十四  墨田川(すみたかは)の津人(わたしもり)憐(あはれみ)て狂女(きやうぢよ)を渡(わた)す

斑女御前(はんによごぜん)は鳥越(とりこえ)の曠野(あらの)にて。梅稚丸(うめわかまる)をあやしき男(をとこ)に奪(うばゝ)れ。打(うち)つゞきたる愁

傷(しうしよう)に忽地(たちまち)心(こゝろ)も乱(みだ)れ。路(みち)もなきところ/\を呻吟(さまよひ)つゝ。中(なか)一日をおきて。三月十七日の

〓(日+(亠+↓黒)昏(ゆふぐれ)に。武蔵國(むさしのくに)と下総國(しもふさのくに)との堺(さかひ)なる。墨田川原(すみだかはら)に著(つき)たまふ名(な)にしおはゞ

いざことゝはん都鳥(みやことり)と。在(ざい)五中将(ごちうしよう)のよみけるは。恋(こひ)ゆゑなり。われは又子(こ)ゆゑに憂(うき)を

をみやこ鳥。わが思ふ人はありやなしや。いづ地(ち)へ倶(ぐ)して迯水(にげみづ)の。雲(くも)か霞(かすみ)かはて

しなき。浮世(うきよ)にしばしすみだ川。ながらたへばこそ歎(なげき)もすれ。思ひ出(いづ)れば葛飾(かつしか)や

まゝならぬ身(み)のよしあしに。難波(なには)もふるき都鳥(みやことり)。こゝは東(あづま)の都鳥(みやことり)。都(みやこ)のそらはなつ

かしからず。都(みやこ)の人(ひと)の恋(こひ)しとて。ひたもの狂(くる)ひて河原(かはら)に立在(たゞずみ)。いかに舩人(ふなびと)

などてわが身(み)はわたさぬぞ。夫(それ)衆生(しゆじよう)はこの岸(きし)たり。又(また)菩提(ぼだひ)は彼(かの)岸(きし)たり。煩悩(ぼんなう)便(すなはち)

中流(ちうりう)たり。われも弘誓(ぐぜい)の舩(ふね)に乗(の)りて。渡(わた)し給へと宣(のたま)ふにぞ。舩人(ふなびと)は只今(たゞいま)艚出(こぎいだ)

す棹(さを)をとゞめ。こや物狂(ものくるは)しき上臈(じようろう)の。わが一葉(いちえう)の舟(ふね)の中(うち)に。押(おし)あふて乗(のり)給はんはいと

危(あやう)しいと危(あやう)し。今この人々(ひと/\)を渡(わた)し来(き)て。御身(おんみ)ひとりをわたすべし。しばらく程(ほど)せ

給へといふ。狂女(きやうぢよ)これを聞(きゝ)もあへず。墨田川(すみたがは)の渡守(わたしもり)にてあるならば。日(ひ)は暮(くれ)ぬ。

はや舩(ふね)にのれとはいはで。気長(けなが)き事を聞(きこ)ゆるものかな。乗(のせ)ずはわれは波(なみ)の上(へ)

を。ひとりわたらめと呟(つぶや)きて。よろめきつゝなほ進(すゝみ)給へは。舩人(ふなびと)は周章(あはてふためき)て扶乗(たすけの)

し。既(すで)に中流(ちうりう)に到(いた)るとき。向(むかひ)の出崎(でさき)なる柳(やなき)の下(もと)に當(あたつ)て。頻(しきり)に鉦鼓(せうこ)念仏(ねぶつ)の声(こゑ)

すれば。狂女(きやうぢよ)耳(みゝ)を側(そはだて)て。あな尊(たふと)。あれは何の供養(くよう)にかと問(とひ)給ふに。舩人(ふなひと)答(こたへ)て

斑女前(はんによのまへ)

物(もの)くるはしく

なりて墨田川原(すみだかはら)に

呻吟(さまよひ)給ふ

墨田川(すみたがは)

の渡守(わたしもり)大念仏(だいねぶつ)

供養(くよう)の縁故(ことのもと)

を舩中(せんちう)に狂女(きやうぢよ)

に物(もの)かたる

彼(かの)法事(ほふじ)につきては。いと哀(あはれ)なる物(もの)かたりあり。聞(きゝ)給へ。一昨(おつゝひ)の日。京家(きやうけ)の美少年(びしようねん)。

陸奥(みちのく)へ下(くだ)るとて。浅草(あさくさ)野路(のぢ)まで来(き)給ひしを。物(もの)とりの人肉経紀(ひとあきびと)が。わり

なくも向(むかひ)の岸辺(きしべ)なる隠家(かくれが)に伴(ともな)ひ。なほおのがいふ随(まゝ)ならぬを怒(いか)りて。

しば/\打擲(ちやうちやく)し。終(つひ)に打殺(うちころ)したりとぞ。その折(をり)しも。洛(みやこ)の親族(うから)。両三人(りようさんにん)索来(たづねき)て。

立地(たちどころ)に仇(あた)を撃(うち)。遺言(ゆいげん)にまかせて。彼処(かしこ)の柳(やなぎ)の下(もと)に葬(ほうふ)りしに因(ちなみ)ある行脚(あんぎや)の

聖(ひじり)行(ゆき)あひて。叮嚀(ねんころ)に回向(ゑかう)し。又きのふより大念仏供養(だひねふづくよう)し給ふなり。さてよし

なき長(なが)物(もの)かたりに。はや舩(ふね)が著(つい)て給。誘〃(いざ/\)あがり給へといふ。狂女(きようぢよ)は熟(つら/\)うち聞(きゝ)て

涙(なみだ)さしぐみ。いかに舩人(ふなひと)。その少年(しようねん)の名(な)は。梅稚丸(うめわかまる)。父(ちゝ)は吉田(よしだ)の何某(なにがし)。又索来(たづねきた)りし

親族(うから)の中(うち)に兄(あに)の松稚(まつわか)といふ人の。ありとは聞(きこ)えずやと問(とひ)給へは。舩人(ふなひと)點頭(うなづき)て。

くはしき事はしり給はねど。さる人(ひと)にてもあるべしと答(こたふ)れは。狂女(きようぢよ)いたくうち泣(なき)て。そ

はわが子(こ)の梅稚(うめわか)なり。兄(あに)には今般(いまは)にあひけんを。などて母(はゝ)には息(いき)の内(うち)に。見(まみ)えで

歎(なげき)をまさ/\給ふ。今はなか/\あふとも。片田舎(かたゐなか)の土(つち)となりて。無常(むじやう)の風(かぜ)に戦(そよ)ぐな

る。玉緒(たまのを)柳(やなぎ)抜捨(ぬきすて)て。なき骸(から)なりともみまほしとて。くひの八千(やち)たび百千(もゝち)たび。かき

口説(くどき)て歎(なげき)給ふを。哀(あは)れとは聞(き)かで乗合(のりあは)せし。猿曳(さるひき)。税(はふり)。木匠(このみちのたくみ)〈○タイク〉。農夫(おほんたから)〈○ヒヤクセウ〉。野客(しづのを)等(ら)。群

立(むらたち)て斑女前(はんによのまへ)をかい〓(爪+國)(つか)み。岸(きし)に引揚(ひきあげ)んとて鬩(ひしめ)くを。舩人(ふなひと)遽(いそかは)しく押隔(おしへだて)。こはなに

するそといはせもあへず。衆皆(みな/\)から/\とうち笑(わら)ひ。わが儕(ともがら)を何人とか思ふ。赤石判

官盛景(あかしのはんくわんもりかげ)ぬしの仰(おふせ)を禀(うけ)かく思ひ/\に打扮(いでたち)て。斑女(はんによ)松稚(まつわか)梅稚(うめわか)を索(たづね)めぐる間

諜者(しのびのもの)なり。はからずも今の問答(もんとう)を聞(きゝ)て。松稚(まつわか)はこのわたりに潜居(しのびお)る事を猜(すひ)し。

又この物狂(ものぐる)ひを。斑女前(はんによのまへ)なりと知得(しりえ)て。まづこれを生拘(いけどり)。しかして松稚(まつわか)を搦捕(からめとら)ん

と欲(ほつ)す。妨(さまたけ)せそといきまけば。舩人(ふなびと)騒(さわ)ぎたる気色(けしき)もなく。さ聞(きい)ては一人も恕(ゆる)しがたし。

覚期(かくご)せよと〓(勹+言)(のゝし)りて。〓(舟+戒)(かひ)振揚(ふりあげ)て一人(いちにん)が眉間(みけん)を〓(石+殷)(はた)と打碎(うちくだけ)ば。残(のこ)るものども大に怒(いか)り。刀(かたな)

を抜(ぬき)つれて。前後左右(ぜんごさゆう)より切(きつ)て懸(かゝ)るを。舩人(ふなひと)は物(もの)ともせず。打倒(うちたふし)突落(つきおと)し。腰(こし)を

折(くぢ)かし胸(むね)を劈(つんざ)き。泳(およ)ぎ上(あが)らんとするをば拂除(はらひのけ)。押沈(おししつ)めなどする程(ほど)に。打(うた)るゝものは

舩(ふね)に斃(たふ)れ迯(にげ)んとするものは水(みづ)に溺(おぼ)れ。一人(ひとり)も残(のこ)らず死(しゝ)たりける。その時(とき)舩人(ふなびと)

は。〓(舟+戒)(かひ)を戞利(ゆらり)と投捨(なげすて)。斑女前(はんによのまへ)を岸(きし)に扶(たすけ)のぼして芝生(しばふ)に居(すえ)まらせ。さて申スやう。

後室(こうしつ)にはいまだ知召(しろしめさ)さるべし。僕(やつかれ)は昔(むかし)再生(さいせい)の恩(おん)を蒙(こうふ)りし。鳰崎(にほさき)が兄(あに)に。赤塚(あかづか)

の軍介(ぐんすけ)と申すもの也。松稚君(まつわかぎみ)は。仲圓(ちうゑん)阿闍梨(あじやり)。粟津(あはづの)六郎等(ら)とともに。大念仏(だいねぶつ)の

假屋(かりや)におはしまし。只(たゞ)後室(こうしつ)の御往方(おんゆくへ)のみ。心苦(こゝろくる)しく思ひ給へり。さるあひだ

もしこの渡(わたり)へ来(き)給ふ事もやとおもひはかり。僕(やつがれ)湖水(こすい)のほとりに人(ひと)となりて。舩(ふね)の

上(うへ)の事には。よく心(こゝろ)を得(え)たれば。求(もとめ)てこの河(かは)の渡守(わたしもり)にかはり。彼此人(をちこちびと)をわたしつゝ。

外(よそ)ながら問(とひ)もし見(み)もして。心(こゝろ)を盡(つくし)ぬるかひに。端(はし)なく環會奉(めぐりあひたてまつ)るのみならず。盛

景(もりかげ)が間諜(しのび)の奴(やつ)ばらを打殺(うちころ)せしこそ心持(こゝち)よけれ。誘(いざ)給へ。負(おひ)てまいるべしと申ける。

かゝりける処(ところ)に。松稚丸(まつわかまる)仲圓(ちうえん)阿闍梨(あじやり)。粟津(あはづの)六郎。鳰崎(にほさき)。浅舩(あさふね)等(ら)。はやくもこの事

をしりて走(はし)り来(き)つ。軍介(ぐんすけ)がこよなき働(はたら)きを稱〓(口+賛)(せうさん)〈○ホメル〉し。諸共(もろとも)に斑女前(はんによのまへ)を扶掖(たすけひい)て。

假屋(かりや)のおくまりたる処(ところ)に入(い)れまゐらせ。さま”/\に勦(いたは)れども。只(たゞ)惘然(ぼうぜん)としておはせ

しかば。松稚丸(まつわかまる)二面(めん)の明鏡(めいきやう)をとり出(いだ)し。夫(それ)鏡(かゞみ)は霊明(れいめい)にしてよく善悪(ぜんあく)をわかつ。よつ

てこれを智(ち)の霊明(れいめい)に象(かたど)れり。又その形(かたち)を月(つき)に取(とつ)て。水徳(みづのとく)を備(そな)ふ。こゝをもて

世俗(せぞく)鏡(かゞみ)を婦人(ふじん)の神(たましひ)と稱(せう)す。思ふにわが母(はゝ)。鳥越(とえいこえ)の曠野(あらの)にて。この宝鏡(ほうきやう)一面(いちめん)を遺(おと)

し給ふをもて。その智(ち)裏暗(うちにくらく)して忽地(たちまち)御(み)こゝろも乱(みだ)れ給ひけん。とく醒(さめ)給へ/\と

宣(のたま)ひて。彼(かの)鏡(かゞみ)を指(さし)よせ給へは。斑女前(はんによのまへ)豁然(くわつぜん)と心持(こゝち)清々(すが/\)しく覺(おぼえ)て。身(み)の不覚(そゞろ)

なるを怪(あやし)み。松稚(まつわか)。梅稚(うめわか)。阿闍梨(あじやり)。軍介(ぐんすけ)夫婦(ふうふ)。浅舩(あさふね)等(ら)が一件(ひとくだり)の事を聞(きゝ)て。或(ある)はうれ

しみ或(ある)はうち泣(なき)。かくおの/\恙(つゝが)なく面(おもて)をあはしながら。只(たゞ)梅稚(うめわか)のみ。なき人の數(かず)に

入りぬるこそ悲(かな)しけれ。そも平尾(ひらを)の窮難(きうなん)には。光政(みつまさ)夫婦(ふうふ)が忠義(ちうぎ)に救(すく)はれ。脱(のが)

れがたきを脱(のが)れたれば。末(すゑ)たのもしとのみ思ひて。終(つひ)に滅(きえ)ゆく燈(ともしび)の光(ひかり)を増(ます)とはしらざりし。と

軍介(ぐんすけ)勇(ゆう)をふるつて

盛景(もりかげ)が間諜者(しのびのもの)

を打殺(うちころ)す

松稚丸(まつわかまる)仲圓(ちうえん)

阿闍梨(あじやり)は勝

久(かつひさ)浮草(うきくら)等(ら)を

将(い)て斑女前(はんによのまへ)

を迎(むかへ)給ふ

声(こへ)を限(かぎ)りに泣(なき)給へば。仲圓(ちうゑん)阿闍梨(あじやり)宣(のたま)ふやう。佛(ほとけ)は涅槃(ねはん)の山(やま)に入(い)り。凡夫(ほんど)は生死(をくはし)の

海(うみ)に沈(しづ)む。後(おく)れ先(さき)だつ世(よ)のならひ。されはいきとし生(いけ)るもの。誰(たれ)かは命(いのち)に限(かぎり)ならん。

死(し)の縁(えん)とて生(しよう)を去(さ)り。東(あづま)の果(はて)なる土(つち)となるも。みなこれ過世(すくせ)の因(いん)也果(くは)なり

逆縁(ぎやくえん)なりともその子(こ)の為(ため)に。歎(なげき)をとゞめて一遍(いつへん)の回向(ゑこう)あらまほしと諫(いさ)め給へは

斑女前(はんによのまへ)はなく/\塚(つか)のほとりに歩(あゆ)み出(いで)て。掌(たなそこ)をうちあはし。南無西方極楽世界(なむさいほうごくらくせかい)。三十六万億(おく)。同号同名阿弥陀佛(どうごうどうめうあみだぶつ)。わが子(こ)を救(すく)ひ給へかし。南無阿弥陀

佛(なむあみだぶつ)。/\と唱(とな)へ給へば。群参(ぐんさん)の老弱(ろうにやく)異口同音(ゐくどうおん)に。みな仏名(ぶつみやう)を唱(となへ)けり。

墨田川梅柳新書巻之五畢

※浮草→鳰崎(誤植か?)