第1日課:ローマの信徒への手紙7:21ー8:2
第2日課:マタイによる福音書11:25ー30
(マタイによる福音書11:28)
いよいよ今週で、今学期のチャペルでの礼拝は最後となります。思えば、この学期を開始した時点では、果たしてこの後どのようになっていくのか、はっきりした見通しは何も立たない状態でスタートしました。幸いなことに、わたしたちの毎日は無事に守られ、もうすぐで無事に前期を終了できるというところまで来ました。改めて、これまでのみ守りを神に感謝したいと思います。
3月11日の震災以来、いろいろな悲しい出来事が起き、わたしたちは皆これらの出来事の意味を自問自答しながらこの数ヶ月間を送ってきたと思います。日本に住むある少女は、カトリック教会の長であるローマ法王にこんな質問をしました。「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの?」この問いに、法王はとても誠実に答えられました。「私も自問しており、答えはないかもしれない。」
わたしたちは、「なぜこんな悲しみや苦しみがあるのか」という問いに答えることができません。しかし、今回の経験はわたしたちに厳然たる一つの事実を突きつけます。それは、「人間の力や能力には限りがある」ということです。
ラジオの深夜番組から生まれたという「中2病」なる言葉があります。中学2年生くらいの、身の程をわきまえない背伸びした行動を揶揄した言葉というのがわたしの理解ですが、悲しいかなこれは人間全体に普遍的な性質であるとも思います。自らの能力や知識の限界をわきまえない、実体の伴わない全能感に操られていたわたしたちの姿が、この地震を一つのきっかけとして浮き彫りにされたという感じを持ちます。
わたしたち立教がその名を戴く聖パウロは、今日の第一日課の中でこう独白します。「自分の力で正しく生きようとすればするほど、自分は正しさから逸れていってしまう。」そしてその中で、救いは人間の行いによるのではなく、ただ神の圧倒的な恵みによるのだということに思い至るのです。このことが、彼の生き方を根本的に変えました。
「疲れた者を休ませる」というキリストの言葉に、わたしは「自分の力で何とかしなければ」という世界からの解放を見たいと思います。