大分-1:久住周辺(71)
街道筋(三本松)
阿蔵野天満宮3
一里山4
(熊本から18里)
久住ポケットパーク歴史の道豊後(肥後)街道」12
久住手永跡2
境川眼鏡橋
肥後藩と岡藩の国境
高塚橋(木造)6
神馬の石橋8
(勝海舟が坂本竜馬と渡った橋)
米賀大師堂3
白丹入口2
久住入口
道標(小倉)入口
道標(小倉)出口
加良登2
道標(米賀)2
久住茶屋跡
(久住役場敷地内)
久住石橋跡
道標(三本松)2
足手荒神2
道標(境川)入出口3
街道筋(小倉)
納池公園加藤清正時代からの遊楽地
米賀橋3
By 薄毛の髭のっぽ 2024-11-06現在
肥後街道沿いのこの場所に一本の櫟の木があった
大分-2:神堤前後(28)
一本の櫟3
吉田松陰宿泊の地(小無田)因みに勝手に想定した民家
森本大八翁頌徳碑3
1895(明治28)年に新四国八十八ヶ所を開設
観光マップ(朝地町)
「里の駅やすらぎ」の駐車場
石清水(神堤)
天然湧水(神堤)
此往還鋪石之施主の石碑
1786(天明6)年建立。以前は石畳が敷かれていたが、昭和40年頃に舗装路となる
常證寺(神堤)2
禁教時代の1660(万治3)年から1682(天和2)年にかけて「豊後露顕」といわれるキリシタン狩りで500人が処刑された。
四ッ口稲荷神社2
追分~古屋敷の約3Kmは人家なく盗賊がでていたので、岡藩主中川久清が1650(慶安3)年に近くの村(栢木組と長野組)から農家(6軒)を移住させた
神堤維新の道案内板4
神堤は岡藩の休憩所として宿場町として栄えた。街道沿いに井戸があり、旅人の喉を潤したらしい。
神堤地蔵堂4
茶屋場跡
(案内板は無い
竹田往還
南新四国霊場
第五十一番札所
竹田追分
新屋敷から小高野にかけての石畳
山の中で、整備等まったくされておらず、人が通れる状況かもわかりません。(by竹田市教育委員会)
旅人が喉を潤した
大分-3:今市宿59
今市宿入口2
道標(今市宿出口)2
三渠碑4 1698年から「大龍井手」「鑰小野井手」「堤子井手」の3つの井路開削に携わった工藤三助の功績を讃える碑
丸山神社14 1616(元和2)年加藤清正が天満社を祀り、後に八幡社更に1869(明治2)年丸山神社とした。何故岡藩領地内に加藤清正が創建出来たのか?
今市宿石畳岡藩の宿場町として1594(文禄3)年に藩主中川氏が開設
南新四国霊場2第四十五番札所
南新四国霊場
第四十六番札所
茶屋跡(大分県教育委員会資料)
満生寺2
壁画(大名行列)
屋号24
道標(堪水5)
道標(堪水4)
道標(堪水3)
堪水の石畳 舗装の下は石畳が残っているらしい
道標(堪水2)
道標(堪水1)
大分-4:矢ノ原周辺18
矢貫の石橋平らな一枚岩
矢貫の石畳コンクリートの下
肥後街道筋(ハゼ山付近補足1)
坂口の石畳コンクリート舗装の下には石畳が残っている
ほれ地蔵(道祖神)石の粉を掛けると恋が成就する
肥後街道標識(矢貫2)
肥後街道標識(矢貫1)
肥後街道標識(坂口)
肥後街道標識(土取1)
肥後街道標識(土取2)
肥後街道標識(矢ノ原1)
肥後街道標識(矢ノ原2)
肥後街道標識(矢原3)
町上の石畳コンクリートの下
大分-5:野津原宿 38
道中安全塔(過原)参勤交代道路安全祈願碑1845(弘化2)年建立の石塔が二基
広瀬橋(三ノ瀬)3欄干に大名行列絵
往還田往還(街道)は、明治維新後払下げられて水田となった
宿出入口(鶴崎側)
野津原茶屋跡野津原小学校案内板
信玄曲り枡形と呼ばれているわざと曲げた道
法護寺3加藤清正ゆかりの寺で、境内の清正公殿に加藤清正公の霊が祀られている。
野津原神社5鳥居の扁額には「加藤神社」
歴史の道案内板3
高札場
福城寺3楼門の天井には、龍の絵
上簾戸(あげすど)宿場町の出入り口を仕切る木戸は、簾(すだれ)をはめ込んだ 簾戸(すど)だった
宿土橋丸太を並べた上に漆喰を乗せて造った橋らしい
肥後街道標識(野津原1)
一ノ瀬橋4
標識(竹ノ内)矢貫石橋・伊塚石畳・赤坂石畳からの出口
赤坂の石畳
南新四国霊場第三十四番札所4赤坂の石畳内*
大分-5(B):野津原
野津原小学校に建っている案内
大分-6:少林寺付近45
八幡社4源為朝が平安時代末期の仁平久寿年間(1151~1156年)、雄城台に築城するとともに八幡神(応神天皇)を奉斎、創祀
境界石2
従是西臼杵領の境界石1大分は江戸時代は小藩に分断され、府内藩の他に、肥後藩・岡藩・臼杵藩・島原藩などの飛地や天領が入り混じった複雑な土地だった
四面石仏肥後街道標識(稙田)旧臼杵領稙田(わさだ)村3
肥後街道標識
(田島補足)
古渠碑(田島) 1192(建久3)年)に引かれた古井路(渠)を明治25年に大修理
肥後街道標識(木ノ上峠)5旧地名:天領キノヱ(木ノ上)村
少林寺(木上)3鎌倉中期の文永年間(1264~1275年)、大友家臣 河村新五郎による創建。肥後藩主細川公は参勤交代の途上、必ずここに立ち寄ったそうだ。
大分市立歴史博物館14肥後街道に関連するものを探したが見つからず
肥後街道標識(少林寺)
ごまつる橋(六ノ瀬)4「七瀬川」の名前は道中川を7回渡ることからが由来らしいが、このあたりが「六の瀬」にあたる。
胡麻鶴橋(五ノ瀬)
田吹橋(四ノ瀬)4
南新四国霊場第十一番札所地名は廻栖野(めぐすの)
ひごどんみち大分川の土手を行く道
筵(えん)会所跡の標2柱財政難に苦しんでいた臼杵藩が農民に七島藺(しちとうい)を栽培させ、1807(文化4)年ここに七島藺の集荷所を設けた
大分-7:滝尾周辺(大分市)(33)
府内城豊後の国府が置かれ、鎌倉時代から大友氏が約400年にわたり支配した。大友宗麟はキリシタン大名で有名
牧御霊社3 1191(建久2)年創建で後白河法皇を祀る
府内領萩原村伊予街道と肥後街道の合流点
津守奈良時代の水上交通の拠点として津(みなと・船着場)が設けられ、津守(津の番人)が置かれた場所
工事で道が無くなっていた
富岡
おいのこ井戸2 昭和20年代までここを通る多くの人ののどを潤した清水
曲り
天領(光吉村)
従是西臼杵領の境界石3大分は江戸時代は小藩に分断され、府内藩の他に、肥後藩・岡藩・臼杵藩・島原藩などの飛地や天領が入り混じった複雑な土地だった
五柱社3境内に1799(寛政11)年の銘のある御神燈がある。
熊野神社6
徳川家康の孫松平忠直ゆかり神社
肥後殿橋随分狭い路地に、寂しくくたびれた橋
真田幸村の愛馬の墓4
大分-8:鶴崎(大分市)(50)
寺司地蔵尊(西鶴崎) 1587(天正15)年、豊後に侵入した島津軍に対し鶴崎城で篭城した吉岡妙林尼は、16回の攻撃に耐えた末に和睦、開城した3
乙津天満神宮1660(万治3)年創建。乙津という地名は「良き船着き場である」という意味。2
野坂神社岡藩の参勤湊の傍で、岡藩主第十代中川久貴が航海安全を祈願して1813(文化10)年に寄進した船団の図がある。7
法心寺1601(慶長6)年加藤清正公よる創建でのちに細川家の準菩提寺。大銀杏は、清正公が地面に突き刺した杖が大木となったと伝えられ「逆さいちょう」9
哲学の道成美館(熊本藩校)海舟の日記によれば1864(文久4)年の2月16日にここに宿泊したらしい。6
船着場跡かつてはこの辺りの掘川から参勤交代の船に乗り込んだ3
鶴崎御蔵跡年貢を納める大きな蔵が建っていた2
作事所跡(有終館跡)
「作事所」は造船所のこと5
鶴崎御茶屋跡120㍍四方の広さで、御殿と郡会所、郡代官詰所、茶屋番詰所、蔵、武器庫などの多くの役所があった5
剱八幡宮行方不明だった宇佐神宮の神剣がこの地で見つかったことに由来し、それを喜んだ熊本藩主・細川光尚が建立を命じた4
毛利空桑記念館1797(寛政9)年生まれの活躍した儒学者、教育家、尊皇論者。吉田松陰も意見を交わすため、この地に訪れている9
有終館とは1869(明治2)年に新設された洋式軍隊の制度を取り入れた兵学校
波奈丸(熊本博物館)
大分-8(B):鶴崎御茶屋絵図
大分-9:佐賀関(36)
徳応寺勝海舟と坂本龍馬が泊ったお寺3
早吸日女神社神武天皇が日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ東征する際に、大蛸が守護していた御神剣を、御神体として奉上し建国を請願したのが始まりとされる。1600(慶長5)年に佐賀関合戦の戦火で本殿などを焼失したが、1602(慶長7)年に肥後藩の所領となり、当時藩主であった加藤清正により再建され、以降は参勤交代の際などに訪れた歴代熊本藩主が保護した20
教尊寺1641(寛永18)年に肥後第2代藩主・細川光尚の協力によって開かれ、1791(寛政3)年に建立。歴代藩主が休憩の際に立ち寄り、休憩所として使われた書院などが今もそのまま残っている。5
虎御前峠佐賀関街道(関往還)1864(文久4)年2月勝海舟と坂本龍馬が通った道6
幕府の御触書が建った所