隣家(りんか)の方正先生(ほうせいせんせい)、余(よ)が文房(ぶんばう)に飲む。

傍(かたはら)に英草子(はなぶさそうし)の

藁(かう)あるを把(と)つて、纔(わづか)に其(そ)の目(もく)を見て、是(これ)を置(お)いて云(い)ふ、

「足下(そくか)倦(つか)れたれども、尚(なほ)青雲(せいうん)の志(こころざし)あり。此の遊戯(いうぎ)の

書(しよ)に目(め)を厭(いと)ふべし」。余(よ)酒気(しゆき)を帯(お)びて、笑(わら)うて

答(こた)ふ、「先生の言(こと)是(ぜ)なり。余(われ)また此の書(しよ)の為(ため)に

説(せつ)あり。彼(か)の釈子(しやくし)の説(と)ける所、荘子(さうし)が言(い)ふ処、皆(みな)怪誕(くわいたん)

にして終(つひ)に教(をしへ)となる。紫(むらさき)の物語(ものがたり)は言葉(ことば)を設(まう)けて

志(こころざし)を見(あらは)し、人情(にんじやう)の有(あ)る処(ところ)を尽(つく)す。兼好(けんかう)が草

紙(さうし)は、惟(ただ)仮初(かりそめ)に書(か)けるが如(ごと)くなれども、世(よ)を遁(のが)るゝ事

の高(たか)きに趣(おもむき)を帰(き)す。今(いま)の世(よ)、大道(たいどう)を照(てら)すに人

乏(とぼ)しく、光(ひかり)をつゝむ人はなを更(さら)なれば、明教(めいけう)につかん

と欲(ほつ)する人も、其の壊壁(くわいへき)の円(まどか)ならぬを、〓{王+此}瑕(しか)と

して、これを顧(かへり)みず。或(あるひ)はをしへを受(う)くる者(もの)も、琢磨(たくま)の

意(こころ)浅(あさ)ければ、眠(ねむり)を生(しやう)じ易(やす)し。金玉(きんぎやく)の言(こと)耳(みみ)

悦(よろこ)ばしからぬ謂(いはれ)歟(か)。近路(きんろ)・千里(せんり)の二人(ふたり)の主(ぬし)は、余(よ)が物(もの)

覚(おぼ)えてより、竹馬(ちくば)に鞭(むち)打(う)ちし夕影(ゆふかげ)、隣(となり)を遷(うつ)されし朝(あした)も、行(ゆ)くに留(とどま)るに、形影(けいえい)の離(はな)れざるがごとく、素性(すじやう)も亦(また)余(われ)に斉(ひと)しき一畝(いつほ)の民(たみ)にして、耕(たがやし)いとまなきに、雨日(あまび)の閑(かん)の時々(よりより)、此の草紙(さうし)を記(き)して、同社中(どうしやちゆう)の茶話(さわ)に代(か)ふるの本意(ほい)とす。

原(もと)より名山(めいざん)に蔵(かく)して、後世(こうせい)を待(ま)つの物(もの)にあらずといへども、此(こ)の書(しよ)義気(ぎき)の重(おも)き所を述(の)ぶれば、昔(むかし)より牛喘(ぎうぜん)を問(と)うて時(とき)の政(まつりごと)を知(し)り、馬洗(ばせん)の音(おと)を聞(き)きて阿字(あじ)をさとり、風(かぜ)の音(おと)に秋(あき)の深(ふか)きをしり、碪(きぬた)のひびきに冬(ふゆ)の近(ちか)きを思(おも)ふためしあれば、鄙言(ひげん)却(かへ)つて俗(ぞく)の〓{イ+敬}(いましめ)となり、これより義(ぎ)に本(もと)づき、義(ぎ)にすすむ事ありて、半夜(はんや)の鐘声(しようせい)深更(しんかう)を告(つ)ぐるの助(たすけ)とならんこと、近路行者(きんろぎやうじや)・千里浪子(せんりらうし)の素心(そしん)なる哉(かな)。

ここに足(た)らざれば、かしこに余(あまり)あり。

此(こ)の二人(ににん)生(うま)れて滑稽(こつけい)の道(みち)を弁(わきま)へねば、聞(きき)を悦(よろこ)ばすべきなけれども、風雅(ふうが)の詞(ことば)に疎(うと)きが故(ゆゑ)に、其の文(ぶん)俗(ぞく)に遠(とほ)からず。

草沢(そうたく)に人となれば、市街(しがい)の通言(つうげん)をしらず。

幸(さいはひ)にして歌舞伎(かぶき)の草紙(さうし)に似(に)ず。

賜覧(しらん)の君子(くんし)、詞(ことば)の花(はな)なきを以(もつ)て、英(はなぶさ)の意(い)を害(がい)する事なくして、両生(りやうせい)の幸(さいはひ)ならんのみ」。

  寛延(くわんえん)己巳(きし)の初夏(しよか)、十千閣(じふせんかく)の主人(しゆじん)、十千閣上(じふせんかくしやう)に筆(ふで)を操(と)る

                       [太平逸民]

古今奇談(ここんきだん)英草紙(はなぶささうし)総目録(そうもくろく)

                         近路行者(きんろぎようじや) 著(あらはす)

                         千里浪子(せんりらうし)   正(ただす)

   第一篇

  後醍醐帝(ごだいごてい)三たび藤房(ふぢふさ)の諌(いさめ)を折(くじ)く話(こと)

    第二篇

  馬場求馬(ばばもとめ)妻(め)を沈(しづ)めて樋口(ひぐち)が婿(むこ)と成(な)る話(こと)

   第三篇

 豊原兼秋(とよはらのかねあき)音(いん)を聴(き)きて国(くに)の盛衰(せいすい)を知(し)る話(こと)

   第四篇

 黒川源太主(くろかはげんだぬし)山(やま)に入つて道(みち)を得(え)たる話(こと)

   第五篇

  紀任重(きのたふしげ)陰司(いんし)に到(いた)つて滞獄(たいごく)を断(わ)くる話(こと)

   第六篇

 三人の妓女(ぎぢよ)趣(おもむき)を異(こと)にして各(おのおの)名(な)を成(な)す話(こと)

   第七篇

 楠弾正左衛門(くすのきだんじやうざゑもん)不戦(たたかはず)して敵(てき)を制(せい)する話(こと)

   第八篇

 白水翁(はくすいをう)が売卜(まいぼく)直言(ちよくげん)奇(き)を示(しめ)す話(こと)

   第九篇

 高武蔵守(かうのむさしのかみ)婢(ひ)を出(い)だして媒(なかだち)をなす話(こと)

古今奇談英草紙第一巻(ここんきだんはなぶささうしだいいちくわん)

        一  後醍醐(ごだいご)の帝(みかど)三たび藤房(ふぢふさ)の諌(いさめ)を折(くじ)く話(こと)

  万里小路(までのこうぢ)藤房卿(ふぢふさきやう)は宣房卿(のぶふさきやう)の子(こ)なり。

幼(いとけな)きより好(この)んで書(しよ)を読(よ)み、博学強記(はくがくきやうき)和漢(わかん)の才(さい)に富(と)みて、早(はや)く黄門侍郎(くわうもんじらう)となる。

建武(けんむ)の帝(みかど)命(めい)じて尚書(しやうしよ)を講(こう)ぜしめ給ふに、よく其の旨(むね)を解(と)き得たりしかば、帝深(ふか)く其の才(さい)を愛(あい)し、常(つね)に左右(さいう)に侍(じ)せしめ給ふ。

元弘(げんこう)の変(へん)に、帝武家(ぶけ)にとらはれさせ給ふ折(をり)からも、藤房是に従(したが)ひ奉る。

御開運(ごかいうん)の後(のち)つひに上卿(じやうけい)となる。

此の時速水(はやみ)下野守(しもつけのかみ)といふもの、もとは参河(みかは)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)にて、足助重範(あすけしげのり)が一族(ぞく)なるが、官軍(くわんぐん)没落(ぼつらく)してより東国に逃(に)げ下り、ここかしこにせくぐまり、公家(くげ)一統(とう)の時を待ち得て、都に登り、万里小路藤房卿について、天気(てんき)を窮(うかが)ひしに、速水が幸(さいはひ)にやありけん、何事(なにごと)にや叡慮(えいりよ)うるはしき折からにて、不便(びん)に思し召され、一ケの荘(しやう)を宛(あ)て行(おこな)なはれ、一首(しゆ)の古歌(こか)を賜(たま)ふ。

  あづま路にありといふなる逃水(にげみづ)のにげかくれても世を過ごすかな

藤房此の歌を見て、博識(はくしき)の人なれども、いかがしたりしや、此の歌を知り給はで、是古歌なるとは思ひもよらず、帝(みかど)の新製(しんせい)の歌なりと思ひ、

「逃水(にげみず)のことばふしんはれず。

かれが姓(うぢ)を咏(よ)み入れられしとは見えたれども、逃水といふつづきいかならん。

其の上速水(はやみ)の速(はや)の字(じ)に、逃(に)ぐるの意(こころ)なし」

と、難(なん)じたりければ、帝大に御気色(みけしき)損(そん)じ、次の日藤房を召して、

「東(あづま)の歌枕(うたまくら)みてこよ」

と、追(お)ひやり給ふ。

藤房何(なん)の罪(つみ)とはしらねども、叡慮(えいりよ)にまかせ旅(たび)だちて、いつかへりいつあふさかのせきならん、しられずしらぬ旅の行衛の心ぼそく、ゆきゆきてむさしのの果(はて)なき道にかかり、見わたせば、其の広(ひろ)きこと雲(くも)をしのぎ、霧(きり)にへだてて、ただめのおよぶ所にかぎれり。

春の末(すゑ)草葉(くさば)のしげりしあひだ、はるかむかうに流(なが)るる川あるは、かの調布(てつくり)さらす玉川にこそとおもへど、問(と)ふべき人なく、川を目につけて行(ゆ)けども、曠野(くわうや)の内遠近(ゑんきん)も目当(めあて)違(ちが)ひて、ゆけどもゆけども川ははるかむかうにありて、同(おな)じ程(ほど)なるはいかにと思ふ内、からうじて一人の田夫(でんぷ)に行き逢ひたり。

「やおれ、むかうに見ゆる流(ながれ)は、何(なに)とよぶ川ぞ」

と尋(たづ)ね給へば、此の田夫云ふ、

「此のあたり、西は秩父根(ちちぶね)、東は海北(うんきた)、南の向(むかう)が岡、都築(つづき)が原(はら)より、北は河越(かはごえ)にいたり、此のあひだをむさし野といふ。

縦横(たてぬき)十郡(じふぐん)に跨(また)がれり。

其の内にただ三の川あり、玉川(たまがは)・久米(くめ)川・入間(いるま)川なり。

年(とし)とらず川などいへるは、あるにかひなき細(ほそ)き流(ながれ)にて、節分(せつぶん)の夜は、きはめて水ながれざる故、かく名(な)づくるとなり。

それゆゑ水にとぼしく、野(の)に出づるもの、器(うつわ)に水を貯(たくは)へ持(も)ちて渇(かつ)をうるほす。

此のあひだに川もながれも目にさへぎることなし」

と答(こた)ふ。

藤房

「むかうに見ゆる川よ」

と、指(ゆび)ざし給へば、田夫顧(かへり)みて笑(わら)うて云ふ、

「あれは川にては侍らはず。

あれこそ山峰(やまみね)に雲(くも)を出だすごとくにて、地気(ちき)のなす所、いつとても春夏(はるなつ)の際(あひだ)、遠所(ゑんじよ)より見る所、水の流(なが)るるやうに見ゆれども、水にあらず、其の所に行けば見えず、行けども行けどもむかうへ行くやうなれば、むかしより逃水(にげみづ)と名づけぬ」

といふに、藤房心づきて、

「逃水(にげみづ)の名古(ふる)き事にや」

と問(と)ひ給へば、此の野夫(のうふ)云ふ、

「年老(としお)いたるものどものかたり伝(つた)へしは、是も名所(めいしよ)の内(うち)にて、あずま路(ぢ)にありといふなる逃水のと、古歌に詠(よ)みおかれしよしうけ給はりぬ」

と、ねんごろにかたりて別(わか)れぬ。

藤房ここにおいて、主上(しゆじやう)の速水(はやみ)に賜りし歌は古歌にて、逃水は古き歌名所(うためいしよ)なることを、はじめて悟(さと)り、

「むさしのの草葉(くさば)がくれに行く水の」

とある古歌にも思い合わされて、咏林(えいりん)のしげき、いまだ我が覚(おぼ)えざる名歌(めいか)多かるべしと、自(みづか)ら眼(まなこ)の狭(せば)きことを恥ぢて、

「歌まくら見よ」

との叡慮(えいりよ)も、これをおもひ知(し)らしめんためなるべしと、ここより都にかへりのぼり、父宣房(のぶふさ)に此の事をかたれば、宣房卿いふ、

「〓{イ+爾}(なんじ)、これほどの麁忽(そこつ)あらんや。

其の歌は俊頼(としより)朝臣(あそん)の歌にて、近頃(ちかごろ)去る家に深(ふか)く秘(ひ)せらるる、扶桑(ふそう)といへる集(しふ)にも出でたり」

と聞きて、藤房いよいよ我(わ)が麁忽(そこつ)をしり、内(うち)に参りて、其の過(あやまち)を悔(く)うるに、主上(しゆじやう)もかれに思ひしらしめん為(ため)なれば、今はとて免(ゆる)されにけり。

 藤房かへり登(のぼ)る時、大内裏(だいだいり)すでに造営(ざうえい)をはじむ。

藤房これを諌(いさ)め奉らんとすれども、事已(すで)とどむべきにあらず。

これのみならず、帝此の時太平(たいへい)に志(こころ)怠(おこた)り給ひ、馬場殿(ばばどの)を建て逸遊(いついう)度(ど)なく、女謁(ぢよえつ・をんなのまうしいれ)盛(さか)んに行(おこな)はれ、朝野(てうや)怨(うらみ)を含(ふく)むもの甚(はなは)だ多(おほ)し。

近比(ちかごろ)仏教(ぶつけう)を信(しん)じ給ひ、僧徒(そうと)また禁宮(きんきゆう)に出入(しゆつにふ)するものすくなからず。

上(かみ)の好(この)むことは下倣(なら)ふならはせなれば、士民(しみん)ともに僧(そう)を信用(しんよう)し、村落(そんらく・むらさと)の小院(せうゐん)までも、説法壇(せつぽうだん)を設(まう)けて法(ほふ)を説(と)く。

後(のち)は心重(おも)からぬ僧徒(そうと)多(おほ)くなりて、男女(なんによ)の席(せき)乱(みだれ)がはしく、よからぬ風俗(ふうぞく)多(おほ)かりければ、藤房諌を奉りて、異国(いこく)・本朝(ほんてう)ともに仏教(ぶつけう)に淫(いん)して、国(くに)危(あやふ)かりし故事(こじ)を説(と)き出(い)だし、詞(ことば)をつくされしに、元より才学弁利(さいがくべんり)なる帝、これを聴(き)き入(い)れ給はず、却(かへ)って藤房にむかひ、

「梁武帝(りやうぶてい)の仏(ぶつ)に淫(いん)して、民膏(みんかう・たみのあぶら)を費(つひや)し、国の衰(おとろへ)となりしは、仏法にかぎらず、淫(いん)する時は皆害(がい)あり。

仏法も国の害になる程奇衣(きえ)せねば、障(さはり)有るまじきことぞかし。

また仏家(ぶつけ)の方便(はうべん)の国政(こくせい)に益(えき)なきこと、〓{イ+爾}(なんぢ)が説(せつ)をまたず。

彼(か)の僧徒(そうと)、説法壇(せつぽふだん)を開(ひら)きても、或(あるい)は天下の害となるべきことを演(の)ぶる時は、いかに其のままにさしおかんや。

まだも往古(わうご)の僧哲(そうてつ)は気性(きしやう)強(つよ)かりしかば、公政(こうせい)をも恐(おそ)れず。

今の僧徒は佞諛(ねいゆ)のもの多く、猶(なほ)以(もつ)て国法を害することなし。

近世(きんせい)は僧に雅俗(がぞく)の分(わかち)出で来りて、中にも徳ある僧の、弟子(ていし)を指教(しけう)して、宗義(しゆうぎ)の深意(しんい)を釈(しやく)し、仏語(ぶつご)を表裏(へうり)より推(お)して悟(さと)らしめ、終(つひ)に仏身(ぶつしん)を成就(じやうじゆ)するあれど、今の俗僧(ぞくそう)の俗男女(ぞくなんによ)に説(と)き聞(き)かしむる所は、理(り)を浅(あさ)く説(と)くをもつぱらとして、滑稽笑話(こつけいせうわ)の類(たぐい)なれば、二度童(ふたたびわらわ)にかへりたる婆翁(ばおう)、理屈(りくつ)ばなしと同じ耳(みみ)に聞けば、誰(たれ)か聞(き)きこんで発心(ほつしん)するものもなく、説法者(せつぽうしや)も聴衆(きくもの)に憚(はばか)らず、書籍(しよじやく)は膝前(しつぜん)に披(ひら)きながら、目(め)はひたすら空焼(さらだき)のかたにむかふ。

壇上(だんじやう)に躍(をど)り狂(くる)うて、法衣(ほふえ)の腕(ただむき・うで)をかかげ、雇(やと)はれし寺(てら)の喜捨(きしや・ほうが)を募(つの)り、巧(たくみ)に自己(おのれ)が衣料(えれう)を乞(こ)ふ。

観音(くわんおん)の小像(せうざう)を賭(かけもの)にして、福引するにいたる。

此(こ)の体(てい)の放下(ほうか)同前(どうぜん)の仏説(ぶつせつ)を聴(き)くもの、一人(ひとり)として大義(たいぎ)のわきまへあるものなければ、人をたぶらかす程の邪智(わるぢゑ)もなし。

〓{イ+爾}(なんぢ)が心の底(そこ)は、天下の人を皆学者(がくしや)にもして、理(り)に明らかならしめんと欲するならん。

左ある時は、恐らくは僧徒(そうと)の外に、不耕(たがやさず)して喰(くら)ふもの多くなりて、其の中(なか)には学問(がくもん)の理(り)を仮(か)りて非(ひ)をかざるもの、或は公(おほやけ)の事につけて、管見(くわんけん)の議論(ぎろん)をなし、人民(にんみん)の心を迷はすやから出で来り、彼(かしこ)にも此(ここ)にも理屈(りくつ)行(おこな)はれて、政道(せいだう)の害(がい)となれば、僧徒は物の数ならず、秦(しん)の始皇(くわう)が儒者(じゆしや)を埋(う)め殺(ころ)せしも、深(ふか)き意(こころ)あるべし。

天下の上(うへ)に立(た)つものは、民百姓を怜俐発明(れいりはつめい)にあらしめんと思ふ事はさらさらなし。

偏(ひとへ)に律儀(りちぎ)にして国法を奉(ほう)じ、小善(せうぜん)といへども為(な)すべき人柄(がら)にあらせ度(た)く思ふばかりなり。

今(いま)の俗僧(ぞくそう)の説(と)く所は、民百姓の悪発明(わるはつめい)にのみなり行くを、愚(おろか)なるかたに引きもどす一助(じよ)ともなるべし。

〓{イ+爾}、今すこしく心を高うして見るべし」

と、綸言(りんげん)の弁(べん)ずる所、謂(いはれ)なきにあらねば、藤房却而(かへつて)主上に説き得られ、閉口(へいこう)して朝(てう)を退(しりぞ)きぬ。

角理(かくり)に明(あきらか)なる君なれども、逸遊(いついう)日日(ひび)にさかんなれば、此の朝廷(てうてい)治(をさま)り果(は)つべくも覚えず、折(をり)あらば再三折檻(せつかん)の諌(いさめ)を奉らんものをと思ひくらされける。

 一年(ひととせ)雲州(うんしう)塩冶判官(えんやはんぐわん)が許(もと)より、竜馬(りゆうめ)なりとて、月毛(つきげ)の馬を進奏(しんそう)す。

「其の形(かたち)、頚(くび)は〓{奚+隹}(にはとり)のごとく、背(せ)は竜(りよう)に似て、四十二の拳毛(けんまう)背筋(せすぢ)に連(つらな)り、両の耳(みみ)直(すぐ)に立(た)ちて、竹を剥(そ)ぐがごとく、双(さう)の眼(まなこ)鈴(すず)を掛(か)けたるかと怪(あやし)まる。

今朝卯(う)の刻(こく)雲州富田(とんだ)を発(た)つて、酉(とり)の刻京着(ちやく)す。

其の道七十六里、鞍(くら)の上座(ざ)せるがごとく、風をきつて走る故、眼ひらきがたし」

と奏(そう)す。

則ち左馬寮(さまれう)に養(やしな)はしめ、馬場殿(ばばどの)に幸(みゆき)なりて、此の馬を叡覧(えいらん)あり、本間孫四郎重氏(しげうじ)を召(め)されて、曲馬(きよくば)を乗らしむ。

乗人(のりて)の心に応(おう)ずること尋常(よのつね)ならず、誠(まこと)に天馬(てんば)ともいふべし。

叡慮(えいりよ)悦ぶこと類(たぐひ)なく、

「我(わ)が朝(てう)に天馬(てんば)の出づること、朕(ちん)が世是初なり。

吉凶(きつきよう)如何(いかん)」

と御尋ある時、左右(さいう)皆云ふ、

「是嘉瑞(かずい)なり。

周の穆王(ぼくわう)の世、八疋の天馬来り、是に乗(の)つて天地(てんち)の間に周遊(しういう)すといえり。

天馬は麒麟(きりん)の類(たぐい)なれば、是聖明(せいめい)の徳の顕(あらは)るる所なり」

とぞ賀せられり。

折しも藤房の卿参られけるに、主上天馬の吉凶を勅問(ちよくもん)ある時、藤房申されけるは、

「天馬の本朝(ほんてう)に来れる、其の例(ためし)なければ、善悪は勘(かんが)へがたし。

然れども、此の馬吉事の用には立つまじきか。

漢(かん)の文帝(ぶんてい)の時、千里(せんり)の馬を献(けん)ず。

文帝是を受(う)けず、帝王、吉に行(ゆ)けば日に三十里、凶(きよう)に行けば五十里、鸞輿(らんよ)前(まえ)に有り、属車(しよくしや)後(しりへ)に在り、われ独(ひと)り千里の駿馬(しゆんめ)に乗(じよう)ずとも、従者(したがふもの)なくして、帝王何国(いづく)にかゆかんや、と宣(のたま)ひけるとなり。

周穆(しうぼく)、八駿(はしゆん)に駕(が)して遠遊(ゑんいう)を好(この)み、明堂(めいどう)の礼(れい)に怠(おこた)りしは、周の世の衰(おとろ)ふるはじめなり。

今大乱(たいらん)の後、民(たみ)費(つひ)え人(ひと)苦(くるし)みて、天下いまだ安(やす)からざるに、人主(じんしゆ)の誤(あやまり)を正(ただ)すべき執政(しつせい)もなく、群臣(ぐんしん)言(こと)に阿(おもね)つて、国の危(あやふ)きことを申さず、大内裏(だいだいり)を造(つく)り、馬場殿(どの)を建(た)て、民に課役(くわやく)をかけ、宸襟(しんきん)を休(やす)め奉りし功臣(こうしん)を賞(しよう)じ給へども、恩賞(おんしよう)其の功(こう)にあたらず、忠功(ちゆうこう)空(むな)しく怨(うらみ)を含(ふく)むもの多(おほ)し。

他日(たじつ)天下に不慮(りよ)の事あらん時、天子此の竜馬(りゆうめ)に駕して、南山(なんざん)・北嶺(ほくれい)に避(さ)け給ふとも、群臣(ぐんしん)は従(したが)ふことあたはず、只遠国(をんごく)に急(きふ)を告(つ)ぐる時、用ふる所あらんのみ」

と、是をよき次(ついで)として、諫(いさ)められければ、諸臣(しよしん)色を変(へん)じ、旨酒(ししゆ)の高会(かうくわい)も無興(ぶきよう)にして、主上逆鱗(げきりん)の気色(けしき)ましまして、

「〓{イ+爾}(なんぢ)、見(けん)浅(あさ)くして、天馬を不吉(きつ)とす。

〓{イ+爾}かの穆王(ぼくおう)の八駿倶(とも)に皆同じ馬なるや、或は其の能(のう)各(おのおの)異(い)あるか、何(なに)の書(しよ)に是を出だすことを知(し)るや」。

藤房一時(じ)此のこと思ひ出(い)でず、ただ云ふ、

「周家(しゆうか)の本紀(ほんぎ)是をしるさんのみ」。

主上頭(かしら)を揺(ふ)らせ給ひ、

「八駿各其の能(のう)異(こと)なること、拾異記(しふいき)に是を出だせり。

周穆(しうぼく)の八駿、第(だい)一を絶地(ぜっち)と名づく、馳(は)するに蹄(ひづめ)地(ち)を践(ふ)まず。

第二を翻羽(ほんう)と名づく、行くこと飛禽(ひきん)に越(こ)えたり。

第三を奔宵(ほんせう)と名づく、夜(よる)万里を行きて迷(まよ)はず。

第四を超影(ちようえい)と名づく、日の足を逐(お)うて行く。

第五を踰輝(ゆき)と名づく、毛の色光明(ひかり)炳輝(かがやく)。

第六を超光(てうくわう)と名づく、形一ツにして十の影あり。

第七を騰霧(とうむ)と名づく、雲(くも)にのりてよく走る。

第八を挾翼(けふよく)と名づく、身に肉(にく)の翅(つばさ)あり。

穆王此の八疋の馬にたがひにのりて、天地の間に行かざる所なしと書く(か)き伝ふ。

今此の一馬(いちば)、かの八駿の能を兼ねたりとも、朕(われ)いかんぞ是を遠遊(ゑんいう)の為(ため)に用ひて、朝政(てうせい)を誤(あやま)らんや。

名剣(めいけん)といへども、敵(てき)を斬(き)り身を殺(ころ)すの吉凶たがひあり。

皆其の用ふる人の禍福善悪(くわふくぜんあく)に依(よ)るものなり。

〓{イ+爾}の狭(せば)き量(りやう)を以て、天下を概(なみ)することなかれ。

むかし魏(ぎ)の任城王(にんじやうわう)曾彰(さうしやう)、駿馬(しゆんめ)を愛(あい)して愛妾(あいせふ)と換へたり。

後世(こうせい)美談(びだん)として、楽府(がくふ)に製(せい)して是をもてはやす。

武(ぶ)を重(おも)んずるものは、馬を愛すべし。

今の時馬を愛するは、武をわすれざるの時に当たれり」。

藤房常(つね)に、主上の准后(じゆごう)の美色(びしよく)に迷(まよ)うて、政に害(がい)あることを悪(にく)めば、帝の言(こと)に応(おう)じて云ふ、

「主上よく愛妃(あいひ)を馬に換ふることを得(う)るや。

馬に追風千里(ついふうせんり)の能あり、美女(びじよ)に沈魚落鴈(ちんぎよらくがん)の容(かたち)あり、恐(おそ)らくは君(きみ)二ツながら棄(す)つることあたはざらんことを」。

帝、藤房に心病(しんびやう)を言(い)ひ当(あ)てられ、心に深(ふか)く恥(は)ぢて、此の時只(ただ)博識(はくしき)を以て、是を圧(お)さんと欲し、

「〓{イ+爾}、沈魚落鴈の四字(よじ)の出づる所を知るや」。

藤房言(まう)す、

「沈魚落鴈の字(じ)は、唐(たう)の宋之問(そうしぶん)が浣紗篇(くわんしやへん)ニに云ふ、鳥(とり)驚(おどろ)きて松蘿(しようら)に入り、魚(うを)畏(おそ)れて荷花(かくわ)に沈(しづ)むと咏(えい)ぜしより出でて、美人(びじん)は魚鳥(うをとり)も是に感(かん)ずるを云へり」。

帝(みかど)大に笑ひて宣(のたま)ふ、

「〓{イ+爾}知らず、沈魚落鴈を美人の佳称(かしよう)とするは、元(もと)是誤(あやまり)なる事を。

此(こ)の詞(ことば)、漆園氏(しつゑんし・さうじ)の語(ご)に出でて、毛牆(まうしやう)・麗姫(れいき)は人の悦(よろこ)ぶ美人(びじん)なれども、魚は人のけはひだにすれば深(ふか)くかくれ、鳥(とり)も人だに近(ちか)よれば高く飛(と)んで去(さ)る。

人は愛すれども、魚鳥(うをとり)は其の捨別(しやべつ)なきことをいへる詞(ことば)なり。

後世(こうせい)転(てん)じ誤(あやま)りて、美人の称(しよう)とす。

〓{イ+爾}故事(こじ)を引きて、朕(ちん)を動(うごか)さんとならば、今暫(しばら)く窓(まど)の下(もと)に年(とし)を積(つ)むべし。

今日此の馬場殿(ばばどの)は遊閑(いうかん)の地(ち)なるゆゑ、〓{イ+爾}が罪(つみ)を問(と)ひ定(さだ)めず。

朝廷(てうてい)にありて此の過言(くわげん)を出ださば、罪(つみ)を問(と)ふべきこと免(まぬが)れたし」

と、詞厳(おごそか)に宣(のたま)ひて、其の日の御遊(ぎよいう)は扨やみぬ。

 藤房卿、第(てい)に退(しりぞ)きて歎(たん)じて曰(い)ふ、

「治世(ぢせい)の期、吁(ああ)やんぬるかな。

今(いま)主上智(ち)は奢り(おごり)に用ひ、弁(べん)は非(ひ)を覆(おほ)ふに足(た)る。

下官(げかん)不才(ふさい)の言(い)ひ動かす(うご)べきにあらず」

と。

遂(つい)に自ら(みずか)ら官(かん)を辞(じ)して、北山の下(ふもと)に去(さ)ってかへらず。

帝驚き思し召して、父の宣房の卿(きやう)に詔(みことのり)して、是を求(もと)め還(かえ)さしむれども、竟に其の行く所を知らずなり給ひぬ。

  二、馬場(ばば)求馬(もとめ)妻(め)を沈め(しづ)めて樋口(ひぐち)が婿(むこ)と成(な)る話(こと)

 天文(てんぶん)の頃(ころ)、江洲(ごうしう)観音寺(かんおんじ)の城(しろ)は、佐々木家(ささきけ)代々(だいだい)の要害(ようがい)にて、城下(じようか)の民人(みんじん)も、国主(こくしゆ)の勢(いきおい)ある余光(よこう)を蒙(かうふ)りて、隣国(りんごく)に手さす諸侯(しよこう)もなければ国中(こくちゆう)安静(あんせい)にして、商買(しやうこ)家業(かげふ)に怠(おこた)らず、市町(いちまち)賑敷(にぎわし)く、四民(しみん)枕(まくら)を安(やす)んじて暮(くら)す。

然れども貧富(ひんぷ)は人の命(めい)なれば、此の城下(じやうか)といへども、乞丐(こつがい)甚(はなは)だ多(おほ)く、又乞丐を管領(くわんれい)して、丐頭(がいとう)称(しよう)するものあり。

数代(すだい)此(こ)の頭(かしら)をなし来りて、代々(よよ)通(とほ)り名(な)を小二郎(せうじらう)と云ひ、多(おほ)くの乞食(こつじき)より、毎月(まいげつ)常例(じやうれい)の役銭(やくせん)をとり納(をさ)め、或(あるい)は雨雪(うせつ)の頃(ころ)、人の施(ほどこし)なき時は、頭より粥(かゆ)を煮(に)て養(やしな)ひ、頭の門内(もんない)に集(あつま)り居(ゐ)て、草履(ざうり)草鞋(わらぢ)を造(つく)りて例銭(れいせん)の便(たより)とす。

如此(かくのごと)くの事(こと)数年(すねん)、丐頭(がいとう)の家漸々(ぜんぜん)貯(たくは)へ積(つ)みて、家(いへ)富(と)むに随(したが)ひ、猶業(げふ)を改むる事を思はず、地(ち)を求(もと)め田(た)を得(う)るに及びても、此の丐頭(がいとう)の名目(みやうもく)をのがれねば、百姓町人に交(まじは)る事あたはず、市(いち)に立(た)ち、途(みち)を行(ゆ)きても、己(おのれ)が手下の乞食(こつじき)より外は、少(すこ)しの敬(うやまひ)する人なし。

只門をとぢ、家内(かない)に有りて、気随(きまま)言(い)ふに如(し)かず。

世上(せじやう)にいやしまるる娼家(しやうか・けいせいや)技優(ぎいう・かぶき)の類(たぐひ)にさへ入れられず、別(べつ)の目(め)を以て見らるるこそ口惜(くちを)しけれ。

 此の時代(じだい)に当(あた)る小二郎、名を元義(もとよし)といふ。

生得(しようとく)少シの志気(しき)ありて、丐頭の職(しよく)を我(わ)が甥(をひ)大六(だいろく)に譲(ゆづ)りて、是(これ)を小二郎と改名(かいめい)させ、其(そ)の身(み)は入道して、法名(ほふみやう)浄応(じやうおう)と呼(よ)び、貯(たくは)へたる財宝(ざいほう)田畠(でんばく)まで、皆別家(べつけ)に随身(ずいじん)して移(うつ)り、少しも乞丐(こつがい)の事にあづからずといへども、世(よ)の人言(い)ひ改(あらた)めず、浄応を見れば、前(さき)の丐頭とぞ申しける。

浄応年五十に余り、妻(め)は七年以前に逝(ゆき・すぎ)て、男子はなく、一人の女(むすめ)あり、阿名(をさなな)を幸(さい)とよぶ。

顔(かほ)かたちは家(いへ)がらにも生れ増(まさ)り、類(たぐひ)なくうつくしかりければ、浄応寵愛(ちようあい)する事、掌中(しやうちゆう・てにすゑたる)の珠(たま)のごとく、たちぬふことのいとま、和歌の道に心をよせさせ、其(そ)の頃(ころ)はいまだ下ざまにもてはやさざる、得(え)がたき草紙(さうし)ども読(よ)み習(なら)ひ、勢語(せいご・いせ)は諸家(しよか)の説(せつ)を窮(うかが)ひ、其の趣(おもむき)を極(きは)め、源語(げんご・げんじ)は孟津(まうしん)を問(と)ひ河海(かかい)に至り、其の外諸家(しよか)の集、勅撰(ちよくせん)の類、しかるべき歌書に渡らざるはなし。

浄応女(むすめ)の才(さい)を自慢(じまん)して、町人百姓の中にて、然るべき婿(むこ)をと心がけけれども、家風(ふう)の事知らざるもの無ければ、誰入贅(にふぜい・いりむこ)せんといふものなく、阿幸(おさい)十八歳に至るまで、縁(えん)の事ととのはず。

爰(ここ)に隣家(りんか)のもの言(い)ひ次(つ)ぎて、

「老蘇(おいそ)の里(さと)に、馬場(ばば)求馬(もとめ)とて一人の浪人(らうにん)、先祖(せんぞ)故(ゆゑ)ある者(もの)にて、少(すこ)しの才学(さいがく)有れども、父母に早く後(おく)れて家貧(まづ)しく、三十に近(ちか)づけども、定る妻(つま)もなく、たとひ他家(たけ)に入贅(にふぜい・いりむこ)して成りとも、家伝(かでん)の職(しよく)を成就(じやうじゆ)し、今(いま)の時節(じせつ)、家名(かめい)を起(おこ)さんと願(ねが)ふ人あり、息女(そくぢよ)を妻(めあは)すべき志(こころざし)はなきや」

といふ。

浄応家系(かけい)あるものと聞き、何さま是を女(むすめ)に妻(めあは)せて、彼(かれ)が家を引き起(おこ)さば、我が家(いへ)も倶(とも)に面目(めんぼく)を雪(すす)ぐ事あらんと、心案(しんあん)決定(けつぢやう)して、彼の隣家(りんか)の翁(おきな)を頼みて、馬場に口入(くにふ)せしめ、浄応が家筋(いへすぢ)少しもつつまず、語(かた)り聞かせて、

「足下(そこ)器量(きりやう)ありて小儀(せうぎ)にかかはらず。

彼(か)の家(いへ)に拠(よ)りて時を待つの志(こころざし)あらば、我(われ)媒(なかだち)して参らせん」

といふ。

馬場心に思ふやう、我今衣食(いしよく)とぼしく、婚娶(こんじう)の事はさて置き、このままに埋(うづも)れ果(は)つべく覚ゆ。

時、この乱世に当(あた)りて、権門(けんもん)貴族(きぞく)さへ、功(こう)を計(かぞ)へて家(いへ)を論(ろん)ぜず、況(いはん)や我(わ)が身(み)をやと、遂(つひ)に志を決(けつ)して、老人の詞(ことば)に従(したが)ひ、吉日をえらみ、浄応が家に入家(にふか)して、幸(さい)と夫婦と成りけり。

世にすぐれたる美妻(びさい)を設(まう)けたる上、衣(い)足(た)り食(しよく)ゆたかにして、事々(じじ)懐(おもひ)に称(かな)はざる事なし。

 浄応、器量(きりやう)ある婿(むこ)取(と)りたりと悦び、席(せき)をはらうて、饗応(きやうおう)を催(もよほ)し、近隣(きんりん)の往来(ゆきき)する人家(じんか)、又は求馬が日頃の朋友(ほういう)を招請(せうせい)して、交(かは)る交る六七日の亭主(ていしゆ)をぞなしける。

一族(ぞく)の丐頭、当(たう)小二郎、此の由を聞きて大にねたみ憤(いきどほ)り、彼(かれ)と我(われ)とは一類(るい)にて、彼も元(もと)は丐頭也。

彼が家に婿(むこ)を取らば、我も一盃(ぱい)の喜酒(きしゆ)に預(あづか)るべきに、婚儀(こんぎ)なりてすでに一月、饗応又六七日、尚(なお)一寸(いつすん)の招状(まねきじよう)を送らず。

彼(かれ)が婿、たとひ国の守の執柄(しつぺい)にもせよ、我(わ)が一族にまぎれなし。

浄応常(つね)に我(われ)を遠(とほ)ざくる心有るがゆゑ、此の失礼(しつれい)にいたる。

さらばかれを一悩(ひとなやまし)なやませて、此の怒(いかり)を漏(もら)さんと、手下の前後(あとさき)しらぬ乞丐(こつがい)を、五六十人引き連(つ)れ、一斉(いつせい)に浄応が家に来る。

門前の誼(かまびす)しきは何事(なにごと)にやと、浄応門首(もんしゆ)に出でて見る時、さも有るべし。

 物の多く集(あつま)りしを壮観(さうくわん・みもの)とはいへども、癩椀(らいわん・はげたるわん)葉蓆(はせき・やぶれむしろ)を持(も)ち連(つ)れしは、詠(ながめ)ともならず。

破(やぶれ)繻(じゆ)ばんを肩(かた)にて結(むす)びつぎ、竹杖(たけづゑ)破椀(かけわん)を手に携(も)ち連(つ)れたる中に、顔(かほ)を代赭石(につち)に彩色(さいし)きて、疫神(やくじん)を送(おく)り、蛇(じや)を首筋(くびすぢ)に纏(まとは)せ、竿頭(かんとう・さをのさき)に破椀(かけわん)を廻らし、拍子(ひやうし)を打ちて平家(へいけ)をうたふ、おのがさまざま也。

是等(これら)の外道(げだう)窮鬼(きゆうき・びんぼふがみ)は、鍾馗(しようき)の手をかりても退(しりぞ)くる事難し。

 小(せう)二郎、真先(まつさき)に酒宴(しゆえん)の席(せき)に乱(みだ)れ入り、先(ま)づ手(て)を下(くだ)して、我一(われいち)と酒肴(しゆかう)を取(と)り喰(くら)ひ、

「婿どのに対面(たいめん)せん」

とよばはる。

五七人の喜客(きかく)も、肝(きも)をつぶし逃(に)げ出づる。

求馬もきようがる事に思ひ、朋友(ほういう)につれて逃(に)げかくれぬ。

浄応すべき様なく、小二郎に向ひ、

「今日は婿が招(まね)きたる人々にて、我が招く所にあらず。

近日汝(なんぢ)をも招(まね)きて、酒を汲(く)むべし」

と、衆乞丐(しゆうこつがい)にも酒をのませ、鳥目(てうもく)をあたへてかへしぬ。

幸(さい)は一間(ひとま)にありて、涙(なみだ)にくれて夜(よ)を明し、求馬も朋友(ほういう)の家より帰り来る。

浄応も婿(むこ)にまみえて、面(おもて)に羞(はぢ)を含(ふく)み、お幸(さい)と共(とも)に、わが門風(もんふう)の悪(あし)きを恨(うら)み、とにかくに一日も早く、求馬が出身(しゆつしん)の便(たより)を得て、他国(たこく)にも移(うつ)り行(ゆ)き、この門風をかくさんとぞ願(ねが)ひける。

 求馬は元来(ぐわんらい)軍機(ぐんき)武術(ぶじゆつ)の家(いへ)なれば、何とぞ復(ふたた)び軍師(ぐんし)の家を起(おこ)さんと、和漢(わかん)古今(ここん)の典(てん・しよもつ)を渉猟(せふれふ・ゆきわたる)し、累世(るいせい)家伝(でん)の書(しよ)に心を労し、我が家の伝(でん)に付きても、発明(はつめい)するに至る。

是みな衣食(いしよく)の念(ねん)に労なく、一味(いちづ)に心を用ふるのいたす所なり。

今の世の中、軍術(ぐんじゆつ)を佝(とな)へて、禄(ろく)に着(つ)くもの多しといへども、当時(たうじ)高名(かうめい)の軍家(ぐんか)、わづかに一両輩(いちりやうはい)を除(のぞ)きて、外に将檀(しやうだん)に登(のぼ)りて、我が目より見上ぐるものなしと、みづから心にゆるし、仕官(しくわん)の望(のぞみ)急にして、其の便(たより)を聞(き)き繕(つくろ)ふに、当時将軍家(しようぐんけ)の姻家(いんか)として、寄(よせ)重(おも)き大名、若狭国(わかさのくに)武田家(たけだけ)より召されて、千二百貫(くわん)の扶持(ふち)を給り、奉公の約(やく)相済(あいす)み、来早春(らいさうしゆん)御国(おくに)に引き移(うつ)るべき由(よし)の厳命(げんめい)なり。

是も偏(ひとへ)に父祖(ふそ)馬場何某(なにがし)が世に名をしられたると、ひとつには養父(やうふ)浄応が余光(よくわう)によるものなり。

 世の人見るべし。

人心(じんしん)反覆(はんぷく)常(つね)なき事、是則(すなは)ち常(つね)なるかな。

求馬此の時に至(いた)りて、心に思ふ様、早(はや)く今日(こんにち)ある事を知らば、此の丐頭(がいとう)の女婿(むこ)とはならじものを。

是我が終身(しゆうしん)の瑕(きず)也。

妻(め)又賢慧(けんけい・かしこくさとし)にして、七出(しちしゆつ)の条(でう)を犯(をか)さねば、今更(いまさら)是を絶(た)つ事もならずと、是に心を苦(くるし)め、妻女の縁(えん)によりて、名(な)をなすの助(たすけ)となりしことは、いつしか春氷(しゆんぴよう)と解(と)けて、睦月(むつき)中旬(ちゆうじん)、既(すで)に若狭(わかさ)に趣(おもむ)く発足(ほつそく)の日になりて、浄応宴(えん)を設(まう)けて行(かう)を送(おく)る。

此の時丐頭(がいとう)丐子(がいし)恐(おそれ)をなして、門に近よらず。

観音寺(くわんおんじ)より若狭(わかさ)にいたるは、湖上(こしやう)の便船(びんせん)よければ、書籍(しよじやく)雑具等(ざうぐとう)を舟に積(つ)み、馬場夫婦(ふうふ)従者(じゆうしや)と共に乗(の)り移(うつ)り、岸(きし)を離(はな)れ、其の日夜に入りて長浜(ながはま)の辺(へん)にいたり、向風(むかうかぜ)なりと、ここに船を泊(と)めたるに、頃(ころ)しも新春(しんしゆん)十五夜、月影(げつえい)昼(ひる)のごとし。

求馬舳頭(へさき)に出でて月を見る。

従者(じゆうしや)皆寝静(ねしづま)りて、四辺(しへん)を顧(かへり)みるに人なし。

心澄(す)むに随而(したがつて)、復(また)丐頭(がいとう)のことを想(おも)ひ出だし、忽(たちま)ち一個(ひとつ)の悪念(あくねん)起(おこ)つて、是非(ぜひ)此の婦人(ふじん)を殺(ころ)して、終身(しゆうしん)の辱(はぢ)を免(のが)れんと、お幸(さい)が眠(ねむり)を呼(よ)び覚(さま)して、舳(へ)さきにさそひ出で、

「今宵(こよひ)こそ一年(ひととせ)の満月(まんげつ)の始(はじめ)なれ。

賞(しやう)ぜずんばあるべからず。

ことさら隈(くま)なき影(かげ)の水(みづ)に映(えい)ぜしは、陰(くも)り易(やす)き秋影(しうえい)に譲(ゆづ)らず」

と、妻(め)が思ひより無(な)きをうかがひ、力(ちから)を極(きは)めて一推(おし)に水中に推(お)し落(おと)し、急に水手(すいしゆ)を呼(よ)びおこし、

「肝要(かんえう)のことあり、快(はや)く船を開(ひら)くべし。

褒美(ほうび)をとらせん」

といふに、何(なに)かはしらず、舟方(ふなかた)共櫓(ろ)を取り、いそぎて一直(ひといき)に船を二十町ばかりやりぬ。

求馬此の所にてはじめて、妻女(さいじよ)の水に落(お)ちしことをかたり、

「彼(かれ)月を見んと欲(ほつ)し、過(あやま)ちて水に落ちたり。

ちからの限(かぎり)救(すく)はんとしつれども、はやく沈(しづ)みて見えず。

思ふに早晩(いつしか)魚腹(ぎよふく)に葬(はうふ)りなん。

不便(びん)さよ」

と、顔(かほ)に袂(たもと)をおほひ、舟方共に賞銭(しやうせん)をあたへければ、皆々聞(き)かねども、其の心をさとりて、誰(たれ)か再(ふたた)び此の事を問(と)ひ定(さだ)めず。

船(ふね)すでに北浦(きたうら)につきて、夫(それ)より城下(じやうか)にいたり、紹介(とりつぎ)の人に就(つ)いて、主君(しゆくん)に相見(しやうけん・めみえ)し、兼ねて賜(たまは)り置きし設(まうけ)の宿所(しゆくしよ)に移(うつ)りて住(す)みけり。

 爰(ここ)に当家(たうけ)に肩(かた)をならぶる者(もの)なき一の人、樋口(ひぐち)三郎左衛門といふものあり。

此の一両年公役(くやく)にかかりて、京都(きやうと)に在りしが、頃日(このごろ)帰国(きこく)したるに、家(いへ)のきりうどなれば、当家の諸士(しよし)悉(ことごと)く来(きた)りて、其の無事(ぶじ)を賀(が)す。

馬場も参向(さんかう)して、初(はじめ)て対面(たいめん)せしに、懇意(こんい)の会酌(ゑしやく)どもありしとて、一ツの面目(めんぼく)に思ひ、時ならず此の家に行きて、其の安(あん)を問(と)ひけり。

樋口(ひぐち)、馬場(ばば)が若(わか)うして才識のすぐれしを愛(あい)し、彼(かれ)がいまだ独身(どくしん)なるをあはれみて、馬場が宅辺(たくへん)に近(ちか)き、梅山(むめやま)何某(なにがし)をまねきていふやう、

「我、妾腹(せふふく)の女子(むすめ)、京都に生(お)い立(た)ちしを、此(こ)の度(たび)倶(ぐ)して帰(かへ)りぬれば、是を馬場に嫁(か)せんと思ふ。

彼(かれ)若(わか)けれどもこころ高(たか)ければ、うけがふべきや否(いな)やを恐(おそ)るる」

といふ。

梅山いふやう、

「彼(かれ)寒門(かんもん・まづしき)より出身(しゆつしん)して、当家に出(い)づることを得(え)たり。

貴君(きくん)の縁者(えんじや)となることを得ば、兼葭(けんか・よしのたぐひ)玉樹(ぎよくじゆ)によるがごとく、何(なん)の幸(さいはひ)かこれに過(す)ぎん。

必定(ひつぢやう)此の事調(ととの)ふべし」

といふ。

樋口悦(よろこ)びて、

「左ある時は、足下(そこ)を煩(わずら)はす。

馬場に此の由(よし)を通(つう)じて、好(よき)音(おとづれ)を聞(き)かせ給へ」

といふ。

梅山何某、馬場が第(すみか)に行きて、此の由を告ぐるに、馬場如何(いかん)ぞ依允(したが)はざらん。

「権勢(けんせい)ある人の、我を女婿(むこ)に望(のぞ)まるること、身の幸(さいはひ)なり」

と、梅山が媒介(ばいかい・なかだち)によりて、期(き)をえらみ、財帛(ざいはく)をそなへて、聘(ゆひいれ)を納(おさ)む。

婚姻(こんいん)の吉期(きつき)にいたり、馬場親迎(しんげい・むこいり)の儀(ぎ)を行ひ、岳家(がくか・しうとのいへ)に至(いた)る。

此の時馬場心中九霄(きうせう・おほぞら)雲裡(うんり・くものうち)に登(のぼ)る心地、懽喜(くわんぎ・うれしさ)形容(けいよう・たとへかたどり)すべからず。

玄関(げんくわん)に入り、案内(あんない)につれて、次(つぎ)の間(ま)に通(とほ)る時、両辺(りやうへん)より七八人の使女(めしつかひ)、ばらばらと立ち出て、馬場を中にとりまはし、細(ほそ)き籬竹(かきだけ)を手に手に執(と)つて、頭(かしら)肩(かた)のわかちなく打(う)つ。

思ひがけなく驚(おどろ)けども、女なれば手むかひもならず、雨点(ふるあめ)のごとくに打(う)たれて、慌(あは)てて身(み)を縮(ちぢ)め、一堆(いつたい・ひとかたまり)と成り、

「誰(たれ)かある。

是とどめて給はれ」

と呼(よ)ばはる時、奥(おく)の一間(ひとま)より嬌声(けうせい・わかきこゑ)宛転(ゑんでん・さへづるがごとく)とひびきて、

「道しらずを打(う)ち殺(ころ)して益(えき)なし。

ゆるしてえさせよ」

と聞(きこ)ゆれば、使女(めしつかひ)ども打つことをやめて、七八人がよつて耳(みみ)を〓{手+止}(ひ)き、肩(かた)を〓{手+曳}(ひ)き、足(あし)を地(ち)につけしめず、擁(かこ)みて奥(おく)に引(ひ)つ立(た)て行き、新人(しんじん・ごしんざう)の面前(めんぜん)に引きすゑたり。

馬場口中(くちのうち)につぶやきて、

「我(われ)に何の罪(つみ)ありて、如此(かやう)に翫弄(ぐわんろう・なぶりもの)するや。

執権家(しつけんか)の勢(いきほひ)を売弄(ふれま)ふにあらずや」

と、頭(かしら)を挙(あ)げて看(み)る時、燭台(しよくだい)白昼(はくちう)のごとくかかやき、行器(ほかゐ)に腰(こし)打(う)ちかけて立ちたる婦人(をんな)は、原(もと)の妻女(さいぢよ)幸(さい)が姿(すがた)に少しも違(たが)はず。

馬場胆(きも)驚(おどろ)き、

「亡妻(ぼうさい)の怨霊(をんりやう)なるか」。

「是(これ)我鬼夢(きむ・おそろしきゆめ)を見るにあらずや」。

「さもあらばあれ、覚(おぼ)えある我が罪なり。

今更(いまさら)謝(しや)するに詞なし」

と、額(ひたひ)に汗(あせ)していふ。

傍(かたはら)の女ばら皆袖(そで)を掩(おほ)うて笑(わら)ふ。

其の時樋口(ひぐち)奥(おく)より出でて、

「賢婿(けんしよ・むこどの)、疑(うたがひ)をやめよ。

是こそ、某(それがし)帰国(きこく)の船中(せんちゆう)、水(みづ)にただよひたるを救(すく)ひあげて、養(やしな)ひ置(お)きし我が愛女(あいぢよ)なり」。

馬場ますますおどろきをかさね、手を拱(こまぬ)いて、

「我が悪事(あくじ)なり。

何事もゆるし給へ」

と、頭(かしら)をたたみに着(つ)くれば、樋口いふ、

「此の事それがしがしらざる所、如何(いかん)ともいひがたし」。

お幸(さい)怒(いか)れる涙(なみだ)を堪(た)へて、罵(ののし)つて云ふ、

「薄情(はくじやう・まことなき)の人、我(わ)が父親(おやびと)の助(たすけ)によつて、家業(かげふ)を成就(じやうじゆ)することを得て、恩(おん)を思はず、われを水に沈(しづ)めたれども、天の憐(あはれみ)ありて、今の恩人(おんじん)に救(すく)ひあげられ、養(やしな)うて義女(ぎぢよ・むすめぶん)とす。

今日(こんにち)何(なに)の顔(かんばせ)あつて〓{イ+爾}(なんぢ)に見(まみ)えん」

と、声を放(はな)ちて哭(なげ)く。

馬場羞慚(さざん・はずかしさ)面(おもて)に満(み)ち、閉口(へいこう)言(ことば)なし。

只頭を低(た)れて、あやまりゐる。

樋口、お幸(さい)を勧(すす)めて云ふ、

「今、賢婿(けんしよ・むこどの)如斯(かくのごと)く深(ふか)く罪(つみ)を悔(く)ゆ。

此の以後(いご)敢(あ)へて〓{イ+爾}を軽慢(かろし)むることあるまじ。

わが面に免(めん)じて、恨(うらみ)を散(さん)ずべし」。

樋口が妻室(さいしつ)も立ち出でて、ともどもになだむ。

原(もと)より幸が恨み罵(ののし)る本心(ほんしん)、夫(をつと)を捨(す)つる心にあらねば、ここにおいて詞(ことば)をやはらげ、此の席(せき)において、婚儀(こんぎ)を執(と)り行(おこな)ふ。

樋口曰(い)ふ、

「賢婿(けんしよ)常(つね)に岳家(しうと)の卑賎(ひせん)を恨(うら)み、夫婦(ふうふ)愛(あい)を失(うしな)ふにいたる。

今某(それがし)縁者(えんじや)となれ共、禄(ろく)うすく任(にん)卑(いや)しければ、恐(おそ)らくは賢婿(けんしよ)の意(こころ)に満(み)つまじ。

ただ貴賎(きせん)の字(じ)を論(ろん)ぜず、英雄(えいゆう)の志(こころ)を以て交(まじは)るべし」

といふ。

馬場我(わ)が心中(しんぢゆう)に深(ふか)く恥(は)ぢて、面皮(めんぴ)を紅(あか)めて、ひたすら尚(なほ)罪(つみ)を謝(しや)し、夫婦打ち連れて宿所(しゆくしよ)にかへりぬ。

 此の後(のち)馬場夫婦和好(くわかう)類(たぐひ)なく、樋口夫婦に待(たい)すること、真父母(しんぶも)のごとく、又観音寺(くわんおんじ)より浄応をむかへとりて、奉養(ほうやう)して孝(かう)を尽(つく)し、其の終(をはり)を送(おく)る。

馬場と樋口と、両家(りやうけ)由緒(ゆいしよ)ある家(いへ)と成りて、共(とも)に栄(さか)えぬと、かたり伝(つた)へたるとなり。

古今奇談英草紙第一巻終

古今奇談(ここんきだん)英草紙(はなぶささうし)第二巻(だいにのまき)

        三  豊原兼秋(とよはらのかねあき)音(いん)を聴(き)きて国(くに)の盛衰(せいすい)を知(し)る話(こと)

  豊原(とよはら)太夫(たいふ)将監(しやうげん)兼秋(かねあき)は、元弘(げんこう)の始(はじめ)、後醍醐帝(ごだいごてい)鎌倉(かまくら)の逆臣(げきしん)を避(さ)けて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なりし時、諸卿(しよきやう)と共(とも)に供奉(ぐぶ)に加(くは)はり、御輿(おんこし)など〓{手+舁}(か)きたる事ありしが、笠置没落(ぼつらく)の時、兼秋も六波羅(はら)へ捕(と)られ、糺明(きうめい)せられしかども、供奉(ぐぶ)したる斗(ばかり)にて、させる罪科(ざいくわ)なければ、禄(ろく)を放(はな)ちて京城(けいじやう・みやこ)を追(お)はれ、紀(き)の本宮(ほんぐう)に下りて、少(すこ)しの由緒(ゆいしよ)ある方へ身(み)を寄せ、在(あ)るに甲斐(かひ)なき身となりて、二年(ふたとせ)を送(おく)りぬ。

元来家(もとよりいえ)の伝(でん)ありて、音楽(おんがく)に妙(たへ)なりしかども、此の年頃(としごろ)の騒劇(さうげき)に紛(まぎ)れて、偶(たまたま)に糸竹(しちく)を操(と)るさへ、かかる漂泊(へうはく)の身(み)の故(ゆゑ)にや、糸管(いとたけ)の音(ね)さへ快(こころよ)く出ざれば、みづから操(と)るに懶(ものう)く打ち過(す)ぎたり。

元弘三年の夏(なつ)の孟(はじめ)、清女(せいぢよ)が更(さら)なりと称(しよう)ぜし月の比(ころ)に、心の趣(おもむ)く事ありて、鳳管(ほうくわん)を取(と)り出(い)だし、呂律(りよりつ)を調(しらぶ)る内(うち)にも、当初御遊(そのかみぎよいう)に参(まゐ)りて目出たかりし事共(ども)を思ひ出でて、壊旧(くわいきう)の涙(なみだ)つつみあへず、再(ふたた)び還幸(くわんかう)を拝(をが)み奉る事も有(あ)るやはと、還城楽(けんじやうらく)を籟(ふ)きすましけるに、いつにかはり快(こころよ)き音(ね)の出でければ、何となく心いさみして、音声(おんせい)に心をとどめて想(おも)ふやう、此の一両年(いちりやうねん)はしただみたる音(こゑ)のみ出でて、我(わ)が運命(うんめい)の拙(つたな)き事を浅間敷(あさまし)く思ひたりしに、今宵(こよひ)主上(しゆじやう)の事を懐(おも)ひ奉りて調(しら)べける此の管(ふきもの)、此(こ)の比(ごろ)に覚(おぼ)えざる妙(たえ)なる音(ね)の出づる事、考(かんが)ふるに、近頃(ちかごろ)主上聖運(せいうん)を開(ひら)かせ給ふ事あるべし。

都にいたりなば、其の動静(ありさま)の知(し)れぬ事あるまじと、思ひたつより心忙敷(いそがはし)く、其の夜に旅(たび)の調度(てうど)とり認(したた)めて、明早(めいさう)に本宮(ほんぐう)を出で、夜を日に足(た)して上(のぼ)りし程(ほど)に、巳(すで)に泉南(せんなん)の地(ち)にいたれば、此彼(ここかしこ)に人の打(う)ち寄(よ)りて、いかめしく語(かた)るを聞(き)けば、隠岐(おき)の帝(みかど)、配所(はいしよ)を御のがれ坐(ましま)して、書写(しよしや)に御詣(まうで)あり、今日(けふ)しも兵庫(ひやうご)に仙輿(せんよ・おんこし)を〓(とど)めらるるよしを、民(たみ)の心にもうれしげに語(かた)るを聞くより、兼秋は途(みち)を変(か)へて、兵庫にいたり見れば、御迎(むかひ)の為(ため)とて、諸国(しよこく)の武家司所(ぶけつかさ)せくばかり参り集(あつま)りたり。

此の日鎌倉の亡(ほろ)びたるよし、御座所(ござどころ)まで告(つ)げ奉(たてまつ)りしとて、歓(よろこび)の声(こゑ)街(ちまた)に充(み)つ。

兼秋天へも挙(あが)れる心地(ここち)して、諸卿(しよきやう)の内年比(としごろ)懇意(こんい)の方(かた)に就(つ)きて、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉りしに、思し召し立ちし最初(はじめ)、御輿(おんこし)に随(したが)ひし者(もの)なれば、御気色(みけしき)もうるはしく、夫(それ)より都へ還幸(くわんかう)なりて、復(ふたた)び公卿(くげ)一統(いつとう)の天下(てんか)となりて、大功(たいこう)の輩(ともがら)に、忠賞(ちゆうしやう)を行(おこな)はれける割(きざみ)、兼秋も原(もと)の禄(ろく)にかへされしかば、再(ふたた)び時(とき)に逢(あ)ひたる心地(ここち)したり。

其(そ)の年(とし)の秋(あき)、伊予国河野備後守通治(いよのくにかうのびんごのかみみちはる)が方(かた)より、内奏(ないそう)せし事の叡慮(えいりよ)に叶(かな)ひて、宣旨(せんじ)下されける其の使(つかひ)に、心しりたる者をとて、兼秋承(うけたまは)りて下りぬ。

宣旨の使なれば、重(おも)く饗応(もてな)されて、帰洛(きらく)にも多(おほ)くの人馬(にんば)を以て送(おく)らんとす。

兼秋これをとどめ、過ぎし比より足(あし)の病(やまひ)発(おこ)り出(い)でて、馬輿(むまこし)に堪(た)へ兼(か)ねつれば、船にて帰り登(のぼ)り度(た)きよしをいふ。

大事の御使なれども、巳(すで)に事調(ととの)へてのかへるさなれば、海上(かいしやう)もくるしかるまじと、花やかなる大船(たいせん)にて、兼秋を送(おく)り登(のぼ)せける。

舟中(せんちゆう)の調度様(てうどやう)の物までも心を用ひて、いささか疎略(そくりやく)なし。

一片(いつぺん・ひとつ)の風帆(ふうはん・ほにかぜをもちて)千層(せんそう)の

碧浪(へきらう・あをきなみ)を凌(しの)ぎ、見尽(みつく)したらぬは、遥山(えうざん・はるかなるやま)に翠(みどり)を畳(たた)み、遠水(ゑんすい・とほきみず)の青(あおき)を積(つ)めるなり。

既に(すで)に讃岐国屏風(さぬきのくにびやうぶ)が浦にいたる。

比(ころ)しも八月十五夜、海天(かいてん)一碧(いつぺき・ともにあをし)の月を見んと、三崖(さんがい・やまぎし)の下(もと)に舟(ふね)を泊(とど)め、暮(く)るるを待(ま)つ内(うち)、偶然風狂(おもはずもかぜくる)ひ浪湧(なみわ)き、大雨(たいう)注(そそ)ぐが如(ごと)し。

多時(たじ)ならずして風(かぜ)恬(や)めば、浪(なみ)も静(しずま)り、雨(あめ)止(や)みて雲開(くもひら)け、一輪(いちりん)の明月(めいげつ)かかやき出ず。

雨後(うご)の月其の光常(ひかりつね)に倍(ばい)して、山に添(そ)ひ海(うみ)に映(えい)じて、月色(げつしよく)いふばかりなし。

兼秋旅箱(りよさう)の中(うち)より、琴(きん)の嚢(ふくろ)を取(と)り出だし、嚢を開(ひら)き前(まへ)に置(お)き、先づ香(かう)を焚(た)きて、琴(きん)を取り調子(てうし)を掻(か)き合(あは)せて、秘密(ひみつ)の一曲(いつきよく)を弾(たん)ず。

曲未(きよくいま)だ終(をは)らず、此(こ)の琴声(きんせい)忽(たちま)ち変(かは)りて、刮刺的(くわつしり)と響(ひび)く程(ほど)に、新(あら)たなる琴弦(きんげん)の一根(ひとすぢき)断れやるを見て、兼秋大に驚(おどろ)きて、凡(およ)そ琴(きん)の秘曲(ひきよく)を弾(たん)ずる時、音律(おんりつ)を識(し)りたるもの盗(ぬす)み聴(き)く時は、琴声(きんせい)忽(たちま)ちに変(へん)ず。

都会(とくわい・ひとのあつまるところ)京城(けいじやう)の片辺(かたほとり)な

らば、かかる所にても、音(いん)を識(し)るものもあるべし。

四国(しこく)の海(うみ)に臨(のぞ)みて、荒(あ)れたる山下(さんか)、通(かよ)ひ路(ぢ)さへなき所、那(いか)んぞ琴(きん)の曲(きよく)を偸(ぬす)み聴(き)くものあらん。

若(も)しは主上(しゆじやう)に弓(ゆみ)引(ひ)くものありて、宣旨(せんじ)の使(つかひ)を窺(うかが)ふものあるか。

しからずば、或(あるい)は盗賊(たうぞく)の此(こ)の舟(ふね)の財宝(ざいほう)を心に掛(か)けて、潜(ひそ)みかくれて候更(よのふくる)を待(ま)つなるべし。

海上(かいしやう)には賊船(ぞくせん)と見ゆるものもなし。

「誰(たれ)か有(あ)る。

岸(きし)に登(のぼ)りて探(さぐ)り検(み)るべし。

樹木(じゆもく)の深所8しげり)に在(あ)らずんば、蘆葦(あしかや)の〓中(しげみ)にひそみあらん」

と下知(げぢ)をなせば、随者送(ずいしやおくり)の侍(さむらひ)迄、おつとり太刀(たち)にて崖(きし)に蹴(をど)り上らんとする時、忽(たちま)ち岸上(がんじやう・きしのうへ)に人の声(こゑ)して、

「船中(せんちゆう)の人々、騒ぐ(さわ)ぎ給ふな。

某盗賊(それがしたうぞく)刺客(しかく・ひところし)の類(たぐひ)にあらず」

と現(あらは)れ出(い)づるは、頭(かしら)に〓笠(たけがさ)を戴(いただ)きたる樵夫(きこり)なり。

船中まづは子細(しさい)あらじと静(しづま)つて、其(そ)の様子(やうす)を問(と)へば、彼(か)の樵夫(せうふ)いふ様、

「某柴(それがししば)を打(う)ちて日を晩(くら)し、驟雨(にはかあめ)に値(あ)うて雨具(あまぐ)なければ、巌(いはほ)の畔(かたへ)に潜(ひそ)みて在(あ)りしが、雨晴(あめは)れて帰(かへ)らんとするに、珍敷き(めづらし)き雅操(がさう・いとのね)を聞(き)きて、足(あし)を住(とど)め聴(き)きとれてありしが、何とて早(はや)く終(をは)り給ひしや。」

兼秋大に笑(わら)うて、

「山中柴(さんちゆうしば)を打(う)つの人、我(わ)が琴(きん)を聴(き)き得(う)る事あらんや。

〓(なんぢ)誠(まこと)の樵夫(きこり)にあらじ。

察(さつ)するに盗賊(たうぞく)の帳本(ちやうぼん)なるべし。

早(はや)く其(そ)の所(ところ)を立(た)ち去(さ)るべし。

未(いま)だ罪(つみ)なければ、命(いのち)は助け(たす)得(え)さするなり」

と、船中(せんちゆう)少し(すこ)も心をゆるさず。

樵夫(しようふ)崖上(がいしよう)より声(こえ)を挙げて(あ)、

「大人(たいじん)の言葉(ことば)とも覚えぬ物かな。

十室(じゆうしつ)のいうには、必ず(かなら)忠臣(ちゆうしん)あり。

門内(もんない)に君子(くんし)在れば、門外(もんがい)にも君子来る(きた)。

大人は、此の(こ)荒れたる(あ)山下(さんか)の雨(あめ)の後(のち)、聴く(き)人なしと思(おも)ひ給へども、すでに此の荒れ(あ)たる山下の雨の後、爰に(ここ)琴(きん)を撫(ぶ)する人あるはいかん。」

兼秋彼(かれ)が言(こと)ばの俗(ぞく)ならざるを聴きて(き)、船端(ふなばた)に出(い)でて、

「いかに樵夫(しようふ)、糸(いと)の音(ね)を聴き(き)て興(きよう)ありとは、聞く(き)べけれども、琴(きん)の品(ひん・しな)、曲(きよく)の趣(おもむき)を知る(し)にはあらじ」。

樵夫(しようふ)言ふ、

「我(われ)知らずして心をとどめんや。

詩(し)と楽(がく)とは一たい両名(いったいりようめい)、音(いん)を楽(がく)とし、詞意(ことば)を詩(し)とす。

大人(たいじん)の弾(だん)じ給ふ琴(きん)の音(いん)は、今の世に伝(つた)はる隋唐(ずいとう)の音(いん)にあらず。

東漢(とうかん)以上(いじよう)の音(いん)なり。

今宵(こよい)弾(だん)じ給ふは、南宮(なんきゆう)の譜(ふ)の後詠(こうえい)、博雅(はくが)四帖(しじよう)の曲(きよく)也。

是(これ)を詞(ことば)にあらはす時は、

  秋月ろ江白(しゆうげつろこうしろし)

  初驚冷露時(はじめておどろくれいろのつゆ)

  寒衣尚未了(かんいなおをはらず)

この三句にいたりて、弧断(いとき)れたり。

第四句(だいしく)、某(それがし)よく記得(おぼ)え侍る。

  郎喚われ底為(ろうよばばわれをなにとかせん)」

兼秋是を聞きて、心中に想(おも)ふやう、誠(まこと)に此の道は、其のむかしあやしき草の庵(いおり)より伝(つた)はりし事もありつれども、今の世にては貴人(きにん)の手(て)にの巳(のみ)もてはやして、村夫野人(そんぷやじん)には疎き(うと)物なる上、琴(きん)は中にも其の伝絶え(でんた)絶えにて、我が(わ)家(いえ)より外(ほか)に知るものなし。

彼(かれ)いかがして聞(き)きとりたるや。

或(あるい)は若(も)し外(ほか)の家(いへ)にも伝(でん)ありて伝(つた)へたるや。

彼(かれ)を呼(よ)んで盤問(なじりと)ふべしと、声(こゑ)を挙(あ)げて、

「崖上(がいしよう)の人果(ひとはた)して俗子(ぞくし)にあらず。

崖(きし)と船(ふね)と問答便(もんたふべん)ならず。

此(こ)の船(ふね)へ来(きた)られよ」

といふ。

此の樵夫辞(せうふじ)する気色(けしき)なく、木(き)の根(ね)を伝(つた)ひて、舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)る。

誠(まこと)に樵夫(せうふ)と見(み)えて、蓑(みの)を披(き)、芒鞋(わらぢ)穿(は)きて、手(て)に尖擔(とがりぼう)、腰(こし)に板斧(まさかり)あり。

舟中(せんちゆう)の下部(しもべ)どもは、彼(かれ)が物語(ものがたり)の故実(こじつ)ある事を知らねば、彼(か)のもの我(わ)が主人(しゆじん)に見参(げんざん)して、何(なに)をか物(もの)がたるやらんと、たがひにひそみ笑(わら)ふを、耳(みみ)にもかけず、樵夫(せうふ)は徐(しづか)に蓑(みの)を脱(ぬ)ぎ、藍布袷(あをぬのあはせ)の腰(こし)のからげをおろし、蓑笠擔斧(みのかさたんふ)を船(ふね)の端(はし)に置(お)きて、芒鞋(わらじ)を脱(ぬ)ぎて、艙(ふなやかた)に入り来(きた)る。

兼秋、官(くわん)卑(ひく)しといへども、身(み)、宣旨(せんじ)の使(つかひ)也。

樵夫(せうふ)に対(たい)して礼(れい)を施(ほどこ)さば、恐(おそ)らくは官服(くわんぷく)を汚(けが)すべしと思へども、已(すで)に舟に請(こ)ひ下したれば、いかんともすべき様(やう)なく、只(ただ)手(て)を挙(あ)げて会釈(えしやく)す。

樵夫(せうふ)すこしも謙譲(けんじやう)せず、直(ただ)ちに平座(へいざ・ろくにゐる)して、人を何(なに)とも思(おも)はぬさまに、兼秋微(すこ)し嗔怪(いかり)を起(おこ)し、わざと其の姓名(せいめい)をも問はず、茶(ちや)をも当(あた)へず、良(やや)久(ひさ)しく互(たがひ)に物(もの)をもいはざりしが、兼秋彼(かれ)を流目(ながしめ)に見やりて、

「岸(きし)の上(うへ)にて琴(きん)を聴(き)きしは、其(そ)の方(はう)にてありしや。

〓(なんぢ)、琴(きん)の由来(ゆらい)する所を知るや。

琴(きん)は何人(なにびと)の造(つく)る所(ところ)、是(これ)を撫(ぶ)して何(なに)の徳(とく)ありや」

と、盤問(なじりと)ふ時、船頭(せんどう)呼(よばは)つていふ、

「風(かぜ)順(じゆん)になりて月明(げつめい・つきのあかり)昼(ひる)のごとし。

船を出すべし」

といふを聴(き)きて、樵夫(せうふ)早坐(はやざ)を起(た)ツて、

「大人(たいじん)の御尋(おんたづね)を申さば隙(ひま)どりて、順風(じゆんぷう)の便(たより)を誤(あやま)り給はん」。

兼秋、

「はかるに〓(なんぢ)知(し)る事あたはじ。

しらば語るべし。

舟の遅(おそ)きはいとはず」

樵夫(せうふ)坐(ざ)にかへりて、

「左(さ)ある時は微(すこ)しく是(これ)を演(の)べん。

夫琴(それきん)の類数(たぐひす)種(しゆ)あり。

琴(きん)・箏(さう)・琵琶(びは)・和琴(わごん)を、我(わ)が朝(てう)総(すべ)てことと呼(よ)ぶ。

こはおの転音(てんいん)にして、こととは音(おと)なり。

引きならせば音(おと)あるといふことば也。

足下(そこ)の学(まな)び得(え)給へるは、琴(きん)のこと也。

是(これ)唐土伏義氏(もろこしふつきし)の琢(たく)する所、梧桐(ごどう)は鳳凰(ほうわう)の棲(す)める樹(き)にて、樹中(じゆちゆう)の良材(りようざい)なればとて、一(ひと)つの木(き)を伐(き)らしめらる。

其(そ)の樹(き)高(たか)さ三丈三尺(さんぢやうさんぢやく)あり、三十三天(さんじふさんてん)の数(すう)にかなふ。

天地人(てんちぢん)の三才(さんさい)に拠(よ)つて、是(これ)を〓(き)つて三段(さんだん)となす。

上(かみ)の一段(いちだん)を叩(たた)けば、其(そ)の声(こゑ)太(はなは)だ清(す)みて軽(かろ)きに過(す)ぎたりとて、是を廃(す)て、下(しも)の一段(いちだん)を叩(たた)けば、其の声太(はなは)だ濁(にご)りて重(おも)きに過(す)ぎて用(もち)ひず。

中の一段を取ツて是を叩けば、其の声清濁相済(せいだくあひひと)しく、軽重(けいちよう)相兼(か)ねたりとて、是を長流水(ちやうりうすい)に浸(ひた)す事七十二日、是七十二候(こう)の数(すう)なり。

削(けづ)りて楽器(がくき)となす。

其(そ)の長サ三尺六寸一分、周天(しうてん)三百六十一度(ど)を取る。

前(まえ)の方闊(はば)の八寸あるは、八節(はつせつ)の数(すう)、後(しりへ)の方闊(はば)四寸あるは、四時(しいじ)を象(かたど)る。

厚(あつ)さの二寸は両儀(りようぎ)を象(かたど)る。

金竜頭(きんりようとう)・玉女腰(ぎよくぢよえう)・仙人背(せんにんはい)・

竜池(りようち)・鳳沼(ほうせう)・玉軫(ぎよくしん)・金〓(きんき)の名あり。

〓(き)の十三あるは、十二月と閏(じゆん)月と也。

其のはじめは五弦(げん)有リて、外(そと)には五行(ごぎやう)の金(きん)・木(ぼく)・水(すい)・火(くは)・土(ど)、内には五音(ごいん)の宮(きゆう)・商(しやう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)を按(あん)じたり。

周(しう)の文王(ぶんわう)一弦(げん)を添え給ふ。

其の音(こゑ)清幽哀怨(せいいうあいゑん・かすかにうらむるがごとし)、是を文弦(ぶんげん)といふ。

後(のち)に武王(ぶわう)一弦(げん)を添え給ふ。

其の音激烈発揚(げきれつはつやう・はげしくつよし)、是を文弦(ぶげん)といふ。

合(あは)せて七弦、宮・商・角・微・羽・文(ぶん)・武(ぶ)也。

後世(こうせい)唐(たう)の太宗(たいそう)、二弦を加(くは)へて九弦(げん)とす。

我(わ)が朝(てう)へ伝(つた)はりしは、唐より以前なる故、七弦の古体(こてい)なる、是猶尊(たつと)むべし。

此(こ)の琴(きん)を撫(ぶ)するに、香(かう)を焚(た)き意(こころ)を正(ただ)しうして撫(ぶ)す。

美善(びぜん)の所にいたりては、虎狼(こらう・とらおほかみ)聞(き)いて吼(ほ)えず、哀猿(あいゑん・かなしむさる)聴(き)いて啼(な)かず。

尭舜(ぎようしゆん)の御世(みよ)には、五弧(ごげん)の琴(きん)を操つて(と、南風(なんぷう)の詩(し)を歌う(うた)て、天下大に治まる(おさ)。

是琴(これきん)の徳(とく)ある所なり。

又和琴(わごん)は日本琴(やまとごと)といふ。

かたじけなくも日の神天盤戸(かみあまのいはと)に篭らせ給ひし時、御琴神(ことのかみ)、天香弓(あまのかごゆみ)六張(ちよう)を用ひ、其の弦(つる)を鳴して(なら)、神楽(かぐら)に和せしより起(おこ)るといへり。

其の製(せい)六弦にして、琴甲反(きんこうそ)りて上(うえ)に向い(むか)、弓状(ゆみのかたち)のごとく、楓(もみじ)の枝をとりて柱(はしら)とし、牙骨螺でん(げこつらでん・ぞうげあおがい)の飾(かざり)を用ひず、膝(ひざ)に安(お)きて弾(たん)ずること古風(こふう)にや。

万葉集(まんようしゆう)に、人の膝(ひざ)の上我枕(まくら)せんとあり。

それがしひそかに思ふに、和琴(わごん)といへるも、唐土(もろこし)の琴(きん)のいまだ武弦(ぶげん)を加(くわ)へざる時(とき)、我(わ)が朝(ちよう)の神代(かみよ)に伝来(でんらい)せし雅楽(ががく)の具(ぐ)と思はる。

上古(じようこ)より有り(あ)伝(つた)はりし故に、やまとごとといふなりべし。

又或は(あるい)和琴(わごん)・笛(ふえ)などは、正しく(まさ)神代(じんだい)の楽舞(がくぶ)とともに、造り(つく)出されし物にて、異国(いこく)を待たざる(ま)ものか。

我が朝神道(しんどう)の楽舞は、別(べつ)に其の伝(でん)ありて、伊勢(いせ)出雲(いずも)・熊野(くまの)・三輪(みわ)などには、むかしより残(のこ)りしと承(うけ玉は)りぬれども、近頃(ちかごろ)は聞き(き)及び侍らず(はべ)。

上古には神を降(くだ)すに、皆此の和琴(わごん)を鳴(なら)せり。

今の世(よ)に内(うち)の御神楽(みかぐら)に合奏(がっそう・あはせひく)す。

神人和悦(しんじんこうえつ・かみひととやわらぎ)、妖邪(ようじや・あくま)遠く(とお)去る(さ)、是和琴(わごん)の妙所(みようしよ)なり。

箏(そう)の琴は秦(しん)の蒙恬(もうてん)が造(つく)る所、今世に伝(つた)はる十三弦(げん)の物なり。

上(かみ)の円(まろき)は天の象(かたどり)、下の方(かどある)は地(ち)の象(かたどり)、中(なか)の空(くう)なるは六合(あめがした)の象(かたどり)、十三の柱(ことぢ)は十二月に潤(じゆん)月を加(くは)へたる象(かたどり)也。

柱(ことぢ)の高(たか)サ古(いにしへ)は三寸あり、是三才(さんさい)の象(かたどり)、長サ六尺あるは、六律(りくりつ)の象也。

今楽器(がくき)に是を合奏(がつそう)す。

雄略天皇(ゆうりやくてんわう)の朝(てう)、秦(はだ)の酒公(さけのきみ)是を弾(たん)ぜしよし、其の頃はいまだ雅音(がいん)を離(はな)れず、欽明(きんめい)天皇の世に舞楽(ぶがく)初めて渡(わた)り、推古(すいこ)天皇にいたりて、音楽(おんがく)ことごとく備(そな)はり、隋唐(ずいたう)の音(いん)に合(あは)せたるより、箏(さう)も雅音(がいん)を失(しつ)して、今(いま)の燕楽(えんがく)、音(いん)に混(こん)じたり。

近比(ちかごろ)筑紫大内(つくしおほち)の家にては、雅楽(ががく)の曲に模擬(もぎ・かたどり)して、大和(やまと)ことの葉(は)の頌歌(しようが)を添(そ)へて、作り出だされしを、此の比(ごろ)は翫(もてあそ)ぶ人も見えたり。

雅楽(ががく)には音(いん)のみありて、其の詞(ことば)絶(た)えたれば、かく成(な)り行(ゆ)くべき事と思はるるなり。

琵琶(びは)のことは、唐土(もろこし)の濫觴(はじめ)、西域(せいいき)より出(い)でたるものにて、形(かたち)満月(まんげつ)の象(かたどり)にて、長サ壱尺五寸、三五夜(さんごや)の数(すう)に象る。

四弦(しげん)は四時(しいじ)とす。

我が朝古代(こだい)に翫(もてあそ)びたること、諸(もろもろ)の物がたりにも多く見えたり。

是も寿永以来(じゆえいいらい)平語(へいけ)を弾(たん)ぜしより、貞敏(さだとし)が学びし廉承武(れんじようぶ)が伝(でん)も衰(おとろ)へたり。

唐土魏晋(もろこしぎしん)の世に、竹林七賢(ちくりんしちけん)の内、阮咸(げんかん)といふもの、琵琶(びは)・琴(きん)の学びがたきものの為(ため)に、其(そ)の体(てい)を変(へん)じて、四弦とし、十三の柱(ぢう)を加(くは)へて、律(かん)どころを分(わか)ち知(し)らしむ。

其以来弥(いよいよ)変(へん)じて、近頃(ちかごろ)琉球国(りうきうごく)より渡(わた)りし、提琴(ていきん・こきゆう)・三弦琴(さんげんきん・さみせん)といへるものを見るに、是亦琵琶(びは)の変体(へんてい・つくりかへ)也。

我が国に其の伝(でん)を知るものなければ、世に行はれず。

其の音を聞くに太(はなは)だ清亮(せいりやう・きよくさえ)にして、其の曲(きよく)の品(しな)によりて淫声(いんせい)に流(なが)るべきものなれども、今の世の雅楽(ががく)といへるも、隋唐(ずいたう)の燕楽(えんがく・しゆえんがく)にて、酒宴(しゆえん)の席(せき)閨(ねや)の中(うち)にても奏(そう)せし音(こゑ)なれば、此の琴(なりもの)も後世(こうせい)我が朝に弘(ひろま)りなば、末代(まつだい)に至りては、楽器(がくき)にもなるべき物なり。

其の余新羅琴(よしらぎごと)・百済琴(くだらごと)の名あれども、悉(ことごと)くかたるに及ばず」

と、利口(りこう)流(なが)るるが如く演(の)べければ、兼秋(かねあき)是を聞きて想(おも)ふに、等閑(なほざり)の者にあらず。

雅楽(ががく)の大概(たいがい)を知(し)るものか、恐(おそ)らくは是記聞(ききおぼえ)の耳学問(みみがくもん)なるも知(し)るべからずと、又問(と)ふ、

「唐土(もろこし)にも音(いん)を知るものは、其の弾(たん)ずる音(いん)を聴(き)きて、其の人の思念(しねん・おもひいる)する所を知る。

我(われ)今(いま)思ふ所あらば、爾(なんぢ)音(いん)を聞(き)きて是を知るや否や」

樵夫(せうふ)云ふ、

「大人試(こころみ)に撫弄(ぶろう・かきならし)し給へ。

小生(せうせい・やつがれ)随分(ずいぶん)聴(き)き取(と)るべし。

若(も)し言(い)ひ当(あ)てずともとがめ給ふな」

といふ。

兼秋断(た)えたる弦(いと)を整(ととの)へ、其の意(こころ)を高山(かうざん)にあらしめ、琴(きん)を撫(ぶ)する事一弄(いちろう・ひとて)、樵夫賛(ほ)めて云ふ、

「琴声(きんせい)美(び)なる哉(かな)。

洋々(やうやう・さかんなり)たり。

大人(たいじん)の意(こころ)、高山(かうざん)に在り」

兼秋答(こた)へず、又神(しん)を凝(こら)して、再(ふたた)び琴(きん)を鼓(なら)す。

其(そ)の意(こころ)を海水(かいすい)に在らしむ。

樵夫又賛(ほ)めて云ふ、

「美(び)なる哉(かな)。

湛々(たんたん・ふかし)たり。

志(こころ)海水(かいすい)に在り」

此の両句(りやうく)を言(い)ひ当(あ)てられて、兼秋琴(きん)を推(お)しのけて、樵夫を上座(じやうざ)に直(なほ)し、礼(れい)をなして、

「思はざりき、砂中(しやちゆう)金(きん)あり。

貌(かたち)を以て人を論(ろん)ずべからず。

願(ねが)はくば姓名(せいめい)を聞(き)かせ給へ」

といふ。

樵夫も此(こ)の時(とき)にこそ身を屈(かが)めて、答(こた)へて云ふ、

「小生(やつがれ)姓は横尾(よこを)名(な)は時陰(ときかげ)、親(おや)なるものは其のむかし大和介(やまとのすけ)といつて、代々(よよ)天王寺(てんわうじ)に住(す)みて、八幡(はちまん)太郎(たらう)殿(どの)より琵琶(びは)の伝(でん)を授(さづ)かりし家(いへ)にて、時陰(ときかげ)は家(いへ)の通(とほ)り名なり。

近年世の中騒々敷(さうざうし)く、津の国にも住(す)み佗(わ)びて、三十年以前に此の国に下り、所縁(ゆかり)にたよりて民間(みんかん)に潜(ひそ)み、浅間敷(あさまし)き活業(よわたり)をなせども、此の音楽(おんがく)の道(みち)は、故実(こじつ)などいみじき事共覚えて、その事此の事などは、楽匠(がくしやう)の家(いへ)にも、取(と)り失(うしな)ひたると申す事多(おほ)く、我等父子(ふし)田(た)かりに出でたるやすらひにも、鎌(かま)のつかを笛(ふえ)籟(ふ)く様(やう)にして、手ざしを教(をし)へしかば、我も心を用(もち)ひて授(さづ)かり、親の覚えたる程は、残る所なく覚え侍る。

琴(きん)の伝(でん)は今の世に絶(た)えたれば、識(し)る人(ひと)なしと思ひたるに、今宵(こよひ)珍敷(めずらし)き音色(ねいろ)に耳(みみ)をとめて聞(き)きぬれば、我(われ)は琴(きん)を知らねども、管(ふきもの)の譜(ふ)に合(あは)せて、曲(きよく)を聴(き)きとりたり」

と語(かた)るを聞(き)きて、兼秋、

「さればこそ聞き及びたる堪能(かんのう)の家にておはすれ。

たとへ其の家にても、ただ糸竹(いとたけ)の程(ほど)拍子(ひやうし)をよく覚えたるばかりにて、君がごとくに音(いん)を知るものは、未(いま)だ我が朝に聞き及ばず。

我も琴(きん)を弾(たん)ずれども、君がごとくに音(いん)を聞きとる事は及ばず。

是天性(てんせい)の聡明(そうめい)にして、伝(つた)への為(な)すべきにあらず」

時陰(ときかげ)云ふ、

「琴(きん)は古代(こだい)の音(いん)なるゆゑに、其の音(こゑ)に頌歌(しようが)ありて聴(き)くべし。

今の糸竹(しちく)にては、譜(ふ)なきものの聴(き)きとらるべきにあらず。

全体(ぜんたい)皆興(きやう)ある音(こゑ)なれば、存亡(そんばう)吉凶(きつきやう)いかんぞ音(いん)に聴(き)きとるべき」

兼秋云ふ、

「足下(そこ)のごとく音(いん)を識(し)る人ありてこそ、我(わ)が琴(きん)の甲斐(かひ)もあるべし。

此以後結(むす)んで兄弟となり、足下(そこ)の伝(つた)へられし事も聞(き)き、我(わ)が伝(つた)へし故実(こじつ)も語りて、再(ふたた)び足下の家をも興(おこ)すべきはかり事をなさん」

と、互(たがひ)に心を傾(かたふ)けて、時陰は二十六歳にて、兼秋一歳長じたればとて、兄と敬(うやま)ひぬ。

後世に懇意(こんい)なるものを知音(ちいん)といふも、此の理(ことわり)なるべし。

  扨時陰の居所(きよしよ)はと尋(たづ)ぬれば、時陰いふ、

「ここより遠からず。

此の所多度(たど)の郡(こほり)の内(うち)なり。

それがしが住所(ぢゆうしよ)はここを去ること一里ばかり、鵜足(うた)の郡(こほり)に属して、山中村(やまなかむら)といふ。

賢兄(けんけい・わがあに)公(おほやけ)のことにあらずんば、草〓(さうろ・くさのいほり)に案内申して、我が双親(ふたおや)へも逢(あは)せ奉りなん」

といふ。

兼秋何をがなと従者(じゆうしや)に命(めい)じて、酒を酌(く)みて款待(くわんたい・もてなす)する内、東方(とうばう)白(しろ)くなりて、水手都(すいしゆす)べて起(お)き出で、篷縄(ほなは)を調(ととの)ふ。

時陰(ときかげ)も暇(いとま)を乞(こ)ふ。

兼秋更(さら)に一盃(いつばい)を進(すす)めて云ふ、

「賢弟(けんてい・わがおとと)に相見(まみゆ)る事、恨(うら)むらくは甚だ遅くして、別(わか)るる事何ぞ太(はなは)だ早(はや)きや。

や。

たがひの胸中(きようちゆう)語(かた)り尽(つく)すべきにいとまなし。

此の舟に乗りながら、高松(たかまつ)迄も来り給へ。

人を以て送(おく)りかへしなん」

といふ。

時陰云ふ、

「某(それがし)も左思へども、二親(ふたおや)年老(お)いて、今宵(こよひ)道(みち)に滞(とどこほ)りしさへ待(ま)ち侘(わ)びなんと、罪(つみ)ありて覚ゆれば、其の事叶(かな)はず」

といふ。

「然らば跡(あと)より都へ来り給へ」

「其(そ)の儀(ぎ)も親のゆるしの程はかり難(がた)ければ」

といふ。

兼秋云ふ、

「賢弟(けんてい)又孝子(かうし)也。

然らば明年それがし来りて、賢弟(けんてい)を尋ぬべし」

時陰云ふ、

「賢(けん)兄、明歳(めいせい)何((いつ)の時来り給ふ。

我(われ)道(みち)に出でて迎(むか)へ奉るべし。

道の通路(つうろ)塞(ふさが)りぬれば、書信(しよしん・ふみのたより)の往来(わうらい)も便(たより)あしし。

今其の期(ご)を聞かせ給へ」

といふ。

兼秋指(ゆび)を屈(くつ・をる)して、

「昨夜(さくや)中秋十五夜、天(よ)明(あ)けたれば十六日、我(わ)が来るは、かならず此の中秋(ちゆうしう)両夜の内に、即(すなわ)ち此所に来るべし。

若(も)し時を違(たが)へなば、人と言(い)ふべからず」

と、堅(かた)く約(やく)して、互(たがひ)に涙を灑(そそ)ぎ、別(わか)るるに臨んで、兼秋一封(ほう)の金子を出だして、時陰に与(あた)へ、

「足下(そこ)の両親(りようしん)は、某(それがし)が為(ため)にも親(おや)なり。

是を以て供養(きようやう)の資(たすけ)とす。

軽(かろ)きを嫌(きら)ふ事なかれ」

時陰辞(じ)せずして是を受け、岸(きし)に登りてかへり去(さ)る。

兼秋が舟も順風(じゆんぷう)に任(まか)せて、大物(だいもつ)に着岸(ちやくがん)して、是より送(おくり)の船を還(かへ)し、都にかへり登りぬれば、天気うるはしく、不時(じ)の禄(ろく)など給(たまは)りて、休息(きうそく)しけり。

光陰(くわういん)矢(や)のごとく年(とし)人を待(ま)たず、春(はる)去(さ)り夏(なつ)来(きた)り、中秋(ちゆうしう)の節(せつ)ちかくなれば、兼秋は時陰がことを忘れず(わす)、公(おおやけ)に暫(しばし)のいとま中し請(う)けて、便船(びんせん)し、順風(おいて)に滞(とどこおり)なく、八月十五日に彼(か)の屏風浦(びようぶがうら)に着(つ)きぬ。

水手(すいしゆ)に告げて(つ)、去年(きよねん)時陰に逢(あ)いし所かと覚(おぼ)しき所に舟をつけて、明け(あ)なば崖(きし)のぼるべしと、ここに舟泊(ふなどまり)しけるが、月明白昼(げつめいはくちゆう)のごとくなれば、想(おも)う去歳知音(きよせいちいん)ここに逢(あ)いし時、雨(あめ)止(や)んで月明(つきあきらか)なり。

今年重(かさ)ねて来りてまた良夜(りようや・よきつき)、他崖(かれきし)の辺(ほとり)にて待つべしといひしが、其の影(かげ)も見えぬは、約(やく)を忘(わす)れたるにては無(な)きか。

実(げ)にや、此の所に泊まる(と)船外にも多(おお)く在(あ)るべし。

我(わ)が弟(おとうと)如何(いかん)ぞ分(わか)たん。

去年は我(われ)琴(きん)を弾(だん)じて彼(かれ)を得(え)たり。

今宵も琴を弾(だん)じて、ここに来れる事を知らすべしと、弦(いと)を調(ととの)へ、しん(しん・てんじゆ)を転(めぐら)して、わずかに掻(か)き合(あわ)せけるに、商(に)の弦(いと)哀怨(あいえん)の声(こえ)あり。

兼秋手を停(とど)めて操(と)らず、商(しよう・この)弦(いと)哀声(げんあいいとかなしきね)深切(しんせつ)なるは、吾(わ)が弟(おとと)必ず憂(うれい)に逢(あ)ひて、引き篭(こも)りあるなるべし。

去歳(きよせい)年高(としたか)き父母(ぶも)ありといふ。

父を亡(うしな)ふにあらずんば、母に後(おく)るるか。

他至(かれいた)つて孝子也。

事に軽重(けいちよう・かるきおもき)あれば、服忌(ぶくき)の近(ちか)きが故に、我(わ)が約(やく)に違(たが)ふならん。

天明(そらあ)けば彼(かれ)が家に行きて尋ぬべしと、琴(きん)を収(おさ)めて寝(い)ねたれども、眼(め)も合(あ)ひかねて、明(あ)くるや遅(おそ)しと船にもいとま遣(つかわ)し、行李(こうり・たびずら)とり持たせ、五六輩(はい)の従者(じゆうしや)を引き連(つ)れて、香燭料(こうしよくりよう・たきものろうそく)に送(おく)らん為、一枚(いちまい)の金を封(ふう)じて、其の外、都の土産(どさん)取り添へ持たせ、樵径(しようけい・きこりみち)を伝(つた)うて、賎(しず)のをしへにつれて、一里斗(ばかり)行(ゆ)きしが、里(さと)に入って、一条(ひとすじ)の大路(おおみち)に出でたり。

山中村(やまなかむら)へ行(ゆ)くには、東(ひがし)へや行(ゆ)く西(にし)へや行(ゆ)く、所の人の来れかし、問(と)ひ明(あきら)めて行くべしと、路ばた(みちばた)の石にしりかけて、少(しばら)く憩(やす)みける間、左の方の路(みち)より、一人の老人、髪髭(かみひげ)白きが、左りに藤(ふじ)の杖(つえ)を挙(あ)げ、右に布包み(ぬのつつみ)を携(たずさ)へ、徐(しずか)に歩(あゆ)み来る。

兼秋(かねあき)近(ちか)くよりて、

「山中村へはいずれの方へ行くやらん」

と問(と)ふ。

老人言ふ、

「東も西も山中村へ行(ゆ)く路(みち)なり。

左(ひだり)へ行けば上山中村、右へ行けば下山中村なり。

此(こ)の里(さと)街(まち)一条(ひとすじ)にて十町ばかり、両傍(りようほう)に人家(じんか)連(つらな)れり。

旅(りよ)人は山道(やまみち)より来り給へば、此の街(まち)の正中(まなか)へ出で給へり。

是よりは右へも五町、左りへも五町、旅人の尋ね給ふは、上の村か下の村か」

と問はれて、兼秋黙然(もくねん)として想(おも)ふに、我が弟聡明(そうめい)の人、いかんぞ細(こまか)に居所(きよしよ)をいはざると、按(あん)じ〓(がほ)なれば、老人云ふ、

「一定(いちぢやう)夫(それ)は居所をいふ人、上下を分(わか)たずに、只(ただ)山中村と斗申せしなるべし。

此(こ)の村中に知らざる人なし。

御尋(おたづね)の人の姓名はいかなるや」

といふ。

兼秋云ふ、

「我が尋(たづ)ぬる人は横尾時陰(よこをときかげ)といへり。

名をつつみ世を避(さ)けたる人なれば、村中にては何と呼(よ)ぶやらん」

此(こ)の老人(らうじん)、時陰の二字を聴(き)きて、双眼(さうがん)より涙をはらはらとこぼして、

「旅人(りよじん)別(べつ)の所ならば行き給へ。

時陰を尋(たづ)ね給はば行(ゆ)き給ふな」

といふ。

「こは何故」

ととへば、老人声(こゑ)を放(はな)ちて、大に哭(こく)し、涙ながらにいふやう、

「時陰は我(わ)が倅(せがれ)にて、我(わ)が家(いへ)、原(もと)伶倫(れいりん・がくにん)なり。

去年八月十五夜、採樵(きこり)に出でて遅(おそ)くかへり、都がたの楽匠(がくしやう)とやらん、上(うへ)の使(つかひ)にまかりて還(かへ)るに行き逢(あ)ひ、めづらしき琴(きん)の曲(きよく)を聴きて、互(たがひ)に道をかたり、意気(いき)相投(あひとう・たがひになげうつ)じて、兄弟の約(やく)をなせしと、其の人の贈(おく)られし金子(きんす)にて、衣(い)を買(か)うて翁(おきな)が老体(らうたい)を養(やしな)はしめ、彼(か)の人(ひと)にすすめられて、再(ふたた)び家職(かしよく)を興(おこ)さんと、心をはげまし、朝(あした)に柴(しば)を打(う)ちて重(おもき)を負(お)ひ、夜(よる)は音律(おんりつ)の事、に工夫(くふう)をこらし、此の故に心力(しんりよく)耗廃(がうはい・へらしつかれ)して、怯疾(けふしつ・つかれやまひ)に染(そ)み、数月以前(すげついぜん)に身(み)まかりき」

兼秋(かねあき)是を聴くより、涙泉(いづみ)のごとく、大叫一声(たいけういつせい・おほきにさけぶ)して、地に倒(たふ)れたり。

老人

「扨は我(わ)が児の物がたりせし、豊原将原(とよはらしやうげん)殿にてはなきか」

といへば、従者(じゆうしや)共

「しかり」

と答(こた)ふ。

兼秋従者に扶(たす)け起(おこ)されて、人心地(ひとごこち)はつきたれど、ひたすら胸(むね)を打ちてやまず、吐息(といき)して云ふ、

「昨夜(さくや)約(やく)を違(たが)へしかと思(おも)へば、すでに泉下(せんか・つちのそこ)の人となりしか。

時陰(ときかげ)と我(われ)と一体(いつたい)になれば、某(それがし)ある上は時陰存生(ぞんじやう)すと思ひ給へ。

さもあれ何(いづ)くへか葬(はうふ)り給へる」

老人云ふ、

「我(わ)が児(こ)臨終(りんじゆう)の時、死後必(かなら)ず屏風浦(びようぶがうら)の崖(きし)の辺(ほとり)に葬(はう

ふ)り給へ。

我(われ)豊原(とよはら)兼秋に、其の所に会(くわい)せんといふ約(やく)あり、其(そ)の言葉(ことば)を違(たが)へじと思ふなりと、遺言(ゆいげん)にまかせ、足下(そこ)の来り給へる小路(こみち)の傍(かたはら)、右の方に一丘(いつきう・ひとつかね)の新土(しんど)あるは、即(すなは)ち時陰が家(つか)也。

今日(けふ)百日(ひやくにち)の忌(き)なれば、老夫(らうふ)此の香餅(かうべい・たきものもち)を持ちて、墳前(ふんぜん・つかのまへ)に到(いた)る所に、思はず足下(そこ)に逢ひ奉りぬ」

兼秋云ふ、

「しからばそれがしも倶(とも)に行くべし」

と、老人にかはりて、布づつみを従者(じゆうしや)にとり持たせ、原(もと)来りし路(みち)に来れば、果たして新丘(しんきう・あたらしきつか)あり。

兼秋衣冠(いくわん)を取り出(い)だして着(ちやく)し、花を供(くう)じて、墳前(つかのまへ)に拝(はい)をなし、

「我(わ)が弟(おとと)聡明(そうめい)なれば、死後(しご)にも神(しん)をとどむべし。

吾(わ)が心中を察せよ」

と、声を放(はな)ちて再(ふたた)び泣(な)き沈(しづ)みたり。

此の山前山後(さんぜんさんご)の百姓山賊(やましづ)ども、見なれぬ衣冠の人、横尾が丘(つか)に参詣(さんけい)せしと聴(き)きて、遠近(ゑんきん)集(あつま)りて是を見る。

兼秋備(そな)ふべき供物(ぐもつ)もなければ、行李(あんり・たびつづら)より琴(きん)を把(と)り出(い)だし墳前(ふんぜん

・つかのまへ)に坐して膝(ひざ)に置(お)き、涙(なみだ)とともに弾(たん)じければ、此の百姓ども、琴韻(きんゐん・ことのなりおと)の鏗鏘(かうしやう・つやなきひびき)なるを

聞きて、興趣(おもしろげ)なきものと、掌(て)を鞁(う)つて大に笑(わら)ひ去(さ)りぬ。

兼秋弾じをはり、

「彼(かれ)ら何をか笑ひしや」

と問へば、老翁(らうをうい)云ふ、

「辺鄙(へんぴ)の人音律(おんりつ)をしらず、琴(きん)を見て楽(たのしみ)の具(ぐ)なりと思ふが故に、雅楽(ががく)の清音(せいいん)を聞きて耳(みみ)に入らず、興(きよう)なきものに思ひて、笑ひ散(ち)りたるなり」

兼秋云ふ、

「今の曲(きよく)さへかくのごとし。

誠(まこと)の琴(きん)の秘曲(ひきよく)は猶さら馬耳風(ばにふう)ならん。

賎(しづ)山がつにても興ありと思ふにあらずんば、此の曲衰(おとろ)ふるもむべなり。

今弾ぜしは、それがし心にうかみて手(て)に応ずる一曲、大和(やまと)ことのはに演(の)べて、大内家(おほちけ)の箏(さう)の組(くみ)にも略(ほぼ)似(に)たり。

其の詞(ことば)聴(き)き給へ」

とて、

「此の秋を、むかしになして人もがな。

はかりしられぬ雲(くも)がくれ、新(あら)つかのかげ音(こゑ)もなし。

たよりもしらぬ此の山中に、我(われ)ふりすてて一声(ひとこゑ)ばかり、           それかとぞ聞(き)くよぶこどり。

是(これ)、時陰(ときかげ)を弔(とむら)ふ詞(ことば)なり」

と、かたりをはりて、兼秋帯剱(たいけん)を抜(ぬ)き出だし、琴(きん)を二ツに割(き)り断(わ)れば、玉軫(ぎよくしん・てんじゆ)飛(と)んで、金徽零乱(きんきれいらん・めどほしみだれちる)たり。

翁(おきな)驚き、

「これはいかなる動作(ふるまひ)ぞや」

といぶかる。

兼秋嘆(たん)じて云ふ、

「琴の曲久しく廃(すた)れて、漢土(かんど)は元より、我が朝にも知る人なく、其の伝(でん)僅(わづか)にそれがしにのこれり。

某(それがし)是を棄(す)つる時は、此の曲永く絶(た)えて、後の世に琴(きん)の正音(せいいん)なる事をしる人も有るまじ。

時陰巳(すで)に空(むな)しくなりて、其の音を聴(き)き知る人なければ、我(われ)再(ふたた)び操(と)りても、其の詮(せん)なかるべし。

琴(きん)の廃(すた)るべきも、時運(じうん)の命(めい)なるかな」

翁始終(しじゆう)を聞きて、大に感心(かんしん)し、

「我(わ)が児(こ)知己(ちき)を得て、未(いま)だ肝胆(かんたん)を咄(は)かずして違(たが)ふ。

惜(お)しむべし、悲(かな)しむべし。

さもあらばあれ、一先(ひとま)ず我(わ)が家(や)へ来り給へ。

我が家は上山中村の梢(すゑ)にあり」

兼秋云ふ、

「それがし所存(しよぞん)あれば、一度(ひとたび)都にかへり、万とりしたためて、程なく罷下り、時陰になりかはり、双親(さうしん・ふたおや)の終(をはり)を見とどけ奉らん。

其の故は、主上御位(みくらゐ)に復(ふく)し給ひてより、仮初(かりそめ)の御遊(ぎよいう)に琵琶箏(びはさう)など弾じさせ給ふにも、燕(えん・はで)なる曲(きよく)のみ造)らんと望ませ給ひて、ことしげき世を治(をさ)め給へべき君にあらず。

是古より伝(つた)へいふ、桑間濮上(そうかんぼくしやう)の音(こゑ)起(おこ)りて、国(くに)亡(ほろ)びしといふも、此の心なり。

久しからずして、都も又一変(いつぺん)すべし。

我も二君に仕(つか)へんよりは、早く身を潜(ひそ)めて、天年(てんねん)を楽(たの)しむべき所存なり」

と、翁に辞(じ)して、其のまま都にかへり登りしが、彼是(かれこれ)につけて日を送(おく)る内、果(はた)して兵革(へいかく)起(おこ)りしかば、さればこそと、讃岐(さぬき)に下り山中村にいたり、老人夫婦につかへ、時陰にかはりて、其の終(をはり)を送(おく)り、兼秋も我(わ)が子供(こども)を百姓(ひやくしやう)となし、其の身は入道(にふだう)して世を見かぎり、四国(しこく)は)南朝心腹(なんてうしんぷく)の国なれば、道の通路(つうろ)自由(じいう)にて、折節(をりふし)は吉野(よしの)皇居(くわきよ)へも参りけるとなり。

        四  黒川源太主山(くろかはげんだぬしやま)に入ツて道(みち)を得(え)たる話(こと)

父子兄弟(おやこきやうだい)は、一木(いちぼく)の連枝(れんし)なれば、不和(ふわ)ありて是を絶てども、父子兄弟といふ名は削(けづ)られず、枝(えだ)を折(を)り梢(こずゑ)を斬(き)りはなしても、是其(そ)の木(き)の枝(えだ)なりと、きりたる木口(こぐち)にあらはれ、親(したしき)を切りたる親(おや)に恥辱(ちじよく)あれば、子も是を恥(はじ)とし、不興(ふきよう)せし子なれども、行衛(ゆくへ)見苦敷(みぐるし)きは、親の面臥俯(おもてぶせ)なり。

夫婦(ふうふ)の間(あひだ)は是にかはり、天合(てんがふ)にあらず、義合(ぎがふ)にて、他人(たにん)と他人がわたくしに約束して、寄(よ)り集(あつま)りしものなれば、義理(ぎり)と信(まこと)をのけては何も無(な)きもの也。

相義(ぎ)して合ひ、又相義(ぎ)して離るる事あり。

離るる時は他人よりも疎(うと)し。

諺(ことわざ)に云ふ、        夫妻本是同林鳥(ふさしもとこれどうりんのとり)

        巴到天明各自飛(まちていたるをてんめいにおのおのみづからとぶ)

是を和(やはら)げて聞(き)く時は、        をつと妻(め)同じ林(はやし)にやどる鳥(とり)明(あ)くればおのがさまざまに飛ぶ

此(こ)の故(ゆゑ)に、義理(ぎり)にも親(したし)うせねばならぬものにて、ことに女は両夫(りやうふ)に見(まみ)えぬ貞教(ていけう)ありて、夫(をつと)に後(おく)れては鬼妻(きさい)ともいふは、亡者(まうじや)の妻(め)といふ心也。

しかれば此の所を思ひて、夫(をつと)も一入憐(あはれ)むべき事也。

しかれども女は生活(しぎはひ)の業(わざ)を知(し)らねば、或(あるい)は親(おや)の志(こころ)に従(したが)ひ、又は子の不便(ふびん)さに引かれて

心の外に両夫に見(まみ)ゆるもあり、又天性(てんせい)の淫婦(いんぷ)あり、丈夫(おっと)の在(あ)りても、ぬすみ漢(おとこ)の悪事(あくじ)、其のほか如何敷(いかがしき)こと共あれども、夫(おっと)はけい中(ちゆう)の愛(あい)に溺(おぼ)れ、枕上(ちんしよう)の言(こと)に迷(まよ)うてさとらず、婦(おんな)の言(こと)によりて、不孝(ふこう)とも不忠(ふちゆう)ともなるもの、高明(こうめい)の人にも多(おお)くこれあれども、達者(たっしや)あにしからんや。

  後奈良院(ごならいん)天文(てんぶん)年中(ねんちゆう)、羽州(うしゆう)象がた(きさがた)に黒川(くろかわ)源太(げんた)主(ぬし)といふ人あり。

若(わか)き時秋風道人(しゆんぷうどうじん)と号(ごう)する人に従(したが)ひて、長生(ちようせい)の術(じゆつ)を学(まな)び、常(つね)の産(さん)あるままに、家事(かじ)を家人(けにん)に托(たく)して、其(そ)の身(み)は世上(せじよう)事にあずからず、近国(きんごく)の名山(めいざん)景勝(けいしよう)の地(ち)に周遊(しゆうゆう・めぐりあそび)して、心気(しんき)を長養(ちようよう・やしなう)し、百事緩悠(ひやくじかんゆう・なにごともゆるやか)にして、物に愛憎(すききらい)なし。

其(そ)の気象(きしよう)高きが故に、けつく世上のならはしに漏(も)るる事はなさず、女色(によしよく)をも親(したし)まず遠(とお)ざけず、人のすすめたれば妻(さい)を設(もう)けしが、婦(おんな)の縁薄(えんうす)くして、原(もと)の妻(め)は病死(びようし)し、次(つぎ)の妻(め)は過(あやまち)ありて離異(りい)したり。

近頃(ちかごろ)娶(めと)りたる妻女(さいじよ)は、名を深谷(みたに)と呼びて、(よ)越後国(えちごのくに)岩舟(いわふね)何某(なにがし)が女(むすめ)にて、源太(げんた)主(ぬし)を徳(とく)ある者(もの)とて妻(めあわ)せし也。

貌(かたち)先(さき)の二人にまさりて、生得(せいとく)怜悧(れいり・さいかく)なるより、源太主(げんだぬし)に事(つか)へて自(おのづか)ら陸敷(むつまじ)く、夫婦共にここに移(うつ)り彼(かしこ)に行(ゆ)き

取定(ところさだ)めず風水よき所は、山深(ふか)きをいとはず住居(すまゐ)す。

然(しか)も夫婦一僕(ふうふいちぼく)只三人の

外(ほか)は人なしといへども、いかなる故(ゆゑ)の有(あ)るにや、此の源太主の居所(きよしよ)へは、熊狼(くまおほかみ)も近(ちか)よらず、盗賊(たうぞく)もうかがはず、道を得たる異人(いじん)也と伝(つた)へ聞(き)きて、相見(しやうけん・ちかずきになる)せんとて来る人多(おほ)ければ

やがて外(ほか)の地(ち)に居(きよ)を移(うつ)して

人に交(まじは)らず。

  一年(ひととせ)、金花山(きんくわざん)の奥(おく)に移(うつ)り、桑門(さうもん・よすてびと)の住(す)み荒(あら)したる古庵(ふるあん)に、住(す)みけるが、一日(あるひ)里へ出でてかへるさ、山下(ふもと)を行(ゆ)く道(みち)の傍(かたはら)、一所(いっしよ)の墓地(ぼち)あり。

化人場頭(くわじんじやうとう・やきばのほとり)、樹木自(じゆもくおのずか)ら木立も殺気(すご)くて、数々(かずかず)の印(しるし)の石、多(おほ)くは苔(こけ)に埋(うづも)れたるままに、払(はら)ふ人ありとも見えぬあり。

源太主歎(たん)じて云ふ、「老(お)いたる若(わか)き愛(あい)せる悪(にく)める、賢(かしこ)き愚(おろか)なるを分(わか)たず、爰(ここ)に帰(おもむ)くもの幾人(いくひと)ぞや。

人は塚(つか)となれども、塚復(つかまた)人を生(しやう)ぜず」と、独(ひと)り言(ごと)して歩(あゆ)み行く。

ここに新(あらた)に築(きづ)ける碑石(ひせき)の傍(かたわら)に、素性賊(そだちいや)しからざる婦人(ふじん)ありて、冢(つか)の傍(かたわら)に植(う)ゑたる桃(もも)の実生(みばえ)なるに、根(ね)に培(つちか)ひ水を注(そそ)ぎ、心を用ひる有さま、印(しるし)の木とも做(な)すべき為(ため)かと、殊勝(しゆしよう)に覚(おぼ)えてよく見れば、結句碑石(けっくひせき)の前(まへ)には手向(たむ)けたる水もなく、花瓶(はながめ)に供(ぐう)ぜる草(くさ)なし。

源太主婦人(ふじん)に向(むか)つて、「其(そ)の実生(みばえ)を何とてかく叮嚀(ていねい)に、生育(そだ)て給へる」と尋ぬれば、此(こ)の婦人(ふじん)さすが田舎(ゐなか)とて、飾(かざ)れる詞(ことば)もなく、「是こそわらはが夫(をつと)の冢(つか)にてあり。

存生(ぞんしよう)時(とき)うらなく相なれしかば、いまはに臨(のぞ)みて、わらはを捨(す)てかねて、言葉(ことば)をのこしていふやう、我死(われし)して後(のち)、異(こと)人に見(まみ)ゆるとも

三年(みとせ)を過(す)ぐるまでは待(ま)てよかし。

実生(みばえ)の桃(もも)を冢(つか)の前に、植(う)ゑて花着(つ)きなば

何方(いづかた)へも嫁すべしと、呉々(くれぐれい)言ひのこして、両月余以前(ふたつきあまりいぜん)に世をさりぬ。

自(みずか)ら思ふに、此の桃陰地(ももかげち)に植(う)ゑて、いつしか花を見る事あらん。

親兄(おやあに)などの日々に、再縁(さいえん・にどよめり)の事をせまりいふにやるかたなく、此の桃(もも)の速(すみやか)に長(ちやう)ぜん事を祈(いの)るなり」

とかたれば、源太主笑(わらひ)を含(ふく)みて想(おも)ふやう、世上(せじやう)の婦人(ふじん)多くはかくのごとし。

詞にあらはるると、顕(あらは)れぬとの違(たがひ)あるのみならん。

彼(かれ)むつまじく相なれてさへしかり。

もし反目(はんもく・なかあしき)のものは、いかなる心にやあるらんと、「いかにや、婦人(ふじん)のごとく性急(せいきふ)にしては、亡夫(ぼうふ)の遺命恐(ゆいめいおそ)らくは守(まも)りがたからん。

亡夫の詞(ことば)そむかじと思ひつつも、左程待(さほどま)ちぐるしきならば、寺院僧家(じいんそうか)に托(よ)りて、三年(みとせ)に当(あた)る追悼(ついふく)を、期(ご)に先だつて執行(とりおこな)ひ、それをかぎりとして、事終(をは)るべし。

都(みやこ)の方にては、此(こ)の頃(ごろ)多く為(す)る事(こと)ぞかし」

と教(をしへ)に心づきて、女大に悦(よろこ)び、是に上ある易(やす)き事やあると、桃の木を抜(ぬ)きすて、源太主に一礼して立ち帰りぬ。

源太主も此の女の性急(せいきふ)なるに興(きよう)ざめて、抜(ぬ)き捨(す)てたる桃(もも)の樹(き)を携(たづさ)へて、山中の観宅(すみか)にかへり、端座(たんざ)しても〓差歎(さたん・ながきいきつぐ)してやまず。

女房深谷傍(にようぼうみたにそば)に在(あ)りて、「道すがら何事のありて、かく世を観(くわん)じたる有さまの見え給ふ」と問へば、源太主彼(か)の婦人(ふじん)の事をかたり聞かせ、此の桃則(すなは)ち其の物なりと聞きて、女房眉(まゆ)を皺(しわ)め、「扨も扨も、世の中には薄情(はくじやう・まことなき)なる者もあるかな。

婦人の風下(かぜしも)にも立つべき者にあらず」とさげすむ。

源太主口に随〓(したがって)、        在(いま)すときかくはいひつつ空(なく)なれば桃(もも)の花さへ遅(おそ)き世の中

女房これを聞きて、「女は一すじなるものにて、世上の女一概(いちがい)に左様(さやう)の人柄(ひとがら)なるにはあらず」。

源太主又云ふ、        虎(とら)の画(ゑ)をゑがけど骨(ほね)はゑがかれず面(おもて)は知(し)れど心しられぬ

女房大の腹(はら)を立て、桃(もも)の木(き)を二つ折りて、源太主に擲(なげう)ち、「同じ人間(にんげん)にても、曲(まが)れる直(なほ)きあり。

わずか一人を挙(あ)げて、例(ためし)とするの道理あらんや」。

源太主いふ、「我(われ)今にても世を去(さ)らば、なんじ未(いま)だ其の花のごときすがたにて、よも三年を独(ひと)りは守(まも)らじ」。

女房いふ、「二君(じくん)につかえず、二夫(じふ)に見(まみ)えぬは、皆(みな)人の知(し)る所(ところ)、不幸(ふこう)にして身の上に輪(めぐ)り来らば、身を終(おわ)るまで、寡(ひとりみ)を守ることかたからず」。

源太主頭(ず)を揺(ふ)って肯(うけが)はず。

女房いふ、「女にこそ志(こころざし)を守るものはあるらめ。

主(ぬし)のごとく一人死すれば一人を娶(めと)り、一人を出だしては一人を納(い)るる、あきらめよき所為(しわざ)にはあらず。

ながらへ果(は)てぬべき世ならぬに、人のこと草(ぐさ)におちて、名を後身(なきあと)に汚(けが)さんや」と、顔(かお)を損(そん)じて憤(いきどお)る。

源太主打(う)ち点頭(うなず)き、「左様(さよう)に思(おも)はずしては、源太主が配(つま)ならず」といつて、其の言(こと)やみぬ。

是より山中(さんちゆう)暦日(れきじつ・こよみ)なし、安閑(あんかん)無事(ぶじ)に日を暮(くら)す。

されば美色(びしよく)は命根(めいこん)を斬(き)る斧(おの)なるとかや。

源太主色慾(しきよく)に心長(ちよう)じ、養生(ようじよう)の術(じゆつ)破(やぶ)れ、重(おも)き病を得(え)ぬ。

日比(ひごろ)源太主に従(したが)ツて、養生の道を問(と)ひ授(さづ)かりし、二万(にま)の道竜(だうりゆう)といへる医師(いし)を呼(よ)びて、治療(ぢれう)を施(ほどこ)すといへども、日々(ひび)に重(おも)くなり行(ゆ)けば、女房深(ふか)く憂(うれ)へて、昼夜枕(ちうやまくら)を離(はな)れず、心を用ひて介保(かいほう)しけるに、ただ悪敷(あし)き方にのみなりもて行(ゆ)けば、一月斗(いちげつばかり)の後、源太主重き枕を挙(あ)げて、「我(わ)が病(やまひ)もいまはたのもしげなく、末期(まつご)ただ近(ちか)きにあり。

過(す)ぎし比(ころ)の桃(もも)の木(き)、〓(なんぢ)に植(う)ゑて養(やしな)はしめば、此のほどは能(よ)く長(ちやう)じなん」

といふ。

深谷涙(みたになみだ)ながらにいふ、「丈夫(ぢやうぶ)、心を迷(まよ)はし給ふな。

わらはも略女(ほぼをんな)の道を知る。

一(いつ)を守(まも)ツて、二心(しん)なし。

左程疑(さほどうたが)ひ給はば、今目下(めのまへ)に死(し)して、赤心(よきこころ)をあらはさん」

と、潔(いさぎよ)き詞を聞きて、源太主うれしげに打(う)ち笑(ゑ)みて、「左(さ)あらば我死(し)せども快(こころよ)く目(め)を閉(と)づべし。

我死しなば葬(はうふ)りをはりて後、我(わ)が旧里(ふるさと)へも告(つ)げ知(し)らすべし。

形衣服(かたちいふく)此の〓(まま)にて棺(くわん)に収(をさ)め、死(し)して十日(じふにち)の間は、必(かなら)ず棺(くわん)を家(いへ)にとどめて香(かう)を供(ぐう)じ、十日の後、葬所(さうしよ)は此の山下(さんか)、風水よき所に葬(はうふ)るべし」

と〓(い)ひ〓(をは)りて息絶(いきた)えたり。

深谷屍(みたにしかばね)に〓(よ)り添(そ)うて、絶(た)ゆる斗(ばかり)にかなしみ、あるにかひなく、老(お)いうつけし僕(しもべ)〓六太に命(めい)じて、棺(くわん)を買(か)はしむ。

二万道竜(にまだうりゆう)は師弟(してい)の分(ぶん)あればとて、一入別(わかれ)ををしみ、遺命(ゆいめい)に従(したが)ひて、臨終(りんじゆう)の体(てい)其のままに棺(くわん)に入れ、居間(ゐま)の中央(ちゆうあう)に直(なほ)し置(お)き、道号(だうがう)を玄通先生(げんつうせんせい)と〓(おく)り、霊位(れいゐ・ゐはい)香(かう)〓(しよく・らうそく)を設(まう)けたり。

深谷(みたに)は日夜(にちや)に泣(な)きくらし、人心地(ごこち)もなく、ふかきなげきの色外(いろほか)にあらはれて、見る目も当(あ)てかねたり。

道竜も毎日来りて、霊位を拝(はい)し、墓地(はかち)の用意葬家(よういさうか)の弁(べん)ずべき事など沙汰しける。

深谷も道竜が此(こ)の頃(ごろ)心を用(もち)ひて、万(よろづ)とりまかなふを、便(たより)なき折柄(をりから)うれしと思ふより、常(つね)はただ能(よ)く利口(ものいふ)人なりとのみ思ひし人も、心の趣(しな)ありて見る時は、物ごし動作(ふるまひ)迄に心の愛(め)でて、彼(か)の人(ひと)もいまだ定(さだ)まれる妻(つま)なし。

我もかく主(ぬし)なき身(み)となりぬれば、せめて二年三年(ふたとせみとせ)も過(す)ぎなば、此(こ)の人(ひと)をこそ二度の夫(をつと)とも見まほしく、あはれ結(むすぶ)の神の心して、御はからひこそほしけれと、下心には思ひける。

かくて十七日(ひとななか)、早明日(はやあす)こそと思ふなる日、道竜来りて、玄通先生(げんつうせんせい)は近来道術(きんらいだうじゆつ)の達人(たつじん)

なり。

書(か)き遺(のこ)されし跡(あと)もあらば、授(さづ)かり度きよしを望(のぞ)めば、深谷(みたに)何をがなと書〓(ひつ)の中を捜(さぐ)りて、源太主が著(あらは)す所の、養生新論(やうじやうしんろん)南華経(なんくわきやう)の訳解(やくげ)、両部(りやうぶ)の書(しよ)を与(あた)へければ、道竜押(お)し戴(いただ)きて、「是しかも亡師(ばうし)の自(みづか)ら書(しよ)する所、筆(ふで)の沢尚新(うるほひなほあらた)なり。

師(し)は父(ちち)にもまさりて、一丈を隔(へだ)てて影(かげ)を踏(ふ)むといへば、今より我が母(はは)ともかしづき奉らん。

かならず御心を隔(へだ)て給ふな」

と、誠(まこと)ある詞に、深谷首(かしら)を揺(ふ)りて、「わらはいまだ五々(ごご)の齢(よはひ)にして、君がごとき年長(としちやう)じたる、似気(にげ)なき子(こ)を持(も)ちて何とせん。

妹(いもうと)と見られなばさも有るべし」

といへば、「それがしいまだ妻女(さいぢよ)をも設(まう)けず。

わかき御身(おんみ)を妹にぐせば、世の人の何とかいふらん」

と、打ちわらひて立ち帰りぬ。

山中(さんちゆう)といひ、ことさら葬家(さうか)の打(う)ち潜(ひそ)まりたる折から、一人にても人の多(おほ)かれと、道竜が僕九郎(ぼくくらう)をのこし置(お)きぬ。

此(こ)の夜(よ)深谷、〓六太に命(めい)じて、粥(かゆ)を煮(に)せしめ、其(そ)の間(あひだ)九郎を呼(よ)んで、酒など賜(たまは)りて、彼(かれ)が心をとり、「〓(なんぢ)が主人いかなれば、是迄(これまで)独(ひと)り身(み)にて住(す)み給ふやらん」

と問(と)へば、九郎打ちわらひ、「此(こ)の村彼(むらか)の郷(さと)、とりどりに言(い)ひよる人あれども、美目(みめ)えらみ

深(ふか)くて調(ととの)ひがたし」といふ。

「さてはいかなる女ぞ心に入るべき」と問ふ。

  九郎、「申すも慮(こころ)なき申しごとに侍(はべ)れども、御すがたに似(に)たる人柄(がら)をこそのぞみ申されむと覚え候也。

御住家(すみか)へ参り初(そ)めてより常(つね)に宿(やど)にかへれば、けふしも深谷の親(した)しき詞(ことば)ありし、きのふはいかにや、言葉(ことば)の数(かず)なかりつるなど、心あり気(げ)に申し出(い)で侍(はべ)れば、さてこそ御すがたに似(に)たる人あらば、事調(ととの)ひなんと覚ゆる也」とかたる。

深谷便(たより)よしと、膝(ひざ)をすりよせて声(こえ)を低(ひく)うし、「其方(そなた)も久しく見なれし事なれば、かたるなり。

われもいまかく若(わか)き独(ひと)り身となりぬれば、亡夫(ぼうふ)の三年(みとせ)の忌服(きぶく)過(す)ぎなば、再(ふたた)び人に見ゆる身なり。

なんじが主人は、心ざまも知(し)りて、誠(まこと)ある人なれば、何とぞ行くすゑまでも頼みこしらゆれば、九郎鼓舌(したうち)して、「世(よ)は思ふに任(まか)せぬ物かな。

御身独(ひと)り身となり給ふ事の、今十日斗もおそかりぞかし。

一日(ひとひ)二日(ふたひ)以前(いぜん)に、隣郷(りんきよう・となりさと)の人の申しかたらひて、心にいりたる事ありしにや、錦木(にしきぎ)の千束一度(ちつかいちど)につもりて、あさてこそ呼(よ)びむかへんと、あすなん幣物(へいぶつ・たのみのしるし)を送(おく)るとて、某(それがし)も明日早く帰りむかふべきよしに申せし也」

と聞きて、深谷心驚(おどろ)き、失(うしな)ふ所(ところ)あるがごとく、しばし言葉も出でざりしが、「よし左(さ)あるとも、いまだ呼(よ)びむかへざるうち也。

ことにわらはに心ありしと聞(き)けば、今宵(こよひ)立ち帰りて、いそぎ此の事を告げてくれよ。

もし事調(ととの)ひなば、重(おも)く引出(ひきで)物せん」

といふ。

九郎首を傾(かたふ)けて、実(げ)にも此の事調ひなば、我も身の上悪(あ)しからじと、粥(かゆ)の熟(じゆく)するを待(ま)たず立ち帰りぬ。

深谷も臥所(ふしど)に入りながら、其の夜は目も合(あ)ひかね、明(あ)くれば疾(と)くより起(お)きて手洗(あら)ふ所へ、九郎が来るを見て、「いかに」と問へば、九郎云ふ、「主人の言葉尤(もつと)も理(ことわり)なり。

一つには、師匠(ししやう)の棺(くわん)いまだ家内(かない)に有りて、かとに間所(まどころ)なき家(いへ)なれば、棺(くわん)の辺(ほとり)にて、此の体(てい)の事いふべきにあらず。

二つには、源太主存生類(ぞんじやうたぐひ)なくむつまじくて、ことさら源太主は器量(きりやう)あり道(だう)ある一君子(くんし)なり。

はるかに劣(おと)りたる我なれば、後(のち)かならず見落(おと)さるる事ありなん。

三つには、後室(こうしつ)の心には角(かく)思ひ給へども、いまだ御故郷(ふるさと)の兄親(あにおや)などのいませば、此の人々の心もはかり難(がた)ければ、後にうけがはれざる時は何とせん。

ことに此のごろにいたりては、御方(おんかた)の若(わか)き独(ひと)り身を見れば、心の動(うご)くこともはかりがたし。

近(ちか)くにつまを迎(むか)ゆるまでは、山へは行(ゆ)かじとかたく申して、今宵(こよひ)しるしを送(おく)るよしなり」

と、首(くび)を投(な)げてかたる。

深谷いよいよ心せまり、「いかに九郎、今申しつる三つの事は、一つも心にかからざる事ども也。

しかれども左程(さほど)に事急(きふ)になりてはいかがすべき」

と、眼(め)の内うるみて見ゆるに、九郎云ふ、「事急(きふ)なれば、とかくして今日の所、延引(えんいん)すべき為(ため)なれば、葬事(さうじ)につきて急にはからひを借(か)り度き事ありと、主人を招(まね)きよせ、酒などすすめて、後室口づから余義(よぎ)なくの給はば、心の傾(かたむ)かざる事あらんや」

と聞きて、実(げ)にもと九郎に言伝(ことづて)して、道竜を請(しやう)じやり、嘉六太を呼(よ)びて、手づから此の棺(くわん)を〓(か)きて下家(げや)におろし、居間(ゐま)を払(はら)はせ、我が身も下に色(いろ)よき小袖を着(き)て、酒肴(さけさかな)を調(ととの)へて相待(あひま)つ。

其の日も日中(にっちゆう)に至(いた)る。

人待つ心のやるかたなく、嘉六太を催(もよほし)につかはしけれども、是さへやうやう日暮(ぐれ)に、九郎諸共(もろとも)帰り来り、「道竜は山へ参るとて出でぬれども、道すがらの事弁じてまゐらるべきよしに侍(はべ)る」

といふ。深谷は待ちわびる上(うへ)にも、心にかかる今宵(こよひ)の納幣(しるしおくり)はいかがなりたるやと、是も心の落(お)ちつかず、一所(ひとところ)に座(ざ)しためず、幾度(いくたび)か門(もん)に出で、窓(まど)にもどり、思ひ余(あま)りて身のかこたれ、思はずも涙落(なみだお)ちて懶(ものう)げに、いまはし」といへば、燈(ともしび)を点(てん)ずる頃(ころ)、からうじて道竜入り来りぬ。

深谷踏(ふみ)所を忘(わす)れて、一間(ひとま)に請(しよう)じ入れ、「ことなう待ちわびて、けふしも日の長(なが)かりし」といふ。

道竜、「ただ道に隙(ひま)どりて」と斗(ばかり)、外の言葉も出ださず。

ややあって、「けふ召しよせられしは何の事あるや」と問ふ。

深谷、何といひ出だすべきとも覚えねども、今宵(こよい)の事をさしとめて、世にせはしき恋路(こいじ)なれば、顔(かお)にたかる火藻圧からで、「此のごろ召つかひの中言(なかごと)に、御こたへのほど、理(ことわり)ありて覚え侍れど、其の事悉(ことごと)くさはりなし。

亡人(ぼうじん)の棺(かん)はすでに下家(げや)にうつし出だしたり。

我夫婦となりし始(はじめ)、互(たがい)に相愛(あいあい)しての事にあらず。

かれは家業(かぎよう)を嫌(きら)ふ大浪子(いたずらもの)の世事(せじ)しらず、足下(そこ)にも養生(ようじよう)の道を授(さず)かり給へども、かれが身差へ色慾(しきよく)をつつしまず、早(はや)く死にたれば、是(これ)印(しるし)ある道にもあらず。

又近頃(ちかごろ)山下(ふもと)にて婦人(ふじん)の墓(はか)祭(まつ)れるに遭(あ)うて、此の婦(おんな)をたぶらかし、いかなる事をやなしけん、約束(やくそく)のかたみとも為(な)すべきとて、取りかへりし桃(もも)の樹(き)、わらは打(う)ち折(お)りて捨(す)てたり。

如此(かくのごと)くなれば、すこしも心の残(のこ)る亡夫(ぼうふ)にあらず。

又わらはは、程(ほど)ある越後国(えちごのくに)に兄(あに)はあれども、双親(ふたおや)はおととせ世を早うしぬ。

余国(よこく)へ嫁(か)する事は、我望(のぞ)まざる事なりしを、親(おや)の命(めい)なれば、やむことを得ずここに送(おく)られ来れり。

我(わ)が身の上今更(いまさら)何の障(さわり)をなす人(ひと)あらん。

君だに悪(あ)しからず思ひ給はば、九郎に言(い)ひし送(おく)りし事の、よきはからひしこそほしけれ。

さあらば遺(のこ)りたる筆(ふで)の跡(あと)までも、おのずから御身につたはるべき物なり。

今宵(こよい)則(すなは)ち吉日なり。

約束(やくそく)の酒を酌(く)まん」といふ。

道竜も心の動(うご)きしにや、「左(さ)あらば此のうへは子細(さい)あらじ。

いかにも御心に任(まか)せん。

なれどもいますこし日数(ひかず)の移(うつ)る迄(まで)待ち給へ。

葬家(そうか)の服(ふく)を婚儀(こんぎ)にも用ひがたし。

深谷、「さらば色(いろ)を直(なお)して見せなん」と、上(うへ)の小袖を脱(ぬ)ぎ去(さ)れば、下に色よき紅梅(こうばい)の絹(きぬ)をかさね、用意(ようい)の酒肴(しゆかう)を排(なら)べ、吉酒(きつしゆ・こんれいさけ)を酌(く)みかはし、「去(さ)るべきえにしにやあらん、よきころの夫婦也」と一人言(ひとりごと)しつつ、臥具(ぐわぐ)を鋪(し)き設(まう)け、対(つい)の枕(まくら)に寄(よ)らんと立(た)ち起(あが)る時、道竜俄(にはか)に眉(まゆ)をしわめ、一足(ひとあし)も動かれず、其(そ)の座(ざ)に倒(たふ)れ、両手(りやうて)にて胸(むね)を摩(す)りて、「心痛(しんつう)堪(た)へがたし」と叫(さけ)ぶ。

深谷驚(おどろ)き抱(いだ)きかかへ、「いかに」と問(と)へど、言葉(ことば)いでず、口より涎沫(よだれ)を流し、面(おもて)土色(つちいろ)のごとく、奄々(えんえん・みるうち)として絶(た)えんとす。

深谷、九郎を呼(よ)んで是を問(と)へば、九郎大に周章(しうしやう・あわて)して、「こは何とせん。

主人平生(へいぜい)此の病(やまひ)あり、一二年(いちにねん)に一度(いちど)は必(かなら)ず発(はつ)す。

薬(くすり)の治(ぢ)すべきにあらず。

只一品(いつぴん)の秘薬(ひやく)ありて、是を用ふれば立所(たちどころ)に治(ぢ)す。

宿所(しゆくしよ)にはあるべけれども、其の蔵所(おきどころ)知れず。

取(と)り来(きた)る隙(ひま)には、命も絶(た)えなん」と、男泣(をとこなき)になげく。

「夫(それ)はいかなる秘薬(ひやく)ぞ」と問へば、「此の物至(いた)つて得がたし。

生(い)ける人の脳髄(なうずい)を取りて、熱酒(ねつしゆ)にて是を飲(の)ましむ。

常(つね)に国守(こくしゆ)の府上(ふしやう・しおきどころ)に便(たよ)りて、死罪人(しざいにん)の脳髄(なうずい)を得て、是迄治(ぢ)し来りぬ。

今日(けふ)こそ此の持病(ぢびやう)の命を取るべき時節(じせつ)なり」となげく。

深谷云ふ、「生(い)ける人の脳髄(なうずい)こそ得がたくとも、死(し)せる人の脳髄(なうずい)は、用に立つまじきか」といふ。

九郎云ふ、「四十九日の内の死人(しにん)は、用ふれば功(こう)ある事もあるよし、聞(き)き置(お)きぬ」といふ。

深谷云ふ、「亡夫(ばうふ)死して未だ日あらず。

此の脳髄はいかん」といふ。

九郎「夫(それ)こそ某(それがし)がよからんとも申し難(がた)し」と憚(はばか)る体(てい)、深谷思ふに、万一道竜我(わ)が心を引き見ん為(ため)の作(つく)り病(やまひ)にや、左(さ)あらば、いよいよ我が心中(しんぢゆう)の誠(まこと)をあらはさで有るべからずと、「是こそ庸易(ようい・こころやすし)の事かな。

婦人(ふじん)身(み)を以て夫(をつと)につかふ。

此の身尚(なほ)惜(を)しからず、なんぞややがて朽(く)ちぬべき骨(ほね)を惜(を)しまん。

此(こ)の隙(ひま)に熱酒(ねつしゆ)を用意(ようい)せよ」と起(お)きあがり、柴(しば)を〓(き)る板斧(まさかり)を取(と)り出だし、右に斧(まさかり)を提(さ)げ、左に松(まつ)を燈(とも)して、下家(げや)に〓(はし)り行(ゆ)き、棺(くわん)の蓋(ふた)を只(ただ)一打(ひとうち)に打(う)ち破(わ)り、蓋(ふた)を開(ひら)くや否(いな)や、此の屍(しかばね)欠伸(あくびのび)してずつと立ち上がる。

深谷肝(きも)を化(け)して、あつと飛(と)びのき、妖怪(えうくわい)の着(つ)きしにやと、よくよく見れば、面色(めんしよく)生(い)けるにかはらず。

さすがの女房身も戦(ふる)はれ、思はず斧(をの)を取(と)り落(おと)しぬ。

  源太主寛々(ゆるゆる)と棺を越(こ)え出でて、「其の松(まつ)にて道(みち)を照(てら)せよ」と、女房を先(さき)に立て、家(いへ)の内へ歩(あゆ)み来る。

深谷遍身(へんしん)汗(あせ)になりて、家内に道竜が病(やまひ)発(おこ)りて倒(たふ)れ居(ゐ)れば、いかがすべき。

よしよし事(こと)言(い)ひ開(ひら)き難(がた)き時は、何方(いづかた)へも逃(のが)れ去(さ)らんと、心ならず一間(ひとま)に入れば、二人は見えず。

かしこくも隠(かく)れたりと、心落(お)ちつき源太主にむかひ、「わらはは御身の息(いき)絶(た)えしより、日(ひ)と夜(よ)と忘(わす)るる事なく、今(いま)棺中(くわんちゆう)に物の音(おと)するを聞きとどめて、古(むかし)より言(い)ひ伝(つた)へしよみぢがへりにや。

ことに道(みち)を得たる主(ぬし)なれば、其の事有るまじきにもあらずと、急(いそ)ぎ棺(くわん)を開(ひら)きしに、果(はた)して生(い)きかへり給ひぬ。

此の悦(よろこび)何にたとへん」。

源太主、「よくも心つきたるかな。

去(さり)ながら我(わ)が棺(くわん)を何故(なにゆゑ)下家(げや)に移(うつ)したるや」。

女房口に随(したが)つて云ふ、「今日(けふ)しも此の一間を払(はら)はん為、かりに出だしたる也」。

「我(われ)死(し)て十日(とをか)に満(み)たず。

何事ありて色よき小袖を着(き)て、化粧(けさう)のあらたなるは何故ぞ」。

女房云ふ、「先刻より棺中響(ひびき)あるを聴(き)きて、凶服(きようふく)を去(さ)つて吉兆(きつてう)を招(まね)く也」。

「然らば此の寝間(ねま)に一双(いつさう)の枕(まくら)ありて、杯盤(はいばん・さけさかな)の狼藉(らうぜき)なるはいかん」。

深谷(みたに)ここに至(いた)つて、答(こた)ふるに詞(ことば)なし。

源太主問(と)ひきはめず、傍(そば)なる熱酒(ねつしゆ)を取(と)つて飲(の)みつくし、「此の酒、人(ひと)の脳髄(なうずい)に和(くわ)して飲(の)めば、心痛(しんつう)を除(のぞ)くべきに、飲(の)むべき人の見えぬは、いずくへか行きけん」といふ。

深谷胸(むね)に釘(くぎ)打(う)つごとく、羞慙(さざん・はぢはづる)面(おもて)に満(み)ち、言葉(ことば)出でず。

源太主、「それがし、道竜主従(しゆうじゆう)を呼(よ)び出して見すべし」と、外(そと)のかたを招けば、道竜主従(しゆうじゆう)二人走(はし)り来りぬ。

近(ちか)よるかと思へば、消(き)え失(う)せて見えず。

こはふしぎと思ひ見かへれば、源太主が形(かたち)も見えず。

是(これ)元来(ぐわんらい)源太主が通じ得たる仙家(せんか)の戯術(ぎじゆつ)、分身穏形(ぶんしんおんぎやう)の法(はふ)也。

かかる所へ二万(にま)の道竜訪(と)ひ来(きた)りて、「過ぎし比(ころ)師(し)の言(ことば)ありて、二月(ふたつき)の後(のち)迄、山へ来る事なかれと警(いまし)められぬ。

二月(にげつ)過ぎぬれば、安否(あんぴ)の心元なく、伺候(しこう)仕りし」と慇懃(いんぎん)に演(の)ぶるを見て、深谷大に悔(くや)みて、女の浅間(あさま)敷(し)き事を恥ぢて、みづから帯(おび)を梁(うつばり)にかけ、即座(そくざ)に〓(くびれ)死しぬ。

是ぞ真個(まこと)の死にして、傷(いた)ましくぞ見えける。

嘉六太も是を見て、山下をさして逃げ去りぬ。

跡(あと)にのこり道竜は、あきれ果てて立ちたる向(むかふ)に

源太主形(かたち)をあらはし、深谷が死せしを見て、すこしもなげかず、屍(しかばね)を解きおろし、我(わ)が出でたる棺(くわん)に収(をさ)め入れ、家の中央に置きて、口に随(したがって)咏(えい)をなす。

  兼言(かねごと)も斧(おの)の柄(え)よりぞ朽(くち)尽きぬ入りにし山の甲斐ぞありける

又一頌を作って曰く

  爾死我必埋(なんじしせばわれかならずうずまん)

  我死爾必嫁(われしせばなんじかならずかせん)

  我若真個死(われもしまことにしせば)

  一場大笑話(いちじようのせうわ)

源太主手を鞁(うって)大にわらひ、庵(いほり)にひをさして、棺(かん)と共に廃燼(はいじん)となし灰の中より養生新論を捜(さぐ)り出したるに、少しも焦(こが)れず。

手づから道竜に授けて別(わかれ)をなし、其の身は峰(みね)より峰にうつり、猶(なほ)山深く入りて、去る所を知る人なし。

我が朝(てう)にても、其の道を修(しゆ)し得たる人は、かかる奇特(きどく)の事もありしと也。

古今奇談(ここんきだん)英草紙(はなぶささうし)第三巻(だいさんのまき)

  五、紀任重陰司(きのたふしげいんし)に至(いた)滞獄(くじ)を断(わ)くる話(はなし)

  世の中の事、何事も天命に非(あら)ざる事なし、命(めい)の裡(うち)にある事は、求めずして自然(しぜん)にいたる。

命の裡に無きことは、精神(せいしん)を労(らう)しても至らずと知るべし。

其の身天に対(たい)して、是非(ぜひ)を論(ろん)ずべきに由(よあひ)なし。

果(はた)して皆世々(よよ)の宿業因縁(すくごういんねん)なるやと、独り此の事を憤(いきどほ)る一個(いっこ)の才子、弘安(こうあん)年中(ねんぢゆう)後宇多帝(ごうだてい)の時に、紀(き)の任重(たふしげ)なるもの有り。

資性聡明(しせいそうめい・うまれつきちゑさとく)にして、一目(ひとめ)に十行(とくだり)を読みくだす。

詩文(しぶん)は家(いへ)の芸なれば、北野(ほくや)・藤森(とうしん)の骨髄(こつずい)を極め、国の風(ふう)なれば、和歌(わか)の道にも又疎(うと)からず。

其の玄祖(げんそ)はいづれの朝(てう)にかつかへて

明経(みやうぎやう)の博士(はかせ)にして、読書(どくしよ)を上(たてまつ)りし家なれども、世下り(よくだり)家衰(おとろ)へて、双親(ふたおや)には幼(よう)にして離れ、任重(たふしげ)成長(ひととなる)にいたりては、些(すこし)の家産(かさん)もなく、才(さい)ありながら、しかるべき禄(ろく)にも主(ぬし)づかねば、自(おのずか)ら五斗米(ごとべい)に腰(こし)を折(お)らねども、嚢(ふくろ)をもるる錐尖(きりさき)、人の目にさへぎり、博識(はくしき)の人なりと、近隣(きんりん)の尊(たっとび)ありて、米殻(べいこく)野菜(やさい)の微物(びぶつ・わずかなもの)もここかしこより贈(おく)り来(きた)りて、わずかに口腹(こうふく)に充(み)つるばかり、虹(にじ)のごとき吐息(といき)はすれども、貧窮  (ひんきゆう)に屈(くつ)せず、ひたすら閉(と)じ篭(こも)りて書(しよ)を読(よ)み、隣家(りんか)の余光(よこう)に拠(よ)りて日(ひ)を送(おく)る原(もと)より大見識(だいけんしき)ありて、おもふやう、当時(とうじ)北条(ほうじよう)家(け)の横暴(おうぼう・わがまま)長久(ちようきゆう)の事にあらず。

天命(てんめい)改(あらたま)らん事程(ほど)あるまじと、心を責(せ)めて兵策(へいさく)軍籍(ぐんせき)に眼(まなこ)をさらし、三軍(さんぐん)の指揮(しき)にも暗(くら)からぬ、器(うつわもの)を成(な)せども、年頃(としごろ)五十を過ぎても、空(むな)しく出身(しゆっしん)の便(たより)を得ず、常(つね)に心中快おう(おうおう・まんぞくせぬ)として足(た)る事なく、ここに世を憤(いきどお)りて、或夜(あるよ)一詠(いちえい)をなす。

其の前書(まえが)きに曰く、天(てん)、才(さい)ある人を生(しよう)じて、又是(これ)を挙(あ)げ用ひる人を生ぜず。

月西に傾(かたぶ)きて、草むらの影(かげ)いよいよ深(ふか)くうずもれ、彼(加)の紫錦(しきん・ゆるしのいろやにしき)を着(き)、肥馬(ひば・かひにかうたるうま)に跨(またが)る人は、胸(むね)に一物(いちもつ)なけれども、嚢(ふくろ)に余(あま)る貲(たから)あり。

富(と)めるは雲(くも)にのり、貧(まず)しきは泥(どろ)におつ、賢愚(かしこきおろか)なる、其の位(くらゐ)を顛倒(てんたう)する、天道私(てんだうわたくし)なしといはんや。

むさし野や行(ゆ)けども秋のはてぞなきいかなる風の末(すゑ)にふくらん書しをはりて咏(えい)ずる事数反(すへん)、余情尽(よじやうつ)きず、又古躰一章(こていいつしやう)を賦(ふ)す。

蘭草自然香(らんさうしぜんにかうばし)生於大道傍(しやうずたいだうのかたはらに)腰鎌八九月(こしにするかまをはつくげつ)共存束薪中(ともにありそくしんのうちに)なほなほ怒(いかり)を発(おこ)して、燈火(ともしび)を以(もつ)て此(こ)の詩歌(しいか)を焚(や)き、

「烟(けふり)とならば立(た)ち昇(のぼ)らぬ事あるまじ。

天帝知(てんていし)る事あらば、我(われ)に対(たい)して言(ことば)あるべからず。

想(おも)ふに、帝釈(たいしやく)は高(たか)きに座(いま)して、閻羅王(えんらわう)をして刑罰(けいばつ)を主(つかさ)どらしむ。

閻羅善(ぜん)をすすめ悪(あく)をこらし、因果(ゐんぐわ)によつて生(しやう)を請(う)けしむ。

其の裁判公正(さいばんこうせい・さばきただしく)ならざるのいたす所か。

我生得(われしやうとく)〓直(かうちよく・まつすぐ)、我(われ)もし閻羅となり、地府(ちふ)の決断(けつだん)を成(な)さしめば、善悪理非(ぜんあくりひ)、浄玻璃(じやうはり)を須(ま)たずして明白成(めいはくな)るべし」

と、独言(ひとりごと)して、机(つくえ)に倚(よ)つて眠(ねむ)る。

惣(たちま)ち見(み)る、七八個(しちはつこ)の青面〓牙(かほあをくきばお)ひたる鬼卒(きそつ)、机(つくえ)の下(した)より湧(わ)き出(い)でて、任重(たふしげ)を〓睨(にらみつ)け、

「〓(なんぢ)いか斗(ばかり)の才(さい)ありて、天(てん)を怨(うら)み地(ち)を尤(とが)む。

今〓(なんぢ)をとらへて、閻魔王(えんまわう)の面前(めんぜん)に還(かへ)り去(さ)つて、〓(なんぢ)に口を開(ひら)かしむる事なからん」

任重頭(かしら)を挙(あ)げて、

「〓が閻君公正(えんくんこうせい)ならず。

仰々敷(ぎやうぎやうし)く人の謗毀(そしり)を怪(あやし)むや」

衆鬼一斉(しゆうきいつせい・おにどもひとつに)に前(すす)みより、手(て)を〓(ひ)き脚(あし)を〓(ひ)き、黒索子(てつぐさり)を以て、任重が頚(くび)に〓(わな)して〓(ひ)いて行く。

是元来(これぐわんらい)任重怨詞(ゑんし・うらみことば)を咏(えい)じて、燈火(とうか)に焚(や)きたるを、夜遊神体察(やいうのしんみとど)けて、天上玉帝(てんじやうぎよくてい)に稟(まう)せしかば、玉帝大(おほき)に怒(いか)り給ひ、

「世人(せじん)の爵禄貧富(しやくろくひんぷ)は気運(きうん)の然(しか)らしむる所、彼(かれ)が了簡(りやうけん)のごとく、賢(けん)なるもの上位(じやうゐ)に居(を)り、不肖(ふせう)なるもの下賎(げせん)にをり、才(さい)あるもの顕栄(あらはれさか)え、才無(さいな)きもの〓落(おちぶ)れ、如此(かくのごと)きの時は天下世ゝ太平(よよたいへい)、世の中に是非(ぜひ)の論(ろん)なし。

彼(か)の者凡識広(ものぼんしきひろ)からず、却(かへ)つて天を尤(とが)む。

速(すみやか)に罪(つみ)を問(と)うて、妄語(まうご)の〓(いましめ)とすべし」

時に太白金星奏(たいはくきんせいそう)していふ、

「紀(き)の任重(たふしげ)、言葉(ことば)無礼(ぶれい)なりといへども、此(こ)の人(ひと)才(さい)高くして、運〓(うんつたな)く、抑鬱(よくうつ・おさへふさがれ)不平(へい)によりて此の論(ろん)あり。

善(ぜん)に福(さいはひ)し淫(いん)に禍(わざはい)するは、これ常理(じやうり)なり。

彼(かれ)が言(い)ふ所当(あた)らずとせず」

玉帝(ぎよくてい)

宣(のたま)ふ

「彼(か)の腐儒者(くされじゆしや)、閻羅王(えんらわう)と作(な)って、刑罰(けいばつ)を更(あらた)め正(ただ)さんといへるは、狂妄(きやうまう)ならずや。

閻羅豈凡夫(えんらあにぼんぶ)の做(な)すべきの職ならんや。

陰司案〓(めいどつかさきもの)山のごとく、十殿(じふでん)の閻君食(えんくんしよく)を給(きふ)するに暇(いとま)あらず。

彼(か)の者何(もの・なに)の本事(ほんじ)ありて、一々(いちいち)に更正(かうせい)する事を得ん」

金星(きんせい)また奏して曰(いは)く、

「彼口(かれ・くち)に大言(たいげん)を出だす。

必(かなら)ず大才(たいさい)あるべし。

下官陰司(げくわんめいどつかさ)の事を見るに、果(はた)して不平(ふへい)の事無(な)きにあらず。

百年来(ひやくねんらい)の帯獄(たいごく)、未だ裁判決(さいばん・けつ)せざるものありて、地獄中(ぢごくぢゆう)の怨気(ゑんき)立(た)ち昇(のぼ)って天庭(てんてい)を衝(つ)く。

臣(しん)が愚見(ぐけん)に依(よ)る時は、任重(にふしげ)を陰司(いんし)に到(いた)らしめ、権(かり)に閻羅王(えんらわう)の位(くらゐ)に半日替(はんにち・かは)らしめ、陰司(めいどつかさ)の寃狂公事(まがれるくじ)、彼(かれ)をして判断(はんだん)せしめ、若(も)し決断明白成(けつだん・めいはく・な)る時は、功(こう)を以て罪(つみ)を〓(ゆる)し、公明(こうめい)ならざるとき、即(すなは)ち罪(つみ)に行(おこな)ふ時は、彼(かれ)が心大(おほい)に服(ふく)すべし」

玉帝奏(そう)に准(したが)ひ、即ち金星(きんせい)を陰司(いんし)に差(つかは)し、閻君(えんくん)に命(めい)じて任重(たふしげ)をとらへ到(いた)らしめ、権(かり)に王位(わうゐ)の座(ざ)を借(か)し、只一夜六時(ただ・いちや・ろくじ)をかぎりて、彼(かれ)に公事(くじ)を聴(き)き獄(ごく)を決(けつ)せしめ、決断公明(けつだん・こうめい)ならば、彼来世獄富極貴(かれらいせいごくふうごくき)、今生抑鬱(こんじやうよくうつ)の苦(くるし)みに酬(むく)い、〓(も)し判問(はんもん)の才なきとき、〓都地獄(ほうとぢごく)に堕(だ)して、永(なが)く人身(にんしん)を得(え)ざらしむべしとの欽旨(きんし)也。

閻君天旨(てんし)を畏(かしこま)りて、即(すなは)ちここに無常小鬼(むじやうせうき)を差(つかは)して、任重を〓(とら)へて、地府(ちふ)に至(いた)らしむ。

任重小鬼に〓(ひ)かれて、〓(おそ)るる色なく森羅殿前(しんらでんぜん)に到(いた)る時、小鬼

「〓(ひざまづ)け」

と喝(かつ)す。

任重問ふ、

「上面(じやうめん)に坐(ざ)するは何人にて、我に〓(ひざまづ)けといふ」

左右(さいう)の者日(もの・いは)く、

「是すなはち閻羅天子(てんし)也」

任重大に喜(よろこ)び叫(よばは)つていふ、

「我、閻王(えんわう)に対面(たいめん)して、胸(むね)の中(うち)の憤(いきどほり)を吐(は)かんと思ふ事久し。

大王(たいわう)、〓

位尊(くらゐたつと)く、左右の傍判官(かたはらはんぐわん)多く、千午頭万馬頭(ごづまんめづ)あり。

我は単身(たんしん・みずから)にて〓然(むしのごとき)ありさま、王(わう)、威勢(ゐせい)を以て圧(お)す事をやめ、平心(へいしん・つねのこころ)にて理(り)を論(ろん)じ

理に勝(か)つ者(もの)を強(つよ)しとせん」

閻王云ふ、

「寡人(くわじん)〓(かたじけな)く陰司(いんし)の主(しゆ)となり、凡(およそ)の事皆天道(てんだう)に依(よ)りて執(と)り行ふ。

〓、何程の徳能(とくのう)ありて、我(わ)が位(くらゐ)にかはり、何事(なにごと)を更(あらた)め正(ただ)さんと欲(ほつ)するや」

任重云ふ、

「〓(なんぢ)閻君、天道を奉(ほう)じて、道(みち)を行(おこな)ふと説(と)け共、天道は人を愛(あい)するを心とし、善を勧(すす)め悪を懲(こら)すを公(おもて)とす。

如今(いま)世の中に、善悪を弁(わきま)へず、慳吝(けんりん・しはし)にして握(にぎ)つて放(はな)す事知らぬ輩(ともがら)は、財積(たからつ)んで山のごとく、又施(ほどこし)をなし善事(ぜんじ)をなす者(もの)は、手中空乏(てのうちものなし)。

刻薄(こくはく・りつよきしかた)にして人を害(がい)するものは、富貴(ふうき)の位(くらゐ)に居(を)り、肆(おもふまま)に悪をなし、忠厚(ちゆうこう)にて人を扶持(たすく)るものは、世を狭(せば)く暮(くら)して、其の願(ねがい)を遂(と)げず。

善人悪人(ぜんにんあくにん)に欺〓(あざむ)かれ、才あるもの、無才(むさい)の者(もの)に圧(お)し凌(しの)がる。

〓(うらみ)あつて訴(うつた)へがたく、屈(かが)められて伸(の)ぶる事なし。

皆閻君の判断宜(はんだんよろ)しからざる所、我(われ)に陰司(いんし)の訴(うつたへ)を聴(き)かしめば、此(こ)の様(やう)の不平(へい)の事はあるまじ。」

閻君笑(わら)うて云ふ、

「天道報王遅(ほうおうおそ)きと速(はや)きと、明(あきら)かなるがごとく暗(くら)きが如く、其の上定(さだま)りたる天道、自然(しぜん)の権衡(けんがう・はかり)ありて、軽重(けいちよう・かるめおもめ)を過(あやま)る事なし。

先(ま)づ慳〓(けんりん・しはし)なるものは、眼(め)から火の出る程欲敷(ほし)きものも得求(もと)めず、胸(むね)の焦(こ)げるほど人に遣(や)り度(た)き物も施(ほどこ)す事あたはず。

出(い)だす事無きゆゑに、入(い)る物(もの)積(つ)んで山のごとし。

善事(ぜんじ)をなし施(ほどこし)を好(この)むものは、出づる事多ければ、手の中空(むな)しけれども、金銀(きんぎん)の光(ひかり)を見せて、自由(じいう)を得る事、恰(あたか)も仁(じん)をすれば富まずとは、聖言(せいげん)なるを、〓(なんぢ)も人世(じんせい)にて見聞(けんもん)すべし。

貧賎(ひんせん)の者(もの)は子多(こおほ)く、子多ければ家絶(た)えず、数子(すし)の中に必(かなら)ず家を興(おこ)すものも間(まま)あり。

富貴(ふうき)の者、金銀の光を見せて、物事足(た)り満(み)つれ共、多くは後嗣(よつぎ)を欠(か)く事あり。

単弁(ひとへ)の花あるものは実多(みおほ)く、千弁(せんへ)にて花見事(ごと)なれば、実乏(みとぼ)しきにて知(し)るべし。

是(これ)らは一生の内当坐(うちたうざ)に清(す)む算用(さんよう)なり。

其の内に悪人富貴(ふうき)を得て、子孫絶(た)えざる者は、悪報(あくほう)は終(つひ)に子孫(しそん)にのこりて苦(く)を受(う)け、其の子孫の続(つづ)くは前世の善縁(えん)と知るべし。

善人にして貧賎なるは、前生(ぜんしやう)の慳〓(けんりん)にして、福田(ふくでん)を種(う)ゑざるゆゑ、来世必(らいせかなら)ず餓窮(がきゆう・うゑまづし)の

報(ほう)を見ると知るべし。

天の尊(たつと)きさへ高きにあれば、見る事九遠(きうゑん)にして、応報(おうほう・むくひ)の遅速(ちそく・おそきはやき)あり。

況(いはん)や人間(にんげん)より天道の事を測(はか)り知らんや。

汝(なんぢ)が紛々(さまざま)の議論(ぎろん)は、元其(もとそ)の方(はう)が見識(けんしき)の薄(うす)きより出づる事也」

任重云ふ、

「閻君(えんくん)、陰司(いんし)報応(ほうおう・むくひあたる)

爽(たがは)ずと宣(の)へども、果(はた)して然(しか)らば、先年(せんねん)よりの案巻(すみくじのまき)をもつて、一々我(われ)に看(み)せ給ふべし」

閻君云ふ、

「それまでもなし。上帝(じやうてい)の旨(むね)あり。

此(こ)の閻羅(えんら)、王位(わうゐ)を六個時辰〓(ろつこじしん・むとき)

に替(かは)らしめ、告(くじ)を放(い)れて決断(けつだん)せしめ、断明白(だんめいはく・さばき)ならば、〓来世(らいせ)富貴を得ん。

裁判(さいばん)する事あたはざる時は、永く地獄(ぢごく)に落(お)ちて、人身(にんしん)を得ざるべし」

言(い)ひ罷(をは)つて閻君御座(ござ)を起(た)つて後殿(こうでん)に入り、任重(たふしげ)を喚(よ)んで装束(しやうぞく)を着(つ)けしむ。

鬼卒等(きそつら)、昇堂鼓(しようだうこ・でばたいこ)を

打(う)ち起(た)てて、権閻君殿(かりえんくんでん)に昇(のぼ)ると

報(つ)ぐる程こそあれ、善悪(ぜんあく)の諸司(しよし)、六曹(りくさう)の法吏(はふり)、判官(はんぐわん)・小鬼(せうき)、斉々整々(せいせいせいせい・みなみなりつばにならぶ)として

両辺(りやうへん)に分(わか)れ立つ。

任重頭(たふしげかしら)に天平冠(てんぺいくわん)を戴(いただ)き、身(み)に蟒衣(まうい・たつのころも)を穿(うが)ち、腰(こし)に玉帯(ぎよくたい)を束(つか)ね、手(て)に玉簡(ぎよくかん)を執(と)り、閻羅天子(えんらてんし)の気象(きしやう)に扮(い)で出(た)ちて、昂然(かうぜん・ひいでつるがごとく)として屏風後(へいふうご)よりめぐり出で、法座(はふざ)に昇(のぼ)る。

諸司吏卒(しよしりそつ)、参拝已(さんぱいすで)に〓(をは)りて、冥官吏卒(みやうかんりそつ)に命(めい)じて、既(すで)に放告〓(くじいれいた)を掛(か)けようと呼(よば)れる時、任重想(おも)ふ様(やう)、死(し)して地府(ちふ)に至(いた)る、万国(ばんこく)の生霊限無(せいれいかぎりな)きに、只(ただ)限ある六時の管事(ひきつけ)、〓(も)し判問(はんもん・せんぎ)落着(らくぢやく)を結(むす)ばざる時は、我(わ)が無能(むのう)に落(お)ちて罪(つみ)を取(と)らん。

「いかに判官等(はんぐわんら)、新(あらた)なる告(くじ)を

放(い)るるに及ばず。

爾等是迄(なんぢこれまで)の告状(こくじやう・めやす)の内、疑(うたが)ひ難(なん)ずる事あつて決(けつ)せざるものあらば、寡人判断(くわじんはんだん)して、陰司の榜様(てほん)に備(そな)へん」

判官稟(はんぐわんまう)し上ぐるやう、

「南瞻部州豊葦原(なんせんぶしうとよはら)、後鳥羽帝(ごとばてい)、文治(ぶんち)・建久(けんきう)の比(ころ)より、今に至伝尚決断(なほけつだん)を得ざる三通(さんつう)の

告状(こくじやう・めやす)、即(すなは)ち爰(ここ)に有り」

と、安上(あんじやう・つくえのうえ)に呈上(ていじやう)す。

任重開(ひら)き看(み)る時(とき)、  幼(いとけなき)を嘲(あざむ)きて令入水告事(せしむるじゆすいくじ)

  告(つげて)人  南瞻部州(なんせんぶしう)日本国

  養和之幼主(やうわのえうしゆ)  言仁(ときひと)

  被告(うけかた)  同邦同国(どうはうどうこく)

  平氏清盛妻(へいじきよもりさい)  二位尼(にゐに)

  功(こう)を賞(しやう)ぜず骨肉(こつにく)を傷(そこな)ふ告事(くじ)

  告人(つげて)  南瞻部州日本国  源姓(げんせい)  範頼(のりより)

                                                        義経(よしつね)

  被告(うけかた)  同邦同国  源将軍(げんしやうぐん)  頼朝(よりとも)

                                          其(そ)の臣(しん)        広元(ひろもと)

  功臣(こうしん)を忌(い)みて家(いへ)を令(せしむる)断絶(だんぜつ)告事(くじ)

          告(つげて)人  南瞻部州日本国  畠山氏(はたけやまうぢ)  重忠(しげただ)

          被告(うけかた)  同邦同国          北条(ほうでう)        時政(ときまさ)

                                          其(そ)の女(むすめ)  政子(まさご)

任重覧〓(みをは)つて、呵々(かか)として大に笑(わら)ひ、

「是程(これほど)の大事、如何(いかん)ぞ極(きは)め決(けつ)せず、果(はた)して陰司(めいどつかさ)決断(けつだん)滞(とどこほ)るにあらずや。

今夜(こんや)都(す)べて判断(はんだん)して、一々明白(めいはく)ならしめん」

と、直日(たうばん)の鬼卒(きそつ)を呼(よ)んで、三通(さんつう)の告状(こくじやう)を一斉(いっせい)に

喚(よ)び出(い)ださしめ、原告(かけかた)、被告(うけかた)挨次(つぎつぎ)にならびて聴審(ひかへゐ)る。

判官高声(かうじやう)に原告(つげて)、被告(うけかた)の名(な)を呼(よ)ぶ、  

「告人(つげて)  安徳君(あんとくくん)、在(あ)りや」

  謹(つつし)んで曰(いは)く、

「此(ここ)に在(あ)り」

 

「被告(うけかた)  二位尼(にゐのあま)、在(あ)りや」

  謹んで曰く、

「此に在り」

任重詞(ことば)を開(ひら)いて、

「二位尼は、幼主(えうしゆ)に徇(したが)つて

共(とも)に入水(じゆすい)せしは、忠心(ちゆうしん)といふべきに、此(こ)の訴(うったへ)はいかに」

。安徳君訴(うった)へて云(い)ふ、

「朕(われ)平氏(へいじ)に守護(しゆご)せられ西海(さいかい)に下り、平氏勢(いきほひ)尽(つ)きて、一類(いちるい)海(うみ)に没(もっ)する時、朕(われ)外戚(ぐわいせき)は平氏なれども、正(まさ)しく帝坐(ていざ)を汚(けが)せし身(み)なれば、兵(つはもの)の手(て)に渡(わた)りたりとも、命(いのち)はめでたからんに、二位の尼腰(こし)に宝剣(ほうけん)を滞(たい)し、按察(あぜち)の局(つぼね)に朕(われ)を抱(いだ)かしめ、水(みづ)の底(そこ)に都あり、供奉(ぐぶ)しなんといひて、海(うみ)に入り、わきまへなき朕(われ)を、己(おのれ)が死(し)ぬる連累(まきぞへ)にせしは何事ぞ。

あまつさへ後(のち)の世(よ)の説(うはさ)に、朕(わ)が母(はは)賢礼門院(けんれいもんゐん)入内(じゆだい)の後(のち)、悪人(あくにん)の女(むすめ)なりとうとまれて、父(ちち)帝(みかど)の御目(おんめ)かからざりしに、兄(あに)宗盛(むねもり)と通(つう)じて、出生(しゆっしやう)したる朕(われ)なりといふ心うさよ。

我(われ)を宗盛の胤(たね)とせしは、源氏(げんじ)の、朕(われ)にせまりて入水(じゆすい)せしめたる罪(つみ)を

軽(かる)くせん為(ため)、源氏(げんじ)贔屓(ひいき)の者の作りし物語(ものがたり)より出でし事なるべし。

宗盛の最期(さいご)見苦敷(みぐるし)きを見て、平氏(へいじ)の恥(はぢ)を掩(おほ)はんため、傘張法橋(かさはりほっきよう)が子なりといひしも、是に同じ。あはれ閻君、此の〓屈(うらみ)を伸(の)べて賜(たまは)るべし」

。任重云ふ、

「安徳君の云(い)ふ処(ところ)、一々理(いちいちり)に当(あた)る。

二位尼答(こた)ふるに詞(ことば)なかるべし。我(われ)想(おも)ふに、外戚(ぐわいせき)清盛(きよもり)の計(はからひ)にて、安徳君の女体(によたい)成(な)る事(こと)をつつみかくして、男宮(おとこみや)の披露(ひろう)して、位に即(つ)けたるもの故に、人手に渡し奉りては、女体あらはれ、平氏(へいじ)の罪(つみ)重(おも)く、後世(こうせい)の議論(ぎろん)を恐(おそ)れて、是をかくさん為(ため)、倶(とも)に沈(しづ)め奉るならん。我すでに落(らく)着(ぢやく)あり。

ひかへて待つべし。」

  次(つぎ)に喚(よ)ぶ、  

「告(つげて)人  のりより、よしつね、在(あ)りや。」

謹(つつし)んで日(いは)く、  

「此(ここ)に在り。」

 

「被告(うけかた)  よりとも、ひろもと、在りや。」

謹んで日く、  

「此に在り。」

任重云ふ、

「義経が告ぐる所理(ことわり)ありといへども、〓親兄(しんきやう)の礼(れい)

をまもらず、王城(わうじやう)の判官(はんぐわん)たる時、兄(あに)頼朝(よりとも)

に辞せずして、先達(さきだ)つて位席(ゐせき・くわんゐ)にすすむ。

後(のち)に頼朝の不興(きよう)を蒙(かうむ)りし時、都を開(ひら)くに及ばず、自(みづから)ら縛(ばく)して囚(とらはれ)となり、頼朝に逢(あ)うて罪を面謝

(めんしや・わびこと)せば、頼朝何ぞ手足(しゆそく)の情(じやう)を想(おも)

はざるべき。

あまつさへ上使(じやうし)土佐(とさ)正俊(しやうじゆん)を斬(き)って、  叛

(むほん)人の志(こころざし)を顕(あらは)し、天意(てんい)にて一統(いっとう)

に帰(き)する世を、同姓(どうせい)より乱らんとせし故、平氏(へいじ)を収(おさ)めしときの手際(てぎは)に

相違(そうい)して、行衛(ゆくえ)も知らずなり果て、終(をはり)を辺〓に取る。

今ここに却(かへ)つて兄を訴(うつた)へ出るはいかに。」

義経申して云ふ、

「あはれ御前(ごぜん)、某(それがし)が告(つ)ぐる処(ところ)一々聴(き)き分(わ)けて給(たま)はるべし。

某(それがし)舎兄(しやきよう)と異腹(いふく・はらがはり)といへども、父の骨肉(こつにく)に紛(まぎれ)なし。

奥羽(あうう)に時を待(ま)ち、大庭野(おほばの)の陣(ぢん)にて兄に見参(げんざん)してより、兄の代官(だいくわん)として、範頼(のりより)と倶(とも)に〓外(こんぐわい・しきみのそと)の権(けん)

を主(つかさど)り、義仲(よしなか)を江湖(がうこ)にとりひしぎ、平氏を西海(さいかい)に

斬(き)り沈(しづ)め、家の仇(あた)を討(う)ち、国(くに)の罪(つみ)を問(と)ふ。

京都に在判(ざいはん・けびゐしのやく))して、心(しん)を鎮(ちん・おもしとなる)ず。

元(もと)より業を興(おこ)すの所為(しよゐ)なれば、手柄(てがら)とも想はねば、功(こう)に誇(ほこ)るべきやうなく、身を容(い)るべき郡国(ぐんこく)の沙汰(さた)待ちて、太平(たいへい)を楽(たの)しみ、倶(とも)に武備(ぶび)の助(たすけ)となりて、天下を磐石(ばんじやく)の安(やす)きにおかんと思いの外、兄の心狭(せば)く、惣追捕使(そうついぶし)に心をや掛けんと、軍(いくさ)をかへす日も、腰越(こしごえ)より

進ましめず、尚も大江広元(おおえひろもと)・梶原影季等(かぢはらかげすゑら)が

言(こと)を聴きて、土佐正俊(とさしようじゆん)を都に登せ、刺客(しかく・ひとごろし)を

行(おこな)はしめんとす。

過(あやま)つて我(わ)が為(ため)に捉(とら)へられしに、某(それがし)一時(いちじ)の

憤怒(ふんど・はらだちいかり)によって、土佐が首を刎(は)ねたり。

是によって、鎌倉(かまくら)より不日(ふじつ)に大軍の登る風聞(ふうぶん)あれば、是まで

味方と思ひし諸国の司も、義経敵(てき)と成りしと聞きて、我を見る事路上人(みちゆくひと)のごとく、我(わ)が従者(じゆうしや)の外に味方(かた)なければ、遂(つひ)に文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)十一月、二日、すごすご都を開(ひら)き、津国(つのくに)河尻(かはじり)にいたりて、多田源氏(ただげんじ)に道(みち)を遮(さへぎ)られ、懸(か)け敗(やぶ)つて通(とほ)るといへども、従者過半(じゆうしやくわはん)を損(そん)じて、大物(だいもつ)の浦(うら)より四国(しこく)へ渡らんと思ふもむなしく、時節(じせつ)冬の最中(もなか)なれば、出帆(しゆつぱん)の便(たより)を得ず。

其の隙(ひま)に東軍(とうぐん)の逼(せま)らん事を恐(おそ)れ、従者(じゆうしや)と引きわかれ、跡(あと)をくらまして大和吉野(やまとよしの)に入る。

随(したが)ふものは婿有綱(むこありつな)・弁慶(べんけい)・景光(かげみつ)・

白拍子静(しらびやうししづか)、纔(わづか)に四人、〓(ここ)にも足(あし)とまらず、弁慶とわかれ独身(どくしん)となり、南都(なんと)・紀伊(きい)・伊勢(いせ)・近江(あふみ)、所定(ところさだ)めず跼(せぐく)まり、或時(あるとき)は京都にひそみかへり、叡山(えいざん)・鞍馬(くらま)・仁和寺(にんわじ)にかくれ潜(ひそ)まり、幾度(いくたび)か追捕使(ついぶし)の害(がい)を〓(のが)れ、陸奥(みちのく)の方へ落(お)ち下らんと便宜(びんぎ)をうかがへども、海陸(かいりく)の通路(つうろ)を塞(ふさ)がれ、心ならず文治(ぶんぢ)三年まで都にとどまり、北国の関々(せきせき)も義経の改怠(あらためおこた)り、血気(けつき)の大将今まで何国(いづく)にかあらん、対馬守(つしまのかみ)が平氏(へいじ)を高麗(かうらい)に避(さ)けしに習(なら)ひ、疾(と)くに蝦夷外国(えぞぐわいこく)へも渡りつらんと、思ひがけ無(な)き時節(じせつ)、越前越後(ゑちぜんゑちご)を経(へ)て、功(たくみ)に関(せき)を越(こ)え奥州(あうしう)にいたり、再(ふたた)び秀衛(ひでひら)を頼み、名を義行(よしゆき)と替(か)へて、当初(はじめ)は鎌倉にも知られざりしが、秀衛没後(もつご)に此の事かくれなく、泰衛等(やすひらら)心変(へん)じて、遂(つひ)に文治五年四月晦日、衣河(ころもがは)の舘(たち)に自害(じがい)してより、百年以来此の恨(うらみ)を報(ほう)ぜず、今日権閻王(こんにちかりえんわう)の明断(めいだん)を願(ねが)ふ」

任重云ふ、

「〓当初副将軍(なんじそのかみふくしやうぐん)たれども、三軍只(さんぐんただ)〓の名のみ知つて、範頼(のりより)の名を覆(おほ)ふ程の勢(いきほひ)ありながら、都を零落(れいらく)する時、大事を謀(はか)る智臣(ちしん)もなかりしか。

頼朝黄瀬川(きせがは)まで出馬(しゆつば)ありしかば、人家(じんか)の犬(いぬ)を追(お)ひ出だすがごとく、棒(ぼう)の挙(あ)がるを見て都を逃(に)げ出でしはいかに」

義経云ふ、

「曾(かつ)て一(いち)人の軍士(ぐんし)あり、江田源三(えだげんざう)といふ。平氏を亡(ほろ)ぼして後(のち)、中途(ちゆうと)にして我を捨(す)てて去る」

任重鬼卒(たふしげきそつ)を呼(よ)んで、源三を〓(よ)び到(いた)らしめ、問(と)うて云(い)ふ、

「〓始(はじめ)あつて終(をはり)なく、半途(はんと)にして逃(のが)る、軍師(ぐんし)の職(しよく)を尽(つく)さざるは何ゆゑぞ」

源三いふ、

「義経生得性急(しやうとくせいきふ)にして、人に親(したし)む事疎(うと)く、己(おのれ)を誇(ほこ)り人を蔑(ないがしろ)にするの癖(くせ)あり。

是故に人の思ひ付(つ)く事少(すくな)し。

終(つひ)には威勢(ゐせい)の衰(おとろ)へん事を慮(おもひはか)り、征西(せいせい)の折から毎度彼(まいどかれ)に進(すす)めて、和田(わだ)・畠山(はたけやま)は当時(たうじ)の大家(たいか)、就〓重忠(なかにもしげただ)は博識多才(はくしきたさい)、親(したし)みて恥辱(ちじよく)ともならぬ人柄(ひとがら)なれば、相かまへて睦敷(まじ)くし給へ。梶原景時(かぢはらかげとき)は侍別当(さむらひべつたう)の所司(しよし)、軍士(ぐんし)の奉行(ぶぎやう)として武衛(ぶゑい)よりの付人(つけびと)なれば、大小の事皆示(しめ)し合はせ給へ。木曾殿討手(きそどのうつて)の時(とき)も、一族(いちぞく)との合戦(かつせん)にいさみ進(すす)みて、心ざまを武衛(ぶゑい)に忌(い)まれ給ひな。

一両度も辞退(じたい)し給へなど、千万(せんまん)心を添(そ)へしかれども、一ツも用ひず。

あまつさへ、寿永(じゆえい)三年左衛門尉(さゑもんのじよう)に任(にん)ぜられし時、使者(ししや)を鎌(かま)くらに進(しん)じて、去(さんぬ)ル六日(むゆか)左衛門少尉(さゑもんのせうじよう)に

任(にん)ぜられ、使(つかひ)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)るよし申す。

其(そ)の時(とき)武衛(ぶゑい)甚(はなは)だ悦(よろこ)び給はず、使者(ししや)に対(たい)して仰(おほ)せけるは、範頼(のりより)・義信(よしのぶ)等(ら)は、内々(ないない)我(わ)が方(かた)より内奏(ないそう)を以て、受領(じゆりやう)の事を吹挙(すいきよ)せし故(ゆゑ)、左(さ)も有るべし。

彼(かれ)が事は存(ぞん)ずる子細(さい)有りて、未(いま)だ其(そ)の沙汰(さた)に及ばず。

察(さつ)する所遮(さへぎ)つて所望(しよまう)申し上げたるなるべし。

是を以て日此(ひごろ)の無礼(ぶれい)思ひやると、其の怒(いかり)詞にあらはるる時、大江広元(おおえひろもと)、頼朝の後(うしろ)に在(あ)りて、声(こゑ)を低(さ)げて云ふ、平家(へいけ)未(いま)だ西海(さいかい)に在(あ)つて

戦争(せんさう)半(なかば)也。

将士(しやうし)を懐(なつ)け重(おもん)ずべき時節(じせつ)なるに、小事を怒(いか)り給ふなと心を付けしかば、頼朝早(はや)く悟(さと)り、言(ことば)を執(と)り直(なほ)して、兄にもまさりて速(すみや)かに任官(にんかん)を進(すす)められしは、内(うち)にも類(たぐひ)なき忠勤(ちゆうきん)を思しめしての事なるべしと、事もなげにて使(つかひ)をかへされしかれども、是より弥(いよいよ)頼朝の疎(うとみ)ふかし。

我(われ)亦(また)其(そ)の時一計(いつけい)をすすめて云ふ、上皇後白川院(じやうくわうごしらかはのゐん)、頼朝が権威(けんゐ)を忌(い)み給ふ御志(こころざし)あれば、院御所(ゐんのごしよ)に近(ちか)より、法皇(ほうわう)の御計(はからひ)を仮(か)りて、身を立つる計(はかりごと)あるべしと、心を付けぬれど、西海の狼藉(らうぜき)疎(うと)みて、院(ゐん)の御気色(みけしき)よろしからねば、其の事のなるべきにあらず。

後来(こうらい)身(み)を安(やす)んずる地(ち)なからん事を察(さつ)して、中途(ちゆうと)より見限(みかぎ)り、それがし山林(さんりん)に引(ひ)き篭(こも)り候也」

任重(たふしげ)道(い)ふ、

「義経如何(いかん)ぞ明白(めいはく)なる教(おし)へに従(したが)はざる」

義経云ふ。

「余(われ)童形(どうぎよう)の時、洛(らく)に吉岡鬼一法眼(よしをかきいちほふげん)といふものありて、深(ふか)く陽陰(いんやう)の理(り)を監(かんが)み、遍(あまね)く軍籍(ぐんせき)の奥(おく)を極(きは)む。

人相(にんさう)を察(み)る事、都下(とか・みやこのした)に名あり、彼(かれ)が相(さう)を求(もと)むるもの門(もん)に市(いち)をなす。

曾(かつ)て某(それがし)を相(さう)して、寿(ことぶき)七十一歳功名栄貴(さいこうめいえいき)に終(をは)ると云へり。

是ゆゑに天道(てんだう)に任(まか)せて、人の心に〓らず。

誰(たれ)か知らん、零落千磨(れいらくせんま・さまざま)僅(わづか)に年(とし)三十一歳、彼(か)の鬼一禍福(きいちくわふく)を云ひて験(しるし)なく、虚名(きよめい)に乗(じよう)じて人を〓(たぶらか)し、人の一生(いつしやう)をあやまる。

恨(うら)むべし恨むべし」

任重鬼一を喚(よ)んで、是を問ふ。

鬼一云ふ、

「人の寿命(じゆみやう)延(の)ぶべきあり、折(くじ)くべきあり。

星学者流(せいがくしやりゆう)常(つね)に寿命の定(さだ)め難(がた)きは是(こ)の故(ゆゑ)なり。

義経七十一歳、是算上(さんしやう)の理(り)の拠(よ)る所、かなしきかな、彼(かれ)が機(き)を殺(ころ)す事太(はなは)だ深(ふか)く、陰陽を損(そん)ずる事多きが故に、短折(たんせつ)をいたす。

某(それがし)算命(さんめい)の違(たが)ふに非(あら)ず」

任重言う云ふ、

「義経幾件(いかばかり)陰徳(いんとく)を損(そこな)ふ。

一々云(い)ふべし」

「始(はじめ)、義経奥州(あうしう)へ志(こころざ)し、師(し)の坊覚日(ばうかくにち)の父(ちち)、下野(しもつけ)の住人(ぢゆうにん)深栖陵(ふかすりよう)之介光重(みつしげ)と同伴(どうはん)の約(やく)をなし、其(そ)の身(み)は金商人(かねあきうど)橘次(きちじ)と先達(さきだ)つて首途(かどで)して、三河(みかは)の国矢作(やはぎ)にて十日斗(ばかり)滞留(たいりう)して、光重を待(ま)ち合(あ)はされし内、宿(しゆく)の長(ちやう)が娘(むすめ)とかたらひ、仮初(かりそめ)の契(ちぎり)をこめ、夫(それ)より下野(しもつけ)に着(ちやく)して、深栖(ふかす)の館(たち)に半年(はんねん)斗在(あ)る内、彼(か)の女はあだなる詞をふかく思ひとりて、数々(しばしば)消息(せうそこ)を送(おく)るといへども、義経馬耳風(ばにふう)ともせず、詞の(ことば)の答(こたへ)だになかりしかば、一筋(ひとすぢ)なる女心に深(ふか)く恨(うら)み憤(いきどほ)りて、半年(はんとせ)の間(あひだ)にむなしくなる。

寃魂(ゑんこん)いづくにか散(さん)ぜん。

青春(せいしゆん)十年を折(くじ)く。

壇(だん)の浦(うら)平軍(へいぐん)敗(やぶ)れて後(のち)、女院(によゐん)の御船(おんふね)に参会(さんくわい)して国母(こくぼ)を犯(をか)し奉る。

又十年を損(そん)ず。

其の身の不義(ぎ)を忘(わす)れ、却(かへ)つて兄を追討(ついたう)の院宣(ゐんぜん)を申し下す。

是によつて又十年を損(そん)ず。

将家(しやうか)の常(つね)にして免(まぬが)れざる事ながら、義仲(よしなか)追討(ついたう)より以来(いらい)、生(しやう)を殺(ころ)す事幾千万(いくせんまん)をしらず。

また十年を損ず。

併(あは)せて四十年の寿命(じゆみやう)此(こ)の罪(つみ)によつて削(けづ)らる」

義経云ふ、

「大江広元(おほえひろもと)は、其の身武衛(ぶゑい)の師範(しはん)として、数鄒魯(すうろ)の流(ながれ)を汲(く)み、先王(せんわう)の道(みち)に泝(さかのぼ)る。

文(ぶん)あり才(さい)ある身として、同胞(どうはう)の間を傷(そこな)ふは何事ぞ」

任重広元(ひろもと)を喚(よ)びだして問(と)ふ時(とき)、広元云ふ、

「某(それがし)は其の時(とき)、頼朝の為(ため)天下の為(ため)の計(はかりごと)を思うて、義経の為にせず。

彼(か)の廷尉(ていゐ)、朝日将軍(あさひしやうぐん)を戮(りく)し、平氏(へいじ)を八嶋(やしま)につくす。

其の間数歳(すさい)ならず、功(こう)をなす事の速(すみや)かなる、廷尉(ていゐ・はうぐわん)の英武(えいぶ)にあらずんば、誰(たれ)かよく及ばん。

我(われ)其の時思ふに、廷尉は聡明(そうめい)なり、必(かなら)ず功を武衛(ぶゑい)に

譲(ゆづ)つて、自(みづか)ら驕(おご)る事なからん。

左ある時は、其の身も安全(あんぜん)なるべしと。

思はざりき、跋〓(ばつこ/ふみはだかる)の働止(ふるまひ)甚(はなは)だしく、若(も)し不虞(ふぐ)の事あらば、〓外(をりのそと)に虎(とら)を養(やしな)ふ也。

たとへ頼朝一代(いちだい)患(うれへ)を成さずとも、子孫(しそん)に置(おい)て

油断(ゆだん)ならずと、睚眦(めをつけ)るもの辞(ことば)を作(つく)るは

此(こ)の故(ゆゑ)なり。

夫程の事見えぬ人柄(ひとがら)にはあらぬに、一此(ひところ)も梶原影季(かぢはらかげすゑ)、堀川(ほりかは)の亭(てい)に到(いた)つて、行家(ゆきいへ)追討(ついたう)の事を達(たつ)し、是(これ)を以て其の動作(ふるまひ)を計(はか)り見たりしに、再度(さいど/にどめ)に及(およ)びて

漸(やうやう)対面(たいめん)して、然(しか)も病中(びやうちゆう)といひながら、応対(おうたい)甚だ不遜(ふそん/ぶれい)なりし故、影季(かげすゑ)元(もと)より小人(せうじん)なれば、是を憤(いきどほ)り武衛(ぶゑい)の御前(ごぜん)にて沙汰よろしからず。

残忍(ざんにん/むごき)なる兄の心を知りながら、毒(どく)ある〓人(ねいじん)と知って、是を懐(なつ)くる事もなく、却(かへ)つて其(そ)の心に逆(さか)ふ。

是皆(これみな)老成(らうせい/おとなしく)ならざるの致す所なり」

任重いふ、

「義経の逐(お)はるる必竟(ひつきやう)看来(みきた)れば頼朝の罪(つみ)なり。

頼朝答(こた)ふるに詞なかるべし。

広元も頼朝に姦智而巳(かんちのみ)を教(をし)へて、順道(じゆんたう)の謀(はかりごと)を

進(すす)めざるは、罪なしといふべからず。

源氏再興(げんじさいこう)、義経の身命(しんみやう)を捨(す)てたる功(こう)高(たこ)うして、賞(しやう)なきのみならず、零落(れいらく)殺死(さつし/ころさる)、転世(てんせい/またのよ)此の冤(うらみ)を報(ほう)ぜしむべし」

と案(あん)を写(うつ)し、一辺(いつぺん)にひかへさせ、又範頼(のりより)を喚(よ)んで、其の告(つげ)を聴(き)く。

範頼云ふ、

「某(それがし)鈍才(どんさい/にぶきちゑ)なれども、兄の代官として、義経と倶(とも)に西海に下り、平族(へいぞく)を亡(ほろ)ぼし、頼朝の惣追捕使(そうついぶし)、皆我(わ)が輩(ともがら)の力(ちから)なり。

誰(たれ)か思はん、苦(くるしみ)を同(おな)じうして楽(たのしみ)を同じうせず。

治世(ぢせい)の後、伊豆(いづ)の国に逐(お)ひ下され、狩野(かの)・宇佐美(うさみ)に

預(あづ)けられ、言甲斐(いひがひ)なき死(し)を遂(と)ぐる、この恨(うらみ)はるる期(ご)なし」

任重云ふ、

「〓(なんぢ)が訴(うつたへ)、義経と同意(どうい)なり。

再(ふたた)び言(い)ふ事なかれ」

次(つぎ)に喚(よ)ぶ、

「告人(つげて)  畠山重忠(はたけやましげただ)、在(あ)りや」

謹(つつし)んで曰く、

「此(ここ)に在(あ)り」

「被告(うけかた)  時政(ときまさ)・政子(まさこ)、在りや」

謹んで曰く、

「此に在り」

任重云ふ、

「畠山重忠、〓(なんぢ)何の罪(つみ)あつて家(いへ)を亡(ほろ)ぼさる」

重忠云ふ、

「某、功(こう)あつて罪なし。

源家(げんけ)の再興(さいこう)多くは我らが佐(たす)くる所、頼朝逝去(せいきよ)の後、政子素性(すじやう)淫乱(いんらん)にて、諸大名(しよだいみやう)の子供(こども)の

美貌(びばう/よきかたち)なるものを、内使(ないし)にて招(まね)きて、酒宴(しゆえん)の偶(とも)となさんと欲(ほつ)す。

内監(ないかん/おくめつけ)何某(なにがし)是を止(とど)めて、故(ゆゑ)なくして少年の大名を召(め)さば、忽(たちま)ち人の議論(ぎろん)ありて、罪我等(つみわれら)迄に及ばんといふ。

ここにおいて政子想(おも)ふやう、古老(こらう)の巨(しん)は、頼朝の世より多く内外(ないぐわい)の政務(せいむ)に預(あず)かる。

是を招(まね)くは所謂(いはれ)なしとせずと、即(すなは)ち隠密(おんみつ)の大事ありと、内々(ないない)の使者(ししや)を以て某(それがし)を呼(よ)ぶ。

某使者と倶(とも)に、桐(きり)が谷(やつ)の小門(こもん)より入つて、内玄関(ないげんくわん)にいたる時、政子一間(ひとま)を出でてむかへ、奥(おく)へ請(しやう)じて酒三献(こん)を酌(く)む。

政子淫心(いんしん)起(おこ)つて、左右(さいう)の侍女(じじよ)をはるかに遠(とほ)ざけ、目(め)を以て情(じやう)を寄(よ)す。

某(それがし)彼(かれ)が大事(だいじ)を議(ぎ)するを名として、道なき事をなさんとするをさとりて、席(せき)を正(ただ)しうして、敢(あ)へて近づかず、謹(つつし)んで曰(いは)く、某大事に預りて来(きた)る事を知り、御前(ごぜん)の女中皆避(さ)け遠(とほ)ざかる。

元(もと)のごとく次(つぎ)の間にさしおかるべし。

恐(おそ)らくは閨〓(けいこん)の〓(そしり)あらん。

政子怒色面(いかりのいろおもて)にあらはれ、〓小義(なんぢせうぎ)に拘(かかは)つて大事を謀(はか)るに足(た)らずと、座を起(た)つて入る。

我も又不辞(じせず)して帰(かへ)る。

此(こ)の事我(ことわれ)は堅(かた)くつつみ、口外(こうぐわい)せずといへども、政子深(ふか)く恥(は)ぢて我を恨(うら)み、時政の室牧(しつまき)の

方(かた)と計(はか)つて讒訴(ざんそ)をかまへ、嫡子重保(ちやくししげやす)が事より起(おこ)こつて、我が身も倶(とも)に亡(ほろ)ぼさる。

是多(おほ)く政子が謀(はか)る所」

政子傍(かたはら)にありて告(ゆ)げて〓ふ、

「閻君(えんくん)、他(かれ)一人の詞を聴(き)く事なかれ。

凡世上男(およそせじやうをとこ)の女(をんな)にる戯(たはむ)るるは常理(じやうり)なり。

女の男(をとこ)に戯るるは理(り)の常(つね)にあらず。

重忠我(しげたかわ)が傍(かたはら)に人無(ひとな)きを見て、一時(いちじ)不良(りやう)の心を起(おこ)し、戯(たはむれ)の言(こと)を出だし、我(わ)が為(ため)に叱(しつ)せられて

走(はし)り帰(かへ)りぬ。

此の故に我、後来言(こうらいこと)を托(たく)して、無礼(ぶれい)の罪(つみ)を問(と)ひし也」

重忠〓ふ、

「我源家(われげんけ)に従(したが)ふといへども、数万町(すまんちやう)を領(りやう)し、大厦高堂(たいかかうだう)、玉食錦衣(ぎよくしよくきんい)、西京(せいけい)の美

色後堂(びしよくこうだう)に充(み)つ。

何(なん)ぞ無儀(むぎ)の老婆(らうば)を慕(した)はんや。

彼(か)の政子は、元来伊豆(ぐわんらいいづ)の流人山木兼隆(るにんやまきかねたか)が聘を受けて、既に定まりたる丈夫有りながら、父時政都在番の留守の内、佐殿に密通しけるが、時政帰国して此の事を知り、六波羅の

聞えを憚り、直に山木が許へ送りつかはし、一度兼隆が許嫁したけれども、佐殿の事を

忘れかねて、山木の舘を逃れ出でて、佐殿に従ふ。

心の操定まらざる事かくのごとし。

重忠幼より聖賢の書を読み、人の道の大概を知る。

無儀の志露程もなし」

任重いふ、

「重忠申す所真情、政子が口詞はぬり隠せし所あり。

必ずしも言ふに及ばず。

重忠は大功の臣、忠節比類なし。

是皆北条が家より謀る所、後代(こうだい)北条の天下を以て三つに分(わか)ち、〓等(なんぢら)三人に与(あた)へて、生前(しやうぜん)汗馬(かんば・むまにあせかく)の労に報(むく)ゆべし」

任重善悪の両判官を喚(よ)びて帳簿(ちやうぼ・ちやう)を扣(ひか)へしめ、

「決断(けつだん)明白(めいはく)、恩は恩を以て報(むく)ひ、仇(あた)は仇を以て報ひ、分〓(ぶんがう)を錯(あやま)らず、其の連告(かかりあひ)の者(もの)までも一場(いちば)に落着(らくぢやく)せしめん。

何州(なにしう)何郡(なにごほり)何郷(なにがう)、姓(うぢ)は何(なに)、名(な)は誰(たれ)、幾時(いつ)生(うま)れ幾時(いつ)死(し)す、細々(こまごま)と記録(きろく)して、罪人(ざいにん)逐一(ちくいち)発(はつ)し去(さ)つて、夫々(それぞれ)の胎(たい)に投(とう)ぜしむべし」

判官筆を把(と)つて、任重云ふ、

「安徳君は日本国公卿(くぎやう)阿野(あの)公廉(きんかど)の家(いへ)に托生(たくしやう)して、廉子(かどこ)と称(しよう)し、帝寵(ていちよう)を得て〓后(じゆこう)にいたり、後来(こうらい)南朝(なんてう)の国母(こくぼ)となるべし。

ただし業因(ごふいん)を引きて、義貞(よしさだ)・護良(もりよし)が為に害(がい)をなすことも有りなん。

二位の尼は是も西園寺(さいをんじ)家(け)に托生(たくしやう)し、実兼(さねかね)の女(むすめ)となし、家(いへ)の先例(せんれい)によつて入内(じゆうだい)して、后に立つべけれども、廉子に寵(ちよう)を奪(うば)はれ、親(した)しく帝を〓(み)ることを得ず、国色〓顔(こくしよくせうがん・くににいろあるうるはしきかほ)空(むな)しく深宮(しんきゆう)に埋(うづ)もれ、婦人(ふじん)の薄命(はくめい・ふしあはせ)、此の怨情(ゑんじやう・うらめしさ)にこゆることあるべからず。

是を以て安徳君の報(むくひ)を〓(つぐの)はしむ。

義経〓、身命(しんみやう)を惜(をし)まず、家に仇(あた)を討(う)ち、君の〓襟(しんきん)を安(やす)んず功労(こうらう)ありて志(こころざし)を得ず。

然れども不議(ふぎ)の行跡(かうせき)多く、陰徳(いんとく)を損(そん)ずる事あり。

〓(なんぢ)を発(はつ)して日本上野国(かみつけのくにの)住人(ぢゆうにん)新田(につた)六郎朝氏(ともうぢ)が家(いへ)に生(しやう)を托(たく)して、義貞(よしさだ)と名乗(なの)り、高氏(たかうぢ)と倶(とも)に鎌倉(かまくら)を亡(ほろ)ぼして、天下を分(わか)つの勢(いきほひ)あり。

後(のち)左中将(さちゆうじやう)に至(いた)つて、終(をはり)を能(よ)くせざるは、前生不議(ぜんじやうふぎ)の罪の報(むく)ふ所。

範頼又功(こう)あれども殺さる。

来世其(そ)の恨(うらみ)を報(ほう)ぜしむ。

然れ共我(われ)平治(へいぢ)以来(いらい)の書(しよ)を見るに、征西(せいせい)の時(とき)〓上将(じやうしやう)となり、義経副将(ふくしやう)となる。

副将は一器量(ひときりやう)あるゆゑ、毎度(まいど)計策(けいさく)を仕中(しあつ)れども、〓上将の才(さい)なく、却(かへ)つて義経が軍慮(ぐんりよ)の妨(さまたげ)をなす事多く、却つて義経をねたみ忌(い)む事、頼朝よりは甚(はなは)だし。

唇(くちびる)亡(ほろ)ぶれば歯(は)寒(さむ)き事をしらず、義経が零落(れいらく)にゑみを含(ふく)む不仁(ふじん)の志あり。

今〓を同邦(どうはう)河内国(かはちのくに)楠正遠(くすのきまさとほ)が家に生じて、幼名(えうめい)多門丸(たもんまる)、後(のち)多門兵衛正成(たもんひやうゑまさしげ)と名乗(なの)り、後醍醐帝(ごだいごてい)に頼まれ、高氏(たかうぢ)・義貞(よしさだ)と共に北条家(ほうでうけ)を亡(ほろ)ぼし、一度(ひとたび)帝(みかど)を世(よ)に出だし奉り、摂河(せつか)の間に拠(よ)りて、新田(につた)・足利(あしかが)と三鼎(さんてい)の勢(いきほひ)をなせども、前生上将(ぜんしやうじやうしやう)の才(さい)なき身として、其の任(にん)にあらざるをゆづる事なく、兄顔(あにがほ)して上将を蒙(かうむ)りたる所あれば、後(ご)生義貞(しやうよしさだ)の下に付(つ)きて、彼(かれ)が命(めい)を聴(き)きて、才(さい)有りながら、自己(じこ)の神機妙算(しんきめうさん)を伸(の)ぶる事あたはざらしむ。

重忠は〓是武文二道(ぶぶんにだう)の君子(くんし)、功(こう)有つて罪(つみ)なし。

〓(なんぢ)を下野(しもつけ)の国(くに)足利讃岐守貞氏(あしかがさぬきのかみさだうぢ)が家(いへ)に出生(しゆつしやう)せしめ、高氏(たかうぢ)と名乗(なの)り、北条(ほうでう)は家(いへ)の縁者(えんじや)ながら、機(き)を見て志(こころざし)を変(へん)じ、北条に叛(そむ)きて官軍(くわんぐん)に加(くは)はり、新田と天下を分(わか)ち、後来四海(こうらいしかい)を一統(いつとう)するにいたる。

是忠心(ちゆうしん)に報(ほう)ずる也」

重忠(しげただ)云(い)ふ、

「北条家(ほうでうけ)の縁者となりて、万一彼(かれ)が勢(いきほひ)尽(つ)きたる時、志(こころ)を変(へん)ぜば義(ぎ)を知らぬそしりありて、思ひ付(つ)く武士(ぶし)あるまじ。」

任重云ふ

「我幾人(われいくたり)の智者(ちしや)を生(しやう)じて〓を助(たす)けしめん。

江田源三(えだげんざう)は前生(ぜんじやう)の智術(ちじゆつ)を依旧(そのまま)に、重忠と同じ腹(はら)に托(たく)し、其(そ)の弟(おとと)に生じ直義(ただよし)と名のり、兄の為に天下をはかり、計策(けいさく)を含(ふく)み、或(あるい)は遁(のが)れ或は進(すす)み、兄弟内議(ないぎ)して師直(もろなほ)を誅(ちゆう)するまで、皆〓(なんぢ)を助けしむる也。

又吉岡鬼一(よしをかきいち)は、義経を相(さう)して七十一歳栄花に終ると考へたれども、義経只三十一歳、彼が陰隲を折く事ありとも、是則ち命中にあるべき事なり。

〓が術の不練なるによる。

今〓を高階の一族に生を托し、師直と名のり、足利家の権柄を執り、追日天下を定め、四十一歳にして刀下の鬼となり、陰陽・亀卜・相人の術を以て、人を迷はす胡言の罪を報ずる也。

形を替え法衣を服しても、凶死を免れざるは、前業のなす所。

時政、〓を再び北条の家に入つて、平貞時が嫡子と生ぜしめ、高時と名乗り、乱るべき世を続ぎて心を労じ、終に鎌倉にて亡(ほろぼ)さる。

前世功臣(ぜんせ・こうしん)を謀(はか)り殺(ころ)すによって、来世(らいせ)一族(いちぞく)まで亡(ほろぼ)さる。

政子(まさご)、爾(なんぢ)を〓紳源家師親(しんじん・げんけ・もろちか)の家(いえ)に投胎(とうたい)して、後醍醐帝(ごだいごてい)の宮女(きゆうぢよ)とし、民部卿(みんぶきやう)の局(つぼね)と号(がう)し、大塔(おほたふ)の宮(みや)の母堂(ぼだう)にて、其の身(み)一度(ひとたび)帝(みかど)の寵幸(ちようかう)を〓(かたじけな)うしながら、一生志(いっしようこころざし)を得ず、南山(なんざん)に冷落(れいらく)して、宮(みや)、直義(ただよし)に〓(しい)せられ給ひて後(のち)、憂(うれへ)に沈(しづ)みて世(よ)を去(さ)る。

是(これ)高氏(たかうぢ)が殺(ころ)すにかかる。

重忠(しげただ)を謀(はか)り殺(ころ)す罪(つみ)を報(むく)ゆる也。

広元(ひろもと)は同邦(どうはう)播磨国(はりまのくに)、赤松何某(あかまつなにがし)が家に生(しやう)ぜしめ、法号円心(ほふがうゑんしん)と号(がう)し、楠(くすのき)に次(つ)いで官軍(くわんぐん)に功有(こうあ)れども、治世(ちせい)の後賞(のちしやう)せられず、元(もと)の左用(さよ)一郡(いちぐん)を漸(やうやう)住所(じゆうしよ)に沙汰(さた)せられて、功労(こうらう)の甲斐(かひ)なかるべし。

頼朝(よりとも)、爾(なんじ)宿善(しゆくぜん)によりて、日本の惣追捕使(そうついぶし)となり、家(いえ)を興(おこ)すといへども、度量(どりよう・こころのたけ)〓(せば)く人を容(い)るる事あたはず、二人の弟(おとうと)が訴(うつたへ)、皆〓(みななんぢ)が罪(つみ)なり。

今〓を民部卿三位局(みんぶきやうさんみつぼね)の腹(はら)に投(とう)じて、王子(わうじ)と生(むま)れながら、外戚賎(ぐわいせきいや)しきがゆゑに、山に登(のぼ)り天台(てんだい)の座主(ざす)となり、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)を管領(くわんれい)し、法燈(ほうとう)をかかぐる身(み)とはなれども、前縁尽(ぜんえんつ)きず環俗(げんぞく)して護良(もりよし)と名乗(なの)り、父帝(ちちみかど)の志(こころざし)に従(したが)へども、北条家(ほうでうけ)の権勢(けんせい)に頭(かしら)を出だす事ならず、南紀(なんき)の際(あひだ)に蒙塵(もうじん・にげかくれ)して千磨百難(せんまひやくなん・さまざまなんぎ)、怨敵亡(をんてきほろ)びて後、征夷大将軍(せいいたいしやうぐん)になり、理(り)を以(もち)て言はば天下(てんか)を握(にぎ)るべき身(み)の、却(かへ)つて獄(ごく)に繋(つな)がれ、直義(ただよし)が命(めい)じて、淵辺(ふちべ)が為(ため)に首(くび)を切(き)らる。

〓(なんじ)が残忍(ざんにん)なる報(むくひ)なり」

三通(さんつう)の告状(こくじやう・めやす)悉(ことごと)く落着(らくちやく)して、罪(つみ)せらるるも、賞(しやう)せらるるも、皆屈服(みなくっぷく)す。

任重鬼卒(きそつ)に命(めい)じて云(い)ふ、

「今此(いまこ)の一場(いちぢやう)の怨鬼(ゑんき)ども、前因によって同邦(どうはう)に往(ゆ)き生(うま)るれども、応報(おうほう)のあるものどもなれば、我がことばを心耳(しんに)に残(のこ)さしむべからず。

早々(さうさう)発出(はつしゆつ・はらひいだし)して、地府(ちふ)に滞(とどこほ)らしむる事なかれ」

任重判断明白(はんだんめいはく)に〓(をは)りければ、衆官人心服(しゆうくわんにんしんぷく)せざるはなし。

判官一々細(はんぐわんいちいちこまか)に注(ちゆう)し、筆(ふで)を〓(さしお)く時、鶏(にはとり)鳴(な)いて暁(あけ)を告(つ)ぐ。任重殿(でん)を退(しりぞ)き、冠服(くわんぷく)を卸(おろ)し、旧(もと)の浪人姿(らうにんすがた)となり、決断(けつだん)する所の案巻簿籍(あんくわんぼせき・すみくちのまきひかへちやう)、閻君(えんくん)に進看(しんかん・おめにかける)す。

閻羅王(えんらわう)嘆服(たんぷく)して、此(こ)の由(よし)を上界(じやうかい)に呈奏(ていそう)す。

玉帝(ぎよくてい)深(ふか)く賛(さん・ほめる)しての給ふ。

「百年来(ひやくねんらい)の滞獄(たいごく・すまぬくじ)、彼(か)の者(もの)六時(とき)の間(あひだ)に決断(けつだん)し、天地(てんち)私(わたくし)なく果報(くわほう)爽(たが)はざらしむ。

誠(まこと)に天下の奇才(きさい)也。

任重(たふしげ)天(てん)を経(たて)にし地(ち)を緯(ぬき)にするの才(さい)、今生(こんじやう)屈抑(くつよく・おしかがまる)して、時(とき)に遇(あ)はず。

来世(らいせ)彼(かれ)を新田義貞(につたよしさだ)の弟(おとと)となし、脇屋義介(わきやよしすけ)と名乗(なの)り、兄の職(しよく)を襲(おそ)ひて、南朝(なんてう)礎(いしずゑ)の臣(しん)となり、志(こころざし)は得(う)るべけれども、善事(ぜんじ)の報(ほう)にあらず。

才学(さいがく)を以て転生(てんせい・うまれかはる)する者(もの)なれば、終始(しゆうし)思(おも)ふ侭(まま)なる世(よ)は経(へ)さすべからず」

と、玉帝(ぎよくてい)の御旨(ぎよし・おほせのむね)下(くだ)る。

閻羅王(えんらわう)解読(かいどく・ひらきよみ)し〓(をは)り、莚席(えんせき・しゆえん)を備(そな)えて任重(たふしげ)が行(かう・かどで)を送(おく)る。

任重告(つ)げて云(い)う、

「人界(じんかい)に常(つね)に地獄(ぢごく)極楽(ごくらく)の説(せつ)をなす。

想(おも)ふに極楽(ごくらく)は無苦世界(むくせかい)といへば、名目(みようもく)はありて空成(くうな)るべし。

五行(ごぎよう)の気(き)皆(みな)天(てん)にあれば、其(そ)の所(ところ)に立ちのぼりかえり、本源(ほんげん)の気(き)と、倶(とも)に形(かたち)なくなるを言ふなるべし。

形(かたち)ある時は苦(く)ある事常理(じようり)なり。

左あらば、極楽(ごくらく)は問(と)ふに及ばず、有るべき所ならず。

地獄(ぢごく)といへるのは、閻君(えんくん)悪人(あくにん)を懲(こら)すの所なるべし。

其(そ)の有様(ありさま)我(われ)に見せしめ給へ」

といふ。

閻君(えんくん)笑(わら)うて云(い)ふ。

「倆博識明智(なんぢはくしきめいち)、是(これ)を悟(さと)らざるはいかん。

人界(じんかい)に天地人(てんちじん)を三才(さんさい)といふ。

皆(みな)其(そ)の〓(うち)を出でず。

極楽(ごくらく)は天堂(てんどう)とも云(い)ふ。

人(ひと)の魂気物(こんきもの)の為(ため)に凝らずして、火(ひ)尽(つ)き烟(けふり)となりて空(くう)に昇(のぼ)り、気(き)と倶(とも)に消化(せうくわ)して、天の空(くう)なると倶(とも)に空(くう)となつて、些(すこ)し形(かたち)とすべき物なくなるを、極楽(ごくらく)とも、弥陀(みだ)の本身(ほんしん)ともいふ。

僧徒(そうと)は此(こ)の空(くう)を現世(げんぜ)より期(ご)したるもの也。

貴所(きしよ)の見る所に近(ちか)し。

ここにいたる人も亦(また)少(すくな)からず。

しかれども、かく取る所(ところ)もなく消(き)え果(は)つると聴(き)きては、身勝手(みがって)なる末世(まつせ)の衆生(しゆじやう)、興(きよう)なきことに思(おも)ひとりて、たとへうきふし多(おほ)き世(よ)なりとも、人界(じんかい)へ生(うま)れ来(きた)らば、復(ふたた)び眉を開(ひら)く事もあるべし、残念(ざんねん・こころをのこす)のはしを起(おこ)さんことを、聖(ひじり)の不便(ふびん)がりて、仏菩薩(ぶつぼさつ)の名(な)を徇(とな)へ出(い)だし、九品(くほん)の浄土(じやうど)を説(と)きて、是(これ)を願(ねが)ふべき到(いた)り所(どころ)と、定(さだ)められたると覚(おぼ)ゆ。

彼(か)の滞(とどこほ)り迷(まよ)ふことありて、空(くう)と一つに消化(せうくわ)することあたはざる魂気(こんき)は、凝(こ)り濁(にご)りて重(おも)き事あるがゆゑに、皆々(みなみな)地府(ちふ)に沈(しづ)み来(きた)れ共、随次(せんぐり)に生(うま)れ徃(湯)来て、其(そ)の内(うち)報応(ほうおう)を散(さん)じ、解脱(げだつ)して天堂(てんどう)に昇(のぼ)るあり、叉新(あら)たに〓恨(ゑんこん・うらみ)を結び、長(なが)く因果(いんぐわ)を引きて流転(るてん)するありて、暫(しばら)くも地府(ちふ)に留(とどま)る事なし。

寿永(じゆえい)以来の数人(すにん)のごときは、甚(はなは)だ稀(まれ)なる滞獄(たいごく)なり。

貴所(きしよ)の尋(たづ)ねらるる地獄(ぢごく)といえるは、極重悪人(ごくじゆうあくにん)をいたらしむる所(ところ)にて、是(これ)も人界(じんかい)に在(あ)りて、山野(さんや)里巷(りかう・さとまち)に、四肢(しし・よつあし)皆(みな)土(つち)につきて地(ち)を走(はし)り、羽〓(うかく)を高(たか)く張(は)り、飛行(ひぎやう)して食(しよく)を求(もと)むる〓獣(きんじう)に生(しやう)を托(たく)し、多(おほ)くは猟師(れふし)の獲物(えもの)となり、皮(かは)を剥(は)がれ工人(こうじん)の手(て)にわたれば、馬具敷物(ばぐしきもの)となり、〓皮(たび)となり〓底(くつそこ)となり、肉(にく)をわかちては脂(あぶら)をとられ、煮(に)られては盤(ばん)に登(のぼ)り、胆(たん)を割(さ)かれて医薬に備(そな)へられ、皮肉片々(ひにくへんぺん)として所(ところ)を異(こと)にして戦馬(せんば・いくさむま)となりて、数箭(すせん・おほくのや)を蒙(かうふ)りて乗(の)り捨(す)てられ、手柄(てがら)にもならぬ命(いのち)を捨(す)て死(し)に代りて海物(かいぶつ)となりても、〓網〓〓(こうまうていそ・つりあなべまないた)の憂(うれへ)えを免(のが)れず。

虫類(ちゆうるい)となりては、浅間敷(あさまし)き生(しやう)を受(う)くる。

是類皆地獄(このるいみなぢごく)にあらずや」

任重手(たふしげて)を拍(う)つて〓(はじめ)て地府(ちふ)の規〓(きく)を拝服(はいふく・ごもつとも)し、巳(すで)に閻王(えんわう)に別(わかれ)をなし、我(わ)が舎(いほ)のもたれし机に忽然(こつぜん)として身(み)を起(おこ)し、双眼(さうがん)を開(ひら)きて、我(われ)のみ地府(ちふ)の事(こと)を一々忘(いちいちわす)れず、

「奇怪(きくわい)、奇怪」

と独言(ひとりごと)して、隣家(りんか)の翁(をう)を呼(よ)んで夢(ゆめ)の奇(き)なるをかたり聞かせ、

「かく玉帝(ぎよくてい)の命(めい)あれば、久しく延(のば)はりがたし」

と説(と)き〓りて、目を瞑(ふさ)ぎて逝(せい)す。

是〓定業(これまたぢやうごふ)にや。

隣家(りんか)の翁憐(をうあわれ)んで、其(そ)の屍(かばね)を辺近(ほとりちか)き林中(りんちゆう)に葬(はうふ)りぬ。

幽冥(いうめい)の事奇怪(きくわい)なりといへども、彼(か)の数人(すにん)の〓魂(ゑんこん)の言へる処(ところ)、一々理(いちいちり)の有る所は強(し)ふべからず。

古今奇談英草紙第四巻(ここんきだんはなぶささうしだいしままき)

        六  三人の妓女(ぎぢよ)趣(おもむき)を異(こと)にして各(おのおの)名(な)を成(な)す話(こと)

  老(お)たると若(わか)きと、貴(たつと)きと賎(いやし)きと、男(をとこ)と女(をんな)と、互(たがひ)に其の志(こころ)の相反(あひはん)すること、言古(ことふ)りたれども、再(ふたた)び是を説(と)かん。

夜(よる)は臥(ふ)さずして昼眠(ひるねむ)り子(こ)を愛(あい)せずして孫(まご)を愛(あい)し、近比(ちかごろ)の事は記(おぼ)えねども、遠(とほ)きことをよく忘(わす)れず、悲(かなしみ)に涙(なみだ)なく笑(わら)ふ時涙(なみだ)あり。

近きもの見えず、却(かえ)つて遠(とほ)き物よく見ゆ。

打撲(うちみ)にいたまず平日却(つねずねかへ)つて痛(いた)む。

白(しろ)き面黒(おもてくろ)くなり、黒き髪(かみ)白く変(へん)ず。

是老人(これらうじん)の少年(せうねん)に反(はん)する所なり。

夜(よる)は臥(ふ)すべきに飲宴(いんえん・さいかもり)に明(あか)し、朝(あさ)は起(お)くべきに日高(ひた)けても臥(ふ)し、心(こころ)は放〓(ゆるやか)なるべきにこれを労(らう)し、労(らう)すべき身(み)は却(かへ)つてゆるやか也。

使(つか)ふべき銭(ぜに)は使(つか)はず、使(つか)ふまじき銭(ぜに)をつかふ。

病(やまひ)なけれども常(つね)に薬(くすり)を服(ふく)し、病あるとき薬(くすり)を服(ふく)せず。

人の未(いま)だ〓(な)さざる時(とき)是を〓(な)し、人皆〓

(ひとみな)すときは却(かへ)つて〓(な)さず。

人を請(しやう)ずるときは来(きた)れかしと思(おも)へども、人に請(しやう)ぜらるるときは却(かへ)つて行(ゆ)かず。

〓菓〓器(そくわぐわんき・なのたぐひくだものなぐさみだうぐ)は

価(あたひ)の貴(たつと)きを用(もち)ひ、必要(ひつよう)の

物具(ぶつぐ)は価(あたひ)の賎(いやし)きを論(ろん)ぜず。

是貴人(きにん)の賎人(せんじん)に反(はん)する所也。

長子(ちやうし・あにむすこ)より少子(せうし・おととむすこ)を愛(あい)

し、男子(なんし)より女子(によし)を愛(あい)し、人を信(まこと)

とせず、仏神(ぶつじん)を信(まこと)とす。

少銭(せうせん)を惜(をし)みて多銭(たせん)を惜(をし)まず、息婦(よめ)の時姑(ときしうとめ)を怨(うら)み、姑(しうとめ)となりて

却(かへ)つて息婦(よめ)を嫌(きら)ふ。

物忌(ものいみ)はすれ共、呪〓の怪(あやし)きことを好(この)み、早(はや)く老楽(おいらく)を得(えん)と欲(ほつ)して、又人道

(じんどう)の老(お)いぬるを〓(おそ)れ、丈夫(ぢやうぶ)の

挙動(ふるまひ)は、厳敷(きびし)く防閑(ばうかん・ふせぐ)すれども、〓〓(あくわん)が淫〓意(いんぼんこころ)に〓(さしはさ)まず。

是婦人(ふじん)の男子(なんし)に反(はん)する所也。

婦人の中(うち)にも妓女(ぎぢよ・うかれめ)と良家(りやうか・

つねのをんな)と程異(ほどこと)なるはなし。

良家(りやうか)は其(そ)の丈夫(ぢやうぶ)の美醜(びしう・

うつくしきみにくき)賢愚(けんぐ・かしこきおろか)を論(ろん)ぜず、是(これ)につかへて案(あん・ぜん)を挙(あ)ぐる事、眉(まゆ)と

斉(ひとし)くし、〓(すこ)しの外情(ぐわいじやう・ほかごころ)

ありても、婦道(ふだう)の棄物(すてもの)となる。

遊女(いうぢよ)は引手(ひくて)多(おほ)き〓(へう・けいせい)

客(かく・かい)の中(うち)、意(こころ)にあたる人に誠(まこと)を

〓(と)め、人を〓(み)ること多(おほ)きを規模(きぼ)とす。

良家(りやうか)は丈夫(ぢやうぶ)の静貞(せいてい・おちつきたる)を

取り、妓(ぎ・うかれめ)は其(そ)の興(きよう)あるを取る。

良家(りやうか)は、情(じやう)を寄(よ)する人あれども、肌(はだ)を

汚(けが)さざれば事(こと)ありとせず。

妓家(ぎか)は枕席(しんせき)を交(まじ)ふれども、意中(いちゆう・

こころにかなふ)の人(ひと)にあらざれば、心肝(しんかん・しんじつ)

とせず。

其(そ)の遊女(いうぢよ)またおのがさまざま、意(こころ)の

趣差(おもむきたがひ)有り。

いづれの治(をさま)りし世(よ)の事にや、諸国(しよこく)の関(せき)

の閉(とざし)もなく、歌枕(うたまくら)見(み)る人遠遊(ゑんいう)

を望(この)む人、諸国(しよこく)に往来(わうらい)する商買(しやうこ・

あきうど)も、進退自由(しんたいじいう)にして、海道(かいだう)の

駅亭旅館(えきていりよてん・とまりやどはたごや)までも賑(にぎは)ふ

比(ころ)、備後(びんご)の国尾(くにを)の道(みち)といふ所に、名高(なだか)き三人の遊君(いうくん)あり。

本(もと)は都(みやこ)の生(むまれ)なるが、父母(ぶも)の

零落(れいらく)に〓(したが)つて〓(ここ)に来(きた)り、其の類

(たぐひ)あるに倣(なら)うて、遂(つい)に兄弟(きやうだい)三人

遊女(いうぢよ)となりて、父母(ぶも)を養(やしな)ふ。

姉を都産(みやづと)と呼(よ)び、妹(いもうと)を桧垣(ひがき)と

呼(よ)び、季(すゑ)を〓路(ひなぢ)といふ。

三女(さんぢよ)とも其の顔色(がんしよく)・歌舞(かぶ)、郡妓(ぐんぎ・おほくのぢよらう)の上(うえ)に出(い)でて、是(これ)と

高下(かうげ)を争(あらそ)ふものなし。

中(なか)にも容色(ようしよく)は都産(みやづと)まさり、南枝(なんし)

先(ま)づ時めきて、遠近(ゑんきん)の雅人(がじん)此の為(ため)に

ここに来(きた)る人多(おほ)く、一度(ひとたび)其の顔(かんばせ)を

見て栄(えい・みのさかえ)とする人は、皆名(みなな)ある人々(ひとびと)

なり。

此(こ)の故(ゆゑ)に富有(ふいう)の商買(しやうこ・あきうど)と

いへども、其の意(こころ)を動(うごか)す事あたはず。

都産(みやづと)、送迎(そうげい・きやくあしらひ)の暇(いとま)を

〓(ぬす)みては、閨房(けいばう・わがひとま)深く(ふか)く篭(こも)

り、姉妹(しまい・あねいもと)の間(あひだ)といへども言語多(ものいふこ

とおほ)からず、笑(わら)ひを挙(あ)ぐることなし。

琵琶(びは)新声(しんせい・あたらしきうた)を入調(じゆてう・てをつける)するに堪(た)へたれども、操(と)るに〓(ものう)く、上代能書(じようだいのうしよ)の跡(あと)を〓(もてあそ)びて、筆(ふで)の道(みち)に心をとどめ、古(ふる)き草子(さうし)を乞(こ)ひ求(もと)めて、見ぬ世の風俗(ふうぞく)を楽(たのし)むより外(ほか)、移(うつ)り行(ゆ)く世(よ)の人の好(この)む所をも取らず、棄(す)つるをも捨てず、只(ただ)寒中(かんちゆう)の花(はな)の未(いま)だ開(ひら)けざる風情(ふぜ

い)あり。

傍(かたはら)より是を問(と)へば、「我(わ)が身(み)の世わたるさま、我(わ)が本心(ほんしん)の志(こころざし)にあらず、世(よ)の中(なか)の士農工商(しのうこうしやう)、其の財(ざい)を取(と)るを以(もつ)て勤(つとめ)とす。

つらつら思ふに、〓(は)づべきこと限(かぎり)なし。

父母(ぶも)を養(やしな)ふことは、良家(りやうか)の婦(ふ)となりてはならぬ事にや。

良人(りやうじん・をつと)に従(したが)ふ時(とき)は、入(い)つては舅姑(きうこ・しうとしうとめ)に事(つか)へ、家(いへ)の祭〓(まつり)を主(つかさど)り、出(い)でては顧(かへりみ)る人に誰某(たれがし)の婦(ふ)なりと称(しよう)ぜ

られ、死して其(そ)の家(いえ)の祭〓(まつり)を受(う)く。

是を捨(す)てて婦(をんな)たるものの本意(ほい)あらんや」

と、すべての妓女(ぎじよ)とは心ざまかはれり。

一とせ大和国(やまとのくに)の人に広瀬十郎(ひろせじふらう)といふもの、葦田府(あしたふ)に叔父(しゆくふ・をぢ)ありて、物学(ものまなび)の為(ため)ここに来り、尾道(をのみち)に通(かよ)ひて、都産(みやづと)に好(よしみ)をなしける。

都産一度(はじめて)此の人を見るより、我(わ)が夫(をつと)と思(おも)ふべきは此(こ)の人(ひと)なりと心(こころ)に取り定(さだ)めて、うらなく相馴(あいな)れしかば、広瀬(ひろせ)も妻乞(つまこ)ふ若(わか)ざかり、彼(かれ)が誠(まこと)ある心(こころ)にほだされ、魚(うを)と水(みづ)との離(はな)れがたきがごとく、およそ花(はな)に坐(ざ)し、月(つき)に酔(ゑ)ふも、皆手(みなて)を携(たづさ)へて行(ゆ)き、恋々(れんれん)として両(たがひ)に相捨(あいす)てず。

されど迎(むか)ふる人多(ひとおほ)き身ならば、其の志(こころ)の変(へん)ぜんことを、広瀬(ひろせ)が常(つね)にかすりて聞(きこ)ゆる毎(ごと)に、深(ふか)くかこちて、花(はな)ずすき君(きみ)が方にぞなびくめる思(おも)はぬ山の風はふけどもかく心(こころ)の底(そこ)を顕(あら)はし、先(さき)に屡(しばしば)往来(わうらい)せし知音(ちいん)の客(かく)来(きた)れども、これをむかへず、広瀬(ひろせ)が外(ほか)は皆(みな)病(やまい)と称(しよう)じて会(くわい)せず。

如此(かくのごと)きこと久(ひさ)しければ、桧垣(ひがき)姉(あね)に向(むか)ひて、其(そ)の生業(すぎはひ)に疎(おろそ)かなると、一ツには父母(ぶも)への孝(かう)にもそむき給ふとうらみ聞(きこ)え、「尚(なお)広瀬(ひろせ)と好(よしみ)を絶(た)ち給はずんば、広瀬(ひろせ)を官府(くわんぶ)にうつたへて、彼がかたより絶(た)えしめん」

といふ。

都産(みやづと)仮(かり)にただ点頭(うなづ)きて、一言(いちごん)の答(こたへ)なし。

広瀬(ひろせ)此のよしを伝へきき、妹(いもうと)の毒(どく)ある言葉(ことば)に恐(おそ)れて、夫(それ)より復(ふたた)び都産(みやづと)に会(くわい)せず。

一日広瀬(ひろせ)浜辺(はまべ)に出でて逍〓(せうえう・あちこち)しけるに、此(こ)の日(ひ)都産(みやづと)も遊客(いうかく)に誘(いざな)はれ、ここに来(きた)り合(あは)せ、広瀬(ひろせ)を見るより早(はや)く、すがりとどめて、「此(こ)の比(ごろ)の中(なか)絶(た)えしこと、君(きみ)が薄情(こころうすき)にもあらず、我(わ)が心(こころ)にも任(まか)せざればなり。

過(す)ぎし比(ころ)終身(しゆうしん・いつしやうをまかす)の約(やく)をなせしは、骨(ほね)となりても忘(わす)るべきかは。

今日(こんにち)の恨(うらみ)を屑(もののかず)とすることなかれ。

たとへ志(こころざし)を得ずして死するとも、我(わ)が骨(ほね)を執(と)つて、君が先隴(せんろう・せんぞのつか)の傍(かたはら)に埋(うづ)みて給(たま)はるべし。

我(われ)平生(へいぜい)に仮(かり)のちなみありし中(なか)に、離(はな)れて復(また)合(あ)ひしためしの多(おほ)かりしは、ただ其の財(ざい)をすかし取(と)るのみ。

いまだ曾(かつ)て此の身(み)を以て許(ゆる)したることなし。

我(わ)が此の黒髪(くろかみ)、暁(つと)に夜(よは)にこれを養(やしな)うて宝(たから)とすること玉のごとし。

余(よ)の人に与(あた)ふることは思ひ寄(よ)るべくもあらねど、君が為惜(をし)む所なし」

と、自(みづか)ら振(ふ)り解(ほど)きて、一〓(ひとかもじ)を〓(き)りて広瀬(ひろせ)に遺(おく)る。

広瀬感悦(かんえつ)して再会(さいくわい)を期(ご)し、かねて心(こころ)ならず別(わか)れ帰(かへ)る。

此(こ)の日(ひ)都産(みやづと)を誘(いざな)ひて此(ここ)に来(きた)る遊客(いうかく)、目前(もくぜん)都産(みやづと)が憚(はばか)る方(かた)なき仕(し)わざを見て、忙然(あきれ)果(は)てて都産(みやづと)に不采(とりあは)ず、かれをうちすてて帰(かへ)り去(さ)り、再(ふたた)び都産(みやづと)が門にのぼらず。

此(こ)のとり沙汰(ざた)街(ちまた)に充(み)つれども、都産(みやづと)すこしも憚(はばか)らず。

広瀬(ひろせ)が、頃(このごろ)病(やまひ)に臥(ふ)すと聞(き)きて、日々(にちにち)消息(せうそく)をつかはして、ひそかに其(そ)の安否(あんぴ)を問(と)ひ、其の速(すみや)かに〓(い)えんことを慮(はか)るより外(ほか)、客(かく)を迎(むか)ふること心上(しんしやう・こころ)にあらず。

広瀬(ひろせ)病(やまひ)〓(い)えて、程(ほど)なく本国(ほんごく)より帰国(きこく)を促(うなが)し来(きた)るに、やみがたく、都産(みやずと)にもかくとつげて、旅立(たびだ)ちける。

都産は一里(いちり)の外(ほか)、船場(ふなば)に出でて別(わかれ)をなし、別酒(べつしゆ・わかれざけ)を店中(てんちゆう・はたごや)に飲(の)みて、都産云ふ、「君(きみ)才智(さいち)あり、我(われ)麗艶(れいえん・うるはしきいろ)あり。

才(さい)と色(いろ)と相得(あひえ)て、捨(す)てがたきは自然(ぜん)の理(り)なり。

君の意(こころ)と我(わ)が心(こころ)と是(これ)を神明(しんめい)に誓(ちか)ひ、是を松操(しようそう・まつのみさを)に結(むす)ぶこと久し。

君(きみ)異日(かさねて)少(すこ)しの間(ひま)を得給はば、再(ふたた)びここに来(きた)り給へ。

われ(われ)命(いのち)だにあらば、朝(てう)と暮(ぼ)と君(きみ)を待(ま)たん」

ここにおいて、二人天に盟(ちか)ひて香(かう)を焚(た)き、其の灰(はい)を酒中(しゆちゆう)に致(いた)して、共(とも)に是(これ)を飲(の)み、其(そ)の夜(よ)此(こ)の所(ところ)に同じく宿(しゆく)して、久曠遠別(きうくわうゑんべつ・ひさしぶりといまのわかれ)の情(じやう)を演(の)べ、日出(ひい)で別(わか)るるに臨(のぞ)みて、相与(あひとも)に大(おほい)に慟(なげ)き、女(をんな)が石ともなるべき心(こころ)の中(うち)を察(さつ)しやりて、来(く)る年の此の月比(つきごろ)は、かならず来(きた)らんと約(やく)し、涙(なみだ)ながら舟にうつり、大和にかへりしより、親(おや)は年老(としお)い家事(かじ)又多(おほ)く、人を待(ま)たぬ年(とし)の足早(あしはや)く、一年(ひととせ)は早(はや)いつしか過(す)ぎて、また来んといひしも、空(そら)ごとにやなりぬらんと、人見ぬ折節(をりふし)は涙(なみだ)を洒(そそ)ぎくらす。

備後(びんご)より来(きた)る人、都産(みやづと)が許(もと)より消息(せうそく)を伝(つた)へ来(きた)りて、都産(みやづと)は病(やまひ)にのみ臥(ふ)してありと聞きて、封(ふう)を疾(と)く開(ひら)き見れば、書(か)きつらねたることばのすゑに、        人を待つやどはくらくぞなりにけるちぎりし月のうちに見えねば

又一聯(いちれん)の句(く)あり、        春蚕到死糸方尽(はるのかいこいたつてしにいとまさにつき)  蝋燭成灰涙始乾(らふそくなりてはひとなみだはじめてかわかん)

広瀬(ひろせ)消息(せうそく)のやうを見て大(おほい)に傷感(しやうかん・いたはしくおもふ)し、返(かへ)り言(ごと)に書(か)きつくして、病(やまひ)うぃいさめ遺(おく)りけるが)、其(そ)の後(のち)は便(たより)も聞(きこ)えず。

一日(あるひ)広瀬我(わ)が家(いへ)の西面(にしおもて)の柱によりかかりて立(た)ちたるに、向(むかふ)の屏風(びやうぶ)の間より半面(はんめん・かたかほ)を出(い)だすを見れば、正(まさ)しく都産(みやづと)なり。

こはいかにぞやと立(た)ちよる内(うち)、早(はや)くも見えず。

広瀬(ひろせ)思(おも)ふに、都産(みやづと)もしや〓(すで)に世(よ)を去(さ)りて、ここに形(かたち)をあらはすにあらずやと、掛念(けねん・きづかふ)安(やす)からざるに、四五日ありて、都産(みやづと)が侍児若(めしつかひわか)葉、旅人(りよじん)に道(みち)の同伴(どうはん)を頼(たの)みて、大和(やまと)にゆき、広瀬(ひろせ)が許(もと)に尋(たづ)ね来(きた)り、都産(みやづと)が〓(すで)に死(し)することをつげ、「其(そ)の死(し)せんとする前時(ぜんじ)、我(われ)に〓(ぞく)して云ふ、われ十郎(じふらう)殿を見ずして死することこそ本意(ほい)ならね。

彼(か)の人(ひと)平生(へいぜい)に愛(あい)する所は、我(わ)が手髪眉眼(しゆはつびがん・てかみまゆめ)なれども、此(こ)の物贈(ものおく)るに堪(た)へず。

今また一縷(ひとかもじ)と手(て)の指甲(つめ)数枚(すまい)を剪(き)つて爾(なんぢ)に托(たく)する間(あひだ)、我(われ)死(し)しなば、爾(なんぢ)便船(びんせん)を求(もと)めて大和にいたり、十郎殿の家(いへ)に行(ゆ)きて、此の二物(にもの)を寄(よ)せて、約束(やくそく)のごとく、彼(か)の家(いへ)の〓(つか)の傍(かたはら)に埋(うづ)みて、家(いへ)の祭(まつり)にもあづかることを、幾重(いくへ)にも幾重にも伝(つた)へて呉(く)れよかしと、言(い)ひ遺(のこ)して終(をは)りぬ」

と、袂(たもと)を顔(かほ)にあててかたりなげく。

広瀬(ひろせ)も我(われ)をわすれて、声(こゑ)を放(はな)ちて悲泣(ひきふ・かなしみなく)するに、両親(りやうしん)も驚(おどろ)き出(い)でて、此(こ)の始終(しじゆう)を聞(き)き、世(よ)に類(たぐひ)なきことに思(おも)ひ、都産(みやづと)が末期(まつご)の望(のぞみ)にまかせ、甲髪(つめかみ)を先隴(せんろう・せんぞのつか)の次(ならび)に葬(はうふ)り、印(しるし)を建(た)てて、我(わ)が家(いへ)の霊簿(れいぼ・くわこちやう)に亡名(なきな)を

写(うつ)し入れぬ。

広瀬も一生妻(いつしやうめ)をむかへず、都産が志(こころざし)に酬(むく)ひける。

  都産が妹(いもうと)桧垣(ひがき)、姉(あね)の死期(しご)の有(あり)さままで見及(みおよ)びて思ふやう、一たび烟花(えんくわ・かはたけ)に落(お)ちしものの、切(せつ)に従良(じゆうりやう・かたづき)を願(ねが)ふは、其の恥(はぢ)を顕(あらは)すに似(に)たり、遊女(いうぢよ)は貴人高位(きにんかうゐ)といへども、待(たい・あしらふ)するに其の分別(ふんべつ)をなさず。

其の高(たか)きこと世(よ)に類(たぐひ)なし。

〓(あに)自(みづか)ら是(これ)を賎(いや)しとせんやと、心の趣(おもむき)も姉(あね)にかはりて、吹弾(すいだん・たけいと)、歌舞(かぶ)皆(みな)倫(ひとなみ)を離(はな)れて、尚(なほ)書(しよ)を善(よ)くし画(ぐわ)を善(よ)くす。

中(なか)にも能(よ)く墨竹(ぼくちく)を画(ゑが)くを以(もつ)て、人かれを小竹(こたけ)と呼(よ)びなす。

およそ当国(たうごく)に来(きた)る、遠客少年(ゑんかくせうねん)の子弟(してい)、花(はな)と柳(やなぎ)との街(ちまた)に立(た)ち入(い)るもの、桧垣(ひがき)を識(し)らざるを身(み)の辱(はぢ)とす。

常(つね)に雛妓小〓(すうぎせうくわん・わかきぢよらうかぶろ)をあつめて、我(わ)が入調(ふしづけ)せし曲(きよく)を教(わし)へ、今様(いまやう)・平家(へいけ)の類(るい)を卑(ひく)きうたひ物(もの)として、催馬楽(さいばら)の類(るい)をもてあそび、插櫛(さしぐし)、桜人(さくらびと)を琵琶(びは)に弾(たん)じて、独(ひと)り是(これ)を楽(たの)しみ、折節(をりぶし)は草(くさ)を闘(たたか)はし、香(かう)を競(きそ)ふ。

我が好きと思へる模様の小袖は数多く調へて、雛妓小〓に贈りあたへて、一様にこれを着けしめて、自ら快しとす。

我が画く所の団扇、一街の人是を得ざるものなし。

人に物を惜まざれ共、我が上等の衣服首飾、常に債の家に当て遣りて、是を恨とせず。

巧に来客の心を取り、一たび会ふもの日々彼を忘るることなからしむ。

  伊勢国飯野民部といへる名高き人、此の国に親族ありて、其の許に来りて滞留のつれづれ、桧垣も尋常ならず見えけるが、ある早朝に民部桧垣が許に来り見るに、桧垣がわまいつにかはりて、髪を被り目を〓きはらして、憂の色深し。

「いかなることやらん」

と問へど、「此の事我が家の内事にして、君があづかり聞く事にあらず」

民部云ふ、「〓が身の上の喜憂、我が聞がかざることを得んや」

桧垣云ふ、「去ながら此の事遅きと速きと、遂(つい)に情人(じやうにん・おもふひと)に告(つ)げざることを得ず。

先年(せんねん)我(わ)が父(ちち)零落(れいらく)して、泉州境(せんしうさかひ)に在(あ)る時(とき)、弥左衛門今(いま)貧窮(ひんきゆう)によりて、是(これ)を乞(こ)ひ討(もと)むること甚(はなは)だ急(きふ)なり。

我(わ)が父親(ふしん)すべきやうなく、我(わ)が身(み)を債(おひめ)の代(かはり)につかはして、境(さかい)に在(あ)つて妓(ぎ・つとめ)をなさしめんと欲(ほつ)す。

我(わ)此(こ)の所(ところ)に年来(としごろ)時(とき)めきて、僅(わづか)の債(おひめ)の為(ため)に他国(たこく)に移(うつ)りては、芳名(かうばしきな)復(ふたた)び揚がらず。

彼(か)の境(さかひ)の地(ち)は異国(いこく)の商客(あきうど)多(おほ)く船(ふね)をとどめ、花街(いろざと)是(これ)が為(ため)に興旺(こうわう・にぎはふ)すと伝(つた)へ聞(き)く。

まして商賈(しやうこ・あきんど)の徒(ともがら)の動作(ふるまひ)思ひやるべし。

我(わ)が身是(これ)が戯児(あそびもの)となるは恥(は)づべきの限(かぎり)なり。

命(いのち)は惜(を)しからねねども、死(し)して親(おや)の助(たすけ)ともならねば、進退心(しんたいこころ)任(まか)せず。

此(こ)の故(ゆゑ)に憂(うれ)ふるなり」

とかたる。

民部(みんぶ)聞(き)き終(をは)りていふ、「それがし不肖(ふせう)なれども、〓(なんぢ)がため其(そ)の数(すう)の債(おほめ)に乏(とぼし)きことなし。

是を〓(あが)ふ時は、〓(なんぢ)が憂免(うれへまぬが)るるならずや」

桧垣(ひがき)頭(かしら)を揺(ふ)つて云ふ、「此(こ)のことかり初(そめ)ならず。

再三(さいさん)ことばかためして、〓(すで)に我(われ)を送(おく)り去らんと決(けっ)す。

今変(いまへん)ずることも庸易(たやす)くうけがはんや」

民部(みんぶ)いふ、「我(われ)帰国(きこく)の日逼(せま)れり。

帰路(きろ・かへりみち)必(かなら)ず境(さかひ)に至(いた)る。

弥左衛門とやらんを尋(たず)ね行(ゆ)きて慇懃(いんぎん)に此(こ)のことを求めば、事調(ことととの)ふべし」

といふ。

桧垣(ひがき)是(これ)を聞きて、〓(わづか)に点頭(てんとう・うなづく)し、「若(も)し左(さ)ある時は、我(わ)が芳名(はうめい・よききこえ)永(なが)く衰へず。

君(きみ)の恩(おん)を忘(わす)るる事なからん」

と、忽(たちま)ち愁眉(しうび・うれえのまゆ)を開(ひら)きて髪(かみ)を挙げ、悦面(よろこびおもて)にあらわれ、民部(みんぶ)をとどめて、和盤托出(くわばんたくしゆつ・のこるかたなきちそう)して、是(これ)を款待(くわんたい・もてなす)す。

民部(みんぶ)は桧垣(ひがき)が事(こと)によりて、発帆(はつぽん・でふね)の日(ひ)を促(うなが)し、すでに日ならずして帰程(きてい・かへりみち)に登る。

桧垣(ひがき)送(おく)りて、其(そ)の船(ふね)にいたり、別酒(べっしゆ)を酌(く)みかわし、「しばし見ぬさへ恋(こひ)しき人を、遠(とお)く放(はな)ちやりて、明日(あす)の心(こころ)いかならん。

名花(めいくわ)は散(ち)りやすく、名月陰り勝(がち)なる世(よ)の中(なか)」

と、一陣(ひとしきり)の涙(なみだ)を流(なが)し、「我(わ)〓(ともがら)の涙(なみだ)深(ふか)きは却(かへ)つて実(まこと)ならずや見ゆらん」

と再(ふたた)び泣(な)かず。

「回(かへ)る春(はる)こそ」

と再会(さいくわい)の約(やく)をなし、民部(みんぶ)も涙(なみだ)ながら出船(しゆつせん)して、海路(かいろ)ことなく境(さかい)の津(つ)に着きて、旅店(りよでん・はたごや)に休息(きゆうそく)し、弥左衛門が所(ところ)を尋(たずね)ね行(ゆ)きて対面(たいめん)し、かかる次第(しだい)を余儀(よぎ)なくいふに、弥左衛門世(よ)に迷惑(めいわく)なる有さまにて、「それがしすでに桧垣(ひがき)を高渚(たかす)に転売(てんまい・またうり)して、彼(かれ)来(き)たりなば、其(そ)の所(ところ)へ送(おく)るべき約(やく)にて、圧手(てつき)の金(きん)をとれり。

それがしうけがふとも、妓家(ぎか・ぢよらうや)に聴(き)かざる時はいかん。

しかれども貴客(きかく)の桧垣(ひがき)を憐(あはれ)みて、かくとり計(はか)らひ給ふ所も拠(よんどころ)なければ、君(きみ)と共(とも)に妓家(ぎか・ぢよらうや)に行(ゆ)きて、ひたすら是を求(もと)めん」

と、民(みん)部諸共高渚(もろともたかす)に至(いた)り、妓家(ぎか)の長(あるじ)に対面(たいめん)して、両人(りようにん)共(とも)に此(こ)のことを乞(こ)ひ求(もと)む。

妓家(ぎか)も民部(みんぶ)が人柄(ひとがら)にや譲(ゆづ)りけん、「貴人(きにん)の斯(かく)に給ふ上(うへ)は」

と、約券(やくけん・てがた)を取(と)り出(い)だして、弥左衛門に還(かへ)し、圧手金(てつききん)五十両取(と)り戻(もど)し、「伊勢(いせ)の御方(おんかた)は頼(たの)もしき御心入(おんこころいれ)

かな」

と、式台(しきだい)して送(おく)りぬ。

民部弥左衛門が家(いへ)にかへり、百金(ひやくきん)を渡(わた)し、桧垣(ひがき)が父(ちち)より千年(せんねん)つかはせし債権(おひめてがた)を

取(と)り戻(もど)し、圧手(あふしゆ・てつけ)の五十金は、百金の外(ほか)に増(ま)して、侘料(わびれう)となりしか共、此(こ)のことの調(ととの)ひたるを上(うえ)なく悦(よろこ)び、債権(おひめてがた)に文(ふみ)こまごま書(か)き添(そ)へて、家人(けにん)を使(つかひ)として、桧垣(ひがき)が許(もと)へ送(おく)りやり、其(そ)の身(み)は先達(さきだ)つて東国(とうごく)にかへりぬ。

使の者(もの)尾(お)の道(みち)にいたり、桧垣(ひがき)に消息(せうそこ)を達(たつ)せしかば、桧垣悦(よろこ)ぶ事(こと)かぎりなく、此(こ)の使(つかひ)に銭(ぜに)などあたへ、返(かへ)り筆(ふで)懇(ねんごろ)にしたためてやりぬ。

扨(さて)此(こ)のことの悦(よろこび)にとて、我(わ)が欲(ほ)しき新衣(しんい)を裁(さい・たつ)して、好(この)む所(ところ)の花鳥(くわてう)を縫(ぬ)ひ出(い)ださせ、旧衣(きうい・ふるぎ)を出だして、新妓(しんぎ・しんざう)の徒(ともがら)にあたへぬ。

十月ばかりありて堺(さかひ)より弥左衛門来(きた)りて、百金(ひやくきん)を桧垣(ひがき)にわたして云(い)ふ、「増(ま)したる五十金は費用(ひよう・いりよう)の外(ほか)、我々(われわれ)が配分(はいぶん)してこれを納(をさ)む」

といふ。

此の弥左衛門、先年(せんねん)より諸国(しよこく)へ絹(きぬ)を販(ひさ)ぎにまはるものなるが、桧垣に頼(たの)まれて、此のことを成就(じやうじゆ)したるなり。

桧垣(ひがき)此(こ)の百金を、新衣(しんい)の料(れう)と債家(せきか・おひめのいへ)の首飾(しゆしよく・かみのかざり)を贖(あが)ひ出(だ)して、残(のこ)る金あることなし。

又一年奥国(ひととせおく)の商買(しやうこ)一世一度(いつせいちど)の船盟(ふながため)にここに来(きた)り、桧垣(ひがき)に泥(なづ)みて、帰国(きこく)の時(とき)、又再(ふたた)び此の地へ来(きた)るべき身(み)ならねば、桧垣(ひがき)が別(わかれ)を惜(をし)み、千金(せんきん)を以(もつ)て桧垣(ひがき)が身(み)を贖(あが)ひ、具(ぐ)して国(くに)に帰(かへ)りぬ。

桧垣も若(わか)かりし日の心地(ここち)もせねば、誘(いざな)はれ行きて、幸(さいはひ)、彼(か)の家(いへ)に妻妾(さいせふ)もなく、女(をんな)の心(こころ)も安堵(あんど)すべきに、もとより良家(りやうか・すぢよきいへ)を望(のぞ)まぬ桧垣(ひがき)なれば、半とせばかり在(あ)る程(ほど)に、大病(たいびやう)発(はつ)し血(ち)を吐(は)いてやまず。

折々(をりをり)は今も絶(た)ゆべき有さまに、此の主大(ぬしおほき)に驚(おどろ)き、所詮(しよせん)桧垣(ひがき)が此の病復〓(やまひまたい)ゆべからず。

古郷(こきやう)にちかはし、父母(ふぼ)に対面(たいめん)させて、心(こころ)易(やす)く終(をは)らせんと、人多(ひとおほ)くつけて、道の程(ほど)こまごま申しつけて、送(おく)りかへしぬ。

桧垣(ひがき)は道(みち)の中(うち)も人心地(ひとごこち)なければ、尾(を)の道(みち)に帰(かへ)りて、父母(ふぼ・ちちはは)の驚(おどろき)、街中(がいちゆう・このちまた)のうはさにも、桧垣(ひがき)は死(し)してかへりしなど、あはれげにいひつどふ。

奥州(あうしう)より送(おくり)の者(もの)も、野辺送(のべおくり)せし心地(ここち)して、足(あし)もためず立(た)ち帰(かへ)る時(とき)、桧垣(ひがき)何(なに)となく身を起(おこ)し、「皆々(みなみな)心(こころ)を労(らう)し給ふな。

わらは些(すこ)しの病(やまひ)もなし。

病の根元(こんげん)を見せ申さん」

と、懐(ふところ)より小(ちひさ)き酒瓶(さかがめ)をとり出(い)だし、傾(かたむ)くれば赤(あか)き色(いろ)の流(なが)れいずる。

「是(これ)蘇朴汁(そぼくじふ・すはうのしる)なり。

我(われ)是(これ)を飲(の)みて吐(は)くゆゑに、重(おも)き病(やまひ)なりと、何某(なにがし)が我(われ)を送(おく)りかへしぬ。

仮病(そらやみ)のはじめより、此(こ)の酒瓶(さかがめ)を人(ひと)にみせじと、心(こころ)ぐるしくせしかひに、久(ひさ)しからずして父母(ふぼ)に逢(あ)ふことのうれしさよ」

と、此の日より客(かく)を迎(むか)ふること、むかしにかはらず。

已(すで)に年(とし)四十に近(ちか)けれども、傍(そば)より其(そ)の老(おい)を見ず。

此(こ)の時(とき)父母(ふぼ)も打(う)ち続(つづ)き世(よ)を去(さ)り、桧垣(ひがき)も幾(いく)ほどなく重き病(やまひ)にかかり、此(こ)の度(たび)こそ実(まこと)の血(ち)を吐(は)きて、終(つひ)に愈(い)えず逝(ゆ)かん(しぬる)とするの前日(ぜんじつ)、比丘(びく)を請(こ)うて経(きやう)を〓(じゆ)せしめ、些(すこ)しく仏拝(ぶつばい)の儀(ぎ)をなして後(のち)、再(ふたた)び仏号(ぶつがう)を唱(とな)へず、沐浴(もくよく)し上下(うへした)の服(ふく)を皆(みな)白布(はくふ・しろぬ

の)に用(もち)ひかへて、同社(どうしや・おなじいへの)後進(こうしん・いもとじよらう)の妓女(ぎぢよ)

小鬘(せうくわん・かぶろ)等をあつめ、笑語(せうご?・わらひものいふ)平日(へいじつ)のごとく、死期(しご)の願念(ぐわんねん)もなく、一つとして心(こころ)にささはることあらず。

琵琶(びは)を操(と)り、雛妓(すうぎ・しんざう)と合奏(がっそう・つれひき)に曲(きよく)を弾(たん)

じ、半(なかば)にして琵琶(びは)をさしおき、「〓(なんじ)が四(し)の絃(げん・いと)調子(てうし)呂(め)りたるぞや」

といひて、瞑然(めいぜん・ねふるがごとく)として絶(た)えぬ。

  季(すゑ)の妹(いもうと)鄙路(ひなぢ)嘆じて云(い)ふ、「姉(あね)が終(をはり)をとる事(こと)、功(こう)を積(つ)める高僧(かうそう)といへども、此の境界(さかい)に及(およ)ばんや。

しかれども僧家(そうか)は是(これ)を慕(した)ふべし。

妓家(ぎか)の風俗(ふうぞく)より見れば、遊女(いうぢよ)の終(をはり)を取(と)ることの正(ただ)しき、是を美談(びだん)とするに堪(た)へず。

二姉(にし・ふたりのあね)皆(みな)死(し)して名あり。

我(われ)豈(あに)聞(きこ)ゆることなからんや。

遊女(いうぢよ)の終(をはり)は跡(あと)を隠(かく)すを以(もつ)て高(たか

)しとす。

鄙路(ひなぢ)とかやいひしは、今誰(たれ)が妻(め)となるなどいはれて、其(そ)の丈夫(ぢやうぶ)の富貴(ふうき)と人物(ひとがら)とに着(ぢやく)せ

しか、或(あるい)は日影西(ひかげにし)に傾(かたふ)きて、さそふ雲水(くもみづ)に随(したが)ふかなど、或(あるい)は仮初(かりそめ)に俊聡(さかし)きに愛(め)でても、其(そ)の人(ひと)尋常(よのつね)の人柄(ひとがら)ならば、是(これ)又(また)我(わ)が見識(けんしき)のかぎり知(し)れて口惜(くちを

)しからん。

夫(それ)さへあるに、後々(のちのち)子(こ)あり孫(まご)あり、膝(ひざ)のしたより祖母(そぼ・ばば)と称(しよう)ぜられんもうとましく、又は老(お)いはつるまで、志(こころざし)を得(え)ず、水(みづ)汲(く)むきはになりて、人(ひと)に見られんよりは、行衛(ゆくへ)なくならんは、なんぼう本意(ほい)ならん」

といへり。

生得(しやうとく)に侠気(けふき・ひかぬき)ありて、志(こころざし)男子(なんし)に勝(まさ)れり。

妓(うかれめ)となるの初(はじめ)、寡婦(くわふ・ひとりをんな)の武道(ぶだう)を識(し)りたるものありて、辺近く(あたりちか)く住(す)みけり。

鄙路(ひなぢ)これに就(つ)いて術(じゆつ)を学(まな)び、常(つね)に射(しや・ゆみいる)をなし、剣(けん・ゐあい)を打(う・ぬく)つことを手(て)ずさみとし、道路(みち)に是非(いさか)ふを見る時は、かならず其(そ)の弱(よわ)きかたを助(たす)く。

義(ぎ)によつて命(いのち)をかへりみず。

  其(そ)の国(くに)に住(す)める浪人(らうにん)の一子(いつし)に安達東蔵(あだちとうざう)をいふもの、鄙路(ひなぢ)と一両度(いちりやうど)の好(よしみ)あり。

二年(ふたとせ)ばかりも言絶(ことた)えて城隍(うぶすな)に祓(はらへ)そる比(ころ)、東蔵参詣(とうぞうさんけい)の道(みち)にて、不慮(りよ)に三四人の悪少(あくせう・わるもの)に出(い)で逢(あ)ひ、言葉(ことば)いさかひ雑言(さふごん)を聞(き)き兼(か)ねて、一人を切(き)り殺(ころ)し、残(のこ)るは手瘡(てきず)おほせて追(お)ひ散(ちら)し、我(われ)も面(おもて)に礫(つぶて)きずうけて、其(そ)の場(ば)をのがれ、道(みち)すがら花街(くるわ)に入(い)り、鄙路(ひなぢ)が所(ところ)に行(ゆ)き、顔(かほ)の礫瘡〓(つぶてきずい)ゆるまで、隠(かく)して給(たま)はれと頼(たの)む。

鄙路彼(ひなぢかれ)が言絶(ことた)えたる身(み)ながら、頼(たの)むをいなむは勇(いさみ)なきに似(に)たりを請(う)け負(お)ひて、東蔵(とうざう)を粧台(けさうべや)に隠(かく)し置(お)き、一月斗(いちげつばかり)の後(のち)、東蔵(とうざう)鄙路(ひなぢ)に対(たい)して、頃(このごろ)の恩(おん)を謝(しや)し、先(さき)好(よし)みてより、年月音(としつきおと)せざりしこと葉(ば)づくりす。

鄙路一言(ひなぢいちごん)の答(こたへ)なく

「足下(そこ)をかこひ養(やしな)ひしは、我(わ)が父母(ふぼ)なく姉妹(しまい)なく、心易き(こころやす)き身(み)の上(うへ)のれば、一時(いちじ)の侠(けふ・いきぢだて)をなす也。

爾(なんぢ)世(よ)を広(ひろ)くなるとも、此(こ)の後(のち)再(ふたた)び我(わが)が家(いへ)に来(く)ることなかれ。

千回(ちたび)来(く)るとも、爾(なんぢ)に対面(たいめん)せず。

爾(なんぢ)闘傷(とうじやう)の場(ば)に、匹夫(ひつぷ)の雑言(ざふごん)を忍(しの)ぶことあたはず、却(かへ)つて故(ゆゑ)なき売女(ばいぢよ)に身(み)を隠(かく)されて、其(そ)の恥(はぢ)を想(おも)はざるはいかに。

疾(と)く疾く去(さ)るべし」

とて追(お)ひ出(い)だせり。

人是(ひとこれ)を聞(き)いて男子(だんし)に勝(まさ)れりといふ。

夫(それ)より後(のち)、国(くに)の守(かみ)の

扶持人(ふちにん)安那(やすな)何某(なにがし)が一子(いつし)平四郎というもの、年齢(ねんれい)二十余(よ)、一(ひと)たび鄙路(ひなぢ)に会(くわい)してより、昼夜(ちうや)家(いえ)にかえらず。

父母(ぶも)の聞(きき)を慮(おもはか)り、病(やまひ)を養(やしな)ふと称(しよう)じて、花街(くるわ)と河(かは)を隔(へだ)てて一所(いつしよ)の宅(たく)をえらみ、ここに住(ぢゆう)し、夜(よ)ごとに河(かは)をわたりて、鄙路(ひなぢ)に会(くわい)す。

鄙路(ひなぢ)も彼(かれ)が微弱(びじやく)ながら、生得(しやうとくをんじう・うまれつきものやはらか)にして、物に拘(かかは)らざるを愛(あい)して、時(とき)ならず美酒(びしゆ)海戦(かいせん・さかな)を贈(おく)り、自(みづか)ら去(ゆ)きて庖厨(はうちゆう・きりもり)をととのふ。

いとまある時は、中夜(ちゆうや)といへども、渡船(とせん・わたし)を越(こ)えて彼(かれ)が所に去(ゆ)きて宿(しゆく)し、恩情(おんじやう)略(ほぼ)趣(おもむき)あり。

平四郎一味(いちづ)に鄙路(ひなぢ)を娶(めと)りて、夫妻(ふさい)たらんと思ひつめて、常(つね)に心の底(そこ)を鄙路(ひなぢ)に語る。

鄙路笑(わら)うて、「年(とし)月旧(ふる)きを送(おく)り新(あたらし)きを迎(むか)へ、片刻(へんこく・かたとき)の偶(ぐう・ふうふ)をなすもの幾人(いくたり)ぞや。

此の国に名(な)ある人、我(わ)が一歓(いつくわん・はだふれる)をなさざるはなし。

我此の身商人の婦(ふ)となるも、なほ醜聞(しうぶん・よからぬきこえ)に堪へず。

況(いはん)や武家の室(しつ)とならば、生立(おひたち)ある爾(きみ)を恥(はずか)しむるなり。

再(ふたた)び此の事をいふことなかれ。

左(さ)あればとて、此の後(のち)爾(きみ)に対(たい)して、疎(うと)きことなし」

といひて、従良(じゆうりやう・みのかたづき)のことはとりあはず。

ここにまた此の国に名高き武士(し)、三上(みかみ)五郎太夫とて、生得(しやうとく)残忍(ざんにん・むごし)にして、姓(せい)に二字(にじ)は称(なの)れども、憐〓(れんみん)の二字を知(し)らず、権威(けんゐ)に任(まか)せて、我意(わがまま)を行(おこな)ひ、国中(こくぢゆう)に横行(わうぎやう)し、悪(あく)せざることなき不良人(りやうにん・よからぬ)あり。

鄙路(ひなぢ)が美色(びしよく)を愛(あい)して、平生(へいぜい)従来をなし、他(かれ)を贖(あが)ひて婢妾(めしつかひ)となさんと欲(ほつ)すれども、鄙路(ひなぢ)、本心(ほんしん)にあらざれば、難(かた)く諾(だく)せず。

五郎太夫、彼(かれ)が諾(うけが)はざるは、平四郎と相愛(あひあい・あひぼれ)するゆゑなりとて、此(こ)の二人(ふたり)が中(なか)を隔(へだ)てんと、渡守勘平(わたしもりかんぺい)をかたらひ、鄙路が中夜済(ちゆうやわたし)を渡(わた)る時、勘平船を柳(やなぎ)の垂(た)れしげりしかげに棹(さ)しゆき、鄙路を抱(いだ)きとどめて、「情(なさけ)にあぢからん」

をいふ。

鄙路(ひなぢ)心に怒(いか)るといへども、此の夜平四郎が痛所(つうしよ・やまひ)あるよし告(つ)げ越(こ)したれば、一寸(いつすん)の遅(おそ)なはらんことを恐(おそ)れ、仮(かり)に勘平を嘲(あざむ)きて、「こよひ心(こころ)にさはりありて従(したが)ひがたし。

他日(たじつ)かならず一宵(いつせう・いちや)の約(やく)にそむかじ」

と、汗衫(あせとり)を脱(ぬ)ぎてしるしにあたへ、かれをすかして川(かわ)を越(こ)えしが、夫(それ)より再(ふたた)び中夜(ちゆうや)ここをわたらず。

三上(みかみ)此の汗衫(あせとり)を勘平より得え)て、ここかしこに噂(うはさ)して、平四郎をはづかしむ。

平四郎も鄙路(ひなぢ)も是皆(みな)五郎太夫が所為(しよゐ)なることを知り、二人が中の笑(わら)ひ種(ぐさ)として、すこしも恥(はぢ)とせず。

三上(みかみ)此(こ)の後(のち)は一向(いつかう)平四郎を失(うしな)はんとはかる志常(こころつね)にあり。

鄙路(ひなぢ)又是(またこれ)をさとつて、我(わ)が身(み)三上(みかみ)に遠(とほ)ざからん計(はかりごと)をのみなしける。

一夕(あるくれ)平四郎が来(きた)るべき約(やく)ありながら、暁(あかつき)に及べども来(きた)らず。

明(あく)る遅(おそ)しとその道(みち)を行(ゆ)きて見れば、「無残(むざん)や」

など人(ひと)のいひつどひ、済(わたり)の川中に切(き)られて死(し)にしは、見覚(みおぼえ)ある衣服(いふく)、平四郎に紛(まぎれ)なし。

早(はや)くも彼(かれ)が父親(ふしん)聞(き)きつけ来りて、官府(くわんぷ・ツカサドコロ)に訴(うつた)は死骸(がい)を〓(か)きてかへりぬ。

誰(た)が仕業(しわざ)ともしる人(ひと)なけれど、鄙路(ひなぢ)が心中(しんじゆう)には、是三上が所為(しよゐ)なることを知(し)り。

其(そ)の夜空(よそら)くもりて星影(ほしかげ)さへ暗(くら)きに、三上(みかみ)が来(きた)る道(みち)に待(ま)ちかけ、兼(か)ねて平四郎が預(あづ)け置(お)きし一腰(いちえう・カタナ)を携(たづさ)へ、赤(あか)き頭巾(づきん)着(き)たるを、夫(それ)と見るより、「三上(みかみ)の主(ぬし)にあらずや」

と問(と)へば、「左言(さい)ふは鄙路(ひなぢ)か」

といふこゑ紛(まぎれ)なければ、脇腹(わきばら)と思(おぼ)しき所(ところ)を抜打(ぬきうち)にはらひつけしに、三上(みかみ)抜(ぬ)き合(あは)すひまもなく、右(みぎ)の脇(わき)よりはすに切(き)り上(あ)げられ、しばしは立(た)つよと見れば、やがて倒(たふ)れて両段(りやうだん・フタツ)となりぬ。

鄙路死骸(ひなぢしがい)にむかつて、「〓(なんぢ)霊(れい・タマシヒ)あらば能(よ)く聞(き)け。

我一生人(われいつしやうひと)に身(み)を許(ゆる)したることなければ、夫(をつと)の仇(あた)を報(ほう)ずるにもあらず。

余所(よそ)に見てもすむべきなれど、我故(われゆゑ)に命(いのち)を失(うしな)ひしを知(し)りながら、外(よそ)ごとにもてなさんは、我が心に恥(は)づる所(ところ)あればなり」

と、刀(かたな)を押(お)し拭(ぬぐ)うて懐(ふところ)にかくし、又済場(わたしば)さして馳(は)せ行(ゆ)き、「船(ふね)を渡(わた)らん」

といふ。

済守勘平(わたしもりかんぺい)鄙路(ひなぢ)を見て、「今(いま)も降(ふ)り来(こ)ん空(そら)の暗(くら)きに、いづくへ行(ゆ)き給ふ」

といふ。

「思(おも)ふかたへ」

と斗答(ばかりこた)ふ。

勘平夜深(よふ)け四方(よも)に人気(け)なきを見て、前(さき)の約束(やくそく)をわすれず、船を横(よこ)にさしわたして、〓所(さびしきところ)にいたりて、「平四郎已(すで)に世をさり、〓情(汝次や右)人に乏(とぼ)しからん。

我と終身(しゆしん・いつしやう)の約(やく)をなさばいかんといふ。

鄙路(ひなぢ)只(ただ)笑(わら)うて答(こた)へず。

勘平船を揺(ゆ)りとどめて、「空(そら)くもり渡(わたり)の人(ひと)もなし。

過(す)ぎつる約(やく)に趣(おもむ)かん」

と戯(たはむ)れ寄(よ)る時(とき)、鄙路(ひなぢ)懐(ふところ)より直(すぐ)に刃物(はもの)を抜(ぬ)き出(い)だし、かれにむかつておどしの空(そら)うち、ひうと鳴(な)る音(おと)、光(ひかり)に驚(おどろ)き飛(と)びのきて、「過仕(あやまちし)給ふな」

といふ。

鄙路右(みぎ)に刀(かたな)を携(も)ち、左(ひだり)に勘平が帯を取りとどめて動(うごか)さず、「我(われ)、〓(なんぢ)に問(と)ふ事(こと)有(あ)り。

平四郎夜前(やぜん)三上(みかみ)が手にかかりて、此の川に切り沈(しづ)めらる。

〓しらざることあるまじ。

実(じつ)に告(つ)げばゆるさん。

しからずば、〓をなぶり殺(ごろし)にせん」

といふ。

眼(まな)ざしかはり、ばらけし髪(かみ)そらざまに立(た)ちあがり、女とは思はれず。

勘平いふ、「人を殺(ころ)せし人五郎太夫としれたるう上(うへ)は、此(こ)の事実(ことじつ)に申さん。

夜前(やぜん)五郎太夫黄昏(たそがれ)より此の船に来つて、幾人(いくひと)を済(わた)せども、彼(かれ)は船(ふね)に残つて去(さ)らず。

平四郎が船に乗(の)るにおよんで、外(ほか)に乗合(のりあはせ)もなきを幸(さいはひ)に、中流(つゆうりう)にしてしたたかに切りつけ、水に斬(き)りしづめたり。

我(われ)是(これ)をしるといへども、一些(すこし)も我(わ)が所為(しよゐ)に係(かか)らず」

鄙路云(い)ふ、「〓(なんぢ)船に讐(あた)人をのせて、渡(わた)る人をうかがはせ、〓(なんじ)が船中(ちゆう)にして是を殺(ころ)させ、夜明(よあけ)、夜(よ)に入れども官府(こわんぷ、つかさどころ)にも申し出でずして、尚〓にあづかることなしと思(おも)ふや」

勘平答(こた)ふることあたはず、只(ただ)

「此のこと必(かなら)ず外傷(ぐわいやう、いひふらす)し給ふことなか

れ」

といふ。

鄙路(ひなぢ)云(い)ふ、「〓(なんぢ)既(すで)に実(じつ)を吐(は)く。

再(ふたた)び〓に聞(き)くことなし」

と言(い)ふ下(した)より、むかう袈裟(げさ)に、手(て)の裡滞(うちとどこほ)らず、声起(こゑた)つるまもあらせばこそ、とどめを刺(さ)して、水に推(お)し落(おと)し、手(て)なれぬ棹(さを)をとりて、雨(あめ)しきり風(かぜ)さへつよく、棹(さを)のたて所(ど)もしらで漂(ただよ)ふ船(ふね)を、辛労(からう)じて漕(こ)ぎつけ、岸(きし)にあがるより、飛(と)ぶがごとく逃(のが)れ去り、其の行く所をしらず。

夜明(よあ)け離(はな)れて、三上(みかみ)と勘平(かんぺい)が殺(ころ)されし吟味(ぎんみ)ありて、其の夜(よ)鄙路(ひなぢ)が行衛(ゆくへ)なくなりしは、彼(かれ)が所為(しよゐ)にやとこれを追(お)ひ求(もと)むれども、いづち行(ゆ)きけん影(かげ)も見えず。

其(そ)の家(いえ)を捜(さが)し見るに、平生(へいぜい)すこしの物も貯(たくは)へねば、書画(しよぐわ)・弓箭(ゆみや)・長刀(なぎなた)の類(たぐひ)の外(ほか)一

物(いちもつ)もなし。

唯(ただ)篋中(けふちゆう、はこのうち)に多(おほ)くあるは、小銭家(しせんか、ぜにがしや)の当券(しちふだ)のみ。

是(これ)によつて鄙路(ひなぢ)が侠声(けふせい、いきぢだてのきこえ)益著(ま

すますあらは)れ、其(そ)の比(ころ)遠近(ゑんきん)の話柄(はなしづか)となる。

姉妹(しまい)三人、各志(おのおのこころざし)の違(たがひ)あれども、概(おほむ)ね遊女(うかれめ)の気性(きしやう)を出(い)でず。

後都(のちみやこ)の北山(きたやま)かげに、七人の比丘尼(びくに)、共(とも)に庵(いほり)を結(むす)びて住(す)みけるが、其(そ)の内一尼(うちいちに)、此(こ)の三人の遊(いう)女の始終(しじゆう)をよく知(し)りてかたる尼あり。

此の尼或(あるい)は鄙路(ひなぢ)が跡(あと)を隠(かく)せるものか、捜(さぐ)り知るべからずとかたり伝(つた)へたり。

        七  楠弾正左衛門(くすのきだんじやうざゑもん)不戦(たたかはず)して敵(てき)を制(せい)する話(こと)

出羽(では)の国(くに)大山(おほやま)の城(しろ)は、中比迄武藤氏代々是(なかごろまでむとううぢだいだいこれ)を領(りやう)し来(き  た)れり。

先祖(せんぞ)は武藤子次郎資頼(むとうこじらうすけより)といつて、平家(へいけ)の侍監物太郎頼方(さむらひけんもつたらうよりかた)が弟(おとうと)なり。

平氏(へいじ)滅亡(めつぼう)の後(のち)、囚人(めしうど)となりて三浦介(みうらのすけ)に預(あづ)けられけるが、其(そ)の比(ころ)頼朝卿(よりともきやう)甚(はなは)だ謝礼(しやれい・ゆみのしよさ)を好(この)み給ひ、平胡〓(ひらやなぐい)の差(さ)し様(やう)、丸緒(まるを)の着(つ)け様等(やうとう)、分明(ぶんみやう)ならざるの所(ところ)に、子次郎資頼(すけより)、射術(しやじゆつ)の達人(たつじん)なりしかば、彼(か)の矢(や)の故実(こじつ)を伝(つた)へ知(し)るよし申すと聞(きこ)えしかば、

「何(なに)さまかれは京家(きやうけ)のものなれば、射礼(しやれい・ゆみのしよさ)に精(くは)しかるべし」

とて召し出(い)され、射礼をつとめけるに、其(そ)の品(しな)よかりしかば、頼朝(よりとも)御感(ぎよかん)の余(あまり)に、出羽国(ではのくに)大山(おほやま)を賜(たま)うて入部(にふぶ)せしより、代々(だいだい)此の所を相伝(さうでん)して、十八代に当(あた)る主(あるじ)を義氏(よしうぢ)と云(い)ふ。

此の時義氏武勇(ぶゆう)にほこり、毎度(まいど)諸方(しよはう)へ無益(むやく)なる軍(いくさ)の手(て)つがひありて、人民(に人民(にんみん)を憐(あはれ)まず、悪行(あくぎやう)のみ甚(はなは)だしかりしかば、士卒等(しそつら)もうとみ果(は)てて、弓矢(ゆみや)打(うち)物に妙を得(え)て、みづから敵(てき)に当(あた)らるる時(とき)は、これに近(ちか)づくものなし。

  隣郡川北(りんぐんかはぎた)といふ所に、七党(しちたう)とて頭(かしら)立(だ)ちたる士(さむらひ)七人あり。

むかしは武藤家(むとうけ)に膝(ひざ)を屈(くつ)したれ共、近比(ちかごろ)は七党ともに、義氏(よしうぢ)の無道(ぶだう)をうとみ、武藤家に付(つ)かず、七党心を一致(いつち)にして、各(おのおの)我(わ)が分地(ぶんち)を守(まも)りける。

義氏(よしうじ)常(つね)にこれを憤(いきどほ)り、ついに是(これ)を討(う)ち亡(ほろぼ)さんと、東禅寺右馬介(とうぜんじうまのすけ)といふ相伝(さうでん)の家来(けらい)を大将(たいしやう)として、軍勢(ぐんぜい)をさしむけらる。

此(こ)の比(ころ)おの七党(しちたう)皆(みな)器量(きりやう)ある勇士(ゆうし)なれば、右馬介も軽々敷(かるがるし)くよせられず、余奈坂(よなざか)といふ所(ところ)まで軍勢(ぐんぜい)を押(お)し出(い)だして、ここに陣(じん)をとりて、敵(てき)の動静(どうせい)をうかがひける。

七党の徒これを聞(き)き、会合(かいごう)して防戦(ぼうせん・ふせぎたたかう)の計策(けいさく・はかりごと)を議(ぎ)す。

此の七党の中に、楠弾上左衛門(くすのきだんじようざえもん)といふものあり。

元来(がんらい)先祖(せんぞ)は河州正成(かしゆうまさしげ)が一族(いちぞく)なるが、南朝(まんちよう)の皇子(おうじ)家良親王(いえよししんのう)、信濃宮(しなののみや)と称(しよう)じ奉(たてまつ)りしに随(したが)ひ、常陸国(ひたちのくに)小田(おだ)の城(じよう)に篭(こも)り、小田(おだ)没落(ぼつらく)の時(とき)宮(みや)に引(ひ)きわかれ奉り、此(こ)の所(ところ)に来(きた)り住(じゆう)せしより、子孫(しそん)絶(た)えず此の弾正左衛門にいたる。

平生(へいぜい)些(すこ)しの謀略(ぼうりやく)ありて、物(もの)に驚(おどろ)たぬ大丈夫(だいじようぶ)なるが、此の評議(ひようぎ)の先(せん)をとつて、各(おのおの)にむかつていふやう、

「義氏(よしうじ)の武勇(ぶゆう)中々(なかなか)力(ちから)を以て敵(てき)すべからず。

しかれども大家(たいか)にたてずく七党(しちとう)、かかる事のあらんは、われにおいてつねに其(そ)の格悟(かくご)あり。

それがし些(すこ)しの計(はかりごと)をほどこし、心をつくして敵(てき)を防(ふせ)ぐべし。

各(おのおの)我(わ)が指図(さしづ)を受(う)け給ふや」

といふ。

兼(かね)て其(そ)の器量(きりやう)あるを見(み)及(およ)び居(ゐ)れば、

「いづれともよろしくはからひ給へ。

足下(そこ)の下知(げぢ)にまかせて、力(ちから)をつくすべし」

と、一同(いちどう)に詞(ことば)をそろへて心服(しんぷく)す。

「しからば田川何某(たがはなにがし)は物馴(ものな)れたる人(ひと)なれば、急(きふ)に東禅寺(とうぜんじ)が籏印(はたじるし)、さしもの等(とう)を似(に)せこしらへ、こよひ間道(かんだう・ないしようみち)をめぐりて、大山(おほやま)の本城(ほんじやう)にとりかけ、東禅寺右馬介(うまのすけ)、義氏(よしうぢ)をうらむることありて、諸卒(しよそつ)と共(とも)に謀反(むほん)すと披露(ひろう)し、戦(たたかひ)をいどみ、よいかげんにして引きとるべし」

と、細(こま)かに云(い)ひ含(ふく)むれば、田川下知(たがはげぢ)にまかせ、俄(にはか)に東禅寺が籏印(はたじるし)をこしらへ、みづから右馬介が体(てい)に出(い)でたち、其(そ)の夜(よ)間道(かんだう・ないしようみち)より出(い)でて、大山の城へ押(お)し寄(よ)せ、鬨(とき)をつくり、

「屋形(やかた)に御腹(おんはら)めさせんため、東禅寺右馬介、途中(とちゆう)より取(と)つてかへしたり」

と呼(よ)ばはる。

義氏甚(はなは)だいかり給ひ、

「あれ追(お)つちらせ」

と下知(げぢ)の下(した)より、究竟(くつきやう)の兵(つはもの)二百ばかり、抜(ぬ)きつれて斬(き)つていづる。

田川(たがは)一戦(いつせん)にも及(およ)ばず、敗北(はいぼく)して散々(さんざん)の体(てい)にて逃(に)げかへる。

東禅寺右馬介(とうぜんじうまのすけ)は、城(しろ)に軍(いくさ)ありと聞(き)き、引(ひ)つかへし城に入らんとするに、やぐらより雨(あめ)のごとく矢(や)を射出(いだ)し、城中(じやうちゆう)にのこせし右馬介が妻子(さいし)の首(くび)を切(き)つて

投(な)げ出(い)だしたり。

右馬介大(おほい)に驚(おどろ)き、例(れい)の主君(しゆくん)の悪業(あくぎやう)にこそと、相伝(さうでん)の恩義(おんぎ)も讐(あた)とかはり、衆人(しゆうじん)と力(ちから)を合(あは)せ、義氏(よしうぢ)を殺害(せつがい)して、人民(にんみん)の助(たすけ)とせんと、其(そ)の場(ば)を去(さ)らず一責(ひとせめ)せめけれ共、義氏(よしうぢ)みづから下知(げぢ)をなして、防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふに、右馬介も力(ちから)つかれ、一まづ其(そ)の場(ば)を引(ひ)き退(しりぞ)きぬ。

義氏は右馬介が心(こころ)の変(へん)じたるを見て、今(いま)は川北(かはぎた)の七党(しちたう)を自親(じしん)にせむべしと、出陣(しゆつぢん)の用意(ようい)を触(ふ)れわたし、其(そ)の勢(せい)壱万二千余(よ)と聞(きこ)えける。

川北には悪屋形自身(あくやかたじしん)むかふと聞(き)きて、人民(にんみん)おぢおそれひしめきあふ。

此(こ)の時(とき)楠弾正左衛門は、田川・大庄寺(だいしやうじ)をはじめ、七党(しちたう)の兵(つはもの)を多(おほ)くはここかしこにわかちやりて、以(もつ)ての外(ほか)無勢(ぶぜい)なれども、すこしもさはがず、川北分内(ぶんない)の百姓共(ひやくしやうども)に、

「軍(いくさ)おこらぬうち、随分(ずいぶん)作物(さくもの)を取(と)り収(をさ)めよ」

と、すこしのこりし兵(つはもの)も、民家(みんか)につかはして、百姓(ひやくしやう)を助(たす)けしめ、十分(じふぶん)にとりこませ、中々(なかなか)戦(たたか)ふ気色(きしよく)なければ、いかがしたる心底(しんてい)にやと、七党(しちたう)の内(うち)酒田何某(さかたなにがし)、楠(くすのき)に対(たい)してこれを問(と)ふ。

楠云(い)ふ、

「今(いま)作物(さくもの)秋収(しうしう・あきいれ)の時(とき)なり。

十分(じふぶん)にとり収(をさ)めてこそ、敵(てき)と戦(たたか)はめ。

作物(さくもの)むなしく損(そん)ずる時(とき)は、戦(たたかひ)に勝(か)ちたりとて、利(り)ありとすべからず。

元来(もとより)義氏の勇猛(ゆうまう)に、かたれぬことを知(し)るゆゑ、はじめより力(ちから)をもつて、かれに敵対(てきたい)する所存(しよぞん)にあらず。

必竟(ひつきやう)は川(かは)より北(きた)へ、敵(てき)をわたしさへせねば、手(て)ざすに及(およ)ばず。

明日(みやうにち)は敵川(てきかは)をわたらんとすべし。

明日一日(いちにち)敵(てき)をわたさねば、義氏(よしうぢ)に一生(いつしよう)川北(かはぎた)の地(ち)を踏(ふ)ますま

じく覚(おぼ)ゆる」

といふ。

「其(そ)の計(はかりごと)やある」

と尋(たづ)ぬれば、

「われすでに其(そ)のそなへあり。

必(かなら)ず心を労(らう)し給ふな」

と、人(ひと)なみならぬ弾正左衛門(だんじやうざゑもん)が詞(ことば)を頼(たのみ

)に、酒田(さかた)は少(すこ)し安堵(あんど)しける。

明(あけ)の日(ひ)義氏(よしうぢ)は一万(いちまん)余騎(よき)を先後(せん

ご)にわかち、川(かは)をわたらんと岸(きし)に出(い)でて見れば、清川(きよかわ)の水滔々(たうたう・さかんなり)と漲(みなぎ)りて、大水(たいすい)岸(きし)をひたす。

これにてはわたり得(え)じと、些(すこ)退(しりぞ)きて水(みず)の落(お)つるをまつ。

其(そ)の日(ひ)の暮比(くれごろ)、水(みづ)もかさおちて、今夕(こんせき)やわたらん、明朝(めいてう)やわたらんと、筏(いかだ)を組(く)み連(つら)ぬる所(ところ)に、本城(ほんじやう)に残(のこ)せし佐藤刑部(さとうぎやうぶ)がかたより急使

(きふし)を馳(は)せて、

「屋形(やかた)の出陣(しゆつぢん)をうかがひ、東禅寺右馬介(とうぜんじうまのすけ)又本城(またほんじよう)へとりかけたり。

いそぎ御馬(おんむま)を還(かへ)され、両方(りやうはう)よりはさみ責(せ)め給ふべし」

と告(つ)げしかば、義氏(よしうぢ)驚(おどろ)き先(ま)づここより取(と)つてかへし、備(そなへ)を立(た)てて掛(かか)られしかば、右馬介(うまにすけ)二方(にはう)に敵(てき)をうけ、手下(てした)多(おほ)くうたれて落(お)ち失(う)せぬ。

義氏(よしうぢ)城(しろ)に入つて休息(きうそく)し、諸軍(しよぐん)も労(らう)を養(やしな)ふ。

是(これ)によつてしばらく川北討罰(かはぎたたうばつ)は延引(えんいん)

しける。

是(これ)元来(ぐわんらい)楠(くすのき)があらかじめ思慮(しりよ)を廻

(めぐ)らして、大庄寺(だいしようじ)何某(なにがし)に人数(にんじゆ)をさしそへ、ひそかに湯殿山(ゆどのさん)の東(ひがし)につかはし、最上川(もがみがは)の水上(みなかみ)わづかに幅(はば)せきばき所をえらみ、大木(たいぼく)を斬(き)つて倒(たふ)しかけ、水(みづ)をせきとどめ、山に添(そ)うて湛(たた)へ置(お)き、敵(てき)の川(かは)を渡(わた)らんずる日(ひ)の未明(みめい)より、水(みづ)せきの大木(たいぼく)取(と)り流(なが)せしかば、清川(きよかは)俄(にはか)に水(みづ)出(い)でて、一日(いちにち)の洪水(こうずい)を成(な)す。

また兼(かね)て東禅寺(とうぜんじ)が許(もと)へ使(つかひ)をやりて、

「其元手勢(そこもとてぜい)を以(もつ)て、今度(こんど)義氏(よしうじ)出陣(しゆつぢん)の跡(あと)を襲(おそ)ひとり

給へ。

しからば川南(かはみなみ)をわけどりにせん」

と申し送(おくり)しかば、右馬介(うまのすけ)其(そ)の詞(ことば)に応(おう)じて、急(きふ)に本城(ほんじやう)へとりかけし故(ゆゑ)、義氏(よしうぢ)つひに川(かは)をわたらで引(ひ)つかへしたるなり。

ここに川北(かはぎた)に属(しよく)せし侍(さむらひ)に草苅大蔵(くさかり

だいざう)といふものあり。

是(これ)が妻女(さいぢよ)容色(ようしよく)すぐれたり。

むかしより、財(たから)多(おほ)きは盗(たう)を引(ひ)き、妖冶(えうや・みよめき)あるは淫(いん・ふぎ)に悔(くい)ありといへり。

七党(しちたう)の内(うち)に田川(たがは)次郎左衛門といふもの、かくれなき好色人(かうしよくじん)なりしが、いつしか此(こ)の草刈大蔵(くさかりだいざう)が妻女(さいぢよ)に人(ひと)しれず密通(みつつう)して、女(をんな)と手段(てだて)をめぐらし、つひにおにれが舘(やかた)にかくして出(い)ださず。

大蔵(だいざう)、田川(たがは)が所為(しよゐ)なることをよく知(し)つて、大(おほき)にうらみ、即時(そくじ)に川北(かはぎた)を去(さ)つて大山(おほやま)に来(きた)り、義氏を頼(たの)みて奉公無二(ほうこうむに)をつくし、

「願(ねが)はくはちかぢかに川北征罰(かはぎたせいばつ)あれかし。命(いのち)ををしまず田川(たがは)に近寄(ちかよ)り、鬱憤(うつぷん)を晴(は)れんものを」

と、常(つね)に歯(は)をくひしばつて、これをまつ。

され共義氏(よしうぢ)は、相伝(さうでん)の家来東禅寺(けらいとうぜんじ)さへ心(こころ)がはりする時節(じせつ)、川北(かはぎた)は未(いま)だ下(くだ)し得(え)ず、近此(ちかごろ)は何(なに)とやらん気(き)おくれして、いづかたへも手(て)ざしすることをひかへ、安然(あんぜん)として鋭気(えいき)をやしなはれける。

其(そ)の此(ころ)日本(につぽん)の高山(かうざん)をあまねく巡拝(じゆんぱい)し、出羽国(ではのくに)の三山(さんざん)を拝(はい)して、尚奥(なほおく)へ通(とほ)る修験者(しゆげんじや)、相〓坊尊海(さがみばうそんかい)といへる山臥(やまぶし)、人(ひと)の憂(うれへ)をいのりて巧験(こうげん)ありとて、村里(そんり・むらさと)の人民(にんみん)、是(これ)を崇敬(そうけい・うやまふ)すること、生不動(いきふどう)ともいふべし。

義氏(よしうじ)日来(ひごろ)はかかることをあざけりさみせし人なれ共、進退(しんたい)に心決(こころけつ)せざる折(をり)ふしなれば心迷(こころまよ)ひ、此(こ)の事(こと)を聞(き)き伝(つた)へ、使(つかひ)をつかはし、尊海(そんかい)を請(こ)うて城中(じやうちゆう)にいたらしめ、家運(かうん)を祈(いの)らせ、対話(たいわ・おんはなし)の上(うへ)にて、自身(じしん)の掌文(しやうもん・てのすぢ)を相(さう)せしめて、

「吉凶(きつきよう)を占(うらな)ふべし」

とある。

尊海(そんかい)これを辞(じ)して占(うらな)はず。

それをいかにと左右(さいう)の人(ひと)を以(もつ)て問(と)はしむるに、彼いふ、

「それがし本国(ほんごく)を出(い)でてより、愛愍(あいみん・じひ)の志(こころざし)を以(もつ)て、祈〓は施(ほどこ)せども、占卜(せんぼく・うらなひ)の道(みち)は深(ふか)く慎(つつし)みて施(ほどこ)さず。

其の故は占(うらなひ)の表(おもて)、我(わ)が口(くち)より出(い)づれば、其の人の〓福吉凶一言(くわふくきつきよういちごん)の下に決(けつ)す。

其(それ)ゆゑに軽々敷(かるがるし)く占(うらな)はず。

やつがれ是まで占(せん)を施(ほどこ)す人、わづかに両人(りやうにん)、其(そ)の名姓(めいせい)はあらはしがたけれども、倶(とも)に近国(きんごく)の大人(たいじん)なり。

ト料(ぼくれう)の式(しき)、黄金(わうごん)十枚を収(をさ)む。

其(そ)の礼(れい)備(そな)はらざればト(ぼく)をなさず」

といふ。

義氏(よしうぢ)此(こ)の山(やま)伏(ぶし)のへつらはぬさまに信(しん)を増し、強(し)ひて占(うらなひ)を求(もと)め、黄金(わうごん)十枚(じふまい)を備(そな)へ出(い)だす。

尊海(そんかい)先(ま)づ此(こ)の黄金(わうごん)をとり収(をさ)めて、やうやう義氏(よしうぢ)の掌文(しやうもん・てのすぢ)を相(み)、眼耳鼻口(げんにびこう)こまやかに(そう)しをはり、称賛(しようさん・ほめことば)して、

「貴人(きにん)なるかな」

といふ。

義氏(よしうぢ)の干支(しかん・えと)を問(と)ひ、〓(くわ)を設(まう)け、一算(いつさん・ひとうらなひ)するに至つて、大(おほい)に驚(おどろ)き、面色(めんしよく)をちがへ、ことばもなく座(ざ)を立(た)つて去(さ)らんとす。

義氏(よしうぢ)これをとどめて、

「〓(くわ)のあらはす所(ところ)、何(なん)の吉凶(きつきよう)をか主(つかさど)る。

はばからず申すべし」

といふに、尊海(そんかい)頭(かしら)を低(た)れて答(こた)へず。

義氏(よしうぢ)左右近習(さいうきんじふ)のもの共を遠(とほ)ざけ、

「ひそかにいふべき」

との給ふ時、尊海(そんかい)眉(まゆ)をしわめて、

「屋形(やかた)の禍(わざはひ)急(きふ)なるがゆゑに、是をいふことをはばかりぬ。

今日(こんにち)より七日の間(あひだ)、甚(はなは)だ重き御つつしみなり」

といふ。

迷(まよ)へばいよいよ迷ふならひ、義氏(よしうぢ)聞くよりふかくおそれて、

「命数(めいすう)の限(かぎり)は是非(ぜひ)もなし。

ただし此(こ)の凶兆(きようてう・わるききざし)を避(さ)くるに術(じゆつ)ありや」

と問(と)ひ給ふ。

尊海(そんかい)云(い)ふ、

「禍(わざわひ)をさくるの道、唯御座所(ただござどころ)を別所(べつしよ)へ移(うつ)してさけ給へ。

今日をはじめとして、毎日四方二里(まいじつしはうにり)の外(ほか)に忍(しの)び行(ゆ)きて、心をすまし、安居(あんきよ)し給へ。

さわがしき世(よ)の中(なか)なれば、かならず人にしられ給ふな。

今日(こんにち)南方(なんぱう)よりはじめて、東北(とうぼく)にめぐりて出で給ふべし」

と、〓寧(ていねい)に説きさとして、修験者(しゆげんじや)は辞(じ)して出でぬ。

義氏尊海(よしうじそんかい)が詩(ことば)にまかせ、其(そ)の日(ひ)より南方(なんぽう)十二町の外(ほか)にひそみ出で、しずかなる崗林(おかばやし)などに安座(あんざ)し、夜に入りてわずかに城にかへり、明(あけ)の日は東方(とうほう)にひそみ遊(あそ)び、三日(みつか)めは北に出で、四日めには西のかた、高舘山(たかたちやま)のふもと、新山(にいやま)の森(もり)といへる、ふかくしげりし森(もり)にゆきて、心をすまし、つつしみかへつてゐられける。

相随(あいしたが)ふ心服(しんぷく)の人には、佐藤刑部(さとうぎようぶ)・高坂中務(こうさかなかつかさ)・草刈大蔵(くさかりだいぞう)のだいふものの外(ほか)、七八人の下部(しもべ)のみにて、忍(しの)びやかなるかたたがへなり。

日(ひ)すでに西山(せいざん)に落(お)つる比(ころ)、義氏(よしうじ)心気(しんき)つかれて、しばし鋪皮(しきがわ)の上にねむり給ふ内(うち)、太刀(たち)おとするどきに、眼(め)をさまし見給へば、草刈大蔵(くさかりだいぞう)・高坂中務(こうさかなかつかさ)、二人(ふたり)が刀(かたな)の下(した)に、佐藤刑部(さとうぎようぶ)を切り伏(ふ)せたり。

「こはそも如何(いか)なる意趣(いしゆ)にや」

と、とがめ給ふ時(とき)、いつよりここに来(きた)りけん、森(もり)の奥(おく)より、楠弾正左衛門(くすのきだんじようざえもん)を先(さき)として、田川(たがは)・大庄寺(だいしようじ)・酒田(さかた)・山中(やまなか)・佐竹(さたけ)・竹中(たけなか)・の七党(しちたう)、いづれも腹巻(はらまき)の上(うへ)に素袍(すはう)引きかけ、ばらばらと立(た)ち出(い)で、手に手に鉄砲(てっぽう)をかかええおつとりまはし、今も火ぶたを切(き)らんありさま。

草刈大蔵(くさかりだいぞう)・高坂中務(かうさかなかつかさ)も敵(てき)の一味(いちみ)と見えて、召(め)しつれし下部(しもべ)とともに、七党(しちたう)の後(しりへ)にさがってひかへゐる。

中(なか)にもくすの木弾正左衛門(だんじようゑもん)、はるかに手(て)をつきて、

「いかに御悪事(おんあくじ)のつもりて、御運(ごうん)もいまがかぎりなり。われわれ如きが手玉(てだま)にあたらせ給はんより、いそぎ御腹(おんはら)めされ候へかし。

さすれば御一族(ごいちぞく)の内(うち)を見立(みた)て参(まゐ)らせ、御家(おんいへ)は伝(つた)はるべし」

と、思(おも)ひがけなくつめよせられ、義氏(よしうじ)あたりを見(み)給へども、味方(みかた)と思(おぼ)しきもの一人(いちにん)もなければ、災〓(わざはひかき)の内(うち)におこりたれば、今(いま)はこれまでと、腹(はら)十(じふ)もんじにかき切(き)って、        打(う)つ太刀(たち)のひらりと見ゆる影(かげ)よりもはかなき世(よ)をば去(さ)るは物(もの)かは

これを辞世(じせい)として果(は)て給ひぬ。

猛将(まうしやう)のをはりぞいかめしき。

七党(しちたう)立(た)ちよりて、御骸(おんから)を其(そ)の所(ところ)に埋(うづ)め、七党手(て)づから土(つち)をおほひ、川南(かわみなみ)の群中(ぐんちゆう)に札(ふだ)を立(た)て、民(たみ)に此(こ)のよしを告(つ)げ、百姓(ひやくしやう)の業(わざ)怠(おこた)ることなからしめ、塊(つちくれ)をも動(うご)かさずして、義氏(よしうじ)の無道(ぶだう)を打(う)つて、人民(にんみん)を安(やす)んじける。

皆(みな)楠(くすのき)がいさをしなり。

武藤(むとう)の家(いへ)は、義氏(よしうじ)の

御舎弟兵庫殿(ごしやていひやうごどの)と申せしをとりたて、大山(おほやま)の先知(せんち)ををさめさせ、是(これ)を十九代(だい)の屋形(やかた)となしける。

古今奇談(ここんきだん)英草紙(はなぶささうし)第五巻(だいごのまき)

   八、白水翁(はくすいをう)が売卜(まいぼく)直言(ちよくげん)奇(き)を示(しめ)す話(こと)

文明(ぶんめい)の頃(ころ)、泉州(せんしう)の堺(さかひ)に白水翁(はくすいをう)といへるものあり、よく人(ひと)の禍福吉凶(くわふくきつきよう)を決(けつ)し、成敗興衰(せいはいこうすい)を指(さ)すこと差(たが)はず。

常(つね)に大鳥(おおとり)の社(やしろ)の辺(ほとり)に行(ゆ)きて卜(ぼく)を売(う)る。

一日(あるひ)一人の士(さむらひ)ここに来(きた)りて、其(そ)の卦(くわ)を問(と)う。

白水翁(はくすいをう)其(そ)の年月日時(ねんげつじつじ)を聞(き)きて、卦(くわ)を〓(し)き下(くだ)し、考(かんがへ)を施(ほどこ)して云夫、

「此(こ)の卦(くわ)占(うらな)ひがたし。

早(はや)く帰(かへ)られよ」

といふ。

此(こ)の士(さむらひ)心得ぬ体(てい)にて、

「我(わ)が卦(くわ)何のゆゑに卜(うらな)ひがたき。

察(さつ)するに卦(くわ)のいずる所よろしからず、あらはにしめしがたきことあるか。

いむことなく示(しめ)されよ」

といふ。

翁(をう)もとより言葉(ことば)を飾(かざ)らず、

「拙道(せつだう)が卦による時は、貴君(きくん)当(まさ)に死(し)し給ふべし」

此の士いふ、

「人死(し)せざる道理(だうり)なし。

我幾年(われいくねん)の後(のち)か死すべき」

翁云ふ、

「今年(こんねん)死(し)給はん」

「今年(こんねん)の中(うち)、幾(いつ)の月(つき)に死すべき」

「今年今月(こんげつ)死に給ふべし」

「今年今月幾日(いくか)に死(し)するや」

「今年今月今日(こんにち)死(し)に給ふべし」

此の人心中(しんぢゆう)に怒(いかり)を帯(お)びて再(ふたた)び問ふ、

「時刻(じこく)は幾時(いくとき)ぞ」

「今夜(こんや)三更子(さんかうね)の時(とき)死(し)に給はん」

此の人おぼえず言葉(ことば)を〓(はげし)くしていふ、

「今夜(こんや)真(しん)に死(し)せば万事(ばんじ)皆(みな)休(きう)す。

若(も)し死せずんば、明日(みやうにち)〓(なんじ)をゆるさじ」

翁(をう)いふ、

「貴君(きくん)明日(みやうにち)恙(つつが)なくば、来(きた)つて翁(をう)が頭(くび)をとり給へ」

此の人(ひと)彼(かれ)が詞(ことば)の強(つよ)きを聞(き)きて、いよいよいかり翁(をう)を床(ゆか)より引きおろし、拳(こぶし)を挙(あ)げて打(う)たんとす。

近辺(きんべん)のものはしり集(あつま)りてなだめ、此の士(さむらひ)をこしらへかへし、翁(をう)むかひ、

「〓(なんじ)しらずや。

彼(か)の人(ひと)は此の所に〓(とりはや)す侍(さむらひ)なり。

彼(か)の人(ひと)の気色(きしよく)を損(そん)じては、爰(ここ)にあつて卦店(くわてん)(うらかたみせ)をひらき難(がた)からん。

かへすがへすも〓(なんじ)応変(おうへん)なき人かな。

人の貧富(ひんぷ)寿(じゆ)(ながいき)〓(えう)(わかじに)は数(すう)の定(さだま)る所ならんに、卦(け)には如何(いか)に出(い)づるとも、すこしは詞(ことば)をひかへてこそよからん」

といふ。

翁(をう)一口(いつこう)の気(き)を歎(たん)じて云ふ、

「人の心(こころ)に応(おう)ぜんとすれば、卦(くわ)の言(こと)にそむく。

卦の実(じつ)を告(つ)ぐれば人の怪(いかり)をおこす。

此(こ)の所(ところ)にとどまらずとも、己自(おのずから)留(とどま)る所あらん」

と、卦舗(くわほ)を拾収(とりをさ)めて、別処(べつしよ)に去(さ)りゆきぬ。

彼(か)の卜(うら)を求(もと)めし侍(さむらひ)わ当所郡代(たうしよぐんだい)  の別官(べつくわん)をうけ給はる、茅淳官平(ちぬくわんぺい)といふものなるが、家(いへ)にかへりても、白水翁(はくすいをう)が言葉(ことば)心(こころ)にはさまり、面(おもて)に憂容(うれへのいろ)あるを、女房小瀬(こせ)

「何ごとにや。

上司(うはずかさ)の気色(けしき)ばしあしかりしか」

問ふ。

官平云ふ、

「さやうのことならず。

今日(こんにち)陰陽師(おんやうし)にうらかたを問(と)ひしに、我(わ)が命(いのち)今年今月今日(こんねんこんげつこんにち)、三更(さんかう)に死(し)すべしと、かたく云(い)ひぬ」

小瀬(こせ)これを聞きて、眉(まゆ)をさかだて、

「左様(さやう)の当(あて)なきことをいふいたずらものを、など追(お)ひ払(はら)ひ給はざる」

といふ。

「我(われ)も悪(にく)しと思(おも)ひしか共(ども)、人の勧(すすめ)によつてゆるしぬ。

彼(か)のものみずから罪(つみ)をおそれ逃(に)げ去(さ)れり。

我(われ)今日(こんにち)死(し)せずんば、明日(みやうにち)かれを尋(たづ)ねて、虚言(きよごん)の罪(つみ)を正(ただ)さん」

といふ。

小瀬(こせ)打(う)ちわらひて、

「それほど現然(げんぜん)たる人の、何(なに)ゆゑに今夜(こんや)死(し)すべき。

ヶ様(かやう)のけがらはしき言葉(ことば)を、酒(さけ)を飲(の)みてをすれ給へ」

と、其の日もくるるやくれず、官平(くわんぺい)は酒気(しゆき)を帯(お)びて仮寝(かりね)するを、小瀬(こせ)は使女(しぢよ)(げぢよ)安(やす)をよびて、主人(しゆじん)の仮寝(かりね)風入らせじと、二人して官平(くわんぺい)を扶(たす)けて、正(ただ)しく寝(い)ねさせ、小瀬は使女(めしつかひ)と二人物がたりして、

「主人今日(こんにち)陰陽(おんやう)師(し)のうらかたを聞(き)きて、今夜(こんや)三更(さんかう)に死(し)すべしといひぬ。

〓(なんじ)も聞(き)きしやいなや」

安(やす)いふ、

「われも今日(こんにち)傍(そば)より聞(き)き侍(はべ)りしが、何ゆゑに主人の死(し)に給ふ事あらん。

これ信(まこと)とするにたらぬことなり」

といふ。

小瀬いふ、

「我(われ)〓(なんじ)と今夜(こんや)寝(ね)ずして、針線(しんせん)(はりしごと)に夜(よ)を明(あ)かし、死(し)するか死(し)せぬかを守(まも)るべし。

〓(なんじ)睡(ねふ)る事なかれ」

と、笑(わら)ひながらいふ。

「かやうの時(とき)いかんぞねむらん」

と、言葉(ことば)の下(した)よりゆらゆらと眠(ねむ)る。

「いかに、睡(ねふ)らぬ約束(やくそく)のはてぬに」

と、ねむれば呼(よ)びさまし、よびさましして更鼓(かうこ)を聞(き)けば三更(さんかう)なり。

「是ぞ其(そ)の時(とき)なり。

陰陽師(おんやうし)のいたずら言(ごと)、何(なに)の故(ゆゑ)なくて死(し)する理(ことわり)あらん。

最早(もはや)たがひに寝(い)ねよらん」

といふをりふし、忽(たちま)ち官平が寝間(ねま)を飛(と)びいで、中戸(なかど)に走(はし)りいづる響(ひびき)におどろき、ねむりいる安(やす)を呼(よ)び起(おこ)し、ともに手燭(てしよく)を点じて、外門(そともん)の戸のひらくを、追(お)つかけ出(い)でて見れば、官平(くわんぺい)白(しろ)き服(ふく)を着(き)て、前(さき)へ走(はし)る足疾(はや)く、女の足に及(およ)びがたきあ    ひだ、橋(はし)の上(うえ)へあがると見えしが、水(みづ)に飛(と)びこむひびき高(たか)く、漸(やうや)う橋(はし)のうへにいたり見れ共(ども)、海(うみ)に近(ちか)き川(かは)の水多(みずおほ)き折(をり)ふしなれば、形(かたち)もさだかならず流(なが)れ行(ゆ)く。

二人の女は橋(はし)の上(うへ)になげき臥(ふ)して、

「何(なに)ゆゑに身(み)を沈(しづ)め給ふ。

狂気(きやうき)ばし仕(し)給ふか」

とさけぶ内(うち)、かのさわぎに夢(ゆめ)をさませし近隣(きんりん)の人、跡(あと)より追(お)い来(きた)りて、此の体(てい)を見、小瀬(こせ)をなぐさめて宿所(しゆくしよ)にともなひかへり、始終(しじゆう)を小瀬が物語(ものがたり)に聞きて、

「彼(か)のうらかたの見通(みとほ)したることばを、日(ひ)のうちにもわれわれに聞かせ給はば、近辺(きんべん)申しあはせ、夜(よ)をねずして守(まも)らば、家(いへ)を走(はし)りいづる時、とらへとどめぬことあらじ物を、残念さよ」

と、明(あけ)の日(ひ)近隣(きんりん)のものども死骸(しがい)を求(もと)むれども、いつしか海(うみ)に落(お)ちて見る所なし。

官平は狂気(きやうき)の死と沙汰(さた)してやみぬ。

小瀬は使女(めしつかひ)と倶(とも)に、亡夫(ぼうふ)の霊位(れいゐを設(まう)け、追善(ついぜん)をなし、すでに百日(ひやくにち)もいつしか過(す)ぐる比(ころ)、小瀬が親里(おやざと)より再縁(さいえん)のことを、進(すす)むれども、うけがはず。

再三(さいさん)に及(およ)んで、小瀬父(ちち)親にむかつて心底(しんてい)を明(あか)し、

「此(こ)の家(いへ)にありて入舎(じゆしや)(いりえ)の丈夫(をつと)を迎(むか)ふる事ならば、責(せ)めて家(いへ)をたつるを以(もつ)て心やりとせん。

他家(たけ)に嫁(か)(よめいり)しゆくことは、決(けつ)して本意(ほんい)にあらず」

といふ。

父親(ふしん)も実(げ)に尤(もつとも)と、娘(むすめ)の言葉(ことば)について、然(しか)るべき家督(かとく)人(にん)を聞(き)き定(さだ)むるに、同(おな)じ、国守(こくしゆ)の郡役(ぐんやく)をうけ給はる、岸の何某(なにがし)が弟(おとうと)に、権藤太(ごんとうだ)とて、郡方(ぐんかた)の取計(とりはからひ)にも能(よ)く馴(な)れたるものありて、官平とも常(つね)に出会(であ)ひしものなるが、此(こ)の事(こと)をききて、

「茅淳(ちぬ)の家(いへ)に入つて相続(さうざく)せん」

といふ。

両親得心(ちやうしんとくしん)の上は否(いな)むべきにあらずと、何(なに)ごとも親(おや)のはからひにまかせ、権藤太を呼(よ)び入(い)れ夫婦(ふうふ)となり、名(な)を官平(くわんぺい)と改(あらた)めさせ、郡郷(ぐんがう)の役儀其(やくぎそ)の侭(まま)につとめ、茅淳(ちぬ)の家(いへ)を相続(さうざく)しける。

夫婦(ふうふ)のあひだもよろしく前(さき)の官平は年(とし)少(すこ)し〓(ふ)けたるに、是は似合敷(にあはし)き夫婦(ふうふ)なり。

女房は徳(とく)とりたりと人々申し合(あ)ひける。

或夜(あるよ)夫婦寝(い)ねんとして、睡(ねむ)りがちなる使女(めしつかひ)を呼(よ)びて、酒(さけ)を温(あたた)めさせける。

安眠(やすねむ)たきままに、不肖(せう)ながら竃(かまど)の辺(ほとり)によりしに、俄(にはか)に此の竃(かまど)ゆるめきて、地(ち)を離(はな)るること一尺(いつしやく)ばかり、人ありて竃(かまど)を頭(かしら)にいただき、頭髪(かしらがみ)を披(ふ)りかけ、舌(した)をはき眼(まなこ)に血(ち)の涙(なみだ)を注ぎ、

「安(やす)、安(やす)」

と呼(よ)ぶ。

使女(しぢよ)是を見るより、大(おほい)に叫(さけ)んで地(ち)に倒(たふ)れ、面皮(めんぴ)(かほいろ)黄(き)に変(へん)じて起(お)き上(あが)らず。

夫妻(ふさい)急(きふ)にたすけおこして、水をそそぎ、わずかに甦(よみがへ)りたり。

「〓(なんぢ)、何(なに)に驚(おどろ)きてかくのごとくなるや」

安(やす)いふ、

「われ何心(なにごころ)なく火(ひ)を焼(た)く所に、先主人(せんしゆじん)かしらがみを乱(みだ)し、めのうち血(ち)を流(なが)して、我(われ)をよび給ふと見て、其(そ)の後(のち)は覚(おぼ)えず」

といふ。

小瀬(こせ)大(おおい)にいかり、

「〓(なんじ)夜中(やちゆう)にかまどを焼(た)くことを〓(ものう)がり、わざと物恐(ものおそれ)をなすと見えたり。

酒(さけ)温(あたた)むるに及(およ)ばず、早(はや)く睡(ね)よ」

と叱(しか)りて、りて、夫妻(ふさい)〓(ぐわ)(ね)室(しつ)(ま)に入る。

小瀬独(ひと)り言(ごと)して、

「此の使女(しぢよ)も年比(としごろ)経(へ)ぬれば、斯(か)く嬾(らん)(ぶ)〓(だ)(しよう)になりて、物(もの)の用(よう)にたたず。

我(われ)道理(しかた)あり」

と。

それより急(きふ)に安(やす)をいずかたへも嫁(か)(よめらする)せんと欲(ほつ)し、よきころの家(いへ)をききよりしに、しかるべきえにしにや、早(はや)くも事なりて、櫛笥(くしげ)など調(ととの)へあたへて、同(おな)じ郡(こほり)の段介(だんすけ)といへる商人(あきうど)に嫁(か)しやりぬ。

此(こ)の段介酒(さけ)をこのみ賭(かけ)(ばくち)をこのみ、三月(みつき)を過(す)ぎさるに、〓(ぐわ)(ねだう)被(ひ)(ぐ)までも売(う)りつくして、安(やす)をせめて、

「茅淳(ちぬ)の家(いへ)に行(ゆ)きて助力(じよりき)(かふりよく)を乞(こ)ひ請(う)けぬれ共、後(のち)はあたえず。

わずかの銀子尽(つ)くれば、また安(やす)をせむる。

ある夜(よ)おのが酔(ゑ)へるままに、夜中(やちゆう)をも安(やす)をせめののしりて、

「すこしの銭(ぜに)を乞(こ)い来(きた)れ」

といふ。

安(やす)も所詮(しよせん)此(こ)の家(いへ)に住(す)みはてがたし。

よしよし乞(こ)ひ得(え)ずば、ここへは帰(かへ)らじものと、茅淳(ちぬ)の家(いへ)をこころざして、門前(もんぜん)にいたりしが、時刻(じこく)深(ふ)けたれば、〓(たた)き起(おこ)して怒(いかり)に触(ふ)れんもいかがと、立(た)ちもとほる折(をり)ふし、

「〓(なんじ)に金子(きんす)をあたふべし」

といふ声(こゑ)に、ふり返(かへ)り見れば、屋(や)のうへに立(た)ちたる人(ひと)あり。

「我(われ)は是(これ)先(せん)官平(くわんぺい)なり。

此(こ)の袋(ふくろ)の内(うち)に金子(きんす)あり。

〓(なんじ)にあたへて貧(ひん)を助(たす)く。

また此(こ)の紙(かみ)にうつしたるは、我(わ)が末期(まつご)の一句(いつく)也」

と、地下に投(な)げあたへて消(き)えうせぬ。

安(やす)恐(おそろ)しながら、貧窮(ひんきゆう)の時節(じせつ)、金子(きんす)の二字(にじ)に肝(きも)つよく、ひろひかへりて、不思議(ふしぎ)に金子(きんす)を得(え)たることををつとにかたり、

「此(こ)の金子(きんす)を入(い)れたるは、先主人(せんしゆじん)の常(つね)に腰(こし9につけられたる火打袋(ひうちぶくろ)なり。

思へば入水(じゆすい)の時も、これを帯(お)びられたりと覚(おぼ)ゆ」

段介(だんすけ)も、つねずね女房が、竃(かまど)の下(もと)に先主人(せんしゆにん)を見たるといふを、あやしく思(おも)ひくらすうへなれば、いよいよ不審(いぶかし)く思へども、指(さ)しておもひよるべきこともあらねば、なまじひなる問(と)はずがたりして、適(たまたま)得(え)たる金子(きんす)まで、手につかぬことも出(い)で来(き9なんと、この故(ゆゑ)に段介(だんすけ)も人にかたらず。

しかるに国守(こくしゆ)の或夜(あるよ)夢(ゆめ)み給ひしは、髪を〓(かうむ)り頭(かしら)に井(ゐ)げたをいただきたる人、眼中(がんちゆう)血(ち)の涙(なにだ)をながし、一紙(いつし)の願状(ねがひじやう)を奉(たてまつ)る。

其(そ)の文唯(ただ)二句あり、国守(こくしゆ)夢(ゆめ)覚(さ)めて、此(こ)の両句(りやうく)を忘(わす)れず吟(ぎん)じ給えども、其(そ)の意(こころ)を解(げ)せず。

ここにおいて、此(こ)の二句(く)を書(か)き付(つ)けて、市門(しもん)(いちのいちくち)に掛(か)けしめ、能(よ)く此(こ)の意(こころ)を解(と)くものあらば、賞金(しやうきん)(ほうび)を与(あた)ふべしとなり。

国中(こくちゆう)村落(そんらく)(むらさと)の小文才(こもんさい)あるものどもあつまりて、兎(と)や角(かく)と論(ろん)ずれ共、字(じ)はやく解(げ)しながら、何(なに)の為(ため)に此(こ)の句(く)あることを知(し)らず。

段介此(こ)の掛札(かけふだ)を見て、大(おおき)におどろき、是(これ)こそ妻女(さいじよ)安(やす)が、金子(きんす)と共(とも)にもらひかへりし、先主人(せんしゆじん)の末期(まつご)の言葉(ことば)に差(たがひ)なしと、やがて国守(こくしゆ)の門(もん)に上(あが)りて、此(こ)の句(く)のあやしきことを申し上ぐれば、其(そ)の書(か)きたるものを持(も)ち来(きた)れとの御意(ぎよい)に、畏(かしこま)りて立(た)ちかへり、入(い)れ置(お)きし所より尋(たづ)ね出(だ)し見るに、こはいかにただ一張(いつちやう)の素紙(しらかみ)のみにて、一字(いちじ)も見えず。

如欺(かくのごと)くにては、我(われ)麁忽(そこつ)を申し出(い)でたる落度(おちど)ともなるべし。

然(しか)れども初(はじめ)よりの事を申し上げて開(ひらき)せんと、此(こ)の素紙(しらかみ)を持(も)ち出(い)でて、妻女(さいじよ)が見たるあやしみのあらましを演(の)べけるに、〓(なんじ)が妻(さい)の出身(しゆつしん)はと尋(たず)ねられて、

「かれは幼少(えうせう)より茅淳(ちぬく)官平(わんぺい)の家(いへ)に生(お)ひ立(た)ち、今(いま)それがしが妻女(さいじよ)に倶(ぐ)しぬ。

妻女(さいじよ)主人(しゆじん)の許(もと)にあるときも、竃(かまど)のもとに怪(あやしみ)を見たるよし申せし」

とかたる。

国守(こくしゆ)打ち点頭(うなず)かせ給ひ、此(こ)のあやしみ、かならず茅淳(ちぬく)官平(わんぺい)が家(いへ)のことなるべしと、官平(くわんぺい)夫婦(ふうふ)を召(め)し出(い)だして、

「心おぼえなきや」

とたずね給ふ。

夫婦(ふうふ)とも

「かつて思寄(おもひより)なし」

と申し上ぐる。

国守ひそかに官平(くぁんぺい)が宅(たく)へ数人(すにん)をつかはして、竃(かまど)を箇〓(こぼ)ち見させられけるに、衆人(しゆうじん)何事(なにごと)にやといぶかしながら、官平(くわんぺい)が留守(るす)の家(いへ)に行(ゆ)き、竃(かまど)を取(と)りのけぬるに、其(そ)の下(した)に一塊(いつくわい)の石あり。

是(これ)を〓(か)きのけて見れば、一ツの井(ゐ)なり。

井(ゐ)の内(うち)をさぐり見るに、一ツの屍(しかばね)ありて生(い)けるがごとし。

見知(みし)りたるものありていふ、

「これこそ先(さき)の官平(くわんぺい)なり」

といふ。

衆人(しゆうじん)此(こ)の屍(から)を〓(か)きかえて、上覧(しやうらん)に備(そな)ふ。

官平(くぁんぺい)夫婦(ふうふ)是(これ)を見て、〓(おそ)れ得(え)て面色(めんしよく)土(つち)のごとく変(へん)ず。

国守(こくしゆ)

「死骸(しがい)をあらためよ」

とあるに、死骸の項(くびすぢ)に布(ぬの)をまとひて、絞(し)めころしたる有り(あり)さっまなれば、衆人(しゆうじん)皆(みな)駭然(がいぜん)(おどろく)たり。

やがて当(たう)官平(くわんぺい)夫婦(ふうふ)に、此(こ)の事(こと)を責(せ)め問(と)はれければ、つひには白状(はくじやう)しける。

此(こ)の当(たう)官平(くわんぺい)、権藤太(ごんとうだ)と申せし時(とき)小瀬(こせ)とひそかに不義(ふぎ)をなし、人(ひと)知(し)るものなし。

先(せん)官平(くわんぺい)〓(くわ)をうらなうて家(いへ)にかへる時(とき)、権藤太(ごんとうだ)彼(か)の家(いへ)にかくれ居(ゐ)て、三更(さんかう)の前後(ぜんご)酔(ゑ)ひふしたるをうかがひ、〓(し)め殺(ころ)して井(ゐ)の中(うち)に隠(かく)し沈(しづ)め、権藤太(ごんとうだ)髪(かみ)を〓(ふりか)けて、面(おもて)をかくし走(はし)り出(い)で、橋(はし)の辺(ほとり)にいたりて、大石(たいせき)一塊(いつくわい)を把(と)つて、橋(はし)のうへより投(な)げ下(くだ)し、身(み)を投(な)げたる体(てい)にもてなし、其(そ)の身(み)はかくれかへり、ひそかに小瀬(こせ)と計(はか)りて、竃(かまど)を井(ゐ)のうへにうつさせ、井(ゐ)を別所(べつしよ)にうがちて、人(ひと)の思(おも)ひがけなく、彼(か)の家(いへ)に入〓(いりこむ)して、夫婦(ふうふ)となりしまで、二人の白状死罪(はくじようしざい)のがれず。

段介には一枚(いちまい)の金子(きんす)を賜(たまは)りて、賞(しやう)すべしとの詞(ことば)の信(しん)をたがへず。

権藤太(ごんとうだ)が悪計(あくけい)は、人(ひと)のいましめの古語(ふること)となりぬ。

  九  高武蔵守(かうのむさしのかみ)婢(ひ)を出(い)だして媒(なかだち)をなす話(こと)

淨御原(きよみはら)の天皇(てんわう)、生得乞児(しやうとくこつじ)の相(さう)ましませしかば、皇子(わうじ)たる時、此(こ)の相(さう)を果(はたさん)さん為(ため)、僧(そう)は乞食(こつじき)に類(るい)することありとて、〓染(ちせん)して近国(きんこく)に潜行(せんかう)し、これを以(もつ)て大友皇子(おほともわうじ)の威(い)を避(さ)く。

是則(これすなわち)ち乞児(こつじ)の相空(さうむな)しからずといへども、後遂(のちつい)に御位(みくらい)に即(つ)かせ給ふ。

漢(かん)の文帝(ぶんてい)の〓臣〓通(ちようしんとうこう)、南風(なんぷう)を以(もつ)て恩幸此(おんかうたぐひ)なし。

許負(きよふ)といふ相人(さうにん)、〓通(とうつう)が面(おもて)を相(さう)して、

「縦理紋口(じゆうりもんぐち))に入(い)るは、かならず餓死(がし)すべし」

といふ。

文帝聞(ぶんていきこ)し召(め)して、

「人(ひと)を富貴(ふうき)にすること、我(わ)が心(こころ)のままなるに、たれか〓通(とうつう)を窮(きゆう)せしむるものあらん」

と、蜀(しよく)道(だう)の銅山(どうさん)をたまはりて、銭(ぜに)を鋳(い)ることを心(こころ)のままに許(ゆる)し給ふ。

此(こ)の時(とき)鐙氏(とうし)が鋳(い)たる銭(ぜに)、天下(てんか)に布満(ゆきわた)りて、冨(とみ)をいへば、皆(みな)〓通(とうつう)をたとへとす。

後来文帝登駕(こうらいぶんていとうが)、太子即位(たいしそくゐ)して景帝(けいてい)といふ。

〓通(とうつう)が先帝(せんてい)に媚(こび)を献(けん)じて、銭法(せんぱふ)を破(やぶ)りしを罪(つみ)として、其(そ)の家産(かさん)を籍(せき)して取(と)り上(あ)げ、〓通(とうつう)を空屋(くうをく)に幽(とら)へて、其の飲食(いんしい)絶(た)つ。

果(はた)して餓死(がし)す。

丞相周亜父(じようしやうしうあふ)、また縦理紋口(じゆうりもんくち)にあり。

景帝彼(けいていかれ)が威名(ゐめい)の高(たか)きを忌(い)み、あらぬ罪(つみ)を尋(たづ)ねて、獄(ごく)に下(くだ)し給ふ。

亜夫怨恨(あふゐんこん)して、食(しよく)を絶(た)ちて死(し)す。

此(こ)の両人冨(りようにんとみ)も貴(たつと)さも人に勝(すぐ)れながら、餓死(がし)の相遂(さうつひ)には免れず。

勧善(くわんぜん)の話(わ)に多(おほ)く説(と)く、極貴(ごくき)の相(さう)ある人も、悪(あく)を積(つ)めば、禍(わざはひ)を返(かへ)して福(さいはい)と成(な)るといへり。

是懲悪(これちようあく)のことばにして、古代(こだい)人を相(さう)するに謂(い)はざる所(ところ)、相家(さうか)の深妙(しんめう)は尚高(なほたか)きに有るべし。

悪相(あくさう)を変(へん)ずる程(ほど)の善(ぜん)をなす人、はじめより悪相(あくさう)見ゆべきや。

人相(にんそう)は善人(ぜんにん)悪(あく)人によるべきもにならず。

今日不善(こんにちふぜん)の人に出身発跡(しゆつしんばつせき)する人あり。

善人(ぜんにん)にも下賎にもうづもれ果つる人あるを以て見るべし。

  足利の高祖尊氏、天下を創業する時、執事高武蔵守師直なるものあり。

譜代の家巨なるが、彼幼少の時、家弟師泰と郊外に出でて、鷹を放つて猟旅行の僧、此の所を通りて、はからず兄弟を見て歎じて曰く、

「此の児羨むべく、又傷むべし」

といふ。兄弟其の故を問ふ。

彼の僧〓ふ、

「貴人の相あれども、終を善くせぬ相あるゆゑ、かくはいふなり。

功名の下久しく居りがた師。

久しく居らざれば、大事を做さず」

と言い残して去る。

師泰は其のゆゑを知らねども、師直早く其の言葉を悟つて、高名の下を去つて、山林に隠れ、身を全うするは、中華智士の做すところ、身命を軽んじて、主君の業を建て、我が家を興すは、日本義士のする所、今の時節、身命を全うして名を

做すところ、身命を軽んじて、主君の業を建て、我が家を興すは、日本義士のする所、今の時節、身命を全うして名を做(な)すことあらんやと、遂(つひ)に意(こころ)に挟(さしはさま)ず。師直(もろなほ)柄(へい)を執(と)るにいたりて、新田(につた)の一族(いちぞく)は、北越(ほくゑつ)の雪(ゆき)と埋(うづ)もれ、楠氏(なんし)の余類(よるい)は、南山(なんざん)の雲(くも)に散(ち)りて、官軍(くわんぐん)最初(さいしよ)の赤松円心(ゑんしん)、多々部(たたべ)の塁(るい)に拠(よ)りて、却(かへ)つて楠氏(なんし)に備(そな)へ、足利(あしかが)の為に西国の嶮口(けんこう)を守り、鎌倉(かまくら)に中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)

あり、洛(らく)に副帥(ふくすい)直義(なほよし)いまして、権威(けんゐ)を助

く。

海内(かいだい)略(ほぼ)一統(いつとう)に帰(き)して、畿内(きない)漸(や

うや)く無事(ぶじ)なり。

ここにおいて尊氏(たかうぢ)仏法に帰依(きえ)して、大刹(たいせつ)を建て、財

宝(ざいほう)を喜捨(きしや)すること数(かす)をしらず。

師直(もろなほ)是(これ)を諌(いさ)めて、

「戦闘(せんとう)暫(しばら)く

穏(おだや)かなれども、国家多事(たじ)、宜(よろし)敷く不虞(ふぐ)に備(そ

な)ふべし。

漫(みだり)に金銭(きんせん)を費(つひや)すの時にあらず」

尊氏(たかうぢ)我意(がい)のむかふ所に一味(いちづ)して、これを聴(き)き納

(い)れず。

あまつさへ〓知(ねいち)をすすむる小人(せうじん)多(おほ)く出頭(しゆとう)

して、当時(たうじ)師直(もろなほ)が内外(ないぐわい)に権(けん)強(つよ)

きを、尊(たか)氏を始(はじめ)として、忌(い)むの意(こころ)あり。

師直(もろなほ)自(みづか)ら想(おも)ふ様、我威権(ゐけん)おもきうへ、夙夜

(しゆくや)国家(こっか)の為(ため)に勤労(きんらう)す。

如(かくの)〓(ごと)くにては却(かへ)って忌(い)み〓(そね)むものあって、恐(おそ)らくは禍(わざわひ)を生(しよう)ぜん。

ここにおいて、口に国家(こっか)の事(こと)を言(い)はず、瞽者(こしや)遊君

(いうくん)をあつめて、日夜(にちや)酒宴(しゆえん)にくらし、美女(びぢよ)

をあつめて足(た)らずして、大名国主(こくしゆ)に求(もと)めて美妾(びせふ)

を納(い)れ、情(こころ)を酒色(しゆしよく)に肆(ほしいまま)にして、余年(

よねん)を楽(たの)しむといふ。

当時(たうじ)将軍(しやうぐん)よりも人(ひと)の恐(おそ)るる執事(しつじ)

なれば、在京在国(ざいやうざいこく)の大名より、其の求(もとめ)に媚(こ)びて

、白拍子(びやうし)と名づけて、送り来るもの数(かず)をしらず。

師直(もろなほ)来るものはこばまず、是(これ)を納(い)るる。

  ここに丹波の国に名(な)をしられたる侍(さめらひ)に、額田次郎左衛門(ぬかたじらうざゑもん)といふものあり。

額田治部少輔(のかたぢぶのせういう)といへるものの子なるが、弱気(わかげ)にて親(おや)の不興(ふきよう)を蒙(かうふ)り

他国(たこく)に行(ゆ)き去(さ)る。

親(おや)の許(もと)にある時、是(これ)も同国(どうこく)に名(な)ある、荻野(をぎの)彦(ひこ)六といふ人の女(むすめ)、勝子(かつこ)といへるを次郎左衛門が妻女(さいぢよ)に約諾(やくだく)して、聘礼(へいれい)(たのみのしるし)すでに定(さだま)り

親の許(ゆる)せし結(むすび)に、つつしみをわすれ、互(たがひ)に消息(せうそく)のとりかはしして、悦(よろこ)びあひしに、次郎左衛門斯勘気(かくかんき)をうけて、行衛(ゆくへ)しれずなり、彦六が娘も早十六歳(はやじふろくさい)に及ぶ。

生得花(しやうとくはな)を〓(つか)ね玉(たま)を〓(みが)ける美質(びしつ)、歌咏(うたよ)み糸竹(しちく)に妙(たへ)なりしかば、国守(こくしゆ)何某(なにがし)より彦六(ひころく)に乞(こ)うて、此(こ)の勝子(かつこ)を師直(もろなほ)が

召使(めしつかひ)にぞ遣(つかは)しける。

勝子(かつこ)は次郎左衛門を定(さだま)る夫(をつと)と思ふば、主親(しゆうおや)の命(めい)に従(したが)ひ、しばらくみやづかへには出づれども、死(し)する共操(みさを)は折(を)らじと、心(こころ)に深(ひか)く誓(ちか)ひて都(みやこ)に入り、執事(しつじ)の方へいりたりしに、元(もと)より美女(びぢよ)多(おほ)き館(やかた)にて、百花(ひやくくわ)の中(なか)の一花(いつくわ)なれば、執事是にも心(こころ)をとどめず。

かくて次郎左衛門は母親(ぼしん)の追悼(ついふく)に折(をり)を得(え)て、不興(きよう)のゆるされありて、国にかへりて後(のち)、荻野(をぎの)が女子(むすめ)のことを聴(き)きて大(おおい)に憤(いか)り、聘礼(へいれい)(たのみのしるし)定(さだま)りたる女(ぢよ)子(し)を、他家(たけ)の婢(めしつかひ)につかはす法(はふ)やある。

此のこと武士(ぶし)の見捨(みす)てがたし。

彦六(ひころく)と打(う)ち果(はた)さばやと思へど、もし此(こ)の事(こと)により師直(もろなほ)が怒(いかり)に触(ふ)れては、我(わ)が父一族(ちちいちぞく)の為(ため)にもなるまじと、胸(むね)をさすつて暮(くら)す内(うち)、父治部少輔(ちちぢぶのせういう)も世(よ)を去(さ)り、家勢弥衰(かせいいよいよおとろ)へ行(ゆ)けば、中々本(なかなかほん)意を〓(と)ぐるかたへは、尚遠(なほとほ)く思はれ、さすれば人に知(し)られたる此(こ)の国(くに)に

住(す)まんも面(おもて)ぶせなりと、一族(ぞく)に長(なが)の別(わかれ)をなして、都(みやこ)にのぼり、西(にし)の京辺(へん)に仮住(かりずみ)し、出身(しゆつしん)の便(たより)を窺(うかが)ふあひだの経営(いとなみ)に、幼(えう)より覚えたる芸(げい)なれば、画工(ぐわこう)(ゑし)を業(わざ)として日(ひ)を送(おく)る。

其の画人(ぐわひと)にすぐれて気象高(きしやうたか)かりければ、吹挙(すいきよ)する人ありて、直義(ただよし)の御所(ごしよ)に召(め)され、画(ゑ)の業(わざ)を以(もつ)て日々伺公(にちにちしこう)しける程に、いつしか近習(きんじふ)に召(め)しおかれける。

元(もと)より武門出身(ぶもんしゆつしん)なれば、心も剛(がう)に頼もしげありければ、直(ただ)義の分地(ぶんち)、備前(びぜん)の国郡吏(くにぐんり)の

欠所(けつしよ)あるに着(つ)けられて下(くだ)るとて、鳴尾(なるを)の浦(うら)に廿日ばかり風待(まち)して

出船(しゆつせん)しけるに、わづかに播州(ばんしう)の海上(かいしやう)にいたりて、海賊(かいぞく)に出(い)であひ、多勢(たぜい)に敵(てき)しがたく、からうじて身ひとつのがれ、脚船(てんま)に乗(の)りうつりて、陸(くが)に上(あが)りしが、金銭は元(もと)より、賜(たまは)りし添(そへ)文まで失(う)せければ、進退(しんたい)すべきやうなく、袖乞(そでごひ)同前(どうぜん)にして京都(きやうと)に帰る。

其の際(あひだ)わづか一月(いちげつ)ばかりの内、変化(へんくわ)はかりがたく、直義(ただよし)錦小路(にしきのこうぢ)の宅(たく)を出奔(しゆつぽん)して

行衛(ゆくへ)しれず、反逆(ほんぎやく)の志(こころざし)やましますらんと、とりどりの説(せつ)街(ちまた)に充(み)つ。たよるべきかたなきままに、先に住(ぢゆう)せし西の京に行き、隣家(りんか)の茶坊(さばう)にあはれみを乞(こ)うてやどり、明(あけ)の日(日)すこしの智音(ちいん)をたづね行きて、執事(しつじ)の〓(やかた)へ内縁(ないえん)をもとめ、右の次第を達(たつ)せんとすれども、直(ただ)義ましまさず、添〓(そへかん)の失(う)せたるは証拠(しようこ)なしとて、取り次ぎて得さする人なく、此の日もすごすご茶坊(さばう)にかへり、せんかたなげる有さまを主人も笑止(せうし)がる折(をり)から、武家(ぶけ)の侍(さむらひ)と見えて、一人の年たけたる男、袴(はかま)のももだちたかくとりたるが、茶坊(さばう)にやすらひながら、次郎左衛門がさまをつくづく見て、

「足下(そこ)には何方の人にて、旅人(りよじん)とも住人(ぢゆうにん)とも見え給はぬ」

と問(と)ふ。

次郎左衛門いふやう、

「御尋なければ〓(さて)やみぬ。御尋あれば、此(こ)の始終(しじゆう)を聞きて給はれかし。

かたるに憂(うさ)もおこたりなん」

と、いふうちも眼(め)のうちうるめり。此の侍(さむらひ)云(い)ふ、

「足下(そこ)の身の上、いかなる愁(うれへ)やある。

細(こま)かにかたり給へ。

語(かた)れば心も慰(なぐさ)もぞかし。

あるいは御心得にもなることあらば申さんものを」

と問(と)はれて、次郎左衛門姓名(せいめい)をあかし、海賊(かいぞく)に逢(あ)ひたる以来(いらい)の困窮(こんきゆう)をかたる。

此の侍(さむらひ)いふやう、

「船中盗(たう){ぬすびと}に逢ひたるは、足下(そこ)の罪(つみ)にあらず。

錦子路殿(にしきのこうぢどの)ましまさずとも、何ぞ執事(しつじ)行跡(かうせき)と志(こころざし)と甚(はなは)だ異なり」

次郎左衛門いふ、

「それがし錦小路殿の身うちのものゑ、執事の家(いへ)へ執(と)り次(つ)いで得(え)さする人なし。

たとへ執事に達(たっ)したりとも、人の妻女(さいぢよ)を取(と)り上(あ)ぐるほどの無道人(ぶだうじん)、たのみ甲斐(がひ)あるべからず」

といふに、此(こ)の侍(さむらひ)ききとがめて、

「しらず。

執事果(はた)して此(こ)の事(こと)ありや」

次郎左衛門いふ、

「某(それがし)は世(よ)の中(なか)に住(す)み果(は)つべくも覚えねば、憚(はばか)る所(ところ)なく物語(ものがた)るなり。

某(それがし)幼年(えうねん)より約諾(やくだく)せし妻女(さいじよ)、いまだ婚(こん)をなさざるうち、執事(しつじ)の妾(めしつかひ)となりしゆゑ、其(そ)の事(こと)より起(おこ)りて、かく浪々(らうらう)の身(み)とはなりぬ。

執事(しつじ)の美女(びぢよ)をあつらめるるより、われらが縁も奪(うば)はれたり」

此(こ)の侍(さむらひ)ききて、

「其(そ)の女子(ぢよし)の出所(しゆっしよ)は何国(いづく)ぞ。

やつがれ年(とし)ごろ執事(しつじ)の家(いへ)に出入(しゆつにふ)して、多(おほ)く執事(しつじ)の内事(ないじ)をうけ給はる。

多(おほ)くの召(めし)つかひ、皆(みな)よく見知(みし)りたり。

足下(そこ)の申さるる女子(ぢよし)あるやなしや、たづね参(まゐ)らすべし」

といふ。

次郎左衛門実(じつ)に女(をんな)が出所(しゆつしよ)をつげ、

「貴君此(きくんこ)の消息(おとづれ)をきかせ給はば、我死(われし)すとも快(こころよ)く目(め)を閉(と)づべし」

此(こ)の侍(さむらひ)次郎左衛門が始終(じじゆう)の

不遇(ふぐう・かたのわるい)をあはれがりて、

「明日此(めいじつこ)の時刻(じこく)には、また此(こ)の辺(ほとり)へまうで来(く)れば、其(そ)の時(とき)こそ、いかにも女がおとづれをきかせ申さん」

と、たがひに別(わかれ)をなして去(さ)りぬ。

次郎左衛門おもひまはせば、此(こ)の侍(さむらひ)かならず執事(しつじ)の家人(けにん)なるべし。

我執事(われしつじ)をうらむるのことば、もし執事(しつじ)の聴(きき)にたつせば、怒(いかり)を犯(をか)さん事、〓(くびす)をめぐらさず。

禍(わざはい)の来らんこと立所(たちどころ)にまつべしと、或(あるい)は悔(くや)み或(あるい)は恐(おそ)れ、心(こころ)のうち好生安(はなはだ・やす)からず、一夜眠(いちや・ねむ)りて眼(め)あはず。

明(あけ)の日心(ひ・こころ)ならず執事(しつじ)の館近辺(やかたきんぺん)に行(ゆ)きて、其(そ)の動静(どうじやう)をうかがひ見るに、門前市(もんぜんいち)をなす。

〓候(しこう)の人のかたりあふを聴(き)けば、

「執事今日(しつじ・こんにち)すこしの労(いたはり)ありて、評定所(ひやうぢやうしよ)に出(い)で給はず」

其(そ)の音問(いんもん)として、諸家(しよか)よりの使者(ししや)、門(もん)にむらがり、一日(いちじつ)の不豫(ふよ)すら、是(これ)をさしおかず、出(い)で入る諸(しよ)士星(しほし)のごとく数(かず)しらぬ中(なか)にも、きのふの侍(さむらひ)とおぼしきものなし。

しばらく徘徊(はいくわい)して、執事(しつじ)の繁華(はんくわ)をうらやみ、宿(やど)にかへり午飯(ごはん)を食(しよく)し、きのふの時刻(じこく)にいたれども、人影(ひとかげ)も見えず。

扨(さて)はかの侍(さむらひ)好顔(よきかお)の応対(おうたい)して、仮(かり)に請(うけが)ひたるならんと、嗟嘆(さたん)する内、燈(ともしび)点(てん)じ想(おも)ひ寝(ね)の枕(まくら)とらんとする時、両人(りやうにん)の武士(ぶし)ありて、さはやかに出でたちたるが、供人(ともびと)引(ひ)き具(ぐ)して此(こ)の所(ところ)に来(きた)り、外面(そとも)より、

「額田(ぬかた)次郎左衛門やおはする。

執事(しつじ)の召(め)され候也。

疾々(とくとく)倶(ぐ)して罷りならん」

といふ。

昨日(きのふ)の侍(さむらひ)にこそと、透間(すきま)よりのぞみ見れば、夫(それ)にはあらで、紛(まぎれ)もなき高家(かうけ)の侍(さむらひ)、しかも末々(すゑずゑ)の人柄(ひとがら)ならず。

さればこそ、禍(わざはい)はやく起(おこ)りたりと、間所(まどころ)なき奥(おく)に逃(に)げこもりて出(い)でぬを、宿(やど)の主(あるじ)は、執事(しつじ)の召(め)すといふに驚(おどろ)き、強(し)ひて額田(ぬかた)を押(お)し出(い)だし、

「此(こ)の人(ひと)なり」

といふに、次郎左衛門いふやう、

「それがしいまだ執事(しつじ)に相見(しやうけん)せず。

殊(こと)に此(こ)の襤褸(らんろう)の便服(べんふく)をつけて、いかで執事(しつじ)の御前(ごぜん)に出(い)づべき」

両士(りやうし)聞(き)きあへず、

「執事(しつじ)の厳命(げんめい)、一刻(いつこく)の遅参(ちさん)こそ無礼(ぶれい)なれ」

と、両人(りやうにん)して額田(ぬかた)が手(て)を執(と)つて、飛(と)ぶが如(ごと)くにいそぎて、今出川(いまでがは)の館(たち)に至(いた)り、

「ここにまたれよ」

と、額田(ぬかた)を大玄関(おほげんくわん)にすゑおきて、両士(りやうし)は台盤所(だいばんどころ)より、内堂(ないどう)に入りぬ。

程(ほど)なく出(い)で来(きた)つて、

「執事(しつじ)今日(こんにち)館(やかた)に在(あ)って、〓(なんじ)をまち給ふ」

と、両士(りやうし)案内(あんない)して、白砂(しらす)をめぐり、塀重門(へいぢゆもん)とり入って、奥庭(おくには)に行(ゆ)く。

其(そ)の間燈篭(あひだとうろう)ありて、道(みち)を照(て)らし、めづりめづりて一町(いちちやう)ばかり、次郎左衛門戦々〓々(せんせんくく)として、小書院(こじよゐん)ともいふべき所(ところ)にいたりしに、銀燭(ぎんしよく)の光(ひかり)煌々(くわうくわう)ろして、執事(しつじ)袴(はかま)ばかりにて、端(はし)ちかく座してあり。

後(うしろ)に一人の少人(せうじん)、太刀(たち)の役(やく)に候(こう)ず。

近習(きんじう)の士(さむらひ)七八人左右(さゆう)に居(ゐ)流(なが)れ、天下(てんか)の柄(へい)をとる骨柄(こつがら)一目(ひとめ)に著(いちじる)く、次郎左衛門魂(たましひ)天外(てんづわい)に飛(と)び、地に平伏(へいふく)して仰(あふ)ぎ見ることあたはず、流(なが)るる汗(あせ)背(せ)を浸(ひた)す。

執事(しつじ)左右(さいう)に命(めい)じて、次郎左衛門に座(ざ)を賜(たま)うて、見向(みむき)通(どほ)りにすすましむ。

此(こ)の時(とき)額田(ぬかた)額(ひたひ)を挙(あ)げて、〓目(しのびめ)に執事(しつじ)をみれば、髪のかかり優美(いうび)なれ共、見まがひもなく昨日(きのふ)の侍(さむらひ)なり。

ここにおいていよいよ驚懼(きやうく・おどろきおそれ)して両捍(ふたにぎり)の汗をなし、是(これ)元来(づわんらい)執事(しつじ)常(つね)に閑(かん)なる時(とき)は、すがたをやつし街上(がいじやう・ちまた)に出(い)でて、世(よ)の謡説(えうせつ・とりざた)を捜(さぐ)り聞(き)く。

昨日(きのふ)次郎左衛門に逢(あ)うてより、舘(たち)にかへり、勝子(かつこ)を呼(よ)び出(だ)して相見(しやうけん・たいめん)するに、果然(くわぜん・はたして)として十分(じふぶん)の顔色(がんしよく)あり、執事(しつじ)かれに問(と)うて、

「〓(なんぢ)が夫(をつと)ここ〓にあり、一見(いっけん)を願(ねが)ふか」

と問(と)はれけるに、勝子(かつこ)涙(なみだ)をながして、

「隔(へだた)りてより夜(よ)と日(ひ)とわすれず。

しかれども、今(いま)舘(やかた)にある我(わ)が身(み)、対面(たいめん)すること君(きみ)のゆるしなくて、賎(しづ)が心(こころ)にまかせんや」

執事(しつじ)其(そ)の言(こと)の正(ただ)しきにかんじ、司庫(しこ・なんどやく)の家人(けにん)に命(めい)じて、婚儀料(こんぎれう)千貫(せんぐわん)をそなへさせ、又(また)直義(ただよし)の分地(ぶんち)、備前国(びせんのくに)への下(くだ)し文(ぶみ)を調(ととの)へ、兼(かね)て事(こと)備(そな)はりて、今(いま)ここに額田(ぬかた)は執事(しつじ)の美意(びい・よきこころ)を知(し)らず、只あわてて胸(むね)安(やす)からず。

執事ことば穏(おだやか)にして、

「〓(なんぢ)が昨日(きのふ)のものがたりを聞(き)きしより、惻然(そくぜん・ものがなしく)としていたましく、食(しよく)もくだり兼(か)ねたり。

〓(なんぢ)に久曠(きうくわう・さびしきくらし)の歎(たん・なげき)あらしめたるは、偏(ひとへ)に我(わ)が罪(つみ)なり」

次郎左衛門はるかにすさつて、

「鄙人困窮(ひじんこんきゆう)して智(ち)短(みじか)く、心神顛倒(しんじんてんだう・こころざまさだまらず)、昨日(さくじつ)の無礼言語(ぶれいごんご)に絶(ぜつ)す。

願(ねが)はくは、執事(しつじ)の海量(かいりやう・きのひろい)、これを許(ゆる)すことを容(い)れ給へ」

執事(しつじ)いふ、

「今日吉日(こんにちきちにち)なり。

それがし媒人(ばいにん・なかうど)をなし、足下(そこ)の婚(こん)を完(まつた)うすべし。

行費(かうひ・ろぎん)の資千貫(たすけせんぐわん)、備州(びしう)への下(くだ)し文(ぶみ)、ここにあり。

婚儀(こんぎ)成(な)つて後(のち)、〓飛(うひ・めうとづれ)して任(にん)に趣(おもむ)くべし」

額田(ぬかた)ただひたすら頭(かしら)を地(ち)につけて拝(はい)す。

忽(たちま)ち多(おほ)くの使女(しぢよ)にかしづかれ出(い)づる勝子(かつこ)が容貌(ようぼう・すがたかたち)、額田(ぬかた)もいかなるものにやと猶予(いうよ)する時(とき)、執事(しつじ)自(みづか)ら酌(しやく)を把(と)り、土器(どき・かはらけ)をそなへて、婚儀(こんぎ)を調(ととの)へらる。

障子(しやうじ)のあなたに寿(ことぶき)の謡物(うたひもの)、数人(すにん)の声(こゑ)にひびきわたる。

額田夫婦(ぬかたふうふ)肺(はい)肝(かん)に銘(めい)じて、執事(しつじ)の恩情(おんじやう)を謝(しや)す。

執事(しつじ)いふ、

「我(われ)いやしくも天下(てんか)の政務(せいむ)にあづかる身(み)なれば、此(こ)の後故(のちゆゑ)なくして対面(たいめん)なりがたし。

早(はや)く夫婦(ふうふ)とも西国(さいこく)に下(くだ)りて、時(とき)をまつべし。

物〓(ぶつさう)の折(おり)からなれば、道(みち)の程(ほど)は大内筑前守(おほちちくぜんのかみ)の下向(げかう)に同伴(どうはん)して下(くだ)るべし」

と、二人を乗物(のりもの)にて、宿所(しゆくしよ)へ送(おく)りかへさしむ。

次郎左衛門宿(やど)にかへり見れば、やど(やど)の門前(もんぜん)に賀使(がし  しうぎのつかひ)の袖(そで)をつらね、執事(しつじ)の媒(なかだち)ありし婚姻(こんいん)なることかくれなく、諸家(しよか)より送(おく)り来(きた)る絹布財宝(けんぷざいほう)、宿(やど)の庭(には)に充満(みちみち)たり。

程(なく)執事(しつじ)より送贈(おく)りきたる長櫃(ながひつ)に、千貫の助資(じよし)を盛(も)り、備前(びぜん)への下(くだ)し文(ぶみ)、一個(いつこ)の文匣(ぶんかふ)にしたため入れたり。

額田(ぬかた)面目(めんぼく)身(み)にあまり、悦(よろこび)重畳(ちようでふ)する折(おり)から、大内(おほち)筑前守(ちくぜんのかみ)より家(いへ)の子(こ)をつかはして、

「執事(しつじ)のねんごろに御頼(おんたのみ)ありし程(ほど)に、明朝(てう)御共(おんとも)申すべきあひだ、御心置なく早々わたらせ給へ」

と言(い)ひおくる。

此(こ)の良期(りやうき)・(よきをりから)をあやまるべからずと、夫婦(ふうふ)とも大内(おほち)に同伴(どうばん)して備前に下りぬ。

ここにても執事(しつじ)の縁者とて、人の心よせ重(おも)く、後直義(ただよし)と将軍(しやうぐん)と合体(がつたい)の時(とき)を得(え)て、尚も眉目(びもく)を開(ひら)き、むかしにまさりて昌えけり。