墨田川梅柳新書(すみだがはばひいちうしんしよ)巻之二

                                 東都 曲亭主人著

   三  光政(みつまさ)避雨(かさやどり)して赤縄(せきじやう)に繋(つなが)る

吉田少将惟房(よしだのしよう/\これふさ)の館(やかた)には。打(うち)つゞきて松稚(まつわか)梅稚(うめわか)出生(しゆつしよう)し給ひ。斑女前(はんによのまへ)亦(また)賢良(けんりやう)なるか。

春雨老女(はるさめのおうな)義(ぎ)に仗(より)てこれに傳(かしづ)き。粟津(あはづ)山田(やまだ)以下(いか)宗徒(しふと)の家隷(いへのこ)。君(きみ)に仕(つかへ)て私(わたくし)なければ。

当家(たうけ)の繁昌(はんぜう)このうへあらじとて。上下安堵(あんど)のおもひをなしぬ。しかるに叡山(えいざん)月林寺(ぐわつりんじ)

の仲圓(ちうゑん)阿闍梨(あじやり)は。惟房(これふさ)の親族(やから)にておはせしかば。常(つね)に消息(せうそく)して。その安否(あんひ)を問(とは)せ

給ふに。ある日山田三郎光政(やまだのさぶらうみつまさ)うけ給はりて。彼(かの)寺(てら)に参(まい)りけり。この序(ついで)をもて光政(みつまさ)

は。辛崎明神(からさきみやうじん)に詣(まうで)て立(たち)かへるに。赤塚(あかつか)といふ処(ところ)まで来(き)ぬる比及(ころおひ)みる/\雲(くも)の

たゞすまひ。山際(やまきは)いと闇(くらう)なりつ。時雨(しぐれ)のさと降来(ふりきた)りて。八(やつ)の好景(こうけい)忽地(たちまち)に没(ぼつ)し。風(かぜ)

又(また)いたく吹(ふき)あれて。琵琶(びは)の浪音(なみおと)名(な)にも似(に)ざれど。雨衣(あまぎぬ)さへもたせざれば。辛(からう)して

道(みち)の次(ほとり)なる酒店(さかや)の簷下(のきば)に避雨(かさやどり)し。しばし霽(は)るゝを待(まち)たりける。この酒店(さかや)のあるじ

が名(な)を軍介(ぐんすけ)と呼(よ)びて。こゝろざま勇(たけ)く膂力(ちから)人に勝(すぐ)れて。拳法(やはら)相撲(すまひ)を嗜(たし)み。義(ぎ)

に仗(より)ては財(たから)をも惜(をし)まず。頗(すこぶる)志気(こゝろざし)ある壮夫(ますらを)也。妻(つま)を浮草(うきくさ)と呼(よび)て近曽(ちかごろ)娶(めと)りぬ。又

妹(いもと)に鳰崎(にほざき)といふ処女(をとめ)ありて。よろづふつゝかならで。姿(すかた)は舊都(ふるきみやこ)の花(はな)にも劣(おと)らず。

膚(はだへ)は比良(ひら)の雪(ゆき)よりも清(きよく)て。年(とし)まだ二八とか聞(きこ)ゆれば。これが為(ため)に心(こゝろ)を焦(こが)し。

あはれわが妻(つま)にもがなと思ふものおほかり。この日軍介(ぐんすけ)は矢走(やばせ)の舩便(ふなたより)聞(きく)に。湖水(こすい)

のかたにゆきて。家(いへ)にしもあらねば。鳰崎(にほざき)は嫂(あによめ)浮草(うきくさ)とゝもに店(みせ)を守(まも)りてあるに。

山田(やまだの)三郎が年紀(としのほど)廿(はたち)をも過(すき)じとおぼしき美男(びなん)にて。太刀(たち)の飾(かざり)衣服(いふく)のいろ

なども。すべて女子(おなご)の愛(あい)すべき装(よそほ)ひなれば。芙蓉(ふよう)の眸(まなじり)に。いく度(たび)か秋(あき)の波(なみを)かよはし

つゝ。いと憎(にく)からず管待(もてな)して。少(すこ)しおくまりたる坐敷(ざしき)に請(せう)じ。袴(はかま)の裾(すそ)にかゝりたる。

蹴揚(けあげ)の泥(どろ)もわが手(て)して揉(もみ)おとし進(まゐ)らせけん。紐(ひも)さへむすぶ縁(え)にしとなりて。男(をとこ)は

従者(ずさ)〈○トモヒト〉にしらせじとし。女は嫂(あによめ)に覚(さと)られじとて。迭(かたみ)に恋(こひ)の関守(せきもり)をたばかり。しばし手枕(たまくら)なら

ぶるに。はやくも雲(くも)散(ち)り雨(あめ)歇(やみ)にければ。光政(みつまさ)も今はとて立出(たちいで)つゝ。浮草(うきくさ)にも思はざる庇(めぐみ)の

程(ほど)をよろこび聞(きこ)え。洛(みやこ)のかたへ帰(かへ)りゆけは。鳰崎(にほざき)は今さらに。あふにかひなき別(はかれ)をはかなみ。

なほ降(ふ)れかしとおもふ雨(あめ)のあやにくに晴(はれ)わたれど。胸(むね)のみいとゞ曇(くもな)めり。かくて後(のち)山田(やまだの)三郎

は。主(しゆう)の使(つかひ)してをり/\叡山(えいざん)に登(のぼ)る毎(ごと)に。軍介(ぐんすけ)が店(みせ)に憩(やすら)ひ。外(よそ)ながら鳰崎(にほざき)を。見もし見られ

もしつ。三(み)たびに一トたびは。いと稀(まれ)なるあふせもありて。潜(ひそか)に住家(すみか)をもしらせ名(な)をも告(つげ)て。

心くまなく相語(かたらひ)けり。兄(あに)の軍介(ぐんすけ)はかゝる事あるともしらず。ある日妻(つま)の浮草(うきくさ)に妹(いもと)が

事をいひ出(いで)て。彼(かれ)も今は年来(としごろ)になりぬれど。わが家(いへ)元来(もとより)貧(まづ)しければ。婿(むこ)をえらむ

よし

もなし。さればとて丈(たけ)伸(のび)たる若草(わかくさ)の。笆(かき)をも超(こえ)人も結(むす)ばじ。生涯(せうがい)をあやまつ事なきにしも

あらじ。とかくしかるべきかたへ給事(みやづかひ)させて。都(みやこ)の手(て)ぶりも見做(みならは)せたらんに。兄(あに)が家(いへ)に

あるには勝(まさ)るべし。この事何とか思ひ給ふといへば。浮草(うきくさ)もいと理(ことはり)にこそと應(いらへ)て。やがて鳰崎(にほざき)に

山田(やまだの)三郎

光政(みつまさ)辛崎(からさき)

のかへるさ

軍介(ぐんすけ)が店(みせ)に

笠(かさ)やどりして

鳰崎(にほざき)と契(ちぎり)

はめけり

情由(ことのよし)を聞(きこ)ゆるに鳰崎(にほざき)は彼(かの)人(ひと)のいよゝ遠(とほ)くなりぬらんかとて。いと物憂(ものう)くはあれど。他(あだ)し家(いへ)に

縁(え)にし結(むす)びて。夫(つま)定(さだ)めせられんよりは。なほ身(み)の幸(さち)也とおもひかへし。左(と)も右(かう)もとうま

引つゝ。潜(ひそか)に山田(やまだの)三郎が来(く)るをまちて。わがうへを告(つげ)しらせばやとおもへども。待(まて)ば又その

人も。この廿日あまりは影(かけ)だに見せず。軍介(ぐんすけ)はその日より。彼此(をちこち)人(ひと)に語(かた)らひて妹(いもと)が給事(みやづかへ)

すべき由(よし)をたのみ聞(きこ)ゆるに。ある人の〓(人+賓)(みちびき)を得(え)て。吉田少将惟房(よしだのしよう/\これふさ)の館(やかた)へ参(まひり)りつかふるに

縡(こと)定(さだま)りしかば。鳰崎(にほざき)歓(よろこ)び思ふ事限(かぎ)りもなく。寔(まこと)に光政(みつまさ)どのとは過世(すくせ)よりの縁(え)にし

にやありけん。洛(みやこ)にはやんごとなき御方(おんかた)もいと多(おほ)かるに。彼(かの)人(ひと)の主君(しゆくん)にておはします。吉田(よしだ)の家(いへ)へまいり仕(つか)ふるこそうれしけれ。とは思ひつゝ人にしらすべうもあらねど。何となくいそがれ

て。遂(つひ)に北白川(きたしらかは)の館(やかた)へまいりしかば。軈(やが)て斑女前(はんによのまへ)のほとりちかう召(めし)つかはれたり。しかれども

衣食(いしよく)足(た)る家(いへ)には礼節(れいせつ)ありて。男女(なんによ)席(せき)をおなじうする事あらざれば。はじめ思ひし

はそ ぞのめにて。光政(みつまさ)と面(おもて)あはする事かなはず。わがうへを告(つげ)遣(や)るべき便(たつき)もなく。只(たゝ)

山鳥(やまとり)の峯上(をのへ)を隔(へだて)て。いく夜(よ)か明(あか)すに異(こと)ならず従(いたづら)に両三箇月(りやうさんかつき)を過(すく)す間(はし)に。何となく

心持(こゝち)あしうおぼゆるは。思ひの雲(くも)の晴(はれ)ぬのみかは。月(つき)の障(さはり)も常(つね)ならず。只管(ひたすら)酸(すき)ものを

嗜(たし)みひと日/\とたつ程(ほど)に腹(はら)のあたりふくよかニなりしかば。もし赤塚(あかつか)にて彼(かの)人(ひと)と仮

初(かりそめ)の密事(みそかごと)に。情(なさけ)の種(たね)さへ宿(やど)せしかと思へば。われながら浅(あさ)ましく。いかて逢(あい)まくほし

けれど。絶(たえ)てよすがもなかりける。されども山田(やまだの)三郎はかゝらん事とも思ひがけねば。

ある日辛崎(からさき)のかへさに。軍介(ぐんすけ)の店(みせ)に憩(やすら)ひ。従者(ずさ)に昼食(ひるげ)たうべさせなどするに鳰崎(にほざき)が

見(み)えざれば。いと本意(ほゐ)なく立(たち)かへりて。この後(のち)月林寺(ぐわつりんじ)に到(いた)るごとに。ふたゝび三たびその

家(いへ)に立よりぬれど。終(つひ)に思ふ人にあはず。さてはいひし事も偽(いつは)りにて。彼(かれ)いづ地(ち)へか嫁(よめ)り

けん。鳰(にほ)の海(うみ)照(て)る月(つき)ならで。うつるに安(やす)き人  ろかなと恨(うらみ)ながら。うちつけ舟そぬ

行方(ゆくへ)を問(とひ)も定(さだめ)ず。やうやく思ひたえて。遂(つひ)に彼処(かしこ)へは憩(やすら)はずなりぬ。その頃(ころ)

斑女前(はんによのまへ)は松稚(まつわか)梅稚(うめわか)二人(ふたり)の幼(いとけなき)を将(ゐ)て。吉田(よしだ)の神社(やしろ)へ詣(まうで)給ふことありけり。家隷(いへのこ)には

松井源五純則(まつゐげんごすみのり)。山田(やまだの)三郎光政(みつまさ)。この日の倶(とも)をうけ給はり。春雨老女(はるさめのおうな)はさら也。鳰崎(にほざき)

も五七人の侍婢(こしもと)とゝもに冊(かしつ)きまゐらせ。被(かつぎ)目深(まぶか)にいと花麗(はなやう)に装(よそほ)ひて。白川(しらかは)の館(やかた)を

立出(たちいづ)るに。外(よそ)めづらしき女(をんな)どちは。鳥(とり)も笳(かご)を出(いで)て茂林(もりん)に入(い)り。魚(うを)も網(あみ)を漏(もり)て荷下(かか)〈○〉

に (あそ)ぶに異(こと)ならず。彼方(かなた)此方(こなた)みかへるに。はからずも鳰崎(にほざき)は。山田三郎と目(め)を注(みそ)はせ

迭(かたみ)にてはいかにと胸(むね)うち騒(さわ)げとも。人目(ひとめ)いやせければ。つゆばかりも言葉(ことは)を得(え)かけず

して空(むなし)く別(わか)れたり。かゝりし程に山田(やまだの)三郎は。鳰崎(にほざき)がおなじ館(やかた)にが給事(みやづかへ)する

ことを。はじめてしりて不審(いぶか)しみ。その夕(ゆふべ)つら/\思ふやう。わが母子(おやこ)。近曽(ちかごろ)当

家(たうけ)に召出(めしいだ)されて。君恩(くんおん)又莫大(ばくたい)なれども。いまたさせる奉公(ほうこう)をなさず。しかるに鳰崎(にほざき)

みづから禁(いましめ)すして情(じよう)を運(はこ)び。その事發覚(あらはれ)たらんには。忽地(たちまち)不忠(ふちう)の人となるべし。さは

結(むす)び果(はて)ぬ縁(え)にしなれども。〓(なましい)におもひたえよといつゞ。彼(かれ)いたく恨(うらみ)て殃(わさはひ)をや慝(ひき)いだ

すべき。人伝(つて)ならでこのよしを聞(きこ)えまほしと思ひつゝ。只管(ひたすら)こゝろを苦(くる)しめける。こゝに

又松井源五純則(まつゐのげんごすみのり)は。その心ざま粟津(あはづ)山田(やまだ)には遙(はるか)に劣(おと)りて。人の才(さい)を猜(そね)み。己(おの)が権(けん)に

誇(ほこ)り。財(さかう)をみては志(こゝろざし)を移(うつ)し。色(いろ)を好(この)みて義(ぎ)に違(たが)ふこと多(おほ)けれども。口に忠言(ちうげん)を吐(はき)て

君(きみ)を欺(あざむ)き。その権威(いきほひ)却(かへつて)彼(かの)二人(ふたりかへ)が上にあり。件(くだん)の源五(げんご)。斑女前(はんによのまへ)吉田詣(よしだまふで)の折(をり)しも。夥(あまた)の

侍婢(こしもと)をみるに。その顔色(がんしよく)鳰崎(にほざき)におよぶものなく。寔(まこと)に花中(はなのうち)の花(はな)なるに。彼(かれ)亦(また)山田(やまだの)

三郎におもひを運(はこむ)し。しば/\此方(こなた)をみかへりたるを。源五(げんご)はわれにこゝろありと

して。惑(まど)ひあくがれ。思ふ程(ほど)をも聞(きこ)ゆべき。媒(なかだち)もがなとて。しのび/\にその人をえら

むに。といふ童(わらは)扈従(こしよう)のいと怜悧(さかしき)が。許(ゆる)されて後堂(おく)へも常(つね)にまいるなれ。贈(おくり)たらば。何に

まれ欲(ほし)とおもふものを進(まゐ)らすべし。かならずしも人になしらせ給ひそと語(かたら)ひ課(おに)せ

て。袂(たもと)よりそでさし出(いだ)すを。群柏(むらがしは)受(うけ)とりて。こゝろ得(え)侍(はべ)りと應(いらへ)ものへず走(はし)りゆく

にぞ。源五(げんご)は世(よ)にもうれしげにて。既(すで)に恋(こひ)のかなへる心持(こゝち)せり。さて群柏(むらがしは)は彼(かの)艶簡(ふみ)

斑女前(はんによのまへ)

ある日松稚(まつわか)

梅稚(うめわか)を

将(い)て

吉田(よしだ)の神社(やしろ)へ

詣(まうで)給ふこのとき

山田(やまだ)の三郎は鳰崎(にほざき)か給事(みやづかへ)して

ある事をはじ

めてしりて

驚(おどろ)き怪(あや)しむ

を懐(ふところ)に挟(おさめ)て局(つぼね)のかたに到(いた)りて。忽地(たちまち)に思ふやう。鳰崎(にほざき)は雨夜(あまよ)の品定(しなさため)にて。山田(やまだ)の

三郎どのゝ事をこそいひも出(いづ)れ。源五(げんご)どのゝ事はたえて聞(きこ)えざるを。今(いま)明白(あからさま)に

艶簡(ふみ)のぬしを告げ(つげ)んには。投(なげ)かへさるゝこともあるべし。とかくこれは山田(やまだ)どのよりと偽(いつは)り

て。その回答(いらへ)をも聞(きゝ)てこそと深念(しねん)しつ。童(わらは)には似(に)げなくて。恋(こひ)にはいとおとなび

たり。かくて群柏(むらがしは)は鳰崎(にほざき)が傍(かたはら)に人なきとみて。親(ちか)く歩(あゆ)みより。こは山田(やまだの)

三郎どの

より進(まゐ)らせ給ふ也と潜(ひそめ)きて。源五(げんご)が艶簡(ふみ)をさし出(いだ)すを。鳰崎(にほざき)はとる手(て)も遅(おそ)しと

うち披(ひら)きて読(よむ)に。思ひの外(ほか)なる筆(ふで)のあやに。いと不審(いぶかし)ければ。やがて巻(まき)おさめつゝ

群柏(むらがしは)に対(むか)ひ。これは御身が偽(いつは)りにて。山田(やまだ)ぬしより贈(おく)り給ふにはあるべからず。誰(たれ)にか

たのまれ給ひし。もし明白(あからさま)にその人を聞(きこ)え給はずは。忽地(たちまち)に訴(うつたへ)あげて。つらき

めみせ侍(はべ)りてん。なほそれにても匿(かくし)給ふかとて。気色(けしき)あしう問(とひ)詰(つむ)るに。群柏(むらがしは)大に

迷惑(めいわく)し。実(まこと)はかゝる筋(すぢ)なりとて。源五(げんご)がたのみ聞(きこ)えし事。わがたばかりをも

私語(さゝやけ)ば。鳰崎(にほざき)聞(きゝ)てしばし尋思(しあん)し。今(いま)面(まの)あたりこの艶簡(ふみ)を披露(ひろう)せば。その罪(つみ)御身

がうへに係(かゝ)り給はん痛(いたま)しさに。これをば火(ひ)に投(いれ)て灰(はひ)ともなすべし。もしこの志(こゝろざし)をうれ

しとも思ひ給はゞ。わらはがたのみ進(まゐ)らする事を。うけ引給ふべきかといへば。群柏(むらがしは)

一議(いちぎ)にも及(およ)ばず。とく聞(きこ)え給へ。われその事をなし果(はた)しけんと答(こた)ふ。しからばこれを

山田(やまだ)ぬしへ進(まゐ)らせて給はれかし。又源五(げんご)どのとやらんが。返辞(へんじ)いかにと問(とひ)給はゞ。いまだ

便宜(びんぎ)なくてしりがたしと答(こたへ)給へ。かくて後(のち)わらはよきに計(はか)り侍(はべ)らん。よくこゝろ得(え)

給へと諭(さと)しつゝ。豫(かね)て便(たより)あらばとおもひて。写(したゝめ)おける一封(いつふう)に。又一筆(ひとふで)書(かき)そえて。これ

を群柏(むらがしは)に逓与(わた)しければ。うち點改(うなづき)て外面(とのかた)へ出(いで)ぬ。この夕(ゆふべ)山田(やまだの)三郎光政(みつまさ)は。宿寝(とのこもり)〈ソトマレバン〉

して寝(ね)よとの鐘(かね)をまちが に。ひとり燈(ともしび)に対(むかひ)て物(もの)の本(ほん)読(よみ)居(い)たるに。思ひも

かけず群柏(むらがしは)が手(て)より。鳰崎(にほざき)が消息(せうそく)を得(え)て。且(かつ)うれしみ且(かつ)いぶかしみ。封皮(ふうじめ)切(きり)

さきてこれをみれば。過(すぎ)にし頃(ころ)よりこの館(やかた)にまいり仕(つかふ)れども。告(つぐ)るに由(よし)なくて

徒(いたづら)に月日をおくりし事。斑女前(はんによのまへ)が吉田(よしだ)の神社(やしろ)に詣(まうで)給ひしとき。親(したし)く見(まみ)えながら。

一言(ひとこと)も聞えずして本意(ほゐ)なく別(わか)れし事など書(かき)つゞけ。さて赤塚(あかつか)にて。既(すで)に

御身の胤(たね)を懐胎(みごもり)侍(はべ)りつるを。しらでこゝへまゐりしに。今はや月もかさなりて。

いかにとてもすべなし。このごろの心苦(こころくる)しさ。さこそと察(さつ)し給へかし。とてもかくても露(つゆ)の玉(たま)

の緒(を)。絶(たえ)なんと思ひ定(さだめ)侍(はべ)るなど。いといと哀(あは)れに書(かき)とゞめ。又別(べち)に。くわしうは見参(げんざん)にて。

申べければ。今宵(こよひ)後園(おくには)の樹(こ)の枝(えだ)に。紙(かみ)を結(むす)びさげておき侍(はべ)るなり。それを栞(しをり)にして。

如此/\(しか”/\)の処(ところ)まで。潜(しのび)て来給へ。ころは甲夜(よひ)の間(ま)すぎてこそと書(かき)そえける。光政(みつまさ)

は首尾(はじめをはり)打(うち)かへしつゝ読(よみ)くだちて大に驚(おどろ)き。彼(かれ)既(すで)に有身(みこもり)て。月も重(かさな)りたらんには。

縦(たとひ)故郷(ふるさと)にての事にもあれ。密(ひそか)にかたらひたるものはわれなれば。その罪(つみ)いかでか

脱(のが)るべき。こはよしなき調載(たはふれ)して。この禍(わざはひ)を醸(かも)せしこそ越度(をちど)なれ。さればとて

彼(かれ)ひとりを苦(くる)しめんも。丈夫(ますらを)のこゝろにあらず。とまれかくまれ彼処(かしこ)に潜(しのび)て逢(あは)

ばやとおもひながら。その夜(よ)は障(さはり)はとありて。終(つひ)に果(はた)さず。鳰崎(にほざき)は。光政(みつまさ)が合図(あひづ)を

違(たがへ)たるをふかく恨(うらみ)み。次(つぎ)の日ふたゝび艶簡(ふみ)書(かい)したゝめ。彼(かの)群柏(むらがしは)を相語(かたらひ)て贈来(おくりこし)

たれば。山田(やまだ)も懈(おこた)るとにはあらねど。かゝる事にて黙止(もだ)せし也今〓(雨+↓月)(こよひ)はかならず逢(あふ)べし

と回書(へんじ)給して。又群柏(むらがしは)に逓与(わた)せしを。松井源五(まつゐのげんご)闕窺(かいまみ)てふかく怪(あやし)み。竊(ひそか)に彼(かの)童(わらは)を

物陰(ものかげ)に招(まね)きよせて。縁由(ことのよし)を詰問(なじりとふ)に。はじめこそいはざりけれ。いたく威(おど)されて終(つひ)に

脱(のが)るゝに言葉(ことば)なく。はじめは如此/\(しか”/\)なり。終(をはり)は箇様/\(かやう/\)と也と。おちもなく告(つげ)しらせ。

彼(かの)回書(へんじ)をさへとり出てみせにければ。源五(げんご)はうち開(ひら)きて読(よみ)もをはらず。忽地(たちまち)

恕(いかれる)気色(けしき)面(おもて)にあらはれ。数回(あまたび)大息(といき)吻(つき)ていへりけるは。汝(なんぢ)憖(なまじい)によしなき誑(たばかり)して。却(かへつ)て

彼等(かれら)に謀(はか)られたり。しかれば汝(なんぢ)はわが断腸(こひ)の仇(あた)なり。所詮(しよせん)刺(さし)ちがへて死(し)するの外(ほか)

なしといきまきて。刀(かたな)の〓(革+束)(つか)を握(にぎ)りもてば。群柏(むらがしは)驚(おどろ)き怕(おそ)れ。顔色(がんしよく)土(つち)のごとくに

なりて。只(ただ)恕(ゆる)し給へ/\とて泣(なき)にけり。源五(げんご)はこの形容(ありさま)をみてかゝ/\と打笑(うちわら)ひ。

再(ふたゝ)び声(こゑ)を低(ひくう)しつ。やよ群柏(むらがしは)ふかくな怕(おそ)れそ。こはわが戯(たはふ)れ也。なほ童(わらは)なる人を

憎(にく)しみて何とかせん。しかはあれど。今又たのみ聞(きこ)ゆるを。懲(こり)ずまになし果(はた)

さずは。そのたひは恕(ゆる)しがたし。承引(うけひか)んともうけ引(ひか)じとも。心(こゝろ)を定(さだ)めて回答(いらへ)給へ

とて。威(おど)しつ賺(すか)しつこしらぬれば。群柏(むらがしは)は命(いのち)とられんが悲(かな)しさに。おそる/\諾(うべ)なひ

しかば。源五(げんご)は額(ひたひ)をさしよせて。しばし私語(さゝやき)つゝ。軈(やが)て光政(みつまさ)が回書(へんじ)を忙(いそがは)しく巻(まき)

とめて返(かへ)し与(あた)へ。やをら内外(うちと)に立別(たちわか)れぬ。彼(かの)源五(げんご)何事をかさゝやきけん。しる

もの更(さら)になかりける。