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南米地誌�~「ブラジル人」とは何か?~

小嶋俊介

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「ブラジル人」とは?

Googleで「ブラジル人」の意の

「Brasileiros」と検索すると右のように顔つきや肌の色が異なる人々が並ぶ。

→このような多様性をもつのがブラジルである。

では、それはなぜか?

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ブラジルの民族構成

ヨーロッパ系(白人)が多めだが、

混血黒人の割合も低くない!

帝国書院「新詳高等地図」82ページ内データより作成

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ヨーロッパ人の入植

トルデシリャス条約(1492年)

により、右画像の紫線よりも西側はスペイン領、東側はポルトガル領となった。

→今のブラジルの一部がポルトガ ル領と定められ、移民が入植

 ※他の南米諸国でも同様の動き

南米の大半はスペイン語圏

 ブラジルは、ポルトガル語

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ブラジルという国名

ヨーロッパ人が入植した後、主な輸出品としてパウ・ブラジル(ブラジルボク)の輸出が主要産業となった。 ※用途は染料

→これが背景となり国名は

 ブラジルと定着した。

しかし、16世紀前には枯渇に向かう

現在も楽器などに用いられるが、過度な伐採により絶滅のおそれがある。

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黒人奴隷の流入

16世紀以降、パウ・ブラジルの枯渇を受けて、新たな熱帯作物としてサトウキビが導入され、プランテーション化した。

→労働に従事したのは先住民(インディオ)黒人奴隷。

 ヨーロッパ人の入植は天然痘やペスト、インフルエンザな どの南米には無い病原菌をもたらしたことや、労働環境の 劣悪さから先住民が減少し、黒人奴隷の労働力を求めた。

混血が進み現在のように多様な人種構成の基礎をつくった

 例 白人×インディオ=メスチソ   

   黒人×インディオ=ムラート

植民地時代初期の地図

サトウキビのイラストが大きく目立つ。

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黒人奴隷が導入された自然的な理由

ポルトガルよりも低緯度なため、高温な気候

→厳しい

 労働環境!

参考 リスボンの雨温図

雨温図はいずれもhttps://www.nocs.cc/study/uonzuwld.htmより引用

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サトウキビのバイオエタノール

現在でもブラジルは世界的な砂糖の生産・輸出国!

サトウキビの生産は世界の41.2%、

砂糖の生産は世界の21.1%、砂糖の輸出は世界の42.6% いずれも世界一!

近年はサトウキビ由来のバイオエタノールの生産が政府主導で進められる。

サンパウロの北にある製糖・エタノール工場

もともと製糖のみの工場がエタノール生産にも着手。

リンク先の工場の手前にはサトウキビを積んだトラックが見える。なお、リンク先の地点のストリートビューを180度振り返ると一面のサトウキビ畑が広がる。

原料のサトウキビの方が重いので、この産業の工場は

原料立地型の工場だということも確認!

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ゴールドラッシュの時代

17世紀以降、南部で金鉱の発見

→①国の産業の中心が北部から南部へ

 ②インディオ・黒人奴隷のさらなる酷使

 ③一攫千金をめざしてポルトガル人が流入

さらに混血が進む

 ※鉄鋼業もこのころには栄えた

 →現在も鉱工業が盛んなブラジルには黒人奴隷の存在が大きいことがわかる

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主なブラジルの鉱山

カラジャス鉄山

北部に位置

カラジャス鉄道で北の積出港のサンルイスへ輸送

イタビラ鉄山

南部に位置

ミナスビトリア鉄道で北の積出港のビトリアへ輸送

いずれも大規模な鉱山で、露天掘りの様子がみられる

とくにカラジャス鉄山では熱帯特有の赤色の土(ラトソル)が広がることにも注目

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黒人奴隷が生み出した?国民食フェイジョアーダ

豆と豚肉、牛肉を煮込んだ料理でブラジルの国民的な料理として有名である。

アフリカからの奴隷たちがブラジルで考案したと言われ、農場主らのためにの上質な肉を取った残りの部分やなどを加えたとされる。

暑熱のなかで強制労働に就く奴隷の塩分を補う食事でもあったため、現在も一般に塩辛い

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フェイジョアーダの主な原料の統計

奴隷の考案したという説には異論もある。支配者層がヨーロッパより豆を使った煮込料理を持ち込み、南米で調達しやすい材料で代用したものが、庶民に広がったものだという説もあるが、上記のとおり、フェイジョアーダの材料は現在もブラジルが世界的に多く生産している農作物ばかりである。

いずれも「データブックオブザ・ワールド2020」より作成

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日本人の流入

1850年の奴隷貿易廃止以降、黒人奴隷に変わり、ヨーロッパ系やアジア系の農業移民が見られるようになった。

…この時期には、コーヒー栽培が主な産業であったが、コーヒー栽培は多くの労 働力を必要とした。

→大農園を指すファゼンダで大規模に生産された。

→1908年以降、日本人の移民もみられた

 やはり主に農業に従事していった。

日本が国策で移民を奨励したことを示す1920年ころのポスター

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ブラジルのコーヒー

コーヒー豆は現在でも重要な輸出品であり、

生産量・輸出量はともに世界一

日本の企業もブラジルのコーヒーを多く利用しています。

例 大手コンビニ・ローソンの「マチカフェコーヒー」

https://www.lawson.co.jp/lab/machicafe/art/1316074_7561.html

右上リンク:上リンクと同じイパネマ農園

      コーヒー農園には日本語の表記が!! 

※上リンクから少し西側(手前側)にストリートビューを動かすと同義の言葉と思われる看板が中国語でも書かれている。

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日本人移民の影響

現在でも日本人街がブラジルには残っている。

例 リベルダーデ地区(サンパウロ市)

※1950年~1980年代が「日本人街」としては最盛。近年は中国人など他の東アジア系の増加とともに「東洋人街」と化している

おまけ 右上リンクのすぐ近くにあるラジオ体操記念塔

この広場で朝、ラジオ体操が行われているらしい…

駅前の広場。ココから180度振り返りると、商店街方向に直進ができる。看板や町並みが東洋的な所を感じてほしい!

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日系人の日本への集住

日本人が1900年代初頭に移住して以降、その子・孫が日系二世・三世と呼ばれ、ブラジル国内で活躍していった。

ブラジルでは1970年代、外国からの借金をもとにした好景気を迎えたが、

その後のインフレ、累積債務により苦しんだ。

一方日本では、バブル景気の人手不足を背景に1990年に出入国管理法が改正

日系3世まで、一部の例外の除く就労可能な地位が与えられた

→自動車工業などの工業地域を有する北関東東海地方の一部に、

 出稼ぎ労働者の日系ブラジル人が集住した。

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日系人の多い日本の都市

例 群馬県邑楽郡大泉町 

 右のリンクの航空写真の手前にはPanasonicの工場、奥にはスバルの工場があり、工業地帯であることがよく分かる。

おまけ 

大泉町にある西小泉駅前の交差点

スバルの看板とブラジル人向けの施設が並んで見える。

人口の約10%がブラジル人!

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内陸の開発

人口や産業が南部に集中内陸部との経済格差が問題視

→その解消を目指すことが19世紀頃から叫ばれた。

熱帯雨林を切り拓き、農地を開拓し、貧しい農民を移住させることを計画

例 中西部・マットグロッソ州~ロンドニア州の航空写真の変化

  

  熱帯雨林が畑(商品作物の大豆など)や道路に変わっていく様子がわかる

大豆はブラジルの輸出品目で最も高い金額を占めている重要な商品作物!

同じブラジル人の中にも経済的な格差が見られることに注目しよう!

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首都の移転

内陸との格差是正のため、1960年に首都をリオデジャネイロからブラジリアに移転した。

近代的な建造物が市内には並び、1987年には世界遺産にも登録

飛行機が翼を広げた形をしている計画都市として

有名であり、その様子は航空写真から見てもよくわかる。

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都市の拡大とスラム化

リオデジャネイロやサンパウロなどの都市では、都市化とともに農村から、雇用を求めて人口流入が進むが、インフラ整備がこれに追いつかないため、不良住宅地のスラム街ができる。ブラジルではこれをファベーラと呼ぶ。

→都市の中では居住に不適な山の斜面などにファベーラが形成されることが多い。

スラムを味わうツアー

日本語のページではないが、リンク先冒頭に出てくるスラム街(左リンク先付近)を原付で疾走するを筆頭にスラム街の細かな様子が動画で見られるのは面白い。 https://beyondthemap.withgoogle.com/en-us/

リオデジャネイロの町並み

リンク先の航空写真の右奥には

近代的な建造物が見える一方、

手前側には斜面を這うように

宅地があることがわかる。