ABCDE
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学籍番号ペンネームURL提出下読み委員からのコメント
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02170001ytommyhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ytommy/単純に文章がこなれていないのがまず気になる(たとえば「私が黒沢監督の映画が好きであるのは、他の監督とは一線を画す。」とか、読点の前後が繋がっていないし、そもそも筆者が黒沢好きかどうかに読者は興味がない。あとあらすじは「・・・」で終わらせず(ちなみに正しい表記は「……」である。三点リーダー×2。)、最後まで書く。あおり文じゃないんだから)。そして分析も「白いカーテン」と「食卓」の2つの線が通っていて、相互の関係がよくわからない(「カーテン」は「食卓」の一部?)し、それが黒沢作品にとってどんな意味を持つのかも、個別のシーンに関してふわっと論じられているにすぎない。結果として、この文章全体の主張が曖昧になってしまっている。三行くらいで自分の論旨を説明できるようにしたい。極端な話「『トウキョウソナタ』において食卓、特に白いカーテンは、○○という意味を担っているのだ」的な明示的な一文が要所に入るだけでだいぶ違うはず。あと批評は基本的に言葉に依拠したメディアなので、キャプチャーはむしろ入れないままの方がいい。
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02170002みなみしまhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/9090mm/面白く読んだ。が、それが黒沢映画を「半透明性」によって読み解く面白さなのか、「半透明性」という概念自体の面白さなのかと問われると微妙。言い換えれば、黒沢の映画を紹介したいのか岡田温司の理論を紹介したいのかが分からない文章になっている。当然批評である以上は前者に持っていきたいわけで、現状だと後者に重心を置きすぎている印象。具体的は最後の章の黒沢の独自性を論じる箇所での、ダン・グラハムと黒沢に割かれた紙幅とか。グラハムの作品が(図版付きで)割りと長く紹介され、黒沢の映画はそれと「異なる」ものとして逆照射されている。その論の進め方自体は(結果黒沢の独自性を描けているので)いいのだが、記述の分量自体がグラハムと同等かやや少ない程度であり、どちらをメインに扱いたいのかが不明。もっと作品の描写や分析に言葉を費やしたほうが批評文っぽくなったはず。あと相変わらず単語の選択のレベルで文が硬い。とはいえ今回はワンテーマに絞ってあり、明快な論だった。
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02170003ユミソンhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yumisong/冒頭、一体何の話が始まったのかと思わせるが、3章や5章でしっかり回収される(見立ても批評的に思う)し、『岸辺の旅』に登場する死者をシュレーディンガーの猫と見立てているのも腑に落ちた。それだけに、たとえば4章の『注目すべき人々との出会い』に議論が移る際に必然性を持たせる言葉が欲しいと思ってしまった。些細なことかもしれないが、過去に何度か指摘されているように、エッセイ調であっても議論を追うタイプの文章であれば、完成度が高くなるにつれて章ごとのつながりは読者にも見られる点であるように思う。また、会話文の挿入は論のリズムを変え効果的であるように思ったが、『私たちの家』との対比を含め「隙間のなさ」についての議論ももう少し言葉数を多く読みたかった。
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02170004北出 栞http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/黒沢清に対する評論という今回の課題への応答度をみるなら、『カゲロウプロジェクト』よりも先に『アカルイミライ』を置いた方がよかっただろう。論考のテーマは「孤独」にあるように思えたので、そちらを論じながら本文では導入の位置づけを与えられている3段落目を結論に持ってくる方がよかったのではないだろうか。3段落目は論者のこれまで書いたものを踏まえれば納得のできるものではあるのだが、単体の論考としては記述があまりに不足している。また黒沢清を論じるのに『アカルイミライ』だけを引き出しつつ、そこから「映像圏」の作家とする結論にはいささか強引さが目立つように思える。論者の問題意識をどう対象と接続するか、その接続にいかに説得性があるか、ある意味問題設定を強固に持っている論者だからこそその部分に腐心した方がよりいい批評になるのではないか。
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02170005イトウモhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/gonzomi/黒沢の全作品を射程に、彼が描くものに迫ろうとする丁寧な手つきが感じられた。「発狂」によって具体的なターゲットを失ったモンスターを戦後の日本映画が描いているという見立ても面白かった(これはこれで別の議論を読んでみたくもあった)。2章の終盤、ステファンにとってのダゲレオタイプ=黒沢にとっての映画、かつ未来の正体が亡霊の怨念という見立てまでは良かったのだが、3章での分析にやや不完全燃焼を感じてしまった。いわば批評対象との距離を詰めすぎたがために、思い切った見立てや言い切りが難しい(本当のことしか書けなくなった)状態と言えばいいだろうか。何れにしてもこの構成であれば、最後の2段落でこれまでの議論を一旦まとめた上で「見えるようになった亡霊の意味」に答える形で〆るのが良かったかも。
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02170006川井周分http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/santsui/
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02170007灰街令http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/筆者の過去の論考にも見られたように、音楽的題材に引き寄せた問いの立て方は非常に面白く、赤と青のテマティックというと通常ならば既視感を覚えずにはいられないだろうが、背景にあるソナタ形式とふたつのモチーフを常に意識させられる読み方となるため新鮮味があった。映画内の王の権力=父性の死が交響曲の歴史と重ね合わせられる流れも非常に面白かった。しかし2章、展開部の緊張の頂点が二つ提示されるが、それらの関係性が不明瞭なこと、そして終盤の紫色を詩的=分からないものと喝破する箇所とそれに続く3章は、筆者のこれまでのいくつかの論考にも共通するように好き嫌いが分かれると言えそうだが、やはり印象論として捉えられてしまう感は否めない。やはり読者は「黒沢のカタストロフの無秩序が救済に見えてしまう技巧」の正体を言語化して欲しいと思ってしまうのではないだろうか。
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02170008☆大山結子☆http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/ohyama/文字数が短くまとまっていることもあり、主張はとてもクリア。しかしその分起承転結がなく平坦であるとも言え、論にもう少しダイナミズムが欲しくなってしまった。特に議論の上で重要な3〜6段落の流れが、全体的にストレートな肯定文でまとめられている印象があるため、書き方を工夫できるかも。たとえば5段落目、「この映画は竜平のような立場に置かれた多くの男性を鼓舞するようなメッセージに満ちている。一体どういうことだろう」というように問いを投げかけ、それに応答することで間を置くなどして一定のリズムを崩すような方法が有効かもしれない。
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02170009寺門 信http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/論述は真摯。ゆえにかえって、構成の拙さが目につく。たとえば最も大きな点として、黒沢の近作を「震災後三部作」と呼称する根拠が「幽霊」のみと弱い。黒沢は震災以前から幽霊を撮ってきたわけで、それを「震災」に結びつけてしまうのはむしろ筆者(をはじめ観客)側の変化のはず。しかし「震災後三部作」という名称および全体の論調からは、むしろ黒沢のなかに震災というテーマが生じたように読めてしまう。これで行くなら黒沢の震災以前と以降の幽霊の撮り方に切断線を見出すことは必要だったか。あるいはむしろオチのところで『死者と生きる』を持ってきて、「震災以降我々の世界は黒沢清化しているのだ」くらい言い張る強引さが欲しかった。ほかには『ダゲレオタイプ』の要約が長すぎることや、渡邉大輔の引用によって特に論がジャンプしておらず、「代わりに語ってもらいました」的な働きに留まっているのが気になる。石戸の論にしてもそうだが、他人の文章を単に援用するだけでなく、それを蝶番に論旨を方向転換させる的な技術を身につければ、次のステップにすすめるはず。
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02170010runner2718http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/runner2718/
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02170011mikipediahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/mikipedia/
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02170012山下望http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/まず黒沢清の幽霊の出現パターンの分析がおもしろい。黒沢映画に出演するアイドル=女優の系譜をたどる論旨にも(特に前田敦子編に)迫力がある。ただし、この前後半の議論がほとんどブリッジしていない。今日的なメディアの議論をその接続部に配しているのだが、違うやり方はあったのではないか。あまりに多い論点と数々の脱線はこれまでの論者の批評に一貫してみられる傾向で、これはもはや一つのスタイルなのかもしれない。ただし、それでも変えた方がいいと思った部分はあり、それは「アイドルと幽霊のメディア論的並行性」というテーマについては少しでも読者の負担を減らすために、なるべく早いタイミングで予告をしておいた方がよかっただろう。ちなみに「パリのシネクラブに通い詰める映画マニアが海の向こうで作られたハリウッドのギャング映画に憧れて路上で撮り始める。アイドルファンがその熱狂的な愛が反転して自らアイドルになる、このゴダール=指原莉乃的な連鎖」は個人的にパンチラインである。トータルとして問題はあるが、前半後半それぞれの議論自体はおもしろく、惜しい出来。
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02170013脇田 敦http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/①これは侵略SFなのか、②いや日本の憂うべく現状への示唆的な童話である、③では教訓は一体なにか、という見立ての骨子は面白いし「立派な大人」という入り口もキャッチーだったように思うが、話が行ったり来たりするため論点がぼやけている印象がある。章立ても2章構成だが表題含め必然性が弱いように感じた(2章が3匹の子豚への飛躍から始まるため、この構成だと侵略者の3名という数以外の共通項が何なのか余計に疑問を感じさせてしまう気もする)ので、推敲と共に適切な表題で3章構成し整理すればもっと良くなるように思う。
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02170014じょいともhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/joytomo/
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02170015伏見 瞬http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shunnnn00/ところどころ、いわゆる批評文的ではないレトリックが機能しているように思うし、その挑戦自体が色々なことを試せる再生塾という場の本質を理解しているようで評価したくなる。『セブンスコード』に新しい可能性を見るのは黒沢論として面白いし、終盤の与謝野晶子の引用や、和音の「セブンスコード」から本編を読み解こうとする試みもチャレンジングで論にダイナミズムをもたらしている。しかし後者において、「愛」「孤独」の曖昧な定義や「両義的」の使い方については、物は言いようだと見られてしまうリスクがあるように思うので、より慎重な議論が必要だったかもしれない。
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02170016高尾http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hush/
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02170017小川和輝http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/「来訪者」と夫婦関係、近年の黒沢作品を語るならこれ以上にないテーマに直球で勝負している。大澤真幸を援用しながら「愛と憎悪と来訪者」をめぐる議論は論理的な瑕疵もなく、かつ各作品へのディスクリプションも充実している。論理展開順に作品が公開年順に並んでいるのもいい。各作品に対する分析の白眉としては『クリーピー』だろう。康子の行動は観客への一つの違和を残すものだが、この論考はそこに一つの解を示している。全体として完成度は高いのだが、気になる点としては「第3者的な『来訪者』は愛を獲得することができるのか」という問題設定だろう。愛と憎悪と来訪者を巡る夫婦関係に関する議論と、来訪者が愛を獲得できるかという問題設定は(来訪者と夫婦それぞれが混交しているので難しいのだが)より明瞭に議論を整理してもいいかもしれない。
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02170018渋革まろんhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/『CURE』の印象的なシークエンスを配した導入がいい。扱われる問題設定もおよそ黒沢作品のほとんどすべてに通底しているテーマなのだが、記述自体はほぼ『CURE』の作品評と呼ぶべきものになっている。手マティック的な『CURE』読解はおもしろく読み応えがあるのだが、それを敷衍するべく配された「4」はやや恣意性が高い。というよりもそこでの主張が真っ当であるがゆえに、ほぼすべての映画は「私映画なのではないか?」という問いを導いてしまう。結論部で述べられる「おそろしさ」を前面に打ち出しつつ、作家評としてまとめるなどの手もあったかもしれない。とはいえ読者の興味を駆動する文体、レトリックは論者の実力をたしかに感じさせるものになっている。
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02170019谷 美里http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/misatotani/ラフスケッチ感がある。単に短いというだけでなく、作品を見て考えた(あるいは普段考えている)ことがそのまま書かれている印象で、読者の興味を引きつけたり、ある問いを提示してそれを解決する、的な展開がない。その展開のなさは段落の少なさに顕著に現れている。段落は文章を役割ごとにくぎったものなので、それが少ないということは役割が必要になるような起伏がないということ。というか普通に全体が2段落だけってどうなんだ。後半の具体的な根拠に根ざした仮説が結構面白いだけに、もったいない。あとそれとは全く関係ないが、筆者がこれまで書いてきたテーマ(生者の幽霊化)がちょっと露骨に出過ぎている気がした。対象が対象なので仕方ないといえばそうなのだが、どんな対象にでも同じような問題を見出すのは危険な気がするので、一度その問題意識から離れてみることを意識してもいいかも。
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02170020hideyukiwadahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hideyukiwada42hk/
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02170021kimiterasuhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kimiterasu/
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02170022谷頭 和希http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/improtanigashira/『叫』の「赤色の幽霊」から速水健朗の議論を媒介にした建築論への接続が非常にスムース。筆者が何度も論じている建築、都市論というテーマへ強引さを一切感じさせず誘導しているのは上達を感じるし、文字数は比較的長いもののセクションに区切りながら「問→応答」をテンポ良く挿入し論をドライブしているため冗長さも感じさせない。ただ、6章の「廃墟や幽霊というノイズ=クリナメンの運動」という見立てまでは疑問なく進んだが、その後の結末の暗さを論じるセクションはやや性急で論じる必然性も弱く感じられたので切ってしまうのもひとつの手だったかも。その分、8章の赤の幽霊の理由に言葉を費やしたかったように思う。
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02170023高橋 秀明http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hide6069/後半の『岸辺の旅』論はいいし、それが従来の黒沢の自動車の撮り方と一線を画しているという全体のはこびもいい。が、章立てのバランスが悪い。まず第一章は蓮實の黒沢論に乗っかっているだけにもかかわらず、自身の分析である三章と長さが変わらない。これは明らかに字数使いすぎなので、他人の論の紹介は二段落くらいでまとめたい。そして二章が一段落しかないのはどう見てもおかしい。よって一章と二章はわけなくていい。そしてこれくらいの長さなら「序」と「結」はいらない。以上の二点から、総じて全体に章分けがいらない。というか章分けによって本体のはずの『岸辺の旅』論が、導入的な章と等価な感じになってしまっている。導入として従来の黒沢の読解及び撮り方を整理し、そこからの新展開として『岸辺の旅』を論じるという感じにしたい。
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02170024月田http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/xxxx/
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02170025斎藤英http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/tsaito222/
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02170026吉原 啓介http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/448ra/『散歩する侵略者』での回し飲みから入る導入はとてもいい。後続には食事をともにすることが重要なのか、重要でないのかという議論が続くことになるが、ここは混乱を招かないように最初に「糖質」のモティーフを示した方がよかったのかもしれない(実際の文章で「糖質」のモティーフを示す位置にも『散歩する侵略者』への振り返りがあってもよい)。とはいえ、『ダゲレオタイプの女』ではブラックコーヒー、『岸辺の旅』では白玉団子など、たしかにそれぞれの作品で違和感を覚えるところに「糖質」が関係していると思わせる指摘が続いている。難点は論者がそれを通じて主張したいことがやや曖昧で抽象に留まってしまった嫌いがある。より具体的で、厳密な主張となっていればいいテマティック批評になっていたと思う。ちなみに「等質」と「糖質」の見立てはおもしろいのだけど、第二期講評最終講評会で菊地成孔のいった「大喜利」という言葉の意味は少し反芻してもいいかもしれず、その見栄の切り方にどこかに真面目に言っているわけではないという余裕を見せてもよかった。
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02170027pinchonhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/pin5chon7/
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02170028遠野よあけhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yoake/
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02170029太田 充胤http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/際立つ赤や青ではなく生活に溶け込む白を問題にすることと、サイコパスではなく我々が狂っているのではないか問題を重ねるのはクリアだった。のだが、色をめぐる読解自体はいまいちスッキリしない印象。おそらく原因はタイトルに反し、実質的に「『赤/青』/『白/黒』」という対立の入れ子がある感じになっていて(「赤/青=生/死の対比から、白/黒=生/死の一般的な制度の中へ」という一文に顕著。)、かつ有彩色同士の対立と無彩色同士の対立の意味があまり説明されていないこと。そのため、無彩色の代表として「赤・青」に対立し、かつ「黒」にも対立するという「白」の意味付けがよくわからなくなってしまっている。しかもその上で「与えられた白」と「発見された白」が分けられるのだから、「白」でくくる事自体に無理があったように若干読めてしまう。出発点の対比は明確なので、もっと整理した図式を提示したかったか。
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02170030町田 佳路http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/upskch/
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02170031シルス湖http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/iiii/
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02170032chiakihttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/chiaki/
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02170033ペンネムRamunehttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/rondellio22/『ダゲレオタイプの女』をドキュメント映画として読み解くという前半の論旨にそって、文章もドキュメント仕立てになっているのだが、それが奏功しているか判断は難しい。論者がドキュメンタリー的と表現する同作のカメラワークの特徴も記述が足りないためか(『クリーピー』との対比を充実させてほしかった)さほど説得性が高くない。後半は黒沢作品における論じるべきテーマ(作中人物の過去という因果律の排除)を捉えていて、こちらを本論とした方がよかったのではないだろうか。後半は高橋洋による記述を一つの結論にしてしまっているので、そこも工夫してほしかった。
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02170034谷川果菜絵http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kanaetnik/
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02170035ぽぽんたhttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/poponta/
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02170036kenmitsudahttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kenmitsuda/
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02170037Bambinohttp://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/7977msms/