『言葉は存在の家である Die Sprache ist das Haus des Seins』 ハイデガーのこの命題を(批判的に)解釈しつつ、言語と思想の関係について論じなさい。
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ABCDE
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学籍番号ペンネームURL提出下読み委員からのコメント
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02170001ytommyhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ytommy/
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02170002みなみしまhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/9090mm/今回は比較的読みやすかったと思う。導入がキャッチーだったのと、続く二段落で問題を二つに明確に分けたのがよかった。が、要所で段落が長くなり固有名が増える癖はあいかわらずで、続く四段落目でやや主眼がぼやけてしまった印象。松浦の論に関連してデリダ・カント・サルトルの名が召喚され、しかも(それ自体主眼ではない)松浦の論の紹介にしか使われていないので、松浦に頼らず自分でジャコメッティを論じた方がすっきりしたように思う。続く『ブレードランナー2049』におけるホログラムという比喩も見ている人にしか伝わらないので、こういう細かい所で読者を限定してしまっている。固有名は出せば出すほど情報の負荷が上がるので、少数先鋭でいきたい。今回ならバシュラール一点突破でよかった。あと構成的な話で言えば、最後「顔」からムンクやゴッホに戻るのはきれいだったので、ここでもう一度(現状死んでいる)絵は言語なのか問題を、呼びかけ=五感と絡めて回収できたらよりよくなったはず。着想は面白かったし展開もできているのだが、もっとうまくもやれたはず。(ふつう人は、「heim-heimlichkeit」とか書かれても何のこっちゃ分からない。せめて「家(heim)とは住む人間を親密(heimlich)な関係へと」くらいか。あと当該箇所原文の「親密的」のように、「的」や「性」多用する癖も抜けていない)。
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02170003ユミソンhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yumisong/体言止めを用いた平易な文体と、途中で挟まるポエティックな引用(?)でリズムよく読ませる文章だと思ったし、内容も正しい。正しすぎる。「ユダヤ人や朝鮮人と呼ばれる人」である作家たちが「歴史の物語らなさ」を主題にしたパフォーマンスを扱い、語られない歴史をなんとか明るみにだそうとする行為を「見続けなければいけない。」という結論は、圧倒的に「うん、そうですよね」という感想になってしまい、それ以上のものがない。つまり単純に作品の意図を伝える文章になっていて、紹介の域を出ていない印象。この文章があることで作品の見方が変わるなり、魅力が増長されるなりしたかというと怪しい。作家たちの出自の記述が長いので、もっと作品のディスクリプションとその分析、それを受けた作者なりの観点に文章を割きたい。今回の場合ハイデガーが課題にあり、それを明示的に絡めるだけで外部を独自性として導入できたはずなので、それを目指さなかったのはもったいない。
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02170004北出 栞http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/スマートスピーカーに話かけることの「恥ずかしさ」を議論の端緒とするのは最高にキャッチーで、論者の過去論文の多くに見られるように掴みの巧さには安定感がある(個人的には「日本人の7割」というのが日本人特有の心性による結果なのかが気になったが)。その後議論はその「恥ずかしさ」の乗り越えという課題と向き合うが、「解釈主義」を用いた理論上の回避策では読者にとっては消化不良感が残りそうで、論の最終部等でもっと展開することを期待してしまった。この消化不良感はその後の「引き裂かれ」や『BEATLESS』と「身体」の議論についても同様の印象。「アフォーダンス」の援用含め個々のネタは面白かったので、議論が連想を紡ぐようにスライドして着地点が見えにくかったのは勿体なかったか。
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02170005イトウモhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/gonzomi/「美術でも不動産」でもある渋家が、ハイデガーのいう存在へと開かれる「play」の場でもあるという論旨は非常にクリアかつ腑に落ちた。渋家を少々長い即興劇作品と捉えるという指摘も鋭い。しかしその論旨のクリアさを意識しすぎたためか、全体のコンパクトさがゆえに、ときに圧縮されすぎ(もしくは筆が急ぎすぎ)と感じる場面も。これは読者層をどこに設定するのかという問題でもあるけれど、具体的には3節の冒頭ふたつの段落はもう少し補足があってもいいように思うし、結論部も同様では(以前の課題でも提出後のtwitterでのやり取りや補足によって「なるほど、そういうことだったのか!」と理解が深まったこともあったので)。
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02170006川井周分http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/santsui/
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02170007灰街令http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/サピア=ウォーフの仮説から、音楽における言語(記号)性へと移行する議論は、論者による明快な整理もあり、とてもいい導入になっている。専門性のある過去の議論への目配せもあり、(評者が音楽理論に疎いという事情はあるのかもしれないが)説得性も高い。議論は次に音楽における芸術言語と自然言語の共存(対立?)へと移っていくが、「自然言語の構文的言語性やその音声的言語性」と「音楽の構造的言語性」のせめぎ合いについての議論もおもしろい。だが、ここでの議論が非常にその対象作品の作り手である、アペルギスに寄り添いすぎてしまっている点が気にかかる。アペルギスが言っているからそうなのだ、という権威づけのように読めてしまう部分があり、議論のさらなる発展を論者の手で望みたかったところか。またアペルギス作品の描写は決して十分ではなく、読者の側で想像で補う必要がある点もやや惜しい。テーマ自体はおもしろく、それを深堀する力も論者にあったと思われるのでもっと先へと議論を進めてほしかった。
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02170008☆大山結子☆http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ohyama/
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02170009寺門 信http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/この論稿の良いところというか主眼は、ハイデガーと中島の哲学をあわせてみたところにあり、それ自体は悪くない。なので、その着想を活かすことだけを考えた文章にしたい。具体的にはサルトルが完全に要らない。わかりやすいよう説明したつもりかもしれないが、わかりやすさだけが読者への配慮ではない。そこに文章を取られているせいで、後半の中島の議論をうまく展開しきれず、結論部がめっちゃ急ぎ足な印象。またそのせいで、せっかく「東洋」と「日本」がイコールではないといい指摘をしたのに、「東洋」は「中国」のことだよみたいになっている。が、それも同様に違うはず。サルトルは削り、中島的なハイデガー理解のあり方を検討したうえで、それを福嶋や京都学派のような日本(と東洋を同一視するタイプ)のハイデガー受容と比較する、的な流れにしたら「東洋」内でも対比ができたか。また論の流れとしては、中国哲学への接続が「日本語の場合も当てはまるのか?という疑問は思い浮かぶだろう。」という、いくつかある疑問のうちのひとつとしてしか動機づけられていないので、弱く見える。これは冒頭部にもいえるが、弱気なふりをして「いくつかある疑問のなかからぼくが進みたい方に進むのでついてきてね、」という強引な進め方になっている。もっと読者に問題意識を共有させる努力をしよう。
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02170010runner2718http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/runner2718/
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02170011mikipediahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/mikipedia/
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02170012山下望http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/
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02170013脇田 敦http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/8/15を連関点として『この世界の片隅に』と『かぐや姫の物語』をつなぐのは、面白い着眼点だと思った。とはいえ、『この世界の片隅に』終部でのすずの激昂を取り上げることから本稿は始まるが、その導入で言われている「成長」が何を指しているのかがややつかみづらい。同様に後続の「普通」の定義やそれを巡る議論も、恣意的であるように感じる。むろん論者は見方によって変容していく「成長」や「普通」について述べているのだが、そもそも一般的な(あるいは議論の土台となる)定義を指示していないので、何がそこで反証され、何が新しく提示されているのかがわかりにくくなってしまっている。「『最後の1人まで戦う』という言葉によって、人の生き死にが左右されること」を議論の中心にしていることを前段で示した方が読者の負担は軽減したはずだ。また最後のとってつけた感が強い結論は不要では。
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02170014じょいともhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/joytomo/
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02170015伏見 瞬http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shunnnn00/平易な文体によって読むためのハードルを下げることは、批評の一つの機能だろう。とてもリーダビリティは高いのだが、その反面、展開される議論は味気ないように思う。まずハイデガーに対する批判(あるいは國分功一郎を引いての再評価)が、過去の参照文献を引くことに留まってしまっているのではないか。論者独自の視点が介入することなく、参照した議論がそのまま流れていってしまう部分に物足りなさを感じる。時枝誠記を引いた結論部分だけでも、議論をさらに進めていってほしかったところか。やや消化不良の感があるので、残り二回は期待したい。
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02170016高尾http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hush/
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02170017小川和輝http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/用意周到なイントロを経てナショナルアイデンティティの議論が展開される様は論旨も分かりやすく、なによりもこれまで同様、読者への目配せ=丁寧さが光る。「自然と人間とのインターフェースを家とする」という見立てと、日本の自然観の特性として「ミアレ」を抽出したところまでは面白かったのだが、その後の展開は少し勿体ないところがあったか。というのは、『ドラゴンボール』『ナルト』『ワンピース』といった例と「クール・ジャパン」という語を並置し、「日本人としての意匠」と呼んでしまうと、どうしてもステレオタイプな見方を呼び込んでしまう印象があるからだ。つまり「和」のステレオタイプを転覆させるための「クール・ジャパン」の読み替えが、結局のところステレオタイプに回収されうることへの警戒感を持つこと、言い換えれば、自身で仮構した結論への懐疑的な目線を常に保持しておくことが必要かもしれない。そのような懐疑に溢れる論文も読んでみたいとの期待も込めて。
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02170018渋革まろんhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/地点を正面から論じただけあって、岡田利規回で見せてくれたような議論の掘り下げ方で面白く読んだ。ハイデガーとの格闘で一部込み入った思索が入り混むものの、今回はより広い読者に向けて目線をチューニングしたであろう、比較的高いリーダビリティがポイントか。「X=存在」の捉え方について、ハイデガーの「運命の歴史」と地点の「デタラメな暗号」を対置したことで論にダイナミズムが生まれ難解さをほぐしているが、これが論者の持つパーソナリティとも符号しているようで腑に落ちた。積極的に援用すべき方向性かも。気になったのは「沈黙」を「零記号」と見立てる箇所について、見えない句点、つまり発語/発話の後の空白を「零記号」とするなら、沈黙劇の沈黙については別の捉え方が必要ではないだろうか。とはいえ、前半に提示されていたソーニャのセリフのカタカナ表記が時枝の零記号で読み解かれる様は、これまでの論者の文章の中でも特に構成面で成功していると思う。
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02170019谷 美里http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/misatotani/よく調べてあるが、調べたことに対して文字数が足りておらず、次々とあらたな用語や参照先が出て来るため、非常にせわしない印象になっている。また同じ理由で、筆者自身の主眼や問題意識が非常に見えづらく、論稿の全体を貫く骨子が不明瞭。その不明瞭さを「そう思うのである。」という結びで強引に補ったなという感じがある。不明瞭さの原因は冒頭に明確な問題提起がなく、ハイデガーが矛盾を抱えることになったという事実確認から入っていることか。そしてその問題提起の不在は、これが課題への応答文という意識で書かれていることにある気がする。「さて、ここでようやく〔……〕「言葉は存在の家である 〔……〕」について検討する時が来たようだ。」という一文があるが、本文中でそんな話はしていない。つまり問題意識が外注されてしまっているので、この論稿自体の固有の問題が不在のままにおかれている。多くの場合枕の文章がその問題提起のきっかけになっていたのだが、今回本当に枕にしかなっていないので、導入を出したからには嘘でもそこからなにか問題を提示したい。そして(これは毎回だが)最後その枕の話に戻って占めるときれいな形になるはず。
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02170020hideyukiwadahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hideyukiwada42hk/
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02170021kimiterasuhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kimiterasu/
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02170022谷頭 和希http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/improtanigashira/およそ研究論文ではありえない飛躍を次々とこなしていく点で、きわめて「批評的」といえる論考になっている。『木更津キャッツアイ』から丹下健三につなぐ導入だけでも読者の興奮を誘うものがあるが、それ以上の批評的跳躍が本稿には二つ三つと控えている。丹下の話から神話に飛ぶところで木更津はお役御免かと思いきや、最後にふたたび「きみさらず」に回収される構造は出来すぎているが、おもしろい(強いて言えば、東京湾の地層や神話をを持ち出すときに事あるごとに木更津を丁寧に持ち出した方が親切だったのかもしれない)。結論部、「ミ」ですべてを回収するロジックにはある種の暴力性を感じる向きもあるかもしれないが(三がすべてを現すという説明はあった方がよかった)、評者はとてもおもしろく読んだ。課題への応答はやや取ってつけた感は残るものの、この長さの論考を一気に読ませるテンションを維持し続けることのできる出来になっている。
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02170023高橋 秀明http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hide6069/今回もまた他人の言葉を引きすぎている。しかもそれが散発的に引用されるので、議論の全体の骨子が掴みづらく、地に足のついていない文章に見えてしまう。傍証としてのメリットよりも、煙幕としてのデメリットのほうが前面に出ている。これくらいの長さの文章なら、長めの引用を一つ引き、そこから出発して自分の言葉だけで展開していくのがちょうどいいくらい。正直論旨に当たる部分は別に引用に頼らなくてもたどり着ける無いようなので、不安になったらすぐに固有名にたよってしまう癖を直したい。
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02170024月田http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/xxxx/
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02170025斎藤英http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/tsaito222/
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02170026吉原 啓介http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/448ra/
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02170027pinchonhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/pin5chon7/
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02170028遠野よあけhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yoake/筒井康隆「遠い座敷」についての仔細な分析が全編を通じて展開される。今回の課題を無視したコメントでこんなことを言っても意味がないのだが、それでも「遠い座敷」論としてまとめた方が一批評文としての完成度は上がっただろう。その理由としては、論考序盤で提示されるハイデガー「非在」の概念の説明がさほど丁寧でなく、なぜそれを「遠い座敷」にあてはめる必要があるのかを強く説得できていない。そのため、手続きの細かい議論が続くものの、どこかそもそも問い自体が疑似問題なのではないかという疑いが頭にもたげたまま読み進めることを読者に強いてしまう恐れがある。「遠い座敷」→遊びへとつなぐロジックは妥当性があるのだが、ハイデガーに関する議論はそれを相補するのではなく、かき回すような混乱をもたらしてはいないだろうか。「非在」の概念を最初に提示せず、ハイデガーパートをすべて後方にまわすことで議論の筋道はより明瞭になったのではないだろうか。
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02170029太田 充胤http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/論理のクリアさは通常運転として、今回は私的体験の増量とともに科学的なアプローチはなりを潜めている感。しかし展開されるのは印象論に回収されてしまうような私語りではなく、一般化できるような問題意識を持った理由を私的経験として開陳しているわけで、これは単に書き方の違いと言えるのかもしれない。以下いくつか気になった点を。3、4節の「ところで」と前置きしてリファレンスを挙げる箇所x2は、今回の私的体験ベースの書き方ではさほど違和感はないのだが、少々安易かもしれない(今回の肝がまさに書き方にあるのだとすれば、もっとヴァリエーションを試す実験精神が欲しかったと言えるかも)。また、スナフキンは確かにマルクスの「私的所有の止揚」と結びついてはいるものの、タイトルでハイデガー・マルクスと並置するからにはワンエピソードでなくスナフキン自身をもう少し掘り下げた考察が欲しかったか(3つの対象を並べてそのうちひとつを意外性のあるものにするという方程式への警戒も込みで)
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02170030町田 佳路http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/upskch/
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02170031シルス湖http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/iiii/
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02170032chiakihttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/chiaki/
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02170033ペンネムRamunehttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/rondellio22/面白いのだがどう考えても批評の面白さではない。ハイデガーと九鬼のエピソードから、「いき」をめぐる自説と飛び、そこから「中動態」を超独自解釈する流れは意外性に満ちていたが、それが意外なのはそのつながりが筆者の思考のうちにしかないから。つまり脳内のライブ感やフローがそのままお送りされてしまっているので、客観性が全く担保されず、結果として読者がそのフローを追体験することができない。せっかく言葉に落とし込むのだから、他人にも終えるような流れを作ってやりたい。
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02170034谷川果菜絵http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kanaetnik/
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02170035ぽぽんたhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/poponta/
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02170036kenmitsudahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kenmitsuda/
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02170037Bambinohttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/7977msms/
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