四  斑女(はんによ)花(はな)に寄(よ)せて黄金(こがね)を賜(たま)ふ

この時(とき)弥生(やよひ)の中旬(なかごろ)にて。園(その)の花(はな)色香(いろか)妙(たへ)に咲(さき)みだれ。盛(さかり)も今二三日も過(すぎ)じとみ

ゆるものから。少将惟房(しよう/\これふさ)は。毎日(ひでて)に院(いん)の御所(ごしよ)四辻殿(よつぢどの)へまいりて。家(いへ)に在(おは)する事も

稀(まれ)なれば斑女前(はんによのまへ)もおのづから籠(こもり)がちにはあれど。翌(あす)見(み)んとおもふものあださくて。夜(よる)はあらしの吹(ふか)ぬものかはとも詠(よめ)るものを。無下(むげ)に青葉(あをば)となさんも。いと惜(を)しとおぼして。

ひとり端(はし)ちかうたち出給ふ折(をり)しも。さら/\と吹入(ふきい)る風(かぜ)に転(まろば)されて。裳(もすそ)のほとりに

来(く)るものあり。とり揚(あげ)てみそなはするに。よくも巻(まき)こめざる艶簡(ふみ)にゝて。山田(やまだの)三郎が

鳰崎(にほざき)への回書(へんじ)あり。うちもおかれず潜(ひそ)やかに読果(よみはて)て。これをは袖(そで)の裏(うち)にかくし。さも

あらぬおもゝちにて。春雨等(はるさめら)を召(めし)つがへ。けふは殊(こと)さら麗(うらゝか)なるに。松稚(まつわか)梅稚(うめわか)を伴(ともな)ひて。

園(その)の花見(はなみ)せばやと思ふ也。とく用意(ようゐ)せよと仰(おふ)するに。みなうけ給はりて。俄頃(にはか)に

幕(まく)を張(は)らせ。毛氈布(もうせんしき)まはしなどする間(はし)に。斑女(はんによ)は幼少(いとけな)き二人を携(たづさへ)て出させ

給ひ。盡日 (ひまよすまそ)びくらしてかへり入り給ひぬ。かくてその夜(よ)もやゝ更(ふけ)ゆくころ。斑女前(はんによのまへ)は

もてり起出(おきいで)て燈(ともしび)掲(かゝげ)宿寝(とのこもり)して後方(あとべ)に臥(ふし)たる鳰崎(にほざき)をよび覚(さま)しつ。ほとり

近(ちか)く招(まね)きよせ。この艶簡(ふみ)よみて聞(きか)せよとて。一封(いつふう)を出させ給へば。鳰崎(にほざき)はその

こゝろを得(え)ず。小夜(さよ)深(ふけ)たるに何事のおはしまして。かゝる事を仰(おふ)するかと不審(いぶかしみ)

ながら。半(なかば)読(よみ)もをはらず大に驚(おどろ)き。こは山田(やまだ)どのより。今〓(雨+↓月)(こよひ)彼処(かしこ)にてあはんとての

回書(へんじ)なるに。いかにてかこゝには蔵(おさめ)給ふと思ふに。只顧(ひたすら)胸(むね)のうち打(うち)さわぐを。斑女(はんによ)はなほさらぬ風情(ふぜい)にて。その艶簡(ふみ)おぼえありやと問(とひ)給ふにぞ。今は匿(かくまふ)ともわも

許(ゆる)し給はじとおもへは。なか/\に心を定(さだ)め赤塚(あかつか)の避雨(かさやどり)より。山田(やまだの)三郎と密会(しのびあひ)

て。有身(未ごも)れるをもしらず。この館(やかた)へまいりし事。松井源五(まつゐのげんご)が群柏(むらがしは)をもて艶簡(ふみ)

を贈来(おくりこ)せしより。彼(かの)童(わらは)を媒(なかだち)として。はじめて。筆(ふで)に言(こと)の葉(は)をかよはせし事など。

或(あるひ)はしづかしみ。或(あるひ)はかしこみて。涙(なみだ)さしぐみつゝ申けり。斑女前(はんによのまへ)つぐ“/\と聞(きゝ)給ひて。

しからばこの艶簡(ふみ)をばいまだみざるかと宣(のたま)へば。問(とは)せ給ふごとく。只今読(よみ)侍(はべ)るぞ

はじめなる。何ものか進(まい)らせけん。いとはらあしくもはかりけるものかなと申すに。

斑女前(はんによのまへ)點改(うなづき)て。これは人のみせたるにはあらず。わが身さきつ時。しか”/\の処(ところ)

にて拾(ひろ)へるなり。おもふに群柏(むらがしは)が誤(あやま)りてとり落(おと)せしか。源五(げんご)が彼(かの)童(わらは)を相語(かたらひ)て

汝等(なんじら)を罪(つみ)せん為(ため)に。しかはからはせたるなるべし。汝(なんぢ)は新参(いまゝいり)の事にしあれば。縁故(ことのもと)は

よくもしるまじ。彼(かの)山田(やまだの)三郎は。年来(としごろ)わが身を養育(はぐゝみ)たる春雨(はるさめ)が一子(いつし)ならば。

松稚(まつわか)梅稚(うめわか)が為(ため)には。よき後盾(うしろだて)ならんとて。殿(との)にもわきて恩恵(めぐみ)高(たか)くおはします

を。よからぬ所為(わざ)をしいだして。家(いへ)の法度(はつと)を犯(おか)す事。人たるものゝ心ならんや。縦(たとひ)汝(なんぢ)が

こゝへ参(まひ)らざる前(さき)に契(ちぎ)りたりとも。今もろともにその家(いへ)に仕(つかへ)ながら。なほ筆(ふで)に思ひを

述(のべ)。情(じよう)を運(はこ)べる罪(つみ)は。いひてくとも脱(のがれ)がたし。しかはあれ。その善悪(あやめ)はわが心ひとつ

に定(さだ)むべきにあらず。殿(との)には四辻殿(よつゝぢどの)にまいり給ひて。いまだ退(しりぞ)き給はねば。かへり給ふを

待(まち)て聞(きこ)えまゐらせ。ともかくも御(わ)こゝろに任(まか)せ侍(はべ)るべう思ふ也。やよ鳰崎(にほざき)よくわが

いふ事を聞(きけ)かし。弱人(わかうど)の風俗(ならひ)にて。恋(こひ)にその身を過(あやま)つ事。世(よ)になき例(ためし)にはあらねど。 の

に迫(せま)りて枉死(いぬしに)し。身後(なきのち)の恥(はぢ)を曝(さら)すものは。親兄弟(おやはらから)にもいくその哀(かなしみ)をみせ。愚(おろか)なる

ものゝ譬(たとへ)にもいひ出(いで)られて。終(つひ)にその恥辱(やさしみ)を雪(きよむ)るの時(とき)なし。況(いはんや)君(きみ)に仕(つかふ)るもの。罪(つみ)を

斑女前(はんによのまへ)山田(やまだの)三郎か鳰崎(にほざき)へ

おくる艶簡(ふみ)をひらきて

彼(かの)女子(をなご)を教諭(きやうゆ)し夜(よ)

深(ふけ)て館(やかた)を落(おと)し給ふ

これより前(さき)の日(ひ)

群柏(むらがしは)鳰崎(にほざき)が

使(つかひ)して艶簡(ふみ)を

山田(やまだの)三郎へ

おくり来(き)たる

とき松井源五(まつゐのげんご)

闕窺(かいまみ)てふかく

狷(そね)み彼(かの)二人

を罪(つみ)せんと謀(はか)る

またずしてみづから刃(やいば)に伏(ふ)すなんどは。たえてあるべき事にもあらず。よしや汝(なんぢ)等

何とも思へ光政(みつまさ)はよく辨(つきまへ)てもありなん。いかにさはあらぬかと宣(のたま)へば。鳰崎(にほざき)ははじめより

頭(かうべ)をだに擡得(もたげえ)ず。情(なさけ)ある主(しゆう)の言(こと)の葉(は)を。顧(かへりみ)る程(ほど)鈍(おぞま)しく。只(ただ)涙(なみだ)のみはふり落(おち)て。袖(そで)

さへ絞(はぶり)あへざりける。斑女前(はんによのまへ)もいとをわりにおぼしけん重(かさね)てその事をは宣(のたま)はず。俄頃(にわか)に

物(もの)を思ひ出せしおもゝちにて。わが身けふ園(その)の花(はな)を詠(ゑい)せじ歌(うた)の。いまごろだこゝろに稱(かなは)ざれば。

枝(えだ)にも得(え)著(つけ)ざりしに。今はからずも一首(いつしゆ)の趣向(しゆこう)を得(え)たり。汝(なんじ)彼処(かしこ)にゆきて。築〓(ついひぢ)の

ほとりなる。ふりたる桜(さくら)の。外面(とのかた)へ木垂(こた)れし枝(えだ)に。これ著(つけ)て来(きた)れかし。小夜(さよ)深(ふけ)たれば

とていたく怕(おそ)れて。人な驚(おどろ)かしそと仰(おふせ)つゝ。墨(すみ)すり流(なが)してさら/\と書(かい)つけ。その

短冊(たんざく)を逓与(わたし)給ふも。元(もと)よりこゝろありげ也。鳰崎(にほざき)はなほ果(はて)しなき涙(なみだ)はものかは。

胸(むね)の中(うち)さへかきくれて。立足(たつあし)も定(さだ)かならねど。主命(しゆうめい)の已(やみ)がたさに。もとり園(その)に出て

池(いけ)を繞(めぐ)り。木蔭(こかげ)を潜(くゞ)りて。彼(かの)木(こ)の本(もと)に到(いた)りしかば。山田(やまだの)三郎は合図(あひづ)を違(たがへ)ず。

向(さき)よりこゝに〓居(しのびおり)て。月あかりにとみかうみつ。木立(こだち)の間(ひま)をもれ出(いで)てなどてかくは

遅(おそ)かりし。いと。待(まち)憂(う)かりつるとて潜(ひそ)めきよれば。鳰崎(にほざき)やがて走(はし)りより。いはでまづふる

袖(そで)の雨(あめ)も。音(おと)漏(もら)さじとやわが為(ため)に。池(いけ)の蛙(かはづ)もしば鳴(なき)て。月さへ更(さら)に朧(おぼろ)なり。光政(みつまさ)かほ

よせて。その脊(せなか)を撫(なで)おろし。過(すぎ)にし事はきのふより。筆(ふで)にしかせたれば且(しはら)く措(おく)。御身

がこのころの物おもひ。さこそと推量(おしはか)る程(ほど)。わが身に迫(せま)りてとかくいふべうもあらず。

只一トたびは。思ふ限(かぎ)りをも聞(きこ)えてこそとて。かく後(うしろ)ぐらき事をなしつ。とく涙(なみだ)をとゞめ

給へ。泣(なき)ては果(はて)しあらじといふに。鳰崎(にほざき)やうやく瞼(まぶた)をかき拭(ぬぐ)ひて。いふべき事も聞(きく)べき

事も。今はそのかひなき身(み)となりぬ。そはけふ御身が返事(かへりごと)し給ひつる玉章(たまづさ)を源五(げんご)

にや謀(はか)られなん。わらはだにみもせぬを斑女(はんによ)御前(ごぜん)の拾(ひろ)ひ給ひて。夜(よ)も深(ふけ)人(ひと)も

定(しづまり)て後(のち)。かゝる仰事(おふせごと)ありし。つく。首(はじめ)より尾(をはり)まで。涙(なみだ)の隙(ひま)に物(もの)がたり。彼(かの)短冊(たんざく)

をとり出せば。光政(みつまさ)は聞(き)く事毎(ことごと)に。針(はり)もて胸(むね)を刺(さゝ)るゝごとく。わが過(あやまち)をわれかち

責(せめ)て理(ことわり)なき身をうらむる外(ほか)なく。なか/\に思ひたえながら。なほ不審(いぶかし)きは真夜

中(まよなか)に。その短冊(たんざく)を著(つけ)よとて。この樹(こ)の本(もと)に来(こ)し給ふは。わが潜(しのび)て居(を)る事をしろし食(めし)

てや逢(あは)せ給ふ。こはおかしけなしと畏(かしこ)みて。彼(かの)短冊(たんざく)を押戴(おしいたゞ)き。月影(つきかげ)にこれをみれば。

   山かぜの吹(ふき)てちらずは散(ち)る花(はな)も又来(く)る春(はる)にあはざらぬやは

と書(かき)給ひぬ。光政(みつまさ)しば/\うち吟(ぎん)じて。忽地(たちまち)に潜然(はら/\)と落涙(らくるい)し。色(いろ)に耽(ふけ)りて

忠(ちう)も義(ぎ)も忘(わす)れたる愚者(しれもの)を。憎(にく)しともおぼされず。花(はな)にあらしの譬(たとへ)をもて。自害(じがい)を

とゞめ給ふとおぼし。抑(そも/\)野上(のがみ)に在(いま)せしときは。もろともに生(おひ)たちて姉(あね)と呼(よ)び弟(おとゝ)と呼(よば)れ

わが母(はゝ)の主君(しゆくん)とも。しらで過(すぎ)ぬれば。年来(としころ)の。憂(うき)には仕(つかへ)ざるものを。今(いま)少将(しよう/\)の身内(みうち)にて。

何がしありと人もしる身(み)の幸(さいはひ)はなへてみな。君(きみ)と親(おや)との恩恵(めぐみ)なるに。よし忠臣(ちうしん)となら

ずとも乱離(らんり)の人となり果(はて)なば。母(はゝ)が多年(たねん)の誠忠(まごゝろ)をも徒事(いたつらこと)となさんこそ。不忠(ふちう)の

うへの不孝(ふこう)なれ。こは面(おも)なしとて己(おの)が随(まゝ)に。死(し)するにも死(し)なれざる情(なさけ)ぞ絆(ほたし)なりける

とて。ものには勇(たけ)き壮夫(ますらを)も。女々(めゝ)しきまでにかき口説(くどけ)ば。鳰崎(にほざき)いよゝ悲(かな)しびて。寔(まこと)に御身

とわらはとは過世(すくせ)よりの悪縁(あくえん)にや。一館(ひとつやかた)へ給事(みやつかへ)に。参(まい)るは後(のち)の殃(わざはひ)とも。しらで漫(そゞろ)に

歓(よろこ)びしを。今はた思へば浅(あさ)はかなる。女(をんな)ごゝろにて侍(はべ)る也。とてもかくても脱(のが)れ得(え)ぬ。

罪(つみ)とはしれど有身(みごもり)て。五月(いつゝき)あまりとおぼゆれば。その子(こ)も人の形(かたち)づくり。父(ちゝ)にや

肖(に)けん母(はゝ)にや肖(に)けん。そをしもしらず闇(くら)きより。くらきに帰(かへ)すがいと惜(をし)とて。今やはじ

めて思ひしる。親(おや)の心の烏夜(やみ)を照(て)らす。真如(しんによ)の月も西天(にしのそら)へ傾(かたぶ)きて遠(とほ)き寺々(てら”/\)の。鐘(かね)の

音(ね)聞(きけ)ばいと深(ふけ)たり。光政(みつまさ)猛(にはか)に心づき。かひなき歎(なげき)して時(とき)をうつし。斑女(はんによ)御前(ごぜん)のいか

ばかり。待(まち)わびてや在(おは)すらん。あふせも今〓(雨+↓月)(こよひ)を限(かぎ)り也。只(ただ)潔(いさぎよ)く立別(たちわか)れ。刃(やいば)の錆(さび)と

なる日にあはめ。そはともあれ彼処(かしこ)の花(はな)に。とく短冊(たんざく)を点(つけ)給へ。とく/\といそがしたて。

是(これ)かそれかとてさし出(いで)たる。枝(えだ)引撓(ひきたはめ)んとするにはからずも。一つの財布(さいふ)を探当(さぐりあて)。うち

驚(おどろ)きつゝ鳰崎(にほざき)をさし招(まね)き。これみ給へこの枝(えだ)に。夥(あまた)の黄金(こがね)をかけられたるは。斑女(はんによ)

御前(ごぜん)の吾儕(われ/\)に。私(ひそか)に賜(たまは)るものにこそ。これをもてふたゝび歌(うた)のこゝろを考(かんがふ)るに。山

風(やまかぜ)に る花(はな)も折(を)らずは又来(く)る華(はな)にあはん。さらば館(やかた)を脱(のが)れ出(いで)。帰参(きさん)の時(とき)を

待(まて)よとは。花(はな)ものいはねど存命(ながらふ)る。たつきにせよとてかけ給ひし。謎(なぞ)も財布(さいふ)も

いと重(おも)き。恵(めぐみ)は季札(きさつ)が剣(つるぎ)に勝(まさ)れり。こは思ひがけずをばかりにて。且(かつ)かしこみ且(かつ)感(かん)

ずる。声(こゑ)さへしのび/\なる。鳰崎(にほざき)ももろともに。忝(かたじけな)さにはふり落(おつ)る。数行(すこう)の涙(なみだ)とゞめ

かねて。流(なが)れゆく身(み)を泣(なく)のみ也。かくて山田(やまだの)三郎は。彼(かの)財布(さいふ)と短冊(たんざく)を。おし戴(いたゞき)て

懐(ふところ)にし。しばし彼方(かたな)を伏(ふし)おがみ。かゝりせば甲夜(よひ)の間(ま)に。母(はゝ)にも見(まみ)えて外(よそ)ながら。

身(み)の暇乞(いとまごひ)をもすべかりしに。行(ゆき)ては帰(かへ)る時(とき)しなき。別(わかれ)とはなりけるかな。さは夜(よ)も

あけば例(ためし)なき。鴻恩(おほんめぐみ)を空(むなしう)せん。誘(いざ)給へといそがして。下括(したくゝり)の紐(ひも)解(とき)もあへず。閃(ひらり)と櫻(さくら)

さへさらに定(さだめ)得(え)ず。危(あやう)くも又携(すが)る手(て)に。枝(えだ)も揺(ふるへ)て霏(ちら/\)と。散(ちり)ける花(はな)は雪(ゆき)ならで。

雲(くも)の梯(かけはし)わたれる心持(こゝち)し。辛(からう)じて外面(とのかた)へ。やをら下(お)りたちて息(いき)も吻(つき)あへず。近江

路(あふみじ)を投(さし)て逃去(のがれさ)りぬ。話(はなし)この下なし。さる程(ほど)に斑女前(はんによのまへ)は。ひとり寝(い)もやらで在(おは)

せしに。鳰崎(にほざき)終(つひ)にかへり来(こ)ねば。彼等(かれら)かしこくもわが心をしりて。奔(はしり)つらんとおぼ

しつ。なほ目睡(まどろみ)もし給はぬに。春夜(はるのよ)なれば短(みぢか)くあけて。少将惟房(しよう/\これふさ)も。四辻殿(よつゝぢどの)を

退(しりぞ)きて。直(たゞ)ちに帰(かへ)り給ひしかば。斑女(はんによ)はしのびやかに山田(やまだの)三郎と鳰崎(にほざき)が事を聞(きこ)え

給ふに。惟房(これふさ)うち點改(うなづき)て。いらくも計(はかり)つるものかな。彼等(かれら)もしその過(あやまち)を人にもいはれ。

われも面(まの)あたりに聞(きく)ときは。いかに助(たすけ)んと思ふとも。家(いへ)の法度(はつと)は破(やぶ)りがたくて。已(やむ)

をを得(え)ず首(かうべ)を刎(はね)るにも至(いた)るべし。しかれば光政(みつまさ)が一旦(いつたん)の過(あやまち)によりて。その母(はゝ)春雨(はるさめ)が

年来(としごろ)の忠義(ちうぎ)を空(むなしう)せんも便(びん)なし。彼(かれ)が色(いろ)に惑(まど)ひて。君(きみ)と親(おや)とに遠離(とほざかる)は。とへしの

弱(よわ)きが致(いた)すところ也。原来(もとより)その志(こゝろざし)の信(まめ)なる事はわれよくしりぬ。必(かならず)逐(お)ふべからず

とぞ。宣(のたま)ひける。春雨(はるさめ)はこの言(こと)を伝聞(つたへきゝ)て。感涙(かんるい)雨(あめ)のごとくにて。わが子(こ)の往方(ゆくへ)は

山田(やまだの)三郎は鳰崎(にほざき)と

共(とも)に斑女前(はんによのまへ)の恩恵(めぐみ)

によりてはからずも

桜(さくら)にかけたる夥(あまた)の

金(かね)を得(え)て遂(つひ)に

白川(しらかは)の館(やかた)を逃去(のかれさる)

つゆばかりも念(こたへ)てせず。いよゝ君(きみ)の為(ため)には死(し)を用(もつて)し。高(たか)き恩恵(めぐみ)に答(こたへ)たてまつる

べしと。思ひ定め(さだめ)るも又哀(あは)れ也。さても松井源五純則(まつゐのげんごすみのり)は。群柏(むらがしは)を相語(かたらひ)て。山田(やまだの)

三郎が艶簡(ふみ)を。主君(しゆくん)出居(いでゐ)のほとりに捨置(すておけ)し。彼等(かれら)を罪(つみ)せんと謀(はかり)つゝ。なほ心もとなければ。彼(かの)二人(ふたり)が逢(あ)はんとて。合図(あひづ)を定(さため)たる。園(その)の木陰(こかげ)に立(たち)かくれ。この夜(よ)の形容(ありさま)

をもしらばやと思ひつるに。斑女前(はんによのまへ)春雨(はるさめ)をもていはせ給ふやう。殿(との)には今〓(雨+↓月)(こよひ)も四辻

殿(よつゝじどの)に参(まい)り給ひし程(ほど)に。退出(まかで)給ふころは。夜(よ)もいたく深(ふけ)ぬべし。弱(はかな)きもののみ倶(ぐ)し給へば

道(みち)の程(ほど)もおぼつかなきに。汝(なんぢ)今(いま)より御迎(おんむかひ)にまいり給へと仰(おふ)すれば。源五(げんご)大に迷惑(めいわく)

して。殿(との)には夜深(よふけ)て院(いん)の御所(ごしよ)を退(しりぞ)き給ふ事しば/\なるに。なとて今夜(こんや)のみ

かくは宣(のたま)はすると怪(あやし)み思ひながら。君命(くんめい)辞(じ)するに言葉(ことば)なくて。しぶりもやられず。出

ゆきぬ。さてぞ光政(みつまさ)も鳰崎(にほざき)も。たえて阻(はば)める人なくて輙(たやす)く脱(のが)れ去にける。これ皆(みな)斑女(はんによ)の

恵(めぐみ)にて。源五(げんご)が僻(ひがみ)し心をもよく量(はかり)て。彼(かれ)を遠離(とほざけ)給ふになん。かゝりし程(ほど)に源五(げんご)ら

夜(よ)あけて後(のち)。主(しゆう)の倶(とも)して館(やかた)にかへるとやがて。山田(やまだの)三郎を尋(たづぬ)るに。昨夜(さくや)鳰崎(にほざき)を将(ゐ)

て奔(はしり)たりと聞(きこ)えしかば。驚(おどろ)き恕(いか)りて。彼此(をちこち)に人を遣(つかは)し。その往方(ゆくへ)を探索(さがしもとむ)るに。

とみにしるべうもあらざれば。いよゝ腹(はら)にすえかねて。さても者奴等(しやつら)は果報(くわほう)よきもの

なり。首(かうべ)剄(はね)らるべき罪(つみ)を犯(おか)して。奔(はし)れども。追捕(おひとらへ)らるゝ事もなし。かくては忠義(ちうぎ)を

竭(つく)さんも無益(むやく)なり。賞罰(せうばつ)正(ただ)しからぬ家(いへ)に仕(つかへ)ては。末(すゑ)たのもしからずなど。いひ罵(のゝし)る

といへども。粟津(あはづの)六郎をはじめ。みなしらず顔(がほ)してありければ。源五(げんご)ます/\疑(うたが)ひ

惑(まど)ひ。もしわが謀計(たばかり)を群柏(むらがしは)が漏(もら)して。君(きみ)にもその事を聞(きこ)えたるかと思ふに。忽地(たちまち)

影護(うしろめたく)なりて。彼(かの)童(わらは)をあらせては。よき事あらじと深念(しねん)しつ、ある夜(よ)竊(ひそか)に群柏(むらがしは)を

縊死(くびりころ)し。屍(しかばね)を加茂川(かもがわ)へ衝流(つきなが)して。なほ人の疑(うたがは)ん事を怕(おそ)れ。白川(しらかは)の館(やかた)にふりたる

杉(すぎ)の樹(き)ありしかば。このほとりに彼(かの)童(わらは)が草履(わらぐつ)をもてゆきて。脱捨(ぬぎすて)たるやうにこしらへ

あきけり。さて詰朝(あけのあさ)群柏(むらがしは)がみえざるとて。人みな普(あまね)く尋(たづね)めぐるに。北面(きたおもて)なる杉(すぎ)の

木(こ)の下に脱捨(ぬぎすて)たる草履(わらぐつ)あるをみて大に驚(おどろ)き。こは群柏(むらがしは)は天狗(てんぐ)などいふものに。

誘引(さそはれ)たりとおぼし。世(よ)に神(かみ)がくしといふ事なきにあらず。彼(かれ)は幼(いとけな)きより父母(ちゝはゝ)を喪(うしな)ひ

て。親族(みうち)もたえてなきものなれば。殿(との)にも憐(あはれ)がり給ひつるに。鞍馬(くらま)愛宕(あたご)の峯(みね)に

遊(あそ)びて。いく年(とせ)経(ふ)るとも帰(かへ)らずは。いとも奇(あや)しき身の果(はて)なりといひあへりしを。洛中(らくちう)

洛外(らくぐわい)の良賤(りやうせん)聞伝(きゝつたへ)て。北白川(きたしらかは)の天狗(てんぐ)屋舗(やしき)とぞ稱(となへ)たる。衆人(もろびと)はかくもいへ。少将(しよう/\)と

斑女(はんによ)のみ。件(くだん)の事をしりて在(おは)せば。群柏(むらがしは)が往方(ゆくへ)定(さだ)かならぬも源五(げんご)が所為(わざ)にはあらぬ

かと疑(うたが)ひおぼして。はじめ程(ほど)は彼(かれ)を用(もち)ひ給はず。よろづ粟津(あはづの)六郎のみに委(ゆだ)ね

給ひければ。源五(げんご)はます/\面目(めんもく)をうしなひて。ふかく憤(いきどほり)おもふといへども。更(さら)に色(いろ)にも

あらはさず。信々(まめ/\)しげに仕(つかへ)ける。いと憎(にく)つべき佞人(ねぢけびと)なり。