十一  春雨(はるさめ)厚澤野(あつざはの)に山客(やまだち)と戦(たゝか)ふ

さても梅稚丸(うめわかまる)は。粟津(あはづの)六郎に扶掖(たすけひか)れ。美濃路(みのぢ)を投(さし)て走(はし)り給ひしが。途(みち)にて

母公(はゝきみ)兄君(あにぎみ)にゆきあひまゐらせんとて。或(ある)は急(すみやか)に走(はし)り。或(ある)は緩(ゆるやか)に走(はし)り。こゝかしこ

に逗留(とうりう)し給ひし程(ほど)に。弥生(やよひ)の上旬(はじめ)に至(いたつ)て。やうやく武蔵國(むさしのくに)まで来(き)給ひけり。

ある日(ひ)の〓(日+(亠+↓黒)昏(ゆふぐれ)に。戸田川(とだがは)といふ大河(たいが)を打(うち)わたり。曠野(あらの)のすゑなれる古墳(ふるつか)の辺(ほとり)

を過(よぎ)りたまふに。墳(つか)の蔭(かげ)に一ツの狐(きつね)ありて。人の如(ごと)く坐(ざ)し。物(もの)の本(ほん)を讀(よみ)居(ゐ)たり。

粟津(あはづの)六郎これをみて。こは怪有(けう)なる奴(やつ)かな。いでや走(はし)らして路(みち)の疲労(つかれ)を慰(なぐさ)めまゐらせんといひもあへず。石(いし)をかい拾(ひら)ひてはら/\と打(うち)かくれは。狐(きつね)はいたく

おどろき〓(耳+條)(あはて)て迹(あと)なく逃亡(にげうせ)。跡(あと)には彼(かの)冊子(さうし)のみ残(のこ)りける。六郎これを取(とつ)て。

みるに。夥(あまた)人(ひと)の名(な)を写(うつ)し。朱(しゆ)をもて点(てん)を引(ひい)たるもあれば。いよゝ怪(あやし)み。やがて

梅稚(うめわか)にみせまゐらするに梅稚(うめわか)も又そのこゝろを曉(さとり)給はず。後(のち)のかたり種(ぐさ)

ともなるべきもの也とて。これを懐(ふところ)に挟(おさ)め。この夜(よ)は平尾(ひらを)の郷稍盡処(さとはづれ)なる

家(いへ)に宿(やど)りを徴(もとめ)給ふに。主人(あるじ)の男(をとこ)はやく粟津(あはづの)六郎をみて。こは勝久(かつひさ)にあら

ずや。よくも来給ひたる。まづ裡(うち)に入(い)らせ給へといひつゝ。さし出(いだ)す燈(ともしび)にて。六郎其

人(そのひと)をみるに。山田(やまだの)三郎光政(みつまさ)なれば。且(かつ)驚(おどろ)き且(かつ)歓(よろこ)び。門方(かどべ)に立在(たゝずみ)給へる。梅稚丸(うめわかまる)にも

しか”/\のよしを聞(きこ)えまいらする間(はし)に。鳰崎(にほざき)も走(はし)り出(いて)。やがて主従(しゆうじう)二人(ふたり)を奥(おく)まりたる

坐敷(ざしき)に請(しよう)じまゐらせけり。そのとき粟津(あはづの)六郎は。山田(やまだの)三郎を近(ちか)く招(まねき)てはから

ずも對面(たいめん)を歓(よろこ)び聞(きこ)え。さて惟房(これふさ)朝臣(あそん)滅亡(めつぼう)の事を物(もの)がたり。又倶(ぐ)しまゐらせ

たる稚君(わかぎみ)は。梅稚丸(うめわかまる)にて坐(おは)する事。斑女御前(はんによごぜん)松稚丸(まつわかまる)の事。奥州(おうしう)下向(げこう)のこと

など。首尾(はじめをはり)を密語(さゝやく)にぞ。光政(みつまさ)は思ひしより。梅稚(うめわか)のおとなび給へるを見奉(みたてまつ)る

にも。深(ふか)く君家(くんか)の滅亡(めつぼう)をうち歎(なげ)けば。鳰崎(にほさき)も蒸襖(むしふすま)のこなたにて。縁由(ことのよし)をもれ

聞(きゝ)。女児(むすめ)玉柳(たまやぎ)を呼(よび)て。光政(みつまさ)が後方(あとべ)に居(ゐ)ならび。夫婦(ふうふ)もろともに申すやう。身(み)の

過(あやまち)を今さらに。申さんも面(おも)ぶせなれど。それがし等(ら)弱(わか)かりしとき。色(いろ)に耽(ふけ)りし越

度(をちど)によつて。既(すで)に罪(つみ)せらるべきを。斑女御前(はんによごぜん)のいとをしみ深(ふか)く。母(はゝ)春雨(はるさめ)が誠

梅稚(うめわか)

粟津(あはづの)六郎

を将(い)て

東(あづま)へ下(くだり)

給ふときあやしき

物(もの)の本(ほん)を拾(ひらひ)

給ふ

忠(せいぢう)を思(おぼ)し召出(めしいだ)されて。助(たすけ)がたきを脱(のが)さし給へば。ゆく末(すゑ)遠(とほ)き東路(あづまぢ)の羽生(はにふ)の小屋(こや)に

住居(すまひ)して。里(さと)の壮佼(わかうど)に劍法(けんじゆつ)を教(をしへ)などするを生活(なりわひ)とし。はやくもこゝに十(と)とせ

あまり五年(いつとせ)の春(はる)をむかへたり。又是(これ)なる未通女(おとめ)は。むかし鳰崎(にほさき)が。御館(みたち)にありしとき

懐胎(みごもり)たるひとり子(こ)にて。名(な)を玉柳(たまやぎ)と呼(よ)びては。さればかく親(おや)と子(こ)が。こゝに存命

果(ながらへはて)ん事。みなこれ君(きみ)の恩澤(おんたく)なれば。君家(くんか)の事老母(ろうぼ)の事。日として忘(わす)るゝ隙(ひま)もなく。帰参(きさん)の願(ねが)ひ切(せち)なれど。罪(つみ)を贖(あがな)ふ功(こう)もなく。みづからこの身(み)を恨(うらむ)るのみ。

しかるに今度(こんど)不慮(ふりよ)の事出来(いでき)て。殿(との)には誅(ちう)せられ。兄弟(はらから)の稚君(わかぎみ)はさらなり。斑女

御前(はんによごぜん)の御(おん)ゆくへを駆索(かけもとむ)ることおぼうけならず。此(この)わたりもいと厳重(げんぢう)なれば。頻(しきり)に

心苦(こゝろぐる)しくて。もし洛(みやこ)にあるべくは。命(いのち)にかはり進(まゐ)らせて。舊恩(きうおん)を報(むく)ひたてまつらん

と思ふのみにてせんすべをしらず。索奉(たづねたてまつ)らんにも御往方(おんゆくへ)定(さだ)かならねば。ます/\

思ひくしたる折(をり)しも。はからずして梅稚丸(うめわかまる)。わが家(いへ)に立(たち)よらせ給ふ事。いまだ君

臣(くんしん)の縁(えん)竭(つき)ず。時(とき)に稱(かなへ)る面目(めんもく)なり只(たゞ)願(ねがは)くは身(み)の罪(つみ)を宥免(ゆうめん)あつて。奥州(おうしう)下向(げこう)

の御供(おんとも)に召加(めしくは)へ給へかし。しからば且(しばら)くこゝに逗留(とうりう)なし進(まゐ)らせ。しのび/\に斑女御

前(はんによごぜん)松稚丸(まつわかまる)に索(たづね)あひ。御母子(ごぼし)の再會(さいくわい)を計(はかり)給べしとて。夫婦(ふうふ)かはる/\かき口説(くどき)

て。数行(すこう)の落涙(らくるい)に及(およ)びけり。梅稚丸(うめわかまる)は彼等(かれら)が信々(まめ/\)しき志(こゝろざし)を感(かん)じおぼし。きのふ

にけふは事かえて。立(たち)よるべき蔭(かげ)もあらねば。汝(なんぢ)夫婦(ふうふ)をたのみ思ふところ也。

抑(そも/\)叡山(えいざん)を出(いで)しより。母(はゝ)と兄(あに)とのゆくへをしらず。もし〓(手+南)(とらは)れ給はずやとおもひ

やる。わが心うさを察(さつ)せよと宣(のたま)へば。光政(みつまさ)等(ら)いと理(ことわり)におぼえさま”/\慰(なぐさ)めまゐ

らせけり。かくて鳰崎(にほざき)は。女児(むすめ)玉柳(たまやぎ)とゝもに庖幅(くりや)に到(いた)り。夕粲(ゆふげ)もて出(いで)て餐

應(もてなし)たてまつれば。粟津(あはづの)六郎は。盛景(もりかげ)父子(おやこ)。松井源五(まつゐのげんご)が奸悪(かんあく)。又(また)惟房(これふさ)朝臣(あそん)の書

遺(かきのこし)給へる顛末(はじめをはり)を。あるじ夫婦(ふうふ)に説(とき)しらすれば。光政(みつまさ)も鳰崎(にほさき)も。或(ある)は怒(いか)り或(ある)

はうち歎(なげ)きぬ。さて夕餐(ゆふげ)も果(はて)しかば。光政(みつまさ)が申すやう。それがし劍法(けんじゆつ)を教(をしゆ)るを

生活(なりわひ)といたすなれば。日に/\里(さと)の壮佼(わかうど)などの詣来(まうく)る事〓(艸+繁)(しげ)し。しかるを母屋(おもや)

におきまゐらせんは。憚(はゞかり)なきにあらず。彼首(かしこ)の庭(には)を隔(へだて)て。背門(せど)にさゝやかなる坐敷(ざしき)

あり。この処(ところ)世(よ)を潜(しのび)給ふる便(たより)よし。又それがしは明日(みようにち)より病(やまひ)ありと偽(いつは)りて稽古(けいこ)を

とゞめ。夜毎(よごと)に六郎とかはる/\。斑女御前(はんによごぜん)松稚丸(まつわかまる)を索(たづ)ねるべし。もしこの路(みち)に来(き)るたま

はんには。逢奉(あひたてまつ)らざる事あるべからずと申すにぞ。梅稚丸(うめわかまる)も粟津(あはづの)六郎も。こは

しかるべしとうけ引(ひき)て。この夜(よ)より彼(かの)別室(はなれや)にうつり住(す)み。斑女(はんによ)松稚(まつわか)を待(まち)あはして

もろともに陸奥(みちのく)へ。下(くだ)るべしと議(ぎ)し給ふ。さる程(ほど)に朝夕(あさゆふ)の食事(しよくじ)何くれとなく

鳰崎(にほざき)玉柳(たまやぎ)のみ持運(もちはこび)して。物(もの)乏(とぼ)しからす餐應(もてなし)まゐらするに。玉柳(たまやぎ)はその年才(とし)。

梅稚(うめわか)に一つ劣(おとり)て。三五の春(はる)にはあれど。彼(かの)君(きみ)よりなほおとなび。鶯(うぐひす)の子(こ)とゝもに。かゝ

る田舎(ゐなか)の藪蔭(やぶかげ)には生育(おひたて)ども。訛(だみ)たる声音(こはね)。ふつゝかなる挙止(ふるまひ)もなく。容止(かほばせ)も

又艶妖(あてやか)なるに。春風(しゆんふう)時(とき)来(き)たつては。南枝(なんし)花(はな)開(ひら)くことはやく。梅稚丸(うめわかまる)のらうたけ

て。女子(をなご)にも勝(まさ)れる。姿(すがた)匂(にほ)やかなるに生(なま)こゝろつきて。たのむの雁(かり)の翅(つばさ)に言(こと)の葉(は)

をかよはし。忍(しのぶ)が岡(おか)のしのび/\に。ことづてやらん水(みづ)くさの媒(なかだち)もがなとて。頻(しきり)に思ひ

くしながら。さすがにいひよる折(をり)もなくて。只(たゞ)徒(いたづら)に心(むね)を焦(こが)しけり。父(ちゝ)の歎(なげ)きは異(こと)にし

て。昼(ひる)は鳰崎(にほざき)を漫行(そゞろあるき)させ。夜(よ)はみづから彼此(をちこち)を徘徊(はいくわい)して。斑女(はんによ)松稚(まつわか)にゆきあひ

まゐらせんといたせども。たえて音(おと)づれだに聞(きく)ことなければ。もし走(はし)り過(すぎ)やし給ひ

けん。又擒(とらは)れやし給ふ。と思ふに安(やす)き心(こゝろ)もあらず。このとき斑女前(はんによのまへ)は。春雨(はるさめ)に介抱(かいほう)

せられ。果(はて)しなき東路(あづまぢ)の岐岨(きそ)に消(きえ)やらぬ雪(ゆき)を寒(さむ)み。山河(やまがは)の音(おと)かしましき。旅(たび)の

宿(やど)りの寝覚(ねざめ)/\に。亡夫(なきつま)のこしかた。愛子(まなご)の行(ゆく)すゑを思ひつゞけ。涙(なみだ)にいとゞ朽(くち)ま

さる。袖(そで)は人目(ひとめ)を裏(つゝむ)にかひなく。わが子(こ)は後(あと)か先(さき)かとて。こゝの山本(やまもと)彼処(かしこ)の樹蔭(こかげ)

に立在(たゞずみ)給へは。思ひのほか日数(ひかず)程(ほど)ふりて。弥生(やよひ)中(なか)の四日(よか)といふに。武蔵國(むさしのくに)戸田川(とだがは)の

南(みなみ)なる厚沢野辺(あつざはのべ)を過(よぎ)り給へば。日も既(すで)に暮(くれ)て。人迹(じんせき)稀(まれ)なる松原(まつばら)に。野臥(のぶし)

十人ばかり。野火(のび)焚(たい)て團坐(まとゐ)したるが。彼(かの)主従(しゆうじう)をみて私語(さゝやき)あひ。忽地(たちまち)はら/\と

走(はしり)出て遮(さへぎ)り留(とゞめ)。斑女前(はんによのまへ)の笠(かさ)の内(うち)を。會釈(ゑしやく)もなくさし覗(のぞ)き。こは艶麗(あてやか)なる

女子(をなご)かな。としこそ少(すこ)し長(ふけ)まされ。賣(う)らばなほよき價(あたひ)得(え)るべし。誘(いざ)給へとて左右(さゆう)

より。わりなくその手(て)をとらんとするを。春雨(はるさめ)押隔(おしへだて)て寄(よ)せもつけず。こは狼藉(らうぜき)

なり。女子(をなご)と思ひ侮(あなど)りて。後悔(こうくわい)せそといきまけば。野臥(のぶし)ども〓(単+辰)然(から/\)とうち笑(わら)ひ。

この老女(おうな)頭(かしら)は冬(ふゆ)がれの尾花(をばな)を〓(糸+丸)(たばね)。腰(こし)は案山子(かゝし)の弓(ゆみ)を張(は)らず。口(くち)は猛(たけ)くもほざい

たり。者奴(しやつ)頤(おとがひ)引裂(ひきさき)て。息(いき)の根(ね)とめよと罵(のゝしり)て。むら/\と走(はし)り懸(かゝ)るを。春雨(はるさめ)

刀(かたな)を閃(ひら)りと抜(ぬき)て。前(さき)にすゝみし荒男(あらをとこ)の。諸膝(もろひざ)薙(なぎ)て切(きり)たふせば。こは思ひの

外(ほか)手剛(てごわ)き奴(やつ)かな。われ打(うち)たふせんとどよめくを。春雨(はるさめ)は物(もの)ともせず。右(みぎ)に〓(手+主)(さゝへ)

左(ひだり)に支(さゝへ)。命(いのち)を限(かぎ)りに戦(たゝか)ひけり。梟雄(きようゆう)不敵(ふてき)の野臥等(のぶしら)も。輒(たやす)く捷(かち)を取(とり)

がたくて。二三人引わかれ。手毎(てごと)に野火(のび)の焚(たき)さしを投(なげ)かくれば。その火(ひ)芝生(しばふ)に

飛散(とびち)りて。夜風(よかぜ)のまに/\發(はつ)と燃(もえ)たち。頻(しきり)に此方(こなた)に吹(ふき)つくれば。春雨(はるさめ)今(いま)は

防難(ふせぎかね)。斑女前(はんによのまへ)も裳(もすを)を焼(やか)れて。足(あし)の踏(ふむ)べき処(ところ)もなく。只顧(ひたすら)鞅掌(あはて)給ひし

が。佶(きつ)と心(こゝろ)づく事ありて。遽(いそがは)しく懐(ふところ)より松梅(まつうめ)の鏡(かゞみ)をとり出(いだ)し。野火(のび)に向(むかつ)

て擲(なげうち)給へば。時(とき)しもあれ岩間(いわま)の石滴(しみづ)。決然(けつぜん)として濆(ほとはし)り。やがてその火(ひ)を

滅(けし)とめたり。夫(それ)鏡(かゞみ)はこれを月(づき)に象8かたど)る。月はこれ大陰(たいいん)の精(せい)なり。今(いま)明鏡(めいきやう)

の徳(とく)をもて。暫時(さんじ)に猛火(みやうくわ)を防(ふせ)ぐこと。實(じつ)に奇(き)也といひつべし。春雨(はるさめ)は

これに力(ちから)を得(え)て。矢庭(やには)に二三人を切(きり)たふすといへども。その身(み)も又夥(あまた)深手(ふかで)

を負(お)ひ。勢(いきほひ)竭(つき)て轉輾(ふしまろば)は。一人の野臥(のぶし)。その刀(かたな)を奪(うばひ)とつて。胸(むな)さか刺(さゝ)んと

する処(ところ)に。誰(たれ)とはしらず松(まつ)の樹蔭(こかぎ)より打出(うちいだ)す手裏劍(しゆりけん)に。彼(かの)賊(ぞく)鳩尾

骨(むなぼね)を打(うち)ぬかれて。仰(のけ)さまに斃(たふ)れたり。悪徒等(あくとら)これに舌(した)を掉(ふる)ひ。駭然(がいぜん)と

してすゝみ得(え)ず。時(とき)に一人の武士(ぶし)。刀(かたな)を引提(ひつさげ)て樹間(このま)より跳おど)り出(いで)。

盗賊(とうぞく)

春雨(はるさめ)野伏(のぶし)と

血戦(けつせん)するとき

明鏡(めいきやう)野火(のび)を

消(け)して斑女(はんによ)を

すくひ光政(みつまさ)

衆賊(しゆぞく)を殺(ころ)

して

老母(ろうぼ)を勦(いたは)る

迯(にぐ)ることなかれと呼(よば)はりて。忽地(たちまち)三人に手(て)を負(おは)し。一人を切(きつ)て両〓(ふたきだ)となす

その刀尖(きつさき)電光(いなつま)のごとく閃(ひらめ)きて。更(さら)に當(あたる)べうもあらねど。残(のこ)る野臥(のぶし)ども。迯(にぐ)

とも逃(のが)さじと思ひたえて。已(やむ)ことを得(え)ず打(うつ)てかゝるを。彼(かの)武士(ぶし)は。只(たゞ)鎌(かま)もて

草(くさ)を苅(かる)がごとく。或(ある)ひは切伏(きりふ)せ或(あるひ)は薙仆(なぎたふ)し。一人も残(のこ)さず討(うち)とめたり。この

人はこれ別人(べちじん)にあらず。山田(やまだの)三郎光政(みつまさ)なり。件(くだん)の光政(みつまさ)慌(あはたゝ)しく刀(かたな)の血(のり)を拭(ぬぐ)ひ

おさめて。春雨(はるさめ)を抱起(いだきおこ)し。やよ母御(はゝご)。母御(はゝご)喃(なう)。三郎にていぞ。疵(きず)はいと浅(あさ)し。いか

に心はつき給ひたるかと呼(よ)び活(いく)れば。春雨(はるさめ)活(くわつ)と眼(め)をひらき。狼狽(うらたおへ)たりや

光政(みつまさ)。斑女御前(はんによごぜん)彼処(かしこ)に坐(いま)せり。とく勦(いたは)りてまゐらせて。身(み)の罪(つみ)を贖(あがな)はんとは思(おも)

はず。死(しに)なん/\とするこの母(はゝ)を勦(いたは)りて何にかする。年(とし)は闌(たけ)ても愚(おろか)さは。昔(むかし)

にかはらざりけりと。わが子(こ)を励(はげま)す怒(いかり)の声(こゑ)に。痍口(きずくち)よりさつと流(なが)るゝ。鮮血(ちしほ)

は泉(いづみ)に異(こと)ならず。斑女前(はんによのまへ)は思ひもかけず山田(やまだの)三郎か来(き)たるをみそなは

して。歓(よろこ)び給ふ事斜(なゝめ)ならず。めつらしや光政(みつまさ)汝(なんぢ)不思議(ふしぎ)に主(しゆう)を救(すく)ひ。母(はゝ)の仇(あた)。

その処(ところ)を去(さ)らずして討(うち)とる事。前(さき)の罪(つみ)を贖(あがな)ふに足(た)れり。われ少将(しよう/\)にかは

りまゐらせて。今(いま)ぞ汝(なんぢ)を免(ゆる)すなる。まづわが事は心とらせず。春雨(はるさめ)を勦(いたは)りて

よ。やよ春雨(はるさめ)。心持(こゝち)はいかにと問(とひ)給へば。春雨(はるさめ)は只(たゞ)掌(たなぞこ)をうちあはしつゝ。不覚(すゞろ)に

落涙(らくるい)し。わが子(こ)御免(みゆるし)を蒙(かうふ)りて。こゝより傳(かしづ)きまいらんには。春雨(はるさめ)が生(いき)てあるに

勝(まさ)るべし。とく光政(みつまさ)を召倶(めしぐ)せられ。彼(かれ)が家(いへ)に赴(おもむ)き給へ。光政(みつまさ)何とて躊躇(ためらふ)ぞ。誘

引(いざなひ)まゐらせよといそがせば。山田(やまだの)三郎は。絶(たえ)て久(ひさ)しき斑女前(はんによのまへ)に。見(まみ)え奉(たてまつ)るうれし

さと。母(はゝ)の深手(ふかで)の悲(かな)しさに。瞼(まぶた)をかき拭(ぬく)ひつゝ申すやう。それがし等(ら)この年来(としごろ)

こゝより程近(ほどちか)き平尾(ひらを)の郷(さと)に住居(すまゐ)て。親子(おやこ)三人(みたり)僅(はづか)に口(くち)を餬(もらふ)のみ。しかるに

いぬる日梅稚丸(うめわかまる)。粟津(あはづの)六郎を将(い)て入(い)らせ給へば。あまりに忝(かたじけな)くて。ふかく

しのばし。なほ斑女御前(はんによごぜん)松稚丸(まつわかまる)に逢奉(あひたてまつ)らん為(ため)に夜毎(よごと)に彼此(をちこち)を徘徊(はいくわい)しつるかひ

ありて。一ツの望(のぞみ)は遂(とげ)ながら。来(く)ることの遅(おそ)からずは。母(はゝ)をいかでか撃(うた)すべき。思へば

遺憾(のこりおほ)けれと。只顧(ひたすら)に悔歎(くひなげ)き。又母(はゝ)の耳(みゝ)に口(くち)を寄(よ)せて。誘(いざ)わが肩(かた)にかゝり給へ。

家(いへ)に伴(ともな)ひまゐらせんといはせもあへず。春雨(はるさめ)忽地(たちまち)頭(かうべ)を擡(もたげ)。やをれ光政(みつまさ)。家(いへ)まで

生(いき)てゆくべしとも。おぼえぬ母(はゝ)を伴(ともなは)んとき。主君(しゆくん)を等閑(なほざり)にいたしなば。重(おも)に科(とが)

を免(ゆる)されたるかひあらんや。嚮(さき)に梅稚君(うめわかぎみ)。汝(なんぢ)が家(いへ)に入(い)らせ給ひぬるとか。しからば

只(たゞ)心もとなきは。松稚君(まつわかきみ)の御ゆくへなり。汝(なんぢ)夫婦(ふうふ)心を竭(つく)して索(たづね)あひまいらせ

斑女御前(はんによごぜん)の御心(みこゝろ)をやすめよ。いふべきは是(これ)のみないR。いでわが手療治(てりやうぢ)するを見(み)

よといひもをはらず。刀(かたな)を咽喉(のんど)に突立(つきたて)つゝ。うつぶしになりて死(しに)にけり。山田(やまだの)三郎は。哀傷(あひじやう)やるかたなけれども。母(はゝ)の遺言(ゆいげん)に勵(はげま)Sれ。歯(は)を切(くひしば)りて寄(よ)りもそはず。

斑女前(はんによのまへ)も稚(おさな)きより。かき抱(いだか)れしこの身(み)なれば。母(はゝ)とも思ひつるものを。定(さだめ)

なき世(よ)のたゞずまひに。武蔵(むさし)の果(はて)なる路傍(みちのべ)の草葉(くさば)の露(つゆ)と消(きえ)ぬる

が。いと惜(をし)しとて泣(なき)給ふ。されば外(よそ)にも無常(むじやう)を告(つぐ)る。遠(とほ)き寺々(てら/\)の鐘(かね)の数(かず)。かゞ

なへみれは子(ね)の刻(こく)なり。かくて山田(やまだの)三郎は。母(はゝ)の屍(しがい)をしばしも置(おか)ば。悪獣(あくじう)に傷(やぶ)

られんことを愁(うれ)ひ。なく/\滅残(きえのこ)る野火(のび)をかき集(あつめ)て。一片(いつへん)の烟(けふり)となし。斑女前(はんによのまへ)

もろともに。念佛(ねんぶつ)数遍(すへん)唱(となへ)つゝ。家路(いへぢ)に誘引奉(いざなひたてまつ)れば。斑女前(はんによのまへ)は彼(かの)鏡(かゞみ)を拾(ひら)ひ

とつて。光政(みつまさ)をみかへり。汝(なんぢ)もしれる二面(にめん)の鏡(かゞみ)は。いぬる年(とし)。兄弟(はらから)の子(こ)どもに

わかちとらせよと。古殿(ことの)の仰(おふ)せしかば。梅稚(うめわか)には一面(いちめん)を与(あた)へて叡山(えいざん)に登(のぼ)し。

この一面(いちめん)は松稚(まつわか)に与(あた)へしを。わが身(み)洛(みやこ)を落(おつ)るとき。袖(そで)に抱(いだ)きて出(いで)たりしが。

もしこの鏡(かゞみ)なかりせば。終(つひ)に焼(やか)れて亡(うせ)なんとて。鏡(かゞみ)をもて野火(のび)を防(ふせ)ぎとゞめ

し事(こと)を物(もの)がたり給ふに。光政(みつまさ)ふかく感激(かんげき)し。彼(かの)日本武尊(やまとだけのみこと)の故事(ふること)など申

出(いで)て。やゝ蓮村(はすむら)のほとりまで来(く)る折(をり)しも。松井源五純則(まつゐのげんごすみのり)。夥(あまた)の兵(つはもの)をもて。猛(にはか)

に八方(はつほう)よりとり巻(まけ)ば。光政(みつまさ)はさわぎたる気色(けしき)もなく。頭(かうべ)をめぐらして佶(きつ)と

梅稚丸(うめわかまる)は粟津(あはづの)六郎

を将(い)て山田(やまだの)三郎が家(いへ)

に寓居(ぐうきよ)し給ふ鳰崎(にほさき)

玉柳(たまやぎ)あつく管待(かんたい)

まゐらする

又(また)ある夜(よ)

山田(やまだの)三郎は

あつはらに

斑女(はんによ)を

伴(ともな)ひかへる

路(みち)にて

源五(げんご)

にとり

まかる

みれば。おの/\弓(ゆみ)に矢(や)を〓(つがひ)て。すはといはゞ射(い)てとらんと構(かまへ)たり。時(とき)に

源五(げんご)声(こゑ)をふり立(たて)。光政(みつまさ)われを認(みし)れりや。われ今度(こんど)廷尉(ていゐ)盛景(もりかげ)ぬしの代官(だいくわん)

として。関東(くわんとう)に下向(げこう)し。惟房(これふさ)の妻子(さいし)〈○ヤカラ〉を駆索(かりもとむ)るなれば。更(さら)にむかしの源五(げんご)に

あらず。しかるに頃日(このごろ)梅稚(うめわか)主従(しゆうじう)を汝(なんぢ)が家(いへ)に舎義(かくまふ)こと。しる人(ひと)あつて訴(うつたふ)るを

もて。今夜(こんや)行(ゆき)むかつて搦捕(からめと)らんとする処(ところ)に。はからずして斑女前(はんによのまへ)をこゝに

みること。虎(とら)を狩(か)らんとしてまづ兎(うさぎ)を得(え)たるが如(ごと)し。汝(なんぢ)異議(ゐぎ)なく斑女(はんによ)を逓(わた)し。

又郷導(しるべ)して梅稚(うめわか)主従(しゆうじう)を搦捕(からめとら)せなば。この矢前(やさき)をゆるすべし。心(こゝろ)を定(さだ)めて

回答(いらへ)せよと呼(よば)はれば。斑女前(はんによのまへ)はいふもさらなり光政(みつまさ)はその暴虐(ぼうぎやく)を悪視(にくみみ)て。憤(いきどほり)

に堪(たへ)ざれども。夥(あまた)の矢面(やおもて)に立(たつ)たれば。進退(しんたい)こゝに窮(きはまつ)て。いかにともせんすべなし。

さもあらばあれ迯(のが)るゝたけは迯(のが)れてみばやと思ひかへし。詭(いつはつ)ていへりたるは。

王事(わうじ)〓(もろひ)ことなし。誰(たれ)の身(み)を捨(すて)て朝敵(ちやうてき)に與(くみ)すべき。一旦(いつたん)古主(こしゆう)の恩義(おんぎ)に黙止(もだし)がた

くて。今(いま)こゝに及(およ)べり。しかれば梅稚(うめわか)主従(しゆうじう)を出(いだ)さん事。仔細(しさい)あるべKらず。さはいへ

粟津(あはづの)六郎は。萬夫無當(ばんふぶだう)の勇士(ゆうし)なり。今(いま)斑女前(はんによのまへ)を伴(ともな)ひかへりて。いよゝ二(に)なき

志(こゝろざし)を示(しめ)さば。彼(かれ)ます/\心を放(ゆる)さん歟(か)。その油断(ゆだん)をみすまして。搦捕(からめと)るとも。もし

手(て)にあはずは。おの/\首(かうべ)打(うち)おとして逓(わた)すとも。この二ツのうちは違(たが)はじ。わが謀

畧(たばかり)に従(したが)ひ給はゞ。一卒(いつそつ)をも喪(うしな)はずして。績(いさをし)は御辺(ごへん)一人のうへにあらん。いかに承引(うけひき)

給ふべきやといふ。源五(げんご)聞(きゝ)てしばし思案(しあん)し。汝(なんぢ)がいふ所(ところ)理(ことわり)あり。是(これ)蚯蚓(みゝず)をもて

魚(うを)を釣(つる)の謀(はかりごと)なり。しかれども汝(なんぢ)一旦(いつたん)の難(なん)を脱(のが)れん為(ため)に誑(いつは)りて。彼等(かれら)を落(おと)し

遣(やる)べうも量(はかり)がたし。よてわれはこの大勢(たいぜい)をもて。直(たゞ)に出口(でぐち)/\を遠巻(とほまき)にし。

その合圖(あひづ)を俟(まつ)べきぞ。故(ゆゑ)なく事をなし果(はた)さば。古朋輩(こほうばい)の好(よしみ)。われも又あしくは

報(むく)はじ。努(ゆめ)懈(おこた)ることなかれとて。ほこりかに説示(ときしめ)し。遂(つひ)に一方(いつほう)を開(ひら)かするは。

山田(やまだの)三郎は。源五(げんご)がみづから搦捕(からめとら)んといはざる事は。全(まつた)く粟津(あはづの)六郎が勇(たけ)きに

怕(おそ)るゝなめりと猜(すい)して。こゝろの中竊(ひそか)に歓(よろこ)び。心安かれ此(この)真夜中(まよなか)は過(すぐ)すまじ。

號笛(あひづのふえ)を吹(ふ)くを聞(き)かば。事なりぬとしり給へと應(いらへ)つゝ。夥(あまた)の捕手(とりて)に送(おく)られて。斑女

御前(はんによごぜん)を伴(ともな)ひまゐらせ。平尾(ひらを)の郷(さと)へ立(たち)かへる。嗚呼(あゝ)前門(ぜんもん)虎(とら)を防(ふせ)げば。後門(こうもん)更(さら)に

狼(おほかみ)を進(すゝ)む。山田(やまだ)粟津(あはづ)の両忠臣(りやうちうしん)。縦(たとひ)樊〓(口+會)(はんくわい)が勇(ゆう)。陳平(ちんへい)が智(ち)ありとも。輒(たやす)く斑女(はんによ)

梅稚(うめわか)の脱(のが)れ給ふべうはみえざりけり。

墨田川梅柳新書巻之四畢