五  亀鞠(かめぎく)俳優(わざおき)して賊僧(ぞくそう)を欺(あざむ)く

こゝに亦(また)曩(さき)に叡山(えいざん)月林寺(ぐわつりんじ)に登(のぼ)りて。沙弥(しやみ)となりたる行稚(ゆきわか)は。成長(ひとゝなる)にしたがひて。

心ざまいよゝ正(たゞ)しからず。師父(しふ)の教誡(きやうがい)をも用(もち)ひずして。行(おこな)ひ放(ほしひまゝ)なれば。親(したしき)も疎(うと)きも

憎(にくみ)おもはざるものなし。その身(み)平家(へいけ)の嫡流(ちやくりう)朝敵(ちやうてき)行盛(ゆきもり)の子にしあれば。とく喪(うしなは)るべき

首(かうべ)なるを。惟通(これみち)に継(つが)れたれば。心(こゝろ)を菩提(ぼだい)の道(みち)に委(ゆだね)。眼(まなこ)を寂滅(じやくめつ)の教(をしへ)にとゞめなて。なき

父母(ちゝはゝ)の後世(ごせ)。一門(いちもん)の冤魂(べんこん)得脱(とくだつ)をもはかるべきに。出家人(しゆつけにん)の作行(さぎやう)をつゆばかりも

なさずして。酒(さけ)を嗜(たし)み色(いろ)に惑(まど)ひ。年(とし)十七といふ秋(あき)に。辛崎(からさき)の農家(のうか)。何がしが女児(むすめ)を

誘出(さそひいだ)し。往方(ゆくへ)もしらずなりかけり。こは惟通(これみち)の病(びやう)死せしころなれば。彼(かの)家(いへ)より探索(さがしもとむ)る

事なども。思ふ程(ほど)にはせざるによりて。輒(たやす)く脱(のが)れ課(おはせ)て。彼(かの)女子(をなご)を携(たづさへ)。しばし信濃

路(しなのぢ)に足(あし)をとゞめたるに。元来(もとより)その性(さが)便佞(べんねい)なれば。彼(かの)国(くに)の住人(ぢうにん)仁科二郎平盛遠(にしなのじらうたひらのもりとほ)

といふものゝ庇(めぐみ)を稟(うけ)。遂(つひ)に盛遠(もりとほ)が義子(こぶん)となりて。仁科平九郎盛景(にしなへいくらうもりかげ)と名告(なのり)。次(つぎ)の

年(とし)鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)きて。只顧(ひたすら)奉公(ほうこう)を望(のぞみ)けるに。ある人の吹挙(すいきよ)によりて。執権(しつけん)義時(よしとき)朝臣(あそん)

の舎弟(しやてい)。北條相模守時房(ほうでうさがみのかみときふさ)の御内(みうち)に召(めし)くはえられ。こゝにて子(こ)ども二人(ふたり)まで出生(しゆつしやう)

すしかるに家子(うひこ)惣太(そうだ)九才。女児(むすめ)亀鞠(かめぎく)七才なりけるころ。盛景(もりかげ)親子(おやこ)忽地(たちまち)鎌倉(かまくら)

を追放(ついほう)せらる。その故(ゆゑ)いかにと尋(たづぬ)るに。彼(かの)平九郎盛景(へいくらうもりかげ)。年来(としごろ)身(み)の行(おこな)ひよからず。

しば/\若殿原(わかとのばら)を。大礒(おおいそ)化粧坂(けはひざか)の遊里(ゆうり)に誘引(いざなひ)しかば。これが為(ため)に財(たから)を喪(うしな)ひ。色(いろ)に溺(おぼ)

れて奉公(ほうこう)等閑(なほざり)なるもの夥(あまた)なり。こはみな仁科平九郎(にしなへいくらう)が所為(わざ)也と衆評(しゆひやう)一決(いつけつ)

せしをもて。かゝるもの召仕(めしつかは)れんには。士庶(ししよ)の風俗(ふうそく)ます/\乱(みだれ)なんとて。俄頃(にわか)に追放(ついほう)

せられたり。されど年来(としごろ)貪(むさぼり)たる財(たから)少(すくな)からねば。駿河(するが)なる喜瀬川(きせがは)の郷(さと)に居(きよ)を

卜(しめ)て。女児(むすめ)亀鞠(かめきく)に歌舞(かぶ)俳優(わざおき)を做(なら)はせ。ゆくすゑはその色(いろ)をもて。世(よ)を安(やす)くわた

らんとはかるに。家子(うひこ)惣太(そうだ)は幼少(いとけなき)より膽(きも)太(ふと)くて。動(やゝも)すれば。友(とも)だちとおあらがひを

しはだし。おのれに年(とし)の勝(まさ)れるにも傷(きずつ)けなどし。又常(つね)に父母(ちゝはゝ)の金銭(きんせん)を盗出(ぬすみいだ)して。

口腹(こうふく)の為(ため)に用盡(つかひなく)し。後(のち)には他(ひと)に借(か)りて返(かへ)す事なければ。その懈(おこたり)みな父母のうへ

に係(かゝ)りて。これを償(つくな)ふに少々(しよう/\)の事にあらず。佞奸邪智(ねいかんじやち)なる平九郎すら。わが子(こ)の

悪行(あくぎやう)に呆果(あきれはて)。ある日懲(こら)さん為(ため)にいたく打擲(ちやうちやく)せしを。惣太(そうだ)はふかく恨(うらみ)けん。その夜(よ)

手ぢかなる五両あまりの金(かね)と。父(ちゝ)平九郎が行稚(ゆきわか)と呼(よば)れしむかし。月林寺(ぐわつりんじ)にて祝

髪(しゆくはつ)せしとき。行盛(ゆきもり)の紀念(きねん)なりとて。惟通(これみち)より相傳(さうでん)したる。備前(びぜん)の家次(いへつぐ)が。自他

平等(じだびやうどう)即身成仏(そくしんじようぶつ)の戒刀(かいとう)を盗出(ぬすみいだ)し。いづ地(ち)ともなく走去(はしりさり)て。ふたゝび帰(かへ)らず。こは惣太

が年(とし)才十二の春(はる)なり。父(ちゝ)もこれに驚(おどろ)きて。普(あまね)くその往方(ゆくへ)を索(たづね)しかど。たえて

音(おと)づれあらざれば。母(はゝ)は只顧(ひたすら)憂事(うきこと)に思ひほそり。長(なが)き病著(いたつき)に。貯禄(たくはへ)も残(のこ)り ゝけ

なく。遣果(つかひはた)せるかひなくて。死出(しで)の旅路(たびぢ)に赴(おもむ)きしかば。平九郎は妻(つま)と愛子(まなご)をうし

なひて。さすがに心ぼそくやありなん。ます/\亀鞠(かめきく)を慈(いつくし)み。只(たゞ)その成長(ひとゝなる)を

たのみに年月のたつを待(まち)わびぬ。さる程(ほど)に亀鞠(かめきく)は。立舞(たちまふ)をもはやく熟(じゆく)し。眉(まゆ)は

初春(はつはる)の柳葉(やなきは)に似(に)て。雨(あめ)の恨(うらみ)雲(くも)の愁(うれひ)を含(ふくみ)。顔(かほ)は三月の櫻(さくら)に異(こと)ならず。風(かぜ)の情(なさけ)

月の意(こゝろ)を蔵(かく)せり。寔(まこと)にその容止(かほばせ)の勝(すぐ)れたる事鎌倉(かまくら)はいふもさら也。洛(みやこ)にも又類(たぐひ)

仁科(にしな)平(へい)九郎盛景(もりかげ)

喜瀬川(きせがは)に隠居(いんきよ)して

女児(むすめ)亀鞠(かめぎく)に歌舞(かぶ)を

習(ならは)しむ家子(いへこ)惣太(そうだ)

友達(ともだち)に痍(きず)つけなど

して悪行(あくぎやう)日々(ひゞ)に

つのりける

あらじとみゆるにぞ。三五の秋(あき)の半(なかば)より。白拍子(しらびやうし)といふもにになりて。父(ちゝ)を養(やしな)ふ便(たより)と

せり。いぬる建久(けんきう)年中(ねんぢう)。この喜瀬川(きせがは)に亀鶴(かめづる)といふ白拍子(しらびやうし)のありけれど。それには

なほ遙(はるか)に勝(まさ)りて。このころはいと稀(まれ)んる田楽(でんがく)刀玉(かたなだま)など。すべて俳優(わさおき)をもよくし。

鬼女(きぢよ)怨霊(おんれう)に打扮(いでたつ)ときは。花(はな)の顔(かほ)忽地(たちまち)に。いとおどろ“/\しく。真偽(しんぎ)を誤(あやまつ)ばかりなれば。

その名(な)都鄙(とひ)にかくれなく。これが為(ため)に心蕩(こゝろとろけ)。魂(たましひ)を奪(うば)るゝもの少(すくな)からず。亀鞠(かめきく)はかく姿(すがた)

こそ美麗(みやびやか)なれ。心ざまのよからぬ事は。父(ちゝ)にも兄(あに)にも芬(おと)らざれば。只(ただ)銭(ぜに)のるに媚(こび)を

献(けん)じて。実(まこと)の情(なさけ)は露程(つゆほど)ものらぬに。なほ暁(さと)らずしてその〓(弓+京)(わな)に係(かゝ)り。産(さん)を破(やぶ)り家(いへ)を

喪(うしな)ふ。不孝(ふかう)の子弟(わかうど)いと多(おほ)かりし程(ほど)に。その親(おや)たるものふかく憤(いきどほ)り。所詮(しよせん)鎌倉(かまくら)に

聞(きこ)えあげて。亀鞠(かめきく)を追(お)ひうしなふべし。もて彼(かの)親子(おやこ)があらそひ阻(こばま)ば。縦(たとひ)闇撃(やみうつ)に

しても。この禍神(まがつみのかみ)を禳(はらは)めなど。かしがましく罵(のゝし)りあへれば。平九郎もれ聞(きゝ)て

冷笑(あざわら)ひこゝにて世(よ)をわたらずは。月日は外(よそ)に照(て)らぬものかは。さらば洛(みやこ)へ上(のぼ)りてこと。

運(うん)の程(ほど)をもはかるべけれ。今は夥(あまた)の年(とし)を経(へ)たれば。洛(みやこ)の人もわれを行稚(ゆきわか)なりと。認(みし)

れるものはあらじと尋思(しあん)し。俄頃(にわか)に家財(かざい)を沽却(うりしろな)して。亀鞠(かめきく)を轎(かご)に乗(の)せ。飽(あく)まで

廣言(くわうげん)吐(はき)ちらしつ。遂(つひ)に喜瀬川(きせがは)を起程(たびだち)ければ。凡(およそ)子(こ)をもたる人として。これを歓(よろこば)さるは

なかりしとぞ。かくて亀鞠(かめきく)親子(おやこ)は。その日一里(いちり)あまりゆきて。薩陀山(さつたやま)のこなたなる。倉

澤(くらさは)といふ処(ところ)に宿(やど)かりたるに。隣(とな)れる坐敷(ざしき)に。弱(よわ)き旅僧(たびそう)とおぼしきが二人(ふたり)来(き)て。假

初(かりそめ)に路(みち)の疲労(つかれ)を問慰(とひなぐさめ)しが。彼(かの)僧(そう)やがて紙門(からかみ)を細(ほそ)やかに開(ひら)き。面(かほ)のみ半(なかば)さし出て

いへりけるは。みまゐらするに近曽(ちかごろ)喜瀬川(きせがは)に名(な)たゝる。白拍子(しらひやう)の君(きみ)にこそ。愚僧(ぐそう)等

三嶋(みしま)の神社(やしろ)のあなた。何がし寺(てら)の法師(ほふし)なれば。日来(ひごろ)彼(かの)郷(さと)をも行(ゆき)かひするをもて。

はやくその人とはしれり。さて親子(おやこ)づれにて旅(たび)だち給ふは。物詣(ものまうで)なるべし。いづれの

霊場(れいぢやう)へか参(まい)り給ふと問(とふ)に。平九郎答(こたへ)て。否(いな)さるたのしき旅(たび)にもあらず。洛(みやこ)はわが故郷(ふるさと)

なれば。今度(こんど)思ひたちて上(のぼ)るにて何といふ。両僧(ふたりのそう)聞(きゝ)てさは遙(はる)けき路(みち)也。わが身

出家人(しゆつけにん)にあらずは。尾張路(をはりぢ)まではもろともに赴(おもむ)くべきに。形(かたち)に恥(はち)てかゝらん事は

影護(うしろめた)し。洛(みやこ)はよろづ風流(みやび)たれば。いよゝ世(よ)わたるかひもありて。息女(そくぢよ)の名(な)も猶(なほ)高(たか)く聞(きこ)え

なん。今〓(雨+↓月)(こよひ)は江口(えぐち)に宿(やど)りを求(もとめ)し。圓位法師(ゑんゐほふし)が風情(ふぜい)ありなどうち (たつふ)れ。とく

睡(ねふり)給へといひうけつゝ。紙門(からかみ)を舊(もと)のごとくに引立(ひきたて)て。おの/\臥房(ふしど)に入にける。

平九郎も亀鞠(かめきく)も。合宿(あひやど)は法師(ほふし)なるにこゝろ放(ゆる)し。啓行(かしまだち)せしその日なれば。

いたく疲労(つかれ)て熟睡(うまね)したるに。忽地(たちまち)亀鞠(かめきく)が叫苦(あゝとさけぶ)一声(ひとこゑ)に。平九郎驚(おどろ)き覚(さめ)。

岸破(がば)と起(おき)てみかへるに。燈(ともしび)滅(きえ)て善悪(あやめ)をわかねば。大に焦燥(いらだち)ながら。彼此(をちこち)を

かい探(さぐ)り。亀鞠(かめきく)/\と呼寤(よびさま)せども。たえて應(いらへ)なきに。ます/\周章(あはてふためき)。鄰(とな)れる紙門(からかみ)に探(さぐり)よれば。人の出入(いでい)る程(ほど)もしきてあるにこゝろ疑(うたが)ひ。衝(つ)と入りてよく

視(み)れば。縁(ゑん)づらの遣戸(やりど)さへ明(あけ)はなちてあり。天(そら)は結陰(かきくもり)たれど。月も出(いで)ぬと

おぼしくて。彼処(かしこ)より引(ひ)くあかりに。なほ四隅(すみ”/\)を尋(たづぬ)れば。二人の僧(そう)も臥房(ふしど)には

あらず。さては者奴等(しやつら)は念秩(すり)にてありしを。暁(さと)らずして女児(むすめ)を奪(うば)ひ去(さ)られてこそ朽(くち)をし

けれ。いで追(おひ)とめんといきまくを。主人(あるじ)もれ聞(きゝ)けん。燭(ひ)を照(てらし)て忙(いそがは)しく走(はし)り来(きた)れり。

平九郎みて。如此々々(しか”/\)の事ありと告(つげ)もあへず。刀(かたな)を取(とり)て追(おは)んとするを。行李(こり)さへ

盗去(ぬすみさ)られて。一物(いちもつ)も遺(のこし)とゞめねば。ます/\憤(いきどほり)に堪(たへ)ず。裳(もすそ)を〓(かゝげ)て。直(たゞ)に庭門(にはくち)より走

出(はしりいづ)るに。こゝより脱去(のがれさり)たりとみえて。一帯(ひとかは)の草(くさ)みな踏(ふみ)わきてありしかば。これを栞(しをり)に

追蒐(おつかけ)つゝ。薩陀山(さつたやま)の麓(ふもと)に到(いた)れば折(をり)しも雲月(くもつき)を吐(はき)て。路(みち)もいとあかきに。件(くだん)の賊僧(ぞくそう)。

一人は亀鞠(かめぎく)を小腋(こわき)に抱(いだ)き。一人は平九郎が行李(こり)を背負(せお)ひ。飛(とぶ)が似(ごとく)に彼山(かのやま)へ走(はし)り

登(のぼ)るを吐嗟(あいや)とこゝろあせれども。遙(はるか)に後(おく)れたれば。左右(さう)なくも追著得(おひつきえ)ず。亀鞠(かめぎく)は

心飽(こゝろあく)まで逞(たくまし)ければ。かゝる時(とき)にも敢(あへて)さわらず。かき抱(いだか)れつゝ髻結(もとゆひ)ふり解(とき)て。丈(たけ)なる

黒髪(くろかみ)を乱(みだ)し。みづから小指(こゆび)を嚼切(かみきり)て。その鮮血(ちしほ)をもて満面(まんめん)とあやしう彩色(いろどり)

とるを。賊(ぞく)はしらずして山の半(なかば)なる。地蔵堂(ぢぞうだう)のほとりまで来(き)にけり。この所(ところ)路(みち)

仁科(にしな)平九郎洛(みやこ)へ

上(のぼ)らんとて薩陀山(さつたやま)

の麓(ふもと)倉沢(くらさは)といふ

処(ところ)に歇(とま)りし夜(よ)

二人の賊僧(ぞくそう)に

行李(こり)と女児(むすめ)

亀鞠(かめぎく)を

奪(うば)ひ

去(さ)らる

狭(せま)くして。雄手(ゆんで)は青山峨々(せいざんがゞ)と聳(そびへ)。雌手(めて)は蒼海(そうかい)渺々(びやう”/\)として。水際(みぎわ)に至(いたり)て数百

丈(すびやくぢやう)。みるにさへ目眩(めくるめ)くを。彼等(かれら)はおうもせず。こゝに来(き)たりてはじめて足(あし)を停(とゞ)め。

抱(いだけ)る亀鞠(かめきく)を扛(かき)おろせば。こはいかにさしも美(たは)やかなりし姿(すがた)も。忽地(たちまち)悪鬼(あくき)羅刹(らせつ)と

変(へん)じて。引も裂(さく)べき勢(いきほ)ひなれば。二人の賊僧(ぞくそう)驚(おどろ)き怕(おそ)れ。脱(のが)れ走(はし)らんとする

とき。一人岨(そは)を踏外(ふみはづ)し。〓地(はた)と倒(たふ)れて滾落(ころびおつ)るを。一人扶起(たすけおこ)さんとて。その

手(て)を楚(しか)と握(にぎり)あひしが力及(ちからおよ)ばすしてもろともに。底(そこ)さへしらぬ海原(うなばら)へ真逆(まつさか)さま

にぞ陥(おち)たりける。亀鞠(かめきく)は思ふ程(ほど)に謀課(はかりおはせ)て莞〓(人+↓小)(につこ)とうち笑(え)み。裳(もすそ)の塵(ちり)をうき

拂(はら)ひて。舊(もと)の路(みち)へ立帰(たちかへ)らんとするに。こや/\と呼(よび)けるを。誰(た)そとみかへれば人も

なし。いと怪(あや)しと思ひながら。又走(はし)り去(さ)らんとするに。呼(よ)ぶるはじめのごとくなれば

さすがに男々(をゝ)しき女子(をなご)なれども。何となく身(み)の毛(け)いよたちて。行(ゆき)も悩(なやめ)る

気色(けしき)也。時(とき)に地蔵堂(ぢざうだう)の扉(とびら)を。裏(うち)より左右(さゆう)へさと開(ひら)き。頭巾(づきん)目深(まぶか)に被(き)

たる荒男(あらをとこ)禹歩(おほまた)に揺(ゆる)ぎ出て。亀鞠(かめきく)が後(うしろ)より。項髪(えりがみ)無手(むづ)と引掴(ひきつか)み。汝(なんぢ)甚(はなはだ)膽(きも)太(ふと)し。嚮(さき)の二人(ふたり)は欺(あさむ)くとも。いかでかわれを誑(あざむ)き得(え)ん。さらば妖(はけ)の程(ほど)をあら

はすべしと。罵(のゝし)る折(をり)しも。平九郎はやゝこの処(ところ)へ追(お)ひ来(きた)りこの形勢(ありさま)をみて。なじ

かば少(すこ)しもためらふべき。手(て)ごろなる杉(すぎ)の枯枝(かれえ)あるを見(み)て。掻取(かいとり)はやく折(をり)て

蒐(かゝ)れば。彼(かの)男(をとこ)は。亀鞠(かめきく)を突放(つきはなち)。刀(かたな)を引抜(ひきぬき)て逆戦(むかへたゝか)ふを。平九郎つと入りて。

直(たゞ)に刃(やいば)を打落(うちおと)せば。彼(かれ)もおぼえあるものにて。かい潜(くゞ)りつゝ引組(ひつかん)たり。元来(もとより)巌

石(がんせき)尖(するど)なる細路(ほそみち)の。石滴(しみづ)さへ溜流(したゝりなが)れて。いと滑(なめらか)なるを。上(うへ)を下(した)へと挑(いど)み争(あらそ)ふ程(ほど)に。

終(つひ)に組(くん)だる手(て)を放(はなち)。平九郎は雄手(ゆんで)の谷方(たにべ)へ顛(まろび)かゝり。荒男(あらをとこ)は雌手(めて)なる海(うみ)へ

滾落(ころびおち)て。生死(しようし)もしらずなりにけり。亀鞠(かめきく)は父(ちゝ)がいと危(あやう)かりつるをみて。只(ひた)と

背(せなか)に汗(あせ)を流(なが)し。彼此(をちこち)を走(はし)り繞(めぐ)りつゝ。せんすべなげ也。されど平九郎はさい

はひにして。ふかくも陥(おちいら)ざれば。藤蔓(ふぢつる)にとりつきなどしつ。辛(からう)じて舊(もと)の処(ところ)へ

亀鞠(かめぎく)小指(こゆび)の血(ち)をもつて顔(かほ)を染(そめ)

鬼女(きぢよ)の打扮(いでたち)て賊僧(ぞくそう)どもと驚(おどろか)し

数千丈(すせんぢやう)の海原(うなばら)へ滾(まろば)し落(おと)す折(をり)しも

一人の荒男(あらをとこ)地蔵堂(ぢざうだう)のうちに

ありてこの景迹(ありさま)を窺(うかゞ)ふ

平(へい)九郎も亦(また)追蒐来(おつかけきた)る

平(へい)九郎は荒男(あらをとこ)と

引組(ひつくみ)しが終(つひ)に

左右(さゆう)へわかれて

輾随(まろびおつ)

くはしくは

本文(ほんもん)に

みえたり

跂登(はひのぼ)りしが。こゝに来(き)ぬるときは。彼(かの)荒男(あらをとこ)に敵(てき)せんと思ふのみにて。亀鞠(かめきく)が異(こと)

なる景迹(ありさま)を認(みとめ)ず。このときはじめてその模様(もやう)をみて大に驚(おどろ)き。全(まつた)く妖怪(ようくわひ)也

と思ひしかば。矢庭(やには)に石(いし)を拾(ひらひ)とりて。打(うち)かけんとするを。亀鞠(かめきく)〓(目+條)鞅掌(あはてふためき)て。やよ

父御(ちゝご)わらはをいかにし給ふと叫(さけ)ぶ声音(こはね)の疑(うたが)べうもあらぬわが女児(むすめ)なりければ

眼(まなこ)を定(さだめ)て熟視(つら/\み)るに。例(れい)の俳優(わざおき)して。鬼女(きぢよ)に打扮(いでたち)たるなれば。から/\と打笑(うちわらひ)て。

まづその故(ゆゑ)を問(とふ)に。亀鞠(かめきく)は二人(ふたり)の賊僧(ぞくそう)を誑(あざむか)ん為(ため)に。指(ゆび)を噛切(かみき)りて顔(かほ)を染(そめ)たる

事。彼(かの)賊(ぞく)どもこれに膽(きも)を冷(ひや)し。脱(のが)れ去(さ)らんとして誤(あやまち)て海原(うなばら)へ滾落(ころびおち)し事。又

盗(ぬすま)れたる行李(こり)刀(かたな)なども。賊(ぞく)が背負(せおひ)て陥(おちいり)たれば。とり復(かへす)に由(よし)なき事。是彼(これかれ)すべて

おがたれば平九郎ふかく愁(うれ)ひて行李(こり)の裏(うち)には路銀(ろきん)をも入レおきたるに。今(いま)是(これ)

をうしなひては。洛(みやこ)へ上(のぼ)るよすがもなし。さればとてこゝより喜瀬川(きせがは)へ立(たち)かへらば。

世の胡慮(ものわらひ)となりなんも朽(くち)をし。とやせまじかくやせまじとて。親子(おやこ)さし對(むかひ)て

談合(だんこう)するに。亀鞠(かめきく)地蔵堂(ぢざうだう)を指(ゆびさ)して。彼(かの)男(をとこ)が堂(だう)の内より出(いで)たるをおもふに。

夜(よ)な/\こゝにありて引剥(ひはぎ)する。山客(やまだち)の魁首(かしら)なるべし。しかれば彼(かれ)に些(ちと)の物(もの)

なき事はあるまじきに。尋(たづぬ)てみ給へといへば。父(ちゝ)もげにと承引(うけひき)て。まづ外面(とのかた)より

さし覗(のぞ)くに。たえて人もあらざれば。やがて堂(だう)の内(うち)に入りてみるに。只一つの笈(おひ)に

木像(もくぞう)の阿弥陀(あみだ)を安置(あんち)したると。酒(さけ)の香(か)のみして。裡(うち)に物なき。瓢(ひさご)一つの外(ほか)

に。一緡(ひとさ)の銭(ぜに)もなし。こは用(よう)なき笈仏(おひぶつ)に。わが夥(あまた)の路銀(ろぎん)を換(かえ)て何かせんと打腹(うちはら)

たちて。其処(そこ)を走(はし)り出(いで)つゝ。打落(うちおとし)たる荒男(あらをとこ)が。刀(かたな)を拾(ひろ)ひとり。月影(つきかげ)にこれをみ

れば。鎬(しのぎ)に八(や)つの文字(もんじ)ありて。自他平等即身成仏(じだびやうどうそくしんじようぶつ)と鐫著(ゑりつけ)たれば。忽地(たちまち)駭然(がいぜん)

とうち驚(おどろ)き。この短刀(たんとう)はわが稚(おさな)かりし時(とき)。卜部惟通(うらべのこれみち)より授(さづ)かりしを。六年以前(むとせいぜん)。

惣太(そうだ)が家出(いへで)したる夜(よ)に。携(たづさへ)ゆきたるものにこそ。しかれば彼(かの)荒男(あらをとこ)は。わが子(こ)惣太(そうだ)にて

ありつらんを。年(とし)を経(へ)て稚皃(おさながほ)もうせ。しかも真夜中(まよなか)なるに。こゝろ遽(あはたゝ)しければ。

それかとも思ひかけず。父(ちゝ)が手(て)づから千尋(ちひろ)の底(そこ)へ輾(まろび)おとせしこそ浅(あさ)ましけれ。

こは。何とせんとて愁傷(しうしよう)大かたならざれば。亀鞠(かめきく)も忙然(ぼうせん)と遙(はるけ)き海(うみ)を直下(みおろ)

して。兄(あに)惣太(そうだ)が必死(ひつし)を哀(あはれ)み。悪獣(あくじう)もなほその類(るい)をおもふ。恩愛(おんあい)の一條(ひとすち)のみ。

善悪邪正(ぜんあくじやせう)の差別(けぢめ)なく。漫(そゞろ)に落涙(らくるい)したりける。且(しばら)くして平九郎は。彼(かの)笈(おひ)

を扛(かさ)おろし。これもわが子(こ)の形見(かたみ)なれば。われは今よりこの笈(おひ)を用(もつ)て。回国(くわいこく)

の行者(ぎやうじや)に打扮(いでたち)。縦(たとひ)路(みち)すがら人に一銭(いつせん)を乞(こひ)ても。洛(みやこ)までは至(いた)るべし。御身は又

笠(かさ)をふかくして。田舎女児(いなかむすめ)の仮初(かりそめ)に。物詣(ものまうで)するごとくにみせて。父(ちゝ)が先方(さきべ)後方(あとべ)

にたち。道(みち)づれならぬおもゝちして。進(すゝ)まず後(おく)れず来(き)給へかし。〓(おとしあな)もて虎(とら)を

猟(かる)ものは。その皮(かわ)を剥(はが)んが為(ため)。網(あみ)して亀(かめ)を漁(すなどる)ものは。その甲(こう)を取(と)らんが為(ため)也。

御身あまりに妍(かほよく)て。且(かつ)装(よそほ)ひも花麗(はなやか)なれば。却(かへつ)てかゝる禍(わさはひ)あり。しかし給へと

説示(ときしめ)せば。亀鞠(かめぎく)もいとことわりにこそと諾(うべ)なひぬ。さて平九郎は件(くだん)の戒刀(かいとう)

をば亀鞠(かめきく)にかくしもたせ。わが身は笈(おひ)を背(うしろ)(にして。行者(ぎやうじや)の模様(もよう)にういつく

ろひ。ふたゝび倉澤(くらざは)の旅宿(りよしゆく)へはうつらず。親子(おやこ)山路(やまぢ)を西(にし)へ下(くだ)りて。浦田川(うらたがは)を

渉(わた)るとき。亀鞠(かめきく)は河水(かはみづ)を沃(そゝぎ)ぎかけて染(そめ)たる顔(かほ)の鮮血(ちしほ)を洗(あら)ひおとし。舊(もと)の

美女(たをやめ)となりしかば。この川(かは)の西(にし)なる森(もり)を女體(によたい)の森(もり)と名(な)づけしとぞ。又惣太(そうだ)

が滾(ころ)び堕(おち)たる処(ところ)を。親(おや)しらず子(こ)しらずと呼(よび)て。今もて薩田山中(さつたさんちう)第一(だいゝち)

の難所(なんじよ)とす。こはみな後人(のちのひと)口碑(くちのいしぶみ)に伝聞(つたへきゝ)て。かゝる名(な)をさへ設(まうけ)たるなるべし。

墨田川梅柳新書巻之二 畢