ヘブル6章 警告と約束
HEBREWS 6 – A WARNING AND A PROMISE
ヘブル人への手紙はユダヤ人のクリスチャンに向けて書かれました。そのコミュニティーの中の霊的成長具合は様々でした。まだ信仰を持っていないけれど(もちろん彼らはユダヤ教や旧約聖書には通じていますが)イエスキリストの福音に興味をもっている人もいれば、信仰をもって霊的にも成長していてまさしくその信仰のゆえに迫害を受けている人もいました。霊的成長が様々という意味においては今日私たちの教会とよく似た状況だと言えるでしょう。
The author of Hebrews was writing to Jewish Christian
筆者は4-5章にかけてイエスキリストはメルキゼデクのような大祭司であるというボリュームもあって難しい教えを展開します。途中で聴衆の霊的成長がこの教えを聞くには追いついていないことに気づき、そのテーマを少しわきに置きます。そして彼らに霊的に成長するようにと促します。福音を受け入れ霊的に成長しなければ永遠の裁きにあう危険性があると説くんですね。今日の箇所ではそういった未熟な霊的状態(信じるべきなのに信じれていない状態)に対する警告と、霊的な成長の約束(キリストにあっての約束された未来・成長)の両方を見ていきたいと思います。
The author had started to get into some solid teaching
Read Hebrews 6:1-12
A WARNING TO THE IMMATURE REGARDS FALLING AWAY (HEB.5:10-6:12)
未熟な霊的状態が信仰を衰えさせることへの警告 (ヘブル5:10-6:12)
この箇所はヘブル人への手紙の中にある5つの警告の中の3番目の警告です。これらの警告は人々がイエスキリストにある福音をしっかりととらえ、受け入れることに失敗するとどのような惨事になるかという事を表しています。この警告は教会に属さずイエス様の事を知らない、あるいは受け入れていない人に向けられているのではなく、すでに“教会に属している、あるいは教会に来ている”けれどイエス様を受け入れていない人に対するものです。福音を聞かされているのにそれを受け入れない人は信仰から遠く離れてしまう危険性があり、そういった意味でイエスキリストを自ら拒んでいると言えるでしょう。
Such immature people were stuck on the basic truths of Christianity.
そのような信仰が未熟な人たちはキリスト教の初歩の教えにとどまってしまいます。進歩がないだけでもあまり良い状態とは言えませんが、そのような状態はもっと深刻な事態を呼び起こします。永遠に救われるというチャンスを失ってしまう危機にあるという事です。そうならないために著者はここでいわゆるショック療法的な意味合いで、「もしキリスト教についてある程度知り、経験したうえでそれでもイエスキリストをお拒むなら、そのような人に希望はない」とはっきり言うんですね。それは神様が「許さない」とその人を拒むのではなく、人間側は真に許す事のできる唯一のお方を拒むということです!
問題点 (5:10-14): 霊的に未熟者はメルキゼデクについてや、その祭司職とキリストの関係といったようなキリスト教の深い教えを理解することはできませんでした。そのような教えは霊的に成熟した人たちのもので、まだユダヤ教や旧約聖書の理解で止まっている人には届かないものだったのです。
解決策 (6:1-3): 筆者はそのような教え(ユダヤ教、旧約)にとどまるのではなく成熟に向かうよう促します。(1節)せっかくイエス様に出会ったのにユダヤ教の律法主義に戻ってはならないというわけです。古いものを捨て、新しいものを受けいれなさい、儀式を捨てイエスキリストを受けれなさい!と。
●Move on from the old rituals of works that lead
● Move on from the old ritual acts leading to
古いものから離れ、新しいもので満たされたイエスキリストを受け入れましょう。霊的未熟さはこのような初歩的な教えから離れず、イエスキリストにあっての真実を受け入れないことから来ます。そういった意味で成熟を目指さなければ信仰から離れていってしまう危険性があるのです。
警告(4-6節): これはイエスキリストに出会い、教会にもよく来ている、そして信仰を持つのも近いかなと思われる人(今日の教会でもそういう人はいますよね)に充てられたものです。「イエス様を受け入れなさい。もし離れていくなら、もう一度悔い改めに立ち返らせることはできない。そうなれば永遠に失われたままになってしまう。もう福音は聞いている通りで他に救いへの道はないのです。もうこんなに近くまで来ているのだからイエスキリストを受け入れて信じましょう!」 (4-5節) …
●You have been enlightened. You
イラストレーション (v.7-8): 同じ雨が降り注いだとしても土地によって有用な作物ができることもあれば、いばらやあざみを生えさせてしまう事があります。そのようにたとえ福音が語られても、それを受け取る人によって信じて救われる人もいれば、受け入れず拒んで裁きに向かっていく人もいます。このようにイエスキリストを拒む人はイエス様を十字架につけた人々と何ら変わりはありません。すべてを知ったうえでしっかりとした意志をもってイエスキリストを受け入れないという事はとても深刻なことなのです(ヘブル10:29).
●You have tasted the goodness of the word of God
The Example (v.9-12): Having described
倣うべき姿(v.9-12):この手紙の読者の一部がまだ救われていないという可能性を指摘した上で今度は信仰を持っている人たちに向けて「神様は確実にあなた方の中で働いておられる」と励まします。そのような人たちは、霊的ないばらやあざみを生えさせるのではなく、より良い人生へと導かれていきます。霊的に未熟な人たちにそのような成熟した人たちを見習うよう勧めます。成熟した人たちを見習う(12節)ことによって神を愛し互いを愛し合う人(10節)、確かな希望、信仰、愛を持っている人(11節)へと変えられていきます。クリスチャンの歩む人生は信仰、希望、愛という特色を持ちます。奉仕の基礎となるのはあふれるばかりのキリストへの愛でなければなりません。キリストを愛せば愛するほど、御心に従いたいと思うはずです。パウロが2コリント5:14で「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と言っているようにどれだけキリストを愛しているかという事がポイントになります。神様に対する最も価値のある贈り物とは互いに仕える合う事です
霊的に成熟している人に与えられている神の約束の励まし (ヘブル.6:13-20)
何に信頼を置くか? 聖書は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5-6)と説きます。アブラハムは状況的に不可能な時に神様を信頼した人の模範です。彼は常に神様がご自分の言葉に誠実であり、約束されたことに忠実であられることを知りました。神様がどのようなお方かという事を知ることによってその確信を得たアブラハムは神様を信頼し、多くの神の民の父となります。私たちの確信もまた神がどのようなお方であるのかという基盤に立っています。
Read Hebrews 6:13-20
AN ENCOURAGEMENT TO THE MATURE REGARDING THE CERTAINTY OF GOD’S PROMISE (HEB.6:13-20)
▶Our Security is based upon who he is (v.13-15):
魂のための錨(19-20節)
私たちの救いの確信は決して自分が持っている信仰の安定性から来るのではありません。信仰から離れていかないように導き、傷の無いものとして立たせてくださる神の言葉によって確信を得るのです。 (ユダ24-25)旧約聖書でイスラエル人が逃れの町を避けどころとしたように、私たちもこのキリストにある希望を避けどころとして求めているのです。(18節;民数記.35:9-15),主ご自身こそ私たちの砦、力なのです (詩篇46:1)。これぞ私たちの希望です。
AN ANCHOR FOR THE SOUL (V.19-20)
錨が船をしっかりとあるべき場所に留まらせてくれるように主にある希望が私たちの安全を保障してくれます。船にある錨は海底に降ろされますがキリストの錨は天まで上げられていって神様ご自身に私たちをつないでくださいます。この希望こそが私たちを守り、究極の聖所(幕の向こう)である天に導き、イエスキリストと直接繋げてくれます。
イエス様は聖所の中(幕の向こう)におられます。彼を通して主の臨在の中に入れられることが私たちの希望です。イエス様は永遠の祭司なので私たちの希望は終わることがないのです。イエス様は私たちの避けどころ、砦であり、私たちの錨です。私たちの前をいかれた偉大な祭司なのです。クリスチャンの希望とイエス様が偉大な大祭司であるという事の関係性はヘブル人への手紙のメインテーマの一つです。私たちの希望はこの大祭司であるイエス様の完了しているけれど、まだ途上の働きに基づいているものです。主が道を敷き、私たちがその道からそれないように導いてくださいます。
Like an anchor holding a ship safely in position
ですからイエス様を受け入れるか受け入れないかギリギリのところでいたずらに時を過ごし、うやむやにするのはやめましょう。そうしないと心が冷たくなり、次第に信仰から離れていってしまい永遠に失われることになります。イエス様にに自ら走り寄り、イエス様を自分の魂の錨としてしっかりと主につながれて、主の臨在を永遠に楽しもうではありませんか。
Jesus Christ
Anchor of our Soul
Don’t play on the edge of commitment