Published using Google Docs
AdventCalender20221207
Updated automatically every 5 minutes

乗り物遍歴

2Fの講師紹介パネルでも触れていますが、私は内燃機いわゆるエンジンなんかの機械が好きです。

詳しい事は聞いていませんが、小学校低学年くらいまで父親の仕事がホビーラジコンのプロポ(操縦用の送信機)メーカー努めで、自宅に作業や趣味用みたいな部屋があり、そこにラジコンの部品や電子部品、半田ごて、ペンチやニッパ、万力などそういった物が散らかっており、見様見真似で触ったりしていた事が発端かなと思っています。

また中学校中頃にガンプラをきっかけとするプラモデルブームが到来し、当時のプラモの出来が悪いので不満や年配上級者への憧れなどから改造や塗装をごく普通に行っていたのも影響しているでしょう。

少し主題とはズレますが、小学校高学年には初代ファミコンやマイコンブームが訪れ、そういった興味が今にも大きく影響しています。

さて機械いじりの話ですが、ラジコンというのはお金がかかりすぎる趣味で、単に遊びというだけではハードルの高い物でした。

それに比べてバイクや車というのは、確かにこちらもお金のかかる物ではあるのですが、趣味である事と同時に実用品でもあり、また場合によってはメンテや修理などを業者に出すより自分でやってしまった方が安上がり……という事は実は少ないのですが(笑)、修理に出す手間だとか、同じオイル交換でも自分で銘柄を選ぶ楽しみなんていう側面があります。

という事で、私の機械いじり趣味は日本の免許制度で手軽で合法的に実用オモチャと接する事ができる原付き免許から流れが続いています。

そこで誰向け需要で何が伝わるのかは解りませんが、バイク、車歴を振り返って機械の特徴や個人の思い出などを書いてみようと思います。


日本では80年代、90年辺り、空前のバイクブームが起こります。

10代20代の若者はこぞってバイクに跨がり、時に暴走族と呼ばれ、ある者は峠道でレースまがいの走行をして煙たがられていました。

また事故を起こす者も少なくなく、高校では「三ない運動」と呼ばれるバイク禁止の校則が当たり前。ですので本当は免許の取得もバイクの所有も校則違反で処罰対象でした。

当時の区分で排気量400ccまでの「中型二輪免許」を取るには今と同じで自練へ通う必要があり、時間的金銭的にも大変なのに加えてだいたい自練も免許を発行する公安も高校とは通じていますので、すぐバレてお縄という感じでした。

それでも数名、同級生のバイク仲間は中免取ってたなあ。どうやってたんだろう。

で、私はと言うと半日拘束のペーパーテストだけで取れる原付き免許を取りました。

運転免許試験場は平日しかやってませんので、高校をサボって行く訳ですね。

通っていた高校は公立で中の下くらいの成績の所でしたので、原付き免許試験といっても余裕で通って当然という気分ではなく、男子同級生達もあいつは受かったこいつは落ちた、あの馬鹿は5回目行くらしい……など色々と漏れ聞こえて来て、わりと不安だった気がします。

幸い試験は1回で通り、めでたく免許持ちになりました。

今免許証確認したら番号の頭から64で奈良県続いて89となっているので、多分原付きは89年に取ったんだと思われます。

そして免許は手に入ったんだから、愛車が必要になりますね!

という事でこれも初めての経験、居酒屋でアルバイトを始めて、そこの先輩からマニュアルミッションの原付きバイクを譲ってもらいました。9万でした。

ホンダNS50F

高校2年だったかな……うろ覚えですが、とにかく楽しくて嬉しくてあちこち走りに行きました。

思い立った時に、自由に、どこへでも。

それまでの公共機関や自転車とは比べ物にならない圧倒的自由。

朝起きて高校へ通って、帰って来て家で何かして寝る。そんな事してられません。

夜明けを待たずダムへ走りに行き、缶コーヒー飲んで道路が混みだす前に帰宅、そのまま学校サボって寝る。そんな日々でした。

ちょうど家庭で親がゴチャゴチャしていて監視の目も無かった事もあったんでしょう。

高3の担任には色々と迷惑をかけて、必要単位だとか指導でお世話になりました。

恩師には恵まれて育って来たと思います。

さて機械の話ですが、内燃機いわゆるエンジンというのは大きく別けて

という種類があります。(他に個人ではほぼ使わないタービンやジェット等も)

あまり本格的な解説を始めてもしょうがないので、ざっくり説明すると、

となります。

最初の愛車NS50Fというのは当時の原付きでは一般的な2ストエンジンで、この形式の特徴は燃費が悪く排ガスに白煙がまじり、音もブベベベベビビビビと人によっては耳障りな物で、ただし4ストに比べ同じ排気量なら、コンパクトかつパワフル、部品点数も少ないので安上がりという優位性もありました。

ですのでバイク特に小型や原付きでの採用例が多い形式でした。

とは言え原付きですので出力はわずか7.2馬力だったかな?その少ない力をマニュアル操作でギアを上げた下げた一生懸命操作して乗っていました。

パワーバンドというのですが、エンジンが力を発揮する回転数域が狭く、いわゆる「ピーキー過ぎてお前にゃ無理だ」みたいなエンジンです。でもそれがまた楽しかった。

たぶん今の車の運転にも繋がっている丁寧で細かいアクセルワークは原点であるコイツのおかげだなと思っています(細かい制御をしないとすぐエンストしたり速く走れなかったりするので)。

随分お世話になり、自分で大掛かりな改造や修理はできなかったけど、カウルなんかの見た目の部分でプラモみたいにパテで改造したり塗装して自分なりにドレスアップしてました。後に中免を取り、乗り換える際にバイト先の後輩に譲りました。

個人売買のSNSなんて言うのが無かった昔ってこういう先輩後輩の伝統みたいなのありましたね(笑)。


高校卒業後進学し、夏休みなどまとまった時間もできるようになったので、普通自動車免許と中型二輪免許を同時に取りました。

住んでいた場所的に学生もマイカー通勤でという程田舎ではなく、通勤通学は基本バス電車という地域ではあったんですが、若者のバイクというのは丁度その隙間にいる存在で、若者のバイクブームも落ち着いて来てはいるけど、学生といえばバイクという時代でもありました。

そこでまたバイトして(勉強しろ)原動機付き自転車ではない本当の「オートバイ」を手に入れます。

大学2年 ヤマハ SRX4 3型

今でも最高に美しいと思うデザインのバイク。

たまたま知り合いのツテで中古を安く譲ってもらえる話があり、本当に好きだったこの車種に乗る事ができました。

むしろ最初に理想の物に乗れてしまったので、逆にその後に続く車種がどれも心の底から……になりにくいという影響まであった程。

80年代半ばから2000年くらいまで、ヤマハのバイクの多くはGKデザインという工業デザイン会社と組んで行われていました。

そのデザインがとにかく美しく、格好良く、このSRX含めていくつかの車種は今でも最高のデザイン、最高の機械だなと思っています。

なんの不満も無く趣味に通学にと活躍していましたが、バイトから帰りマンション住まいになっていましたので、そこのいつもの場所に止め、翌朝学校へ行こうとヘルメットを手に駐輪スペースへ行くと……

「あれ?俺昨日ってバイクどこに止めたっけ?」

盗難されちゃいました。最高の愛車との別れは突然でした。

たいぶ落ち込んだなあ。


その後しばらくバイク無しの電車通学で過ごしていたんですが、奈良の自宅から学校のあった大阪南部富田林方面まで、えらく迂回している上に通勤通学もの凄いラッシュに見舞われる路線で、ついつい授業もサボリ気味に……

それではいかんとバイト代と学生ローンと親にも出してもらって次の愛車を探しました。

大学2,3年あたり カワサキ ZZR-400

SRXが理想過ぎて、他に何乗りたいというのがあまり無かった。

学校まで電車で2時間、バイクなら1時間といった距離で、ゆったり楽な乗り味をと思って大柄なツアラータイプにしました。

400の中型にしては作りも丁寧で豪華っぽく、特に大きな不満は無かったんですが、逆に大好きポイントも無いというか……

丁度この頃に阪神淡路大震災もあり、数ヶ月後に神戸岡山を抜けて愛媛の友人宅まで走ったりと長距離も楽しんだんですが、長距離向きしゃないSRXで東京まで行った時のような大変だけど楽しいという感じも薄かった思い出があります。

あとやはりゆったりしているというのは逆にバイクらしいキビキビとしたじゃじゃ馬感が薄く(クルーザーなんだからそれで当たり前で、ビックシングルスポーツSRXと比べるのが間違ってる)、通勤用という実用面で優れている反面、バイク趣味では物足りないと感じる日々。

購入したバイクショップへメンテか何かで訪れた際、偶然並べてあった中古車に目が止まります。それが次の愛車でした。

大学3,4年あたり スズキ RG400Γ

先ほど紹介したエンジンの形式でいうとSRX、ZZRは一般的な4ストロークエンジンです。

この頃もうすでに2ストは減ってきており、原付きや250までの小さめのバイクではまだ新車も出ているけど……という感じでした。

機械の仕組み上、250cc以上の中型、大型で2ストを採用する意義はこの頃もう少なく、70年代80年代には見られた軽自動車や500ccクラスの大型バイクでの採用例は皆無でした。

バイク屋で出会ったRG400Γ(ガンマ)は当時のバイクレース用500ccクラスで実際に走っていたモデルに似せた、いわゆるレーサーレプリカモデルで、この頃もう既に旧車扱い、現行車種だとエンジンを半分にした250ccで500ccレーサーを模したのが当たり前という感じでした。

ZZRに物足りなさを感じ、またNS50で楽しかった2ストの思い出、この先もう二度と乗る機会は無くなるであろう中型2スト(実際今はもう維持も大変です)へ乗る最後の出会いかも?とその場でZZRを下取りに出し、差額をローン組んで4ガンに乗り換えました。

これがまた、最高に楽しかった。

この頃の250までの2ストはピーキーでせわしなくシフトチェンジして最適を探ってぶん回すというような特性が多かったのですが、4ガンはベースの500ガンマのボアダウン。

もともとが250レプリカより倍の余裕があるエンジンなので低速低回転からもトルクが厚く、それでいて本来の2スト車のようにスロットルをくいっとひねると馬鹿みたいに加速する。レーサーレプリカなので車重も軽く中型なのにヒラヒラと身軽に操れる。

前車が鈍重なZZRだった反動もあったし手足のように身軽に出かけていたNS50Fを拡大したかのような手足感だった印象もあるでしょう。

スーパーカーブームを知る世代なら格好良い!の代名詞、ウォルターウルフの限定カラーに、400では省略されていたアンダーカウルまで同色で付いてました。5ガンの奴が。500って書いてあった。

しかし2ストしかも400となるとネガティブな特性も目立ちます。燃費が悪い。リッター一桁しか走りません。そしてエンジンオイルは交換式ではなく、ガソリンと一緒に燃やしてしまう補給式の仕組みです。

これで大阪→東京も行きました。2ストオイルが途中で切れてしまっては大事なので、念の為オイル缶を背負って行きましたが、本当に道中で補給する羽目になりました。

あと高速道路では背後に結構な白煙が出てました。ごめんなさい。

そんな4ガンとのお別れは、あっさり追突事故でやってきます。

就活で憧れのナムコさんに落ちて放心のまま運転していたからかなと思います。渋滞時に前方不注意のまま私が突っ込みました。

ハンドル付け根、三叉って言うんですがステアリングステムより前あたりがぐんにゃり行き、修理は可能な程度ではありましたが費用捻出が難しいのでそのままショップに引き上げてもらいました。

その後通学の足は3万でやってきたスクーター。

学生最後までと社会人 ヤマハ 2代目JOG/CG50

こいつは就職後会社通いにも活躍した良い子でした。

トヨタ 6代目カローラ/AE91

車歴になります。初のマイカーですね。

といっても学生でこんなファミリーセダン自分では買えません。

中学の同級生で、当時ナイコンだった私が押しかけて通いつめたマイコン族の友人、森本くんにもらいました。どうも彼のお父さんが派手にフロントをぶつけたらしく、支障なく走ってはいるけど次の車検は通せないと。もしいるならその時に廃車してくれればタダであげるよという事で、ありがたく頂きました。

このカローラは知る人ぞ知るバブル期設計の名車で、都市伝説ではその値段帯に対しての高品質でメルセデスベンツが驚いただの部品全部バラして分析しただのと言われたモデルです。

始めてのマイカーなので車がどういう物かドライバーとしての比較対象が無く、いまいち思い出というか印象が薄いのですが、顔面は思いっきりボンネットの先の方までへこんでましたが走りは快適そのものだったなという感じです。

トヨタヒエラルキー的には中間層お父さんファミリーセダンですので派手な所もなく、ほどほどにラグジュアリーで上品でした。オートマです。

トヨタ セラ

そのカローラを手放す時期が来て、その後嫁になる彼女との足が無くなりますので、お金出し合って中古車を買いました。これもトヨタのバブル期の車、今では考えられない突飛な奴ですね。ずっとデザインやコンセプトが好きだったガルウィングのコンパクトカーです。

日本車でガルウィング!というと奇抜さだけが目立ちますが、そこはトヨタが作る車ですので、中身はカローラIIで堅牢。最大の特徴ガルウィングドアも真面目に設計されていてむしろ実用面でも優れていました。よくオーナーでも無い意見でネガティブな事で評されているのを見かけますが、全く欠点を感じない名車でした。

学生の最後の方から社会人時期まで乗っていましたが、これもあちこちに出かけた思い出深い車です。最後は大阪から沖縄へフェリーで引っ越す荷物満載移住までしました。

犬1猫4フェレット3人間2で引っ越しでしたね。

2+2の座席レイアウトなのですが後席背もたれを畳むとトランクスルーとなり、大開口部ガラスハッチクーペなので前席から後ろはまるまるフルフラットの荷室空間となります。積載量も大きな車でした。

どこか大きく壊れたという事は無かったのですが、あちこちの塗装痛み、タイヤ終了、燃費もだいぶ落ちててエンジンもそろそろという感じでしたので登録抹消廃車にしました。

ドライバーズシートは今でも外して台座つけ、椅子としてうちにあります。

長くなりましたので、沖縄に来てからの遍歴は後編に別けたいと思います。