イエス様の誘惑
ルカ4:1-13
Introduction
本日の聖書箇所はルカの福音書4章1~13節、イエスの誘惑の場面です。
今日みていくところはイエス様と悪魔だけが登場しますが、この出来事はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記録されています。ということはイエス様はご自身の経験を弟子たちに伝え、誘惑に打ち勝つ方法を教えたに違いありません。ですから、私たちもこの箇所から多くを学ぶことができるでしょう。
Introduction
Jesus Baptism and Genealogy
イエス様の洗礼と系図
聖書は文脈の中で考えることがとても有益です。そこで、ルカの福音書3章に戻り、イエス様の洗礼について見てみましょう。
“... 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。”(ルカ 3:22 )
ルカ3章をさらに読み進めると、系図の最後、すなわち誘惑の物語の直前で、イエス様が神の子であるだけでなく、アダムの子孫であることが強調されていることに気づきます。これは、エデンの園でのアダムの誘惑を思い起こさせます。 “ …セツの子、アダムの子、神の子。”(ルカ3:38) アダムのことを思い出すとき、同時にアダムの罪についても思い起こさせられます。
The temptation of Adam and Eve
アダムとエバの誘惑
創世記3章に記録されているアダムとエバの誘惑の場面では、彼らは豊かな園に住み、すべての必要が満たされていました。飢えもなく、互いに罪のない関係を持ち、神との交わりもありました。まさに素晴らしい人生でした。そこでサタンは蛇の姿をとり、彼らを誘惑し問いかけます。
創世記3:1 “.....「『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」”とサタンは神の言葉をねじ曲げています。サタンは、神の言葉に疑いを抱かせようと「神は本当にそう言われたのか?」と問いかけることで、人間の心に不信を生じさせたのです。さらにサタンは、アダムとエバに「善悪を知る者となり、神のようになれる」と約束しました。それは、彼らが神に似た存在になれるという誘惑でした。サタンは、「神のようになりたい」「「神から独立したい」という欲望を人間に植え付けたのです。結果彼らは禁じられた実を食べ、人類は罪と死に落ちていったのです。 問題は、「あなたは神の言葉を信頼し、従うのか?」ということなのです。
イエス様の誘惑
さて、ルカ4章に記されているイエス様の誘惑の場面に移りましょう。イエス様は聖霊に満たされ、霊によって荒野へ導かれました。そこで断食と祈りをし、まさに神の完全な御心の中におられましたしかしイエス様は荒涼とした荒野、孤独、弱さを経験している状況にありました。40日間も断食して衰弱したイエス様の周りを野生の動物が取り囲んでいました。イエス様が極度の空腹に苦しんでいるとき、サタンは現れ誘惑を仕掛けます。あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。”(ルカ4:3) 極度の空腹状態で、この誘惑はどれほど強かったことでしょうか。
この誘惑は、
(1)イエス様のアイデンティティに関する問いかけ、
(2)神とその御心への信頼をやめるように仕向ける挑戦、
だったのです。
The Temptation of Jesus
First - A question about Jesus identity
最初の誘惑 - イエス様のアイデンティティに関する問いかけ
サタンは単にイエス様に「この石をパンに変えなさい」と誘惑するだけではなく、イエス様のアイデンティティそのものに挑戦しました。サタンはイエス様にこう言うのです。「もし本当に神の子なら、なぜこのような飢え、孤独、絶望、屈辱の中で生きているのか? お前の居場所は宮殿ではないのか?」「もしあなたが神の子なら、それを証明してみせなさい。」
しかし、イエス様が洗礼を受けたとき、神様が語られた言葉を思い出してください。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」サタンの誘惑は、この神様の言葉を疑わせるものでした。
And doesn’t Satan love to get you questioning
サタンは、あなたにも同じように疑問を投げかけます。「あなたは本当に救われているのか?」「本物のクリスチャンなら、もっと祝福され、もっと罪を犯さず、もっと実を結ぶはずではないのか?」 しかし、神の御言葉を思い出してください。キリストを信じることによって、あなたは神の子とされたのです。何が起ころうとも、決して忘れないでください。イエス様を信じる者は、すべての罪が赦され、永遠の救いを受けています。たとえ人生がどれほど厳しくても、あなたは神の子なのです。
“ 私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。.” (1ヨハネ3:1)
Second - A challenge to stop trusting in God’s will.
第二の誘惑 - 神の御心に疑いを持たせる挑戦
サタンは、イエス様に神の御心の外に踏み出させようとしました。つまり、イエス様が人間としての欲望に従うよう仕向けたのです。私たちに対しても、同じように問いかけてきます。「なぜ神を信頼するのか? 自分の力で問題を解決できるのではないか?」これは、アダムとエバが受けた誘惑と同じです。“あなたは神のようになれる”(創世記3:5)
さらに、サタン自身の堕落の物語を記録しているイザヤ書にも注目しましょう。そこでは、サタンの心の中にあった思いが描かれています。 “(私は)密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう”(イザヤ 14:14) サタンは神のようになろうと望んだのです。それこそが、サタンの本質であり、人間にも仕掛けてくる最大の誘惑なのです。
Jesus gives priority to God’s word.
イエス様は神の御言葉を最優先された.
福音書を読むと、イエス様は決してご自身の力を自分の個人的な必要のためには使わなかったということに気づきます。イエス様は本当に 「仕える者」 として来られたのです。
“あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず” (ピリピ2:5-6 )
もしイエス様が神としての力を用いて 「石をパンに変える」 ことを選ばれていたなら、イエスは人間であることを放棄したことになりますし、神の御心の外に踏み出しことにもなるでしょう。天の父が必要を満たしてくださることを信頼しきれなかったということになってしまいます。さらに、もしイエス様がこの誘惑に負けていたなら、私たちが救われる道もなくなっていたかもしれません。それは人類の存在自体が無意味になっていた可能性すらあるのです。しかし、イエスは誘惑に打ち勝たれました。その勝利の方法は 「神の御言葉」 でした。
Luke 4:4 “And Jesus answere
“イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」”(ルカ4:4)人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によるもしアダムとエバが 「神はこの木の実を食べてはいけないと仰せられた」 と言えていればどうなっていたでしょうか?
これは、私たち全員が学ぶべき大切な教訓です。イエスはマタイ6章の主の祈りの中で、弟子たちに**「日ごとの糧」を求めるように教えられました。これは、私たちの肉体的な糧(食物)**だけでなく、**霊的な糧(神の御言葉)**への必要性を示しています。
Psalm 119:11 “
「私はあなたの言葉を心に蓄えました。あなたに対して罪を犯さないためです。」(詩篇 119:11)
もし神の言葉を心に蓄えず、日々その中に生きず、自分の人格に影響を与えないなら、誘惑に対してはるかに無防備になってしまいます。私たちは、神の御言葉に簡単にアクセスできる環境にあります。それにもかかわらず、毎日御言葉の中にとどまらないのなら、それは言い訳の余地のないことです。それでは2番目の誘惑を見ていきましょう。
2番目の誘惑
また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」(ルカ4:5-8)
2nd Temptation
2nd Temptation – The desire to be
2番目の誘惑 – 崇拝されたいという欲望
悪魔は言います。「アダムの罪以来、私はすべての力を持っている。そして、もし私を拝むなら、この力をお前に与えよう。」サタンの最大の願いは、「神のようになり、崇拝されること」 でした。 堕落した権力者は、人々の崇拝を求めます。自己肯定感を高めること自体は悪いことではありませんが、それが行き過ぎると「自分こそが最も大切な存在」という偶像崇拝に変わってしまいます。特に、今日の社会では**「私の感情を優先し、それを他者に認めさせること」** が重要視されています。
これにより、例えば「私の代名詞(プロナウン)を自分が選んだもので呼んでほしい」といった主張が生まれました。興味深いことに、一部の代名詞は「He/SheではなくThey / Them」のように複数形です。しかし、聖書では「複数の存在を持つ唯一の方」は神だけです。これは、ある意味で人間が神になろうとする試みにも見えます。私たちは、そのような考えには陥らないかもしれません。しかし、私たちもまた、「自分の気持ちを神の御言葉より優先する誘惑」 に簡単に陥ってしまいます。
We may seek worship
サタンは崇拝を求め、私たちもまた崇拝を求めることがあります。ここでサタンは、イエス様に「簡単な」道を提示します。イエスよ、ここでほんの少し私に頭を下げるだけでいい。誰も見ていない。この荒野で、ほんの一瞬、私に敬意を示せば、それで十分だ。さあ、手を組もう。苦しみのない道を選ぼう。十字架なしで、栄光を手に入れよう。」と。
誰もが苦しみを避けたいと思うものです。しかしながらそれはサタンの嘘でした。 サタンは、自分が持っていない力を持っているかのように振る舞いました。神様は今も、人類の運命を支配しておられる のです。ヨブ記 を読めば分かりますが、サタンは**「神が許可したことだけ」**しかできません。サタンがイエス様に与えようとした「権威」は、実は彼が持っているものではなかったのです。
We can all be tempted
私たちも、神以外のものを崇拝する誘惑に駆られることがあります。神の御心の外で、何かを得ようとする誘惑です。そして、その誘惑は多くの場合、「誰も見ていないとき」にやってきます。それは、一人でいるとき、隠れた場所で、誰も見ていない時にやってくるのです。サタンは囁きます。「これさえ手に入れば、お前は満たされる、もう孤独ではない、もう空腹ではない、もう惨めではない」
しかし、イエス様はこう答えました。“『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。”(ルカ4:8) これは十戒の第一戒でした。イエス様は、御言葉をもって誘惑を退け私たちに手本を示してくださったのです。
3rd Temptation
3番目の誘惑
また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」(ルカ4:9-12)
そこでサタンは考えました。「わかった、でもな私も聖書を知っているんだ。」そして、サタンは詩篇91篇を引用し、イエス様にこう挑戦します。 “まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。”とい書いてあるとサタンはイエス様に、目を見張るような力の誇示をもって、自分が何者であるかを世に証明するよう誘惑しました。
もしイエス様がこの誘惑に落ちれば、人々はイエスが神だと信じざるを得なくなったことでしょう。それは、まるでクラーク・ケントが全世界に向かってスーパーマンであることを明かすようなものでした。しかし、ここで大きな問題があります。もしイエス様が奇跡によって自分を証明していたら、人々は信仰ではなく、単なる目に見える証拠によって信じるしかなくなります。そうなれば、人々がイエス様を十字架にかけることもなかったでしょう。そうなれば、私たちは救われることができたでしょうか?
If Jesus had done this,
文脈を無視して聖書を読むことの危険性
「聖書の言葉だから正しい」と思い込んでしまうことは危険です。文脈を無視して引用された御言葉が、本来の意味とは異なるものになってしまうことは珍しくありません。例えば、こんな誤った教えを聞いたことはありませんか?「この聖句を信じて宣言すれば、神は必ずあなたを祝福する!」「10%献金すれば、神があなたを経済的に豊かにする!」等この世の成功や富をあなたに約束します。けれどそれらは全て嘘にほかなりません。信仰を持っていてもこの嘘を信じてしまうことが有ります。
サタンは嘘の父であり、この世はサタンの道に従っていることを忘れてはいけません。サタンは聖書を知っていて、それを引用したり、ねじ曲げたりすることができます。教会の説教壇で毎日、聖書をねじ曲げたり、間違って引用させたりするよう働いている可能性もあります。
The danger of Scripture out of context
In contrast, Jesus is t
それとは対照的に、イエス様は真理であり、私たちは聖書の中にイエスの真理を見出すことができます。私たちも騙されないよう自分で聖書を知り、御言葉を学ばねばなりません。イエス様がサタンの嘘に対して御言葉でこたえたように、私たちも御言葉をもって対抗するのです。
“するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」”ルカ4:12
出エジプト記からの教訓
イスラエルの民は劇的な奇跡を通してエジプトから救い出されましたが、神の供給をすぐに疑い始めました。彼らはつぶやき、神様を試したのです。そこで、神様は40年間、毎日天からマナを与え、彼らの食糧の必要を満たしました。マナはイエス様を象徴し、また神の言葉の型でもありました。
神様は、彼らに日々神に頼ること、また、肉体的にも霊的にも神に依存して生きることを学ばせようとされました。「私たちは食べるものによって形作られる」という言葉があるように、霊的にも、何を信じて受け入れるかによって私たちは変わります。あなたは神様の言葉に信頼を寄せているでしょうか。
The lessons from Exodus
マナの後、彼らは水がないことに対しても不満を述べました。彼らは神様を拒み、エジプトへ戻りたいとさえ言い出しました。記憶が歪められ、奴隷だった頃のほうが良かったと思い込んでいたのです。
これは、人生の孤独や飢え、荒れ果てた状況の中でも、恐れることなく神を信頼できるかどうかという問題です。イスラエルの民が何度も試練に直面したように、私たちも試されることがあるかもしれません。しかし、そのたびに学び、信仰を成長させ、強くなっていきましょう。
After the manna, they then
Temptation will always come
誘惑は常にやってくる
“悪魔はあらゆる誘惑を終えた後、時が来るまでイエスから離れた。”(ルカ4:13)
イエス様は何度も繰り返し誘惑を受けたに違いありません。十字架を前にしたとき、「こんなのやってられない、やめよう」と思う誘惑もあったかもしれません。しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。あなたと私への愛が、イエス様をその道にとどまらせ、十字架にとどまらせたのです。
誘惑は私たちにとっての試練です 。
“私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。” ( ヤコブの手紙 1:2–4)
神様は、私たちが強く成長するために誘惑に会うことをお許しになられます。それは一生続く成長のプロセスかもしれませんが、私たちはお互いを励まし合いながら、この人生の旅を歩んでいくのです。 神様は、それを通してこの世での一時的な快適さや楽しみよりも、遥かに価値のある永遠のものを私たちの内に築こうとしておられるのです。
ローマ時代、キリストを信じた者たちは、獅子や野獣が待ち受ける闘技場へと送られました。もしかしたら彼らはそこで、イエス様が荒野で獣に囲まれながらも誘惑に打ち勝ったことを思い出したのかもしれません。そして彼らもまた信仰を否定することなく、神様の永遠の約束を信じ信仰に立ったのです。
あなたは、人生の困難に直面したとき、どのように対処しますか?あなたの強さ、希望、導きを、神の言葉と御霊の内に見いだしているでしょうか?
God allows temptations so t
Paul wrote the following to
パウロはコリントの教会に次のようにも書いています。
“あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。“(1コリント10:13)
そしてたとえ私たちが失敗しても、そこには十字架による許しと救いがあります。
“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”(1ヨハネ1:9)
The armour of God
神の武具
私は毎日罪と戦っています。そして、成長し、勝利する唯一の方法は、試され、それを乗り越えることだと信じています。失敗したときは、立ち上がり、赦しを求め、前に進み続ける必要があります。
しかし、それは簡単なことではありません。私たちの罪の性質は、私たちの歩みを混乱させます。だからこそ、パウロがエペソ6:10-18で語ったように、神の武具 を身に着ける必要があります。特に、今日のメッセージで取り上げたように 「御霊の剣」、すなわち神の言葉は重要です。神の武具の中で唯一的に反撃することができるのが御霊の剣なのです。イエス様は 神の言葉を知っていただけでなく、御霊に満たされていました。
今日の箇所からの教訓
神の完全な御心の中にあっても、人生は困難に満ち、試練や誘惑にあうことはある。これらの試練は、私たちの信仰を強めるために与えられるものです。 疑いの思いが生じるとき、私たちの古い性質が弱さを引き起こします。
キリストを信じる者として、「もっと幸せであるべきでは?」「もっと祝福されるべきでは?」と感じることがあるかもしれません。例えば、「一生懸命働いたのに、なぜ昇進できなかったのか?」と思うとき、近道や自己流の解決策を探したくなることがあるかもしれません。しかし、そのような疑問や不安は、神に委ね、御言葉に立ち返る べきです。
Some reminders from our passage.
イエス様が御霊に満たされていたように、私たちも御霊によって歩む必要があります。
“私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。”(ガラテヤ 5:16)
イエス様が御言葉を心に持っていたように、私たちも御言葉を知り、信じ、実践し、日々の生活の中で御言葉に生きるなら、私たちは強められていきます 。イエス様の信仰が試されたように私たちの信仰も試されます。問題は「あなたは神様の御言葉を信頼し従うか?」ということです。
Just as Jesus was full
“そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。”(1ペテロ1:6-7)
1 Peter 1:6–7