和漢乗合船序

外国舶(もろこしぶね)の楫枕(かぢまくら)、水路(すゐろ)の遙(はる)けきを凌(しの)ぎ、日をつらね、夜(よ)をかさねて信使(しんし)の徒然(つれ/\)を慰(ゐ)せんと、倭人(わひと)韓人(からひと)の交(まじは)り。昔(むかし)今の談話(だんわ)、我は渠(かれ)をちんふんと思へれど、渠(かれ)はまた我をちんふんとやおもふらんとぞ覚ふ。頼むところは、訳官(つうじ)の詞のみ。これを拙(つた)なき筆に記して六の巻となし、倭漢乗合船と名づくるものしかり。

       正徳壬辰年下元日  落月堂操巵

和漢(わかん)乗(のり)合船巻之第一

  目録

 雪密夫仲人(ゆきはみつふのなかふど)

   附 朝鮮在陣(ちやうせんざいじん) 計略湯風呂(けいりやくのゆふろ)

 焚(やく)不義之(ふぎの)女(をんなを)

   附 密夫(みつふの)百金(きん) 陥=謀(かんぼう)空死(そらじにの)女

 小造(こづくりが)夢(ゆめ)

   附 信州(しんしう)鼠(ねづみ)宿(やどの)月(つき)  築銀城(ぎんじやうをきづく)

 槐安国(くわいあんこく)

   附 南柯郡之(なんかぐんの)楽(たのしみ) 盤龍岡(ばんりやうかう)

和漢(かん)乗(のり)合船巻之第二

  目録

 即身即猫(そくしんそくめう)

   附 葛岡(くずおかの)猫塚(ねこづか) 日爪(ひづめが)発心(ほつしん)

 三十年(ねんの)蓄(たくはへ)

   附 棺中(くわんちうの)驢馬(ろば) 女名(をんなのなは)舅殺(しうとごろし)

 八木岡氏金鶏(やぎをかうぢのきんけい)

   附 五月鴬(さつきのうぐひす) 雁之(かりの)玉章(づさ)

 四面堂奇画屍(しめんのだうきぐわのかばね)

   附 踏牀龍(とうしやうのりやう) 蝿虎子曲(はいとりぐものきよく)

和漢(かん)乗(のり)合船巻之第三

  目録

 二世夫婦(にせのふうふ)

   附 石碑(いしぶみは)恋仲立(こひのなかだち) 落人(おちふど)隠者友(ゐんじやのとも)

 再来(さいらいの)笑顔(ゑがほ)

   附 銀杏樹下(ぎんあんじゆかの)墓(はか) 魂魄(たましゐ)閨来(ねやにきたりて)契(ちぎる)

 蝦(かいる)死(しして)鮎(あゆに)代(かわる)

   附 被(るゝ)釣(つら)美女(びぢよに)魚(うを) 蘇生(そせい)法師(ほうし)

 金剛経(こんがうきやうの)徳(とく)

   附 被(るゝ)焼(やか)丸薬(ぐわんやくに)罪(つみ) 地獄(ぢごくの)輪抜(わぬけ)

和漢乗合船巻之第四

 目録

  文武(ぶんぶ)二道(だうの)欝気(うつけ)

   附 稽古(けいこ)試(こころみの)再拝(さいえい) 古団(ふるうちはの)祈念(きねん)

 色道(しきだう)一遍(いつぺんの)巴友(はゆう)

   附 本心(ほんしん)試(こころみの)老婆(らうば) 穴(あなの)中(なかの)住居(すまゐ)

  五輪(ごりんは)法師(ほうしの)冠(かんむり)

   附 玉不(みがかざれば)瑳無力(ちからなし) 盗足(あしをぬすむ)化物(ばけもの)

 燈火(ともしびは)学者(がくしやの)友(とも)

   附 字(じ)不滌(あらはざれば)不去(さらず) 出(いだす)手(てを)化物(ばけもの)

和漢(わくわん)乗(のり)合船巻之第五

  二子(ふたごの)二心(ふたごころ)

   附 馬揃(むまぞろへの)花麗(くわれい) 人違(たがへの)敵討(かたきうち)

 天竺(ぢくの)百子(ひやくし)

   附 嫁揃(よめぞろへの)三子(みつご) 人違(たがへの)仮粧(けはい)

 白小袖(しろこそでの)奇怪(きくわい)

   附 縮緬(ちりめんの)梯(のぼりばし) 夢者(ゆめは)聟入(むこいりの)媒(なかだち)

 指環(しくわんの)不思議(ふしぎ)

   附 酒店(しゆてんの)女(をんな) 鸚鵡(あふむの)仲人口(なかふどぐち)

和漢(かん)乗(のり)合船巻之第六

 我子(わがこの)讐(あた)

   附 不慮(ふりよの)隠居(ゐんきよ) 怨霊(おんりやうの)杖(つえ)

 前世(ぜんせの)敵(かたき)

   附 鏡(かゞみの)内(うちに)顕(あらはるゝ)女(おんな) 幽霊(ゆうれいの)恨(うらみ)

 隠形(おんぎやうの)術(じゆつ)

   附 鉄扇(てつせんは)刀(かたなの)代(かはり) 松(の)上(うへの)遊興(ゆふけふ)

 肉飛仙(にくひせん)

   附 人間(げんの)両翼(りやうよく) 守(まもる)義(ぎを)刹客(せつかく)

和漢乗合船巻之第一

 雪密夫仲人(ゆきはみつふのなかふど) 附朝鮮在陣(ちやうせんざいじん) 計略湯風呂(けいりやくのふろ)

   不義(ふぎ)の女(をんな)を焼(やく) 附密夫(みつふの)百金(きん) 空死(そらじにの)女

  古(いにし)へ、豊臣(とよとみ)の秀吉公(ひでよしこう)、三尺の剣(けん)の光(ひか)りを、日本六十余州(よしう)にかゝやかし、破竹(はちく)の勢(いきを)ひをあらはし給ひしかば、三寸にたらぬ草葉(くさば)まで、其(その)威風(いふう)になびきしたがふ。扨(さて)こそ、民間(みんかん)より出て、関白(くはんばく)則闕(そくけつ)の官(くわん)に登(のぼ)り、位(くらゐ)従(じゆ)一位(ゐ)を極(きは)め給ふ。御居城(いじやう)は都(みやこ)の西(にし)、堀(ほり)川を限(かぎ)りに、天守(しゆ)雲(くも)にそびへ、金(こがね)の鯱(しやちほこ)、金(こがね)の瓦(かわら)は、如意(によい)が嶽(だけ)より出る日に、かゝやき渡(わた)つて殿宇(でんう)軒(のき)を双(なら)べたり。鳳(ほう)の甍(いらか)、碼碯(めなう)の階(きざはし)、蜀江(しよくこう)の錦(にしき)、呉郡(ごくん)の綾(あや)、何(いづ)れか眼(まなこ)にもるゝ者もなく、さながら金(こがね)の山に、錦繍(きんしう)を布(し)けるがごとし。

 広(ひろ)き世界(せかい)の楽(たのし)みを只(たゞ)一所(いつしよ)に集(あつ)めて、聚楽(じゆらく)と名(な)付給ひしが、程なく御甥(をい)秀次(ひでつぐ)公に関白職(くわんばくしよく)をゆづらせ給へば、世の人大、閤(たいこう)と仰(あふ)ぎ奉る。

 其(それ)より、聚楽(じゆらく)を秀次公に渡(わた)させ給ひ、幾(いく)千里(り)とも限(かぎ)りなき朝鮮(ちやうせん)を攻破(せめやぶ)り、直(たゞち)に、大明(みん)をも攻潰(せめつぶ)し、唐(もろこし)を隠居所(ゐんきよじよ)にせんと仰られ、三十万七千九百余騎(よき)にて、文禄(ぶんろく)元年、筑紫(つくし)肥前(ひぜん)まで御進発(ごしんばつ)、名護屋(なごや)に御在陣(ございじん)あり。諸勢(しよせい)を朝鮮(ちやうせん)に遣(つかは)し給ふ。

 爰(こゝ)に、大閤(こう)の近習(きんじう)に、明石(あかし)左京亮(のすけ)登高(なりたか)とて、出頭(しゆつとう)お傍(そば)を去(さ)らざれば、御馬廻(まは)りに御供(とも)申、同(おなじ)く、名護屋(なごや)に出陣(しやつぢん)せしが、藤(ふぢ)井宮内少輔(くないのせふ)と聞へて、年比(としごろ)兄弟(きやうだい)にも勝(まさ)り、懇意(こんい)を尽(つく)せし人に、留主(るす)中の事など頼(たの)み置(をき)て、西海(さいかい)の波涛(はたう)に趣(をもむき)けり。

 彼(かの)宮内少輔(のせふ)と云(い)へるは、其比(そのころ)の帝(みかど)正親町院(おゝぎまちのゐん)に仕(つか)へ奉り、地下(ぢげ)の官人(くわんにん)にて、身上(しんじやう)の禄(ろく)は軽(かろ)かりしかども、位(くらゐ)従(じゆ)五位(ゐの)下にいたり。美男(びなん)のほまれありて、心ざしも又、やさ/\しかりけるが、左京亮(のすけ)とは、他事(たじ)なく云(い)ひ睦(むつ)ぶ中といひ、旅立(たびだつ)あとの事ども、何(いづ)れも打まかせて頼(たの)み置しかば。

「我(われ)、朝廷(ちやうてい)に拝趨(はいすう)の身(み)、軍役(ぐんやく)にはかゝはらず。斯(かく)して都(みやこ)にあるこそ幸(さいわひ)なれ。何事も心やすかれ」

とて、左京亮(のすけ)が屋敷(しき)へ、日毎(ひごと)に行通(ゆきかよ)ひて、内外(うちと)のこと心置なく物しければ、少々残り居(ゐ)し、左京亮が家来(けらい)共も、世にたのもしく思ひ来り。

 爰(こゝ)に、明石(あかし)が妻女(さいぢよ)は、過にし天正十七年の秋よびむかへて、漸(やうやく)く三年(みとせ)をだにすぎざれば、いまだ廿歳(はたち)の春(はる)の花は、遠(とを)山の梢(こずへ)ににほひ、臈(らう)たけたるよそほひは、十六夜(いざよひ)の月の、雲間(くもま)より指(さし)あらはるゝ心地(こゝち)して、ふようたんくはの、美質(びしつ)を備(そな)へし女なり。

 藤井、万(よろづ)とりまかなひて、心置なく沙汰(さた)しける程に、日毎(ひごと)に奥(おく)に入(り)て、左京亮(のすけ)が妻女(さいぢよ)にも、折にふれ程につけつゝ、内談(ないだん)物語(がたり)などしければ、左京が妻(つま)も馴(なれ)なじみ、今までよりは親(した)しくもいひよりけり。

 然(しか)るに、此友、遠き唐国(からくに)を、御征伐(ごせいばつ)との御陣触(ごぢんぶれ)にしたがひて、夫(おつと)左京亮殿(のすけどの)も、八重(やゑ)の塩路(しほぢ)の憂(うき)旅(たび)に趣(おもむか)せおはしつるが、若(もし)も肥(ひ)前の名護屋(なごや)とかやの、御陣(ごぢん)所にやおはします。又しらぬ高麗(こま)とかやの、ゑびすの国に艤(ふなよそ)ひして、怖(おそ)しき唐人(からびと)のために、あやまちをやし給ふらんと、明暮(あけくれ)おもひ煩(わづら)ひけるが、早(はや)二年(ふたとせ)も過るにしたがひ、忍(しの)ぶ草(ぐさ)もうら枯(がれ)て、やゝ萌出(もへいづ)る忘(わす)れ草(くさ)、春の気色(けしき)ものどやかに、西(さい)国は世の中らうがはしかりしかども、都(みやこ)はしづけく豊(ゆた)かなれば、折にふれての月待(まち)日待に、双(すご)六絵(ゑ)合なんど、さま%\の遊(あそ)び、すこしは徒然(つれ%\)をもなぐさめしかども、班女(はんぢよ)が閨(ねや)のこゝちして、夢(ゆめ)もむすばぬ夜半(よは)を恨(うら)み、早晩(いつ)しか宮内少輔(のせふ)が美男(びなん)にめで、此人の心の淵(ふち)に、さそふ水もがな、せき入(い)れてなんど、兎(と)や角(かく)心におもひしかども、道ならぬ方(かた)に心うかれ、世の恥(はづ)かしめにあひなば如何(いか)にせん、蜘蛛(くも)のゐに荒(あれ)たる駒(こま)といひ置(おき)し、古言(ふること)も恥(はづ)かしく、よしや心にこめてと思ひ居(ゐ)しに、文禄(ぶんろく)三年睦月(むつき)の末(すへ)つかた、余寒(よかん)も烈(はげ)しく、空(そら)さえかへり、雪いたう降(ふ)りけるに、宮内少輔(のせふ)所用(しよよう)の事ありて、夙(つと)より起出(をきいで)、左京亮(のすけ)が許(もと)に来り。奥(おく)につと入(い)りけるに、左京が妻(つま)打おどろき、

「今朝(けさ)は早晩(いつ)よりも嵐(あらし)はげしく、雪もいたう降(ふり)つもり侍(さぶ)らふに、よくぞや御(ン)出ましませし」

と云(い)へば、宮内少輔(のせふ)何心なく、

「雪ふみわけて君(きみ)を見んとは」

と、何となきたわむれに、古(ふる)き歌(うた)を口ずさみしかば、此女(をんな)、早(はや)我(わが)日比(ひごろ)心にこめし思ひの程の、色(いろ)に出しにやとおもひとりて、

「去(さ)ればとよ、すくせいかなるゑにしやらん。此年(とし)月思ひこがれし小夜衣(さよごろも)、道ならぬ道に踏(ふみ)まよふ、心のやみの夜(よ)に入りて、かならず」

なんど、かき口説(くどき)、かたく契約(けいやく)して後(のち)、宮内少輔(のせう)をかへしけり。

 藤井も、こはおもひかけなき恋衣(こひごろも)、うらなく睦(むつ)びし左京が手前(てまへ)も、よしやそれからそれまでとおもひ、わりなく契(ちぎ)りをこめし程に、「左京亮(のすけ)も朝鮮(ちやうせん)にて、討死(うちじに)せし」なんどゝ、世に取沙汰(とりざた)しければ、妻(つま)の女房(ぼう)も、宮内少輔(のせう)も、「今は誰(たれ)をか憚(はゞ)からん」と、おそるべき方もなく、末の松山浪(なみ)こさじと、深(ふか)く云ひかたらひける処に、沈惟敬(ちんいけい)が〓(あつか)ひにて、大明(みん)日本の和睦(ぼく)相調(とゝの)ひ、其年の八月十四日、大閤(こう)秀吉(ひでよし)公、俄(にはか)に名護(なご)屋を御立あり。

 順風(じゆんふう)に帆(ほ)を挙(あげ)て、廿日路(ぢ)余(あま)りの海路(かいろ)を、十日斗りに凌(しの)がせ給ひ、同き廿五日、大坂に御凱陣(ごがいぢん)ありしが、明石(あかし)左京亮(のすけ)登高(なりたか)も、大閤の御供して、浪花(なには)に帰(き)陣し、直(すぐ)に御(ン)暇(いとま)を賜(たまは)つて、京都(と)に帰り登りければ、妻の女房(ぼう)も、藤(ふぢ)井宮内少輔(のせう)も、「おもひの外なる事どもかな」と、案(あん)に相違(さうい)してぞ覚へける。

 爰(こゝ)に、妻女(さいぢよ)が嫁(よめ)入せし時節(じせつ)、親里河州(かしう)より付来(きた)りし、召使ひの腰(こし)本女、小さいとてありけるを、左京(の)亮、渠(かれ)が美質(びしつ)にめで、折/\のたわむれ、時%\は寝(ね)屋の友となしけるを、女心のはかなさは、左京亮をあが仏と思ひとり、哀(あは)れ此妻女のなくば、我本妻となりて、誰(たれ)におそるゝかたもなく、左京(の)亮殿に馴(なれ)候ひなんものをと、此年比心にこめて、おもひ居(い)しことなれば、天のあたへとよろこび、過にし春より、宮内(の)少輔との密通のこと、有とあらゆる事どもまで、取そへて語りければ、左京亮大にいかり、

「扨/\、惣(にく)き事共かな。此度大閤、名護屋御在陣(ざいぢん)の内にも、行衛をしらで頼(たの)みつると云(い)ふ、一首(しゆ)の歌(うた)に、千万(せんばん)のおもひを述(のべ)、大閤の御感(ぎよかん)に預(あづか)り、夫(をつと)瀬川(せがは)采女が陣役(やく)を御免(ごめん)あつて、本国に帰(かへ)されしもあるぞかし。其采女が妻(つま)とは、雲泥(うんでい)万里(ばんり)、天地(ち)懸隔(けんがく)とやいはん。言語同断(ごごどうだん)、生置(いけをく)べき女にあらず。頭(かしら)の頂(てう)上より、足の爪(つま)さきまで、寸(ずん)%\に刻(きざ)み、宮内めと指違(さしちが)へて、此無念(むねん)をはらさん」

と、涙(なみだ)を流(なが)して怒(いか)りければ、小さいよろこび、

「誠(まこと)左様(さやう)に思しめさば、よき術(てだて)のおはしまし候」

と、左京が耳(みゝ)に私語(さゝや)けば、明石悦び、

「是究竟(くつきやう)の思案(しあん)なり、然(しか)らば其方(そのほう)に任(まか)する間、かならず色(いろ)をさとらるゝな」

と、忍(しの)びやかに云つけけり。

 斯(かく)て、一両日過て、宮内少輔来りけるに、人のなき間(ま)を見合せ、小さい傍(そば)近くよりて、

「扨/\思ひの外に、殿(との)様の御帰陣(ごきじん)故(ゆへ)、あだし契(ちぎ)りとならせ給ひし御心の内、おしはかり侍(さぶ)らふなり。其に就(つき)、術(てだて)の候へば、明日人しれず、奥(おく)様にあわせ参らせさふらはん。此間、奥さまと、様/\思案をめぐらし置(をき)、さふらふなり」

と云(い)へば、宮内少輔(のせう)大に悦び、

「其(それ)は、如何(いか)やうの手順(だて)ぞや」

といふ。

「さん候。今宵(こよひ)炉路(ろぢ)の潜(くゞ)りを、外(そと)より押(お)せば、開(ひら)くやうにいたし置(をき)候べし。暁方(あかつきがた)に、炉路より忍(しの)んで御(ン)入(リ)まし/\、濡縁(ぬれゑん)の下に御(ン)忍びさふらふべし。明日奥様、朝湯(あさゆ)を御(ン)引候らはんため、風呂(ふろ)に御(ン)入(リ)さふらふべし。其(その)時、人しれず、わらはが手引仕り、風呂の内にて、御見参(ごけんざん)なし参らせん。此間のつもる御物語(がたり)、さふらへかし」

といへば、藤井限(かぎ)りなく悦び、態(わざ)と物をば云(い)わず、手を合せ打(うち)点頭(うなづ)きてぞ帰りける。

 小さい、又明石(あかし)が妻(つま)にも、斯(かく)のごとくに云ひたばかりしかば、左京が妻も、是(これ)をいつわりとは夢(ゆめ)にもしらず、「結(むす)ぶの神の御力(ちから)にや」と悦び、染(そめ)つくしたる小袖(そで)に、さま%\の手道具なんど取添(とりそへ)て、小さいに是をとらせ、弥々(いよ/\)よきに頼(たの)むぞと、たぐひなく悦べり。

 宮内少輔(のせう)は、其夜(そのよ)の明(あく)るを待(まち)わびて、寡烏(やもめがらす)の心なく、余所(よそ)の別(わか)れをいそぐ比(ころ)、小さいが相図(あいづ)に任(まか)せ、炉路(ろぢ)よりも忍び入(い)り、濡縁の下に伏隠(ふしかく)れ、今や/\と待居(まちい)たり。夜(よ)明(あけ)しかば、明石(あかし)が妻、密夫(みつふ)に逢(あは)ん嬉(うれ)しさに、小さいを仏神の思ひをなし、取敢(あえ)ず風呂に入りけるに、宮内(の)少輔をも忍(しの)びやかに、袖(そで)を引て風呂に入れ、扨左京(の)亮に斯(かく)と告(つぐ)れば、頓(やが)て明石走(はし)り来り、兼(かね)て風呂の引戸に、錐(きり)もみを仕置(しをき)たれば、大釘(くぎ)を以て、ひし/\と打付(つけ)、

「因果(ゐんぐわ)歴然(れきぜん)、思ひしれ」

と、下人共に云ひつけ、屋敷の後園(こうゑん)植込(うへごみ)の内に、大なる穴(あな)を掘(ほ)らせ、彼(かの)風呂を埋(うづ)ませて、其後大坂に参り、尼(あま)幸蔵主(かうざうす)を以て、大閤の御(ン)耳(みゝ)に達(たつ)しければ、

「神妙(しんべう)にもはからひたり」

と宣(のたま)ひて、何の御(ン)咎(とが)めもなく、禁裏(きんり)へも伝奏(でんそう)の御(ン)方へ、密々(みつ/\)に此旨(むね)仰遣はされしかば、世間(せけん)<挿絵見開き1丁>隠密(おんみつ)にて事済(すみ)ぬ。

 小さいは、己(おのれ)本妻(さい)に直(なを)らんとおもひ居(い)しが、主人を弑(しい)せし天罰(ばつ)にや、其年の師走(しはす)、追儺(ついな)の遺風(いふう)とて世間大豆(まめ)打夜(うつよ)、左京(の)亮が中居(ゐ)の女、俄(にはか)に狂気(きやうき)して、走(はし)り廻(まは)りける程に、小さいおどろき屏風(びやうぶ)の陰に逃かくれんとせしに、彼(かの)女走りかゝり、小さいを押伏(おしふ)せ、持たる髪剃(かみそり)にて切(き)り殺(ころ)し、己も死失(しにうせ)しこそ不思議(ふしぎ)なれ。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の学士(がくし)李東郭(りとうくわく)、此事を聞て云(いは)く。

「昔(むかし)徳州(とくしう)の軍士(ぐんし)、劉喜(りうき)といふもの、久しく他国に居たりけるに、其妻夫(おつと)の留主(るす)の内に、其辺(あた)り近(ちか)き、福祐(ふくゆう)なる者の子と密通(みつつう)す。

其後、劉喜故郷(こきやう)に帰(かへ)り、此事をもれ聞て、妻を近付、大に怒(いか)り、

『汝(なんぢ)密夫(みつふ)に通(つう)ぜしこと、我(われ)よく是をしれり。吾(われ)黙々(もく/\)として辱(はづかし)めを人に受(うけ)んことも口惜(おし)し。又、左程に思ひ入れし二人が好(よし)みを間(へだて)ん事も不便なり。此上は、汝(なんぢ)密夫(みつふ)に告(つげ)、百金を出さして吾に送れ。然らば、吾(われ)其(その)科(とが)を免(ゆる)さん。斯(かく)して、汝(なんぢ)は病(やまひ)に染(そみ)しとて、深窓(しんそう)に入(いつ)て伏すべし。然らば、汝が病平癒(ゆ)せずして、終(つい)に死(し)せしよし、世間に是を披露(ひろう)し、棺(くわん)に入(い)れて葬礼(さうれい)の真似(まね)し、野辺(べ)に送(おく)り捨(すつ)べし。夜(よ)更(ふけ)て、密夫野辺に往(ゆき)、汝(なんぢ)をつれて何国(いづく)へも立忍(たちしの)び、心のまゝに契(ちぎ)るべし。然らば、我も世に辱(はづかし)めを受(うけ)ず。汝(なんぢ)も、心のまゝに、密夫(みつふ)とくらすべきぞ」

と云(い)へば、妻女(さいぢよ)、大に悦び、密(みつ)夫に告(つげ)、百金を出さしめ、偽(いつわ)つて疾(やめ)りとして、数日(すじつ)伏居(ふしい)たり。其(その)後、約束(やくそく)のごとく死(し)せりと偽(いつわ)つて、劉喜(りうき)薬を棺(くわん)に入れ、膠(かたむ)るに大釘を以てして、終に野に送り、忽(たちまち)火(ひ)を従(はな)つて焚殺(やきころ)し、其後

「我身を、如何(いか)やうの罪(つみ)にも行(おこな)はるべし」

と、所の群将(ぐんしやう)、張不疑(ちやうふぎ)に訴(うつた)へしかども、其(その)斗(はか)りごとの程を感(かん)じ、其(その)罪(つみ)をゆるされし」

とぞ語(かた)りき。

 此ことを案(あん)ずるに、実(げ)にも『遯斉間覧(とんさいかんらん)』に見えたり。

小造(づくりが)夢(ゆめ) 附信州(しんしうの)月 美濃(のゝ)国守(こくしゆ)

     槐安国(くわいあんこく) 附南柯郡(なんかぐんの)楽(たのしみ) 盤龍岡(ばんりやうかう)

  春は只花の一重(ゑ)に咲(さく)ばかり物のあはれは秋ぞまされる

と読(よみ)しは、月花といひて、月を第一と賞(しやう)ぜしにや。

 春は陽(やう)気さかんにして、かすみも八重に立篭(こめ)、月も朧(おぼろ)にして照(て)り渡らず。夏は老陽(らうやう)なりと云へども、霞(かすみ)やゝ残りて明(あき)らかならず。秋は陰(ゐん)にして、大空(ぞら)に霞(かすみ)なく、月の光り清明なり。然りとて、冬の極陰(いん)は月の清白(せいはく)の過(すぎ)たるなり。「おそろしき物、師走(しはす)の月」と、清(せい)少納言(なごん)が云(い)ひしは、是(これ)なんめり。

 至(いた)つて月を詠(なが)むべきは、秋の最中(もなか)。至(いた)つて月を愛(あい)すべき地(ち)は信州(しんしう)。方角北に当(あた)つて陰(いん)なり。秋の陰(いん)に陰を重ねて、月の光(ひか)りほがらかなり。

 去(さ)れば、月の名所(めいしよ)と名(な)にふれし、姨捨(おばすて)、更級(さらしな)に程(ほど)近き、植(うへ)田の領主(りやうしゆ)真田源太左衛門(ノ)尉信綱(のぶつな)、舎弟(しやてい)安房守(あはのかみ)昌幸(まさゆき)とて、兄弟其名世にひゞけり。是は、甲州の武田(たけだ)信玄(しんげん)入道(にうだう)に仕へて、武名(ぶめい)のほまれ高く、わきて安房(はの)守(かみ)昌幸(まさゆき)は、幼(よう)年より信玄(しんげん)の膝本(ひざもと)に仕へ、寵愛(てうあい)の小性(こしやう)にて、成(せい)人の後(のち)、武藤(むとう)喜兵衛(の)尉(ぜう)と号(がう)し、三枝(さいくさ)勘ケ由(かげゆ)左衛門(の)尉(ぜう)晴行(はるゆき)なんどゝ、権(けん)をあらそひし忠臣(しん)なり。後(のち)、本名(みやう)に帰り、真(さな)田安房(あはの)守と名に高く、豊臣(とよとみ)の秀(ひで)頼公に頼(たの)まれ参らせ、摂州(せつしう)大坂の動乱(どうらん)に、度々(たび/\)勇(ゆう)をふるひ、其(その)名(な)を今の世までも伝(つた)へたる、真田(さなだ)左衛門(の)尉(ぜう)幸村(ゆきむら)が父是なり。

 其比(そのころ)、又、植(うへ)田に程(ほど)近(ち)き鼠宿(ねずみやど)といふ所(ところ)に、丸子三左衛門(の)尉(ぜう)元浄(もときよ)とて、安房守(あはのかみ)が無二(むに)と契(ちぎ)りし朋友(ほうゆう)あり。比(ころ)しも仲秋(ちうしう)最中(もなか)過(すぎ)ての居待月(ゐまちづき)に、丸子が許(もと)に招(まね)かれ、日(ひ)既(すで)に亭午(ていご)に登(のぼ)りし比、安房(の)守昌幸(まさゆき)植(うへ)田の城(しろ)を出(いで)、筑間(つくま)川を余所(よそ)に見、塩尻(しほじり)を過(すぎ)て、鼠宿(やど)に着(つき)、丸子が亭(てい)に入(い)れば、三左衛門(の)尉(ぜう)元浄(もときよ)、種々(しゆ%\)の珍味(ちんみ)を尽(つく)して饗応(あるじもふけ)し、夜に入(い)りしかば、庭(には)山の梢(こずへ)に照(て)り渡(わた)る月を詠(なが)め、詩(し)なんどつゞりて、酒盃(しゆはい)の興(けう)をぞ催(もよほ)しける。

  爰(こゝ)に、真(さな)田が供(とも)の侍(さぶらひ)の中に、小造(づくり)弥八とてありけるが、

「主人の座敷を立れん程は、其(その)間(あいだ)はるかに久しからん、うかと待(まち)居(ゐ)んも物うし」

とて、其(その)辺(あた)り、左右(かなたこなた)と遊び歩行(あり)き、民家(みんか)のはづれに、鼠の宮とてありけるを、「爰(こゝ)ぞ究竟(くつきやう)一」と立寄て、傍(かたはら)に莚(むしろ)やうの物を取しかせ、伏ながら月を詠(なが)め居(ゐ)しが、間なくも眠(ねむ)りを催(もよほ)して、うつゝ心なく寝(ね)入(い)りたり。

 時に夢心に、何国(いづく)ともなく、騎馬(きば)の士(し)来りて、

「拙者(せつしや)は尾州(びしう)の国主(こくしゆ)、織田(おだ)上総(かづさの)介信(のぶ)長が臣(しん)、矢部(やべ)善七と申者にて候、貴殿武に誉(ほま)れあるよしを聞及ばれ、大禄(ろく)を以て召(めし)抱(かゝ)へられたきとの事にて候、いざゝせ給へ、ともなひ申候はん」

とて、頓(やが)て同道して行とおもへば、尾張(はり)の国に至(いた)りぬ。

 城(しろ)に登(のぼ)りて、信(のぶ)長に御目見へせしかば、信長大に怡悦(いゑつ)あり、御盃(さかづき)を下されて後、仰出されけるは、

「扨も、予(よ)が舅(しうと)、斎(さい)藤山城(しろ)入道道三は、元来(ぐわんらい)濃州(じやうしう)の大守(たいしゆ)、土岐(とき)大膳(ぜん)太夫(ノ)頼芸(よりのり)の幕下(ばつか)なりしか共゛、世にしるごとく、頼芸(よりのり)愚(ぐ)将なりし故(ゆへ)、道三是を廃去(はいきよ)し、濃州(じやうしう)の国主(こくしゆ)となれり。

 然るに、嫡子(ちやくし)治部(ぢぶの)大輔(たゆふ)義龍(たつ)は、不孝(かう)第(だい)一の悪(あく)人にて、去(さんぬ)る弘(こう)治二年四月廿日、鷺(さぎ)山に於(おゐ)て、父道三と合戦し、終(つゐ)に父を攻殺(せめころ)し、美濃の国を押領(おうれやう)す。其天罰(ばつ)によりて、幾(いく)程(ほど)なく、去(さんぬ)る永禄四年、義龍(よしたつ)は悪病(あくびやう)に犯(をか)され相果(はて)ぬ。其子右(う)兵衛(ノ)太夫龍興、父が悪逆(あくぎやく)を続(つゐ)で、国民(こくみん)を悩乱(なふらん)す。

 是、正しく、予(よ)が舅(しうと)の讐(あた)なれば、欝憤(うつふん)骨髄(こつずい)にとをつて黙止(もだし)がたし、去によつて、汝を討手(うつて)の大将として、美濃の国へ指向(むく)る条、龍興を攻(せめ)亡(ほろ)ぼし、国中を伐(きり)鎮(しづ)めよ。然らば、濃州(じうしう)を汝にあたふべし」

とて、小造弥八を美濃守になされ、一万五千余(よ)騎を相添(そへ)られ、頓(やが)て濃州(しやうしう)へぞ向(むけ)られける。左程に、小造美濃守は、多勢の軍士(し)を引率し、美濃(みの)の国に発向(はつかう)して、先(まづ)敵(てき)方、長井甲斐(ひの)守(かみ)が篭(こも)つたる、大垣(がき)の城(しろ)を攻落(せめおと)し、其(それ)より龍興(たつおき)が居城(きよじやう)、稲葉(いなば)山に押寄(おしよせ)て、城(しろ)を十重(ゑ)二十重(はたゑ)に取(リ)かこみ、旗(はた)馬(むま)印(じる)しを日(ひ)にかゝやかし、鑓(やり)長刀(なぎなた)は茅(つばな)の穂(ほ)のごとく、螺(かい)を吹(ふか)せ、太(たい)鞁を打(うた)せ、曳(ゑい)々ごゑに山彦の響(ひゞ)きを添(そへ)、昼夜(ちうや)をわかたず攻(せめ)ければ、斎藤が家にて、日根野(ひねの)以下の、名を得し譜(ふ)代の輩(ともがら)、防(ふせ)ぐに術(てだて)なく、士卒(しそつ)十万に落(おち)て行(ゆ)く。

 小造、気(き)に乗(の)り、「此勢(いきほ)ひを脱(ぬか)すべからず、只一息(いき)に乗込(のりこ)め」と、馬を乗廻(まは)し馳(はせ)廻し、再拝(さいはい)を振(ふり)立/\下知(げぢ)しければ、はやり切たる若者共、なじかは少しも猶予(ためら)ふべき。洪(こう)水の堤(つゝみ)を切りしがごとく、二重(ゑ)の逆(さか)茂木を引破(やぶ)り、忽(たちまち)城(しろ)の石壁(せきへき)より、一同に咄(どつ)と乗込(のりこ)んだり、討残(うちのこ)されたる斎藤が軍勢共も、爰を詮(せん[ど])と相戦(たゝか)ふ。

 小造美濃守は馬を乗捨(のりすて)て、松柏生茂(おひしげ)りたる間を潜(くゞ)り、奥(おく)につと走(はし)り入りたるに、敵(てき)の大将、斎藤右兵衛(ノ)太夫龍興、鹿(しか)の角(つの)打たる兜鑿(かぶと)に、春日大明神の金字(きんじ)を前立にし、緋威(ひおどし)の鎧(よろい)に、孔雀(くじやく)の羽(は)の羽織(はおり)を着、軍配団(ぐんばいうちは)を握(にぎつ)て、板縁(ゑん)に床机(しやうぎ)を立させ、腰(こし)打かけて居たりけり。

 小造〓(きつ)と見て、願(ねが)ふ所の相手ぞと思ひ、

『小造美濃守是にあり。参りそふ』

と走(はし)り掛(かゝ)り、又細(じうもんじ)の鑓(やり)を以て打(てう)どつく。

 龍興も心得たりと、団(うちは)をなげ捨(すて)、太刀を抜(ぬい)て、暫(しば)しは戦(たゝか)ふと見へけるが、小造すかさず龍興を突(つき)伏せ、縁の上へ飛揚(とびあが)つて、龍興(たつおき)が首を掻(かき)落す。其間に、小造が軍勢共、方/\に火を指(さし)たれば、猛(みやう)火十方より燃(もへ)上り、さしも繁昌(はんじやう)せし稲葉(いなば)山も、悲(かなし)み一時に来りて、三葉(みつば)四葉に作(つく)り磨(みが)きしも、いつしか煙(けむり)の種(たね)とぞなりにける。

 急(いそ)ぎ飛脚(ひきやく)を馳(はせ)て、尾州(びしう)へ此由を云(い)ひ送(おく)りしかば、信(のぶ)長大に感悦(かんゑつ)あり。

「兼(かね)て約(やく)せしごとく、小造(こづくり)に美濃(みの)の国を、一円(ゑん)にあたふる条、龍興(たつおき)がごとく、土岐(とき)代々の城地(じやうち)、稲葉(いなば)山に居住(きよぢう)して、国中の政道(せいだう)正(たゞ)しく、執(と)り行(おこな)ふべし」

と、仰下されしかば、小造飛龍(ひりやう)の勢(いきを)ひを得、諸士(しよし)恐(おそ)れ敬(うやま)ふこと夥(おびたゝ)し。

 其(それ)より稲葉(いなば)山に、新(あら)たに城(しろ)を筑(きづ)き、城戸(きど)・矢倉(やぐら)・天守(てんしゆ)以下、悉く銀(ぎん)を打延(うちのべ)て造(つく)らせたれば、闇夜(あんや)にも照(て)り渡(わた)つて、雲の肌(はだへ)にとおり、河(かは)のながれに映(ゑい)じて、さながら昼(ひる)のごとくなれば、咸陽(かんやう)〓山(りさん)の楽(たのし)みにも劣(をと)るべからず、小造(こづくり)美濃守(みのゝかみ)稲葉(いなば)山の城(しろ)に入りて、先(まづ)諸士(しよし)の軍労(ぐんらう)を謝(じや)せんがため、末(すへ)%\の者共゛まで、悉(こと%\)く本丸に招(まね)き寄(よ)せ、外山太夫(こんはるだゆふ)に能(のう)をせ<挿絵見開き1丁>させ、様/\の饗応(きやうおう)種々(しゆ%\)の珍味(ちんみ)をつくし、盃(さかづき)数巡(すじゆん)にして、満座(まんざ)の面色(めんしよく)紅(くれない)にまさり、金銀(きん%\)の嶋台(しまだい)に、高砂(たかさご)の松の齢(よはひ)をうつし、錦繍(きんしう)の山をかざれり。

 盃(さかづき)既(すで)に終つて、一座(ざ)「千秋楽(しうらく)」とうたひしこゑに、小造(こづくり)おどろき夢(ゆめ)打さめたれば、不思議(ふしぎ)や腹(はら)の上に、大なる白鼠(しろねずみ)の、三疋(びき)まで揚(あが)り居て、小造が伏(ふし)たる廻(まは)りを、鼠(ねずみ)のいくらともなく、くるり/\と廻(まは)り居る。其さまさながら、行列(ぎやうれつ)に似(に)たり。

 小造、「こは怪(あや)しき事どもかな」と思ひ、足手(あして)を延(のば)して、「うん」と云(い)ひて起上(おきあが)れば、鼠(ねず)共は飛あがり、大に驚(おどろ)きたる気色にて、何所(いづこ)ともなく逃失(にげう)せけり。

 小造(こづくり)、何とも不審(ふしん)晴(は)れず、空(そら)を仰(あを)ぎ見やりたれば、月はまだ半天(なかぞら)に及ばずして、東の方にかゝやけり。小造弥(いよ/\)あやしくおもひ、社(やしろ)の辺(あた)りを廻り見るに、後(うしろ)の方宮柱(みやばしら)の本に、大なる鼠穴(ねずみあな)あり。

「如何様当社(たうしや)は鼠(ねずみ)の宮といへば、白鼠(はくそ)を祭(まつ)れる処の社(やしろ)にや。実(げに)も、『抱朴子(ほうぼくし)』と云へる書に、

鼠(ねずみの)寿(じゆ)三百歳(さい)満(みつるときは)百歳(さいに)則色(いろ)白(しろく)善(よく)憑(よつて)人(に)而下(くだり)名(なづけて)曰仲(ちうといふ)能(よく)知(しる)一年(ねん)中(ぢうの)吉(きつ)凶(けう)及(および)千里(せんりの)外(ほかの)事(ことを)

と書たれば、白鼠(はくそ)の越によつて、此夢(ゆめ)を見せしにや」

と思ひ、猶奥(おく)の方、小闇(こぐら)き所に歩(あゆ)み行しに、破(やぶ)れたる古蓑(ふるみの)あり。引揚(ひきあげ)見(み)れば、下には古(ふる)き銀紙(し)を、多く引来(ひきゝた)りて巣(す)に作(つく)れるが、鼠(ねずみ)の子(こ)は幾許(いくら)とも数を知(し)らず。

 爰(こゝ)に至(いた)つて、小造(こづくり)おもひ当(あた)りけるは、

「我、爰に、美濃(みの)の国守(こくしゆ)となりしこと、能(よく)/\是を考(かんがふ)るに、美濃(みの)は則(すなはち)蓑(みの)なるべし。蓑(みの)は是(これ)藁(わら)にして稲(いね)の葉(は)なり。稲葉(いなば)山は是ならんか。我銀城(ぎんじやう)を築(きづき)しは、此銀紙(ぎんし)の巣(す)なるべし。あら不思議(ふしぎ)のこと共かな。盧生(ろせい)が一炊(いつすい)の夢(ゆめ)も、かくこそ」

と思ひ、傍輩(ほうばい)の者共に、此ことを語れば、皆奇異(きい)のおもひをなせり。

 斯(かく)て安房守(あはのかみ)、丸子(まるこ)が屋敷を立しかば、小造(こづくり)も相したがひ、植田(うへだ)にぞ帰りける。

 翌日(よくじつ)安房守(あはのかみ)、此事を聞、急ぎ小造弥八を呼(よび)出し、夢(ゆめ)の次第つく%\と尋(たづ)ねきゝ、

「いにしへの盧生(ろせい)は異国(いこく)。吾(わが)朝(ちやう)にて係(かゝ)るためし、前代(ぜんだい)にもいまだ聞(き)かず。汝(なんぢ)が察(さつ)するごとく、美濃(みの)は簔(みの)、稲葉(いなば)山は稲(いね)の葉(は)なるべし。然るときは尾張(おはり)の織田(おだ)信長(のぶなが)を夢(ゆめ)見(み)しも、尾張は鼠の尾張(おはり)にして、織(お)田も鼠(ねずみ)のおだならんか。夢(ゆめ)に美濃守(みのゝかみ)となりぬれば、今よりして、夢美濃(ゆめみの)と名乗るべし。当時(たうじ)、武田(たけだ)の家にては、原(はら)美濃(みの)、馬場(ばゞ)美濃(みの)とて、美濃守(みのゝかみ)の受領(じゆれやう)は、信玄公(しんげんこう)、大切におぼしめす故、いか程武功(ぶこう)の誉(ほま)れありとても、容易(たやす)く美濃守(みのゝかみ)にはなりがたきに、汝(なんぢ)陪臣(ばいしん)の身として、夢美濃(ゆめみの)と号(がう)すること、希代(きだい)の名誉(めいよ)なるぞ」

とたわむれて、手を拍(うつ)て笑(わら)ひければ、是よりして、小造弥八が異名(いみやう)を呼(よん)で、時の人夢美濃(ゆめみの)の弥八とぞ申ける。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の李東郭(りとうくわく)が曰。

 「昔(むかし)、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)と云へる者(もの)、広陵(くわうりやう)といふ所(ところ)に住(すめ)り。其家の南(みなみ)に古(ふる)き槐(ゑんじゆ)の木あり。

 或とき、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)、彼(かの)木の下に遊(あそ)びけるに、酒に酔(ゑひ)て苦(くる)しみければ、朋友(ほうゆう)二人、〓{林+分/補・3619}(ふん)を連(つれ)て、家に帰(かへ)りて伏(ふさ)しめたり。

 時に、忽(たちまち)夢(ゆめ)見けるは、黒(くろ)き衣(ころも)を着たる者二人来(きた)つて、

『槐安国(くわいあんこく)の王より召(めさ)れ候ゆへ、使者(ししや)として参て候』

といふ。淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)大に悦(よろこ)び、二使(し)にしたがひ車(くるま)に乗行(のりゆく)に、槐(ゑんじゆ)の木の下、一の穴(あな)の内に入る。

 内には大なる城郭(じやうくわく)あり、朱(しゆ)の大門あつて、槐安国(くわいあんこく)といふ額(がく)あり、時に老(おひ)たる官(くわん)人一人来り、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)をともなひて、広殿(くわうでん)に升(のぼ)る。王と覚しき人は、白き練(ねり)の装束(しやうぞく)を着し、朱(しゆ)の冠(かんむり)を着(き)て座し給へり。

 〓{林+分/補・3619}(ふん)大に恐れ拝(はい)しければ、王是を見給ひ、

「吾(わが)娘(むすめ)を以て、汝(なんぢ)にあたゆるぞと」

の給ひて、婚礼(こんれい)を執(と)り行(おこ)なひ給へば、数(す)十人の官女等(くわんぢよら)楽(がく)を奏(そう)す。

 斯(かく)て、官女等燈火(ともしび)をとり、〓{林+分/補・3619}(ふん)を誘(いざな)ひ行に、金翠(きんすい)の歩鐘(ぶしよう)玲瓏(れいろう)として断(たへ)ず。

 又一つの門あつて、脩儀宮(しゆぎきう)と云ふ額(がく)あり。是(これ)姫君(ひめぎみ)のおはします所(ところ)なり。姫は金枝(きんし)公主(こうしゆ)と申奉り、春の花をも妬(ねた)み、秋(あき)の月をもあざむく斗りなれば、淳(じゆん)于〓{林+分/補・3619}限りなくめでゝ、是より歓楽(くわんらく)に日を送(おく)れり。

 然るに王の給ひけるは、

『吾(われ)南柯郡(なんかぐん)の政(まつりごと)治(おさま)りがたし。淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)を以て郡守(ぐんしゆ)とすべし』

とて、〓{林+分/補・3619}(ふん)を南柯郡(なんかぐん)に指遣(さしつか)はさる。淳于〓{林+分/補・3619}は、金枝(きんし)公主(こうしゆ)をともなひ、南柯郡に至(いた)るに、所(ところ)の者共音楽(おんがく)をなして来り迎(むか)ふ。斯(かく)て、二十年の春秋(はるあき)を送(おく)りけるに、郡中(ぐんちう)大に理(おさま)り、諸民(しよみん)悦(よろこび)び服(ふく)し、既(すで)に五人の男子(なんし)、二人女子(によし)をもふけゝるに、公主(こうしゆ)病(やま)ひに犯(おか)され、むなしくなり給ひしかば、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)大になげき、公主(こうしゆ)の死骸(しがい)を棺(くわん)に入(い)れ、舁(かゝ)せて槐安国(くわいあんこく)に帰(かへ)りしかば、国王(こくわう)は夫人(ふじん)と共に素服(そふく)して、郊野(かうや)に出迎(いでむか)へて慟哭(どうこく)し、終(つゐ)に、盤龍岡(ばんりやうかう)といふ所(ところ)にぞ葬(ほうむ)りける。其後(そのゝち)も淳于〓{林+分/補・3619}は、貴戚(きせき)たるを以て、繁昌(はんじやう)日(ひゞ)に盛(さか)んなりけるに、国中(こくちう)俄(にはか)にひそめき立て、都(みやこ)亡(ほろ)び宗廟(そうびやう)崩壊(ほうゑ)せんこと、近(ちか)きにありと騒動す。

 是(これ)淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)が侈(おご)りより出たりと沙汰(さた)しければ、王(わう)、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)を召(めさ)れ、

「卿(けい)は暫(しばら)く故郷(こきやう)に帰(かへ)り、一門にも対面(たいめん)せよかし」

とて、二人の使者(ししや)を添(そへ)らるゝ。両使(し)仰にしたがひ、淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)を送(おく)つて、一つの穴(あな)より出る、とおもへば、夢(ゆめ)覚(さめ)ぬ、眼(まなこ)を開(ひら)き見(み)れば、童子(どうじ)は庭(には)を掃除(さうぢ)せんがため、箒(はゞき)を持(もつ)て立(た)てり。

 二人の客(きやく)は榻(しぢ)に足(あし)を洗(あら)ひ居(ゐ)る。日(ひ)はいまだ西(にし)の垣(かき)に隠(かく)れず。酒樽(さかだる)もいまだ、東(ひがし)の〓{補・4254}(まど)の本(もと)にあり。

 淳于〓{林+分/補・3619}(じゆんかんふん)奇異(きゐ)のおもひ晴(はれ)ず、二人の客(きやく)と共に見(み)れば、古(ふる)き槐(ゑんじゆ)の木の下に、大なる穴(あな)あり。土(つち)にて城郭(じやうかく)の状(かたち)をなす、内に蟻(あり)数万(すまん)あり。其中に殊(こと)に大なる蟻(あり)二疋(ひき)、首(かしら)赤(あか)くして白(しろ)き羽(はね)あり。槐安国(くわいあんこく)の王是(これ)なり。又一つの穴(あな)を見(み)れば、直(たゞち)に南(みなみ)の方(かた)の枝(ゑだ)に上る。蟻(あり)又多(おゝ)く其(その)中(なか)にあり。南柯郡(なんかぐん・みなみのゑだのこほり)とは是(これ)なり。

 又一つの穴(あな)あり。わだかまりてさながら龍(りやう)の形(かたち)のごとく、一尺あまりの小墳(こづか)あり。

『是(これ)則(すなはち)盤龍岡(ばんりやうかう)ならんか。扨は蟻(あり)のなせし夢(ゆめ)にこそ』

とて、俄(にはか)に其(その)穴(あな)を掩(おゝ)ひ塞(ふさが)せければ、其(その)夜(よ)雨風(あめかぜ)はなはだし、翌朝(よくてう)見(み)るに、其(その)穴(あな)遂(つゐ)に失(うせ)ぬ。

 数(す)万の蟻は何所(いづこ)へか行(ゆき)つらん、一疋(ひき)もなかりし。国に大恐(けう)あらん、都(みやこ)うつしせんとありしは、此験(しる)しにや

といへり。此事陣翰(ちんかん)が、『大槐宮記(くわいきうき)』に見へたり。

 蟻(あり)だにもかゝる怪(あやし)みをなせり。まして白鼠(しろねずみ)に於(おゐて)をや、何(な)んぞ是をうたがはん、

と其理(り)明(あき)らかに、東郭(とうくわく)是を語(かた)りき。

和漢(わかん)乗合船巻之第三

 二世夫婦(にせのふうふ) 附石碑(いしぶみは)恋仲立(こひのなかだち) 落人(おちふどは)隠者友(ゐんじやのとも)

  再来(さいらいの)笑顔(ゑがほ) 附銀杏樹下(ぎんあんじゆかの)墓(はか) 魂魄(たましゐ)閨来(ねやにきたりて)契(ちぎる)

 所(ところ)からとて山風もあらく、軒(のき)もる月の影(かげ)氷(こほ)るとよみし、四国(こく)の土佐(とさ)といふ所(ところ)は、人の心も気早(きばや)に、深(み)山の猿(さる)さへ余所(よそ)にまさつて、賢(かしこ)き国の太守(しゅ)、長曽我部(そがべ)土佐守(とさのかみ)元親(もとちか)と聞(きこ)えしは、宮内(くないの)少輔(せふ)元国(もとくに)の嫡子(ちやくし)にて、長岡(ながをか)郡(こほり)江村(むら)の、岡芋(をかう)の城(しろ)をたもち、小身にてありしか共゛、計略(けいりやく)の智恵(ちゑ)の輪(わ)にかけて、敵(てき)を釣(つる)ことの妙(めう)を得、するどなる鉾(ほこさき)にまはつて、当(あた)る者なかりしかば、終には四国をも、こと%\く手に入(い)れて、威光(ゐくわう)を南海(なんかい)にかゝやかし、立鳥(たつとり)を八嶋(やしま)の渚(なぎさ)に膝行(いざら)すばかり。何か此大将(しやう)の、心に叶(かな)はぬ事もあらじと見えたりしに、太閤(たいこう)秀吉公(ひでよしこう)の武威(ぶゐ)にくだかれ、阿波(あは)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)の、三ヶ国(こく)を指上(さしあげ)、土佐(とさ)一国(こく)を賜(たま)はり、太閤に帰服(きふく)し奉らる。秀吉公(ひでよしこう)も、元親(もとちか)の武勇(ぶゆう)を感(かん)じ、寵遇(てうぐう)日(ひゞ)にあつかりしに、天正十四年の冬(ふゆ)、嫡子(ちやくし)弥三郎信親(のぶちか)、豊後(ぶんご)の戸次(べつき)川にて、討死(うちじに)をとげられしかば、元親卒去(しゆつきよ)の後(のち)、次男(じなん)右衛門太郎盛親(もりちか)、父の遺跡(ゆいせき)を継(つゐ)で、宮内(くないの)少輔(せふ)に補(ふ)せられ、前(ぜん)代の格(かく)を守(まも)つて家法(かほう)そゝけず。民(たみ)のかまども煙(けむり)あつし。

 爰(こゝ)に、長曽我部(そがべ)に仕(つか)へし、佐賀(さが)勝(せう)九郎といふ者あり。幼(よう)少より、盛(もり)親の傍小性(そばこしやう)にて、心ざし愛(あい)/\しかりけるが、元服(げんぷく)の今に至(いた)りても、よろづ風流(ふうりう)をのみ好(この)み、武芸(ぶげい)のいとまは、連歌(れんが)茶(ちや)の湯(ゆ)なんどに日を送(おく)りけるが、或(ある)とき所用(しよよう)ありて横波(よこなみ)といふ所(ところ)まで行しに、折しも花(はな)の比(ころ)、梢(こずへ)の色(いろ)にうかされ、彼方(かなた)此方(こなた)とせし程に、出見(いづみ)の里(さと)に至(いた)り、花山(くわざん)の法皇(ほうわう)の御廟(ごびやう)に詣(もふで)て、石碑(せきひ)の文字(もんじ)に感涙(かんるい)すくなからず。幾度(いくたび)か見上(あ)げ見おろせしに、此所の住士(ぢうし)出見(いづみ)小左衛門出来(いできた)り。

「是(これ)は珍(めづ)らしや。何方(いづかた)への御(ン)越(こし)ぞ」

といふに、勝九郎打おどろき、かへり見れば出(いづ)見なり。

「去(さ)ればとよ。用事(ようじ)ありて俄(にはか)に横波(よこなみ)まで罷越(まかりこし)候」

といふ。小左衛門聞(きき)て、

「是ぞよき幸(さいはひ)、下拙(げせつ)が宿(やど)へ御(ン)立寄(より)あり、今宵(こよひ)は一宿(しゅく)なさるべし。麁菜(そさい)の饗応(きやうおふ)仕るべし」

といふを、勝九郎さま%\辞退(じたい)せしかども、「何か心を置(をか)るべき」と、強(あなが)ちにいひし程に、「堅(かた)くいなむも、却(かへつ)て無調法(ぶていほう)とや申さん」とて、小左衛門と打つれ、渠(かれ)が宿所(しゆくしよ)に入(リ)ぬ。

 出見(いづみ)、種々(しゆ%\)珍物(ちんぶつ)をつくし、さま%\ともてなしける程に、酒たけなはに及んで後(のち)は、互(たがい)に木枕(きまくら)により、四方(よも)山の物語に、諸家(しよけ)の評判(ひやうばん)、武士(ぶし)の剛臆(がうおく)など語(かた)りあふ。

 此出見に一人の娘(むすめ)あり。いまだ二八の花(はな)かづら、かゝる田舎(いなか)の片辺(かたほと)りにも、京恥(はづ)かしきそだちなりしが、今日(けふ)の客(きやく)は何人゛やらんと、物さびしさのまゝに、部屋(へや)の衾戸(ふすまど)を、ほそ%\と忍(しの)びあけ、座敷(ざしき)の方(かた)をのぞき見るに、年の程(ほど)廿二三と見えて、たぐひなき美男(びなん)なれば、出見(いづみ)が娘(むすめ)も、是(これ)に見とれ居(ゐ)る。

 佐賀(さが)も其(その)面影(おもかげ)を見て、左(さ)あらぬ体(てい)にもてなしながら、折/\彼方(かなた)に尻目(しりめ)づかいせしに、此むすめひたと、目くはせをのみして、扨(さて)止(やみ)ぬ。

其夜(よ)は、勝九郎出見が家(いゑ)に一宿(しゆく)して、翌日(よくじつ)横波(よこなみ)に至り、其後(そのゝち)佐賀に帰(かへ)りしとかや。それより勝九郎は、出見が娘(むすめ)の面影(おもかげ)のみ、まぼろしに立そひて、寝(ね)ても覚(さめ)ても忘(わす)れざれば、仲(なか)立をこしらへ、出(いづ)見が方にいひ送(おく)りて、彼(かの)むすめをこひうけ、婚礼(こんれい)首尾(しゆび)よく相済ぬ。

 出見も勝九郎は、当時主君(しゆくん)、長曽我部(そがべ)殿(どの)の出頭(しゆつとう)人なれば、聟(むこ)一疋(ひき)と悦び、後栄(こうゑい)を待居(まちゐ)けり。娘(むすめ)も勝九郎も、日比つもりし思ひの程の、早(はや)くも末(すへ)とをりて、和利(わり)なき妹背(いもせ)の衾(ふすま)をかさね、生(いき)ては偕老(かいらう)のかたらひ深(ふか)く、死(し)しては同穴(どうけつ)とちぎりしに、程なく慶(けい)長五年の秋(あき)、長曽我部(そがべ)宮内少輔(くないのせふ)盛親(もりちか)、石田治部少輔(ぢぶのせふ)三成(みつなり)が謀反(むほん)にくみし、軍勢(ぐんぜい)を引卒(ゐんそつ)して、美濃(みの)の国関ヶ原(せきがはら)に打越(こへ)られしかば、佐賀(さが)勝九郎も、主人(しゆじん)にしたがひ出陣(しゆつぢん)せり。

 斯(かく)て、盛親(もりちか)は、長束(つか)大蔵太輔(くらのたゆふ)正(まさ)家、毛利(もうり)、吉(きつ)川、安国寺(あんこくじ)と共に、上垂井(かみのたるゐ)南宮(なんぐう)山の、岡鼻(をかゞはな)といふ所に陣(ぢん)せらる。其勢(せい)都合(つがう)二万余騎(よき)。山より麓(ふもと)に至(いた)るまで、十八段(だん)に備(そな)へたり。凡(およそ)石田方(がた)の惣勢(そうぜい)、十一万八千六百八十余騎(よき)、南(みなみ)は南宮(なんぐう)山、北は伊吹(いぶき)のふもとまで、錐(きり)を立るの寸地(すんち)なく、錦(にしき)をしけるごとくなり。如何(いか)なる天竺(ぢく)震旦(しんたん)の勢(せい)が、数(かず)をつくして寄(よせ)たりとも、たやすく当(あた)るべしとは見へざりしに、九月十五日の朝(あさ)より、合戦(かせん)初(はじま)りて、石田方(がた)散(さん)%\にたゝかひまけ、治部少輔(ぢぶのせふ)三成(みつなり)、小西摂津守(つのかみ)、大谷(たに)刑部少輔(ぎやうぶのせふ)を初め、或(あるい)は討(うた)れ或は生捕(いけどら)れて、軍勢(ぐんぜい)十(ほう)方に落(おち)うせぬ。野上(のがみ)、関ケ原(せきがはら)は、討(うた)れし者の屍(かばね)、新(あら)たに山をつき、国中は皆(みな)黒血(くろぢ)川となつて、草葉(くさば)は紅葉(もみぢ)を染(そめ)出せり。宮内少輔(くないのせふ)盛親(もりちか)も、漸(やう)/\として戦場(せんじやう)をのがれ、此所(こゝ)彼所(かしこ)の敵(てき)の中を、切抜(きりぬけ)/\落(おち)られける程に、軍勢(ぐんぜい)はおもひ/\心/\に、四角(かく)八方に逃散(にげち)れり。

 佐賀勝九郎も、心ならず、多(おゝ)くの敵(てき)に押(おし)へだてられ、主人盛親(もりちか)にも離(はなれ)れ、下人共をも失(うしな)ひて只ひとりになり、乗たる馬さへ鉄炮(てつぽう)にあたり、伏(ふし)て働(はたら)き得ざりしかば、其より陣羽織(ぢんばをり)・鎧(よろい)・兜〓(かぶと)をも脱(ぬぎ)すてゝ、浅猿(あさまし)き姿(すがた)になり、旅人(りようじん)の体(てい)にもてなし、越前の国へと心ざして落(おち)行たり。

 木の目峠(たうげ)荒乳(あらちゝ)山に程近き、海路(かいろ)山の麓(ふもと)に、素竹斎(そちくさい)とて、浮世をすてし隠者(ゐんじや)あり。是は、其はじめ、堀尾(ほりを)帯刀(たてわき)吉晴(よしはる)に仕(つか)ヘ、脇(わき)本治部(ぢぶ)左衛門とよばれし者にて、勝九郎とは、母方(はゝかた)に付て従兄弟(いとこ)なれば、其(その)好(よし)みによりて素(そ)竹が許(もと)に尋ね行、右の次第(しだい)を語りしかば、素竹二心なくうけがひ、さま%\といたわりて、一間(ま)をしつらひ勝九郎に<挿絵半丁2面>渡し、人しれずかくまへをけり。

 勝九郎が妻は本国佐賀にありしが、父は早身まかりぬ。夫勝九郎は主君の供にて、戦場(せんぢやう)に趣(おもむ)きしかば、武運(ぶうん)長久のため、殊には夫恙(つゝが)なく、帰陣(きぢん)し給ふやうにとの、祈誓(きせい)をかけ奉んがため、蹉〓(あしずり)の観音(くわんをん)に詣(もふ)で、それより月山(ぐわつさん)にかゝり、田尽(たづくし)の磯部(いそべ)を見るに、風景(ふうけい)常(つね)ならず。

「仙境(せんきやう)にや入ぬらんと怪(あや)しきまでに思はれて、筆にも尽(つく)しがたく、詞(ことば)にもいかで及ばん」

と、おもはるゝ程(ほど)なりしかども、

「我夫のもしあやまちやし給ふらん。侍たる者は常(つね)に家(いゑ)を出るにも敵(かたき)七人ありといへり。益(まし)てや云(いは)んおそろしき、戦場(せんぢやう)に向(むか)ひ給ひぬれば、如何なるうき事をや聞んずらん」

と、明暮の物おもひに、心も心ならで、海(うみ)山の怪(あや)しき景気(けいき)も曽(かつ)ておもしろからず。

 佐賀に帰りては、又仁(に)井田(た)の五社(しや)にいのり、さま%\とせし所に、過し九月十五日、美濃(みの)の国関ヶ原(せきがはら)の合戦(せん)に、石田方大に破(やぶ)れ、治部少輔(ぢぶのせふ)以下の諸将(しよしやう)、或(あるひ)は討(うた)れ或は生捕(いけどら)れて、長曽我部殿(そかべどの)も行衛(ゆくゑ)もしらず落(おち)給ひしなんど取沙汰(さた)し、国中俄(にはか)に上を下へと震動(しんどう)し、縁(ゑん)にふれ便(たよ)りに付て、己(おの)がさま%\に逃行(にげゆ)きしかば、佐賀が妻(つま)大にかなしみ、

「扨、なさけなの世の中や。父のひとりおはせしも、去年(こぞ)後(おく)れまいらせぬ。夫にさへ別(わか)れて、あらぬ戦場(せんぢやう)の露(つゆ)とやなり給ひつる。主君(しゆくん)の御供(とも)して、落給ひしとは聞しかども、再(ふたゝ)び此国へ、帰り給ふことは叶(かな)ふまじ。何国(いづく)如何(いか)なる里にて、からき目にやあひ給ふらん。自(みづから)も又如何なる敵(てき)の手にとらはれ、うき事にあふのみか、夫(おつと)の名までも、くださん事のかなしさよ。生(いき)て物を思はんも心ぐるし。いかでか命に替(かへ)て、親(おや)夫(おつと)の名をば下すべき」

とて、佐賀の浦(うら)の千尋(ちいろ)の底(そこ)に身をしづめて、終(つゐ)にはかなくなれり。

 夫の勝九郎は、かゝる事とは夢(ゆめ)にもしらず。越路(こしぢ)の海路(かいろ)山に忍び居て、

「我(わが)妻(つま)はいかゞなりつるやらん」

と、おもひ明(あか)しおもひくらし、国本のみ恋しく、夜だにやすくはいねもやらず、かたちもやせおとろえしが、其年も暮(くれ)て、明る年の霜(しも)月半(なかば)、所がらとて雪(ゆき)は軒(のき)だけに積(つも)り、淋(さび)しさも今更(さら)まさりて、囲炉裏(ゐろり)をのみ友(とも)とせしに、或(ある)日の徒然(つれ%\)、入逢(あひ)も遠(とを)くひゞく比、黒(くろ)き帽子(ぼうし)に顔(かほ)をかくし、菅笠(すげがさ)引かぶりたる女の、雪ふみ分て、尋来る。

「あやしや。誰(たれ)なるらん」

と思ふに、笠帽子(かさぼうし)をとれば、本国佐賀に置(をき)し我妻(わがつま)なり。勝九郎大におどろき

「こは如何にして、尋(たづ)ね来り給ひしぞ」

といふに、

「去(さ)ればとよ。関ヶ原(せきがはら)の軍(いくさ)破(やぶ)れし後は、彼方(かなた)此方(こなた)に身を隠(かく)し、甲斐(かひ)なき月日を送(おく)りしに、此所に隠(かく)れ忍びましますと、風の便(たよ)りに聞さふらひしかば、あるにもあられず、尋(たづ)ね参り候なり」

とのみいひて、泣(なく)涙(なみだ)は只雨(あめ)よりもしげかりしかば、勝九郎も涙にくれ、余(あま)りの事に胸(むね)ふさがり、語るべき詞(ことば)もなし。それより素竹(ちく)にも引合せしかば、素(そ)竹悦ぶ事限(かぎ)りなし。

 其夜(よ)は年月のたがひに積(つも)る物語に、夢(ゆめ)もむすばず、思ひの外に新枕(にゐまくら)の心地して、二人の悦び、たとへを取に物なし。斯(かく)て次の夜も、又宵(よひ)より閨(ねや)に引こもり、ともに枕を双(なら)べ、こしかたの物語に、或(あるい)は泣(なき)、或は笑ひ、水もらせじと契(ちぎ)りしが、丑(うし)三つの比、勝九郎うつゝ心゛なく寝(ね)入りたるに、夢(ゆめ)心゛に彼(かの)女房、

「今は何をかさのみは隠(かく)しさふらはん。自(みづから)ことは、過(すぎ)つる年の秋、味方(みかた)の軍(いくさ)利(り)なかりしよし、国本に聞へし故、いづくにて如何なる者の手にかゝり、命をや失(うしな)ひ給ふらん。又何国(いづく)に落(おち)行ておはすらん。兎(と)につけ角(かく)につけ、本国に帰り給はんことも叶(かな)はねば、よしや生(いき)て物をおもひ、敵(てき)の方にとらはれて、夫(おつと)のうき名までも、くださんよりはと思ひ、佐賀の浦(うら)に身をしづめ、此世を去(さり)さふらふなり。自(みづから)、年(とし)若(わか)ふして、仏(ほとけ)の道(みち)にも立入(い)らず。なせし善根(ぜんこん)とてもさふらはねども、よく貞女(ていぢよ)の節義(せつぎ)をまもりし故、又人界(にんがい)に生をうけ、町人ながらも此国の府(ふ)中柳(やなぎ)町の大福人、木曽屋祐清(ゆうせい)と申者の、妻(つま)の腹(はら)にやどり候て、早(はや)明日(あす)は再生(さいしやう)いたしさふらふなり。去によりいまだ生れざる児に今ひとたび、残る妹背(いもせ)のかたらひをもなし、年月つもりしおもひをも、晴(はら)し参らせたく、昔の姿(すがた)をかりて魂(たましひ)うかれ来りさふらふなり。此事うたがひ給ふべからず。木曽屋が家に生れさふらふ証拠(しやうこ)は、自常に左の腕(かいな)の下つら、肘(ひぢ)より三寸余(あま)り上(へ)に、青き痣(あざ)のさふらふが、是を其まゝにて生れ候はん。是ぞ其しるしにてさふらふなり。其痣(あざ)見せ候はん」

とて、左の腕(かいな)をあらはし、彼(かの)痣(あざ)を見するとおもへば、忽(たちまち)夢(ゆめ)は覚(さめ)ぬ。

 勝九郎打おどろき、やゝ消(きえ)残りたる燈(ともし)の影にて、傍(かたはら)を見れば、伏たる妻の姿(すがた)は失(う)せて、枕夜の物のみ残りたり。勝九郎大にあきれ只夢(ゆめ)の心地といはんも此事かは、夢にてはなかりけり。夢あだ事の夢ならば、覚(さめ)よ/\とうつゝなく、蹉〓(あしずり)をしてかなしめり。

 扨しも、返(かへ)るべきことならねば、素(そ)竹が閨(ねや)にゆき、ゆすり起(おこ)して此事を語(かた)るに、素(そ)竹も大におどろき、

「扨も是非(ぜひ)なき次第。希(き)代の珍事(ちんじ)といひつべし。若(もし)又野狐(やこ)の所為(しよゐ)にやあるらん」

といふ。勝九郎聞て、

「何(なん)ぞ、某(それがし)野狐(やこ)ごときにたぶらかされ候はん。去ながら、其証(しやう)を見定(さだ)めずしては何共不審(ふしん)晴(はれ)申さず。此上は明日早々府中(ふちう)に立越(こへ)、様子(やうす)を見届(とゞ)け候はん」

とて、早出立つ支度(したく)をなし、未明(みめい)に海路(かへろ)山を立て、急(いそ)ぎ府(ふ)中に趣(おもむ)き、柳(やなぎ)町に至り、木曽屋が許(もと)に尋(たづ)ね行(ゆ)き、亭主(ていしゆ)祐清(ゆうせい)にあひ、右の次第(しだい)をくはしく語(かた)れば、祐(ゆう)清、横(よこ)手をうつて、

「扨/\不審(ふしん)。拙者(せつしや)が妻、只今、早産(さん)仕り、則(すなはち)女子(によし)にて候なり。去(さり)ながら、御自分(ごじぶん)は、御゛一げんの旅人(りよじん)、慮外(りよぐわい)ながら信(しん)用仕りがたし。何にても其証拠(しやうこ)ばし候か」

といへば、

「さん候゛。其証(しやう)には、左の腕(かいな)の下(へ)つら肘(ひぢ)より三寸あまり上に青(あを)き痣(あざ)の候を、直(すぐ)に又持(もち)て生(むま)るべく候へば、是ぞ其証拠(しやうこ)なるとて、腕(かいな)を見すると覚へて、夢(ゆめ)は破(やぶ)れて候ひし」

といふ。祐清(ゆうせい)聞て、

「然らば其証をたゞし候はん。是へ御(ン)入(リ)候へ」

とて、妻女(さいぢよ)が産(うぶ)屋に倶(ともな)ひ入り、彼(かの)生(むま)れ子(ご)を見るに、果(はた)して左の腕(かいな)、名(な)ざせし所(ところ)に病あり。祐清、弥(いよ/\)感心(かんしん)し、扨/\貞女(ていぢよ)の節(せつ)に死(し)し、係(かゝ)る奇特(きどく)を顕(あら)はすこと、前(ぜん)代にいまだ聞ず。末(まつ)代にも又ためし候はじ。然れば、御自分(ごじぶん)は、正(まさ)しく我子が前世(ぜんぜ)の夫(おつと)。いかでが疎略(そりやく)に存すべき。幸(さいわい)かな某(それがし)男子一人候ひしか共、五年以前(いぜん)に世をさり、今五十に余(あま)り、一人の娘をもふけ候なり。此上(ヘ)は歴々(れき/\)の御浪人(ごろうにん)を、町(ちやう)人の養子にとは近比憚(はゞか)り入り候へ共、某(それがし)が名跡(みやうせき)を相続(さうぞく)あつて、給はり候へ。此女子十四五にもならば、婚礼(こんれい)をとりおこなひ候はん」

といふ。勝九郎大によろこび、

「是こそ願(ねが)ふところにて候へ。然らば二世の夫婦(ふうふ)となり候はん。皆(みな)是(これ)妹背(いもせ)の縁(ゑん)の、尽(つき)ざる所(ところ)にてこそ候へ」

とて、其より木曽屋が養子(やうし)となり、祐(ゆう)清が在俗(ざいぞく)の時の名(な)なればとて、佐賀勝九郎を、木曽屋新右衛門と改(あらた)め、祐清夫婦を誠(まこと)の親(おや)とうやまひけるが、十四年過(すぎ)て娘(むすめ)十四、新右衛門三十八にて、婚礼(こんれい)をとりむすび、二世の夫婦(ふうふ)となりしとぞ。

<以下一字下げ>

朝鮮(ちやうせん)の学士(がくし)李東郭(りとうくわく)、此事を聞て云(いは)く、

「去(さる)事あり、昔(むかし)大元(げん)の末(すへ)、順宗帝(じゆんそうてい)の治世(ちせい)、嘉興県(かこうけん)といふ所(ところ)に、羅氏(らし)愛卿(あいきやう)といへる美女(びぢよ)あり。容貌(ようぼう)うるはしきのみならず、才芸(さいげい)世に勝(すぐ)れ、性識(せいしき)通敏(つうびん)にして、詩(し)をよく作る。去(さる)によつて風流(ふうりう)の士(し)、皆(みな)色(いろ)をかざつて、狎(なれ)ん事をもとむ。

 同郡(どうぐん)に趙氏(てうし)なる者の子(こ)あり。元より代/\太夫の家にて、福祐(ふくゆう)の者なりしが、愛卿(あいきやう)をむかへて妻とす。

 程なく、趙氏が父方(てゝがた)の一門に、吏部(りほう)尚書(しようしよ)の官(くわん)に至(いた)りし者ありしが、状を以て「趙氏に江南(こうなん)の一官(くわん)を授(さづ)くべし」と、都(みやこ)より云(い)ひ送(おく)りしかば、趙氏も往(ゆか)ん事をおもへり。然れ共゛老たる母(はゝ)と妻との、なげきの程を思ひやりて、心中決(けつ)せざりし所に、愛卿(あいきやう)諌(いさ)めけるは、

「身を立(たて)名(な)を揚(あげ)て、父母(ふぼ)の名までも顕(あら)はすを以て、人の誉(ほま)れとする事にて候、何(ン)ぞ恩情(おんじやう)の篤(あつ)きを以て、功<挿絵半丁2面>名(こうめい)の期(ご)を誤(あやま)り給ふべき。老母(ろうぼ)の御(ン)事は、自(みづから)よく仕(つか)へ奉らん」

といひしかば、趙氏(てうし)大に悦び、暇乞(いとまごひ)の酒宴(しゆゑん)をもふけ、其後舟にのり、纜(ともづな)をとひて、都(みやこ)にぞ趣(おもむ)きける。

 其より趙氏、久しく故郷(こきやう)に帰(かへ)らざりしかば、老母(らうぼ)趙氏を恋(こひ)したひ、病(やまひ)の床(ゆか)に伏(ふし)て、頼みずくなくなれり。愛卿(あいきやう)、姑(しうとめ)に、さま%\心をくだき、湯薬(たうやく)をもかならず先(まづ)、自(みづから)なめて後すゝめ、粥(かゆ)をも親(みづから)煮(に)る。神にもとめ仏(ほとけ)を礼(らい)し、丹精(たんせい)をつくしいのりか共゛、其趙氏をのみ、恋(こふ)る心切(せつ)にして、半年斗(ばか)りに及び、終に墓(はか)なくなれり。

 末期(まつご)に及んで、愛卿を近づけ、

「扨も、我子(わがこ)、功名(こうめい)を立んがため、遠(とを)き都(みやこ)にあつて音信(おとづれ)なし。我又重病(ぢうびやう)をうけたり。おことの孝行(かう/\)詞(ことば)にも尽(つく)しがたし。我是を報(ほう)ずる事もなく、むなしくならん悲(かな)しさよ。去(さり)ながら行末(すへ)にて、おことに子も孫(まご)も多(おゝ)く出来り。今孝行(かう/\ )をつくさるゝごとく、又孝行をぞなさんずらん。天道(だう)誠(まこと)あらば、何ぞ我(わが)詞(ことば)にたがはんや」

と、いひ終(おは)りて息(いき)継<ママ>(たえ)ぬ。

 愛卿(あいきやう)、大になげきかなしめ共、力(ちから)の及ぶべきにあらねば、自(みづから)棺槨(くわんくわく)を造(つく)りて、白苧村(はくちよそん)に葬(ほうむ)れり。

 係(かゝ)る所(ところ)に、至正(しせい)十六年、張士誠(ちやうしせい)といふ者、乱(らん)を興(おこ)し、平江(こう)を攻潰(せめついや)す。是(これ)によつて翌(よく)年、達丞相(たつしやう%\)帖睦迩(でうぼくじ)がはからひにて、楊完者(やうじうしや)といふ者を、江浙(こうせつ)の参政(さんせい)となし、嘉興県(かこうけん)にて敵(てき)を防(ふせ)がしむ。然れ共゛、楊完者(やうじうしや)は、正(たゞ)しからざる者にて、敵と戦(たゝか)はんとの術(てだて)はなく、只近辺(きんへん)の在々(ざい/\)所々(しよ/\)を侵(おか)し掠(かす)む。

 楊完者が旗下(はたじた)、劉(りう)万戸(こ)といふ者、趙(てう)氏が家を奪(うば)ひ取て移(うつ)りけるが、愛卿(あいきやう)がよそほひ、甚(はなは)だ美(うつく)しきを見て、其色(いろ)にまよひ、己(おのれ)が妻(つま)とせんとす。愛卿(あいきやう)、態(わざ)と、渠(かれ)が心にしたがひたる体(てい)にもてなして後(のち)、忍(しの)びやかに沐浴(もくよく)して、羅巾(らきん)を以て、自(みづから)縊(くび)れて死(し)す。万戸(こ)大におどろき、走(はし)り行て救(すくは)んとせしか共゛、早(はや)こときれしかば、すべきやうなく、後圃(こうほ)の銀杏(いちやう)の木の下に彼(かの)死骸(しがい)を〓(うづ)ませけり。

 程(ほど)なく、兵乱(ひやうらん)治(おさま)り、楊完(やうじう)者は害(がい)せられしかば、其手の軍勢(ぐんぜい)は、十方に逃(にげ)行けり。

 其後、趙氏(てうし)、嘉興県(かこうけん)に帰(かへ)りけるに、城郭(じやうくわく)人民(みん)こと%\く、古(いにしへ)に替(かは)れり。我(わが)家に帰り入れば、荒果(あれはて)て人一(にん)人もなし。只、庭(には)には草(くさ)のみ生繁(おひしげ)れり。母(はゝ)も妻(つま)も何国(いづく)へか行けん、面影(おもかげ)だになかりしかば、翌(よく)日行て、東波(とうは)門の外に出(いで)、紅橋(こうきやう)の側(そば)に至(いた)る時に、相(あひ)しれる老(らう)人来りしかば、近(ちか)付寄(よつ)て、其故をとふ。老(らう)人のいはく、

「老母(ぼ)は御(ン)身(み)の帰(かへ)り給はざる事を明暮(あけくれ)にかなしみ、おもき病(やまひ)に伏(ふし)て、終(つゐ)に墓(はか)なくなり給へり。御(ン)身の妻(つま)、其孝(かう)尽(つく)されずといふことなかりし。其後、三月(みつき)を過(すぎ)て、江浙(こうせつ)の軍勢(ぐんぜい)、此所(ところ)に入て、家/\を追捕(ついぶ)し、濫妨(らんぼう)しけるに、劉(りう)万戸(こ)といふ者、雅意(がい)を挙動(ふるま)ひ、御(お)ことの妻を犯(おかさ)んとせしか共゛、彼(かれ)が詞(ことば)にしたがひ給はず。終に縊(くび)れて死(し)し給へり。死骸(しがい)は後圃(こうほ)の銀杏(いちやう)の木の下に、うづめ置(をき)て候ぞや。此方(こなた)へ来り給へ」

とて、白苧村(はくちよそん)にともなひ行、松(まつ)柏(かしは)の生(をひ)たるを指(さし)て、

「是(これ)こそ老母(らうぼ)の墓(はか)よ」

とおしゆ。趙氏(てうし)かなしむ事限(かぎ)りなし。頓(やが)て銀杏の下に行、愛卿(あいきやう)が墓(はか)を発(あば)き見れば、顔色(がんしよく)生(いけ)るがごとし。趙氏大にかなしみ、棺(くわん)を買(かい)、母の墓の側(そば)に、附葬(ふさう)して云(いは)く、

「御身は才智(さいち)人にすぐる。何ぞ凡(ぼん)人にひとしくせん。願(ねが)はくは今一度(ど)、我にまみへ給へ」

と祈(いの)る。

 斯(かく)て十日(か)許(ばか)り過(すぎ)、月くらき夜(よ)、女の泣(なく)こゑ聞(きこ)ゆ。近づくを見れば愛卿(あいきやう)なり。

「君(きみ)の恋(こひ)したひ給ふを感(かん)じ、是まで来り候」

といふ。趙(てう)氏急(いそ)ぎ倶(ともな)ひ入り、母(はゝ)に孝(かう)を尽(つく)せしこと、節(せつ)に死(し)せしことを謝(しや)し、泣悲(なきかなし)む事限(かぎ)りなし。

「扨も、母の魂(たましゐ)はいかに」

と問(と)へば、

「此世の罪(つみ)なかりし故、又生(しやう)を人間(げん)にうけ給へり」

といふ。趙(てう)氏聞(きゝ)て、

「然らば、御(ン)身は、何故悪趣(あくしゆ)に堕(だ)せるや」

[と]問(と)へば、

「いや、左(さ)には候はず。冥司(みやうじ)其貞烈(ていれつ)を感(かん)じ、無錫(ぶしやく)といふ所(ところ)の宋家(そうか)に、男子(なんし)となりやどり候。然れ共゛、君に今一度(ど)まみえて後(のち)、出生(しゆつしやう)仕らんため、産月(さんげつ)を延置(のべをき)たり。もはや明日は出生し候はん。好(よし)みをすて給はずば、彼(かの)家(いゑ)に来り給へ。我(われ)一笑(しやう)して、其印(しる)しといたし候はん」

といふ。暁(あかつき)に起(をき)、別(わか)れて帰(かへ)ると見えて姿(すがた)は失(うせ)ぬ。

 趙(てう)氏、其より旅(たび)よそほひをなし、無錫(ぶしやく)に趣(おもむ)き、宋氏(そうし)が家に尋(たづ)ね行しに、果(はた)して宋氏(そうし)に、一人の男子(なんし)生(むま)れたり。懐妊(くわいにん)してより二十ヶ月に及べり。、其上(ヘ)生れ落(おつ)るより、泣(なき)出して今に止(やま)ずといふ。趙(てう)氏、具(つぶさ)に右の次第(しだい)を語(かた)り、

「願(ねが)はくは其子を我に見せ給へ。かならず泣止(なきやむ)べし」

といふ。宋氏悦び、彼(かの)生(むま)れ子(こ)を見するに、此子趙氏を見て、にこ/\と打わらひ、忽(たちまち)に泣止(なきやみ)ぬ。

 是より、趙氏が望(のぞ)みにより、宋氏と一家(け)ぶんになり、相互(あひたがひ)に、懇意(こんい)を尽(つく)しける」

とぞ語りし。<以下二行割り>{按ずるに此事『剪燈(せんとう)新話』に見へたり。>

 蝦(かいる)死(しして)鮎(あゆに)代(かわる) 附被釣美女魚(びぢよにつらるゝうを) 蘇生(そせい)法師(ほうし)

   金剛経(こんがうきやうの)徳(とく) 被焼丸薬罪(ぐわんやくにやかるゝつみ) 地獄(ぢごくの)輪抜(わぬけ)

 鮎(あゆ)の名所(めいしよ)と世に聞えし、玉嶋川といふ所は、昔(むかし)神功(じんこう)皇后(くわうごう)の、釣(つり)を垂(たれ)させ給ひし所(ところ)とて、其登(のぼ)らせ給ひし石、今に至つて残れり。其しるし明(あき)らけく、男(おのこ)の釣(つる)にはかゝらずといへども、女の釣にはよくかゝりて、神徳(とく)を末(まつ)代にあらはし給ふ されば、「玉嶋の此川上(かみ)に家はあれど、君をやさしみ」と詠(えい)ぜしより、其所の名となしたる、肥前(ひぜん)の玉川上といふ所に、角田(つのだ)左馬允(さまのぜう)といふ者あり。国主(こくしゆ)龍造寺(りうざうじ)肥前守(かみ)隆信(たかのぶ)に仕へて、武功の場数(ばかず)をきはめ、十一通(つう)の感状(かんじやう)を戴(いたゞ)き、常(つね)に大身(おゝみ)の鑓(やり)を好(この)み、此鑓の血臭(ちくさ)きときは、我(わが)胸(むね)の中、白日(はくじつ)のごとし。鞘(さや)におさまりあるときは、我心朦々(もう/\)として、曽(かつ)て面白(おもしろ)からずと、頭(かしら)を打(うつ)程(ほど)の荒者(あらもの)なりしが、常(つね)に観世音(くわんぜをん)を信(しん)じ、毎(まい)日普門品(ふもんぼん)を読誦(どくじゆ)せり。

 然るに、左馬允(さまのぜう)が叔父(おぢ)に、矢那(やな)左近丞(さこんのぜう)、舎弟(しやてい)刑部丞(ぎやうぶのぜう)、其次に逆(さか)八郎とて、兄弟(きやうだい)三人あり。九州(きうしう)に隠(かく)れなき大力(りき)の剛(がう)の者にて、豊(ぶん)後の大守(しゆ)大友左兵衛督(のかみ)義鎮(よししげ)入道(だう)宗麟(そうりん)に仕へ、勇名(ゆうみやう)をあらはし、西国(さいこく)に隠(かく)れなき溢(あぶ)れ者と其名を世にひゞかせり。余(あま)りに勇力にまんじ、人を軽(かろ)しめ越度(おつど)を仕(し)出して、豊後の居住(きよぢう)叶(かな)ひがたく、ひそかに肥前に逃(のが)れ来り、甥の角(つの)田左馬允(まのぜう)を頼(たの)みしかば、角田が吹挙(すいきよ)によつて、龍造寺(りうざうじ)隆(たか)信、此三人を召抱(めしかゝ)へらる。

 時に、隆信(たかのぶ)の次男、江上下総守(ふさのかみ)家種(いゑだね)は、大力量(りやう)の大将にて、常(つね)にも四尺八寸の刀に、二尺六寸の脇指を、十文字になし、樫(かし)の木の八角(かく)の棒(ぼう)に、鉄(てつ)の筋(すじ)金を伏(ふせ)させて、是を麻(あさ)がらよりも、直(なを)かろげに振廻(ふりまは)さる。殊に相撲(すまい)を好(この)まれけるが、或(ある)とき、矢那(やな)刑部(ぎやうぶ)と、相撲(すまい)を取られけるに、刑部江上殿(どの)にも負(まけ)ず。終日(ひねもす)撚(ねぢ)合て扨止(やみ)にき。家種(だね)大に立腹(りつぷく)あり、牙(きば)をかんでおはしければ、一家(か)中手に汗(あせ)を握(にぎ)り、矢那兄弟が命は、風の前の燈(ともし)火なりと私語(さゝや)けり。

 案(あん)のごとく、江上殿(どの)、此憤(いきどほ)りとけやらず、「矢那(な)をひそかに殺(ころ)さん」と、其用意専(もつぱら)なり。角(つの)田此ことを伝(つた)へ聞、矢那に斯(かく)と告(つげ)しかば、兄弟三人忍びやかに、行衛もしらず落失(おちうせ)けり。

 角田は矢那(やな)が甥(おい)といひ、殊に吹挙(すいきよ)せる者なる故、其恐(おそ)れなきにあらずとて、己(おのれ)が知行(ちぎやう)を指(さし)上げ、川上に引篭(こも)りて、今は中/\、浮(うき)世を安く暮せり。なぐさみには、妻と妾(めかけ)と己が息女と腰(こし)本と、花のごとくにかざらせ、日毎(ごと)に玉嶋川に至(いた)り、四人の女に鮎(あゆ)を釣(つ)らせ、我身は傍(かたわら)に氈(せん)を敷(し)きて、伏(ふし)ながら腹鼓(はらつづみ)をうち、山寺の節(ふし)もしどろに、酒を友とたのしみ、我屋に帰(かへ)つては、一日の得物を肴とし、娘(むすめ)まじりに、四人の女をならべ置(をき)、酒盛(さかもり)に夜を明(あか)して、

「一生(しやう)の栄花(ゑいぐわ)、是にまさる物なし」

とたのしみけるが、或とき又玉嶋川に至り、鮎(あゆ)をつらせてなぐさみけるに、如何(いか)なる故にや寄けん、其日は少も鮎を釣(つり)得ざりしかば、左馬允(さまのぜう)腹(はら)を立(たて)、

「仕舞(しま)へ、/\」

といひちらして、女共゛を先へ帰し、我身は草履取(ざうりとり)只一人にて、苦(にが)り切て帰りけるに、其道に池(いけ)あり。常(つね)に青(あを)み渡りて、辺(あた)りは草(くさ)生繁(おひしげ)り、物すごき所なるが、折しもあれ入逢(あひ)に、遠寺(ゑんじ)の淋(さび)しきひゞきを添(そへ)、雲間(くもま)に星(ほし)もちらつける比、叢(くさむら)に何やらん、物音(をと)さはがしく聞えて、這(はひ)出る音(をと)しければ、左馬允

「怪(あや)しや」

と、立留(とま)りたるに、胴(どう)の指(さし)渡しは、二尺余(あま)りもあるらんと覚へ、眼(まなこ)はちゐさき鏡(かがみ)を、二つならべたるがごとき、蟇(ひきがゐる)にてぞありける。

 左馬允打笑ひ、

「我、今日(けふ)釣に出たれど、不(ふ)仕合にして、独腹(ひとりばら)の立けるに、是ぞ能(よき)なぐさみ。己(おのれ)が不運(うん)」

といふより早く、脇差(わきざし)を抜(ぬい)て、蝦(かへる)の股(にく)の上の方より、ぐさと突(つゐ)て、突貫(つきつらぬ)き、指上て振(ふり)落す。去(さ)れ共蝦(かへる)はいまだ死(し)せず。四足を上にし撥廻(はねまは)る、左馬允刃(やいば)を捨(すて)、

「己(おのれ)、〓(つか)みころしてくれん」

とて、指うつむゐて、両手を出す、蝦は猶(なを)も左馬允(さまのぜう)が、手首(くび)に喰(くら)ひ付んとするを、上(うは)あご下(した)あごしかと〓(つか)み、こんといふて、劈(つんざ)きたり。其時、蝦の口の中より、虹(にじ)のごとくなる物、靉靆(たなび)き出るとおもへば、四方霧(きり)のごとくにみち/\たり。左馬允、是にむせび、気を失(うしな)ふて百(どう)ど伏(ふ)す。草履(ざうり)取は遙(はるか)の脇に逃(にげ)行て、木陰(こかげ)にかゞみ揮(ふる)ひ居(ゐ)しが、霧のごとき物、晴(はれ)て後(のち)、漸(やう)/\と指寄て、左馬允をかたにかけ、辛(から)ふして逃(にげ)帰(かへ)る。

 妻女(さいぢよ)以下の者共、大におどろき、針薬(しんやく)手をつくし、種(しゆ)%\療養(りやうよう)しける程に、正気にはなりしか共゛、心地生べくもあらざりけり。左馬允は心荒(あら)/\しき者なりしか共゛、常(つね)に観音(くわんをん)を信(しん)じければ、流石(さすが)は忘(わす)れずして、普(ふ)門品(ぼん)を半(なかば)誦(じゆ)しながら、其夜(よ)の丑(うし)の刻ばかりに、終(つゐ)に息絶(いきたえ)ぬ。妻子妾の女に至るまで、跡枕(あとまくら)に寄(より)て、泣(なき)かなしむ事、たとへていはん様(やう)なし。

 斯(かく)て、

「明日(あす)の夜は、葬礼(そうれい)をいとなむべし」

とて、既(すで)に其用意(ゐ)をせし所に、翌(あけ)の日の午の刻(こく)、息(いき)出て蘇生(よみがへ)れり。妻子を始め、皆/\大におどろき、「如何にやいかに」とつどひ寄て、悦ぶこと限(かぎ)りなし。左馬允眼(まなこ)を開(ひら)き、四方を見廻(まは)して、

「扨も/\、我(われ)地獄(ぢごく)とやらんに至り、おそろしき目を見つるなり。汝等(なんぢら)に語り聞せん。

 我息(いき)絶(たえ)し時にやあるらん。おそろしき者二人出来り。我両手を取て、

『急(いそ)げ/\』

と引立ゆく。頃尅(きようこく)にして、閻魔王宮(ゑんまわうくう)に至れり。閻王、我を引居(ひつすへ)させ、

『己(おのれ)一生(しやう)造悪(ざうあく)にして、常(つね)に殺生(せつしやう)を好(この)み、物の命を取事数(かず)をしらず。其報(むく)ひのがれがたく、いまだ定命(ぢやうめい)を待(また)ずして、却(かへ)つて命をとられたり。罪業(ざいごう)深重(じんぢう)のがれがたし』

と怒(いか)り給へり。然れ共゛、我(われ)年比身に犯(おか)せる罪(つみ)なれば、何と陳(ちん)ずべきやうもなく、只指うつむきおそれ入て、普門品(ふもんぼん)を誦(じゆ)し居たり。閻王弥(いよ)/\怒(いか)つて、

『己(おのれ)何をかいふ。明(あき)らかに申すべし』

との給ふ。其時、獄卒(ごくそつ)と覚(おぼ)しき者共゛、

『いや一言(ごん)の陳謗(ちんぼう)にも及ばず候。只法華経(ほけきやう)の、普門品(ぼん)をのみ誦(じゆ)し候」

といふ。閻王重(かさ)ねて、

『己(をのれ)ごときの悪(あく)人今指当(さしあた)つて、経文(きやうもん)を誦したりとて、何ぞ其罪(つみ)のがれんや』

と宣(のたま)ふ。其時我少(すこし)頭をあげ、

『さん候゛。常(つね)に好んで殺生(せつしやう)をなし候へ共゛、幼少(ようせう)より観世音(くわんぜおん)を信じ、十四の年より、毎日普門(ノ)品(ほん)を読誦(どくじゆ)仕り、一日も怠(おこた)り候はず』

といひしかば、閻(ゑん)王面色(めんしよく)なをり、

『彼(かれ)がいふ所(ところ)実(まこと)なるや。金簿(ぼ)を考(かんが)ふべし』

と、倶生神(ぐしやうじん)に命(めい)じ給ふ。倶生神、帳のごとくなる物を考へ見て、

『罪(ざい)人が申す所、偽(いつは)りにて候はず』

と申す。閻王おどろき、

『扨は、大善根(ぜんこん)の者なり。汝(なんぢ)いまだ死期(しご)来らずといへども、悪業(あくごう)己(おのれ)に報(むく)ふて、今爰(こゝ)に来れり。急(いそ)ぎ帰つて悪心を打すて、一向(ひたすら)菩提(ぼだい)をねがふべし』

とて帰し給へり。獄卒等(ごくそつら)又我を連(つ)れ、四五町も歩(あゆ)み出ると覚えて、夢(ゆめ)のさめたるごとく、本心(しん)出来りたり」

と、干汗(ひあせ)をながして語(かた)りけるが、それより頓(やが)て入道し、我(わが)一(ひと)つの善によつて、二度(ふたたび)蘇生(よみがへ)りたればとて、其名(な)を直(ぢき)に蘇生坊(そせいぼう)と改(あらた)め、我屋敷の傍(かたはら)に小庵(せうあん)をむすび、妻子とは別宅(べつたく)になりて、明暮(くれ)菩提(ぼだい)をいのりけるが、其後天正十九年の秋、病(やまひ)に伏(ふす)こと四五日、臨終(りんじう)正念にして、往生(わうじやう)をとげしとぞ。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の学士(がくし)東郭(とうくわく)、此ことを聞て云(いは)く、

「実(げ)にも『広異記(くわういき)』に載(のす)る所(ところ)、是にひとしき事あり。

 昔(むかし)、易州(ゑきしう)の参軍(さんぐん)田氏(でんし)、其性(せい)無道(むだう)にして、猟(かり)をこのむ事はなはだし。毎日、鷹(たか)犬(いぬ)を牽(ひか)せて、山野(さんや)に出、殺生(せつしやう)を以てたのしみとせり。唐(たうの)玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)の治世、天宝(ほう)のはじめ、田氏(でんし)猟(かり)に出けるに、或(ある)叢(くさむら)の、荊棘(けいきよく)生(おひ)しげりたる上に、一巻(くわん)の書(しよ)あり。こは怪(あや)しやとおもひ、取リあげ見れば、則(すなはち)金剛経(こんがうきやう)なり。是より田氏(でんし)信心(しん%\)を発(おこ)し、持誦(ぢじゆ)する事数(すう)年、既(すで)に二千余遍(よへん)を誦す。然れども、生得(しやうとく)猟(かり)を好(この)みしゆへに、殺生(せつしやう)は曽て止ず。其後重病(ぢうびやう)をうけ死しけるに、魂追れて地獄(ぢごく)に至る。

 諸の鳥獣(けだもの)群(むらが)り集(あつま)つてねあたを報(ほう)ぜんと相あらそふ。暫(しばら)くあつて、閻魔(ゑんま)王の前に至る。閻王眼をいらゝけ、

『己(おのれ)何故にか、罪(つみ)多(おゝ)き』

との給へども、田氏(でんし)一言も答(こた)ふる事なし。閻王弥(いよ)/\いかり、

『急(いそ)ぎ連(つれ)行て推問(すいもん)せよ』

との給へば、獄卒等(ごくそつら)かしこまつて、田氏を始め、罪(ざい)人十人斗(ばか)りを追立(おつたて)、倶生(ぐしやう)神の前に至る。其時、倶生神、罪人の口を開(ひら)かせ、丸薬(ぐわんやく)のごとくなる物を、口中に抛入(なげいる)れば、忽(たちまち)炎(ほのほ)となつて、遍身(へんしん)見る中に焼焦(やけこが)る。暫時(しばらく)して又人となる。斯(かく)のごとくする事、六七人過(すぎ)て、田氏をとらへ、口中へ彼(かの)薬(くすり)を三つまで抛(なげ)入しかども、曽(かつ)て火燃(もえ)出ず。倶生(ぐしやう)神大に是をあやしみ、又引つれて閻(ゑん)王の前に至り、右の次第を申す。閻王聞給ひ、

『汝(なんぢ)存生(ぞんじやう)の間、何の福業(ふくごう)をかなせる』

との給ふ。田氏(でんし)、恐(おそ)れ入て、

『初めは、只一心に猟(かり)を好み、殺生(せつしやう)を仕り候へども、叢林(さうりん)の中にして、不思議(ふしぎ)に金剛経(こんがうきやう)を得、それより信心(しん%\)発起(ほつき)仕り、持誦(ぢじゆ)すること、既(すで)に二千余遍(よへん)に及び候といふ」。其時、閻王、

『是こそ、大善(ぜん)の至り。一切(さい)の罪(つみ)をめつすべし』

とて、左右(さゆう)に命じ、田氏(でんし)が福簿(ぼ)を考(かんが)へさせらるゝに、果(はた)して申すごとくなり。田氏、閻(ゑん)王の命によつて、金剛経を誦(じゆ)すること少しばかり、それより廻(めぐ)つて庭(てい)中を見るに、初め田氏にあたせんと、争(あらそ)ひ群(むらが)りし鳥獣(けだもの)何国(いづく)へか行けん、曽(かつ)て見えず。

 閻王、大に感心(かんしん)し給ひ、

『汝(なんぢ)存生(ぞんじやう)にて、金剛経を誦(じゆ)すること、二千余遍、其功徳(くどく)によつて、今より又十五年が間、命を延(の)べあたゆるぞ』

と、の給ふとおぼえて、今まさに蘇生(よみがへ)れり。是より一心に仏を崇敬(そうきやう)し、菩提(ぼだい)をいのるべしとて、日比好(この)みし殺生(せつしやう)をやめ、昼夜(ちうや)おこたらず、金剛経を誦し、後世(ごせ)菩提(ぼだい)をいのりしとぞや。

 去れば、田氏に限(かぎ)らず、『幽冥録(ゆうめいろく)』『報応記(ほうおふき)』『冥祥記(めいしやうき)』等(とう)の諸書に、係(かゝ)ることを多く記(しる)せり。何ぞうたがふ所あらん、

と、東郭(とうくわく)是を語りき。

和漢(わかん)乗(のり)合船之三終

和漢(わかん)乗(のり)合船巻之第四

  文武(ぶんぶ)二道(だうの)欝気(うつけ) 附稽古(けいこ)試(こころみの)再拝(さいはい) 古団(ふるうちはの)祈念(きねん)

  色道(しきだう)一遍(いつぺんの)巴友(はゆう) 附本心(ほんしん)試(こころみの)老婆(らうば) 穴(あなの)中(の)住居(すまゐ)

 月にむかへる清見(きよみ)がた、流(なが)るゝ影(かげ)も海(うみ)に入る、沖(おき)津川を要害(ようがい)にとつて、屋敷(やしき)作(つく)り美麗(びれい)に夷隅(ゐすみ)周防(すはう)といふ者あり。国守(こくしゆ)、今川治部(の)太輔(たゆふ)義元(よしもと)に仕(つか)へ、使番(つかいばん)を勤(つと)めて、数度(すど)の走(はし)り廻(まは)りに武功(こう)をあらはし、物(もの)見の見積(つも)り、目がねをたがへず。次第の立身(りつしん)滞(とゞこほ)らざりしかば、追付侍大将とも呼(よば)れ、一城(じやう)の主(ぬし)共ならんずらんと、人の指図(さしづ)にも違(ちが)ひて、今川家(け)上洛(らく)あり、天下に旗(はた)を旆(あげ)んとの催(もよほ)し、既(すで)に出陣(ぢん)に及びけるに、織(お)田信(のぶ)長是をさへぎり止めんがため、多くの要害(ようがい)砦(とりで)をかまへ、尾州(びしう)にての合戦、義元がいきほひ、大風の吹がごとく、城/\は瓦(かはら)のごとくにくづれ、敵(てき)は木(こ)の葉のごとく逃散(にげち)りしに、信長奇変(きへん)の計(はかり)事によつて、鳴海(なるみ)の桶狭(おけはざま)田楽窪(でんがくがくぼ)といふ所にて、はからずも大将義元討死あり。

 其より、今川家(け)の勢(いきほ)ひもいつとなくおとろへぬ。殊に家督(かとく)上総(かづさの)介氏真(ざね)は、父の義元にも似(に)ず、只蹴鞠(しうきく)を好(この)み、月にたわむれ、花に酔(ゑひ)て、うつくしき女をあつめ、父のあたを報(ほう)ぜんとのこゝろざしは夢にもなく、うか/\と月日を送られける程(ほど)に、夷隅周防も、年来の望みも失(う)せ、頭(かしら)をかくより外いかんともすべき術(てだて)もなし。

 周防に男子二人あり。嫡子(ちやくし)は与八郎と号(がう)し、次男は又八といへり。与八郎は兄(あに)ながらも、弟に生れおとり、生得(しやうとく)愚鈍(ぐどん)にして、夷隅などの名跡(みやうせき)を継(つぐ)べきやうにも見へざりしかば、周防も大に疎(うと)み、

「我、積年功労(こうらう)を積(つん)で、一度も人に不覚(ふかく)を見せず。近国にほまれをあらはせしに、己(おのれ)に至つて我名までも、くださん事も口惜(おし)し。且(かつ)、先祖(せんぞ)への不孝(かう)、子孫(しそん)までの恥辱(ちぢよく)なり。此上は法師となし、せめて未来(みらい)をたすくべし。清見寺(せいけんじ)にて出家せさせ、専澄(せんてう)法師(ほうし)と名をあらため、仏果(ぶつくわ)の縁(ゑん)ともなれかし」

とて、薩〓山(さつたさん)の麓(ふもと)に、小庵(あん)を結(むす)び入れ置たり。専澄(せんてう)もとより愚(おろ)かにして、心正直(ぢき)なりしかば、一心に仏の道に入り、弥陀(みだ)の名号(みやうがう)を唱(とな)へ、あしたには河辺(べ)に出、流(なが)れをくんで月を提(さ)げ、晩(くれ)には山にのぼり、落葉(おちば)を拾(ひろ)ふて風をになふ。是を手なれぬ業(わざ)ともおもはず、己(おのれ)がなす所作(しよさ)なりとおもふが故に、却(かへつ)て苦(くるし)む心なきはおろかなる者の一徳(いつとく)なり。

 比しも秋の末、虫のこゑもしきりに、嵐も身にしみて覚えしかば、宵(よひ)より衾(ふすま)とりちらし、いまだ寝(ね)入りはやらず。仏号(がう)など唱(とな)へ居しに、其夜の亥(ゐ)の刻(こく)ばかり、何者やらん扉(とぼそ)をたゝき、

「専澄(せんてう)/\」

と呼(よぶ)。誰(たれ)なるらんとおもひ、頓(やが)て起(おき)出て、

「誰(たそ)や、たそ」

といへば、

「我は此辺(へん)の者なり。去方へ御身をともなひ行ん。急ぎ来り給へ」

といへば、

「今少し待給へ」

とて、内に走(はし)り入り、衣(ころも)取て打着(き)、彼(かの)者にともなひゆく。

 元より知(し)れる人にあらず、又何所(いづこ)如何(いか)なるところへ、何の用にといふことも問(と)はず。人のいふに任(まか)せ、何のわきまへもなく出行は、是もまた一徳(とく)なり。何国(いづく)をさすともしらず。二人あゆみ行とおもへば、大なる城(しろ)あり。おのづからの、谷(たに)を追手の堀切(ほりきり)となし、土手には芝(しば)を伏(ふ)せ、柵(さく)虎落(もがり)厳重(げんぢう)なり。石門(せきもん)より入て、本丸にのぼれば、諸士(しよし)袴(はかま)の肩衣(かたぎぬ)をつらね、膝(ひざ)をならべて列居(れつきよ)せり。

 暫(しば)らくあつて、主人とおぼしき人立出で、

「夷隅(ゐすみ)周防(すはう)が子(こ)は来りたるか」

との給ふ。専燈(せんてう)

「さん候゛。是に候」

とて出る。

「汝は、周防が子の専燈(せんてう)法師(ほつし)なるや。我、汝を呼(よぶ)こと余(よ)の儀にあらず。我、近国の勇士(ゆうし)をもよほし集(あつ)め、相州(さうしう)に乱(らん)入し、北条(ほうでう)氏政(うぢまさ)を攻亡(せめほろ)ぼし、関(くわん)八州(しう)を手に握(にぎ)り、栄耀(ゑいよう)を子孫(しそん)に残(のこ)さんとおもふなり。然るに、汝が父の周防は、武功(ぶこう)世にすぐれ、殊に義元(もと)、兄(あに)良真(りやうしん)と、家督(かとく)をあらそひし時(とき)、花倉(ぐら)にての周防がはたらき、其高名(かうみやう)のやう、我よく是をしれり。

 去によつて、周防を召かゝへたくおもふ事数(す)年なり。汝は又其生質(むまれつき)愚弱(ぐじやく)にして鈍(にぶ)しとて、父にうとまれ法師になれり。是、汝があやまりにあらず。さしもの周防なりといへども、子におしゆるの道をしらず。一向に愚(おろ)かなりとおもふがゆへに、愚かなるは、ます/\愚かになるべきなり。今より我に仕へよ。文学(ぶんがく)・武芸(ぶげい)を学(まな)ばしめ、汝を発明(はつめい)の良士(りやうし)となさん。然らば、周防もよろこんで我に来りつかふべし。急ぎ還俗(げんぞく)せよ」

とて、頓(やが)て、月代(さかやき)をそらせ、夷隅(ゐすみ)主膳(しゆぜん)と改(あらた)めさせ、儒学(じゆがく)をまなばせ、武芸(げい)をならはせられしかば、或(あるい)は講釈(かうしやく)の席(せき)につらなつて、朱筆(しゆふで)を動(うご)かし、或は巻(まき)わらに向ふて、こぶしに心をうつし、又は城取野(しろどりの)がゝりの勝負(せうぶ)、伏兵(ふくへい)が守りの手段(てだて)をまなび、よはに夙(つと)に、心をみがきはげみしかば、程なく、諸芸(しよげい)残るところなく学び得たり。あるとき、大守(しゆ)主膳(しゆぜん)を近(ちか)づけ、

「汝(なんぢ)が日ごろの稽古(けいこ)、今は其功(こう)をとげたりと覚ゆ。試(こころみ)に戦場(せんじやう)を真似(まね)、試(こころ[み])の再拝(さいはい)、軍勢(ぐんぜい)の取リあつかひ、疋夫(ひつぷ)のはたらき、悉(こと%\)く目通(めどを)りにて、仕れ」

との給へば、主膳畏(かしこま)つて、

「私(わたくし)、もとより短才(たんさい)の身(み)、未熟(みじゆく)の稽古(けいこ)、心もとなく候へ共゛、そとまなふでこそ見候はめ」

とて、急(いそ)ぎ我(わが)宿(やど)に帰(かへ)り、卯の花をどしの鎧(よろい)に、翁(をきな)がしらの甲(かぶと)、金(きん)の三つ菖蒲(せふぶ)の葉(は)の、前立(まへだて)打(うつ)たるに、猩々皮(しやう%\ひ)の羽織(はをり)に、金の横(よこ)がすりを入れたるを着(き)て、さび月毛(げ)の馬に、金梨地(きんなしぢ)に、家の紋(もん)の水車をつけたる鞍(くら)をかせて打のり、中間(げん)に十文字の鑓(やり)をかづかせ、しづ/\と広庭(ひろには)にのり出して、大将(しやう)の方(かた)に向(むか)つて、一礼(れい)し、腰(こし)なる朱柄(しゆゑ)の再拝(さいはい)を取(とつ)て、馬をのり廻(まは)し、かけ廻し、再拝(さいはい)を打ふつて、軍勢(ぐんぜい)の下知(げぢ)をなし、馳廻(はせまは)る其武者(むしや)ぶり。古(いにしへ)の事はいさしらず、当時(たうじ)東国の中には、誰(たれ)人かこれに及ぶべきと、諸士(しよし)同音(どうをん)にどつとほむる。其後、中間(げん)に持(もた)せたる、十文字(じ)の鑓(やり)をとり、りう/\と打ふつて、いで一軍(いくさ)といふよりはやく、馬をかけ出して、鑓(やり)を打ふり、四面(めん)にあたり、八方を払(はら)ひ、千変(せんべん)万化(ばんくわの)術をあらはし、かけ通りかけもどす。其体(てい)いなづまよりもすみやかなれば、諸人おぼえず感声(かんせい)を出し、いや/\とほむるこゑ、どよめき渡つて夥(おびた)たし。

 斯(かく)て主膳(しゆぜん)、馬をのりしづめ、彼(かの)鑓(やり)を中間(げん)に渡し、馬より下(を)りて御前(ごぜん)に出る。大守(しゆ)大にかんじ給ひ、

「天晴(あつぱれ)、今は日本無双(ぶさう)といひつべし。汝(なんぢ)が父の周防(すはう)は、子(こ)にをしゆるの道(みち)をしらずと、我いひしは是ぞかし。急(いそ)ぎ故郷(こきやう)に帰(かへ)り、父に対面(たいめん)して来るべし。此をもむきをくわしく語つて、父の周防(すはう)をも、何とぞ我に仕(つか)へさせよ。追付(おつゝけ)関(くわん)八州(しう)を知行(ちぎやう)しなば、過分(くわぶん)の禄(ろく)をあたゆべし」

とて、一人の案内者をつけ、ふるさと沖津(をきつ)に帰(かへ)さるゝ。

 斯(かく)て、夷隅(ゐすみ)主膳(しゆぜん)は、主君(しゆくん)の御感(ぎよかん)にあづかり、威勢(ゐせい)美(び)々しく、供(とも)人おゝく召連(めしつれ)、数鑓(かずやり)持筒(もちづゝ)、二行(ぎやう)に足(あし)の拍子(ひやうし)をそろへ、買臣(ばいじん)が錦(にしき)も、闇(やみ)はあやなしと、白昼(はくちう)に、故郷(こきやう)沖津(をきつ)に着(つき)て、

「専燈(せんてう)にて候が、まかり帰(かへ)つて候」

といひ入(いる)れば、周防大におどろき、相立見るに、我子の専燈にてはありながら、衣(ころも)をも着(き)ず。頭(かしら)は髪(かみ)ぼう/\と生(をひ)たり。

「汝(なんぢ)、庵室(あんじつ)をすて、何国(いづく)へは行たりしぞ。其より此方(かた)、家来(けらい)共に申付、国/\所(ところ)%\をたづぬるところに、今不思議(ふしぎ)に帰(かへ)れること、何とやらん心得ず、其ゆへを聞(きか)ん」

といふ。専燈(せんてう)かしこまつて、さん候、某(それがし)を近国の大守(しゆ)より、御(ン)召(めし)あづかり候ゆへ、参(さん)上仕り候へば、

『汝(なんぢ)は父が子なり。生得(しやうとく)の愚(ぐ)にはあるべからず。父の周防(すはう)さる者なれ共゛、いまだ子(こ)にをしゆるの道を、しらざるによつてなり。我、汝(なんぢ)を良士(りやうし)となし、召つかふべし』

とあつて、文学(ぶんがく)は申に及ばず。城攻(じやうこう)・野戦(やせん)の術(てだて)・縄張(なはばり)の秘伝(ひでん)・兵法(ひやうほう)早業(はやわざ)、一つものこるところなく、悉(こと%\)く稽古(けいこ)せさせられ、勇士(ゆうし)のほまれを取(リ)候ゆへ、帰(かへ)つて父に対面(たいめん)し、右の次第をかたり、父をも味方(みかた)にいざなふべし。大禄(ろく)を給はらんとの、仰にて候」

と、ありし事共゛を委(くわし)く語る。

 周防、大にあきれ、

「汝が体(てい)をみるに、衣服(いふく)は破(や)れよごれ、頭(かしら)はおどろのごとく、僧(そう)にもあらず俗(ぞく)にもあらず。山ごもりなんどいふ、勧進(くわんじん)法師(ほうし)に似(に)たり。更(さら)に大名につかふる体(てい)にあらず、去(さ)らば、学文(がくもん)又は、兵道(ひやうだう)の事を尋(たづ)ぬべし」

とて、種々(しゆ%\)のことを問(と)ひみれども、一つとして当(あた)る事なく、肩(かた)なる鍬(くわ)の手をはなち、耳(みゝ)をとりて鼻(はな)とやらん、只わらんべのいふにひとし。扨(さて)、

「其国は何国(いづく)、主君(しゆくん)の名(な)は何(なに)」

と問(と)ふ。されば、

「国も名も、それはしらず候」

といへば、周防大にいかり、

「扨、にが%\しや。己(おのれ)は物に化(ばか)されしな。此薩陲山(さつたさん)には、年(とし)経(へ)たる狸(たぬき)あつて、時%\人を化(ばか)すといふこと、前/\より聞つるが、今正(まさ)しく己を化(ばか)せしよな。其供(とも)して来りつる、家来(けらい)乗(のり)馬等(とう)もあるべし。急(いそ)ぎとらへて、一人も逃(のが)すな」

と、家(け)人共゛に尋ねさするに、何国(いづく)へか失(うせ)つらん。跡(あと)かたもなくなりぬ。周防いよ/\腹(はら)を立(たて)、

「己(おのれ)何をかまなびつる。発明(はつめい)の段は及びもなし<挿絵見開き1丁>。なを/\堕馬髻(たわけ)増(ぞう)長し、欝気(うつけ)の頂(てう)上となりしぞや。扨(さて)も是非(ぜひ)なき次第(しだい)。此上は薩陲山(さつたさん)にのぼり、狸穴(たぬきあな)をさがして、其古狸めを打殺(ころ)し、此あたを報(ほう)ぜん」

と、牙(きば)をかんで居(ゐ)る所(ところ)へ、周防が年比(ごろ)帰依(きゑ)しける、宝積院(ほうしやくゐん)の法印(ほうゐん)海順(かいじゆん)といへる、真言(しんごん)の僧(そう)、見廻(みまい)とて来られたり。周防よろこび、

「使(つかい)を以て申さんと存ぜしに、扨/\よき所(ところ)へ御(ン)出、下拙(げせつ)が伜(せがれ)の専澄(せんてう)法師(ほうし)、頃(このごろ)行(ゆく)衛もしらず、うせ候ひしゆへ、方々(ほう%\)とたづね候所に、今日何所(いづこ)よりともなく、まかり帰(かへ)り候が、狐狸(こり)にたぶらかされ候ひて、生質(せいしつ)の欝気(うつけ)弥(いよ)/\又気(き)を取(と)られ、一向(いつかう)のあほうと申者になりて候。察(さつ)するに、薩陲山(さつたさん)の古狸(ふるだぬき)めが、なせし所(ところ)にてぞ候らん。此上ヘは山さがしを仕り、狸穴(たぬきあな)を打こぼち、古(ふる)狸めらを一疋(ひき)も残さず、うち殺(ころ)さんと存候。

 就(つゐ)ては、此者、本心(ほんしん)に復(ふく)し候やうに、加持(かぢ)をなされ給はらんや」

といふ。海順(かいじゆん)法印(ゐん)打をどろき、

「扨/\、言語(ごんご)同断(どうだん)。是非(ぜひ)に及ばざる仕合(しあはせ)かな。去ながら数多(あまた)の勢子を以て、山を取巻(まき)、狩(かり)給ひたりとても、其種類(しゆるい)を絶(たや)さん事は、中/\及びがたく候はん。然るときは、其残りし所の一類(るい)共゛、却(かへ)つてなをあたをなすものにて候。元来(ぐわんらい)彼(かれ)は畜類(ちくるい)。何ぞ相手とするにたらん。兎(と)に角に、あたをば恩(をん)にて報ずるとの、穏便(をんびん)の心を以て事を御おさめ候べし。

 又、只今の御物語につき、愚僧(ぐそう)しりぞひて思案(しあん)をめぐらし候に、父の周防をも、まねきたきと申つると有からは、御自分(ごじぶん)をも又、専澄(せんてう)坊のごとく、たぶらかさんとの巧(たく)み、かならず御油断あるべからず。此上は御両人共に、愚僧(ぐそう)加持を仕り、障碍(しやうげ)なきやうに相はからひ、専澄坊は本心に、復(ふく)せさせ候はん。然らば、奥(をく)に一間(ま)を立きり、人の出入をかたく留(とど)め、御両人と拙僧(せつそう)と、三人其内に入り、よく/\加持仕るべし。祈祷(きたう)終(おは)るまでは、余(よ)の人は一人も、御近付あるべからず」

といふ。周防大によろこび、奥(をく)に一間を立切らせ、家来共に、右のおもむきをいひ渡し、頓(やが)て三人、奥の一間に取篭(こも)れり。

 家来の者共は、主人のいひ付なれば、曽(かつ)て其辺(へん)に近付ず。今や祈祷(きたう)の終(おは)るかと、ひそまり返つて待ほどに、其日もすぎて、翌(よく)日も又、暮がたに及べども、食事(しよくじ)なんどすゝめん事も、此方(こなた)よりは如何(いかゞ)とおもひ、あなたの左右(さう)を待居たるが、

「既(すで)に両日に至つて、食事をもなし給はぬは、如何なることにやあるらん。此方(こなた)よりや、うかゞはん。いかゞはせん」

と私語(さゝや)きけり。次男又八、是を聞て、

「いかなる加持(ぢ)祈祷(きたう)にもせよ、空腹(くうふく)にては心得ず。此方より窺(うかゞ)はん」

と、衾障子(ふすましやうじ)に立寄(より)て、内のやうをうかゞへば、祈念(きねん)の音(をと)しきりなり。

「扨も、殊勝(しゆせう)の大行(ぎやう)かな」

と、おぼえず感涙(かんるい)をながしながら、

「申、/\」

と詞(ことば)をかくる。如何(いか)に呼(よび)たけるといへども、一言のゐらへなし。

 斯(かく)空腹(くうふく)なる上に、精気(せいき)をつくし給ひなば、よしなき病や出来らんと、子の身にては又かなしく、衾戸(ふすまど)を押(をし)あくれば、床(とこ)には渋ばりの、古団(ふるうちは)をつりさげ、父の周防と、兄の専澄(せんてう)と、立ては礼(らい)し、居ては拝(をが)み、南無大聖(せう)不動明(ふどうみやう)王と念珠(じゆ)を押(をし)もみ/\、肺肝(はいかん)をくだく。海順(かいじゆん)は何所(いづこ)へか行けん、失(うせ)て姿(すがた)は見へず。又八大にあきれ、父と兄とを打をどろかし、

「こは何事゛にて候ぞ。扨(さて)、苦(にが)/\しき事共゛かな。又化(ばか)されさせ給へるにや」

と、両人ともに、寝所(しんじよ)につれ行、伏(ふさ)せ置(をき)、扨、宝積院(ほうしやくゐん)へ使(つかい)を立、右の様をいひつかはせば、弟子(でし)の僧(そう)出向(むか)ひ、

「それは存じもよらず候。師(し)の坊(ぼう)は用事に付て、先日(せんじつ)豆州(とうしう)韮崎(にらざき)へ立越(こへ)られ候が、来月下旬(じゆん)までは、あの方(ほう)に居申され候」

と、大に違(ちが)ひし返事(へんじ)なり。

 周防も是より奉公に復(ふく)せず、うつけのやうに成しかば、本心をも勤(つと)めず、病気(びやうき)とて引篭(こも)り居る中に、主人今川氏真(うぢざね)、母(はゝ)かたの叔父(をぢ)、甲州(かうしう)の武(たけ)田信玄(しんげん)に、駿河(するが)の国を攻(せめ)とられ没落(ぼつらく)に及びしかば、又八も浪牢(らう/\)の身となり、それより勢州(せいしう)白子に立のき、田地(でんぢ)をもとめ農人(のふにん)となり、年月を送(をく)れり。子孫(しそん)今に至(いた)つて、勢州(せいしう)にありとかや。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の学士(がくし)李東郭(りとうくわく)、此事を聞ていはく。

「古(いにしへ)より古狸(ふるだぬき)の妖(よう)をなすこと、あげてかぞへがたし。

 明(みん)の末、喜宗(きそう)皇帝(くわうてい)の、天啓(けい)年(ねん)中、日本(にほん)にては、秀忠(ひでただ)大貴君(きくん){台徳院殿(だひとくいんでん)と申奉る}の御治世(ごぢせい)、元和の末(すへ)、寛永(くわんゑい)のはじめにあたるべきか。其ころ

吾(わが)朝鮮(ちやうせん)の安市城(あんしじやう)に、楊巴友(やうはゆう)といふものあり。中辺将(ちうへんじやう)がむすめをめとりて、愛寵(あいてう)はなはだふかゝりしに、三年(みとせ)をも過(すご)さずして、重(ぢう)びやうにおかされ身まかりぬ。巴友(はゆう)なげきかなしむことかぎりなし。それよりやもめずみして年月をおくりけるほどに、もとよりいろをおもふこゝろふかゝりしかば、あけくれかほよき女をのみ、こひしのびけるが、いつとなく心神(しん%\)亡然(ぼうぜん)として、折にふれ興(けう)にぜうじて、好(この)むところの詩(し)を詠(えい)ずるにも、只美(び)女をのみ、こふる心をいひのべたり。

 あるとき、巴友(はゆう)いづくへかうせけん、ゆきがたしらずなりぬ。かれが氏族(しぞく)はみな豪富(がうふ)にて、福祐(ふくゆう)のものどもなりけるが、このつげをきゝて、巴友(はゆう)が宅(いゑ)にあひあつまり、「いかゞはせん」とあひ議(ぎ)して、人を方%\にわかちつかはし、たづねもとむるといへども、そのゆきがたをしることなし。

 巴友(はゆう)が宅(いゑ)より四五町さつて、大遼(りやう)といへる大河(が)あり。これは、韃靼国(だつたんこく)のわかれ、靺鞨(まつかつ)といへるところの西南(せいなん)のかたの高山(かうざん)よりながれいでゝ、みなみにむかふてながれされり。されば、此ながれわかれて遼山(りやうざん)の西のかたにては、小遼(りやう)とよび、それよりみなみにては、遼水(りやうすい)ともなづけたり。此河原(かわら)に大きなる杉の木あつて、幾年(いくとせ)ふるともしらず。その根(ね)は堆(うづたか)ふして、をかのごとし。

 然るに、三十余(よ)日ありて、巴友(はゆう)その木の根(ね)よりかへり来る。

 一族(ぞく)家(け)人ども大におどろき、是を見るに、顔色(がんしよく)憔悴(しやうすい)して、やめる人のごとし。しばらくあつて、本心(ほんしん)にふくし語りけるは、

「我、つねに美女(びぢよ)をおもふこと切(せつ)なり。ある夜、たゞひとりいでゝ、家辺(かへん)をかなたこなたと逍遙([し]ようよう)し、おぼろ月にたゝずみて、一絶(ぜつ)をつくりしが、是よりも沈影楼(ちんゑいろう)にあそばんとおもひ、物さびしくもあゆむところに、叢(くさむら)より其様(さま)鬼(をに)のごとくなる、老(をひ)たる婆(うば)かけ出て、己(をのれ)一口に喰(くらは)んぞと追(おつ)かくる。こは悲(かな)しやと思ひ、足にまかせて逃(にぐ)る程に、大家(か)あつて門(もん)開(ひら)けり。此内に逃(にげ)入て、漸(やうやく)命を助(たけ<ママ>か)りぬ。美婦(びふ)出て、様%\我を<挿絵半丁2面>いたわりて後いはく、

『自(みづから)が父は世をさり給ひて、此家を治(をさ)むべき人なし。君(きみ)を見るに、世になみ/\の人にあらず。幸(さいわひ)にこの家をおさめ、父の遺跡(ゆいせき)をつぎてたべ。職禄(しよくろく)人にをとるべからず』

とて、酒たけなはに及びて、彼、我を奥(をく)に誘(いざな)ひしかば、終夜(よもすがら)閨(ねや)にいりて、偕老(かいらう)のちぎりをなす。

 それよりひるは宴(ゑん)をもふけ、夜はおなじく寝(いぬ)。歓娯(くわんご)はなはだしうして、万時(ばんじ)をわする。

 其のち一人の男子(なんし)いできたれり。かたちのうつくしく、愛(あい)/\しきのみにあらず。生質(せいしつ)聡明(そうめい)にして、賢(さか)/\しかりしかば、我(われ)これを寵(てう)愛すること大かたならず。あけくれいだきかゝへて、ひざよりもおろさず。此子(こ)成人(せいじん)せば、我ちやくしとして、国王(こくわう)につかへさせ、福貴(ふつき)にあづかるをみんとおもひ、年月をおくりしところに、大の男の鬚(ひげ)左右(さゆう)にわかれ、まなこは百練(れん)のかゞみに、血(ち)をそゝぎたるがごとくなるが、従卒(じうそつ)数(す)百人相(あひ)倶(ぐ)して門戸よりこみ入るほどに、家人(けにん)等(ら)是(これ)に出むかふて、手おひ討(うた)るゝ者数をしらず。

 彼(かの)男、まつさきにすゝんで床(ゆか)にのぼり、

『汝(なんぢ)、順(じゆん)天の安撫使(あんぶし)、張白敬(ちやうはくけい)をかたらひて、隠謀(ゐんぼう)をくわだて、王位(ゐ)を奪(うばは)んと巧(たく)めるよし、朝廷(ちやうてい)に聞(きこ)へ、我(われ)討手(うつて)に向ひたり』

とて、剣(けん)を以て切付る。我(われ)薄手(うすで)を負(をひ)ながら、奥(をく)に逃(にげ)入ると思ひしかば、杉(すぎ)の本に出たり」

と語(かた)る。

 皆(みな)人怪(あやし)んで、杉の本に行見るに、少き穴あり。掘(ほり)穿(うがち)しかば、内より古狸(ふるだぬき)逃(にげ)出しを、家(け)人等(ら)追(おつ)かけ、終(つゐ)に打ころして、其穴はうづめたりとかや。

 此こと吾(わが)鶏林(けいりん)の国書(こくしよ)に見へたり。杉の大木は今に猶あり

とぞ語(かた)りき。

  五輪(りんは)法師(ほうしの)冠(かんむり) 附玉不瑳(みがかざれば)無力(ちからなし) 盗足(あしをぬすむ)化物(ばけもの)

   燈火(ともしびは)学者(がくしやの)友(とも) 附字(じ)不滌(あらはざれば)不去(さらず) 出手(をいだす)化物(ばけもの)

 北陸道(ほくろくだう)の中にも、越前(ゑちぜん)といへる国は、凡(おゝよそ)十二郡(ぐん)にして、南に山をうけ、北に海(うみ)を帯(をび)、桑(くわ)麻(あさ)おゝふして、繁栄(はんゑい)のところなり。

 此国の大守(しゆ)、朝倉(あさくら)左衛門督(のかみ)日下部(くさかべの)朝臣(あそん)義景(よしかげ)と聞えしは、北国の豪家(がうか)、威光(ゐくわう)を越路(こしぢ)にかゝやかし、一乗谷(いちぜうがたに)に居城(きよじやう)せらる。

 其一族(ぞく)朝倉(くら)太郎左衛門尉(のぜう)景悦(かげよし)は、金ヶ崎(かねがさき)の城主(じやうしゆ)にて、是敦賀(つるが)の郡司(ぐんじ)なり。其舎弟(しやてい)は出家(しゆつけ)にて、松林院(せうりんゐんの)鷹瑳(ようさ)と号(がう)し、博学(はくがく)道徳(どうとく)の聞えあり。

 左(さ)れば、一とせ足利(あしかゞ)義昭(よしあき)公(こう)、三好(みよし)・松永(なが)が逆心(ぎやくしん)ゆへ、落人(おちうど)の身(み)とならせ給ひ、朝倉(あさくら)義景(よしかげ)をたのみ、越前にましませしとき、一乗(ぜう)の脇(わき)、坂尾(さかを)といへる勝地(せうち)にして、曲水(きよくすい)の宴(ゑん)ありしに、大覚寺(ノ)宮を始め、四辻(つじの)大納言(なごん)秀遠(ひでとを)卿(きやう)・飛鳥井(あすかひ)中納言(なごん)雅教(まさのり)卿(きやう)・松村院(せうそんゐんの)鷹瑳(ようさ)澄蔵主(てうざうす)・豊(とよの)将監(しやうげん)親(ちか)秋以下、おゝく出席(しゆつせき)あつて、詩歌(しいか)の会(くわい)ありしに、

  十州(しう)三嶋(たう)入君手(きみがてにゐる)千歳(せんさいの)仙禽(せんきん)在(にあり)御前

といへる詩をつゞりて、公方(くぼう)義昭(よしあき)公(こう)の御感(ぎよかん)にあづかりし法師(ほうし)なり。

 修学(しゆがく)のいとまは、只花にうそぶき月にあかして、折にふれての題詠(だいゑい)、「我にひとしき人しなければ」とおもひとり、朝水(あさふづ)の玉江といへる河辺(べ)に、小庵(あん)をむすび、暫(しば)らく閑居(かんきよ)せしことあり。『後撰集(ごせんしう)』に「玉江の芦(あし)をふみしだき」と、源(みなもとの)重之(しげゆき)がよめる歌を口すざみ、読経(どくきやう)のいとまは、玉江にむれゐる鳥をながめ、寂莫(じやくまく)たる柴(しば)の戸に、夕日の指(さし)かゝやくを見ては、聖州(しやうしゆ)の来迎(らいがう)を勧(くわん)じ、遠(とを)山にかゝる白雲(しらくも)を詠(なが)めては、紫(むらさき)の色をねがへり。此玉江を世には江川といふなりとぞ。

 又、義景(よしかげ)の家(け)人に、真柄(まがら)十郎左衛門とて、北国無双(ぶさう)の大力ありしが、渠(かれ)が末(すへ)の子を、鷹瑳(ようさ)が弟子(でし)にして、瑳玉(さぎよく)と名づけ、小僧(ぞう)にて召使(めしつか)へり。

 比しも長月の初め、所(ところ)からとて、雪気(ゆきけ)の雲の立かさなり、北風はげしく、半夜(はんや)の鐘(かね)を吹(ふき)おくりて、遠寺(ゑんじ)も耳(みゝ)もとにある心地せしに、学窓(そう)のともしもちらつき、寒(さむ)けさも肌(はだへ)にしみて覚へしかば、焼火(たきび)してあたらんとて、鷹瑳(ようさ)手づから篭(かご)をたづさへ、まがき近き、しげみのもとに行て、落葉(おちば)やうのものをかきあつめ、木の下枝(ゑ)なんど切折て、篭(かご)に取入れ帰らんとせしに、後(うしろ)のかたより、からびたるこゑして、

「のふ/\」といふ。鷹瑳(ようさ)誰(たれ)ならんと見かへりたるに、月なき夜に、雲(くも)さへ立かさなりたれば、物のあやめもさだかならねども、大の法師(ほうし)の、長(たけ)七尺あまりに見へ、眼(まなこ)ひかりわたりて、目鏡(めがね)をかけたるがごとく、見るに魂(たましゐ)もうせぬべきが、頭(かしら)には大なる五輪(りん)をいたゞき、身には白き木綿(もめん)の浴衣(ゆかた)のごとくなる者を着(き)て、大卒都婆(おゝぞとば)を杖(つゑ)につけり。

 鷹瑳(ようさ)は、元(もと)より道徳(どうとく)のいみじきのみにあらず。父祖(ふそ)の力をつぎて、力量(りきりやう)したゝかなる僧なりしかば、少もおどろく気色なく、

「やさしくも、狐狸(こり)の我をたぶらかさんと、巧(たく)めるにこそ」

とおもひ、

「汝(なんぢ)何ものぞ。いづくより来れるにや」

と問ふ。彼(かの)変化(へんげ)の者何共ものはいはず。暫(しば)らくありて、にこ/\と打わらひ、

「御坊(ぼう)の年はいくつぞ」

と問ふ。鷹瑳(ようさ)聞て、

「汝(なんぢ)と同年(どうねん)」

といふ。彼(かの)者

「又御坊も、此五輪(りん)をいたゞき給ひなんや」

と問(と)ふ。鷹瑳(ようさ)、聞も敢(あへ)ず、

「扨は、愚僧(ぐそう)が力(ちから)を、こゝろみんため来りしな。其纔(わづか)の小石をいたゞき、自慢(じまん)におもふとおぼえたり。推量(すりやう)よりも、力の弱(よは)き法師(ほうし)かな。其(それ)は五輪の第一輪(も<ママ>ん)の一つならずや。我片手にものせつべし。此方(こなた)へ渡(わた)せや」

といひて、彼五輪を片手にのせ、はるかのむかふにどふどなげ、

「かゝる重(おも)き物は、汝等(なんぢら)には相応(さうおふ)せず。此落葉(おちば)の篭(かご)をいたゞき、愚僧(ぐそう)が供をして、庵室(あんじつ)に来れよ」

といへば、彼(かの)者返事(へんじ)をもせず、ふせうらしき体(てい)にて、彼(かの)篭(かご)をいたゞき、鷹瑳が跡(あと)に付て、庵(いほり)の内までそろ/\歩(あゆ)み来りけるが、彼かごを傍(かたはら)に指置(さしをき)て逃(にげ)行んとす。鷹瑳、のがさじと追(をつ)かけ、扉(とぼそ)の際(きは)にて、彼(かの)者をとらへ、扉(とぼそ)を押(をし)たて、立篭(たてこめ)んとせしが、逃(のが)れ出て、片足(かたあし)扉(とぼそ)に立(たて)こめられ、抜(ぬか)ん/\とせしを、鷹瑳(ようさ)は、此方(こなた)より、扉(とぼそ)を押(をし)て、抜(ぬか)さじともみ合たり。

 小僧(ぞう)の瑳(さ)玉も、鬼(をに)真柄(まがら)と呼れて、隠(かく)れなき、大剛(が

う)の者の子にて、力(ちから)といひ心といひ、一曲(ひとくせ)ある者なりけるが、此音(をと)にをどろき、眠(ねむ)れる目を、する/\走り出て、此体(てい)をきつと見、山刀(がたな)を持(もち)来り、かの者が足の、踝(くるぶし)の辺(へん)よりふつと切(き)る。変化(へんげ)の者はきられながら行衛もしらず逃(にげ)うせけり。

 鷹(よう)瑳、彼(かの)あしを取見るに、獣(けだもの)の足とは見へて、又少し異(こと)なる所あつて、水掻(かき)なんどもあり。

「扨は、河童(かわらう)にや、よし/\、何にもせよ、珍(めづ)らしきものを得たり」

とて、細き紐にてくゝりさげ、ぬれ縁(ゑん)の上なる、軒(のき)に掛(かけ)をきて、内に入りて焼(たき)火し、瑳玉(さぎよく)と指(さし)むかひ、ねむりながらあたり居(ゐ)しに、扉(とぼそ)をあらくたゝきて、

「我落せし足を返せよ」

といふ。斯(かく)のごとくする事、二三度に及びければ、小僧の瑳(さ)玉、おもしろきことにおもひ、「いで返さん」とて走(はし)り出るに、曽(かつ)て眼(まなこ)にさへぎる者なし。

「よし/\かまわず共あれかし」

とて、焼火(たきび)打けち、二人共に寝(いね)たりけり。

 夙(つと)に起(をき)出て見るに、夜の間にぬすみ取しと見へて、彼(かの)足(あし)はなくして、扉(とぼそ)は破(やぶ)れ、まがきなんども、此彼(こゝかしこ)らうがはしく破れたる所あり。何者の変化(へんげ)たるにやあるらん。察(さつ)するに、河童の、江川より出てたぶらかさんとせしにやとて、昨夜(さくや)抛(なげ)たりし五輪(りん)の、ありし所(ところ)に行見るに、五輪の石にてはあらずして、ちゐさく丸き石にてありしなり。

 此鷹瑳が兄(あに)、朝倉(あさくら)太郎左衛門尉(のぜう)景悦(かげよし)は、父が名跡(みやうせき)を続(つぎ)居しが、其後(のち)程(ほど)なく早世し、家をつぐべき子なかりし故、国守(こくしゆ)左衛門督(のかみ)義景(よしかげ)のはからひにて鷹瑳(ようさ)を還俗(げんぞく)せさせ、景悦(かげよし)が遺跡(ゆいせき)をつがしめ、朝倉(あさくら)中務丞(つかさのぜう)景恒(かげつね)と号(がう)せられ、敦賀(つるが)の郡司(ぐんじ)とし、金ヶ崎(かねがさき)の城主(じやうしゆ)となりてありしなり。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の李東郭(りとうくわく)、此物語を聞ていはく、

「世に河童(かはらう)あり。山童あり。山童(らう)は、東方朔(とうぼうさく)が『神異経(しんいきやう)』に山〓(さんそう)といへる是なり。古(いにし)へより、変化(へんげ)て人をたぶらかすもの、是等にかぎるべからず。

 昔(むかし)少保(せうほの)馬公亮(ばこうりやう)といひし人、若かつし時、窓(まど)のもとに燈火(ともしび)をかゝげ、書(しよ)を読(よ)んで居(ゐ)たりしに、扇(あふぎ)の大さしたる、白き手を、窓のもとより指(さし)出す。馬公亮(ばこうりやう)すこしもおどろかず、見ざるふりして書を見居たり。次の夜も又、大なる手を指出す。馬公亮おかしくおもひ、筆をとつて雄黄水(おわうすい)にて、文字を一字(じ)かの手の腹(はら)に、大文字に書(かき)付らる。其時、窓(まど)の外(そと)より、大なるこゑにて、

『早く是を滌(あら)ひされ。然らずんば、汝(なんぢ)に禍(わざわひ)ひ<ママ>をあたへん』

といふ。馬公亮(ばこうりやう)すこしもおそれず、聞(きか)ぬ体にて寝(いね)られけり。変化(へんげ)の者なをも、あららかなるこゑして、

『速(すみやか)に是をあらへよ』

と、怒(いか)ること甚(はなは)だし。され共公はいらへもせず、夜(よ)既(すで)に明(あけ)なんとするに及ぶまで、其手を縮(しゞ)むる事あたはず。しきりに泣(なき)かなしんでいはく、

『誠(まこと)に、公は貴(たつと)かるべき人なるを、我(われ)たはむれに是を犯(をか)す。公(こう)は温〓(おんきやう)が犀(さい)を燃(もや)すのことを見給はずや。何ぞ忍(しの)んで係(かゝ)ることをし給ふぞ』

といふ。公、大に悟(さと)つて、水を以てかの文字をあらひすてしかば、大によろこんで逃去(にげさ)りし、とあり。

 此事、『括異志(くわつゐし)』にみへたり。

 又、『酉陽雑俎(ゆうやうざつそ)』にいはく。

 郭代公(くわくだいこう)といへる人あり。常(つね)に山居(さんきよ)す。或(ある)とき、夜半(やはん)の比(ころ)、何者共しらず。面(おもて)は盤(たらい)のごとく、眼(まなこ)は日月(じつげつ)のごとく、光(ひか)りわたれる者、燈火(ともしび)のもとより、顔(かほ)をさし出す。郭代公(くわくだいこう)、すこしもおそるゝ気色(けしき)なく、筆を染(そめ)て、其かほに題(だい)していはく、

  久戌(きうじゆつ)人偏(ひとへに)老(をひ)  長征(せい)馬不肥(こへず)

と、題(だい)し終(おは)つて是を吟(ぎん)ず。其時変化(へんげ)の者、終(つゐ)に消(きへ)うせぬ。斯(かく)て、数(す)日あつて、或(ある)とき郭(くわく)代公、樵夫(きこり)にしたがひ、山ふかく遊(あそ)びのぼりしに、ある大木の上を見れば、大なる白き茸(くさびら)あり。彼(かの)題(だい)せし所(ところ)の句(く)、茸(くさびら)にかきてありしとなり。

 然るときは、彼(かの)くさびらの化(ばけ)たるにこそ。

和漢乗合船巻之第四終

和漢(わくわん)乗(のり)合船巻之第五

  二子(ふたごの)二心(ふたごころ) 附馬揃(むまぞろへの)花麗(くわれい) 人違(たがへの)敵討(かたきうち)

  天竺(ぢくの)百子(し) 附嫁揃(よめぞろへの)三子(みつご) 人違(たがへの)仮粧(けはい)

 内外(うちと)のはまにうらさびて、世をうみわたるといひをきし、あまのはしだてを我(わが)ものに、明(あけ)くれぶさふの眺望(てうぼう)を、知行(ちぎやう)にもかへじとめで給ひし、丹後(たんご)のくにの豪家(がうか)、一色(いつしき)左(さ)京太夫(のだいぶ)義定(よしさだ)ときこえしは、足利(かゞ)の麁流(そりう)にて、尤源氏(じ)の高家(かうけ)なり。

 此人の家人(けにん)に、由良(ゆら)刑部(ぎやうぶ)といふものあつて、男子(なんし)二人もちけるが、これは、よにまれなる、二子(ふたご)といへるものにて、一産(いつさん)に兄弟(きやうだい)の子をもふけたり。

 さきにむまれいでたるを、嫡子(ちやくし)とさだめて、これを由良(ゆら)平次郎とがうし、あとにむまれいでたるを、弟(をとゝ)として名(な)を才(さい)四郎といふ。孳生(さんせい)のしるしは、きやうだいの容貌(ようぼう)、つゆばかりもたがふことなし。面体(めんてい)をもながに、色きはめてしろく、中肉(ちうじく)の男つき、こつがら世にすぐれ、一家(か)中にもあまり、まさるものなきわかものなり。

 しかるに、父(ちゝ)の刑部(ぎやうぶ)疫〓(ゑきれい)におかされ、病床(びやうしやう)にふして、悪寒(をかん)発熱(はつねつ)はなはだしく、良医(りやうい)さま%\手をくだきしかども、そのしるしもなく、大熱(ねつ)身(み)をくるしめて、人をもみしらず、舌(した)ねこわつて、ものいふことかなひがたし。やみつきてより、七日(なぬか)をもまさで、終(つゐ)にうきよのこときれはてぬ。

 平次兄弟(きやうだい)、なげきかなしむといへども、かへるべき道にしもあらねば、同月庵(どうげつあん)といへる、曹洞宗(さうとうじう)の禅寺(ぜんでら)に葬(ほうむ)りて、卵塔(らんたう)一掬(いつきく)のぬしとなせり。

 次男(なん)の才四郎は、あにゝも似ず、慾心(よくしん)ふかく、よろづわがまゝものなりけるが、

「我(われ)次男(じなん)とよばるゝといへども、元来(ぐわんらい)ふたごなり。さきにむまれたるをもつて、平次、をのれあになりとおもふといへども、むかしより二子(ふたご)は、のちにむまれたるを、あにとすといふことあり。父(ちゝ)もこの利をしり給はず。さきにむまれたるをもつて、平次をあになりとあやまり給へり。内/\、此利を申きかせ、われ嫡子(ちやくし)にたゝんとおもひゐしに、存じのほかの急病(きうびやう)、ことに夢(む)中にてはて給ひしかば、是非(ぜひ)におよばざるところなり。しかりとて、我嫡子(ちやくし)の利ありながら、なんぞ麁子(そし)とよばるべき。此家督(かとく)はわれなり」

と、あながちにいきどほる。あにの平次是をきゝ、

「我、孳生(さんせい)たりといへども、なんぞしかる道理(だうり)あらん。二子(ふたご)はいにしへよりためしをゝし。むかし、殷王(ゐんわう)祖甲(そかう)ふた子(ご)をもふく。さきにむまれたるを兄(あに)として、名(な)を〓(ぎん)といひ、のちにむまれたるを弟(をとゝ)として、名を良(りやう)となづく。又、許〓荘公(きよきさうこう)、一産(いつさん)に二人の女子(によし)をもふく。さきにむまれたりしは妹(まい)、のちにむまれしを筏(ばつ)といふ。是もさきにむまれたるをあねとせり。そのほか、文(ぶん)長〓(せん)・膝公(とうこう)・李黎(きれい)・漢(かんの)霍光(くわくくわう)、これみなふた子゛をもちしかども、さきにむまれたるをもつてあにとせり。なにゆへ弟(をとゝ)に家督(かとく)をわたすべき」

といふ、。

 この事、主人(しゆじん)左京太夫(のだいぶ)つたえきゝ、

「〓生(さんせい)の先後(せんご)の法(ほう)は、ともかくもあれ、父(ちゝ)の刑部(ぎやうぶ)存生(ぞんじよう)のうち、平次をもつて惣領(そうりやう)と、さだめをきぬるうへは、なんぞろんずることあらん」

と、理非(りひ)の発明(はつめい)わたくしなければ、弟の才四郎もちからなくしてやみしかども、これより内心(ないしん)には、きやうだいたがいにいかりをのみ、うはべばかりの礼儀(れいぎ)なり。

 しかるに、天正九年のはる、帝(みかど)正親町(おゝぎまちの)院(ゐん)、馬(むま)ぞろへをゑいらんあるべきよし、武家(ぶけ)に御(ン)望(のぞ)みあるにより、右(う)大臣(じん)信(のぶ)長公(こう)、安土(あづち)より上洛(らく)あり、国(くに)%\の諸(しよ)大名(みやう)をめしのぼさる。一色(しき)左京太夫(のだいぶ)義定(よしさだ)も、めしにしたがひ上京ゆへ、由良(ゆら)平次郎きやうだいも、供(とも)の人数(にんじゆ)にくわへられ、此ときみやこにのぼりたり。

 馬ぞろへは、二月廿八日とのさだめ、禁裏(きんり)の築地(つゐぢ)のまへ、八町に馬場(ばゞ)をつくらせ、結構(けつかう)をつくさるゝ。仮御殿(かりごてん)には、金銀綾羅(れうら)をちりばめさせ、帝(みかど)行幸(ぎやうがう)ましませば、御家門(ごかもん)、清花(せいぐわ)、諸家(しよけ)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、次第(しだい)に桟敷(さじき)をかまへ給ふ。

 信(のぶ)長公の御(ン)出立、大まゆを作(つく)らせ給ひ、人形(にんぎやう)をおりつけたる、金紗(きんしや)の頬盒(ほうがう)をめされ、唐(たう)かんむりのうしろに、作り花(ばな)をさゝれたり。はだには地紅梅(ぢこうばい)、しろにて桐(きり)からくさを、段%\につけたる小袖(こそで)、うへには蜀江(しよくこう)のにしきの、袖ぐちをより金にて、覆輪(ふくりん)とりたる小袖をめし、緋段子(ひどんす)に、きりがらくさのかたぎぬはかま、白熊(しろぐま)のこしみのに、牡丹(ぼたん)のつくりばなをさし、同じく鞭(むち)をさしそへ給ふ。御(ン)太刀(たち)は熨斗(のし)つけ、はきぞへの御(ン)太刀は、さやまきの熨斗(のし)つけなり。しろ皮(かは)に桐(きり)の紋(もん)の御(ン)ゆがけ、御(ン)くつは猩々皮(しやう%\ひ)、大ぐろといへる、逸物(いちもつ)にのらせ給ふ。御(ン)むかばきよりして、泥障(あをり)くらがさね、手綱(たづな)、腹帯(はるび)、尾(を)ぶくろまで、金地(きんぢ)に虎(とら)ふのぬひものせり、真紅(しんく)の大総(おゝぶさ)はなやかに纓絡(ようらく)をつけさせらる。天下の壮観(さうくわん)、千載(せんざい)の一遇(ぐう)、世の耳目(じぼく)をおどろかせり。

 辰(たつ)の刻(こく)に、本能寺を御(ン)出あり。宝町を上(かみ)へ、一条を東へとをらせ給ひ、馬場(ばゞ)のうちに御(ン)入あれば、洛(らく)中のきせん、老(をひ)たるもわかきも、我をとらじとくびすをつゐで、「ゑいや、/\」と群集(くんじゆ)せり。

 そのころ越(ゑつ)中のくに、二上山(ふたかみやま)のふもとに、黒(くろ)河勘三郎、舎弟(しやてい)竹右衛門とて、きゃうだいの浪士(らうし)あり。上方見物のためとて、折しも京都(と)にのぼりあはせ、よき時節(じせつ)の上京、国もとへのみやげとよろこび、御(ン)馬ぞろへを拝見(はいけん)のため、きやうだい打つれきたりしに、一色(しき)殿(どのの)家(け)人、由良(ゆら)平次郎、馬場(ばゞ)より主人(しゆじん)の使者(ししや)にゆき、草履(ざうり)とりたゞ一人にて、高(たか)もゝだちをとり、大汗(あせ)をぬぐひながら、町尻通(まちじりどをり)をあがるほどに、土ぼこり天をかすめて、見物(けんぶつ)の貴賎(きせん)はぬのをひきつ。

 土御門(つちみかど)のすこし南にて、かの黒(くろ)河勘三郎があゆみゆきしを、あまりの群集(くんじゆ)に道(みち)ばかはゆかず、急用(きうよう)の使者(ししや)、こゝろのうちに矢(や)をつきて、

「はいよ、/\」

といひさま、勘三郎をつきのけ、はせぬけんとするところに、黒河たぢ/\として、そばなる女(をんな)にをしあたり、二人ともにまろびふす。竹右衛門大にいかり、

「こは狼藉(らうぜき)もの」

とひきもどす。平次郎、心はせく、ふりきつてゆかんとするを、勘三郎をきあがり、

「のがさじ」

といひさま、平次郎をひきもどせば、

「こゝろへたり」といふよりはやく、ぬきうちにてうどうつ。

勘三郎かたさきにうす手゛をゝひ、

「やれ狼藉もの。のがさじ」

といふほどこそあれ、上(うへ)を下(した)へと騒動す。

 此さはぎのまぎれに、群集(くんじゆ)の中をかいくゞり、平次は行(ゆく)衛をくらませり。黒河兄弟、大にいかりのゝしれ共、あひ手をにがしぬるうへは、何とすべき手段(てだて)もなく、かんにんのむねをさすりながら、をのれが旅宿(りよしゆく)にかへりぬ。かくてきやうだい、つく%\としあんするに、此たび上京の、織田家(をだけ)の士(し)にまがひなし、信(のぶ)長在(ざい)京のうち、なにとぞつけいださんとおもひ、それよりきやうだい日ごとに出て、信長公の寄宿(きしゆく)、本能寺のへんを、かなたこなたとはいくわいす。同き三月七日は、信長公、清水寺御参詣(ごさんけい)ときこへしかば、早朝(さうちやう)より出て、音羽坂辺(をとはざかへん)をたづねもとめ、まなこを十方(ほう)にくばりしかども、それとおぼしきものもなく、日も西の山の端に、うすづくころにもなりしかば、又手<挿絵半丁>をむなしくして、かへらんと心ざし、三条縄手(なわて)にかゝりぬ。

 其ころまでは、此なわ手に人家(じんか)もなく、物さびしき細(ほそ)みちなりしに、村立(むらだち)そよぐ笹竹のかげにて、由良才四郎にゆきあひたり、元よりきやうだい瓜(ふり)を二つにわりしとやいはん。たがふべくもなき人相(にんさう)なれば、黒河兄弟のものども、平次郎と見あやまり、

「すは、きやつぞ」

といふまゝに、兄弟二人、のがさじときつてかゝる。才四郎、

「こは心得ず。人たがへか」

といへども、さらにみゝにもきゝ入れず。無(む)二無三に打かゝれば、すかさずぬき合せて、二人を相(あひ)手にあひはたらく。才四郎は元来(ぐわんらい)新当流(しんたうりう)の剣(けん)じゆつ、国にてはほまれある者なれば、敵(てき)二人を事ともせずさん%\にきりあふほどに、勘三郎をきりふする。弟の竹右衛門せきにせひて、踏込(ふんごみ)/\たゝかひしが、これも眉間に手疵(きず)をゝひ、まなこに血入てはたらき得ず。そのひまに才四郎は、行がたしらずにげうせぬ。人たがへせしのみならず、かへつてやみ/\とうたれぬる、ふうんのほどこそつたなけれ。

 かくて、信長公、安土に御帰国(ごきこく)ありしかば、一色(しき)左京太夫も、御(ン)いとまをたまわり、丹後の国にかへられしかば、平次郎兄弟も供して国にかへりけるが、才四郎しあんしけるは、

「我、人をあやめぬれば敵(かたき)ある身なり。終にはねらひ出されて、うたれんは必定(ひつぢやう)なり、幸(さいわひ)あに平次とは遺恨(いこん)ある中、わざわひを人にゆづるてだてあり」

と、俄(にはか)に主人一色殿(どの)に、御(ン)いとまを申うけ、すこしのしるべをたよりに、和州(わしう)小泉(こいづみ)にたちこへ、名を岡田一笑(いつせう)とあらため、家(いゑ)重(ぢう)代の紋(もん)、真向(まむき)の兎(うさぎ)もよふあらはにして、目じるしあるべければとて、ひだりどもへにつけかへ、人めをしのびかくれすめり。

 黒河竹右衛門は、おもひの外にあに勘三郎をうたせ、我身もいた手゛をひぬれば、ちから及ばず。本国(ごく)越中二上(ふたがみ)にかへり、手疵(きず)を養生(やうじやう)してのち、勘三郎が遺子(ゆいし)、勘之助とて十四才なりけるをともなひて、父兄(ふけい)のかたきをうたんがため、国もとを立出しが、かたきの名もきゝしらず、元より其住所(ぢうしよ)さへいづくともしらざれども、かたきの風俗、はるかの遠国(をんごく)とは見知らず。美濃(みの)・尾張(をはり)より西(にし)、丹後(たんご)・但馬(たじま)・播磨(はりま)へんよりは東、畿内(きない)のうちぞとおぼえしかば、真向(まむき)のうさぎの紋(もん)をしるべ、面体(めんてい)を見おぼえたれば、これをしるしと心ざして、畿(き)内をはじめ、津の国、大和(やまと)の在(ざい)%\をたづね、紀(き)の路(ぢ)のたびにおもむきて、それより伊勢路にかゝり、尾張(をはり)・美濃(みの)をたづねもとめ、三とせめに若狭(わかさ)より、丹後(たんご)の国に立こえ、こゝかしことたづねしに、ある日、九世(くぜ)の戸の文殊(もんじゆ)にもふでゝ、天の橋立(はしだて)の風景(ふうけい)をみるに、東西は一里ばかり、南北はうみをたゝへて、海士(あま)のかづきするふぜい、釣(つり)ぶねのゆきかふけしき、世にたぐひなき眺望(てうばう)なり。

 折しも、長月中つ比、うら風もみにしみて、はだへもやゝさむくおぼえ、「こひわたる人にみせばや松のはも、したもみぢする」とよみすてし、ふることも所から、おもひ出て口ずさみしに、供まはり少/\にて、出来る武士(ぶし)あり。みればたづぬるかたきなり。竹右衛門、勘之助に目くわせし、

「面体(めんてい)たしかにまぎれなし」

と近よりて紋(もん)をみれば、案(あん)のごとく、まむきのうさぎ、これぞ文殊(もんじゆ)の御引合せ、日ごろののぞみ達(たつ)しぬと、やりすごして、叔父(をぢ)甥(おひ)二人笠(かさ)とつてなげすて、

「父兄(ふけい)のかたきのがさじ」

といふ。由良(ゆら)平次郎これをきゝ、

「かたきとはおぼえなし。人たがへならん。麁相(そさふ)すな」

と、いはせもはてず、

「やれ、なんぢにうたれつる黒河勘三郎が一子勘之介、我は舎弟(しやてい)の竹右衛門、わすれたるか」

ときりかゝる。平次も今はちからなく、ぬき合せてきりむすび、うけつひらいつたゝかひしが、黒河二人が勇気(ゆうき)、

「日比の素懐(そくわい)こゝにあり」

と、石にたつ矢のいきほひもかくやとおぼえてたゝかふほどに、つゐに平次郎をきりたをす。由良が若党(わかとう)二人ぬきつれてきりかゝりしが、これもいたでををひて逃(にげ)うせぬ。

 扨、まづ勘三郎にとゞめをさゝせ、そのゝち竹右衛門のりかゝり、

「年来のうらみ、おもひしれ」

と、二刀三刀心のゆくほどつきとをし、

「今は本望たつしぬ」

と、大にいさみよろこびてゆきがたしらず立さりぬ。

 一度は人たがへして兄をうたせ、又此たびは、人たがへして相手をうちぬ。しかれ共まことの本意をとげたるにはあらず。又めずらしき事どもなり。

 かたきの岡田(をかだ)一笑(いつせう)は、平次がうたれしよし、大和にてつたえきゝ、

「我たくみし図(づ)にのりて、年比にくしとおもひつる、兄平次郎をうたせ、十分の仕合。今はこの世の苦をはれて、おもふ事なし」

とよろこび、それより歓楽(くわんらく)にほこりけるが、近(きん)年、筒井(つゝゐ)順慶(じゆんけい)が家来(けらい)、深谷(ふかや)左仲(さちう)がむすめをむかへ、己が妻女(さいぢよ)となしをきしが、なをも色をこのむこと大かたならず。又、摂州(せつしう)伊丹(いたみ)より、たぐひなき女をよびむかへ、屋敷の内に入れをきて、此妾(てかけ)をあひすること、本妻(さい)にまさりたり。

 妻女はきわめて、嫉妬(しつと)ふかき女なりしが、此ことを大にねたみいきどほり、女心のあさはかに、夜(よ)ふけて妾(てかけ)がねやにしのび入り、かの妾ぞ

とあやまりて、一笑(せう)が一つ夜着(よぎ)にふしゐたるをもしらず、夜着ごし

に一笑をつきとをす。妾このをとにおどろき、

「やれ出合よ」

とにげ出る。下人どもおき合せ、

「手燭(てしよく)よ。鑓(やり)よ」

とさわぐほどに、妻女も大にあきれはて、今はのがれぬところぞと、その刀(かたな)をとりなをし、心もとにつらぬきて、うつぶしになつて死(し)しにけり。天罰(ばつ)つゐにめぐりきて、又人たがへにあひ、不慮(ふりよ)に害(がい)せられしぞふしぎなる。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の李東郭(りとうくわく)、これを聞ていはく、

「一産(さん)に二子(ふたご)をうみ又は三子(みつご)四子(よつご)をもうむこと、いにしへより其例すくなからず。よくあひ似たることも、又そのためしをゝし。

 仏(ぶつ)在世(ざいせ)のとき、迦毘羅城(かひらじよう)の長者(じや)の婦人(ふじん)、一にぎりほどの肉(にく)をうめり。七日すぎて、其肉ひらけ、百人の男子(なんし)出たりといふこと、『百縁経(ゑんきやう)』にみへたり。しかれども、それは天竺(ぢく)の事績(じせき)、釈氏(しやくし)の説(せつ)、我あながちに証(しやう)とせず。

 何〓(かふん)が『燕間録(ゑんかんろく)』に、北魏(ほくぎ)の延興(ゑんこう)三年、秀容郡(しうようぐん)といふところの女、一産(さん)に四人の男子をうめり。四産(しさん)に十六人の男子ありしとみへたり。

 又、永楽(ゑいらく)六年、霊丘県(れいきうけん)の民(たみ)、李文秀(りぶんしう)が妻(つま)、一産に三子をうめり。又、呉守倉(ごしゆさう)といへるものゝ妻、一産に三子をうめり。是等は『代酔編(たいすいへん)』にみへたり。

 しかれば三子四子さへうめること、其ためしをゝし。

 又よく似たる事もためしあり。

 むかし汝寧士(じよねいし)燕生(ゑんせい)といふものゝ妻(つま)、一産に三子をうめり。吾呉(ごご)の陸鐘(りくしやう)人傑(じんけつ)、光州(くわうしう)といふところを知行(ちぎやう)せしとき、府城(ふせい)にゆきて、燕生(ゑんせい)がもとに立よる。燕生かの三子をよび出して謁(ゑつ)せしむ。人傑(けつ)これをみるに、一人は其もとゞり、左のかたにむかひ、一人は右のかたにむかひ、一人はもとゞり真中にして、常(つね)の人のごとし。人傑(けつ)不審(ふしん)におもひ、其ゆへをとへば、

『此もの共゛三つ子にて顔(かんばせ)三人ともに、少しもたがふことなし。さるによつて、もとゞりをかへて、目じるしとす』

とこたへけり。そのゝち燕生、三人の子をつれて、光州(くわうしう)にきたり。人傑(けつ)にまみへていはく、

『此ところに三子の女子あつて、我子共と同年なりときく。もとめて三人の子どもに、嫁(か)せしめんことをおもふ』

といふ。人傑、はなはだ奇なりとして、かの三子のむすめをたづねいだし、燕生が三子の男子と皆(みな)婚礼(こんれい)せさせしとかや。『続(ぞく)巳編(へん)』にのせたり。

 又、むかし白汲(はきう)といふものあり。其弟とは、是も二子(ふたご)にて、容貌(ようぼう)すこしもたがひなし。あるとき、白汲ほかよりかへりしに、弟(をとゝ)のつま、我をつとなりとあやまりて、しきりにまねきよぶといへども、その人たがへならんを察(さつ)し、白汲はわざときかぬ体にて居たりしを、弟のつま大にのゝしり、

『かくまでよぶに聞へざるか』

と、はしりきたつて、白汲(きう)が頬(ほう)をたゝく。白汲(きう)色をたゞしくして、

『某(それがし)は白汲なり』

といふ。弟のつま、大におどろき、面をあかめてしりぞきぬ。これより白汲、弟とは衣冠(ゐくわん)をかへて、まぎれざるやうにせしとかや。宋(そうの)伯象(はくしやう)が、『〓車志(けいしやし)』に出たり。

 又、なをもおかしきことあり。ちなみにかたり聞かすべし。

 陳(ちん)の国の張伯楷(ちやうはくかい)、弟の仲楷(ちうかい)とは、かたち少もたがふことなし。しかるに、弟仲楷(ちうかい)がつま、新(あら)たに仮粧(けはい)をなしけるが、兄(あに)の伯楷(はくかい)、はしりすぐるをみて我(わが)をつとなりとあやまりおもひ、

『みづから今けはいをなす。かほうつくしきにや』

ととふ。伯楷(かい)聞て、

『それがしは、あにの伯楷なり』

といふ。弟のつまはつとおもひ、面くれなゐのごとくになりて、にげはしる。斯(かく)てかの女、又わが部屋(へや)より、姑(しうとめ)のところにゆくに、又かの伯楷にあふ。此たびも又わがをつとなりとあやまりて、扨もさきに、伯楷をみあやまりしとて、其ゆへをかたる。伯楷大にわらひ、

『又/\あやまれるや。我はその伯楷なり』

といひしかば、女ふたゝび大にはぢしとかや。此こと『風俗通(ふうぞくつう)』にみへたり。兄弟二子の、よく似(に)たるをもつて、古よりみあやまりしこと、是らのことにてしるべし」

とぞかたりき。

 白小袖(しろこそでの)奇怪(きくわい) 附縮緬(ちりめんの)梯(のぼりばし) 夢者(ゆめは)聟入(むこいりの)媒(なかだち)

   指環(しくわんの)不思議(ふしぎ) 附酒店(しゆてんの)女(をんな) 鸚鵡(あふむの)仲人口(なかふどぐち)

 太閤(たいこう)秀吉公(ひでよしこう)は、鄙賎(ひせん)より出て、吾朝(わがちやう)の動乱(どうらん)をしづめ、威光(ゐくわう)を大明(たいみん)までも、かゝやかし給ひしかば、栄花(ゑいぐわ)は倭国(わこく)の春(はる)にひらけ、歓楽(くわんらく)をくもの上(うへ)にきはめ給ひしかども、徐福(ぢよふく)がくすりも求(もとむ)るにかひなく、おしや慶(けい)長三つの秋(あき)やゝさきをとろへたる。朝(あさ)がほのつゆと共に、世をはかなくさらせ給ふ。廟号(べうがう)を豊国(とよくに)大明神とあがめさせ給ひ、青幣(あをにぎて)・白幣(しらにぎて)・獅子(しゝ)・田楽(でんがく)の御祭礼(ごさいれい)、神威(しんゐ)めでたくわたらせ給ふ。

 御家督(ごかとく)秀頼君(ひでよりぎみ)は、そのゝち摂州(せつしう)大坂の城(しろ)にうつらせ給ひ、片桐(かたぎり)東市正(いちのかみ)且元(かつもと)・大野(の)修理亮(しゆりのすけ)治長(はるなが)・木村(むら)長門守(のかみ)重成(しげなり)以下の功臣(こうしん)<挿絵見開き1丁>、二ごゝろなく、秀頼君(ひでよりぎみ)を補佐(ほさ)しまいらせて、国の政事(せいじ)をとりおこなふ。

 こゝに、豊臣家(とよとみけ)の近臣(きんしん)に、大野(の)主計(かずへの)助治邑(はるさと)といふ人あり。やしきは玉造(づくり)口の御門(ごもん)にちかく、居体(ゐてい)びゞしくつくりて、出頭(しゆつとう)のいきほひ。玄関(げんくわん)におくり物たえず、門前に馬をならべさせたり。

 そのころ、長門の国豊浦(とよら)の住(ぢう)、臼井(うすゐ)斎宮助(いつきのすけ)といへる浪士(らうし)、寺沢(てらざは)志摩守(しまのかみ)殿(どの)のまねきによりて、武州(ぶしう)江戸に下り、帰国(きこく)の節(せつ)、大坂につきて、弁(べん)ずべき用事共もをゝく、しばらく爰(こゝ)に逗留(とうりう)せしに、天王寺のへんにて、ふと主計(かずへの)助がむすめ、こはんといへる女を、よそながらみそめたり。こはんも斎宮(いつき)が美男(びなん)にめで、ひそかにその名(な)をたづねきゝ、

「あはれ、いかにもしてたよりする海士(あま)もがな」

と、おもひこがるゝ事大かたならず。斎宮(いつき)もいつしか色(いろ)に出でゝ、かの主計(かずへの)助が許(もと)に折/\何となくおとづれしかども、元(もと)よりあひみん事は、海(うみ)乾(かは)き石たゞるとも、あふべきよすがもあらばこそ。只おもひわづらひて、うか/\とのみなり居(ゐ)たり。

 ある夜(よ)、ひとりねのたびまくら、物さびしくふしけるに、夢(ゆめ)心にこ半が方(かた)より、こま%\とふみをおくりて、

「こよひ屋敷の後園(こうゑん)なる、屏(へゐ)ぎはまで御(ン)こし候へかし。あないせさせまいらせん」

なんど、いひおくれり。斎宮(いつき)うれしさ身にあまり、其よ、主計(かずへの)助が屋敷の、うしろのかたにまわり、塀(へゐ)ぎわにたゝずめば、屏のうへより、ちりめんのかゝへ帯(をび)の、いくつもむすびあわせたるを、二筋(ふたすじ)までさしをろす。斎宮(いつき)はすゞろうれしく、かの帯をたぐり上(あぐ)れば、屏(へゐ)の上に腰(こし)本の女、一人あがり居て、

「こなたへ入り給へ」

と、かねてもふけをきたるはしごより、斎宮(いつきの)助をおろし、我身もおりてのち、こ半がねやにともなへり。

 それより、盃(さかづき)をとりかはし、夜(よ)もいたうふけしかば、こ半がふしどに入て、新(にゐ)まくらのゆめもむすばず、此日ごろ思をつくしあこがれし事共゛、たがひにかたりなぐさむほどに、をのがつばさをならべながら、人のわかれをいそぐこゑの、しきりにうちきこえて、東もやゝしらみしかば、又のあふせをちぎりて、きぬ%\をつぐる。

 こ半は今さらに、おもひもまさるこゝちして、

「あわぬむかしぞ、ましならめ」

なんど、袂(たもと)もほしあへず、又の夜(よ)をかたくちぎりて、

「まだ夜(よ)あらしもはげしく、はだもうすくおはしませば、風をやめされさふらはん。みづからが着物(きもの)を、はだにめして御(ン)かへりましませ」

とて、我(わが)ふり袖(そで)の白小袖(そで)を、斎宮(いつき)がはだにきせぬ。斎宮(いつき)もわかれまいらせんことの、しばしがほども心うきに、

「せめては、此小袖のうつり香(が)ぞ、御(ン)身(み)にそひまいらするこゝち」

とて、こま%\といとまごひし、又はじめの屏(へい)にのぼり、外(そと)のかたへ、とびおるゝとおもひたれば、手あしをはたとうごかして、たちまちにゆめさめぬ。

 眼(まなこ)をひらき、四方をみれば、我(わが)旅宿(りよしゆく)のふしどなり。扨(さて)まざ/\しとはだをみれば、かの白むくの小袖。「こはあやしや」とおもひ、かさねしうへの着(き)ものをぬいで、袂(たもと)をみれば、ふり袖なり。

「こは希代(きたい)の珍事(ちんじ)。こ半がはだ着(ぎ)にまがひなし。これぞたぐひなき宝(たから)物よ」

と、人にもしらさずかくしをけり。

 その又あけの日、順風(じゆんぷう)を待(まち)得たる、出舟(いでぶね)にさそはれて、心ならず艤(ふなよそ)ひして、本国にかへりけり。

 其のち二年(ふたとせ)すぎての春(はる)、奉公(ほうこう)の望(のぞ)みありて駿府(すんぷ)へと心ざし、又はる%\と海(かい)上をのぼりしに、大坂につきて、爰(こゝ)にて逗留(とうりう)したりしが、こはんをこひしくおもひ、せめてよそながらの心ゆかしにもと、主計(かずへ)が許(もと)にをとづれしに、主計(かずへ)出合、対面(たいめん)し、大によろこび、奥(をく)にまねき入れて、

「扨(さて)も、某(それがし)がむすめ、去(きよ)々年(ねん)の初冬(しよとう)のころより、何となくやみふして、方薬(ほうやく)もほどこすにしるしなく、日をおつて憔悴(せうすい)し、次第(しだい)にたのみずくなくなりて、此ごろはすでに浮(うき)世のたのみもきれ、良医(りやうい)も手をうしなひ候ゆへ、親(をや)の子をおもふならひ、途方(とほう)にくれかへ共゛、此ものがけしき、あやしき事共゛候ゆへ、

『いかなる病(やまい)ぞ。おもふこともあらば、ありやうにかたるべし。心にまかせ得させん』

と、色(いろ)/\すかし候へば、

『一とせ貴殿(きでん)をみそめ、ふかく執心(しうしん)をかけ恋(こひ)わづらひ候よし、若(もし)やまひ平愈(ゆ)しぬとも、一生(いつしゃう)ほかの男にはまみへじ。又死(し)すとも、魂(たましゐ)は此世にのこり、懸相(けさふ)の念(ねん)をとげ候はん』

よし申候ゆへ、

『汝(なんぢ)がねがひをかなへ得させん。心やすかれ』

といひきかせしかば、それより病(やまい)も、やう/\日々に験気(げんき)を得、むすめ一人ひろひ得たる心地(こゝち)せり。

 さるによつて、貴殿(きでん)の国本へ、使者(ししや)をさし下さんか。とやかくやと存居(ゐ)候ところに、はからずも御上国。これぞ宿世(しゆくせ)のゑんならん。某(それがし)がむこになりてたび候へ。幸(さいわひ)御浪士(ごらうし)の身なれば、秀頼公(ひでよりこう)に申上、御奉公(ごほうこう)に出し申さん」

といへば、斎宮(いつきの)助、又、ゆめのこゝちして、

「扨/\、不思議(ふしぎ)のきゑん。世にすてられたる浪士(らうし)を、聟(むこ)になされんとの仰。いかでか違背(ゐはい)いたすべき。いかやうとも御意(ぎよい)にしたがひ候はん」

といふ。

 主計がよろこびなゝめならず。早速(さつそく)衣服武具手(て)道具(ぐ)、それ%\にとゝのへて、斎宮(いつき)が方(かた)におくり、吉日をゑらみ、我屋敷へよび入れて、婚礼(こんれい)をとりおこなふ。それよりねやに入りみるに、去(きよ)々年ゆめにみし、こ半が部(へ)屋に、少しもたがふところなく、金屏(きんべう)の松もつるも、夢(ゆめ)の絵(ゑ)にたがわず。「扨/\、不思(ふし)議の事どもかな」と、ありしゆめの次第(しだい)、白小袖のあやしきこと、くわしくこれをかたりしかば、こ半きゝて、

「扨(さて)もふしぎの次第(しだい)、みづからそのころみしゆめに、少しもたがふところなく、白小袖をきせまいらせしとおぼえしが、夙(つと)にみしかば、はだに着たりし白むくの、行がたなくなりしゆへ、扨(さて)はあまりのこひしさに、魂(たましゐ)うかれて、あひまいらせしにやと、あやしくおもひさぶらひしが、今ぞふしんははれしやうにて、なをあやしさはやまざりけり」

と、たがひにかたりよろこびて、わりなき夫婦(ふうふ)のなかとなれり。

 それより主計がはからひにて、豊臣家(とよとみけ)に御目見へし、小姓組(こしやうぐみ)の番頭(がしら)に仰付られ、奉公の忠勤(きん)をはげみけるが、四五年すぎて、主計助は病死(びやうし)しぬ。

 其後、天下の大乱(らん)出来(いできたり)。すでに味方の滅亡(めつぼう)とみへしとき、後藤又兵衛尉基次が手にてあひはたしき。道明寺口(だうみやうじぐち)にて、斎宮(いつきの)助討死(うちじに)をとげしかば、妻のこ半かなしみにたえず、いかでか片時(へんじ)もながらへて、此世にのこりまいらせんとて、守刀(まもりがたな)をぬいて、心もとをつきとをし、うつぶしになつて死しけるこそあはれなれ。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の李東郭(りとうくわく)、掌(たなごゝろ)をうつて、

「いにしへもよく、それに似(に)たることあり。

 大元(げん)の文宗(ぶんそう)皇帝(くわうてい)のとき、至順年中、金陵(りやう)

といふところに、王生(わうせい)といふものあり。美男(びなん)のほまれありて、才智(さいち)も亦(また)世にこえたり。用事(ようじ)ありてふねにのり、渭塘(ゐたう)といふところをすぎけるが、見れば酒店(しゆてん)あつて、家(いゑ)とみさかへたり。王生ふねをきしにとゞめ、浜(はま)にあがつて酒店(しゆてん)に入り、かの酒を沽(かい)てのむ。大なる蠏(かに)、細鱗(りん)の鱸(すゞき)なんど、さま%\の肴をいたし、王生(せい)をもてなしたり。

 酒店(てん)に一人のむすめあり。此おとをきゝ、奥(をく)よりさしのぞきけるが、あるいはかほを少しさしいだし、あるいは又さしあらはれ、さつてはきたり、来つては又かへる。王生(せい)も此女のうつくしきにめで、たがひに見合すことたび/\なり。

 酒つきて後(のち)、酒店(しゆてん)を出(いで)、舟にのりてかへりけるが、其よのゆめに、市の中にゆき、門の内に入ること数(す)十にして、女の室(しつ)あり。筑(つき)山やり水の風景、よにたぐひなし。まどのもとには、うつくしき篭(かご)をつりて、あふむといへるとりあり。つくゑの上には、あかゞねの瓶(かめ)をたてゝ、孔雀(くじやく)の尾(お)をおゝくたてたり。其かたはらに、すゞりと筆をおけり。美麗(びれい)なることいふべからず。女、王生(せい)をいざなひて、ねやに入りてふすとおぼえ、たちまちにゆめさめぬ。

 それより夜ごとにゆめみずといふことなし。一よは玉簫(ぎよくしやう)をのぞんで、女にふかせしとみる。一よは紫金(しきん)、碧甸(へきでん)・指環(しくわん)とりいだし、王生(せい)にあたふ。王生もまた、水晶(すいしやう)の双魚(さうぎよ)扇墜(せんたい)をかの女にあたふとみてゆめはやぶれてうせぬ。しかれどもかのゆめにみし、指環(しくわん)は我(わが)手にあり。

「こは不思議(ふしぎ)や」

とて、みれば扇墜(せんたい)はなかりき。

 かくて翌(よく)年又渭塘(ゐたう)をすぎけるに、かの酒店(しゆてん)のあるじ、大によろこび、王生(せい)を奥(おく)にまねき、

『扨も君、去年(きよねん)こゝにて、酒をのみ給ひし時、某(それがし)がむすめ、よそながらみそめしより病(やまひ)にそみて、ひとりごとをいひ、つねに酔(ゑゝ)るがごとく、服薬(ふくやく)さらにしるしなし。昨(さく)夕我(われ)にむかひ、

『明日(あす)郎君(らうくん)きたり給ふべし。かならずまち給へ』

といひしかども、まことゝもおもわざりしに、はたしてこゝにきたり給ふ。これ、天その霊(れい)をかしてこれがたよりをたまふものなり。我(わが)むすめに嫁(か)してたべ』

とて、王生(せい)が手をとり、室内(しつない)にいる。

 かのむすめの居所(きよしよ)をみるに、ゆめにみしに少もたがわず。又、むすめの衣服(いふく)の美(び)なるも、ゆめにみしところなり。むすめ、王生(せい)にむかひ、

『去(きよ)年、君(き[み])をみそめしより心にわするひまもなく、夜(よ)ごとにあひまいらせしと、ゆめをのみ見候ひし』

といへば、王生きゝて、

『わがゆめもまた左(さ)のごとし」

とて、簫(しやう)をのぞみ[し]こと、殊に指環(しくわん)扇墜(せんたい)をとりかはせしことをかたりて、かの指環をいだしみすれば、女も「さることさぶらひし」とて、かの扇墜を取いだし、

「これぞ神契(しんけい)ならん」

とて、王生(せい)と夫婦(ふうふ)となりし」

とぞかたりき。

 実(げに)も、このこと『剪燈新話(せんとうしんわ)』にみへたり。

和漢乗合船巻之第五終

和漢(わかん)乗(のり)合船(ぶね)巻之第六

 我子(わがこの)讐(あた) 附不慮(ふりよの)隠居(ゐんきよ) 怨霊(おんりやうの)杖(つゑ)

   前世(ぜんせの)敵(かたき) 附鏡(かゞみの)内(うちに)顕(あらはるゝ)女(おんな) 幽霊(ゆうれいの)恨(うらみ)

  近(ちか)き比(ころ)、筑紫(つくし)の田那菅(たなすげ)といふところに、五百川(いおかは)左門(さもん)といふものあり。妻女(さいぢよ)は、いにしへ、大内(うち)がたにみやづかへして、あや野といひし女なるが、五百(いお)川がつまとなりて、一人の男子(なんし)をもふく。其名(な)を小吉と号(がう)し、やうやく十才にあまりけるに、左門公用(こうよう)につき、摂州(せつしう)大坂に、一年(ねん)あまりのぼり居(ゐ)しが、浮世少路(うきよせうじ)のかたほとりなる、いやしきものゝむすめにうかれ、色(いろ)のほだしをうつゝなくも、うわきの上(ヘ)のやくそく。故郷(こきやう)の妻子(さいし)をうちわすれ、かの女をつれ、帰国(きこく)して、つまのあや野にむかひ、

「おぬしは年比(ごろ)病身(びやうしん)ゆへ、つねにほとけのみちをねがひ、無常(むじやう)にたち入りめされ、ちかごろしゆせうにおもふなり。去(さり)ながら、武士(ぶし)たるものゝ妻女(さいぢよ)が、ぼだいの道(みち)をこのみては、中/\不相応(ふさうおふ)のいたり。所詮(しよせん)本懐(くわい)を無(む)にせんも、我(われ)又心にこゝろよからず。それゆへ、あらたに妻女(さいじよ)をもとめ、此たびつれ下りたり。おぬしは今より隠居(ゐんきよ)ぶんにて、あまになりとも俗(ぞく)にてなりとも、心のまゝに、仏道(ぶつだう)しゆぎやうめさるべし。一生(しやう)はらく/\と、やしなひころして出奉すべし。又、小吉がことは、此家の惣領(そうりやう)として、我(わが)名跡(みやうせき)をつがせんうへは、何に不足(ふそく)のあるべきぞ」

とて、我(わが)屋敷(やしき)のうちに、ちゐさき別屋(べつや)をしつらひて、かのあや野(の)をとりのけ、むたいにこゝに入れをきて理不尽(りふじん)の仕合(しあわせ)。ことばにものべがたし。

 つまのあや野は、ゆへもなき女におもひかへられ、是非(ぜひ)なき次第(しだい)。同じ家内(けない)にすみて、あさゆふみるも心うく、故郷(こきやう)にかへらんとおもへども、八重(やゑ)の塩路(しほぢ)をへだてゝ、遠(とを)きみやこのかたなれば、のぼるべき手段(てだて)もなく、京都(と)の便(たよ)りにつきて、のぼらんとおもひ、しばらく時節(じせつ)をまちゐたり。

  左門(さもん)はかの後妻(こうさい)を寵愛(てうあい)することなゝめならず。月見(み)・茸(たけ)がりなんど、さま%\のゆふけふ、夜(よる)ひるのわかちもなく、色にめで酒(さけ)にうかれ、本心(ほんしん)を此女にうばゝれぬ。女はまた、左門が愛(あい)を笠(かさ)にきて、小吉をにくむこと大かたならず。おつとの左門にたきつくる、ほむらのけふりむせかへつて、針(はり)を棒(ぼう)と取(とり)なすほどに、左門は小吉をにくみ、

「用(よう)にもたゝぬ大だわけ。しやばふさげとはこいつがこと。我(わが)家(いゑ)をつぐべきやつにあらず」

と、かりにも白歯(しらは)をみせず、目にかゝればねめまはす。あや野はこれらの事共を、みきくにつけて心うく、

「人のこゝろのあすか川(がは)、ふちせさだめぬならひなれど、子なかまでなせしなかも、かはればかわるすみごろも、坊主(ぼうず)斗(ばかり)はにくまずして、袈裟(けさ)までとはどうよくなり。小吉はぬしの子(こ)ならずや、かくまでかわりはてぬるか」

と、おつとの心をうらみわび、なげきかなしみしかば、後妻(こうさい)大にいきどほり、

「小吉はすでに、みづからが子(こ)となせしうへは、湯(ゆ)になるとも水になすとも、おぬしがいらふべきみちにあらず。小吉が親分(おやぶん)として、一生(しやう)口(くち)だにやしなはゞ、何のいひぶんあるべきぞ。よしなきことをいひまわり、ぬしさまにあだなをつけ、みづからをまゝはゝの、あくにんのと、世のとり沙汰(ざた)にあはせんこと、すくせいかなるゐんぐわならん、よしや今は、いきてうき名(な)をたてられんより、ふち河に身(み)をしづめんか、みづからくびれて死(し)なんか」

なんど、いろ/\といひのゝしりしかば、左門いよ/\腹立(ふくりう)し、

「兎角(とかく)、此女を、やすらかにてくらさせなば、いかなる悪事(あくじ)をかふれながし、妻(つま)の悪名(あくみやう)をしやべるのみならず、我(わが)身(み)のうへのやぶれをや仕出(しいだ)さん。おのれが居所(おりどころ)の、戸(と)より外(そと)へいづべからず」

と、家来(けらい)の者共の出入をとゞめ、一ヶ(か)月(つき)ぶんづゝ、飯米(はんまい)たきゞもあてがひおき、下人どもにことばをもかはさず、座敷篭(ざしきろう)の気味(きみ)あひ、さりとはむごき御しかた、あはれをこゝにとゞめぬ。

 あや野(の)はいとゞかなしさのみまさり、

「今は中/\みやこへかへり、のぼるべきたよりもなく、かくおしこめられて、何をたのみともなく、いつまでか、うか/\と日をくらすべき。此うらめしき一念(ねん)の、よそへはいかではなれん」

と、口(こう)中の食事(しよくじ)をたち、湯水(ゆみづ)をさへのまざりしかども、つれなきいのちのたえもやらず、たゞよはりによはつて、廿一日めといふに、つゐにうき世のこときれぬ。

  左門ふうふは大によろこび、むかしもいまもかはらぬ世界(せかい)の、今日(けふ)はにはかに、ひろふなつたるやうにおぼえ、

「しやばふさげがらちをあけて、畳重(てう%\)/\その身(み)のとく」

と、法界寺(ほうかいじ)といへる、浄土(じやうど)でらへ、しのびやかにおくりて、土(ど)中にうづめ、これよりも心にかゝるくもゝなく、月にまし、日にそひて、小吉が悪事(あくじ)のみ、見(み)いだし、きゝ出して、おつとの左門がみゝに、あしざまにふきこみしかば、左門は女につるゝ心、小吉をあたかたきのやうに、あほうのうつけのとて、目にだにもみやらず。

 小吉も早(はや)十六才、ことに利根(こん)はつめいなれば、継母(けいぼ)のこゝろをうらみ、実母(じつぼ)をのみこひしたひ、

「我(われ)此家にのぞみなし。出家(しゆつけ)得道(とくだう)の身(み)ともなり、母(はゝ)のぼだいをもとひ、身(み)のくるしみをもはなれ、山林(さんりん)にも入らばや」

とおもひ居(ゐ)たり。

  継母(けいぼ)は小吉をなきものにせんと、いろ/\心をつくし、あるときは神にのろひ、あるときは毒飼(どくがい)、さま%\手段(てだて)をめぐらせども、天まことをまもり給へば、小吉が身(み)はつゝがなし。

  ある夜(よ)みな月のすへつかた、蚊遣火(かやりび)のけむりもたえ、あつさもしのぎがたく、小吉はたゞ一人、ねまに蚊(か)帳をさげ、内に入りて、いまだふしもやらず。日ごとに母のぼだいのため、普(ふ)門品(ほん)を誦(じゆ)せしかば、其夜も口の中にて、しほ/\と普門品(ふもんほん)を誦(じゆ)し<挿絵見開き1丁>ゐたり。かゝるところへ、継母(まゝはゝ)は、小吉をうしなはんと、小吉がねまをさしのぞくに、ともし火もけして、くらかりしかば、

「時分(じぶん)はよきぞ」

とおもひ、手鑓(てやり)のさやをはづし、さし足(あし)にて出来る。小吉は、心はやきものなるゆへ、蚊(か)帳のそとへ、心得てそつと出る。かくとはしらで継母(まゝはゝ)は、

「こゝぞ只(たゞ)なか、一突(ひとつき)に」

と、蚊(か)屋ごしにつきとをすを、小吉とびかゝつて、蚊帳の手を押きり、蚊屋ぐるめに打かづけて、やがてくみふせ、

「おのれ、なにものなるぞ」

と、蚊帳を取ておしのくれば、

「はづかしや。みづからぞや。ふとよしなき心をこり、あられぬしわざ、御身のはらだちことわりなり。かならず声(こゑ)ばしたてゝたべな。今よりしては、我(わが)うみの子とおもひ、いのちのおやとおもふべし。手をあわすぞ、たすけてたべ」

と、小声(こごゑ)にてなきかなしむ。小吉きゝて、

「扨は、母さまにて候か。さりとはむごきいたしかた。左(さ)ほどににくゝおぼしめさば、御手にかけらるゝまでもなく、みづから腹(はら)仕つて、御いきどほりをさんずべし。去(さり)ながら、これはあまりに御(ン)うらめしく候」

と、さめ%\となきしかば、継母(けいぼ)もいまは理(り)にせめられ、

「さても、御身(み)の心ざし、かんじ入て候ぞや、今よりは子ともおやとも、御(ン)身(み)ひとりをたのむべし。もし、此こといつはらば、日本国中、大小の神祇(じんぎ)、八百(やお)よろづの御神(かみ)さまの、御(ご)ばつを此身(み)にかふむりて、みらいはながく、三悪道(あくだう)におつべし」

と、まざ/\しき誓言(せいごん)。小吉なみだをおさへ、

「いや、如何(いか)やうの、御はからひあふとても、ひとたびおやと奉りて、いかで手むかひ仕らん、今より以後(いご)は、あくしんを御やめあり、道(みち)をみちに御(ン)まもりなさるべし」

と、さま%\教訓(けうくん)をなせしかば、継母(けいぼ)得心(とくしん)の体(てい)にみせ、

「此ことかならず沙汰(さた)なしぞ」

と、小吉が口をかため、しのびやかにかへりけり。

  そのつぎの夜(よ)、継母(けいぼ)なにごゝろなくふしゐたるに、前妻(ぜんさい)あや野がすがた、いにしへにかはらず、黒(くろ)かみをふりみだし、しろかたびらをきて、継母(けいぼ)がまくらもとにすくとたち、引おこしてはたとにらみ、

「うらめしや。みづからを、せめころすのみか、我子(わがこ)までもころさんとのたくみ、此うらみはつきせじ」

と、杖(つゑ)をふりあげ、さん%\にうつ。

「なふ、かなしや、おそろしや」

と、なきさけぶおとに、左門をはじめ、付(つき)%\の女共、

「おそわれさせ給ふか」

と、ともし持(もち)よりさわぎあふ。継母(けいぼ)、いきの下よりも、

「扨(さて)も/\おそろしや。あや野どのゝゆふれい、まざ/\とあらはれて、みづからをせめさいなみ、すさまじき目にあひさふらふ」

と、ありしことゞもかたりしかば、おつとの左門もきみわろく、そのよは大(おゝ)ぜいとりまはして、夜(よ)とぎしてあかしぬ。

  其つぎのよも、あや野がゆふれい又あらはれ、後妻(こうさい)をうちたゝく。これより夜(よ)ごとにはり番(ばん)して、かのねまにつめゐしか共゛、よの人の目には見えず。後(のち)には日だにくるれば、けしたるすがたあらはれて、さま%\継母(けいぼ)をうちなやます。其たえがたさたぐひなく、なきかなしむことかぎりなし。あや野がいかれるおもざしの、あふのけば、うへにみへ、うつぶけば下にあり。目をふさぎてもひらきても、かつてすがたのみなれざれば、

「おそろしや、たえがたや。ゆるしてたべ、たすけてたべ」

と、三十余(よ)日があひだ、よるひるとなくくるしみてあがき死(しに)にぞ死(しゝ)にけり。

  おつとの左門は、これよりも得心(とくしん)し、さま%\と祈祷(きたう)をなし、又は流水(ながれ)潅頂(くわんぢやう)水(みづ)せがきに、あや野がぼだひをとぶらひ、小吉に家をつがせ、隠居(ゐんきよ)の身となりしかば、左門には、何のわざわひもなかりしとぞ。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の学士李東郭(りとうくわく)、此談話(だんわ)をきゝていはく。

  「いにしへより継母(けいぼ)の悪心(あくしん)、又女の嫉妬(しつと)、其ためし繁多(はんた)なり。

  むかし、江南(こうなん)の曽思〓(そうしゑん)といふものゝむすめ。あるとき仮粧(けはい)をせんために、鏡(かゞみ)を取(とり)いだせしに、かゞみのうちに、一人の女うつれり。そのさま、かみをさばき、すあしにて、みどり子をいだけり。これより日ごとに、鏡(かゞみ)をみるに、かの女のうつらずといふことなし。

  これによつて、大におそれかなしみ、父(ちゝ)の思〓(しゑん)につぐる。

 思〓(しゑん)おどろき、かのかゞみをみるに、はたして女のすがたあり。思〓(しゑん)少もおそれず、

『汝(なんぢ)はなにものなるぞ』

と問(と)ふ。そのとき、鏡(かゞみ)のうちより、こたへていはく、

『我(われ)は、いにしへの建昌県(けんしやうけん)の録事(ろくじ)が妾(しやう)なり。御(ン)身(み)のむすめが前生(ぜんしやう)は、其ときの本妻(さい)なり。然(しか)るに我(われ)此子(こ)をうみしかば、録事(ろくじ)の寵愛(てうあい)ふかゝりしに、あるとき録事(ろくじ)、さかひをこへて他行(たぎやう)せしに、御(ン)身(み)のむすめ、悪心(あくしん)をおこし、我(われ)を此子(こ)と共に、井(ゐ)の中へつきおとし、石をもつてうづめ置(をき)、おつとの録(ろく)事かへりしかば、いつわつて、にげはしれるよしをつげしなり。その後(のち)御(ン)身(み)はのむすめも死せしといへども、我(わが)うらみ今にはれず。その本妻(さい)の後身(こうしん)として、すでに前世(ぜんせ)にての事なりといへども、なんぞ此うらみをはらさゞらん』

といへり。むすめは是よりやみつきて、つゐにかの霊(れい)のために、一命(めい)をとられしとかや。此事は『縉紳〓説(しんしんざせつ)』にみへたり。

  むかしより女の嫉妬(しつと)ふかきためし、これをもつてしるべし。

  又、継母(けいぼ)の継子(まゝこ)をにくむことも、さだまれるためしなり。

  むかし、建安(けんあん)といふところのもの、つま死(し)せしかば、又後(のち)づれの女をめとり、此女、継子をにくむことはなはだしかりしか共゛、おつとは此女にまよひ、制(せい)することあたはず。

 あるとき、前妻(ぜんさい)のゆふれい、門より内へ入るとみへしが、後妻(こうさい)をせめていはく、

『人としてたれか死(し)なからん。人としてたれか、親(をや)の子をおもふ情(じやう)なからん。しかるに、我(が)うみしところの子(こ)を、なんぞかくのごとくにはにくむべき。此うらみをのべて、なんぢが心をなをさんため、迷途(めいど)より十余(よ)日のいとまをかけ、今こゝにきたりたり。今より心をあらためずんば、たちまちなんぢを、取(とり)ころさん』

といふ。夫婦(ふうふ)のもの、大におそれかなしみ、再拝(さいはい)して、酒食(しゆしよく)をそなへ、さま%\とこれをまつる。すでに十日(か)にをよんでさらんとせしが、後妻(こうさい)にいろ/\口がためをせさせ、せめいらしむることはなはだきびし。その去(さら)らんとするに及んで、家内(けない)のものどもこと%\く、これをおくりゆくに、あたりちかき栢(かや)の木(き)の、林(はやし)のうちへ入(い)るとおもへば、かのゆふれいが、すがたは消(きえ)てうせにき。

  此こと徐絃(ぢよげん)が『稽神録(けいしんろく)』に、のせたり」

とぞかたりき。

 隠形(おんぎやうの)術(じゆつ) 附鉄扇(てつせんは)刀(かたなの)代(かはり) 松(の)上(うへの)遊興(ゆふけふ)

   肉飛仙(にくひせん) 附人間(げんの)両翼(りやうよく) 守(まもる)義(ぎを)刹客(せつかく)

 あしびきのやまとぢや、信貴(しぎ)の山ときこえしは、多聞天の霊跡(れいせき)にて、朝護国(ちやうごこく)孫子寺(そんしじ)とがうし、弓箭(きうせん)にたづさわるもの、信敬(しんけい)せずといふことなし。

 此ところの城主(じやうしゆ)、松永(なが)弾正忠(だんじやうのちゆう)久秀(ひさひで)は、大逆(ぎやく)無道(むだう)の侫人(ねいじん)ゆへ、主人(しゆじん)三好(みよし)が逆(ぎやく)意にくみし、其ときの公方(くぼう)、光源院(くわうげんゐん)義輝公(よしてるこう)を弑(しゐ)し奉り、暴悪(ぼうあく)の名(な)を天下にひろめたり。

 しかれども、そのゝち、世(よ)のなかおだやかならざりしかば、治世(ちせい)の御(ン)はかりごとにて、御舎弟(ごしやてい)将軍(しやうぐん)義昭公(よしあきこう)、ならびに織田(をだ)信長(のぶなが)の厚免(こうめん)をかふむり、身上(しんじやう)つゝがなふして、信貴(しぎ)の城(しろ)をたもちたり。

 そのころまでは武家(ぶけ)も古風(こふう)にて、ゑぼしにすいかん・かりぎぬなんど、さま%\官位(くわんい)にしたがひ、身(み)のとりまはし不自由(ふじゆう)なりしを、大紋(もん)のそでをとつて、かたぎぬといふことを仕(し)いだし、下(しも)は半ばかまをきて、此(この)略義(りやくぎ)の道理(だうり)、世上(せじやう)よきにきはまり、天下(てんか)一統(いつとう)にかたぎぬといふものになれり。くふうふかくして、此人の仕(し)いだせること世におゝし。

 しかるに、弾(だん)正在国(ざいこく)のころ、あきもやゝすへになり、夜(よ)さむになるにしたがひて、むしのねもとをざかれるに、たゞひとり寝所(しんじよ)に入り、ともしびのもとに座(ざ)し、机(つくえ)によつて、陀羅尼集経(だらにしうぎやう)をひらき、摩利支天経(まりしてんぎやう)のところをよみゐたるに、「日前(にちぜんに)有天名(なづく)摩利支(まりし)天(と)、有(あり)大神通(じんづう)自在(じざいの)之法(ほう)常(つねに)行(ゆく)日(にち)前日(ぜんにち)不(ず)見(み)彼(かれを)彼(かれ)能(よく)見(みる)日(ひを)無(なし)人(ひと)能(よく)見(みるもの)無(なし)人(ひと)能(よく)知(しるもの)」と、うしろより、ほそ%\とよむこゑす。弾(だん)正おどろき、うしろをきつとかへりみれば、ほそくやせたるをのこの、いろあさぐろく、まなこにひかりあつて、よのつねのものともみへず、無刀(むたう)にして、手(て)に一尺ばかりの、鉄(くろがね)のあふぎをもてり。

 弾正もさるものなれば、すこしもをくせず、

「おのれ、なにものなれば、我(わが)寝所(しんじよ)にはしのび入りしぞ。まつすぐに申せ。いづれに敵(てき)がたよりの、しのびのものとおぼえたり。今おのれをさしこさんものは、たれにかはあらん。げにも、織(を)田信(のぶ)長、うはべばかりはしたしまるゝやうなれども、内心(ないしん)には、ゆく/\うしなはんとの存念(ぞんねん)ならん。さつするところ、おのれ信長にうけがひて、それがしをころさんため、刹客(せきかく)としてきたりしな。ひとあしもさらせじ」

といふ。かのもの、につこと打(うち)わらひ、

「それがし奇妙(きめう)のじゆつを得て、一寸(すん)の穴(あな)をもくゝり、千仭(じん)のたにをもとぶ。今此当城(たうじやう)、用心(ようじん)堅固(けんご)なりといへども、二重(ふたゑ)三重(みゑ)にかまへたる、壁(へい)・堀切(ほりきり)をとびこえ、重(ぢう)/\に立(たて)きりたるしとみ・やりどをくゞつて、御(ン)身(み)の寝所(しんじよ)にしのび入り、最前(さいぜん)よりうしろにあり。我(われ)ころさんとおもひなば、うか/\として、今まで時刻(じこく)をうつすべきか。

 御身、はつめいのほまれあつて、武略(ぶりやく)のみちに長じ、はかりごと、孫呉(そんご)がじゆつをまなぶといへども、おしいかな、その智(ち)正智にあらず。姦曲(かんきよく)にして、慾心(よくしん)ふかく、忠義(ぎ)のみちをしらず。主(しゆ)人三好(みよし)がぎやくゐにくみし、公方(くぼう)光源院殿(くわうげんゐんどの)を弑(しゐ)し、又三好をも押(おし)たをして、運(うん)にのらば、我身(わがみ)天下の将軍(しやうぐん)と、あふがれんとあひたくめり。その不忠(ふちう)無道(むだう)、ことばにものべがたし。

 さるによつ<挿絵見開き1丁>て、大侫人(ねいじん)の松永(なが)と、よの人つまはじきをしてこれをわらふ。御(ン)身がみゝにはいらざるや。我(われ)これをみるにしのびず、今より侫姦(ねいかん)の心をすて、正路(しやうろ)にあゆんで、義(ぎ)を善道(ぜんだう)にまもり、前非(ぜんひ)をあらため、公方(くぼう)義昭公(よしあきこう)に、忠心(ちうしん)をつくされよ。しからずんば、つゐには御(ン)身を害(がい)すべし。かならずゆだんし給ふな」

といふ。弾(だん)正つく%\聞居(きゝゐ)しが、かしらをふつて、

「なんぢがいふところ、まことしからず。誰(たが)手のしのびのものぞ。まつすぐに白状(はくじやう)せよ。あまりに奇妙(きめう)のものなれば、一命(めい)はたすけん」

といふ。かのをとこ、はたとにらみ、

「おろかなり/\。たとひ百万人にて取(とり)こめたりとて、ものゝかずともおもふべきか。又、我しのびのつかひならば、最(さい)前うしろより、一うちに害(がい)すべし。しかれども、左(さ)なき証拠(しやうこ)は、もとより丸ごし無刀なり。たづさゆるところは鉄扇ひとつ。敵するものをころさんに、やいばまでは及ぶべからず。元来(ぐわんらい)、それがし、主人(しゆじん)もなし。又人にたのまれたるにもあらず。畿内(きない)のところ%\、すみどころをさだめず、水をくゞり、こずへをつたふて、いたらぬ城のうちもなし。御(ン)身(み)が無道(むだう)をいましめんため、今こゝにきたる。それがしがいさめをもちひ給はずんば、つゐにはいのちをうしなひ、家をほろぼし、あざけりを末代(まつだい)にのこさるべし。かさねてあひ申さん」

とて、障子(しやうじ)をひらき、板縁(いたゑん)にいづるに、すこしもそのをとをなさず。縁(ゑん)のはしらをする/\のぼり、のきにとびあがるとみれば、ねずみなんどのはしるがごとく、ゆくゑもしらずうせにけり。

 弾(だん)正、大にあきれ、

「さて%\、希有(けう)のしれものかな」

と、はだゑにあせし、ひたひをさすつてやみにき。

「とかくに、此ものいけをかば、いかなるわざわひがいできたらん。かさねて見(み)いだしなば、たばかりからめてうちころさん」

と、家来(けらい)どもにもしめしをけり。

 その翌年(よくねん)のはる、法隆寺(ほうりうじ)にさんけいし、芝(しば)におりゐてなぐさみけるが、むかふをみれば、松の大木(ぼく)の、みなみのかたへなだれて、枝葉(ゑだは)もりのごとくあをみわたりてしげりたるあり。其こずへに、一尺ばかりの氈(せん)をひき、そのうへにふして、枝(ゑだ)をまくらにし、ゑだに足(あし)をもたせて、あらしにゆられながら、風景(ふうけい)をながめ居(ゐ)るものあり。弾正、

「きやつは、例(れい)のしれものよ」

とおもひ、家来(けらい)どもにめくわせして、服部(はつとり)弥太夫(やだゆふ)といふ、中小性(ごせう)をちかづけ、口上(こうじやう)をいひつくる。弥太夫、かの木のもとにゆき、

「拙者(せつしや)は松永(なが)弾正忠(だんじやうのちう)が、家来にて候が、それにござ候は、先年弾正(だんじやう)が寝所(しんじよ)に入て、対面(たいめん)ありし御(ン)方(かた)にて候か」

と問(と)ふ。かのものさしうつむき、

「よきすいりやう。その男にて候

とこたふ。そのとき弥太夫、

「主人、弾正はやくもみうけ申。拙者(せつしや)をさしこし候は、今日、法隆寺(ほうりうじ)に参詣(さんけい)仕り、芝居(しばゐ)して休息(きうそく)しまかりあり候。去年(きよねん)御諌言(ごかんげん)をかふむりしより、あくしんをあらため、やうやく実義(じつぎ)におもむき候だん、御厚恩(ごこうをん)千万かたじけなく候。今一度(ど)、相見(さうけん)を得て、御(ン)礼(れい)を申のべたく候。これへ御(ン)こしあつてたまわり候へとて、拙者(せししや)をさしこし候なり。たゞ今御(ン)出なされくださるべし」

といふ。かのものきゝて、

「さて/\、御得(ごとく)心のだん、祝着(しんちやく)のいたり。それへ参(さん)上いたすべし」

といふかとおもへば、するりとおり、芝居(しばゐ)のもとにあゆみきたり。

 弾(だん)正、幕(まく)ぎはまで出むかひ、そのゝち対座(たいざ)にしやうじ、さま%\礼義(れいぎ)をのべ、

「さても貴殿(きでん)の諌言(かんげん)、日々(にち/\)に心にそみ、得(とく)心仕つて候なり。今より某(それがし)がかたに御座候へかし。まかなひりやうはいかほども、御のぞみにまかせ候はん」

とて、珍膳(ちんぜん)をいだしもてなすうちに、配膳(はいぜん)にたちける野本(のもと)助次郎、「とつた」といふてとびかゝる。これをあひづに家来(けらい)ども、五六十人ばた/\と、いやがうへにかさなつて、つゐにかのものをからめとる。

 弾(だん)正大によろこび、

「おのれ、さすがのしれものなるが、だますに手なしといふことを、かくごせざるふびんさよ」

と、三寸なはにからめさせ、信貴(しぎ)にひかせかへりけるが、

「かやうのしれもの、時刻(じこく)をうつすべきにあらず。さつそくに誅(ちう)すべし」

と、家老(からう)どもにいひつけしに、家中のものども城(じやう)中に入て、いまだとりしづめざるほど、しばらくがうちからめながら、一間(ひとま)に押(をし)こみ、番(ばん)をつけしに、はやいつの間(ま)にかぬけ出けん、すがたはみへずなりて、なはばかりをのこしぬ。

 弾(だん)正大にいかり、あづかりし番(ばん)のものどもを、罪科(ざいくわ)におこなはんと、おどりあがつて、いきどをりしかどもかへらず。そのゝちかのものは、いづくへかゆきけん、又もみへずなりにき。

<以下一字下げ>

 朝鮮(ちやうせん)の李東郭(りとうくわく)、此ことをきゝていはく。

「和漢(わかん)ともに、かゝる希有(けう)のもの、いにしへよりありとみえたり。

 むかし、沈光(ちんくわう)といふものあり。隋(ずい)につかへて武勇(ぶゆう)早(はや)わざのほまれあり。しかるに禅定寺(ぜんじやうじ)に、たかさ十余丈(よじやう)の幡竿(はたざほ)ありしが、あるときその縄(なは)きれて、いかんともすべき手段(てだて)なし。

『これ人力(じんりき)のをよぶべきことならず』

と、みな/\案(あん)じゐるところに、沈光(ちんくわう)なはをとつて口にふくみ、かの竿(さほ)をする/\とのぼり、たゞちに龍頭(りうづ)にのぼり、とりなはをかけてのち、手足(てあし)ともにみなはなち、まつさかさまにとびをり、あしをそらになし、手にてあゆむこと十余歩(よぼ)、みるものかんぜずといふことなし。世の人みな沈光(ちんくわう)を、肉飛仙(にくひせん)となづけしとぞ。趙崇詢(てうそうじゆん)が『〓肋(けいろく)』にみえたり。

 又、いにしへ劉(りう)正彦(げん)といひしもの、世をみだせしことあり。張魏公(ちやうぎこう)、秀州(しうしう)にあつて、王のために、いくさをおこさんと用意(ようゐ)しけるが、ある夜(よ)人しづまつてのち、たゞひとり座(ざ)しけるに、たちまちをのこ一人、やゐばをもちて、ともし火゛のうしろにたてり。公(こう)、

「さては、刹客(せききやく)なり」

とおもひ、

「なんぢは、劉正彦(りうせいげん)がつかひとして、我(われ)をころさんがために、きたりたるにあらずや」

と問(と)へば、

「さん候゛」

とこたふ。公のいはく、

「しからば、我(わが)くびをなんぢにあたへん。はやくとつてさるべし」

となり。かのものきゝて、

「それがし、もとより書をよんで、少しは道(みち)をもしれり。なんぞ、賊(ぞく)のためにもちひられん。公の忠義(ちうぎ)は人のあまねくしるところなり。いかでか、害(がい)をくわふべき。おそらくは、公の用心きびしからざれば、我ごときのもの、かさねて来らんことを。此ゆへに、今きたつてつぐるなり」

といふ。

「なんぢ、金帛(きんはく)を得んことをおもふや」

と問(と)へば、かのものうちわらひ、

「公をころさば、くわぶんの財宝(ざいほう)にあづかるべし。なんぞ財なきことをうれへんや」

とこたふ。張魏公(ちやうぎこう)つく%\と聞て、

「しからば、われにつかへんや」

と問へば、

「それがしに老(をひ)たるはゝ一人あり、さるによつて、こゝにとゞまつて、公につかゆることかなひがたし」

といふ。公かさねて、

「なんぢが名はなにといふぞ」

と、その姓名(せいめい)をとひしかども、かつてこれをなのらず。ころもをかきおさめ、おどりあがるとみへしが、屋のうへにとびあがる。かわらにすこしもをとなし。折しも月あきらかにてりわたりたるに、かのものがはしりさること、鳥のとぶがごとくなり。

 翌日(よくじつ)、張魏公(ちやうぎこう)思案(しあん)をめぐらし、士卒(しそつ)に命じて、獄屋(ごくやつ)にありへし、死罪(しざい)にきわまりたる、科(とが)人のくびをきらせ、

「すぎし夜きたりし、しのびのものをいけどりて、くびをはねたり」

とぞ、世間(せけん)には沙汰(さた)せさせられける。

 そのゝち公、かのものが故郷(こきやう)河北(かほく)にて、かれがゆくゑを、たづねさがさせしかども、いづくへかゆきけん、つゐにたづね得ざりしとぞ。

 このことは『鶴林玉露(くわくりんぎよくろ)』にのせたり。

 これらのものを市偸(しちう)とも、又は刹客(せきかく)又は盗侠(とうけう)、あるいは壁飛(へきひ)、あるいは肉飛仙(にくひせん)なんどゝなづけたり。

 また、むかし、斉(せい)と楚(そ)とたゝかひしとき、子発(しはつ)、市偸(しちう)をもちひて、奇策(きさく)をなし、斉(せい)の敵(てき)をしりぞけしこと、『淮南子(ゑなんじ)』にいでたり。そのほか『酉陽雑俎(ゆうやうざつそ)』、又は唐(たの)張〓(ちやうさく)が『耳目記(じぼくき)』にも、壁飛(へきひ)、盗侠(とうけふ)などゝ、見へたり」

とぞかたりき。

和漢(わかん)乗(のり)合船(ぶね)巻之第六終

 正徳三歳正月吉日

      寺町通五条上丁

  皇都書肆   北尾八兵衛

            蔵版