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ニューヨークで日本ディスってた人が、他の都市に移ってニューヨークをディスってるのを見かけた。安住とは何か考えさせられる。帰属する共同体をまずは愛してみることであり、いまいる友人をまずは肯定することだ。この「まずは」という態度が重要。

なにか楽しい思い出があったとして、そう思ってるのは自分だけで実態はそうでもなかった、ということを認めるのは人間にとってなかなか難しいと思う。たとえば私は会社役員時代、日々の楽しかった思い出みたいなものはたくさんあるのだけれど、会社から離れて6年以上経ったいま、あれ楽しかったのは自分だけだったんじゃないだろうか、周囲はよほどうんざりしてたんだろうな、という気持ちに包まれている。

ある時点まで、自分ではそこそこいい調子で働いていたつもりだったけど、実際のところは日常的に職位の傾斜を用いて、ないし自分の暴力性を小出しにして、マイクロなパワハラを繰り返し行っていたように思う。たとえば私は原稿に赤を入れている最中や赤を戻すとき、原稿の出来が望んだようでないと不機嫌さを隠すことなく振り撒いていたし、それについて疑いを感じたこともなかった。そのくらいの態度でいることが真面目さの表出であるとすら思っていた。

会社で声を荒げたことはほぼないけれど(一度だけ取締役と怒鳴り合ったことがある)、ただ妻に言われるのだが、私は声を荒げずとも通常時の声色、しゃべり方ですでに相当程度の威圧感があるようで、特に相手が女性であれば発声だけで脅えを生じさせていてもおかしくない。実際のところ当時の編集部員からも、またかつて一緒に暮らしていた女性からも同様のことを言われたことがあったのだが、しかしそのときはどうしてもそれを認めることができなかった。

なぜ認めることができなかったのかといえば、ひとつには自分が社会ないし男性社会において劣後な存在であるという自意識が強く存在するからで、これは運動が苦手でチビで病弱で非力な人生を生きてきたため、自分が強者として、脅威を与えるサイドの人間として位置付けられる可能性を想定したり受け入れたりすることが困難だったし、それが精神構造に染みついてしまっているので、いまでもどうしても苦手である。

しかし仮に社会ないし男性社会において弱者サイドであるからといって一対一の関係において常に弱者ポジションにあるかといえばそれは明白にノーであり、こと性差や職位階級の勾配でゲタを履かされるケースにおいては、私のような短躯、私のような非力な人間から発せられる言葉や態度であろうとも、それが威圧的ないし暴力的に響くことというのは往々にしてあることだろうと今では思う。

フランクさと粗暴さを取り違えるといった誤解もあった。対外的には発しないが、部署内においては「おいこれどうなってんだ」「わかってんのかよ」みたいな一定程度粗野な言葉を用いることは日常的にあって、そして私のなかにそれが親密さの表現であるという勘違いすらあったように思う。たしかに近しくない人間に対して粗野な言葉づかいは用いないが、だからといってその逆を行えば近しい関係であるという思考は論理的に破綻している。

また私用としか言いようのない雑用を依頼することもあったし、皆が守っているルールを自分だけが破り続けることもあった(具体的には出勤時間)。そういった公私混同や特権性みたいな性質は私が過去に接してきた上司の特徴でもあって、私はしばしば、自分が受けたシゴキを後輩に対し反復する部活動の愚かさみたいなことを語りがちだけれど、つまりメディア企業というのはそういうものだしそれは許容されるのだという観念が自分の中に根を張ってしまっていて、それを反復していたのだと思う。その愚かさは述べるまでもない。

先に「ある時点まで」と述べたが、明確なターニングポイントというのがあって、それは私が退職を決意する最大のきっかけでもあったのだが、全社員アンケートであった。当時私の在職していた会社はそれまでと異なるフェイズの成長期にあって、そしてありがちなことだがガバメントやマネジメントは立ち上げ当初のガバガバのままで来てしまっており、社内制度の急速な整備が求められていた。それで私は成長期のベンチャーでの総務経験がある人をリクルートして、労務環境の早急な構築をお願いしたのだった。

来てもらってまず、この会社の現状とボトルネックを把握したいということで全社員にヒアリングをやってもらった。その回答をまとめた白書みたいなリポートが経営陣に上がってきて、そこで社内最大のボトルネック、まあ言い換えれば会社のガンとして指摘されていたのは他ならぬ私であり、私の属人的な問題であった。

あらゆる部署からのクレームが並んでいた。唐木さんが経費精算を出してくれない、なぜ唐木さんだけ出勤が遅いんですか、いったん決定した企画を唐木さんがひっくり返した、いったん通った原稿にあとから唐木さんの赤が入った、繰り返しデザイン変更を要求された、などなど…。

読んで、読んでるときは相応に衝撃を受けたのだが、すぐに思ったのは、当然だな、ということだった。なによりすべて事実であった。そして自分が甘えていたりむりやりに正当化していた部分であった。つまり経費精算をぶっちぎっても自分だけ正午に出勤しても許容されると勘違いしていたし、承認プロセスを反故にしてもクオリティを向上させるのは当然の責務だと思っていた。言葉にするとすごいな。ありがちなクソ上司であった。

それで、読み終わって、もうここにはいない方がいいな、と思って退社の意志を固めた。もちろんこれだけが退職の理由ではなくて、退職時おおやけに書いたように自分自身のリトライみたいな気持ちも嘘ではなくあって、あと別のできごとの影響もあって、つまり複合的であることは事実なんだけど、とはいえいちばん大きな理由はその白書であり、また自分が社内のガンならガンを除去することがいちばんの社内改善だと考えたことだった。

もちろん私自身を改善することができればよかったのかもしれないけれど、当時の私にはそれは到底無理なことであるように思われたし、拗ねていたし、いじけてもいた。客観的にいえば自分の短所には甘いままでいたかったし、過去の業界慣習を内面化させてもいた。そしてなにより、会社が部室みたいだった時代のムードにしがみついていたかったのだと思う。

当時、代表が「ゲンだけが太郎ハウスの頃のままなんだよね」と私に苦言を呈したことがあって、太郎ハウスというのは創業時の社屋であった一軒家のことなのだが、私は自らガバナンスやマネジメントの現代化、公正化を推進しながら、もう片手で自分だけは立ち上げ直後のわいわい感、ぐだぐだな状態に耽溺していたいというアンビバレントな欲求に駆られていて、そしてそんな都合のよい幼児的な欲求が叶えられるはずもないのだった。

そもそも草創期の部室ムード自体、私より上には社長しかいないという地位から眺めた景色であって、当時の社員やバイトの人たちからすれば、ろくでもないな、たまったもんじゃないなと思われていたのだろうとも思う。だから依拠する思い出自体が勘違いなのだった。もちろん楽しい時間だってほんとにあったと思うし、私に有害な部分以外の長所のひとつくらいはあったのかもしれないが、さりとて歪んだ認知に基づくノスタルジーほどあてにならないものはない。

働いていた頃、私は部下を部下と呼ぶのが嫌で、対外的に言及する必要があるときはいつも同僚と呼んでいた。上下関係を意識させる言葉を用いるのはなにか権威的で偉ぶっているように思えたし、なにより実際に机を並べる同僚だと思っていたので、そうしていた。そのため社員から敬語を使われるのを好まなかったし、なるべくタメ口で接してもらえるように仕向けていた。たとえばバイトの人から呼び捨てにされたりゴミカス呼ばわりされるのを喜んでいたように思う。

ただこうして振り返ってみると、そういった見かけ上のフラットな立ち位置、フランクな態度というのは、私自身が上長としての自覚や責任から逃げるためのツールであったり、甘えを温存させるための方便として利用してきたのではないだろうか、という疑いが浮上する。私のチームは社内ではまとまりがありムードが良いとされていて、なぜなら上長がクソだから部下が一致団結してしっかりしているのだ、ともされていて、その評判に私は気を良くしたりしていた。

実際のところは上司と部下、雇用者と被雇用者という厳然たる権力勾配があって、それによって部下は私と接したり私の言うことをがまんして聞き入れてくれていたにすぎず、そのことを都合よく見なかったことにして、同僚なんだと勘違いしたりして、なんだかフレンドリーなムードを醸し出そうと仕向けていたのは、まあ一種の卑怯であると言ってよかろう。

当時の自分に必要だったのは、そのように姑息な方法で自分のわがままや甘えを温存させることではなく、上司は上司、部下は部下という現実を踏まえて、その権力勾配を隠蔽したりしないで向き合いながら良好なマネジメントを行使することであった。しかしそのためには私はまず上長として規範的でなければならない。その困難に立ち向かう気概は、自分のなかにはなかった。だらだらヘラヘラとうまいことやっていたかった。

辞めていった人たちも含めて、在職当時の私が迷惑をかけた人たちには巨大な感謝と、そして申し訳なさしかない。横暴で、無能で、しかもそれと向き合うことから逃げ続けたクソ上司であった。最初に6年以上経って、と書いたけれど、よくよく思い出してみれば会社を離れてもう7年近い。残念なことだけれど、まともに振り返られるようになるまで、それほどの時間を要してしまったということだ。しかも振り返りはじめただけで私自身が何か変わったわけでもない。そのことがまた、無能だな、と思う。この話オチないです。(06/29/2022)

ありがちな話ではあるがバイク(オートバイのほう)にふたたび乗りたい欲が高まりを迎えつつあって、かつてバイクに乗っていた頃とは異なりいまはyoutubeがあるのでまったく違ったメディア体験が得られておもしろいのだけれど、そうして関連動画を繰っているとアメリカンミーティング、みたいな名前の集会の動画が出てきて、再生していると、なんともいえない妙な気持ちになってきた。なんというか、なんなんだろう、これは。

もしあなたがクルマやバイクに関心がある人で、アメリカに旅行したとする。たぶん心の中を吹き抜けるのは失望なのではないかと思う。これは100%保証してもいいけど、アメ車も、アメリカンバイクも、日本のほうが多く走っている。旧車のカテゴリについて述べるなら、さらに日本のほうが多く走っている。そりゃエンジェルズミーティングとかに出くわしたならハーレーまみれのアメリカを体験できるかもしれないけど、それは例外中の例外。

でいっぽうの日本のハーレーミーティングを眺めていると、ああこれはアイビールックの変奏曲なのだなあと気がつくわけだけれど、もうアメリカには存在しないほど美しい車体がアメリカではありえないほど念入りに手入れされ、アメリカのどこでも手に入らないレアな美しいライダースジャケットとジーンズを着用した日本人がまたがっていて、ポストコロニアリスムとかオリエンタリズムとかって用語では語り尽くせないような奇妙な感動を催してくる。

これがまごうことなき敗戦国の70年後の姿なのだけれど、われわれは何に憧れ何になろうとしてきたのか、何重にも倒錯が重ねられてしまっていて、もはやよくわからない。アメリカにわれわれの知っているアメリカはもうないし、たとえばジャズなんか日本における狂言ほどのプロップスしかないし、アメリカ文化に感化された日本人は天竺をめざして周縁をぐるぐる回っていつまでも辿り着けない仏僧のような迷い道に入ってしまっている。進駐軍と米軍基地がもたらした空想のアメリカ合衆国だけが、極東の島国の大気のなかにいまでも蜃気楼のように漂っている。なんだか南米のマジックレアリスム小説みたいな話だな。(06/27/2022)

たとえばマンハッタンで大統領選の結果を振り返ってみると、バイデン87%、トランプ12%という圧倒的な、なんなら不健全といえるほどの大差がついてしまっているのでちょっと事情が異なるのだけれど、リンゴ狩りかなんかに向かおうとジャージーの田舎道をドライブしていると、ロードサイドの一軒家の郵便受けのところに、バイデン、トランプ、トランプ、バイデン、トランプ、バイデン、と互い違いにプラカードが掲げられた光景に出くわす。出くわすというかそれがえんえんと続く。

日本でも一軒家の壁に支持政党のポスターかなんかが貼られていることも珍しくないのかもしれないけれど、家々が軒並み支持候補者を表明していて、両陣営の割合がそれなりに拮抗しているという風景はやはりだいぶ違った雰囲気があって、まず異邦人である私からしてみると、この人たちは隣人のプラカードをどういう気持ちで眺めているのだろうか、そしてご近所づきあいとか町内会みたいなのはちゃんと機能しているのであろうか、みたいな心配が浮上してくる。

ジャージー郊外に一軒家を買った人に聞いてみれば、これが普通に機能しているのだという。もちろんうちは民主党支持でお隣はトランプ支持、そのお隣はバイデンで、と意見が割れていることはわかっていて、しかしコミュニティの運営というのは誰かれなく行われていて、たとえば学校の近くの横断歩道に旗持ったおばさんを立たせるとか、側溝の清掃だとか、もしくはファーマーズマーケットみたいな行事の開催とかというのは、支持政党や大統領選のゆくえより優先される生活上の喫緊の課題なので、それはそれとしてやらなきゃならないのでやってる、ということらしい。

この「それはそれとして」という精神性みたいなものを私は近年すごく重要視していて、大げさに言えば私がアメリカに来てからもっとも変化したところなのかもしれない。それは妥協とか不潔とかって誹りを受けるかもしれないけれど、ただ海外での暮らしというのはやはり母国でのそれに較べると圧倒的に困難や面倒が多くて、そうすると正直支持政党がどっちだろうが陰謀論に乗っ取られていようがいまいが構っていられない、頼れるものは頼ってサバイブしていかねば、ということになっていく。

具体的な話になってしまうけれど、われわれがいま住んでいるマンションの同じ棟にはアメリカ人男性と日本人女性の夫婦がいて、息子がうちの子と同学年なのがきっかけで仲良くなったのだが、仲良くなってわかったのは彼らが夫婦揃ってのトランプ支持者で、かつディープステイトみたいな陰謀論の影響下にあるということだった。そしてもうひとつ、とてもいい人なのだ。人柄がよい。

日本にいた頃の私ならば答えは簡単で、波風立たないようお付き合いを絶って、それでおしまい、ということになるし、それで何も困らなかった。しかし夫婦間会議の結論として、われわれはそのご家族と付き合っていくことに決めた。「それはそれとして」付き合っていくことにしたのだ。プラグマティックな理由としては同じマンションの行事やルールについて教えてくれる先住者だということもあるし、同い年の息子同士が遊ばないほうが不自然だということもある。

ただそれ以上に私としては、大きく異なる政治信条の人とも付き合っていこうというトライをしてみたいと考えたというか、関係を断つ以外のありかたというのを模索していかないと、対立陣営を、もしくは陰謀論者を悪魔化してしまうだけだな、という危機意識みたいなものがあって、そういうトライアルとして捉えているところも大きい。

その決断を下したときに自分のなかで想起していたのは、家々が支持する候補者を掲げているニュージャージーの郊外の風景で、あの意見相違が成立する世界線と、分断としかいいようのない世界線と、その両方がアメリカのなかにあって、どこでどっちに転ぶかの理由を見てみたいという興味もある。いつまで良好な関係を築けていけるのかはわからないし、先方が私も妻もどサヨクである我が家に辟易してあちらから関係を断たれてしまう可能性もあるけれど、いましばらくは、もしくはずっと、お付き合いしていけたらいいなと思っている。(6/26/2022)

やっぱり考えをまとめてから書き始めるのではなくて、どこに向かうのかも決めずにとりあえず家を出てしまう、みたいなやり方のほうが、こうしてまとまらなかったとしても自分のなかにあるまだ気づいていない考えとかに気づいたり迷いの輪郭に意識的になれたりするので、こういう仕事でもないしまとめるつもりもない問わず語りにおいては、健全でよろしい。

渡米してカルチャーショックみたいなことがあったかといえば、あったとも言えるしなかったとも言えるのだろうけれど(皇室トーク。まだ学生だったころ、浩宮が毎年やってる年頭のインタビューかなんかで記者から質問されたとき「そうだと言えるかもしれないし、そうではないと言えるのかもしれません」と答えているのを見て、そんな答え方あるんかいとショックを受けた)、あったと仮定して答えるなら、その多くはヒスパニックにまつわることがらということになろう。

アメリカ白人のカルチャー、アメリカ黒人のカルチャーというのは、日本で暮らしていても接触機会がそこそこ多いし、我が国が戦後支配下に置かれていたアメリカにまつわる精神的風土というのもやはり白人のカルチャーと黒人のカルチャーを土台にしたものがほとんどで、なので馴染みがある。ところがいざ北米東海岸の都市に来てみると、ここにヒスパニックのカルチャーというのが相当程度、ざっくり白人黒人とほぼ同等なレベルでの影響力を持っていることがわかる。

まず何より、人数が圧倒的に多い。国全体のヒスパニック比率は19%にとどまるものの、その85%は大都市とその周辺に住んでいて、ということは都市圏におけるヒスパニック比率というのは飛躍的に大きくなる。具体的にニューヨークだと白人32%に対してヒスパニックは29%、黒人は25%、アジア人が15%。重複もある統計だからそのままの数字とはいかないんだけど、およそ街歩いてる人の1/3がヒスパニックという体感で大きく間違ってはいないと思う。

そしてもうひとつ、ヒスパニックはスペイン語を母語する人とその子孫のことを指す用語なので、いかにもメキシコから来ました〜ソンブレロかぶってますみたいなルックスの人ばかりではない、ということにも気付かされる。黒人でも第一言語がスペイン語の人は少なくなくてそれはヒスパニックになるし、白人方面にもだいぶレンジが広くて、要はルックスではとうてい定義でないほど広汎な人種概念だということになる。

ただやはりそこでヒスパニックという概念の外殻を形作っている要素というのは確実に存在して、ひとつには定義どおりのスペイン語話者であること、第二にはカトリック信仰がベースにあるということだ。ほぼ言語と宗教によって、彼らに対するイメージや民族性、ないし偏見と見做されるような要素が特徴づけられている。

思い起こすと最初にボストンの大学に入ったときから最近に至るまで、私が抱えたことのあるトラブルのほとんどがヒスパニックの誰かとの間に起きたできごとであった。そういう意味では明確に自分のなかで鬼門というか、差別意識に伸展しそうな先入観というのが形成されてしまっている。なんかほんとに致命的にコミュニケーションのプロトコルが、言い換えればノリが違うのである。馴染みのないノリ、乗れないノリがある。

そのノリをぱっきり明確に形容できるほどにはまだちょっと練れてないんだけど、距離の詰める速度の早さと人懐っこさ、同時に生み出される厚かましさと暑苦しさ、みたいなムードだろうか。たとえば知らない誰かを呼ぶときにメ〜ンと呼んだり、まあthereでもboddyでもfolksでもguysでもなんでもいいんだけど、ヒスパニックの人に多いのはマイフレンドである。これはスペイン語のアミーゴが背景にあることは容易に理解できるのだけれど、とにかくいますれ違ってもマイフレンドである。これに馴染めなさがある。私はあなたの友達ではない…のだが…というカタブツみたいな感情がザラっと残る。

そして、これが私の苦手な部分なのだが、そういうことを思うということは、これは私の心が狭隘でフレンドリーさに欠けた偏屈人間である、という現実を突きつけられるようで、つまりそのフレンドリーさに触れるごとに私はなぜか落ち込むという連動が機能してしまっている。こんなことあいさつなんだから気にしなくても「そういうもんだから、そういうもんだ」と受け入れればいいのだけれど、なんか、なんかなのだ。

うーんこの話まとまらないのでまたちょっと寝かせます。とにかく渡米前の自分はヒスパニックカルチャーについて知らなすぎたし、あと白人や黒人のそれよりカルチャーのムードに距離を感じたし、そしてその馴染みのなさというのはひょっとして単純に日本からの距離の遠さみたいなことに端を発してるのではないだろうか、みたいなことを言いたいのだけれど、まだやっぱうまく言えない。ただ南米文学に特有な何かみたいなものとも結びつけて語れるかもしれないとは思っている。(6/25/2022)

ピクミン、まだだらだらやってるんだけど、スマホゲーの免疫がないまま始めたので、ゲームのやめ方がわからない。知り合いに「まだやってるんですか、長いですね」と言われて、あ、ゲームってどこかでやめるもんなんだ、みんなどっかでやめてるんだって気が付いた。

若い頃は「ゲームをほとんどやらない」という欠落を割ともの珍しく扱ってもらえて、それに乗っかってわたしも自分のキャラ付けみたいなことをしていた節もあるのだけれど、この歳になるとたんにスマホに乗り遅れたままのおじさん、という以上でも以下でもない情けない感じになるんだな。ということを学びつつある。

アロマアセクみたいなことを学んでいると、真逆の立ち位置である、つまりロマンティックでセクシュアルである自分の、そのロマンティックやセクシュアルの部分に揺さぶりをかけられてきて、それがよい。

私はロマンティックということになるのだけれどほんとうに恋愛を知っているのか、恋愛をやってきたのか、かなり疑わしいし、セクシュアルということになるのだけれどほんとうに性愛を知っているのか、性愛をやってきたのか、だいぶ疑わしいという気持ちになってくる。あれはただ他人を利用しただけだったたり、他人の身体を用いて欲求を満たしたりしてきただけだったのではないだろうか。そういう勘違いをずっと続けてきただけなのではないだろうか、というアイデアが鎌首をもたげてきて、そしてそれを簡単に否定することなど到底できようもない。

たとえばひとつの前科として、私は長年対話だと思っていた行為について、ひとから「それは対話ではなくただの説得である」という指摘を受けたことがあって、言われてみればそのとおりだったので、なるほど往々にしてこういう勘違いというのはガチで起こりうるのだな、という確かな感触がある。

たぶんあらゆることに関して私は勘違いだらけの、そしてそれを是正するすべも知らないままの人間で、たいへんに出来の悪いポンコツ人形であるな、と思いながら暮らしているのだが、唯一死だけが勘違いを許さない厳密さに溢れていて、だから棺桶に入ったとき、私はようやく間違いのないたしかな手応えを感じて安心するのかもしれない。もしくは勘違いをしたままプツリとこときれて何もわからないままの勘違い男ここに眠ると墓標を立てられるのかもしれない。もう死んでるので、どうでもいいという気持ちになってそれを恥ずかしく眺めるのだろう。(6/23/2022)

ノーザンパイクという肉食の淡水魚がいて、日本ではロンドンのキャナルで釣れることで有名なのだが、ニュージャージーの釣魚表を眺めていたらパセイック川というニューヨークから30kmくらいのエリアにも生息しているという。アメリカの水辺というのはとにかく私有地が多くてすぐ通報されたり発泡されたりするので、まずは水辺に出れそうな場所をgoogleマップでリサーチしまくってピンをドロップしたのち、今朝がたクルマを走らせてきた。

ほんとはニュージャージートランジットという長距離電車とチャリを乗り継いで行くつもりだったのだけれど、日本に発つまでの間に釣りに出られそうな日がきょう日曜しかなくて、休日の列車ダイヤはもう壊滅的に本数がなかったので、やむをえずシェアライドに手を出したのだった。

それで目星をつけていたうちいちばん上流のスポットにたどり着くと渇水で悲しいほど水量が乏しく、これはまずいぞ、と思ってリサーチした最下流の堰下まで一気に回り込んでみた。親水公園みたいになっているそこには古めかしいレンガ造りの浄水場が水辺に張り出していて、その排水口のあたりに樹木の陰ができていて、いかにも雰囲気があるな、と思いながら竿を組み立てていたら、ボコっと音がして、捕食するパイクの姿が水面に踊った。

正直、こんなにうまくいっていいのだろうか、という気持ちに脳内が支配されたのだけれど、とにかく魚体は見てしまったのであとは釣るしかない。まずは様子伺い的に巨大なジョイントベイトを投げてみるけど、飛距離が足りなくてシェードまでは届かない。届きそうなルアーを探していると、ふたたび、今度は立て続けに2匹、水面を割って何かを捕食していた。楽勝モードの予感。

ところが、である。何を投げてもうんともすんとも反応がない。有名ポイントのようで釣り人の数も増えてきて、これがみんなしてボンボコ投げ込むものだから、警戒されてしまっていることは明白だった。隣の釣り人と話したけど、彼は2年間通っていて、スモールマウスバスはいくつも釣ってるけど、あの目の前を泳いでいるパイクは一度も釣れたことがないのだという。自分は今日ぽこっと来ただけだけれど、ローカルの人が朝夕入れ替わり立ち替わり叩いているのだろうことは間違いなくて、ここのサカナは完全にルアーと人間と危険性について学習してしまっている。

そうこうしている間にときおり水面にのぞいていた魚体もすっかり見えなくなり、日は高くなってきてノーヒットのまま納竿となった。よそのピンしたスポットも見ておこうかと思っていくつか回ってみたものの、イエローパーチというきれいなブルーギルみたいなのが数匹釣れただけで、けっきょくパイクを手に取ることは叶わなかった。

わたしが普段釣りをしているソルトウォーターでは釣ったサカナを食べる人も多くて、そうすると釣られた体験というのは蓄積しないし、リリースされたとしても海は言うまでもなく広いので、一度釣られたサカナはどこかへ移動していってしまうことが多く、本能としてそれなりの警戒心は備えているとはいえ、基本サカナの性格はのびのびしている(そのかわり広い海のどこでサカナに出会えるかという別の難易度がある)。

なのできょう味わった、限定された水域で暮らすサカナが、釣られてリリースされてまた釣られそうになって積み重ねを生き抜いていくうちに身につけた一種の知性、みなもを悠々と泳いでいて、ちゃんと捕食もしていて、しかし投げたルアーはガン無視の全無視、というすれっ枯らしっぷりはなかなかに印象深かったし、なにか釣りというレジャーの原罪みたいなものを思い起こさせてくれるものがあった。秋になったらまたトライしたい。それまでに戦略練るぞ。(6/23/2022)

ツイッターを再開したらここに書き込む量が減ってしまったうえにツイッターにもたいして書き込んでいないので、総じてもぎゅっとした感じになってしまった。私にはこれが向いていたのかもしれない、と思い始めている。長文だけはこちらに、という運用が一種の気負いをもたらしていたのかもしれないな、とも思う。

阪神大震災からまだ1ヶ月しか経っていない95年2月、私は初の海外旅行となる中国へと旅立った。最初の10日間は大学で所属するゼミの視察旅行として上海で費やし、帰国する同級生を見送ったのち知人が留学していた蘭州に移動して1週間滞在。かんたんな北京語を習ったりして過ごし、トルファンから新疆ウイグル自治区に入った。

先に全旅程を話してしまうと、トルファンから汽車でウルムチ、飛行機でチャルクリク、あとはバスでチャルチャン、ニヤ、ホータン、ヤルカンド、カシュガル、タシュクルガンからクンジュラーブ峠に抜けようとしたが雪で閉鎖されていたためカシュガルに戻り、アクス、クチャ、コルラ、とタクラマカン砂漠を時計回りで周遊して2度目のウルムチ、あとは汽車でふたたび蘭州、上海アウトという、ぴったり60日の旅であった。

今日したい話はウイグルで最初に逗留したトルファンという町での話なのだが、その駅前で早くも私は客引きに捕まっていた。ホテル決まってるのか、ツアーあるよ、火焔山ツアーあるよ。オフシーズンで観光客がとても少なかったことも関係していると思う。それまで漢民族の客引きをいなしていたのがウイグル人に変わって、うざいながらも異国情緒が一段と強まったことをひそかに喜ばしく感じていた。

私はその日、宿を探す前に観光名所の高昌故城でも見ておこうかと考えていたので、ガイドツアーのどれかに付いていくつもりでいた。多くの客引きがウイグル語まじりの北京語で話すなか、英語で話しかけてくる者が少々いて、さてその中のどいつにしようかと考えてる最中、だいぶ流暢な日本語で話しかけられたのだった。それがMだった。

旅先での親切な日本語話者にはワーニング、というのが日本人旅行者のとるべき基本スタンスであることは間違いないのだが、Mはどこかシャイというか物静かさを湛えているようにも見えて、割と素直に値段交渉に入っていったのを覚えている。交渉している最中にOという別のガイドが割り込んできて、MとOが険悪になった。どうやらトゥルファン駅前の野良ガイドで日本語が得意なのはMとOのふたりらしく、競合関係にあるのだと説明してくれた。

ふたりでディスカウント合戦をしてもらってもいいかな、とタチの悪いことを考えていると実際Oが私ならMより10元安くするよ、と言い出したところで、Mが「もし私のツアーに決めてくれるなら、ただでオプションを付ける。いろんなところ連れていってあげる」と危険なんだか魅力的なんだか判然としないことを言ってきた。21歳の私が軽率にもそれに乗ったのは言うまでもない。

Mのバンに乗り込むと火焔山を眺めながら高昌故城へと向かい、ロバ車に乗り換えて遺跡内を回った。そのあたりのことはそこらへんの旅ブログにいくらでも書かれているので、もちろん観光としてよかったけどことさら特筆しようとは思わない。さてあっさり故城を回り終えると、Mは「このあと知り合いの結婚式がある。見たくないか?」と聞いてくる。さっき約束したから案内にお金は要らない、と言うので、この申し出にもホイホイ乗ることにした。

どうせ観光客向けのセレモニーみたいなもんなんじゃないかな、と訝しがりながら会場となる村に向かうと、結婚式はローカルのガチなもので、これはいまだにまじでいいものを見せてもらったと感謝しているのだが、トラックでのパレード、プリセットがアラビックビートオンリーのヤマハポータトーンを使ったディスコタイム、新郎新婦の前に山ほど積まれるチャパティみたいなパン。気づけばもうすっかり暗くなっていて、さて宿の心配をしなければ、という時間になっていた。

「今日の宿は決まってるの? もし決まってないなら、うちにひと部屋あるから泊まったらいい。お金はいいから」。大学生の貧乏旅行である。どうしてもタダには弱い。それに半日付き合ってMの人となりも悪くなさそうに思えていたし、私はみたびノコノコ付いていくことにしたのだった。Mの家は結婚式を見たのとは別のトゥルファン郊外の町にあって、奥さんと娘さんが出てきたのでどうやらこれは大丈夫そうだなと胸を撫で下ろした。

夕食を家族とご一緒させてもらい、裏庭で甘い紅茶をごちそうになったのち、じゃあもう寝よっかという時間になった。案内された部屋で私はジャージに着替えて、ベッドに南京虫みたいのがいないか布団をめくって確認していると、戸口にMが現れて、肩をもたれかけながら言った。「ゲン、ちょっと話があるんだけど、いいか」。あー、あとだしで追加料金を求められるのかな。

「ゲンは日本の大学生だって言ってたね」。うん。「あなたはこれから偉くなりますね」。それはわからない笑。「だからあなたに頼みがあります。私は、ガイドの仕事をしていますけれど、目的があります」。目的。「私と友達は、東トルキスタン共和国を作ろうとしています」。なんか思ってるのと違うのが来たぞ(彼は私に東トルクメン共和国と言ったと記憶しているのだけど、一般的に使われているのは東トルキスタン共和国という名称なのでここではそう書きます)。

「きょうトルファンの町を走っていて、見ましたか。道が広くてきれいなのは、漢民族の土地だけ。ウイグル人の土地になったとたん土の道です。漢民族がたくさんやってきて、ここがウイグルだってことをわからなくしようとしています。モスクを減らそうとしています。むりやり漢民族の男と結婚させられたウイグル人もいます」。う、うん。「私と友達は、ウイグルは中国から独立したほうがいいと思っています」。

「私と友達はいま、東トルキスタン共和国独立のための準備をしています。あなたには日本でそれに協力してほしい。日本のブランチ、支部になってほしいのです」。協力っていうのは何をするの? 「わからない。連絡をしたり、手紙を受け取ったり、お金を受け取るのか。でも私たちは世界じゅうに仲間がほしい。あなたは将来えらくなりますから、かならず強い仲間になってくれます」。まいったな…。というのがまず浮かんだ感情だった。

天安門事件からまだ6年しか経っておらず、中国がいまだ反体制勢力をあっさり撃ち殺す国であることは国際的に知れ渡っていた。Mが真剣に、それどころか命を懸けて話してくれていることはじゅうぶんに伝わってきていたが、それでも無知で小心な私にとっては、まっさきに保身が先立ってしまい、どうやって辞退を伝えたら穏便に済ませられるだろうか、というようなことばかり考えていた。それでこう言った。

ごめんM、その話には乗れないと思う。正直、僕には荷が重すぎるし、その東トルクメンって話も、漢民族がウイグルを消そうとしてる話も、まだちょっとよくわからない。それに僕はただの大学生で、頭も悪いし、力もない。Mには今日すごく感謝しているけど、Mの役には立てないと思う。ごめん。── いま思い返せばなかなかの卑しく怯えた小市民っぷりだけれど、偽らざるところでもあった。そう言うと、Mは「そうか、そうですね」と言って、少し残念そうな表情を浮かべたけど、それ以上この話を続けてくる様子はなかった。ところで友達って誰? と聞くと「いっぱいいる。たとえば、Oとか」と昼間私を奪い合っていたガイドの名前を挙げたので、マジかあいつも仲間なんかよ、と笑ってしまった。

翌朝、目が覚めるとMはバンで駅の近くの繁華街まで送ってくれて、私はあと数日トルファンに滞在していると思う、と言うと「わかりました。困ったことがあったら、なんでも、私に言って」と言ってくれて、ありがとう(ラハメット)と握手をして、別れた。私がウイグルのことを学んだりデモに行ったりし始めたのは帰国してしばらく経ってからのことで、それはひとえにMのこと、Mへの申し訳なさと人間としての不甲斐なさみたいな感情がずっとこびりついていたからに他ならない。

翌年からウイグルはいよいよ隠しようもなく血生臭くなってきて、各地で暴動が相次ぎ、同時に政治犯としてウイグル人が大量に拘束・投獄されていっていることもだんだん明らかになってきた。97年にはウルムチで爆発事件があって、そして私が社会に出てじたばたしているうち2008年の北京オリンピックが決まって、それにともなってウイグル独立をめぐるテロと弾圧はそれまでとは比較にならない水準で苛烈さを極めていった。正直、MもOももう生きてはいないのではないかと思う。ただのうのうと生きている自分の醜悪さみたいななものだけがずっと消えない。(6/17/2022)

アメリカのなかでは格段に大都会なのだが、それでも東京から較べたらだいぶのんびりした田舎町に感じられてしまうボストンを引き払い、よっしゃ世界有数の大都市いったるかと引っ越してきたニューヨークで、まず驚かされたのは深夜に営業している業態の少なさだった。ボストンと変わらんやんけ。東京はもちろん、福岡にも確実に負けている。

私の記憶のなかの東京はいまだコロナ前かつ働き方改革前のままなのでそこは加味して聞いてもらいたいのだが、極度の宵っ張りである私が東京でなんとか暮らせていたのには遅くまで開けてくれている業態に助けられていたところが大きくて、バルト9もデニーズもキンコーズも山下書店もドンキも24だし、ド深夜に定食にありつけるチェーン店じゃない料理屋がいくつも選べた。自分が都会に住む理由の大きな部分を、深夜に活動できることが占めていたし、深夜でもしたいことができる場所のことを都会というのだと捉えていた。

もしくは、これもコロナ前なのだが、ジャカルタに行ったとき、もしくは香港、上海でもいいのだが、アジアの大都市はどこも深夜に行動する人がいっぱいいて、屋台村とか夜市みたいなエリアが明け方まで賑わっていて、容赦ない発電機の音と裸電球が煌々と連なっていて、子供たちが深夜2時に追いかけっことかしてるのとかを見るとさすがに心配になるけど、私はその光景が好きだった。総じて東京より宵っ張りな人たちだな、という印象がある。

それがニューヨークとなると、コロナ前だろうが夜が早いことこの上ない。もちろんクラブも飲み屋もそれなりにあるのだが、終夜営業しているところはかなり少なくて、たいてい1時半に閉まってしまう。マクドもマクドで閉まってしまう。コンビニはセブンが少しだけある。あるんだけど、あまりに少ない。ひっくるめて深夜営業店舗の絶対数とレンジの狭さでいうと、ほんとにこれが世界屈指の大都会? ってレベルの乏しさなのだった。だいいち街角に人が少ない。少なすぎる。いったいこれはどういうことなのだろう。地下鉄は24時間なのに。

そのことに関するなんとなくの回答のようなものはブルックリンに住んでる頃からうっすらと感触があったんだけど、いまの家に引っ越してきてすぐ、それは確信に変わった。いま私が住んでるのはロウワーマンハッタンでもっとも家賃相場の安いイーストブロードウェイという駅なのだけれど、それはすなわちジェントリフィケーションの最前線というエリアでもあって、おしゃエリアである北側からすごい勢いで開発の波が押し寄せていて、うちを出て北側を仰ぎ見るとガラス張りの高級マンションが建設中も含めると8本ある。

かたや、うちを出て南に向かうとすぐそこはマンハッタンで最大のプロジェクト集中地帯である。プロジェクトというのは低所得者向けの公団住宅で、現実問題として犯罪発生率と住民の平均所得には負の相関があるので、要はあんまりガラがよろしくない。かつ、アメリカにおける白人と有色人種の所得格差は甚大なので、プロジェクトの住人の多くは有色人種が占めることになる(この話をすると必ずレッドネックみたいな貧困白人の存在を言ってくる人が発生するんだけど、総体としての白人優位は統計上揺るぎようがない)。

さてそれで引っ越してきた初夏の話だが、日付が変わったくらいにうちのベランダに出て左を向くと、高級マンションの側面は真っ暗である。ぽつぽつ灯りが点いてる窓もあるものの、驚くほど寝静まっている。もういっぽうのプロジェクト銀座はと見に行くと、これが明らかに異なる様相を呈していて、半分くらいの窓しか灯りが消えていないし、建物の前には老若男女がたむろしていて、子供らがキックスクーターで追いかけっこしていたりする。

ここまでは明確に光景が違うので誰でもわかると思う。ここから話がいささかセンシティブかつ粗雑になってくるのだが、夜更かしする人の多さと人種にはどうやら関係があって、かつそれは所得にも反映されているムードが感じられる。ざっくりと白人より有色人種のほうが夜更かしするし、所得の高い層より低い層のほうが夜更かしをする。ちょっと考えてみれば都市生活する中産階級からエリート層まではおおよそオフィスワーカーの占める割合が高く、ということは基本9時5時で人生回ってるので当然なのだが、いやそれだけなのだろうか。妻も子供もばあちゃんも夜更かしなのは何なんだ。

そのことを考えるのに、そもそもなぜアメリカが経済的発展を遂げたのかという理由と精神風土のことを思い出してみると、ありがちな話ではあるがウェーバーのいう世俗内禁欲について思い出さざるをえない。端的に言ってプロテスタントの世界観で夜更かしは悪徳だし、他の宗教より悪徳度合いが高い。朝も早よからパワーブレークファスト、フィットネスジム、シャワー浴びてバリバリ働いて早寝早起き、そういう勤勉なライフスタイルが宗教的に補強・勧奨されている。それが建国以来アメリカの国力を持ち上げてきたことは間違いない。

この話が雑なのはヒスパニックが多く信仰するカトリックにも白人信者は多いし(バイデン筆頭に)、そもそも黒人だってプロテスタントが多いし、だからそういう傾向があるんじゃないか、という話にしかならないのだけれど、それでも家賃50万超えの高級マンションが真っ暗で、所得が基準以下でないと入居できないプロジェクトがにぎにぎしている深夜のコントラストを目の当たりにすると、敬虔→勤勉→所得増というシンプルな三段論法が浮かび上がってきて、なんだか当然の結論にくさくさした気持ちになってきたりもするのだった。

逆に言えばナイトクラブの終夜営業が持つ反社会性と、それに対するマジョリティからのけしからんまなざしというのは、ぼんやりした宗教観に浸された日本人の想像をだいぶ超えて厳しい。のではないだろうかと思ったのだけれど、死んだ母(昭和9年生まれ)も私が明け方まで遊んで帰ってくるようになったことと夜遊びでできた友達のことを口汚くディスっていたので、どんな社会でも社会発展の根幹をなす労働そして勤勉の精神というのが規範化されているのはたいして変わらないのかもしれない。なんともぼんやりした結論になってしまったが、私が死ぬまで宵っ張りでいるのだけははっきりわかっている。(6/16/2022)

憧れと土着、みたいな軸があるとする。私は玉川上水(川の名前でなく駅の名前のほう)というド郊外の生まれなのだけれど、西武新宿まで45分、渋谷までほぼ1時間、この所要時間を「しか」とみるか「も」とみるかは立場によると思うけど、とにかく都心に出るにはそれだけの時間がかかる。いっぽうでもっとも近い繁華街である立川駅前に出るには自転車で20分、バスでも20分、ショッピングなる消費行動を覚えた中3にとって、その週末どこに出るかの選択は人生を決するほどの重要性がある。

おおざっぱに言ってクラスの勢力は8:2で地元、駅前派であった。時間もお金もかけて不慣れで不快な都会に出ていこうという物好きは、2割かそれ以下しかいなかった。そして私は都会派の最先鋒だったように思う。持てるおこづかいをありったけ投入して、それこそ買い物をするお金まで電車賃につっこんででも、渋谷新宿に繰り出したかった。いまとなってはどうしてあそこまで都心で時間を過ごすことに執着していたのか、もはやよく思い出せない。

雑誌で読んだ景色を確認したかったのか、何らかの優越感に浸りたかったのか、刺激的な風景に埋没していたかったのか、ただはっきり思い出せるのは、とにかく地元が嫌だったということだ。ハリランもスラップショットもナムスビもない、ムービンしかない立川。隣町の国立にはデモデがあったし、吉祥寺まで行けば古着屋がたくさんあったけど、そんなヌルいことしてる場合ではない。どうせ繰り出すんなら渋谷原宿、妥協して新宿のオレンジブルバード、本気で買う日はアメ横、みたいな謎の価値観に駆動されていた。

でも。立川駅前でクレープを食ってるクラスメイトたちはどうにも幸せそうに見えた。グループデートに繰り出す連中を脇目にひとり西武新宿線に揺られて都心を目指した。都心に出たところでそこに友達もいないしろくな買い物するお金もないし、だったら地元でたむろしてるほうが楽しいに決まってることはわかっていた。心はどんどんねじくれていって、初めて彼女ができた友人の、その彼女とのデートをダサいとディスって揉めたりした。もう後戻りできないんだよ、と謎の焦燥感に駆られていた。

高校に入って学校で居場所がなかった私は夜遊びを覚えた。クラブにIDチェックがなかった牧歌的な時代のおかげで、雑誌で読んだクラブ群に足を踏み入れるようになった私は、しかしぜんぜん楽しくなかった。金はないし、自分の身なりがダサいのだけはわかるし、オミソ感満載でカルアミルクを舐めたりしていた。あるときいっこ上(高3)の知り合いが親のクルマで乗り付けてきて、みんな今日は俺が送るよー、〇〇は経堂だっけ、〇〇は阿佐ヶ谷? ゲンくんは? え、立川? やったぜ今日は中央高速ドライブだなー、というやりとりがあって、私は半泣きでそれを辞退して、もうあんなところ行くまいと思った。

夜遊びで知り合った子に呼ばれて麻布十番のお祭りに繰り出したこともあった。のこのこ会いに行くと彼は家族と地元の人たちと一緒に待機場みたいなところにいて、お父さんに日本酒を勧められたのだけれど、なんかそこにいるのはひどく場違いなような気がして、やっぱり辞退して半泣きで帰った。立川に束られてる連中とは違うのだ、みたいな差別心に駆動されて連日都心に出てみたものの、いくらそれを繰り返してみたところで都会が地元の連中とは違うのだった。ダサい一見のお客さんどまりなのだった。

さりとて一方の極には「地元最高!」みたいな地獄があるのであんまり雑なことは言いたくないのだが、それでも私は、可能なら生まれたフッドで地元民として育っていく人生のほうが幸せに過ごせる確率は高いと思う。そんなことは実は中2くらいの時点ですでにわかっていた。けれど地元じゃままならない魂というのがあって、よその土地を見に行かないと気が済まない魂というのがあって、もっと刺激を浴びないと気が済まないし、もっとスノッブなものに触れないと気が済まないし、そうしてさまよいドリフトし続けた末にいまニューヨークの片隅で鹿に囲まれながら釣り糸を垂れてるというのはどういった類の報いなのだろうか。もうなにひとつよくわからなくなってしまった。(6/12/2022)

夏に日本に一時帰国するのだけれど、行きたいレストランの予約が軒並みまったく取れないので辟易している。インターネットの普及によって情報の流通が市民化されて、それ以前は一部のエリートによって囲い込まれていた良店の情報が誰でもアクセスできるところに掲示されるようになって、それをわれわれは望んだはずなのだが、しかし食事ひとつでこんなに右往左往しなければならない未来がやってきてしまうと、ほんとうにうんざりしてくる。

そしてここ2年ほど、ほとんど服を買っていない。正確には買えなかった。BOOK WORKSのTシャツも、Last CallのTシャツも、LQQKのスウェットパンツも、Aime Leon Doreの開襟シャツも買えなかった。服ってこんなに買うのに苦労するもんだったっけ。資本主義が高度化、情報化すれば原理的に物資とその流通は潤沢になるはずだが、実際には欠乏する。いらない服は毎日何万トンも捨てられてるのに、ほしい服は出すお金があっても買えない。

アパレル領域じゃなくてプロダクツ領域ならどうかと言ったところで、状況は大きく変わらない。プレステ5は相変わらず買えないってみんな言ってるし、釣具に至ってはプレミア転売が常態化しすぎて、どこのルアーメーカーもシュプリームみたいなことになってる。メーカー側もよろこんでそれをやっている。クルマだってセールスマンは売る気まんまんで擦り寄ってくるくせに、いざじゃあそれくださいって言ったら24ヶ月待ちになりまーすみたいな事態が各メーカーで起きてる。

別に大上段から消費社会批判をしたいわけじゃないんだけど、なんかそんなんでいいんすかねみたいな気持ちは日増しに強くなっていて、そういう憂う気持ちが一定水準を超えてくると、われわれは(われわれ?)ノスタルジーの奴隷になるのであった。相当の労力を割いてその道に分け入っていかないと情報にアクセスできなかった時代、エリートが特権的にそれを囲い込んで独占していた時代、なにごとにも敷居があって敷居をまたぐならそれなりの緊張感を強いられた時代。いやぜんぜん戻りたくないな。どうしたらいいんでしょう。(6/11/2022)

釣りを始めてちょうど2年が経とうとしていて、新しい釣りを始めたのでその話を書いておこうと思う(需要ないのは知ってるけど不思議と釣りに関しては拗ねずに書き続けることができる)。どこから釣るかでカテゴライズするとしたら、陸からと船釣りが大きな2極になるのだけれど、あらゆることにグラデーションがあるようにこの中間にはいくつかの釣りがあって、その代表格であるウェーディングというやつを始めることにした。

ウェーディングすなわち動詞wade=水中を歩く、ということになる。ウェーダーと呼ばれる胸まであるゴム長靴を履いてやる、と言うとイメージできる人が多いと思うのだが、このウェーダーというやつがなんか大げさだしかさばりそうだし街中では完全にやばい人だし、しかも水中にズカズカ入っていくので水難事故のリスクも一気に上がるわけで、ずっと避けてきたのだった。

私は魂が小さい人間のため、条件が制約された状態だと攻略してやろうと安心して燃え上がることができる性質がある。スニーカー+公共交通での釣り、と限定するとおのずと場所やアクセスがかなり限られるため、その範疇内であれこれ工夫して釣果を叩き出すということを2年間やってきた。クルマもボートもなし、スニーカー+電車+チャリだよ、と言うとたいていのアメリカ人は「うそだろ、どうやって?」と驚いてくれる。やつら工夫なしにすぐ自動車と船舶を持ち出しすぎる。

なのだが先日、一度は体験しておくか〜と乗合船に乗ってみて、乗合船じたいはなんだか漁の下働きをさせられてるみたいで正直つまんなかったけど、やっぱりスニーカーだけでは到達できるない領域の巨大さを見せつけられたのは事実で、それでウェーディングに着手してみることにしたのだった。そしてやってみると、ありがちな話ではあるが、思ってたんとはぜんぜん違う体験が得られて、興奮した。

過去に7年ほどサーフィンをやっていたので、海にズカズカ入っていくことには抵抗がないほうだと思うんだけど、ウェットスーツとウェーダーというのはぜんぜん感覚が違って、ウェットスーツというのは基本水が滲みてきて、しかしその水が動かないために体温を保持してくれるという役割を担うのだけれど、ウェーダーは完全に防水かつ中には普通に服を着ていて、そうするとまず尋常ならざる水圧が足にかかってくる。腿までしか浸かってないないのに、メディキュットもかくよとばかりに圧迫される驚きがある。

それでもズカズカと進んでいくと、今度はほんのさざ波なのに胸のあたりをスパーンとはたかれ膝が崩れるような衝撃となって行く手を阻んできて、サーフィンだと自分の身長を超えた波にもザバンと普通に入っていくわけだけれど、たった15cm程度の波高でこんなにグラグラさせられるものかとうろたえてしまった。陸地の服装、陸地の感覚のまま水の中に侵入していってる感じが、ぜんぜん違っておもしろい。

かつ、ひと波ごとに足下の砂が侵食されてどんどん掘られてなくなっていって、そうすると同じひとっとこに立って釣りをするという行為自体が不可能だとわかってくる。ひと波ごとにちょっとずつ右に左に奥に手前に立ち位置を動かし足場を確保し、なおかつやってくるセットに備えながら普通に釣りという行為を進行させることになるわけで、しかも何ひとつ道具を床に置くことができないから、脇に挟んだり股に挟んだり口にくわえたり不自由な状態であらゆる所作をこなすことになる。困難だ。盛り上がってきた。

結局2時間ちょっと竿を振って、そりゃ過去2年間の積み上げから釣りそのものに関しては大きく間違ってはいないはずなので中型のストライプドバス3本を釣ったけど、陸に上がったときには過去になくどちゃくそに疲れていて、帰りの電車で、両生類というのはどれだけ画期的な進化だったのだろうなあ(拡張方向は海→陸の逆パターンだけど)というようなことを思いながら、即効で眠りに落ちて案の定乗り換え駅を逃した。またすぐにこの新しい釣りにも慣れてしまうのかもしれないけれど、新しい扉を開いたときのフレッシュな興奮はすぐ忘れるには惜しいので、ちょっと書き留めておくことにします。(6/11/2022)

去年の春、近所の駅で立て続けにチャイニーズが地下鉄ホームから突き落とされる事件があって、それらはすぐにアジアンを標的にしたヘイトクライムとして認知され、しかし──(6/5/2022 この草稿の全文は加筆修正のうえローリングストーン日本版vol.19に掲載されます)

半年が経ってしまったので、ジェイとだめになってしまった話を書いておこうと思う。今年に入ってというもの、私はまったく音楽の仕事をしていなくて、それどころか1月、2月、3月の途中まではいっさい楽器も触れてなくて、なのでいま自分のことをミュージシャンですとはとうてい名乗れない状態にある。このまま中途半端なまま撤退していくのか、もう一度人前で演奏できるようになるのかは、まだわからない。最近になって練習を再開したところではあるけれど、ふたたびまたステージに立てる日が来るのかどうかわからないし、正直なところ、心もとない。

ジェイとは4年前かな、レッスンGKというジャムイベントで出会った。レッスンGKはその後すぐに終了してしまい、ハウスバンドのレニーOXやデイヴカトラーはLAに移住していき、いまでは伝説のイベントみたいに語られたりしてるけど、さておきそこはルイーダの酒場みたいな出会いの場所で、キャリアの浅いミュージシャンたちはそのステージでさあ自分がここにいるぞ、ってことをアピールして、仲間を見つけたり誰かから仕事をもらったり誰かに仕事を頼んだりする。

そんなわけだからおのずと演奏がオラオラになりやすい性質があって、ずっと速弾きばっかしちゃってるギタリストとか、チョップスぼかすか言いっぱなしのドラマーとかが珍しくないんだけど、そのなかにあってジェイはリラックスしてレイドバックしていて、いまになって考えればあれマリファナでどろどろになってただけなんだけど笑、でもいつもニコニコしていて、むりやりアッパーに仕掛けてくるとかもなくて、とても音楽的に見えた。それで電話番号を交換して、けどしばらくはたまにどっかで見かける程度で特にこれといったつながりもなかった。

それが2年くらい前からよくつるむようになったのは、コロナ禍になってライブハウスが軒並み閉鎖した時期に、友人の家の屋上でやった無許可イベントで再会したのがきっかけだったのだけれど、ジェイがラッパーのバックバンドの仕事とか回してくれるようになって、しばらくしたら私が自分のイベントを始めたので、当然のようにそのホストバンドにジェイを誘ったのだった。彼はこんな言い方されるの気に食わないだろうけれど、われわれは一種の割れ鍋綴じ蓋の関係にあったと思う。私は技量が低いためジャズ出身の人間からは相手にされなかったし、ジェイはしばしば音量がぶっ壊れてると噂されていた。簡単に言うと普通の人がフォルテだと考えるくらいの音量が彼にとってのピアノで、普通の人がフォルテシシモくらいに思う音量は彼のフォルテなのだった。

だから彼がフォルテシモを叩くとき、それはもう常識を超えた音量が出て、実際ジェイはよく楽器を壊した。ハウスバンドで鍵盤を弾いてくれていたシムズなんかはしょっちゅうそのことをディスっていて、事実、現場でお客さんがやかましそうな表情を浮かべて出ていっちゃったりすることもあったんだけど、私はその過剰さを、やり方によっては魅力に変えることができるはずだと肯定的に捉えていた。それでジェイからふたりでドラム&ベースのプロジェクトをやろう、まずはストリートで小遣い稼ぎがてら練習だ、と誘われたとき、喜んで私は乗ったのだった。

ストリートギグの話は以前にローリングストーンで書いた。多い週には週5日、場所やら演目やらのアップデートを重ねながら、われわれは自分たちでも驚くくらい、みるみる良くなっていった。ツイッターに書いたら軽くバズったけど、ちょうどNYに来ていたカニエが足を止めてチップを放ってくれたこともあった。チップの額もどんどん上がっていって、普通のギグ仕事だと少なくとも前日から予習して当日はほぼ1日拘束されて、それで150ドル行けばいいって水準だったりするんだけど、ストリートだと昼の仕事が終わったのち準備もなしに適当に始めて、2時間半もやればひとり200ドルに達するほどになった。

私にとっては何より、ひとりのドラマーとだけ長い期間向き合って演奏し続けるという経験がこれまでなかったので、そのことがエキサイティングだった。ドラムとベースのコンビネーションしか要素がないので、そこにだけえんえん注力し続けた結果、やればやるほど息が合ってくるのを感じたし、ジェイが1秒後何をしようとしているのか、気のせいでなくはっきりわかるようになってくる。初めのうちはハンドサインやアイコンタクトで展開を伝え合っていたのが、じきに目を瞑っていても次の小節頭でブレイクすることが身体で感知できるようになっていた。ツーカーと言えばひとことで説明が済んでしまいそうな話だけれど、ああ、世の中のリズム隊と言われるコンビはこういうことをやっていたんだな、と素朴に思ったりもした。

たまに、同じストリート仲間で場所取り争いにおいてはライバルでもあるサックスのBJや鍵盤のサミーが飛び入りすることがあって、われわれはフィーチャリングの余地を作ることも覚えていった。それでそろそろ秋も本番だなという頃、いよいよレコーディングの相談を始めた。これまでに自然と積もっていったレパートリーでベーシックを作り、必要に応じてリード楽器や鍵盤の客演を呼んでいったらアルバムとして形になるだろう、なんてキャッキャウフフと話し合った。結局はそれが破局の原因になったわけだけど。

レコーディングとなるとどうしても浮上してくるのがバジェットの問題だ。まずはなにがなくともレコーディングのエンジニア代とスタジオ代。それで形になりそうなとこまで漕ぎ着けたらトラックダウンとマスタリングのエンジニア代。もし形になったらそのあとのビジュアルに払うギャラや配信なんかにともなう費用。さらにはPVを撮ることだって考えるかもしれない。でもまずはとにかくレコーディングだ。ふたりのプロジェクトなのだから費用はワリカンで、レベニューもシェア、と話をしていた。

なのだが、話はいつもそこで止まってしまうのだった。スタジオ代とりあえず20万かかるだろうから10万10万で折半ね、オーケーオーケー、と言うところで、止まってしまうのだ。そもそもジェイは出会った頃からソロアルバムを作りたい、という話をしていて、けれどいつ録音始めるのという話になったら「予算ができたら」と言い続けていたり、ハコを借りて自分主催のオープンマイクをやるんだ、という話も1年くらい前から言い続けていたし、すごくアクセスの悪いとこから通ってきていたから、ドラム運搬用にクルマを買ったらもっと仕事が取れるぜーという話もずっとしていたのだが、それも「頭金が作れたら」と言ってるうちに1年が経っていた。そういうところがあった。

どうしていつもズルズルしちゃうのかといえば、お金の面でも時間の面でも彼を取り巻く環境がカツカツだからであろうことはおおよそわかっていて、週に3、4日はスーパーに食品を配送するトラックドライバーの仕事が入っていて、週末はお母さんがミュージックディレクターを勤めるチャーチの手伝いで、実家暮らしだから家にだいぶお金を入れているっぽかったし、だから配送の仕事をそれ以上減らすのは無理そうで、つまり現状から一歩踏み出すのがすごく難しそうな様子なのは窺えていた。のだけれど。

レコーディングの話が浮上して、しかし具体的にスタジオの予約を取ろうとなるとのらくらした態度をとられたまま、2ヶ月が過ぎた。その間もストリートギグはひんぱんに続けていて、ルーパーを導入したりしてさらにレパートリーが増えていた。しびれを切らした私はクリスマスが過ぎたころ、ひとりで友人のエンジニアに会いに行って、1月後半のスタジオを仮押さえしたのち、ジェイにこうテキストした。レコーディングの話がズルズル延びているのがストレスフルだ。前に話してたスタジオを1月後半に押さえた。金が理由でこれ以上待たされるのなら、予算はぜんぶ私が出そうと思う。ただその場合、権利は私のものになるし、名義も私中心にする。オーケー?

いま考えればもうちょっと別のましな言い方や別の提案の仕方があったと思うし、私は私で渡米して5年が過ぎても何ひとつ形になった実績ができずにいることへの焦りにドライブされていて、あとそもそも論として私の英語力の拙さに起因するぶっきらぼうな物言いもおおいにあったのは間違いなのだが、とにかくそのSMSに返信はなくて、翌日も、その翌日も返信はなくて、もう大晦日かなってタイミングで電話をかけたら、たぶんこれが着信拒否ってやつなのだろう、と思われるガイダンスが流れてきた。左胸に電気が走ったような衝撃を感じた。

それで今年の正月は、なんであんなこと言ってしまったんだろう、でもどうすればよかったんだろうと繰り返しながら寝込んだように過ごして、楽器もまったく触る気が起きなくて、そうして半月も経ったらこれがほんとに触る習慣そのものがなくなってしまい、それどころか音楽を聴くことも苦痛になってしまっていて、私はただ毎日、ワードルやって釣り動画を見てTHREESというスマホゲーをベッドの中でやるだけの生き物になってしまった。氷点下の日々が続き、ピクミンブルームの歩数カウントが47という最低記録を弾き出した。意味わかんない量のジャムを煮込んでしまった。平日は子供の送り迎えというタスクがあることで、かろうじて私は人間としての輪郭を保っていた。

考えてみると1年以上、シンガーやラッパーのバックバンドの仕事も、みんなジェイ経由でもらっていたものばかりで、そうなるとただでさえコロナで激減した仕事のコネクションも途切れてしまっていて、もはやなんで自分がニューヨークに滞在しつづけているのかよく思い出せない状態に陥っていた。2月の下旬か3月に入った頃、共通の知人に連絡をとって、ジェイの様子を窺ってみたことがある。彼女いわくイベントやパーティでもまったくジェイを見かけなくなってしまって、インスタも更新されてないし、どういう理由かはわからないけど、あいつもお前もどうしちゃったの? と聞き返された。うーん、おれも自分でもよくわからないんだ、ハハハ。と言って電話を切った。やっぱりまだ、胸は痛んだ。(6/2/2022)

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