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御霊の実

ガラテヤ5:16-26

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私たちはしばしば、自分の人生に対する神の御心を知りたいと思います。ですからどんな仕事がいいのか、どこでどのように主に仕えることが御心なのかという質問をします。‌しかし私たちの人生に対する主の第一の御心は、私たちが聖なる者になることだということを忘れてはいけません。

 「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(1ペテロ1:16)

私たちはイエス様への信仰によって神の前で聖なるものとされました。‌しかし日々の生活の中で私たちは様々な面で失敗を犯します。実践的な義という意味で言えばそれはまだまだ現在進行形の話なのです。そしてキリストが誘惑を受けたように私たちも誘惑を受けます。 そうして主は私たちを試されます。ある意味で試練と言ってもいいでしょう。その試練は私たちの信仰を結果的に強くしてくれるのです。

We so often

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今日の箇所ガラテヤ5:16-26は私たちの罪深い性質に言及し、それに負けぬよう聖霊の力によって歩みなさいと、私たちに勧めています。私たちの心の中には戦いがあります。それはパウロが肉と呼ぶ罪深い性質と、キリストを信じることによって生まれ変わった私たちの新しい性質との間で日々起こってくる戦いです。そしてその戦いの中で、たびたび私たちは古い罪深い性質に大敗を帰しているように感じることでしょう。

Our passage today

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In one of my favourite Superman

私の好きなスーパーマンの映画にこのようなものがあります。話の中でスーパーマンは二人に分裂します、善のスーパーマンと悪のスーパーマンです。彼らの戦いはまあすさまじい。当たり前ですけれどもどちらとも同じくらいのスーパーパワーを持ち合わせています。最初は悪のスーパーマンのほうが優勢に見えます。悪のほうがより強いように見えるんですね。しかしながら最終的には善のスーパーマンが勝利を治めます。最後に正義が勝つっていうんですか、そういう映画が好きです。けれど現実は映画のようにはいきません。人間は弱い、私たちは弱い。私たちの中に本当の意味での「善」は存在しません。ですからキリストなしでは常に、私の中の悪が、罪が勝ってしまいます。

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So Lets read the first 3 verses of our text.

さて最初3節を読みましょう。

‌‌

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

ガラテヤ 5:16–18

3つの要点にまとめるとこのような感じでしょうか。

1. 御霊によって歩む

‌2. 私たちには善を行ないたいという欲求と、

  悪を行ないたいという相反する欲求がある。

‌3. 御霊によって導かれるとき私たちは律法の下にはいない

これらの要点を逆の順序で見ていきたいと思います。

ということでまず18節からですね。

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Pauls message to the Galatians

パウロのガラテヤの教会に対するメッセージは、私たちはモーセの律法の下にはいないということです。この律法には613もの戒めがあるわけですが、律法ではなく私たちはキリストの御霊の下にいるといいます。つまりゆるしと恵の下にあると言っています。律法は誰一人として義に導くことができませんでした。-そのことによってどれだけ私たちがイエス様を必要としているかが明らかになります。実際、律法は私たちに罪深さを自覚させます。「~をしてはいけない」という戒めを目にすれば、かえって私たちの罪深い性質はその何かをしたくなります。

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But we as believers are not

しかし私たちはイエス様に対する信仰によって律法の下におらず、よって裁きを免れることができます。イエス様は十字架上で新しい契約を結ばれました。イエス様を信じる信仰によって、私たちは救いという無償の贈り物を与えられ、赦され、罪からきよめられました。結果私たちはイエス様にあって新しく造られた者となるのです。 そして私たちの心には愛という新しい律法が記されています。 だから私たちは古い律法の下にいるのではなく、御霊に導かれて正しいことを行う必要があります。

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Verse 17 speaks of our daily battle

17節では私たちが日々抱える、善を行おうとする思いと悪を行おうとする欲望の内なる葛藤のことが書かれています。パウロはローマ人への手紙7:15で次のように書いています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」私たちはまさにこういう状態にあります。

さて16節に戻ってきまして “御霊によって歩みなさい。”というパウロの勧めを見たいと思います.聖書は人生をどのように生きるのかということについて「歩む」という表現を使っています。もちろん、パウロの時代には、移動する唯一の方法は歩くことでした。歩くことは人生だというわけですね。同時に創世記のことを思い起こします。アダムとエバは神様とエデンの園の中をともに歩いていました。けれど罪を犯した彼らはもはや神様と歩むことができず関係は壊されてしまいました。しかしながらキリストにある信仰によって私たちは再び主と歩むことができる。そのようにパウロは進めています。

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どのようにして御霊によって歩むのか?次のようなことが頭に思い浮かびます

‌1.日々聖書を読む

‌2. 祈る

‌3. 他のクリスチャンとの交わりを通して

もちろんこれらも大事なことです。しかしながらそれ以上の意味があるのではないでしょうか。御霊にあって歩むとは、私たちが聖霊に頼る、信頼するという心の姿勢のことを言います。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」

ミカ 6:8

So how do you walk in the Spirit?

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This is one of the most important

これは私が人生で学んだ最も重要な教訓のひとつです。謙虚に神とともに歩む、つまり主の力にのみ信頼して人生を歩むということ。それはクリスチャンにとって非常に重要なレッスンでありましょう。何年も前のことですが私は罪や誘惑に葛藤していました。もちろん今でもその葛藤覚えることはありますが、とくにその時期なんども同じ罪に対して神様に赦しを請うことに私は絶望を覚えていました。私はある日、主にこのように言いました。「主よ私にはできません、ギブアップです。もうあなたがこの問題を取り扱ってください。」その瞬間私の方にのしかかっていた大きな重荷が軽くなったように感じました。

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Over days, weeks and months,

それからの数日、数週間、数か月、いや何年も私はその誘惑に対して勝利を収めることができました。私はきっと自分の力に頼って神の前に正しい人生を送ろうとしていたのです。そんなことできるはずがありません。私は誘惑を受けたその時に主にそれを告白することを覚えました。自分の意志でその誘惑を抑え込むというより、主の、イエス様の十字架の御元に持っていくことにしたのです。そうして私は、謙虚に主の力に信頼するということを学びました。主の内在する御霊を通して、主が私に力を与えてくださるのです。これこそが日々己の十字架を背負い、イエス様に従っていくということではないでしょうか。(マタイ16:24)私たちは古い自分を十字架のもとにもっていき、主の力を通して新しい自分に変えられていくのです。

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It does not mean I live a perfect life

もちろんだからと言って、そうすれば完全にパーフェクトな人生を歩めるということではないでしょう。罪も犯します。しかしながら救い主である主が私たちに解決を与えてくださいます。

 

“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”

1ヨハネ 1:9

さてそれでは次のセクションに入っていきたいと思いますが。ここでパウロは私たちの古い罪深い性質を肉と呼んでいます。

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肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。‌

ガラテヤ5:19-21�‌

クリスチャンも時に上記のようなことをしてしまいます。しかしながらこの世との大きな違いは、上記のような罪を犯した場合、深い罪悪感を感じ主に赦しを請います。なぜなら心の奥底では正しいことをしたいという気持ちがあるからです。

一方でこの世は、上記のような罪を愛し、やりたくてやっているという感じでしょうか。心に大きな違いがあります。

Galatians 5:19–21

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Let’s review some of these.

具体的に挙げられた罪を見ていきましょう

不品行(性的な罪)はおそらく多くの人にとって大きな誘惑となりえるのではないでしょうか。この世はメディアをはじめ、性的な誘惑にあふれています。その誘惑は心の中での葛藤から始まります。皆さんご存知のようにイエス様は、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とおっしゃいました。

多くの場合それはポルノとの戦いという形であらわれ、今の時代メディアやインターネットを通じてそれは幼い頃から接する危険のあるものになってしまっています。快楽に対する飢え渇き。はじめは喜びを得られるでしょう、しかしながらその過程で自制は失われ、結果として多くの人の人生を狂わせます。最終的には自身の評判や親密な関係を壊してしまうのです。サタンは私たちの弱さを知っています。そして多くの尊敬されているリーダーたちがその罠にはまり、スキャンダルを目にすることはとても悲しいことです。自分を律する力が必要です。

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Idolatry sounds like an old-fashioned

次に偶像礼拝ですが、言葉の響きとして非常に古いものという印象を受けるかもしれません。しかしながら、富や成功は現代の偶像と言えるのではないでしょうか。特に人の成功や、仕事での出世、また気づき上げた富を見るときにそれをうらやましく思い、欲しいがってしまうことあるのではないでしょうか。

偶像と妬みは非常に近しい関係にあります。私たちは他の人の能力、身に着けている服、存在感自体をうらやましいと思います。なぜか周りの人のほうが自分より、運がよく、頭がよく、より魅力的に見えてきます。そうして自分が小さく、価値のない存在下のように思え、喜びを失っていってしまいます。精神的に落ち込み、満ち足りることがなく、自分を常に疑うという状態に陥ってしまうかもしれません。常に自分をネガティブな目線で見て、自分には価値がないのだという嘘を信じこんでしまいます。

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Then there is sorcery which relates

そして、呪術やタロットカード、占いなどの魔術があります。世界はますますこうしたものに傾倒していっているのではないでしょうか。しかしながらそれは神への信仰や希望とはまったく相容れない。サタンの入り口でしかないのです。

敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派。これらはこの世にあふれていてどこにでも見られるものです。そこに愛と平和はありません。そしてそれは個人や家族間の問題だけでなく国同士の戦争へとつながっています。そしてこれらが教会や家族に与えるダメージは破壊的です。教会では分裂がおこり去っていく人がいます。離婚によって家族はこわれ、子供たちがその犠牲になっています。‌

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酩酊、遊興。お酒に酔うことやドラッグによって人々は現実から逃避しようとします。そして中毒になり、自制を失っていきます。結果病かかり、死に至るということまであるのです。この世は言います、感情に身を任せるようにと。

最も基本的なレベルで私たちの人生に対する主の御心は非常にシンプルです。それは私たちが主のようになること、つまり聖なる生き方を求めるようにということです。(1ぺテロ1:15).主は私たちを上記のような罪から悔い改めるようにと招いておられます。

Then there is drunkenness and

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We are then empowered to be holy

私たちは、御霊のうちに歩むことによってのみ、聖なる者となる力を与えられます。日々の祈り、聖書読むこと、そして日々主の力に頼って歩んでいくことで養われていきます。同時に私たちは、周りの人が必要です。私たちの人生の中で罪は闇の中でひそかに息をひそめる傾向があります。だからこそ私たちはしばしば互いに罪を告白し、支えあい、祈りあうということが必要になってきます。主は一人で戦う戦士であれとはおっしゃっていません。

‌聖霊様は私たちが誘惑や罪に打ち勝つことができるように力を与えてくださるだけでなく、キリストのようになるために力を下さいます。

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Galatians 5:22–23

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

ガラテヤ5:22-23�   ‌

世の中には、平和的、親切、誠実などと形容される人はたくさんいます。しかしクリスチャンはここで挙げられている9つの領域すべてにおいて成長していなければなりません。そしてそれらは自分のうちから生まれるものではなく、主の性質と主の御霊から来るものであることを忘れてはなりません。これはどのようにしてこれらの資質を得られるかという方法ではなく、あくまでも聖霊の実である(つまり結果である)ということです。そして9つ別々の実と言うよりは、オレンジのように一つの実の中に9つの房があるといった感じでしょうか。

  

愛が最初の実であり、ほかの実は愛から生まれます。なぜなら「神は愛である」からです。イエス様はおっしゃいました。旧約聖書の律法はこの二つの戒めまとめられると。主を愛し、隣人を愛すること。

 

まず2番目の実である喜びを見たいと思います。そして一通りすべての実を見てから、また愛に戻ってきたいと思います。

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喜び

‌個人的に、「喜び」は最も苦戦している分野です。私はすぐ人生で起きていることに葛藤し、幸せを感じない時は喜びについて混乱してしまいます。幸せというのは周りで何が起きているかによって決まるものだと理解しています。時に泣き、時に笑うそれが人生でしょう。しかしながら喜びというのはもっと深い主の約束に基づいているものです。それは主が持っておられる人生の計画が最善であることを信じ、満ち足りることにあります。また喜びとは、私たちが直面する試練は私たちをキリストに似た者へと変えてくれること、そして永遠を主と過ごすことができるということ知っているがゆえに得られるものです。

Personally, Joy is the fruit

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Search the scriptures to be

聖書の中に見つけられる、永遠の希望に目を留めましょう。ヨハネはこう書いています。「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」 (1 ヨハネ1:4) また ヤコブ 1:2–4 では試練を喜びとするようにと勧められています。それによって忍耐が生じ成長につながるからです。キリストのようにされるということに私たちは価値を見出しているでしょうか。 もちろん、悲しむときがあり、涙を流すときも人生にはあります。しかしながらそれは私たちがキリストにあって持っている永遠の希望に比べれば一時のことであるということを覚える必要があります。

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Jody Erickson Tada, a quadriplegic

50年以上も四肢麻痺を患っているJody Erickson Tadaさんは、苦しみの中でも喜びを知っている人の素晴らしい例といえるでしょう。彼女は車いすに乗りながら笑顔で他の人に仕えます。 なんと素晴らしい模範でしょうか。

 

喜びは、人生の悲しい出来事、良くないと思えることを、主の品性を養う機会ととらえることができたときに生まれるものなのではないでしょうか。喜びは、神の御言葉にある神への希望から生まれるのです。‌

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There are two kinds

平安(平和)

‌平安には2種類あります。恐れや心配がない状態という平安もありますし、人々や国々の間で調和がとれている状態の平安(平和)もあるでしょう。‌創世記に出てくるエデンの園ではアダムとエバが神様と良い関係を持ち、そして互いの(人間同士の)関係にもハーモニーがあり、恐れのない状態でした。しかしながら罪がその平安を壊してしまいました。‌かつて良い関係があった場所に、罪と敵意という隔ての壁ができてしまったのです。‌罪は(神との、人間同士の)関係にあった平安(平和)を壊し、恐れ、怒り、戦争をもたらしました。しかしながらイエス様は私たちと神様との間にあった壊れてしまった関係を修復し平安をもたらす為に来られました。そして再びイエス様が来られるときには世界中にこの平安(平和)を与えられます。

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Jesus the Prince of peace

平和の君と呼ばれるイエス様は「わたしは、あなたがたに平安を残します。」とおっしゃいました。エペソ 2:14には「キリストこそ私たちの平和である」と書いています。どのような試練に会うとしても、永遠的視点からすれば一時のことであるということを再び覚えたいと思います。常に平安を感じているときばかりではないでしょう。しかしながらキリストにあっての平安を忘れてはなりません。ピリピ 4:6-7には次のようにあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

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忍耐日本語では寛容と訳されているが原語的には忍耐)

‌忍耐は他の実を成長させるうえでのカギとなります。もしあなたに忍耐がなく、せっかちなら喜びと平安を欠くことになるでしょう。神への忍耐とは、祈りの答えを待つことを学び、神のタイミングと支配に身を委ねることです。また忍耐とは、自分の失敗や他人の失敗を忍耐強く受け入れることでもあります。私たちはみな罪を犯すのです。 「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(詩編130:5)待つために私たちには、御言葉にある希望が必要です。主はいつも御言葉に忠実であるということを知っているからです。忍耐とは、主が私たちに用意されているものには待つ価値があると信じることです。たとえその待つ期間が人生すべてであったとしてもです。この世の快楽、喜びははかないものです。 御霊は私たちに、激しく揺れる人生に振り落とされないようにと言います。喜びは必ずやってくる、だから忍耐強くあれと。

Patience is clearly a key

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If we think of someone who

親切

‌‌‌‌親切な人と言うと、感じのいい人で、面白い人、冗談を笑ってくれる人を思い浮かべるかもしれません。 聖書で言う「親切な人」とはどのような人でしょうか。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ 4:32)私たちを赦してくださったキリストの愛をモデルとする親切。怒りや相手を赦さない心は親切とは真逆の方向を向いています。そうではなくしてイエス様は敵を愛するようにとおっしゃいました。(マタイ5:44)‌‌  私たちは主の親切を模範とするように召されているのです。そして親切にあるということは、ただただ良い言葉を並べるだけでなく相手の最善を思って真実を相手に伝えるということも意味します。「神の慈愛(親切)があなたを悔い改めに導く」 ( ローマ2:4) ‌私たちは親切(慈愛)をもって人々を信仰へと導きます。親切であることは苦労することもあります。神レベルで親切になるには、神レベルの忍耐が必要であり、私たちは聖霊にそのような親切心を持つための力を求める必要があります。‌

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善意

‌‌良い(善い)という言葉は普段よく使う言葉ですね。良い仕事、良い食べ物、良い人等々。けれどイエス様は本当の意味で「良い」お方は神おひとりだとおっしゃいました(マルコ10:18) 聖書的に言う「善 」とは良い行いのことではなく、個人の人格や誠実さのことです。そしてもし私たちの持っている「善」と神様の「善」を比べようものなら、それはもう比較にならないくらいの差があります。しかしながら、同時に神様は創世記でアダムとエバをおつくりになった時に「それは非常に良かった」とおっしゃいました。 (創世記 1:31)私たちは、弱く罪深いものでありながらも、キリストを信じるなら神様は私たちがもともともっていた「善」を修復してくださったのです。

This word is used a lot

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Maybe you feel anything but

もしかしたら自分が良いものであると言われても、違和感しかないかもしれません。それが自分の罪の故自分の価値がわからなくなっているのか。あるいはこの世からお前は価値がないものだというメッセージを受け取ってしまっているからなのかわかりません。私たちは自分の中にあるネガティブなメッセージを十字架にもっていく必要があります。 ‌あなたが犯した罪、失敗に関わらず。キリストはあなたを良いものにしてくださいました。そして御霊はあなたを善意に歩むように助けてくださいます。 私たちはキリストにあって新しく作られ、良いものとされたのです。

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Again, only God is truly faithful

誠実

‌神様は誠実なお方です。それは私たちの誠実さとは比べ物にはなりません。‌私たちは、神の命令に従って歩むこと、神の召しに忠実であること、そしてそれを長く続けることを誠実と呼びます。‌へブル11章では誠実に歩んだ人たちのリストが出てきます。ノアは70-80年かけて箱舟を建造しました。モーセはイスラエルを40年導いた。彼らは誠実に歩みました。誠実とは、御言葉に誠実であるということも意味するでしょう。クリスチャンでも御言葉に誠実にあるよりは、この世にあって多少の妥協をするということが大いにあります。誠実に歩むとは、ただ神様がおっしゃるのだから仕方なく従うということではなくして、主の御心が最善だと信じて歩むことです。心から出ていない誠実や従順では意味がないのです。それら人間的な努力は古い自分がから来ています。しかし愛から来る従順は、御霊からの力を受けて長く持続します。

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Gentleness is not weakness

柔和

‌‌柔和であるということは弱さではありません。それこそイエス様は柔和なお方でした。しかしながら同時に商売の道具にされている、神殿をひっくり返し、悔い改めを呼びかけるようなお方でもありました。柔和であり、けれど弱いお方ではなかった。逆に言えばもしあなたが弱ければ、柔和であろうという努力は必要ないでしょう。柔和とは、力がありながらそれを思いやりをもって正しく用いることができることをさします。ヨハネ8章に出てくる姦淫の場で捕らえられた女性のことを思い出します。イエス様だけが彼女に石を投げる権利がありました。しかしながらそうはせず彼女を責める者たちを制し、優しく「行きなさい、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。‌柔和とは神の恵みを体現することです。

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自制

‌私たちは皆自制に関して苦しみます。例えば食べ物に対して自分を律するのは難しいなあと感じます。自制というぐらいですから、自分の力で制するということなのではないかと思うかもしれません。しかしながら霊的なレベルで言えば、自制は自分からは出てきません。あるいみ自己(エゴ)と言うのは自制の敵ともいえるでしょう。‌イエス様は己を捨て、日々己の十字架を負い、イエス様についてくるようにとおっしゃいました。(‌ルカ9:23)もちろんあるエリアにおいて素晴らしい自制をお持ちの方はいらっしゃいます。けれどほかのエリアではやはり弱さが出ます。人間はこの肉と言う罪の性質に抗って自分の力で立ち続けるということはできないのです。

We all struggle with self-control

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自分に頼って自分に栄光記するか、神様に頼って神様に栄光を帰するかです。‌‌誘惑は、罪深い行為をすれば気分がよくなるとか、すべてが楽になるとかいう約束とともにやってきます。‌あれさえ、これさえ手に入れば自分は満たされる。そのような誘惑の約束を信じてしまう時私たちは自制において戦いに負けてしまいます。そうではなくして私たちは、神の約束を信じるべきです。そうして初めて御霊により、私たちの中に自制が生まれるのです。自制はとても重要です。だからリストの最後にあるのかもしれませんね。自制を養うことによって他の実も成長することができるのではないでしょうか。‌罪と誘惑を自制する力は、キリストの御霊が私たちの心に働くことによってもたらされます。さてそれでは一番初めの実、愛に戻りましょう。

And who gets the glory? – y

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‌ここで言う愛は、この世が定義づける愛ではなく、神の無条件の愛です。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。‌

1コリント13:4-7

 

‌私たちは神を愛するがゆえに自然と神に従いたいと思います。‌愛こそがほかの御霊の実の基盤となります。神は愛だからです。‌また1コリント13章では愛がなければ何の意味もないと言われています。最も大事な戒めは神を愛し、互いに愛し合うことだからです。愛するには御霊の力が必要です。

Love here is not love as the world believes.

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So this is the fruit of the spirit.

さて御霊の実を見てきました。御霊の実はあくまで実であって、命令ではありません。私たちは御霊にあって謙虚に歩み主に信頼していく時にこれらの実が実るのです。

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

(ミカ6:8)

‌‌イエス様はおっしゃいました。‌「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

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He also talks about God being the

またイエス様はここで神様はブドウの枝に対して刈込をなさると言っています。実を結ぶためには刈込が必要なのです。そして私たちの人生においてこの刈込は痛みを伴うかもしれません、けれどヤコブが言っているようにそのような試練を喜びとしようではありませんか。主は私たちが豊かに実ることを期待しておられます。私たちは枝で、ブドウの木であるイエス様にとどまりましょう。謙虚に、祈りと、御言葉を日々読むことによって歩んでいきましょう。‌

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最後24-26を読んでしまいたいと思います

‌‌

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

ガラテヤ5:24–26

Let us finish the passage

まとめ

‌私たちは霊的な戦いの中にあります。御霊にあって謙虚に歩み続けましょう。 聖霊様は私たちに正しいことをする力と思いを下さいます。罪と誘惑に打ち勝つ力を御霊に求めましょう。そうして御霊に助けられながら多くの御霊の実を結んでいきましょう。

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So you can pray something like this

このように祈ってもいいかもしれません。

___

‌‌主よ、日々様々な誘惑があります。それらを今あなたの十字架の前にもっていきます。私には打ち勝つ力はありません。どうぞ私を強め愛と自制を身につけさせてください。

‌___

そしてもし罪を犯すことがあっても、すべてを神に打ち明ければよいのです。‌

 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

‌1 ヨハネ 1:9

今日も御霊の力で歩んでいきましょう。