七  松稚丸(まつわかまる)潜(しのび)て白川山(しらかはやま)に猟(かり)す

この時(とき)華洛(みやこ)北白川(きたしらかわ)には。松稚丸(まつわかまる)十七歳(さい)。梅稚丸(うめわかまる)十五歳(さい)になり給ひぬ。兄弟(はらから)

才器(さいき)世(よ)に勝(すぐ)れて。その心ざま正(たゞ)しく。松稚(まつわか)はその人となり武芸(ぶげい)を好(このみ)て。只顧(ひたすら)

弓馬劍法(きうばけんじゆつ)を事(こと)とし。梅稚丸(うめわかまる)はその性(さが)文事(ぶんじ)を嗜(たしみ)て。日夜(にちや)讀書(とくしよ)筆斈(ひつだて)

にあかしくらし給へり。父(ちゝ)の惟房(これふさ)朝臣(あそん)は年来(としごろ)子(こ)どもの行(おこな)ひに心(こゝろ)をつけて。つら/\

尋思(しあん)し給ふやう。むかしわが父(ちゝ)義(ぎ)に仗(よつ)て行稚(ゆきわか)の一命(いちめい)を申乞(まうしこひ)。既(すで)に叡山(えいざん)

月林寺(くわつりんじ)に登(のぼ)して。祝髪(しゆくはつ)せさせ給ふといへども。彼人(かのひと)出家(しゆつけ)の行(おこなひ)をなさず。遂(つひ)に

逐電(ちくてん)して今にその往方(ゆくへ)を聞(きく)ことなし。朝家(ちやうか)の祟(たゝり)わが家(いへ)に及(およ)ばさるは。こよなき

幸(さいわひ)なり。とはいへ亡父(ぼうふ)の志(こゝろざし)。忽地(たちまち)徒事(いたづらごと)となりて。冥土(めいど)黄泉(くわうせん)の下(もと)にても。さこそ

朽(くち)をしくおぼすらめ。せめてわが子(こ)どもを。一人(ひとり)は出家(しゆつけ)さして。行盛(ゆきもり)一家(いつけ)の後世(のちのよ)を

吊(とは)せずやとて。まづ斑女前(はんによのまへ)に情由(ことのよし)を告(つげ)。さて宣(のたま)ふやう。松稚(まつわか)は嫡子(ちやくし)にして。心

ざまも勇(たけ)ければ。法師(ほうし)となる事を嫌(きら)ふべし。梅稚(うめわか)は幼(いとけな)きより閑稚(かんぢ)なり。出家(しゆつけ)

させんには。彼(かれ)その器(き)に稱(かな)へり。しかれば今より仲圓(ちうえん)阿闍梨(あじやり)に進(まゐ)らせて。經(きやう)

をも讀習(よみならは)すべうもおもふ也。この事いかにかあるべきと宣(のたま)へば。斑女前(はんによのまへ)も丈夫(をつと)

の言語(ことば)悉(こと”/\く)理(ことわり)あるに推〓(受+辛)(いなみ)がたく。殊(こと)さら行稚(ゆきわか)の往方(ゆくへ)なくなりたるを歎(なげ)き。足(たれ)

にかはらせて出家(しゆつけ)させんと宣(のたま)はする。志(こゝろざし)の忝(かたじけな)くて。不覚(すゞろ)に落涙(らくるい)し給ひけり。

こゝをもて梅稚(うめわか)は去年(こぞ)の春(はる)より叡山(えいざん)月林寺(くわつりんじ)の仲圓(ちうえん)阿闍梨(あじやり)に参(まい)り仕(つかへ)

行童(ちご)の如(ごと)くにて在(おは)しける。元来(もとより)その容姿(すがた)の艶(みやび)たる事は。開(ひらけ)んとする春(はる)

に花(はな)。圓(まどか)ならんとする秋(あき)の月にも巧(たく)ふべく。よろづ女子(をなご)にしてみまほしき

風情(ぶせい)なるを。無下(むげ)に法師(ほふし)になしまゐらせんは。いと惜(をし)きことなめり。と人(ひと)みな

申あへるとなん。是(これ)はさておき仁科平九郎盛景(にしなへいくらうもりかげ)は。影(かげ)の江(え)の郷(さと)にて。伊庭(いばの)十郎

主従(しやうじう)を欺(あざむ)き殺(ころ)し。亀鞠(かめきく)を将(い)て間道(こみち)より華洛(みやこ)に上(のぼ)り。西(にし)の洞院六角(といろくかく)のあなた

に。ふりたる空房(あきいへ)あるを借得(かりえ)てこゝに居(きよ)を卜(しめ)。その氏(うぢ)を更(あらため)て。赤石(あかし)平九郎と

名告(なの)れり。豫(かね)ては彼(かの)三十金(きん)をもて。亀鞠(かめぎく)が衣装(いしよう)の料(りやう)とし。彼(かれ)に白拍子(しらびやうし)を

させて。容易(たやすく)世(よ)をわたるべうおもひはかりけるに。洛(みやこ)へ上(のぼ)り着(つき)しころより。

亀鞠(かめきく)は風(かぜ)のこゝちとて打臥(うちふし)たるが。次第(しだい)に病(やまひ)劇(はげ)しくなりて。醫師(くすし)もいく

たりとなくものするに。みな瘧病(わらはやみ)の重(おも)きないといふ。平九郎は命綱(いのちづな)とも頼(たの)み

思へる女児(むすめ)の。いよ危(あやうく)みゆるに。安(やす)き心もなく。熊膽(くまのい)。眞珠(しらたま)。人参(うのにげくさ)のたぐひ。

すべて價(あたひ)に拘(かゝ)はらず。よきといふ程(ほど)の薬剤(くすり)を用(もちゆ)るに。件(くだん)の金(かね)も忽地(たちまち)に遣盡(つかひつく)し。

些(ちと)の衣服(いふく)調度(ちやうど)に至(いた)るまで。悉(こと”/\)く沽却(うりはらひ)て。家(いへ)はなほ住居(すまゐ)すれど。舊(もと)の空房(あきや)に

異(こと)ならず。かくは神無月(かんなつき)の上旬(はじめつかた)に及(および)て。亀鞠(かめきく)が病著(いたつき)やゝおこたり果(はて)。平九郎も

松稚(まつわか)梅稚(うめわか)やゝ

成長(ひとゝなり)給ふ随(まゝ)

に同胞(はらから)その好(このむ)ところ

斎(ひとし)からず松稚(まつわか)は武芸(ぶげい)

に心(こゝろ)を摧(くだ)き梅稚(うめわか)は

文学(ぶんがく)に思(おも)ひを

耽(ふけ)らし給ひぬ

はじめて安堵(おちゐ)ぬ。されど山田(やまだ)の晩稲(おしね)苅乾(かりほ)すをみて。歳(とし)の豊(ゆた)けきをしりながら。

今は一椀(いちわん)の飯(いひ)に乏(とぼ)しく。千度(ちたび)うつ砧(きぬた)の音(おと)を。寝覚(ねざめ)/\に聞(きく)といへども。衣(ころも)を更(かへ)る

よすがもなし。かくては思ひし事もみなそらだのめにて。亀鞠(かめきく)を白拍子(しらびやうし)になす

ことかたく。さればとて平人(たゞうど)の妻(つま)などにせんはいと朽(くち)をし。とやせまじ。からやせまじ

とて。頻(しきり)に心を苦(くる)しめけり。しかるにこのころ洛外(らくぐわい)に一ツの奇談(きだん)あり。こゝに白川(しらかは)の

東(ひがし)。山中(やまなか)といふ村(むら)の長(おさ)。女児(むすめ)ひとりをもてり。年紀(とし)既(すで)に二八を過(すぎ)て。容止(かほばせ)も又

醜(みにく)からず。父母(ふぼ)はこれが為(ため)に婿(むこ)を擇(えら)むに。媒(なかだち)する人も多(おほ)かり。さる程(ほど)に彼(かの)女児(むすめ)は

幼(いとけな)きより家(いへ)に養(やしな)ふ。小厮(こもの)何がしと。しのび/\に相語(かたらひ)て。水もらすまじく契(ちぎ)れるを。

父母(ふぼ)はたえてしらざりける。さて婚縁(こんえん)定(さだま)るに及(および)て。彼(かの)小厮(こもの)は主(しゆう)の女児(むすめ)を誘引(いざなひ)。

もろともに走(はし)れるを。父(ちゝ)いたく怒(いか)り。夥(あまた)人(ひと)を出(いだ)して追止(おひとめ)させ。しばしもおかず拏

戻(ひきもど)して。小厮(こもの)を縛(いましめ)。うちも殺(ころ)すばかりに打擲(ちやうちやく)せし程(ほど)に。彼(かれ)憤(いきどおり)に堪(たへ)ざりけん。その

夜(よ)みづから舌(した)を噛断(かみきり)て死(しに)にけり。女児(むすめ)は父母(ふぼ)をうらみ小厮(こもの)を哀(あはれ)み忽地(たちまち)物狂(ものくるは)しう

なりてまどひ出(いで)村稍盡(むらはづれ)なる池(いけ)に飛(とび)入りて。遂(つひ)にうたかたの泡(あは)と消(きえ)ぬ。されは

にや雨(あめ)のそぼふる日など又さらでも夕(ゆふ)ぐれには。彼(かの)女児(むすめ)が幽魂(ゆうれい)。池(いけ)の畔(ほとり)に立(たち)あら

はるゝを。みらるものもありとて。只(たゞ)囂(ぎやう/\)と風声(ふうぶん)を。平九郎親子(おやこ)は。この物語(ものがたり)を伝

聞(つたへきゝ)て。彼(かの)村長(むらおさ)が慮(おもんはかり)の浅(あさ)はかなるを冷笑(あざわら)ひける。この日小春(こはる)の天(そら)いと簾(たかいらめ)なれは

亀鞠(かめきく)は久(ひさ)しく寝乱(ねみだ)れたる髪(かみ)を梳(くしけつ)らんとて鏡(かゞみ)に對(むか)ひ。わが顔色(がんしよく)の痩衰(やせおとろへ)

たるをみて。数囘(あまたゝひ)歎息(たんそく)し。父(ちゝ)をみかへりていふやう。男子(なんし)〈○ヲノコ〉病(やむ)ときは家(いへ)衰(おとろ)へ。女子(によし)〈○ヲナゴ〉

病(やむ)ときは色(いろ)衰(おとろ)ふ。今わが身(み)久(ひさ)しく病(やみ)たるをもて。父(ちゝ)いよゝ貧(まづし)くなり給へり。もし

急(きう)を救(すく)ふの智剤(ちざい)〈○チエノクスリ〉を用(もちひ)ずは。身(み)の病(やまひ)は愈(いゆる)とも貧(ひん)の病(やまひ)は治(ぢ)しがたし。わらはかく

顔色(がんしよく)の衰(おとろへ)たるをみて。これにつきて謀(はかりごと)あり。彼(かの)山中村(やまなかむら)の長(おさ)が女児(むすめ)入水(じゆすい)して夜(よ)な

夜(よな)池(いけ)の畔(ほとり)に立(たち)あらはるゝを風声(ふうぶん)すること幸(さいはひ)んれ年来(としごろ)習得(ならひえ)たる俳優(わざおき)

して彼(かの)幽霊(ゆうれい)に打扮(いでたち)。その処(ところ)にゆきて往来(ゆきゝ)の人を驚(おどろか)さば。里人(さとびと)はいふもさら也

豫(かね)て聞怕(きゝおぢ)する旅人等(たびゞとら)。周章(あはてふためき)て迯(にげ)まどひ。或(あるひ)は行李(こり)を遺(わす)れ。或(あるひ)は懐(ふところ)の物(もの)を

落(おと)して走(はし)り去(さ)るべし。その時(とき)わが父(ちゝ)迹(あと)につきて。拾(ひろ)ひあつめてもてかへり給はん

に。些(ちと)の得(とく)つかざる事はあるべからず。この謀計(たばかり)いかに侍(はべ)らんといへば。平九郎大に歓(よろこ)び

寔(まこと)に御身(み)はわが子(こ)ながら。才色兼備(さいしよくかねそはな)りたる少女(をとめ)なり。さらばしかせんとて。次(つぎ)の日

より親子(おやこ)もろともに。山中村(やまなかむら)の池(いけ)の畔(ほとり)に到(いた)り。亀鞠(かめきく)は年経(としふ)る榎(えのき)の〓(うろ)になりたる

裡(うち)に躱(かく)れ平九郎は山の蔭(かげ)についゐて合圖(あひづ)を定(さだ)め。人の来(く)るをみれは。父(ちゝ)まづ

その暗号(あひづ)するに亀鞠(かめぎく)は白(しろ)き内衣(まかたびら)を被(かつ)ぎ。長(たけ)なる黒髪(くろかみ)をふり乱(みだ)し。やをら〓(うろ)

より出(いで)て。枯尾花(かれをはな)の中(なか)に立在(たゞすみ)物(もの)をはいかでそなたをみかへりし形容(ありさま)は。更(さら)にこの

世(よ)の人ともおぼえず。閻王(ゑんわう)〓(厂+聴)前(ちやうぜん)の呵責(かしやく)を脱(のが)れ来(き)て。啾々(しう/\)として怨(うらみ)を陽人(ようじん)〈○イキタルヒト〉

を訴(うつたふ)る。陰鬼(いんき)ならじとも思はざるになし。これをみる人魂(たましひ)をうしなひ。迯(にげ)まどひて

手(て)にもたる物(もの)の落(おつ)るをもしらず。平九郎はその後方(あとべ)より。落(おと)せるを拾(ひら)ひとるに

折(をり)ふしは物(もの)あるも侍りけり。されねだに一犬(いつけん)形(かたち)を吠(ほえ)て百犬(けん)声(こゑ)を吼(ほゆ)るが世(よ)の習俗(ならひ)

なれば。伝聞(つたへきく)ものふかく怕(おそ)れて。申(さる)の刻(こく)過(すぎ)ては。彼(かの)池(いけ)の畔(ほとり)を過(よぎ)るものなく。離々(りゝ)

たる乱草(らんさう)人を招(まね)きて。暗蛩(あんきやう)霜(しも)に啼(なく)のみなれば。平九郎親子(おやこ)にはらめ

にも似(に)ず。むなしく彼処(かしこ)に立(たち)あかして。本意(ゐ)なく帰(かへ)る日も多(おほ)かりかゝる折(をり)し

も松稚丸(まつわかまる)は。従者(ともびと)〈○ズサ〉僅(はづか)に両(りやう)三人を将(い)て。終日(ひねもす)白川山(しらかはやま)に追鳥猟(おひとりがり)し。日もやゝ暮(くれ)

なんとするころ。山を下(くだ)らんとし給ふに。樵夫(きこり)とおぼしき男(をとこ)。松稚(まつわか)をつく/\み

て。この山中(やまなか)の西(にし)なる池(いけ)の畔(ほとり)には。近曽(ちかごろ)怪物(あやしきもの)の出るとて。申(さる)の刻(こく)よりたえて

山を下(くだ)るものなし。御覧(らん)給へ〓(ひかげ)も山の腰(こし)をめぐりて。けふも早(はや)暮(く)るゝときちかし

おなじくは巓(とほげ)の家(いへ)に歇(とまり)て。詰朝(あけのあさ)洛(みやこ)へ帰(かへ)り給へかしといふ。松稚(まつわか)點頭(うなづき)て。われ

もその事を聞(きか)ざるにあらず。しかれとも。人死(し)するときは三魂(さんこん)天(てん)に昇(のぼり)。六魄(ろくはく)地(ち)に

帰(かへ)り。ながく人間(にんげん)に〓(彳+尚)〓(彳+羊)(せうよう)すべき理(ことわり)なし。たま/\臨終(りんじう)の悪念(あくねん)を引(ひい)て。或(ある)は幻(まほろし)

に怨(うらみ)を述(のべ)。或(ある)は夢(ゆめ)に救(すくひ)を徴(もとむ)る事。ふるくよりいひ伝(つた)ふめれど。夛(おほ)くは狐貍(こり)の

わざくれにて。真(まこと)の〓(穴+↓免)鬼(べんき)にはあらず。われ今彼処(かしこ)を過(よぎ)る序(ついで)に。その真偽(しんぎ)を試(ため)

すべしと宣(のたま)へば。彼(かの)男(をとこ)呆(あき)れ果(はて)。いとわかくみえ給ふに。さても膽(きも)の太(ふと)き人に

こそおはせ。よしなきちからわざして。可惜(あたら)命(いのち)とられ給ふなといひかけて。走(はし)り過(すぎ)に

ければ。松稚(まつわか)は一人の従者(ともびと)をみかへりて。汝(なんぢ)はわれより先(さき)に歩(あゆ)みて箇様/\(かやう/\)にせ

よ。われその機(き)に臨(のぞみ)て謀(はかりごと)ありと仰(おふ)すれば。彼(かの)人はこゝろを得(え)て。遙(はるか)に走(はし)りぬけ

たり。松稚(まつわか)又残(のこ)る二人の従者(ともびと)をば。道次(みちのほとり)に退(しりぞ)け。その身(み)は樵夫(きこり)のみかよふ捷徑(ちかみち)

より。彼(かの)池(いけ)ちかく来(き)給へば。入相(いりあひ)の鐘(かね)遠(とほ)く聞(きこ)えて。高峯(たかね)の〓(風+爰)(こがらし)いと寒(さむ) し

平九郎はこの五七日。たえて人にあはねば。目今(たゞいま)松稚(まつわか)の従者(ともびと)が。只(たゞ)ひとり来(きた)

るをみて竊(ひそか)に歓(よろこ)び。はやくこれをしらすれば。亀鞠(かめぎく)つと出(いで)て薄(すゝき)の中(うち)に

立(たち)あらはるゝに。彼(かの)従者(ともびと)は。いたく怕(おそ)るゝおもゝちして。阿呀(あゝ)と叫(さけ)びつゝ迯去(にげさり)けり

平九郎は彼(かれ)が物(もの)を落(おと)さゞるを。いと本意(ほゐ)なく思ひけん。行(ゆく)ともしらず迹(あと)に

つきて。西(にし)の山路(やまち)を走下(はせくだ)りぬ。亀鞠(かめきく)はかく刧(おびやか)して。舊(もと)の処(ところ)へ躱入(かくれい)らんとする

に。思ひもかけず〓(うろ)の中(うち)より。狩装束(かりせうぞく)したる若人(わかうど)。奮然(ふんぜん)として跳出(おどりいて)。足(あし)を

揚(あげ)て〓(石+殷)(はた)と就(け)れば。亀鞠(かめぎく)は身(み)を轉(ひるがへ)して地上(ちしよう)に倒(たふ)れ。株(くひせ)に〓(月+害)(わきばら)を打(うた)せて。息(いき)も

たえ/\なれど。苦痛(くつう)を忍(しの)びて迯(のが)れ去(さ)らんとするを。若人(わかうど)やがて襟上(えりかみ)

〓(爪+國)(つか)み。膝下(しつか)に布(しき)て動(うごか)せず。この人は是(これ)松稚(まつわか)なり。松稚(まつわか)はひとり捷徑(ちかみち)より

亀鞠(かめきく)が後方(あとべ)に出(いで)。彼(かれ)が従者(ともびと)を驚(おどろか)す間(ひま)に入かはりて。〓(うろ)の中(うち)にかくらひ。既(すで)に

假幽霊(にせゆうれい)なりと認(みとめ)て輙(たやす)くこれを捕(とらへ)給へり。その時(とき)亀鞠(かめきく)は。虫(むし)の鳴(なく)ばかりなる

声(こゑ)して。恕(ゆる)し給へと叫(さけ)びければ。松稚(まつわか)から/\とうち笑(わら)ひ。汝(なんぢ)甚(はなはだ)膽太(きもふと)し。夫(それ)

暗(くら)きところには神明(しんめい)あり。明(あきらか)なるところには王法(わうほう)あり。かく怪(あや)しき打扮(いでたち)して

亀鞠(かめぎく)は山中村(やまなかむら)の

池(いけ)の端(はた)に立在(たゞすみ)て

假幽霊(にせゆうれい)となり

往来(ゆきゝ)の人(ひと)を刧(おびやか)して

物(もの)をとらんとせしに

忽地(たちまち)松稚丸(まつわかまる)にみ

あらはされていたく懲(こら)さるゝ

人を刧(おびやか)すは。物(もの)を取(と)らんとての謀計(たばかり)なるべし。今(いま)人(ひと)を追(お)ふて麓(ふもと)のかたへ走下(はせくだ)りしは

何(なに)ものぞ。なほ外(ほか)に支黨(どうるい)なき事はあらじ。とくいへ。とく告(つげ)よとて。いきまきあら

く責問(せめとひ)給へば。亀鞠(かめきく)偽(いつは)り悲(かなし)びて。事(こと)發覚(あらはれ)侍(はべ)れば迯(のが)るゝに言葉(ことば)なし。わらはは

滋賀(しが)の山里(やまさと)に住居(すまゐ)するもの也。家(いへ)は究(きはめ)て貧(まづし)さに。祖母(おほば)と母(はゝ)と三年(みとせ)以来(このかた)長(なが)き

病気(いたつき)に打臥(うちふ)しければ。父(ちゝ)なるものも活業(なりわひ)をなしがたく。又良薬(りやうやく)ありといへども。

貯禄(たくはへ)なければ用(もちう)る事(こと)かなはず。父(ちゝ)は祖母(おほば)の為(ため)に愁(うれ)ひ。わが身(み)は母(はゝ)の為(ため)に悲(かなし)び。

こは道(みち)ならずとしりながら。近曽(ちかごろ)此処(このところ)に怪(あやしみ)ありといふにつきて。親子(おやこ)夜(よ)なく

しのび来(き)て。慢(すゞろ)に人を驚(おどろか)し。携(たづさへ)たるものをとり落(おと)す事などあれば。拾(ひら)ひとりて

薬(くすり)の代(しろ)とし。祖母(おば)と母(はゝ)を養(やしな)ひ侍(はべ)り。目今(たゞいま)麓(ふもと)へ下(くだ)りしは。わらはが父(ちゝ)にて。外(ほか)に相語(かたらへ)る

人はなし。こは寔(まこと)に一旦(いつたん)の出来心(できごゝろ)に侍(はべ)り。かくみられ侍(はべ)るから。いよ/\この身(み)の過(あやまち)を

悔(くひ)ぬ。あはれ命(いのち)は助(たすけ)給へかしとて。誠(まこと)しやかに申ける。松稚丸(まつわかまる)つく/\聞(きゝ)て。汝(なんぢ)みつから

おもへ。人を刧(おびやか)し掠(かすむ)るはこれ賊(ぞく)なり。縦(たとひ)親(おや)の為(ため)なりとも。盗(ぬすみ)して孝(こう)ならんや。

楊香(ようきやう)父(ちゝ)を救(すくは)んとて虎(とら)と戦(たゝか)へば。猛虎(もうこ)靡然(ひぜん)として争(あらそ)はず。蔡順(さいじゆん)母(はゝ)の為(ため)に

悲(かなし)み告(つぐ)れば。赤眉(せきび)の賊(ぞく)もこれを殺(ころ)さず。故(ゆゑ)に至孝(しこう)は天地(あめつち)を感動(かんどう)す。汝(なんぢ)がなす

ところは。豕(いのこ)を負(おふ)てその臭(くさ)きを説(とく)を厭(いと)ひ。泥(どろ)を投(なげ)てその汚(けがれ)をいふを諱(いむ)のたぐひ

にて。親(おや)を賣(うつ)て賊(ぞく)をなしなほ賊(ぞく)なりといふ人を憎(にく)む。その罪(つみ)尋常(よのつね)の盗人(ぬすひと)にも

勝(まさ)れり。今こそおもひしるべけれ。といひ懲(こら)して引起(ひきおこ)し。はじめてその面(おもて)をみ給ふ

に。世(よ)に比(たぐひ)なき美人(びじん)なれば。心(こゝろ)の中(うち)ふたゝび驚(おどろ)き。人の心ざまばかり。貌(かたち)の醜美(しうび)〈○アシキヨキ〉に

もよらざるもの也。この女子(をなご)。もし富貴(ふうき)の家(いへ)に寵寓(ちやうぐう)を得(え)て。發跡(なりいづる)ことあらんには。

忽地(たちまち)に家(いへ)をも乱(みだ)し。國(くに)をも亡(ほろぼ)して。夥(あまた)の人の殃(わざはひ)を醸(かも)すべし。今これを殺(ころ)して

後(のち)の愁(うれ)ひなからしめんにはと尋思(しあん)し。刀(かたな)の鞆(つか)に手(て)をかけ給ひしが。いな/\われ

廷尉(ていな)〈○ハングワン〉にあらざれば。私(わたくし)に人を誅(ちう)すべき理(ことわり)なし。只(たゞ)いたく懲(こら)して久後(すくすゑ)を誡(いましめ)ばやと

思ひかへし。腰(こし)なる列卒索(せこなは)をとり出(いで)て。亀鞠(かめぎく)を榎(えのき)の幹(みき)へ縛着(しばりつけ)。墨斗(やたて)に筆(ふで)

を染(そめ)て。まづ彼(かれ)が額(ひたい)に鬼(おに)といふ一字(いちじ)を書写(かきうつ)し又左右(さゆう)の腕(たゞむき)をまくりあけて

 鬼鬼(おにおに)〈○ユウレイ〉にあらず。孝孝(こうこう)にあらず。もし心(こゝろ)もて真(まこと)の鬼(おに)となさば。身(み)も

 随(したがつ)て頭(かうべ)なき鬼(おに)とならん。

と書(かき)とゞめて。再(ふたゝ)び亀鞠(かめぎく)に對(むか)ひ。われは吉田少将惟房(よしだのしよう/\これふさ)の嫡子(ちやくし)松稚丸(まつわかまる)也。

けふ潜(しのび)やかに遊山(ゆさん)してのかへりなれば汝(なんぢ)を殺(ころ)さず。汝(なんぢ)みづから懺悔(さんげ)してかさね

てかゝる悪念(あくねん)を起(おこ)す事なかれと説示(ときしめ)し。遙(はるか)に東(ひがし)の方(かた)を招(まね)き給へば。二人の

家隷(いへのこ)は。少(すこ)し程(ほど)をおきて。道次(みちのほとり)に立在(たゞすみ)たるが。忽地(たちまち)西(にし)の山路(やまぢ)より走(はし)り来(き)つ。この

件(くだり)の事(こと)を。見(み)もし聞(きゝ)もして舌(した)を揮(ふる)ひ。且(かつ)松稚丸(まつわかまる)の智勇(ちゆう)を稱〓(口+賛)(せうさん)いたしたり。

さる程(ほど)に松稚(まつわか)主従(しゆうじう)は。麓(ふもと)を指(さし)て下(くだ)り給ふに。はじめ偽(いつは)り走(はし)りたる従者(ともびと)〈○ズサ〉も。

途(みち)に待(まち)あはして縁由(ことのよし)を聞(きゝ)。且(かつ)驚(おどろ)き且(かつ)感(かん)じ。こゝよりみなひとつになりて。家路(いへぢ)

へいそがしまいらせける。さても平九郎盛景(もりかげ)は。嚮(さき)に逃走(にげはし)る人の迹(あと)につきて。

遠(とほ)く麓(ふもと)へ下(くだ)りしに。終(つひ)にみうしなひて徒(いたづら)に立(たち)かへれば。思ひもかけず亀鞠(かめきく)は。額(ひたい)

に鬼(おに)といふ字(じ)を書(かゝ)れ。いたく榎(えのき)に縛(しばり)つけられてありしかば。驚(おどろ)き鞅掌(あはて)てその

索(なは)を解去(ときさり)。さま”/\勦(いたは)りて故(ゆゑ)を問(とふ)に。亀鞠(かめきく)は松稚(まつわか)に厳(きび)しく懲(こら)されたる

縁由(ことのもと)を審(つまびらか)に物(もの)がたり。左右(さゆう)の腕(たゞむき)を〓(かきあげ)てみせければ。平九郎歯(は)を切(くひしば)り。われ今

こゝへ立(たち)かへる途(みち)にて。一人(ひとり)の従者(ともびと)に。滋藤(しげどう)の弓(ゆみ)に猟矢(さつや)とりそえてもたし

又一人の従者(ともびと)が拳(こぶし)に鷹(たか)を居(すえ)さして。東(ひがし)へ過(よぎ)りたる若人(わかうど)は。彼(かの)松稚(まつわか)ならん。

彼(かれ)が父(ちゝ)惟房(これふさ)とは。昔(むかし)総角(あげまき)のころ義(ぎ)を締(むすび)て。兄弟(きやうだい)の因(ちなみ)さへあり。しかるにわが

身(み)。行盛(ゆきもり)の子(こ)として。弓矢(ゆみや)の家(いへ)に生(うま)れながら。法師(ほうし)となり果(はて)ん事の朽(くち)をしさ

に。叡山(えいざん)を逐電(ちくでん)し。かく命運(めいうん)微(つたな)くて。窶(やつ/\)しく世(よ)を経(ふ)るに。彼(かれ)は官職(くわんしよく)とし/\

に昇進(のぼりすゝ)みて。いと時(とき)めくも猖(ねたま)しきを。剰(あまさへ)これが小児(こせがれ)の為(ため)に。わが愛子(まなご)を喪(うしなは)

れんとし。飽(あく)まで恥(はぢ)みせられたるぞ恨(うらみ)なる。われもし立(たち)かへる事の今少(いますこ)し早(はや)かり

せば。彼(かの)小冠者(こくわじや)を立地(たちどころ)に。打殺(うちころ)してすてんものを。正(まさ)しく途(みち)にゆきあひながら。

しらで過(すぎ)ぬる悔(くや)しさよとて。躍(おどり)あがり/\。しばし罵(のゝし)りて已(やま)ざれば。亀鞠(かめぎく)はいよゝ

憤(いきどほり)に堪(たへ)ず。一声(ひとこゑ)叫(さけび)て仆(たふ)れしかば。平九郎周章(あはて)てさま”/\に剿(いたは)るに。やうやく

甦生(いきいで)たれど。蹴仆(けたふ)されし時(とき)。打(うち)たる〓(月+害)(わきばら)ふたゝび痛出(いたみいで)て。立居(たちゐ)も自在(じざい)ならず。かく

ては歩(かち)より家路(いへぢ)にかへらんこと覚(おぼ)つかなしとて。父(ちゝ)が肩(かた)に引かけつゝ。その夜(よ)

の明(あけ)がたに。辛(からう)じて西(にし)の洞院(とい)へ立(たち)かへりぬ。しかりしより亀鞠(かめきく)は頻(しきり)に心痛(しんつう)して。

ふたゝび長(なが)き病著(いたつき)にうち臥(ふ)しけり。こはみな積悪(せきあく)の報(むくひ)なりとは思ひもかけず。

親子(おやこ)は只顧(ひたすら)に世(よ)を憤(いきどほ)り。人を恨(うら)みて。非(ひ)を改(あらたむ)るのこゝろなし。わきて亀鞠(かめきく)は

松稚(まつわか)にいたく警(いましめ)られたる憤(いきどほ)りの。たえて忘(わす)るゝ隙(ひま)もあらねば。しば”/\歎息(たんそく)

し。わが身(み)十二分(ぶん)の顔色(がんしよく)はありながら。夜光(やくわう)を泥中(でいちう)に捨(すて)て終(つひ)に玉人(ぎよくじん)にあはず。

もし命(いのち)ありて時(とき)と威勢(いきほひ)を得(え)たらんには。惟房(これふさ)一家(いつけ)を殲(ころしつく)して。この恨(うらみ)を散(はら)さで

やはおくべき。とひとりごち。悪念(あくねん)さらに弥増(いやまし)ぬ。抑(そも/\)女子(によし)の美(び)にして邪智(じやち)ふかきは。

その毒(どく)砒霜(ひさう)より甚(はなはだ)し。人かの毒(どく)に觸(ふ)るゝときは。終(つひ)に死亡(しぼう)を脱(まぬか)れず。宣(うべ)なる

かな承久(じようきう)の播乱(はんらん)は。この亀鞠(かめきく)が三寸(さんずん)の舌(した)より起(おこ)りて。あさましや一院(いちいん)〈後鳥羽(ごとば)〉

は申すもさら也。中院(なかのいん)〈土御門(つちみかど)〉新院(しんいん)〈順徳(じゆんとく)〉みな遠(とほ)き嶼峯(しよね)に遷(うつ)され給ひぬ。只(たゞ)憎(にくみ)

ても憎(にくむ)べきは。古今(こゝん)一種(いつしゆ)の毒婦(どくふ)なり。