熊本-7:肥後街道(五里木~九里木) (150)
地蔵群5
峠の茶屋
七里木4
堀ケ谷(出口)3
六里木3
高尾野5戦国の頃には人々が住んでいた処
堀ケ谷地図2
30年程前まで建物があった
放牛の地蔵らしい
場所移動
道標(車帰牧野)8
二重峠(石畳)58
的石茶屋13
隼鷹天満宮5
めぐすり石4
産神社10
的石7
九里木3(本来は反対側にあったらしい)
坂下御茶屋跡
岩坂村の刻印2
午王の水5
八里木3(伝承による)
西南の役案内2
いつのころからか眼病の人が詣でるようになったらしいが水がでているのを見た人はいないらしい
文字通りお産や子育てにご利益があると云われている
1697(元禄10)年に元大友氏の家臣小糸次右ヱ門忠経の屋敷を御茶屋とした(現在も民家)
阿蘇開拓の神 健磐龍命が往生岳から弓矢の練習的にしたらしい
二重峠に入る前
堀ケ谷5
清正公道10
明治7年(1874)の地券制度の開始により、豊後街道は官有地となり、大津町が無償で借上げている。
By 薄毛の髭のっぽ 2024-11-06現在
加藤可重は加藤清正公の重臣として文禄・慶長の役(1592(文禄1)年~1598(慶長3)年にかけ、豊臣秀吉が朝鮮に兵を出した戦争)で武功を立て、内牧城代で内牧城代を勤めた。
熊本-8:九里~十一里木(98)
千石橋4
内牧菅原神社5
内牧下町火除碑3
内牧茶屋跡7
内牧手永跡3
十里木3
知人の坂梨家が建てたんだそう
十一里木4
今町橋3
御前水3
御茶用の水を汲んだらしい
勝海舟・坂本龍馬も投宿したらしい
内牧新町火除碑3
内牧仲町火除碑2
内牧は火災が多く、延焼防止の為に設けられた
歴史の道(狩尾)11
歴史の道(折戸)23
女龜石/男龜石6
工具爪跡石3
松ケ鼻4
内牧城代
知事さんの塔
宗不旱句碑
夫婦の亀は、恋しさのあまりお互い鳴き声をあげているという。
阿蘇七鼻八石の中の1鼻
熊本-9:十二里~坂梨宿付近~十三里(127)
いぼ石2
カヲの墓9
参勤交代の道10
坂梨宿入口19
滝室坂20
坂梨天神橋8
坂梨手永会所跡
坂梨案内板7
坂梨番所跡2
大石の上部に凹みがあり溜まった水をいぼにつけるといぼがとれた。
「カヲ」とい美女がお駕籠据置場(藩主の休憩場所)で、殿様にお茶を献じる役目を担っていた
旧坂梨村には沢山の水車小屋があった
国道からの降口
この先は崩落で通れず
十三里木5
子安観音5
道標(宮地駅そば)
坂梨石碑2
勝海舟/坂本龍馬や伊能忠敬らが通った
坂梨茶屋跡
滝室坂川底
役犬原(やくいんばる)湧水3
この辺りに御茶屋(休憩所)が有ったらしい
阿蘇神社2
全国に約500社ある阿蘇神社の総本社。1662(寛文元)年 第3代細川綱利は参勤交代途上で参詣
塩塚の道標3
十二里木6
軟弱な地盤で洪水も激しい場所で橋は無く、渡渉「至極の石畳」であったらしい。
道標(宮地)3
何故 阿蘇神社を通らなかったのか?
阿蘇神社の祭神で阿蘇開拓の神 健磐龍命が、北外輪山の大きな的石に向かって、ここに腰をおろし、矢を射る練習をしていたのが日課でした
熊本-10:阿蘇地方(78)
夏目漱石が宿泊
西巌殿寺30
明行寺6
鷲の石4
箱石2
阿蘇七鼻(他に卯ヶ鼻、蹴落ヶ鼻、尾ヶ鼻(山田)、遠目ヶ鼻(遠見ヶ鼻)
山王閣4
妻子ケ鼻
上色見熊野座神社12
的石
松ケ鼻4
古城ケ鼻
内牧観音堂3
国造神社
霜神社
霜神社火焚殿
天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に焼き払われてしまったが、三十六坊を復興させたのが、肥後に入部した加藤清正。
夏目漱石の小説、二百十日にも登場
参道には、100基近くの灯篭が並ぶ。神殿後方の穿戸岩には、健磐竜命の従者鬼八法師が蹴破ったといわれる縦横10メートル以上の大風穴(穿戸岩(うげといわ))がある。
阿蘇神社を本宮として北に坐すため、北宮とも呼ばれ、珍しい鯰宮もある
いぼ石
鏡石(写真行方知れず)
鏡石を撫で、体の痛みを感じる部分に触れると、痛みがやわらぐといわれています
阿蘇八石(他に鼻ぐり石、硯石(すずりいし)
内牧城代
往生岳
阿蘇神系図
熊本-11:~笹倉宿付近(129)
波野(掘割降口)3
鞍掛の櫟(くぬぎ)
境の松石畳10
四里塚(バス停)2
十五里塚2
火の神4
へきの谷11ヘキとは境界のことで、かつての波野村と産山村の境界
笹倉宿6
大利18
道の駅4
十四里塚跡3
波野(掘割)
笹倉茶屋跡
笹倉(バス停)2
笹倉宿(出口)
笹倉の石畳
笹倉茶沸場跡
笹倉里程標2
日吉神社3
弁天坂入口20
弁天坂の石畳
歴史の案内板
飛瀬の石畳
大利の御休所3
足達家
唐破風造の式台玄関の随所に彫刻が施され書院風の構えを有する農家の主屋です。明治24年建設
文化4年(1807年)から4年の歳月をかけて、久住の手永惣庄屋久住善兵衛による石畳