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「声優の声」とは何か キャラと声と身体

■序:声優とは何か

声優とは、さまざまなメディアに声だけで出演する俳優のことである。日本における最近のサブカルチャーの文脈ではもっぱらアニメに声をあてる場合が注目されがちだが、ラジオドラマや海外ドラマの吹き替えを担当する声優もいる。近年ではゲームでも声優が活躍するケースが増えてきている。また声優としてのキャリアが短い俳優が声優に抜擢される場合もあり、「声優」とひとくちに言ってもその在り方は多様である。

いっぽうで伝統的な人形劇に声をあてる際(人形浄瑠璃の太夫など)は、一般には声優という言葉は使われない。これは伝統芸能の文脈と、近代的なメディアに要請されるかたちで登場したいわゆる声優の文脈とのあいだに距離感があるためだと思われる。だが機能だけに注目する場合、両者は類似していると言えるだろう。

人形浄瑠璃における太夫はほとんど一人で複数人の声を演じ分け、伴奏や情景描写までを太夫が担当する。たとえば人形浄瑠璃はこのような伝統的な形式のもとで様々な技を生みだしては受け継ぎ、表現を発展させてきたのだが、これと同様に近代的なメディアにおける声優もまた独自の文脈を培っている。

本論ではその「声優」とその「声」とがみずからを位置付け、また培ってきた独自の文脈がどのようなものなのかを概観する。

まずは無声映画と発声映画を対比しながら映像表現における声の役割を概説し、つづいてアニメにおける声優の声の在り方を扱う。そのうえで、伊藤剛による「マンガのリアリティ」の議論において重要な意味を持つ「キャラ」概念と声優の声との関わりについて論じ、マンガやアニメといった特定のメディアを超えた虚構的な「声」と身体の在り方を問い掛けていきたい。

■映像表現における声の役割

Inter Communication第58号(2006)に掲載された蓮實重彦の「思考と完成とをめぐる断片的な考察」の第7章は、「声と文字」と題されたF.キットラー批判である。

この断章においては「メディア論が陥りがちな抽象化と単純化」がもっぱら批判されているのだが、蓮實は主に次の2点に注目しつつその批判を行う。すなわち詩人マラルメの声が(当時録音技術があったと思われるのにも関わらず)残されていないこと、そしてエディソンの蓄音機の発明にも関わらず無声映画の発明から発声映画の登場までに30年もの時間を要したこと、である。

キットラーは、この2つの事実が指し示すイメージに対する「声の優位」を取りこぼし、そしてまた無声映画が表現しえた「模造されたもののリアルさ」をも無視してしまっている、と蓮實は批判を加える。

まず蓮實はキットラーの主張について「声が具現化する身体性はイメージによる再現とはくらべようもなく高いという彼の指摘はひとまず正しい」「声は、イメージと異なり、まさに身体そのものであるが故に、かえって触れがたい領域に身を隠しつづけている」と認める。

そのうえで、「私が話すとき、この操作の現象学的本質には、私は私が話している時間において私を聞く、ということが属している」(『声と現象』高橋充訳、理想社、146-147頁)という現実が、録音装置による声の再生を「揺るがせかねない」と指摘する。キットラーはこの、デリダが整理した現象学的な「声」の捉え方に依拠しようとしつつも、誤読していると蓮實はいう。この現象学的な「声」の捉え方によって、声の録音は人々に忌避されたのではないか、というのが蓮實の推測の重要な部分である。

蓮實によれば、声が禁忌された無声映画は「現前の形而上学」においては二義的な役割のみを許されていた。このことでかえって「模造品でしかないはずの無声映画は、リアルなものの模造というにとどまらず、いわば模造されたもののリアルさともいうべきものを、未知の体験として人類の感性に提示した」のだ。

対してキットラーは「これまでは分離されていたすべての情報の流れがデジタル的に統一された数値の羅列になってしまえば、どんなメディアも任意の別のメディアに化けることができる」という。だがあまりに早急に議論を進めるキットラーは、「無声映画からトーキーにいたる30年という時間的な偏差を、とるにたらぬ誤差としてほとんど無視」し、その結果「模造されたもののリアルさ」を完全に取りこぼしてしまう。

「マラルメが自分の姿を写真に撮らせながらも、自分の声は録音させなかった」ということだけから以上の議論をするのは苦しいのだが、映画的なものに対しての、そして「リアル」なものについてのキットラーの議論が、あまりに粗雑であるという指摘はじゅうぶんに妥当なものだろう。そして、ともあれ映像と「現前の形而上学」を関連付けて「模造されたもののリアルさ」に言及するくだりは蓮實の慧眼のいたりである。

だが、蓮實が主張するこの「模造されたもののリアルさ」の成立過程を認めるとしても、その後「声」を伴うことになった発声映画において映像表現が「模造されたもののリアルさ」を失ったと私たちはほんとうに言えるのだろうか。そもそも映像表現全般は、単なる「リアルなものの模造」におさまるものなのだろうか。答えはおそらく「否」だ。

発声映画において「身体そのものである声」がサウンドトラック(フィルムの横にある音声用のトラック)に刻まれ「触れがたい領域」から呼び出されるとき、無声映画において提示されていた「模造されたもののリアルさ」は「身体そのものである声」のいわば陰に回り込むだけだろう。

このとき問題は、「映像-視覚」と「声-聴覚」の単純な感覚における二項対立よりもむしろ、リアルさと身体をめぐり、より複雑なものになる。

■アニメにおける声

アニメとは、アニメーションという映像技法を使った映像表現のいちジャンルである。その定義には歴史的なもの、表現技法によるものなど多々あり、今後も確かなものは現れないだろう。ともあれ現在の商業的なアニメ作品の多くが、声優による声と効果音、そして背景音楽を付された「発声映画的なもの」であることに異論の余地はない。

前節の議論では「模造されたもののリアルさ」が焦点となっていたが、アニメは模造対象を忠実に模写する必要がない映像表現である。その初期から「模造されたもののリアルさ」を表現することがあるていど許容されてきたからだ。

アニメは「発声映画的なもの」ではあるが、たとえ「身体そのものである声」が伴っていることでリアリティを醸し出すとしても、単なる「リアルなものの模造」に収まることがむしろそもそも不可能なのである。どういうことか。

アニメはマンガの文脈と図像やストーリーを分有する過程で、そして産業的なリミテッドアニメの技法を洗練する過程で、発声映画においては後景化しがちな「模造されたもののリアルさ」を前景化したまま保持し、また声優の声によって「身体そのものである声」をも併せ持っている。しかしアニメ的なものにおける「声の身体性」は、いわゆる映画の同時録音における共時性を持ち得ないという(例外はありうるが)ジャンル的な規定により、伊藤剛が論じた「キャラ」における身体性と、声優を演じる者の身体性という、二重の身体性を持つ。

アニメにおける「声」とは、アニメを再生したときに聞こえだす「キャラ」の声である。ここでその「キャラの声」を聞くのは、アニメの物語内存在としての「キャラ」であると同時に、モニターの前で、アニメの図像を見ながら声優の声を聞く視聴者なのだ。彼らそして彼女らはどのような環境におかれているのだろうか。

グラモフォンの登場以降、そして無声映画の登場以降、テレビやヴィデオの普及があり、そして現在では携帯電話でのワンセグ視聴、インターネットを介した動画サービス、携帯式ゲームの流行など、音声とメディアとをめぐる関係性は圧倒的な多様さを持つ。だがその多様性にも関わらず、これらの諸メディアが一様に推し進めてきたことがある。それは「メディアを通した声による環境の飽和」だ。

人々の環境がさまざまなメディアを通した声によって飽和させられること。その政治的な問題は端的にはファシズムのプロパガンダやCMなどのサブリミナル効果の利用に直結するであろうが、それは今回の主な議題ではない。出版技術の進展による視覚的な環境の飽和にやや遅れて、ラジオやテレビによって伝達される声は人々の生活環境を満たすようになってきた。興味深いのはウォークマンやポータブルラジオやカーステレオによって、ユーザーが移動中でも自分が選んだ声を聞けるようになったことである(さらに興味深いことに、そして十分な留保が必要になると思われるのは、彼らは「声」を自ら選んでいるという認識をほとんど欠いているであろうということである)。

たとえば発展段階にある幼児が、家族の選んだ(あるいは偶然に選択された)テレビやラジオから流れてくる音声を環境として育てられる状況が現れている、ということ。あるいはもっとあと、幼稚園に通園する幼児が、母親の運転する車のカーステレオから流れる何かを聞くということ。そして日々の食卓を囲む家族で観るテレビのワイドショー。個々の家族が社会的要請によって「選ばされる」特定のテレビやラジオの音声が環境を満たしている。共働き世帯が増加し社会の流動性が高まるに伴い、家族や地域の隣人の声よりもメディアを通した声に親しむ人々が、大量に出現するに至る。

家族や隣人の声と同様に、あるいはずっとそれ以上に、メディアを通した声が、彼らにとってはリアルなものとなる。ラカンの鏡像段階理論において乳児が鏡に映る自分の姿から「自我」を形成するのと同じような過程を経て、彼らは、メディアを通して聞こえてきた声を自らのうちに響かせ、彼らの「超越論的声」を構成することになる。「対象a」として精神分析において重要な位置を占めていた「声」もまた、メディアに汚染されるのだ。

アニメに関わる議論に戻るならば、たとえば1990年代に流行し社会現象化したとも言われる『新世紀エヴァンゲリオン』で主人公の碇シンジ(声優:緒方恵美)が繰り返した「逃げちゃダメだ」という呟きを、このアニメの視聴者が日常の様々なシーンで反復することはよく知られている。この例に限らず、アニメのファンはアニメのセリフを頻繁に引用する。どのような意図で引用するかは状況ごとに異なるが、その都度、引用者は自らを「キャラ」としてそこに登場させる該当シーンを、陳腐化しつつ追体験する。アニメの声優による声の演技はこの際に追体験される該当シーンと引用者にとっての「キャラ」との陳腐化に深く、そして決定的に関わる。

文学に親しんだ人々は様々に小説の一節や詩歌の一篇を引用するし、もっと一般的に言ってテレビドラマやお笑いの人気番組のセリフやギャグを真似ることもよく見かけることに思われるかも知れない。教養人が文学作品の一部を体内化するように、テレビドラマやお笑いのセリフやギャグを真似ることで行われるコミュニケーションのように、アニメファンは声優の声色を真似、そして内面化しているのだ。鑑賞者の声は、おそらくこの過程で「声優の声」から不可逆的な汚染を被るだろう。

ところで押井守が監督した士郎正宗原作の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』では、意思を持つに至ったとされるプログラム(通称:「人形使い」)にハッキングされたヒト型の擬体が登場する。

物語は草薙少佐(声優:田中敦子)というキャラクターを主に中心に据えて展開する。草薙少佐は、「人形使い」と同じ製造元のヒト型擬体を使用するサイボーグである。『攻殻機動隊』の物語の終盤において、「人形使い」がハッキングした擬体を、この草薙少佐が追いつめ、互いの電脳を接続するシーンがある。ここで人形使いをハッキングしようとした草薙少佐は逆に人形使いからハッキングを受け、互いの擬体を交換してしまったような状況に陥る。

もっとも、このアニメを観賞している私たちにはそのような劇中で行われる草薙少佐の「電脳」と人形使いの「電脳」とのあいだの戦い(あるいは交感)は明示されない。状況を告げるキャラクターたちの「声」と、その発声のたびに動くキャラクターの「唇」から、以上のことが読み取られるのみである。これは声と図像とのあいだに同時録音的な共時性を持たないアニメにおいては自然なことだ。

重要なのはここで、もし声優が一人しかおらず、またその演技においてこの人形使いと草薙少佐という2つのキャラを演じ分けなかったとしたら、私たちがこの状況を読み取ることが(不可能ではないかも知れないとはいえ)非常に困難になるということである。つまりアニメを見る私たちは、それぞれの声優の演技を一つのキャラに振り分けて認識しているということだ。

これは先述の『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放映第22話において、惣流・アスカ・ラングレー(声優:宮村優子)がその精神の危機において別の声優によって声を演じられ「こんなの私じゃない!」と叫ぶシーンなどで明確に表現されている。

『攻殻機動隊』の押井監督は、上記のシーンを抽象的な別の仕方で電脳戦あるいは相互ハッキングを描くことも可能であったと思われる。だが敢えてそれを避け、ともすれば草薙少佐の一人芝居のようにも読める演出を行っている。また人形使いと融合したと思われる草薙少佐の電脳が少女の擬体に収められる物語の最後のパートにおいては、草薙少佐の声は初め坂本真綾の声で演じられるが、しばらくのちにある発言を受けて再び田中敦子の、つまり人形使いと融合する前の草薙少佐の声に戻る。このパートの解釈は開かれたままだ。ここでは次々節で議論する「一つのキャラを複数の声優が分有する」という可能性が生じている。

そしてまた上述した『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放映第22話では、その複数の声優によるキャラの分有可能性を、特定の声優が拒絶することによって生じる効果が狙われていたのだとも言えるだろう。

■「キャラ性」の分有

一般に、同一のキャラは一人の声優によって声をあてられると考えられがちである。だが同一のキャラを複数の声優が演じたり、それよりももっと多いケースとして、別々のキャラを同一の声優が演じることがある。その際に明らかになるのは、複数の声優が分有する「キャラ性」であり、また個々の声優が複数のキャラを横断する際にキャラのあいだでその「キャラ性」を分有させていることだ。

同一のキャラを複数の声優が演じる際に分有される「キャラ性」の具体例としては『攻殻機動隊』と『攻殻機動隊2.0』における人形使いを、それぞれ家弓家正と榊原良子の二人が演じ分けたこと、また放映が長期にわたるアニメ作品での声優が交代するケースなどがある。また、人気のアダルトゲームを原作として制作されるアニメが増えてきている状況で、ゲームとは異なる声優がアニメでキャスティングされる場合もある。これらのケースでは複数の声優による役柄の解釈は、共有されつつそれぞれ独自に演じられることになる。

また若干意味合いは異なってくるが『新世紀エヴァンゲリオン』のリメイクとおぼしき『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』のように、同じキャラを同じ声優が演じつつも、制作時期が隔たっていることで異化効果が生じるケースもある。

また『攻殻機動隊』と『攻殻機動隊2.0』の例では「人形使い」という、物語の設定上「性別がない、もしくは不特定」なキャラが「彼」と呼ばれるときに男性の家弓(『攻殻機動隊』)、「彼女」と呼ばれるときには女性の榊原(『攻殻機動隊2.0』)がキャスティングされており、監督の押井守の何らかの意図が読み取られる。

個々の声優が複数のキャラのあいだで「キャラ性」を分有する例としては、『涼宮ハルヒの憂鬱』で主役の涼宮ハルヒの声をあてた平野綾が演じた『らき☆すた』の泉こなたを挙げることができる。泉こなたがバイトをしているメイド喫茶に主人公グループが訪れ、涼宮ハルヒを彷彿とさせるキャラを演じる泉こなたを平野綾が演じるというシーンがある。ここでは「涼宮ハルヒ」と「泉こなた」とが別々の物語世界に属しながら、平野綾という声優を共有し、二つの物語作品のアニメ化によってそれぞれのキャラに一種の「共通点」が生じていることに気付かざるを得ない。

このような声優たちの演技によって生じる「キャラ性」は、アニメ作品(とゲームなどの関連作品)が大量に作成されデータベースに登録されていくうちにさまざまな属性と結びついてきた。ハリウッド映画や手塚治虫的なスターシステムと同様の構造を、アニメのデータベースにおいて「キャラ性」と声優とに二重化しつつ実現しているのだ。

■声、そしてキャラ

アニメは、動く図像によって表現されている。そこにおける「キャラ」とは何なのだろうか。ここで伊藤剛が定義したマンガにおける「キャラ」概念を導入しよう。

伊藤はマンガにおける「キャラ」を、「比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせる」、人格=キャラクターに先立つ「前キャラクター態」と定義している。

伊藤はこの「キャラ」概念と「フレームの不確定性」概念によって「マンガのリアリティ」を論じているのだが、マンガと同様に手塚に多くを負い、また並走するように互いに影響を与えあってきたアニメの文脈における「キャラ」と、そこにおける声優の声の役割とはどのようなものなのだろうか。

まず、やや唐突だがアニメやゲームのスピンオフ商品として流通することのあるドラマCDや、ラジオドラマ一般を思い浮かべてほしい。これらの例で容易に理解されるように、声優は声だけでキャラクター(登場人物)を演じることが可能である。このような声優の機能と、伊藤が論じた「マンガのリアリティ」を持つマンガ絵の文脈とが出会うところに、アニメ(およびアニメ的なものたち)の「キャラ」概念がある(そしてこの「キャラ」概念はアニメ・マンガ・ゲームといったメディアの枠を超えて分有されているだろう)。

マンガのように図像があるところでは「マンガのリアリティ」的にキャラ性が機能し、そして図像がないところでは声優の演じるキャラクター性が機能する。このキャラ性とキャラクター性との往復可能性が「マンガのリアリティ」に留まらないアニメ的なものに充満し「キャラ性」を生成させている。

伊藤の「マンガのリアリティ」ではその身体性が重要な問題となっていたが、アニメの「キャラ」性においてはまた異なった理由で身体は重要な問題となる。というのは、マンガという「声優を必要としない」メディアとは異なり、声優の声が一般的に求められるアニメにおいては、その声によって必然的に声優の「身体」が呼び起されてしまうからである。

女性のキャラには女性の声優、男性のキャラには男性の声優があてられることを思い浮かべれば、その声から「声優の身体」が呼び起されていることは容易に理解されるだろう。だが、事態はそう単純でもない。

多くの少年キャラに女性の声優が声をあてていることや、人気キャラの声優がアニメの図像だけでなく、みずからのグラビアをメディアに露出し、またそれがファンから強い拒否を招いたり、あるいは大いに歓迎されていることを考慮するとき、問題はより一層奥深いものとなる。

そしてさらに問題を複雑にするのは、声優が声をあてているのが、伊藤が論じている「マンガのリアリティ」によって育てられたマンガ絵というセクシャリティの不確定な存在感をもつ「キャラ」と往復可能性があるキャラクターであるということだ。このことによって声優たちの多くは性的な不確定性を文脈として得ることになる。そして性的に不確定な声優たちの声に汚染されたアニメ視聴者もまた、その文脈に連なっていくと考えることも可能になるのだ。

■身体なき声?初音ミクとその図像

「思想地図」vol.1において増田聡はインターネット上の動画サービス「ニコニコ動画」を中心に流行した「初音ミク」現象を例にとり、「バルトならぬわれわれは、身体なき声の背後にやはり「身体」の形象を探し求め、虚構キャラクターをその位置に当てはめることに満足する」と書いている。直後に伊藤の言葉を引用しているように、ここで伊藤による「キャラ」概念が想起されていると読むのは誤読ではないだろう。

増田も注目しているように、初音ミクの声を現役の声優が引き受けるにいたった経緯は興味深い。演じられる声のキャラクターと、声優自身のキャラクターとが乖離可能だということがその理由であると思われる。

だがもし増田がここで伊藤の「キャラ」概念を考慮に入れているのであれば、「初音ミク」の声を「身体なき声」と言うのは妥当ではない。初音ミクは「マンガ的リアリティ」における独特の「身体」を与えられ、また前節まで述べてきたような声優が生じさせる独特の「身体」性を併せ持っている。そこで薄れていくのは「人格」であり、身体性は変容しながら持続させているのだから。

よって「思想地図」における増田の表現は次のように言いかえられなければならない。「バルトならぬわれわれは、身体の図像と声優の声を結び付け、そこに身体を得たキャラの声を聞き満足する」と。

「初音ミク」においてはその図像が「彼女」の身体であったが、彼女を「調教」する者(プロデューサーと呼ばれる)たちの身体もまた彼女たちとともに「調教」されていった。また声優の声を日々聞きながら生活する私たちもまた、声優の声の演技に日常的に触れている分だけ、彼ら彼女らの声の響きに共鳴し、あるいは単に彼ら彼女らの声に学び(真似び)、その声を声優たちに似せているに違いない。ここで私たちが聞く私たちの声は私たちという「キャラ」の声である。そして私たちが想像している私たちの身体はその声を発している「キャラ」の身体なのだ。

そのとき私たちは、マンガのリアリティで現実世界を見るのとは違う、もちろんアニメやゲームのリアリティで現実世界を見るのではなく、マンガやアニメやゲームのリアリティを聞き、そして話し、歌うのだ。

■アニメとエクリチュール

ここまでの議論を整理しよう。まず「映像表現における声の役割」において蓮實重彦のキットラー批判を参照しながら、無声映画における「模造されたもののリアルさ」、そしてそこにおいて忌避された「身体そのものとしての声」に触れた。ここでの問題は、無声映画においてのみ「模造されたもののリアルさ」が表現されるのかということであった。

次に「アニメにおける声」において、模造対象を忠実に模写する必要がないアニメが、並行して文脈を紡いでいたマンガと図像やストーリーを分有し、またリミテッドアニメ独自の表現を洗練させていくことを述べた。このなかでアニメは声優の声を伴う「発声映画的」表現でありながら、前節で蓮實が無声映画だけに認めていた「模造されたもののリアルさ」を前景化させ続けていたと言えるだろう。

だがアニメにおける「声」は、いわゆる発声映画とは違い、図像と音声とのあいだに同時録音的な共時性を持たない。このことによってアニメキャラの「声」は、その図像的身体と、声優の身体と、多重化した身体性を得る。より複雑なことに、その声を聞くのは、アニメの物語世界内におけるキャラと、そのキャラを図像として見ている、モニターの前の視聴者の身体である。声をめぐりキャラの身体性は、物語世界内の図像的キャラと、声優と、視聴者とに分有されることを示した。

続いて今日の視聴者が置かれている、メディア的な声に飽和された環境を概説した。テレビやDVD、携帯のワンセグやインターネットの動画サービスによって、今日の視聴者はメディアを通して聞こえる声によってますます飽和する環境に身を置いている。

そのような環境において彼ら彼女らがアニメのセリフを引用するとき、その演技においては自らを「キャラ」とする該当シーンが陳腐化されて追体験される。この陳腐化に声優の演技が決定的に関わってくる。そして教養人が小説を内面化するように、アニメの視聴者は「キャラ」とアニメのシーンを内面化していく。

「キャラ性の分有」においては、「同一キャラを複数の声優で分有する」ケースと、「同一の声優が複数のキャラを分有するケース」を例にあげ、複数のキャラのあいだで「キャラ」性が分有される過程を示した。

「声、そしてキャラ」においては、伊藤剛の「マンガ的リアリティ」における図像的なキャラ概念を「アニメ的」な諸メディアに拡張するために「ドラマCDやラジオドラマでの声優の演技」を想定し、図像がなくても可能なキャラ性を示した。このことにより「キャラ性」は図像だけで生じうるマンガ的なキャラ性と、声優によるキャラ性とに多重化される。

そして声優が声で演じることで生じる「キャラ性」が、アニメにおけるリアリティに、マンガ的リアリティとは違った身体性を導入する。それは声優自身の性を声から不確定にし、そしてそれを聞く視聴者の性を複雑に、あるいは不確定にする。

「身体なき声?初音ミクとその図像」においては、増田聡の初音ミク論を引きつつ、キャラの図像的な身体によって声優たちの声と身体が視聴者の身体と声に共鳴していることを述べた。

ここまでで述べてきたように、アニメとマンガ(そしてアニメ的なものたち、ゲームやラジオドラマやドラマCD)とは図像とストーリーを分有しつつ、そこで声優と視聴者は声を媒介にするようにして身体をある意味で虚構化していると言えるだろう。あるいは声優と視聴者は、そのようにして虚構化されつつある身体を帯びながら生きているのだ。

このような身体は東浩紀の『動物化するポストモダン』に倣って、物語なき虚構身体=「データベース的身体」と呼ぶことができるかもしれない。

東が『動物化するポストモダン』で提示した「データベース型世界」のモデルは、J.デリダの思想から東が導いた「郵便的なもの」が可能にするものであった。ではこの東・デリダにおける「郵便的なもの」とはどのような概念なのだろうか。以下では手短に東浩紀のデリダ論『存在論的、郵便的』の議論を概説する。

東はデリダの議論を前期・中期・後期に分類する。前期デリダにおいては、主にフッサールにおいて頂点を迎える西洋の「形而上学=音声中心主義」を「パロールあるいはフォネー(声)とエクリチュール(文字)」の二項の隠喩対立によって批判する。これはいわば意識(声)と物質性(文字)の対立である。中期以降のデリダにおいては、前期デリダがエクリチュール概念を用いて批判したフッサール的「声」以外に、このフッサール的「声」を脱臼する別の「声」概念が登場するようになる。

まず『声と現象』のデリダ、前期デリダがどのようにフッサールの「声」を批判するエクリチュール概念を提示したかを東の整理を参照しつつ見てみよう。

(以下引用)

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『声と現象』のデリダが「声」のモデルに疑義を唱えるのは、経験的自我と超越論的自我とのその同時性、言い換えれば近さは厳密には保証されないと彼が考えるからである。その批判はきわめて単純な着想に基づいている。彼はまず、「私は考える」がひとつの「表現」であることに注目する。表現は必ずある支持材、つまり音や文字などに刻まれねばならない。しかし音や文字といった物質は「私」に対し外在的であるはずだから、表現「私は考える」それ自体は定義上、発話者である「私」の生死とは無関係に存在しうる。つまり表現「私は考える」は必ずある物質性をもつのであり、そのことで「私は考える」はつねに、それを瞬時に回収し「私は存在する」へと連結するはずの「自分が話すのを聞く」装置から逸脱してしまう。デリダはこの物質性をエクリチュールと名付けた。

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(以上引用終わり)

だが、東はさらに第二、第三の「声」を区別する。第二の「超越論的シニフィアン-否定神学システムを開くハイデガー的な呼び声」と、そして第三の「形而上学システムと否定神学システムとをともに脱臼する契機としてのデリダ的な呼びかけ」である。

後期デリダによって文脈に応じ様々な隠喩で示されるこの第三の声を、東は「郵便-誤配システム」における「不可能なもの」つまり「幽霊」として総称する。この「幽霊」の複数性と能動性が後期デリダにおいて特権的な重要性を持つ、というのが『存在論的、郵便的』の中心的な主題である。

この「幽霊」の観念は前期デリダ的な「声・エクリチュール」の隠喩対立と、後期デリダ的な「電話網に接続された無数の留守番電話」「行方不明の郵便物が蓄積されるDead Letter Office」といった隠喩によって支えられている。これに関する東の解説を以下に引用する。

(以下引用)

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ベニントンが注意を促すように、デリダは「生」にあらかじめ侵入する死(不可能なもの)の契機をしばしば機械の隠喩で指示してきた。60年代の彼によれば「機械とは死である」し、またその「働きは、それが自らのなかに純粋な喪失を書き込むという点において、思考不可能なものであるだろう」。電話の隠喩もまたその一例であり、そのかぎりで前期の隠喩対立に属している。事実「ユリシーズ・グラモフォン」でデリダは、「電話的なテクネーは声の内部で機能し」、「声(フォネー)の内部に遠さ、距離、差延、空間化を刻み込む心的な電話性は、また同時に、自らに語る独語を設立し、禁止しかつ混乱させる」と述べている。ここでは「電話」とはエクリチュールの別名にすぎない。

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幽霊、つまり「死んだ=行方不明dead」存在が潜在的に存在し続けうる空間。(中略)その空間は「ユリシーズ・グラモフォン」では電話網に接続された無数の留守番電話を、また「送付」では行方不明の郵便物が蓄積されるDead Letter Officeを隠喩として語られている。この想定は前期の隠喩対立からは導かれない。だがそれは、幽霊=再来するものについて思考するためには不可欠な契機である。逸脱したものが留保される空間の導入こそが、その回帰を可能にするはずだからだ。

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(以上引用終わり)

さて、東は「『声と現象』は「エクリチュール」の非現前性、つまり幽霊的な非世界性を、徹底して超越論的な手続きで導き出した。したがってその非世界性は、経験的な条件によりたやすく引き起こされるものではない。それゆえさまざまなメディア装置、例えばテープレコーダやヴィデオ、さらにヴァーチュアル・リアリティの登場などにより主体の現前性や同一性が解体されるという議論に対しては、私たちは原則的に慎重でなければならない」と述べている。

その東がほぼ同型の隠喩構造としてのちに提示するのが「シミューラクルとデータベース」のオタク的な消費構造であった。この消費構造において他の萌え要素と同様に「声優の声」はシミュラークルとデータベースのいずれにも関わるものとなる。

なお、このようにメディアと深く接続し合う私たちのリアリティについては、IRCAMの元所長でデリダの直系の弟子のひとりに数えられるB.スティグレールの「一般器官学」、そして単なる「身体の延長」としてではない楽器と身体との関連を論じたP.サンディやB.セーヴの議論がある。

今後の課題としてこれらの議論を引きつつ、声優がアニメやゲームの主題歌を歌うこと、そしてその歌を聴き、またそれとともにオタク(オタク的な人々、あるいはオタク化した人々)が歌うこと、などの問題を展開していきたい。また、「キャラ性」と歌、あるいは図像と声との関連で、増田が「思想地図」vol.1における論文でごくわずかに触れている「ビジュアル系」の問題も展開しうると思われる。これらの問題についても稿をあらため論じたい。