墨田川梅柳新書(すみだがはばいりうしんしよ)巻之五

                                 東都 曲亭主人著

   一  光政(みつまさ)平尾郷(ひらをのさと)に妻子(さいし)を殺(ころ)す

山田三郎光政(やまだのさぶらうみつまさ)は。松井源五(まつゐのげんご)が夥(あまた)の兵(つはもの)に送(おく)られ。斑女前(はんによのまへ)を伴(ともな)ひて。平尾(ひらを)の里(さと)に立帰(たちかへ)る

に。既(すで)に門方(かとべ)ちかくなりしかば。源五(げんご)はこゝより引わかれて。郷(さと)の出口(てくち)/\を遠巻(とほまき)して。もつ

はらその合圖(あひづ)をまつ。又(また)粟津(あはづの)六郎勝久(かつひさ)は。甲夜(よひ)に光政(みつまさ)とゝもに宿(やど)りを出(いで)。巣鴨(すかも)の

かたへゆきていまだ帰(かへ)らず。これも斑女(はんによ)松稚(まつわか)の往方(ゆくへ)をしらんが為(ため)なり。光政(みつまさ)はしづ

裡(うち)の容子(やうす)を張(うかゝひ)て。門(かど)よりは入らず。潜(ひそか)に庭門(にはぐち)なる片折戸(かたをりと)を押(おし)ひらきて。斑女前(はんによのまへ)を

誘引(いざなひ)まゐらせ。月(つき)の影(かげ)もいと暗(くら)き。樹立(こだち)の間(ひま)を繞(めぐ)りゆくに。何(なに)思(おも)ひけん走(はし)りかゝ

りて。忽地(たちまち)斑女前(はんによのまへ)に手拭(てのたひ)はませ。刀(かたな)の下緒(さげを)を抜出(ぬきいだ)して。矢塲(やには)に縛(いましめ)んとすれは。斑女(はんによ)

は阿呀(あゝ)と叫(さけば)んにも声(こゑ)たゝず。かき拂(はらひ)て走(はし)り退(のか)んとし給ふに。袿(うちぎ)の袖(そで)を松(まつ)の下枝(したえ)に引(ひき)

とめられ。袖(そで)はさら/\と離断(ちぎれ)つゝ。懐(ふところ)なる鏡(かゞみ)を撲地(はた)とおとして轉輾(ふしまろび)給ふを。起(おこ)しも立(たて)ず

犇々(ひら/\)と縛(いまし)めて。松(まつ)に〓(林+↓足)(しか)と繋畄(つなぎとめ)。鏡(かゞみ)と片袖(かたそで)を拾(ひら)うひとつて懐(ふところ)に挟(おさめ)つゝ。梅稚丸(うめわかまる)の坐(おは)し

ます別室(はなれや)のかたへ竊行(しのびゆく)。光政(みつまさ)が胸中(きやうちう)更(さら)にし るべからず。こゝに亦(また)光政(みつまさ)が女児(むすめ)玉柳(たまやぎ)は

梅稚丸(うめわかまる)わが家(いへ)に来(き)給ひつるはじめより。潜(ひそか)に懸想(けさう)して。思ひ絶(たゆ)る隙(ひま)はあらねど。さ

すがに父(ちゝ)の主君(しゆくん)にてましませば。かしこくていひも出(いだ)さず。下(した)ゆく水(みづ)を堰(せき)かねし。心(こゝろ)の

猿(ましら)及(および)なき。月(つき)の都人(みやこびと)にあくがるゝを。梅稚(うめわか)もいちはやく気色(けしき)に曉(さとり)得て。あはれとやおぼ

しけん。疇昔(きのふ)の夜(よ)。はじめて房門(ねやのと)に音(おと)づれ給ひしに。あやにくに守人(もるひと)の〓(艸+繁)(しげ)ければ。本意(ほゐ)

なく帰(かへ)しまゐらせしが。今霄(こよひ)は父(ちゝ)の山田(やまだ)も。粟津(あはづの)六郎も家(いへ)にあらねば。玉柳(たまやぎ)は障子(せうじ)にうつる影(かげ)をみて。

彼(かの)君(きみ)なりとこゝろうれしく。そと起出(おきいづ)る折(をり)しもあれ。山田(やまだの)三郎は。足(あし)を跪(つまだて)息(いき)を呑(のみ)て。

梅稚(うめわか)を踉来(つけき)たり。遣戸(やりど)の外(そと)に躱(かくら)ひ居(ゐ)たり。こはしらずして玉柳(たまやぎ)は。音(おと)させじと

て諸手(もろて)をかけ。障子(せうじ)をやをら引(ひき)あくれば。梅稚(うめわか)やがて入り給ふを。光政(みつまさ)閃(ひらり)と跳

懸(とびかゝつ)て。梅稚(うめわか)を取(とつ)て押(おさへ)。一刀(ひとかたな)ぐさと刺(さ)す。刺(さゝ)れてなほ反覆(はねかへ)さんとし給ふを。數

回(あまたたび)刺(さす)程(ほど)に。やうやくよはり給ひける。玉柳(たまやぎ)はこれをみて。浅(あさ)ましくも悲(かな)しくて。やよ

母御(はゝご)起出(おきいで)給へ。梅稚君(うめわかぎみ)の撃(うた)れ給ふ。母御(はゝご)/\と叫(さけ)び泣(なき)。声(こゑ)を限(かぎ)りに呼(よ)び立(たつ)れば。鳰崎(にほさき)

慌(あはたゝ)しく走(はし)り来(き)つ。只(と)見(み)れば夫(をつと)光政(みつまさ)は。梅稚丸(うめわかまる)を刺畄(つきとめ)て。既(すで)に首(かうべ)を刎(はね)んとす。

吐嗟(あはや)と驚(おどろ)きつと寄(よ)りて。かよはき婦(をんな)の力(ちから)にも。思ひ凝(こつ)たる一生懸命(いつしやうけんめい)。袖(そで)に〓縁(まつはり)拳(こぶし)

に噬著(かみつき)。からうじて奪(うば)ひとる。刀尖(きつさき)くるひて鳰崎(にほさき)が乳(ち)の下(した)ふかく掻切(かきき)るにぞ。阿呀(あゝ)

と叫(さけ)びて轉輾(ふしまろぶ)。妻(つま)の苦痛(くつう)をものともせず。光政(みつまさ)はふたゝび中刀(わきざしのかたな)を引抜(ひきぬ)き。血(ち)に塗(まみ)

れ給ふ梅稚(うめわか)の頭髻(たぶさ)を〓(爪+國)(つかん)で引起(ひきおこ)すを。玉柳(たまやぎ)今(いま)はと思ひたえ。父(ちゝ)の刃(やいば)にわが袖(そで)を。ま

きかけて握(にぎり)もち。胸(むね)のあたりへ衝(つき)たてゝ。仆(たふ)れ苦(くるし)む形勢(ありさま)に。父(ちゝ)も思はず腕(たゞむき)〓(疔-丁+難)(しび)れ。

刀(かたな)放(はな)して〓(手+堂)(だう)と坐(ざ)す。妻(つま)と女児(むすめ)は濆(ほとばし)る。鮮血(ちしほ)引(ひか)せて左右(さう)に跂寄(はひよ)り。鳰崎(にほさき)吻(ほ)と

する息(いき)の下(した)に。夫(をつと)を恨(うらめ)しげにうち膽望(まもり)。喃(なう)光政(みつまさ)どの。犬(いぬ)さへ恩(おん)はしるものを。心ざま

獣(けもの)にも劣(おと)り給へば。とかういはんもかひなけれど。利欲(りよく)に惑(まど)ひて主君(しゆくん)を殺(ころ)す。悪人(あくにん)

とは思ひかけず。この年来(としごろ)わが郎(をとこ)とて。斉眉(かしつけ)る身の朽(くち)をしさに。抑(そも/\)むかしは假

初(かりそめ)に。近江(あふみ)の契(ちぎり)仇(あた)となり。助(たす)けるまじき命(いのち)なからを。斑女御前(はんによごぜん)の憐(あはれみ)おぼし。密(ひそか)

に給ふ一嚢(ひとつゝみ)のかねには花(はな)を散(ちら)しそと。教諭(をしへ)の歌(うた)はわが為(ため)に。聖(ひじり)の書(ふみ)にも勝(まさ)れり

とて。朝暮(あさなゆふな)にいひも出(いで)。寝覚(ねざめ)にも思ひ出(いで)て。夜(よる)の衾(ふすま)は狭(せま)くとも。洛(みやこ)のかたを後

方(あとべ)にせて。われもすまじと宣(のたま)ひしも。みな虚言(そらごと)にてありけるかな。僂(たゞなへ)みれば去

年(こぞ)に今年(ことし)は。母御(はゝご)もさとて老(おひ)給はめ。わが兄(あに)もいかにやあらん。身(み)の過(あやまち)より君(きみ)と親(おや)

に。遠離(とほさか)る不忠(ふちう)不孝(ふこう)を。贖(あがな)ふべき心はなく。鬼々(おに/\)しきも事によれ。とても深

手(ふかで)を負(おひ)給はば。梅稚君(うめわかぎみ)の魂緒(たまのを)のいとおぼつかなくはあれど。妻(つま)や女児(むすめ)が面(まの)

あたり死(し)をもてかくまで諫(いさむ)るを。露ばかりも思ひしりて。理(ことはり)とも聞(きく)給はゞ。心の限(かぎ)

り勦(いたは)りまゐらせ。それにても事とゞかずは。御亡骸(おんなきがら)を葬(ほうふ)りて。腹(はら)切(きつ)て亡(うせ)給へ。いひあは

さねど玉柳(たまやぎ)が。健気(けなげ)に自害(じがい)し侍(はべ)るを。あはれとはみ給はずや。こはむじんなり浅(あさ)まし

とて。かき口説(くどき)つゝよゝと泣(なけ)ば。玉柳(たまやぎ)も涙(なみだ)雨(あめ)のごとくにて。ませたるものとおぼさんが。梅

稚君(うめわかぎみ)を懸想(けそう)して。いひよるよすがも憖(なまじひ)に。過世(すぐせ)に縁(え)にし締(むすび)けん。彼(かの)君(きみ)よりかよひ

路(ぢ)も。やゝ二夜(ふたよ)たになりぬれど。人(ひと)めの関(せき)の関守(せきもり)に。打(うち)あけても得(え)相語(かたらは)ず。昨夜(ゆふべ)はあはで

帰(かへ)しまゐらせ。今霄(こよひ)はたま/\手枕(たまくら)を。ならぶるかひに暁(あかつき)の鶏(とり)遅(おそ)かれと思ふ思ひ

きや。わが房門(ねやのと)にてわが父(ちゝ)に。あへなく弑(ころさ)れ給はんとは。一夜(ひとよ)を千夜(ちよ)とたのしみし。

あふせいなくともおなじ日に。君(きみ)と冥土(めいど)へゆくべくは。生(いき)て歎(なげき)をせんよりは。なか/\

嬉(うれ)しかるべけれど。主(しゆう)を弑(ころ)せし三郎が女児(むすめ)とて伴(ともな)ひ給はずは。親子(おやこ)は元来(もとより)一

世(いつせ)ときく。ひとりや踰(とえ)ん死出(しで)の山(やま)に。今より惑(まよ)ひ侍(はべ)る也。妻(つま)を殺(ころ)し子を殺(ころ)し。

山田三郎光政(やまだのさぶらうみつまさ)

妻子(やから)〈○サイシ〉を殺(ころ)して

梅稚丸(うめわかまる)の首(かうべ)を

松井源五(まつゐのげんご)に

逓与(わた)す

誰為(たがため)欲(よく)に耽(ふけ)り給ふ。よからぬ人のをはり路(ぢ)や。主(しゆう)を内海(うつみ)の故事(ふること)に。異(こと)ならぬ身(み)は

終(つひ)に又。竹(たけ)の節(ふし)につらぬかれ。木(き)の〓(うち)に梟(かけ)らるゝ。悪人(あくにん)の女児(むすめ)といはれなん。わが後(のち)

の名(な)は惜(をし)からず。悪人(あくにん)なる親(おや)といはせんが。いとゞ悲(かな)しといふ声(こゑ)の細(ほそ)るにもなほよは

りゆく。母(はゝ)は悲歎(ひたん)に堪(たえ)かえて。肢體(みうち)をしぼる紅(くれない)の涙(なみだ)に鮮血(ちしほ)もいやましたり。光

政(みつまさ)はつく”/\と聞(きゝ)て冷笑(あざわら)ひ。あながまや。妻子(つまこ)の為(ため)を思へばとて。世に出んとてかくは

せしを。わりなく畄(とゞ)めてみづから死(し)するは。世(よ)の常言(ことはざ)に今(いま)もいふ。親(おや)の心を子はしら

ずとも。鳰崎(にほさき)はなどて物(もの)をもわきまへざる。われ今夜(こんや)厚澤(あつざは)の野末(のずゑ)にて。斑女前(はんによのまへ)

夥(あまた)の野臥(のぶし)に苦(くる)しめられ。母(はゝ)春雨(はるさめ)も討(うた)れたる後(あと)へ行(ゆき)けり。彼(かれ)を伴(ともな)ひて立かへる

に。蓮村(はすむら)のこなたにて。思ひもかけず。松井源五(まつゐのげんご)が弓矢(ゆみや)を連(つらね)て八方(はつほう)よりとり圍(かこ)み。

梅稚丸(うめわかまる)を汝(なんぢ)が家(いへ)にかくし置(おく)を。告(つぐ)るものあるによつて。今ゆきむかふところなり。

とく/\斑女前(はんによのまへ)を逓(わた)し。梅稚(うめわか)主従(しゆうじう)を搦捕(からめとつ)て出しなば。一旦(いつたん)舎蔵(かくまへ)る罪(つみ)を放(ゆるべ)。よ

きに吹挙(すいきよ)せんといふ。そのときわれつら/\思ふに。むかしはさゝやかなる過(あやまち)を責(せめ)て追

放(おひはな)し。今そのよるべなきまゝに。勘當(かんだう)を許(ゆる)さんといふ故主(こしゆう)の志(こゝろざし)たのもしからず。さ

らば斑女(はんによ)松稚(まつわか)を源五(げんご)に逓(わた)し。この係累(まきそひ)を脱(まぬか)れなば。却(かへつて)世(よ)に出(いづ)る便(たつき)ともなるべしと

思案(しあん)し。しばし斑女前(はんによのまへ)を預(あづけ)給はゞ。餌(ゑば)として粟津(あはづの)六郎に心(こゝろ)を放(ゆる)さし主従(しゆうじう)を

生拘(いけどる)か。もし又子(こ)にあはずは。おの/\首(かうべ)を刎(はね)て進(まゐ)らせんと諾(うべ)なひし程(ほど)に源五(げんご)は

わが門方(かどべ)より引わかれて。郷(さと)の出口(でぐち)を固(かため)たり。われは又庭門(にはくち)より入(い)りて裡(うち)の容子(ようす)

を張(うかゞふ)と粟津(あはづの)六郎はいまだ帰(かへ)らず。さらば者奴(しやつ)が帰(かへ)らざる間(はし)にと思へば心(こゝろ)頻(しきり)に

いそがはしけれど。憖(なまじひ)に生拘(いけと)らんとせば。汝等(なんぢら)に阻(はばま)られ。事(こと)後(おく)れて六郎が立(たち)かへらば

悔(くゆ)ともかひあるべからず。と是彼(これかれ)を慮(おもんばか)り。まづ斑女前(はんによのまへ)を庭(には)の木蔭(こかけ)にて刺殺(さしころ)し

梅稚(うめわか)がこゝに到(いたる)るを跟来(つけきた)りて。一刀(ひとかたな)に撃(うち)とめたり。よしや汝等(なんぢら)が物(もの)に狂(くる)ひて死(し)ねば

とて。今(いま)に及(および)て止(やむ)べきかと。ほざきにほざいて身(み)を起(おこ)し鳰崎(にほさき)が乳(ち)の下(した)なる

刀(かたな)を丁(ちやう)と抜取(ぬきとり)つゝ。なほ片息(かたいき)なる梅稚(うめわか)の首(かうべ)を刎(はね)んとて立(たち)よるを。さはさせじとて。妻(つま)

女児(むすめ)が。よろめき/\とゞむるを。右(みぎ)に蹴倒(けたふ)し左(ひだり)に踏居(ふみすえ)鮮血(ちしほ)にすべりて揺(ゆ)り滅(け)す

燈火(ともしび)。撲地(はた)と倒(たふ)るゝ屏風(びやうぶ)の下(した)に。布(しか)れて蠢(うごめ)く鳰崎(にほさき)が。あやなき暗(やみ)をさいはひに

光政(みつまさ)は探(さぐり)よつて。梅稚(うめわか)の首(かうべ)をふつと掻落(かきおと)し。髻(もとゞり)引提(ひさげ)て庭門(にはぐち)に走(はし)り出(いで)。號笛(あひづのふえ)

を吹鳴(ふきな)らせば。松井源五(まつゐのげんご)四五人の従者(ずさ)〈○トモヒト〉を将(い)て。生垣(いけがき)の蔭(かげ)を立出(たちいで)。われ前(さき)より

こゝにありて。事(ことの)為体(ていたらく)を見聞(けんもん)せり。抜群(ばつくん)の働(はたら)きこゝちよし/\と賞(せう)すれば。光

政(みつまさ)莞〓(人+↓小)(につこ)とうち咲(えみ)て。粟津(あはづの)六郎いまだ帰(かへ)らざれば。梅稚(うめわか)を生拘(いけとら)んも易(やす)か

めれど。しらせるごとく。妻子(さいし)は光政(みつまさ)が心のごとくならず。事(こと)後(おく)れてはと危(あやぶ)み。まづ

斑女(はんによ)を殺(ころ)し。今亦(いまゝた)梅稚(うめわか)の首(かうべ)を刎(はね)たり。いざ實検(じつけん)あるべしと述(のべ)をはりて。古

實(こじつ)のごとくさし出(いだ)せば。源五(げんご)は刀(かたな)の靹(つか)に手(て)をかけて。左(ひだり)の足(あし)を踏出(ふみいだ)し。諸悪本

末無明来實検直儀何處有南北(しよあくほんまつむみようらいじつけんぢきぎかしこへうなんぼく)と唱(となへ)て。〓(林+↓足)(しか)とみるに。疑(うたが)ふべうもあら

ぬ梅稚(うめわか)の首(かうべ)なり。光政(みつまさ)亦(また)斑女前(はんによのまへ)の首(かうべ)をみするに。ところ/\血(ち)に塗(まみ)れたれど。

嚢(つゝみ)たる片袖(かたそで)は。甲夜(よひ)に認(みし)れるその人の袿(うちぎ)なれは。聊(いさゝか)も疑(うたがは)ず。従者(ずさ)〈○トモヒト〉に二ツの首級(しゆきう)〈○クビ〉

をもたし。又光政(みつまさ)に對(むかつ)て。かゝればわれも諸方(しよほう)の圍(かこみ)を觧(とく)べし。今にもあれ。粟津(あはづの)

六郎がかへり来(き)たらは。汝(なんぢ)たばかりてこれを討(うち)とり。首(かうべ)を旅宿(りよしゆく)にもて来(き)たられよ。いに

しへより勇士(ゆうし)多(おほ)しといへども。妻子(つまこ)を殺(ころ)して己(おのれ)を潔(いさきよ)くするものは稀(まれ)なり。かな

らず恩賞(おんしやう)あるべしと説示(ときしめ)し。旅宿(りよしゆく)を投(さし)て帰(かへ)りけり。光政(みつまさ)はしばしそなたを

目送(みおく)りて。舊(もと)の処(ところ)に入らんとするに。粟津(あはづの)六郎勝久(かつひさ)は。いつの程(ほど)より帰(かへ)りけん

築山(つきやま)の後(うしろ)より走(はし)り出(いで)。主君(しゆくん)の讐敵(かたき)迯(のが)さじと呼(よび)かけて。太刀(たち)をうち揮(ふり)切(きつ)てかゝれ

ば。光政(みつまさ)も抜(ぬき)あはして。受(うけ)ながし/\。雨戸(あまど)一枚(いちまい)盾(たて)にとつて。二十餘合(よたち)ぞ戦(たゝか)ひける。

この太刀音(たちおと)をもれ聞(きゝ)てや。喃(なう)六郎過(あやまち)せそと呼(よび)とめ/\。手燭(てしよく)して走(はし)り来(き)た

まふ人(ひと)は。斑女前(はんによのまへ)と梅稚(うめわか)なり。勝久(かつひさ)これをみて。且(かつ)怪(あやし)み且(かつ)歓(よろこ)び。こは/\いかにと

ばかりにて。圏子(かまへ)の外(そと)へ跳退(とびのけ)ども。なほ疑(うたがひ)は觧(とけ)ざりけり。そのとき山田(やまだの)三郎は斑女(はんによ)

梅稚(うめわか)を坐敷(ざしき)に請(しよう)じ。又(また)粟津(あはづの)六郎を招(まね)き入れ。こゝにはじめて千行(せんこう)の涙(なみだ)禁(きん)ずる

ことあたはず。且(しばらく)して申すやう。六郎はいふもさら也。斑女御前(はんによごぜん)梅稚君(うめわかぎみ)も。光政(みつまさ)が苦

肉(くにく)の計(はかりごと)は知(しろ)し召(めさ)ざるべし。時(とき)しもあれ今霄(こよひ)に至(いたつ)て。梅稚君(うめわかぎみ)わが家(いへ)に坐(おはす)る事を。

松井源五(まつゐのげんご)にしられ。剩(あまつさへ)それがし厚澤野(あつさはの)より斑女前(はんによのまへ)を伴(ともなひ)まいらする途(みち)にて。

源五(げんご)が黨(ともがら)に弓矢(ゆみや)をもて圍(かこま)れ。一旦(いつたん)その鏃(やじり)を避(さけ)ん為(ため)に彼(かれ)がいふ所(ところ)に従(したが)ひ

故(ゆゑ)なく斑女前(はんによのまへ)を伴(ともな)ひまゐらせ。家(いへ)に帰(かへ)ることは得(え)たれど。奸智(かんち)に闌(たけ)たる源五(げんご)な

れば。もし間諜者(しのびのもの)をもて。事(こと)の為体(ていたらく)を張望(うかゞは)する事もやとおもひはかり。畏(かしこ)けれど

斑女御前(はんによごぜん)をいたく縛奉(いましめたてまつ)りて木(こ)の本(もと)に繋畄(つなぎとめ)。潜(ひそか)に鳰崎(にほさき)を呼(よ)びて。落(おと)しま

ゐらすべき謀(はかりこと)を相語(かたらふ)折(をり)しも梅稚君(うめわかぎみ)しのびやかに。玉柳(たまやぎ)が臥房(ふしど)へかよひ給へり。こは

心(こゝろ)を得(え)ずとて。又(また)別室(はなれや)の方(かた)をみかへれば。彼処(かしこ)にも人影(ひとかげ)す。やがて闕窺(かいまみ)るに。

これも又梅稚君(うめわかきみ)なり。こゝにます/\怪(あや)しければ。斑女御前(はんによごぜん)のもたせ給ひし。鏡(かゞみ)を照(てら)し

て月影(つきかげ)に。彼(かれ)と是(これ)とを熟視(つら/\みる)に。女児(むすめ)が房(ねや)にかよふものは。真(まこと)の梅稚丸(うめわかまる)にあら

ず。全(まつた)く獣(けもの)の形(かたち)にうつれり。さては彼(かの)もの妖怪(ようくわい)なり。老精(ろうせい)〈○フルバケモノ〉人(ひと)に変(へん)ずるときは。死(し)し

て後(のち)もしばしが程(ほど)。本形(もとのかたち)を露(あらは)さずといふ。幸(さいはひ)なるかなこの妖怪(ようくわい)の首(かうべ)を刎(はね)て。

源五(げんご)を欺(あざむ)き。今霄(こよひ)の危窮(きゝう)を脱(のが)るべし。とは思へども斑女前(はんによのまへ)を救(すく)ひ奉(たてまつ)るに討(はかりごと)

なく。事(こと)急(きう)にして深(ふか)く思(おもひ)めぐらすに及(およば)ず。只(たゞ)鳰崎(にほさき)が身(み)を殺(ころ)して。かはり奉(たてまつ)ら

んといふに任(まか)せ。まづ彼(かれ)をもて。斑女御前(はんによごぜん)を別室(はなれや)に誘引(いざなひ)して。御母子(ごぼし)の對面(たひめん)を

なしまゐらせ。わが身(み)は遽(いそがは)しく〓(門+鬼)(ねらひ)よつて。妖怪(ようくわい)を刺畄(つきとめ)しを。玉柳(たまやぎ)は縁故(ことのもと)をし

らず。只顧(ひたすら)叫(さけ)び泣(な)く程(ほど)に。鳰崎(にほさき)はしり来(き)て偽(いつは)り悲(かなし)み。いたく諫(いさむ)るおもゝ

ちして疵(きず)を蒙(かうむ)り。なほあらそひ止(とゞむ)るときに。燈火(ともしび)さへうち滅(け)して。くらきに紛(まぎ)れ

て妻(つま)の首(かうべ)と。妖怪(ようくわい)の首(かうべ)を打落(うちおと)し。やがて源五(げんご)に逓与(わた)せし也。しかるに鳰崎(にほさき)が

首(かうべ)は。血(ち)をもて斑(まだ)らかに塗(ぬり)かくし。向(さき)に斑女御前(はんによごぜん)。松(まつ)の枝(えだ)に引(ひき)かけて。断離(ちぎり)給ひし

袖(そで)をもて嚢(つゝみ)たるに。梅稚丸(うめわかまる)の御首(おんくび)露(つゆ)ばかりも違(たが)はねば。源五(げんご)もこれにこゝろを

放(ゆる)して疑(うたがは)ず。遂(つひ)に欺(あざむか)れて帰(かへ)り去(さり)ぬ。かくとはしらで玉柳(たまやぎ)が。親(おや)をうらみ

世(よ)をはかなみ。父(ちゝ)が刀(かたな)を掻取(かいとつ)て。死(し)するをさにはあらずとも。いはぬ心のやるか

たなさは。わが胸(むな)さかをつらぬくより。苦(くる)しかりしと声(こゑ)たてゝ。泣(なか)ぬはいとゞ丈夫(ますらを)の

泣(なく)に勝(まさ)りて哀(あは)れ也。斑女前(はんによのまへ)は袖(そで)にあまる。涙(なみだ)を絞(しぼり)あへ給はず。光政(みつまさ)はとまれか

くまれ。鳰崎(にほさき)は久(ひさし)く仕(つかへ)しものならぬに。一旦(いつたん)の恩(おん)を感(かん)じ。命(いのち)にかはるのみなら

ず。愛子(まなご)の死(し)するを悲(かな)しとも。いはで首(かうべ)を打(うた)せけん。実(げ)に春雨(はるさめ)が嫁(よめ)にして。光

政(みつまさ)が妻(つま)なりし。そも世(よ)に幸(さち)なき人はあれど。只(たゞ)一チ日に母(はゝ)を喪(うしな)ひ。妻(つま)に後(おく)れ

子(こ)を先(さき)だて。君(きみ)を救(すく)へる忠臣(ちうしん)と。いはれもしいはせもする。主従(しゆうじう)ばかり味気(あぢき)な

きものはなしとて泣(なき)たまふ。梅稚丸(うめわかまる)も諸共(もろとも)に。われは法師(はふし)となるべき身(み)の。

人をは救(すく)はで思ひもかけず。夥(あまた)の人(ひと)に歎(なげ)きをみすれば。後(のち)の世さこそと推量(おしはか)

られいと浅(あさ)ましとて。身(み)をはかなみ。不覺(すゞろ)に落涙(らくるい)し給ひけり。粟津(あはづの)六郎は

はじめより。黙然(もくねん)として居(ゐ)たりしが。掌(たなそこ)を丁(ちやう)と打(うち)。光政(みつまさ)一家(いつけ)の誠忠(せいちう)は。勝久(かつひさ)が

及(およ)ぶ所(ところ)にあらず。それがし今霄(こよひ)巣鴨(すがも)より帰(かへ)り来(く)れば。捕人(とりて)の兵(つはもの)郷(さと)の出

口(でくち)を固(かため)たれば。梅稚君(うめわかぎみ)の事いよゝ心もとなく。溝(みぞ)を渉(わた)り草(くさ)を潜(くゞ)り。しのびや

かに径(こみち)を経(へ)て立(たち)かへるに。光政(みつまさ)が主君(しゆくん)の首(かうべ)を打(うつ)て源五(げんご)に逓与(わたす)を闕窺(かいまみ)

憤怒(いきどほり)に堪(たへ)ずして。ほと/\忠臣(ちうしん)を害(がい)せんとせり。今(いま)縁故(ことのもと)を聞(きゝ)て

思ひ出(いだ)せし事こそあれ。いぬる日(ひ)梅稚君(うめわかぎみ)。こゝへ来(き)給ふはじめ。戸田(とだ)の東(ひがし)

なる塚原(つかはら)にて。年老(としふる)狐(きつね)物(もの)の本(ほん)を讀(よみ)居(ゐ)たれば。われ礫(つぶて)を打かけて走(はし)

らせ。彼(かの)書籍(しよじやく)を取(とつ)てみるに。一冊(いつさつ)の簿(ちやう)にして。夥(あまた)女子(をなご)の名(な)を記(しる)し。

朱(しゆ)をもて点(てん)を引(ひけ)るもあり。今(いま)物(もの)おもへば彼(かの)狐(きつね)が。里(さと)の女子(をなご)の艶(みやび)たるを

明鏡(めいきやう)の徳(とく)よく

妖怪(ようくわい)をあらはし

勝久(かつひさ)が勇(ゆう)

忽(たちまち)

間者(しのびのもの)

撃(うつ)

えらみて。その名(な)を記(しる)し。既(すで)に事(こと)の成(な)するには。識(しるし)を附(つけ)たるよりのかとおぼし。

彼(かの)簿(ちやう)今(いま)にありやと申せば。梅稚丸(うめわかまる)懐(ふところ)より。簿(ちやう)をとり出(いだ)して開(ひら)きみた

まふに。果(はた)してその中(なか)ほどに。平尾(ひらを)の玉柳(たまやぎ)と写(しる)して。いまだ点(てん)をば引(ひ)か

ず。みなこれをみて駭然(がいぜん)とおどろき怪(あやし)み。さては頃日(このごろ)玉柳(たまやぎ)が。梅稚君(うめわかぎみ)に

懸想(けそう)せしを。彼(かれ)はやく知(しつ)てその人に変(へん)じ。女児(むすめ)が房(ねや)にかよひけん。〓(人+尚)(もし)今霄(こよひ)

火急(くわきう)の難儀(なんぎ)にあはずは。終(つひ)に玉柳(たまやぎ)は狐(きつね)の為(ため)に汚(けが)さるべかりしを。光政(みつまさ)

いしくも撃(うち)とめて。一事(いちじ)両用(りようよう)をなし得(え)たりとて。粟津(あはの)六郎殊更(ことさら)に舌(した)を

掉(ふるつ)て賞嘆(せうたん)す。そのとき山田(やまだの)三郎は。彼(かの)明鏡(めいきやう)をとり出て。ふたゝび妖怪(ようくわい)の

躯(むくろ)を照(てら)らせば。梅稚丸(うめわかまる)とみえたるも。忽地(たちまち)年老(としふる)狐(きつね)と変(へん)じ。血(ち)に塗(まみ)れて斃(たふ)れ

たり。玉柳(たまやぎ)はなほ縡断(ことき)れずしばし死(しゝ)たるごとくなりしが。阿呀(あゝ)と叫(さけ)びて頭(かうべ)を

擡(もたげ)。今(いま)一件(ひとくだり)の物(もの)がたりを。夢(ゆめ)のごとくに聞侍(きゝはべ)りて。はじめてわが身(み)の幸(さひはひ)をし

る。みなこれ父(ちゝ)の慈悲(ぢひ)なるを。浅(あさ)き女の心から。子(こ)として親(おや)を罵(のゝし)りし。不孝(ふこう)

の罪(つみ)ゆるさせ給へ。よしやこの身(み)を汚(けが)さずとも。狐(きつね)を房(ねや)へ誘引(いざなひ)し。女子(をなご)と人に

いはれなば。さそな恥(はづか)しかるべきに。今(いま)死(し)するこそ嬉(うれ)しけれ。父(ちゝ)の顔(かほ)のみみれば

なほ。躯(むくろ)はこゝにはゝき木(ぎ)のありとはしれど浅(あさ)ましや。首(かうべ)は仇(あた)の事に逓(わた)し。かゝる

今般(いまは)に死顔(しにがほ)にも。あふをかたきを憐(あはれ)とも。みそなはさば梅稚君(うめわかきみ)。なからん後(のち)に

一遍(いつへん)の回向(ゑこう)をといひかけて。卒然(そつぜん)として息絶(いきたえ)たり。非歎(ひたん)に時刻(じこく)おし移(うつ)り

て。暁(あかつき)ちかくなりしかば。粟津(あはづの)六郎縁(ゑん)つらに立出(たちいで)て。星(ほし)の光(ひかり)をうち瞻望(ながめ)。

天(よ)も明(あけ)贋首(にせくび)なりとしらず。源五(げんご)ふたゝび寄(よ)せ来(き)たらん。誘(いざ)給へといそがし

つゝ。丁(ちやう)と打(うつ)手裏劍(しゆりけん)の。ねらひたがはず松(まつ)が枝(えだ)より。〓(手+堂)(だう)と堕(おつ)る癖者(くせもの)は。松井

源五(まつゐのげんご)が手(て)のものなり。光政(みつまさ)走(はし)り下(お)りて首(かうべ)打(うち)おとし。刀(かたな)の鮮血(ちしほ)を押拭(おしぬぐひ)

て。しつかに〓(革+室)(さや)におさめ。勝久(かつひさ)が眼力(がんりき)手煉(しゆれん)の勝(すぐれ)たるを稱(ほめ)て已(やま)ず。粟津(あはづの)六郎

莞〓(人+↓小)(につこ)として。御辺(ごへん)の謀(はかりごと)なかりせば。この癖者(くせもの)も討(うち)とめがたし。嗚呼(あゝ)智(ち)なるかな。勇(ゆう)

なるかなと。互(かたみ)に賞(せう)し賞(せう)され。既(すで)に發足(ほつそく)の用意(ようゐ)をなすに。光政(みつまさ)は彼(かの)鏡(かゞみ)を。

斑女前(はんによのまへ)にかへし進(まゐ)らせ。又梅稚(うめわか)に申すやう。いともかしこけれど。人目(ひとめ)をしのび

給ふ為(ため)なり。玉柳(たまやぎ)が脱捨(ぬぎすて)たる衣服(いふく)をめされ。笠(かさ)をふかくして。出(いで)給はゞ。追

薦(ついぜん)ともなりぬべし。とく/\と宣(のたま)ふに。梅稚丸(うめわかまる)は玉柳(たまやぎ)が衣(きぬ)引纏(ひきまと)ひて。田

舎女(ゐなかめ)の旅(たび)するごとくに打扮(いでたち)給ふ。時(とき)に粟津(あはづの)六郎は。光政(みつまさ)に對(むか)ひて。それが

し御供(おんとも)つかまつれば。御母子(ごぼし)のうへはいと安(やす)し。御辺(ごへん)はなき人/\の屍(しがい)をも

とりおさめ。後(あと)より追(おひ)つき給へといふ。斑女(はんによ)梅稚(うめわか)もろともに。六郎よく

ぞ申たる。ゆくべきかたは陸奥(みちのく)なり。光政(みつまさ)はしばしこのほとりに潜

居(しのびお)りて。松稚丸(まつわかまる)を伴(ともな)ひまゐらば。いかにうれしかるべきとて。わりなく宣(のたま)は

する。固〓(受+辛)(いなみ)がたく。山田(やまだの)三郎はこの暁(あかつき)家(いへ)に畄(とゞま)り。主従(しゆうじう)三人(みたり)は水鳥(みづとり)の。巣鴨(すがも)のかたへ赴(おもむき)給ひぬ。