてん)國民學校、病院、鍛工場、木工場、蹄鐵場(ていてつじょう)の施設もとゝなひ醫師(三名)獣醫師、巡回看護婦(八名)寮母(十名)等隊員の
増加につとめてゐるが高知中隊には専属の保健婦、寮母がなく、また幹部不足でその充實が要請されて居り一方隊員はお國柄自慢と武道に鋭氣を養つてゐるものの「マワシ」や武術道具にめぐまれず不自由をしのんで他日の成果を期してゐる齋藤隊長は「幹部定員八名のところ現在三名で隊員の訓育(くんいく)に事を缺き遺憾におもつてゐるが是非とも縣當局の支援で善處を希望してをり内原訓練所で訓練してゐては間に合はんので適當(てきとう)な人材さへあれば現地訓練を施したいと考へてゐる、次に鄕土出身の寮母は何より必要で隊員病氣の時はもちろん女子特有の溫情味から和やかな家庭愛が生れるので大陸に關心の深い香長方面の女先生の中から寮母を送ってほしい、条件は廿五歳以上の獨(どく)身(しん)者で現地で配偶者の斡旋をしたい考へで俸給は廿五歳で本俸四十円、手當十三割のほか親を扶養する者は一人につき十円の家族手當が支給される、そして隊員の送出については今後量より質に重點(じゅうてん)を置かれるやう當局(とうきょく)にお願ひしたい、折々隊員の家族から來る手紙に却(かえって)つて子供の忍耐心をにぶらせ歸鄕(きごう)をうながすやうなものもあるが兵隊として出征させた氣持ちで激勵してもらひたいものである」と語った(後略)
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開拓戰線を視る(3)/滿州にて/山崎本社特派員1942(昭和17)年10月8日高知新聞朝刊79-80斎藤中隊
(前略)かく語る隊員は節米(せつこめ)混食(こんしょく)と僅かな小遣錢にも不平をこぼさず黙々土に殉じる心根はたのもしい、ただ「母校の先生には恩になつてゐるので度々手紙を出しても一回も返事をくれぬ方もあり一時は欺された感じで憤慨した」との無理からぬ抗議は異口同音でこの點(てん)縣下の國民學校敎員に記者が代わつて猛省をうながし天下りの義勇隊送出命令?による義務的な観念を一掃
し國防の役割を持つ靑少年に親心の眞情で助力することを要望したい、試みに弱冠十五歳の同中隊第四小隊高橋靑君(横畠村)の純情盛つた渡滿の感想一篇を示して本稿を結ぶ「どこまで行つてもはて知れぬ大沃野(だいよくや)がやがて僕達義勇隊開拓團の手によつて開墾せられるのかと思ふと何ともいへない希望に充たされます、将來はお父さんお母さんを迎へて一家樂しく土にしつかり根を下ろして永久に亡びない農村を建設するのだ、そして自分はこの地で最初の祖先になるのだと思ふと内地にくすぶってゐる靑年の氣持が知れない、をはりに鄕土への注文その他を下に
一、慰問には内地から受取る手紙が一番うれしいこと
二、後輩がどしどし土州男子の意氣を持つて義勇隊に來て戴きたいこと
三、高知縣そのものがもう少し滿洲開拓を認識して戴きたいこと
大陸の第一歩を印した大連以來もう内地とはがらりと變かわってしまった、内地のあのがつがつとした狭い所で生活してゐた自分たちには廣(ひろ)過ぎるやうな感じがして内地の事を思はぬではなかつた、しかし一ケ月位立つと現地の生活に慣れ大陸特有の好い所を見出し山叉山のはなをつきさうな内地へ歸(かえ)らうとは思はない、ほんとうに大陸の土興亞の礎となる決心を堅めたのでした。」(後略)
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若き鍬の拓士に慰問袋/日婦市支部の計畫順調に進む1942(昭和17)年10月3日高知新聞夕刊80斎藤中隊滿洲の曠野(こうや)に新東亞建設の鍬を揮ふ靑少年義勇軍の若者たちには前線勇士におとらぬ勞苦が續(つづ)いてゐる、この曠野(こうや)の靑少年拓士に土佐路の香りあふれた慰問袋を送らうといふ日婦高知市支部の計畫は先ごろから順調に進んで目標の八百袋を突破する意氣込みであるがいよいよ九日全市會員の眞心こめた慰問袋が蒐集(しゅうしゅう)されることになった
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若き拓士に暖い贈物/日婦市支部のおばさん達から1942(昭和17)年10月11日高知新聞夕刊80斎藤中隊これは酷寒の滿洲曠野に勞苦する靑少年義勇軍の若者たちへ日婦高知市支部の眞心を集めた贈物—曠野に冬籠りする若者たちに鄕土の應援がどれだけの力になることか、市の日婦會員によつてあたたかく作られた慰問、激勵(げきれい)袋(ふくろ)が十日早朝から全市各班から高知武揚協會にあつめられた、この日西内支部長らも武揚協會の庭に姿を見せ久万主事や服部支部員の世話ですぐに荷造りされ倉庫に積まれていつたが正午ごろまでに目標の八百袋を突破した(寫眞は集つた慰問激励袋)
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滿洲開拓地で傳書鳩講習會1942(昭和17)年10月22日高知新聞夕刊80-81斎藤中隊交通不便な滿洲開拓地の通信聨絡(れんらく)係として可愛いゝ鳩君が登場する―滿洲開拓靑年義勇隊訓練本部では滿洲國軍通信鳩育成所の好意で昨年同所に傳書鳩の第1回訓練講習會を開き嚮導(きょうどう)訓練所訓練生に講習を行つたが同訓練所では昨冬製炭地、訓練所間○○キロの通信を連日實施し好成績を上げたので各訓練所へも普及させるため第二回通信鳩飼育管理講習會を九月十九日から五十日間の豫定(よてい)で開催中であり受講生は對店(たいてん)・寧安(ねいあん)兩訓練所から各六名、對店訓練所で
は高知中隊森敏雄(上ノ加江町)松澤良一(久禮町)両君が新京市の傳書鳩育成所に合宿受講中で敎官樋口中尉その他の指導を受けてをり早くも鳩取扱ひの第一課を終へた旨この程この程縣職業課へ便りがあった
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先生もお便り下さい/特別休暇で歸鄕の開拓青年義勇隊の話 1942(昭和17)年10月24日高知新聞夕刊81斎藤中隊兵農一如を旗印として滿洲建國の聖鍬をふるふ本縣出身の滿洲開拓靑年義勇隊のうちさきに徴兵検査に合格、現地部隊に入隊することになつた晴れの隊員中特に平素の成績、品性優良なる鉄驪(てつれい)訓練所掛水豊三(名野川村)嫩江(のんこう)訓練所谷淸美(東津野村)藤原茂(池川町)片岡益實(別府村)の諸君は所屬訓練所から十一月十四日までの特別休暇と往復旅費を支給され二十一日歸縣、縣廳(けんちょう)を訪問して挨拶をのべてのち懐かしい家鄕に落ちついたが一行は交々語る
尊い義勇隊の使命を果すため捨身になって開拓事業につくす覺悟です、在鄕中母校の先生からしきりに渡滿を進められ現場に來てから折々先生に通信をしても中には一向返事を戴けない先生があつて残念でした、滿洲に行けば匪賊(ひぞく)が出るとか、寒いだらうとか、どの位土地がもらへるかなど聞いたり話したりするやうな人がありますがもつと滿洲開拓の認識をふかめてほしいものです
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拓殖訓練打合會1942(昭和17)年7月24日高知新聞朝刊83-84広瀬中隊靑少年義勇軍拓殖訓練ならびに女子拓殖講習會は二十一日午後一時から高知市丸の内縣農業會館で開催、縣教育會幹部、同會各郡市支部長、穂積縣職業課長、井上、池田両主事ら出席、義勇軍訓練は日程未定の高知市、土佐郡の分をのぞき下の如く決定、拓士の配偶者錬成目的とする女子講習會は縣女敎員會を主體となし開催日、場所その他は追つて決定することとなつた(括弧内は拓殖訓練場たる國民學校)
▷安藝八月廿五日―廿八日(田野) ▷香美九月八日―十一日(城山) ▷長岡八月十一日―十三日(本山)廿二日―廿五日(大篠) ▷吾川同十七日―二十二日(伊野) ▷高岡十八日―二十一日(檮原) ▷二十一日―二十四日(久禮、幡多九月八日―十三日(中村)
なほ幡多郡は別に郡内を五ケ所にわかち特殊な興亞訓練をも行ふがその日程は追つて決定する
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斗賀野村/大陸の花嫁勉強/七〇餘名が熱心受講 1942(昭和17)年8月6日高知新聞朝刊84広瀬中隊
極致の寒暑(かんしょ)に挑んで黙々と開拓の聖鍬を振る北滿進出の若き戰士たちに先づ何よりも先に送るべきはよき花嫁であると仲介役の同和奉公會縣本部と縣職業課並に北滿開拓の分村計畫(けいかく)を進める高岡郡斗賀野村の主催にかかる女子拓殖訓練講習會は去る三十日午前九時より同村の西願寺に盛大に開かれたが、會する女子靑年斗賀野村四〇名、日下村二〇名、佐川組合青校生一〇名計七〇名で、井上、池田両職業主事、井上社會主事、長岡同和奉公會主事、汲田社會主事補等指導講習の外西田斗賀野村長、刈谷同校長、寺尾本願寺住職はじめ各関係教職員、吏員等多數参加の上先づ國民儀禮(こくみんぎれい)と朝の行事に始まり、各講師の講演、歸鄕開拓者の現地報告、質疑應答、協議懇談、晝食(ひるしょく)、夕食、料理等を盛澤山に織り交ぜ大陸入嫁の乙女の集ひに相應しい一日に終始して午後九時終了した
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鍛へる拓士魂/義勇軍訓練講習(本山町)1942(昭和17)年8月15日高知新聞朝刊84-85広瀬中隊
長岡郡本山町本山國民學校で十日から十二日までの
二泊三日間長岡郡北部〝靑少年義勇隊拓植訓練講習
會″を〝開催″〝伸びよ靑少年”の決意も固く集ふ健
児百四十三名、國民儀禮(ぎれい)、西内長岡郡教育會長の訓
示、受講生総代の宣誓ありて、午後三時から竹村東
豊永校長、滿洲開拓義勇軍に關する講演、四時より
教練水泳、七時夕禮食事、午後八時から九時まで全
員點呼や軍歌合唱會をなし、就床一泊の夢円かに第二日を迎へた全員は午前五時起床洗面清掃作業後歸全山に駈足(かけあし)鍛練をなし朝食、午前七時淸水道場長の開拓訓練精神(せいしん)陶冶(とうや)に關する講話九時から小島道場教官の武道指導、つづいて教練體(たい)操(そう)を了つて晝(ひる)食(しょく)、午後二時から六時まで本山町島ノ磧(かわら)に建設中の〝グライダー整地勤勞奉仕作業″に率先協力の炎暑克服行事をなし午後七時から九時まで〝開拓座談會″を開催、一同和やかな睦じい笑ひの中に就寝、明くれば第三日目朝行事は變(とどこお)りなくすゝめられ八時堀内縣視學官の有益なる講話午前十時無事閉講式を擧行し次で校庭で偉風(いふう)颯爽(さっそう)として分列式を執行した
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拓殖講習會/吾郡敎育會で1942(昭和17)年8月20日高知新聞朝刊85広瀬中隊靑少年義勇軍鄕土中隊編成運動の趣旨に従ひ縣並に縣敎育會と合同主催を以つて吾川郡敎育會では伊野國民學校において青少年義勇軍拓殖講習會を十七日より二十一日まで四泊五日間開催小笠原會長を初め十四名の敎職員指導に當り第三小隊六分隊に編成し義勇軍使命の民族的國家的重要性を認識せしめ大國民としての精神を養成すべく午前五時より清掃作業、文化訓練、講話、敎練、武道、作業、工場見學等日夜炎天下に猛烈なる訓練をつゞけてゐる
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滿蒙開拓/香郡宿泊訓練1942(昭和17)年9月12日高知新聞朝刊85広瀬中隊香美郡教育會にては八日より十一日まで四日間城山靑年學校において滿蒙開拓靑少年義勇軍拓殖訓練を實施(じつし)、参加は郡内より選抜せる五十六名の青少年以て小隊を編成し香南靑年學校小川教諭が小隊長に任じ参加各校教員を班長に配し毎日午前五時半より日本體操(たいそう)、學科、作業、講演、教練、武道、夜間の復習、娯樂、座談會等が行はれ十一日正午解散式を擧(きょ)行(こう)、講師として穂積縣食糧課長、縣靑年教員養成所、潮見敎諭、中島圖書館長の諸氏が當つた
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靑少年義勇隊/高知中隊の編成1942(昭和17)年10月17日高知新聞朝刊85広瀬中隊縣では本年初旬から各市郡単位に明年送出の少年義勇隊高知中隊の編成工作を開始しこの程來縣した滿州移住協會三澤参事も縣と連應して十五日中村町國民學校で開かれた編成協議會を最後として各地でこれが勧奨(かんしょう)につとめたが目下送出割當數の決定を見たものは下記のとおり
▷安藝五十▷香美郡三十五▷吾川郡三十七▷高岡郡八十八▷幡多郡六十六▷長岡郡三十中央(土佐郡 高知市)四十九
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鍬の戰士激勵/知事歸全農場へ1942(昭和17)年10月17日高知新聞朝刊85-86広瀬中隊沖野知事は高野農政課長宮地官房主事を帯同し十六日午前十時長岡郡本山町縣立歸(き)全(ぜん)農場に赴(おもむ)き午後一時農業増産報國隊推進隊地方訓練隊二百名の錬成講習入所式に列席し同隊員および目下錬成講習中(期間一ケ月)の農會技術員五十名に對し訓示をなし農業増産に敢闘(かんとう)せんとする鍬の戰士を激勵(げきれい)鼓舞(こぶ)し、農場や付近を視察した
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日本随一/大陸花嫁養成所/桔梗ケ原女子拓訓所訪問記(一)1942(昭和17)年10月26日高知新聞朝刊86広瀬中隊
(桔梗ケ原にて特派員發)天そゝる北アルプスの連峰を西の彼方に仰ぐところ、その名も戰國時代の古戦場で長野縣東筑摩郡廣丘村桔梗ケ原には過(か)ぐる昭和十五年九月以來、全國嚆矢(こうし)の大陸花嫁養成所ともいふべき女子拓務訓練所が開設されてゐる、これは縣立ではあるが實は拓務省の息がかゝつてゐるものであり、また他府縣には極く最近一、二ケ所に同様の施設が生れたほどで、今なほ全國随一の興亞女性訓練所の聲名をほしいまゝにしてゐるそれかあらぬか、北は靑森、秋田から南は四國九州までの各地から、うら若き女性たちが集り、膨らむ胸に明日の滿蒙開拓職に一身を捧げようとの熱望を一ぱい包んで毎日蒼穹(そうきゅう)の下で逞しい自己訓練を續(つづ)けてゐるのだ、記者は今日この地に足を運び、大地に生きる皇國女性の生氣(せいき)脈々たる姿を目の當りにし、また、指導員諸氏の熱と力と愛情の籠(かご)つた教導ぶりに近接することが出来た
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日本随一/大陸花嫁養成所/桔梗ケ原女子拓訓所訪問記(二)1942(昭和17)年10月27日高知新聞朝刊86広瀬中隊滿蒙の曠野(こうや)には今日、数萬の靑少年義勇軍が渡り、血と汗と脂を流して國防と開拓の任に當つてゐるが、彼らも次代の皇國民の父となる人物である以上どうしても良き配偶が必要である、しかし、彼らの心持は所謂(いわゆる)義勇隊精神に鍛へ上げられてゐて、平凡な大陸花嫁型ではとても駄目であるそこで、かういい花嫁は、別個に本格的に養成する必要のあるを認め、あり來りの女は添物的の農民道場から獨立(どくりつ)した女子拓務訓練所を全國三十數ケ所に設置する方針を定めたのである、そし
てその先陣の光榮を賜つたのが、この桔梗ケ原訓練所であった、(以下中略)
今年の三月には、和歌山縣から次のような血書入りの手紙まで寄越した健気な娘さんもあつた、十萬人の血潮流せし滿洲の樂土建設に身を捧げむ、滿一ケ年私はこの決心を夢にも忘れずに過して參りました、書物などで貴訓練所の有様を知るたびに「あゝ嬉しい自分の行くべき所はこゝだ」と思ひました、私は今年十九です、訓練所で御世話になって後一年を家事の手傳で送り、それから拓士の花嫁を志願する覺悟です(後略)
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沼氏が私財六千圓投じ/潮江皿ケ峰に農民道場/ 野村、宇田兩氏も賛助1942(昭和17)年10月31日高知新聞夕刊86-87広瀬中隊
靑年の魂の血をつくり肉をつくる農民道場が潮江山の一角に建設の第一歩を踏み出した—二十九日午後四時高知市潮江皿ケ峰の頂に靑年學校教員養成所藤平主事、陰山棟梁、立田監督以下約二十名の關係者が出席して農民道場の建築等にふさはしい質素な地鎮祭が行はれた、大高知市を脚下に赤土の山に日輪兵舎が出來るのである、この聖なる事業の中に織り込まれた感激美談—〝土佐の加藤完治″として讃(ほ)へられる靑年學校教員養成所沼鶴喜(三八)教諭が「新東亞、新世界には新しい靑年魂が必要である、それには西洋文化に中毒した祖國の感覚から遠ざかつて來た従來の魂を生まれ還らせ、眞の日本魂、土の魂を奮ひ起さねばならない」と私財六千圓を投出してこゝ潮江皿ケ峰に二町一反余の地を買い取り農民道場建設に乗り出したのは本年二月の事であった、この美擧(びきょ)を聞いた本縣實業界の両巨頭野村好之、宇田耕一の両氏は「教育者は教育のみに全靈、全力をそゝいでくれ、日輪兵舎は吾々が建てる」と、その名も〝野村兵舎″〝宇田兵舎″として靑年教育に鐵壁の布陣が成つた、更にまた建築請負にはせ参じた立田亀太郎監督に陰山虎重棟梁は〝私の一世一代の仕事……″と腕によりをかけてから茨城縣内原訓練所の日輪兵舎を十分に視察した上で建築にとりかゝる事になつてゐる、かくして総ての作業計畫は完備した後は時代の脚光を浴びて落成する來春一月を待つばかりである
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縣女子拓殖訓練所/歸全農場に併設【内定】1942(昭和17)年11月7日高知新聞夕刊87広瀬中隊やがては農村のよき妻、良き母となるうら若い女性たちに皇國(こうこく)農民魂を植ゑつけ一面滿洲の曠野に鍬をとる拓士の花嫁候補を錬成する目的から縣では縣立歸全農場に女子拓殖訓練所を併設することを内定、収容人員は十六歳以上廿五歳まで三十名とし経費豫算は約四萬円で明年度國庫の助成金交付が決定次第縣で追加豫算を計上し開所のはず
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開拓團編成懇談1942(昭和17)年11月17日高知新聞朝刊87広瀬中隊高岡郡東津野村船戸靑年學校ではこの程開拓團編成懇談会を開催、義勇隊員谷脇清美、川田一男両氏の現地報告在り上岡校長、八木夫人會長他會員、男女青年團員ら参集し盛會であつた
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小隊長に鄕土出身者/開拓義勇軍鄕土中隊協議會1942(昭和17)年11月26日高知新聞朝刊87-88広瀬中隊
滿洲建設の一翼をになふ開拓戰士義勇隊鄕土中隊の編成は大體(だいたい)完了し明年一月から三月までの間に渡滿する豫定であるが縣下のうち高岡郡八十八名、幡多郡六十六名、吾川、安藝両郡各五十名で小隊編成數に達したので縣では従來の中隊幹部が大部分縣外人でとかく隊員との連携その他に事を欠ぐとのあつたのにかんがみ右各郡に對しては郡出身の小隊長を選任のため下の日程で協議會を開催する、しかし前記各部へは特別助成金として大東亞省から六百円(一小隊百円内外)を交付される 三十日中村、十二月二日須崎、三日伊野、四日安藝(開會時刻は各午前十時、場所は國民學校)
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義勇軍獲得へ/安藝で打合會1942(昭和17)年12月18日高知新聞朝刊88広瀬中隊安藝郡の滿蒙開拓義勇軍第二回打合會は十五日午前十一時安藝町靑年學校で開催、縣職業課池田主事、地方事務所広瀬縣視學、入交安藝郡教育會長、畠中安藝靑年學校長および郡敎育會各區長の田邊(安藝)白石(藝西)立仙(奈半利)中澤(室戸)各國民學校長ら参集して、義勇軍安藝小隊編成諸般について現狀報告打合せおよび對策の協議懇談を行つた
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はるばる敎へ子の墓参/南部開拓團長の溫情1943 (昭和18)年1月8日高知新聞朝刊88広瀬中隊拓務省嘱託滿洲國義勇隊開拓團長南部孝氏は、長岡郡東豊永村高原に門田茂盛氏を訪れ、令息茂武君の墓参をした、故茂武君は滿洲國開拓義勇隊員として昭和十二年二月入隊、渡滿し南部團長の薫陶(くんとう)を受け臣道實践(しんどうじつせん)に挺身しつゝあつたが不幸同十六年十月十六日病魔に侵され死亡したもので、團長がはるばる滿洲から敎へ子の在りし日を偲んでしたことに對し門田氏は固より村民一同大いに感激してゐる
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行け!滿州義勇隊/高知中隊/本年度送出割當決まる1943 (昭和18)年1月14日高知新聞朝刊88広瀬中隊縣では滿洲建設の一翼を背負ふ青年義勇隊高知中隊の十八年度送出割當を安藝郡五十名、香美郡三十五名、長岡郡三十五名、中央四十九名(高知市、土佐郡)吾川郡三十七名、高岡郡八十八名、幡多郡六十六名と決定し目下募集中であるが、十二日現在の應募數(おうぼすう)は高岡郡三十六名、吾川郡二十八名、安藝、幡多両郡各二十三名、中央、長岡郡各八名、香美郡四名である、なほ十七年三月五日の縣最初の義勇隊送出數は二百七十七名で内訳は高岡郡の八十名を筆頭に下記の通り
▷高知市十四◁安藝郡四十八▷長岡郡二十六▷土佐郡十◁吾川郡三十七▷高岡郡八十▷幡多郡四十◁香美郡二十二
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義勇軍後援會津大村で結成1943(昭和18)年1月16日高知新聞朝刊89広瀬中隊滿蒙義勇軍五ケ年計畫に關しては各縣とも萬全(まんぜん)を期しつつあるが幡多郡津大村ではこれに對處(たいしょ)するため村内各靑年學校を打つて一丸とする後援會を組織することを一月常會において満場一致可決したが今後の活躍が期待されてゐる
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少年義勇軍の各郡小隊結成1943(昭和18)年1月29日高知新聞朝刊89広瀬中隊縣では本年度滿洲開拓靑少年義勇軍三百名をもつて郷土中隊を編成し鍬の戰士として滿洲國に送ることになつてゐるが中隊編成に先だつて次の日程場所で地方事務所管下別に各郡小隊結成式と身體検査を行ふ(開會はいずれも午前九時時)
▷二月八日(安藝小隊)安藝青年學校▷二月十三日(香美小隊)野市町國民學校▷二月十七日(長岡土佐小隊)大
篠村國民學校▷二月十八日(高知小隊)高知縣公會堂▷二月九日(吾川小隊)伊野町國民學校▷二月十五日(高岡小隊)須崎町國民學校▷二月十三日(幡多小隊)中村町國民學校
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靑少年義勇軍/推進隊結成打合會1943(昭和18)年2月6日高知新聞夕刊89広瀬中隊靑少年義勇軍郡市小隊の推進隊結成打合會は午前十時から縣廳(けんちょう)内政部長室で各地方事務所視學室主任、神寺敎學課、職業課、農政課各係官出席して開催、積極的な勧誘方法を協議し郡市小隊の補強工作に乗出すことになつた
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土長でも結成1943(昭和18)年2月20日高知新聞朝刊89広瀬中隊土長地方事務所管内から選抜の滿蒙開拓義勇軍二十名の小隊編成式は二十二日午前十時から長岡郡大篠國民學校で擧行、國民儀禮(ぎれい)についで織田地方事務所長の式辭、西内郡敎育會長、中平職業指導所長らの祝辭後小隊代表高橋今治氏の答辭あり綱領(こうりょう)を誓言ののち閉会したが一行は三月上旬から内原で三カ月の内地訓練を受けたのち鍬の戰士として渡滿する
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義勇軍香美小隊/結成1943(昭和18)年2月23日高知新聞朝刊89-90広瀬中隊
香美郡では國を擧げての決戦下、滿蒙開拓の雄闘を抱く靑少年の人選を終り十八日午前十時より野市國民學校講堂で十七年度送出の滿蒙開拓靑少年義勇軍香美小隊結成式を擧行、紅顔の戰士二十一名をはじめ宗崎香美地方事務所長、楠島視學、利岡主事補、來賓として北村香美郡敎育副會長、深田赤岡職業指導所長、清岡山田同所員、大庭(野市)、枝重(佐古)、猪野(前濱)の各校長のほか關係學校職員ら多數参列の下に宗崎所長の式辭(しきじ)、合格證(しょう)授與(じゅよ)、北村敎育副會長の祝辭、義勇軍代表甲藤利夫君(岩村)の答辭があつ一同國家のため大陸開拓の礎石となることを堅く誓つて正午式を閉ぢた
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靑少年義勇軍/高岡小隊結成1943(昭和18)年2月28日高知新聞朝刊90広瀬中隊高岡郡靑少年義勇軍小隊結成式は二十五日午前十時から須崎町國民學校で行はれた
森田高岡地方事務所長、宮田高岡郡敎育會長、宅間視學、大利須崎、市川伊野、和田窪
 川各國民職業指導所長等多數列席の下に擧行
小隊員五十四名に合格證書(しょうしょ)の授與(じゅよ)があり、森田所長の訓示に對し小隊代表井上光顕君(高東組合校)の力強い答辭(とうじ)があり靑少年義勇軍綱領(こうりょう)を全員唱和、聖(せい)壽(じゅ)萬(まん)歳(さい)を奉唱して閉式した
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久禮同鄕會/發會式1943(昭和18)年3月5日高知新聞朝刊90広瀬中隊愛鄕精神に燃える高岡郡久禮町出身の市在住有志は既報の如く久禮同鄕會の結成を目論み常光鹿恵、岡辯三郎、仙頭源一の三氏が發起人となり結成を急いでゐたが、このほど諸般の準備が整つたので一日午後四時から市帶屋町つぼみで發會式(はつかいしき)を擧行した
 義勇軍出發
高岡郡津野町では一日午前十時から滿蒙開拓靑少年義勇軍七名の壯行會を開催、村民多數参列の下に國民儀禮(ぎれい)ののち村長の式辭(しきじ)、村敎育會長の激勵の辭(じ)があつて盛況裡に萬歳を三唱して散會、一行は二日勇躍出發した
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靑少年義勇軍勇躍内原へ 1943(昭和18)年3月5日高知新聞夕刊90-91広瀬中隊
滿州開拓靑少年義勇軍高知中隊壯行式は四日午前九時から縣公會堂で擧行、沖野知事代理鈴木官房長、高野農政課長はじめ、農政、職業、社寺敎學課各關係官、各地方事務所長、來賓大野高知市長、聯隊區司令部二宮中佐、中平高知職業指導所長列席、高野課長の開會の辭(じ)あり沖野知事(鈴木官房長代理)から一國(いっこく)の盛衰はその國の靑少年の意氣如何にかかつてをリ大東亞共(きょう)榮圏(えいけん)の確立すなはち皇道(こうどう)を四海に宣布し東亞十億の諸民族をして御稜威を光被せしむべき國策である滿洲開拓の大使命は諸君靑少年の熱烈なる意氣により達成される…土佐魂を充分に發揮(はつき)されたい旨の力強い激励訓辭ののち中隊旗を授與し大野市長、二宮中佐の祝辭、隊員代表井上光顕君の答辭(とうじ)等あって閉式、それより中隊旗、日満両國旗を先頭に隊伍堂々高知驛まで行進、午前十一時三十分と午後一時二十六分の二回にわかれ勇躍内原に向け出發した
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内原で勵む/引率者池田縣屬の談1943(昭和18)年3月17日高知新聞朝刊91広瀬中隊去る六日内原訓練所に入所した滿洲開拓靑少年義勇軍高知中隊の輸送責務を果し15日歸廰(きちょう)した池田縣屬は隊員その後の狀態につき下記のごとく語った
隊員二百十九名は皆途中つゝがなく内原に着き広瀬中隊長に引渡しをすませ八日の大詔奉載(だいしょうほうさい)日(ひ)に入所式を擧げたが當日と翌九日は折柄の大吹雪で開拓戰士にまことにふさはしく嚴肅(げんしゅく)な情景で意義深く感じた
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他縣の模範とさる内原で錬成の靑少年義勇軍高知中隊1943(昭和18)年5月8日高知新聞朝刊91広瀬中隊去る三月六日内地訓練のため内原に入所し今夏の渡
滿を前に土の猛錬成を積んでゐる靑少年義勇軍高知
中隊はいづれも他縣の模範とせられ就中奈半利出身
竹崎文雄君は成績抜群で全國一萬三千余人の同期入
所者中から選ばれ本年度第一回の榮ある表彰を受け
菅野訓練課長から感謝狀を授璵(じゅよ)された、また本年度
から内原に新設された義勇軍幹部養成の中等學校試に應募し志願者五百六十名、採用人員二百五十名のうち鄕土中隊から桑原榮治(介良)高橋克男(夜須)甲藤秋男(岩)中平三郎(池川)隅田房男(上八川)片岡正秀(横畠)福岡勲顕(尾川)入本憲明(小築紫)諸君が第一次詮衡(せんこう)で合格、土佐靑少年のために氣を吐いた、右につき義勇軍補充隊員を引率して内原出張中であつた縣農政課池田屬は七日歸廰(きちょう)、郷土中隊の訓練状況を語る
鄕土部隊はいづれも傳統の土佐魂を發揮して頑張つてをり眞劍な錬成ぶりは涙ぐましい程である、今夏渡滿前に鄕土訪問のため一時帰縣することになつてゐるが一部の病氣退所者をのぞき元氣旺盛で他縣中隊員の模範として将來を期待されてゐる
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訓練成果を先づ鄕土の爲に/靑少年義勇軍高知中隊員/渡滿前に八月歸縣し増産應援1943(昭和18)年7月17日高知新聞朝刊91-92広瀬中隊鍬の戰士として大陸に雄飛するため去る三月下旬から内原訓練所で土の猛訓練をうけてゐる靑少年義勇軍高知中隊廣瀬中隊長ほか幹部二名、隊員二百二十名は鄕土訪問と食糧増産應援(おうえん)に八月上旬から約一ケ月間歸縣、隊員中半數の高知市以西出身者は室戸町農地開發(はつ)營團(えいだん)の開墾地へ、半數の高知市以東の出身者は東叉村村營開墾地へ勤勞奉仕に出動し豫定期間を了へて再び内原で錬成を積み九月下旬または十月上旬頃渡滿する
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歸つて歸らぬ内原魂/青少年義勇軍高知中隊の再訓練1943(昭和18)年7月28日高知新聞夕刊92広瀬中隊
内原訓練所で土の訓練をうけてゐる靑少年義勇軍高知中隊廣瀬中隊長以下二百三十名は鍛へた内原魂をお土産に八月五日歸縣(きけん)するが高知市以東出身者(吾川郡の一部を含む)百十五名は同日午後五時十四分後免驛着、直に室戸町に至り十日間の豫定で室戸町移動訓練所に入り開墾作業に従事、また高知市以西の出身者は同日土佐久(く)禮驛(れえき)に下車して東叉村の開墾地に赴き十日間の豫定で勤勞奉仕を行ふ、また室戸と東又で作業終了後は縣農報聨(れん)の開墾地鴻ノ森で全員が開墾に熱汗を流すことになつてをりかくて全隊員は鄕里には歸(かえ)らずそのまま内原訓練所に再入所し渡滿準備を済ませてから鄕土訪問を行ひ今秋渡滿する
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鍬の應援終る/義勇軍高知中隊/三十日壯行式1943(昭和18)年8月29日高知新聞朝刊 92広瀬中隊内原魂を鄕土の勤労奉仕に生かし室戸岬の開發營團(かいはつえいだん)開墾地並に東叉村の耕地改良工事等に約一ケ月間應援作業を行つた靑少年義勇軍高知中隊廣瀬中隊長以下の幹部、隊員二百二十五名は渡滿までの約一ケ月間内原訓練所に再入所のため三十一日午前八時半、十一時半の二回にわたり高知驛を出發するが三十日午後四時半から縣會議事堂で壯行式を擧げ高橋知事の激励訓示が行はれる
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滿洲こそ拓士墳墓の地/縣農政課/池田歸廰談1944(昭和19)年5月24日高知新聞朝刊92広瀬中隊寧安(ねいあん)義勇隊訓練所は滿洲における大訓練所の一つで十二個中隊を収容する設備を有し東京城驛から二十八キロの地點にあり鄕土中隊廣瀬正實隊は本年二月二十四日現地に到着し昨年秋新築せる洋館官舎五棟に起居し隊員は喜んで使命の達成に努めてゐる現在一名の病人もなく全員元氣一杯で朗らかな建設工作に挺身してゐる
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女性も加へて滿洲開拓應援隊/八月に縣下から出動1943(昭和18)年3月13日高知新聞夕刊97田中中隊黙々滿洲建設の聖鍬をふるつてゐる拓士應援の勤労奉仕隊として第十二次十川村開拓團へは母村から蘇家、八(はち)洲(す)、牙克石義勇隊開拓団へは縣下各地から全員六十五名が一ケ所十五名乃至二十名の各班にわかれ来る八月中旬から約一ケ月間の開拓奉士に出動する、縣では婦人に現地事情を認識させ将來の拓士送出に資せしめるため特に義勇隊員の母親や結婚前の女性も奉仕隊員に加へる意向である
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流材陸揚に愛汗/日輪兵舎建設の勤勞奉仕1943(昭和18)年3月27日高知新聞朝刊97田中中隊長岡郡本山町靑年學校では本年度事業計畫の一つとして日輪兵舎の建設に協力、全生徒職員がに分れて三日間出動、勤勞作業をなし報酬金を設資金にすることになり、本山町貯木場に陸揚る事になつてゐた流材の陸揚(りくあげ)作業に着手し三日で約五百敷石を揚げ決戰下靑校生徒の眞劍な愛作業に所期の目的を達成したが近く日輪兵舎建工事に着手と共に更に全生徒の奉仕が展開されことになつてゐる
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内原魂忘れぬ「心耕塾」/指導員養成に東叉村に敢然建設1943(昭和18)年4月2日高知新聞夕刊97-98田中中隊
銃後の生活決戰へ自ら尖兵をちかひ不屈の農士魂を錬成する靑年道場「心耕塾」が高岡 郡東叉村藤之川小森山麓に建設された提唱者は縣農業推進隊員の久川賢一君で塾長は東叉國民學校長田井清氏を推し塾員のうち男子は坂本平二郎、久川重亥、叉川岩男、長山政則、鬼頭忠義、岡崎一郎、窪田秀美、樋口秀美、樋口要、堀見南海、坂本豪一郎、下元直三郎いづれも歸(き)全(ぜん)農場または内原訓練所で土への敢闘精神を身につけた實践(じつせん)者ぞろひ、女子は窪田鹿尾、岡本直枝、西森梅尾、西本登美子、西本綾子、津野豊子、久川喜代子さんたち修練方法は心耕塾文庫の設置、農村婦人生活文化研究會組織、未開墾地および荒廃地開發と農作の實(じつ)行(ぎょう)などで塾内に神社を設け修練生活はすべて神を中心に敬(けい)神(しん)の念を昴め日本性格を培ひ女子に對しては時代的な婦道を磨き健全農村への推進力とするもので収容定員は三十名、年齢は十六歳以上の男女を入塾資格としてゐる、事務室その他の建設費は塾員の共同作業による勤勞収入や講習會等の旅費を蓄積し捻出敷地は健氣な塾員の心根に感激した東叉村長前田円平衛氏が自己の植林地を無償提供せるものである
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開拓義勇軍送出懇談會1943(昭和18)年4月10日高知新聞朝刊98田中中隊大陸開拓の雄圖を抱いて滿洲の野に聖鍬を振つてゐる本年送出の靑少年義勇軍鄕土部隊は非常な成果を擧げてゐるが、なほ人員不足のため郷土中隊を編成の運びに至らないので十二日午後一時より赤岡職業指導所で宮下靑年學校長、楠島香美地方事務所視學深田職業指導所長ほか係員参集の下に送出懇談會を開催する
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女靑團員を滿洲開拓團へ派遣/各県から五名づつ選抜1943(昭和18)年4月16日高知新聞朝刊98田中中隊
(東京發)大日本靑少年團では文部、大東亞両省の協力を得て来る六月上旬から一ケ月間女子靑年團員を滿洲開拓靑少年義勇隊及び開拓團に派遣し義勇隊員および開拓團員の内助の勤労奉仕を行はしめ歸還(きかん)後は興亞の女性として團員の指導に當らせることとなつた、派遣隊員は全國各道府縣團から選抜された指導者十四名および道府縣團から五名づつ、選ばれた隊員二百三十六名および随醫(ずいい)一名隊醫付一名から成る総勢二百五十二名で數日開拓團のもとに留まり主として隊員の被服の補修、洗濯、炊事清浄、整頓、農耕などの奉仕を行ひつゝ開拓團を巡回するが隊員はなるべく鄕土出身の開拓團へ配属されることになってゐる、なほ隊員の資格は各地方靑少年團長が推薦し年齢は十八歳から二十五歳までの身體(しんたい)の強健にして将来大陸への熱あるもので東京出發前五月下旬乃至六月上旬指導者は七日間、隊員は二日間日本靑年館および東京府下北多摩郡小金井浴恩館で豫備訓練を行つたのち壯途に上る豫(よ)定(てい)である
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征け義勇軍に/各郡の割當決まる1943(昭和18)年5月12日高知新聞夕刊98-99田中中隊滿洲建設の一翼を背負う兵農戰士として縣が本年度において募集する靑少年義勇軍は総數三百八十名で、その割當は次の通り
◁安藝五十五名◁香美、土佐、長岡、高知各四十名◁高岡九十名、幡多七十名
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勤勞奉仕乙女隊/元気で満洲へ1943(昭和18)年6月3日朝日新聞朝刊99田中中隊
やがて一人前の拓士となって大陸建設に協力するため目下滿洲開拓靑少年義勇隊對店訓練所で精錬中の隊員と共に一ケ月の間起居をともにしながら勤勞奉仕する大日本靑少年團主催の滿洲建設女子勤労奉仕隊に選ばれて参加する高岡郡久禮町西岡具子さん(二三)、長岡郡長岡村伊尾木きよさん(一八)、同郡吉野村河邑喜水さん(一九)、高岡郡東津野村沖本清子さん(二〇)の四嬢は一日午後一時二十六分高知驛発列車で元氣に出発したが縣廳に勢揃ひしたところをとらへると「ぜひ一度はと憧れてゐた大陸へ行くことが出來てこんなに嬉しいことはありません、たつた一ケ月の奉仕ですが力いつぱい働いて帰ります、その間に出來るだけ大陸の生活に触れまた建設にいそしむ靑少年の意氣にあやかりたい念願です、七月五日には下関へ帰る豫定ですがもつと永くゐたいと思ふにきまつてゐます」と代るがわる語った
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申込數豫定を突破/百名を算す/滿蒙開拓戰士へのお手傳ひ女性1943(昭和18)年7月14日高知新聞朝刊99田中中隊縣では大陸に建設の鍬をふるつてゐる分村開拓團ならびに義勇隊開拓團のお手傳ひに滿洲建設勤勞奉仕隊を派遣することになった、人員は六十五名で主に義勇隊員の母姉、または女子靑年團員で日程は八月上旬頃か下旬頃から約一ケ月の豫定、奉仕地は大清溝江川崎村杏木崗高知村、萬山十川村、牙克石義勇隊の各開拓團である、現在の申込數は豫定突破の百名を算しこれが人選のため十三日午後二時から縣農政課分室で係官、關係町村代表出席のうへ協議した
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頑張れ鍬の若者/靑少年義勇軍に鄕土の香を1943(昭和18)年7月15日高知新聞朝刊99-100田中中隊
極寒酷暑を吹き飛ばしただひたすら滿洲開拓に挺身する聖鍬義勇軍戰士に感謝激勵文を送らうと大日本靑少年團本部、都道府縣靑少年團では大東亞省ならびに各関係機關の後援を得て曠野に若き情熱の鍬を打ちふるひ民族協和に食糧増産に、また國土防衛に邁進(まいしん)してゐる滿蒙開拓靑少年義勇軍に鄕土の誠を送り激勵するとともに一般人の認識を更に深める一助にもしようと激勵袋の作製を全鄕土人に呼びかけてゐる、内容は義勇軍の目的に添ふもので激勵文、健全なる書籍雑誌類、鄕土藝術品、手藝品類、諸種用具類、菓子、日用品等で一個一キロ、手拭三打程度のものを各単位團で一集めにし、市町村靑年團がこれを縣靑年團へ送附、これを日婦が協力して九月一日より十月三十日までの間に發送し終へるやう取纏(まと)めることになつてゐる
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開拓團指導者中央錬成會へ/本縣から百十名1943(昭和18)年7月22日高知新聞夕刊100田中中隊滿洲開拓團指導者中央錬成會は廿四から八月三日まで内原訓練所で實施(じつし)、全國から千百名参加するが本縣からは吾川、幡多両郡各四十名、安藝郡その他三十名合計百十名で中隊長磯部萬助氏以下全員が廿三日午前九時縣廳(けんちょう)前で壯行式を挙げ同日午前十一時三十五分高知驛發で内原に向ふ
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烈々の開拓魂/少年義勇軍の華1943(昭和18)年7月23日高知新聞朝刊100田中中隊長岡郡本山町上開、和田猛氏二男満君は小學校卒業後内原訓練所を経て渡満、靑少年義勇軍としてハルビン嚮導(きょうどう)訓練所に入所、さらにハルビン醫大入學を志望し大陸開拓戰士として猛訓練の傍ら不断の勉學を續(つづ)けてゐたが不幸さる七月病氣のため死亡、このほどハルビン嚮導訓練所では所葬(しょそう)を以て葬儀を執行、雄圖(ゆうず)空しく散つた若櫻の心からなる冥福を祈つたが父猛氏は次のやうに語つた
満が義勇軍に参加するとき年少なので最初は案じましたが〝僕も日本の少年です、興亞のため必死で奉公致します、十年もすれば軍刀を佩(は)いてお父さんに會ひに帰ります″と元氣に出發し何時の便りにも鄕土本山の靑少年が一人でも多く滿洲に雄飛するやうにと書いてあり倅も滿蒙開拓の礎石と散つてさぞ本望だらうと存じます
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義勇軍送出/藝西部拓殖講習1943(昭和18)年12月8日高知新聞朝刊100田中中隊安藝郡奈半利以西町村各國民學校高等科担任教員拓殖講習會は六日午前十時から安藝町實践女學校作法室で開催満洲移住協會副参事三澤淸氏、縣職業課池田主事補、畠中安藝靑年校長ら臨席各國民學校高等科二年受持教員ら約三十名が参集して定刻國民儀禮の後協會並に縣係官による講演並に懇談を行つたが來年三月送出の満蒙開拓靑少年義勇軍安藝小隊編成確保の運動に拍車を加減ることとなつた
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大陸建設の後續部隊/靑少年義勇軍鄕土部隊の編成  1944(昭和19)年2月24日高知新聞夕刊100-101田中中隊
滿蒙開拓の農兵隊として先發隊につゝき新に編された靑少年義勇軍鄕土中隊二百名は三月三日午後一時から縣農業會館壯行式にのぞみ同夜は丸ノ内の天理教會に一泊、翌四日午前七時八分高知驛出發、内原訓練所で四ケ月間にわたり猛訓練を受け六月下旬渡滿するが隊員と共に現地に入植し隊の指導者として陣頭指揮にあたる中隊長の人選は最も重要であるので適格者の選定につき縣で慎重詮衡(せんこう)の結果高知市東部組合靑年我學校教諭で靑少年の敎導育成に最も熱意を有し各方面から囑望されつゝある高知市高須四〇六田中茂喜(四〇)氏を推薦、交渉の結果、快諾を得て氏の中隊長就任を見たので更に以下の如く中隊指導員を選任し隊の編成を終つたなほ中隊長田中氏は縣立農業學校卒業後高須村農會技手、一宮第一靑年學校指導員、高知縣公立靑年學校教諭を経て昨年四月東部靑年學校教諭となり今日におよんだものである
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義勇軍吾川/小隊結成式1944(昭和19)年2月29日高知新聞朝刊101田中中隊吾川郡では滿蒙開拓靑少年義勇軍の募集に割當突破を目標に運動をつづけてゐたがいよいよ三月二日午後三時から伊野町國民學校で文木縣農政課長、吾川地方事務所松田所長以下學務課岡林視學、小笠原郡教育會長、山本伊野所長はじめ各関係職業所長列席の下吾川小隊結成を盛大に擧行したのち勇躍滿蒙開拓の壯途につくことになった
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開拓義勇軍出發1944(昭和19)年3月7日高知新聞朝刊101田中中隊
滿蒙開拓靑少年義勇軍高知中隊の一翼として大陸の曠野(こうや)に活躍を誓ふ吾川小隊四十六名は去る二日伊野町國民學校で中野教學課長、徳弘視學、吾川郡地方事務所學務課視學、山本伊野警察署長、岸野國民勤労動員署長、小笠原郡教育會長其の他一般有
志参列盛大な小隊結成式を擧行して開拓の決意を固めたが隊員
は三日午前十時半多數歓送裡に勇躍壯途についた       江川崎、津大両村 
滿洲開拓の聖業に参加せんとする幡多郡江川崎は五名、津大村二名の靑少年義勇軍は學校職員生徒、父兄らの盛大な歓送裡に三日午前八時川崎發勇躍高知へ向かった 東豊永の壯行會 
長岡郡東豊永村中央國民學校では本年度卒業生中滿蒙開拓義勇軍として入隊する上岡博一君以下および○○海軍航空廠(しょう)に産業戰士として挺身奉公する笹岡章一君他○○名の壯行會を去る吾川小隊 一日午前九時から同校講堂で開催、來賓吉川村長、朝倉同助役はじめ一般有志、父兄ら多數参列、定刻國民儀禮(ぎれい)の後竹村校長の開會の挨拶、吉川村長の壯行激励の辭(じ)、ヨイコドモ達による壯行の學藝會についで義勇軍並に産業戰士各代表の職域玉砕の血潮を沸らせた謝辭あり一同皇國萬歳(こうこくまんさい)を奉唱し午後三時盛況裡に意義ある壯行會を終了した

 開拓義勇軍出發/赤岡町 
香美郡赤岡町最初の青少年義勇軍として滿蒙開拓の大志を抱いて高知中隊香美小隊に参加訓練のために訓練所に向かふ同町靑年學校生徒增井昭一君は二日國民學校における壯行式後勇躍出發した
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ロシアから/山岡勲さん(東洋町出身)50年ぶりにロシアから日本に一時帰国1992(平成4)年12月24日高知新聞朝刊103-104斎藤中隊満蒙開拓団青少年義勇軍として戦争中、旧満州(現中国東北部)に渡り50年ぶりにロシアから日本へ一時帰国することになった県出身の山岡勲さん(64)が23日、ロシア貨物船で名古屋港に到着した。午前10時45分、名古屋検疫所前桟橋に降り立った山岡さんは、待ち受けた親族や戦友らと再会。約半世紀を経た夢の対面に「生きてて良かったなあ」と涙をこぼす妹の坂本田鶴さん(62)ら胸に抱き止め、「体は大丈夫ですか」などと語りかけた。
山岡さんは1942(昭和17)年、14歳で現在の安芸郡東洋町から青少年義勇軍に志願、旧
満州で行方不明となった。今年1992(平成4)年1月、故郷に出した手紙から健在であることが分かり、親族や同県出身の元開拓団員らがカンパなどで資金を作り、一時帰国を実現させた。
山岡さんは終戦後、ソ連軍に捕虜として拘束され、釈放後ロシア女性と結婚.ノリ網等で
生計を立てながら2人の娘をもうけた。現在はウラジオストクで年金生活を送っている。
50年ぶりに祖国の土を踏んだ山岡さんは「僕も変わったが、日本はもっと変わった
ね。まるで浦島太郎さんだ」と戸惑いを見せたが、「何よりも早くすしが食べたい」と周囲を笑わせた。
 あす朝高知入り
 山岡さんは同日、大阪に移動し24日まで滞在。25日午前9時10分着の飛行機で高知入りし、同11時半から東洋町野根公民館で開かれる歓迎式に臨む。今後1カ月間日本に滞在し、故郷の両親の墓参りや旧友との再会を予定している。
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戦争/酷暑の記憶(8)/亡き戦友の声㊦ 社会奉仕の弔い合戦/帰国後も開拓団訓の実践1981(昭和56)年8月17日高知新聞夕刊104-106山本中隊
1948(昭和23)年6月、山本義美は2年9カ月に及ぶシベリア抑留生活を終え母国に帰った。満蒙開拓の意気に燃え故郷をあとにしたのが16年3月末、7年3カ月ぶりの加茂村は山も川も、そっくり昔のままだった。一瞬、彼の脳裏からあの大陸での苛酷な日々を忘れさせてくれるほど平和そのものだった。
しかし、大きく変わっていることが一つ。それはシベリアからの復員兵を迎える人々の目だった。「わしは共産党員になるほどの頭もないのに、シベリア帰りというだけで白い目で見られた。一時はやけを起こしてぐれちょった」。
彼は復員後、すぐに村内の石灰鉱山の荷役の職に付いたが、ある日、村の戦没者遺族の会に招かれ、シベリアでの抑留生活の報告をする機会があった。彼にしてみれば「ただ体験をありのままに話しただけだった」が、会場にいた一部の人はそれがソ連賛美と映った。「ソ連へ帰れ!お前なんか鉱山事故で死んでしまえ!」。激しくののしられた。そうかと思うと、牛小屋を改造した粗末な家に住み、ふるせを食べて生活している彼に、「村一番の重税が課せられた」(本人の話)こともあった。このころ国内全体が反ソ的な傾向を強めていた。県内でも帰国はしたものの、まともな職からはじき出され、高知城周辺で浮浪者同然の生活をしているシベリアからの復員兵がごろごろしていた。あまり話したがらないが、そんな風潮の中で帰国直後の山本の生活も相当荒れていたらしい。「いっぺん死んだ体じゃどうにでもなれ」。そんな気分に陥っていたとき、北海道から彼のもとに一通の手紙が届いた。「開拓魂を忘れずに、まじめに生き抜いてください」—青少年義勇軍時代の教育部長、太田義雄(沖縄戦で戦死)の未亡人からだった。彼女、太田りよは教え子たちがつらい抑留生活の末、やっと帰り着いた母国で苦労をしているのを見かね、消息を調べては励ましの手紙を送っていたのである。満州時代、若い隊員の面倒をよく見てくれ、山本自身「お母さん」と呼んで慕っていたその人からの手紙。それが失意のどん底にあった彼を立ち直らせた。頭のなかで「口より実行、まず働け」というあの開拓団訓がよみがえった。
「よっしゃ。見よってみ。10年、20年後には(まっとうな)人間になっちゃる」。そう誓いを立てた彼は、社会奉仕の道を選んだ。彼にって開拓団訓の実践は死んだ戦友たちのへの弔いでもあった。村内で道路補修があれば真先に。高い税金に悩む鉱山の勤労者があれば村役場と談判、税金を負けさせた。自分は決して贅沢な生活はしていない。鉱山でも人一倍働き、通産大臣表彰を受けた。1965(昭和40)年からは、沖縄で夫を失った太田りよの進めもあって、沖縄の早期復帰を訴えた。1973(昭和48)年からは、交通安全のため街頭に立つようになった。
がむしゃらに戦後を生きてきた山本だったが、決して一人きりではなかった。月一回は近くの忠魂社で英霊たちと無言の会話を交わした。そして、1950(昭和25)年10月17日、鉱山の落盤事故で仲間2人が死に、彼だけが石のすき間で助かったとき「自分には英霊たちがついていてくれる」ことを確信したという。
1976(昭和51)年のある日、牡丹江八面子の戦いで死んだ戦友がまくら元に現れ、「ここまで帰っている。おれの両親は生きている。両親のところへ連れて行ってくれ」と拝むように頼んだのである。翌日、仕事が手につかなくなり、県の世話係へ駆けこんだ。遺族年金の受給者を手掛かりに、彼の両親は健在だった。1977(昭和52)年6月、沖縄で営まれた友の33回忌に出席した山本は、八面子の戦況をつぶさに報告した。友の両親は「息子が帰った」と泣いて喜び、那覇空港では土下座して両手を合わせて見送ってくれた。
今、佐川町加茂の家の居間には鉱山労働や交通安全運動でもらった10数枚の表彰状が飾ってある。それらを指さして彼は、
「みな戦友がもろうたんです。わしには戦後も新しい生き方いうのはなかった。開拓魂を実行しただけです。死ぬまで義勇軍です」と話すのである。(佐川)=敬称略
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