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NO SALVATION
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この本には、流血表現、残酷描写、性的描写などが含まれるため、15歳未満の方の閲覧は固くお断りいたします。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

下記の内容が含まれるため、15歳未満の方はご遠慮ください。

また、下記内容に対し嫌悪感をもつ方の閲覧を推奨いたしません。

もし閲覧中に不快な気分になった際は、すぐに閲覧を中断してください。

【過度な暴力表現】

身体の欠損、過度な暴力、死体損壊、大量殺人、未成年の死体、拷問

【性的な表現】

屍姦、児童売買・売春、強姦、同性愛表現、拷問

目次

 《章:NO SALVATION 前編》        1

 《章:NO SALVATION 後編》        9

 《章:NO FUTURE 前編》        16

 《章:NO FUTURE 後編》        28

 《章:NO PASSAGE》        40

 《章:諍ルート》        51

 《節:分岐:勝利 進む》        67

 《節:終着:勝利 「生きる」という地獄へ》        75

 《節:終着:敗北 解き放つ、解き放される》        81

 《節:分岐:敗北 喪失》        84

 《節:終着:勝利 獣と自由》        91

 《節:終着:敗北 「生きる」の報い》        96

 《章:逃ルート》        99

 《節:分岐:勝利 引けない手》        114

 《節:終着:勝利 すべてが明ける日を求めて》        117

 《節:分岐:敗北 行き止まり》        118

 《節:終着:サトリ 死の快楽》        119

 《節:終着:マヤ 死よりも昏い》        121

《章:NO SALVATION 前編》

 バササッ……

 「気持ち悪い!」

 甲高い女の叫び声がどこか遠くから聞こえてくる。それと同時に、バラバラに破かれた紙束が俺の体にぶつかってくる。

 「全部見透かされてるみたい! 見るな、私を見るな! どうしてお前なんて生まれたんだ! お前なんて――私の子供じゃない!!」

 両の瞳から涙を流し、髪を奮わせ俺の満点のテスト用紙をまた破いては投げつける。その様子をどこか他人事のように見ていた。

 自分の”コレ”を捨ててしまいたかった。

 ザバアアア……

 そんな水音がしたと思えば、俺の体は全身濡れていた。どうやら水をかけられたようだと気づく。後ろを振り向けば、周りには複数の男が俺を囲んでいる。手には先ほど俺を水浸しにした、バケツが握られていた。

 「これで少しはくっせぇ臭いがマシになったか? 頭いいんだから、これくらい耐えられるよなぁ!」

 そう男の一人が言うと、取り巻きも似たような暴言を吐き始める。

 「ケッ! すましやがって、うぜぇんだよ。早く死ね!」

 その言葉を皮切りに、周りの人間も呪文のように言葉を繰り返し始める。

 「死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね! 死ーね!」

 その様子を、どこか他人事のように見ていた。

 自分の”本質”を捨ててしまいたかった。

 こんな”頭脳”なんて、欲しくなかった。

 欲しくなかったのに。

  §

 ザクッ…… ザクッ……

 閑静な森に不釣り合いな、土を掘り起こす音がその辺りに響いていた。

 スコップを握っているのは、左手と右目を失った男。片手で掘るのが難しいようで、恨めしそうにしていたが、ふいに顔を起こす。

 そこには大きめのバンが停まっており、車は激しく揺れている。

 男――樋口 マヤはそのバンに向かって声を張り上げた。

 「サトリさぁ~ん!? 死体とのセックスはまだかかりそうですかねぇ~! お前のせいで滅茶苦茶掘りにくいんですけど、おーーい!!」

 揺れていた車は、急にピタリと動きをなくす。中でごそりごそりと音を立てたかと思えば、急にスライドドアが開いた。

 中から出てきたのは、スーツ姿の青年だった。

 「……それは悪い事をしましたね」

 聞いた人の十割が「素敵」と思う声で一切悪気のない言葉を発し、見た人の十割が「美しい」と思う顔面で「愛想がよい」とする塩梅の笑みを男は浮かべる。初対面ならば、この男が何をしても誰でも許してしまうだろう。

 しかしそれになびくことなく、マヤは矢継ぎ早に文句を続けた。

 「そうだ! そもそもどうやってしっかり掘れってんだよ、今から百八十センチ以上の大きな男をここに埋めるんだろ、こんな手じゃうまく掘れ……な……」

 文句をいっていたマヤの口は、男――サトリが近づいてくることで遮られた。

 先ほどの笑みは浮かべているものの、目が一切笑っていない。その様子を見て、マヤは背筋がスーッと寒くなっていく自分に気づいた。

 そんな目をにっこりと細めると、サトリは口を開く。

 「以前、申しましたよね? 私の手間をかけるなら……」

 そういうと、サトリはマヤの頬に手を添える。親指が頬を撫でたかと思えば、そのまま下瞼をそっと触った。

 そしてグッと……力を入れる。

 「今度は左目をえぐりますよ」

 愛想のよい声は、急に熱がこもったように感じた。えぐる様を想像したのだろうか、サトリの人のよさそうな笑みの口の端が楽しそうに持ち上がる。

 そのまま親指をいれられるのかと思ったマヤは身構えるように強張ったが、名残惜しそうに一撫ですると、すぐに手は離れていった。

 「っ……や、やりゃあいんだろ……」

 ゾワゾワと先ほどの寒気の余韻に体を震わせながら、中断していたスコップにまた手を伸ばす。

 マヤは再び、死体を埋める穴を掘り始めた。

 バタン……

 サトリがまた”仕事”へ車に戻る。その後ろ姿を見ながら、もう何度も脳内の刑事へ繰り返し説明した事の顛末を思い出す。

 そもそもの発端は、一ヶ月前。

 大学の通学中にこの男――中原 サトリに誘拐されたことに起因する。

 目的も言わず俺を攫ったサトリは、身代金を要求するでも(要求しても払うわけないと思うが)まして殺すわけでもなく、ただ監禁した。

 勿論、その間何度か逃げ出そうと試みたが、全て失敗し――その見せしめとして、逃げ出さないようにと。手と目をサトリの手で削られた。サトリはその道のプロなのか、どうすればより痛いのかを熟知しているようで、俺は今まで生きていた中で一番辛い肉体的な痛みを味わった。

 二度目の罰として手を失った時、俺の中の抵抗の気力はすっかり消え失せ――今では逃亡しない事を条件に、せめて外の空気が吸いたいと、サトリの仕事の手伝いをしている。

 何より。

 今の俺は、もうすっかり他人事のようになっていた。

 あの時のように、目の前の出来事をどこか遠くから見つめるような。現実という世界から意識がどんどん遠ざかって、自分という物さえなくなってしまいそうな。そんな現実感のなさが、ずっと頭の中を支配していた。

 今までだって、そうだった。そうやって自分を自分で殺して、じっと事が終わるのを待つ。反撃すればさらに責め苦は激しくなり、辛さが増えるだけだから。だから、耐える。

 そうすれば、いつかは今の辛い事が終わる。

 そうやって、自分を守ってきた。

 いつか、この苦しみから解放されて、――救われて。穏やかな日々が来るのではないか。

 脳の奥底で漠然と答えは出ている。でも、そんなものはないと簡単に言ってしまえば、気づいてしまったら。今まで崖っぷちで耐えてきた意思さえ、粉々に砕けて壊れてしまう気がした。

 だから、いつかは苦しみが終わるときが来るのではないかと、思い続けていた。

 そして、今も。

 ピルルルルルル……

 思考の渦へ意識の足を取られていたマヤは、携帯の着信音で我に返る。

 「おい! 電話鳴ってるぞ!」

 相変わらずすごい音で揺れている車へ声をかけると、扉の隙間からサトリの手が伸び、車のすぐそばの地面へ置いたままにされていた携帯を回収していった。

 「……はい、中原です」

 電話にでる声がしたかと思うと、すぐにサトリの”仕事”が再開される。

 「うげぇ……死体掘りながら出るのかよ………」

 車内のくぐもった声はうまく聞こえない。しかし――サトリの”本業”の依頼が来たのだとマヤは理解し、スコップを地面に刺す。

 ほどなくして車内が静まると、車のドアが開く音がする。そこから覗かせたサトリの顔は――

 「マヤ、次の仕事です」

 人のよさそうな笑みなんかではなく、心底喜びに満ちた顔だった。

  §

 ガンッ!!

 居酒屋へその音が響き渡る。それと同時に、酒やけた男の大声が店に響き渡った。

 「クソッ! あの女しけてんなぁ……これっぽっちかよ!!」

 十万ほどはいった封筒を握りつぶし、いらだったように手元の携帯を弄る男は、二十代後半でやさぐれた恰好、見るだけで関わりたくないと思わせる風貌をしていた。

 酷く酔った男は、滑る目で届いたメールを読もうともがきながら、一人くだを巻いている。

 「あいつら、良い金づるだったのに……勝手に逃げやがってェ……」

 ぐしゃり、と。封筒を握る手が強くなる。

 (娘は飛び降りで勝手に死ぬし、母親は逃げやがるしよォ……。挙句の果てには、恨み言吐きやがって……)

 男の脳裏に、その時の事が蘇る。

 「貴方のせいよ」

 ぐしゃぐしゃになった娘の死体の横で、涙を流し俺を見上げながら、射殺すような鋭い目線をする女。

 「貴方のせいで、この子は死んだの」

 見る影もない、肉片になった――マニアには屍姦用に売れるかもしれねぇけどな――少女の母親の女。

 「絶対に許さない」

 俺が客を斡旋してやって、体を売った金で自分の借金返してたくせにそんな事言う女。女。女の目が、強く昏く光って。

 あの時から、俺の記憶の底にまでその光が焼き付いたまま離れない。

 「ちくしょう!!!!」

 再度、振り上げた手を机にたたきつけようとする。

 そんな時、携帯の画面に映し出されたメールに焦点があった。

 【十六歳高校一年生です。高条件なので連絡しました。今すぐ会えますけど、予定空いてますか?? お金もらえればなんでもします! 天国見せてあげますよ! 会えるなら待ち合わせの場所、下に書いておきますね】

 「いいじゃねぇか……」

 瞬く間にあの女の光が弱まって、激しい怒りが欲望へと変換されていく。思わず口角をあげながら、メールの返信文を打つ。

 (女なんて、写真撮って脅して、薬漬けにでもすりゃあ言う事聞くんだよ……! そうやって、黙って俺の金稼ぎゃあいいんだよ!!)

 【今すぐ行くよ! 住所載せてくれてありがとう(^▽^)/】

 すぐさまメールを打ち、眺めていれば返事が返ってくる。

 「おっ……食いつきがいいなぁ。すぐ行きます、だとよ」

 (カモになるとも知らずになぁ……)

 下卑た笑いを浮かべながら、男は立ち上がり勘定をすませる。

 店を出て現場へ足を運びながら、次のカモへどんなことをしてやろうかと考えを巡らせる。

 高校一年生なら、三年生までは現役JKとしての付加価値があるだろ? 何人か脅してトモダチも引きずり込んで、変態の役人に美人局として送り込むか。JDになっても需要はたんまりあるが、それより歯を全部抜いて――

 「ん?」

 下品な計画に思考を取られていた男は、待ち合わせ場所に違和感を覚えた。

 花だ。

 道端に、花束が一つだけ置いてある。その花の色は、あの女の目の輝きに似ていて、思わず目をそらそうとするが――気づく。

 「ここ、あいつが飛び降りした所じゃねぇか…」

 とたん、背筋がうすら寒くなる。辺りを見回すも、深夜のせいか誰一人通行人はいない。

 飛び散った肉片は綺麗に片付いて、何もなかったかのようにきれいなのに。あの花の色が女に似てるから、あの言葉が聞こえてくるかのようだった。

 ――絶対に許さない

 「気味わりぃ……なんでこんな所を待ち合わせ場所に……」

 その時。コツコツコツ……。高そうな靴音が静まり返った道に響く。

 「お待たせしましたぁ~」

 場違いに明るい声が、暗い道端にこだまする。振り返ると、二人の男がそこに居た。

 「誰だ、お前……」

 メールでは、確かに女子高生と書いてあったのに。

 再度メールの文面を見ようと、携帯を取り出した男の手の甲に――小さなナイフが刺さる。

 「う、うわああああああ!!」

 男は痛みに思わず後ろに転んだ。その勢いのまま携帯を手放すと、転がった携帯を踏みつけながらサトリは一歩前に出る。

 「聞いたことありませんか? ――天国行きの殺し屋の話」

 まるで獲物を追い詰めた狩猟者のように。相手を見定めるような、そんな鋭い目をギラギラと光らせながら――不釣り合いなほど綺麗に浮かべた笑みが、とろけるような声で問いかける。

 そのワードには、男も聞き覚えがあった。

 「まさか……お前ら……! 殺すだけでは飽き足らず、依頼者の恨みを晴らすため、徹底的にターゲットを痛めつけ死体までも愚弄する殺し屋……! 中原サトリ!?」

 サトリの後ろでこわごわみていたマヤは、その言葉に自らの体を失ったときの事を思い出したのか、嫌そうな顔をする。

 そんな事知った事ではないとばかりに、サトリはもう一歩、一歩と前に出る。

 「貴方……娘さんに「体で稼げない奴は死ね!」と言ったそうですね? 「穀つぶしのクズが」「稼げなかったら殺してやる」「お前には生きている価値がない」……

 ――何故だろう。

 「お前に価値なんてない、要らない」……

 マヤの脳裏には、似て非なる映像が映っていた。

 それは、母親が言っているような、水をかけてきた同級生が言っているような。とにかく、自分に言われた事とリンクして聞こえて、

 「お前なんて、俺の子じゃない」

 ――思わず目を見開いた。

 そう言ったんですよね?」

 言葉と共に追い詰めるように、サトリは男へと近づいていく。

 後ろ手に這って距離を取ろうとした男は、気づく。否――気づいてしまった。

 サトリは勃起していた。

 今から自分にする行為を想像し、痛いくらいに窮屈な程、興奮しているのだと気づいた。――少し前、カモをどう料理するか考えていた自分のように。

 「ひ、ヒィィィイイイ!!!!」

 今まで考えたこともなかった。自分がカモと同じように、男に、性的に使われるなんてことを。

 理解した瞬間――爆発するように恐ろしさが体中を駆けた。

 距離を詰め終わったサトリの手が、優しく男の顎にかかる。そのまま、興奮しきった蕩けた目で男を覗き込んだ。

 「お母さまからお願いされました。娘さんにかけられたすべての暴言を貴方にかけながら、娘さんが稼いだ金額を体で稼ぐまで凌辱しろ、と。貴方は一体、一日何円稼げるか、試してあげますね?」

 その欲望の渦巻く瞳の中に、怯え切った自分が映っていた。

  §

 ユラユラ……

 煙草の煙が揺れるのを、ぼんやりと眺める。

 深夜の森は、風で揺れる木の葉や、虫の音、鳥の鳴き声――そして、車内で激しく交わりあう音だけが響いていた。

 「いや、どんだけヤんの……?」

 車の外に出されてるとは言え、いい加減げっそりしてきたマヤは、少し離れた切り株へと腰を据える。

 口に含んだ甘い煙を味わって、物惜し気に吐き出しながら、先ほどのサトリを思い出す。

 「お前に価値なんてない、いらない」「お前なんて、俺の子じゃない」

 紫の煙の中で、恐ろしい幻が見える。それは、母親だったり同級生だったりする。

 「貴方は一体、一日何円稼げるか、試してあげますね?」

 そういってサトリは、男を壊す。

 理不尽な暴言を、暴力を施した人間を、理不尽でもって壊しつくす。

 そう思うと、煙の間に見え隠れした幻の影が消えていく。

 勝手な行為だ、勝手だが。少しだけ胸の棘が抜かれたような――救われたような気分になった。

 バタン…………

 「すこし休憩です」

 かいた汗をぬぐいながら、サトリは車から出てマヤの横に座る。胸ポケットから煙草を一本取り出して、火をつけようとライターを探していた。

 マヤは先ほどの幻を思い出す。いつもならできる限り話したくないこの野蛮な男に、今日ばかりは無性にはなしかけたくなって声をかける。

 「なぁ……アイツ、どうなんだよ」

 口にくわえていた煙草を一旦おろして、サトリは感情のない顔で返事をする。

 「この後知り合いの調教師に嬲ってもらうように頼んであります。お母様のご要望が叶った後、私の方で殺して、犯して、依頼完了です」

 「うえぇ……」

 疲れたからか、面倒くさそうに淡々と男への行為を言葉にする。自分で聞いておいて、聞いたことを後悔した。

 しかし話をつづけたのは……マヤの中の、少しの喜びからだった。

 「……まぁ、でも。これで、死んだ奴も少しは救われるんじゃねぇかな。俺も……ちょっとすっきりしたし」

 「……」

 ようやく見つけたライターで煙草に火をつけたサトリは、それを口に含みながら、煙と一緒に吐き出すように言葉を綴る。

 「本人が復讐したわけでもなんでもないでしょう? 私が男を殺して、犯して、野に捨てたって。死んだ人間の心は変らない。憎しみの”本質”を変えることは永遠にできない。救いなどないです」

 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 しかし、しみ込むように言葉を理解していくうちに、喜びにヒビが入っていくような感覚を。感情に氷の杭を打ち込まれたような冷たさを覚えた。

 それは否定に聞こえた。

 自分が感じた「救い」は、まがい物だったのだと突きつけられたような。

 いくらごまかしたって、自分が苦しむ「原因」が無くならなければ、一生救われないのだと言われたような。

 自分が望むような「安らぎ」は永遠に、死んだって、手に入らないのだと言われたような。

 自分の体が他人になったみたいに、視覚も音も、煙草の熱さえも感じられなくなって、全てが闇に包まれるような感覚に陥る。

 耐え続けていれば、いつか苦しみから解放されるんだと。いつかは、苦しみが終わるときが来るんじゃないかと、そう願っていた。

 しかし、その「否定」は、そんなささやかな願いを打ち砕く。

 小さな小さな希望だけを大事に抱え込んでいた自分の、唯一の望みさえ消えていく。

 マヤを「マヤ」たらしめる唯一のつなぎ目が壊れてしまったかのように、どこまでも、落ちていくようだった。

 その時。

 暗闇の中で、一つの灯りがともった。

 ハッとその光に目をやると――それはサトリのたばこの火だった。

 心細く、赤く光るその火を見つめていると、徐々にサトリの輪郭が見えてくる。

 煙草をはさむ手、その手を包む革の手袋が口元へと運ばれて、吐いた煙の先にある虚空をサトリは見ている。

 煙の先にあるのは幻だ、しかしそんな幻をサトリは壊す。

 その目は情欲に濡れて男を凌辱し、その口は男の精神を粉々にし、肉体でもって男を辱め、その手は男を殺す。全てを壊す。体も、心も、死後の静けささえも全部、破壊する。

 破壊する、そう全部。

 この男なら、人間を壊す事が出来る。――いや、この男だけが、それが出来る。

 俺の全部を、”本質”までも破壊しつくして、ぐちゃぐちゃにしてしまえる。

 捨てたくても捨てられない物を、壊して消し去ってくれる。

 そんな気がした。

 それだけが――俺を”救う”方法だと、思った。

 「……あはは……」

 口が勝手に笑いをこぼす。

 「俺には――あるよ。俺にとっての救いは、お前にさっさと殺されること」

 サトリの表情が崩れて、ちょっとだけ眉間にしわが寄る。

 「……私は貴方を生かします、依頼なので」

 「そういうなよ、頼むぜ。できれば痛くない奴で」

 「難しい事を言ってますよ、それ」

 自分でも無茶な事を言っているのが分かって、笑みが深まる。きっと今、俺は生きてきて一番嬉しそうな笑顔を浮かべているんだろう。

 マヤの世界の暗闇の中で、サトリの煙草の火が爆ぜ、光る。

 「だってお前なら、俺を優しく壊せるんだろう? サトリ」

 たった一つの救いを示すように、暗闇の中にある昏い希望のように。

 「……」

 サトリは――ひどく嫌そうな顔をした。

 人のよさそうな顔でも、無表情でもなく。とにかく、嫌そうな顔だった。

 「貴方なんて――うんと痛くして殺してやりますよ」

 そういうと、サトリは煙草の火を踏みつけて消してしまった。

 《章:NO SALVATION 後編》

 ――ハァ…ハァ……

 「どうしてサトリ」

 その問いかけに、ハッと我に返る。辺りは争ったように物が散らばっており、目の前には腹を刺された女と――自分の手には刺した包丁が握られている。

 自分の息がとても荒い事に気がついて落ち着こうとするも、目の前の女を――母親を見ると、またぐらりと目の前が揺らぐ。

 血だまりの中、自分の方へ這って近づきながら、母は手を伸ばす。

 「どうして母さんと一緒に逝ってくれないの?」

 その髪の隙間から覗いている目は、とても恐ろしかった。

 自分一人だけで逝かなければならない恐怖、一緒に来てくれなかった我が子への憎しみ、一緒に死んでくれる可能性があるのが自分の子供しかいないという悲しさ。

 感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、色を混ぜすぎた絵の具のように、深い深い黒がそこにあった。

 「どうして……?」

 そんな黒も、本当に光のないものへ、今にも堕ちていこうとしていた。

 最後の力を振り絞りながら、母親は恐ろしい声で自分を指さす。

 「許さない……」

 その目に射抜かれた自分は、一歩も動けなくなっていた。

 そのまま、その瞳を見つめていると、徐々に永遠の暗黒へと堕ちていく。体中から生き生きとしたエネルギーが抜けていくのが分かる。射抜かれたまま動けない状態で、死に行く人の姿を、瞬きを忘れるほど一瞬も見逃すまいと見続ける。

 生から死への転換。その瞬間をサトリははじめてみた。

 ついているのに何もうつさない、何の意味もない瞳が美しい。生きていたころとは違う、芸術品のような、それでいて生ものである眼。

 ピクリとも動かない手は恐ろしいほど冷たい。それなのに、今にも動き出しそうなくらい綺麗だ。

 床に広がり続ける血液を止めようとする体はもうおらず、血液を押し出す心臓は意味のないこぶし大の肉の塊と化す。

 先ほどまで生きて、動いていた人間が死んだのだと理解した。

 ――サトリは、勃起していた。

 訳が分からないほど、興奮していた。興奮を止められなかった。

 母親が死んで悲しいという気持ちと、死んでしまえば生きていたころなど関係なく等しく肉塊になるその虚しさが、それでいて美しいさまが混ざり合い、熱となって襲い掛かる。

 興奮が止められない自分を、ひどく罰した。ひどく嫌悪した。大嫌いで、最悪で、今すぐ自害したいくらい嫌だった。

 しかし――止めることができなかった。

 その虚しく間違った興奮の渦の中、サトリは伸ばされた手をそっと握りかえした。

 その日、自分が殺した母親の手を握りながら

 死体に興奮し、私ははじめての自慰をした。

 この”趣向”は、変えたくても変えられない、生まれ持った自分の”本質”だと気づいてしまった。

  §

 ザクッ!!

 地面に突き刺さるスコップで、サトリの意識は今の瞬間にかえる。目の前には、左手と右目を失った男が、不服そうな顔でこちらをにらんでいる。

 「ハァ~~~? 教えてくれねぇのかよ」

 ちゃっかり死体を埋める穴掘りをサボろうとしているマヤを睨みつけながら、呆れたようにサトリはため息をついた。

 「教えるわけがないでしょう、理由なんて。いいから黙って手を動かしなさい」

 軽くあしらいながら、サトリは車に背をもたれ、胸ポケットから煙草を探す。

 持ちにくそうにスコップと格闘していたマヤは、ある程度格闘したのち、こちらに抗議を出してくる。

 「っていうか、手伝えよ!!」

 それもそのはず、見せしめとして利き手をねじり切ったので、慣れていない右手しかなくてますます扱いにくいのだろう。

 しかし、そんな要求は却下する。

 「嫌です」

 「グッ……」

 少し真顔で突き放せば、恨めしそうな顔をして諦める。この男のあしらい方のコツは掴めてきた。

 大人しくスコップを掴んで再度掘りすすめながら、気安く雑談をしかけてくる。

 「なんでお前が殺し屋なんてやってるか、気になるだろ? しかも、死体を掘るのが専門だなんてな」

 煙草を口に含む。

 どうせいつかは別れる人間なのだ、正直に話してもいいかもしれない。そんな考えが少しよぎるが……この男はわめいたり苦しんでいる方がお似合いなので、その考えは却下する。

 「趣味の一環です」

 「んなワケねぇだろ!!」

 ギャーギャーと喚き始める男を無視するように、もう一口たばこをすって、はいた。

 あまりにも煩いので、少しだけ正直に教えてやろうという気になってくる。

 「……それに、貴方を誘拐したのは本業とは関係がないです。ある方に頼まれて、貴方を誘拐するように言われました。後三ヶ月預かったら貴方をその方に引き渡して……」

 「その後は?」

 少し、強張った顔で聞いてくるマヤに、サトリは面白くなって笑顔になった。

 「さぁ? ひどい目に合うんじゃないですか? 貴方を誘拐してこいとしか聞いていませんから使い方はわかりませんその優秀な頭脳を生きたまま無茶苦茶に脳姦して興奮する依頼主かもしれませんし」

 「ウゲェエエエ!!」

 想像して気持ち悪くなったのか、マヤは一気に青い顔になる。

 その様子をせせら笑いながら、続きを促すよう止まっている手を軽く蹴った。

 「私は、貴方を依頼主に引き渡すまでは生かしておきますが、その先はどうなるか知りませんから」

 突き放すように言うと、とたんにマヤは慌てだす。

 「ひ、ひでぇ!! この前も言っただろ、俺は……」

 ピルルルルルル……

 聞きなれた携帯の音に、二人はそちらの方へ顔を向ける。

 「……どうやら、仕事が入ったようですね」

 サトリは、自分が笑顔になっていくのが分かった。

  §

 ハァ……ハァ……

 暗い森に、男の荒い息遣いと、地面に何かを埋める音だけが響く。

 小さな人間――子供が一人はいるほどの穴を、必死に埋めていた。

 「クソッ! また、またやっちまった……! あの時から、興奮するとすぐこうだ!」

 独り言を大きな声で叫びながら、顔には脂汗をかき、青いというよりは白くなってしまっている。必死に掘りすぎたのか、男の手からスコップが滑り落ち一緒になって倒れた。

 やわらかい土の上に倒れた男は、わなわなと震えた後、汗ばんだ指を握り締め苛立ちとともに地面をたたく。

 「クソックソクソクソッ! もう、嫌だ! もう嫌なんだ…!」

 大きな大きな叫び声をあげた後、うぅ、とうなり声をあげて、男は地面に突っ伏す。

 脳裏に浮かんでいるのは、数ヵ月前の映像だった。

 ――黄色い帽子をかぶった、ランドセルを背負った少女。

 まだ幼い足が、すこし短めのスカートの下から二本伸びている。お母さんに作ってもらったのだろうか、かわいらしいきんちゃく袋を揺らしながらスキップをして歩いている。辺りには誰もいない。

 その様子を見て――今までさんざん抑えてきた、危険な本能が暴れだした。

 まだ性の概念さえもよくわかっていない、ウブで清らかな少女を追いかけ、そのランドセルを掴んで引き倒す。一発殴ってしまえば、はじめて受ける暴力に、少女は泣いて大人しくなった。

 近くの林に引きずり込んで、俺は少女を犯した。

 ――両腕を掴んで押し倒した時の、怯えた目を覚えている。得体のしれない物を見る、怯え切った目。それが、自分の興奮をさらにあおった。

 ――どうして、幼い子供も、”女”の機能を知っているのだろう? 受け入れてしまえるのだろうか。それは、男に征服されるために生まれてきたからだ。

 そんな事を思っていたのを覚えている。

 ――ハッと気づいたら、少女は死んでいた。

 行為中に興奮のあまり首を絞めすぎたのだと分かる。青くなった死体をどうすればいいか、呆然とする。

 こんな時にさえいきり立つ己自身が、馬鹿にしているのかのように見えた。

 ……男は暗闇の中、意識を取り戻す。

 誰も聞こえていないのをいいことに、普段溜まっている鬱憤が――本音が――口から止まらなかった。

 「クソッ! クソクソクソ! 人を殺すのは怖いし、気持ち悪いし、面倒だ! もう、うんざりなんだ!」

 一段と大きく、手を振り上げる。

 その拳を地面にたたきつけようとした時――男は、一つの衣類が目に留まった。

 小さな少女のブラウスだ。

 地面に、少女が着ていたであろう衣類一式が乱雑に落ちている。

 今まで高ぶっていた感情も忘れて、そのブラウスに目が釘付けになる。荒い呼吸を抑える事も出来ぬまま、それを手に取って――鼻に押しあてる。

 スゥ―――……ハァ――……

 長く息を吸うと、かわいらしい花のにおいがした。

 「ハァハァ……ハァ……小さい子のにおいだ」

 口から勝手に、恐ろしい言葉が飛び出る。どうしても、これを抑えることができなかった。

 「俺が犯して五発中出しして、泣きながらお母さんの名前を呼んでた、俺が首を絞めて殺した、園埼学園一年二組の×× ××ちゃんのにおいだ…」

 自分でも、最低で最悪で、この世に存在してはいけない程罪深い事はわかっていて。

 そんな自分を常に罰している自分、非難している自分が、俺の事を見てくる。

 ――あの時、少女に関する裁判中に、こちらをにらみつけた母親のような顔をした自分が。

 それでも、抑えきれない。やめたくても、やめられなかった。

 股間が熱くなるのが分かる。

 こんな物、今すぐ去勢してやりたいと思う自分もいるのに。どうしてもやめられなかった。

 「ギャーーーー!!」

 そんな時、近くから男の叫び声が聞こえる。

 「な、なんだ……? 何かあったのか……? アイツ……」

 一緒に来ていたロリコン仲間の顔を思い浮かべる。今の叫び声は、一緒に車を運転して埋めるのを手伝ってくれた友人の声だった。

 男の脳裏に、最悪の場面が浮かぶ。

 「もしかして……警察?」

 そう思うといてもたってもいられず、その場から走り出す。

 (まさか……)

 こんな夜中に、こんな森の奥底に警察が来たら、さすがに気づくはずだ。

 (まさかな? でもじゃあなんだ? 何が……)

 男は走りながら――嫌な胸騒ぎを覚えた。

 (何が起きてるんだ?)

 まるで、これから自分がひどい目に合うような――……

 「あっ、おかえりなさい!」

 場違いに明るい声が、暗い森にこだまする。

 二人の男がそこに居た。

 「遅かったですね……、お友達はもうイッちゃいましたよ?」

 スーツ姿の青年が、場違いに綺麗な笑みを浮かべながら地面を指さす。そこには、一緒に来ていた友人が縛られ転がっていた。隣には、眼帯をしたガラの悪そうな男がスコップをもって屈んでいる。

 「な……、なんだお前ら……」

 場違いにおかしな状況で、男は後ずさる。それを追うように、サトリはゆっくりと歩みを進めながら、胸に手をついて自己紹介をする。

 「申し遅れました。依頼された人物に「天国を見せる殺し屋」中原サトリと申します。死ぬ前に是非憶えておいてくださいね」

 にっこりと、綺麗な微笑みが浮かぶ。

 「こ、殺し屋……!? お、俺に……!?」

 俺が――殺される!? そう理解すると、逃げようとしていた足は震えてもつれ、勢いよく後ろに倒れる。

 「うわっ!」

 なんとかもがいて起き上がろうと顔をあげると、目の前でサトリが男を見下ろしていた。

 「貴方……ロリコンなんですね。二年前のあの日、貴方は通学路の途中で百二十メートル、小学生を追いかけた。無理矢理彼女を捕まえた貴方は、当時小学二年生だった×× ×××ちゃんを林の中で犯した後、殺して川に投げ捨てた。でも、証拠不十分で無罪判決になった。そうですよね?」

 いっそ楽しそうな程の声で、男の罪を並べたてる。

 「×× ×××ちゃんが犯され、殺された時の気分を味わってほしいとの事です。存分にお楽しみください」

 そういうと、サトリの笑みは変貌する。今までの少女のように優しげな笑みから、心底楽しそうな笑みに。

 その目は――覚えのある情欲に濡れていた。

 そう、自分が少女に向けているときのような、野蛮で愚かな獣欲に。

 ――自分が、性欲を向けられている――

 「ひ、ヒィイイイイイ……!!」

 その事実を感じるとともに、口から勝手に悲鳴が出る。その様子さえ楽しそうに見下ろしながら、追い詰めるようにサトリは男の両腕を掴んで地面へと引き倒す。

 「どうしました? 逃げてみますか? 百二十メートル追いかけっこしましょうよ」

 暗闇の中で、ギラギラと興奮した目だけが強く印象づけられる。よく見えないが、足にサトリの興奮した物がガツガツと当たって、自分が性の対象とされていることを理解させられる。

 怖い。怖い、怖い怖い怖い。抵抗も出来ずガクガクと震えて、ぎゅっと目をつむる。

 その時脳裏に浮かんだのは――自分が犯した少女が見せた怯えた目。

 この男は、自分と同じことをしているのだ。

 そう思うと、とたんに怒りがわいてくる。

 「クソッ……クソ! お前も……! お前も俺とおなじ、クソ変態野郎じゃねぇか!! そ、そんな奴が正義ぶって俺を、俺を殺す気か!?」

 そうだ、コイツも似たような奴なのだ。世間とはずれたものに興奮し、それを抑えきれず実行に移す――クズだ。それなのに、自分を殺そうとしている。

 「お前も、ヤりたくてヤりたくて、仕方ねぇんだろぉ……!? 抑えきれなくて、いつも胸の中で、欲望が暴れ回ってるんだろ……!?」

 サトリの目が、少しだけ見開く。

 「俺だってなぁ、好きでこうなったんじゃない!! もうこんな……こんな性癖、うんざりしてんだよ!! でもよ、捨てたくても、捨てられねぇんだよ………!!」

 散々自分を罰してきた。やってはいけないと頭ではわかっていて、やっている最中も自分は何をしているのかと自問自答し、やった後の罪悪感に苛まれ、苦しんだ。

 でも、やめることができない。とても苦しいのに求めてしまう。

 ”ロリコン”は、男に深く深く根付いた、捨てられない”本質”だった。

 「…………」

 サトリの脳裏に、自分の母親を殺した時の事が浮かぶ。

 母親が死んで悲しいのに、苦しいのに、辛いのに――どうしようもなく興奮する自分。その興奮はいくら手綱を引こうとも制御することはできない。そんな自分が、酷く嫌いでたまらない。

 どんなに嫌悪しようとも、求めてしまう捨てられない”本質”。

 「そうですよ?」

 まるで自分に言うように、言葉を紡ぐ。

 「持ちたくもない性癖を飼いならしながら、逃げ場のない欲にうんざりしながら、生きているんです。ですから――これは正義心などではありません。ヤりたくて仕方がないから、殺る。貴方と同じように」

 そういうとサトリは――極上の笑みを浮かべて、男の顎を引き優しくキスをする。軽く触れるだけの唇はひどく柔らかくて、まるであの時犯した少女のようだった。

 ぽかんとした表情をすれば、サトリはかわいらしい声でルンルンとつぶやく。

 「最期の選別です」

 少女のような顔をして――サトリは男の最たる欲でもって男の服を引きちぎる。

 「う、うわああああ!!!!!!!!!!」

 男の悲鳴が森に響き渡るが、誰も来るものはいなかった。

  §

 ユラユラ……

 煙草の煙が揺れるのを、ぼんやりと眺める。

 深夜の森は、風で揺れる木の葉や、虫の音、鳥の鳴き声――そして、車内で激しく何かをする音だけが響いていた。

 「またか……………」

 マヤもいい加減慣れてきて、どうでもいいとばかりボーっと煙草に集中する。

 煙の中で、先ほどの男の言葉を思い出す。

 「俺だってなぁ、好きでこうなったんじゃない!! もうこんな……こんな性癖、うんざりしてんだよ!! でもよ、捨てたくても、捨てられねぇんだよ………!!」

 その言葉をかけられて、一瞬サトリは動揺していたように見えた。気のせいかもしれないが。

 そして自分も――どうしようもないシンパシーを感じていた。

 捨てたくても捨てられないもの。その苦しさを十分に理解できた。

 (サトリも、もしかしてそう思ってんのかなぁ…)

 バタン…………

 サトリが車から降りてくる。

 「終わったのかよ?」

 やる事もないので気軽に声をかければ、疲れ気味のサトリはため息をついて車にもたれかかる。

 「いいえ、まだです。十回犯した後、殺して剥製にしてオナホに改造して公衆便所に置けとの事ですから」

 なんでもない風に言いながら胸ポケットから煙草を探すも、空になったケースしかなくて舌打ちをつく。

 「趣味わりぃ……」

 うげぇ……という顔でマヤが答えれば、それをちらと見たサトリは、真顔を一層深める。

 「……、分かっていますよ。趣味が悪い事は、十分」

 ぽつりぽつりと、言葉を続ける。疲れているからか、それとも先ほどの男に言われた言葉のせいか、普段のサトリよりも饒舌だった。それを、マヤは静かに聞く。

 「でも、殺されようが、裁かれようが、死刑にされようが。絶対に私の本質が変わったりしない。人を殺せば勃起するし死体に欲情します。それが異常だと、分かりすぎているのに。体の中に渦巻いて、ずっと暴れ続ける。熱のような”何か”」

 脳裏には母親の顔が浮かぶ。母親の言葉が浮かぶ。

 「これがなければ私を私とは呼べないような――本質的な”何か”」

 静かに懺悔するように。

 「私が私でいる限り、消し去る事の出来ないコレに。私は世界で一番うんざりしているんです」

 誰にも明かしたことのない言葉を、口に出していた。

 「……」

 見た事のない顔のサトリを見つめながら、マヤは煙草をふかす。

 逃げ回っても、消し去りたくても、消えない自分の”本質”。

 それに苦しんでいるのは、それが存在するだけで苦しくてたまらないのは、自分だけではなかったという事。

 サトリの暴力こそが、マヤにとっての希望だ。それと同じように、サトリの絶望を、少しでも無くせたら。

 同情のような、純粋な善意のような、曖昧な願いと共に――口に出す。

 「俺は……」

 暗闇の中、たばこの火だけが明るく灯る。サトリはそれがやけに眩しく感じて、目を細めながらマヤの顔を見る。

 マヤは笑っていた、あの時のように。

 「許すよ」

 サトリの世界の暗闇の中で、マヤの煙草の火が爆ぜ、光る。

 「お前が世間から許されない性癖を持っていても。俺は、それを持っていることを、許してやるよ」

 たった一つ、世界で唯一の、自分の”本質”が存在する事を許すもの。

 「……」

 サトリはやはり、嫌そうな顔をした。

 許しなどいらないという強烈な嫌悪感、自分の事など他人に分かるはずがないという拒否感、そんな事を容易く口にするマヤへの怒り、そして――ほんの少しの、救い。

 自分からも他人からも、世界からも許しがたい行為を、”許す”という男。

 「そう言えば、私があなたを殺すと? その頭脳、よく使えていますね」

 「違う」

 いらだちと共に皮肉を言えば、そんな皮肉を真面目な顔でねじ伏せられる。

 「ただ、お前に――少しでも救われてほしかった」

 感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、色を混ぜすぎた絵の具のように、深い深い黒になる。

 どうしてそんな顔をする。

 どうしてお前の手と目をえぐり取った残忍な自分に。

 どうして自分のような異常者に。

 どうしてもうすぐいなくなる自分に。

 どうして、どうして、どうしてだ!

 手が、訳の分からない男をこの世から消したくてうずうずしている。既に割り切ったと思っていた感情をかき乱すこの男を。半端な希望を与えようとしてくるこの男を!

 ――サトリの手が、マヤに伸びる。

 怖かった。一度伸ばしてしまえば、希望を手放したくなくなってしまうから。だから。

 ――暗闇の中で光る、煙草に伸びた。

 「私には――いりません、そんなもの」

 震える声でサトリは煙草を奪うと――それを踏みつけて消してしまった。

 《章:NO FUTURE 前編》

 「またリボンが曲がってる」

 幼い手が、僕の胸元のリボンを結びなおす。

 その手は器用にわっかを作り、自分がやるよりももっと綺麗に、紐をリボンへと仕上げていく。

 「まっすぐ結べないのか?」

 その声は自分の優位性の現れのような、自分よりひ弱なものを見るときの哀れみのような、そんなニュアンスが含まれていてひどく自分の心をあわれにさせる。

 「だからお前は死ぬんだよ」

 その柔らかい唇から告げられる事実は、覆い隠したくなるほど正直だ。

 (どうして?)

 自分の心がどんどん貧相になっていく。

 「お前が私より不器用だからだ」

 (どうして)

 どうしようもないものを暴き立てられ、笑われているような感覚。お前が悪いんだと、自分が責められているような感覚。

 肥大していく。

 「だから、私の言う事を聞けばいい」

 殺したい。

 (どうしてそれだけの差で、僕が死ななければいけない?)

 殺したい、殺してやりたい。

 (どうして生きることを否定されなければいけない)

 目の前の姉を、殺してやりたいんだ。

 「――さ、行くぞ。サトリが来てる。回収されろとの事だ」

 リボンを結び終わった姉は、くるりと僕に背を向ける。

 その背中は呆れるほど無防備で、今僕が襲えば殺せるのだと思った。

 しかしそれは――姉が僕を信頼している証でもあった。

 「……」

 ぐるぐると渦巻く感情が大きくなっていくのを感じながら、僕は姉の後をついていった。

  §

 「なんですか?」

 「……別に」

 穴掘りの作業をさぼって、サトリを見ていたのがバレたらしい。目線があった瞬間、いたたまれなくなって目をそらす。いぶかしげな顔をした後、サトリは吸っていたタバコを足で消して、新しい一本を胸ポケットから取り出した。

 「もうすぐ貴方と別れられると思うと清々します」

 誘拐されてから、すでに三ヵ月と半月は経っていた。サトリの言う通りなら、”依頼人”とやらに俺を引き渡す日はもうまもなくだろう。

 その間も変わらず、サトリは人を殺し俺は穴を掘っている。

 「よかったな、お荷物が減って」

 嫌味のような口を叩けば、笑うことなく真顔のまま返答が返ってくる。

 「むしろ、それ以上手も目も足も取られなかった事を感謝してほしいんですが」

 「なんでだよ!!」

 ――あの時、俺がサトリを「許す」と伝えたときから。表面的な関係性は変わらないが、何かが変わったような気がしていた。

 何か、がなんなのかは、自分でもよくわからない。連帯感とも、共犯者同士の空気とも、何かが違う。しかし少なくとも、誘拐犯とその被害者の間の空気ではなくなっていた。

 そして困ったことに――この空気感が、悪くないと思っている自分がいる。それが何故なのか、理由は分からないけれど。

 また勝手にいたたまれなくなってきて目を逸らそうとすると、目の端にサトリのシャツのボタンがうつる。

 「……おい、ボタン取れてるぞ」

 気づいてしまったからには、放っておくのは気持ち悪く感じて、つい首元のボタンへ手を伸ばす。

 「……」

 サトリは何も言わず、その行為を受容した。後にひけなくなったマヤはボタンをしめようとするも、片手しか使えないので苦戦する。ボタンと格闘しながら、時折手が首をかすめる。そのたびに、サトリの人間にしては冷たい肌にマヤはぞわぞわしていた。

 「………なんだよ」

 マヤは、その様子をサトリがじっと見ていることに気づいた。サトリは、にやっと口の角をあげる。

 「片手でボタンをしめるのを手こずっている貴方を面白可笑しく観察しています」

 「テメェ……」

 にやにやと笑うサトリを睨みつけながらも、なんとかボタンを穴に入れることに成功したマヤは首元から手を放す。サトリはボタンのはまり具合を確かめながら、ぽつりと言葉をもらした。

 「別に。貴方が一緒でも苦ではありませんよ」

 それが、『よかったな、お荷物が減って』という自分の言葉への返答だと気づくのに時間がかかった。驚いて言葉を発しようとサトリと目を合わせると、サトリはにっこりと笑っていた。

 「穴掘りが楽ですし、貴方をおもちゃにも出来る」

 「おい!」

 いつもの冗談か…? と思うも、先に発した言葉はそんな風には聞こえなかった。

 ――サトリも、二人の間に流れる”何か”の空気を感じている。そう思えた。居心地がいいのは自分だけではなく、サトリもそうなのではないか? 考えていることが言葉に出そうになって、口をつぐむ。

 それを伝えて、何になるというのだろう? もうすぐ自分は引き渡されて、どうなるかわからないのに。またサトリの顔を見ては――口をつぐんで目をそらす。ここ最近、ずっとそうだった。

 マヤのそんな姿を見て、サトリはからかうのも飽きたのかタバコを口に含む。甘ったるい煙を吐き出しながら、思いだしたようにサトリは言った。

 「そうだった、それよりも。お客様を迎えに行きましょう」

 「?」

 殺しに行くのではなく、迎えに行く? はじめてのパターンに首をひねりながらも、促されるままマヤは車の助手席に座った。

  §

 「手を切られたのか、見せろ」

 「目も気になるね、ノア」

 「そうだな、全身毟って見てみたい」

 「ギャーーーー!!」

 衣服をはぎ取られそうになりながら、マヤは叫んだ。

 目の前にいるのは、柔らかい髪色をした二人の少年少女だ。サトリの着ているスーツと同じ色の、灰色のかしこまった服を着ている。その少年少女が、なぜか、自分の衣類を全部脱がせようとしてきていた。

 「だ、誰だっ! こいつら!」

 思わずサトリに助けを求めるように目線を向けると、笑いをこらえるような顔をしながら返事だけはしてくれる。

 「こいつらとは失礼な。依頼人のご子息ですよ」

 半笑いで返答してくるサトリの声で、挨拶がまだだと気づいたのか、二人はいったんマヤの服から手を放す。ほっと一息つきながら衣類の乱れをなおしていると、二人はかしこまったように立つ。

 「挨拶が遅れたな。私は萩原 ノア。こっちは……」

 「弟のソーマ。よろしくお願いします」

 姉はスカートの両端をつまみながら、弟の方は胸に手を当てながら礼儀正しく、軽い会釈をしてくる。先ほどの理不尽な要求とはうって変わった様子に面食らいながら、マヤも「あ、あぁ…」なんて気の抜けた返事を返した。

 「双子か?」

 「あぁ。同じ日、同じ時間にこの世に生まれた同士だ。よろしく頼む、樋口マヤ」

 こちらの事情はもちろんしっているのか、見知らぬ相手から自分のフルネームが飛び出してくる。そのことに少しだけ照れながらも、説明を要求するようにサトリの方を見れば、なぜかサトリは先ほどよりも距離をとってバンの近くに立っていた。

 「回収して貴方と一緒に連れてくるように言われましたので、これから一緒です」

 「こっ……これから二週間一緒!?」

 「えぇ」

 先ほどの様子を考えるに、自分がひどい目にあうことは確定事項のように思えた。せめて、依頼主に引き渡されるまでは平穏に過ごしたかったのに……という願いでサトリを見ていれば、彼は自分のバンに乗り込みエンジンをかけている。

 「それじゃあ、私は今回のターゲットの下見がありますからでかけますね」

 「うぇっ……!? 待てよ!」

 サイドブレーキをあげ、ギアをかえ、アクセルを踏む。車が動き出した。

 サトリは見たことがないくらいの満面の笑みで、窓からマヤに手をふる。

 「ガキは嫌いなんですよね。それじゃ」

 「えぇーー!!??」

 車はあっという間に走り出し、すぐに姿が消えてしまった。

 「「よろしく」」

 「……」

 残ったのはマヤと、死体を掘る穴、スコップ、そして凶暴な双子達だけだった。

  §

 「嫌ぁ~~~~!!!! パンツはやめろ!!」

 そして予想通り、マヤは酷い目にあっていた。

 すでに上着はすべて奪われ、パンツまで取られそうになったところで抵抗をしているが、二人がかりでこられ最後の矜持さえも危うい状況になっている。

 「何故嫌がる。ソーマと大人の体を見比べてみたい」

 「力弱いのにいつまで抵抗するんですか? お兄さん」

 確かに、双子は子供ながら大人の自分より力が強く、必死に抵抗する腕にも限界がこようとしている。

 「お前ら……人の服は脱がさないって教わらなかったのかよ! 人に服脱がすのを強要するのは、い、いじめだぞ!!」

 双子の純粋な知識欲に蹂躙されながらも、情に訴えかけてみれば、それが逆効果だったようで姉のノアはむくれあがる。スクリと立ち上がったかと思えば――

 「むぅ、仕方がない。それならば、私も対価に脱げばいいのか?」

 自身のスカートを脱ぎ始める。

 「や、やめろ!! それだけはやめろ!!」

 下着が見える前にとっさに手でスカートを押さえつける。ぶるぶる震える手でおさえながらも、体中から冷や汗が止まらなかった。

 (俺が脱いでも、ノアが脱いでもダメだ! でもノアに脱がせるわけには……)

 コンプライアンス、ロリコン、犯罪者、逮捕、刑務所、石を投げられる自分までが高速で流れていき、最後に馬鹿にしたようなサトリの顔まで浮かぶ。たとえ誰に見られているわけではなくとも、それだけはさせてはいけないとマヤの倫理観が警鐘を鳴らす。

 (どうすれば……!!)

 ノアに脱がせるくらいなら、いっそ自分が脱いだ方がまだマシなのでは――…?

 脱いで一通り観察すれば満足するだろうし……。

 自分が脱ぐことと、ノアが脱ぐこと。その二つを天秤にかけた時、マヤが脱ぐ方がまだましなように思えた。

 よし……! 悲痛な覚悟を決め、ノアのスカートから手を放し、自身のパンツへと手を伸ば――……

 「……飽きた」

 残酷なほど気まぐれな言葉が響いた。

 子供特有の、飽きるときは今まで何もなかったかのようにあっさり身を引くアレ。

 「ソーマ、外で遊ぼう」

 「あーはい。そうしましょうか、ノア」

 二人はサトリが残していったボールを持つと、もうマヤなどどうでもいいと言わんばかりに走り出してしまう。

 「……」

 自らの覚悟を折られたマヤは、少しの間裸同然のまま遠くを見ていた。

 二人の少年少女が、夕暮れの中ボールをけり合っている。

 かわいい蹴り合いではなく、本気でやりあっているようだ。マヤは間に入る事なくそれを遠くから眺めている。

 (……こいつら、俺を誘拐してこいって言ったやつの息子? 娘? なんだよな)

 先ほど、サトリはこの二人の事を”ご子息”と言っていた。

 自分の誘拐を指示した人間は、この少年少女の親という事だろうか? それならば、歳は四十~五十代か、それとももっと高いのか低いのか……。

 夕暮れと夜の狭間で、影法師が舞っている。その様子をぼんやりと眺めながら、誰も答えの教えてくれない問題をとこうと思考を巡らせる。

 (一体どういう奴らなんだろう。どうして俺は誘拐されたんだ?)

 そもそもどんな目的で、何をするために誘拐したのだろうか。――何故俺なのか? 頭がいいだけなら、他にもごまんといるだろう。しかし、その中で何故俺を攫ったのか?

 ――やはり、誘拐されても騒いだりしなさそうな奴を選んだのか?

 それとも――死にたがりだから?

 その時――

 パァンッ!!

 炸裂音のような、何かが割れたような音が辺りに響く。ハッと我にかえると、ソーマが地面に伏していて、それを仁王立ちでノアが見ていた。

 「ふふ、お前は本当に不器用だ。一回も私から球をとれてないじゃないか」

 「……」

 得意そうなノアとは対照的に、ソーマは心底悔しそうな顔で俯いている。喧嘩というにはただならぬ雰囲気に割って入ろうとすれば、その前にソーマが立ち上がり、ノアに背を向けてこちら側に歩き出した。

 「おい、一人で遊べというのか!?」

 割れたボール――おそらく、ノアが脚力で割ったのだろうか? ――を手に持ち、彼女はソーマの背中に話しかける。

 「遊んでなよ、”優秀な姉さん”」

 しかし、吐き捨てるような言葉で、ソーマはそれを拒絶した。

 そのまま、マヤの隣まで歩き座る。ノアはあきらめたのか、割れたボールで一人遊びをはじめた。

 「……」

 むすっとした顔のまま、ソーマは姉をにらみつけるように見ている。子供の喧嘩なんて仲裁した事がないマヤは、どう話しかけるべきか迷いながらも、このままではいけないと思い口を開いた。

 「お前のねーちゃん、確かに器用だなぁ」

 「……」

 しかし、ソーマからの反応はない。自分の言葉が間違っていたか? と焦りながらも、なんとかソーマを慰めようとさらに言葉を続ける。

 「自分にとっていらないものが捨てれないって、嫌だよな。俺も捨てたいものがあるから、よく分かる」

 ぴくり、とソーマが反応を示す。どうやら琴線に触れたようだ。

 「これがなかったらいいのにとか、自分の持ってないものをいいなってうらやましがるのとか。……わかるよ」

 慰めの言葉を言いながらも、自分の傷をうっすらとなぞっている自分がいる。

 もしものIFを考えてしまう自分はいる。この”頭脳”がなかったら、自分は普通に生きていたのだろうか? 仲良くできたのだろうか? 誘拐されていないのだろうか?

 でも、捨てられないものを捨てられたら、なんて考えるのは猛毒で、考えれば考えるほど、捨てられない事実だけが際立ってしまう。

 きっと、目の前の少年も、自分と同じような毒沼に沈んでいるんだろう。そう思うと他人事のように感じなくて、つい言葉に出してしまった。

 ある程度はソーマにもそれは伝わったようで、ぽつぽつと口を開いてくれる。

 「……どうして、不器用は要らないから捨てるってできないんでしょう。どうして、姉さんは器用でいいなって、思ってしまうんでしょう」

 夕日に照らされたソーマの顔は、泣きそうな、苦しそうな、嫉妬にかられているような。くちゃくちゃな表情をしていた。

 「……」

 捨てれないからあきらめろ、そのほうが楽だ、なんて簡単にマヤには言えなかった。

 「そうだな、捨てれたらいいのになぁ」

 かわりに出たのは、その場しのぎの同情だ。

 それでも少しくらいは効いたようで、うっすら浮かべていた涙をソーマは拭った。

 「……」

 二人で、沈みかけている夕日を見る。空の端は既に暗く、赤い夕暮れが目に入る全てを染めている。寂しそうに一人でボールを蹴るノアの背中に感じる哀愁も、その背中を見てソーマが罪悪感を感じている様も、全部赤くなる。

 「わかってます、ノアが選ばれるのは、わかってるんです」

 そう、ソーマがポツリと呟いた。

 「え?」

 驚いてソーマの方を見ると、彼は覚悟を決めたような笑みを浮かべていた。

 ブォォオオ……

 車のタイヤの音が響く。音の方を向けば、扉をしめサトリがこちらに降りてくるところだった。

 「マヤ」

 赤い世界に冷たい声が響く。

 「次の仕事をはじめますよ」

  §

 望遠鏡の二つの丸の先に映るのは、繁華街の一角。二階の窓からは、VIP席だろうか。複数の男女が、いやに近い距離で話し合ったり、淫猥な行為をしているのが見える。

 その中でひときわ目立つのが、長身の男だ。百八十センチ後半はあるだろうか、がっしりとした体つきと、こわもての顔に傷が印象的だ。

 「見えますか? 次のターゲットはあの男です」

 隣のサトリも同様に望遠鏡をのぞいている。そしてその後ろには――

 「……って、なんでここに双子を連れてくんだよ! こいつら子供だぞ!」

 ノアとソーマの二人も一緒に来ていた。二人は夜だからか、眠そうにしている。

 「依頼主から、実戦経験をつむために見学させるよう言われましたので」

 「どーなってんだ、お前らの主は……」

 なんでもない風にいうサトリの倫理観を疑いながら、望遠鏡から目を離し、バンに広げた店内の地図を全員で囲む。

 「話を戻します。あの方は人身売買をしており、そこから逃げてきた人物が依頼主です。お店にいる女性は売れ残りで、睡眠時間も碌にとれない奴隷状態で働いている上、ターゲットから性のはけ口にされているようで……」

 そこまで言ったとき、双子二人がお互いに顔を見合った後、こちらに首を傾けて聞いてくる。

 「”せいのはけぐち”ってなに?」

 もう遅いが、ついついマヤは双子の耳を咄嗟にふさいだ。

 「あ~~~!!!? 子供に聞かすなァ~~!!」

 思わずサトリに大声で抗議を言えば、サトリは呆れて返す。

 「うるさいですね、今回二人は一緒についてくるんですから、事前の情報はいれておかないといけません。黙ってください」

 「……は?」

 思わず声が出る。二人を連れていく? サトリがいつもやっているような、殺しの現場に……? 信じられずにサトリの方を見れば、淡々とサトリは作戦を口に出すのみだった。

 「”この双子を売る”という口実で店に侵入し、ターゲットを誘拐する予定ですから」

 「……」

 たとえ、サトリの倫理観は最初から壊れていたとしても、この二人を性的な現場へ送り込む事に嫌悪感を覚えた。この二人はそういった事を知らないようなのだから、なおさらだ。

 しかし、自分の立場ではサトリに抵抗する事は出来ない。すればもう一度、何かしらの体を失う事になるのだろう。

 何か抜け道はあるはずだ。マヤはどうにか、双子を殺しの現場にも、性的な目線にも晒させず、「仕事を見学する」という命令を達成させる方法を考える。

 「お兄さん、心配しないで。私達、こう見えても”殺し”は嗜んでる」

 「マヤさんくらいなら秒で殺せますよ」

 「……」

 たとえサトリの上司からの命令だとしても、たとえ双子が肯定していたとしても。双子がそういう事を拒否できない立場にある存在なのだとしても。自分が見える範囲では守ってやりたい、そんな気持ちが働いた。

 そして、気づいた。

 「あ、そうだ!」

 「?」

  §

 「下手くそ!」

 ドサッ、そんな音が響く。怒号と共に蹴り倒した女が、地面に倒れる音だ。

 「全ッ然イけねぇ。何分舐めてんだよ、テメェは犬か!」

 女が十分はなめていただろう自分の男性器は、ちっとも元気になっていなかった。ただ、涎だらけになってべとべとしただけだ。近くにあったおしぼりで拭き直しながら、立ち上がりもう一度蹴りをいれる。

 「売れ残り仕方なく買ってやってんだから、少しはうまくなれよ!」

 何度か蹴って満足したところで、一物をしまって女を下がらせた。煙草を取り出して吸ってみるが、怒りは収まらない。柔らかい肌触りの椅子にどかりと座った男は、机に足をのせて小刻みな貧乏ゆすりをしつづけている。

 (どいつもこいつも、クソみてぇな女しかいねぇじゃないか。今月の寄り合い、もうすぐだってのに……。上納金、どうすんだよ!)

 男の貧乏ゆすりは、焦りと不安からさらに激しくなっていく。

 店の売り上げの何割かを渡して、上に毎月金をいれなければいけないのに……、ろくな稼ぎ口がおらず、達成できそうにない。男はそんな状況に陥っていた。

 (あーあ、新しい女攫ってこねぇとダメかな)

 売れ残りばかりのこの店では、見た目も技もないような奴らばかりだ。自分好みの女を手に入れたいという欲がむくむくと膨れだす。

 (目が印象的で、ミステリアス系のスラっとした美女、こねぇかなぁ)

 そんな上物の女は、人身売買の方に出せば特に大金になるし、店に出しても人気になるだろう。都合よくきてくれるわけがない。男はいつも通り、はぁーと大きなため息をついた。

 その時だった。

 「すいませぇ~ん、売りたい物あんだけどいい?」

 一人の男が、店に入店してくる。灰色のスーツに、眼帯と据わった目。左手は包帯でつっており、大きなキャリーケースを引きずっている。どうみてもカタギではない。

 そしてその後ろには。

 まさしく、男が思い浮かべていた――黒い髪、細長い目に蠱惑的な色をした瞳、やや長身だが腰がしぼられてきゅっとした、全身から醸し出される淫猥なオーラの――女が立っている。

 眼帯男はチラと女を一瞥した後、また俺と目線を合わせてくる。

 すぐに何を売りたいのか察した男は、立ち上がった。

 「あ、あぁ! 是非! 奥で話そう!」

 ボディーガードを二人を呼んで、自分の部屋へと客を連れていく。

 (なんてこった、俺が求めていた女が来た……!)

 客に見えないようにしているが――男性器も期待から反応を示している。あまりにも自分の理想の女が都合のいいタイミングで来たので、興奮を隠しきれなくなっていた。

 (最高じゃねぇか!)

 チラ、と振り返れば女と目が合う。女は目線を合わせた後――フ、と。誘惑するように笑った。それにまた興奮しながらも、脳内では今後の予定を書きだし始めていた。

 (どうしてやろう……売るのはもったいねぇ、籍入れてあれこれしてやろうか…)

 下卑た笑いが口から出そうになるのをなんとかこらえて、二階にあるVIPルームに二人を通す。男はどかりと椅子に座ると、さっそく商談を切り出した。

 「それで? いくらで雇ってほしいんだ?」

 「それがなぁ、コイツ借金があって。……月二十五万返済にあててほしいんだけどよ」

 この女が二十五なら安いくらいだ、と思うが、思い切って交渉してみる事にする。

 「五万、まけてくれねぇかな? 利子の分もきちんと払わせるからよ」

 建前上、買った女は働いてもらって給料を出している事になっている。借金で首が回らなくなって身売りするような女は、たいていが切羽詰まっていて選択する余地さえない。そこにつけこんでみる事にした。

 借金返済側も、利息でより金が手に入るほうが嬉しいのだろう。しばし考えた後、返答をよこす。

 「そうだな……じゃあ二十一」

 「よしきた! それで手を打とう」

 男の目論見はあたり、うまく値引きする事に成功する。後は毎日女を店に出させ、ウチに住み込みと称して監禁させれば金は手に入る。その中からいくらか適当に返せばいいだけだ。

 気が変わる前に契約をさせなければ。ついてきたボディーガードに目配せする。

 「それでは、書類の作成をしますので貴方はこちらへ……」

 気がついたボディーガードは、眼帯の男を誘導し扉をあける。相変わらず大きなキャリーケースを引きながら、据わった目の男は振り向いて売り物の女に話かけた。

 「じゃあな、しっかりやれよ」

 ひらひらと手をふると、それを最後に足早に扉の奥へ消えてしまう。

 売る側は薄情なものだ、と少し呆れながら、女をじっとりと、舐めるように下から見ていく。何度見ても引き締まった体をしている。胸はあまり大きくないが、あまりにも顔が美しい。顔まで目線を上げた所で目があい、二ヤつきながらも名前を聞いてみる。

 「それで? お名前は、お嬢ちゃん」

 女は目を細め、にこりと愛想よく笑いながら口を開く。

 「……サトリです」

 「ん?」

 ――何か、声が低かったような気がして、違和感からもう一度話しかける。

 いや、声が低いというよりこれは――

 「中原サトリ、殺し屋です♡」

 男の声だ。

 売り物じゃない、これは敵だ! そう認知するよりも早く目の前の女――いや、女じゃなかったのだが――はすらりと長い脚で後ろにいたボディーガードの首をとらえる。次の瞬間には、もう男は倒れぴくりとも動かなくなっていた。

 「あら、すいませんね。首の骨折れちゃいましたか?」

 悪びれもせずそういうと、太ももに仕込んでいたのであろうナイフを抜き、自分へ向けてくる。

 「次は貴方ですね」

 そういうとサトリは――にやりと。今までの澄ました顔ではない、恍惚な笑みを浮かべる。その顔は先ほどまでサトリへ向けていた自分にそっくりで、何故か背筋がぞくりと寒くなった。思わず椅子からすべり落ちる。

 「だ、誰か! 誰かいねぇのか!」

 このままでは、確実に酷い目にあう――最悪死ぬ――そう気づいた男は、大声で助けを呼ぶ。そうだ、契約に眼帯の男を連れて行ったボディーガードがまだ残っている。あの男が気づけば――……

 そう思ったとき、丁度よく扉が開いた。

 助けにきれくれたのか!? 縋りつくように扉の向こうを見つめれば、顔をのぞかせたのは十歳前後のやわらかい髪色をした少女だった。

 「いるぞ」

 少女は扉を大きくあけ、中に入ってくる。後ろには同じような顔をした少年と、おそるおそるといった風に顔をのぞかせる眼帯の男がいた。

 「うまくやりましたか?」

 「勿論、マヤさんがスタンガンで片づけてくれました」

 片付けた――むろん、ボディーガードの事だろう。助けに来るものは誰もいないという事だ。――じんわりと、絶望が胸に広がっていく。

 俺はこの、目の前の女と見間違うほどの美しい男――中原サトリに、何をされるんだ?

 その疑問の答えは、すぐに本人の口から飛び出す事となる。

 「と言う事です。それでは――貴方の事、ちょっと誘拐させていただきますね。依頼主がひどい目にあわせてほしいとの事ですから」

 ぎゅっと、ビニール製の厚手の手袋をはめながら、満面の笑みで誘拐の宣言をする。

 「ヒ、ヒィィィィ!?!? や、やめろ! 俺は只、この店を任せられただけの下っ端なんだよ! 俺のせいじゃねぇ!」

 男は、抜けた腰をなんとか動かしながら、這うようにして後退する。

 「俺はただ、生き残るためにやった! 仕事をしねぇと殺されるから…やっただけだ! 生きるために他の奴を利用して何が悪い!? 金なら払う! 見逃してくれ!」

 半ば土下座するようなポーズになって、サトリへと懇願する。

 依頼主というのは、俺を消したい上の物なのか、働いていた女なのかは定かではないが、こいつらが金で動いているのは確かだ。依頼主より大金をつめばあるいは――

 「残念ですが、お金の問題ではないんですよね。それに――依頼人は”貴方”を指名しています」

 しかし、そんな淡い期待も壊される。

 「誰がやれといったかとか、貴方が下っ端だとか、生きるためとか。そんな事はどうだっていい。ただ、上から貴方を殺してほしいといわれたからやります。貴方も、そうやってお店を任されたんですよね?」

 この男は、自分の事を情け容赦なく追い立てる気だ。恐怖からさらに下がろうとすれば、部屋の角に手がぶつかる。

 コツリ、と目の前で革靴の音がしたかと思うと、しゃがんだサトリと目が合った。

 サトリは、両手にはめたビニール製の手袋を、まるで手術でもはじめるかのように掲げ、両頬を赤くしながらうっとりした顔で告げる。

 「依頼人から、まず金玉を握りつぶしてほしいといわれましたのでやりますね」

 その言葉を理解する前に、自分のチャックが降ろされ、勢いよく脱がされていく。抵抗しようとしても、見た目に反した腕力にねじ伏せられた。

 あまりの恐怖に、これが性行為ならば自分好みの女が相手で最高なのにな、なんて受け入れられない頭が呑気な考えをはじめる。

 現実は、今まさに自分の玉が死ぬ所だというのに。

 「安心してください、私、上手いので」

 にっこりと笑った顔は、確かに最高の女だった。

 男を追い詰めたサトリがズボンを脱がし始めたのに気づいたマヤは、咄嗟に双子の目をふさぐとくるりと部屋から背をむける。

 「ほら、お前ら二人は車に戻るぞ」

 「えぇ、見たいのに」

 「金玉潰したい」

 想像するだけでひゅんっと背筋が寒くなる感覚がして身震いをしつつも、教育に悪い行為が目に入らないように歩き出した。

 「そんなに人体の不思議が気になるなら、生物学の本でも読んでやるから……」

 生物学の本には、玉の潰し方なんて載っていないだろうけど……。そんな事を考えながらも、店を後にする。

 「ギャーーーー!!!!」

 しばらくして、背後から男の恐ろしい絶叫が聞こえてきた。

  §

 ザクッ…… ザクッ……

 もはやマヤにとって聞きなれた音が、深夜の森の中で響く。その静観な雰囲気と似使わない行為を、今日は一人ではなく二人で行っていた。

 「あんにゃろ……「私は寝ますから穴掘っておいてくださいね♡」だとォ!? どう考えても今からだと朝までかかるだろ!!」

 怒りに任せて地面にスコップを突き刺せば、ソーマも同じようにスコップを置いて一息つく。

 「じゃんけんに負けちゃうなんて……」

 サトリから「死体を埋められるようになるため」なんて理由で穴掘りの手伝いを命じられた双子は、じゃんけんの末姉が読み勝ち、ソーマが穴掘りを手伝わされていた。

 手伝わない二人はというと、車の中でのんびり睡眠をとっている。

 じゃんけんに才能が関係するのかは謎だが、負けてしまったソーマはとても悔しがっていた。その様子を見て、ふと、あの夕焼けの中ソーマとした会話を思い出す。

 「わかってます、ノアが選ばれるのは、わかってるんです」

 それは一体どういう意味なのだろうか? 「選ばれる」とは一体何なのか。ノアが優秀である事と、何か関係があるのだろうか?

 ――自分は、あまりにも自分を誘拐を指示した人物、サトリ達がかかわっている組織、それらの事について知らない。

 「…ねぇ、マヤさん」

 考え事をしていたマヤは、ソーマに名前を呼ばれたことで今に帰ってくる。

 思いつめたような顔で、自分がほった穴を見つめながらマヤの名前を呼ぶソーマ。呼ばれたはいいものの、続きが一向に出てこない事に業を煮やせば、先に顔を上げたソーマの覚悟したような目線とぶつかった。

 「どうして、少しの差があるだけで、僕は死ななくちゃいけないんですか?」

 「へ…?」

 いきなりなんだ、とロクな返事も出来ずにいると、畳みかけるようにソーマの問いかけは続いた。

 「どうして、生きることを否定されなくちゃいけないの?」

 底知れぬ強い――怒り。ソーマから感じる感情は”怒り”だった。

 「な、何の話だよ……」

 思わず後ずさろうとすれば、追うようにソーマが近づいてくる。

 「マヤさん 自由になりたくないですか? サトリさんを殺せば、貴方は自由なんですよ? 僕ら、どうして”持ってる”だけでこんな扱いを受けなきゃいけないんですか?」

 何を言っている? 返事をしようとするも、うまく言葉が出ない。

 「おかしいです」

 ソーマの中で赤々と、夕日よりも赤く燃える――”怒り”、それに圧倒される。

 腹の中で、ぐつぐつと沸騰するように、それは爆発寸前なのだと分かる。

 マヤを貫くような強い感情に、気持ちを揺さぶられる。

 「僕は姉さんを、貴方はサトリさんを殺して、逃げましょうよ。死にたくない 僕は生きていたい! だから……」

 「……」

 殺す。サトリを――殺す?

 (確かに。サトリを殺せば、俺は自由なんじゃないのか……)

 そんな考え、ずっと浮かんでいなかった。元から無理だと、無意識に選択肢を除外していたのかもしれない。しかし――

 (今なら……。油断してる今なら、いける……?)

 誘拐されたばかりの頃は脱走しようとあれこれ企んでいたが、もう三ヵ月は大人しくしていたし、近頃のサトリからは優しさを感じていた。サトリは油断しているのではないだろうか?

 導くようにソーマは車のスライドドアをあける。サトリとノアは、後部座席を倒して二人で雑魚寝していた。

 ――スヤスヤと、静かな寝息を立ててサトリは寝ている。

 「ほら、今です。油断しきって寝てる。今なら殺せる」

 ソーマがマヤの手を取って、サトリの首元へといざなう。

 「殺して、自由になるんだ――生きるんだ!」

 ――生きる。

 それは、マヤにとって縁遠い言葉だった。死にたいと願った事はあるが、生きたいと願った事は今まで一度もなかった。

 ――生きる。

 ソーマのその欲望は、強く眩しく映った。たとえ生きることを否定されていると感じていたとしても、根拠のない「生きたい」を願える事。自分にはないもの。

 ――生きる。

 その言葉がマヤに刻まれる。

 (サトリを殺して、生きる? サトリを殺せば、生きられる?)

 サトリの首に手を這わすと、常人よりひんやりとした感触の肌にびくりと手を震わせる。

 (自由……)

 そうだ、最初は逃げ出そうとしていた。自由になろうとしていた。

 でも、何故それをやめたのだっけ? あぁ、サトリに手と目を奪われて、抵抗をあきらめたんだっけ?

 いや――

 (自由になったら、あの日々に戻るのか? サトリを殺してまでも?)

 あの世界に戻りたいなんて、今ではちっとも思えない。あの息の詰まりそうな、生を否定された、存在を否定された場所に帰りたくない。

 ――あの世界に居場所なんてない。

 それでも、あがくように冷たい首に力を入れてみようとする。

 ――その時マヤの脳裏に、あの時の言葉が浮かんだ。

 ――別に。貴方が一緒でも苦ではありませんよ――

 「……」

 自分の肉体をえぐる人間。

 自分がいても苦じゃない人間。

 自分の本質など、どうでもいいとばかりに穴を掘らせる人間。

 僅かな光の中で、失えない本質の苦しみを吐き出す人間。

 自分を本質までも破壊してくれる人間。

 そんな、そんな奴、はじめてだった。マヤの世界にはいない人間だった。

 自分がここに”いる”事を、許してくれる人間だった。

 力をこめようとしていた手が、ゆっくりと首から離れていく。

 「俺には……できない」

 自由が欲しかったはずなのに、今のマヤにはサトリを殺すことはできなかった。

 「どうして!? 自由になりたくないんですか!? どうして!」

 ソーマは、泣きそうになりながらマヤに訴えかける。自由になる事を――生きる事を望まないマヤがおかしいとばかりに、マヤにつかみかかり揺さぶった。

 「……分からない」

 でも、自分の中に理由を聞いても――よくわからない。自分を誘拐した奴なのに、自分を拷問して目と手を奪っていった、ひどい奴なのに。と頭ではわかっていても、体が動かなかった。

 サトリに死んでほしく、なかった。

 「……俺、穴掘るのに戻る。ソーマも、ほら」

 泣きそうなソーマの手を掴んで、無理矢理車から降ろす。

 「おかしいです。生きたくないなんて、おかしい」

 自分もそう思うよ。そう返事をすることも出来ず、車のドアをしめる。

 「……」

 二人が遠ざかったのを確認して、サトリは薄目をあけた。

 今までの一部始終を、全部見ていた。マヤが首に力をこめようものなら、逆にし返してやろうと考えていたのに。

 ――マヤは、それをしなかった。

 「……なぜ」

 もう一度、眠りにつこうとするも、不可思議な感情が胸に溜まってうまく眠りにつけなかった。

 《章:NO FUTURE 後編》

 「要らない子はどうするのかって?」

 細い手が、私の胸元のリボンを結びなおす。

 その手は器用にわっかを作り、自分がやるよりももっときつく、紐を結んでいく。

 「決まってるじゃないか。死ぬだけだよ」

 その声は絶対的な力を持っていて、自分が拒否することも逃げることも決してできない、従わなければいけないというあきらめを感じさせる。

 「死ななかったら成功なんだよ」

 女性のような柔らかい唇から告げられる事実は、覆い隠したくなるほど正直だ。

 (どうして)

 自分の心が、どんどん焦りを増していく。

 「死なせたくない? あの子を?」

 (どうして?)

 半笑いのような、何故? を突き付けられて、自分の主張がおかしいのかとさえ思えてくる。自分のどうして? を消してしまえれば、もっと楽になるのはわかっているはずなのに。

 肥大していく。

 「君がよくできていれば、あの子は不要になっても死なないかもね」

 生きていてほしい。

 (どうして、ただ”生きる”だけの立場がこんなにも遠いんだ?)

 たとえ、自分たちが代わりのきく存在なのだとしても。

 (どうして、生存を願うことを否定されなければならない?)

 自分にとっての弟は、あのソーマしかいないのだから。

 (どうして……)

  §

 「今日も穴掘りご苦労様です」

 「掘らせてるのはお前だろ」

 今日も今日とて、マヤはサトリの指示で穴を掘っている。今日はというと、めずらしく山ではなく切り立った崖の下、小さな砂浜に穴を掘っていた。

 砂がさらさらしている分、いつもと勝手が違うことに手間取って汗まみれで掘っているマヤの様子を、サトリは煙草を吸いながら娯楽として眺めている。(趣味が悪りぃ!)

 「掘らないといけない立場にいるのは貴方ですねぇ」

 いつもの香りの煙を口から吐きながら、見下すようにせせら笑うサトリについ反抗心が芽生えてしまう。

 「掘りにくくしたのはお前だろ!?」

 「原因を作ったのは貴方ですねぇ」

 暖簾に腕押し、なんのダメージも食らわず受け流される。ぐぬぬ……とこぶしを震わせていると、ひょこり、とサトリの脇から双子が顔をのぞかせる。

 「サトリ、マヤに掘らせるより私達に任せた方が早いだろう」

 確かに、双子のほうが自分より力が強いし、両腕ある分早いだろう。思わぬ援軍に期待を抱けば、すぐさまそれも落とされる。

 「それでは、私の息抜きが無くなってしまうでしょう?」

 「わぁ~サトリさん、本当にマヤさんが好きですね」

 「えぇ、面白いですよ。片手で穴を掘らせると特に」

 そういうと、サトリは吸っていた煙草をマヤが掘っていた穴にポイと捨てて笑った。

 「あqwせdrftgyふじこlp」

 スコップを持ちながら声にならない声で暴れてみるも、抗議もむなしく、もうマヤに興味をなくしたとばかりに三人は海の方へ行ってしまった。

 「はぁ~……ちょっと休憩」

 穴もほとんど掘り終え、ごつごつとした岩場に座り込む。自分達がいる砂浜は崖下のちょっとしたスペースで、車で入ってこれるような場所だが目立たない。眼前の砂浜は磯で囲まれており、海の深い所と浅い所が入り混じっていた。上を見れば切り立った崖になっており、上から落ちて運悪く磯に当たったら死ぬだろうな……といやな想像をする。

 「マヤ、私も休むぞ」

 「僕も」

 そういいながら、双子も隣に座り込んできた。

 海で遊んでいた二人の服は濡れている。転んだのだろうか、ソーマの方はびっしょり濡れていた。

 「お前らは海で遊んでただけじゃねぇかよ……」

 先ほど、自分を置いて海に遊びにいってしまったことをまだ根にもってるマヤは、呆れながらも二人が座りやすいように端に詰める。

 「なぁ、先日言っていたこと。私は覚えているぞ?」

 「先日? 俺なんかいったっけ?」

 双子に変なことを教えないように、発言には気を付けているつもりだったが……。サトリの方は容赦ないので、もしかして漏れてしまっているのだろうか? そんな事を考えていると、ソーマが言う。

 「あぁ、あれですよね姉さん。僕らの事、子供だって」

 「そうだ。ひどいぞ、子供だなんて。穴も掘れるし、立派に人も殺せる。力も強いだろう? 子供じゃない」

 ふふん、と得意げに胸をはってノアは言う。つられて、ソーマも自信満々にうなずいている。このぐらいの年の子は、”子供”と思われるのは嫌か……と思いながらも、そういう所が子供っぽいなとも思う。

 「子供じゃない、なんていうのは子供だけなんだよ。それに、お前らは子供だよ」

 そう告げると、二人はむーっと頬を膨らます。ノアがソーマの方を見ると、ソーマもノアの言いたいことが分かったのだろうか、にやりと笑いあう。悪い予感がする。

 「姉さん、この前のサトリさんの真似をしてみましょうか?」

 「いいな、睾丸を握りつぶすんだろう?」

 「真似するな!!」

 悪だくみをする子供のように、とんでもないことをいう二人に思わず声が出る。二人が大きくなった時に、変な性癖に目覚めてしまわないか心配で頭を抱えた。

 二人の言い分を聞くに、”大人”を振りかざして制限する俺が面白くないのだろう。少しの間、どうしようか考えたのち、素直な気持ちを伝えることにした。

 「……子供の時代っつーのは、最初しかなくて後はずっと大人だろ? だから今の時間は、とても貴重なんだよ。……二人には、大人から変な思いをさせられてほしくなかっただけだ」

 心配なのだ。サトリが連れてきた自分には縁もゆかりもない双子だが、縁ができてしまったからには無視することはできない。

 サトリは双子を子供扱いなどしない。おそらく、それは双子がかかわってきた大人ほとんどに当てはまるのだろう。だからこそ、”大人でいなくてはいけない”そんな考えに双子が憑りつかれているような気がした。

 それに……

 ――生きるんだ!

 そういったソーマには、自分にはない力を感じた。その力を、生への渇望を、二人にはなくしてほしくなかった。

 その真意が伝わったのかはわからないが、ノアは小さく笑う。

 「……ふふ、私達を”子供”扱いするのはあなたぐらいだよ。ありがとう。今までそんなこと、されたことがなかったから。――うれしかったんだ」

 「ノア……」

 子供でいることが許されない世界は、どれくらい息苦しいのだろう? ――自分が自分でいることを許されなかったマヤは、胸がずくりと痛くなる。

 勝手に傷をえぐられていると、ノアがマヤの手を取って、手のひらに何か固いものを置いてくる。なんだろう? と手を広げれば、そこには鈍い輝きを放つ、綺麗な石が置いてあった。

 「マヤ、これをあげよう。先ほど、ソーマと拾ったんだ」

 「きれいですよね? 宝石かもって、姉さんと話してたんです」

 二人は、すごいものを見つけたといわんばかりに笑顔になっている。その大発見を自分にも驚いてほしいようだった。

 その石を傾きかけている太陽にかざすと、青のような緑のような輝きで光った。

 (シーグラス、ガラスが海の力によって角が丸くなったもの)

 これが何なのか、マヤは知っている。自分の中の知識が、答えを出してくれる。

 シーグラスを見たことがない二人は、もしかしたら海にはじめて来たのかもしれない。何も知らない海でこんな石を拾ったら、宝石だと思うだろう。

 知識がある自分は、これが誰かの捨てた瓶のかけらだということを知っていて宝石だなんて思えないだろうし、拾わないだろう。でも、知らないからこそ、二人にとって素晴らしい価値があるものになる。

 「本当だな、きれいだ。もしかしたら、誰かが宝石を海に落っことしたのかもな」

 すごい発見だ、そういわんばかりに驚いて答えてやれば、二人はニコニコしながら興奮したように返事を返してくれる。

 「そうなのか? それはすごい」

 「もっといっぱい落としてくれたら、いっぱい拾えるのにね」

 自分がいる間だけでも、この瞬間を楽しんでほしかった。たとえ、自分がついた嘘を将来知ったとしても、今日思ったことは消えないはずだから。

 「――そうだ、こうしようぜ」

 一ついい案を思いついたマヤは、小走りに車の荷台へと走る。何事か? とマヤの事を覗いていた双子をよそに、大きめの靴箱を取り出した。

 「死体を埋める時に邪魔だから、アクセサリーとかは外してここに貯めてんだよ。こんなかから……」

 ごそごそ、と箱の中を探り、首から下げるシンプルなチェーンと、薄い金属のブレスレットを取り出した。これも車の荷台に積んであった工具箱からニッパーを取り出すとブレスレットを加工し、シーグラスをチェーンにとりつける。

 「じゃーん! どうだ、即席ネックレス~!」

 「わぁ~! 手先が器用ですね、マヤさん」

 「本当だ、片手しかないのに上手にやるな」

 あまりいい出来ではなかったが、双子は素直に喜んでくれた。

 どちらに渡そうか迷っていると、ノアがその事に気づく。

 「……ソーマ、貰ったらどうだ?」

 ノアの弟を見る目が優しい。ソーマはキラキラと目を輝かせ、表情を笑顔に変えていく。

 「い、いいの…?」

 「あぁ、お前の方が似合うだろう」

 ノアから許しを得たソーマへと、ネックレスをそっと渡す。誕生日プレゼントをもらった子供のようにはしゃいだ後、ソーマはリボンの上からネックレスを下げた。

 長い間海で撫でられた石は、ソーマの胸元で鈍く美しく輝いていた。

 「こら! 何やってるんだ!」

 「危ないじゃないか、私に貸すんだ!」

 「嫌だ! 僕にだってこれくらいはできる!」

 「出来ないよ、お前なんかにそんな事……」

 「お前なんか、って言うな!」

 ハッと目を覚ますと、双子が喧嘩している。あの後そのまま居眠りについていたマヤは、起き上がり仲裁しようとするが、その前にサトリが二人を注意した。

 「そこまでにしなさい。これ以上喧嘩するようなら、私特製の亀甲縛りで半日固定しますよ」

 子供にそんなこと言うな。そういう気力も起きないほど呆れていれば、双子は不服そうにうつむいた。ソーマの手には、ナイフのようなものがにぎられている。確かにそれは危ない。

 サトリがソーマからそれを没収してベルトにさしながら、ノアの方を向いた。

 「ノア。貴方は私と一緒に買い物に付き合ってください。今回、依頼人からの指定で必要な物を買わなくてはいけませんから」

 サトリなりに双子を落ち着かせようとしているらしい。珍しい、などと考えていると、次はソーマへと声がかかる。

 「貴方達はそこでき ち ん と深く穴を掘っておいてくださいね」

 サボっていたのがばれたのか、サトリは穴を指さしながら強調する。ノアの背を押して、バンの助手席へと押し込むと、サトリは自分も乗り込んだ。

 「あ、おい!」

 すぐに車は発進し、狭い入り江への入り口へ走り出してしまう。

 二人残されたマヤとソーマは、顔を見合わせてため息をついた。

  §

 必要機材を手に入れたサトリとノアは、海岸線に戻るべく車を走らせていた。

 遠く海の果てでは、消えかかった夕日が水平線を赤く染めている。

 癖なのだろうか、ノアは爪をかじりながら一言も発さず外を見ている。サトリはため息をつきながら、戯れに言葉をかけた。

 「くだらない喧嘩を仕掛けるくらいなら、傷つくんじゃありませんよ」

 「……そんなんじゃない」

 「貴方の”ソレ”は今までも何度もみてきましたけど?」

 「……」

 双子の世話はマヤに投げっぱなしではあったが、しっかりと観察していた。確かに、上から言われていた通りノアの方が優秀であるだろう。しかし、それを弟のソーマへと誇示するのが悪い癖のようで、二人はよくケンカをしている。そんな印象だ。

 それにあの時――ソーマは姉を殺そうとしていたのだと思う。どうしてノアはそのような言動をしてしまうのか、それを突き止めて報告したほうがよさそうだった。

 「……」

 しばし考えを巡回させていたのであろうノアは、助手席から夕日の方を見る。赤い光をみながら、ノアは言葉を発した。

 「…私が。私が選ばれれば、ソーマは生き残るかもしれない。そう言われた」

 彼女の表情は見えない。でも、言葉の端が震えていて、泣きそうになっているのはわかる。

 「ソーマの事、失いたくない。だから、私は選ばれるくらい優秀じゃなくちゃいけないんだ」

 いつも自信に満ちあふれた彼女からは、想像もつかないひ弱な声。なんとか気持ちにぴったりの言葉を探し、一言一言絞り出す。

 「でも、時々ふっと頭をよぎる。何故、私だけがこの立場を守り続けなければいけない? 私に守られ只私を恨めばいいだけのソーマが、羨ましくて嫌になるんだ。時々、一瞬だけ」

 さながら、彼女は断崖絶壁にいるようだった。右にも左にも、もう動けない絶壁に必死にしがみついている。少しでも動けば、真っ逆さまに転落死してしまう。そんな感情。

 「でも……立場を守らなければ、ソーマが生き残る可能性は、無い。だから――この立場をなくすわけにはいかない。それが苦しくて、ソーマに当たってるんだ」

 サトリの方を向いたノアの頬に、夕焼けに反射し光る涙が一粒流れていた。

 「……」

 ノアの苦しみを聞いていて、サトリの中で一つの疑問が浮かび上がる。

 (大事な物を守るためには、立場をなくすわけにはいかない)

 それは、自分も同じなのではないだろうか?

 欲も満たせて、金ももらえる。そんな立場をなくしたくはない。

 この仕事をしなければ――私の欲が発散される望みはない。どうしようもない欲をかかえ、苦しみ悶えた末に、人を殺して処刑されるのがオチだろう。

 だからといって、欲を消し去るすべはない。これがなければといくら望もうとも、自分の心臓のような部分に深く打ち込まれ、抜くことのできない杭のように、この欲は常にその存在を主張する。

 だからこそ――私はこの立場を守らなくてはいけない。

 (これから逃れるすべを――私たちは持っていない)

 脳裏に浮かぶのは、はかなげに笑う眼帯の男。――自分を許すといった男だ。

 許されることで救われたとしても、自分はこの立場をなくせない。だから――マヤを引き渡す。

 ノアもまた、立場をなくせないからこそ、優秀であり続ける。

 (だから、私からノアに言える事はなにもない)

 慰める言葉も、否定する言葉も見つからずハンドルを動かす。

 静かな車内には、波打つ音だけが響いていた。

  §

 ザクッ!!

 地面にスコップを突き刺すと、マヤは適当な岩場に腰をかける。

 時間はすでに夕方をこえて、ほとんど夜になっていた。水平線に少しだけ残った太陽が、今にも消えそうに光を放っている。

 「はぁ、やっと終わった。アイツも帰ってきてねぇし、休憩な」

 「……」

 あれからムスッとしたままのソーマは、無言でマヤの隣に座る。かいた汗を適当にぬぐいながら、先ほどの喧嘩を思い出してソーマにそっと声をかけた。

 「どうしたよ」

 できる限り優しく声をかけると、少し考えた後、ソーマはマヤと目線をあわせる。

 「マヤさん、どうしてサトリさんを殺さなかったんですか? 貴方の手と目を奪って、誘拐までしてる相手なのに」

 「あ~またその話かよ。俺も…わかんねぇよ」

 言われたくないことを指摘されてしまい、頭をかく。確かに、論理的に並べると自分がサトリを殺さない理由はよくわからない。理屈ではなく感情が、サトリの死を否定しているようだった。そしてその感情の内容は、マヤにもよくわからなかった。

 「そんな事いったら、お前だって、そうだろ」

 刺されたので刺し返してやれば、ソーマはウッと声を上げた後、力なくうなだれる。

 「……はい。ノアを目の前にしたら――手が、動かなくなった。どうしても、やりきれなかった」

 自分の両手をみながら、吐き出すように言う。

 「でも。でも僕は……。不器用でも、姉より劣っていても、生きていたい。生きていたいのに」

 ソーマは両目に涙をためていた。

 そのさまを見て、自分自身の過去と重ねた。小さなころの自分は、親から、周りから否定され、いつも泣いていた。泣かなくなったのは――全部諦めたからだ。

 この光を失ってほしくない。そんな望みから、マヤはソーマへと話し出す。

 「……なぁ、知ってるか? 【突然変異】って言葉。たとえば、優れた生物から劣った生物が生まれる。もしくは、逆の事がおこる、そんな変異体の事だ」

 自分の知識を総動員し、ソーマにとってわかりやすい所まで話のレベルを下げる。他人に話をするなんて、あまりやったことがないので理解できているか不安だったが、ソーマは興味をもったようにこちらを見てくれる。

 そのまま、慎重に言葉を選び続きを話しはじめた。

 「それは「偶然」によって引き起こされるんだけどよ。そうやって「偶然」うまれた個体は、親と違うから死にやすい。でも――環境に順応し生き残る事で、今までの生物とはまた違った「新種」になれるんだ」

 言いながらも、自分にも言葉は跳ね返ってくる。「新種」へとなれる生き物の確立なんて、恐ろしいほど低いことを自分は知っている。能力が、見た目が違うことで、親から見放されやすい事も知っている。だけど。

 「俺達は親兄弟とは違うかもしれねぇ。だけど、決して劣ってるわけじゃない。進化してる途中なんだよ」

 だけど、そんな気持ちは押し殺す。ただ、自分の知識が希望になってほしい。希望が0よりも、0.1でも、0.001でもあった方がきっといいはずだから。

 静かに聞いていたソーマの目に、少しの輝きが戻る。

 「……本当?」

 「ダーウィンも言ってたから間違いねぇよ。知ってるか? 進化論の「キリンの首」の話は間違……」

 「本当?」

 ソーマの目に、いっぱいの光が入ってくる。

 本当だと信じる気持ち、疑いたくない気持ち、嘘だと否定したい気持ち、そんな物が見え隠れする瞳に、優しく笑いかける。

 「……あぁ、本当だ」

 念押しで背中を押してやれば、ソーマの顔に笑顔が戻った。

 「ありがとう」

 涙を拭いて、マヤに向き直る。夕暮れの深い影の中でも、笑うソーマの顔は輝いて見えた。

 「マヤさんは物知りですね」

 「物知りで良かったよ、お前を少しは元気にできたなら」

 自分の知識が――”本質”が役に立ったこと。そのことに何かむずむずとしながらも、喜びのほうが大きくて、自分もつられて笑顔になる。

 そして、自分が自然と笑っていた事に驚いた。

 自分がこんな風に、穏やかに笑える時が―――笑えるような場所が、出来るなんて。

 内に渦巻き何度も打ち返すトラウマも、自己を否定する瞬間も、恐ろしくて仕方がない場所も、思い出すことなく笑えたのだ。

 何故だろう。そんなふうに自分に驚いていると、嬉しそうなソーマが横から話しかけてくる。

 「マヤさんの言ってる事、面白かった。僕も勉強してみたいな」

 「お前は賢いから出来るよ。俺が言うんだから間違いねぇ」

 少し難しいかと思った自分の話もきちんと理解していた。二人とも根は優秀で、ソーマはおちょこちょいな部分が少しプラスされているだけだ。勉強すれば、きっと良い成績を収められるだろう。

 少しの差だけで、こんなに劣等感を抱かなくてもいい。

 そう伝えようとすれば、車が入ってくる音がする。

 思わず身構えれば、見慣れたバンが細道を走っていた。込めていた力を抜けば、停車させた車からサトリが降りてくる。

 「戻りました。――穴掘りはできていますね」

 掘った穴を確認し、満足げにうなずいているサトリに対して、いつものように文句を垂れてみた。

 「もう帰ってこないかと思ったぜ……」

 「そのほうが良かったですか?」

 ――なぜか、その言葉にチクリとし、返事が続かなくなってしまう。急に返事をしなくなったマヤにいぶかしげな顔をしながらも、サトリはマヤとソーマへ車に乗るように促す。

 ――仕事の時間だ。

 「次の依頼です。行きましょう、マヤ」

  §

 時間は深夜にさしかかろうとしている。夜景に貢献しているビル群の中の一つに、最上階――社長室の明かりがついているところがあった。社長室は悪趣味なことに金箔でおおわれており、机も椅子も灰皿さえも金でおおわれていた。

 そんな部屋の中央、社長椅子に座る男――おそらく社長――にむかって、土下座する男がいた。

 「頼むッ……! もう一度、俺をこの会社にいれてくれ!」

 床に思いきり頭をこすりつけ、深々と土下座する男。しかし、そんな男を馬鹿にするように社長であろう男は嘲笑を浮かべる。

 「ハッ、会社の金を横領してクビになったくせに、まだ俺にしがみつくのかよ」

 「……」

 そう言ってやれば、恐ろしく鋭い瞳に貫かれる。土下座して頼みごとをしている人間のする顔ではなかったが、社長はそれをとがめることはせずに、逆に面白そうに笑った。

 「何か言いたげな顔だな? あててやろうか? 俺がそれをでっち上げたんだろ、か? それとも――俺が妻を殺したんだろ、か?」

 ギリ……と、奥歯を激しく噛む音が響く。そのまま歯が折れるのではないかと思うほどだ。その顔に手を叩いて笑いながら、追い打ちをかけるように言葉を投げつけてやる。

 「何か証拠があるのかよ。お前の奥さんが俺に言い寄ってきたんだぜ? 俺がやったわけじゃない。俺も死んじまってざぁ~んねんだよ」

 少しも残念そうではないように言えば、ついに逆上した男は社長につかみかかろうとする。が、周りのボディーガードに抑えられ、部屋から引きずり出された。

 扉が閉まる前のほんのわずかな隙間からでも、殺意のような激しい怒りを感じる。

 それをおちょくるように、舌を出して挑発してやった。

 「お前なんかいらない。出て行け、兄さん」

 パタリ、と。扉が閉まるとようやく部屋が静まる。男がいる間は我慢していた煙草を取り出して、机の上に足を置いた。

 (あの女、下の具合がよくて最高だったけどなぁ。飽きたから”友人”に輪姦させたら、そいつらが薬いれてセックスしすぎて殺しちまったんだよなぁ……。だから、俺のせいじゃねぇし)

 ククク……と小さく笑うと、胸いっぱいに吸った煙を吐き出す。高そうな灰皿へ灰を落とした。

 (さらに上にのし上がってやる。あの兄もクソ父も、周りの奴らも全部蹴落として!)

 のし上がるために、父から兄弟で会社を奪い取り、さらには兄を貶めて自分だけのし上がった。会社を手に入れた今は、父よりも兄よりも――もっと売り上げを伸ばし、周りを蹴落としてでも優秀であることを見せつけてやりたい。そういう欲に駆られていた。

 (どんな方法を使ってでも蹴落として、必要だったら殺してでも、上に行ってやる!)

 最後の一口を吸い、吸殻を灰皿へと捨てると、社長は立ち上がり動き出す。時間も深夜なので、帰宅のための車を回すよう部下に伝える。

 長いエレベーターを降り、車に乗り込み短く「自宅」と伝えると、すぐに車は動き出した。

 「ん?」

 異変に気が付いたのは、普段使わない高速道路に乗り始めたからだ。

 会社から自宅は一般道を走り四十分ほどでつくはずだが、明らかに違う方向へと進んでいる。

 「おい、こっちは自宅じゃないぞ。どこへ行ってる!?」

 気づいて運転手へと声をかけるも、小さく笑うだけで返事をよこさない。飛び降りようと車のドアを開けようとすれば、ロック解除ボタンを押しても開閉されない。窓を開こうとしても、微動だにしなかった。

 とっさにスマホを手にしようとすれば、圏外と表示されている。

 ――やられた

 「おい! おろせ!!」

 必死に運転手へ訴えかけるも、後部座席との仕切りの向こうで、運転する男は一切反応を示さない。

 オレンジ色の光に照らされながら、車はどんどん山奥へと向かっていった。

  §

 ドサッ!

 乱暴に後部座席から降ろされる。古い倉庫のような建物にいるようだった。ビニールシートの上に落とされた男は、後ずさる。

 よく見れば待っていたのか、運転手の仲間の姿――なぜか子供もいるようだ。手にナイフを持っている――が見えた。この誘拐が計画的なものだとわかり、にらみつけながら声を絞り出す。

 「だ、誰だお前ら……!!」

 運転手――に擬態していた男が、かぶっていた帽子を脱ぐ。下から出てきたのは、見る人間が十人いれば十人が「美しい」と思う顔の男。

 男は帽子をかぶっていた頭を少しふると、にこり、と愛想のいい笑みを浮かべた。

 「はじめまして。天国行きの殺し屋、中原サトリです」

 胸に手をついて、礼儀正しく言う。が――言っていることはそのしぐさとは違って、恐ろしい事だった。

 「こ、殺し屋……!?」

 「依頼人が会社から追放された、奥さんを寝取られた等の恨みからの依頼です」

 自分に土下座してきた男を――自分を殺意でにらみつけてきた男のことを思い出す。自分へ殺し屋を差し向けるほど恨んでいるとは。くそっ! と脳内で悪態をつけば、その様子を見ていたサトリは笑みの深さを増していく。

 「貴方を同じ目にあわせてほしいと、そう言われています」

 「おっ……同じ目に……!?」

 どういう意味かと焦った頭で考えていれば、答え合わせはすぐだった。

 「貴方に薬を打ち、存分に尊厳を辱めた後、ケツにビール瓶を突っ込んで死ぬまで乱交首締めプレイするって事ですよ」

 そういうと、サトリはにやぁ…と、恍惚な表情を浮かべた。それは今から襲う相手が抵抗していることを楽しむレイプ犯のような、くぐもった声をあげるマゾを攻め上げるドエスのような、そんな類の顔だ。いや――もっともっと、獰猛な喜びに掻き立てられている顔だろう。

 ――ヤられる、ケツにビール瓶を突っ込まれ、死ぬまで犯される。

 自分の末路が容易に想像でき、体を震わせる。

 (こ、こんなところで……。こんな、得体のしれない奴に犯されて、殺されたくねぇ!)

 死に際に出てきたのは、もっと上に行きたいという欲望。

 (俺は――もっと上に行くんだ!)

 生きたいという欲望だった。

 勢いよく立ち上がると、近くにいた子供の一人を押さえつける。女の方を押さえつけようとしたが失敗し、仕方がなく男の方を捕まえた。

 「わっ!」

 「ソーマ!?」

 そのまま、持っていたナイフを奪い取ると首筋にあてる。

 「う、動いたら、コイツを殺す!」

 全員の動きがぴたりと止まった。

 「アララ、面倒な事になりました」

 「クソッ、こんな時まで不器用を発揮するな!」

 軽い感じでいうサトリと、切羽詰まったように声を上げるノア。どうすればいいのか……とマヤも考えを巡らせていれば、男はソーマの首にナイフをあて、じりじりと後退しながら叫ぶ。

 「お、俺はお前らなんかに屈しない! 俺は自分の立場を守るために、兄を蹴落としただけだ! アイツが弱いから、自分のいる場所を守れなかった。だから、蹴落とされたアイツが悪いんだ!」

 大声をあげながら主張を言う。男がつきつけたナイフが首を薄く切って、ソーマの首元から血が流れだした。その雫は――マヤがプレゼントしたシーグラスへ、ポタリと落ちる。

 ――あの時、満面の笑みで喜んでいたソーマ――

 今のソーマは、不安と恐怖で震えていた。

 カッと、ノアの頭に血がのぼる。

 「……兄弟が? 弱いから悪い?」

 手に持ったナイフをわなわなと震わせて、地の底に這うような低い声で言う。

 「兄弟を見捨てておいて、悪いだと?」

 顔を上げたノアと社長は目が合う。その目は――兄が土下座をしながら見せた、殺意に満ちた目にそっくりだ。

 次の瞬間、ナイフを握る手に鋭い痛みが走る。目を向ければ――ナイフをもった手首ごと切り落とされている。

 「な……!」

 声を出す間もなく、反対の手も落とされる。

 その動きは目に追えるものではなく、何がおきたのかも男には分からなかった。ノアはソーマを男の腕から奪い返すと、突き飛ばす。そのまましりもちをついた男の前で、今しがた男の両手を切り落としたナイフを露払いし、構えなおした。

 「殺す」

 ――殺される。

 「ヒィィイイイイ!!!!」

 気づけば、喉から悲鳴が漏れていた。

 今までいろいろなものに勝ってのし上がってきた。父にも、兄にも、その他にも負ける気はしなかった。

 でも――この少女に勝つことはできない。殺されるしかない。そのことを本能的に理解し、なくなった腕で這うように逃げる。

 しかし逃げさせてくれるわけもなく、胴体を踏まれ静止させられる。

 「逃げるな」

 ぐり、と強く踏みつけられて、くぐもった苦しみの声をあげる。容赦なく追い打ちをかけながら、ノアは手に持ったナイフに力をこめる。

 「”弟”を傷つけた代償、払ってもらう」

 確実にとどめを刺すために、胸元を狙ってその手をふりあげる――!!

 ――しかし、その手をサトリにつかまれた。

 ノアは振り下ろそうと抵抗するも、サトリに邪魔されてびくともしない。そのまま、手に持ていたナイフを奪い取られてしまった。

 どうして? そんな顔をしていれば、サトリは男と目線を合わせるようにかがみ、キスをするような距離まで顔を詰めてくる。

 「駄目ですよ、ノア。わざわざ買いに行った物を無駄にするつもりですか?」

 男の頬の線を撫でるように、優しくなぞる。今の状況に似合わない動きに違和感を感じていると、サトリが妙に荒い息遣いをしていることに気づく。と、同時に……ぐにゅり、と。腰に何か固いものがあたっている感覚を覚える。

 その正体に気づいた瞬間、男は青ざめた。

 「ビデオレターを撮って、弟さんに送ってあげないといけませんからね♡」

 「う、うわあああああ!!!!」

 逃げようと這おうとしても、失った両腕のせいでうまく動けない。そのまま引きずられて、床には二本の赤い線だけが残された。

  §

 ザクッ…… ザクッ……

 スコップで地面を掘る音が響く。その音を背景に、マヤは双子の寝顔を見ていた。先ほどの件があってから、ノアもソーマも泣きっぱなしで、マヤがなんとか慰めていたのだ。ようやく静かになった二人の頭を撫でた後、マヤは車の外へと出る。

 双子を慰めるのと穴を掘るの、天秤にかけた結果穴を掘っているサトリの背中に話しかけた。

 「泣き疲れて寝たみてぇだ」

 そんな報告をすれば、スコップを投げ渡される。思わず受け取ると、汗をぬぐいながらサトリは言った。

 「貴方はまだ寝れませんよ。いいから穴掘りを再開してください」

 土まみれになった手袋を外し、折っていたYシャツをもとに戻しながら無慈悲にサトリは言う。

 思わずうめき声を出した。

 「うっ……夕方まで掘ってたのに、また掘るのかよ……」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、仕方なく続きから穴を掘る。サトリは、そのまま車にもたれかかって煙草を吸い始めた。

 どれくらい手を動かしていただろうか、ほとんど掘り終わったあたりでサトリがぽつりと口に出す。

 「……どうして?」

 「え?」

 聞き間違いかと思い、サトリの方を見れば。サトリもまた、マヤの方を見ていた。

 目線がバチリとぶつかり、音を立てたかのようだった。

 「どうして貴方は私を殺さなかったんですか?」

 静寂が二人の間を支配する。それと同時にぴりっとした緊張感が走り、口を開くのさえ覚悟がいるようだった。

 「お前、あの時起きて……」

 何か言おうとするも、サトリの真剣な目に射抜かれて瞬きさえおぼつかない。

 サトリは知りたいのだ――自分がなぜサトリを殺さなかったのかを。

 ごくりと唾を飲み込んで、息を整えて、目をそらさないまま、自分でも答えが出ない気持ちを形にしてみる。

 「……あれから、考えたんだけどよ。俺、自由になって元の生活に戻りたいか? って考えた時、ちっとも帰りたくなかったんだ」

 そうだ、自分はあの世界に帰りたくなかったんだ。

 「俺、今が一番、生きてきて一番――楽でいられるんだ。お前は、俺の事なんてどうだっていいだろ?」

 ――別に。貴方が一緒でも苦ではありませんよ

 そんなサトリの言葉がよみがえる。サトリが苦ではないように、自分もまた苦ではなかった。

 それはつまり、自分は許されているということだった。

 「だから、俺が何をしていようと、何を考えていようと、何を言おうと――そのままでいる事が許されてた」

 生きていることを、許されているということだった。

 それは、あの世界でマヤが決してつかめないものだった。

 「俺はそれが――嬉しかったんだ。だから、お前が殺せなかった。生きづらいものを抱えていても、居場所が変われば息ができるのかもしれない。そう思ったんだ」

 マヤは、0.001%もありえない希望を口に出す。

 「本当は――今がずっと、続けばいいのに」

 サトリが目を見開く。真意を探るように、こちらの目の奥をのぞき込む。

 それは、自分を油断させるための言い分か? それともこんな仕打ちをした自分への嫌味なのか? それとも――本当の気持ちなのか? そんな探りをいれられているのだとわかる。

 マヤの気持ちは、本心だった。心の底から、そう願っていた。伝われ、とそのままサトリと目を合わせていれば、その目は怒りでも悲しみでも憐みでもなく――優しい悲しみへと変化した。

 この約四ヵ月で得た二人の間に流れる空気は、二人だけの間に流れる”何か”になっていた。だからこそ、マヤにも分かった。

 ――サトリもそれを本当は望んでいることを。

 しかし――サトリはマヤから目をそらす。

 「無理ですよ、そんな事」

 そういって、手に持っていた煙草を踏みつぶす。

 「もう数日で、貴方は引き渡しですから」

 自分に言い聞かせるように、わざと感情のない言葉で告げると、マヤも顔をうつむかせる。

 「そうだな」

 踏み潰された煙草の火は、うすく光ったあと完全に消えた。

 《章:NO PASSAGE》

 サトリが走らせる車が止まったのは、どこかの県の山奥にある場所だった。突然開けたそこに、二階建てで白地にガラス張りの施設が出てくる。周りはまさに森といった様子で、人気などない。

 無駄に広い駐車場には、まばらにしか車が止まっていない。施設に一番近い駐車場に車を停めて、サトリはマヤと双子に車から降りるように促す。

 助手席から降りて施設をまじまじと見れば、ロゴと「anamnēsis(アナムネーシス)」と書かれていた。どこかで聞いたことがあるような単語だが、どこでかは思い出せなかった。

 「つきました ここが”アナムネーシス”の施設です」

 「意外とちいせぇな……」

 サトリや双子が属するのならかなり大きな組織のような気がしていたが、二階建ての施設は広めの一軒家程度の大きさにしか感じなかった。

 「表向きは、そうです。いきますよ」

 促されるままに施設の中に入るも、誰もいない。無人の受付口と、「萩原イデア記念館 入り口こちら」と書かれた案内板があるのみだ。

 訝しげに見ていると、ほかに客がいない事を確認したサトリは、壁に向かって取り出したカードをかざす。

 すると、カードをかざした横の壁が開き、中からエレベーターが出てくる。

 「え、エレベーターが出てきた……」

 中は三十人はのれるだろうか、大きめの箱になっていた。

 全員が乗り込むと、エレベーターはボタンを押すことなく自動で下へ動き始める。音は静かだが、高速で動いている感覚がして、これから行く地下はかなり下にあるのだと分かる。

 外を覗くガラスは地面しか見えず真っ黒だったが――著しくすると、開けた場所が映る。

 「で、でけぇ……」

 ガラスに顔を付けるように見れば、ここが三階建ての巨大な筒状の空間で、終着点である中央には食堂のようなものがあるのが分かる。食堂から二階はエスカレーターでそれぞれつながっているようだった。

 「まぁ、ろくでもない組織なので本拠地は隠してるみたいですね」

 「……」

 地下にこんな巨大な空間を作るとなると、かなり大きな組織なのだろう。無意識にごくりと唾を飲み込んだ。

 チンと軽い音がして、下へたどり着いたのか、エレベーターの扉は開いた。

 「ここが一番下か」

 「そうですね」

 おそるおそる降りれば、エレベーター周りは談笑スペースになっている。少し奥には食堂のようなものと、食事スペースだ。座っている人間は皆、灰色のスーツに白衣を身に着け、首からは身分証だろうか? カードを下げていた。

 全体的に白色とガラスだけのデザインで、清潔感のある場所だ。

 座る気などないのか、サトリはエスカレーターの方へと足早に歩を進めていた。置いていかれないように、その背中へくっついていく。

 エスカレーターにのって二階へ行けば、先ほど乗ってきたものよりも小さなエレベーターがついていた。エレベーター前には警備員のような恰好をした二人が待機しており、それらも灰色のスーツと身分証を下げている。サトリや双子が着ているものも灰色なので、おそらくこれがこの場所の決まりなのだろう。

 警備員に話しかけたサトリは、何やら操作をしてもらいエレベーターへと乗り込む。おいていかれないよう、マヤも乗り込んだ。

 三階で降りたマヤは、その場所の何もなさに驚く。白いだけの廊下がずっと続いていて、扉もない。その代わり、窓は廊下全面についていて、上から食堂の様子が一望できた。

 エレベーターを降りて左へと進むと、この廊下で一番大きな扉の前に立っている人の姿が見えてくる。灰色のスーツに白衣といった格好の二人組が、こちらに気づくと挨拶してくれる。

 「マヤ様、お待ちしておりました。こちらでバイタル測定器をつけさせていただきます」

 「バイタル測定器? なんだそれ……いたっ!」

 腕時計のようなそれを巻かれた瞬間、手首にちくりとした痛みが走る。どうやら針がついているようだった。

 よくみればサトリと双子の手にも同じような物が巻かれている。

 「これで脈拍、心拍数、血圧なんかを測っているそうですよ。おそらく位置の管理もしているでしょうね」

 「へぇ~……」

 何故そのような情報が必要なのだろうか? 何故位置情報を把握されるのだろうか。嫌な予感で、背中がざわざわと騒ぐ。

 バイタルを付け終わったのを確認されたのち、奥にあった扉が開く。

 開かれた扉の先は、会議室のような部屋だった。

 部屋を見回すように目線を動かせば、奥に人がいるのが見える。

 柔らかい髪色をした人間が、杖を手ににこにこしながら座っている。その脇にはかなり背の高い男性が後ろ手に組ながら待機していた。

 「こんにちわ、樋口 マヤ」

 低くも高くもない、中性的な声が穏やかにマヤの名前を呼ぶ。

 何故かそれだけの事で嫌な汗をかきながら、口をはさむ事もなく続きを聞く。

 「僕は 萩原 イデア。そこのサトリの上司……いや、ボスと言ったほうが正しいかな? 君の誘拐を指示した張本人だ、よろしくね」

 何の悪びれもなく、誘拐した本人だとイデアは告げる。しかし、それが当たり前である、と思わせるような力を持っていた。この男が言う事は、是である、というふうにとらえてしまうような、そんな力。

 女性的なような、男性的なような、複雑に要素が絡み合うこの人物は、得も言えぬ”威厳”があるようだ。

 「君を誘拐したのはまぎれもない、僕らの研究を手伝ってほしくてね。どうしても君の「頭脳」が欲しかったんだ」

 「え……?」

 「君の事は徹底的に調べた。君は――天才だ。君なら僕らの目的を飛躍的に良くしてくれる。是非、その力を役立ててほしくてね」

 何を言っているのか、少しの間理解できず呆然とする。

 自分の”本質”が求められている……? 頬をつねってみるが、それは確かな痛みを伴っていた。

 「な、何を研究して……るんですか……?」

 恐る恐る質問してみれば、機嫌のいい返事が返ってくる。

 「僕達が研究しているのは「魂のイデア」の発見だ」

 「プラトンの……イデア論?」

 表の看板の文字で何かを思い出しそうとなっていたのはこれだったのか、そう合点する。アナムネーシスはイデア論でいう「想起」だ。

 「そう、物事にはどんな物にも”本質”がある。僕はこの世の全ての本質――イデアを解き明かしたい。そして最後には――魂の本質、それさえも解明してみたい」

 魂の本質を解き明かす。それ自体はオカルト的でとても胡散臭い話だが、マヤにとって大事なのはそこではなかった。

 もう一度、自分の耳がおかしくなったわけではない事を確かめてみる。

 「そんな事、俺が役に立てるんですか?」

 「できるよ、君になら。――君をまっていたんだ」

 イデアが目を細め、微笑む。

 それはマヤにとって、まぎれもない”存在の肯定”だった。

 (自分が認められている? 必要と……されている?)

 自分の”本質”を認められ、それを生かして働いてほしいと願われている事。それは、マヤ本来の目的から言えば、全ての望みが叶った――そう、救いそのものの選択肢のはずだ。

 しかし――何かがひっかかる。

 (何だ? この――違和感は)

 どうして俺なのか? その答え自体は聞かされておらず、自分の”本質”が求められている状況。本当に――本当に、これは望んだものなのだろうか?

 これこそが、自分が完璧な救いの形であるはずなのに、マヤの中にはもやもやしたものが蠢いていた。

 「それじゃあ、マヤ君には個室を用意したから、とりあえず休んでよ。ここ、自由に歩き回ってもいいから。サトリ、君は残って報告してね」

 「わかりました」

 話はとりあえず終わりのようだ、部屋から出るように促される。双子と共に部屋を出ようとすれば、イデアは双子の背中にこう声をかけた。

 「あと、君たち。――明日、だからね?」

 「……はい」

 緊張した面持ちで二人は返事をする。それに疑問を抱きながらも、部屋から出る前に一度振り向く。

 サトリも、こちらを見ていた。

 ――本当は今がずっと、続けばいいのに

 自分が言った言葉が蘇る。今ここで、二人の時間は終わる。

 自分本来の望みが叶う、だからサトリといられなくとも救われるはずなのに。――それを望まない自分も存在していた。

 「……じゃあな、サトリ」

 無理矢理に絞り出した言葉で、サトリにさよならを言う。

 「……えぇ」

 サトリは短く返事をしただけで、すぐに顔をそむけてしまった。

  §

 自室だという場所に案内されると、そこは六畳程の部屋でベッド、シャワールーム、トイレ、机、クローゼットなどがついていた。自分が住んでいた家よりも快適と言えるだろう。机の上には自分の写真がついたIDカードと、胸につけるのだろうか、社名が入ったピンズが置いてある。クローゼットには灰色のスーツが入っており、この三点セットを身に着けろという事なのだと分かる。

 今はそんな気分になれなくて、着の身着のままベッドへダイブした。

 「……必要とされている、はずなのにな」

 柔らかくきしむベッドを堪能しながらも、心はもやもやしたままだ。

 (何かがおかしいような気がする)

 研究内容も、施設も、地下の広大な場所も、殺し屋のボスである事も。すべてが胡散臭く感じて仕方がない。

 (俺の力が求められる、歓迎される。それは「喜ぶべき」ことのはすなのに、なんでだろうな?)

 何故か、素直に喜べないままでいる自分がいた。きっと、誘拐された直後にここに連れてこられて言われれば、喜んでこの身をささげていたと思う。何かが、自分の望みとは違う違和感を感じさせる。

 ――サトリが、いないから?

 その時、コンコンと控えめに二回、部屋の扉がノックされる。何事かと立ち上がり扉を開けると、双子がそろって部屋の前に来ていた。

 「マヤ、ここを案内してやろうか?」

 「いいのか?」

 「はい、落ち着かないですし……」

 確かに、双子はどこかソワソワとした様子だった。

 今は一人で考えるよりも、よそ事をした方が気がまぎれるかもしれない。そう思ったマヤは、IDカードをズボンのポケットにつっこみ、外へ出る。

 扉を閉めると、オートロックなのか、扉の鍵が締まる音がした。

 「そういや……ここは二階?」

 「はい、二階は住居スペースです。ここでは警備員二十人くらいと、五十人くらいの研究員がいるみたいですよ」

 「へぇ~けっこう大規模な研究所だな」

 マヤがいる廊下はあまり人気のない様子だったが、働く場所ではないからか。合点していると、双子はマヤの手を引っ張ってエスカレーターの方へ移動する。

 途中、マヤと同じくらいの身長のロボットがおりぎょっとする。押しているカートにはモップや箒、スプレーなど、掃除に使う道具が入っていた。

 「清掃ロボがいるのか?」

 「あぁ。掃除は全部あのロボがしているみたいだ」

 「司令塔があって、そこから直接ロボの指示もできるみたいで便利なんですよ」

 「すげーハイテクだな……」

 「マヤさん、もしゴミが出たらこの清掃ロボか、所々にある――あのゴミ箱に捨ててくださいね。地下に大きなゴミ処理場があってそこへ行くようになってるんです」

 ソーマの言う通り、廊下には転々とコンビニの大きめのゴミ袋くらいは軽々捨てられそうな大きさの口が設置してあった。

 「へぇ~……」

 文明のレベルが知っている世界と違うような……。通っていた大学のボロ具合などを思い出しながら歩いていると、今度は足が何か固い物とぶつかる。

 「うわっ!!」

 「ワンワン!!」

 「い、犬……のロボ?」

 おどろいて足を上げると、中型犬ほどの大きさの犬が舌を出してしっぽを振っている。そのリアルな様に一瞬本物と見間違うが、所々むき出しのパーツになっている部分がありロボットであると分かる。

 犬……のロボットの頭をソーマがなでながら、ノアが解説をいれてくれる。

 「生体の犬を飼う事は出来ないので、かわりにロボットの犬を飼ってるんだ」

 「へぇ~……み、未来~」

 思ったより、進んだ研究所のようだ。犬のロボットをあそこまでリアルに近づけているのを今まで見たことがない。司令塔の遠隔操作でロボットが動かせるというし、サトリがいっていたバイタルで管理されている、のもどこかうなづける。

 そのまま歩いていると、ようやくエスカレーターのある所迄たどり着いた。背後にはエレベーターもある。

 「じゃあ下にいきましょうか」

 「上は?」

 先ほどいった上の階へのエスカレーターが無い事に気づき、質問してみる。すると、ソーマがエレベーターの近くまで近寄って、昇降のボタンの上にあるカードリーダーに自分のIDカードをかざす。

 「上はイデア様とレンゲ様しか入れないんです。ほら、こーやっても……」

 かざしたカードは、ビーッ! という音と共に赤い光で拒否された。

 「はじかれちゃいます。指紋かIDカードが無いと入れないんですよ」

 エレベーターの横にはよく見ると階段用の扉もついているが、同様にカードリーダーがある。

 「どんだけでかい部屋使ってんだよ……」

 上には三部屋しかなかったはずなので、随分無駄なスペースを使ってるんだなぁ……なんて思いながらも、解説をしてくれたソーマにお礼をいいながらエスカレーターを下る。

 下った先は、エレベーターで最初に降りた談笑スペースだった。正面にエレベーターの乗り口、右が食堂のような物、左は奥に続く廊下になっていた。

 「おっ、食堂もあるんだな。いいじゃねーか」

 「何か飲んでいくか?」

 そういえば、ここに来てから何も口にしていない。急に乾いてきた喉を自覚しながら、食堂の方へ寄っていくと大きな食券の自販機がある。お金は要らないようだった。

 「俺ブラックコーヒー」

 「じゃあ僕アイスココア」「私はカフェオレで」

 口々に好きな物のボタンを押しながら、食券をカウンターの方へもっていく。

 「うわっ、ここもロボか……」

 中を覗き込めば、働いているのは全て人ではなかった。広い調理スペースを、ロボットが縦横無尽に動き回っている。

 注文口にバーコードをかざせば、すぐにロボットが動き出した。

 「全部ロボットがやっているようだぞ。だからすぐ出てくる」

 ノアが何故か誇らしげにしていると、安っぽい紙コップに並々注がれた飲み物がトレイに乗せられてやってくる。片手が無いマヤを気遣ってか、ソーマがトレイを受け取って近くのあいている席においてくれた。

 飲み放題のコーヒーのような、安っぽい味で一服しながらも、どこかまだ緊張している二人を落ち着かせようと、共通の話題を切り出してみる。

 「それにしても、お前らの大ボスはなんていうか…こう、威厳があるな」

 しかし、それは失敗に終わった。話を聞いた双子は一層、重い空気を纏わせる。嫌な話題だったか、背中にじっとりと汗を感じていると、ノアの方が返事を返してくれる。

 「…そうだな」

 なんとか話の軌道修正をしようと、イデアではなく、一言も発さなかったイデアの後ろにいた男の方へ話題を切り替える。

 「あの後ろにいた奴は?」

 確か、百九十センチくらいある大男で、口元に縫われた後があって、なぜか首輪をはめていた……そんな見た目だったはずだ。

 「あれは、イデア様の付人の与謝野 レンゲ様。イデア様が赤ちゃんの時からの付き合いなんだそうです」

 「イデア様、昔から病気がちで面倒見る人が必要だったのだそうだ」

 「ずいぶん長い付き合いだな」

 なるほど、雰囲気としては番犬のようだった。へぇ~なんてコーヒーを飲みながら呑気に答えれば、ソーマはマヤに少し顔を近づけて、ちいさい声で言ってくる。

 「レンゲ様には気を付けて、すごい力もちだから。マヤさんの首とか一瞬でねじ切っちゃうと思うよ」

 「うわぁ…」

 ここの組織の人間は、皆力持ちなのだろうか? 自分より力のある双子が”すごい力持ち”と言う程だ、本当にそうなのだろう。

 そんな事を考えていた――そんな時。

 冷水のような声が、背後から響く。

 「私が何か?」

 「れっ……」

 ――与謝野レンゲその人が、双子の背後に立っていた。なんの表情も見せない顔が、双子を上から見下ろしている。

 ぴしゃり、と水をかけられたように双子はかしこまった。つられてマヤも方に少し力が入る。イデア同様、レンゲにも人を緊張させる力があるようだ。

 大柄な見た目とは裏腹に、レンゲは静かに言葉を発する。

 「お前達、そろそろ戻れ。ノア、爪を噛むな。ソーマ、貧乏ゆすりをやめろ。イデア様を困らせるな」

 緊張するとやってしまう双子の癖だった。レンゲはノアの手を掴み、ソーマの肩に手を置く。大きな手は、ソーマの頭をそのままつかめそうだった。

 二人の癖をやめさせたレンゲは、マヤの方へ向き直る。

 「マヤ様、貴方もそろそろお戻りください。明日、さっそくですが実験に付き合っていただきます。明朝、私がお迎えにあがりますので」

 「あ、あぁ……分かりました……」

 丁寧な言葉遣いでお願いされ、おどおどしながらも返事をする。

 双子はレンゲに促されて、椅子から降りた。

 「……」

 双子は何かを言いたげにマヤに目線を向けている。気づいて目を合わせれば、二人とも怖い顔をしていた。

 「マヤさん、バイバイ」

 震える声で、薄く笑いながら手を振ると、二人はレンゲに連れられてエスカレーター左の廊下の方へ消えていった。

 「……」

 何か、とてつもない嫌な予感がした。

 迷子になりながらも、どうにか自室にたどり着いたマヤはベッドに入る。明朝、レンゲが迎えに来ると言っていたのに、一向に眠りにつくことはできなかった。

 (バイバイ)

 脳裏には、双子が手を振っている映像が流れ続けている。

 何故かもう二度と会えない気がした。そんな不安を散らすように布団を頭まで被り、無理矢理眠りにつこうとする。

 ――サトリは、今何してんのかな

 眠り際に考えたのは、サトリの事だった。

  §

 「――ごくろうだったね、サトリ」

 マヤと別れたサトリは、イデアの方を向き直る。

 イデアはいつものように、にこにこと目が笑っていない笑い方で椅子に座っていた。ご機嫌そうに言うイデアに、いつも通りの受け答えでサトリは返事をする。

 「……私はこれで。貴方の依頼は以上でしょう? 戻ります」

 「うん、おかげで良いコマが手に入った。海外出張中にあずかっててくれて助かったよ。それに……、マヤ君は、君の事気に入ったみたいだしね」

 イデアの笑みが深くなると同時に、合わせていた瞳が急にギラリと光を発したように思えて、サトリはぞくっとする。様々な人間を見てきたが、この男ほど恐ろしい者をサトリは見たことがなかった。

 「マヤは……どうなるんですか?」

 イデアからは、マヤの使用方法などについては一切聞かされていない。念のため確認してみるも、有無を言わせぬ目が話を終わらせた。

 「ごくろう、もういいよサトリ」

 これ以上詮索すると、機嫌を損ねかねない。それを承知で口を開こうとするも……

 ――この立場を守らなくてはいけない。

 ノアの独白を思い出す。自分もまた、立場をなくすことのできない断崖絶壁に立っているのだ。

 その事とマヤを天秤にかけ――言いかけた言葉を飲み込んだ。

 「失礼します」

 そういうと、サトリはイデアに背を向け、部屋から出ていく。

 その背を、ギラリとイデアは見ていた。

 先ほど降りてきたエレベーターに再度乗り、今度は上へ行く。

 自分の仕事は、依頼主であるイデア経由で送られてきた殺しの仕事をする事だ。故に、この施設にはほとんど帰ってこない。

 もしマヤが生きていたとしても、また再会出来る事はほとんどないだろう。

 ――早く忘れよう。

 そう思う事にした。すぐに忘れられるだろう。それに――この天秤を選んだのだから、自分はそうしなければいけないのだ、と思う。

 地上にエレベーターがつき、施設を後にする。

 駐車場に止めてあった自分のバンに乗り込めば、そこは――とても静かだった。先ほどまで、マヤと双子がいて煩かった車は、何の物音もしない。当然だ、サトリしかいないのだから。

 ――じきに慣れる。

 自分にそう言い聞かせて車のキーを回そうとすれば――施設の入り口が開く。

 与謝野 レンゲが立っていた。

 レンゲは大股で歩きながらこちらに近寄ると、力任せに車の扉を開く。そのまま、サトリの手を取って車から引きずり下ろした。

 咄嗟に抵抗しようとすれば、腕を強く握られ骨がきしむ。苦しみに少し顔をゆがませれば、レンゲは無表情のまま淡々とサトリに告げた。

 「お前は使える。イデア様はそう判断された。マヤにとってお前は、意味を持つ存在になった。実験を手伝ってもらうぞ」

 ハッと笑う。実験を手伝う?

 「それに参加したら――私もマヤも無事ではすまないんでしょう? どうして参加すると思うんですか」

 答えながらも、どうにか拘束をとけないかと思考を巡らせてみるが、どれもこの男の恐ろしい迄の力でねじ伏せられる予想しかできない。

 ギリリ……とさらに力をこめられ、眉間にしわが寄る。

 「お前に手放すことができるのか? お前の趣味を発散できるこの仕事を、手放せると?」

 その言葉を聞いて――動揺する。

 そうだ先ほども、自分は反論しようとして飲み込んだではないか。それは――自分のこの立場を守るためなのではなかったか?

 「お前が拒否するならそれでもいい、それなら解雇されるだけだ」

 どちらにせよ、おそらく死ぬんじゃないですか。そう言いたい。しかし、

 「……」

 サトリには言う事が出来なかった。

 抵抗をやめて全身から力を抜けば、ようやくレンゲは掴んだ手を放してくれる。

 「それでいい、来い」

 踵を返し、エレベーターの方へ歩くレンゲの背中についていく。

 サトリの中の疑念は、ますます深くなる。

 (これでいいのか? 本当に……)

 しかし、既に断崖絶壁にいるサトリは、どこへも行けない。だからこそ、選択する余地はなかった。諍えば落とされ、もう二度と這い上がれない。そうなるくらいなら――ここにしがみついたほうがましだ。

 レンゲとサトリがのったエレベーターの扉が閉まる。

 エレベーターは地下へと動き出した。

  §

 コンコン、扉を叩くそんな音で目が覚める。いつの間にか眠っていたようだ。

 クローゼットの中のスーツを着る気にもなれず、いつもの服を着て扉を開けると、先日言っていたとおりレンゲが部屋の前に立っていた。

 「おはようございます、マヤ様。準備はお済でしょうか?」

 「あ、はい……。このままでよければ、いけます」

 この服で怒られないだろうかとびくびくしていると、特に気にしていないのかそのままついてくるように促される。IDカードを掴むと、急いで背中を追いかけた。

 レンゲはエスカレーターを降りると、左の廊下へ向かう。働いている時間だからだろうか、食堂も談笑スペースも誰もおらず、静かで不気味だ。

 廊下の奥へ進み、ひときわ大きな扉の前でレンゲは止まった。自分の手のひらをIDカードリーダーの端末にかざすと、扉は音を立てながら開く。

 その先にあった光景は――まさしく、異様だった。

 「な、なんだここ……!?」

 それは――大量のノアとソーマだった。筒状のカプセルにいれられたソレらは、培養液の中で静かに眠っている。それが四十か、五十か…… 数えきれないくらい並べられていた。中にはもっと大きなものも数体いて、それは――イデアにそっくりだ。

 思わず後ずさろうとして、扉に背中がぶつかる。

 「これが我々の研究しているものです。魂のイデアの発見、そしてその移植」

 「魂の……移植……?」

 培養容器が放つ緑色の光に照らされたレンゲが、まったくの無表情でこちらに振り向いた。これが”あたりまえ”とばかりにしているレンゲの姿に、この施設の恐ろしさから足も震えてくる。

 「私達は、今までの実験で人に魂がある事を証明しました。そして今は、それを他の肉体に移す方法を研究しています」

 淡々とした声で話すレンゲの言葉を、頭が理解したくないと叫びだす。

 あの双子は、もしかしてそのために――?

 「そ、そんな事……、出来るわけがねぇ……!」

 出来てしまったらいけない、自分に暗示するように拒否の言葉を口に出す。

 その間にも、止める事の出来ない脳内で双子達の不穏な言葉がぐるぐると蘇る。

 ――ノアが選ばれるのはわかってるんだ

 ――どうして、少しの差があるだけで、僕は死ななくちゃいけないの

 ――生きていたい 生きていたいのに

 双子は、双子はもしかして――……

 「いいや、出来るよ」

 

 部屋の奥から声がする。

 その声の主を探してみると――萩原イデアが、ガラス越しに隣の部屋の中を見ている。ちょいちょいと手を動かし、レンゲにこちらに来るように指示する。レンゲは、マヤを掴むと半ば無理矢理イデアの横に立たせた。

 イデアの見ていた部屋の中を覗けば――よく知っている二人が手術台のようなものに寝かされている。

 「ノア……ソーマ……!?」

 思わずガラスに近寄るも、二人は反応を示さない。色々な種類の機械につながれた二人は、白衣に身を包んだ者達に囲まれている。

 「な、なにやってんだ、アレ!」

 振り返りイデアの方へ問いかけるも、彼は変らぬ調子で返事をする。

 「何って、さっきレンゲも言ったじゃないか。”魂の移植”だよ」

 「ほら、見てごらん。現に今、二人の魂は入れ替わってる」

 振り返ると、さっきまで反応を示さなかった二人が半身を起こし、手元のホワイトボードに何やら数字をかいている。どうやら、片方にしか教えていない数字を書いて中身が入れ替わった事を証明しようとしているらしい。

 ノアの体は―――ソーマの魂が入っている、のか?―――ホワイトボードを書きながら、爪を噛んでいる。その事にほんの少しの違和感を覚えた。中身は、ソーマなんだよな…?

 「これから、再度魂を抜いて元の体に戻すんだ。それで、移植が可能かどうか判断する」

 イデアは演説するように、自分の研究を話し出す。

 彼の言葉には力があるのだろうか、相手を無理やり納得させるような”何か”がある。まるで、自分が間違えているような錯覚を起こさせる。

 「人間って、魂と肉体があまりにも違いすぎるとうまく移植できないんだ。だから、作ったんだ。僕の細胞から、クローンを。自分と近い肉体を作れば移植できるはずだろう?」

 コツコツ、と革靴を踏み鳴らしながら、イデアはマヤに近づいてくる。身長は同じくらいのはずなのに、イデアには強い圧がある。後ろでは、レンゲが静かにこちらを凝視していた。背中に嫌な汗をかきながら、前にも後ろにも動くことが出来ずに震える。

 「研究の結果、コピーを作るのも自動化したんだよ、すごいでしょう。ここに小さい子が多いのは、その方が実験が上手くいく傾向にあってね」

 「な、なんで、こんな事を……!」

 そう聞くと、イデアはきょとんとした顔で返事を返す。

 「なんでって、分かるでしょう? 僕は、この世のすべてを知り尽くしたい。でも、それをするには僕の体は弱すぎる。――なら、体を変えてしまえばいい! そうすれば、いつまでもいつまでも、生きていることができる」

 「じ、自分のために、ノアとソーマを犠牲にするってのか!」

 脳裏に、ノアとソーマの笑顔が蘇る。――あの子たちが、何故死ななくてはいけないのだろうか? そんな疑問が心に満る。

 しかし、帰ってくるのは無慈悲な返答だ。

 「だって、あの子達はそのために作られただけだもの。それ以外、存在する必要なんて意味なんてないよ」

 ――生きることを否定する?

 「これが成功すれば、殺しよりもっともっと、大きなビジネスも出来る。世界中のお金持ちに、魂の移植を提案する。死が怖い金持ち老人なんて、この世に億万といるよ」

 ――どうして、こんな扱いを受けなくてはいけないのか? ソーマの言葉が蘇る。

 「サトリももう要らないなぁ。邪魔だから殺しちゃおっかな!」

 「さ、サトリ……」

 サトリの名前が出てきて、思わず動揺する。それと同時に――サトリをも死ぬ可能性がある事が分かり、驚愕する。

 「ねぇ、こう思わない? 魂が移植できるなら、もっともっとスペックのいい体に入って最高の人間になっちゃえばいいんだって。君の”脳”は、いうなれば最高だ。君には、最高の肉体の一部になってもらいたい」

 それはつまり、

 「ぁ……お、俺は、死ぬ……?」

 そういうことを指すのだろう。

 イデアはニコッとかわいらしく笑いながら、マヤの顎に手をおいて目線を合わせる。

 その目は一切笑っておらず、深い闇のような、どこまでも底がない昏さがあった。

 マヤは本能で理解する。この男には人間らしい情も、感情もない。どこまでも無邪気に残虐な程、知識を求める者――化け物だと。

 「死にたかったんだろう? サトリから聞いたよ、君の望みは”サトリに殺されることだ”って。ちゃあんと望みはかなえてあげるからね」

 「あ……」

 ――自分が死ぬ

 それはマヤにとっての望みのはずで、自らサトリに頼んだことだ。

 自分の”本質”が嫌で仕方なくて、自分のすべてを壊してしまいたいから。”本質”があるから受け入れてもらえなくて、居場所もなくて、否定されたから。だから――死にたかった。

 でも今は、自分の死にひどく疑問を抱く自分がいた。

 ――自分は死にたいのか? 今?

 自分が死んだあと、サトリは死ぬ。双子は魂を抜かれて器になり、ビジネスの道具にされる。それをどうする事も出来ず、自分は死ぬのか?

 自分の居場所をくれたものを全部、失ってしまうのに?

 ――それでいいのか?――

 その時――背後から歓声が上がる。

 「おおお!! うまくいったぞ、ついに成功だ!」

 「彼女は成功体だ! ついに!」

 そんな研究者たちの声が聞こえ振り向けば、ノアの方は意識があるようだった。ぼんやりと天井を見つめている。

 しかしその横のソーマは……ベッドからずり落ち、ぐったりと倒れている。

 「ソーマ…! ソーマ!!」

 部屋の入り口を探し、無理矢理飛び込んだ。

 研究者たちはソーマの事を邪魔だといわんばかりに無視している。マヤはソーマに駆け寄り、抱きかかえた。

 「おい、おい!! しっかりしろ!!」

 大きな声でソーマを呼ぶと、うっすらとだけ目を開ける。ほっとして脈などを測っていると、ソーマはぼそぼそと言葉を発する。

 「……マヤ、お兄さん……やっぱり、アレは嘘…だ、ね……。僕は……生き残、れない……進化なんて……でき、なかった…んだ……」

 「しゃべるな、じっとしてろ!! 今……」

 脈が弱い。咄嗟にソーマの事をきつく抱えながら、周りの研究者に頼もうとすれば、グッ! と強い力で襟をつかまれ、またはソーマと目線を合わせさせられた。

 「お兄さん」

 その目は――イデアとそっくりだ。深い、深い闇。ただ一つ違うのは――ソーマの暗闇には、果てしない怒りで広がっている。

 「どうして? どうして、僕は……、死ななくちゃ、いけない?」

 疑問。生きるという事さえままならない事。

 「どうして、姉さん…よ、り……劣ってるから、失敗する…の? 生きていることを、否定されなくちゃいけない?」

 疑問。取捨選択され、不要なら捨てられる立場。

 「こんなの――間違ってる」

 それに対する答えは――怒りだった。

 「死にたく、ない! 死にたくない! どうして、生きたくない貴方が生き残って僕が死ぬんですか…!?  代ってよ、僕と、代わってよ!」

 それは自分と似て非なるマヤが、死を望むことへの怒りだった。

 「ソ、ソーマ……」

 「生きろよ、生きろ!! どうして、その力があるのに、生き残れるのに!! 生きようとしないんですか!!」

 死にゆく者の、正者へ対する強い、強い怒りだった。

 ソーマの感情に追い詰められ、マヤ自身の息も荒く激しくなっていく。閉塞感が胸を支配し、吐きそうな程精神が摩耗していた。いつもは高速で回る頭でさえ、石のように固く沈黙する。

 何も考えられない、ソーマの言葉だけが深く脳に響いてくる。

 何とか、言葉を絞り出そうとした。死に際のソーマが納得するような、怒りを収めてくれるような何かを探して。

 「ど、うやって……俺だって、もうすぐ……」

 先ほどの宣告を思い出す。

 自分は脳を使われるために殺される、そう言われたのだ。

 確かに疑問はある、今死んでもいいのか? そう思う。でも、抵抗したとして、逃げられるとはとても思えなかった。

 また――諦めようとしていた。

 「諦めてる、だけだ…貴方なんて……生きることから、逃げてるだけだ!!」

 そんな気持ちを見透かすように、強い言葉でマヤを非難する。

 逃げ場なんてない。ソーマの気持ちを受け止めるしか――ない。

 「諍ってよ、戦ってよ!! 生きてみろよ!! 樋口マヤ!! 生きろ!!」

 渦巻、波打ち、荒々しく猛るその感情に飲まれる。

 諦め、壊されることを選ぶような俺が、諍えるのか?

 「生きる」事に、最後まで、立ち向かえるのだろうか?

 俺は……。

 《章:諍ルート》

 「生きていいのか?」

 ソーマはマヤの頭をつかみ――至近距離でこちらの闇をのぞいてくる。昏い瞳の奥で燻られる怒り――マヤの視界はソーマの燃え上がる炎だけになる。

 「見て。……僕を、見て。 生きろ」

 脳の奥に響くように、暗示をかけるように、天啓を授けるように――ソーマの呪いがマヤの脳に刻まれる。

 「どんな手を使ってもいい、自分が生き残るためなら、何をしてもいい」

 熱い炎で刻まれていく、マヤの中の、「生きる」事。

 「どんなに非道でも、間違ってても、構いやしない。貴方の生を否定する奴らが間違っているんだから」

 「生きる」ために、諍い、戦わなければいけない事。

 「――生きろ。邪魔をする奴らは、皆殺しにしてでも、生きろ。諍え、戦え、生きろ、生きろ……!!」

 ……それを最後に、ぱたりとソーマの手は地面に落ちる。目の光はゆっくりと失われ、あれだけ感じていた”怒り”の感情も谷底へと落ちていく。

 「ソーマ……ソーマ!!!!」

 大声で呼びかけても、もう何の反応もない。肌は急速に温度を失い、目の前の”ソーマ”は、その他大勢と同じ”死体”へと変化していく。

 ――死んだ。

 ソーマは、死んだのだ。

 呆然としていると、後ろから迷惑とばかりにイデアが話しかけてくる。

 「うるさいな、姉には弟は生き残れるって言ってあるんだから。少し黙って」

 「0403の死体を隣室の安置所へ移します」

 「うん、よろしくね」

 それに返事を返す力も残っておらず、ただ茫然と目の前のソーマを見つめていれば、それさえも許されなくなる。レンゲは、マヤから無理矢理ソーマを引きはがそうとする。それに抵抗を試みるも―――掴めたのは、ソーマのリボンとネックレスだけだった。するりと抜けたソレだけが手の上に残る。その鈍く光る残骸を呆然と見つめた。

 「……」

 「大丈夫~? ちょっと休む? 君には、最高のコンディションでいてほしいからね」

 さすがにショックすぎたか。脅しの目的でマヤをここにつれてきたイデアだったが、マヤがショックを受けすぎているようで声をかけてみる。

 「……わかった」

 意外にも、帰ってきたのは了承だった。

 「元々俺は死にたかったんだから、役に立つなら、脳でもなんでも使ってくれ。でも、その前に……、気持ちの整理がしたいんだ。遺書くらいはかかせてくれよ」

 物分かりが良すぎるのも怪しいが、逆に死を見る事で自分の立場を理解した、という事もあるだろう。

 「……一日あげるよ、ゆっくりかいて」

 そのぐらいの慈悲深さは持っているのでマヤに許可を出すと、のろのろと動き出した。マヤが部屋の外へ出たのを確認してから、ゆっくりと扉を閉める。

 空いた手術台には、”次のソーマ”がまた乗るだけだろう。それとも、似たソーマを見繕えばマヤは満足するだろうか? そんな事を考えながら、イデアも杖を突いてその場から動き出した。

  §

 チチチ、と鳥が鳴いている。レンゲはお屋敷の近くの野原で、主の大好きな花冠を作ろうと花を摘んでいた。

 そこに、綺麗に刈り取られた芝生の上を柔らかい髪色の少年がぴょこぴょこと大きく手を振って走ってくる。

 「レンゲ~!!」

 かわいらしい声で自分の名前を呼ぶ人間が誰かわかり、花摘みを中断して辺りを見回す。

 「イデア様?」

 立ち上がれば、自分の腹へとイデアがダイブしてくる。まだ五歳程の小さな彼をしっかり受け止めれば、そこにはむくれ顔があった。

 「まって、まってよぉ、レンゲ」

 むー……と怒り気味の顔を見て少し笑いながら、その柔らかい髪を撫でる。

 「私は貴方を置いていったりしませんよ」

 「だって、レンゲがどんどん先に行っちゃうから……」

 そういうと、イデアはすこししゅんとする。自分が一人でどこかに出かけたので、置いて行ってしまったと勘違いしたのだろう。幼子特有のかわいらしい勘違いに微笑みながらも、彼と目線を合わせるように膝をつく。

 両肩にそっと手を当てながら、レンゲは誓いの言葉を述べた。

 「私はなにがあろうとも、貴方を置いてどこかへ行ったりしません。たとえ死のうとも、貴方を一人にはさせませんよ、イデア様」

 それは、レンゲの心からの本心だった。

 イデアの事を、レンゲは生まれた時から知っている。

 生まれたばかりの幼いイデアを見せてもらった時、心に誓ったのだ。たとえ、イデアに何の災厄が降りかかろうとも、世界中が敵になったのだとしても――レンゲだけは、イデアのそばにいて彼を守る、と。

 「うん!」

 自分の思いは伝わったのか、イデアは機嫌を直して満面の笑みを浮かべる。

 しかし――

 「げほ、げほっ! げほ……」

 急に彼はせき込みはじめる。勢いよく走ってきたからだろうか? レンゲはイデアの背を撫でる。

 「お薬は飲みましたか? すぐに薬を――……」

 「僕、大きくなったら病気で死んじゃうんでしょ? お父様から聞いた」

 驚くと――不安そうな面持ちをするイデアがいた。

 彼は――先天性の病気を抱えている。治療法もなく、成人後は長く生きられないと医者からは告げられていた。

 ぎゅっと胸が痛くなりながら、拳を握り言う。

 「……死にませんよ。死なせません、私が」

 真剣な面持ちで言うと、イデアはその返答が気に入ったのか、笑顔を取り戻す。

 「ありがとう、レンゲ」

 その笑顔を守りたかった。命が奪われるなんて、思いたくなかった。たとえ自分の身をささげようとも、イデアが生きる道を探して見せる。そう、自分に誓う。

 「かえろう」

 手を伸ばしてきたイデアを抱えようとすれば、自分と歩きたい、とそれを拒否される。

 その愛らしさに心を締め付けられながら、手をつないでゆっくりと歩き出した。

 「レンゲ……レンゲ? 聞いてる?」

 主の声で、時は急速に動き出す。

 一瞬、過去の記憶に心が囚われていたようだ。ごまかすように、すぐに返事を返す。

 「はい、イデア様」

 しかし、そんな嘘もすぐに見破られる。

 下から覗き込むように、イデアは自分の顔をじっと見つめた。目を反らしたくなるのをこらえて見返せば、すこしむっとした顔をする。

 「嘘だ、また話を聞いていなかったんだろう。レンゲ、君が僕に隠し事なんて出来るはずがないでしょう? 目を見たら分かる」

 「……」

 イデアとは、生まれてこの方離れたことがない。それ故に、お互いの事は知り尽くしていた。

 レンゲを詰め寄るのも飽きたのか、くるりと踵をかえす主は手を広げながら笑みを浮かべる。

 「僕はね、生まれ変わるのが楽しみだ。だって、ようやくこの体から解放される」

 ――咳をしている、幼い頃の彼を思い出す。そうだ、今の体を捨て魂を乗り換えれば、イデアの体は五体満足の健康体になる。

 「もう、苦しい思いもしない、動き辛い事もない。寿命におびえる事もない――自由だ!」

 主に苦しい思いもさせず、死ぬ事を怖がる必要ももうないのだ。

 これは自分の願いの傍受でもある。

 「君も嬉しいだろう? レンゲ」

 でも――なぜか。

 なぜか、レンゲは喜べなかった。

 理由は分かっている。イデアが――自らの体を捨ててしまうからだろう。

 イデアの幸せが、レンゲの幸せだ。そして、イデアが幸せになるという事は――その体から解放されるという事に他ならない。

 そのはずなのに。

 その体が失われると思うと、脳裏に浮かぶのはこれまでのイデアの顔だ。産まれたばかりのイデア、自分の腹に抱き着いてくるイデア、自身の死を身近に感じこっそりと一人で泣いていたイデア――それらが永遠に失われる事。その事に、レンゲは制御できない寂しさを、悲しみの感情を抱いていた。

 根本であるイデアの魂は変らないはずなのに、何故そう思ってしまうのか? 自分でも分からない。イデアの研究を疑うわけではないが、魂を入れ替えた肉体は本当にその魂が宿っているのか? そんな疑問も捨て去れなかった。

 イデアの病気が無くなる事も、元気になる事も――レンゲにとって、とても嬉しい事のはずなのに。言う事を聞かない感情は、実験が成功に近付くにつれ大きくなっていった。

 しかし、イデアの研究を、意思を否定することは、イデアの生を否定することだ。レンゲは、自分の悲しみを隠して返事をする。

 「はい」

 そういえば、ぐるりと振り返ったイデアが、自分と目線を合わせる。

 「……」

 その顔は笑顔から怒りへ、みるみる姿を変えていく。

 自分がイデアの成功を心の底から喜べていない事は、彼にはお見通しだった。

 「僕に嘘をつくな」

 返事をできずにいると、持っている杖で殴られる。

 「どうして、嘘をつく!?」

 それを許容していれば、さらにもう一発、二発と暴力が飛んでくる。

 「お前なんか、ただ力が強いだけの、お前なんか!!」

 自分だって、イデアの気持ちが分かる。

 何故、レンゲが心の底からイデアの転生を喜んでくれないのか疑問なのだろう。自分の生をレンゲが望んでいないのではないかとさえ、疑ってしまうだろう。

 イデアの苦しみを一番近くで見てきた、自分の分身のような男が、苦しみの解放をよく思っていない事に怒りを感じるのだろう。

 「……申し訳ございません」

 自分でもコントロールできない感情に、ただ謝る事しかできない。

 杖を振り回していたイデアは、体を動かしすぎたからか、急にせき込む。

 「はぁ、はぁ……ごほっ! ごほ、ごほっ!」

 「イデア様」

 その姿に胸が痛くなり、あの時のように背中に手を伸ばそうとすれば――

 「触るな!」

 ぱしり、と。その手をはたかれる。

 少し息を整えた後、杖を持ち直して自力で姿勢を元に戻した。

 「僕は大丈夫だ。君になんて支えてもらわなくても」

 「……はい」

 きっと、これは罰だった。自分の気持ちがコントロールできない事への、罰だ。たとえイデアに嫌われようと、拒否されようと――自分にはイデアしかいない。死ぬまでついていくと誓った人間は、この世に二人といない。

 だから、どんな扱いを受けようと、レンゲは彼の傍にいる。

 「行くよ」

 「はい」

 イデアに促され、自分も歩き出した。

  §

 「……それで? マヤ君の様子は?」

 イデアとともにレンゲは監視室にいた。ここは二階の住居スペースの端にある場所で、この場所のフロアの監視、ロボットへの指示、バイタルの確認、研究員の位置などが分かる。おおむね三人程が配置されており、上階の施設や駐車場ももちろん見ることができる。

 二人はマヤの様子をカメラ越しに見るために赴いていた。マヤに実験を見せてから概ね一日が経過しており、マヤの精神状態や体調などを確認したかった。

 「それが……あれからずっと遺書を書いているのか、おとなしいです」

 どうやら、大人しくしているようだ。モニターも確認してみれば、部屋に備え付けられているパソコンのキーボードをぽちぽちと不慣れな様子でおしている。手元にはメモ帳のようなものが置いてあり、そこにも何かを書いているようだ。

 サトリの報告からも、指示に従いなんと穴まで掘らせていたと聞く通り、流されやすい性格のようだった。

 「PC画面は?」

 そういうと、職員はマヤの使っているパソコンの画面をモニター上に映し出す。そこには、デスクトップにメモ帳だけが表示されており、遺書のようなものが五百文字くらい書いてあった。

 「……この通り、メモ帳にぼちぼちと文字を打っています。あっ」

 職員の声につられてマヤのモニターを見ると、ごみ箱に顔をうずめている。

 「吐いた」

 「バイタルすごい音鳴ってるよ、大丈夫?」

 ピーピーと脈に異常をきたす音が鳴っている。慌てて職員はマイクのスイッチをONにし、近場の警備員に指示を送る。

 「0043、対象をトイレへ連れて行ってくれ」

 「了解した」

 警備員は部屋に入ると、ごみ箱に吐いているマヤの安否を確認し肩を担ぐ。そのままずるずるとトイレに移動する様子が見えた。

 しかし、すぐに第二波が襲ってきたのか、廊下で盛大に吐いている様子が別のモニターにうつる。

 「あぁ……バイタルの上に吐いたみたいですね、ひどい。俺のバイタルにもかかっちゃいました」

 警備員から、困ったような呆れたような通信が入る。その事に監視室の人間から笑い声があがった。

 警備員はバイタルを外したようで、カメラに映るように見せながら通信をいれる。

 「一旦バイタルを外してトイレで綺麗にする。乾かしてから再度装着させるので一度外すぞ」

 「了解」

 そのまま、警備員はトイレへとマヤを連れていく。トイレ内にカメラはなく、その様子を見ることはできなかった。

 イデアは一連の流れを見ながら、腕を組み笑う。

 「うふふ、本当、実験に前向きなのはいいけど……メンタル弱いね? こんなのでちゃんと使えるかな、脳」

 「うまく制御すれば、すさまじい実験結果が出せるポテンシャルは持っていると思いますが…」

 「お前には聞いてない」

 レンゲが横から口を出すと、ぴしゃりとにらみつけられる。

 先ほどの件を思い出し、レンゲは口をつぐんだ。

 「……」

 そんなレンゲなどお構いなしに、イデアはそうだ! と声を出す。

 「あ~あ、サトリのメンタルとマヤの脳、足して割ったらちょうどいいよね。脳だけ交換してみるのもありかなぁ」

 うふふ、と笑いながら自身の考えに没頭するイデアをこっそり見つめ、レンゲは心の中でため息をついた。

 いつか――イデアの肉体が入れ替わり終わったら、今のような距離感がなくなるのだろうか? そう思うものの、今の自分がイデアのその後を受け入れられる気がしなかった。その事に、無性に寂しさを感じながらも、顔に出ないようにカツをいれモニターに再度目をうつす。

 そこには、変わりない施設の様子が映し出されていた。

 十分くらいたっただろうか、そうこうしている間にマヤが自室に戻っていく様子が映る。警備員にほとんど引きずられながら連れてこられたマヤは、そのままベットの上に投げるように置かれる。

 「……トイレから戻ってきました。警備員に寝かされています、大丈夫ですかね」

 「引きずられてるじゃないか。これはもう一日ぐらい様子を見たほうがよさそうだ……」

 そう結論付けたイデアは、興味をなくしたようにモニターから目をそらし――レンゲの方へ向き直る。

 「まぁ、マヤ君がかわりないならいいや。サトリでも見に行く?」

 はい、と返事しようとしたその瞬間―――

 バチリ、そんな音がして全てのモニターの電源が切れる。突然の事にその場にいた全員が驚いた。

 「な、なんだ…?」

 「電源が落ちました! 何も映りません!」

 部屋の入り口を開けると廊下の方も電気が消えており、この部屋だけでなく他の部分の電気も消えた事が分かる。

 「非常用電源があるはずだ、早く戻せ!」

 「はい!」

 レンゲの指示ですぐに行動を開始した職員は、壁にかかっている電源関係の箱をあけると、非常用電源のスイッチを押す。

 まもなく、点滅しながら電気が戻ってくる。ほっと一息ついて、モニターに目をやると――

 「こ、これは……!?」

 全てのモニターには、舌を突き出した顔文字のようなものがずらりと並んでいた。職員が必死に手元のキーボードを操作するも、一切動きはない。

 レンゲの背に、とてつもない悪い予感がした。

  §

 時を同じくして別の部屋――……

 サトリは、施設の”特別な部屋”に監禁されていた。格子にかこまれ、簡素なベッドとトイレだけがあるいうなれば牢獄のような場所だ。

 「……」

 サトリの中に巡るのは、「自分の立場」と「あきらめ」だ。

 自身の立場を失えば欲の発散はできなくなる、たとえ脱出できたとしても、その後の自分はどうなる? そう思うと、ここから出ようなんて思えなかった。

 そんな諦めから、この何もない部屋の隅でただ座っている。

 そんな時――唐突に部屋の電気が消える。

 「電気が……落ちた?」

 偶然落ちる、などという事がこの施設で起きるだろうか? 組織と敵対しているものの襲撃か…? そんな考えを浮かべつつ、自分には関係がないだろうと考えを打ち消す。

 やる事がないので、ベッドで寝ようか……。そんな事を考えながら立ち上がると、部屋の扉が開き警備員が入ってくる。

 何事かと身構えれば、その警備員は牢屋の前まで近づき、頭につけている装備を床にたたきつけた。

 「ぷはぁ、これ重てぇ……」

 中から出てきたのは――マヤだ。いつもしている眼帯はしておらず、警備員の武装にスーツ姿――そして胸元には、見た事のあるようなリボンとネックレス。そんないでたちをしている。

 「貴方……」

 思わず声をかければ、マヤはすぐに牢屋の入り口へと手を伸ばす。警備員の装備一式を盗んだのか、懐からだしたIDカードをかざした。

 「おい、早くここから出るぞ。今開ける」

 マヤのそんな呼びかけに、サトリは返事を返さない。

 「……」

 「なんだよ」

 この牢屋から出るという事は――組織に抵抗する、逃げるという事だ。それをすることは、サトリにはできなかった。

 「開けてどうするんですか? この施設から逃げられるとでも? ――不可能です。それに、運よくここから出れたとしても、その後逃げ切れるとでも? 貴方と私、二人で?」

 そうだ、二人だけでこんな広い施設を無事に脱出するなんて、不可能だ。たとえ出れたとしても――その後どうするつもりなのか? そこになんの保証もなかった。そう自分に納得させるつもりで話す。

 「……私の居場所は、ここにしかありませんから。どのような扱いを受けたとしても、放り出されたら――生きていけない。だから私は、いけません」

 既に自分は、己の立場の天秤に重しを置いた。

 自分の”本質”が消えない限り、自分は”ココ”に居るしかない。そして、”本質”は消えない。

 マヤの誘いに乗る事はできなかった。

 「……」

 マヤはそんな様子のサトリを見て、少しの間考えているようだった。

 少しして――決意したようにサトリに向き直る。

 「なぁ、サトリ――壊そう」

 マヤの口から出た言葉に驚き、サトリは彼と目線を合わせる。

 ――そこに、以前までのマヤはいなかった。

 彼は笑っていた。口に出している言葉とは裏腹に、とても楽しそうにしている。

 そして――昏い、昏い瞳。人間が持つべき生のエネルギーを感じないその瞳は、サトリがよく知る、死人のそれと似た永遠の暗黒だった。しかし、その中に感じるのは、地獄のように深く、重い、”怒り”だ。それだけが、彼の目の中に感じる唯一の人間らしさだ。

 なにがあったのかは分からないが、何かがきっかけでマヤは”人ではなくなった”のだと思った。

 マヤの変貌に驚いていると、彼は勝手に話を続ける。

 「何故、俺達は生きるのを否定されなきゃいけない? ここに居るのを否定されなきゃいけない、否定の暴力を受け続けなければいけないんだ?」

 鉄格子に手を添え、マヤは笑いながら言葉を続ける。

 「気づいたんだ。そんなの――もう嫌だ。俺は、この施設全部ぶっ壊して、生き残る」

 ミリ、と鉄格子を掴む手に力が入る。

 「俺の”本質”を使って、俺は自分の道を切り開くんだ」

 気づいたのだ、居場所がないなら作ればいいのだと。それを邪魔するなら、戦わなくてはいけないのだと。それが他人でも、たとえ自分でも、自分の生を否定するならば――殺してでもいい、排除しなければ居場所は作れないのだと。

 だからこそ、自分自身の道を切り開くために。

 「そのために――ここの奴らを全員、殺す。俺の道を邪魔する奴ら、全員、皆殺しにする」

 ――生きろ。邪魔をする奴らは、皆殺しにしてでも、生きろ。諍え、戦え、生きろ、生きろ……!!――

 ソーマの最期の言葉がこだまする。

 自分のために俺たちの命を奪おうとするイデア、それに賛同する者達、それを生み出す者達。そのすべてを、壊す。

 何故なら――俺達の生を否定したから。理由はそれだけで十分だ。

 「全部壊して、俺達の居場所を作りなおそう、サトリ」

 頬を染め満面の笑みをしながら、マヤは鉄格子の隙間からサトリへ手を差し出した。

 以前のマヤからは絶対に出てこない提案だった。双子を殺人現場に連れていくだけで抵抗してきたような、一般的な倫理観を持つ男はもうここにはいない。ただ、己の”本質”を使い自分のためならなんだってする化け物だけがここにいる。

 その手をじっと見つめた。一般的な男性より小さめの、穴掘りをしすぎてマメだらけの手を見る。

 「……」

 あの時、自分に笑って許すといってくれたマヤはもういない。

 自分の命令に文句を言いながら聞くマヤも、双子の面倒をなんだかんだ見てしまう優しい部分のあるマヤも、”本質”のある自分を責めてしまうマヤも。

 ――自分を殺せないくらい情を抱え込むマヤももういない。

 そういった人間らしさを全部どこかへ無くしてしまった、生きた屍に成り果ててしまった。

 そんな男が、唯一自分だけに、「一緒に来てほしい」と手を差しのべてくる。砂の粒くらい小さな、人間らしさを自分に求めている。

 きっとこの手を払えば――今度こそマヤには何も残らない。獣のように、ただ「生きる」事だけで動く肉の塊になるのだろう。

 マヤの「人間」としての断崖絶壁に残る、最後の足場が、自分なのだ。

 ――サトリの中に、いいようのない興奮が立ち上ってくる。

 マヤをあわれだと思う気持ちと、優しい者が化け物に成り果てた虚しさが、それでいて美しい様が混ざりあって、感じた事のない熱を覚える。

 これは――そうだ、母親が死んだときと似たような感覚。生と死、相反するはずのものが、一緒になって混ざり合っている様。

 死に残されたわずかな生を感じるのは、自分だけに許された行為なのだという事。

 ――美しかった。

 きっと彼は、本当に全てを壊してみせるのだろう。その様が見てみたい。

 全部を破壊しつくした先がたとえ屍の山の上でも、彼はここが居場所だと無邪気に笑うのだろう。

 生きながら死ぬ男が、自分が生きるために人を殺すその悲しさこそが、笑って喜ぶ虚しさが、サトリの癖を満たし尽くしてくれる気がした。

 サトリは伸ばされた手をそっと握りかえした。

 「えぇ、全部、壊しつくしましょう」

 牢屋を振り返る。ここは確かに私の居場所だった。しかし――居場所は自分で作り出すものだと、目の前の男も言う。

 それならば――一番の特等席を予約するべきだろう。

 笑ってそういえば、マヤはにやりと笑って、その昏い瞳を嬉しそうに細めた。

  §

 「……やられた」

 レンゲはマヤの服を着させられた死体を前に、拳を握る。

 モニタールームでの一件の後、思い当たる節がありマヤの部屋に来れば、マヤだと思わされていたのは彼の服を着させられた戦闘員の死体だった。ご丁寧に眼帯までつけさせられた彼の死体には、二人分のバイタルが通されている。

 ――逃げられた。

 すぐに背後の部下に指示を出す。

 「樋口マヤが逃げたぞ! まだ外へは出ていないはずだが……さがせ!」

 モニタールームの権限はまだ回復していない。それどころか施設全体の電気も再開していない状況だった。仕方なく今は部下を送って状況を掴もうと必死になっている。

 そこに、サトリの様子を見に行ってきた部下が帰ってきた。

 「中原サトリの牢屋を見てきました! ――いません! どこにも!」

 思った通り、マヤはサトリを連れて逃げるつもりのようだ。

 「いいか、探せ。エレベーターの電源も復活していない、どこに隠れているかは分からないが、まだ外には出ていないようだ。この施設のどこかにはいる。端から端まで探してこい!」

 部下にそう指示すると、すぐに四方へ探しに行く。レンゲ自身も、捜索の手伝いをするつもりで歩き出しながら、何か途方もない悪い予感が加速している事に気づく。

 ただ逃げようとするだけならいい、しかしそれだけで済むのだろうか? そんな予感が胸をよぎる。

 「どこへ行った……樋口マヤ!」

 「探し回ってんなぁ~」

 耳に刺したイヤホンで監視カメラからの音声を拾っていたマヤは、レンゲ達のやり取りをすべて聞いていた。呑気にそんな事を言っていれば、マヤが奪ってきたノートPCをサトリが上から覗き込む。

 「見つかったんですか?」

 カタカタと音を立てながらキーボードを操作すれば、ぱっと違う画面がうつる。二階の寝室、食堂、研究室等のすべての監視カメラの権限はマヤの手にうつされていた。ぱっぱっと画面を変えていけば、最後にマヤの寝室を映し出す。

 「兵士をトイレで溺死させて、死体を俺の身代わりに置いてきたんだけどよ。意外と発見が早かったな」

 タンッ、エンターキーを押せば今二人がいる場所も映し出される。

 それは、巨大なゴミのプラットホームだった。

 「ま、ここは中々見つからねぇだろう」

 「居心地は最悪ですけど」

 二人はそれぞれ警備員の服に着替えると、堂々とエスカレーターを降り、調理場に入った。幸い調理場はロボットしかおらず、人の目に触れることはない。

 そこにある、この施設で一番大きなゴミ箱から、このゴミプラットホームまで降りてきたのだ。この場所があるのは施設の一番下、最奥部で、電気系統の設備よりも下にある。

 「それで? 全部壊すんでしょう? どうするんですか」

 外部へつながる扉、そこへ続くはしごに座りながら聞けば、マヤはうーんと悩んだような声を出す。

 「それなんだけどよぉ……。この施設の住民を一人ずつ潰していったら時間が掛かって面倒だろ? だから――この施設を崩落させる」

 あまりにも無邪気に笑いながら、そう言ってくる。

 「ここにいる人間も、研究物も、――イデアもレンゲも、みんな。潰して消しちまおう」

 何が悪いといわんばかりに、当たり前に提案される行為。それをやすやすとサトリも受け入れながら、一つ沸いた疑問をぶつけてみる。

 「しかし、施設を崩落させるということは、私達も巻き添えを喰らうわけですよね? どうやって逃げるつもりですか?」

 サトリが知っている施設の入り口は、最初に降りてきたエレベーターのみだ。あの場所に行くには目立つ場所を通らなくてはいけないし、エレベーターを動かす事自体が目立つ行為だ。気づかれて箱ごと落とされる可能性がある。

 「それなんだけどよ……、遺書かいてるフリしてる間に、この施設の間取りと研究物をPCで覗いてたんだよ」

 マヤはモニターされているのを知って、偽の作業画面を作って監視の目をごまかし、その裏でこの施設の権利を乗っ取っていた。

 サトリに見せるために、研究所の内部データであるこの施設全体の地図を表示する。そこには、建設当時に作られたのだろうか、詳細な間取りが記されていた。その中で特出すべきは、三階の間取りに見たことのない通路が表示されている事だ。

 「ほらみろ、三階のイデアの部屋に脱出口がある。おそらく、これを知ってるのはイデアとレンゲの二人だけだ」

 「しかし、三階はカードまたは指紋のロックが掛かってますよね?」

 「あぁ、上書きしてみようとしたけどダメだった。あの二人どちらかを誘拐するか殺すかして、指紋を手にいれねぇといけない」

 逃げるためには、イデアかレンゲの指紋、もしくはIDカードを本人から直接手に入れなくてはいけない。

 「それに……、崩落させるには火薬が必要ですよ? そこをどうクリアしますか?」

 崩落させるには爆弾を手に入れなくてはいけない。

 この二つをクリアしつつ、脱出口を使い上に行き、誰も上に通さずに皆殺しにする。

 その算段を、使える力全てを総動員しマヤは組み立てていく。

 「……考えは、ある」

 そして、一つの作戦を思いつく。それはとびっきり悪趣味で、この施設の人間を壊しつくすのにはぴったりの作戦だった。

 面白くなって、マヤはつい笑い声をあげてしまう。笑いすぎて、手元のPCが変な文字を打つくらいに存分にのけぞって、上にいるサトリの方を見上げる。

 「楽しみだな きっと、面白い事になるぞ」

 マヤが笑って変な事をしているのに呆れたのか、サトリが馬鹿にしたような笑みで文字通り見下してくる。

 「貴方も随分悪い趣味を持ちましたね」

 「アハハ、お前に言われたくない」

 これからこの施設の人間を皆殺しにするとは思えない軽口をたたき合った後、マヤはパタリとノートPCの画面を閉じる。

 「――やるか」

  §

 「……職員はいち早く非難してください……」

 非常ベルがならされ、けたたましいサイレン音と共に、そんな音声が流れ続けている。モニタールームからのアナウンス機能の権限も奪われてしまったので、職員が見回りをしながら聞きそびれた人間がいないかチェックしていた。同時に、サトリとマヤの捜索が続けられているので、職員はてんやわんやの状況になっている。

 レンゲは二階を歩き回りながら、捜索と誘導の両方を行っている。そんな彼の元に、職員から報告が上がってきた。

 「まだあいつらは見つからないのか」

 「はい! 全ての部屋を当たっているのですが……」

 「何をしでかすか分からない。優先順位としては避難が先で、避難確認が済んだ職員から捜索に回せ」

 モニタールームに残り管理権限を取り戻そうとしている者もいるが、今だ成果はなしだ。こんな事が出来るのは樋口マヤしかおらず、死体を隠蔽するなどのやり口も周到で、完全に相手の行動を見誤っていた。

 だからこそ、迅速に捕獲して止めさせなければいけない。

 レンゲがそんな事を考えていると――ガシャ――ン!! そんな音が廊下に響く。

 「なんだ…!?」

 辺りを見回すと、分厚い鉄の扉が所々降りていた。すぐ横にいた部下が事態を察知し、報告する。

 「ぜ、全館の防火シャッターが降りたようです! これでは、避難しきれていない職員と、警備員が取り残されてしまいます!」

 緊急時の防犯対策も兼ねているため頑丈に作られた防火シャッターは、一度降りれば簡単には開かないようになっており、手動で動かすことはまず不可能だ。これが降りたという事は、各通路の入り口、モニタールーム、寝室、食堂、研究室、階段などが分断され、そこにいる人間は閉じ込められたことになる。

 やっかいな事をされた……。すぐに手元のトランシーバーで各職員に無線を送る。

 「ぐっ……! 権限を取り戻させる人員を増やせ、早急に!」

 そう指示を送れば、次は頭上に違和感を感じ上を向く。

 「うわっ!? スプリンクラーの誤作動……!?」

 火災が起きていないのに、スプリンクラーが回っている。廊下のガラス越しに辺りを見回せば、他の廊下もこの状態になっていることが分かる。

 「火災などおきていないだろうな! すぐ確認しろ!」

 防火シャッターもおりている、どこかで起きた火災に反応した誤作動の可能性もあった。何より、今の二人は放火ぐらいならしてもおかしくない気がしたのだ。

 半ば怒鳴るように指示を送っていれば、青ざめた部下が、震える声でおそるおそるレンゲの名前を呼ぶ。

 「れ、レンゲ様……」

 「今度はなんだ!」

 悪い予感に少し強めの口調になりながら聞けば、部下は震えながらも手元のメモを見ながら話しだす。

 「食堂、研究室、ホール、武器庫などで清掃ロボが全ての物を捨て始めました…! また、犬型ロボも暴走状態で、一部職員がケガをしています!」

 モニタールームは抑えられ、権限は奪われ、防火シャッターにスプリンクラー、そしてこれだ。

 「アイツら……!!」

 怒りに拳を震わせながら、一度落ち着くため、大きく息を吸って吐く。レンゲは目を閉じて、頭の中の考えに集中しはじめる。

 (考えろ、どこにいる……?)

 既にけが人がでている。常に先手を打たれているこの状況を打破しなければ、もっと大勢の命が危険になる可能性だってあった。今まで得た情報の断片を拾い集めながら、マヤたちの行動を予測する。

 (電源の操作……、犬ロボット、清掃ロボットが暴走……、スプリンクラーの誤作動……)

 どうやって、どこへ逃げた? どうして見つからないのか? 自分だったらどこへ逃げる? 何を目的にして行動を起こす?

 一つ一つ、目的を当てはめながら考え――一つの答えにたどり着く。

 「……ゴミだ」

 「え?」

 「ゴミ集積所が怪しい。行くぞ」

 二階、一階をある程度捜索しても出てこない二人が逃げ込める場所、そう考えた時に出てきたのはゴミ集積所――ゴミプラットホームだ。この施設のゴミプラットホームは一か所で、置いてあるどのゴミ箱からでもそこへ集まる。どのゴミ箱も人間が通るにはギリギリで、そこから下に降りる事は不可能だと考えもしなかったが――特定の箇所だけは大きな口になっていることを思い出した。そこを通れば、他人の目に触れさせずたどり着く事は可能だ。

 ゴミのプラットホームへは地下の電気室を通って行かなくてはいけない。

 「でも、防火扉が……」

 歩き出そうとすれば、部下が目の前にある防火扉を指さす。

 「邪魔だ」

 レンゲは一言そういうと腕を引き――力を込めてその扉を殴った。

 扉はおもちゃのように吹っ飛ぶと、数度バウンドして落ちる。レンゲが殴った後は煙が立っており、扉は再起不能なほどヒビが入っていた。

 拳を握ったまま、レンゲはどこにいるか分からない二人をにらむように、空中に鋭い視線を送る。

 「アイツら……、締める」

  §

 時は少し後のエレベーター前ホール。

 そこには、避難した研究員四十~五十人ほどがいた。

 先ほどの犬型ロボットの襲撃で怪我した人間を治療する者、警備にあたる者、パニックになっている者などが警戒しながらも出来る事をしている。

 「おい、その犬捨てろよ!」

 「いやだ! はなせ、この子は俺達を襲ったりしない!」

 一部、影響を受けなかった犬型ロボットがいたようだが、危ないから壊せ、嫌だと押し問答している様子や、

 「もうだめよ……みんな死ぬの!」

 「そんな事言わないで、すぐにエレベーターもなおるわよ」

 「無理よ!! 死ぬんだわ!!」

 ヒステリックな声をあげて泣きわめいている者もいる。

 電源が落ちて二時間ほど。エレベーターは動かない、ロボットの操作は無茶苦茶になり、機械は誤作動を起こす始末。さらには、機械の操作権限が無いせいで空調も効いておらず、温度も、空気さえちゃんと動いているかわからない状況で、人々の精神は摩耗していた。

 ――そんな時

 チン、と軽い音がして、エレベーターの扉が開く。

 人々は、暗いホールにエレベーター内の光が差し込んだとき、まるで救いの手を差し伸べられているように感じただろう。少しの間、事態が理解できずに呆然とした後、気づいた職員が大挙をなしてエレベーターへ走り出した。

 「押すな!」「何言ってんだ、もっとつめろ!」「犬なんて連れてくるな!」

 定員が十五人ほどのエレベーターに、その場にいた全員が駆け寄り、押し合いになる。中には足を滑らせた人間がいて、人に踏まれて悲鳴をあげていた。

 うまく中に滑り込んだ人間はエレベーターの閉じるボタンを何度も押し、入りきらない者達を外へ押し返す。幾度かの押し合いの末、ようやく閉じることに成功した者達は、無意識につまっていた息を吐いた。

 「よかった、エレベーターで外へ出られれば、とりあえずは安心ですね」

 「あぁ、よかったぁ……死ぬかと思ったわ……」

 ほっと胸をなでおろし、顔を見合わせて笑いあう。少しずつだが、こうやって上へ避難すれば状況は少しは良くなるだろう……。

 「わん!」

 それに呼応するように、一緒に乗り込んだ犬型ロボットも吠えてしっぽをふる。

 「犬なんて連れてくるなって言っただろ?」

 先ほど言い合いをしていた男は、文句を言いながらも犬の頭を撫でた。

 その時、何か違和感を感じる。

 「ん? なんだこれ……」

 犬の腹に、普段はない物がついている気がした。

 脇に手を入れて持ち上げれば、それは箱状の何かだった。

 轟音をたててエレベーターが爆発する。マヤとサトリは一階の研究室近くの廊下から、PCに映される監視カメラの映像を見ていた。

 エレベーターは落下し、地響きのようなもので床が激しく揺れる。爆発したせいで飛び散ったガラスや肉片、コンクリートが落ちてきて叫び声をあげる者、一目散にどこかへ逃げようとする者、呆然と立ち尽くす者で、場は混乱を極めていた。防火扉が閉まっているせいでどこにも行けず、泣き出す人間まで出始めた。

 その様子を、爆発を起こした張本人であるマヤは手を叩きながら笑う。

 「あははははは、すげー! 見ろよ、サトリ! あまり物の爆弾でもこの威力! 肉片があそこまで飛び散ってる!」

 「見えますよ」

 施設の全コントロール権を持っているマヤは、電気、防火扉からロボットの挙動まですべてをその手中に収めていた。犬型ロボットに爆弾をしこんで送り込むことも、赤子の手をひねるより簡単だろう。

 マヤが手元のPCを少し操作すると、ホールに隠れていた残りの犬型ロボットが走り出した。怪我人や先ほどの爆発で負傷した者に容赦なく襲い掛かる。警備員に噛みついて引き倒し喉を食いちぎっている様子を見て、サトリは「あらら」などとのんきな感想を述べた。

 「あ! 犬つえぇ! 爆弾発動しなくても殺せてるじゃねぇか。こえ~」

 襲わせているのにどこか他人事な感想を漏らしながら、さらなる追い打ちをかけるべくキーボードに指を走らせる。

 「あはは、ここの奴らみんな、しんじゃえ」

 笑顔でエンターキーを押す。すぐにホールの方から軽い爆発音と悲鳴が聞こえた。犬型ロボットにあらかじめ仕込んでおいた爆弾を起動させたようだ。あの場所に生き残りがいたとしても、何かしらの怪我を負っている者が大半だろう。

 既に底まで壊れ切っているマヤは何の罪悪感も抱かず、ただこの殺戮を心の底から楽しんでいるようだ。

 「悠長に笑っている場合じゃないでしょう。せっかく分断して無人にしたんですから、貴方は早く実験室へ行ってください。私は二階に行きます」

 「えー……」

 もう少し見ていたいとばかりに口をへの字に曲げるも、しぶしぶPCを畳む。マヤは胸ポケットに入ったトランシーバーのスイッチを確認すると、イヤホンを耳につける。サトリも自らの懐に手をいれた。そこにはナイフやスタンガン等の武器が仕込まれている。

 その装備を見てサトリはため息をついた。

 「目を離したすきに貴方が銃を全部加工するから、こんな装備しかないんですが?」

 「アハハ――せっかくなら、派手にやったほうがいいだろ?」

 ハァ、もう一度ため息をついて、サトリはイヤホンを耳につけた。

 「急ぎますよ。今頃、レンゲはゴミプラットホームについた頃でしょうから」

 「……なんだ、これは……」

 レンゲは、ゴミプラットホームの入り口を開けたまま、その異様さに立ち尽くしていた。

 そこには、見える範囲でずらりと壁に貼り付けられた何かがある。急いで作ったのか、ぞんざいにガムテープで張られたそれは、数えられるだけでも三十以上はあった。

 一緒にきた部下が中に入り、その一つに触ろうとして――気づく。張り付けられたもののすべての線が一か所に纏められ繋がっている。その線を辿っていけば、端末のような物につながっていた。

 「これは……ば、爆弾です……。ウチの武器庫にあった物を改造して作ったようです」

 端末に触ると爆弾の管理画面が出てきた。一つ一つの爆弾をこの端末で操作しているようだ。慎重に端末に触れながら、どのような回路で爆弾が処理されているかを見ていく。

 著しくしておおむね内容を確認した部下は、青ざめた顔でレンゲに振り返った。

 「これは……。全ての爆弾が、違う暗号で管理されていて……、たとえ一個解いても、他の一個の解除に失敗すると、全ての爆弾が爆発します。また、この端末につながった線を抜くと、すぐに爆発します……」

 「…………」

 状況の悪さに、天を見上げる。

 ――樋口マヤは、この施設を崩落させるつもりだ。

 たとえ上手く爆弾を解けたとしても、全ての爆弾を解除するには膨大な時間が掛かる。解こうとするのを見越して、時限式の爆弾としても組まれていたとしたら、全て解く前に爆発するだろう。

 そして爆発してしまえば、施設の一番下にあるこの場所が崩れ上にも影響が出る。

 (これは……無理だ。イデア様を連れて逃げないと全員死ぬ)

 そう判断したレンゲは、爆弾を見ていた職員を撤収させ上に戻る。

 (あの男が、こんな事を……?)

 レンゲから見たマヤは、おとなしそうな男だった。サトリからの報告でも、よく従う意志の弱い男だと聞いていた。それなのに、こんな事をするのだろうか?

 そんな疑問を浮かべながら上に戻ると、職員が走ってくる。何事かとこちらも近寄れば、息を切らせた職員が絶え絶えに報告をはじめた。

 「れ、レンゲ様……。エレベーターが爆発を起こし……、職員が負傷しました……」

 それは最悪の報告だった。

 「鎮圧したと思われていた犬型ロボットが複数出現し、爆発。一般職員と警備員両方に死者が……」

 「……」

 レンゲが下に見に行ったこのタイミングで、わざわざ、エレベーターを”爆発”させる。明らかに計画的な行動だった。

 後手後手に回るレンゲ達を、挑発しているのだ。

 しかし、この施設で出入りできる表向き唯一のエレベーターを爆発させるという事は、脱出する気がないのか、もしくは、別の出口を知っているかだろう。

 つまり――彼らは、三階の出口を知っているという事だ。この惨事を二人が引き起こしているのならば、地図を手に入れていてもおかしくはない。

 このすべてを、うまく上から逃げるための錯乱だと理解したレンゲは、冷静に部下に指示を出す。

 「これ以上、悠長に避難していると死人が出すぎる。私が裏の出口から脱出し、応援を呼ぶ。出口の安全確認後、動ける上部役員から順に裏口から脱出しよう。時は一刻を争う、すぐに行動する」

 「レンゲ様、貴方は……」

 「私は上へ――イデア様の所へ行く」

 イデアは三階の自室にいる。サトリとマヤに出くわす可能性も0ではない。急がなくては。

 「分かりました、すぐ取り掛かります」

 部下は指示を聞くと走り出す。自分も全力で駆けだしはじめた。

 二階まで階段を上った所で、妙な違和感を感じて足を止める。

 その違和感の正体は、閉まっているはずの防火扉が開けられている事から来ていた。不信に思い扉をくぐれば――そこには、キャリーバックを引いたサトリが立っていた。

 「サトリ……」

 こちらの存在に気づいたサトリは、嫌そうな顔をしている。

 「あーあ、よりにもよって貴方に見つかってしまいましたか。レンゲ」

 逃げられないと悟ったのか、所々スプリンクラーのせいで出来た水たまりを避けるように、手にしたキャリーバックを壁に寄せる。

 慎重に近づきながらも、疑問だったことをサトリに投げかけた。

 「お前達がこれをやったのか? あの爆弾も……?」

 「答える義理はありませんが、冥土の土産に教えるとそうですね」

 あっさりとサトリは答える。

 つまり、今までの妨害行為も、職員を傷つけたことも、爆弾を仕掛けたことも、全てが意図的に、明確な意思をもってやったという事だ。

 「……」

 ビキキ、そんな音が聞こえてくるようだった。眉間に青筋が立っているのが、自分でも分かる。

 サトリもマヤも、この組織にとっては使える存在だ。イデアからも、利用価値がある事を聞かされ生かすように言われている。しかし――そんな命令も限界だ。

 骨がきしむほど強くこぶしを握る。

 「イデア様には申し訳ないが、ひとまずお前を殺しておかないと気が済まない。――締める」

 今の自分は、目の前のサトリを殺してやりたい気持ちが抑えきれない。

 脳裏に浮かぶのは、エレベーターホールの酷いありさまだ。苦しみ、助けを呼ぶ大事な職員。その惨状を平気で「やった」などと口に出すサトリ。

 体も心も傷つけつくして、この手で散々に嬲ってやりたい。

 しかし、サトリはそんなレンゲの怒りを一蹴する。

 「お断りです。それに――貴方を殺して犯してみたいと思っていたんですよね」

 「ほざけ」

 この期に及んでそんな事を言うサトリに本気で怒りを感じながら、レンゲは握った拳を構える。

 「これはイデア様の夢だ。イデア様の未来を切り開くための施設だ。それを壊そうとするのは、私が許さない」

 構えたレンゲを前にして、サトリも一定の距離を保ちながら相手の出方を見る。

 レンゲは百九十はある体躯に、大柄な体、そして何より――その体から放たれる馬鹿力が厄介だった。

 サトリもレンゲも、アナムネーシスで行われた実験の一環で脳を弄った事により、通常の人間よりも力が強くなっている。双子の力がマヤよりも強かったのもそのせいだ。

 しかし――サトリのそれよりも、レンゲのそれは何倍にも大きい。

 つまり、サトリに求められるのは、レンゲの攻撃をいかによけるか。そして――どう反撃するか、だ。単純な力比べでは確実に負けてしまう。どうにかして……。

 「考え事か? サトリ」

 ――、寸前のところでレンゲの拳を避ける。空振りした拳はそのまま壁にぶつかり、コンクリートにヒビを作った。

 空いた手に捕まる前に、また距離をとる。ぴしゃり、とかすかな音がして、足元が濡れる感覚があった。マヤが作動させたスプリンクラーの水が、あちこちで水たまりを作っている。

 手元の武器には確か、スタンガンが――そう確認する暇もなく、次の攻撃が来る。レンゲの攻撃は大振りだ、ある程度見極めれば避けるのは容易い。二度、三度と避け、隙を見て距離をとる。腕を取って技を決めることもできたが、距離を詰めた時失敗した際のリスクが大きすぎる。

 間を見て、手元にスタンガンがある事を確認した。確実にレンゲを床に倒す事が出来れば、感電死させることを狙えるかもしれない。そのためには……。

 お互い、じりじりとみあいながら――サトリはフ、と笑った。

 「考え事ですか。していましたよ? ふふ、貴方を殺した後、どうやって犯してあげようかと思いましてね」

 挑発するように、馬鹿にするように笑う。わざとらしく、相手の神経を逆なでする言葉を選んで口に出した。

 「貴方の死体を見せたら、イデア様はどう思いますかね? あまつさえ――其を私が犯していたら?」

 ビキリ、レンゲの顔に筋が立つのが見て取れる。彼の弱点はわかり切っている、主人イデアの事だ。だからこそわざとらしく。

 「それとも、逆がいいですか? 貴方の主人を殺して犯しているところを見せてあげる方が」

 彼にとって最大限の侮辱になる言葉を選ぶ。

 冷静でない人間は、行動が単調になりやすい。レンゲの力の大きさを考えるに、攻撃が当たってしまった場合は怒りのパワーが拳に乗る分マイナスだが、動きが読みやすくなれば倒させるチャンスは増える。既に頭にきている様子だったレンゲをますます怒らせる方を選んだ。

 見たこともない程怒りを感じている上司の顔をまたあざ笑いながら、わざと構えを緩める。自分が油断しているような、自然を装うポーズをとる。

 「………」

 しかし、レンゲはその挑発にはのらなかった。構えはとかず、目を閉じて息を吐く。そのまま、サトリに向かって言葉を吐いた。

 「私を揺さぶっているつもりか、サトリ。無駄だ」

 目を開けた時――レンゲの中の怒りは凪いでいた。

 しまった――そう思う間もなく、サトリの頭を挟むようにレンゲは壁に手をつく。近距離で目線があったレンゲは――怒るどころか、少しだけ寂しそうな顔をしていた。

 「お前は有能な奴だった。この組織に拾われた、その恩を返そうとよく働いたな。だからこそ――残念だ」

 バキィ!! そんな音がして、強く握りしめた拳がコンクリートにヒビをいれる。

 「今ココで、お前を殺さなくてはいけない事が」

 《節:分岐:勝利 進む》

 壁際にサトリを追い詰めたレンゲは、一瞬の隙をついて首を掴む。そのままやすやすと持ち上げれば、サトリは苦しそうに抵抗をする。しかし、レンゲの方が圧倒的に力が強く、手から逃れられそうにない。

 「残念。終わりだ、サトリ」

 ギリ、と音を立て首を捩じ上げれば、徐々に酸素が通らなくなり、サトリは眉間に汗をかく。

 何とか拘束から逃れようと、腕を掴み藻掻いていたが――抵抗する力もなくしたのか、ぶらりと手を落としなすがままにされる。

 「フフ……」

 「なんだ」

 諦めて笑うしかなくなったのか?

 最後の気まぐれに返事をしてやれば、返ってきたのは綺麗な顔に似合わない下卑た笑いだった。

 「私、上手いんですよ。――睾丸潰し」

 サトリは目を見開くと――落とした手から人体の急所を的確に握りつぶす。

 さすがに動揺したのか、緩まった手の拘束から逃れると――レンゲの腹を蹴って転がせる。

 水たまりに派手に転がったレンゲが起き上がろうとしてみたのは――今まさにスタンガンを地に落すサトリだった。

 そのまま水に落ちたスタンガンは、レンゲの体に電流を浴びさせる。

 「グ、ウグウウウ!!!!」

 「頑丈でも、こうされたらさすがに痛いですよね?」

 のたうち回るレンゲを面白そうにサトリは眺める。著しくした後、シュウウ……と音をたて、電流を浴びたレンゲは動かなくなった。死んだわけではなく、気絶したようだった。

 「……。あ、そうですね。そうしましょう」

 思いついた、とばかりに手を打つと、スタンガンが壊れ動かなくなったのを確認し、レンゲの懐からIDカードを取り出す。

 そのままキャリーカートを掴んで、サトリは三階へとのぼっていった。

  §

 「レンゲ様! レンゲ様!!」

 意識の遠くで、自分の名前を呼ぶ声がする。体を揺さぶりながら、とても必死に呼びかける声に、レンゲの薄れていた意識は急速に今に帰ってくる。

 「ん……?」

 薄く目を開ければ、目の前には自分の部下がいる。自分が目を開けた事で、ほっとしたように胸をおろした。

 「御無事ですか!?」

 「あ、あぁ……。サトリを見つけて、それで……」

 二階でサトリを追い詰めた所までは覚えているのだが、その先の記憶があいまいになっている。何故かくらくらする頭を押さえながら立ち上がると、部下は思い出したかのように報告の続きをし始めた。

 「大変です、イデア様の肉体が……!」

 「樋口マヤ……!」

 武装した職員と共に蹴破った扉の先に居たのは、灯りの消えた培養容器が立ち並ぶ間に立つ、樋口マヤだった。薄暗い研究室に、電子機器の光がマヤの顔を照らしている。そしてその手には――イデアの肉体になる予定の存在、ノアがぐったりとしている。胸にはゴミプラットホームにあったような爆弾を付けられ、その線はPCにつながっていた。

 「遅かったじゃねぇか。予定より三十分も遅れてきたから待ちくたびれたぜ」

 突入してきた我々を出迎えるように、にこりと笑うマヤの顔は、今の現状とあまりにもかみ合っていなかった。

 レンゲの後ろからイデアが顔を出す。

 「よくもこんなものでだましてくれたね」

 ばさり、とマヤの着ていたコートを床に捨てる。

 「その子を放せ、さもないと……」

 武装した職員が一斉に銃口を向ける。赤いレーザーポイントで体中が照らされるものの、マヤは顔色など一つも変えない。むしろ笑みを深めながら、こちらに対して聞いてくる。

 「なんだ? 撃つか? 俺を殺す? アハハハハ――面白くない」

 先ほどまで笑っていたマヤは――恐ろしいほどの無表情にパッと切り替わる。暗闇の中に浮かび上がる顔は、我々ではなく遠くを見ているようだった。光で照らされているはずなのに、輝きを反射しない瞳は死んだ人間のように昏い。

 ぞっとする職員の前で、マヤはイデアを指さす。

 「もう俺は聞かない。お前たちの言葉なんて一切、受け入れない。俺の道を阻む奴はみーんな、全部、俺が壊してやるんだ」

 何かが壊れてしまったマヤにゾクゾクとしたものを感じながらも、イデアは一歩前にでてマヤに問う。

 「どうやって? 君は今袋小路だ。逃げるところも、ましてや僕らを殺す事も出来ないだろう?」

 銃口を向けられ、現在いる場所から外へ行く道は我々がふさいでいる。ノアを使って取引をするつもりだろうが、隙を見て殺してやる。そんなふうに余裕を持っていると、マヤは目を細め頬を赤らめながら笑う。

 「いっただろ? 待ちくたびれた」

 ――ぴしり

 そんな音がマヤの背後から聞こえる。薄暗闇で気づかなかったが、明かりの消えている培養容器の中に、何かがいた。それは人型ではなく、もっと大きなものが隙間なく容器につまっていた。

 ――ぴしりぴしり

 その音はどんどん大きくなっていく。割れた隙間から培養液が流れ出し、床が濡れていく。

 「お前が俺にわざわざ見せてくれるからだろ? こんな物。――思いついちゃったんだよ」

 ――パリィ―ン……

 派手に容器が割れた音がして、ずるずると”何か”が這い出てくる。職員がそちらに光を当てると――”人の肉の色をした何かの塊”がそこにいた。

 その塊からは人間らしき足や手が何本か生え、頭のようなものもいくつか確認できる。その頭からは、人の言葉とは到底思えない、うめき声のような音が漏れ続けている。

 想定していない化け物の登場に怖気つくなか、マヤはかわいがるようにその塊の表面を撫でた。

 「かわいそうだよなぁ。こいつら、俺と一緒で使い捨てにされるだけの命だろ? だから、俺がチャンスをやったんだ。一人じゃやれないかもしれないけど、集まればなんとやらって言うだろ?」

 その昏い笑みは完全に人の道をはずれ、おかしくなったもののする綺麗なものだった。

 何もおかしい事をしていないという自信に満ち溢れたマヤと、完全に間違ったものへと変貌を遂げた肉塊。

 「う、うわあああ!!!!」

 空間がねじれるほどの狂気に当てられた職員は耐えきれず肉塊へ発砲するも、撃たれた箇所は煙を上げながらすぐに元通りになる。コロン、と音を立てて弾丸が肉塊から落ち、驚愕と絶望の空気が漂った。

 マヤは肉塊を再度撫でながら、言葉を続けていく。

 「揃いも揃って、似たような物ばかり生み出し続けるからこうなるんだよ。こいつらみーんな、同じ事を思ってる。”何故僕らは死ななくちゃいけない?” ”何故自分を否定されなきゃいけない?”って。分かるか? お前ら。アイツがお前たちを作り出したんだ ”自分だけが生き残るために”」

 そういって、イデアの事をまっすぐに指さす。

 そうすると、肉塊は理解したのか、その複数ある足や手で少しずつ動き出した。近づこうとする肉塊に職員が発砲するも、その一切はたいしたダメージにならずすぐに回復していく。

 ゆっくりと近づいた肉塊は、イデアの前でピタリとその歩を止めた。

 「やめろ……」

 三メートルはあるだろうか、半ば覆いかぶさるように肉塊がイデアの前にじっと立つ。複数ついた頭が、全てイデアの方に目を向けている事に気づきおかしくなりそうだった。数多の手がイデアの方へ少しずつ手を伸ばす。

 「イデア様!」

 レンゲはイデアをかばおうと、イデアの前にでようとするも――

 「生きたいんだろ? ――殺しちゃえよ」

 その一声で、肉塊は信じられないほどの素早さでレンゲの腕を掴むと――そのまま彼を壁にたたきつける。

 「グッ……!!」

 先ほどサトリと戦った時のダメージが少し残っていたのか、背骨がきしむような音を立てて、レンゲは動けなくなった。

 「あ……」

 その様子を見て腰が抜けたイデアは、肉塊が近寄ってくるのを震えてみる事しかできない。肉塊はその手でイデアの頬をさらり……と一撫ですると――そのままイデアの左腕をブチブチと引きちぎった。

 「うぎゃあああああ!!!!!!」

 ちぎられた肩をおさえるも、止まらない血が滝のように地面に広がっていく。燃えるような激しい痛みに、イデアは悶絶しながら床を虫のように転がる。

 「う、ぐぅううう!! ぼ、僕の手が、手が!!」

 その様子を見ながら、肉塊は興味を失ったとばかりに腕を床にたたきつける。マヤはその腕を拾うと、キャッキャと笑いながらはしゃいだ。

 「おっ、手ゲット~!」

 飛行機の模型でも見るように、下から腕を観察してケラケラ笑う。

 その横で、肉塊は大きく腕を広げながら、再度イデアへと近寄っていく。

 「ひぃ……!」

 イデアはソレと距離を取ろうとするも、血で滑ってうまく動けない。「あ……ぁ…」等と呻き声をあげながら、肉塊が腕を振り下ろすのを見ていることしかできなかった。

 その時――……

 レンゲの腕が、肉塊の体を貫き心臓をえぐりだしていた。

 肉塊はこの世のものとは思えないような叫び声をあげて、血を吹き出しながら倒れる。レンゲが貫通させた穴からはとめどなく血のようなものがあふれ、イデアが作った血だまりと混ざり合って広がる。

 抉りだした心臓を握りつぶしながら、レンゲはマヤをにらみつける。

 「こんなもの、一体ぐらいで私を止められるとでも……」

 しかし、マヤは予想に反して肉塊が倒れた事に一切の感情の変化を見せなかった。むしろ、レンゲの事を馬鹿にしたような顔をする。

 まさか。

 「一体だけ? そんな馬鹿な」

 ぴしり、ぴしりと音を立てながら、マヤの背後にあるすべての培養容器にヒビが入っていく。

 状況を察した職員が逃げ出そうとするも、既に遅かった。

 派手にガラスが割れたかと思えば、同じような肉塊が何体も出現し――それは、職員へと向かい始める。

 「く、来るなぁ!!!!」

 職員は肉塊へ向かって銃弾を放つが、それはなんの意味もない。薄暗い中で光っていた炎も消え、全ての弾を打ち尽くし空になった銃を前に呆然としていれば、目の前まで来た肉塊の内側に顔がついていることに気づいた。

 そのすべての顔が、笑っていた。

 「――、——―ッ、――!!!!」

 次の瞬間、肉塊の腕で首をねじ切られた職員は、頭だけになった姿で叫び声を上げようとするも、空気が通るような音だけが口から漏れる。

 最期の瞬間見たのは、首がない自分の体と、同じように次々と襲われていく味方。そして――それを手を叩いてみるマヤの姿だった。

 「アハハ、アハハハハ!! アハハハハ!! やっべ、すごい力! 雑にくっつけただけなのにすげ~!」

 肉塊の原動力は「怒り」だった。マヤが彼らに植え付けた、自分の生への恨み、自分の兄弟の恨み、そしてこの施設全てへの恨みが、形になって動いている。

 マヤはもういらないとばかりにノアを床へ落とすと、イデアが先ほど床に放り投げたコートを手にする。

 「ありがとなぁ、これ気にいってたんだよ」

 嬉しそうに笑うと、コートを羽織った。

 ふわふわとしたボアつつまれ、長いコートをたなびかせるマヤはマントを纏った王のように見えた。肉塊を従え、全てを破壊せんとする者。

 マヤは両手を広げ、肉塊達へ聞かせるように言う。

 「みんな暴れろ、壊せ、殺せ。俺達を殺そうとしてきた奴らを全員殺せ。何故俺達が死ななきゃいけない? オカシイだろ? 俺達は生き残るんだ。そのために殺せ、殺せ、殺せ!!」

 アハハハハ、高らかに笑うマヤ。

 生きている職員たちは応戦する者や逃げる者など様々な者がいたが、その全ては肉塊によって組み伏せられ、引きちぎられ、押しつぶされた。

 レンゲの視界に入る範囲では、両腕をちぎられ呆然とした表情でフラフラと歩いている者、まだ意識があるのにも関わらず下半身を食われている者もいる。

 頭をちぎってもまだ怒りが収まらないのか、肉塊同士で死体の奪い合いをしている様も見えた。強い力で引っ張り合いをされた死体は、酷い音を立てながら半分に裂かれていた。

 見るに絶えない光景の間を、血の海に足跡を残しながら、樋口マヤは歩いていく。彼の右手にはイデアの腕が握られている。ぽたぽたと垂れる血によって誘われた肉塊は、研究室の外へとあふれ出す。外からは、新しい悲鳴が聞こえた。

 レンゲはその様子を見て、呟いた。

 「狂ってる……」

 しかし、その呟きを聞く者は誰もいない。そこにあるのは、死にかけのイデアとレンゲ、そして何も言葉を発さぬ死体だけだった。

  §

 血の足跡を残しながら、マヤは三階へと続く階段を上る。上がり切った所にあるカードリーダにイデアの腕をかざせば、扉は音を立てながら開いた。

 中に入り扉を閉めたマヤは、真っ白な廊下を見渡す。そこには、ガラス越しに下の様子を見ているサトリがいた。ゆっくりと近づくと、サトリの方もマヤの存在に気づいたのか、振り向いて驚いた表情を見せる。

 「生きてここに来るとは……死んでいるのかと思いましたよ」

 サトリが手袋をした手で下の様子を指さす。マヤが覗き込むと、かろうじて生き残っていたエレベーター前のホールにいた人間に、肉塊が襲い掛かっている様子が見えた。

 「しなね~よ」

 あの肉塊を合体させたのも、襲うように思考を植え付けたのもマヤだ。マヤを襲うように作るわけがなかった。

 そんな事より、とサトリの方へとマヤは振り向く。

 「それで? 頼んどいた二か所目の爆弾は?」

 「丁度良くレンゲが倒れていましたから、レンゲの部屋につけときました。たとえ生きてても発見が遅れるでしょう」

 あの後、レンゲの体からIDカードを盗ったサトリは三階へと上っている。マヤが研究室に職員をおびき寄せている間、スーツケースに入れてあった爆弾をマヤの手順通り仕掛けていたのだ。

 「サイコー。んじゃ出るか」

 軽い調子で喜んだあと、すぐに動き出す。外に脱出する時間が迫っていた。

 イデアとの面会で訪れた部屋に入った二人は、イデアが座っていた椅子の裏にある柱を調べる。

 そこには、大人が屈んでやっと入れる程の大きさの入り口が隠されていた。四つん這いになりながらその間を通れば、人が一人通れるぐらいの狭さの、筒状の場所へとたどり着く。

 「うわ……長……」

 上を見上げれば、一番上がどこなのか判別すらつかない程長いはしごがついていた。上る前からげんなりしていれば、あとから入ってきたサトリがうまくはいれず、早く動けとばかりにマヤの足を蹴る。

 「それはそうでしょう、下りが長かったんですから。早く登りますよ 追いついてこられたら面倒ですから」

 「はいはい」

 こんな事ならなんとかしてエレベーターで逃げればよかった。そんな事を考えながら、マヤははしごの一段目へと足をかけた。

  §

 ――その時、下では。

 肉塊が去った後、レンゲは血の海を泳ぐようにして、イデアの元にたどり着いていた。

 「イデア様……!」

 肩をゆさぶるが、その目がレンゲを認識することはない。

 ハ、ハと短く息を吸う事しかできないイデアの様子を見ながら、死が近い事が容易に想像できた。

 「……」

 レンゲの脳裏に浮かぶのは、幼いあの日だ。

 ――死にませんよ。死なせません、私が

 自らが言った言葉が蘇る。

 そう、たとえ自分の身をささげようとも、イデアが生きる道を探して見せると、あの日あの時、自分は誓ったのだ。

 こんなところで、イデアを死なせるわけにはいかない。

 レンゲは最後の力を振り絞り、イデアの事を抱きかかえる。マヤが置いていったノアの事もつかむと、半ば引きずるように二人を研究室へと運び始めた。

  §

 ……何時間がたっただろうか。

 サトリとマヤは、今だ長いはしごを上り続けていた。

 「ハァ……ハァ……」

 元々体力があるほうではないマヤはすっかり息が上がっており、腕も足も疲れ切っていた。

 「長ッ! 長すぎだろ! まだかよ!」

 「もう少しのようですが……。私はレンゲとやりあって疲れてるんですから、文句を言わないで早く上りなさい」

 「それなら俺は遺書書くっつってから寝てねーんだよ! 眠い!」

 お互いに軽口の応酬をしながらも、サトリの目から見てもマヤには限界が来ていることが分かる。

 「はぁ……」

 片手をねじり切った自分にも砂糖一粒くらいの責任はあるか……。などと考えたサトリは、ペースをあげてマヤに追いつくと、マヤの太ももごと抱きかかえる。

 「おっ?」

 そのまま肩に担ぐようにマヤを持つと、すごい速さではしごを上りだした。

 「おぉ~~すげ~~~~」

 パチパチと手を叩いてサトリの事を褒めれば、下から不機嫌そうな声が聞こえる。

 「関心するな、今から体のどこかを削って軽くしますよ」

 「それは嫌だ」

 今までの事があるので本気でやるかもしれない、そんな事を考えてマヤはすぐに口をつぐんだ。

 そのまま十分程上っていただろうか、マヤの頭が壁のようなものに思いっきりぶつかった。

 「いっってぇ!!!」

 大きく叫ぶと、マヤの声は反響してかえる。サトリは慎重に上のスペースを触って手で確かめると、思いきりそれを上に押した。

 ゴゴゴ……と音をたてて、その壁は上に持ち上がった。

 二人して上へ這い出ると、疲れ切った体を地面に投げ出す。

 ここは施設からやや離れた道の途中のようだった。道路のマンホールに偽装されているそれを見て位置を確認する。

 時間は朝のようで、明るくなってきている空が辺りをうっすらと映し出していた。

 マヤはごそごそとポケットの中を探ると、何かしらのボタンを取り出す。

 「んじゃ、爆発」

 サトリが止める間もなく、すぐにそのスイッチを入れた。

 まるで山まるごと崩れるのかと思わせるような轟音と共に、地面が揺れ始める。

 地下にあった爆弾が全て爆発し、施設が崩れていく衝撃。行き場のなくなった熱が、穴から飛び出してくるようだった。

 マヤたちがいる地面さえもヒビが割れ、亀裂が入りまともに立てなくなる。

 ようやく音と振動が収まったので、今上ってきた穴の下の方を覗けば、崩れた瓦礫が重なって下れそうにもなかった。

 うわぁ、などといってその様子を見ているマヤを、サトリは後ろからぽかりと殴る。

 「もう少し、物陰に隠れてからとか、安全な場所に逃げてからとか、考えて行動したらどうですか?」

 「わりぃわりぃ、俺の計算が外れたな」

 殴られた頭をいてて、と撫でながら、悪びれもせずあっけらかんに言う。その事に呆れながら、サトリは空を見上げる。

 夜が終わりをつげ、朝がこようとしていた。黒から紫へ移り変わる空の色、霧の隙間から見える朝日は、明るすぎて目に痛い。

 目を細めながらその様子を見ていれば、マヤもまた気づいたようだ。朝の方を見る。

 「きれぇだな……」

 「……夜明けですね」

 マヤの方をちらりと見る。彼の目には光がはいり、手に入れられないはずだった明日という生を喜んでいるように思えた。失われた生気を、一瞬だけ取り戻しているような。

 しかしそれも、朝の眩しさが見せる幻にすぎない。

 「夜が終わっちまったんだな」

 暗い瞳は、何の光も宿さない。ただ、狂気を楽しむ時間が終わってしまい、残念そうにするだけだ。

 その様にじんわりと興奮を感じながら、すぐに踵を返す。

 「ほら、行きますよ。車を探してひとまずここから遠ざかりましょう。シャワーも浴びたいですし……」

 「はいはい」

 ――それは突然の事だった。

 今しがた自分が出てきた穴から、爆音とともに突然瓦礫が飛び散り、土煙が上がる。

 マヤとサトリが振り向けば、煙を裂いて出てくる二つの人影。

 ――ノアとレンゲがそこに立っていた。

 今しがた大量の瓦礫を押しのけたレンゲの肩に乗っていたノアは、ふわりと優雅に着地する。ノアの背には少女に似つかわしくないアサルトライフルが二丁。

 「イデア、様……」

 ノアの着地を確認すると、レンゲは力尽きたように膝をつき倒れた。レンゲの体はボロボロになっており、文字通り死に物狂いでノアをここまで連れてきたのだろう。体からは血が垂れ、徐々にその血だまりは広がっていく。

 「ご苦労だったね、レンゲ」

 反対に疵一つないノアは、倒れたレンゲの頭を愛おしそうに撫でる。返事をする力も残っていないのか、レンゲは倒れたままだ。

 その様子を見ながら、マヤは激しい違和感を感じていた。

 「お前は……イデアか」

 見知った少女の顔は、とたんに暗い欲望に歪みだす。

 かわいらしい少女の声で腹の底から笑いながら、イデアは喜びの表情を浮かべた。

 「ふふ、うふふ。僕の実験は成功した……、僕は、新しい体に生まれ変わった!」

 くるくると踊るように喜びを表現するイデアは、完璧に魂の移植を成功させているようだった。動きやすい体を楽しむように動くその様を警戒しながら見ていれば、笑みを浮かべたままマヤ達へと目線を合わせてくる。

 そしてにこり、と笑いかけてきた。

 「だから、僕の施設を滅茶苦茶にした君達を、まずは殺すね」

 背負った銃を手に取ると、ジャキリ! と音を立てて装弾する。咄嗟にサトリがマヤを掴んで茂みへ飛ぶと、今までいた場所には無数の銃弾の雨が降り注いだ。そのまま、這うように瓦礫の裏へ身を隠す。

 「うわぁ~わざわざ持ってきたのかよ、あれ」

 「そのようですね。確実に殺す気なのでしょう」

 「こっちは殺される気なんてねぇぞ」

 瓦礫の裏から様子をうかがっていれば、少し出した顔を狙うように銃弾が飛んでくる。慌てて裏に隠れれば、高笑いを上げながらイデアが大声でこちらに語り掛けてくる。

 「うははははは!! 隠れてないで出てきた方が、痛くしないですむよ!」

 威嚇で空に弾を飛ばすと、じりじりとこちらへ近寄ってくる。あまりの分の悪さに、サトリは舌打ちをついた。

 「なんとか隙をついて逃げたいものですが」

 「……」

 マヤは思考を巡らせる。

 施設で見た研究の論文、実験の設備、研究成果達。そして、ノアとソーマ。そのすべてを脳内で再度確認し、吟味し、パズルのように組み立てる。

 そして、一つの仮説にたどり着いた。

 「…………一つ、案がある」

 マヤはサトリと目を合わせる。

 「弾切れを待って、試してみたい事がある。それまで、逃げ切れるか?」

 そう問いかければ、サトリはふ、と笑って返す。

 「……逃げ切るしか、生きる残る道はないんでしょう?」

 二人は無言でうなずくと、イデアの方を向く。

 逃走劇のはじまりだ。

 《節:終着:勝利 「生きる」という地獄へ》

 弾切れを狙うという事は、「弾を撃たせなければならない」という事だ。アサルトライフルの弾はおおむね二十~三十発である事が多いのを考えると、すぐに弾はつきそうにない。

 こちらに完全に近寄られればまず死ぬ事を考えると、距離を保ちながら物陰に移動し続けるのが得策に思えた。

 先ほど吹き上がった瓦礫の塊をマヤは掴むと、軽く物陰の外に放り投げる。すると、すぐにその瓦礫に二~三発弾が飛んできた。

 問題なのは、瓦礫から出れそうにない事だ。ノアの体に入れ替わったイデアの反射神経は鋭い。少しでも体を出そうものなら、そこに銃弾を叩きこまれ動けなくなる。

 「………サトリ、お前は左の物陰に移れ。俺は右に移る」

 「そのまま出たら撃たれますよ? どうするんですか」

 「……」

 ――ジャキリ!! そんな音を立てながら、イデアは銃を構え直す。

 おそらく、マヤとサトリは今身を隠している瓦礫から出る事を考えている。そう思案する。

 最初にこちらから攻撃を仕掛けた時、銃などで反撃をしてこなかった。レンゲがサトリと接触した時、飛び道具を使ってこなかったとも聞いている。つまり、二人とも銃などの攻撃手段を持っていない。

 銃が使えない状態で近距離でサトリと交わえば、戦闘経験の差からこちらが不利だ。だからこそ、弾がある内に遠距離で、サトリだけでも仕留めなければならない。攻撃の優先順位はサトリが上だ。

 つまりだ、今の状況を鑑みるに今二人が出してくる手は、弾切れをまってこちらに近づくか、逃げるかのどちらかだ。そして、今までの様子を見るに樋口マヤは逃げる事を選ばない。必ず、弾切れをまってこちらに攻撃をしかけてくる。

 そのために二人が選ぶことは、無駄撃ちを誘発するために瓦礫から出る事しかない。

 飛び出た所を弾数の暴力で焙ってやる。イデアはライフルを半自動射撃から全自動射撃に切り替えた。

 ピリリとした空気の中――ついに、動く。空気が揺れる感覚がして、左へ、何かが動いた。

 手が反応しそうになり、かすかに銃身を左へ動かしてしまう。

 (――囮だ、右から出る!)

 そう判断し、右の方へ銃身を動かせば――今度は左右同時に、二人が飛び出した。

 左からはサトリが、右からはマヤが羽織るその特徴的なコートが見える。

 (く……!)

 サトリの方が優先順位が高いが――今から左に動かしても間に合わない。そう判断し、既に照準があっている右の方へ引き金を引いた。

 そのまま弾はマヤを打ち抜き、穴だらけにさせた――かのように見えた。

 「……!」

 そのまま、撃ったものは力を無くして地面に落ちていく。これもまた――囮だった。コートはずるずると引きずられ、瓦礫の方へ戻っていく。マヤは移動していない。

 「あーあ、気に入ってんのに穴が開いちまった」

 そんなボヤキが瓦礫の裏から聞こえてくる。チラリと確認すれば――ライフルの銃は弾切れだった。

 「クソッ、クソッ!! 弾が切れた……」

 次弾を装填しようと、イデアは弾倉を懐から取り出そうとする。

 その様子を確認したマヤは、自らのリボンとネックレスをするりと抜くと右手で掲げながら瓦礫から姿を見せる。

 「ノア、これな~んだ?」

 イデアにも届くような声で呼びかければ、気がついたイデアはマヤの方を向く。

 ――やけくそになったのか? そんな事を考えながら弾倉を入れ替え、ジャキリ! と音を立ててマヤに照準を合わせた。

 「そんな物…… ?! なんだ」

 引き金を引くも――弾が出ない。

 再度やってみても、同じだった。ここにきて銃の調子が悪いのか!? そう判断したイデアは、もう一丁のアサルトライフルへ手を伸ばす。

 「じゃ~ん、覚えてるだろ?」

 その間も、マヤはリボンを掲げながら近づいてくる。丸腰の男が近づいてくるだけのはずなのに、何か嫌な物を感じたイデアは、装弾を確認すると銃をマヤに向け、心臓めがけて弾丸を撃つ――

 「ソーマのだ」

 ――はずだった。

 しかし、またしても弾は放たれなかった。

 おかしい、そう思い手元を見ると、引き金を引くはずの人差し指が言う事を聞いていなかった。どんなに力を込めても、制御しようとしても、引き金を引くことを拒んだ。

 「手が……手が動かない……、くそっ動け、動け!」

 殴りつけるように腕を叩くも、自分の意思通りにならないソレ。その間も、樋口マヤは呪文のような言葉を放ち続ける。

 「お前が譲ってあげただろ? ――このネックレス。お前の体に入ってるイデアが殺した、ソーマに譲ってあげた。だろ? ノア」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねる。驚いて胸を押さえれば、脈が異常に早くなっていた。ショックを受けた時のように、目の前が暗くなり動悸も荒くなる。抑えきれない緊張感に、体が勝手に爪を噛んだ。

 「ウッ!! な、なんだこれは……。おかしい、僕の研究は間違っていないはず……!」

 体が自分とは違う意思を持っているようだった。ふらつく体にムチをうち、使い物にならなくなった銃を捨てる。

 「クソッ! 銃がダメなら……!」

 万が一に備え、懐に忍ばせて置いたナイフを取り出そうとした瞬間――

 「ガッ……!!」

 頭に熱を感じる。視界はぐるりと回り、気がつけば地面に倒されていた。追いかけるように、強い痛みがやってくる。

 何が起きたのか分からずにいると、大きめの瓦礫を手に持ったマヤが自分を上から見下ろしている事に気づいた。その瓦礫の端は、今しがたつけられたばかりの血が飛び散っている。

 「お~ なかなかいい感じ」

 ニコ、と笑って言うと――マヤはイデアの小さい体にのしかかる。左腕で首元を抑え、右手にある瓦礫を再度振り上げた。

 「やめろ……!! はなせ!!」

 抵抗もむなしく、コンクリートの塊が頭を容赦なく打つ。痛みを感じる前に、もう一度、一度と力任せに殴りつけた。

 「ぅあ!! あっ、あぁ…!! 痛い……やめろ、やめてぇ……」

 殴られる度にイデアは痛みにうめき声をあげるが、マヤに一切の躊躇いなどない。流れ出た血が目に入り、視界は赤く染まっていく。

 マヤを止めなければ――死ぬ!

 そう確信したイデアは――叫ぶように言葉を口から絞り出していた。

 「お前は、ノアを殺すのか!? 自分のために!!」

 その言葉に少しの戸惑いを感じたのか、マヤの手がピタリと止まる。

 今、説得をやめれば死ぬ――その焦りから、イデアは続きの言葉を紡ぎだす。

 「今お前のやってる事は、お前がやられた事と何が違うんだ? 自分のために、居場所を作るために誰かを否定して、突き放して、攻撃して、居場所を守る ――何が違う?」

 マヤは、ノアやソーマの境遇にシンパシーを感じていたはずだ。それならば、マヤがノアにこの行為をすることは、矛盾する行いなのではないか?

 この問いかけによって樋口マヤが動揺すれば、あるいは隙が生まれるかもしれない。

 畳みかけるようにイデアは揺さぶりを続けた。

 「違わない……お前がやっているのは酷い事だ! お前がされて嫌だった事だ! それでも――ノアを殺すのか!?」

 さぁどうだ、ノアの顔で、ノアの声で、体で、この言葉を聞いて動揺しないでいられるだろうか?

 自らと同じような、かわいそうな生き物を殺してまで、”自分だけ”生き残るなどと答えられるのか?

 「あぁ。殺す」

 マヤの答えはシンプルだった。

 「ノアだろうが、ソーマだろうが、サトリだろうが。俺を否定するなら、俺を邪魔するなら殺してやる」

 マヤの答えは、その問答を既に通り越し、さらなる高みへと到達していた。

 自分に捨てられない”本質”があるのならば、そのせいで居場所がないのならば――どうすればいいのか?

 「”自分は虐げられても仕方ない”そう自分を納得させていた。生きてるな! と否定されても、隅っこで震えて耐えていた。だって、生き残る方法がそれしかなかったから」

 虐げられる事を居場所と納得する事で、マヤは我慢してきた。そうする事しかしらなかったからだ。

 「でも――もう違う。俺が虐げられる理由なんてない。俺の居場所も、俺が生きる意味も――全部自分が決める。全部俺が作るんだ」

 それは至極単純で、明快で――非道で、恐ろしい答え。

 「俺は自分のために、今、俺の道を邪魔するお前を殺す」

 もう誰にも邪魔させない、邪魔をするなら殺してでも道を開ける。

 ――自分が生きるために、戦い続ける

 それが答えだった。

 「死ね」

 マヤの強烈な一撃が、イデアの頭を、体を、滅茶苦茶に打つ。

 「うわぁああああああ!!!!!!」

 頭からは血を吹き出し、頭蓋骨は割れて飛び出した。腕は曲がり、裂けた腹からは内臓が飛び出る。

 「うっ…うぅ、うっ……ひどい……。ひどいよ、こんな事するなんて、おかしいよ…!! 化け物ぉおお……!! うぐっ!!」

 どんな事を言われても、マヤには少しも響かない。

 真っ赤な視界から見るマヤは――笑っていた。血しぶきがかかった顔と笑みは、あまりにも現実とかけ離れている。

 イデアが動かなくなったのを確認すると、マヤは血まみれのままサトリへ声をかけた。

 「サトリ、これあと何分くらいで死ぬ?」

 「うーん、そうですね。二~三分で死ぬでしょう」

 何の動揺もなく、サトリはイデアの凄惨な様子を淡々と観察して結論つける。

 ――死ぬ?

 「はぁぁ、腕が疲れた。もういいだろ、行こう」

 「お疲れさまでした」

 マヤは最後にイデアと目を合わせ、持っていたソーマのリボンとネックレスを胸元に落すと、もうどうでもいいとばかりに、振り向くことなく歩き出す。

 このまま放っておかれたら、まず間違いなく自分は死んでしまう。

 「あ、あぁ……まって……おいてかないで……!」

 懇願しながら、折れ曲がり骨が露出した手を伸ばすも、すぐにその姿は見えなくなってしまった。

 「レ、ンゲ……れんげぇ……!!」

 最後の望みをかけ、近くにいるはずのレンゲに呼びかける。

 自分を助けられるのは、もうレンゲしかいなかった。真っ赤な視界の中、這うように動きながらレンゲの姿を探す。

 著しくして、仰向きに倒れているレンゲを見つける事が出来たイデアは、その胸に乗りかかるように、レンゲの名を呼ぶ。

 「たすけて、れんげ……!!」

 目から流れるこの雫が、涙なのか血なのかさえ分からない。潰されてうまく出ない声をなんとか絞り出し、助けを求める。

 ――レンゲのほとんど止まっていた胸が、ピクリ、と動く。

 「……イデア、様……」

 イデアが助けを求める声を聞いて、死の淵からレンゲは帰ってくる。張り付いて見えない瞼をなんとか開け、薄暗闇の中主の姿を探す。

 ――死にませんよ。死なせません、私が

 そう、自分は誓ったのだ。主が助けを求めるのならば、死んでいる場合ではない。

 ――イデア様――……

 最期の力を振り絞り、主の頬に手をそえる。

 心の中で笑う、幼い頃の柔らかい主の顔を思い出しながら目を開けた――

 レンゲの視界にうつるのは、頭を鈍器のようなもので殴られ中身が露出し、肩口まで血に染まったノアだ。複雑に折れ、ぐちゃぐちゃになった手を、ガチガチと緊張して爪を噛んでいる。

 ノアは――緊張すると爪を噛む癖があった。

 レンゲはその事を思い出し、開けた目を閉じる。

 ――違う。

 「……」

 すぐにソレから手を離す。

 胸の上に乗っていたソレを押しのけるように地面にたたきつけると、レンゲはフラフラと立ち上がった。

 「れ、んげ? どうし、たの……? 何を……」

 レンゲが自分を拒否した事にひどく動揺しながら、彼の方へ手を伸ばすも、その手もぴしゃりとはねのけられる。

 見た事がない程冷たい目が、イデアを見下していた。

 「イデア様を置いていくわけにはいきません。私、約束していますから。最期までついていきますと」

 そう言うと、穴の方へレンゲは歩き出す。その背に追いつこうと、必死に這って近づくが到底追いつけない。

 「まって、まって!! 僕はここだよ!! 僕はここにいるんだ!!」

 「お前は違う。イデア様ではない」

 「僕だよ、僕だよレンゲ!!」

 ――イデアの声は届かない。

 なんとか縋るように足にしがみつくも、思い切り蹴られイデアは地面に落ちる。

 レンゲは穴の前に立つと、深く長い闇の底で、瓦礫に埋まった主の死体へと優しく語り掛けた。

 「一人にしてすみませんでした。今参ります、イデア様」

 レンゲの意図に気づいて、イデアが手を伸ばすが――もう遅い。

 優しい目でそういうと――主の元へいくために、レンゲは穴へ飛び降りた。

 「―――……!!!!」

 声にならない叫び声をあげて、イデアは絶叫する。

 内臓をこぼしながらも、なんとか穴にたどり着きレンゲが落ちた先を覗くも、そこにあるのは暗闇だけだった。

 「あぁ、あ、ああぁぁぁ……」

 瞳から何かがとめどなく流れ出す。体をむしばむ、やりようのない苦しみが体の隅々までいきわたり、のたうちまわった。

 イデアは穴の底へ手を伸ばしながら、肺に残った最後の息を吐く。

 「ひど…い、置い、て…かないでよぉ…レン、ゲ……」

 血と混ざった涙だけが、深い底へと落ちていく。

 穴の奥へ手を伸ばしたまま、落ちる事も出来ずイデアは絶命した。

  §

 海岸線沿いの道。朝焼けの中を、サトリとマヤの二人は高級車に乗って走っている。

 「バカなカップルがすぐに捕まってよかったですね」

 トランクには、奪った際に乗っていた二人の死体がつまっている。フロントスペースに足を乗せながら、めんどうくさそうにマヤは言った。

 「はぁ~あ、後でまた穴掘りするかぁ~」

 「じゃあ死体はもらっておきましょう」

 適当に二人で日常会話をこなす。

 トランクから死臭が漂ってきそうで、マヤは窓を開け朝特有の空気を取り入れた。

 風が気持ちいい。目を閉じその風を堪能していると、サトリはマヤに話しかける。

 「それで? 次は何をするんですか?」

 施設は潰した。とりあえずは、マヤの言う「自分の居場所に邪魔になるもの」は消えたのだ。彼がこれからどうするつもりなのか、少し気になった。

 マヤは眠そうに少し考えた後、ぽつぽつと答える。

 「そうだなぁ…。あの組織、海外にも支部があるんだろ?」

 「えぇ。何箇所か」

 「邪魔だから全部ぶっ壊してやろうぜ」

 ぞくり、とサトリの背筋が震える。彼は自分の目の前にあった障害物から、その先にある可能性にまで暴力の幅を広げようとしている。

 「それから?」

 期待するように続きを聞いてみれば――マヤははじけるような笑顔で返事をする。

 「み~んな、ぶっ壊しちまうか。俺達の邪魔しそうな奴、敵になりそうな奴、要らない奴ら、全部」

 その選択肢は、地獄しか待っていない。何かを一つ潰せば、対象は一つまた一つと増えていくだろう。それを繰り返す内に、きっと味方など誰一人いなくなって、この世の全てを滅ぼすしかなくなってしまう。

 マヤはそんな未来を進もうとしている。――自分の手を引いて。

 「楽しそうだろ? サトリ」

 この手を取らない選択肢など考えてもいないように、マヤは無邪気だ。

 道づれに地獄へ落ちていくのはわかっている。

 でも、行く末がたとえ地獄なのだとしても、その地獄程楽しい居場所はこの世にないだろう。

 マヤの言葉に手を取るように、笑顔で返す。

 「――えぇ、楽しそうですね」

 サトリは派手な音を立て、エンジンをふかす。ギアを最高速にいれ、エンジンペダルを踏んだ。

 これから訪れる破滅に進むように、猛スピードで進みだした車は、あっという間に海岸線の向こうへと消えてしまった。

 《節:終着:敗北 解き放つ、解き放される》

 弾切れを狙うという事は、「弾を撃たせなければならない」という事だ。アサルトライフルの弾はおおむね二十~三十発である事が多いのを考えると、すぐに弾はつきそうにない。

 こちらに完全に近寄られればまず死ぬ事を考えると、距離を保ちながら物陰に移動し続けるのが得策に思えた。

 先ほど吹き上がった瓦礫の塊をマヤは掴むと、軽く物陰の外に放り投げる。すると、すぐにその瓦礫に二~三発弾が飛んできた。

 問題なのは、瓦礫から出れそうにない事だ。ノアの体に入れ替わったイデアの反射神経は鋭い。少しでも体を出そうものなら、そこに銃弾を叩きこまれ動けなくなる。

 「………サトリ、お前は左の物陰に移れ。俺は右に移る」

 「そのまま出たら撃たれますよ? どうするんですか」

 「……」

 ジャキリ!! そんな音を立てながら、銃を構え直す。

 おそらく、マヤとサトリは今身を隠している瓦礫から出る事を考えている。そう思案する。

 最初にこちらから攻撃を仕掛けた時、銃などで反撃をしてこなかった。レンゲがサトリと接触した時、飛び道具を使ってこなかったとも聞いている。つまり、二人とも銃などの攻撃手段を持っていない。

 銃が使えない状態で、近距離でサトリと交わえば、戦闘経験の差からこちらが不利だ。だからこそ、弾がある内に遠距離で、サトリだけでも仕留めなければならない。攻撃の優先順位はサトリが上だ。

 つまりだ、今の状況を鑑みるに今二人が出してくる手は、弾切れをまってこちらに近づくか、逃げるかのどちらかだ。そして、今までの様子を見るに樋口マヤは逃げる事を選ばない。必ず、弾切れをまってこちらに攻撃をしかけてくる。

 そのために二人が選ぶことは、無駄撃ちを誘発するために瓦礫から出る事しかない。

 飛び出た所を弾数の暴力で焙ってやる。イデアはライフルを半自動射撃から全自動射撃に切り替えた。

 ピリリとした空気の中――ついに、動く。空気が揺れる感覚がして、左へ、何かが動いた。

 手が反応しそうになり、かすかに銃身を左へ動かしてしまう。

 (――いや、これもまたはったり! 右から出ると思わせ左から出る)

 そう確信し、イデアは銃身を左から変えない。

 案の定、サトリが飛び出してきた。

 マヤは――イデアの銃口がサトリの方を向いているのをしっかりと捉える。それを見た瞬間――体が勝手に、サトリの体を押していた。

 「――ッ!!」

 「マヤ!」

 押されながらも、すぐさま次の弾がこないようサトリはマヤを瓦礫の方へ引きずりこむ。

 ハ、ハと荒い息を吐くマヤの傷口を確認し――言葉を無くした。

 「ッ……」

 致命傷だった。

 銃弾はマヤの腹にあたり、内臓をしっかりと傷つけている。これまでの経験から一目で分かる――後十分もしないうちにマヤは死ぬ。

 「アハハ、アハハハハ!! 二人とも死んじゃえ」

 しかし、それを考えている暇はサトリにはない。

 瓦礫の後ろではイデアが次弾を装填しようとしている。マヤがケガを負った今、ますます状況は不利になるばかりだ。

 ――どうする

 そう考えていれば、マヤが名を呼んだ。

 「――サトリ」

 顔を合わせれば、力強い目がサトリの手に何かを押し付けてくる。

 「!? これは……」

 受け取った物を見れば、それは――マヤが首にかけていたネックレスと、リボンだった。

 「投げつけろ、隙が出来る」

 マヤの口からツー…と血が流れる。しかし、そんなものどうでもいいとばかりに、今、この瞬間――彼は生き残る事だけを考えていた。

 サトリはコクリとうなずいて、渡されたものをしっかりと握る。

 「いたっ」

 次弾を装填するイデアの頭に、コツリと何か固いものがぶつかる。

 この期に及んで石でも投げつけたか――そう思いぶつかってきた物を見れば――光る。

 朝の太陽に反射して、鈍く、薄く青く、光るソレ。

 何故かは分からないが、体が勝手にその光に釘付けになった。

 「ソーマ……」

 そして、口が勝手に言葉を紡ぐ。

 イデアの心の中に、得も言えぬ温かみと、悲しみが流れ込んだ。ただのシーグラスで作られた、この安っぽいネックレスに何故こんなにも心を揺さぶられるのか分からない。

 ――ハッとした瞬間だった。

 「ッ……」

 首に、黒いヒモが巻き付く。止める間もなく、もう一重首に巻き付けられたそれを――

 「ぐぅえっ……! や、めろ……! やめろ、サトリ……!!」

 背負うような形で、思い切りひっぱられた。サトリより身長の低いノアの体は、足が宙に浮く。じたばたと足を動かし、なんとかヒモから逃れようと首を掻く。

 しかし、サトリが力を緩めるはずがなかった。

 「う、ぐぅあ……い、やだ……やだぁ…………」

 掻きすぎた首から血が流れる。全身から様々な体液を出しながら、イデアの目はぐるりと回り――全ての動きを無くす。

 だらり、と手足が弛緩したのを確認し、サトリはヒモから手を離す。軽い音を立てて、イデアの――ノアの死体は地面に転がった。

 イデアが死んだのを確認したサトリは急いでマヤの元へ向かう。

 「……」

 ――そして、その惨状を目にし、沈黙する。

 アナムネーシスは今や瓦礫の下で、医療設備を頼りにすることはできない。ここは山奥で、下山するには車でも三十分はかかるだろう。止血をしても、到底間に合わない。

 死ぬ。

 「マヤ……」

 ――マヤは死ぬ。

 目をつぶり、浅く息を吐いて倒れているマヤをそっと抱き寄せる。すると、サトリが近くにいる事に気づいたのか、うすく目を開けて笑った。

 「なぁ、俺、死なないよな? 大丈夫だよな」

 「……」

 何も答えることが出来ずに、サトリはただ、もうろうとした意識の中自分を認識する男を見つめる。

 何故? この男は――生に執着した果ての化け物であるはずのこの男が、自分をかばってしまったのだろうか。彼の中に唯一残された人間らしさが、体を動かしてしまったのだろうか。

 生と、死の、相反する存在。

 サトリは、あの時の願いを思い出していた。

 ――だってお前なら、俺を優しく壊せるんだろう? サトリ

 サトリは、優しく笑った。

 「えぇ、大丈夫です。目を閉じて」

 頭を撫でながら穏やかにそう告げれば、素直にマヤは目を閉じる。

 「サトリ……」

 目をつむって暗闇になったのが怖いのか、そっと伸ばす手を握ってやる。

 どんどん重くなっていく体を丁寧に抱きながら、眠るように死へと誘った。

 「ゆっくり、息を吐いてください」

 言葉に従おうと、マヤはなんとか息を吐く。

 「何も見えねぇ、サトリ」

 「目を閉じているからですよ」

 本当は薄く目を開けてこちらを見ているけれど、落ち着かせるために嘘をついた。

 それでも安心できないのか――失った左手をサトリの方へ伸ばす。

 「サトリ」

 震えてうまく出せない声が、泣きそうに聞こえた。その手をそっと、自分の頬へいざなう。

 「私はここに居ますよ」

 そう告げると、マヤは笑って――

 「あぁ――ほんとだ」

 最期の息を吐く。

 そのまま、その手は力を無くし――パタリ、と地面に落ちる。自立する力をなくした首が、自分の胸へとそっとよりかかる。

 目をつむり、穏やかな顔でマヤは死んでいた。

 「……」

 ついているのに何もうつさない、何の意味もない瞳は、穏やかにつむられている。

 ピクリとも動かない手は恐ろしいほど冷たい。自分でえぐり取った左手も、マメだらけの右手も。

 地面に広がり続ける血液を止めようとする体はもうおらず、血液を押し出す心臓は意味のないこぶし大の肉の塊と化す。

 その死体へと感じる気持ちは――悲しみだった。

 興奮も、熱もなかった。

 失った。それによる喪失感と、暗闇。それらが体に満ちる。

 手を握ってみても――その冷たさに、死んだという理解を深めるだけだった。

 「本当に全部、壊さないでくださいよ」

 その嘆きを聞く者は、この場には誰もいない。

 組織も、居場所も――マヤも。全部死に尽くして、何も残らないサトリだけがその場にあるだけだった。

 《節:分岐:敗北 喪失》

 「が、はァ……!」

 レンゲの腕がサトリの心臓を抉り、そのまま握りつぶす。直接、自分を動かす源を握りつぶされたサトリは、そのまま崩れ落ちるように倒れた。

 血で濡れた腕を払いながら、レンゲは倒れたサトリを見下ろす。

 「さよならだ、中原サトリ」

 少なからず一緒に働いてきた同僚が、自分達を裏切った事に少しの寂しさを感じながら見下ろせば――サトリはにやりと、嘲笑うようにして口の端を持ち上げる。レンゲを指さしながら、ヒューヒューと空気が漏れる声で最期の言葉を吐いた。

 「……私が、……死ん、で…も……きっ……と……、マ、ヤが…全部、壊、して……しまい、ます……よ………」

 言い切ると、パタリ、と手が地面に落ちる。

 そのまま、一切の動きを停止した。

 綺麗に整った顔は、目をあけたまま死んでいる。

 ゆっくりと広がっていく血の海が、レンゲの足に触った。その血を止める体の作用も、今はもう休んでしまったのか、栓を忘れた水桶のように流れ続けている。

 開いたままの目が、レンゲの影を映したままの事に居心地の悪さを感じ、そっと瞼を撫でた。

 「………」

 何の音もしない、嫌に静かな空間だった。ドクドクと動き続ける自分の心臓の鼓動と、ゆっくりと流れる血の水音だけがこの場にはある。

 何がサトリをこの行動へ走らせてしまったのか、レンゲは無意識のうちにそればかり考えていた。

 「レンゲ様! レンゲ様!!」

 そんな時、静寂を打ち破るものが現れる。振り向けば、息を上げた部下が焦った様子でこちらに近付いてきた。

 何か嫌な予感のような物を感じていれば、それはすぐに的中する。

 「大変です、樋口マヤが……!」

 「樋口マヤ……!」

 武装した職員と共に蹴破った扉の先に居たのは、灯りの消えた培養容器が立ち並ぶ間に立つ、樋口マヤだった。薄暗い研究室に、電子機器の光がマヤの顔を照らしている。そしてその手には――イデアの肉体になる予定の存在、ノアがぐったりとしている。胸にはゴミプラットホームにあったような爆弾を付けられ、その線はPCにつながっていた。

 「遅かったじゃねぇか。予定より三十分も遅れてきたから待ちくたびれたぜ」

 突入してきた我々を出迎えるように、にこりと笑うマヤの顔は、今の現状とあまりにもかみ合っていなかった。

 レンゲの後ろからイデアが顔を出す。

 「よくもこんなものでだましてくれたね」

 ばさり、とマヤの着ていたコートと――サトリの死体を投げ入れる。

 物のように床に落ちたサトリを認識して――それが死んでいると気づいて、余裕そうに笑っていたマヤは、びく、と体を震わせると、とたん急速に表情をなくしていく。

 その様子を見て、イデアは愉快な気持ちになった。

 「ハハ、君のお仲間は死んでしまったんだよ。もう君一人だ 抵抗はやめるんだね」

 イデアの言葉など聞いていないように、マヤはサトリの死体を眺める。

 「……」

 勘違いであれ、嘘であれ、そう願っても――サトリは動かない。

 血の気が抜けた白い体と、死んだもの特有のカサカサとぐったりとした髪、作り出すよりも自然な無表情。

 「死んじまったのかァ。そっか」

 死んだのか。そう理解すると、一気にサトリへの感情が遠ざかっていく。

 今まで穴を掘って埋めてきた死体を見ても、知らない人間だからか、「ただの死体」それ以上の感情を持ちえなかった。自分とは関係のない、生きたものの成れの果て。アリを踏んでも気持ち悪いぐらい、しか感情がわかないのと一緒だった。

 サトリへの思いが、ソレと似たようなものへ堕ちていってしまっている事を自覚していた。

 その事を、悲しいと思う機能さえ、マヤには残されていなかった。

 「お疲れさま、サトリ」

 堕ち切る前に、最後に残った情をかき集めてサトリへと語り掛ける。

 床の物にむかってそんな目線を投げかけていると、邪魔をするように周りの人間が動き出す。

 「その子を放せ、さもないと……」

 武装した職員が一斉に銃口を向ける。赤いレーザーポイントで体中が照らされるものの、マヤは顔色など一つも変えない。むしろ笑みを深めながら、こちらに対して聞いてくる。

 「なんだ? 撃つか? 俺を殺す? アハハハハ――面白くない」

 先ほどまで笑っていたマヤは――恐ろしいほどの無表情にパッと切り替わる。暗闇の中に浮かび上がる顔は、我々ではなく遠くを見ているようだった。光で照らされているはずなのに、輝きを反射しない瞳は死んだ人間のように昏い。

 ぞっとする職員の前で、マヤはイデアを指さす。

 「もう俺は聞かない。お前たちの言葉なんて一切、受け入れない。俺の道を阻む奴はみーんな、全部、俺が壊してやるんだ」

 何かが壊れてしまったマヤにゾクゾクとしたものを感じながらも、イデアは一歩前にでてマヤに問う。

 「どうやって? 君は今袋小路だ。逃げるところも、ましてや僕らを殺す事も出来ないだろう?」

 銃口を向けられ、現在いる場所から外へ行く道は我々がふさいでいる。ノアを使って取引をするつもりだろうが、隙を見て殺してやる。そんなふうに余裕を持っていると、マヤは目を細め頬を赤らめながら笑う。

 「いっただろ? 待ちくたびれた」

 ――ぴしり

 そんな音がマヤの背後から聞こえる。薄暗闇で気づかなかったが、明かりの消えている培養容器の中に、何かがいた。それは人型ではなく、もっと大きなものが隙間なく容器につまっていた。

 ――ぴしりぴしり

 その音はどんどん大きくなっていく。割れた隙間から培養液が流れ出し、床が濡れていく。

 「お前が俺にわざわざ見せてくれるからだろ? こんな物。――思いついちゃったんだよ」

 ――パリィ―ン……

 派手に容器が割れた音がして、ずるずると”何か”が這い出てくる。職員がそちらに光を当てると――”人の肉の色をした何かの塊”がそこにいた。

 その塊からは人間らしき足や手が何本か生え、頭のようなものもいくつか確認できる。その頭からは、人の言葉とは到底思えない、うめき声のような音が漏れ続けている。

 想定していない化け物の登場に怖気つくなか、マヤはかわいがるようにその塊の表面を撫でた。

 「かわいそうだよなぁ。こいつら、俺と一緒で使い捨てにされるだけの命だろ? だから、俺がチャンスをやったんだ。一人じゃやれないかもしれないけど、集まればなんとやらって言うだろ?」

 その昏い笑みは完全に人の道をはずれ、おかしくなったもののする綺麗なものだった。

 何もおかしい事をしていないという自信に満ち溢れたマヤと、完全に間違ったものへと変貌を遂げた肉塊。

 「う、うわあああ!!!!」

 空間がねじれるほどの狂気に当てられた職員は耐えきれず肉塊へ発砲するも、撃たれた箇所は煙を上げながらすぐに元通りになる。コロン、と音を立てて弾丸が肉塊から落ち、驚愕と絶望の空気が漂った。

 マヤは肉塊を再度撫でながら、言葉を続けていく。

 「揃いも揃って、似たような物ばかり生み出し続けるからこうなるんだよ。こいつらみーんな、同じ事を思ってる。”何故僕らは死ななくちゃいけない?” ”何故自分を否定されなきゃいけない?”って。分かるか? お前ら。アイツがお前たちを作り出したんだ ”自分だけが生き残るために”」

 そういって、イデアの事をまっすぐに指さす。

 そうすると、肉塊は理解したのか、その複数ある足や手で少しずつ動き出した。近づこうとする肉塊に職員が発砲するも、その一切はたいしたダメージにならずすぐに回復していく。

 ゆっくりと近づいた肉塊は、イデアの前でピタリとその歩を止めた。

 「やめろ……」

 三メートルはあるだろうか、半ば覆いかぶさるように肉塊がイデアの前にじっと立つ。複数ついた頭が、全てイデアの方に目を向けている事に気づきおかしくなりそうだった。数多の手がイデアの方へ少しずつ手を伸ばす。

 「イデア様!」

 レンゲはイデアをかばおうと、イデアの前にでようとするも――

 「生きたいんだろ? ――殺しちゃえよ」

 その一声で、肉塊は信じられないほどの素早さでレンゲの腕を掴むと――そのまま彼を壁にたたきつける。

 「グッ……!!」

 先ほどサトリと戦った時のダメージが少し残っていたのか、背骨がきしむような音を立てて、レンゲは動けなくなった。

 「あ……」

 その様子を見て腰が抜けたイデアは、肉塊が近寄ってくるのを震えてみる事しかできない。肉塊はその手でイデアの頬をさらり……と一撫ですると――そのままイデアの左腕をブチブチと引きちぎった。

 「うぎゃあああああ!!!!!!」

 ちぎられた肩をおさえるも、止まらない血が滝のように地面に広がっていく。燃えるような激しい痛みに、イデアは悶絶しながら床を虫のように転がる。

 「う、ぐぅううう!! ぼ、僕の手が、手が!!」

 その様子を見ながら、肉塊は興味を失ったとばかりに腕を床にたたきつける。マヤはその腕を拾うと、キャッキャと笑いながらはしゃいだ。

 「おっ、手ゲット~!」

 飛行機の模型でも見るように、下から腕を観察してケラケラ笑う。

 その横で、肉塊は大きく腕を広げながら、再度イデアへと近寄っていく。

 「ひぃ……!」

 イデアはソレと距離を取ろうとするも、血で滑ってうまく動けない。「あ……ぁ…」等と呻き声をあげながら、肉塊が腕を振り下ろすのを見ていることしかできなかった。

 その時――……

 レンゲの腕が、肉塊の体を貫き心臓をえぐりだしていた。

 肉塊はこの世のものとは思えないような叫び声をあげて、血を吹き出しながら倒れる。レンゲが貫通させた穴からはとめどなく血のようなものがあふれ、イデアが作った血だまりと混ざり合って広がる。

 抉りだした心臓を握りつぶしながら、レンゲはマヤをにらみつける。

 「こんなもの、一体ぐらいで私を止められるとでも……」

 しかし、マヤは予想に反して肉塊が倒れた事に一切の感情の変化を見せなかった。むしろ、レンゲの事を馬鹿にしたような顔をする。

 まさか。

 「一体だけ? そんな馬鹿な」

 ぴしり、ぴしりと音を立てながら、マヤの背後にあるすべての培養容器にヒビが入っていく。

 状況を察した職員が逃げ出そうとするも、既に遅かった。

 派手にガラスが割れたかと思えば、同じような肉塊が何体も出現し――それは、職員へと向かい始める。

 「く、来るなぁ!!!!」

 職員は肉塊へ向かって銃弾を放つが、それはなんの意味もない。薄暗い中で光っていた炎も消え、全ての弾を打ち尽くし空になった銃を前に呆然としていれば、目の前まで来た肉塊の内側に顔がついていることに気づいた。

 そのすべての顔が、笑っていた。

 「――、——―ッ、――!!!!」

 次の瞬間、肉塊の腕で首をねじ切られた職員は、頭だけになった姿で叫び声を上げようとするも、空気が通るような音だけが口から漏れる。

 最期の瞬間見たのは、首がない自分の体と、同じように次々と襲われていく味方。そして――それを手を叩いてみるマヤの姿だった。

 「アハハ、アハハハハ!! アハハハハ!! やっべ、すごい力! 雑にくっつけただけなのにすげ~!」

 肉塊の原動力は「怒り」だった。マヤが彼らに植え付けた、自分の生への恨み、自分の兄弟の恨み、そしてこの施設全てへの恨みが、形になって動いている。

 もういらないとばかりにノアを床へ落とすと、サトリなど目にも入らずに、コートの方を手にする。

 「ありがとなぁ、これ気にいってたんだよ」

 嬉しそうに笑うと、コートを羽織った。

 ふわふわとしたボアつつまれ、長いコートをたなびかせるマヤはマントを纏った王のように見えた。肉塊を従え、全てを破壊せんとする者。

 マヤは両手を広げ、肉塊達へ聞かせるように言う。

 「みんな暴れろ、壊せ、殺せ。俺達を殺そうとしてきた奴らを全員殺せ。何故俺達が死ななきゃいけない? オカシイだろ? 俺達は生き残るんだ。そのために殺せ、殺せ、殺せ!!」

 アハハハハ、高らかに笑うマヤ。

 生きている職員たちは応戦する者や逃げる者など様々な者がいたが、その全ては肉塊によって組み伏せられ、引きちぎられ、押しつぶされた。

 レンゲの視界に入る範囲では、両腕をちぎられ呆然とした表情でフラフラと歩いている者、まだ意識があるのにも関わらず下半身を食われている者もいる。

 頭をちぎってもまだ怒りが収まらないのか、肉塊同士で死体の奪い合いをしている様も見えた。強い力で引っ張り合いをされた死体は、酷い音を立てながら半分に裂かれていた。

 見るに絶えない光景の間を、血の海に足跡を残しながら、樋口マヤは歩いていく。彼の右手にはイデアの腕が握られている。ぽたぽたと垂れる血によって誘われた肉塊は、研究室の外へとあふれ出す。外からは、新しい悲鳴が聞こえた。

 レンゲはその様子を見て、呟いた。

 「狂ってる……」

 しかし、その呟きを聞く者は誰もいない。そこにあるのは、死にかけのイデアとレンゲ、そして何も言葉を発さぬ死体だけだった。

  §

 血の足跡を残しながら、マヤは三階へと続く階段を上る。上がり切った所にあるカードリーダにイデアの腕をかざせば、扉は音を立てながら開いた。

 中に入り扉を閉めたマヤは、真っ白な廊下を見渡す。そこには、ガラス越しに下の様子を見ているサトリがいた。ゆっくりと近づくと、サトリの方もマヤの存在に気づいたのか、振り向いて驚いた表情を見せる。

 「サト……」

 ――しかし、それは幻だった。

 すぐに、そこには何もいないのだと気づいて開きかけた口を閉じる。

 「……」

 何故、自分がそんな幻覚をみるのか、マヤには見当もつかなかった。

 しかし、胸の奥の方がズキズキと痛みだす。傷口をえぐられているような、断続的な痛みが体を襲った。

 構わず下の様子を見ようとガラスの方へ近寄ると――反射した自分の顔がうつる。

 ――マヤは涙を流していた。

 しかし、自分の心を探ってみても、涙を流す要因が見つけられない。

 「アハ……アハハ……」

 無性に笑いたくなって、声が漏れる。

 「アハハハハハ……」

 どうしてか分からない。笑っているはずなのに、苦しくて仕方がなかった。しかし、何が苦しいのかまったく見当がつかなかった。

 イデアとの面会で訪れた部屋に入ったマヤは、イデアが座っていた椅子の裏にある柱を調べる。

 そこには、大人が屈んでやっと入れる程の大きさの入り口が隠されていた。四つん這いになりながらその間を通れば、人が一人通れるぐらいの狭さの筒状の場所へとたどり着く。

 上を見上げれば、一番上がどこなのか判別すらつかない程長いはしごがついていた。

 「……」

 無言でその一段目に足をかける。掴める手が片方だけなので登りにくい、そんな事を考えながら、マヤは上を目指し始めた。

  §

 ――その時、下では。

 肉塊が去った後、レンゲは血の海を泳ぐようにして、イデアの元にたどり着いていた。

 「イデア様……!」

 肩をゆさぶるが、その目がレンゲを認識することはない。

 ハ、ハと短く息を吸う事しかできないイデアの様子を見ながら、死が近い事が容易に想像できた。

 「……」

 レンゲの脳裏に浮かぶのは、幼いあの日だ。

 ――死にませんよ。死なせません、私が

 自らが言った言葉が蘇る。

 そう、たとえ自分の身をささげようとも、イデアが生きる道を探して見せると、あの日あの時、自分は誓ったのだ。

 こんなところで、イデアを死なせるわけにはいかない。

 レンゲは最後の力を振り絞り、イデアの事を抱きかかえる。マヤが置いていったノアの事もつかむと、半ば引きずるように二人を研究室へと運び始めた。

  §

 どのくらいの時間、上っていただろうか。

 マヤは、未だに長いはしごを上り続けていた。

 「ハァ……ハァ……」

 元々体力があるほうではないマヤはすっかり息が上がっており、腕も足も疲れ切っていた。しかし、ここまで上ってきてしまったからには、途中でやめることはできない。ただ、早く終わってくれと願いながら動き続けるしかなかった。

 ”   ”と一緒だったなら、自分を担いで上ってくれたかもしれなかったが。そんな事を考えて、首をかしげる。”   ”の空白に浮かぶ名前が思い出せないのだ。

 思い出せないという事は、不要なのだろう。そんなふうに思っていれば――ごつり、と頭に衝撃が走る。痛みに離しそうになる手をなんとか制御して、そっと上を見上げれば――薄暗闇に壁のようなものがあった。

 その壁を思い切り上に押せば、ゴゴゴ……と音をたてて、その壁は上に持ち上がった。

 隙間から這い出て、たどり着いた地面に体を投げ出す。

 ここは施設からやや離れた道の途中のようだった。道路のマンホールに偽装されているそれを見て位置を確認する。

 時間は朝のようで、明るくなってきている空が辺りをうっすらと映し出していた。

 マヤはごそごそとポケットの中を探ると、何かしらのボタンを取り出す。

 「んじゃ、爆発」

 躊躇うことなくすぐにそのスイッチを押した。

 まるで山まるごと崩れるのかと思わせるような、轟音と共に地面が揺れ始める。

 地下にあった爆弾が全て爆発し、施設が崩れていく衝撃。行き場のなくなった熱が、穴から飛び出してくるようだった。

 マヤがいる地面さえもヒビが割れ、亀裂が入りまともに立てなくなる。

 ようやく音と振動が収まったので今昇ってきた穴の下の方を覗けば、崩れた瓦礫が重なって下れそうにもなかった。

 「うわっ、思ったより爆風がすごいなァ……。計算失敗しちゃったな」

 この出口はかなり上にあったので、影響の範囲は低いと判断していたのだが、そうでもなかった。これでは、偽装した記念館はもっとひどい事になっているかもしれない。

 しかし、マヤには惨事を確認する元気は残されていなかった。

 「まぁ、いいや。これからどうするかァ……」

 疲れた体をほぐすように伸びをすれば、光が目を刺すように入ってくる。

 夜が終わりをつげ、朝がこようとしていた。黒から紫へ移り変わる空の色、霧の隙間から見える朝日は、明るすぎて目に痛い。

 美しい光景を眺めるものの、マヤの堕ち切った目には何の光も入ってこなかった。朝日を見ているはずの目は、体の奥にあるどこか昏い場所を眺め続けているだけだ。

 「夜が終わっちまった……」

 残念そうに呟く。

 邪魔な物を全て排除して、今や進むだけになった道にいるはずのマヤは、その激しい”怒り”の感情がいまだ収まらずにいた。自分の居場所を作るため、全部壊す事を決めてそれを実行したのに、それを達成できたはずなのに、何故だ? そう自分に問いかけてみれば――答えは簡単だった。

 ”全部”壊していないからだ。

 気づいてしまえば簡単だった。フフ、と誰もいない道で笑い声をあげれば、子供が躍るように足取り軽く歩き出す。

 ――それは突然の事だった。

 今しがた自分が出てきた穴から、爆音とともに突然瓦礫が飛び散り、土煙が上がる。

 マヤが振り向けば、煙を裂いて出てくる二つの人影。

 ――ノアとレンゲがそこに立っていた。

 今しがた大量の瓦礫を押しのけたレンゲの肩に乗っていたノアは、ふわりと優雅に着地する。ノアの背には少女に似つかわしくないアサルトライフルが二丁。

 「イデア、様……」

 ノアの着地を確認すると、レンゲは力尽きたように膝をつき倒れた。レンゲの体はボロボロになっており、文字通り死に物狂いでノアをここまで連れてきたのだろう。体からは血が垂れ、徐々にその血だまりは広がっていく。

 「ご苦労だったね、レンゲ」

 反対に疵一つないノアは、倒れたレンゲの頭を愛おしそうに撫でる。返事をする力も残っていないのか、レンゲは倒れたままだ。

 その様子を見ながら、マヤは激しい違和感を感じていた。

 「お前は……イデアか」

 見知った少女の顔は、とたんに暗い欲望に歪みだす。

 かわいらしい少女の声で腹の底から笑いながら、イデアは喜びの表情を浮かべた。

 「ふふ、うふふ、僕の実験は成功した……。僕は、新しい体に生まれ変わった!」

 くるくると踊るように喜びを表現するイデアは、完璧に魂の移植を成功させているようだった。動きやすい体を楽しむように動くその様を警戒しながら見ていれば、笑みを浮かべたままマヤへと目線を合わせてくる。

 そしてにこり、と笑いかけてきた。

 「だから、僕の施設を滅茶苦茶にした君を、まずは殺すね」

 背負った銃を手に取ると、ジャキリ! と音を立てて装弾する。咄嗟に茂みへ飛ぶと、今までいた場所には無数の銃弾の雨が降り注いだ。そのまま、這うように瓦礫の裏へ身を隠す。

 「うわぁ……やる気満々だな」

 瓦礫の裏から様子をうかがっていれば、少し出した顔を狙うように銃弾が飛んでくる。慌てて裏に隠れれば、高笑いを上げながらイデアが大声でこちらに語り掛けてくる。

 「うははははは!! 隠れてないで出てきた方が、痛くしないですむよ!」

 威嚇で空に弾を飛ばすと、じりじりとこちらへ近寄ってくる。相手は武器を持っていて、こちらは丸腰、しかも戦闘に関しては一切できない人間だけだ。

 「……」

 マヤは思考を巡らせる。

 施設で見た研究の論文、実験の設備、研究成果達。そして、ノアとソーマ。そのすべてを脳内で再度確認し、吟味し、パズルのように組み立てる。

 そして、一つの仮説にたどり着いた。

 「…………よし」

 それを実行に移すため、疲れた体にムチをうち、相手の様子をうかがう。チャンスは、弾を切らしたその一瞬だ。

 ――マヤの最後の諍いが始まった。

 《節:終着:勝利 獣と自由》

 マヤは思案を巡らせる。――どうすればイデアに勝つことができる?

 マヤの脳裏には「逃げる」という選択肢はみじんも存在していなかった。今ここで、イデアをきちんと殺して、「終わらせる」。それだけが頭を支配していた。

 自分の作戦を実行するには、イデアの持つ銃の弾を撃ち切らせるしかない。そのためには、無駄撃ちをさせる必要があった。

 先ほど吹き上がった瓦礫の塊をマヤは掴むと、軽く物陰の外に放り投げる。すると、すぐにその瓦礫に二~三発弾が飛んできた。

 問題なのは、瓦礫から出れそうにない事だ。ノアの体に入れ替わったイデアの反射神経は鋭い。少しでも体を出そうものなら、そこに銃弾を叩きこまれ動けなくなる。

 どうする――ザリ、そんな音がしてマヤの手に厚さ十センチ程のコンクリートの塊があたる。

 「………」

 ジャキリ!! そんな音を立てながら、イデアは銃を構え直す。

 おそらく、樋口マヤは「逃げる」事を選ぶ。そうイデアは思案する。こちらが発砲した際、マヤは反撃してこなかった。肉塊に人々を襲わせている時も、こちらに武器をむけさえしなかった。おそらく――マヤは丸腰だ。

 丸腰の人間が銃を手にした人間に反抗し、勝てるはずがない。となると、おそらく瓦礫の影を使い、背後の森へ逃げると思われた。

 チラリ、と横を見る。そこには倒れたレンゲがいた。じりじりと長期戦になりレンゲをこのままにすれば、いくら彼が丈夫とはいえ失血死する恐れがあった。

 それだけは避けなければならない、それならば――イデアはライフルを半自動射撃から全自動射撃に切り替えた。

 このまま瓦礫の向こうへと突っ込み、短期決戦を仕掛ける。

 そう決めると、イデアは途端に駆けだした。森の方へもちらりと意識を向けるが、マヤの気配ない。おかしい――頭のどこかでそんな事を思いながらも、瓦礫を飛び越え――そのまま下へ銃弾の弾を浴びせる。

 それはマヤのコートへ命中し、穴を開けさせた。

 やったか!? そう喜んだのもつかの間――

 「…!?」

 そのボロボロになったコートの穴から覗くのは――コンクリートだった。塊のコンクリートにコートをかぶせ、盾にしたマヤがその奥で笑っている。

 (僕が突っ込んでくるのを見越して……?)

 しかし好機だ、今ココで仕留―――引き金を引けば、ガチリ、そんな音がして弾が尽きたのが分かる。

 「クソッ、クソッ!! 弾が切れた…」

 ゆっくりと、マヤから距離を取るように後退しながら、次弾を装填しようとイデアは弾倉を懐から取り出そうとする。

 その様子を確認したマヤは、自らのリボンをするりと抜くと、イデアに見せつけるように右手で掲げた。

 「ノア、これな~んだ?」

 悠長な事をしているマヤをしり目に、順調に弾倉を入れ替えながらイデアはマヤの方を向く。

 ――やけくそになったのか? そんな事を考えながら弾倉を入れ替え、ジャキリ! と音を立ててマヤに照準を合わせた。

 「そんな物…… ?! なんだ」

 引き金を引くも――弾が出ない。

 再度やってみても、同じだった。ここにきて銃の調子が悪いのか!? そう判断したイデアは、もう一丁のアサルトライフルへ手を伸ばす。

 「じゃ~ん、覚えてるだろ?」

 その間も、マヤはリボンを掲げながら近づいてくる。丸腰の男が近づいてくるだけのはずなのに、何か嫌な物を感じたイデアは、装弾を確認すると銃をマヤに向け、心臓めがけて弾丸を撃つ――

 「ソーマのだ」

 ――はずだった。

 しかし、またしても弾は放たれなかった。

 おかしい、そう思い手元を見ると、引き金を引くはずの人差し指が言う事を聞いていなかった。どんなに力を込めても、制御しようとしても、引き金を引くことを拒んだ。

 「手が……手が動かない……、くそっ動け、動け!」

 殴りつけるように腕を叩くも、自分の意思通りにならないソレ。その間も、樋口マヤは呪文のような言葉を放ち続ける。

 「お前が譲ってあげただろ? ――このネックレス。お前の体に入ってるイデアが殺した、ソーマに譲ってあげた。だろ? ノア」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねる。驚いて胸を押さえれば、脈が異常に早くなっていた。ショックを受けた時のように、目の前が暗くなり動悸も荒くなる。抑えきれない緊張感に、体が勝手に爪を噛んだ。

 「ウッ!! な、なんだこれは……。おかしい、僕の研究は間違っていないはず……!」

 体が自分とは違う意思を持っているようだった。ふらつく体にムチをうち、使い物にならなくなった銃を捨てる。

 「クソッ! 銃がダメなら……!」

 万が一に備え、懐に忍ばせて置いたナイフを取り出そうとした瞬間――

 「ガッ……!!」

 頭に熱を感じる。視界はぐるりと回り、気がつけば地面に倒されていた。追いかけるように、強い痛みがやってくる。

 何が起きたのか分からずにいると、大きめの瓦礫を手に持ったマヤが自分を上から見下ろしている事に気づいた。その瓦礫の端は、今しがたつけられたばかりの血が飛び散っている。

 「お~ なかなかいい感じ」

 ニコ、と笑って言うと――マヤはイデアの小さい体にのしかかる。左腕で首元を抑え、右手にある瓦礫を再度振り上げた。

 「やめろ……!! はなせ!!」

 イデアは、力を振り絞って手にしたナイフを振り回す。狙いも算段もない、ただがむしゃらに鋭利な刃物を振りまわした。命からがらの、必死の抵抗だった。

 ――そしてそのナイフは、偶然にもマヤの右手首に音を立てて命中した。

 瓦礫を持っていられなくなったマヤは、そのまま塊を地面に落す。

 「……」

 刺さったナイフを抜こうとするも――右手が動かない。動かそうと頭が命令を出しても、手指は何の反応も返してこなかった。

 ――右手が、死んでしまった。

 呆然とその様子を見ていれば、マヤの下におさえつけられたままのイデアが、腹を抱えて笑い出す。

 「あは、あはは、あはははは!! ざまあみろ、両手が使えなくなれば、君がいくら頭がよくたって、何もできやしない!! 無能だ、無能!! あはははは!!!!」

 もう自分に害を与えることはできないと思ったのか、イデアはマヤに対して散々な罵倒を浴びせかける。

 マヤは瓦礫を持ち上げる事も、この手に刺さったナイフを抜くことさえできない。両手がなくなった事で、自分の頭を生かす事も、目の前の自分を殴りつけ殺す事もできなくなって、絶望しているのかと思った。

 しかし、不思議とマヤの感情は凪いでいた。

 無知な者を穏やかに見下すような、救いようのないものを悲しそうに見つめるような、哀れみの感情をまとわりつかせている。

 不穏な空気を感じ、笑っていたイデアの顔が引きつった。

 「わりぃな、俺はもう諦めねぇんだ」

 マヤは左手で首を押さえつけたまま、ぐっとナイフが刺さった右手の手首でイデアの肩を押すと、上から覆いかぶさる恰好を取る。

 そして――大きく口を開けて、イデアの喉元に食らいついた。

 「あ、あがぁああああ!!!!!!」

 思わず、獣のような叫び声をあげる。

 どうにかしてマヤを引きはがそうと体に爪を立て蹴りあげるも、まったく動じずますます顎に力を込めていくだけだ。食いこんだ歯の一本一本が、首の肉を抉ろうと食い込んでくる。

 「やめろ、やめろぉおおお!!!!」

 静止を聞くわけもなく、マヤは思い切り顎を使って――イデアの首元の肉を噛みぎちった。あまりの痛みに、失神しそうになった。飛びそうになる意識の隅っこに、顔のほとんどを真っ赤にしたマヤが映る。彼は口に含んだ肉を数回咀嚼して、不味そうに吐き捨てた。

 太い血管が切れたのだろうか、噴水のように血が飛び散って自分の顔にかかりつづけている。

 「いやだ、いや、ぁこ、こんな死に方、いや……」

 痛みに耐えようと地面を握り締め、助けを求めて手を伸ばせば――その手にさえ食らいつかれた。

 「何があろうと、何をされようと、絶対に――俺は生きる」

 自分の血で顔面を染めた男が見える。真っ赤な男は、鬼のように、悪魔のように見えた。その割に、浮かんでいるのは先ほどのような哀れみの顔だ。

 ――これは人間じゃない。

 死にかけたの脳の隅で、苦しみ暴れる自分が叫んだ。

 「俺の邪魔をするなら――死ね」

 そういうとマヤは――イデアの喉元へ再度噛みつく。破けた皮の、筋肉の筋の、骨の先迄全部、食いちぎられる。

 「――、――――……!!」

 涙と血でぼやけたイデアの視界うつるのは、遠くで倒れたレンゲだ。ピクリとも動かないその背中を恨めし気に見て、パクパク、と何か言いたげに口を開閉させるものの、穴の開いた喉は言葉さえも上手く発声できずに、最期の言葉は空気に消える。

 喉から漏れるその空気さえも噛みついて引きちぎれば、イデアが絶命していたことにマヤはようやく気付いた。無惨な死体に対して特に感情も浮かばず、”終わった”と認識して立ち上がる。

 肉の管のような物が取れて口の中に張り付き、吐き出そうとしてもうまく出てこない。手で取ろうとして――そういえば手首から先の感覚をなくした事を思い出した。

 取り除けないので仕方なくくちゃくちゃと咀嚼した後、捨てるのも面倒で飲み込んでしまう。

 「……………」

 そうして残されたものは、そこら中にあふれる瓦礫と、イデアとレンゲの死体、血だらけのマヤだけだった。

 ――終わった。これで全部が、きちんと終わったのだ。マヤはそう理解した。

 ナイフは抜くと血が流れだすため、処置できる場所までこのまま行く事にする。ぶらぶらと使えない両手を揺らしながら、道路にそって歩き始めた。

 「これからどうすんだっけ?」

 歩きながら、先ほど考えていた事の続きを思い出す。既に、先ほど働いた暴力の事も忘れ始めていた。うーんうーん、と悩む声を上げた後、ようやく続きを思い出す。

 「あぁ、そうだった。全部、壊すんだったな」

 ふわり、と宙に向かって笑みを浮かべると、スキップするような足取りになって道を進む。

 遠く、朝焼けは雨空へ変化しつつあった。

  §

 雨が降っていた。

 ザーザーと激しく降る雨は季節外れの台風が原因のようで、今なら何を叫んでも家の外には漏れないだろう。

 仕事終わりの夫と共にコーヒーを飲み、テレビを見ながらくつろいでいる。

 ――アレがいなくなって、もう四ヶ月以上たっていた。

 警察からの連絡も、大学に来たという連絡もない。友達などというものもいないようで、誰からも連絡は来ていなかった。表向きは世間体を気にして捜索願を出したが――心の中ではすっきりとした、すがすがしい気持ちだった。それは夫も同じのようで、ここ四ヶ月はお互い穏やかに晴れ晴れしい気持ちでいた。

 アレの事を、息子だと思ったことはない。人の枠に収まらないほど頭がいいアレは、人間とは思えなかった。十億分の一の確率で生まれた人外、宇宙外生命体、化け物――そんなふうに考えていた。とても、とても気持ちが悪かった。

 しかし、自分からいなくなってくれるのは本当に好都合だった。夫とは、このままいなくなって一年が過ぎたら普通の――普通の子の養子を迎えて育てようと前向きに話し合っている。

 だから帰ってきてほしくなどなかった。

 「ただいまァ!」

 その平穏は不穏と共に破られる。

 傘もささずに来たのか、全身ずぶ濡れのソレは両手を包帯で包みながら玄関に立っている。なぜか灰色のスーツを着て、いなくなった時に着ていたコートを肩にかけながら――おかしいくらいに笑顔でニコニコとしている。

 「な、なんで……どうして、その手は……」

 ゾワワ、と背筋に鳥肌が立つ。夫婦そろって玄関前で立ち尽くしていれば、ソレは靴を履いたまま玄関をあがった。

 近づいてくるソレを遠ざけようと夫が立ちはだかれば――ソレは包帯で腕と一緒に巻いたナイフを夫の腹に思い切り突き立てた。

 「キャアアアアア!!!!」

 一度、二度、三度……数えきれないほど、何度もナイフを振り上げては降ろす。動かなくなってもまだ足りないとばかりに突き刺した後――ふいに、顔を上げたソレと目が合う。

 ――化け物だ――

 「あ、ぁ…」

 足がすくんで動けなくなり、へなへなと地面に尻をつく。飛び散った血をぬぐおうともせず、ソレはこちらにゆっくり近寄ってきた。

 「いざ目の前にすると、もう何の気持ちもわかねぇなぁ……」

 何の表情も読み取れない顔は、見た事のある顔とは程遠い。怯えた、悲しい顔だけが記憶にあるが、今はそんな表情微塵も感じなかった。

 「どうして、どうしてこんな、事を……」

 その顔を見ていたら、自然と疑問が口を突いて出た。

 それを聞いた無表情が、じわじわと、笑顔に変換されていく。

 「あはっ、俺になんて言ってたっけ? お前 あぁ、そうだ」

 

 「お前なんて、俺の母親じゃない」

 今しがた、殺したばかりの死体を足でつつく。もっと抵抗するかと思ったが、あっさり殺されてくれたので手間が省けた。

 この雨だ、誰も来ないだろうがお行儀悪く足でドアを閉め、鍵もかけると視線を二階へ向ける。

 「さ、片付いたことだし目的を晴らすか」

 見知った階段をのぼりながら、ギシギシと軋ませて最上段に足をかける。雨粒が窓を叩く音しか聞こえない廊下をまっすぐ歩けば、目的の場所はすぐだった。

 二階の廊下、一番奥の扉が自分の部屋――居場所だった。

 足でドアノブを回すと、ギィ、と小さな音を立ててドアが開く。

 そこは四畳ほどの小さな部屋で、部屋の中にはほとんど物はない。遠い、今では別人のような自分は、当時この部屋だけが存在する事を許されているような気持ちだった。四畳ほどの部屋は、自分がもつ唯一の城で、とても広く感じていたのだが。

 今では、小さい部屋だ。

 雑にドアを開け切り部屋の角に行くと、自作したPCとモニタがぽつんと置いてある。マヤの目的はコレだった。

 雨に濡れながら運ぶのが面倒なので、今ここである程度用事を済ますか、とPCの電源を付ける。パスワード入力画面で、キーボードが打てない事に気づいた。

 「しかたねぇ、足でうつか」

 靴下を口をつかって脱ぎ、キーボードを地面に置いて親指でたどたどしく入力する。慣れたパスワードで開錠したデスクトップから、ブラウザを開いて検索ワードをいれる。

 「アナムネーシス 拠点 と……」

 そう入力すれば、すぐにアナムネーシス関連のwebサイトが開く。ニュースサイトで施設が爆破された事が騒がれているようだったが、今はそれには用はない。

 表向きの施設案内のページを見つけ、目で情報を咀嚼する。

 国内・海外の他の施設の場所、だいたいの人数、取った賞や協賛の内容などをパッパと見て頭に叩き込んだ。

 「表向きの情報だけだけど、だいたいわかったなァ、よし。――壊すか」

 要らなくなったキーボードを蹴りあげて、狭い部屋で横になる。

 四畳に収まりきらない恐ろしい計画を脳内で組み立てながら、自由になった獣は瞳を閉じて眠りについた。

 《節:終着:敗北 「生きる」の報い》

 マヤは思案を巡らせる。――どうすればイデアに勝つことができる?

 マヤの脳裏には「逃げる」という選択肢はみじんも存在していなかった。今ここで、イデアをきちんと殺して、「終わらせる」。それだけが頭を支配していた。

 自分の作戦を実行するには、イデアの持つ銃の弾を撃ち切らせるしかない。そのためには、無駄撃ちをさせる必要があった。

 先ほど吹き上がった瓦礫の塊をマヤは掴むと、軽く物陰の外に放り投げる。すると、すぐにその瓦礫に二~三発弾が飛んできた。

 問題なのは、瓦礫から出れそうにない事だ。ノアの体に入れ替わったイデアの反射神経は鋭い。少しでも体を出そうものなら、そこに銃弾を叩きこまれ動けなくなる。

 どうする――ザリ、そんな音がしてマヤの手に厚さ十センチ程のコンクリートの塊があたる。

 「………」

 おそらく、イデアは自分が「逃げる」と思うだろう。この状況で、自分が「反撃」するとは思うまい。「逃げる」素振りで無駄弾を打たせ、少しずつ減らすか。背後の森を一度確認する。この中を進めば――

 「僕の武器が銃だけだと思った?」

 瓦礫の上からこちらをのぞくイデアと目が合った。そのまま、その小さな手はこちらの腕をつかんでくる。

 「捕まえた」

 無邪気そうな声でそう言うと――

 「……!!」

 そのまま、ズブリとナイフを手首に刺されると、グ、グッと体重をかけ――右手を切り落とされる。

 元気よく噴き出す血に驚きながら、流れ出るそれを止めようとするも左手はない。必死に止めようとした左手の包帯はすぐに血まみれになった。

 そのまま後ろから背中を蹴られ、マヤはあっさり前のめりに倒れる。

 「う、ぐゥ、うう……!」

 うめき声をあげ、冷や汗を流すマヤの髪を無理矢理掴んで目線を合わせた。

 「もう諍えないよ、マヤ。僕の施設を潰した代償は高くつく、簡単には殺してあげないから」

 この男は施設に対し散々な事をしてくれたが、イデアが生きていればまたアナムネーシスを再建できる。イデアはそう確信していた。しかし、今まで積み上げてきたものや集めた人員を全て無に還され――怒っていないはずがなかった。

 今すぐにでも喉元をかき切って殺してやりたいが、そんなものじゃ生ぬるい。

 イデアはマヤを生かしてやるつもりだった。

 「……」

 マヤも死ぬ気はないのか、イデアの事をにらみつけてくる。その瞳にあるのは痛みでもこれからの扱いへの恐怖でもなく――見ている側が焙られるような、熱い殺意だった。

 「諦めないって顔してるね、フフ……」

 イデアの背中にゾワゾワとしたものがはしる。

 興味があった。人間はどれくらい意思を持ち続けられるのかどうか、と。

 「その感情を踏みにじって、傷つけて、生きているのを後悔させるまでいたぶってあげる。アハハハハ……」

 高らかに告げるイデアを、マヤはなお睨み続けた。

  §

 「……」

 久方ぶりに意識を取り戻せば、薄暗い牢屋のようなところにボロ雑巾のようになって倒れていた。倒れているものの、起き上がるために必要な腕も、立つために必要な足も、マヤには揃っていなかった。

 気力もないのでそのまま横になっていれば、遠くからコツコツと革靴が地面を踏む音が聞こえてくる。そのまま耳を澄ましていれば、牢屋越しにぬっとイデアが現れた。

 「うはは、ぐっちゃぐちゃになってるね」

 自分の惨状を見て、イデアは笑った。壊れてしまったオモチャが無残な様が面白くて、笑ってしまう残酷な子供みたいに。

 イデアの言葉に返事も返さず薄暗い牢屋の端に目線を向けていれば、鉄格子に手をかけて自分を見下ろしてくる。

 「どう? もう嫌でしょ? 殺してほしいでしょ? 生きていたくないでしょ? でも――許してあげない」

 マヤが無惨な様子であることが、気力がない事が、辛そうな事が、全てが気持ちがいいのだろう。あんなに自分へ殺意を向けていた人間を屈服してやった、そう思うと胸がすく気持ちなのだろう。

 ぐるり、と眼球を回し、目だけでイデアの方を見る。

 「……殺す……」

 水を飲むこともままならないので、カサカサと水気のない喉から振り絞るように言葉を紡ぐ。

 目だけで相手を殺せるような、そんな力でイデアを見ると、楽しそうだったイデアの顔がとたんに曇る。

 「もう飽きたんだよ。そろそろ諦めなよ、何もできないんだから」

 そういわれても、マヤの目の力が衰えることはない。光が入らないのに、ギラギラと輝いて見える闇。真っ暗闇なのに、煌々と滾っている炎。どこからその意思が出てくるのか、決して焔が消えることはなかった。

 ――その炎を消してやりたい。

 「じゃ、今日は最高に酷くしてあげるね」

 種火を踏み潰しても、まだ粘ろうとしてくる弱弱しい光を、今日もいじめることにした。

 「……」

 イデアの事などどうでもいいとばかりに目をつむり、何の返事も寄越さなくなったマヤを尻目に、背後に立っていたレンゲに振り向く。

 「拳ねじ込んどいて」

 笑ってレンゲの腕を叩けば、用は済んだとばかりにイデアは退室してしまった。

 「……」

 残されたレンゲは、倒れているというよりも落ちていると形容するほうが近いマヤを見る。

 少しの哀れみを感じた後、施設を破壊した怒りが胸をこみあげてきて、主の命令を実行するために近付く。

 「……」

 ギぃ、と開いた扉。その前に立つレンゲの影が伸びて、マヤを暗がりへと落とす。

 終わらない悪夢を少しでも遠ざけようと、目を閉じ、再び意識を遠ざけた。

 《章:逃ルート》

 「無理だ」

 ソーマはマヤの頭をそっと掴んで――至近距離でこちらの闇をのぞいてくる。昏い瞳の奥で燻られる怒り――マヤの視界はソーマの燃え上がる炎だけになる。

 「見て。……僕を、見て。――生きろ」

 脳の奥に響くように、暗示をかけるように、天啓を授けるように――ソーマの呪いがマヤの脳に刻まれる。

 「それがそんなに卑怯でも、間違っていてもいい。逃げてでもいい、生きて」

 熱い炎で刻まれていく、マヤの中の、「生きる」事。

 「貴方に死ねという場所から、逃げて。貴方が生きていい場所まで、逃げて。お願い、死なないで、マヤさん……」

 惨めでも、はいつくばってでも、逃げてでもいいから――「生きる」事。

 「生きて」

 ……それを最後に、ぱたりとソーマの手は地面に落ちる。目の光はゆっくりと失われ、あれだけ感じていた”怒り”の感情も谷底へと落ちていく。

 「ソーマ……ソーマ!!!!」

 大声で呼びかけても、もう何の反応もない。肌は急速に温度を失い、目の前の”ソーマ”は、その他大勢と同じ”死体”へと変化していく。

 ――死んだ。

 ソーマは、死んだのだ。

 呆然としていると、後ろから迷惑とばかりにイデアが話しかけてくる。

 「うるさいな、姉には弟は生き残れるって言ってあるんだから。少し黙って」

 「0403の死体を隣室の安置所へ移します」

 「うん、よろしくね」

 それに返事を返す力も残っておらず、ただ茫然と目の前のソーマを見つめていれば、それさえも許されなくなる。レンゲは、マヤから無理矢理ソーマを引きはがそうとする。それに抵抗を試みるも―――掴めたのは、ソーマのリボンとネックレスだけだった。するりと抜けたソレだけが手の上に残る。その鈍く光る残骸を呆然と見つめた。

 「……」

 「大丈夫~? ちょっと休む? 君には、最高のコンディションでいてほしいからね」

 さすがにショックすぎたか。脅しの目的でマヤをここにつれてきたイデアだったが、マヤがショックを受けすぎているようで声をかけてみる。

 「……わかった」

 意外にも、帰ってきたのは了承だった。

 「元々俺は死にたかったんだから、役に立つなら、脳でもなんでも使ってくれ。でも、その前に……、気持ちの整理がしたいんだ。遺書くらいはかかせてくれよ」

 物分かりが良すぎるのも怪しいが、逆に死を見る事で自分の立場を理解した、という事もあるだろう。

 「……一日あげるよ、ゆっくりかいて」

 そのぐらいの慈悲深さは持っているのでマヤに許可を出すと、のろのろと動き出した。マヤが部屋の外へ出たのを確認してから、ゆっくりと扉を閉める。

 空いた手術台には、”次のソーマ”がまた乗るだけだろう。それとも、似たソーマを見繕えばマヤは満足するだろうか? そんな事を考えながら、イデアも杖を突いてその場から動き出した。

  §

 チチチ、と鳥が鳴いている。レンゲはお屋敷の近くの野原で、主の大好きな花冠を作ろうと花を摘んでいた。

 そこに、綺麗に刈り取られた芝生の上を柔らかい髪色の少年がぴょこぴょこと大きく手を振って走ってくる。

 「レンゲ~!!」

 かわいらしい声で自分の名前を呼ぶ人間が誰かわかり、花摘みを中断して辺りを見回す。

 「イデア様?」

 立ち上がれば、自分の腹へとイデアがダイブしてくる。まだ五歳程の小さな彼をしっかり受け止めれば、そこにはむくれ顔があった。

 「まって、まってよぉ、レンゲ」

 むー……と怒り気味の顔を見て少し笑いながら、その柔らかい髪を撫でる。

 「私は貴方を置いていったりしませんよ」

 「だって、レンゲがどんどん先に行っちゃうから……」

 そういうと、イデアはすこししゅんとする。自分が一人でどこかに出かけたので、置いて行ってしまったと勘違いしたのだろう。幼子特有のかわいらしい勘違いに微笑みながらも、彼と目線を合わせるように膝をつく。

 両肩にそっと手を当てながら、レンゲは誓いの言葉を述べた。

 「私はなにがあろうとも、貴方を置いてどこかへ行ったりしません。たとえ死のうとも、貴方を一人にはさせませんよ、イデア様」

 それは、レンゲの心からの本心だった。

 イデアの事を、レンゲは生まれた時から知っている。

 生まれたばかりの幼いイデアを見せてもらった時、心に誓ったのだ。たとえ、イデアに何の災厄が降りかかろうとも、世界中が敵になったのだとしても――レンゲだけは、イデアのそばにいて彼を守る、と。

 「うん!」

 自分の思いは伝わったのか、イデアは機嫌を直して満面の笑みを浮かべる。

 しかし――

 「げほ、げほっ! げほ……」

 急に彼はせき込みはじめる。勢いよく走ってきたからだろうか? レンゲはイデアの背を撫でる。

 「お薬は飲みましたか? すぐに薬を――……」

 「僕、大きくなったら病気で死んじゃうんでしょ? お父様から聞いた」

 驚くと――不安そうな面持ちをするイデアがいた。

 彼は――先天性の病気を抱えている。治療法もなく、成人後は長く生きられないと医者からは告げられていた。

 ぎゅっと胸が痛くなりながら、拳を握り言う。

 「……死にませんよ。死なせません、私が」

 真剣な面持ちで言うと、イデアはその返答が気に入ったのか、笑顔を取り戻す。

 「ありがとう、レンゲ」

 その笑顔を守りたかった。命が奪われるなんて、思いたくなかった。たとえ自分の身をささげようとも、イデアが生きる道を探して見せる。そう、自分に誓う。

 「かえろう」

 手を伸ばしてきたイデアを抱えようとすれば、自分と歩きたい、とそれを拒否される。

 その愛らしさに心を締め付けられながら、手をつないでゆっくりと歩き出した。

 「レンゲ……レンゲ? 聞いてる?」

 主の声で、時は急速に動き出す。

 一瞬、過去の記憶に心が囚われていたようだ。ごまかすように、すぐに返事を返す。

 「はい、イデア様」

 しかし、そんな嘘もすぐに見破られる。

 下から覗き込むように、イデアは自分の顔をじっと見つめた。目を反らしたくなるのをこらえて見返せば、すこしむっとした顔をする。

 「嘘だ、また話を聞いていなかったんだろう。レンゲ、君が僕に隠し事なんて出来るはずがないでしょう? 目を見たら分かる」

 「……」

 イデアとは、生まれてこの方離れたことがない。それ故に、お互いの事は知り尽くしていた。

 レンゲを詰め寄るのも飽きたのか、くるりと踵をかえす主は手を広げながら笑みを浮かべる。

 「僕はね、生まれ変わるのが楽しみだ。だって、ようやくこの体から解放される」

 ――咳をしている、幼い頃の彼を思い出す。そうだ、今の体を捨て魂を乗り換えれば、イデアの体は五体満足の健康体になる。

 「もう、苦しい思いもしない、動き辛い事もない。寿命におびえる事もない――自由だ!」

 主に苦しい思いもさせず、死ぬ事を怖がる必要ももうないのだ。

 これは自分の願いの傍受でもある。

 「君も嬉しいだろう? レンゲ」

 でも――なぜか。

 なぜか、レンゲは喜べなかった。

 理由は分かっている。イデアが――自らの体を捨ててしまうからだろう。

 イデアの幸せが、レンゲの幸せだ。そして、イデアが幸せになるという事は――その体から解放されるという事に他ならない。

 そのはずなのに。

 その体が失われると思うと、脳裏に浮かぶのはこれまでのイデアの顔だ。産まれたばかりのイデア、自分の腹に抱き着いてくるイデア、自身の死を身近に感じこっそりと一人で泣いていたイデア――それらが永遠に失われる事。その事に、レンゲは制御できない寂しさを、悲しみの感情を抱いていた。

 根本であるイデアの魂は変らないはずなのに、何故そう思ってしまうのか? 自分でも分からない。イデアの研究を疑うわけではないが、魂を入れ替えた肉体は本当にその魂が宿っているのか? そんな疑問も捨て去れなかった。

 イデアの病気が無くなる事も、元気になる事も――レンゲにとって、とても嬉しい事のはずなのに。言う事を聞かない感情は、実験が成功に近付くにつれ大きくなっていった。

 しかし、イデアの研究を、意思を否定することは、イデアの生を否定することだ。レンゲは、自分の悲しみを隠して返事をする。

 「はい」

 そういえば、ぐるりと振り返ったイデアが、自分と目線を合わせる。

 「……」

 その顔は笑顔から怒りへ、みるみる姿を変えていく。

 自分がイデアの成功を心の底から喜べていない事は、彼にはお見通しだった。

 「僕に嘘をつくな」

 返事をできずにいると、持っている杖で殴られる。

 「どうして、嘘をつく!?」

 それを許容していれば、さらにもう一発、二発と暴力が飛んでくる。

 「お前なんか、ただ力が強いだけの、お前なんか!!」

 自分だって、イデアの気持ちが分かる。

 何故、レンゲが心の底からイデアの転生を喜んでくれないのか疑問なのだろう。自分の生をレンゲが望んでいないのではないかとさえ、疑ってしまうだろう。

 イデアの苦しみを一番近くで見てきた、自分の分身のような男が、苦しみの解放をよく思っていない事に怒りを感じるのだろう。

 「……申し訳ございません」

 自分でもコントロールできない感情に、ただ謝る事しかできない。

 杖を振り回していたイデアは、体を動かしすぎたからか、急にせき込む。

 「はぁ、はぁ……ごほっ! ごほ、ごほっ!」

 「イデア様」

 その姿に胸が痛くなり、あの時のように背中に手を伸ばそうとすれば――

 「触るな!」

 ぱしり、と。その手をはたかれる。

 少し息を整えた後、杖を持ち直して自力で姿勢を元に戻した。

 「僕は大丈夫だ。君になんて支えてもらわなくても」

 「……はい」

 きっと、これは罰だった。自分の気持ちがコントロールできない事への、罰だ。たとえイデアに嫌われようと、拒否されようと――自分にはイデアしかいない。死ぬまでついていくと誓った人間は、この世に二人といない。

 だから、どんな扱いを受けようと、レンゲは彼の傍にいる。

 「行くよ」

 「はい」

 イデアに促され、自分も歩き出した。

  §

 「……それで? マヤ君の様子は?」

 イデアとともにレンゲは監視室にいた。ここは二階の住居スペースの端にある場所で、この場所のフロアの監視、ロボットへの指示、バイタルの確認、研究員の位置などが分かる。おおむね三人程が配置されており、上階の施設や駐車場ももちろん見ることができる。

 二人はマヤの様子をカメラ越しに見るために赴いていた。マヤに実験を見せてから概ね一日が経過しており、マヤの精神状態や体調などを確認したかった。

 「それが……あれからずっと遺書を書いているのか、おとなしいです」

 どうやら、大人しくしているようだ。モニターも確認してみれば、部屋に備え付けられているパソコンのキーボードをぽちぽちと不慣れな様子でおしている。手元にはメモ帳のようなものが置いてあり、そこにも何かを書いているようだ。

 サトリの報告からも、指示に従いなんと穴まで掘らせていたと聞く通り、流されやすい性格のようだった。

 「PC画面は?」

 そういうと、職員はマヤの使っているパソコンの画面をモニター上に映し出す。そこには、デスクトップにメモ帳だけが表示されており、遺書のようなものが五百文字くらい書いてあった。

 「……この通り、メモ帳にぼちぼちと文字を打っています あっ」

 職員の声につられてマヤのモニターを見ると、ごみ箱に顔をうずめている。

 「吐いた」

 「バイタルすごい音鳴ってるよ、大丈夫?」

 ピーピーと脈に異常をきたす音が鳴っている。慌てて職員はマイクのスイッチをONにし、近場の警備員に指示を送る。

 「0043、対象をトイレへ連れて行ってくれ」

 「了解した」

 警備員は部屋に入ると、ごみ箱に吐いているマヤの安否を確認し肩を担ぐ。そのままずるずるとトイレに移動する様子が見えた。

 しかし、すぐに第二波が襲ってきたのか、廊下で盛大に吐いている様子が別のモニターにうつる。

 「あぁ……バイタルの上に吐いたみたいですね、ひどい。俺のバイタルにもかかっちゃいました」

 警備員から、困ったような呆れたような通信が入る。その事に監視室の人間から笑い声があがった。

 警備員はバイタルを外したようで、カメラに映るように見せながら通信をいれる。

 「一旦バイタルを外してトイレで綺麗にする。乾かしてから再度装着させるので一度外すぞ」

 「了解」

 そのまま、警備員はトイレへとマヤを連れていく。トイレ内にカメラはなく、その様子を見ることはできなかった。

 イデアは一連の流れを見ながら、腕を組み笑う。

 「うふふ、本当、実験に前向きなのはいいけど……メンタル弱いね? こんなのでちゃんと使えるかな、脳」

 「うまく制御すれば、すさまじい実験結果が出せるポテンシャルは持っていると思いますが…」

 「お前には聞いてない」

 レンゲが横から口を出すと、ぴしゃりとにらみつけられる。

 先ほどの件を思い出し、レンゲは口をつぐんだ。

 「……」

 そんなレンゲなどお構いなしに、イデアはそうだ! と声を出す。

 「あ~あ、サトリのメンタルとマヤの脳、足して割ったらちょうどいいよね。脳だけ交換してみるのもありかなぁ」

 うふふ、と笑いながら自身の考えに没頭するイデアをこっそり見つめ、レンゲは心の中でため息をついた。

 いつか――イデアの肉体が入れ替わり終わったら、今のような距離感がなくなるのだろうか? そう思うものの、今の自分がイデアのその後を受け入れられる気がしなかった。その事に、無性に寂しさを感じながらも、顔に出ないようにカツをいれモニターに再度目をうつす。

 そこには、変わりない施設の様子が映し出されていた。

 十分くらいたっただろうか、そうこうしている間にマヤが自室に戻っていく様子が映る。警備員にほとんど引きずられながら連れてこられたマヤは、そのままベットの上に投げるように置かれる。

 「……トイレから戻ってきました。警備員に寝かされています、大丈夫ですかね」

 「引きずられてるじゃないか。これはもう一日ぐらい様子を見たほうがよさそうだ……」

 そう結論付けたイデアは、興味をなくしたようにモニターから目をそらし――レンゲの方へ向き直る。

 「まぁ、マヤ君がかわりないならいいや。サトリでも見に行く?」

 はい、と返事しようとしたその瞬間―――

 バチリ、そんな音がして全てのモニターの電源が切れる。突然の事にその場にいた全員が驚いた。

 「な、なんだ…?」

 「電源が落ちました! 何も映りません!」

 部屋の入り口を開けると廊下の方も電気が消えており、この部屋だけでなく他の部分の電気も消えた事が分かる。

 「非常用電源があるはずだ、早く戻せ!」

 「はい!」

 レンゲの指示ですぐに行動を開始した職員は、壁にかかっている電源関係の箱をあけると、非常用電源のスイッチを押す。

 まもなく、点滅しながら電気が戻ってくる。ほっと一息ついて、モニターに目をやると――

 「こ、これは……!?」

 全てのモニターには、舌を突き出した顔文字のようなものがずらりと並んでいた。職員が必死に手元のキーボードを操作するも、一切動きはない。

 レンゲの背に、とてつもない悪い予感がした。

  §

 時を同じくして別の部屋――……

 サトリは、施設の”特別な部屋”に監禁されていた。格子にかこまれ、簡素なベッドとトイレだけがあるいうなれば牢獄のような場所だ。

 「……」

 サトリの中に巡るのは、「自分の立場」と「あきらめ」だ。

 自身の立場を失えば欲の発散はできなくなる、たとえ脱出できたとしても、その後の自分はどうなる? そう思うと、ここから出ようなんて思えなかった。

 そんな諦めから、この何もない部屋の隅でただ座っている。

 そんな時――唐突に部屋の電気が消える。

 「電気が……落ちた?」

 偶然落ちる、などという事がこの施設で起きるだろうか? 組織と敵対しているものの襲撃か…? そんな考えを浮かべつつ、自分には関係がないだろうと考えを打ち消す。

 やる事がないので、ベッドで寝ようか……。そんな事を考えながら立ち上がると、部屋の扉が開き警備員が入ってくる。

 何事かと身構えれば、その警備員は牢屋の前まで近づき、頭につけている装備を床にたたきつけた。

 「ぷはぁ、これ重てぇ……」

 中から出てきたのは――マヤだ。いつもしている眼帯はしておらず、警備員の武装にスーツ姿――そして胸元には、見た事のあるようなリボンとネックレス。そんないでたちをしている。

 「貴方……」

 思わず声をかければ、マヤはすぐに牢屋の入り口へと手を伸ばす。警備員の装備一式を盗んだのか、懐からだしたIDカードをかざした。

 「おい、早くここから出るぞ。今開ける」

 マヤのそんな呼びかけに、サトリは返事を返さない。

 「……」

 「なんだよ」

 この牢屋から出るという事は――組織に抵抗する、逃げるという事だ。それをすることは、サトリにはできなかった。

 「開けてどうするんですか? この施設から逃げられるとでも? ――不可能です。それに、運よくここから出れたとしても、その後逃げ切れるとでも? 貴方と私、二人で?」

 そうだ、二人だけでこんな広い施設を無事に脱出するなんて、不可能だ。たとえ出れたとしても――その後どうするつもりなのか? そこになんの保証もなかった。そう自分に納得させるつもりで話す。

 「……私の居場所は、ここにしかありませんから。どのような扱いを受けたとしても、放り出されたら――生きていけない。だから私は、いけません」

 既に自分は、己の立場の天秤に重しを置いた。

 自分の”本質”が消えない限り、自分は”ココ”に居るしかない。そして、”本質”は消えない。

 マヤの誘いに乗る事はできなかった。

 「……」

 マヤはそんな様子のサトリを見て、少しの間考えているようだった。

 少しして――決意したようにサトリに向き直る。

 「なぁ、サトリ――それでも、逃げよう」

 マヤの口から出た言葉に驚き、サトリは彼と目を合わせる。

 ――そこには、真剣な面持ちでこちらを見てくるマヤがいる。

 その顔つきは、あの夜、自分に殺されることを願ったマヤではない。あの夜、今がずっと続けばいいなどと絵空事を願ったマヤではない。

 ――生きたい。そんな意思を感じる顔だった。

 「たとえ俺達が生きているなって、大多数の人間が望んだとしても。それ通りにする必要なんてねぇ。自分の生き死にを他人が決めるなんて、おかしいだろ!」

 鉄格子を掴み、そう訴えかけてくる。

 「少なくとも……俺は、ここの奴らに生き方を、死に方を決められたくない」

 逃げる事もなく従い、自分を殺す事も出来ない、ただ諦めて流される――そんなマヤが、はっきりとした”生きたい”という意思をもってここに居た。

 そして、その手を自分にも差し伸べてこようとしている。

 「逃げれば、居場所はきっとまた作れる。でも、逃げなければ死ぬだけだ。それなら――こんなところで死ぬぐらいなら――逃げよう、サトリ」

 その手を差し伸べてくるのは、サトリがマヤに、マヤがサトリに感じていたものがあるからだろう。

 言葉にはしないものの、お互いに持っている同じような苦しみの”本質”、その暗闇を分かち合った事。お互いのどうしようもない”本質”に触れず、ただの”サトリ”“マヤ”でいられた事。そのすべてが心地よかった。

 苦しみから生ぬるく逃げられるような、深く息を吸っても咎められないような、そんな二人の間にあったものこそが――自分達が本当に欲しい居場所なのだと、二人とも気づいていた。

 「……」

 思考は巡回する。

 本当は、この手を取る先が暗い道なのだとわかっている。苦しみがない居場所を求めたはずなのに、さらに苦しみがます可能性がある事だってわかっていた。

 だけど――

 「はぁ、すごく、すごく、すごーく、無謀ですが……」

 サトリはマヤの手を取る。

 「いいでしょう。確かに、この施設に殺されるくらいなら、貴方の無謀に付き合うほうがまだマシですね」

 そう答えると、マヤは素直に笑う。その先の感情は、サトリにも伝わった。――喜び、だ。

 「行こう」

 閉ざされた狭い牢獄から、導くように手を引かれ立ち上がる。

 二人の逃走劇が始まりを告げた。

  §

 「……やられた」

 レンゲはマヤの服を着させられた死体を前に、拳を握る。

 モニタールームでの一件の後、思い当たる節がありマヤの部屋に来れば、マヤだと思わされていたのは彼の服を着させられた戦闘員の死体だった。ご丁寧に眼帯までつけさせられた彼の死体には、二人分のバイタルが通されている。

 ――逃げられた。

 すぐに背後の部下に指示を出す。

 「樋口マヤが逃げたぞ! まだ外へは出ていないはずだが……さがせ!」

 モニタールームの権限はまだ回復していない。それどころか施設全体の電気も再開していない状況だった。仕方なく今は部下を送って状況を掴もうと必死になっている。

 そこに、サトリの様子を見に行ってきた部下が帰ってきた。

 「中原サトリの牢屋を見てきました! ――いません! どこにも!」

 思った通り、マヤはサトリを連れて逃げるつもりのようだ。

 「いいか、探せ。エレベーターの電源も復活していない、どこに隠れているかは分からないが、まだ外には出ていないようだ。この施設のどこかにはいる。端から端まで探してこい!」

 部下にそう指示すると、すぐに四方へ探しに行く。レンゲ自身も、捜索の手伝いをするつもりで歩き出しながら、何か途方もない悪い予感が加速している事に気づく。

 ただ逃げようとするだけならいい、しかしそれだけで済むのだろうか? そんな予感が胸をよぎる。

 「どこへ行った……樋口マヤ!」

 「うわっ、探し回ってんな…」

 耳に刺したイヤホンで監視カメラからの音声を拾っていたマヤは、レンゲ達のやり取りをすべて聞いていた。呑気にそんな事を言っていれば、マヤが奪ってきたノートPCをサトリが上から覗き込む。

 「みつかっちゃいましたか?」

 カタカタと音を立てながらキーボードを操作すれば、ぱっと違う画面がうつる。二階の寝室、食堂、研究室等のすべての監視カメラの権限はマヤの手にうつされていた。ぱっぱっと画面を変えていけば、最後にマヤの寝室を映し出す。

 「いいや、まだ二階と一階を探してる」

 タンッ、エンターキーを押せば今二人がいる場所も映し出される。

 それは、巨大なゴミのプラットホームだった。

 「ここに気づくのはもうちょっと先だろ」

 「隠れるにはいいですが、居心地は最悪ですね」

 「ここも見つかる前に早くでないとな……」

 二人はそれぞれ警備員の服に着替えると、堂々とエスカレーターを降り、調理場に入った。幸い調理場はロボットしかおらず、人の目に触れることはない。

 そこにある、この施設で一番大きなゴミ箱から、このゴミプラットホームまで降りてきたのだ。この場所があるのは施設の一番下、最奥部で、電気系統の設備よりも下にある。

 「それで? どうやって出る気ですか? 私が知る限り、この施設の出入り口は一つしかありません。しかし、そこは食堂の前で、必ず目につきます」

 サトリが知っている施設の入り口は、最初におりてきたエレベーターのみだ。あの場所に行くには目立つ場所を通らなくてはいけないし、エレベーターを動かす事自体が目立つ行為だ。気づかれて箱ごと落とされる可能性が高い。

 「それに、逃げたとしてもおそらくすぐ追いつかれますよ」

 上手く相手の目をかいくぐり外に出れたとしても、マヤの脳を狙ってイデアは追いかけてくるだろう。海外に支部もある大きな組織だ、構成員も多く逃走は困難を極めるだろう。

 片手で器用にキーボードをはじきながら、マヤはうーんと悩んだような声を出す。

 「……さっき、遺書かいてるフリしてこの施設の内部データを見てた。そしたらよ、三階のイデアの部屋から外へ出る通路があるのが分かったんだ。エレベーターじゃなくても、そこからなら外へ出れる」

 マヤはモニターされているのを知って、偽の作業画面を作って監視の目をごまかし、その裏でこの施設の権利を乗っ取っていた。

 サトリに見せるために、研究所の内部データであるこの施設全体の地図を表示する。そこには、建設当時に作られたのだろうか、詳細な間取りが記されていた。その中で特出すべきは、三階の間取りに見たことのない通路が表示されている事だ。

 「そのためには、イデアかレンゲのIDカード、もしくは指紋が必要だ。本当はIDカードの権限を乗っ取ろうとしたんだけどよ、そこだけアナログで管理されててだめだったんだ」

 双子が施設を案内してくれた時を思い出す。ソーマがかざしたIDカードは拒否されていた。通常のIDカードでは三階へは上れない事は確認済だ。

 「でも、この施設の物の操作は、ほとんど全て管理室から出来る」

 モニターの管理も、ロボットの管理も、デジタル上で出来る管理物の権限はほとんど管理室にあつめられていた。そして、今その権限を持っているのはマヤだ。

 「つまり?」

 少し先がよめたのか、笑いながらサトリは続きを促す。それににや、と笑って返事を返しながら、マヤはサトリに作戦を告げ始めた。

  §

 「研究員の避難、完了しました! 食堂に集めています! 電力が復旧次第、エレベーターで避難を開始します!」

 レンゲの元に、報告のため職員が走ってくる。

 現在、モニタールームの権限を奪われてしまったため、人力での避難勧告、見回り、マヤとサトリの捜索が進められていた。二人が何をしでかすか分からないため、速やかに避難も行わなければならない状況だ。

 レンゲは報告しに来た部下へ質問を返す。

 「マヤとサトリはまだ見つからないのか!?」

 「警備員を総動員していますが、まだ見つかっていません!」

 現在、職員が取り残されていないか見回っている。同時に、職員の部屋に二人が潜んでいないかのチェックも行っているため、時間が掛かっているようだ。しかし、それでも二人は出てこない。

 レンゲは痛くなる頭を押さえながら、部下に次の指示を出す。

 「優先順位は避難が先で、避難確認が済んだ職員から捜索に回せ。それから――……」

 遠くで、何かが重い物が落ちるような音がレンゲには聞こえる。何か――そう、重い鉄のような物の音に聞こえた。

 違和感を感じ、そちらへ向かおうとすれば――

 「!? 何だ」

 頭上から水が降り注いでいた。くるくると回りながら水を散布する機械は、少しの間水を撒いた後、すぐに何もでなくなる。

 少し髪がしっとりする程濡れてしまった職員は、嫌そうな顔でタオルを探していた。

 「スプリンクラーが……」

 誤動作か? それとも、サトリとマヤの悪戯だろうか。意味があるとは思えない行動に疑問がわく。水で何かを企んでいるにしては、ほとんど水は出なかった。

 ――水がほとんど出ない?

 「レンゲ様!」

 その時、追加の部下が報告をしに走ってくる。かなりのスピードで走ったのだろうか、息を切らしている様子を見てレンゲは嫌な予感を感じた。

 「どうした!?」

 「一階の研究室から火災がおきています!」

 ズキリ、頭の痛みが増していく。何かするとは思っていたが、まさかこの地下空間で放火を試みるのは予想外だったからだ。

 しかし、同時に納得もした。ここでもスプリンクラーが回ったということは、スプリンクラーは、権限とは別にきちんと作動しているのだろう。すぐに消火される可能性が高かった。

 部下に避難場所の変更や研究員の体を低くして待機させるように指示しようとすれば、懸命にモニターと戦っていた部下がふいに大きな声を出す。

 「モっ、モニタ、うつりました! 電力と一部操作も復活しています!」

 部下の手元を見れば、本当に一部のモニターの画面が映し出されていた。一階は煙と炎で画面がはっきり見えないが、二階・三階の一部ははっきり映っている。

 そして、その中の一つに、油を撒きながら施設へ放火を試みる二人の姿も映し出されている。

 「マヤ……サトリ……!」

 どこに隠れていた? その油はどこから手に入れた? 何故リスクの高い放火をしているのか? そんな疑問が次々沸き起こる。なによりも、面倒な事を起こしてくれた二人に対し怒りが沸いて来た。

 「現在、二階で放火中の様です! 警備員を向かわせますか?」

 放火を止めさせるため警備員を向かわせるのもいい。しかし、それだとこちら側に放火の被害が出る可能性があった。それならば……

 「いいや、ちょうどいい……。防火扉をおろせ! 閉じ込めろ!」

 二人を閉じ込めてしまえば事足りる。そうすれば、自ら蒔いた種にかかるだろう。イデアは二人にまだ利用価値を感じているが、これ以上被害を出されるよりマシだと判断した。

 モニターを見ていた部下は、すぐに防火扉を閉める指示を出す。使える範囲の防火扉を全て閉める処理をすれば、予想通り、逃げ場をなくした二人が動揺している姿が監視カメラに映っていた。

 「やりました! 二人を施設左側へ閉じ込める事に成功しました! 現在、二階の奥へ逃げていきます!」

 二階の奥の監視カメラは操作を取り戻しておらず画面は真っ暗なままだ。他の画面に目を向けると、一階の研究室の内部――研究室と隣の安置室の火が大きくなっている事が分かる。あの場所は大事な物も多い、すぐにレンゲは指示を出す。

 「研究室のスプリンクラー作動はまだか!?」

 そう問うと、すぐに手元のキーボードを叩いた部下は、エンターキーを押しながら険しい顔をする。再度、中指でエンターキーを叩くが、何の動きもない。

 「さ、作動しません……」

 青い顔でそういう部下を見て――先ほどのスプリンクラーの事を思い出した。

 少しだけ水が出た後、すぐに止まったスプリンクラー。レンゲの違和感は正しい物だった。

 「あいつら……! まさか、スプリンクラーの貯水庫を壊したのか……?」

 スプリンクラーから水が少しだけ出たのは、貯水庫から水の供給を絶った後、内部に残っていた水を出すためだったのだろう。

 しかし、そのせいで首が締まったのは自分達だったようだ。二階のモニターは既に煙が充満し見えなくなっているが、防火扉を通過したような形跡はない。このまま焼け死ぬだろう。

 「引き続き、研究員の避難と監視、スプリンクラーの修理を急げ、早く!」

 エレベーターも復旧し、一部の機能が回復したのを好機に、レンゲは指示を出す。職員は散り散りに仕事へ走っていった。

 レンゲもまた出来る仕事をするために歩き出しながらも――言いようのない違和感を感じていた。

 サトリとマヤが――マヤが、放火に失敗して焼け死ぬ、などという死に方をするのだろうか? 放火の目的は、陽動だったのだろうか? 本当にそれだけのために放火を? 何故、研究室も燃やしたのだろうか? エレベーターで逃げる算段なら、一階から遠い所で陽動をした方が上手いのではないだろうか。

 何かが――おかしかった。

 ――しかし、その違和感は違和感のまま終わる。

 「……」

 レンゲは、サトリとマヤ、二人の焼死体の前で言葉をつまらせる。

 あの後、優先的にスプリンクラーの修理を急がせた結果、貯水槽の放出口付近のバルブを弄られているだけである事が分かり、すぐに元通り水を送る事に成功した。やや人力の放水の手もかりながら、二時間ほどで消火する事に成功。施設のシステム管理の権限も全て戻り、エレベーターの復旧に伴い一般職員の避難も無事完了していた。

 全てが終わる目途が立った頃、レンゲはイデアと共に火災現場に訪れていたのだった。

 「これはひどいね、何これ」

 「二人の死体のようです。燃焼が激しすぎて、また特定できていませんが……」

 焼け焦げた死体は、損傷がひどすぎて元型をほとんどとどめていない。防火扉をおろし、炎の逃げ場をなくした結果温度が上がりすぎた事も原因のようだった。

 髪も服も焼け、ほとんど炭になった腕には、壊れかけのバイタルが巻かれている。

 「焼け跡からは、二人の壊れたバイタルが発見されています」

 既にこのバイタルが二人の物だという事は確認済だった。マヤの死体らしきものには、左手もついていない。死体を詳しく調べない限りは分からないが、状況から見て二人の死体以外に考えられなかった。

 イデアはもっている杖でその死体をつつきながら、ふぅ、とため息をつく。

 「おおかた、逃げようと思って放火したけど、火のめぐりが早すぎて焼けたんでしょう」

 イデアはがっかりしているようだった。

 苦労して集めた人材が死んでしまった事もあるだろうが――二人がうまくやれなかった事が面白くないのもあるのだろう。検証に検証を重ね捕らえた樋口マヤは、稀代の天才である事は紛れもない事実だった。その天才の抵抗がこれなのだから、拍子抜けもいいところだったのだろうと察せられる。

 「……」

 レンゲはそんな主をそっとしておこうと、防火扉の確認へ向かう。

 一人になったイデアは、焼けた死体をツンツンとつつきながら、付きまとう”違和感”に思考を巡らせてみる事にする。

 (どうして、二人は放火した? 一階にしかエレベーターはないのに、二階へ逃げたんだろう? 三階は僕達しか入れないし……)

 一階に目的があるのならば、上から下に火をつけたほうが効率がいいのではないだろうか。下から上につけたのは、火のめぐりの効率を考えての事だったのではないだろうか。

 実験室と隣室の安置室だけに火をつけるのも何かがおかしい。先の考えで、効率よく火を回すために下に火をつけたのならば、その二部屋に限定する必要はない。

 現に、一階で主に燃えたのはその部屋だけで、培養容器が並ぶ部屋には被害は及んでいない。実験に使う器具や、一部の実験の記録に日誌、安置室に置いてあった失敗作の遺体が燃えてしまったくらいだ。そのどれかに、消したい物があったのではないだろうか?

 (モニターが復旧して、”たまたま”二人の姿を見るのも、防火扉が使えるようになるのも、変。すごく、変だよね)

 二人は、自分達が二階にいる事を施設側に確認させたかったのではないだろうか。防火扉が閉まっていて逃げられない、そう思い込ませるために。逃げ場がないから燃えてしまったに違いない、という考えを作り出すために。

 現に、レンゲの考えも「状況から見て二人の死体だ」と判断していた。そう思わされるように仕組まれたのではないだろうか? その割には、直接的に燃えているところを誰も見ていないのも気になる。

 レンゲは、放火が発覚する前に”何か重い物が落ちた音がした”と言っていた。

 それは、自ら防火扉を閉め、職員の居場所を制御しようとしたのではないか?

 (それに……)

 ツンツン、とつついていた杖の動きが止まる。肉だったものは黒い粉状になって舞い散り、骨は簡単に砕け散る。

 元型をとどめていない死体。

 (”焼けすぎている”)

 油を自ら被ったのかと思えるほど、激しく焼けた死体。締め切った環境で逃げ遅れたことが、そのような結果になる原因を作ったのか?

 イデアはこう考える――死体を身元が分かりにくくなるまで焼かせたかったのだ、と。

 人間を火葬する場合、一般的に八百~千二百度で六十~七十分程かかるという。火災は千百~千二百度まで上昇すると聞くし、不可能ではない。彼らは、死体を激しく焼くための時間稼ぎとして、スプリンクラーを壊したのだろう。

 結果として、二時間ほど燃やされていた死体はこの通りだ。

 ツンツン、推定マヤの死体の左腕をつつく。確かに、この死体は左腕が切り取られているようだった。

 骨の断面を見ながら、はたと気づく。

 「……まさか」

 バラバラの点がつながる。

 一階に火をつけたのも、焼けた死体が此処にあるのも、施設側に二階で存在を確認させたのも――全て、目的は同じだった。

 ペロ、と興奮から唇を舐めている自分がいる事に気づいた。ワクワクしている自分も、騙されて悔しい自分もいた。とにかく、じっとはしていられない。

 立ち上がると、レンゲに声をかける。

 「レンゲ」

 防火扉の確認をしていたレンゲは、イデアと目を合わせる。

 イデアの目は、あの時、あの日に見た幼い輝きを放っていた。

 「彼らは上だよ」

  §

 橙から黒へ、空の色が変わり始めている。時間は夕方から、夜になりかけていた。奥深い山の中腹に立っているアナムネーシスの施設は、夕焼けに照らされどこか幻想的な雰囲気をもっていた。

 そんな施設のすぐ近く。道路の隅にあるマンホールの蓋がズズズ…と音を立てて開く。

 「ぷはぁ!」

 そこから顔を出したのは、樋口マヤだった。

 這い出るように外へ出ると、続けてサトリの方も出てくる。ぜーぜーと荒い息を吐いているマヤをよそにサトリが今まで登ってきた穴を覗けば、長いトンネルのようだった。

 「やっと外だ…」

 二人は一時間ほどこの穴を上ってきていた。体はくたくたですぐにでも横になりたいが、サトリは倒れこんでいるマヤの腕を掴んで無理矢理起こす。

 「早くここから動きますよ。施設から近すぎる」

 「うぇ……」

 おおむね、施設からは一キロメートル弱の距離だろうか、通りがかった人間に見つかる可能性は0ではない。早く動かなければならなかった。

 その事を理解はしているのか、へろへろと立ち上がってマヤも歩き出す。道路沿いに行くのは危険と判断し、森の中を突っ切るように進んだ。

 整備されていない荒道をかき分けながら、サトリはこれまでの道筋を思い出す。

 「しかしまさか……”逃げ遅れて死んだとみせかける”事で時間を稼ぐとは思いませんでしたよ」

 二人は監視カメラを使い、研究室周辺の人間が避難した事を確認。その後、防火扉の開閉を操作し中に侵入した。研究室の培養容器に、イデアと同じ見た目の個体がいる事を知っていたからだ。

 個体を二体培養容器から取り出した後、左手をマヤと同じ長さだけ切断し偽装した。空いた培養容器には安置室にいる死体を見繕い移し替え、その事がすぐに発覚しないように火をつけた。

 後は死体を担いで階段で二階に登り、監視カメラにわざと見つかって、サトリとマヤの二人は逃げ遅れたと錯覚させたのだ。すぐに偽装用の死体にバイタルを巻いて油をかけ火をつけると、切断した左手の指紋を使って三階へ出た。

 その後は、三階にある脱出口をひたすら上ってきたという事だ。

 「ま、もし気づいても鎮火と遺体の検査で半日以上はかかるだろ。逃げる時間を稼ぐには充分だ」

 二人の目的はあくまで時間稼ぎだった。

 生きて逃げられたことが発覚するのに時間がかかれば、その分遠くまで逃げることができる。限られた中で目くらまし以上の事をする時間も手もなく、これが精一杯の策だった。

 「その辺りで車でも奪って遠くまで行きますよ」

 「早く安全そうなところまで行って、ゆっくり寝たいなァ……」

 疲労の限界を感じながらも、ふらつく足にムチを打って下山する。

 完全に日は暮れ、夜の闇がどこまでも広がっていた。

  §

 暗い夜道を二人は走っている。

 脱出からどれくらいたっただろうか、朝に近くなってきた深夜の空をバックに二人は海岸線を車で走っている。車高の高めな四角の軽自動車は、壊れかけなのかガタガタと揺れていてマヤは酔いそうになった。

 「ハァ、馬鹿なカップルがたまたま車で通りかかってよかった」

 「まぁな、カップルには悪い事したけど……」

 通りかかった車を止めたサトリは、乗車していた二人を引きずり出すと荷台にあったビニールひもで縛り林に捨てていた。あまり車通りのない場所だったので、うまく見つかってくれればいいが……と見知らぬカップルの幸運を祈る。

 助手席から暗い海を見れば、今走っているのはあの時死体を埋めた砂浜の近くのようだ。懐かしく黄昏ていると、サトリが聞いてくる。

 「で? どうするんです? まさかノープラン……なんて言いませんよね?」

 車を走らせながらサトリがそういうと、マヤは乾いた笑いを浮かべた。

 「アハハ……逃げるところまでしか考えてなかった。必死すぎて……」

 「貴方……いよいよ、本当に両目をえぐられたいみたいですね」

 「わりぃわりぃ」

 ため息交じりにこちらをジトとにらむサトリに焦って詫びながらも、張りつめていた緊張を逃がすように息をはく。自分達は無事に逃げられた、そんな実感が沸いてきたのだ。

 「……あそこで死にたくなかった。――お前にも死んでほしくなかった。だから、逃げる事で頭がいっぱいになってたんだよ」

 そんな言い訳を言えば、サトリはチラ、とこちらを見て無言になる。

 本音とは言え自分が発した言葉に後から恥ずかしくなっていれば、サトリはさらりと次の案を出した。

 「とりあえず海外にでも逃げましょう。国内にいるよりはマシです」

 「そうだなぁ、コネはねぇけど船とかで逃げるか……」

 アナムネーシスがどの程度の規模の組織なのかマヤには把握しきれてはいないが、サトリがそういうなら国内は危ないのだろう。海外に逃げるとしても正規ルートは使わない方が良さそうだった。

 ――その時だった。

 「あれは……!」

 サトリは、前方に車と――その前に立つ人影を発見する。道路のど真ん中に立つその影は、目算で約二メートル程の大きさだ。急に現れたソレを避けようとハンドルを切ろうとすれば、その前に影は後ろに手を引き――車に向かって思い切り拳をぶつけてくる。

 その瞬間――二人の視界はぐるりと回り、ふわりとした浮遊感を感じた。何が起きたのか理解する前に車は地面に思い切りぶつかり、慣性をつけながら音を立てて止まった。

 エアバックの広がる車内から外へ這い出ようとすると、外からつい先日聞いたばかりの声が聞こえてくる。

 「逃げられると思った? 残念だね……」

 なんとか車から這い出たサトリとマヤは、横転した車越しに声のする方を向く。

 その威厳を感じさせる声は、間違えようのない――萩原イデアの声だった。

 「君たちの考えはお見通しなんだよ。サトリ、マヤ」

 杖をつきこちらを笑いながら見るイデア、その後ろに控えるレンゲと――そして、ノアの三人が立っていた。

 「ノア…!?」

 ノアは右手にナイフを持ち、怖い顔でこちらを睨んでいる。

 そんなノアの両肩にイデアはぽんと手を置く。びくり、と跳ねたノアの肩越しに、彼は耳に直接吹き込むように命令を口に出す。

 「さぁ、君が殺すんだよ」

 ギリ、とナイフを握る拳に力が入る。

 「あいつらを殺して、証明するんだ。君が僕を裏切らないということを。そうしないと――君も死んじゃうよ、ソーマみたいに」

 くすり、と笑い声を吹き込めば――ノアは決心したように一歩前に出る。

 一歩、また一歩と歩を進め、ついには駆けだした。手に持ったナイフを広げるように構えると、こちらへ一目散に突いてくる。

 「ノア…!? やめてくれ、ノア!!」

 意図に気づきノアの名前を呼ぶが、一切に躊躇もなくマヤを切りつけた――ように見えたナイフは空を切る。マヤの襟をつかみ、サトリが後方に引く事でなんとか回避した。

 「話など聞いてくれなさそうですよ」

 転がったマヤの前に立ち、サトリは丸腰のまま構える。

 勝機を見出すには、ノアの武器をどうにかして奪うしかないだろう。しかし、うまく奪えて撃退できたとしても、イデアとレンゲもいる。そう戦闘力もないマヤと共にどうにかするには、圧倒的に不利な状況だった。

 (こっちには攻撃手段もねぇ。このままじゃ……確実に殺される!)

 じりじりと様子を伺いにらみあうノアとサトリの後方で、マヤは必死に頭を動かしていた。

 (一体、どうすれば…)

 ――ザザァン……

 そんな音が耳に入ってくる。ハッとして辺りを見回せば、ここはあの――死体を埋めた場所の近くだという事を思い出す。あのあたりの地形は覚えている、うまく飛び込めばあるいは……。

 「サトリ!! 飛び込むぞ!!」

 そうするしかない、サトリの背中に向かってそう叫べば、すかさずノアが前に出る。

 「させるか!!」

 ノアはサトリの腹へ向かってナイフを突き立てる。

 その突きを寸前でかわし、お返しに後ろ首へ蹴りを叩きこめば、ノアは地面にたたきつけられる。追撃の蹴りを避けるため転がって距離を取ったノアは、フラフラと再度立ち上がる。

 ノアの目は――あの時見たソーマのように、暗い感情が渦巻いていた。

 「殺す」

 絶対に殺す、そんな気迫を感じた。恐ろしいまでの殺意を感じたマヤは、その様に圧倒される。

 「簡単にはさせてくれそうにありませんね」

 再度、手に持ったナイフでノアは襲い掛かる――!

 《節:分岐:勝利 引けない手》

 サトリは、殺意をもったノアと対峙しながらも頭を働かせる。

 刃物を持った敵と戦うのなら、攻撃を受けるのはご法度である。今から海に飛び込もうと打診しているのなら尚更だ。

 つまり、ノアに触れられず、近寄られずに、勝たなくてはいけない。飛び込もうとして背中から刺される、もしくは、ノアの技術ならば背中にナイフを投擲される可能性さえ0ではない。

 求められるのは、完封。ノアの動きの一切を封じなければいけなかった。

 ちらり、と奥に立っているイデアとレンゲを見るも、二人はこちらを見守るだけで何もしようとはしない。どうやら、ノアがどのような行動をとるか見極めるつもりのようだ。二人の参入は、今は、無い。それならば。

 「………」

 触られず、近寄られず、ノアを完封する。そのためにはリーチが必要だ。

 サトリは、腰に巻いているベルトを抜く。

 「死ね――!!」

 右手にナイフを持ち飛び込んできたノアに対し、早いタイミングでベルトを――打つ! しかし、大ぶりなその行動は読みやすかったのか、体を低くしてノアは攻撃を避ける。

 「遅い――!」

 そのまま、低い体勢から飛び上がりサトリの喉を狙う――と、思われた。

 「私、縄の扱いには心得がありまして」

 戻ってきた反動で、力がのったベルトのバックルがノアの頭部を思い切り殴打する。

 「ぐっ……!」

 痛みで一瞬出来た隙でノアの右手を掴むと、その腹を思い切り蹴った。掴んだ右手を離して、もう一度。そのまま、背中から思い切り地面にたたきつけられたノアは、痛みで肩を震わせている。離してしまったナイフが、少し遠いところに落ちて音を立てた。

 追い打ちをかけるなら今だ――、そう判断しサトリは前へ動く。ベルトで絞殺をするか、マウントを取り単純な暴力で黙らせるか、どちらにせよ始末するべきだ。

 サトリは、その小さな胴体にのしかかろうとする。

 その時――ギラリ、とノアの目が光った。

 しまった、これは自分と距離を詰めるための――、そう思う間もなく、ノアはふともものホルダーに刺さったナイフを手にし、そのナイフを振りかぶった。

 ノアの鋭い斬撃を避けたサトリは、その狙いが攻撃にない事に気づく。

 そのまま、サトリの横をすり抜けたノアは――マヤの方へと近づき、持っていたナイフを横に大きく振った。なんとか後方に下がる事で避けたマヤだったが、そのまま後ろに倒れてしまう。

 それを追うように、鋭い切っ先が目の先五センチの所でピタと止まった。少しでも動いたら死ぬ、マヤもサトリも身動きが取れなくなってしまう。

 「もうおしまいだ、マヤ」

 ノアは倒れているマヤを見下すように、冷たい声で投げ捨てるように言葉を発した。そんなノアの顔を見れば――言葉と裏腹に、緊張から歪み、困ったような顔をしている。ナイフの切っ先は震えて定まらない。

 「どうして、俺たちを殺そうとするんだ。ノア」

 自然と、そんな疑問が口をついて出る。ノアはカタカタと震える手をなんとか抑えながら、眉をぎゅっとよせ苦しみの表情を深くする。

 「…だって……、そうしないと、私はここにいれないんだ。私の存在証明を続けなければ 居場所がなくなってしまう」

 本当はやりたくないのだと――こんな居場所から逃げ出してしまいたいのだと、表情が訴えかけてくる。不思議と怖さをなくしたマヤは、震えてしまっているノアの手をそっと握った。

 びくり、とノアの肩が跳ねる。そんなノアに優しく笑いかけた。

 「あいつのせいでソーマが死んだのに。まだ、ここにしがみつくのか」

 「……………」

 ぽたり、ぽたりとかきすぎた冷や汗がノアの体から落ちてくる。

 あわせた目から、感情が伝わってくる。助けてほしい、誰かに救われたいのだと――知っている気持ちがありありと感じられる。それと同時に――強烈なあきらめもまた、伝わってきた。

 ノアは、あの時のマヤと同じだった。

 自分の”本質”が捨てられないから、諦める事で生き残る。――そんなマヤと同じだった。

 「ノア」

 優しく名前を呼ぶ。

 「俺は、ソーマに言われたんだ、逃げ出してでもいい、生きろって」

 ソーマの名を出せば、びくりと肩が跳ねる。

 構わず、マヤは言葉をつづけた。

 あの時、きっと誰かに、自分が言ってほしかった言葉。

 ―――諦める事しかできなかった自分へと、手を差し伸べるように。

 「ノア、一緒に逃げよう」

 ノアの目から、ポロリと、一粒の涙が落ちた。

 それはすぐに、深い増悪へと形を変えていく。涙を落した顔は、歪んで壊れていった。

 「私だって…逃げ出したい……! でも、でも!!」

 ノアの目は、決心がついたように強く火を宿す。

 「お前たちがそうやって、逃げ出すことで生き残ろうとするように。――私は生きるために、ここにしがみつくんだ!!」

 悲鳴のような叫びをあげながら、ノアはナイフを大きく振り上げ―――勢いよく落とそうとする。

 振り下ろそうとした先にあるのは、マヤの胸元を飾るリボンと―――

 シーグラス。

 それはあの時、ソーマに譲った、二人で見つけた―――

 「ソーマ」

 その瞬間に隙を見たのか、サトリはノアの背に横蹴りを入れた。大きく飛ばされたノアは、苦しそうな声をあげながら地面にたたきつけられる。

 その隙に、マヤの手を引いて、サトリはガードレールの向こう側――切り立った崖へ身を投げた。

 「ノア……」

 マヤは倒れたノアへ手を伸ばす。

 手の先に見えたのは、ノアの憎しみに似た顔。悲しみ、苦しみ、憎しみ――羨望。逃げる事の出来る自分達が羨ましくて、憎くて、辛い。そんな、顔。

 ノアを助けてやりたい、そんな胸の痛みを抱えるも、伸ばした手はすぐに遠ざかっていく。周りの景色は加速して残像になり――すぐに、背中が着水の痛みを感じる。

 勢いよく入水したマヤは、もがくことも忘れて、グルグルと回る暗い海の底へと沈んでいった。

  §

 「あーあ、落ちちゃった。生きてるかな」

 二人が落ちた先を、イデアとレンゲ、ノアの三人は見下ろしていた。ゴツゴツとした岩場が広がった先、着水した場所から頭をのぞかせるのを待っていたが、一向にその様子はない。

 「この高さだと……おそらく死んでいるかと」

 この地形なら、海の底へたたきつけられ全身を打って死ぬか、上手くいってもおぼれて死んでしまうのがオチだろう。

 レンゲがそういうと、イデアは残念そうにため息をついた。

 「あーあ、せっかく逃げ出した見せしめに、色々酷いことしてやろうと思ってたのに……」

 「……」

 その横で、ノアは無言で下を見下ろし続けていた。

 最後にマヤが優しく笑いかけたこと、一緒に逃げようと言ったこと、悲しそうに伸ばした手、それらを思い出して、ざわざわと心の柔らかい所を波打たせていた。

 イデアは、ノアの肩にそっと手を置いて笑う。

 「よくやったね。君は仕事を果たしたじゃないか」

 そういわれるものの、胸の中に喜びは広がらない。ただ――言いようのない、悔しさがあった。

 ギリ、と奥歯を噛むと、何処へ要るかもわからないマヤを睨む。

 「……あいつらは、きっと生きています。必ず、見つけ出して殺す」

 その殺意にあふれた横顔を見て、イデアは笑う。

 自分達を出し抜き、あの施設を脱出したように、きっと今回もやってくれるだろう。そんな根拠のない予感がしてくる。

 潮風を体に感じながら、朝の訪れを感じる地平線を眺めた。

 《節:終着:勝利 すべてが明ける日を求めて》

 ――暗い思考の中で流れるのは、今までの道筋だ。

 自分が歩んできた道。それは苦しみの連続で、安らぎなどない――救いなどない道だ。あきらめが体を支配し、身を流されるように生きてきた。いや、自分は生きてるとさえいえなかったのではないだろうか。

 死――圧倒的な暴力こそが、自分の救いだと一度は行きついた。でも、それさえも他者が与えてくれる救いにすがっていただけだ。

 誰も他者に救いなど与えられないのだ――自分以外は。

 気づいたのだ。諦めるくらいなら、逃げればよかったのだ。自分が居たい場所へ。自分が傷つかない場所まで、遠く、逃げてしまう勇気を、自分が持てばよかったのだ。

 黒の世界に浮かぶのは、ソーマの顔だ。

 ――全て、壊してほしい。そんなソーマの願いからも、マヤは逃げ出した。あの願いを受け入れていたら、自分はどうなってしまったのだろうか? そんな疑問が沸いては消える。

 黒の世界に浮かぶのは、ノアの顔だ。

 ――生きるために、逃げることはできない。ノアの苦悶に満ちた顔を思い出す。「逃げる」という事は、誰かを置いてきぼりにするという事に等しかった。一緒にいこう――そう言って、ノアに逃げ出す勇気を与えられなかった、自分の手を悔やむ。

 あの時のマヤには「諦め」と「死」だけがあった。

 今、マヤの中にあるのは「生」だった。

 心細く、赤く光る「生」の灯。

 「マヤ」

 ――サトリが、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 黒の世界に、光が浮かぶ。

 ――マヤの世界は、急激に光に飲まれる。

 「……ぶはっ!!」

 マヤの全身を苦しさが襲った。呼吸が上手くできず、何度も咳をする。その様子を覗き込むように見ていたサトリが、酷く焦った顔から安堵した顔へ変わっていく。

 「……はぁ……息を吹き返しましたね」

 サトリは自分の胸のあたりで組んでいた手を離し、姿勢を座る体制へと起こした。その様子を見ていたら、遅れて胸のあたりにいやーな痛みがはしって、サトリが人工呼吸をしていたのだと分かる。

 「……俺、死んでた?」

 「えぇ、一歩手前でしたよ」

 まだ整わない呼吸のままに問えば、疲れた顔でサトリが返した。

 マヤの安否を確認したからから、立ち上がったサトリは辺りの様子を見ている。

 「いて……」

 深く息を吸って、吐く。酸素が肺に満ち、呼吸も落ち着いてきた。よっと勢いをつけて体を起こせば――目に光が入ってくる。

 朝日だ。

 海岸線に、今まさに起きたばかりの光が満る。ザザ……と打ち寄せる波が、自分の足をわずかに濡らした。潮風が吹いて、自分の荒れ放題の髪を撫でる。

 気持ちがよくて思わず目をつむりその風を感じていれば、優しい声が背後から降ってくる。

 「……また死ぬんですか?」

 冗談交じりの声かけは少しの心配がにじみ出ていて、なんだか似合わなくて笑ってしまった。立ち上がろうとしたマヤにさし伸ばされた手を、しっかりと握る。

 「生きてるよ」

 あたたかい手を感じる。自分は生きていた。

 逃げるという選択をすることで、たとえ誰かを傷つける結果になるのだとしても。「逃げる」その選択だって、勇気をもって立ち向かう事の一つなのだから、もうあきらめない。

 逃げて、逃げて、逃げ続けてもいいから――生きていたかった。

 「それでは、さっさと歩きますよ。生きてるのがばれたら、あの人たちは何をしてくるかわかりませんから」

 「うげぇ、滅茶苦茶疲れてんのによぉ……」

 休みなく動き続ける体は限界を迎えつつあるが、歩き出す。

 二人の道行を照らす希望のように、その背を朝日が照らし続けていた。

 《節:分岐:敗北 行き止まり》

 サトリは、殺意をもったノアと対峙しながらも頭を働かせる。

 刃物を持った敵と戦うのなら、攻撃を受けるのはご法度である。今から海に飛び込もうと打診しているのなら尚更だ。

 つまり、ノアに触れられず、近寄られずに、勝たなくてはいけない。飛び込もうとして背中から刺される、もしくは、ノアの技術ならば背中にナイフを投擲される可能性さえ0ではない。

 求められるのは、完封。ノアの動きの一切を封じなければいけなかった。

 ちらり、と奥に立っているイデアとレンゲを見るも、二人はこちらを見守るだけで何もしようとはしない。どうやら、ノアがどのような行動をとるか見極めるつもりのようだ。二人の参入は、今は、無い。それならば。

 「………」

 触られず、近寄られず、ノアを完封する。そのためにはリーチが必要だ。

 サトリは、腰に巻いているベルトを抜く。

 「死ね――!!」

 右手にナイフを持ち飛び込んできたノアに対し、早いタイミングでベルトを――打つ! しかし、大ぶりなその行動は読みやすかったのか、体を低くして攻撃を避ける。

 「遅い――!」

 そのまま、低い体勢から飛び上がりサトリの喉を狙う――と、思われた。寸前のところで、サトリは空いている左手を使い攻撃を受け流す。

 しかし、詰めた距離を無駄にするほどノアも愚かではなかった。

 幾度か、ナイフが空を切る音が響く。

 その都度、避けていたサトリだったが、徐々に追い詰められていくのを自覚していた。こちらは丸腰の状態で、抵抗するにも限界がある。

 その集中力の切れる一瞬の隙を狙い、ノアがナイフの切っ先を向けたのは――

 《節:終着:サトリ 死の快楽》

 ――マヤだった。

 鋭いナイフの切っ先がマヤの心臓を的確に貫通する。

 「がぁっ……!!」

 マヤは声にならない叫び声をあげる。腹部を蹴るようにしてナイフを抜けば、勢いよく切り口から血が飛び散った。

 「……マヤ!」

 サトリの呼び声にこたえるように、マヤは手を伸ばす。刺された場所を抑えるも、あまりの勢いに止める事が出来ず、逆流した血が口から垂れる。

 「サ、トリ……」

 あわせてた目の光が弱くなり、その瞼が閉じられると同時に――ばたり、そんな音を立ててマヤは後ろ向きに倒れた。そのまま、一切の動きを止めた体から血が流れ、留まる事をしない。思わず、手を伸ばすと――

 「ぐっ……!」

 背後から、首筋に重い一撃を喰らう。意識を失うまいとあらがうも、再度強烈な一撃を喰らいその衝撃で地面に倒れた。

 かすれ行く意識の中、倒れたマヤの方へ手を伸ばそうとするも――その手はノアに踏みつけられ、行き場を失う。

 ほとんど視力を失った視界の端で、イデアの声が聞こえてくる。

 「あーあ、どうして殺しちゃうかなぁ。こっちのほうが利用価値高いのに」

 マヤの事を言っているのだろうか、ゴツゴツと何かを叩くような音が聞こえた後――自分の体にも、似たような痛みがやってくる。

 杖でつつかれているのだ、と気づく。薄れた視界をなんとか起こせば――穏やかな笑みを浮かべたイデアが自分のすぐわきにたっていた。杖をついて、こちらを見下ろしてくる顔は笑みのままなのに、強烈な威厳を――恐怖を感じさせる。

 「サトリ、わかっているね? この代償は高くつくよ」

 ゴッ!!

 そんな音がして、頭を蹴られたのだと分かる。もがこうとしても、気がたもっていられず――サトリの意識は、暗闇の中におちていった。

  §

 ――白い、白い視界が広がっていた。

 目を開けているはずなのに、そこには白しかうつらない。

 常時、拷問に似た何か強い痛みを感じ続けている。痛みを感じるたび、体中を電流のような何かが走り抜け、頭の白さがさらに深くなる。歯を食いしばって耐えようとするも、それさえ許されなかった。

 「ハァ……ハァ、ゥ……」

 耳に入ってくる音は、自分の荒く吐く息だけだった。呼吸はいつもままならず、しかし深く吸う事も出来なかった。何かでがんじがらめに固定されているようで、動かせる部分は腰だけだ。自分の意思に反し、体は唯一自由の効く部分を動かそうとしてくる。

 「ウ、ウゥ、ハ……ぐ、うぅ……」

 その度に、脳の奥の方に再度電流のような痛みが走り、うめき声をあげる。止めてほしくてたまらないのに、自分には自由が効く体も、目も、声もない。ただ、気が狂いそうになるほどのソレで何度も意識を飛ばし、痛みで再度ココに帰ってきてを繰り返していた。

 助けを求めようとも、頭は真っ白なままで、何故このような行為をさせられているのか、自分の名前がなになのかさえも思い出せなくなっていた。

 その様子を、ガラス越しにイデアが見ていた。汚い物でも見るような、見下した表情でソレを眺めると、すぐにレンゲの方へ目を反らす。

 「いつまでアレをやらせる気ですか?」

 レンゲの方は、サトリが受けているソレを冷静に観察する。ガラス越しに行われている事は、イデアの目的とする実験とはかけ離れただたの拷問だ。あまりのサトリの変わりように、この拷問に似た行為を終わらせ――いっそ殺して解放してやれないかイデアを探ってみれば、主の答えには一片の慈悲もない。

 「僕の気が晴れるまで、ああやってマヤの死体でも犯させておけばいいよ。腹上死って奴、見てみたいんだよね」

 つまり、死ぬまで犯させておけばいいという事らしい。

 「……」

 サトリを殺す――許してやりたい、そんな自分の考えていることがイデアにも伝わったのか――慈悲を与えないつもりの彼の逆麟に触れたようだ。

 にこり、と笑ったイデアは、その笑顔に反して薄く開いた目の隙間から怒りをあふれさせながらこう告げる。

 「レンゲ、相手してあげて」

 「ハァ、ハァ……ハァ……」

 激しく荒い息の音が聞こえる。自分が今息を吸っているのか、吐いているのかさえ分からない。連続する痛みの中で、ときおり頭の中で何かが破裂するような感覚が巻き起こる。しかし、自分の意識が破裂しきる事はなく、すぐに痛みの連続へ帰ってきてしまう。

 もっと強く破裂すれば、いっそこの体が壊れて、解放されるのではないだろうか。白い頭で考えれば――既に遠くなった感覚の体に、何者かが触ってくる感覚を覚える。

 何事かと思えば、次の瞬間――

 「うぐううう、ううぅう……!?」

 今まで感じた事のない破裂の感覚に、サトリの意識は、白く、白くなっていく。すぐに、次の破裂が襲ってきて、その感覚は徐々に短くなっていく。

 「がァッ……!!」

 ――サトリは、何も感じない場所へと行こうとしていた。

 その様子をみて、イデアはサトリに笑顔で言ってやる。

 「よかったね、願いが叶って」

 幸せそうなサトリの顔を見た後、興味を失った彼は背を向け、どこかへ去って行ってしまった。

 《節:終着:マヤ 死よりも昏い》

 ――サトリだった。

 サトリの心臓をまっすぐ捕らえた刃が、的確に中心を捕らえる。

 「ぐっ……!」

 ぐり、とえぐるように動かして刃を抜けば、胸から噴水のように血が飛び散った。その勢いのまま、サトリはゆっくりと後ろに倒れようとする。

 「――サトリ!!」

 名を叫びながら、マヤは倒れるサトリの背中を抱きとめる。うっすらとあいた瞼の隙間から覗く瞳は、今の状況に似使わないくらい優しい。

 「……マヤ……」

 ぼそり、とつぶやく口からは血が流れだす。瞼を開けているのも辛いのか、その目は閉じられて、元から白いサトリの体は急速に色を失っていく。

 どうにか血を止めようと両手で胸の穴を抑えるも、一向に止まる気配はない。揺さぶってみるも、閉じられた目が明く気配はなかった。

 震える手で、サトリの頬を撫でる。

 「あ……ぁ…」

 ――死んでいた。

 人を小ばかにするような表情をする顔も、相手を力づくでねじ伏せる手も、嫌味を言う口も――動くことはない。

 マヤの中に現れた巨大な喪失感は、彼の動く気力を根こそぎ奪っていく。抱きかかえたサトリは今にも動き出しそうなのに、胸から流れ出た血の溜まりが、その妄想を否定する。

 呆然とその死体を眺めていれば、目の前に現れたのは優しい微笑みの男。

 「逃げられないよ 観念するんだね、樋口マヤ」

 杖をついて目の前に立つ男の笑顔は柔らかいものなのに、恐怖で無性に胸をかきむしりたくなるような感覚を覚える。

 ニコニコと笑うイデアを見ながら――マヤの中に再度諦めの感情が噴き出していた。サトリが死んでしまった事で、もうどうなってもいいという虚無感が胸を、脳を支配し、体の一切の操作権をなくしてしまっていた。

 そんなマヤの様子を見て、イデアは満足そうにうなずく。

 「大丈夫。君の望みはかなえてあげるから」

  §

 ――暗い、真っ暗い世界が広がっていた。

 目を開けている、という感覚は持っているのに、開けたはずの目が何かを認識することはなかった。そのため、ただひたすらに暗い、何もない世界に要るという感覚だけが広がっている。

 「あ……」

 声を出そうとしてみても、音を拾う耳の感覚はない。手を動かそうとしてみても、何の動きも、風の流れも、それを感じる感覚も、ない。何もない世界だった。

 「俺、は……。ここ、は……」

 気が狂いそうになりながら、自分とは何なのか思い出そうとしてみる。何故、こんな世界に閉じ込められているのか、体の感覚はどこへ行ってしまったのか思い出そうとしても、うまく思考がつながらなかった。

 その様子を、ガラス越しにイデアとレンゲは眺めていた。

 何か感じているのか、横のモニターにうつされた脳波は激しく上下している。しかし、何を感じているかまでは、分かるわけもなかった。

 ガラスに入っているのは、人間の――樋口マヤの脳だった。様々な器具につながれた脳が、培養液の中で気持ちよさそうに泳いでいる。

 かわいがるように、イデアはガラスを撫でる。

 「うまくいってるみたいだね。魂の移植の技術を使えば、脳だけでも意識を保てるみたいだ」

 「……」

 その様子を見ながら、レンゲはひそかに恐れを感じていた。

 人間から脳だけを取り出し、生存させることが出来る。その技術だけ見れば素晴らしいが、五感を奪い、体を奪い、ただ”生きている”“意識がある”だけの状態にすること。それは、恐ろしい拷問なのではないだろうか。

 何もない”無”に、人間は耐えられるのだろうか。

 そんなレンゲをよそにイデアは楽しそうに、脳だけになったソレに話しかけた。

 「君の”本質”に、ほかの部位なんて必要ないからね。いっぱい役立ててあげるから喜んでよ、マヤ」

 「俺は……」

 何もない世界に意識だけは”ある”。そんな世界は、罰が”ある”地獄よりももっと恐ろしい場所だった。

 無限に広がる”無”に押しつぶされそうになるも、自分自身を殺す事も、この”無”を無くす事も、終わらせることも、マヤにはできない。

 永遠に続く”無”。

 「……」

 ただの人間には耐えきれそうにない”無”から逃げるように、目を閉じて眠りにつくように、考える事をやめる。

 後に残されたのは、何もない空っぽの空間と、培養液に浮かぶ脳だけだった。