19th Century Philippines:
Focus on the Manila Galleon Trade
Ferdinand C. Maquito, Ph.D.
College of Public Affairs and Development
University of the Philippines Los Baños
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19世紀のフィリピン:
マニラ・ガレオン貿易を中心に
Galleon Museum
本会議の最終日のスタディツアーでマニラ・ツアー1に申し込んだ方は、ガレオン博物館にいらっしゃいます。
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Galleon Museum
この博物館は、中華系財閥の大班(タイパン)、ヘンリー・シー氏の財閥が開発したモール・オブ・アジアの中にあり、2017年にソフト・オープンしましたが、最終的には実物大のガレオン船が建設される予定とのことです。この博物館には、マニラ・ガレオン貿易について様々な歴史資料が展示されています
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Galleon Trade
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マニラ・ガレオン貿易は、マニラ港を出港したガレオン船が1~2年をかけて太平洋を渡り、現在のメキシコのアカプルコまで行き、またマニラに帰ってきました。250年間で合計110隻の船が行き来した
最初は、マニラとアカプルコから毎年それぞれ3隻以上の船が出ていましたが、両港から年間2隻ずつの運航に制限されました → ガレオン船は平均1700~2000トンで、フィリピンの木材で建造され、1000人の乗客を運ぶ. ほとんどの船はフィリピンで建造され、メキシコで建造されたものは8隻と言われています。
Re-Discovery of the Philippines
フィリピンは、当時のグローバル化に重要な役割を果たしていました。スペインとポルトガルは大航海時代で、世界の境界の拡大の最先端にありました。16世紀にスペインが派遣したマゼランとエルカノにより、地球は平ではなく、球体であることが証明されました。� マゼランの遠征は、5隻の船と270人の乗組員で構成された船団で、1519年9月20日にスペインを出航し、南下しながら大西洋を横断しました。南アメリカの南の先端を発見した時、船団長のフェルディナンド・マゼラン(私と同じ名前のポルトガル人)を称えるために、その重要な航路をマセラン海峡と名つけました。そこから太平洋を横断して、1521年3月16日に、フィリピンの歴史家レナト・コンスタンチノ氏によれば、「フィリピンの再発見 (re-discovery)」が実現しました。
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Islamic Wave and the Re-discovery of the Philippines
この「フィリピンの再発見」の意義を説明するために、ここでイスラム教についてお話をさせてください。ご存知のように、7世紀にサウジアラビアで生まれたイスラム教は、拡大方針をとり、9世紀の初めには当時のスペインの殆どを侵略しました。11世紀になるとキリスト教の国々が十字軍を結成して領土を取り戻そうとしたので、
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Islamic Wave and the Re-Discovery of the Philippines
ヨーロッパでは13世紀にはキリスト教がある程度勢力を取り戻していましたが、イスラムの教えは東に広まりインドまで進行しました。
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Islamic Wave and the Re-Discovery of the Philippines
15世紀になると、キリスト教はスペインを取り戻しましたが、イスラム教はインドネシアまで拡大しました。
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Islamic Wave and the Re-Discovery of the Philippines
マゼランがフィリピンに到達した時、フィリピンの中でもインドネシアに近いミンダナオ島はイスラム教に支配されていました。私の歴史の先生は「1521年に、フィリピン中部のセブ島にやってきたスペインの探検船団が『十字架を建てて、南から来るイスラムの波を止めた』と描写していました。この時から、フィリピン人の大半がキリスト教になっています。残念ながら、ミンダナオ島では、当時から今に至るまで、キリスト教対イスラム教の対立の問題を抱えています。
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The 1st Circumnavigation and the Re-Discovery of the Philippines
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ラプラプが司るマクタン島の種族との戦いでマゼランが戦死しため、フィリピンからスペインに戻った最後の一隻はエルカノ船長の手に委ねられました。スペインから出航したおよそ2年後の1522年9月6日、出発の時のたった6%の乗組員を乗せて、5隻から唯一残ったヴィクトリア号がスペインの港に戻りました
From Cebu to Manila (Intramuros)
最初のスペインの本拠はセブ島にありましたが、アジア各地からの船があまり寄港しないことに気がつきました。セブ島に貿易にやってくる船は、主にマニラからのものでした。
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マニラ湾にはアジア近辺から船が寄港し、そこで下ろした品物の一部が、フィリピンの他の島々に運ばれています。スペインに再発見される前から、マニラはすでに中継貿易をしていたのです。
スペインの本拠地が、セブ島からマニラへ移ったのは当然でした。今でも、マニラ市内には、スペイン時代に建てられたイントラムロス(壁の中)の遺跡が残っています。
Finding Return Route (Birth of the Manila Galleon Trade)
幼いスペイン植民地の次の問題は、マニラで集めた物をいかにスペインまで運ぶかということでした。マゼランが太平洋でとった海路を逆に東方向に航海しても、東から西へ吹く風が強いので当時の船では進まないのです。数回の失敗後、日本の方向に流れる黒潮に乗って北上し、日本から東へ吹く風をやっと見つけて、1565年にマニラ・アカプルコのガレオン貿易が誕生しました。
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Winds of Colonisation: The Meteorological Contours of Spain's Imperium in the Pacific 1521-189 GREG BANKOFF Environment and History Vol. 12, No. 1 (February 2006), pp. 65-88
こうして、フィリピンは当時のグローバル経済の発展過程における商業主義(マーカンティリズム)の時代に突入しました。商業主義の通り、ガレオン貿易は政府が独占的に大きく介入する保護主義の下に実施されました。
Outbound (Silk)
マニラ港を出発したガレオン船は、インドネシアの香辛料、中国や東南アジアの磁器、象牙、漆器、絹製品をメキシコに運びました。
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中でも中国産の絹織物が多かったので、アカプルコ行きの船は「絹船」(kinu sen) と呼ばれました。アカプルコについた荷物は陸路でメキシコを横断して、カリブ海に面した港ベラクルスまで運ばれ、そこからスペイン王国のインディアス艦隊に積み込まれスペインに向かいました。
Inbound (Silver)
一方、アカプルコを経由してやってきたガレオン船の貨物は、東アジアで通貨等として使われていた銀が大半; 鞘取(さやとり)売買の対象になっていました。
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ガレオン貿易は、100%から300%までの利益を生みました。このように莫大な利益をもたらしたので、スペイン政府は、フィリピン国内の経済開発を怠たりました
Decline of Manila as Entrepot Hub
ガレオン貿易は、1815年まで続きました。スペインの影響力が低迷し、他の入植国も太平洋貿易に参加するようになりました。マニラ・ガレオン貿易は過激な競争に晒され、衰退していきました。
1819年にイギリスの植民地になったシンガポールは、マニラのような中継貿易型発展モデルで開発され、東南アジアの重要なハブとしてマニラ・ガレオン貿易を受け継ぎました。1860年には、香港も同じく中継貿易型発展モデルに乗り込みました。
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?
どうして、マニラ・ガレオン貿易は歴史が長いにも関わらず、シンガポールや香港と同レベルの世界貿易の地位を保ち続けられなかったのでしょうか。
Why the Philippines Failed?
さまざまな要素を指摘することができるとは思いますが、経済歴史学の観点から興味深い説があります。MITのアセモグル教授のグループが提唱する「運命の逆転」説です。この説によると、植民地化のやり方は基本的に2種類あります。「易出の植民地化」(colonization of extraction)と「集落の植民地化」(colonization of settlement)です。
前者は、植民地化当初の人口密度が高く、排他的な制度を生み出す傾向があるが、後者は、人口密度が低く、包括的な制度を生み出す傾向があります。マニラ・ガレオン貿易は、どちらかというと、前者であり、マニラ・ガレオン貿易に参加できるものが大体社会の権力者達に限られていて、政府の保護による独占的な仕組みであったのです。
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Why the Philippines Failed?
スペインのこのような保護主義の仕組みは、イギリスがとった自由主義の仕組みと正反対でした。18世紀に産業革命を起こしたイギリスはグローバル経済のトップに立ったため、自由主義をとる余裕がありました。自由主義では、財産権が強く守られ、起業家が優遇され、エリートの過剰な力が制限されるように、包括的な制度を生み出すのです
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Reversal of Fortunes
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More Developed in 1500
Less Developed in 1500
Less Developed in 1995
More Developed in 1995
「運命の逆転」説によると、「易出の植民地化」は、比較的に裕福なところ(=人口密度が高い)で、その社会の富を抽出するために排他的な仕組みが構築されるので、数世紀後にその社会の発展が鈍くなると言います。一方、「集落の植民地化」は比較的に貧しいところ(=人口密度が低い)に、包括的な仕組みが構築されるという事です。
have a good conference!
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