最終更新: 1/23/2023 5:49 PM [現代語化中]

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『国際ユダヤ指導層の扇動思想と,

それに基づく猶英米等の国際干渉主義者ら主導の扇動の歴史』

(原著 四王天延孝(1878-1962) 著『ユダヤ思想及運動』 [1941/7/15初版]を,

現代の人々に内容が通じる程度に現代語化している途上のもの)

https://docs.google.com/document/d/1gRUTTErkyGM7sxseabkmwKwIq91hxYZd/edit?usp=sharing&ouid=101459707451073275716&rtpof=true&sd=true

/ https://bit.ly/3TMLeMw

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〇四王天延孝 著 『ユダヤ思想及運動』 【古本】

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4915567125/

/ https://amzn.to/3sneSfz

〇四王天延孝 著 『ユダヤ思想及運動』 [1941] 【国会図書館デジタルコレクション】

https://dl.ndl.go.jp/pid/1878651/1/9

/ http://tinyurl.com/52hxxh8b

〇四王天延孝 著 『四王天延孝回顧録』 [1964]

https://docs.google.com/document/d/1gTNdAS1LXNG7Ya0NKjoxRpPdSGP0cOEX/edit?usp=sharing&ouid=101459707451073275716&rtpof=true&sd=true

/ https://bit.ly/3pOdp0i

〇ウィキペディアの解説ページ「四王天延孝」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%8E%8B%E5%A4%A9%E5%BB%B6%E5%AD%9D

/ https://bit.ly/3kWwoDM

〇フリードリヒ・ヴィヒトル著 東亜社編纂部訳 『フリーメイソンと世界革命』

https://docs.google.com/document/d/13MHkgZNy4mBLJAjK5LH0kp1gX3VSNALK/edit?usp=sharing&ouid=101459707451073275716&rtpof=true&sd=true

/ https://bit.ly/3DU8zqq

最終更新: 1/9/2023 1:59 AM

(本文とは離れて更新)

『シオン(指導層)の議定書』の最重要部分についての説明

(以下に記す第134節は,次の『シオンの議定書 mickythemiracle版 【お友達たち向け仕様】』からの抜粋です。

https://drive.google.com/file/d/1oIhzBJ3rWmgnXkCqK3GztVaUH_tqCH2f/view?usp=sharing

/ http://bit.ly/2YM19hl 

日本語によるこのシオンの議定書 mickythemiracle版は,

私mickythemiracleが,Victor E. Marsden (1866-1920)による英語版(初版1923年発行)を英和訳して作成したものです。

その英語版というのは,Marsdenが,Sergei Nilus (1862-1929)によるロシア語版(初版1902年頃発行)を露英訳したものです。

日本語版での節・項の番号や(1)(2)の符号は,私のほうで付けたものですが,

各節の表題は,元々ロシア語版から付けられていたものです。

Marsdenによる原英文は,上のGoogleドキュメントには入れてあります。)

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134-1 秘密のフリーメイソン結社とその「見せ掛け」の支部

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我らがこの統治方針の全体を創り出したのである。

そして我らというのはこの統治方針をゴイムの精神へと浸透させてきたということである。

それもゴイムには,この統治方針の根本的な意義というものを検討する機会を与えないままにである。

それでは,これらのことの目的というものは何なのか?――

我らの種族というのは世界各地に散り散りになった。

その我らの種族というのには,直接の方法によるのでは達成できないことがあるのである。

もしも,我らがそのようにこの統治方針を浸透させたことの目的というのが,迂回した方法によって,我らの種族が直接の方法では達成できないことを成し遂げることではないとする。

そうとするなら,なぜ実際に我らはそのように浸透させたというのか?

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134-2 秘密のフリーメイソン結社とその「見せ掛け」の支部

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次の(1)(2)のことというのが,この問いについての回答なのである。

(1)すなわち我らの種族が直接達しえないことを迂回した方法で成し遂げるという目的こそが,我らの組織の存在根拠として役立ってきたということである。

(2)また,我らの種族が直接達しえないことを迂回した方法で成し遂げるという目的こそが,ゴイ畜生ども(ゴイムの卑劣な奴ら,または家畜人)から疑われさえもしない(我らの組織の)意図として役立ってきたということである。

これら(1)(2)においてその我らの組織というのは,秘密のフリーメイソン結社のことであって,ゴイ畜生どもには知られていないものなのである。

ゴイ畜生どもというのは,我らがフリーメイソン支部という「見せ掛け」の団体へと引き寄せた者らのことである。

そのようにゴイ畜生どもを引き寄せた目的というのは,ゴイ畜生どもの仲間たちの目をくらませることというわけである。

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134-3 秘密のフリーメイソン結社とその「見せ掛け」の支部

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神というのは我ら神の選民に,離散という恵みを授けた。

この離散というのは,誰の目からしても我らの弱みであるように見えたものである。

ところがこの離散ということから,我らの全ての強みが現れてきたというわけである。

この我らの強みというものが今や我らに,全世界に及ぶ統治権の手がかりというものをもたらしたのである。

我らは土台を据えてきた。

我らがこの土台の上に築き上げるべき物が残っている。

だが今やその築き上げるべき物というのは,それほど大したものではないのである。

(上の第134節の内容を補うものとして

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162-1 大衆からの拍手喝采の意義

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ゴイムがフリーメイソン各支部に加入する。

それというのは好奇心からであり,またそれは希望によるのである。

この希望というのは,上手く進展していく良きことについて分け前に与ろうという希望なのである。

さらにゴイムのうちのある者の目的というのは,公衆の面前において発言の機会を得ることなのである。

何の発言かというと,ゴイムの実際的でなく根拠のない空想についての発言というわけである。

というのはゴイムというものは,成功といったことと拍手喝采といったこととによる感激を渇望しているものということである。

我らというのはそれらの感激というのを,際立つほど物惜しみせずもたらすというわけなのである。)

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以下,私が,『シオンの議定書』の中で,特にこの第134節が重要だと考える理由を説明します。

本書を目にされた方には,先ず上の第134節第1項~第3項をよくその意味を考えながら,

できれば誰にも聞かれないところで,少なくとも3回,はっきりと大きな声を出して読んでみて頂きたいです。

あぁ,その読む以前の前提となりますが,第131節~第133節では,

国際ユダヤ指導層(一般的な表現では,シオニスト)というのが,

諸各国の統治を,立憲君主制から新憲法下での大統領制へと移行させていて,

大統領制の政府・議会を掌握することが想定されています。

オオカミである国際ユダヤ指導層なりユダヤ金権貴族なりというのは,そういう統治によって,

ヒツジである人々を支配するということになります。

そして第134節第1項冒頭の「我らがこの統治方針の全体を創り出した」というのは,

国際ユダヤ指導層というのが,そういう諸各国での統治方針を創り出したということを言っています。

先ず,それらのことというのを考慮に入れた上で,第134節を読み始めて頂ければと思います。

もちろん,第131節から読んで頂いても構いません。

それで,読んだだけで,内容をスラスラ理解できた方もいらっしゃることとは思いますが,少し説明します。

第134節第1項中の「直接の方法によるのでは達成できないこと」というのは,

同節第3項中の「全世界に及ぶ統治権」を得るという目的のことです。

直接,ユダヤが軍隊をもってして,諸各国を制圧することはできないから,

直接ではない迂回した方法で,実質的に諸各国の統治を握り,世界支配につなげるということです。

同節第2項には,どういう迂回した方法により達成するのか,その手段のことが記されています。

つまり,要はその手段として,フリーメイソン結社を使うということであり,

メイソン(またメイソンが直接ということが考えにくければ,メイソン配下のカルト)を諸各国の政治・産業・社会へと浸透させるということです。

世界支配というのは,国際ユダヤ指導層なりユダヤ金権貴族なりが企んでいるものであり,

彼らは基本的には,ユダヤ金権貴族の配下となる一部のユダヤに,メイソン結社を支配させつつも,

メイソン結社に非ユダヤ人🐑をおびき寄せて利用するということです。

まぁ,言いますと,ユダヤ金権貴族らが世界支配のための手先にするのにユダヤ人だけでは足りないから,

さらに非ユダヤ人🐑を集めるために作った組織,そう考えるのが分かりやすいかも知れません。

念のために明確にしますと,仮りにメイソンなりメイソン結社なりというのが,直接的に政治に関与することがなかったとしても,

メイソンというのは根源的に,国際主義を信奉し唯物志向を有していて,それらを広めていくものですから,

自国第一主義や伝統宗教信仰を否定し,どこか政治に大きな方向付けがなされるところがあります。

第2項中の「ゴイ畜生どもを引き寄せた目的というのは,ゴイ畜生どもの仲間たちの目をくらませること」というのは,

あまり難しく考えず素直に読みますと,

「非ユダヤの人々🐑には,ユダヤがメイソン結社を支配してることを分かりにくくする」という意味でしょう。

例えば,高須克弥氏というのは,日本では著名なゴイ・メイソンです。

一般の人々🐑というのは,そういうことというのを知ると,

メイソン結社をユダヤなりユダヤ金権貴族なりが支配してるとは考えにくくなるものと思われます。

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高須克弥氏のメイソンIDカードの写真が添付されたツイート

https://twitter.com/katsuyatakasu/status/725489390194053125

/ https://bit.ly/2SOjSrY

--------------------

ユダヤ金権貴族勢というのは東アジアでは,2度にわたる世界大戦の頃,2人の英米メイソンというのを,

支那なり台湾なり日本なりを引っかき回すための道具として使ったようです。

その2人のメイソンというのは,孫文(1866-1925)と,蒋介石(1887-1975)とです。

それら2人のメイソンというのが,英米メイソンだったのに対して,

その頃の中国共産党というのが,といいますか,コミンテルン自体もですが,

それら共産主義勢というのは,(欧州)大陸メイソンの配下にあったことというのは,

欧米人からすれば常識的なことでしょう。

国共合作というのは,英米メイソンと大陸メイソンとが一致協力して,抗日戦を戦ったということです。

彼らがメイソンだった根拠というのは,次の(1)(2)になります。

それらの辞典の記述によりますと,

確定的に,孫文はフリーメイソンだった,

また,蒋介石も,単にパゴダ・ロッジのメンバーであるとの噂があるにとどまらず,

前任者(孫文のこと)や補佐官がフリーメイソンだったことからして,

マサチューセッツ・グランドロッジがどう反応しようと,メイソンだった可能性が高いということです。

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(1) "10,000 Famous Freemasons" [2007] by William R. Denslowからの引用

(⇒ https://ia800909.us.archive.org/6/items/10000FamousFreemasonsWilliamR.Denslow1957/10%2C000%20Famous%20Freemasons%2C%20William%20R.%20Denslow%20%281957%29.pdf

/ https://bit.ly/3fcJ1vf )

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Chiang Kai-shek (蒋介石) 

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Although some sources state that this famous Chinese Nationalist leader is a member of "Pagoda Lodge" under the jurisdiction of the Grand Lodge of Mass.,

the grand secretary of Massachusetts does not have any record of his membership.

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(2) "Internationales Freimaurer Lexikon" [1932] by Eugen Lennhoff & Oskar Posner からの引用

(⇒ https://archive.org/details/lennhoff-eugen-internationales-freimaurer-lexikon-1932/page/n857/mode/2up?q=Tschiangkaischek

/ https://bit.ly/3TXYbDc )

[Google独和訳]

『国際フリーメーソン辞典』 [1932] Eugen Lennhoff & Oskar Posner からの引用

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Tschiangkaischek (蒋介石), 第1600頁

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chinesischer General und Staatsmann, * 1887,

siegreicher Generalissimus des Kuomintang gegen die Nordarmee,

1928 bis 1931 Haupt der Nanking-Regierung,

Gefolgsmann von Sunjatsen (孫文),

ist Mitglied der Pagoda Lodge (Großloge von Massachusetts).

Sein Adjutant Yatming gehört der International Lodge in Peking (der gleichen Obedienz) an.

[Google独和訳]

中国の将軍および政治家、* 1887、

北軍に勝利した国民党大元帥

1928 年から 1931 年まで南京政府の首長、

Sunjatsen (孫文) の従者、

パゴダ ロッジ (マサチューセッツ州のグランド ロッジ) のメンバーです。

彼の補佐官Yatmingは、北京の国際ロッジに所属しています(同じ服従)

--------------------

Sunjatsen (孫文), 第1537頁

--------------------

chinesischer Staatsmann, * 1868 (1866(?)), t 1925,

schwärmerisch verehrter Führer der revolutionären Bewegung,

Mitglied der (geheimen) „Hung-Gesellschaft“ (s. d.),

Protestant,

1911 nach der Militärrevolution von Hankau erster Präsident der chinesischen Republik,

auf welches Amt er freiwillig verzichtete,

seit 1918 in Kanton an der Spitze des Kuomintang,

war Freimaurer.

[Google独和訳]

中国の政治家、1868 年生まれ (1866(?))、1925 年没、

革命運動の熱心な指導者、

(秘密の)「ハング・ソサエティ」(s.d.)のメンバー、

プロテスタント、

1911年、ハンコウ軍事革命後の中華民国の初代大統領。

彼が自発的に辞任した役職、

1918年以来、国民党の頂点にある広東で、

フリーメーソンでした。

----------------------------------------

読者の皆さまにおかれては,以上のような前提というのが,本書の理解を促進することでしょう。

上述の『シオンの議定書 mickythemiracle版』第134節につきましては,

私のほうでの理解というのを,さらに次の文書中に8/2/2021付のメッセージ📜として記しています。

(日本では,以前からそういうものなのか,ここ最近のこととしては似非・反グローバリスト勢がYouTube動画で,典拠を明かさず,(恐らく意図的に)インチキ臭い説明をしていました。)

--------------------

『日本統治適正化に向けた最先端草莽意見集』

(末尾に記した「お友達たちお一人お一人の魂の救済に向けた最短最良の覚醒文書」から確認することをお勧めします💞。)

https://docs.google.com/document/d/1oMOszQkrKoX3U9S7K2mz--XfwDrqL6x1/edit?usp=sharing&ouid=101459707451073275716&rtpof=true&sd=true

/ https://bit.ly/3swmBZ4 

以上


テキスト

低い精度で自動的に生成された説明


口絵

メガネをかけた男性の白黒写真

自動的に生成された説明

プロトコル筆者に擬せられたギンツベルグ(アハド・ハーム)(1856-1927)


建物の前に立っている女性たちの白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

パリ ユダヤ人区域 ロジェ町


ポーランド ユダヤ風俗


1936年 ユダヤ義勇兵の会合

[立札の意]

ヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)の残忍に抗議するため,ドイツ製品をボイコットせよ。

ドイツではユダヤの血が流れつつある。


フリーメイソン英国皇帝エドワード7世(1841-1910) 


写真, 人, 古い, 展示 が含まれている画像

自動的に生成された説明

上: 英国フリーメイソン首脳者 コンノート大公(1850-1942) 

(グランドマスター)


白黒の写真に写っている男性と女性

低い精度で自動的に生成された説明

フリーメイソンの加盟の君主

[向かって左側] ヴィルヘルム1世(1797/3/22-1888/3/9) (右手がメイソン式であることに注意)

[向かって右側] フリードリヒ3世(1831/10/18-1888/6/15) (石屋の前垂れに注意)

建物の前に立っている人たちの白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

フリーメイソンのために第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)血祭りに上げられるべく

サラエボ市庁舎を出ようとする

皇太子フェルディナンド大公(1863/12/18-1914/6/28)同妃(1868/3/1-1914/6/28) 


米国の歴代大統領 フリーメイソン (中央はワシントン)写真, 古い, 建物, ポーズ が含まれている画像

自動的に生成された説明

(米国フリーメイソン某集会所の額) (コンパスと定規に注意)


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序文 男爵   平沼騏一郎(1867-1952) 閣下

陸軍中将    四王天延孝(1879-1962) 著

ユダヤ思想及び運動

東京 内外書房発行

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序文

ユダヤ民族の思想及び運動の世界人類に及ぼす影響は,

ずっと以前から大変広範にわたっていて,かつ,非常に深刻なものがある。

もしも,経世の志があって,国家の前途を憂う男子は,

早くから,その真相を見極めて,その対策を講ずる必要があることは,

はじめから,くどくどと言うまでもないことである。

四王天氏は,その蘊蓄を傾けて,「ユダヤ思想及び運動」を著し,

これについて,世間にその価値を問おうとしている。

その説くところが,ことごとく,道理にかなっているか否かは,

今は一先ず,これを問わない。

その研究が真摯なものであって,その知識が広いことは,

決して,名声を射て利益を釣ろうとする普通の著作と同等のものとはいえない。

確かに,時勢に感ずるところがあって,憂国の気持ちが生ずるのを抑えることができず,

この書物を提示して,現在の時代に注意を喚起して迷いを覚まそうとする者であるかのようである。

私は,その志に感謝するとともに,大部分の識者が,深くこの問題に留意することを切望し,

表題の言葉が求めるのに対して,

少しばかり所感の一端を述べて,序とする。

昭和16年6月中旬

男爵 平沼騏一郎

凡例

書中,ユダヤと記したり猶太と記してあるが,別段意味はない。

ただ,英=猶と続けたり。

その他,簡潔を望んだ場合に,ユダヤとせずに猶太とした場合もあるが,

その他でも引用書原文に猶太とあるのをそのまま猶太としたこともある。

また,筆の勢いで仮名になったり本字になった所もある。

独逸と独乙とドイツなどもその類である。

目次

口絵

  アハドハーム(通称ギンツベルグ)   パリのユダヤ人区域ロジェ町   ポーランドユダヤ風俗   ユダヤ義勇兵の会合

  英国皇帝エドワード7世のメイソン姿   英国フリーメイソン首脳者コンノート大公等

  フリーメイソン加盟の君主及び暗殺直前のオーストリア皇太子・同妃   米国の歴代大統領フリーメイソン

序文   平沼騏一郎

凡例

目次

緒言

【10/23/2022 3:12 PM   第1編~第3編については,数年前に軽く内容を確認。】

第1編 総説 

  ユダヤ人問題は世界の大問題   ユダヤ人は人類生活の各部門に容喙すると豪語す

  明者は形なきに見,聴者は声なきに聴く   彼を知り己を知らば百戦危うからず

第2編 ユダヤ民族に関する予備知識

第1章 ユダヤ民族の過去・現在

第1節 歴史概説

  放浪生活に始まる非国家思想   ディアスポラ(離散)   英国のユダヤ人放逐   ユダヤ人の支那進入と奇跡的同化 

第2節 人口分布

第2章 ユダヤ民族の特異性

第1節 言語

  セファルディ   アシュケナージ(イディッシュ)   へプライ語復古運動

第2節 外貌・服装

  セミット型・ハッティ型・アモレア型・混交型   鑑別の困難

第3節 食物

  豚・ウナギ等を食わず   ユダヤ式屠殺法

第3章 ユダヤ民族の宗教

第1節 概説

  宗教民族   改宗ユダヤ人

第2節 トーラー

  聖典の赴くところすなわち祖国   キリストはユダヤ教改革者   日本のキリスト教徒の誤り易き道

第3節 タルムード

  強烈なる内容あり   他民族切り捨て御免   タルムードを巡る裁判   ベトリューラ暗殺事件

  ドイツ外交官射殺事件

第4節 信仰の熱烈

  寺院内の慟哭   結婚式のコップ割り   割礼(包茎切開手術)   事ごとに神に祈る   他民族の宗教は破壊する

  国法に反抗を命ずる場合あり

第3編 ユダヤ思想

第1章 通論

第2章 保守的にして進歩的

  科学者アインシュタインもヘブライ古語を話す   暦は陰暦   休日は土曜日   一六勝負的

第3章 国際主義・万国主義

  八紘一宇の思想とは根本が違う   国家主義反対   日本の共鳴者   宇宙的

第4章 自尊心と排他独占的

  統治権独占   世界独占   神を独占

第5章 功利的思想

  目的は手段を神聖化す   拝金主義   最小の努力,最大の効果   賄賂も少額から始める

  民族のためにはカネ離れ良し   ワーテルローの戦勝とロスチャイルド   ユダヤ人と労働   労働価値論

第6章 堅忍・勤勉の諸徳

  苦難の中にその徳を発揮す   ユダヤ人の節酒   時間の経済的使用   ユダヤ人の仕事は往々賽の河原となる

第7章 陰性的・復讐的

  ユダヤ民族のシンポルは蛇   耳語多し   門柱の守礼   ユダヤ人と神経病   キリストはユダヤの復讐を戒む

  潜水艦式努力

第8章 ユダヤ運動の戦術について

  他民族第一線主義   ユダヤ人は両陣に立つ   釘抜戦術

【10/23/2022 3:14 PM   第4編・第5編については,第7編・第6編・第8編の内容確認後に確認の予定。】

第4編 秘密結社フリーメイソンリー

第1章 総説

  日本知識階級に見る無認識   調査の困難

第1節 起源の諸説

  石工の組合(オペラティブ)   思索的メイソン

第2節 フリーメイソンの諸相

  秘密陰謀より秘密友愛に変わったと号す   入会試験難関   フリーメイソンの階級   三点兄弟

  フリーメイソン法廷にても告白せず

第3節 標語と進み方とその批判

  英国系の標語   大陸系は自由・平等・友愛   自由の定義   マルクスはメイソン   自由と統制,自由と鍛錬

  自由主義   ルソーの人格   天然は平等なりや   絶対に対する平等   公正が平等,均一は平等にあらず

  普通選挙   時と因果の平等   因果律   自由・平等の矛盾   友愛と家族制度の破壊

第4節 フリーメイソンの目的

  国際親善の機関とは表看板   大共和国建設が目的   武力によらざる世界征服

  一国革命から今や世界革命へ

第5節 フリーメイソンの数及び主要人物

  英国系が全体の数の8割   英国元首・米国大統領がメイソン   蒋介石はメイソン

第6節 フリーメイソンは英国の機関かユダヤの機関か

  英国は波浪とフリーメイソンをもって世界を支配せんとす   阿片戦争直後香港へ進出

  フリーメイソンは確かにユダヤ的   ブナイ・ブリス

第5編 ユダヤの運動(前紀)

第1章 概説

  フランス革命以後を主とす   デモクラシーはユダヤのもの

第2章 フランス革命

  フリーメイソン自らの告白   フランス革命はユダヤを解放   ドイツの将軍八百長戦を交ゆ

  憲法制定会議はフリーメイソンの会議

第3章 米国独立革命におけるユダヤ,フリーメイソンの努力

  ワシントンはメイソン   フランスから援助に赴いたラファイエット将軍もメイソン

  フランス飛行基地のラファイエット中隊   ユダヤ人モーリスの尽力

第4章 シオン運動(シオニズム)

 ユダヤ人他民族への同化を憂う   ヘルツル博士の進出

第5章 インターナショナル運動

第1節 緒論

  1848年の欧州革命

第2節 第1インターナショナル(労働インターナショナル) 

  全世界ユダヤ同盟の創立   インターナショナル創立相談会   創立大会ユダヤ,メイソン

  第4回大会から分裂の端(自由,平等の対立)

 

第3節 第2インターナショナル(社会主義インターナショナル) 

  フランス革命100年祭に創立   各国の重要決議   メーデー   シュツットガルトの決議(戦争を革命へ) 

第4節 第3インターナショナル(共産インターナショナル) 

  漸進主義,協調主義から急進,非協調に変わっただけ   共産理論は火付けの材料に過ぎず

  国家破壊が目的,大衆獲得の好餌   ソ連との関係   イルミナティの綱領の流れを受ける

  私有財産の廃止と逆戻り   レーニンの述懐   宗教破壊   家庭破壊

第5節 第4インターナショナル

第6節 第2半インターナショナル(ウィーン・インターナショナル)

第6章 ユダヤ解放の三策(第1次世界大戦の真因との関係) 

  ロシア・オーストリア・ドイツへの集中,政治法律の変化   アフリカ等に土地を獲得す   パレスチナへの復帰

  ユダヤ過激労働団隊たるブンドの創立

第7章 第1回シオン長老会議

附 シオン議定書について

  会議の要点4項   議定書は当時の起案にはあらざるべし   ユダヤ側の議定書否定論

  議定書は大英博物館に収蔵しあり   偽文書問題に関するベルン裁判   偽文書にあらざることをユダヤ人告白す

【10/23/2022 3:15 PM   第7編の内容確認後に,第6編の内容を確認する予定。】

第6編 近代のユダヤ運動

第1章 概説

  日露戦争をロシア革命に利用   フリーメイソン公認を拒絶した首相殺さる

  ロンドンから革命日100万ポンドをロシアに送る

第2章 第1次世界大戦

  現大戦は第1次世界大戦の第二幕   第1次世界大戦の真の原因大戦終わってなお言わる

  オーストリア皇嗣の暗殺は確かに薪に点火   暗殺は実行の2年前フリーメイソンにて決定

  セルビアの暗殺犯人訊問裁判記録   フリーメイソンは殺人を許す   第1次世界大戦とユダヤ解放との関係諸文献

  ユダヤ人は世界征服の入口に立てり

第3章 ロシア革命とユダヤ

  ロシア人革命に適せず   ロシア国内にユダヤ人居住区域限定の必要   ナポレオン1世も反ユダヤ勅令を発布す

  チンメルワルド会議   キーンタール会議   ロシアにおけるユダヤ人アルベール・トーマの活躍

  ロシアことにポーランド地方におけるユダヤの苦難   ブンドの通告・アメリカのユダヤデー

  イスラエル・ザングウィルのアメリカユダヤへの飛檄   アメリカユダヤ,コングレスの回答

  日本公債応募者シフ再びロシア革命に尽力す   革命直前の状況,革命の勃発

  ユダヤ人トーマの満悦,ケレンスキー支持   11月革命では新政府官吏の82パーセントがユダヤ人

  ユダヤ人の凱歌   存続への努力   オムスク政府の崩壊とユダヤ   デーニキン軍の敗戦とユダヤ

  ユダヤ言論機関の悲鳴

第4章 オーストリア・ハンガリー革命とユダヤ

  オーストリア・ハンガリーは世界第三位のユダヤ人国   伯爵カーロイがユダヤの傀儡で新体制熱心

  ユダヤ人ベラ・クーン等赤色革命に乗り込む

第5章 ドイツ革命とユダヤ

  ロシア革命後は,ドイツはユダヤの御用済み   ブレストリトーフスクのロシア・ドイツ休戦   ドイツ軍の思想悪化

  ヒトラーの述懐   物資の欠乏   銃後の弛緩   キール軍港の暴動,皇帝蒙塵

  革命後のドイツ大官にユダヤ人   大戦間ドイツのユダヤ懐柔とその失敗

第6章 パレスチナの復興

  アインシュタインの演説   今回の大戦前ユダヤ人この問題を重視す   イギリスの二重約束   バルフォア宣言

  大ユダヤ国論

第7章 国際連盟の創立

  ヘルツル博士の文明国民会議論   アルベール・コーヘンの国際連盟の目的論

  最初の創立相談はオーストリア皇嗣暗殺3周年記念日   国際連盟高級幹部ほとんどユダヤ人

  口に平和を唱えつつ,密かに落とし穴を造る

【10/23/2022 3:13 AM   第7編の初めから内容確認を再開。】

第7編 現代のユダヤ運動 (p. 291)

第1章 序論

第2章 フリーメイソンの東洋政策

  ロシア,支那,インドを1ブロック   国際連盟の支那開発調査   ユダヤ人シムブソンの誘惑   張学良の放言

第3章 満州事変

  不戦条約とユダヤ   ギリシャ・ブルガリア国境守備兵射撃事件   フリーメイソン王正廷の演説

第4章 第2次世界大戦の序幕(その1)(支那事変) 

  蒋介石の第2次世界大戦予言   第3インターナショナルの日本・ドイツ各個撃破決議

  日本赤化のため,支那利用を謀る   西安事件,復旦大学の日支戦予想   事変前上海の国際会合

  盧溝橋事件   支那友の会

第5章 第2次世界大戦の序幕(その2)(欧州大戦) 

  ヴェルサイユ条約の破綻   オーストリア併合よりチェコの危機   ソ連の豹変,イギリスのためらいは極東の顧慮説

  ユダヤ人デイミトロツフの活躍   フランスユダヤの活躍   共産党の反ドイツ狂奔   フランスの反共産・反ユダヤ

  グリュンシュパン事件   第2次大戦は国際連盟改造強化を狙う   金経済維持のための大戦か

  アメリカ大使半ユダヤ人ブリットの活躍   ブリットのポーランド使嗾   ユダヤ人が英仏を結合させた

  世界大戦に関するユダヤの予告   欧州戦争はユダヤ戦争なりとの告白   フリーメイソンの対ファッショ決議

第6章 支那事変と欧州戦争との関係

  国際秘密力は日本の内部崩壊を期待,少なくとも欧州戦不介入を望めり

  日を独伊より分離しなし得れば英米陣営に誘致まで考えたるか

  ルーズベルトの任務,日本を支那大陸より撤退させる   ヤーネル提督の放言

  パレスチナに関するイギリス・イスラエル密約

【10/23/2022 3:15 PM   第7編・第6編の内容確認後に,第8編の内容を確認する予定。】

第8編 日本の対ユダヤ・対フリーメイソン策

第1章 概説

  新参者日本は先輩の体験を聞け   必ず経過する5つの階段   放逐は解決とならず   祖国を与えよ

  親イスラエル学者ベロックの解決案

第2章 親イスラエル主義

  ユダヤ利用の危険   同祖論を警戒せよ   キリスト教徒賀川のユダヤ弁護論   八紘一宇の履き違い

第3章 反ユダヤ主義

  感情的,宗教的   経済的根拠      政治かく乱には日本が最も敏感に反対すべきはず

  血液問題は今は第二義に置く   フリーメイソンは禁止すべし

第4章 まつろはしむ

結言

引用書目

付録 第1 支那ユダヤの悲劇

付録 第2 英猶帝国主義の秘密政治機関とみられるフリーメイソン

1 英国フリーメイソン略説

2 英国フリーメイソンの首領としての貴族・王・王族

3 フリーメイソンとユダヤの結合

4 英国フリーメイソンの紋章はユダヤ式で一ユダヤ人の考案になる(挿図)

5 イスラエル・イギリス帝国主義の秘密政治機関とみられるフリーメイソン(実証)

6 新ヨーロッパより排斥されるフリーメイソン

付録 第3 シオンの議定書

訳者注

(以下の内容については省略)

第1議定   第2議定   第3議定   第4議定   第5議定

第6議定   第7議定   第8議定   第9議定   第10議定

第11議定   第12議定   第13議定   第14議定   第15議定

第16議定   第17議定   第18議定   第19議定   第20議定

第21議定   第22議定   第23議定   第24議定

緒言

1 私がユダヤ人問題の研究に着手したのは,第1次世界大戦中からで,

フランス軍の中にいて,

フランスのユダヤ人アンドレ・スピール氏著「ユダヤ人と大戦」から啓蒙されるところが大変多かった。

決して,ドイツ仕込みではない。

また,シベリア事変中は,

主として,ハルビンに駐在して職務上,毎日,

過激派,反過激派のロシア人と接触し,

前者の大部分がユダヤ人で,後者が純ロシア人であることを目の当たりに体験し,

ついには,意を決して,

ユダヤの家庭に下宿し,彼らのお寺に出入りし,彼らの雰囲気の中に入って研究し始めたのであって,

ある左傾化した作家が,

S将軍のユダヤ研究資料は,反ユダヤの反過激派闘士イワノフ大佐から,ことごとく供給されたなど

発表したのは,

全然当たってないのである。

私が所有している数百冊のユダヤに関する書籍の重なる者の大部分は,

ユダヤ人またはその系統から出たものである。

また,フランス語,ドイツ語,ロシア語ばかりでなく,

ユダヤの勢力の盛んな英米両国からのものが少なくないのであるから,

我々の研究をもって,ドイツに追随するのであると評するのは,

恐らくユダヤ人側からする放送をそのまま信じる好人物が言った言葉だと断定する。

(巻末引用書目の一部を参照いただきたい)

2 最近,我が国の有識者の間に,

なるほどユダヤ人にいろいろ不都合なものもあるが,

それらは,必ずしも,ユダヤ人に限ったことではなく,

日本人の中にも,

ユダヤ人より進んで功利的,資本主義的な人も少なくないし,

社会主義,共産主義,非国家主義的な人物もいるから,

ユダヤ人を批判する前に,先ず,己の頭のハエを追うべく,

ユダヤ化日本人を批判することのほうが必要である。

ユダヤ問題は,その後に取り扱うのが相応である。

なぜかというと,

その人たちは知らず知らずのうちに,ユダヤ思想の持ち主となり,その闘士となっているが,

いったん,これが,遠大な計画によって,ユダヤ陣営の人になっていることを悟ったならば,

翻って改まるべきである。

すなわち,ユダヤを一つの鏡として,わが姿を見直すことが有利であるからだ,

古歌に,

わが心かがみにうつるものなれば,さぞや醜きすがたなるらむ

というのがある。

また,ドイツの今日の挙国一致体制が確立した一面の理由は,

あそこの資本家も,共産党も,ユダヤに関する知識を充分に取り入れたことにあると思う。

誤った個々の日本人の攻撃ばかりをしていても,

これに精神的物質的援助を与えるユダヤ勢力が,厳然として存在する限り,

また,己の思想がユダヤのものであったのかと醒めない限り,

なかなか反省させることは困難と思う。

3 本書は,

皇国同胞の大部分がユダヤの問題に開眼してきたにもかかわらず,

今なお煙幕が上のほうから張られるのを座視するのを我慢することができないので,

忙しい中,執筆のひまがないにもかかわらず,

強いて一気に文章を綴って,

単に,これまでに発表したものを取りまとめて世に問い,

ユダヤ人問題の真相を同胞に披瀝して,

内外より迫りかかった非常時局を突破するための参考に供したいためである。

私が現職を去ってから志したのは,

約20年の研究をなお深めて,

7巻からなる大著述をするつもりであったが,

航空界に活躍が止まることがなかった事情のため,

これを,のびのびにせざるを得なくなり,

かつ,当時は,陸海軍部の若手に,私と志を同じくする者が出て研究発表に力を尽くされるようになったので,

そのまま今日となったのである。

そうであるのに,

世界の情勢は,急激なる変転を見,

また後継者の志は,必ずしも,往年と同じでないものがあることを察して,

憂慮を放置することができず,

ここに本書を公にする理由である。

後日,東アジアの暗雲が一掃され,

悠々と筆を執る余暇を見付け,かつ,健康がなおこれを許せば,

必ず大著述の願いを遂げて,これによって君国の恩に報い,世界に貢献することを約束する次第である。

4 本書を名付けてユダヤ思想及び運動といい,

現下の国際,国内情勢等より見て,

無駄な書物の感なきにしもあらずであるが,

実は,数年前,

ユダヤの著作にかかる反ユダヤ思想及び運動という一書が出版され翻訳され,

相当部数が日本の上層指導階級の間で頒布され,

これが煙幕の作用をしたと認められるので,

特にこの名を選んで付けたのである。

従来,私が発表した数種のユダヤ民族に関する著書は,

当時,現役中であったため,

軍の切なる要望によって偽名ではなく匿名にしたのであるが,

星が移って物が変わり,

当時,私にペンネームを要請した当局者が,10年後には,

防共協定成立の祝賀宴の中央に座る世となった。

今や,仮面も,何の必要がない,

私の往年の著書は,絶版となったが,

一般から,しばしば,発行所に問い合わせがあり,

仮面を脱しての著作の慫慂が殺到したことも,今回の執筆の動機の一つではある。

第1編 総説

ユダヤ人問題は天下の大問題であるが,

ユダヤ人問題は天下の大問題であるが,

日本では,ユダヤ人という問題よりも共産党事件,支那事件,蘭印問題,排日移民法問題というような,

直接,日本にぶつかってくる問題のほうに幻惑されて,

それらの問題の陰にユダヤ人問題が付きまとっており,

いや,問題によっては,ユダヤ人問題が中心をなしていることに気付かない方々が多かったのである。

それは無理もないことであるのは,

日本には,ユダヤ街というものはなく,

外国人は,みな,英米仏独等の国籍を取っていて,

ユダヤ人と名乗るものは一人もいないからであった。

このため,例えば,天皇機関説は,舶来思想であって,皇国体には反することは,

多くの愛国者が絶叫したけれども,

その主張者は,ドイツでこれを説いていたユダヤ人エリネック博士であることや,

なぜ,彼らが君主権を失墜させることに努力するかの根本などにわたって研究されていない。

また,支那の排日抗日の教育が普及徹底したことは,何人も認めざるを得ないが,

それまで,支那を駆り立てた勢力の中には,

国際連盟(1920-1946)から蒋介石のもとに派遣したユダヤ人ライヒマン博士(1881-1965),ハース,ソルターなどの部長級のお歴々が

関与していて力があることは知られていないし,

国際連盟そのものがユダヤの努力でできたことも知られていない。

いわんや,現在の日支事変(1937/7/7-1945/8/15)や欧州戦の背後にユダヤ人の大きな働きのあることも分かっていない。

もちろん,アメリカの対日態度や英米の合作の陰にユダヤのあることもご存知ない方々が大多数である。

そして,対策を講じるのは,病理を知らないで対症療法を講ずる類ではないだろうか。

ロンドン・タイムズの有力な政治部員ウィックハム・スティード氏は,かつて,次のように述べている。

ユダヤ人問題は,世界の大問題の一つである。

いかなる政治家も,外交官も,著述家もこの問題に徹底しない間は,未完成品の域を脱しないものである云々。

そのように論じ出すと,世界中の問題は,

すべて,ユダヤ人問題に関連しないものはないというように見えて,

ユダヤ人問題を追究しない人や,ユダヤ人心酔派の人々からは,

ユダヤ問題研究家は,何でもかんでも,みな,ユダヤに罪を負わせて,己の責任を免れようとする悪癖がある

と論評されるのである。

事実,反ユダヤ主義者の中には,そういう者も絶無ではないかもしれないが,

そうであるからといって,第1次世界大戦に武力戦でって,経済戦,思想戦で負けたドイツが,

あれだけの惨苦を嘗めて,研究し結論したユダヤ禍を,一言のもとに敗戦の責任転嫁と片づけるわけにはいかず,

現に,ユダヤ勢力を除外してかかった今回の大戦には,

何年か前の大戦以上の輝かしい戦果を収め国家の結束も,いよいよ堅く見えているのである。

ユダヤ人は人類生活の各部門に容喙すると豪語す

ユダヤ人のあらゆる問題に,くちばしを容れるということは,単に外間の推測ではなく,

彼らが,堂々と,ロンドン発行の経典タルムードの緒言中に次のような告白をしている。

モーゼス・メンデルスゾーン(フランス革命前のユダヤ思想家で音楽家のユダヤ人メンデルスゾーンとは別人である)以来,

ユダヤ人は一大躍進を遂げ,

今日においては,人類生活のいかなる部門を見てもユダヤの勢力を感じないところはない。

ユダヤ人は,自ら国際的な事件に興味を持ち,その才智と勤勉とをもって,全世界の称賛を博しえた

(バビロニアン・タルムード1巻緒言9-10頁)。

いささか,自画自賛の点が鼻につき,勢力を誇示する傾向が読み取れるが,

その決意をもって乗り出していることは認めざるを得ない。

反ユダヤ主義者は,何でも,ユダヤ問題に結び付けると言われるその種は,

ユダヤ人自ら蒔いているのである。

また,後の章で論ずるように,ユダヤ人の運動は,通常,露骨ではなく,

必ず何かの地形,地物を利用し,その陰から進むのである。

ときには地下に潜り,ときには潜水してくるので,

それと気の付いた時には,すでに遅いという場合がある。

明者は形なきに見,聰者は声なきに聴く

「明者は形なきに見,聰者は声なきに聴く」の古語のように,我々は,英知を働かさなければならない。

もちろん,神経過敏に騒ぎまわることはよくないが,

独りよがりの神がかり的優越感を持って,

ユダヤの思想がどうあろうとも,その運動がどう来ようとも,我々に確信さえあれば,驚くに足りないという論者もあるが,

兵家の次の言葉を三省すべきである。

彼を知り,己を知らば百戦危うからず

彼を知り己を知らば百選危うからず。

己を知って彼を知らざれば1勝1敗し。

己を知らず彼を知らざれば毎戦必ずし。

筆者は,敢えて明者・聰者を自任しているのではなく,その及ばないことを嘆いているものであるが,

ユダヤ人問題から推論して,第2次世界大戦が起きるであろうことを予告し,パンフレットを配ったのは,

今から10年前のことであり,

日支事変(1937/7/7-1945/8/15)不拡大方針が成功しないことを直感し,そのことを公表したのであるが,

今に及んで,まことに感慨無量である。

過去は追わないが,当然に,世界の大問題であるユダヤ人の運動を凝視して,

そのための対策を誤らないことを要する。

そうして,その思想を正確に把握し,将来の運動を看破するためには,

前提として,いささか過去にさかのぼって,その現状をつかまなければならない。

第2編 ユダヤ民族に関する予備知識

第1章 ユダヤ民族の過去・現在

第1節 歴史概説

放浪生活に始まる非国家思想

ユダヤ人は,今年をもって,5701年を唱えるぐらい,古き歴史を誇っているけれども,

それは,旧約時代の神話的な部分を加えてのことであって,信用するのは困難である。

また,その治乱興亡の跡も非常に複雑であるから,

今は,本書の目的たる思想,運動のよって来たるところを判定するに必要な限度にとどめる。

ユダヤ民族発生の場所は,アラビア砂漠の北部にある豊饒な地方で,

人種は,アラビア人と同じセム系である。

牧畜を本業とし,青草を追いテントを担いで移動した放浪民族である。

南は砂漠であるから,次第に北へ進んだが,

彼らは,人口繁殖率の大きな人種であるから,その移動も相当早かっただろうと思う。

ユーフラテス川・チグリス川の流域に達したとき,2つの分かれて,

1つは,流れに沿って下って,ペルシャ湾沿岸に達してアモレ族と雑婚した。

アモレ族というのは,インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるくらいで,

ヨーロッパ人に似た人種である。

ユダヤ人の中にヨーロッパ人によく似た型があるのは,これらも関係があり,

また,反対にユーフラテス・チグリスの流れを遡って移動したものは,

シリア地方に住んでいたハッティ族と雑婚した。

このセム族(別名ベドウィン),アモレ族,ハッティ族の3つが結合してユダヤ民族を形づくったので,

これから,漸次,地中海沿岸に進出し,今日のパレスチナ地方に南下してきて,

始祖アブラハムが,そこへ来たのが約4000年の昔であって,彼らの種族はヘブライ人と呼ばれた。

ヘブライとは,彼岸の人,川向こうの人,よその人という意味で,どこまでも他人扱いされた。

その後,エジプト,バビロニアすなわちペルシャ地方などに,

ほとんど全民族の捕虜扱い的な大移動が行われている。

モーセという教祖が,エジプトから脱出して,紅海の水を神の力で2つに割って,

その中を通って助かった神話的な史実は,今から約3250年前のことである。

以上のように,発生当初から,水草を追って移動し,その後も,縷々,民族の大移動を行ってきた

ユダヤ民族が土地に固着せず,

したがって,国家観念がなく,国際主義,万国主義をとるに至るのは,自然の趨勢であり,

後の章に述べるユダヤ運動を理解するには,ぜひとも,この点から把握して取りかかる必要がある。

教祖モーセ立国ののち,幾多の変遷を経て,

一度は,ダビデ王によりエルサレムに都をすえ,その嗣子ソロモン王の栄華を見たが,

キリスト紀元前953年に,イスラエル国とユダ国とは分裂し,国力の低下を来し,

12支族中のイスラエル,ユダ2支族以外の10支族は,いずれにか分散滅失したことになっている。

その後,キリスト紀元前586年に,エルサレムは陥落して,

70年間,バビロンに捕虜になってしまい,帰国後も自由を失ったので,

縷々,救世主が出て独立ができるという望みを捨てなかった。

キリストは,このような環境に生まれ,救世主と仰がれたが,

ユダヤ思想と違った博愛を説き,狭い民俗信仰を破ろうとして,ついに十字架にかけられた。

キリストののちにも,幾人か救世主が現れ,

ことに,キリスト紀元70年,バルコチバが民族を率いて独立運動を起こしたが,

羅馬のテトス将軍により散々に打ち破られ,

それでも,失望せず,西暦紀元132年に独立戦争を起こし,

3年間死闘を続けたが,

また,一敗,地にれ,今度は,パレスチナの国から全部,放逐されることになり,

これから,世界へのが始まったのである。

これから以来は,ユダヤ人が武力戦をもって復興を図ることはまったく後を絶ち,

他の方法をもって,民族の目的を達成せんとするに至った。

ディアスポラ(離散)

離散の方向は,東に向かったものもあるが,

多くは,地中海の南北両岸を西へ西へと進み,北岸へと行ったものは,また,ヨーロッパ奥地へと広がった。

アメリカへ渡ったのは,「西暦1492年,コロンブスの米大陸発見とともに」と言ってもよく,

すなわち,コロンブスは,ユダヤ系の人物で,同年,スペインと,ポルトガルとが連合して,

全面的にユダヤ人のたたき出しを実行した時に始まるからである。

イギリスのユダヤ人放逐

イギリスも,13世紀末葉ごろ,ひとたび,ユダヤ人の放逐を行って,400年間,ユダヤ人を締め出したが,

クロムウェルが,再び,彼らを復帰させ,ついに,今日の牢固たる基礎を築き上げさせた。

ユダヤ人の支那進入と奇跡的同化

支那への移動は,旧約時代に始まるとの説もあり,まちまちであるが,

西暦紀元前200年ごろ,漢の時代に入り込んだと信じられるが,

少数であるのと,交通不便のため,支那民族に同化吸収されたようである。

しかし,ユダヤ人の同化は,謎とされるので,交通が不便な時代の奇跡的現象であって,

これをもって,同化の先例というのは危険である。(付録第1 支那ユダヤの悲劇参照)

第2節 人口分布

現在におけるユダヤ人分布状態を概説すると,次のとおりである。

(ロンドン発行の1938年版ユダヤ年鑑)

世界におけるユダヤ人総人口

16,113,000人

アフリカ洲

820,000人

アメリカ洲

5,000,000人

アジア洲

618,000人

オーストラリア洲

30,000人

ヨーロッパ洲

9,690,000人

すなわち,世界総人口の100分の1以下に過ぎない。

以上の年間発表以後に,欧州の形勢は,ますます,ユダヤに不安となり,

ことに,翌年には,今回の欧州戦の発生を見て,

欧州のユダヤ人は,続々,他の大陸に移動中であるから,

戦乱が治まって本当の統計ができるまでは,概数として満足するほかはない。

なお,西洋各国別のユダヤ人口を上の年間に求めると,次のとおりである。

ユダヤ人口

人口比

アメリカ

4,228,000人

3.75%

イギリス

333,000人

0.70%

フランス

275,000人

0.55%

パレスチナ

425,000人

30.00%

イタリア

47,825人

0.12%

ハンガリー

444,567人

5.10%

チェコスロバキア

356,000人

2.70%

ルーマニア

900,000人

8.30%

ソ連邦

2,870,000人

2.00%

ポーランド

3,600,000人

9.70%

参考のため,東洋のユダヤ人数をユダヤ人側の情報から摘載する。

北支

2,500人

内 天津

1,800人

   青島

300人

   北京

100人

   芝罘,張家口等

若干

上海

26,000人

以上,ユダヤ人移動分布の過去を顧みるときは,

ドイツのみがユダヤ人を追い出したのでないことを認めざるを得ないとともに,

なぜ,ユダヤ人がそのような憂き目を見るかについて,疑問が起こるのが当然であるが,

しかして,その疑問を解くには,

後の章に述べるユダヤの根本思想とその実行運動とを公平に観察することが必要である。

日本には,1,000名ほどとユダヤでは発表しているが,根拠は確実ではなく,

また,その1,000名というのは,日本ユダヤ人のことで

(小泉八雲ことラフカディオ・ハーンをその一人とみる説もある),

外国籍をもって居住している外交官,経済人,学者,技術者など何千人もあろうが,これは別問題である。

第2章 ユダヤ民族の特異性

第1節 言語

セファルディ

ユダヤ人の言葉の根本は,ヘブライ語であって,全世界共通である,

何年か前に,シベリアに出征したアメリカ兵の中には,多数のユダヤ人がいて,

一つもロシア語を知らなくても,ユダヤ人の店に入ると,充分に用を済ませることができた実話もある。

ただし,前章に述べたスペインからのユダヤ放逐の結果,オランダなどを経過して流れ出たユダヤ人の一派を,

スファラディというが,

彼らは,スペイン語の訛を交えることがある。

アシュケナージ(イディッシュ)

また,ドイツ・ポーランド・ロシア系ユダヤを,アシュケナージといい,

ドイツ語に酷似した一種の言語イディッシュというのを用いている。

全ユダヤ人の半数はこれに属する。

アメリカには,ユダヤ人が多数いるので,このイディッシュ語で印刷した新聞がたくさん発行されている。

ニューヨークのように,200万人ものユダヤ人が住む都市に行くと,

新聞店や駅の売店にイディッシュ語新聞が並べられているし,

電車の中で山高帽子を被ったユダヤ紳士が大っぴらにイディッシュ新聞を手にして得意そうなのが見受けられる。

ヘブライ語復古運動

ユダヤ人は,民族目的達成の日が近いことを自覚したためか,

それらの通用語たる変則語の通用は禁止もせず,また,居住国の言語を語るのを抑えもしないが,

非常に熱心に古代のヘブライ語に復帰させて言語統一をしようと努めているのが認められる。

西暦1925年,ロンドンのユダヤ人家庭でヘブライ語の会話を手帳につけて稽古しているのを実際に見て,

わけを聞くと,ユダヤの上司からのお達しで近頃始めたと答えた。

何年か前に,ハルビンでヘブライ語の本を購入して発行所を調べてみると,

驚くなかれ,日本の神戸市で印刷したもので,

印刷所の名前は,スプートニック(ロシア語で道連れの意味)とあった。

ユダヤ人のこの復古精神は,すなわち,結束を堅くして前進することになるのである。

第1次世界大戦の間に,ユダヤのスパイは,別に暗号を用いず,ヘブライ語で秘密通信をしたと語るものもあった。

今後,ユダヤのスパイ活動を防ぐ必要からも,当局者は,ユダヤの本格語ヘブライはもちろん,

ユダヤ人半数の常用語であるイディッシュ語を研究する必要があると考えられる。

先一昨年,ドイツにおいて,このイディッシュ語の読み方を講義するのを見たが,

ドイツ語のできる人には,数週間かかることなく,習得できるものと思われる。

ヘブライ語(イディッシュ語も同じ)のアルファベットは,母音7,子音31からなり,

アラビア語と同様に,右から左に書くのである。

第2節 外貌,服装

セミット型・ハッティ型・アモレア型・混交型

前述の3種の原型に属する異種のユダヤ人は,一種の合金のように混血したのかというと,必ずしもそうではなく,

今日なお,3種の原型の特長をとどめるものと,まったく混交していずれとも識別し難いものとの4種類に分かれる。

ヨーロッパに居住するユダヤ人について研究したところでは,その割合は,次のとおりである。

1 セミット型   5%

2 ハッティ型   50%

3 アモレア型   10%

4 混交型   35%

以上の4種類のユダヤ人の特徴は次のとおりである。

1 セミット型は,砂漠に住むアラビア人の顔貌,体格を備え,頭蓋骨が前後に長い。

 (アラビア,モロッコ,アルジェリア等に多い)

2 ハッティ型は,頭蓋骨は前後に短く,鼻はいわゆるユダヤ鼻で,高く前に曲がり,先が垂れ気味である。

 壮年になると,多くは下腹が肥大して,ビール樽のようになり,背丈はあまり高くない。

3 アモレア型は,背丈が高く,頭髪が金髪で,目が青く,顔色も白く,頭蓋骨は長くなく短くなく中等である。

4 混交型は,全然混交で,いずれとも判定し難く,

 例えば,頭髪が漆黒で目が青いか,または,頭髪の色,頭蓋骨の形状等にいずれも特色のないことがある。

 (ハウストン・チャムバーレン著「十九世紀ノ創世」439頁参照)

しかし,ユダヤ人イスラエル・コーヘン博士は,ともかく,

体格上,外貌上に,いわゆるユダヤ型なるものの存在することは,否認する余地がないと告白している。

(同博士著「近世ユダヤ生活」117頁)

〇(イスラエル・コーヘン博士)

https://en.wikipedia.org/wiki/Israel_Cohen_(Zionist)

鑑別の困難

筆者が地方を旅行すると,官憲の人々から,

鑑別法を5分か10分で伝授するよう頼まれることがよくあるが,

うかつに,数個の原則だけ取り上げると,どの外人もみな,ユダヤ人に見えて弊害を生ずるから,伝授しないで,

ユダヤ人ばかりの写真を集めた雑誌などを見せて,自然に帰納的に了解してもらうことにしている。

筆者のように,ユダヤ人の中に住み,しばしば,お寺に参ったりして,非常にたくさん観察をした目には,

直感で大体誤りなく判別することができる。

2年前に,天津で検問所を視察したとき,

(清国の港に設けられた外国人居留地)に入る外人の中で,

ユダヤ人と見当をつけて,そばに行って,(警戒・監視などの任務につく兵士)に示す証明書をざっと見ると,

間違いなく,Jの朱字が捺印されていたので,

そばの憲兵が驚嘆していたこともある。

西欧やアメリカ文明国では,ユダヤ人は,別に特別な種類の服装を身に付けていないが,

ポーランドの多数密集するユダヤ人街に行くと,

帽子は,黒の十徳帽子又は耳覆いの付いた鳥打帽のようなものをかぶり,

着物は黒の支那服に類するものを着て,両手を細い袖口の中で組み,少し前かがみで歩き,

相当の年配の男性は,ひげを長くして一切カミソリをあてず,

もみあげはネジ回しと称し長くたくわえ,

人と談話するときには,我々が口ひげをひねるように,もみあげの巻いたのをひねるところなど,

まことに,中世期以来の風俗そのままを保存しているので,

遠方から一見して,他の民族と判別できるのである。

(口絵ポーランドユダヤ風俗参照)

第3節 食物

豚・ウナギ等を食わず

食物については,他の民族と大いに異なる点があり,

これを守っていくところに立派な点を見出すのである。

ユダヤ式屠殺法

四つ足の中で,豚は,不潔なものとして,これを食べない。

魚類では,ウナギやナマズのようなうろこのないものは食べない。

牛肉や羊肉でも,他の民族の方式で殺したものは,食べないのが本当だが,

ユダヤ式屠殺場のないところでは,やむを得ず食べるようだ。

ユダヤ人の屠殺は,坊さんが屠殺に来て,なにか呪文を述べ,

屠殺人は,倒しておいた牛や羊ののどに一刀を刺して,

長時間の間に血が枯渇するまでそのままにして,獣類の苦悶に任せており,

したがって,そのあたりは,真の血の海と化し,

フランス国歌ラ・マルセイエーズの末句の「不純潔なる血潮が畑のあぜにあふれるまで」を思い起こさせる。

何年か前に,アメリカシカゴ市のスタックヤード屠殺場で,

ユダヤ式と,そうでない普通の屠殺とを双方とも見学したが,

普通のは,牛の眉間に一撃を加えて失神させてから,刀を加えるからいいが,

ユダヤ式のは,上述のように,長く苦しみ,かつ,鮮血であるから,

いかにも残忍に見える。

カリフォルニア州から来た肉屋の主婦と称する米夫人が一緒にみていたが,

最後には,さすがの商売人も,気分が悪くなったといって退場してしまった。

同年,ドイツで,ユダヤ人屠殺の活動写真を見たときに,

通訳をしていた夫人が,気分が悪くなって満足に通訳ができなくなったことがある。

これらの習慣の相違が,ユダヤ人と他の民族の間に溝を生ずる原因をなしていることを看過することはできない。

以上,ユダヤ式屠殺は非常に惨忍で見るに堪えないが,

彼らには言い分があるらしい。

すなわち,他の民族は獣類の血まで身体に入れるから,不純潔になるが,

ユダヤ人は,すっかり生き血を流し出したのを食べるから,血が純であると理屈をつける。

ロンドン,パリ,ジュネーブ,ニューヨークなどに行くと,

街の肉屋や料理店で,ユダヤ人の屠殺した肉を食わせる家は,筆太でヘブライ語でコシヤーと書いて,

安心してユダヤ人が買えるようにしてある。

日本人は,こんなことを少しもご存知なく,

ただ,ユダヤ人も何ら他の外人と違ったところはないと誤認していては困るのである。

しかし,現代の進歩的な人々がこのような古式の儀礼を守っていくかは,実は疑問に思っていたが,

何年か前に,ジェノバで国際連盟の際,ある宴会があって,

軍縮部長をしていたユダヤ人マダリア君

(のちにスペインの大使になってジェノバに来て松岡全権に毒づいた男)

が筆者と隣席になったので,

メニューにある豚肉をどう処分するか注視していると,

見るも汚らしいという表情で,ボーイの勧めるのを撃退していたが,

さすがにユダヤ人だなと感心したことがある。

ユダヤ人街の食堂に行くと,

帽子をかぶったまま,飲食するのが目についたし,

山高帽などを被った者が,やはり手鼻をかむのを見たことがあり,

これでは,他の民族から侮られるなと承知したこともある。

第3章 ユダヤ民族の宗教

第1節 概説

宗教民族

全章に述べたユダヤ民族の特異性の中で最も大きなものは,ユダヤの宗教である。

これこそ,ユダヤ民族の生命ともいうべきものなので,

彼らが,今から1806年前(135年)に,まったく亡国になっても,

今なお滅びずにとして世界制覇を企てつつあるのは,まったく宗教の賜物である。

このような大事な事柄であるから,別に1章を設けて,これを比較的詳しく述べるのである。

また,本書の目的たるユダヤの思想及び運動も,実にユダヤ教に発足するといっても過言ではない。

ユダヤ民族発生の部において述べた通り,

元来,彼らは,遊牧の民で自然と接触が多かったばかりでなく,

のちには,河や海の航行にも長じ,の間を旅歩きする関係もあり,

宗教心は,初めから根強くしみ込んでいると見える。

彼らも,初めは,多神教であったと思われる。

ヘブライ語の神という字は,今も,エロヒムと字が用いられ,

複数であるから,神々ということになる。

そうであるのに,だんだん民族の統一を必要とするところから,

民族神ヤハウェのみを崇拝し,このヤハウェがエホバに訛って変化し,今日に至っている。

そして,エジプトから教祖モーセが同族を率いて逃れ帰って,

シナイ山の上で雷鳴中にエホバから十戒を受け,これで,ユダヤ教を確立し始めたのである。

(約3250年前)

改宗ユダヤ人

人種的にいって,ユダヤ人であっても,ユダヤ教を本当に捨て去ったものは,ユダヤ仲間ではなく,

そうはいっても,特殊な事情でやむを得ず改宗したもの,又は,ある関係でキリスト教に擬装転向しているものなどは,

キリスト教界におけるユダヤの第五列である。

その一例として,西暦1915年1月15日,

全世界ユダヤ同盟の機関雑誌ユニベル・イスラエリット(1844-1940)第245頁に載った左の記事を紹介する。

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ユダヤ人カッツは,ロシアの前例に反して少尉に任ぜられ,ギリシャ正教を奉ずることになったが,

しかし,彼が関係している新聞に投稿して,自己の立場を次のように明らかにした。

『私は,ユダヤ人としてこの世に生まれ,現在,ユダヤ人として生き,また,ユダヤ人として死ぬであろう』

***

L'Univers israelite 15 Janvier 1915, p. 244

Les soldats juifs dans l'armée russe

Les préoccupations que nous avons ici ne doivent pas nous empêcher de suivre avec une attention vigilante ce qui se passe en Russie,

où le sort de sept millions de juifs se joue en ce moment.

Nous nous proposons de revenir, et de revenir sans cesse, sur la question juive en Russie et sur le rôle des juifs dans la guerre actuelle.

Nous publierons prochainement une étude statistique sur le nombre des juifs dans l'armée russe.

Pour amorcer ce sujet, voici quelques renseignements qu'a bien voulu nous communiquer un de nos lecteurs, M. J. Antokolsky.

J'applaudis de tout cœur à votre idée de publier dans le journal que vous dirigez avec tant d'habileté les faits d'armes extraordinaires accomplis par nos frères sur les champs de bataille.

Il n'est pas douteux que vos lecteurs ne soient heureux d'apprendre que nos coreligionnaires russes se montrent dignes de leurs camarades en France.

Vous me permettrez donc de vous signaler quelques actions d'éclat dont les héros sont nos coreligionnaires russes et dont les journaux russes ont parle avec admiration.

Aïsik Goutman, en reconnaissance à la tête d'un peloton de cavalerie, a fait preuve d'une grande intelligence et bravoure.

Blessé aux deux mains, il continue à diriger le mouvement en avant.

Ayant eu son cheval tué sous lui et ne pouvant se relever, il continue à donner des ordres à son peloton et lui indique le chemin à suivre pour éviter l'ennemi.

Fait prisonnier et questionné par l'ennemi sur l'emplacement et l'importance de sa troupe, il donne des renseignements volontairement erronés.

Profitant, du sommeil de son gardien, il s'évade dans la nuit, se cache tout le jour dans les bois, et rejoint son régiment, d'où il est aussitôt transporté à l'Hôpital de Wilna Il y reçoit la visite de son chef de corps, qui lui apporte deux croix de Saint-Georges — la plus haute récompense en temps de guerre ― et lui dit textuellement:

《 Mon petit frère, toute ma vie je me souviendrai de toi et de ta bravoure, et je te propose pour la troisième croix 》.

Oswald, jeune soldat de 20 ans, arrache à l'ennemi le premier drapeau, décoré de la croix de Saint-Georges, soigné à l'Hôpital de Wilna.

Elie Archin, pointeur dans une batterie.

Toujours à son poste de combat, a pris part à six grandes batailles;

décoré de la croix de Saint-Georges pour sa bravoure hors ligne et sa grande intelligence.

Son commandant écrit personnellement une lettre au père Archin pour lui marquer combien il est heureux d'avoir sous ses ordres un soldat d'une si grande valeur.

Katz, promu au grade de sous-lieutenant sur le champ de bataille (fait tout à fait rare en Russie) pour faits d'armes tout-à-fait exceptionnels.

Le journal russe qui rapporte ce fait avec enthousiasme  ajoute qu'il est heureux d'annoncer que Katz,

en reconnaissance de son grade, a embrassé la religion orthodoxe.

Mais notre héros riposte immédiatement par une lettre au même journal:

《 Je suis né juif, je reste et mourrai juif 》. (p.245, l.4) 

Un jeune écolier de quinze ans et demi quitte la maison sans prévenir ses parents,

suit un régiment et combat sur le front héroïquement.

Blessé et fait prisonnier, il est torturé par les Autrichiens, qui veulent obtenir des renseignements sur son régiment; mais le jeune héros ne répond rien.

Il est jeté dans un hangar froid où il reste plusieu s jours sans nourriture;

il s'évade et rentre dans son régiment.

Nommé sergent malgré son jeune âge.

Je ne vous parle pas du jeune cosaque Miller (vingt ans), nommé sergent-adjoint, décoré trois fois sur le champ de bataille, car tous les journaux de Paris et de province ont publié des articles ,élogieux en son honneur.

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上のような次第であるから,

ユダヤ民族の中には,ユダヤ教徒だけであって,他の宗教を奉ずるものはないわけである。

そうして,彼らは,永い間かかって,民族の一神に統一したのであるから,

再び分裂を来さないために,ユダヤ教内に宗派を立てない。

この点は,我々も大いに他山の石とすべきである。

日本では,神道,仏教ともに何十派に分かれ,ただ信仰を異にするばかりでなく,

互いに抗争してその力を減殺し,

新東アジアの文化的建設をしようとして海外に布教を試みるにも容易なことではない。

キリスト教もまた,旧教,新教あり,各々教派に分かれているが,

今日では,対立抗争はしていないから,海外布教は比較的成功しているようである。

そうはいえ,ユダヤ教徒でも宗派的分裂はないが,信仰の厚薄に度合いが違って,

中には,無宗教的というに近いものもあるが,

彼らの長老は,近年,しきりに宗教熱の向上に大きな努力を払っている。

十数年前,日本にまで,モーセの「十誡」(1923年製作)という豪華な映画を持ち込んできたのも,

その現れであった。

第2節 トーラー

聖典の赴くところすなわち祖国

中の初めの重要な創成期以下5書がユダヤ教の本筋の宗教書である。

キリスト教では旧約聖書をバイブルというが,ユダヤ教では,これをトーラーと名付けてこれを尊奉しており,

彼らは,羊のなめし皮にヘブライ語で右から左に書いた4巻の巻物にして,

のご神体としてアカシアの木で作った洋服タンスのような箱の中に安置している。

民族移動をするとき,居住村から立退きを要求されるときなどは,

この巻物をが奉持して先達となり,そのあとに教徒がお供をして旅行するのである。

有名なるドイツ詩人で知られ,その傑作ローレライなどを日本人でも歌う彼のハインリッヒ・ハイネというユダヤ人

(のちにキリスト教に改宗し国家主義排撃をする)も,かつて次のように記述している。

"トーラーの赴くところ,すなわち,我らの祖国なり"

これほどまでに,彼らは,トーラーを重んじ,そうして,土地を軽んずる点は,

後述のユダヤ思想研究上に注意を要する事柄である。

お釈迦様は,「法華経,神力品の中に,もしくは経巻所在のところあらん,

もしくは園の中においても,もしくは林の中においても,もしくは樹の下においても,

…もしくは山谷荒野にても,塔を立てて供養すべし」とは教えられたが,

そこが,すなわち,祖国だとは説かれなかった。

ただ,そこが道場であり,説法のところであり,悟道のところであると諭されたようで

ハイネの考えとは違う。

トーラーの中の申命記のごときは,ユダヤ律法であって,

いつか後の日に,彼らの国家が確立した暁には,この律法に従って法制を立てていくべきだと信じているようである。

トーラーの中には,多数の予言書があり,中には,いわゆるおのように,に逢着することもあるが,

また,その代わり,世界の財宝はことごとくユダヤに集まり,

各国の帝王は,みな,ユダヤに仕えることになるという明らかな予言もある。

そうかと思うと,エステル書のように,

ユダヤ夫人を皇后にして国家を思うがままに引き回した謀略戦術を書いたところもある。

キリストはユダヤ教改革者

キリストは,ユダヤ国に生まれ,目のあたりに,トーラーの偏狭排他,拝金,形式的などを見て,

嫌気を催して,キリスト教を立てたものと思う。

山上の垂訓などを読むと,ユダヤ教の欠陥を鋭く突いていることがうかがわれる。

このようなキリストが,新約の教を立てるのに,

なぜに,キリスト教がユダヤ教の本体たる旧約聖書を捨てずにこれを尊奉しているか,

他に理由もあるが,

キリストがユダヤ人から糾弾されたとき,苦し紛れに,

わが来たりしは,立法の一点一画をも破壊するためではなく,

むしろ,これを完成するためであると言い逃れをして助かったことなどが腐れ縁をなしていると思われる。

ドイツその他には,キリスト教が更生するためには,

当然に,旧約聖書を焼き捨てなければならぬと主張する者もあるくらいである。

キリスト教は,上の逃げ口上によってその場は助かったが,

結局,12弟子の中の第五列,イスカリオテのユダに背かれ,

敵の手に渡されて,

2人の盗賊の中間において磔になってしまったが,

むしろ,敢然として国家諌暁をやって,打ち首,島流しなどを宣告された日蓮上人のほうが男らしいと思う。

ハルビンのユダヤ寺院を訪れたとき,

ある老ユダヤ人が,キリストは実に怪しからぬ宗教の革命児であったと

今なお,憤慨の継続をしているのを見た。

キリストが,その教えの中に,カイゼルの物はカイゼルに,神の物は神に返せと言って,

直接,帝王政治破壊論などをトーラー通りに説かなかったことは,

ユダヤ人には,気に入らなかったはずである。

日本のキリスト教徒の誤り易き道

アメリカ仕込みの日本の某宣教師などは,

ユダヤの世界統一は,宿命だと説くので,

対話者からと突っ込まれると,それは,旧約全書にそう書いてあるから致し方ないと答え,

さらに,皇国の三大神勅は,それならばどうなるかと畳みかけられたら,

そのほうは,自分は研究していないから分からないと答えたと聞き及んだ。

皇国のキリスト教徒も,旧約書問題について深甚の反省を行い,ユダヤ問題の研究を真面目にやらないと

知らず知らずユダヤの第五列に堕するであろう。

第3節 タルムード

強烈なる内容あり

前節に述べたトーラーは,ユダヤの神の直接の啓示であって,本筋のものであるが,

これ以外に,口碑伝説で残っていたものを書き綴ったと称するトーラーの幾倍もある分量の多いものが

タルムードである。

編纂の年次は,キリスト以後5世紀に亘り参与した高僧・知識人の500人に上ると伝えられるもので,

内容は,神学,哲学,科学から禅問答のような部類もあって,雑多なものである。

衛生の部門では,

酒を飲んだのちに必ず水を飲めとの注意もあれば,

夕食をとって寝に就くときには右脇を下にしなければならぬとの教えまである。

甚だしきは,性交の方法を誤ると首の長い子や唖者ができることまで書いてあるが,

詳細は省略する。

難解の部分になると,ユダヤ人自身でも1頁を読むのに,1週間かかるところもある。

ある寺に行って,番人に,そこに並べてあるタルムードは何十冊あるのかと聞くと,

実際のことは分からんと答えた。

元来,キリスト出現ののち,世は滔々としてその教えに帰依し始め,

ことによると,ユダヤ教は崩壊するおそれもあったと見えて,

特にユダヤ民族の自画自賛の機運が高まり,キリスト教をこき下ろす文句も盛られてある。

あまり激しいので,他民族との葛藤が起こり,非難攻撃を浴びるようになり,

西暦1264年以後,やむを得ず,ところどころ書き改めるに至った部門もある。

そこで,英訳などにして出版したものには,穏健な部分だけを10冊に縮刷したのがある(ロンドン版1部10冊)。

他民族切り捨て御免

今最も激烈なタルムードの部分を,

西暦1923年4月12日,ニューヨーク・ヘラルド新聞が発表したところにより抄録すると

(文中にゴイとあるは,ユダヤ人以外の人々を指すのである),

リップル,ダビデ書37に,

「いかなる事柄にかかわらず,宗教上の秘密をゴイに漏らした者は,すべてのユダヤ人を殺すとと同罪である,

なんとなれば,ゴイム[注: ゴイの複数]が,もし我々の教える事柄を知ったならば,

彼らは,公然,我々を殺すべきであるからだ」

サンヘドリン57のアボダゾラ6乃至8,ザギガ13に,

「タルムードを研究するゴイとこれに研究方法を授けるユダヤ人は,すべて葬り去るべきものである」

ババメチア114の6に,

「汝らユダヤ人は人間であるが,世界の他の国民は人間にあらずして獣類である」

シュルハンアルクのショッツェン・ハミツパット348に,

「他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。

ゆえに,何らの遠慮なく,これをユダヤ民族の手に収めることは差し支えない」

トセフタ,アブダ・ザラ8の5に,

「ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には,その責任を負うべきであるが,

ユダヤ人がゴイを殺した場合には,責任を負うべきものでない」

次は別の出所である。

シナゴーガ,ユダイカ212頁,ミンハギン23頁,クライー,シャイム480頁には,

踰越節の前日にとなえる経文として,

「主よ,我々は汝を信ずることなくまたその御名をとなえざる諸国民の上に,汝の怒りを現さんことを希う。

彼らの上に汝の怒りを被らせ給え。

彼らを汝の怒りにより屈服させ給え。

彼らを汝の怒りにより追い散らし,彼らを粉々に砕き給え。

おお,主よ,彼らの骨をすべて抜き取り給え。

汝の民族に敵対する者すべてを瞬時に破壊し給え。

これらの国民を根より抜き去りこれを散乱させ殲滅させ給え,彼らを破壊し給え。

殲滅させ給え,即刻に!」

誠に非道なことが書いてあるが,

タルムード全部がこんな文句で埋まっているのでないことはもちろんである。

また,書き直したものもあって,筆者が,千年,満州北部のユダヤ寺院で見たタルムードには,

これらを削除して,「官憲検閲済み」の判が押してあった。

書き直してないのは,オランダのアムステルダムの1か寺と,アメリカの某寺にあるという話であった。

しかし,書き直したといっても,まだ相当なものであることは,次の事実を見ても明らかである。

タルムードを巡る裁判事件

西暦1937年10月11月に亘って,スイスの愛国者ルグリンら4名が,

ユダヤ人が段々とドイツから入り込んで,横暴になるのを恐れて,国民に対する警告の意味で宣伝ビラ5万枚を印刷し,

ローザンヌ市の商業関係者大会の席上で出席者に配布し,かつ,多数を商店の飾り窓に貼付したところ,

その地方のユダヤ人会から代表者を立てて裁判所に告訴した。

次がその宣伝文である。

諸君はみな危機に苦しみ,失業,貧困,物価騰貴に悩んでいるであろう。

今や,当然に,三省して,次に述べるところを熟読されたい。

ユダヤの経典タルムードについて,本年4月工業者保護の委員会で述べたが,

そもそもタルムードとはなんであるか,

タルムードとは,ユダヤ人の一種の民法であるが,何を教えてあるかといえば,こういうことが書いてある。

「人間が獣類よりも優秀であるのと同様に,ユダヤ人は地球上のいかなる他民族よりも優秀である」,また,

「神は,ユダヤ人にすべての方法を用い,詐欺,無理強い,高利貸し,窃盗によって,

キリスト教徒の財産を奪取することを命ずる」

(以上,タルムード,オルディン1ノトラクト1ノディスト4)

スイス人諸君!

労働者・農民・商工業者諸君!

ユダヤ資本主義の奴隷にならまいとするならば,

また,祖先以来の独立を保持し,父祖の土地に立派に自由に生活しようとするならば,

ユダヤ人らが昔からやっていた通りに,外国人に立ち戻させるべきである。

我々は,我々の土地の主人としているために,一同,叫ぼうではないか

ユダヤインターナショナルを倒せ

ユダヤ資本主義を倒せ

そうして,スイス人のスイスたらしめよ!!

これに対する判決文は次の通りであった。

ローザンヌの裁判所は,右ユダヤ人の告訴を受理して,これを法律に照らし審理したが,

被告人らは,ユダヤを悪くするために,その不利な又は虚構の推定をしたのではなく,

ただ,タルムードの本文を抜粋し,

これをもって,ユダヤ人が,この国では,再び外国人となるべきとの希望を開陳し,

そして,ユダヤインターナショナルとユダヤ資本主義とに対する商業者の警戒を促したに過ぎない。

また,タルムードは,昔から今日まで,ユダヤ人の教養書として,道徳的・宗教的法典として伝わっているのであるし,

被告人の引用した文句はタルムード聖典の中に存在する。

これを公にすることは,ユダヤ人にとっては,甚だ不愉快なことではあろうが,

これを公にすることを禁止するわけにはいかない。

また,ユダヤインターナショナル及びユダヤ資本主義に対して警告を与えたけれども,

被告人らは,特定の個人,法人,団体の名誉を毀損したものではない。

なぜならば,インターナショナルやユダヤ資本主義というものは,無人格の存在であるからである。

このようなわけで,印刷物を用いて捏造誹謗の宣伝をしたとの罪は構成されていない。

よって,被告人4名は,これを免訴し,裁判費用は国家の負担とする。

これをもって見ても,

タルムードの中に,今なお,我々から見て,非常に穏やかでない文句の存在することが,

白日のもとに暴露されたのである。

ペトリューラ暗殺事件

また,前記のトセフタ,アブダ・ザラに,

ユダヤ人が他民族を切り捨てても御免であるというようなことがあって,

今日では,このようなことはありえるべきでないことのように常識では考えられるが,

ユダヤ人の勢力が占めていたフランスなどでは,筆者が,千年,パリ滞在中に,実際に起こったのである。

すなわち,西暦1926年の5月24日に,パリの大学街の角のレストランから,

昼食を済ませて出てきたのは,元ウクライナの大統領をした亡命白系ロシア人であるアタマン・ペトリューラであった。

〇(アタマン・ペトリューラ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9

それ以前から,これをつけ狙っていた1人のユダヤ人シュワルツバルトという,

金銀宝石商を職業とし,前科1犯の無政府主義者が,

後ろからペトリューラと呼び止めた。

〇(シュワルツバルト)

https://en.wikipedia.org/wiki/Sholom_Schwartzbard

振り返るのを見て,人違いではないと認めて,ブローニング式拳銃で,1発,間近から命中弾を浴びせ,

よろめくところを,なおも残りの弾を発射して,完全に絶命するのを見て微笑んで,

駆け付けた警官の前へ拳銃を投げ出して,

「獣類を1つ撃ち止めました」と逃げ隠れもせず,落ち着いて逮捕されるままとなった。

その裁判は,翌年末まで,パリで世論の渦の中で行われた。

犯行の動機は,

「ペトリューラがウクライナで政権を執っていた間に,約10万人のユダヤ人が殺された。

その責任はペトリューラの負うべきものだから,復讐の意味で,これを殺した」というのであった。

喚問された証人の中には,ペトリューラの元副官もいて,

ペトリューラ将軍は,むしろ,「虐殺などしてはならぬ」という命令まで出している証言があった。

ところが,犯人を無罪にしなければならないというので,

有名な左翼専門弁護士のユダヤ人トーレスというのが出てきて,

法廷を反ユダヤ封じの宣伝場にして,

盛んに虐殺の責任をペトリューラに被せた。

その結果,最後に,陪審員5名が30分間ほど協議して,「犯人シュワルツワルトは無罪に」との結論に達し,

判決もその通りになり,

彼は,法廷から青天白日の身となって帰宅した。

実に,文明国の首都の真ん中で,動機はどんなものであったとしても,凶器により謀殺を遂げた者が,

このようなタルムード経典の文句通りに,責任を問われなかったのであるから,

いかに,フランスが,大分,ユダヤ支配の国になり下がっていたかが分かるのである。

ドイツ外交官射殺事件

これに味を占めたのか,次の事件がある。

今から3年前(1938年)の11月7日の革命記念日に,同じパリにおいて,

わずか17歳になるポーランド生まれのユダヤ青年グリンスパンという者が,

ドイツの大使を暗殺すべくドイツ大使館に出頭し,

大使に面会ができないので,代わって面会した3等書記官の男爵ラットを射殺した。

〇(グリンスパン)

https://en.wikipedia.org/wiki/Herschel_Grynszpan

〇(ラット)

https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_vom_Rath

犯人の申立てによれば,

ドイツがユダヤ人を虐待するから,全世界のユダヤ人の名において報復をしたのであった。

これに対しても,検事の求刑は,わずかに4か月であったが,

結審に至らないうちにヨーロッパ大戦が勃発すると,

彼グリンスパンは,従軍を願い出て,お馬先逃亡でもするか,許されなくても裁判官の心証をよくすることに努めたが,

その結果については,ドイツ軍の占領下であり,しかも,ドイツの外交官を殺したのであるから,

シュワルツワルトのようにはいくまいと思われる。

第4節 信仰の熱烈

寺院内の慟哭

本章第1節において述べたように,ユダヤ人の中にも信仰の動揺を来たした者のあることは致し方あるまいが,

一般的に言うと,

「その環境や歴史的因果関係で,『神に頼むほか,途はない』と思って信仰の熱烈になるのは自然である」と思う。

筆者は,神道,仏教の各派はもちろん,キリスト教やイスラム教の集会に臨む機会に恵まれたが,

いまだかつてユダヤ教徒の集会ほど,熱狂的,感傷的なのを実際に見たことはない。

今から20年ほど前,ハルビンの信仰があついユダヤ人のお寺に正月の儀式を見るため,

その会衆の中に入れてもらったことがある。

元旦も翌二日も朝9時ごろには,会堂はいっぱいになっていた。

男女別席になっているのは,キリスト教と趣を異にしている。

段々と儀式が進み,坊さんが一種の哀調を帯びたメロディで詩編を読むときや,

熱烈な口調で会衆に訴えるように語り出すと,

先ず神経質な夫人席でハンカチがちらほら目に運ばれ,ほどなくすすり泣きの声が漏れてくる。

これが男子席に伝染してくる。

終いには,全会衆の数百人が声を上げ五体を揺り動かして,いわゆる慟哭状態にまで達するので薄気味の悪い思いがした。

その中で,深くよく考えると,日本では,正月の元日や二日の今時分には,

朝から屠蘇やお酒が傾けられ,道行く人は,千鳥足になりがちで,

誠に,天下泰平,浦安の有り難い御代の春を祝っているが,

ここにいるユダヤ人諸君は,その環境が,全然,我々と違って苦難の連鎖と闘っているから,

この年の初めから,涙をもって,神の前に誠意を披歴しているのであろう。

日本人も少し反省して惰眠から醒めないと,こんな真剣な先生たちと太刀打ちはできなくなるかもしれない。

もちろん,日本は,天祐豊かな神国であるから,彼らが何をしようと,このために倒されてしまうことはないだろうが,

「うかうかしていると内外に敵ができ,いわゆる八方ふさがりで,二進も三進も行かないところまでは追い込まれるかもしれんぞ」

という暗い気持ちが起こったのである。

この慟哭状態のことは,実は,西暦1916年1月27日,アメリカがまだ中立のときに,

当時の大統領ウィルソン(1856-1924)が,ニューヨークにユダヤデーというものを催して,

敵味方に分かれてヨーロッパで戦っているユダヤ人の将兵や,流離転々するユダヤ家族に対する同情演説を行ったところ,

会衆のユダヤ人の多数がこれに感激して慟哭したという記事は,

その前に,ユダヤ文士の著書「ユダヤ人と大戦」という本で読んではいたが,

自らお寺の中でその異常な光景に接するまでは,それほどとは思われなかったのである。

読者諸賢にしても,筆者が非文学的なつたない筆で略記したのでは,

あの光景が,到底,10分の1も想像できないことを察せられる。

結婚式のコップ割り

また,結婚式の場面も,大いに他民族に見られない異なった光景を呈しているのである。

先ず第1杯の杯は,めでたい新郎新婦の間に酌み交わされ,

第2杯目を注ぎ終わると,坊さんが祈祷の相当長いのを始める。

煩わしいから前の大部分を省略するが,終わりのほうに次の文句がある。

「遠からずしてエルサレムの街に,ユダヤの町に,歓楽の声と花婿花嫁の声起こり,

祭壇からは,喜びに満ちた夫の声,唱歌壇からは若い男女の美声が響き渡るであろう。

花婿をして花嫁とともに楽ましめ給う主に光栄あれ。」

この祈祷が終わると,花婿は,手にしている杯を床に落として壊してしまう。

極めて熱烈なのになると,わざわざ,盃の壊れたのをさらに靴で粉々に踏みにじるのである。

いずれにしても,ユダヤの亡国エルサレムの喪失を悲しみ,

是が非でも,これを回復して,神の約束を果たさなければならぬということを,結婚当夜から肝に銘ずるのである。

言わば,臥薪嘗胆の気合のかかった結婚である。

繁盛のための結婚であって,ただ,の夢を貪るのではない。

これは,パレスチナ復興後の今日でも,なおやめないようである。

割礼(包茎切開手術)

なお,特記すべき宗教上の儀式は割礼である。

これは,男児が生まれて8日目の午前に,包茎切開手術を施して,他民族との境目を明らかにする。

すなわち,自ら差別を設けるのである。

この点について,ユダヤ人問題をよく知らない人々は,

「彼らが他民族から差別待遇されて気の毒だ」と安っぽい同情をするが,

を父母に受けたのを,わざわざ,親が可愛そうなみどり児のうちに傷付けるのである。

昔は,にある母親が自ら手術を行ったが,

近年は,この手術は,坊さんでちょっとした外科の心得あるものがやり,命名をする。

これにも,施術前に,相当長い祈祷文があるが,その中に,

「これで初めて祖先アブラハムの仲間に入ることができた」

という文句がある。

タルムードの中にある獣類とは違った一人前の男になるのである。

このような儀式に重きを置いて,数千年の昔から,ずっとこれを持続して今日に至るユダヤ人の堅忍持久性は

相当高く買ってやらなければならない。

皇国の外交界に雄飛した某氏が,かつて,

「ユダヤ人だって別に我々と違った人間ではない。

ただ,包茎切開手術が施してあるかないかだけだ」と高をくくったそうであるが,

あまり甘く見ると失敗する。

この割礼は,もとより,宗教上に重きを置いた儀式ではあるが,

同時に,衛生にもかなった神の立法だと説くものがある。

あるユダヤ人は,これにより小児の虫気を封ずる神の教えから来たと説くが,

イスラエル・コーヘン博士は,青年期の苦悩を除き頭脳を明哲に保つことは,

性病の罹病を著しく少なくし,これによって,ユダヤ人増殖に大きな貢献があるという

(コーヘン著「近世ユダヤ生活」46頁,126頁参照)。

割礼がユダヤ民族だけであるならば,最も確実なユダヤ人鑑別法になるのであるが,

イスラム教にもこの習慣があるので,これだけでは,ユダヤ人と断定はできない。

事ごとに神に祈る

また,ユダヤ人は,朝起きると,祈祷をする前に必ず用便をするが,その際にも,やはり,

「神は人体に不用となったものを排泄する機関を備えて下され,かつ,日々,これを働かせて下さることを有り難く存じます」

と感謝の辞を述べるのが本式になっている。

その他,食事の時,新しい衣類を着る時,新穀を収穫する時等,

報恩・感謝・祈願をすることは大いに称賛の価値がある。

これを要するに,ユダヤ民族とユダヤ教とは,不可分のもので,

もし,宗教をその心から取り去れば,単なる功利的・才智的個人主義者の集団に過ぎないことになる。

他民族の宗教は破壊する

惜しいことには,彼らは,エホバの唯一神を造物者として崇めつつ,自己民族のための独占となしつつある。

しかし,他民族の宗教は,これを迷信として低級化し,進んで無宗教に堕させようとする。

そのやり方の実際については,第5編第5章第4節 第3インターナショナルの宗教破壊の部で再度説明する。

ただ,彼らユダヤ人が,内在の神を上のように力説することは,

他民族を誤らせ,神社仏閣などを軽視する傾向を生じさせることを,ここに注意しておくにとどめる。

「神は汝の魂のあるところに存在する」

先年,東海道線某駅の事務室に掲げてあった故新渡戸博士の処世訓に次のような一首があった。

「人皆の詣でる社に神は無し,心の奥にかみはまします。」

まさに,これは,ユダヤ人のであるなと感じた。

国法に反抗を命ずる場合あり

また,ユダヤ人フリードレンデル(Michael Friedländer)がタルムードを引用し500頁を費やした

「ユダヤ宗教」の第250頁には,次の文句がある。

ある国々では,王様を,生前にも死後にも,これを神聖なものとして礼拝するところがある。

また,ある国々では,聖人・偉人を祭るところがあるが,これらは,我々の神聖なるユダヤ教では禁止するところである。

我々は,我々の王を尊敬し,善人の事跡とその名を崇めるけれども,

それは,ただ,人としてであって,神としてではない。

我々は,これを神化してはならない云々

これほど,我が憲法や神道に背反する思想を持ったユダヤ人を,一視同仁的に,盲目的に取り扱うという日本人は,

やはり,内心,ユダヤ人と同じ思想を持っているのではあるまいか。

同じ著者フリードレンデルは,なお,同書311頁において,タルムードのババ・カマ113

"国家の法律は我々を縛り上げる"

を引用して,さらに,これを敷衍して曰く,

国家に対する忠誠ということについては,ユダヤ人も,他民族仲間と違いはない。

ただし,ユダヤ教とかけ離れて,我々を強制しようとする場合には,

我々はその法令に反抗し,服従しないで差し支えないばかりではない。

反抗しなければいけないのである。

が,格別,ユダヤ教に背かせるという意志でない法令,

例えば,徴兵令を布いてある国で兵役義務を課せられたような場合には,

幾分,ユダヤ教を破る場合でも,服従しなければならない云々

最後に,フリードレンデルは,タルムードの中に他民族をゴイと呼んだりして罵倒をしていることを認めて,

これを,圧迫者と被圧迫者の闘争時代の話であって,今日の他民族には適用できないのだと申し訳をしているが,

前記のように,国法よりはユダヤ教を重んずる熱烈な信仰のあるところに,やはり注意すべき点がある。

第3編 ユダヤ思想

第1章 通論

1600万人を数えるユダヤ人が,ことごとく,同一の型にはまった思想を持っているはずはない。

しかし,彼らの歴史,境遇は,自然と彼らを結束させ,

外部からの強制で集団的にユダヤ窟を形作って,外界と遮断されたこともある。

したがって,他民族よりも団結力が強く,思想の共通性が多い。

ことに,宗教に分派がなく統一され,そして,宗教が生命であるから,ユダヤ精神が鍛錬されるのである。

ユダヤ人自らの書いた本に,ユダイズムと名の付いたのをいくつか見たほどである。

この点は,現在の「日本思想」なるものが雑然としているのに比べて,よほど整頓していると思う。

しかし,少し,ユダヤのことを心得ている者は,誰でも,ユダヤ人の中に,ロスチャイルドのような大財閥がいて,

同時に,マルクスやトロツキーなどのような共産主義者もいることを知っているから,

ちょっと考えると,「ユダヤ思想なるものはなかろう」と思うのであるが,

後章で述べるユダヤ運動を見ると,思想において相矛盾するようなことが,

実は,一脈相通ずるものであることを氷解し得るであろう。

第2章 捕集的にして進歩的

科学者アインシュタインもヘブライ古語を話す

アインシュタイン博士のようなユダヤ人を見ると,

彼らは,いかにも科学の先端を行く進歩的な人ばかりのようにも見えるが,

恐らく,ユダヤ人ほど,保守的な人種はまれであろう。

前にすでに言語の部で述べたように,

古典研究家以外に必要なしと思われたヘブライ語を復活させようとしているのは,

日本で神代文字を復活させて,これを日常語にしようとする運動に似ていないこともない。

そして,驚くなかれ,科学者アインシュタイン博士自身も,死語たるヘブライ語を充分に心得ていて,

さる大正11年(1922年),日本に来て,相対性原理の講演をした帰り道には,

祖国パレスチナに寄って,同族に対してヘブライ語で演説をしている

(全世界ユダヤ同盟機関紙ユニベル・イスラエリット所載)。

そのヘブライ語も右から左に書くので,決して左書きに改めない。

ユダヤ主義を英語で解説した本などを見ると,英語が左から書いてあって,その途中にヘブライ言語を挿入してある分は,

やはり,右から読まなければならないようになっている。

ヘブライ語の経文の読み方なども,自己流に読んだり,

間違って伝わるといけないので,

役僧が一人で読むと,傍らにいる5,6人のが目を光らせて,ちょっとでも間違うと,すかさず訂正するのを実際に見た。

日本に帰って見てみると,同じ停車場構内で,省線のものは右書き,私設鉄道のものは左書きとなっていて,誠に読みにくい。

日本が今なお混沌として,されていないことが感じられる。

暦は陰暦

上の言葉は一例に過ぎないが,

思想においても,これと同様に,古来のものを正しいとして固執することが,不同化性として世界の問題となる点である。

「ユダヤ人ほど,うなじがこわい民族はない」といわれるわけである。

暦は陰暦を用い,正月の元日は,毎年,9月中ごろから10月初旬の間にくる陰暦新月の日である。

今年は,彼らの5701年で,元日は昨年の10月2日であった。

国際連盟の総会は,従来,毎年,9月の第二月曜から始まって,2,3週間開いていると,

その会期中に,ユダヤの正月がきて,

連盟の幹部や,各国代表中のユダヤ人が相会いして,一年の計を語り合うことになっていた。

このことは,日本から幾多の人がジュネーブに行っても,知らずに終わったことが多かろう。

休日は土曜日

1週間の中の休日は,世界一般が日曜であるにかかわらず,

ユダヤ人は土曜日が聖日で,その日は祭り以外,何もしないのが原則である。

他民族の中に商売をするものは,そうはいかず,土曜日も午前中だけ働いていた。

しかし,ヨーロッパ大戦勃発の前年,筆者が,フランスに,久しぶりにたどり着いて,

「土曜日だから大丈夫」と思って銀行へ行くと,朝から休むことになっていた。

フランスも,これまでほどに,ユダヤ勢力の下に立つようになってしまったか。

しかし,「それは,金融界のことであるから,ユダヤ勢力が盛んであって,これは特別であろう」と考えてみた。

ところが,労働者も,ユダヤ人レオンブルムが総理大臣になって人民戦線をやって以来,

1週間を40時間以下と制限したので,

平日5日間,8時間ずつ働いて,土曜日曜と2日間休業する工場が多数できたことは,

ますますフランスのユダヤ化に都合よくなったことを察知することができた。

しかし,彼らの保守的なのは,いたずらに,旧体制の殻の中に立てこもって,一切,世間と隔絶するというのではなく,

むしろ,進んで,他の事物を研究し,自他ともに進歩して,

と信ずる彼らの不動の使命を達成しようとするのであるとみられる。

だから,彼らの研究心は,なかなか保守的人種とは思われないほど旺盛である。

哲学でも,科学でも,航海でも,電気界,映画,貿易,商業,工業,金融等,万般にわたりよく研究する。

本書第1編 総説に述べたユダヤ聖典序文の豪語は,宣伝ではない。

ただし,彼らは,元来,土地に固着しないために,農業だけは,あまり関心を持たなかった。

先般の大戦後,パレスチナが手に入って以来,漸く,関心を持たざるを得なくなった。

そして,着々と,農業にも,ある程度の成功を見つつある。

一六勝負的

彼らの保守的に似ず進取的な行き方で目につくのは,ときどき,極めて積極的であり,

一六勝負的に運を天に任せての大博打をやることである。

彼らはいずれかの国に土着し,一代か二代くらいの間に,相当の成功をするのであるから,

元も子もなくなったところで,格別悔しくはない。

またいずれへか新天地を求める。

その点は,祖先伝来の田畑を耕し,風雨寒暑に心血を注いで貯蓄した財産などとは全く違うのである。

この的な大企業精神が分からずに,島国的・土着的観点で,ユダヤの動きを見ても,本当のことが分からず,

彼らの公然たる自白まで読んでも,懐疑的に,真逆に,

「そんなことはあるまい,なにかためにする宣伝だ」くらいに片付けてしまう場合が,正直な日本人には多いから,

特にこの点に注意しておく。

第3章 国際主義,万国主義

八紘一宇の思想とは根本が違う

ユダヤ人が民族発生当初から,

土地に固着せず,天下を放浪するに至ったため,国家主義にならなかったことは,

前にすでに述べたところである。

そうして,今では,人口分布のところで説いたように,に亘って,

同信同種の同胞が離散しているのだから,

彼らは,政治的に,経済的に,国際主義による機構を設け,

各国内において漸く牛耳を執るに至ったユダヤ同士の結合によって,天下のことを左右するほうが得策であることは,

頭のよい彼らの当然考えるべきことであり,

仮に,他民族をユダヤ人の立場に置いたならば必ずそう考えるであろう。

だから,国際主義思想が悪くて,国家主義思想ばかりが善いという問題ではなく,

国際主義が国家の陰を薄くし,終いには,万国主義に持っていくかどうかが問題である。

皇国の八紘一宇の大理想は,必ずしも他の国家を壊滅するのでなく,

各国家が,互いに,欠けたものを補い合って,各々,その特長を持ち寄って平和に世界を構成するにあるから,

万国主義ではない。

ユダヤのは国家主義を排撃して国際主義に進むから,

終いに万国主義となり,ユダヤの世界統一を目標として進むようになるから警戒されるのである。

国家主義反対

今,彼らの国家主義排撃の代表的なもの1,2を挙げてみると,

すでに述べたドイツ生まれのユダヤ詩人ハインリッヒ・ハイネは次のように言う。

余は国家主義者を嫌い,終生彼らと戦った。

彼らの剣が今や臨終に近い彼らの手から落ちんとするに臨んで,

予は,必ず共産主義というものが彼らに出会って,とどめの一刀を刺して遣わすことを確信し,

これにより自ら慰めとするものである云々。

次は,西暦1936年9月24日,米国シカゴ市で発行するジュイッシュ・センチネルの緒論である。

世界大戦の最も顕著な,そして最も有害な影響は,

新しい国家主義の台頭と,従来残っていた国家主義の振興である。

国家主義は,ユダヤ民族にとっては一大脅威である。

今日においても,従来,各時代の歴史が証明するように,

高尚な国家主義文化の発達した強国の中では,ユダヤ人は生活できない云々。

次は,批評家・著述家たるユダヤ人ルシアン・ウルフが,その著「反ユダヤ主義」の中に,次の文句を書いている。

ユダヤ人にとっては,国家は個人のために造られたものであった。

個人は,国家のために造られたものではない(ユダヤ人スピール著「ユダヤ人と大戦」18頁所載)

日本の共鳴者

これらの国家主義破壊,共産インターナショナル思想を,

ユダヤ人の代弁者・第五列のような具合に日本に宣伝したのが,

東京帝国大学の元経済部長で,有名な自由主義者である河合栄治郎博士であった。

次のいくつかの文はその代表的なものである。

〇(河合栄治郎)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%90%88%E6%A0%84%E6%B2%BB%E9%83%8E

世界における少なからざる国が,国家主義に向かいつつあるにかかわらず,

また,日本において国家主義がであるにかかわらず,

私は断固として,国家主義に反対せんとするものである(ファシズム批判153頁)。

人格とは,それ自体が目的であるべきもので,決して,国家という他の目的に役立つべきものではありません。

これこそ,およそ人格という概念と背馳するものであります(第二学生生活第63頁)

我らは,共同の戦線を張って,マルクス主義を保守派の強制より守らねばならない(同上)。

自由主義が使命を果たすべきは,かかる難局の時においてである。

我々は,両手を広げて,この脅威からして,マルクス主義を擁護しなければならない(同上68頁)。

ユダヤ人が河合氏のこれらの説を読んだならば,

さぞや会心の笑みを漏らし,これで,イザヤ書の予言通り,

"異国人は,汝の石垣を築き,彼らの王らは,汝に仕えん"という世の中が近づいたと勇気百倍することであろう。

宇宙的

筆者が,ハルビンのあるユダヤ寺院に入ってみると,

会堂の円天井には,青地に星を白く出した天体が描いてあって,

これを眺めていると,自然に心は俗界を解脱して,天上界を走る思いがした。

このように,彼らは,地球を,法華経に説かれたくらいに考え,

「神様に代わってこれを支配するのが当然」と思い込ませるのではないか。

他民族を無視する点は甚だよろしくないが,

考えが宇宙的・万国主義的に進むことだけは,

の大理想を持ちながら,島国根性に終始し,で互いに押しのけ合ったり陥れ合ったりする我々としては,

他山の石として参考にすべきである。

第4章 自尊心と排他独占的

統治権独占

いずれの民族にも自尊心のないものはなかろう,

自尊心のない民族は滅びゆく民族に違いない。

隣りの支那は中華と誇り,

米国は米国第一を唱え,

ドイツはドイツ至上主義を国歌の始めから叫んでいる。

日本自身また天業を恢弘する使命から考えて天業民族と称し,

または神国日本の自覚から割り出して,天孫民族と唱えている。

このことから言えば

ユダヤ人が自らを神の選民と号したからとて格別騒ぐには及ばない。

各民族はその看板に恥じないように切磋琢磨して自己完成に進めばよろしい。

ただただ己れを高く評価せんとして他を低く下げるのはよくない。

例えば支那が己れを中華と唱えるまではよろしいが,周囲の人々を夷狄蛮人扱いにすると問題が起こるのである。

いわんやユダヤ人らが自分らだけが人間であって,他の民族を獣類に比するのは甚だよろしくない。

前に宗教の部でタルムードの中に吾々を獣類なりと指摘して問題となり,

書き直して緩和したといってもなお獣類と比較していることを述べておいた。

ユダヤ人がかかるタルムードを徹底的に改編するか焼き捨てなければ平和にはなりえない。

もちろん彼らのタルムードは他民族に対する宣伝文書ではなく,自己民族完成のための教養書であることは

吾々のごとき公平な研究者にはわかるけれども,

そのような文書を弄んでいて,ユダヤ人自身がついにこれを骨の髄まで信仰するようになると,

それが民族運動の上にも露骨に現われ,

世界を攪乱するまでに立ち至るのである。

ことに神の選民たる自覚から発足して世界独占まで進むことは迷惑千万である。

第2編宗教の部において富の独占についての露骨な文献を発表したが,

ひとり富ばかりでなく,支配権の独占もあるのである。

旧約全書のイザヤ世現第60章第10節には

異邦人はなんじの石垣をきずき,彼らの王らはなんじにえん

とあって,

各国の帝王は王冠を失ってユダヤに事えることになるというのである。

その他ユダヤ人が自己民族以外に統治権なしとせることは,エルサレムに都を奠めたダビデ王の遺言で明らかである。

王は死に瀕しその子ソロモンを呼びて左の遺訓を与えた。

吾々の家族以外のものにヘブライ人の統御を委ねてはならぬ。

幾代の後までも吾々一家の者が酋長にならなければいかぬ。

すなわち彼らから言えば,

ヘブライ人すなわちユダヤ人が各国の帝王政治の下に立つのは一刻も早く止めなければならぬことになる。

世界独占

右に述べた統治権から財産に至るまで一切独占することを端的に明快に述べたものは,

1925年ロンドンで発行された「タルムード宝典」中の左の文句である。

『世界はただユダヤ人ばかりのために造られたのである』(トレージューアス,オブ,タルムード153頁)

これは実に驚き入った放言で,

果たして然りとすれば,

吾々大和民族も,支那民族も,アングロサクソン,チュートン,スラブく物の数ではない。

ユダヤの必要があれば事を設けてこれらの民族を噛み合わせる世界戦争を起こさせようと,

またはスペインのごとき一国内に内乱を起こさせたちまちの間に同胞50万人に互いに殺戮の惨事を演出させようとも,

彼らユダヤ人の利益になることなら何ら妨げはないことになる。

筆者はその年にロンドンでその本を手にして非常に憤慨し,

ジュネーブの国際連盟に行ったときそのことを,のちに事務次長までなった有力者某氏に訴え,

ユダヤ人諸国が国際連盟の創立に力を尽くし,事務総長以下部長級全部の椅子をその手に収め,

先般の世界大戦をもって世界最終の戦争に終わらしめるべく尽力をなさることは誠に敬服にたえないが,

ユダヤ人諸君がその思想の根本において世界はただユダヤ人ばかりのために造られたものだというような,

偏見独占的な考えを包蔵しているならば断じて世界に平和は来ないと思う。

不詳ながら必らず第二,第三の世界大戦が起こることを予言すると戒告を与えておいた。

その後13年置いてまたロンドンに赴いたとき,

同じユダヤ書店を訪ねて上述の不都合な文句が改訂されたかと思って楽しみに調べてみると,

遺憾ながら右の文句はそのままになって発売されていた。

……第二ヨーロッパ戦争(第2次世界大戦)はついにその翌年(1939年)勃発してしまった。

神を独占

右の文句は是非永久に葬り去ることをユダヤ民族に要求する。

これが存続する以上は吾が八紘一宇の大理想実現と必ず抵触することになる。

なお一つ驚くべきことは,彼らは神をも独占することである。

すなわち

全地球上にはイスラエルだけに神がある(アブラハム著ユダイスム第21頁)

また同書35頁には王国ということを説いて

それは地球上における天国であって,聖人たちすなわち理想的なイスラエルによって支配されて全人類をこれに包含するのだ

これらの根本のユダヤ思想を把握しないと,

現前のユダヤの実際の大規模の運動を見せつけられていながら,

真逆そんな世界戦争,世界革命,世界統一なんぞを考えてはいないはずだと決めつけて,

吾人の言うことを行き過ぎと笑うことになるのである。

第5章 功利的思想

目的は手段を神聖化す

ユダヤ聖賢の言として伝えられる中に,次の文句がある。

"目的は手段を神聖化するのであるから,

吾々は計画を立てるに際して,

どちらが善いとか道徳的だかいうことよりも,どちらが必要であり有用であるかということに一層の注意を払うべきである"

(チェムバーレン著「第二〇世紀の創造」ユダヤ編末尾補遺)

これは単に文献に現われたばかりでなく,

実際今日までユダヤ人の執ってきた運動の上によく現われていることであるが,

彼らの功利主義思想を最もよく表すものといえる。

ユダヤ民族の目的は世界統一にあることは上述してきた彼らの極端なる優越感や独占観や,

彼らの信仰する予言者の言を一覧すれば分かることであるが,

その目的達成の方法として自ら武力を用いずして,金力をもってすることも周知のことである。

その金力を集める方法としてあらゆる方法が許されていることも宗教の部で説いたところである。

拝金主義

そもそも彼らの拝金主義は遠く3250余年前エジプトを脱出して,

教祖モーセがシナイ山の上で精神的に神の啓示を受けている際,

別の長老アーロンというのが山の麓で金の子牛を鋳造して,

これを「」(ゴールデン・ゴッド)と称し盛んな祭りをやったことなどから一層強くなった。

ユダヤ人は自らも土地に固着を欲せず,

したがってまた居住国から追われることも多いので最も小量で価値の高い金を携帯することが便利であり,

次第によってはひそかに埋蔵して逃げても後から発掘してみて何ら変化していない金属として金を尊ぶのは自然である。

ユダヤ人の生命は金であるぞということを少年時代から深く刻み込むため,

ロシアのある地方のユダヤ人は子供に金貨を握らせ,

相当高い木の枝にその金貨を持ったままぶら下がらせ,

金貨を落とせばすなわち生命を落とすという教育をする話を聞いた。

あながち単なる物語ではあるまい。

ユダヤ人は出す金は1文でも少なく,取る金は1文でも多くという主義を徹底的に実行する。

ユダヤ人相手の商売をした邦人の話では,

1万円くらいの取引をして彼らに請求書を差し出すときは

必ず100円以下の端数は負けろこれだけの巨額の取引にそんな半端な金を取るものではない,

またたびたび取引をするのではないかと値切り倒される

(これからジューダウンという言葉もできたという)。

反対にユダヤ人から請求書を出されたときにその手で値切ろうとすると,

それはいかぬ,すでに単価で大勉強をしており,始めから取り極めたのだから1文も負けられぬと頑張る。

最小の努力,最大の効果

筆者が先年ユダヤ寺院の礼拝に行ったとき,

その礼拝の間にトーラーの巻物を入れた御神体のを開張する度数が7回ほどあるので,

始まる前に,開張係を志願する篤信の人を7人予定するのだが,

これには奉納金を納めさせるのである。

その額は一定していないで,その都度せりで決める,

寺院としては1文でも高く取りたいし信徒のほうでは1文でも安く目的を達したいためである。

の一人が募集すると

例えば5円と叫ぶと金額と氏名を紙に書きつけついに7人までせりができてもまだ終結しないで叫んでいる,

さらに1円でも高いものが出ると最初の5円を入れたものは資格を失うようになる。

誠に奇異の感がしたが,

これは彼らの徹底ぶりとして了承しておいた。

しかるにその後新しい寺院ができ,

そこにトーラーの巻物を移す儀式があったのを見に行くと,

天蓋をもって飾ったトーラーの巻物一つ一つを篤信の信者が捧持して

居並ぶユダヤ群衆の面前を得意満面でしずしずと練り行くのである。

その傍らには,が一人ずつ付き添うて群衆に向かい,

この方はいま10円で持っているのだということを広告する。

群衆の中で15円と叫ぶものがあると,

これを差し招いていま持って歩いているものと交代させる,

これは天下の街道で行うので前述の寺院内部と違い見苦しいように吾々非ユダヤ人には見えるが彼らは平気である。

この最小の犠牲をもって効果を上げるという経済観念は意外な方面にも適用される。

賄賂も少額から始める

この前の世界大戦の後にフランスの軍医少佐Xが

ポーランドの大きなユダヤ人居住地クラコフの付近に派遣されていたとき,

ポーランド政府の依頼によりクエルチー(?)というところで徴兵検査を嘱託された。

ある日一人の老ユダヤ人につかまり,

自分の妻が重体だからちょっと見てくれと頼まれ,一応断ったけれども執拗に頼まれついにユダヤ人の家に行き,

しばらくすると老人が応接間に現われて,妻は死んだというから,

それは気の毒だがいつ死んだと尋ねると実は10年前に死んだというので,

大いに怒って,先刻死にそうだというから来たのに不都合だと叱ると,

実は10年前に一人の愛児を残して死亡し,

その愛児が明日適齢で貴官の徴兵署に出頭するが

元来な質で役には立つまいと思うけれどもし貴官が合格と決められると,

この老体は手助けを失い困難な立場になるから,

なにとぞ不合格の取扱いをお頼みしたいためご苦労を煩わした。

これは軽少だがと大きく1万マルクと書いた札束を右のポケットから取り出して軍医少佐の前に置いた。

少佐はこれを見て何を失礼をするかと立ち上がろうとすると,

ユダヤ老人自分のなる心事をもって人を測るから,これは少なすぎたと思って,

今度は左のポケットから1万5千マルクと書いたのを出した。

これも受け取らないのでついに2万マルクのを懐中から取り出した,

医官は怪しからんと席を蹴って帰ってしまった。

午後の検査を済ませ宿舎に帰ると1通の電報がワルシャワの陸軍省から届いていて,

徴兵医官を免ず直ちにポーランドの軍医少佐MZに引き継ぐべしとあるから,引継ぎを了し

翌日は汽車旅行をしてポーランド陸軍省に行って,

なぜ職務執行中に免じたかを詰問するつもりであったが,

どの係も皆そのような電報は出さぬというので狐につままれたような気で帰ってみると,

その留守中にポーランド医官がユダヤ老人のせがれをちゃんと兵役免除にしてしまったこと,

電報は老人の依頼で医官が偽電をワルシャワから発したのである。

このように賄賂にも下からせり上げていくなど,吾々他民族の想像しえられざるところである

(オリヴィエ著「ポロニユ」266,277頁)。

民族のためにはカネ離れ良し

このように述べてくるとユダヤ人は握り込むばかりで一向に金を散じないように見えるが実はそうではなく,

利益になることなら賄賂に2万マルクも出すが,

宗教関係,民族問題では出せる人は思い切って出す場合がある。

ユダヤ人の機関雑誌数種を閲読していたが,

その多くには開巻第1頁に週間または半月間の献金表があり,

誰の命日に際し金千ポンドを何々に寄進するというふうなのがかなりしばしば見受けられた。

また養老事業とかその他ユダヤ相互間の救済事業にも金を出すものが相当あることは特筆すべきである。

かの米国のユダヤ系大銀行クーン・ロブのヤコブ・シフが日露戦争の際

財務官高橋是清氏を通じ日本に貸した2億5千万円は奉納したのではなく

外債として相当の利息をつけたのだが,

第1ロシア革命の運動費として綺麗に投出したのは1千2百万ドルといわれている。

〇(高橋是清)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85

そして前者も後者も共にロシア国内のユダヤ同胞600万人の解放をめざしたことも今日においては明らかとなった。

万一,皇国の人々で企業や金融やらのやり方にユダヤの真似をして,財を集めることだけはやるが,

ユダヤ人の金離れのよい点をも真似ないと,

鵜の真似をする烏の類で溺れる場合が起こるであろう。

ワーテルローの戦勝とロスチャイルド

ユダヤ人の射利的なことはあまりにも人口にしているが

ひとつ代表的なものを略説すれば

西暦1815年イギリスがナポレオンを撃つためウェリントン軍を大陸に派遣し,

ワーテルローの一戦に大勝を博したとき,

ロンドンの銭屋ロスチャイルドは使用人に伝書鳩をもたせて従軍させたため,

ナポレオン敗北の報せはロンドンで一番先に知ったが,

公報の来るのがドーバー海峡の霧のため遅れることを考え,

明日から必ず跳ね上がるべき英国公債をボツボツ市場に売り方に出して民心を不安にし,

逆にロスチャイルドのもとに殺到する売り方の株をひどく値切り倒して買い占め,

翌日,戦勝の報せが来て株の大幅値上がりのため一挙に大儲けをしたことなどは,

すこぶる有名な話である。

そのような逆手を打つことなどは

ちょっと他民族にはでき兼ねる,

なんとなれば,売った人は翌日になれば,必ず,地団太を踏んで後悔することが始めから分かっているからである。

ユダヤ人と労働

ユダヤ人はボツボツでも儲けるがかなり大幅な儲けをしたいのであるから,

労多くして儲からない労働や,農業を自分でやろうとはしない。

しかし,後の章で説くように,労働者,農民を利用するために,

労働価値論などをカーネル・マルクスことモルデカイというユダヤ人に編み出させて大衆運動に利用した。

ユダヤ人は一挙手一投足でもただではやらぬという物の価値を労働時間で出そうという思想がある。

フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーがかつて旅行記を書いたときに,

フランスの南方のアヴィニヨンに着いた時ほど不愉快なことはなかった。

ちょっと荷物を下ろすのにチップが要る,

その荷物を向きを変えるにまたチップ,一から十まで金金金で実に不愉快だったとある。

その運搬人がユダヤ人とは書いてなかったが,

あの土地は比較的ユダヤ人の多いところでマルセイユ方面から流れ込む新参ユダヤ人が一時人夫をやったので

特にユーゴーの目に映じたのではあるまいか。

労働価値論

筆者が3年前,シェイクスピアのベニスの商人で有名なベニスのユダヤ窟の跡を訪ねたところ,

ちょうど,中心人物シャイロックのとでも見えるユダヤの老人が何もせずに立っているから,

この辺りにユダヤ寺院があるならちょっと見たいがと尋ねると,

そこにあるから開けてくると言って駆け出しまた小戻りをしたりまごついてから帰ってきて,

今日は鍵を持った人が留守のため開けられないというから,

致し方ないどうもご苦労と礼を述べて立ち去ろうとすると,

お客さま,私は御覧の通り,先から時間をつぶしたり(2分間で距離50メートルほど)歩行をしたから

何とかそのお手当てをと申し出した,

これがユダヤ人マルクスの労働価値説実見費と思って,約1円に当たる銀貨を1つ与えたら,

ありがたく引き下がった。

約束したことでないからやらなくてもよいのだが,先方では請求するだけは請求してみようと思ったらしい。

また筆者の友人が2年前,欧州から帰りがけ,

インド洋航行中はを悪くしたが,

船内には歯医者はいなかったが,

ちょうどドイツ方面からオーストラリアへ向け避難するユダヤ人数百名が同船しているから,

必ずその中に歯科医がいると見込みをつけて探すと,

幾人かいたので,その一人を船員が案内してきて歯を見てもらうと,

機械がないから船内では手当はできないが,

上陸したらこういう方法で治すとよろしいと進言してくれた。

これに対し誠にありがたいと口頭だけで謝辞を述べると,

ユダヤ歯科医は,ただいま申し上げた助言についてはこちらから格別に請求書は差し出しませんからと

謎のごときことを申し出たそうである。

大洋を航行する船舶の同船者の困っているのを見ただけで何ら手当をしたのではないが,

いやしくも身体を運んできたら何がしのことにもありつこうという思想が

単に拝金射利に基づくかあるいはタルムードにあるように他民族相手であるがゆえに取ろうとするのか,

いずれにしてもユダヤ人の思想は吾々と異なるものがあるから,

これを普通に考えると過誤を犯すことがあろう。

第6章 堅忍・勤勉の諸徳

苦難の中にその徳を発揮す

1800年以上も世界各国を放浪し,寄生し,迫害されていれば,

大概の民族ならば奇遇の国に同化され終わるであろう。

しかるに,いまなおユダヤ民族が大きな抱負を堅持しているのは,

前に宗教の部で述べた信仰心の固いのと,

これによって養われた民族意識が旺盛で,外部からの圧迫に対する反抗力が強いからである。

前掲タルムード宝典153頁に次の文句がある。

ユダヤ人がオリーブの実に例えられるのはなぜであるか,

オリーブは諦められなければ油を出さないと同じで,

ユダヤ人は苦難の中にその徳を発揮するからである。

東洋道徳の「艱難汝を玉にす」とを一にするのである。

そして,彼らは難行苦行でこれを実行しつつある。

それも幾世紀も住み慣れたところにおいてではなく,

武者修行的に世界各国を歩いて修練を重ねていく。

ゆえに,道楽息子の遊覧旅行ではない。

懐中には相当の金銭を所持していても,

ヨーロッパの相当のホテルに宿泊して,夕食の注文を取りにくるボーイに,

パンと塩ニシンと水とだけを臆面もなく言いつけるのが往々ある。

先年,英国の豪華船8万1千トンのクイーン・メリーで大西洋を渡ったとき,

受け持ちのボーイが尋ねもしないのに,しきりにユダヤ人のしみったれを訴えていたのもあるけれど,

ユダヤ人はそんなことには頓着なく,出す金は1文でも少なく主義を実行しかつ勤倹質素を断行しつつある。

〇(クイーン・メリー)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E5%AE%A2%E8%88%B9)

ユダヤ人の節酒

ユダヤ人は飲酒に対して格段の節制をしていることは感心である。

事実,あまりユダヤ人の泥酔者に出会ったことはない。

その原因を考えると,大要,左のごときものらしい。

神の選民という自覚から自重すること,

衛生上の顧慮から(前述タルムードの教訓参照)

常に門を出れば何らかの敵を有するとの緊張から(また秘密保持の必要もあろう)

時間,金銭の節約から

イスラエル・コーヘンはその著「近世ユダヤ生活」第120頁に次のように述べている。

ユダヤの食糧,衛生に関する規則が健康によろしいのであるが,

酒に沈溺することを差し控えることがまたこれを補って一層効果あらしめるのである。

ユダヤ人は安息日や祭礼の儀式に葡萄酒を用いまた祝宴に強い酒を飲むが,

その欲を内輪に制することを知っている。

これはではない実際である。

この点は日本民族も参考にすべきと思う。

時間の経済的使用

業務には勤勉である。

あるユダヤ人がロシア人の悠長で非事務的なことを笑っていわく,

要用を控えてロシア人を訪ねても,

先ず伝統のサモワールから紅茶を出して奨める,

〇(サモワール)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A2%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

よもやま話になる,

そのうちリキュールが出て饒舌が続く,

要談を持ちかけると,

明日にしようと延ばす,

翌日行くとまた同じことを繰り返す,

誠に始末の悪い人たちだとしている。

これに反し,ユダヤ人は最も勉強家で事務的で,

金を経済的に使うと同様に時間も経済的に使う。

彼らのことわざの中に,

子供や犬と遊ぶのは愚の骨頂で,なんの得るところのない時間つぶしである。

ここにも功利的思想がいているが,

事実,彼らは時間を惜しんで勉強するのである。

先年,ニューヨークで邦人実業家連の語るところを聞くと,

とてもユダヤ人の真似はできない,

彼らは朝5時から起きて働く,

また得意先回りをするにも,甲乙丙丁などをこちらの道順などで簡単に独り決めにして行っても,

待たさせられれば,

時間が惜しいからと言って,克明に先方の都合を調べておいて甲丙丁乙などの順序に回るのだから,

彼らには太刀打ちはできんとのことであった。

これには筆者は異議を申し立て,

ユダヤ人が5時に起きるなら日本人は4時に起きてもよいはずだ,

ひっきょう,お互いがまだ非常時意識や,民族使命の認識が不足してはいないか,

ユダヤ人と軽蔑して桃源の夢をむさぼりつつある他民族の真似をしている場合ではあるまいと警告してきた。

日本の某有力政界人で,かつて,

ユダヤ人など若い時からよく交際して知っているが,とても個人主義利己主義で到底,団結などのできるものではない,

あまり取り越し苦労をせんがよいと語った人がある。

なるほど,当面の利害問題などでは激しい争いもある,

かつて,ハルビンのユダヤ協会内で椅子の飛んだような激しい論争もあったが,

それは内々のことで,一度外部に向かうと固い結束をするのである。

数10年前と今とでは彼らの境遇が非常に変わっていて,

結束はますます固くなる,

ヒットラーの出現などはその最も有用な凝固剤である。

世には,ユダヤ民族内の人種的別派たるスファラディとアシュケナージとの対立を重視してその利用に着眼する向きもあるが,

これはユダヤの鎖で確かと結ばれている英米2国を分離して扱うとするのよりも一層危いことであろう

(スファラディ・アシュケナージについては第2編第2章言語の部参照)。

ユダヤ人の仕事は往々の河原となる

なお,本章ユダヤ人の七転び八起き式の堅忍性を終わるにあたり,

先年,ジュネーブにおいて,英国空軍代表だったT氏のユダヤ人観を掲げれば,

ユダヤ人は才子で進取的で,ある程度の成功を収めるが,

どこかに道に合わない点があるため,

本当の成功を完成する前に必ず失敗をするのを常とする,

この国際連盟もユダヤ人が一生懸命やっているが,本当には成功すまい。

と予告した。

ちょうど13年を経て再びジュネーブを訪れると,

日本・ドイツ・イタリアは連盟を離脱してしまい,

何ら世界の政治外交を指導する力なく,欧州の紛争は連盟外のミュンヘン会議で一時的にも解決し,

連盟の新築建物は今後の用途を考究される有様になったので,

今はしたT氏の先見を回囘想して万感のひしひしと胸を圧するのを覚えた。

〇(ミュンヘン会議)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AB%87

このような賽の河原式努力は,後章ユダヤのインターナショナルの運動をみる上にも大いに参考となるのである。

去るにてもの精神には敬意を表するため,熊沢蕃山先生の古歌を挙げることとする。

憂きことの尚ほこの上につもれかし

限りある身の力ためさむ

〇(熊沢蕃山)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1

第7章 陰性的,復讐的

ユダヤ民族のシンボルは蛇

発生当初からの歴史,環境を熟視してみると,

ユダヤの思想が陰性的になるのはよく理解しえられる。

また既述のように,暦には,陰暦を用いており,民族のシンボルは蛇である。

星もよく用いられる。

耳語多し

皇国のように日輪をシンボルとし,

清明心を精神教育の根底とする国においてすら,

は数年間で性質が歪む場合が多い。

まして心柄とはいえ,別個の人種を形作り,数千年にわたり,至るところ,他民族扱いを受けてきているから,

少々思想がねじれるのもやむを得ないかもしれない。

そして,とかく,秘密が多くなってくる,

が多い。

国際連盟の廊下でユダヤ人の軍縮部長マダリアガ氏が背の高い同民族事務総長エリック・ドラモンド氏を呼び止め,

伸び上がって口を耳もとに寄せ,

何事かささやき続ける格好は,今なお,眼前に彷彿としているが,

ニューヨークの東部のユダヤ人居住区域やパリの真ん中にあるルユー・ド・ロジェというユダヤ人街を通り抜けても,

よく1組や2組の耳語者を発見する(巻頭口絵参照)。

〇(マダリアガ)

https://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_de_Madariaga

〇(エリック・ドラモンド)

https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Drummond,_7th_Earl_of_Perth

これは彼らの長い年代の間の習いがとなったものであろう。

ユダヤ人には,耳たぶが外へ上へ,著しく開いているのがたくさんいる。

これも外を歩くとき身に振りかかる災厄の前兆になる声や音響を聞き漏らすまいとする努力から,

いわゆる聞き耳を立てる力が自然と外貌にまで変化を及ぼしたと論ずる人まであるのは誠に憐れむべきである。

門柱の守礼

チェコスロバキアの首都プラハのユダヤ人街で,住宅の入り口の柱にお札入れの筒が斜めに取り付けてあるので,

その由来を尋ねると,門を出れば7人の敵ありと,日本ではいわれた時代もあるように,

ユダヤ人は足一度戸外に踏み出すといかなる目にあい,再び敷居はまたげないかも知れないので,

出がけには,そのお守りに接吻して御守護を頼み,帰宅の際には,無事に帰れたお礼の接吻をするのである

ということを聞いて,そぞろに哀れを催した。

さるにても,他民族と雑婚せずしてユダヤ教を守り通すところの民族精神は尋常一様ならざるものがある。

ユダヤ人と神経病

右のような不安焦燥がつきまとうためでもあろう,神経の過労を来すのが免れ難い。

ユダヤ人イスラエル・コーヘンの著「近世ユダヤ生活」の127頁に,

ユダヤ人にはヒステリーその他神経系統の病症が多く,

その率は諸大家の説を参照するに,他民族の4,5倍に当たると書いてある。

先年,来日して日ロ通商条約の締結を試みたソ連大臣ヨッフェというユダヤ人も,

事志と違い晩年は神経衰弱となり,ついに自殺を遂げたなどは多数の中の一例である。

〇(ヨッフェ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7

キリストはユダヤの復讐を戒める

犯罪としては,をもって他人を殴打したというような身体に関するものよりは,

むしろ,財産に関する詐欺的なものがはるかに多い

(イスラエル・コーヘン著「近世ユダヤ生活」94頁参照)

しかし復讐の意味をもってする暗殺行為は古来すこぶる多く,

旧約時代前述ユダヤ婦人エステル皇后のときにも,数万に上る多量の他民族虐殺をやらしたことは

彼らの聖書に誇りが明記してある(エステル書第9章)

〇(エステル皇后)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB_(%E8%81%96%E6%9B%B8)

また宗教の部においてすでに挙げたように,

ユダヤ人シュワルツバルトのペトリューラ暗殺,同グリンスパンのドイツ大使館書記官暗殺のように多々あるのである。

復讐精神はユダヤ人の最も堅持する精神であるが,

自己の力で堂々と遂行しえないときは他人を使い,

また暗殺のような手段に出るし,毒殺をも敢行するといわれるが,

これは緻密な計画を用いると,証拠は隠滅されて,いつも推測の域を出でえないのである。

ユダヤ人があまりに復讐精神に燃えるのを憂いて,

キリストが,"仇をすは我にあり"と述べてユダヤ人を戒めたのであるが,

キリストを十字架にかけたユダヤ人は,今日なお,盛んに復讐熱を煽っている。

潜水艦式努力

第1次世界大戦は終わり,

国際連盟はでき,大体,ユダヤ人は彼らの時代はきたと考えたので,少し有頂天になった。

アルバート・コーエンという文士のごときは,

"ユダヤの発言"と題する一書を公にし,

その初めの数頁において左の意味のことを書いている。

〇(アルバート・コーエン)

https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Cohen

今日までキリスト教徒諸君は,散々,我々を迫害しておきながら,

今ごろになって我々に同情を寄せるなどとは押しが強い,

我々は今からただ復讐あるのみ!

(また後章の運動の部に説くように,現在の欧州戦争の真因には,ヒットラーに対するユダヤの復讐ということが大きな部分を占めているのである。)

右コーヘンのように,露骨に,ユダヤ人が台頭してきたため,

これに対して,反ユダヤ熱もまた各国に盛んになってきた。

そこで,ユダヤはまた鳴りを静め,潜り始めた。

今よりちょうど20年前にハルビンのユダヤ寺院の1つで,復活祭のあった時,

東洋で有力なレービンというが演説するというので,

ユダヤ人から案内さて,その演説を聞いてみると,

大要,左のごとき骨子であった。

キリスト教の復活祭と吾らの復活祭とは暦日においてはわずかに1日の違いであるが,

その意義においては大きな違いがある。

すなわち,キリスト教のほうは,単に1個の,イエスキリストが磔になって,

3日目に蘇生して天に上ったという一人の話であるが,

ユダヤ教の復活祭は,ユダヤ民族全部が滅ぼされて終わって,

またそれが立派に復活するという,

全民族の大問題なのだ。

しかるに,いくら,これを説いても,

吾々の同族中の気の弱いものは,

それは空疎な理想に過ぎない。

吾々は,今日,少数民族として,各国の強大な民族の中に寄生的生活をしているので,

到底,さような大復活などできるものではないとあきらめてしまう。

さような信仰の薄い気の弱い人々は,須く

先般の世界大戦中に,大きな船が小さい船に撃沈されたのは,いかにしてやられたかを考えてみるがよろしい。

もし小さい船が水面を走って敵の大きな船に近づこうとすれば,

攻撃のできない遠いところで大鑑の巨砲で沈められてしまうのだ,

そこで,小さい船は,水面下に潜水して,敵の気づかない間に接近して,

命中確実のところから,水雷攻撃をやったので成功したのである。

ゆえに,吾々民族の運動は,まさにこの潜水艦式の努力をなすべきである云々。

かくて,前記コーヘンのような露骨な他民族攻撃に堅く釘を打った。

ちょうどそのころ,また,ユダヤ人クリオリンのやっていたノーヴォスチ・ジーズニという社会主義新聞にも,

クリオリン自ら執筆した「ヨリサカ公爵」というのを載せて,

日本がばかげた顔をして剣を抜いて外のほうばかりにらんでいると,

敵の放った水雷がいつしか自分の艦の竜骨に近づいているのだと揶揄し,

特に朱線をつけて,クリオリンから,筆者に送ってきたことがある。

彼らが潜水艦式の努力をするのは,至当な戦術で,

すでにすでに皇国に向けても,ずっと前から,クリオリンの言う通りやっているのである。

前に説いた河合栄治郎博士の国家主義攻撃などは事実においてその一例である。

しかるに,皇国の有力な指導階級の人で,敵ということが判然として駕洛対策を講じても遅くないと

うそぶいている人があるが,

これは国を誤まると思う。

第8章 ユダヤ運動の戦術について

他民族第一線主義

前章においてユダヤ思想の陰性を叙するにあたり,

すでに潜水艦式戦術をとることを詳述した。

これを具体的に言明する一方式に,「ジェンタイル・フロント」と呼ぶものがある。

すなわち「他民族第一線主義」である。

ユダヤ人自ら陣頭に立つときは,

終局の目的がユダヤ人のためであることが見え透くので必ず失敗するから,

他民族を第一線に立たせ,

ユダヤ人自らは後方から指令を発し,

糸を引き,鞭撻激励を与えるのである。

例えば前すでに述べた河合博士の場合は

指令受けたか否かは別問題として出来上がりはああいうふうになっている。

知らない人にはユダヤとは無関係にもああした学説が成立するという感じを与えて

とうとうとして各国の青年知識階級,労働者をユダヤ陣営に引き入れようとする運動である。

ユダヤ人は両陣に立つ

も一つの戦術は,彼らは両陣営に立つ戦術である。

これはユダヤ運動理解のために極めて必要なる予備知識で,

これを知らないと,ユダヤ問題の研究は迷路に入るのである。

筆者は年来この戦術を称して釘抜戦術と名づけている。

すなわち,釘を抜くには一方の部分では目的を達せられない。

必ず釘抜きには,釘を挟む双方の部分がいるのである。

一国を疲弊せしめるのに右翼ばかりからでは難しいから,

左翼にも言うことを聞く分子を入れ,

右翼すなわち財閥方面にも言うことを聞くものを置き,

その対立抗争を起こさせて思うように指導することは,

在来各所でやってきたところである。

釘抜戦術

しかし,このことはなかなか正直な日本人には分かりにくい。

例えば,筆者がかつて同志社大学で講演したとき,

時の総長が後から質問して,

ユダヤ財閥と共産主義運動者とが裏面で一致しているというのは,いかにもうがちすぎた話ではないか,

多数のユダヤ人の中には金儲け主義のものもあろうし,また共産主義を是とするものもあろうが,

これは各々の思想により自由に是とするところに向かうのではないか,

あたかも,本学に,赤化学生を出して申し訳がないが,その代わり将軍のような堅い国家主義者もある,

しかし,同じ日本人だからとて,

将軍と本学から出た赤化学生との間に何らの関係もないと同じことではなかろうかといわれた。

これには適確の証拠があって,

ユダヤ財閥が赤化運動資金を出したり,

左右両方を統括する秘密結社フリーメイソンの働きを熟知することを要するので,

以下具体的なことは,章を追ってこれを叙述して右の疑いを解くことにする。

ただ,ここには,「ロシア革命」の著者ユダヤ人ミールスキーがその著書中に,

『ユダヤ人は両陣に立つ』

と明白に告白したことだけを述べておく。

次章において,潜水艦戦術,他民族第一線主義戦術,釘抜戦術の機関たる秘密結社フリーメイソンのことを叙述する。

第4編 秘密結社フリーメイソンリー

第1章 総説

日本知識階級に見る無認識

フリーメイソン結社は必ずしもユダヤ人のものではないと主張し,これをユダヤ運動に入れて説くのに賛成しない識者もあるが,

筆者は,これをユダヤ運動の重要なものと確信するから,本書の中に収めたのである。

しかしてこれを詳説するとなると,これだけで優に1巻をなすのであるが,

本書全体の紙数の関係で,これを1編にまとめて取り扱うことにしたのである。

フリーメイソン(Freemason)と英語でその結社員を指すのであって,

本当はフリーメイソンリー(Freemasonry)というのが結社を指すのである。

しかし世間において一般に結社のことをフリーメイソンと呼ぶ場合もあるし,長いから,

本書では,一々フリーメイソンリーと書かずに,フリーメイソンと略記するから,これをお断りしておく。

フランス語では結社のことはフランマッソンヌリー(Franc-maçonnerie),又は略して,マッソンヌリー(Maçonnerie)と呼び,

結社員のことをフランマッソン(Franc-maçon),又は略して,マッソン(Maçon)と呼ぶのである。

ドイツ語では結社のことをフライマウエライ(Freimaurerei)と呼び,結社員のことをフライマウアー(Freimaurer)と呼ぶ。

ロシア語では結社のことをマッソンストウォ(Масонство)と呼び,結社員のことをマッソン(Масон)と呼ぶ。

それであるから,フリーメイソンのことをマッソンといっても差し支えないのである。

魔孫という当て字をした友人があったが,甚だ面白いことである。

然るに,故吉野作造博士(1878-1933)は大正9年(1920年)6月の中央公論(1887-)に一文を寄せ,

英独の読み方だけを挙げ,英語では形容詞にマッソニックということはあるが,

どうもじって読んでもマッソンという音は出ない。

これを見ても,マッソン結社など騒ぎ立てるのは無学の軍閥者流の言うことに過ぎないという意味のことを書いて,

世間を煙に巻いて,

日本人の注意をそらしてしまった。

あの当時から,真面目な学者が本当にこの問題を研究して我々に協力し,流行雑誌が我々の命がけの研究を発表して,

警世救国に努めたならば,

皇国の状態は内治・外交・軍事・経済・教育の各方面にわたりて,

今日とは雲泥の差ある大躍進が遂げられていたことと考え残念に堪えない。

以上のような新人的学者の煙幕展張のおかげで,

今もって皇国の指導者階級で,フリーメイソンの存在すら知らない人がいる。

つい2~3年前,中央政府の指導者が四国に行った時,

教育家から,フリーメイソンの思想撹乱について質問せられたのに対し,

フリーメイソンというものがあるとかいうような話は聞いたこともあるが,

まぁ,外部からの独断的な妄想に過ぎまいと答えたそうで,

誠に寒心に堪えない。

フリーメイソンの存在だけは知ってはいるが,故吉野博士はこれを秘密結社でないと曲筆している。

外国の辞書でも立派に秘密結社と書いているし,

現に東京・横浜などで会合の時,食事はともかく,本当の儀式や議事には張り番をして,誰も入れないのである。

調査の困難

この如き秘密結社のことであるから,その調査はすこぶる困難であるが,

20年にわたり苦心し,単に外国からの情報や,浩澣(こうかん)な数十冊の書物を読破したばかりでなく,

海外では危険を冒して調査した結果から記述するのであって,

決して単なる外部の憶測ではないことを明らかにしておく。

第1節 起源の諸説

■石工の組合(オペラティブ)

幾多のフリーメイソンに関する文献を渉猟すると,

起源についての諸説は粉々として,帰着するところを知らず,少なくも1ダースを数え得る。

これを一々研究することは本書の目的でないから,

単に余程古いもので,

エジプトのピラミッドや,ユダヤ国のソロモン王宮(ソロモン神殿とは別の物)の建築の当時にまで遡り関係がある,という説だけを挙げておく。

間違いないとせられているのは,元々石屋(又は石工)の組合から発達したことである。

西洋で市街の真ん中に,先の尖つが(とがったのが(?))ゴシックの高い大寺院などを建築するときには,

余程技術の優れた職人で,しかも道徳堅固な人でないと安心して工事を任せられない。

技工を誤ったり,私利のために手抜きしたり,悪い材料を使われたりすると,とんだ災害を起こす場合がある。

そこで職人は厳選してみると国内からだけでは不足で,到底,一定の期限内に完成できない。

終に外国から優秀な職人を呼んで,手伝ってもらうことになる。

この如き客分的職人を迎えるのに国境でやかましい手続をしたり,関税を課したりするのは宜しくないので,

国境通過も自由にするし,国内の起居も楽に自由にする。

そこで自由石屋というのが,フリー・メイソンの起こりであるとされている。

故に今日でも服装や標章には,石屋の道具がたくさん使われている。

この如く国境を越えて人類が行き来をし,兄弟分として同じ目的に向かって働くということは善いことであると言うので,

石屋以外の問題にもこれを拡充していく傾向が14世紀頃から顕著になり,

フリーメイソンという名目で,

宗教その他の国際的親善工作や,

石屋が1つの粗石を受け取ってこれを完成するように,宇宙の一員として互いに琢磨して人格を完成するというような運動が,

ボツボツ台頭してきた

(こんな話だけを聞き知ってか,日本の或る元大臣が,

フリーメイソンとは人類の最高道徳を磨くところの国際親善機関である,

それを陰謀でもやる組織と思うのはたいへんな誤解である,

と人に語ったそうであるが,危ういことである)

思索的メイソン

これをハッキリ組織立てたのが,1717年英国スコットランドにおいてである。

(ここは,原著者の誤認識。

1717年6月24日,イングランド及びウェールズのフリーメイソン組織として,Premier Grand Lodge of Englandが創設。)

これ以前のメイソンを実行的[オペラティブ]メイソンと呼び,

これより

以後のものを思索的[スペキュラティブ]メイソンと呼ぶのである。

ここで英国がフリーメイソン組織の本家本元であることを明らかに認識し,

特に組織の場所からして,スコッチ派という名称まで広がっていったことを注意すべきである。

(ここも,原著者の誤認識。

Scots Master (又はScottish Master(?))といったメイソンが,18世紀前半から存在していたようである。

本格的なスコットランド儀礼メイソンの成立は,1801年,米国サウスカロライナ州での最高評議会の創設による(?)。)

第2節 フリーメイソンの諸相

秘密陰謀より秘密友愛に変わったと号す

フリーメイソン秘密結社であるから,滅多な人は入会させないのが当然である。

秘密結社にしておくわけは,次のように弁解的に書いている

(上海より入手のメイソン秘密文献による)

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フリーメイソンとは,神の大知恵と,永劫の経験から出発した最高道徳の組織立てられたもので,

外部からの攻撃と内部からの崩壊を免れるために,

俗人に分からない寓話でヴェールを被せ,象徴[シンボル]で説明しているのである。

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貴族院議員○氏が先年,米国に渡ったとき,フリーメイソンと話したらば,

フリーメイソン結社は前には,秘密陰謀[シークレット・コンスピラシー]をやっていたが,

今では,秘密友愛[シークレット・フラターナティ]をやっているのである,と述べたそうであって,

どこまでも秘密である。

友愛をやるのに秘密は要りそうもない(友愛は,仲間同士の依怙贔屓だから,秘密にする必要があるのでは(?))

前述ヴェールの弁解だけでは,納得できるものでない。

いわんや後章にだんだん述べる事実が現れると,今なお秘密陰謀もやるものと見られるのである。

■入会試験難関

入会に会員の紹介者が要るのもちろんだが,

候補者の選考がなかなか厳選的であるばかりでなく,採用試験もなかなかうるさいようである。

試験管の必ず出す問題も決まっているが,ここには省略する。

それから地下室の薄暗い道にところどころ人間の骸骨が転がしてあって,

そこで目隠しを取って案内者がこれを見させ,

裏切りでもすれば秘密に片付けて,こんなに行方不明にされるぞということを示唆する。

そのうち目隠しのまま深い井戸に釣り下げられて,奈落の底へ落ちたか,又はそのまま生き埋めになるかのような不安を与えたり,

また目隠しで引き回す間に,耳の近くで突然拳銃の空砲を発射して飛び上がらせたり,

目隠しを取ると,八方からギラリと白刃で取り囲んで迫ってみたり,

種々様々な度胸試しをした挙げ句,思案室というのに入れ,

そんな目に遭ってもどこまでも入会したいか,それとも願い下げにしたければここから引き下がれ,

篤と思案せよという文書が掲げてあって,選択の自由を与え,

かくて入会することになれば,

それ以前の生命は最早穴の底で失ったか,弾丸か刃で宙に飛んでしまったことに考え,

その以後の生命は全く新しい更生したフリーメイソン人,すなわち国際人になることを覚悟させられる

入会ではなくて,上級会員に進級する場合の試験というか手続というか分からんが,

棟梁株のものが,進級候補者の眉間才槌(さいづち-)で3度叩いて殺したことにし,

又は絞殺台があって,これにつるす形式をやり,

式場には棺桶があって30分間ほど,これに入れて葬ったかたちを取り,

それから蘇生して上級会員に進むことになる

(フリーメイソン文献多数,並びに,フリーメイソン禁止後解放せるドイツの一メイソン結社における元結社員たりし大学教授の説明による)

■フリーメイソンの階級

フリーメイソン平等など唱えるが,自らは多数の階級をからなっている。

初めの間は,

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見習工(Entered Apprentice)

職工(Fellow Craft)

職長(Master Mason) 

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の3種だけであったが,

その後,十字軍騎士の名前や貴族的な称号などを加えて,今では33階級になっている

(33階級は,スコットランジ儀礼メイソンのこと)

前述の如く進級にも面倒な手続があり,いったん死んで出直させるぐらいであるから,

下の階級の者には,上の階級のことは分からなくしてあり,

最高級からの命令には絶対服従をしなければならぬ。

この点は,共産党など全く同様であると伝えられる。

仮に一国の外務大臣でフリーメイソンに加盟している者が過去にあったと想像すると,

フリーメイソンの世界政策の上からはその国にはどうしてもこれこれの役割を果たさせなければならず,

その軍備はこれこれ以上にさせては困ると決定した場合には,

その大臣たるもの,フリーメイソンの立場からは,

是が非でも,世界の親方株の合議決定したものに従わなければならず

他方,その国の政府の一員であり元首の臣下であるから,その命に従わなければならず,

政府や軍令部などが思うようにならなくなると,その大臣は,心は2つに身は1つとなり,

そこで唯一の方途は,

フリーメイソンに泣きを入れて,国内事情が許さないから歩み寄れと訴え,

政府に対しては,海外の世論が悪化して困る,この会議が決裂すると責任は我が邦一つに被らせられるというようなことで,政府をなだめ説得して,

妥協・譲歩の退嬰(たいえい)外交に落ち着くことになるわけである。

フリーメイソンの象徴は多々あるが,

極めてありふれて基本的なものは,左の如くコンパスと定規の組み合わせである。

線画 が含まれている画像

自動的に生成された説明

この定紋がついている建物は,フリーメイソンの集会所か何かであると断定して間違いはない。

時計の鎖に付けるメタルにも左様なのがある。

ただし日本で作って売っている象眼入れのものは,ちょっと見ると何か分からんが,

回転を与えると,コンパスと定規とその中のGの字が浮かび出るように巧みに出来ている。

コンパスは,宇宙の如く円満を示し,定規は行為の正しいことを示すのである。

フリーメイソンが前世紀(19世紀)の中頃,英国から支那に入ってきたとき(入るの自体は,日本よりも支那のほうが少し早い?)

支那では,何と名づけようかと苦しんだ模様が,記録に残っている。

支那人は名を重んじるから,自由石工組合では,上流者を引き入れるのに困る,

そこで考えたのは,昔,孟子(BC372頃-BC289頃。中国戦国時代の,本名を孟軻という人物)規矩準縄と言ったこともあり,

孔子(BC552頃-BC479) が矩をこえずと言ったこともあるから,

規矩党又は規矩会と名づけるがよいと決した,と記録されたものを見たが,

近頃フリーメイソンのことを知っているはずの支那有識者2名に尋ねると,

今では別の名が出来たようだと濁しているから,暫く疑いを存する。

三点兄弟

フリーメイソンには,俗人にちょっと分からないように,略号を用いることがすこぶる多い。

そのうち最も多く用いられるのは,

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F∴M∴

F∴F∴

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などで,上のはフリーメイソン,下のはフリーメイソン兄弟たちというのである。

よく三点を用いるので,ヨーロッパではフリーメイソンのことを「三点兄弟」という人もいる。

なぜ三点を用いるかというと,弁証法の

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   シンテーゼ(合)

テーゼ(正)   アンチテーゼ(反)

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を意味する(初級フリーメイソン教科書(引用書目にあるLe livre de l'Apprentiのこと?)第169頁)

フリーメイソン同志は,善人の集まりで兄弟であると彼らは主張するのである。

フリーメイソンは元々秘密結社であるから,何もかも秘密にするのが当然である。

しかしこの頃は隠し切れなくなって,或る程度暴露をする。

米国の最上級結社員パイク氏(1809-1891)がかつて,

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フリーメイソンは,エジプトのスフィンクスのようなものであって,砂に埋もれていたが,

今日はだんだん砂が去って,全貌が現れかかった。

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という意味の告白をした。

実際において数年前,英国のタイムズ週刊版には,フリーメイソン病院の定礎式を行ったとき,

エドワード8世(1894-1972,在位: 1936/1/20-1936/12/11。ウォリス・シンプソン(1896-1986)との「王冠を賭けた恋」で英米を騒がせた英国王)や,コンノート大公(1850-1942)らがメイソンの制服を着用してこれに臨席した写真を掲載した。

また皇紀2582年(1922年)頃,米国では首都でフリーメイソン大会があり,

大統領以下,顕官がやはりメイソンの制服で行列に加わっている写真を見た

(東京の大震火災(関東大震災(1923/9/1)での火災(?))の際,消失せるを遺憾とす)

ただしこれらは後章に述べる如く,

フリーメイソンは秘密結社とは申しながら,何ら陰謀などやるのでなく,合法的な修養機関で,

現に国家の元首さえ加盟しているとの感覚を起こさせ,

愛国団体などを憤慨させないための巧みなる戦術とも見えるのである。

原則としては,フリーメイソンに加盟していても,決してこれを告白しないのである。

遠来のメイソン兄弟を集会に参加させる時,座長との間に交わす問答も規定されている。

これを見ると,座長が君はフリーメイソンかと尋ねると,決して,ハイ左様でありますと答えてはならぬ。

既に本国の結社から訪問の通知も来ており,必要な身分証明をもっているに拘わらず,

そういう質問をする形式になっている。

すると,遠来のメイソンは,「人々は私をそのように申します」と言って,

自分の口が腐っても,間違っても,メイソンだと言うなという習慣を与えるための問答と思われる。

フリーメイソン法廷にても告白せず

また第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)の直接の原因をなしたオーストリア皇太子暗殺(1914/6/28)を敢行した犯人でフリーメイソン結社員たる

カブリノウィツ(1895/1/20-1916/1/21プリンツィプ(1894/7/25-1918/4/28)らは,

法廷においてフリーメイソンかと尋問されても,

なぜそれを尋ねるか,自分はそれについては答えることはできぬと抗弁し,

答えなければ肯定するとたたみかけられると,

沈黙して肯定に任せるというやり方であって,

決して,自らフリーメイソンですとは言わなかった

(このことは,後章第1次世界大戦の初めの部分に,セルビアの裁判記録の一部を掲載しておくから,

これについてなお彼らの秘密厳守を承知せられたい)

日本の学者や政治家に,フリーメイソンかも知れんと思われる人がないでもないが,

決して法廷でも自白はしないのだから,

軽々に誰がメイソンだろうと言われない。

(私はメイソン化公人について,これとは異なる意見を有している。

なぜなら,それらの日本国公人は実質的に外国勢となって,国防・安全保障上の脅威をもたらすからである。)

第3節 標語と進み方とその批判

英国系の標語   大陸系は自由,平等,友愛

英国で組織化されたフリーメイソンは間もなく,ヨーロッパ大陸に輸入された。

逆輸入といっても間違いではないかも知れぬ。

何となれば,大陸における宗教上の異端者が英国に渡って,フリーメイソンの基礎を作った,

との説も真実らしいからである。

英国系の結社はその標語を,

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兄弟愛(ブラザーリー・ラブ)

救助(慈善)(リリーフ)

真理(トゥルース)

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とし,その進み方は漸進主義を取っているが,

大陸系の結社はその標語を,

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自由

平等

友愛

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とし,その進みは急進主義・革命主義を取るのである。

英国系のほうは時局上,取り立てて論ずるほどのこともないが,

大陸系のほうのは,今日でもこの思想を陰に陽に日本でも説く者があるから,

簡明にこれを批判しておくのは無益でないと思う。

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自由の定義   マルクスはメイソン

自由について,フリーメイソンがいかに定義しているかを,

彼らの最下級者用の教科書を入手して調べてみると,

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「真の自由は不道徳と,情欲と,宗教的迷信とから解脱した人に属する」

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とある。

この初めの不道徳と情欲とから解脱した人が自由だということは同感である。

仏教にも「煩悩を断じて涅槃(ねはん)を得る」とある。

しかし宗教的迷信を解脱した人とは,何を指すのか検討を要する。

カール・マルクス(1818-1883)こと本名モルデカイと呼ぶユダヤ人は,『ヘーゲル法律哲学批判』(1843)の中に,

「宗教は民衆のあへんである」という文字を書き,

宗教を迷信と結び付けてしまった。

彼は大陸フリーメイソンの結社員で,「民権派[ドロア・デ・ゾムム]」と名づける組合に属していた(?)

彼が前世紀の中頃,ヨーロッパを革命で荒らした頃の一方の旗頭は,

フランス生まれのユダヤ人の弁護士クレミュー(Adolphe Crémieux,1796-1880)という男で,

それが大陸フリーメイソンの本山グラントリアン(大東社)(1773-)の首領で,

1860年,全世界ユダヤ同盟(全世界イスラエル人同盟)を設立して,その協会長になった。

クレミューまでは,大陸フリーメイソンの信条には神という字は用いないが,これに匹敵する「宇宙の大建築者」という字を英国のフリーメイソン並みに用いていた。

英国のほうは,

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T∴T∴G∴O∴G∴A∴O∴U∴

(To the glory of great architect of universeの略字)

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をいろいろな書類に書いている。

仏国のほうはこれに相当する

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A∴L∴G∴D∴G∴A∴D∴L∴U∴

(À la gloire du grand architecte de l'univers)

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を用いていた。

彼らが神という字を避けるのは,いかなる宗教のものでも包容する用意で,

如来でもでも何でも信仰の本尊さえ持っているものなら,差し支えないとするためであったらしい。

然るにクレミューが登場してくると,「宇宙の大建築者」を現わす最後の5字を取り払って,

これに代えるに,「人道[ヒュマニテ]」を現わす「L'∴H∴」をもってするに至った。

すなわち無神無霊魂・無宗教の人でも,フリーメイソンに入会できるようになった。

それ以来(1860年前後以降-),英国派のフリーメイソンは大陸のメイソンを兄弟と認めることはできないと言い出し,

今世紀にまで及んだ。

恐らく中江兆民(1847-1901)などは,クレミュー出現後のフランスの唯物論・無霊魂説などを頭に詰め込んで帰朝し,

これが幸徳秋水一派(1871-1911)にも伝わって,

明治の末期に,とんでもない大逆を考えることになったのであろう。

然るに拘わらず,無研究の結果とはいえ,フリーメイソンというものの存在すら知らずに思想を指導せんとするのは大胆過ぎるのである。

ただし繰り返し述べるが,英国流は神を認めるのであって,

むしろ聖公会その他キリスト新教すなわちプロテスタントに多数のフリーメイソンがいることを指摘する。

■自由と統制,自由と鍛錬

一般のフランス人らは自由ということについて,右のマッソン結社の定義と違うことを述べているが,

最も教養の少ない連中に言わせると,

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「自由とは,全て己のなさんと欲するところをなすことができることだ」

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と定義する。

これならば自由すなわち放縦になる。

先年,日本に幸徳などの流れをくんだ無政府主義的理想団というのがあり,

その憲法第13条? に次のような文句があった。

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「我らはいかなる時と,いかなる場所とを問わず,生理衛生上,自然に発する行為は何ら抑制の必要を認めず,

例えば,あくび・伸び・放屁・放尿等々」

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これまで自由を拡張してくると,人類と獣類との差がなくなって,

これで初めて,ユダヤ人がタルムードの中にユダヤ人以外の人間を獣類扱いにする文句を載せているのが,

ピタリと実現するのである。

礼を軽んずれば,人の人たる所以なくなるのである。

十数年前,モルデカイズム(近年,ドイツでは,マルクスの本名によってかく名づく)が日本で盛んであった頃,

九州の某簡閲点呼場に現れた補充兵で,労働総同盟の役員だった男が,

その所持した奉公袋を点検され,内容品の不足をやかましく指摘されたのに憤慨して,

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「私は自由を拘束されることを嫌う者ですから,左様に厳格に言われるなら帰ります」

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と言って,奉公袋を放擲して帰ろうとした。

幸いにこんなのは寥々(りょうりょう)たるものであるから,

国軍の価値は依然として輝きつつあるが,

もしフリーメイソンの放つ自由思想が労働運動などを通じて,も少し深く広く伝播したならば,

国家の前途は累卵の危うきになるところであった。

今のは最も低級な自由の主張であるが,

それより少し高級な人間に聞くと,

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「全て禁ぜられないことは何でも行うのが自由である」

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と答えるのであった。

これは前のよりは宜しいが,これもまた,大なる危険を包蔵している。

すなわち己の知恵と努力でカネを造るならば,法律に禁じたことでなければ,

いかなる方法を用いようとも,

またその儲けたカネをいかなることに使うとも,

それは己の自由であるという輩は,この組に入るので,

これは相当に社会に害毒を及ぼすのである。

それよりも一層高級のになると,

-----

「全て許されたることをなし得るのが自由である」

-----

とするもので,

これを物に例えてみれば,

放縦すなわち自由は,人の畑でも屋敷でも構わず通行するのであり,

次の禁ぜられざる云々のは,制札さえなければ,どこでも通ろうとするものであり,

この許されたる云々は,天下の公道だけ通ろうとするのである。

しかし天下の公道も文明社会において交通量が今日のように増加し,速度も大きくなると,

公道のどの部分を通ってもよいとは申せなくなった。

すなわち自分の自由もあるが,他人の自由もある。

そこで衝突・擦れ合いも起こるから,

公道の中にも更に道路の通過法というものが定められ,

道路が交差でもしていれば,ゴー・ストップの信号まで設けて整理しなければならぬ場合も起こる。

これはちょっと考えると自由の拘束のようであるが,

結局,自他ともに安全に通れ,

また全体から見れば,先を争って詰まってしまうよりは,かえって交通の能率がよくなることである。

すなわち統制が能率を上げ,全体の自由が大きくなる。

個人だけにいえば,何らの統制なく自分だけ思うように通過すれば愉快であろうけれども,

他人の自由を考えれば,そうは行かぬ。

道路通行の例は他の一般の事柄にも適用できるのである。

物資不足を見越して買占めをやれば,自分だけは宜しかろうけれども,全般はますます不足を来すのである。

かく論じてくると,自由の絶頂は,やはり道徳的自由になり,

自制・他制すなわち統制を伴うことになる。

この統制のことについてミルは,その自由論において,

「自由は主人公で,統制はその相談役・助言者である」ということを書いているが,

その通りで,統制が本位ではない,全体の自由を得んがために統制をするのであるから,

統制は必要な限度にのみ行うべきである。

道路通行の例についてみても,深夜や夜明け前で,誰も通行者がまだないのに,

停車信号などを働かして整理するようなことをやれば,

徒らに交通能率を低下するだけであって何の益もない。

先年,日本の教育界にも自由教育というのが流行して,悪思想の温床となった。

ひっきょう,鍛錬が足りないことが原因である。

麦にしても,風当たりのない庭の隅などに時節外れにまきっぱなしで,ぬくぬくと育ったものなどは,

のんびり,丈ばかり伸びるであろうけれども,

ちょっと強い風にでも当たれば,たちまち中途から折れてしまい,第一,実をろくに結ばない。

然るに,まくべき時にまき,雪を被って圧迫され又は百姓の麦踏みを受けて鍛えられたのは,

根の分げつ(ぶんげつ)も盛んになり,立派な実を結ぶのである。

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雪に耐え嵐に耐えて後にこそ

   松の位も高く見えけれ

(雪に耐え 嵐に耐えし後にこそ 松の位も高く見えけれ   明治天皇御製)

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という御製に拝する如く,

人もまた鍛錬を経て,寒暑風雪に耐えて初めて,役に立つ人になる。

■自由主義

自由主義者は,我々は無主義の主義だ,

新思想が勝ちそうになればこれを叩くし,旧思想が勝ちそうになればこれも打つが,どちらも潰してはいけない,

互いに争わせて,その間に真理をつかむ,というのであるが,

これは,とんでもない。

新奇の思想などを秘密結社からでも持ち込む場合には,

甚だ都合のよい道案内であり行事である。

麦畑の中に悪草(あくそう)が出て来ても,これを抜き去るのではない,これを麦と自由競争させるのだ,と言うなら,

何のために麦をまいたかが問題になる。

後章に説くユダヤ人の1897年,バーゼルにおいての会議中になった議定書なるものの第10章に,

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「我々が国家組織の中に自由主義の毒を持ち込んだところが,

その全政治機構は変化を起こして来て,何れの国家も死病たる壊血病に取り憑かれている。

あとはただ,断末魔の苦しみを待つばかりである。」

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同じ文献の第3章には,

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「自由という言葉は人類の社会を,全ての力に対して,全ての権力者に対して,又は神と,自然の法則とに対してさえも,

抗争させるようになるのである。

そうであるから,我々の世の中になったならば,

我々は,この言葉は,群衆を血に渇いた獣にしてしまうところの暴力の原則を包含するものとして,

この世の辞書から抹殺するであろう。

右の獣類どもは,腹一杯血を飲めば必ずまた眠ってしまうのは実際である。

その間に彼らを再び鎖につなぐことは容易である。

が血を与えないと,眠らずに闘争ばかり続けるのである。」

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注: ユダヤ人が造ったソ連の中には,言論集会結社の自由が事実上には取り払われたことが,

何よりの証拠である。

米国大統領フランクリン・ルーズベルト君(1882/1/30-1945/4/12(死因は脳卒中とされる),任期: 1933/3/4-1945/4/12)目下,自由のために戦う国を援助すると呼号しているが,

米国内にユダヤ人が層一層勢力を拡大して来れば,

米国民の自由は,層一層縮小されて来ることが予見せられる。

これを要するに,自由というものの中で真に尊敬すべき部分は,最上級に属する道徳的自由だけであり,

その他は不完全・有害なものである。

その関係を端的に図示すれば,

ダイアグラム, 設計図

自動的に生成された説明

然るに,世の,自由を鼓吹し,これを謳歌する者,

どうもすれば,放縦的・無政府主義的自由をも包含する粗野なものまでも取り扱う

(前述理想団憲法の如く)

しかして,叫んで曰く,

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「我に自由を与えよ,然らずんば死を与えよ!」

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また自由民権論の盛んな頃,板垣伯(1837/5/20(又は21)-1919/7/16)岐阜で襲撃された時(1882/4/6)

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「板垣死すとも自由は死せず」

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と叫んだ。

これらの美辞・麗句は急速度をもって,ユダヤの石垣築造人足に予約された各国青年を,自由主義へと駆り立てた。

国家主義に敢然反対を表明した河合博士(1891-1944)は,日本において自他ともに許す自由主義者である。

18世紀末のフランス大革命(1789/7/14-1795/8/22)の際,

女流革命家マダム・ローラン(1754-1793)は幾多の人々を断頭台に送ったが,

因果は回る小車の如く,己れ自ら断頭台に立つ日が来た。

階段を昇り切り,いよいよギロチンに顔を出す時,処刑人が最後の発言を許した。

ローラン夫人は傍らにある自由の女神を指して,

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「おお自由よ! 汝の名において,いかなる罪悪が犯されつつあるか!」

--------------------

の一言を残して,刑場の露と消えた。

鳥の正に死なんとするや,その声や良しで,

ローラン夫人の一言は,150年を経過した今日においても,正にその通りである。

ニューヨーク港の入口に,同じく自由の女神(1886年完成)を銅像に立て,また自由の字を貨幣にまで鋳造した米国も,

果たしていつまで自由を享有しうるか。

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ルソーの人格

次に平等の批判に移るが,

先ず大陸フリーメイソンの教科書(引用書目にあるLe livre de l'Apprenti?)の文句から始めると,

平等の実行を説いた後,赤裸々に次のように告白している。

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「マソン結社はこの如くして,革命思想の培養に極めて適切な地盤を提供した」

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すなわち平等論を鼓吹することは革命の下工作であることは,これでも明瞭である。

前に述べた新入結社員に,最後の思案をさせる沈思黙考室のあることを略記しおいたが,

そこで読み聞かされる文章に次の文句がある。

--------------------

「お前が人間的差別に固執するならば,即座にこの席から去れ。

ここではそれを認めないのだ。

フリーメイソンの目的は,人類・階級・祖国の区別を消滅し,国民的反感を根絶するのにある。」

--------------------

ただし,ここに階級打破を叫ぶが,彼らの仲間には厳として33階級が存在することは既に述べた通りで,

ここにいうのは,貴族・富豪等を廃止する革命思想を養うにあることは論を待たない。

(メイソン自身に階級が存在するということは,何かの人の集団で秩序を維持するために,階級といったものが便利であり必要であることを自覚しているということ。)

然るに紀元2600年(1940年)の初めの頃,日本の一貴族自ら演壇に立って,次の意味の演説をした。

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「人間社会の一番麗しい理想的な姿は,市井の銭湯の浴槽の回りである。

いかなる金持ちも財布を首にかけて来る者もなく,また綺麗な着物を着たまま入ってくるバカもない。

皆,裸一貫である。」

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この如く平等の一場面を見て,これを礼賛する人が政治に関係し,国民組織などに重大な発言をするようであるから,

筆者などが前記階級打破の底意をもって,フリーメイソンが絶叫する平等論を批判する必要が起こり,

国民の一大反省を促さざるを得なくなったわけである。

一歩を誤ると,皇国内の革新が,フリーメイソンの要望し仕組んでいる革命に崩れ混む恐れがないではない。

18世紀末のフランス大革命(1789/7/14-1795/8/22)でフリーメイソンが大いなる尽力をしたことは,

彼らの次の自白でも明瞭であり,

その旗印が,今,筆者の批判の対象である自由・平等・友愛の標語であった。

それだから革命成立後にフランスでは,寺院・学校・官衙(かんが)・裁判所の壁には三方に自由・平等・友愛の標語を刻み込ませてある。

今世紀(20世紀)のロシア革命(①1905/1/29-1907/6/19②1917/3/8-1923/6/16)もその真似であることは,

筆者が社会革命党員(社会革命党(1901頃-1921))の有力ユダヤ人プンピヤンスキー(Пумпянский Николай Петрович (1881-1932)のこと?)から先年,直接聞いたところでもあり,

現に当時用いた革命の赤旗には,露語で自由[スワボーダ]・平等[ラーベンストウオ]・友愛[ブラートストウオ]と書いたものがあるので明瞭である。

そして本家フランスの革命を文学で鼓吹した者の一人が有名やジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)である。

その代表的作品は『コントラ・ソシアル(1762)(社会契約論(1927))』という本で,俗に民約論と訳され,

今なお岩波本で相当出ているが,

明治初年,文部省が肝煎り(きもいり)となり,原語の忠実な訳である社会契約という題で発行され,

盛んに民権自由の説を散布したのである。

封建固陋(ころう)の思想を打破するには役に立ったであろうが,

皇道が今日の如く,高く天に輝く時代には,暗黒時代カンテラぐらいで用はないはずであるのに,

日本にも今なお,フリーメイソンの代弁者が前記の如くに安価低級な平等思想を演説するし,

岩波本などが氾濫をするのを見ると,黙視するわけには参らぬ。

ついでに申すが,民約論を普及した古い文部省も現在の発行者も,はたまたこれを購読する人士も,

ルソーがフリーメイソンであったこと(何か明確な根拠ある?)はご承知なかろうし,

結社員であったと知っても,フリーメイソンの目的も知らず,

したがって何のためにああいう論を主張したかを知らずに,ただ釣り込まれるのだと思う。

先ずルソーの思想の出発点が面白くないのは,義務という観念のないことである。

民約論の始めに,

--------------------

「自分は忘恩者であると思う,自分は慈善が嫌いだ。

それは慈善には,これに対する感謝を要求するが,感謝というのは1つの義務に属する。

そして義務ということは,自分には到底耐え得ない実に忌むべきものであるからだ。」

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と率直に告白して,彼が自由主義者たることを現している。

ルソーの人格を見ると,系図的にも狂っている。

彼の父イザック・ルソー(Isaac Rousseau,1672-1747)はスイスの時計職人であって,

ダンスの教師を兼ね,放蕩で,喧嘩好きで,際物師で,町の評判が甚だ悪い札付きの人間である。

この父にしてこの子ありで,

ルソーも8歳で母親を失い,継母の手にかかって性質がますます癖み根性の悪い人間になった。

彼は早熟で,若い時から性問題を解し(かいし)

三角関係で他人の家庭を乱すことに妙を得て,目標を特に貴族の家庭に選んでこれに出入りした。

ルソーがユダヤ人であるという確証はないが,

父がユダヤ人によくあるイザックを名乗るのは注意すべきである。

また代々ユダヤ人によくあるトウモロコシの毛のような赤毛であるので,ルソーの名が出たとの記録もある

(ルーマニア廃帝カロル(1893-1953)にしてあの国を乱したユダヤ婦人ルペスク(1899-1977)の毛も赤毛であると伝えられる)

■天然は平等なりや

ルソーの論は,元来,天然の姿は平等である。

人は自由・平等に生まれたのであるが,

人が政府を作り法律を作ったから不平等になったとする。

すなわち法律で所有権などを決めるから,よい着物などを持つ者と持たざる者ができる。

裸一貫の貧乏平等が,天然の姿ということになり,

前記某貴族(日本の一貴族)の所論とピタリと一致する。

先ず天然が平等であるかないかから検討するに,

晴夜仰いで天を観れば,無数の星は綺羅の如く光っているが,

その星座の形,個々の星の光・大小・明滅の周期など,ことごとく不平等である。

おかげで人類は夜道に,航海に,北斗七星なり様々な星によって導かれ得る。

これは事実でいかんともし難い。

天体まで行かなくとも,吾人の周囲の高山・低山は,形状・海抜ことごとく不平等である。

また山嶺にある石は,同じ大きさの谷底の石とは持っている潜勢力において大きな違いがあって,

一度転げ出すと谷底までには非常な破砕力を出し得るが,

谷底に横たわっているものには力がない。

水にしても瀑布の上のは潜勢力を持ち,落ちてしまったのには同じ水でも力はない。

その潜勢力は,使えば多大な電気にもなる。

この落差という不平等のおかげで人類は幸福に暮らせる。

落差のないところでは特にダムを設け,

それも出来ないところでは,火力発電をしなければならぬ。

皆これ天然の不平等な御利益(ごりやく)である。

空気を見ても,地上を隔たるに従って気圧は少なくなり,

1万メートル以上の成層圏を過ぎれば,ほとんど真空になる。

同上高度でも,各種の関係で,気圧の高い所と低い所とがあり,

高い所から低い所へ向かって気流が起こり,風が出るので,気象の変化が起こり,

人類は生存が出来る。

もし地球上至るところ,同一気圧で風も起こらなかったら,恐らく生物は死滅するであろう。

かく考えると,ルソーの言った,天然が平等だというのは全くの誤りか。

論者は言うであろう,

水は高きより低きについて河川をなし,空気は高気圧から低気圧に向かって気流を起こすのは,

すなわち平等・平均を求むるので,

この動的な平均運動こそ平等の姿ではないかと。

誠に然り。

世界には,平均運動・平等運動は確かにある。

しかしこれだけであったなら,世界はどうなる。

利根川でもアマゾン川でも,棊年(某年(ぼうねん)の誤字?)ならずして,枯渇し終わるであろう。

然るにここに,水平を求むる運動とは反対の向上運動というのがある。

すなわち地面・海面に地熱・太陽熱が加わると水蒸気となって高上する。

それが風に送られて水源地の山地に達し,

霧となり雲となり雨となり雪となって,水源地を潤すので,

アマゾンの水も利根川の水もこんこんとしてやまない。

世に水平を求むる運動だけを説いて,高上の運動を説く者がなくなれば,

裸一貫の貧乏平等の餓鬼の世界が出現することは必然である。

然らば人はルソーの言う如く,生まれながらに果たして平等か,これまた誤りである。

第一に男女両性の相違をいかんせんやである。

また同じ男の子にしても,

甲は1貫匁(3.75kg)近くもある健康体であるが,

乙は700匁(2.625kg)ぐらいの虚弱な体で生まれるのがある。

丙は脳の灰白分に優良なシワを刻んで生まれて来るが,

丁は両親の不良生活から宜しからざる潜在意識を持って生まれて来るかも知れない。

平等論者ルソーが,最もよく父イザック・ルソーの先天的欠陥を継承しているが,

あながち生後の環境教化ばかりでもあるまい。

予は,この如き見地からルソーの平等論には反対するが,平等論全部に反対するものではない。

■絶対に対する平等

仏教にも十界平等とか,平等・法身平等・世間涅槃(ねはん)平等(単に涅槃平等?)の三平等などが説かれ,

これに大いなる真理を含むようであるが,

専門語が入り,粗雑な調理法で出すと不消化を起こすからこれを思いとどまり,

常識的・通俗的に自身の平等感を述べて,フリーメイソンの流布する浅薄・危険な平等感を打破することにする。

第一に述べるのは絶対に対する平等である。

一つの物と他の物とを比べ,一人の人と他の人とを比べると,どこかに差別があるのが本当である。

多量に同じ型で造る弾丸でも,撃ってみると極く少ないが,差別がある。

一町歩(約9,917平方メートル)の田地と十町歩(約99,170平方メートル)の田地とは,これを比べると,一と十の比が立つほど大きさが違う。

しかし飛行機に乗って5千メートルも高く昇って俯瞰すれば,何れも碁盤の1つの目ぐらいにしか見えない。

いわんや世界地図の上にこれを書き入れてみようとしても,

鉛筆の先の記し得ないほど小さいので,何れも平等である。

ましていわんや無限の空間から見れば一町歩も十町歩もともに零に等しいほど小さい。

この関係を数学の式で表すと,

--------------------

【差別観]

1/10 = 0.1

1 < 10

-----

【平等観]

1/∞ = 0,10/∞ = 0

∴ 1/∞ = 10/∞

--------------------

すなわち無限大に対する比が等しいので,断じて1と10とが等しいのでない。

然るに,もし数学の半可通がいて,方程式の両側に同じものを乗じても値は変わるまいなどと思って,

数学の禁ずる∞を平等式に乗じると,

--------------------

1/∞×∞ = 10/∞×∞

∴ 1 = 10

--------------------

となる。

これは中学生でもその誤りを指摘し得るが,

立派な教養ある人々が,1 = 10を振り回し,彼も人なり我も人なりなどと叫ぶ

(古人が,人に出来ることが自分に出来ないはずはない,という激励の意味ならば宜しい)

ルソーの如き哲学者扱いを受ける先生まで,人は生まれながらに平等なりと言うが,

人と人とを比べれば,必ず生まれた時から,否,生まれる前から不平等であって,

ただ,これを絶対に対する時,

すなわち神に対し,自然(無限・無窮の空間・時間)に対する場合に,

平等であることを繰り返し主張する。

明治天皇御製には,

--------------------

萩の戸の露にやどれる月影は

   しづが垣根もへだてざるらむ

--------------------

と詠ませられ,

月の如き大距離から,ほとんど平行光線となって,慈愛の光が差す場合には,

富豪の垣根に置く玉の露にも,貧民のささやかな垣根に置くのにも,無差別平等に影を宿すことに事寄せ

天皇のご恩徳がもれなく行き渡るべきものであることを,ご述懐遊ばされたことでないか,

拝察し,ありがたい極みである。

また明治15年(1882年)1月4日,軍人に賜ったご勅諭に,

--------------------

一,軍人は礼儀を正しくすべし。

およそ軍人には上元帥より下一卒に至るまで,その間に官職の階級ありて統属するのみならず,

同列同級とても,停年に新旧あれば,新任の者は旧任のものに服従すべきものぞ云々。

陸海軍軍人に下し賜りたる勅諭(軍人勅諭) 明治15年1月4日

一、軍人は礼儀を正しくすべし。

凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで、其間に官職の階級ありて統属するのみならず、同列同級とても停年に新旧あれば、新任の者は旧任の者に服従すべきものぞ

下級のものは、上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ。

己が隷属する所にあらずとも、上級の者は勿論、停年の己より旧きものに対しては、総べて敬礼を尽すべし。

又上級の者は下級の者に向ひ、聊も軽侮驕傲の振舞あるべからず。

公務の為に威厳を主とする時は格別なれども、其外は務めて懇に取扱ひ、慈愛を専一と心掛け、上下一致して王事に勤労せよ

若軍人たる者にして礼儀を紊り、上を敬はず下は恵まずして、一致の和諧を失ひたらんには、啻に軍隊の蠧毒たるのみかは、国家の為にもゆるし難き罪人なるべし。

……

--------------------

と教えられ,軍人相互間の厳正なる差別観を諭されたものと拝察される。

その先には,

--------------------

また上級の者は下級の者に向かい,いささかも軽侮・矯傲(驕傲(?))の振る舞いあるべからず。

公務のため威厳を主とするときは格別なれとも,その外は努めて懇ろに取り扱い,慈愛を専一と心掛け,

上下一致して王事に勤務せよ。

--------------------

と教えられた。

これは公務以外には,月の光の如く慈愛に満ち,上下一致すべきことを諭されたものと拝察する。

前に算式を挙げたついでに,人の誤りやすい平等論を検討する。

例えば,

--------------------

12 = 2×2×3

18 = 2×3×3

--------------------

で,2×3の公約数を有するからと言って,12 = 18とすることは出来ぬ。

18と12の間には,6の差がある。

すなわち,小さな数12の2分の1に当たる差がある。

けれども,双方に1を加えまた1を加え,ついには60012と60018になったとすると,

その差の6は僅かに片方60012の10,002分の1となって,問題ではない。

だんだんやって行けば,2つの数はほぼ等一になる。

人は皆,仏心(ぶっしん)を備え,仏種(ぶっしゅ)を宿しているからといって,人は生まれながらに平等とは言えない。

12と18とが同じように積功累徳(しゃっくるいとく)していき,涅槃の域に達して,初めて真に平等になるのである。

すなわち,人は生まれながらに平等となる素質を有するのであるけれども,現実に平等とは言えない。

公正が平等,均一は平等にあらず

次には,公正が平等で,均一は平等にあらざることを説く。

例えば,卓上にあるコップと水差しとを同じ値の十銭均一に売れば,計算は或る程度簡単であるが,

コップと水差しとは,これに用いる材料も(製造の)手数も違うのであるから,値の違うのが公正であって,

材料や労力の単位を平等とするならば,均一価格は不正当で,結局不平等である。

乗合自動車などの均一価格の都市などが始めにあったが,

これは結局,不平等になるから,皆,区間によって値が違い,一区内だけを均一にするに至った。

アントン・メンガー(1841-1906)曰く,

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不平等なものを平等に取り扱うほど,不平等なことはない。

-----

労農ロシア(1917-1922)では,革命宣伝のときに,

フリーメイソンの指令通り,自由・平等の新社会を樹立するなど叫んだ手前,

革命後に一省の大臣から給仕に至るまで,俸給均一制をやり,

また工場でも,経営者から技師長・技師・職工長・熟練工・見習徒弟まで,ことごとく最低限度の生活を保障する均一俸給にしてみたが,

人が馬鹿馬鹿しくなって真剣に働かなくなった。

やむを得ず物価の高低による幾つかの区に分け,その区の中でも,15級の俸給に等差をつけたことがある

(先年,社会民衆党(1926-1932)西尾代議士(1891-1981)は議会で,一巡査と総理大臣とは仕事の充実さにおいて差異がないからといって,

その俸給の平均論を主張したことがある)

田舎の県道などに以前は,一面平等に砂利を敷き詰めたのを見た。

少し経過すると,中央の重い車両の多数通過するところは,最も早く砂利が沈んで,

両側の歩道に当たるところは,いつまでも砂利がそのままになっているから,徒歩者も歩きにくいので,

自然,中央ばかりを通るようになった。

これらは悪平等の敷き方であって,本当は中に厚く外側には薄く敷くべきものである。

量の問題を暫く離れて質の問題において言えば,

同じ油でも,鉄道車両の車軸に施すものと,時計の機械にやる油とは大いに質が違わなければならぬ。

万一,車両の油を時計にやったら,たちまち運転は停止するであろう。

これと同様に,食糧問題なども荒仕事をする者と居座りの職場の者とも皆違わなければならぬ。

今,国民服から国民食へと進む計画があるようだが,

よく理に照らして研究しないと,

昔の県道に平等砂利敷きをやったり,時計に鉄道の車軸脂油をやるようなことになるかも知れぬ。

かつて第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)のとき,フランスの或る軍にいたとき,

食糧の問題で妙な場面に出会った。

あちらでは,将官は兵卒の3倍額(食糧にかける費用のこと),左官は2倍半,士官2倍かであった。

不審に思って係官に質問した。

君の国は至るところに自由・平等・友愛と彫りつけてあるが,

なぜに上級者に厚くするのかと尋ねると,これが本当の平等である。

兵は労力が多いが,頭はそう使わずに済む。

故にデンプンとか炭水化物の多量を取らせる。

これは経費が少なくて宜しい。

然るに上級者になるに従って,身体は動かずに頭脳だけ余計働かせるようになるから,

脳の養分になる物でしかも消化のよい物を少量でも与えなければならぬ。

すなわち含窒素物(有機窒素化合物(?))などを多くし,タンパク質の補充を要する。

したがって高価な食費になるのみならず,必ず打ち合わせ来訪の客などが多いから,

それで差等を付するのだと説明したが,

公正すなわち平等の見解から言えば理解できることである。

当時,胸に浮かんだのは,

日露戦争(1904/2/6-1905/9/5)旅順攻城の間(1904/8/19-1905/1/1)乃木将軍(1849-1912)は,

自ら脚絆がけで第一線を巡回し,兵卒と同じような弁当を開いてこれを召し上がった。

幕僚もその模範に従って粗食主義をやっていた。

或る夜,幕僚たちが次の攻撃計画策立のため,徹夜で仕事をしているところへ,乃木司令官が現れて,

夜食はどんな物を食べているか見られると,

やはり兵卒の夜食と同じような物であったので,これをとがめられて,

兵卒と食を同じゅうするのは,自分はやる,

早く寝て頭を冷静にしていれば宜しいからだ,

しかし諸君は連夜徹夜して大事な計画を立てるのであるから,もっと滋養のあるものを取って勉強してもらいたい,

との意を述べられたと聞く。

ともかく,形式の平等論に幻惑されがちの若い人たちは,

労働力を要する百姓にも,1人二合あまりの米の消費量を強制したりする過誤に陥るのである

(農家の人たちはもっと多く食べるべきということ)

普通選挙

第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)の最中にフランスの内閣は,幾度か覚え切れないほど交代した。

或る日,軍の幕僚で日本の事情など一向に知らない人から,

日本にも倒閣などいうことはあるかとの質問をするから,

あるようだ,

毎年やったこともあり,年に2回もあったことも記憶する,と答えると,

嘆息して曰く,

とんだことを西洋から習った者だ,

倒閣などなく,もっとよいことを習ってもらいたい,

して普選(日本では,財産による制限は1925年に,性別による制限は1945年に除かれた)は実行したのか,と聞かれたから,

未だ実行はしておらぬが,人が調査しているようだから,何れは実行するであろう,と答えた。

すると,それはやめたほうがよい,

我々はフランス大革命(1789/7/14-1795/8/22)後に起こった澎湃(ほうはい)たる民主主義思想のために,手もなく普選を実行したが,

今日に至って実に困っているけれども,いったん与えた権利を取り戻すこともできず,惰性でこれを実行しているのである。

これからやるなんどは,もっての外だ,と力説するから,

自由・平等の国の君らから普選反対を聞くのは意外だ,と揶揄すると,

いや,普選ほど不平等なものはないのだ

(筆者は,普通選挙のことを,アントン・メンガー(1841-1906)が指摘する「不平等なものを平等に取り扱うほど,不平等なことはない。」ということの例と考えた(?))

憲法学の泰斗で真に国を憂い識見の高い人格者も1票を投ずるのであるが,

中には,憲法も見たこともない,金と時間さえやれば居酒屋に入り浸り飲んでいて,天下国家に何ら関心を持たない連中もやはり1票を投ずる,

全く均一主義だ,

そしてこの種の連中のほうが比較的多いのであるから,ろくな選良が出なくなるのは当然で,政治の退廃はこれから来るのである,

故に平等論をもって反対する,と言うのであった。

【◆ここから】

時と因果の平等

因果律

自由,平等の矛盾

友愛と家族制度の破壊

第4節 フリーメイソンの目的

国際親善の機関とは表看板

大共和国建設が目的

武力によらざる世界征服

一国革命から今や世界革命へ

第5節 フリーメイソンの数及び主要人物

イギリス系が全体の数の8割

イギリス元首アメリカの大統領がメイソン

蒋介石はメイソン

第6節 フリーメイソンはイギリスの機関かユダヤの機関か

イギリスは波浪とフリーメイソンをもって世界を支配せんとす

阿片戦争直後香港へ進出

フリーメイソンは確かにユダヤ的

ブナイ・ブリス

第5編 ユダヤの運動(前紀)

第1章 概説

フランス革命以後を主とす

既に述べたる如くユダヤ人はすこぶる保守的にして,3000年以上も古い理想を一貫しようと努めているのである。

故に彼らの将来を卜せんとするには,その古典も研究しなければならぬのである。

人によってはフランス革命以後の動きさえ見て行けば宜しいというが,

筆者は必ずしも然らずと考えたが故に,旧約聖書に遡りこれを論じ来たったのである。

しかしながら,現今の時勢に応じ対策を考える必要から,筆を執る現状においては,

ユダヤ運動としてはその古いことから述べる余裕がないために,

やむを得ずフランス革命前から連続している動きを叙するのである。

しかして18世紀初めから起こった秘密結社運動は,他民族をも加えた大運動化し,

現にこれが世界の政治経済を動かし,

戦乱の勃興から,処理終結に至るまでに関係するから,

紙数の許す程度にこれを詳説した。

なお,これとともにユダヤの世界政策であって,しかも国民運動の仮面を被ったシオン運動のことも承知しておかないと,

現代のユダヤ運動の真相を深く理解し得られないから,

比較的詳説した。

デモクラシーはユダヤのもの

以下,各章を通観すると,革命のことが比較的多い。

そして革命には必ず民衆獲得が必要であり,

しかしてデモクラシー(民主主義)を鼓吹しなければ出来ないのである。

ユダヤ人らはこれを隠さず告白しているのが時々現れている。

左にその1・2を拾い上げる。

故人となったウィーンの首席ユダヤ僧正ダヴィッド・フォイヒトワンク博士(David Feuchtwang,1864-1936)は左の如く述べた。

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「ユダヤ的でないデモクラシーというものは一つもないはずだ。

何となれば,デモクラシーは全部,ユダヤから出たものであるからだ。」

--------------------

また今から10年前,上海のユダヤ月報[イスラエル・メッセンジャー]の主幹エズラ(1883-1936。セファルディ・ユダヤ)は,

「ユダヤ社会の将来」という論説の中に,エレズイスラエル(エレツ・イスラエル(「イスラエルの地」)?)のビアリック演説集(Hayim Nahman Bialik (1873-1934)の演説?)の左の文句を引用している。

--------------------

「…現代における反自由主義,反デモクラティック及び反社会主義,その他全ての現代自由思潮反対運動戦線は,

ユダヤ主義の教義に反対する世界的攻撃である。

最善最高の形式における社会主義は,ユダヤ精神の発露であって,

世界の将来を洞察したものと予は確信する。

これが主唱者は,自由・平等を説いた最初の社会主義者である。

今や世界的ユダヤ圧迫が起こり,重大なる危機は迫ってきた……」

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右の文献を読んでから次章以下の革命運動を読破するときは,思い半ばに過ぐるものがあろう。

第2章 フランス革命

■フリーメイソン自らの告白

【◆ここから】

西暦1789年7月14日に,パリのバスチーユ監獄破りに端を発したフランス革命の表面には,

ユダヤ人は立たなかった。

主としてその傀儡(かいらい)なるフリーメイソンを働かせた。

フリーメイソンの教科書は誇りがに,左の如く記述している。

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(革命前)1778年に,ボルテール(1694/11/21-1778/5/30)を引き入れたことが勝利であった。

これに参加した有力な同志の名前を列記することが適当と思う。

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ヘルベチュス

ミラボー

ガラー

ブリツソー

カミーユ

デスムーラン

コンドルセー(欧州合衆国論者)

シャンフォール

ダントン(「果敢! 果敢! そして果敢に」と叫んで激励した人)

ドンジェルル

ラボー

サンテチェンヌ

ペチオン

パングレー

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これらは何れも後に革命の時,立役者になったが,

右のボルテール引入れ会議に参加した者以外に最も有名なのは,

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ダランベール

デイドロ

ラハルブ

ロベスピエール

ラハイエット

(1776年の米国独立革命,1789年のフランス大革命,1830年のフランス革命に参加)

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等であるが,

特にボルテールは次の意見を述べている。

--------------------

「隠密に行動し……たたけ,そして手を隠してしまわなければ行かぬ」

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そもそもフランス革命は貴族・僧侶の横暴,農民の苦難などに端を発したことはその通りであろうが,

これを指導して勃発せしめたのはフリーメイソンの力である。

前記の教科書(初級フリーメイソン教科書?)は,ルイ・ブラン(1811-1882,イギリス亡命中に,ロンドンのロッジLes sectateurs de Ménésに入会(?))の著書フランス革命史(神秘革命)第37頁(『フランス革命史』は全12巻本のはず(?))から引用して,次の如く論じている。

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ルイ・ブランは,いかに旧体制の没落がフリーメイソン結社によって準備されたかを描き出しているが,

直接の陰謀はやらなかったと書いている。

当時のメイソンらは特権者に対して,無用な宣言を発したりはしないで,

ただ集会所の中で,自由・平等・友愛の思想を実行していた

--------------------

と修飾的に記している

(今日においても,メイソンは直接手は下さない。

これが,かえって注意を要する点である)

フランス革命はユダヤを解放

ドイツの将軍八百長戦を交ゆ

憲法制定会議はフリーメイソンの会議

第3章 アメリカ独立革命におけるユダヤ,フリーメイソンの努力

ワシントンはメイソン

フランスから援助に赴いたラファイエット将軍もメイソン

フランス飛行基地のラファイエット中隊

ユダヤ人モーリスの尽力

第4章 シオン運動(シオニズム)

ユダヤ人他民族への同化を憂う

ユダヤ人が5700年の古い歴史を持ち,今なおその信ずるところを改めずに,外部からの圧迫がいよいよ甚だしければその結束いよいよ堅固になったことは,

世界の謎として驚嘆に値する。

然るに近世に至り,ユダヤ人の一部に多少,思想の動揺を生ずるに至ったのは,

物質的文化・科学発達のためである。

従来,ユダヤ人は聖典に教えられた通りに,

救世主[メシヤ]は降臨する,

そしてそは完全な人格を備えた救世主で,パレスチナを復興し,ここに祖先伝来の国民的生活が出来るようになる,と確信し,

現在の放浪生活・難行苦行は,自分らの祖先が犯した罪の報いで致し方はない,

これに耐え得れば,すなわち神は積年の希望をかなえて下さるものと信じていた。

然るに西欧の文化,殊に科学の発達はキリスト教徒中に懐疑派を生じたと同様に,

ユダヤ教徒中にも不信の徒を生じ,無神論者まで出るに至った。

無神論とまで行かなくとも,(次のように考える者がいた。)

救世主とは人格を備えた人でなくて,他の神秘的なものであろう,

自分らの放浪は全く他民族からの圧迫・虐待等,人為的な事柄で,神の試練ではない,

既に放浪が人為的である以上は,これを矯正するのにも人為的な方法がないはずはない,

すなわちユダヤ人は自己の努力によってパレスチナを復興し,そこに民族生活を営もうというのがシオン運動である,

すなわち前のは神秘的な他力本願であり,後者すなわちシオン運動は現実的な自力本願である。

この両者を合して初めて人事を尽くして天命を待つところの本格的なものになるので,

恐らくユダヤの有識シオニストは左様に考えているのであろう。

右の如くシオニズムの主とするところは,

いつまでも茫然(ぼうぜん)たる夢のような予言ばかり頼って,時を空費していると,

その間に外界の悪風は,ユダヤ人の信仰を破壊し,民族的結合を破る恐れがあるから,

ともかく何れかに結合の中心を目に見えるところに形作らなければならぬ,

しかしてそれには祖先伝来の聖地パレスチナの復興をもって,最も適当とすると考えた。

この事業を唱え始めたのは西暦1818年,米国のユダヤ人モルデカイ・マヌエル・ノア(1785-1851)であった。

そして,実際に小規模ながらも植民をパレスチナに行いノアの理想を実現したのは,

下って1870年のことで,

ミクヴェー・イスラエル(1870-)における農学校内のユニオン・イスラエリット(Alliance Israélite Universelle (1860-)のこと(?))というユダヤ協会の手によってである。

その後10年余りを経過して1884年にコヴェヴェー・シオン(Hovevei Zion (1881-)のこと)すなわち「シオンの敬愛者」という協会は,

なお一層大規模な植民を行うことになった。

これには,ロスチャイルド男爵(Edmond James de Rothschild,1845-1934)も補助を与えた。

なお1882年頃に露国にもこの種の運動が起こり,

ユダヤ学生及びユダヤの愛国者らはパレスチナに祖国の旗を翻そうと謀り,率先,植民を試みたものもある。

これらの開拓先駆者は,古代ヘブライ語を復活させ,これをもって新パレスチナの国語たらしめると宣言した。

彼らの千辛万苦したことはもちろんであるが,

露国シオン後援会は陰に陽に彼らを援助したので,彼らの希望は漸次かなってきた。

David Simon Blondheim編 "Mordecai M Noah's Discourse on the Restoration of the Jews" 第2頁

INTRODUCTORY NOTE* 

*This article is reprinted from the Maccabaean of April, 1905.

The copy of the original address used by the editor was lent through the courtesy of Mr. Mendes Cohen and Miss Bertha Cohen, of Baltimore,

from the library of their uncle, the late Dr. Joshua I. Cohen.

MORDECAI MANUEL NOAH, the author of the following address, was born in Philadelphia, Pa., July 14, 1785, and died in New York, May 22, 1851.

He was of Portuguese Jewish descent, his father having taken an active part in the American Revolution.

He engaged in trade, but soon studied law, and, removing to Charleston, S. C., he entered politics.

He was appointed in 1813 to the important post of Consul-general at Tunis,

where he rescued several Americans who were held as slaves, and made an unsuccessful attempt to establish schools for the Jews living there.

(See Zunz, G. V ., p. 489.)

He traveled extensively in Europe, and, struck with the contrast between the Jews' position in Europe and the freedom he enjoyed in America,

he became convinced of the need of a home for his people, who were treated as strangers in the lands of their birth.

Returning to New York, he published (1819) a book on his travels, wrote several popular dramas, and edited a number of influential newspapers.

He held the positions of surveyor of the port of New York, judge of the court of sessions, and sheriff.

Described as a "pundit in Hebrew law, traditions, and customs," he published in 1840 a translation of the "Book of Jasher."

He advanced projects for the establishment of a Jewish state on three occasions.

At the "Consecration of the Synagogue of the Shearith Israel Congregation in the City of New York," on April 17, 1818,

he delivered an address in which he says that

"when the signal for breaking the Turkish sceptre in Europe" is given,

the Jews, who "hold the purse strings and can wield the sword," and "can bring one hundred thousand men into the field,"

will "possess themselves once more of Syria, and take rank among the nations of the earth."

The second plan he proposed was the well-known scheme to open, on Grand Island, near Buffalo, N. Y.,

upon a site called Ararat (with a play on his own name), a refuge for the Jews pending their final restoration to Palestine.

The plan came to naught, after a pompous dedication in an Episcopal church in Buffalo, on September 2, 1825.

Finally, on October 28, and December 2, 1844, he delivered the address from which selections follow before large audiences of Jews and Christians.

This address, which strikingly recalls modern Zionistic projects, attracted much attention,

being reported at length in the newspapers of the time.

また西欧においては,平等権を獲得したユダヤ人が随所に頭角を現し,

商工業,政治,経済並びに学術諸方面に牛耳を執るようになったので,

ここに再び反ユダヤ思想が勃興し,

ドイツから始まりフランスに威を振るい,オーストリア=ハンガリー,ルーマニア及びロシアに広がり,

特にロシアで猛烈になった。

その反動としてユダヤ人の愛国熱もまた,著しく勃興してきた。

ヘルツル博士の進出

時に,ウィーン(ブダペスト)生まれでノイエ・フライエ・プレス(1864-1939)の文学部長をしていたヘルツル博士(1860-1904)というユダヤ人が,

新聞通信員としてパリにあった時,

彼の同族でエミール・ゾラ(1840-1902)の友人であるフランス参謀本部部員砲兵大尉ドレフュス(1859-1935)というユダヤ人が,

軍の機密をドイツに漏らしたという冤罪(えんざい)を被り,

処刑された(終身刑宣告ののち,1899年に釈放された)ことに憤慨し,

民族解放のために一生を犠牲にしようと決心するに至った。

彼テオドル・ヘルツル博士は『ユダヤ国家』という本を著し,1896年に独英仏に出したが,飛ぶように売れ,

20か国の言葉に翻訳され,至る所で読まれた。

ヘルツル博士の書物の与えた影響については,ウィックハム・スチード氏(Wickham Steed,1871-1956)の著『ハプスブルク家の帝政』という書物に,

次のような文字で表された。

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ノイエ・フライエ・プレスの文学部長テオドル・ヘルツルがシオン運動の初動を与えた当時は,

オーストリア=ハンガリーの知識階級に属するユダヤ青年は全く岐路に立たしめられていた。

すなわち外界との接触により父祖伝来の信仰は薄らぎ,タルムードが結んだ束縛の鉄鎖は除かれ,

しかして,これに代わるべきものは懐疑哲学の外,何ものもなく,

しかして,その懐疑は日を追って破廉恥的に進んだ。

多くのユダヤ青年はその本来の自然を離れ,とうとうとしてゲルマニズムに合流する傾向を持つに至った。

それで,政治上・思想上,心の中からドイツ・オーストリア人と成りすましたものも少なくなかった。

然るにそんな中から1人のユダヤ青年が自殺を遂げた。

それはその青年の多年の経験から割り出すと,

ユダヤ人は終にチュートン人には成り得ない,エチオピア人はその皮膚を取り替え得ないことは,

あたかもヒョウがその斑点を取り去り得ないのと同じであることをつくづく自覚して煩悶(はんもん)の結果,

自殺したのである。

この如き薄志弱行(やから)にとっては,ヘルツルの打った警鐘は誠に天来福音と響いたのである。

ユダヤ青年らはこれによって自尊心を得て,

民族過去の誉れとその金剛心・伝統・勝利・艱難(かんなん)・迫害・抵抗力とをもって,

かえって誇りとするに至った。

これからは,世界を正視し,精神上・知識上,豊富なる真理を取り,

キリスト教に多数の聖人を与え,世界人類の半数に一神教を伝え,

永久的にその思想で世界の文明を養い,

近世商業取引のやり方を割り出し,

優秀なる芸術家・俳優・歌妓・文学者を他の民族よりも多く文明世界に供給した,

ユダヤ民族に属することを誇りとするに至った。

シオニズムの火花をもって点火した導火薬の燃焼は,以上の如き状態となった。

右点火の効果は,ウィーン大学(1365-)学生中に最も迅速に,最も適確に及ぼした。

その当時まではユダヤ大学生は軽侮され,時には虐待された。

職業に就くには膝を屈し,主義の鋒鋩(ほうぼう)を現さず,極めて程よく振る舞い,或いはまた特別な保護・引立てがなければ,

就職不成功に終わったのである。

時には他民族の学生から打擲(ちょうちゃく)され,又は面に唾を吐きかけられても,

鉄拳や嘲罵をもって抗争することすら極めてまれであった。

然るにシオニズムは彼らに勇気を与え,彼らは協会を作り,体育を興し剣術をも修めるに至り,

これからは罵詈をもって答え,

やがてドイツの剣士もユダヤ青年がチュートン青年と決闘して対手を傷付け得ることを悟り,

またユダヤ学生が大学の最良射手となったことに気付き始めた。

今日においてはシオニスト学生の特別な赤ずきんは,他の大学生組合のものと同様に尊敬を受くるに至った。

この如く勢力を得たのは独り大学生にとどまらず,他のユダヤ青年もまた,

正面を直視し,頭を真っ直ぐにして歩み,彼らの祖先を顧み,民族の将来を考え得るに至った云々。

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The Hapsburg Monarchy, CHAPTER III The People, The Jews中からの抜粋

[以下の前後を含む抜粋] ⇒ https://docs.google.com/document/d/1zJJ9QQNqphkHFVihaU1Djz3R2dUEzmaq/edit?usp=sharing&ouid=101459707451073275716&rtpof=true&sd=true

/ https://bit.ly/3YIaHKh

When Theodor Herzl (1860-1904), the literary editor of the Neue Freie Presse (1864-1939), started the Zionist movement,

the younger intellectual Jews of Austria-Hungary were veritably at the parting of the ways.

Contact with the outer world had deprived many of them of the faith of their fathers,

and had divested their minds of the grosser Talmudic wrappings without providing other substitute than a scepticism which tended constantly to become more cynical.

Many cultured Jewish youths sought to discard their very nature and to identify themselves completely with Germanism,

accepting German political and ethical ideals and trying honestly to "feel like" Germans.

One such committed suicide on discovering, after years of endeavour, that a Jew can no more become a Teuton than an Ethiopian can change his skin or a leopard its spots.

To minds like these Zionism came with the force of an evangel.

To be a Jew and to be proud of it;

to glory in the power and pertinacity of the race, its traditions, its triumphs, its sufferings, its resistance to persecution;

to look the world frankly in the face, and to enjoy the luxury of moral and intellectual honesty;

to feel pride in belonging to the people

that gave Christendom its Divinities,

that taught half the world monotheism,

whose ideas have permeated civilization as never the ideas of a race before it,

whose genius fashioned the whole mechanism of modern commerce and

whose artists, actors, singers, and writers have filled a larger place in the cultured universe than those of any other people:

this, or something like this, was the train of thought fired in youthful Jewish minds by the Zionist spark. (p. 176, l. 13) 

Its effect upon the Jewish students of Austrian Universities was immediate and striking.

Until then they had been despised and often ill-treated.

They had wormed their way into appointments and into the free professions by dint of pliancy, mock humility, mental acuteness and clandestine protection.

If struck or spat upon by "Aryan" students, they rarely ventured to return the blow or the insult.

But Zionism gave them courage.

They formed associations and learned athletic drill and fencing.

Insult was requited with insult,

and presently the best fencers of the fighting German corps found that Zionist students could gash cheeks quite as effectually as any Teuton and

that the Jews were in a fair way to become the best swordsmen of the University.

To-day the purple cap of the Zionist is as respected as that of any academical association.

This moral influence of Zionism is not confined to University students.

It is quite as noticeable among the mass of the younger Jews outside, who also find in it a reason to raise their heads and, taking their stand upon their past, to gaze straightforwardly into the future.

To attend a Zionist gathering in the Leopoldstadt, the Jewish quarter of Vienna, is an enlightening experience to those

who have seen the filth and misery of the Ghettos where Jew exploits Jew and where contempt for the Gentile does duty for self-respect.

Hundreds, sometimes thousands of well-washed youths and trim maidens, with a large sprinkling of Jewish working-men, may be seen listening enraptured to readings from the Scriptures. (p. 177, l. 3) 

The territorial ideal, that is to say, the foundation of a Jewish state in Palestine or elsewhere, doubtless appeals to the bulk of the Zionists,

but the main effect of the ideal is to give them self-confidence and the courage of their convictions.

It is too much to expect that Zionism will suddenly endow all Jews with courage, tact and uprightness;

but it is much that it should already have provided an intellectual and moral élite among them with an ideal capable of arousing faith and enthusiasm.

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右ヘルツル博士はユダヤ的熱血男児であって,トルコの帝政下において,パレスチナ共和国を建設しようと考え,

盛んにパレスチナ行きを同族に慫慂(しょうよう)した。

この関係についてイスラエル・コーヘン博士(1879-1961)は,近世ユダヤ生活第329頁に,

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宗教的・人道的運動は,一の民族的・政治的運動となり,

コヴェヴェー・シオニズムが一の政治的シオニズムとなった

Jewish Life in Modern Times [1914] by Israel Cohen, pp. 328, 329

The advocacy of the colonization of Palestine as the only solution of the Jewish question was made as early as 1818 by Mordecai Manuel Noah (1785-1851) in America,

and was repeated in different countries at intervals throughout the century.

In France it was urged in 1830 by the historian, Joseph Salvador (1796-1873);

in Germany, in 1862, independently by Moses Hess (1812-1875) in his Rome and Jerusalem, and by Hirsch Kalischer (1795-1874) in his Quest of Zion, the one a Socialist, the other an orthodox Rabbi;

in England, in 1876, by George Eliot (1819-1880) in her famous novel Daniel Deronda (Part 1, Part 2) ; and

in Russia, in 1880, by the Hebrew writers Moses Lilienblum (1843-1910) and Perez Smolenskin (1842-1885),

and soon after by Leon Pinsker (1821-1891) too, who, in his historic pamphlet Auto-Emancipation, eloquently argued that the settlement of the Jews in a land of their own was the only salvation from their sufferings,

though he did not specifically propose Palestine for the purpose.

The interest in the idea that had been aroused in the 'sixties soon bore fruit,

for the work of colonization was actually begun in 1870 by the establishment, by the "Alliance Israélite (1860-)," of an agricultural school at Mikveh Israel ("The Hope of Israel").

In the following decade the Society of "Lovers of Zion" (Chovevei Zion (Hovevei Zion)) was founded in 1884 by a Jewish Conference at Kattowitz,

to promote the Jewish resettlement upon a more extensive scale, and affiliated societies sprang up in various parts of Europe.

The work of colonization, however, lagged at the beginning,

partly owing to the early settlers being endowed only with zeal, but with little practical knowledge, and

partly owing to the obstacles inevitably associated with pioneer settlement; and

it was not until Baron Edmond de Rothschild (1845-1934) came to its aid with his munificent generosity that it made any appreciable progress. (p. 329, l. 6) 

The "Lovers of Zion" were animated, it is true, by the national sentiment,

but the general character of their activity was a blend of philanthropy and religious piety,

whilst the aid contributed by Western Jews was also prompted mainly by charitable motives tinged with the racial consciousness.

Not until the advent of the feuilletonist and playwright, Theodor Herzl (1860-1904), in 1896,

was the Jewish national sentiment propounded as an idea

whose expression should not limit itself to the creation of scattered colonies in the Holy Land,

but which should expand into an organized endeavour of the Jewish people to work for its national regeneration.

Hitherto the national idea had meant that Western Jews (多くはセファルディ?) helped Eastern Jews (多くはアシュケナージ?) to settle in Palestine;

henceforth it was to mean that Western Jews were to work together with their Eastern brethren

for the restoration of Jewish national life in Palestine,

in which not a section of the people but the whole people should be represented.

The religious-philanthropic movement became a national-political movement—Chovevei Zionism became Political Zionism.

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と記している。

ヘルツル博士(1860-1904)の絶叫はたちまち世界的となり,

翌1897年(ヘルツル博士が『ユダヤ国家』を出版した年の翌年)には,スイスのバーゼルに全世界ユダヤ人の第1回代表会議が開催され,

ヘルツル博士,これが議長となった。

この際,政治的シオン団(政治的シオニスト)は,いよいよユダヤ人のためにパレスチナ国を建設すべしとの目的を公表した。

ヘルツルの宣伝は世界各地に広がったが,

ロシア,ポーランド及びルーマニアは,ユダヤ人が多いとの官憲のユダヤ圧迫が盛んであるだけに,

白熱の度が特に甚だしかった。

ヘルツル博士は,トルコ帝(アブデュルハミト2世(1842-1918,在位: 1876-1909)),ローマ法王(レオ13世(1810-1903,在位: 1878-1903))及び英露両国公使と会見したが,

パレスチナをトルコから分離してユダヤ人自治下に置くことには失敗した。

これにおいて英国政府は,ユダヤの植民地として東アフリカの一部を提供し,

同博士はこれを諒としたが,東欧のシオン団員過半数を占めてこれに反対したため,

この問題は不成立に終わった(後章に再説す)

然るにまた,1904年,ヘルツル博士は永眠し,

ここにシオン運動は一時混乱中絶の姿となった。

ただしパレスチナには逐次小規模の基礎固まり,ヘブライ語の新聞・雑誌は発刊された。

従来,シオン団の総本部たる世界シオニスト協会(World Zionist Organization,1897-)は唱道者ヘルツル博士の関係から,ウィーンにあったが,

博士の没後,ロンドンに移り,またベルリンに移ったこともあるが,

その後,英・米・仏・独・露・オーストリア・イタリア・スイス・ベルギー・オランダ・トルコ・ルーマニア・ブルガリア・エジプト・南アフリカ・アルゼンチンの諸国には,

シオニスト協会の支部を,またさらに各地方には,またその支部を置くに至り,

漸次,統一的に赴く傾向を生じつつあった。

そこに世界大戦は勃発して,シオニストの総本部は中立国オランダのヘーグに移った。

この後,パレスチナ復興の経過については,後章世界大戦の部において,

またバーゼルにおける第1回会議の件については,特に章を改めて説くところあらんとす。

第5章 インターナショナル運動

第1節 緒論

1848年の欧州革命

フランス革命(1789/7/14-1795/8/22)はヨーロッパ人一部の自由を解放し,平等を与えたことは事実であるけれども,

民権自由の解放に極端になって個人主義の偏重となり,

社会の変革という大目的の達成には,だいぶ距離があった。

この個人主義的傾向を是正するため,多数の社会主義的学者が各地に小規模の新しい村の如きことを試みた。

ロバート・オーエン(1771-1858)の理想の村の如きもその一例だが,

この実験室的企図は余り成功を見ず,終に大規模な社会主義的革命が勃発した。

すなわち1848年の欧州における二月革命(1848/2/23-12/2)三月革命(1848/2-1849/7)などである。

それにも革命の起こる種は無論,前年の不作とか,恐慌とかあったけれども,

それを燃えやすくするようなガソリンを注いだのは,

その前年(前年でなく,当年1848年(?))カール・マルクス(1818-1883)ことユダヤ人モルデカイが,

その同志エンゲルス(1820-1895)とともに出した共産党宣言(原独語版独英訳版)である。

その末文の「万国の無産者結束せよ」という標語は,確かに,フランス・ドイツ等の各国に火を付けるに役立ったはずである。

【◆ここから】

第2節 第1インターナショナル(労働インターナショナル)

全世界ユダヤ同盟の創立

インターナショナル創立相談会

創立大会ユダヤ,メイソン

第4回大会から分裂の端(自由,平等の対立)

第3節 第2インターナショナル(社会主義インターナショナル)

フランス革命100年祭に創立

各国の重要決議

メーデー

シュツットガルトの決議(戦争を革命へ)

第4節 第3インターナショナル(共産インターナショナル)

漸進主義,協調主義から急進,非協調に変わっただけ

共産理論は火付けの材料に過ぎず

国家破壊が目的,大衆獲得の好餌

ソ連との関係

イルミナティの綱領の流れを受ける

私有財産の廃止と逆戻り

レーニンの述懐

宗教破壊

家庭破壊

第5節 第4インターナショナル

第6節 第2半インターナショナル(ウィーン・インターナショナル)

第6章 ユダヤ解放の三策(第1次世界大戦の真因との関係)

■ロシア・オーストリア・ドイツへの集中,政治法律の変化

ユダヤ人にして法律・経済学者なるアルツール・ルッピン博士(Arthur Ruppin,1876-1943)は,

今世紀の初め1904年,ベルリンから『現今のユダヤ種族』(1920年独語版1934年英語版)と題する一書を公にし,

大戦開始直前までに数版を重ねた。

博士はその第17章においてユダヤ種族の地方的独立と題して,ユダヤ人集団生活をもって他民族への同化防止を唱道した。

これは,学者的立場から穏健な文筆で書かれてあって,その実際に触れていない恨みはあり且つ冗長の嫌いはあるが,

現在の戦争後におけるユダヤ問題解決の参考になることであるから,先ず基礎としてその全文を載せ,

然る後,実現した事柄と対比してこれを批判することにする

(早稲田大日本文明協会訳『現今のユダヤ種族』第354頁(第355頁)以下)

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1. 地方的独立及びその文化との関係

ユダヤ人は今日少数ずつ散在するため,同化の犠牲となるものにして,

これを免れんと欲せば,彼らが堅密なる団体を造りて共に生活するの必要あることは,

吾人既にこれを説けり。

あたかも敵地における軍隊が,1個の集団に集中せらるる時よりも,幾10分隊に分割せらるる時,一層容易に撲滅せらるる如く,

ユダヤ人は大多数をもって一地域に集中することによりて,最も良く同化を防止するを得べし。

地方的独立の守勢的価値は,これが勧奨の唯一理由にあらず,

そはなお独得の文明を産出するため,一個の中心を創造する積極的価値を有す。

最も偉大なる精神を有する人々すら,なおその環境によりて影響せらるること,

及び,彼らの事業が単にその天才の印象をとどむるのみならず,そが製作の場合における条件の印象をもとどむるはほとんど自明のことなり。

もしその環境にして非ユダヤ的ならんか,

ユダヤ人の創造的事業はユダヤ的ならざるか,或いは,ただ小なる度においてユダヤ的たるに過ぎざらん。

この理由によりそこにユダヤ芸術家は存在すべきも,ユダヤ芸術は存在せざるべし。

ユダヤ芸術はユダヤ的環境,すなわち第1に,ユダヤ人の共に生活しつつある集団を予想す。

かかる環境は,創造的芸術化をして,外国の影響を免れしめ,且つ,その種族及び感情の同族たることによりて彼を充分に理解し,またこれが傑作を促す唯一のものなり。

ユダヤ人はいかにしてこの中心を創造し得るや。

彼らは新ユダヤ文化の創造のため,吾人が先に記述せる一切の条件を満たすべき国土を要す。

かかる国土はにおいて,彼らは農業並びに各種の業務に従事せざるべからず。

そこに彼らは彼ら自身の言語を使用し,また彼ら自身の学校を有するを得るなり。

選ばれたる土地は,たといそが特に好都合ならざるにもせよ,

彼らが非商業的職業,ことに農業――イスラエルの国民的統一を造るべき土地――を採択することを妨げざる土地ならざるべからず。

(以上の緑字の部分が何か意図してか否か,日本語訳原著の「第17章 ユダヤ種族の地方的独立」から省略されていました。)

従来いかなる土地においてユダヤ人が堅密なる団集をなして,最も良く生活し,

且つその中において一の確実なるユダヤの経済的生活を建設し得るかという問題に対して3種の答解ありき。

これらは皆,生活意志の相異なれる表明,すなわち諸国民中における独立の実体としてユダヤ人を保有せんとする要望の表明にして,

それぞれ真面目に論議すべき価値あり。

第1の答解は,ユダヤ人をして東方ヨーロッパに集中し,もって国民的基礎の上に自己を組織せしむべしというにあり。

第2――イスラエル・ザングウィルの解答――は,ヨーロッパ人の未だ触れざるアフリカ乃至アメリカの或る地域を可となす。

第3の解答――ユダヤ民族主義者の解答――はパレスチナをもってユダヤ新生活のための唯一の可能的中心なりとなす。

***

2. 東方ヨーロッパ集中の予想

第1の解答は最も手近なり。

東方ヨーロッパの或る地域において,ユダヤ人は既に人口の約5分の1を構成す。

他地方よりこれらの地方へユダヤ人のさらに多数に流入することは大いなる困難にあらざらん。

蓋しその距離は僅少にして,社会上及び風土上の状態は彼らが既に慣熟せるところのものとすこぶる似たるをもってなり。

一般通用語はイディッシュ語にて足らん。

然れども,そこに或る極めて大なる故障あり。

第1,今日のロシア法律はユダヤ人の諸村落に定住するを禁じ,これがため実際,農業の全ての望みは消滅す。

しかして政府は,その国にある一切の少数国民を撲滅せんとの政策をもって,

ユダヤ人の全ての地方的独立にも激しく反対すべきは明らかなり。

然れども,こは或いは消滅することあるべし。

法律や政策は,時の経過とともに変化す。

かくしてこれらの困難はオーストリアにおいては,

ユダヤ人の平等と一切少数国民の権利とが,少なくも法律上承認せらるるをもって,

これを排除するを得べし。

しかも2個の障害はなお残留す。

農業への復帰は東方ヨーロッパにおいては成功せざるべく,また新ユダヤ生活の培養は不断の故障と紛擾とを受くるならん。

東方ヨーロッパは,実業主義の中途にあり,実業的社会はユダヤ人に無数の機会を提供す。

されば,たとい農業の試図が成功するも,しかも常に,極めて軽微なる失敗の暗示ある場合にすら,

なおユダヤ人はその新活動を棄て,再び商業或いは実業に立ち帰るの危険あらん。

2000年の都市生活の後,ユダヤ人がにわかに農業に親しむとは思われざるなり。

新ユダヤ文化創造の場合もまた,これと甚だ相似たり。

東ヨーロッパは,ヨーロッパ文化の広大なる分野に近きに過ぐ。

ユダヤ人自身の文化を発展せしむるには,ユダヤ人が小期間,他の文化より離れて生活せざるを得ざるべし。

彼らが文化の優越せる国民の間に残留する限り,免るることあたわざるべき同化の潮流に対して,

専ら独得の国体と文化とを固持することあたわざるべし。

彼らは常に,その周囲に見るところのものを模倣するの誘惑に陥り,

かくして彼らの文明はユダヤ的ならずして,ポーランド,ドイツ若くはロシア文化の劣等なる出版となるべし。

実際,東ヨーロッパにユダヤ人の中心を求めんとする意見に賛成する人は少なく,

ユダヤ人の「国家的自治」,すなわち立法部において,一国民として法律上の地位を確立し,且つその数に比例して,その自治権をさらに大ならしめん(地方的独立を行わずして)と言う者は甚だ多し。

国家的自治権はガリツィーン(ガリツィア(?))ブコヴィナとにおいて国民的大望を有するユダヤ人の一の主要なる要求なり。

然れどもかかる国家的自治権は,今日,オーストリア及びガリツィーンにおけるが如く,

ユダヤ人が散在し,もって農業に親しまざる限り,

同化に対する永続的な防護となり,或いは一個の国民的ユダヤ文化を創造するとは思われざるなり。

されど,同化の過程は,恐らく法律上において国民的地位を保証することにより遅滞せしめられ,

したがってガリツィーンとブコヴィナにおいて,ユダヤ民族主義者(その理想はパレスチナにあり)が地方の国民的自治のため働くは疑うべからざるなり。

***

■アフリカ等に土地を獲得す

3. 植民地における独立の予想(領地主義)

東方ヨーロッパのユダヤ人の中心は,諸種の困難をもって覆われる。

発達せざる植民地は,ユダヤ人の定住のためより良き分野を提供するや。

この点において英国政府は,唯一の具体的提案をなし,ウガンダ(注: アフリカ州ナイル川の上流)をユダヤの植民地に提供せんとしたるも,

そはユダヤ民族主義者(ロスチャイルドシオニストらを含む?)により拒絶せられたり。

イスラエル・ザングウィル(1864-1926)はウガンダの提供を受容すべしと主張したるも,その効なく,

その後,自ら「領地主義者」運動の頭目となれり。

(領地主義と称するのは,ユダヤを英国の植民地か,それに準ずる地域に移民させるべきとの主張?

つまり,そもそもユダヤと英国との密接な関係ということが議論の前提となっている?)

領地主義は,パレスチナは実際の望みなきをもって,ユダヤ人は或る他の地域に集中せざるべからずと主張せり。

すなわち,そは北アフリカの未開地方か,或いは中央アメリカ又はオーストラリアかの何れか或る適当なる土地の発見に努力す,

然れども,そは何ら挙示すべき一定のものを有せず。

これらの一個の土地のため故国を捨つべきユダヤ人が,同化より庇護せられ,また将来彼ら自身の文化を発展すべきは明白なり。

然れども問題は,かかる国にユダヤ団体を定住せしむることが可能なりや否やにあり。

こはすこぶる重大なる疑問なり。

第一,ヨーロッパユダヤ人の植民に適合せる一地区が甚だ容易に発見せらるべしとは極めて信じ難し。

すなわちウガンダは確かに大植民地に適せざりき。

然れどもかかる国土が仮に存在すとするも,人煙希薄なる未開の国の植民は,

勢力ある国家すらなお,しばしば打ち勝ちがたき大なる困難を提起す。

いわゆる領地主義者がかかる土地を可とするは,ただ,パレスチナより困難少なかるべしと考えるがためにして,

彼らはその困難をあまりに軽視するの嫌いあり。

パレスチナは事実,植民地においては存せざる政治的障害を提起するやも計るべからず。

然れどもその社会的及び経済的困難はこれに比して軽微なり。

最も好都合なる事情の下においても,外国の一地域に,今日既にパレスチナに定住せるだけのユダヤ人を定住せしむるには,

数多の年月を要するならん。

しかしてその時までには恐らく,かかる事業の無益なりしこと分明し,

しかして今日,一大規模におけるパレスチナのユダヤ移民を妨ぐる政治上の困難は,

最早存ぜざるに至るべし。

されど未開植民地にあらずして,メソポタミア或いは小アジアにユダヤ人を定住せしめんとする場合には,

これとやや趣を異にすべし。

ここにパレスチナに比して,より大なる経済上の困難はなかるべきも,

ユダヤ人が古き郷国に対して観ずる熱誠,また,パレスチナ植民上に極めて価値ある熱誠はもちろん,

この場合に存在せざるべし。

然れどもトルコ政府が,パレスチナよりもメソポタミア或いは小アジアのユダヤ植民を喜ぶのふうは毫もこれ無きなり。

さればこは論議の必要なし。

***

■パレスチナへの復帰

4. パレスチナにおける独立の予想(ユダヤ民族主義)

領地主義者が唯一の論拠とするところは,東欧ユダヤ人の間の窮状

――そは,たとい漠然たるものにもせよ――は実に惨憺(さんたん)たるものあり,

もしこれを改善せんとする者あらば,直ちに賛助者を得べしと言うにあり。

ユダヤ民族主義は,他のかかる冒険的計画たるよりも,さらに以上のものなりや。

東方ヨーロッパと植民諸国とにおいては実行せられざるように見ゆるものは,

パレスチナにおいて果たして可能なりや。

吾人は直ちに然りと答うるあたわず。

然れども吾人は,直ちに,

先に列挙したる困難の多くはパレスチナが独立のための土地として提起せらるるや否や消滅し,

或いは然らざるまでもその威力を減少すると言い得るなり。

その気候は健康に宜しく,且つヨーロッパユダヤ人の居住を許容す。

パレスチナは充分に開化し,また近代生活と密接に交渉するをもって,

新未開国において遭遇する如き植民の困難より免るるを得るなり。

されど,これと同時に,そはユダヤ人が非ユダヤ人と結合せんとするの意を起こすほどまでには開化せず。

そは文化の点において,ユダヤ人に必要なる環境を正確に提供す。

すなわち,そは彼らを阻害するまでには遅滞せず,また彼らを他に転移せしむるまでには進まざるなり。

パレスチナはトルコ――幾多の少国民より成れる一国――に属し,

また同時にユダヤ人を常に他国民と同等なる国民として取り扱う唯一の国家なり。

(国際連盟(1920-1946)はパレスチナの地に,イギリスが統治を行う委任統治領を創設(1920-1948)。

英国は1918年にパレスチナの占領統治を開始し,1920年から高等弁務官による民政を開始。)

パレスチナは一の農業国にして,また今後幾十年間,農業国たるを失わざるべし。

これをもって,そは或る商業的職業を可として農業を委棄するよう農業移民を誘惑することなし。

今日,パレスチナには,ほぼ10万のユダヤ人あり。

しかして,そこに植民事業は最近30年の間行わる。

これら事実の重要なることを言い尽くすは不可能なり。

かくしてユダヤ団体の感情と情操とは,全ての他の国よりも,さらに密接にユダヤの古代の故国たるパレスチナと結合せらるるなり。

吾人にして,もしこの一切に加うるに,農業生活への復帰並びにヘブライ語の復興のため,パレスチナが特に好都合なりとせる以上の記述を記憶せんには,

吾人はユダヤ団体の定住と彼ら自身の文化発展のため,

パレスチナは他の一切諸国に優れるという結論に到達せざるべからず。

パレスチナに一ユダヤ居住地を提議せし最初のユダヤ人は,

パレスチナが宗教的に歴史的に重要なりとの意識が甚だ多数のユダヤ人中に覚醒せしめたる感情の力より発せるものにして,

実際的動機より出でたるにあらず

彼らの感情の正当なることは証明せられ,且つ,そは本能の歴史になお一個の例を添加するものにして,

本能は理性に先んじ,あとに至り理性によりて証明せらるるものなり。

もしヨーロッパのユダヤ人の一部にしてパレスチナに帰るべしとせば,

吾人はかの2500年以前に行われたりしシオンへの復帰(Edict of Cyrus(BC539)による)を再び目撃することとならん。

当時ユダヤ人の一部は,バビロン追放後パレスチナに帰来せるなり。

歴代志下 第36章

36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り,主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため,ペルシャ王クロスの霊を感動されたので,

王はあまねく国中にふれ示し,またそれを書き示して言った,

36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う,

『天の神,主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって,主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。

あなたがたのうち,その民である者は皆,その神,主の助けを得て上って行きなさい』」。

エズラ記 第1章

1:1 ペルシャ王クロスの元年に,主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため,ペルシャ王クロスの心を感動されたので,

王は全国に布告を発し,また詔書をもって告げて言った,

1:2 「ペルシャ王クロスはこのように言う,天の神,主は地上の国々をことごとくわたしに下さって,主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。

1:3 あなたがたのうち,その民である者は皆その神の助けを得て,ユダにあるエルサレムに上って行き,イスラエルの神,主の宮を復興せよ。

彼はエルサレムにいます神である。

1:4 すべて生き残って,どこに宿っている者でも,その所の人々は金,銀,貨財,家畜をもって助け,そのほかにまたエルサレムにある神の宮のために真心よりの供え物をささげよ」。

1:5 そこでユダとベニヤミンの氏族の長,祭司およびレビびとなど,すべて神にその心を感動された者は,エルサレムにある主の宮を復興するために上って行こうと立ち上がった。

1:6 その周囲の人々は皆,銀の器,金,貨財,家畜および宝物を与えて彼らを力づけ,そのほかにまた,もろもろの物を惜しげなくささげた。

1:7 クロス王はまたネブカデネザルが,さきにエルサレムから携え出して自分の神の宮に納めた主の宮の器を取り出した。

1:8 すなわちペルシャ王クロスは倉づかさミテレダテの手によってこれを取り出して,ユダのつかさセシバザルに数え渡した。

1:9 その数は次のとおりである。

金のたらい一千,銀のたらい一千,香炉二十九,

1:10 金の鉢三十,銀の鉢二千四百十,その他の器一千,

1:11 金銀の器は合わせて五千四百六十九あったが,

セシバザルは捕囚を連れてバビロンからエルサレムに上った時,これらのものをことごとく携えて上った。

その時バビロンは――今日のヨーロッパの如く――文化の中心にして,また同化の暖床(温床)なりき。

今日のヨーロッパユダヤ人におけるが如く,僅かに少数者のみが安楽なるバビロン生活を棄てて荒蕪なるパレスチナに行かんと決心するを得たるのみ。

然れども少数なる一握りのユダヤ人は,再び発育して一の国家となり。

よく独得の文明を確立し得たるなり。

この思想は,現今のユダヤ人を鼓舞するならん。

しかして吾人が最後の1章においてユダヤ民族主義

――パレスチナにおけるユダヤ種族の国家的存続を目的とする運動(シオニズム) ――

を論ずるは誠に至当の事実たるなり。

***

アルツール・ルッピン著『現今のユダヤ種族』[1920年独語版],第17章

17. Kapitel.   Die räumliche Konzentration der Juden.

a) Räumliche Konzentration und eigene Kultur.

Daß ein enges Zusammenwohnen der Juden nötig ist,

um sie gegen die Assimilation zu schützen,

der sie in ihrer heutigen Lage als kleine zerstreute Minderheit verfallen sind, haben wir bereits früher hervorgehoben.

Wie ein Heer in Feindesland viel eher aufgerieben wird, wenn es in kleine Häuflein zersprengt,

als wenn es an einem oder einigen Punkten konzentriert ist,

so können auch die Juden der Assimilation dann am ehesten widerstehen, wenn sie in ansehnlichen Massen geschlossen zusammenwohnen.

Dieser Verteidigungswert der räumlichen Konzentration ist aber nicht ihr einziger Wert;

sie wirkt auch positiv für die Schaffung eigener wissenschaftlicher und künstlerischer Werke.

Es ist fast eine Trivialität, darauf hinzuweisen,

daß auch das größte Genie in seinem Schaffen in hohem Grade von der Umwelt beeinflußt wird,

daß seine Werke nicht nur den Stempel seines Geistes, sondern auch den Stempel seiner Umgebung tragen. (p. 236, l. 3) 

Wenn diese Umgebung unjüdisch ist, kann das schöpferische Produkt der Juden nicht oder nur zum kleinen Teile jüdisch sein.

Deshalb kann es heutzutage zwar jüdische Künstler geben, aber keine jüdische Kunst.

Eine solche setzt ein jüdisches Milieu, d. h. in erster Linie eine räumlich zusammenwohnende jüdische Masse voraus.

Nur in solchem Milieu wird der schaffende Künstler nicht von dem Urteil fremder Rassenzugehöriger abhängen,

sondern von seinen Blutsgenossen seine Wertung und neue Anregung erhalten und frei aus seiner Rasse heraus für seine Nation schaffen.

Wo haben Juden die Möglichkeit, in geschlossenenMassen zusammenzuwohnen?

Nicht jedes beliebige Land kommt für solche räumliche Konzentration in Frage, sondern nur ein Land,

in dem die Juden die früher erwähnten Erfordernisse für die Schaffung einer neuen jüdischen Kultur erfüllen können:

die Verbreitung auf alle Berufsarten einschließlich der Landwirtschaft und den Gebrauch der eigenen Sprache in eigenen Schulen.

Das zu wählende Land muß also die Rückkehr der Juden zu den nichtkommerziellen Berufen, insbesondere zur Landwirtschaft,

und den nationalen Zusammenschluß der Juden begünstigen oder wenigstens nicht hindern.

Bisher sind auf die Frage, in welchem Lande Juden in kompakten Massen zusammenwohnen und eine gefestigte jüdische Gemeinschaft bilden könnten,

drei verschiedene Antworten gegeben worden.

Es sind ebenso viele Manifestationen des Willens zum Leben, des Willens, die Juden als Volk gegenüber den assimilierenden Einflüssen zu erhalten,

und jede von ihnen verdient deshalb eine ernsthafte Erörterung.

Die erste Antwort ist, daß die Juden sich in Osteuropa konzentrieren und national organisieren sollen;

die zweite Antwort, die Israel Zangwill gibt, verweist auf die von Europäern gar nicht oder wenig besetzten Gebiete Afrikas und Amerikas;

die dritte Antwort, die Antwort der Zionisten, hält allein in Palästina eine Juden-Konzentration für möglich. (p. 236 - p.237) 

***

b) Aussichten der Konzentration in Osteuropa.

Die erste Antwort scheint die nächstliegende zu sein.

In Osteuropa bilden die Juden schon heute in einzelnen Bezirken etwa ein Fünftel der Gesamtbevölkerung-.

Eine weitere Zuwanderung von Juden in diese Bezirke aus anderen Bezirken macht keine großen Schwierigkeiten,

weil die Entfernung gering ist und die Juden in dem neuen Gebiete ungefähr dieselben wirtschaftlichen und klimatischen Verhältnisse antreffen wie in dem Abwanderungsgebiete.

Eine eigene Sprache braucht nicht erst geschaffen zu werden, sie wäre im Jüdischen bereits gegeben.

Aber auf der anderen Seite bietet diese Lösung, obwohl sie durchaus nicht als undiskutabel bezeichnet werden kann, große Bedenken.

Man kann davon absehen, daß heute in Rußland durch das Gesetz den Juden die Übersiedlung in die Dörfer,

d. h. die Aufnahme der Landwirtschaft verschlossen ist und daß die örtliche Konzentration der Juden von der Regierung,

die in einem Unifizierungsstreben auf die Zertrümmerung aller Nationalitäten hinarbeitet, gewiß mit aller Kraft bekämpft werden würde.

Gesetze und Regierungsmaßnahmen unterliegen dem Wandel der Zeit;

und in Österreich mit seiner gesetzlichen Gleichberechtigung der Juden und der Anerkennung aller Nationalitäten fallen diese Schwierigkeit überhaupt fort.

Aber zwei andere Schwierigkeiten bleiben bestehen:

die Rückkehr zur Landwirtschaft wird in Osteuropa nicht gelingen und die Ausbildung einer neuen jüdischen Kultur wird großen Störungen ausgesetzt sein.

Europa ist auf dem Wege zur Industrialisierung;

für die Juden eröffnen sich damit neue lohnende Erwerbsquellen,

und selbst wenn es gelänge, sie der Landwirtschaft zuzuführen, besteht bei dem geringsten Mißerfolg die Gefahr,

daß die Juden die ihnen unbekannte Tätigkeit wieder verlassen und zu Handel und Industrie zurückkehren.

Man kann nicht zwei Jahrtausende der Landwirtschaft fernbleiben und sich dann wieder sofort in ihr heimisch fühlen.

Ähnlich verhält es sich mit der Ausbildung einer neuen jüdischen Kultur.

Osteuropa liegt den großen europäischen Kulturen zu nahe.

Die Juden brauchen, um eine neue jüdische Kultur hervorzubringen, für einige Zeit eine ruhige Entwicklung, abseits von den großen Kulturen. (p. 238, l. 1) 

In dem Strome der Assimilation, der sie in Europa umflutet und aus der jetzigen Überlegenheit der anderen Kulturen über die jüdische Kultur andauernd neue Nahrung erhält,

können sie ihre eigene Nationalität und Kultur nicht ungestört ausbilden.

Sie wären fortwährend in Versuchung, das, was sie dicht neben sich oder unter sich sehen, einfach nachzuahmen

und so nicht eine jüdische Kultur, sondern einen schlechten Ableger der polnischen, deutschen oder russischen Kultur zu bilden.

Tatsächlich hat die Idee einer Konzentration der Juden in Osteuropa bisher nur wenig Verfechter gefunden.

Man spricht zwar vielfach von einer nationalen Autonomie der Juden,

d. h. ihrer gesetzlich gewährleisteten Vertretung als Nation in den gesetzgebenden Körperschaften

und den größeren Selbstverwaltungskörpern im Verhältnis ihrer Zahl (ohne räumliche Konzentration).

Besonders in Galizien und der Bukowina bildet die nationale Autonomie eine Hauptforderung der national gesinnten Juden.

Aber diese nationale Autonomie vermag weder einen dauernden Schutzwall gegen die Assimilation zu bilden noch eine national-jüdische Kultur zu schaffen,

solange die Juden so zerstreut und so wenig in der Landwirtschaft heimisch sind wie jetzt in Österreich und Galizien.

Eine gewisse Verlangsamung des Assimilationsprozesses kann allerdings durch eine staatlich bestätigte nationale Zusammenfassung der Juden eintreten

— und das ist wohl der Grund, weshalb in Galizien und der Bukowina auch die Zionisten, deren Ziel doch Palästina ist,

für die nationale Autonomie eintreten.

***

c) Aussichten der Konzentration in Kolonialländern (Territorialismus).

Osteuropa bietet einer Konzentration von Juden viele Schwierigkeiten.

Sind vielleicht die noch wenig besetzten Kolonialländer besser geeignet?

Von konkreten Vorschlägen in dieser Beziehung ist nur das von den Zionisten abgelehnte Angebot der englischen Regierung bekannt,

ihnen Uganda für die Besiedlung mit Juden freizugeben.

Israel Zangwill, der damals vergeblich für die Annahme des Uganda-Angebots eintrat und inzwischen als Verfechter des „Territorialismus''

— d. h. der Idee, daß sich die Juden, falls Palästina unerreichbar ist, in irgendeinem anderen Territorium konzentrieren müssen —

nach anderen geeigneten Territorien gesucht hat,

scheint an einige wenig bewohnte Gebiete Nordafrikas oder Mittelamerikas oder Australiens zudenken,

doch ist Genaues darüber nicht bekannt. (p. 239, l. 7) 

Zweifellos würden die Juden, wenn sie aus ihren Heimatländern in eins dieser Kolonialländer zögen,

aus den Banden der Assimilation befreit sein, und der Weg zu einer eigenen Kultur wäre frei.

Die Frage ist nur, ob es möglich ist, Juden in Massen in einem dieser Länder anzusiedeln.

Darüber erheben sich die allergrößten Zweifel.

Zunächst ist es sehr unwahrscheinlich, daß ein gutes,

d. h. für Besiedlung mit europäischen Juden geeignetes Kolonialland so leicht zu haben sein wird;

Uganda war sicherlich für eine Massenbesiedlung nicht geeignet.

Aber selbst wenn dies der Fall wäre,

sind die Schwierigkeiten der Besiedlung eines unbewohnten

und dem Verkehr noch nicht erschlossenen Koloniallandes so riesengroß,

daß ihre Überwindung selbst mächtigen Staaten kaum gelingt.

Bedenkt man, daß die sogenannten Territorialisten nach diesen Kolonialländern nur deshalb Umschau halten,

weil sie ihre Besiedlung für leichter halten als die Palästinas,

so muß man erkennen, daß die Schwierigkeiten hier und dort nicht richtig gewertet sind.

In Palästina mag es politische Schwierigkeiten geben, die bei einem Koloniallande wegfallen.

Aber dafür sind die wirtschaftlichen Schwierigkeiten unvergleichlich geringer.

Bis zu der Zeit, wo in einem Koloniallande soviel Juden angesiedelt sind,

wie sich heute bereits in Palästina befinden, würden im besten Falle Jahrzehnte vergehen.

Und vielleicht wäre bis dahin die ganze Arbeit nutzlos, weil inzwischen die politischen Schwierigkeiten,

die heute einer jüdischen Masseneinwanderung nach Palästina im Wege stehen, längst weggefallen sein können.

Etwas anderes wäre es noch, wenn statt unbewohnter Kolonialländer etwa Mesopotamien oder Kleinasien für die Besiedlung mit Juden in Frage kämen.

Hier würden die wirtschaftlichen Schwierigkeiten kaum größer sein als in Palästina,

wenn auch die Begeisterung, die gerade für die alte Heimat Palästina unter den Juden herrscht und für die Besiedlung Palästinas so außerordentlich wertvoll ist, fehlen würde. (p. 240, l. 4) 

Aber es sind keine Anzeichen dafür vorhanden,

daß die türkische Regierung einer Konzentration der Juden in Mesopotamien oder Kleinasien größere Sympathie entgegenbringt als ihrer Ansiedlung in Palästina,

und deshalb kann eine Erörterung dieser Frage unterbleiben.

***

d) Aussichten der Konzentration in Palästina (Zionismus).

Der Territorialismus ist nur durch die große Notlage verständlich,

in der die Juden Osteuropas sich befinden und aus der heraus jede auch noch so entfernte Rettungsidee Verteidiger findet.

Ist der Zionismus mehr als eine solche abenteuerliche Rettungsidee?

Ist in Palästina das möglich, was in Osteuropa und in den Kolonialländern undurchführbar erscheint?

Die Frage läßt sich gewiß nicht ohne weiteres mit einem Ja beantworten.

Aber soviel läßt sich doch sagen,

daß viele Schwierigkeiten, denen wir vorhin begegneten, wegfallen oder geringer werden, sobald Palästina zum Konzentrationslande erkoren wird.

Palästina ist gesund und sein Klima läßt die Ansiedlung europäischer Juden zu.

Es ist zivilisiert genug und dem modernen Verkehr genügend erschlossen,

um der Kolonisation nicht die Schwierigkeiten eines neuen Koloniallandes zu bieten,

und auf der anderen Seite wieder nicht so zivilisiert,

daß eine Assimilation der Juden an die nichtjüdische Bevölkerung zu befürchten wäre.

Es bietet in bezug auf Kultur gerade das juste milieu dessen,

was die Juden haben müssen,

um nicht zu sehr abgeschreckt und nicht zu sehr angezogen zu werden.

Palästina gehört zur Türkei, die ein typischer Nationalitätenstaat und zugleich der einzige Staat ist,

in dem die Juden bisher bereits neben den anderen Nationen als gleichberechtigte Nation behandelt wurden.

Palästina ist ein agrikoles Land und wird es auf Jahrzehnte hinaus noch bleiben.

Es besteht also nicht die fortgesetzte nahe Verlockung für die landwirtschaftlichen Ansiedler,

von der Landwirtschaft abzufallen und sich gewerblichen Berufen zuzuwenden. (p. 241, l. 1) 

In Palästina gibt es schon heute fast 100 000 Juden und eine dreißigjährige kolonisatorische Arbeit und Erfahrung, ein Umstand, dessen Wert gar nicht hoch genug geschätzt werden kann.

Und für Palästina, das alte Judenland, als neue Heimat sprechen mehr wie für jedes andere Land die Gefühle und Empfindungen der jüdischen Masse.

Hält man dies alles zusammen mit dem, was wir früher über die Eignung Palästinas für die Wiederaufnahme der Landwirtschaft durch Juden und für die Wiederbelebung der hebräischen Sprache gesagt haben,

so muß man zu dem Schlüsse kommen,

daß Palästina für eine jüdische Massensiedlung mit eigner jüdischer Kultur allen anderen Ländern bei weitem vorzuziehen ist.

Es ist möglich, daß die ersten Juden, welche eine Ansiedlung der Juden in Palästina propagierten,

dazu nicht so sehr durch die oben angeführten sachlichen Erwägungen als durch Gefühle bestimmt wurden,

die in der geschichtlichen und religiösen Bedeutung Palästinas für die Juden wurzelten.

Dann haben sich ihre Sentiments eben nachträglich als richtig erwiesen,

wie ja so oft in der Geschichte das instinktmäßige Streben vorauseilt und erst später durch die Vernunft seine Rechtfertigung findet.

Es würde sich, wenn ein Teil der Juden aus Europa nach Palästina ziehen würde, derselbe Rückzugsprozeß wiederholen,

der vor fast 2500 Jahren eine Anzahl Juden aus dem babylonischen Exil nach Palästina zurückkehren Heß.

Wie heute Europa, so war damals Babylon der Sitz der Hochkultur und

— der Assimilation der Juden.

Nur ein kleiner Teil konnte sich entschließen, das Wohlleben Babylons mit der Einsamkeit Palästinas zu vertauschen,

wie es auch heute bei den europäischen Juden der Fall wäre.

Und doch ist damals aus diesem Häuflein Juden wieder ein jüdisches Volk mit einer eigenen Kultur erwachsen.

Das kann den Juden auch für die Gegenwart Mut geben und läßt es angezeigt erscheinen, die zionistische Bewegung, die für die nationale Fortexistenz der Juden in Palästina eintritt,

im Schlußkapitel einer besonderen Besprechung zu unterziehen.

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右ルッピンの告白はいかにも含蓄あり,難解に見えるが(訳が原文に忠実過ぐ)

前世紀末葉にユダヤの今世紀に行うべき解放策3つを赤裸々に示したことと,

ユダヤ民族が他民族に同化するのを危険として,どこまでも彼ら自らを差別して,自らの力によって行こうというユダヤ国民運動,

すなわち第4章に述べたシオン運動,の精神を充分観取することができる。

■ユダヤ過激労働団隊たるブンドの創立

これだけでは彼らが世界一般に発表しない本心がつかみ得ないから,

他の幾多の断片的に諸文献によりの材料を総合して解剖すれば,

ルッピンも書いている通り,ロシアはユダヤ人に対して,法律をもって諸村落への定住を禁じているのは事実であって,

「ロシア政府は,その国にある一切の少数国民を撲滅せんとの政策をもって,

ユダヤ人の全ての地方的独立にも激しく反対すべきは明らかなり,

然れどもこは或いは消滅することもあるべし。

法律や政策は時の経過とともに変化す」と書いてあるところが,

最も注意を要する点である。

第2論者のイスラエル・ザングウィル(1864-1926)は後年,アメリカ同族に檄を飛ばして

やがてロシアを開化させ……ドイツをもと叫んだことなどと対照して,

消滅云々はロシアの革命(①1905/1/29-1907/6/19,②1917/3/8-1923/6/16)を婉曲に予告したものと見るべきである。

1897年11月にはポーランドの都市ウイルナに,ユダヤ労働団体が組織され,

露・オーストリア・独方面の革命運動の基礎を造った。

その名はドイツ語で付けて,アルゲマイナー・ユディッシャー・アルバイター・ブント・イン・ルツスランド・ポーレン・ウント・リタウェン(Allgemeine jüdische Arbeiterbund in Litauen, Polen und Russland (リトアニア・ポーランド・ロシアの一般ユダヤ人労働組合),1897-)というのであるが,

あまり長いので略して単にブンドと言っていた。

これが,ルッピン博士の区別した第1論者の主張を貫く役目に当たり,

第3論者のユダヤ国民主義者すなわちシオニスト運動に反対をした。

先年,ハルビンでブンドの檄文を手にしたが,この傾向が明瞭になっていた。

すなわち,

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今日の社会はブルジョアプロレタリアの2階級に区分することができる。

しかしてユダヤ国を復興し政府を建てようとするもの(シオニストらのこと)は,貧民擁護の仮面を被った資本家の手先である(中略)

パレスチナにユダヤ国政府を建てんと画策するロイド・ジョージ(1863/1/17-1945/3/26)バルフォア(1848-1930)ミルラン(1859-1943)(注: 前記元仏国大統領本名カーンと呼ぶユダヤ人)らは,

ユダヤ人を盲人と認めているのであろう。

ユダヤ人は須く赤旗を押し立てて,資本主義と戦わなければならない。(中略)

ユダヤ労働者を擁護するものはブンド以外にはない。

かのシオン団なるものはただ,英国の利益を主眼として,ユダヤ人の利益を無視し労働者を奴隷視しつつある。

吾人は飽くまで彼らを排斥しなければならぬ。

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この第1論者の道具立てたるブンドは,革命成立し目的を達した後は,

ロシアではボルシェビキ(1903-1952)に加盟してしまったが,

なおポーランドでは勢力を持ち,

またルーマニア,リトアニア,英国及び米国合衆国内にも分散された同志を有していたのである。

(エンサイクロペディア・オブ・ジューイッシュ・ノーレッジ第87頁参照)

Jacob de Haas編 "The Encyclopedia of Jewish Knowledge" 第87頁

BUND:

First and for years the only Jewish Socialist Party in eastern Europe.

It was organized in Wilna in 1897, as a union of the Russian Jewish socialist groups.

Prior to the World War it maintained an attitude of antagonism to Zionism,

and exercised considerable influence amongst the Jewish masses.

It was dissolved in Russia by the Bolshevist revolution but it still has influence in Poland in economic and cultural matters.

Its Jewish attitudes have to some extent been modified.

The Bund accepts the political philosophy of Dubnow (1860-1941) and supports the theory and rights of national-cultural minorities,

and is the advocate of Yiddishism, and Yiddish speech.

It has affiliates scattered in Roumania, Lithuania, England, and the United States.

第2論者のイスラエル・ザングウィル(1864-1926)の提案に共鳴して,ウガンダを英国からユダヤに渡そうとした人は,

時の外務大臣ジョゼフ・チェンバレン氏(1836/7/8-1914/7/2)である

(皇紀2600年(西暦1940年)末死去したネヴィル・チェンバレン氏(1869-1940)の先代)

この第2論者のウガンダ建国に反対した人々の嘲笑は,

いかにユダヤ人が土地を要するからとは申せ,

ヴィクトリア湖の周囲の山奥で綿の産地に過ぎない,直ぐ隣りには未だに人猿の中間に位するホッテントット族の居住する山奥へ追い込まれてまで建国をするのは良くない,

こんなことでユダヤ解放が一進展したなどと,気の緩むようなことがあったらかえって弊害が多いと,強硬な反対をした。

第3論のパレスチナを是非とも復興したいというのは,

同地が神様から必ず返してやるということになっているいわゆる「約束の土地」であるから,建国の土地は必ずパレスチナに限るということである。

創世記第12章・第15章

12:1 時に主はアブラムに言われた,「あなたは国を出て,親族に別れ,父の家を離れ,わたしが示す地に行きなさい

12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし,あなたを祝福し,あなたの名を大きくしよう。

あなたは祝福の基となるであろう。

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し,あなたをのろう者をわたしはのろう。

地のすべてのやからは,あなたによって祝福される」。

12:4 アブラムは主が言われたようにいで立った。

ロトも彼と共に行った。

アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。

12:5 アブラムは妻サライと,弟の子ロトと,集めたすべての財産と,ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち,カナンの地にきた。

12:6 アブラムはその地を通ってシケムの所,モレのテレビンの木のもとに着いた。

そのころカナンびとがその地にいた。

12:7 時に主はアブラムに現れて言われた,わたしはあなたの子孫にこの地を与えます

アブラムは彼に現れた主のために,そこに祭壇を築いた。

12:8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。

西にはベテル,東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて,主の名を呼んだ。

12:9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。

12:10 さて,その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと,そこに下った。

ききんがその地に激しかったからである。

12:11 エジプトにはいろうとして,そこに近づいたとき,彼は妻サライに言った,「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。

12:12 それでエジプトびとがあなたを見る時,これは彼の妻であると言ってわたしを殺し,あなたを生かしておくでしょう。

12:13 どうかあなたは,わたしの妹だと言ってください。

そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり,わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。

12:14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て,たいそう美しい人であるとし,

12:15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので,女はパロの家に召し入れられた。

12:16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので,アブラムは多くの羊,牛,雌雄のろば,男女の奴隷および,らくだを得た。

12:17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに,激しい疫病をパロとその家に下された。

12:18 パロはアブラムを召し寄せて言った,「あなたはわたしになんという事をしたのですか。

なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。

12:19 あなたはなぜ,彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。

わたしは彼女を妻にしようとしていました。

さあ,あなたの妻はここにいます。

連れて行ってください」。

12:20 パロは彼の事について人々に命じ,彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。

***

15:1 これらの事の後,主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ,「アブラムよ恐れてはならない,わたしはあなたの盾である。

あなたの受ける報いは,はなはだ大きいであろう」。

15:2 アブラムは言った,「主なる神よ,わたしには子がなく,わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに,あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

15:3 アブラムはまた言った,「あなたはわたしに子を賜わらないので,わたしの家に生れたしもべが,あとつぎとなるでしょう」。

15:4 この時,主の言葉が彼に臨んだ,「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。

あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。

15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた,「天を仰いで,星を数えることができるなら,数えてみなさい」。

また彼に言われた,「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。

15:6 アブラムは主を信じた。

主はこれを彼の義と認められた。

15:7 また主は彼に言われた,「わたしはこの地をあなたに与えて,これを継がせようと,あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。

15:8 彼は言った,「主なる神よ,わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。

15:9 主は彼に言われた,「三歳の雌牛と,三歳の雌やぎと,三歳の雄羊と,山ばとと,家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。

15:10 彼はこれらをみな連れてきて,二つに裂き,裂いたものを互に向かい合わせて置いた。

ただし,鳥は裂かなかった。

15:11 荒い鳥が死体の上に降りるとき,アブラムはこれを追い払った。

15:12 日の入るころ,アブラムが深い眠りにおそわれた時,大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。

15:13 時に主はアブラムに言われた,「あなたはよく心にとめておきなさい。

あなたの子孫は他の国に旅びととなって,その人々に仕え,その人々は彼らを四百年の間,悩ますでしょう。

15:14 しかし,わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。

その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。

15:15 あなたは安らかに先祖のもとに行きます。

そして高齢に達して葬られるでしょう。

15:16 四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。

アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。

15:17 やがて日は入り,暗やみになった時,煙の立つかまど,炎の出るたいまつが,裂いたものの間を通り過ぎた。

15:18 その日,主はアブラムと契約を結んで言われた,わたしはこの地をあなたの子孫に与える。

エジプトの川から,かの大川ユフラテまで。

15:19 すなわちケニびと,ケニジびと,カドモニびと,

15:20 ヘテびと,ペリジびと,レパイムびと,

15:21 アモリびと,カナンびと,ギルガシびと,エブスびとの地を与える

しかして後章説く如く,第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)の第4年(1917年)11月2日に英国バルフォア外相(1848-1930,外相: 1916/12/10-1919/10/24)宣言によって,

第3論者の宿願は成就し,

5日経った11月7日にモスクワに共産革命が成立し,

ブンド派が尽力したユダヤ政府とも称すべき労農政権が確立したのであった。

これがいかなる経過を取ったかは,後章に述べる。

ただ本章には,このユダヤ解放問題が第1次世界大戦の陰に潜む大きな目的物であったことの示唆を与えておくにとどめる。

バルフォア宣言 (Abraham Tulin著 「Analysis of British Policy in Palestine」第6頁にあるものを抜粋)

Foreign Office,

November 2, 1917.

Dear Lord Rothschild (1868-1937),

I have much pleasure in conveying to you on behalf of His Majesty's Government the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations,

which has been submitted to and approved by the Cabinet:

"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people,

and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object,

it being clearly understood that nothing shall be done

which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country."

 

I should be grateful if you would bring this Declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

Yours sincerely,

(signed) Arthur James Balfour.

***

第7章 第1回シオン長老会議

附 シオン議定書について

会議の要点4項

議定書は当時の起案にはあらざるべし

ユダヤ側の議定書否定論

議定書は大英博物館に収蔵しあり

偽文書問題に関するベルン裁判

偽文書にあらざることをユダヤ人告白す

第6編 近代のユダヤ運動

第1章 概説

■日露戦争をロシア革命に利用

前世紀の末年(1900年)から今世紀初頭にかけ,

東に団匪事件(1900-1901)あり,南に南ア戦争(1899-1902)あり,東西にわたって米西戦争(1898)あり,

再び東亜に日露戦争(1904/2/6-1905/9/5)が起こって平和は撹乱され,

その間に多少ユダヤ人の活躍は伝えられたが,

最も目立ったのは日露戦争間におけるユダヤの日本に対する財政的援助とロシアに対する革命運動である。

かのニューヨークの金融財閥クーン・ローブの巨頭ヤコブ・シフ(1847-1920)が,

我が財務官高橋是清氏(1854-1936)に対し,2億5千万の戦債募集に応じた(1904/5/2~)ことは厚意に感激する日本人の今もって忘るるあたわざるところで,

日本政府はシフ氏を勲二等に叙したのである。

その応募の目的が那辺にあるにかかわらず,日本としては大いに感謝の意を表するが当然であった。

ただ,何がために蕞爾(さいじ)たる島国日本に一六的にカネを出したかを考えると,

そこに彼らがロシアを打ち負かし,革命を起こさせて600万人のユダヤ同胞の解放をやりたいという,

前世紀末以来の燃ゆるようなユダヤ解放第一論者の考えが動いたことは当然のことである。

日露戦争第1年から既にそこの社会党等は,時節到来と喜んで各種の運動を始めたこと,

並びに,露骨にも既に説いたユダヤ労働団体ブンドまで乗り出したことは,

スピリドーウィチ(1873-1952)著『露国に於けるボルシェヴィズムの歴史,発生より政権奪取まで,1883年―1903年―1917年』()という書物の上巻に散見する

(スピリドーウィチ氏は,国家保安部及び宮廷親衛隊の中で警視総監まで務めた,あらゆる革命運動と戦った人物である)

レーニン(1870-1924)(本名ウリヤノフというユダヤ系)やユダヤ人アクセルロッド(1850-1928)(後,モスクワ政府の新聞局長)の名も1905年のロシア革命(1905/1/29-1907/6/19)に出ているのである。

クーン・ローブ銀行団が(第1次)世界大戦(1914-1918)間に再びロシア革命(1917/3/8-1923/6/16)の準備に奔走し,1200万ドルのカネを出したことは,

後に詳説するが,

日露戦争当時から目的は一貫している。

この1905年革命は失敗に終わったが,

ロシアの弱点は暴露し,世界大戦間決行した本格名の小手調べ,予行演習となったことは争われない事実である。

また日露戦争間のロシア革命について,フリーメイソンが各国から応援したことは当然であるが,

世界大戦後に至り,次の如く暴露された。

--------------------

1905年4月発行のフランスのフリーメイソン新聞アカシアは,

「共和党及び仏国フリーメイソン全部は,

ロシア革命が間もなく成功を収めることについて多大な望みを嘱するものである。」

--------------------

またドイツユダヤ人ベルンスタイン(1850-1932)は,1906年の社会主義雑誌に,

--------------------

ロシア革命のため,ユダヤ人がいかに活動したか,また現に活動しつつあるかは世間周知のことである。

--------------------

と述べている。

フリーメイソン公認を拒絶した首相殺さる

1905年のロシア革命は,当時まだロシア人が革命の洗礼を受ける程度に進んでいなかったため,

前記アカシア紙の希望は実現されなかった。

その代わりフリーメイソンはロシア政府に対し,公然フリーメイソンを承認することを要求したが,

首相ストルイピン(1862/4/14-1911/9/18,任期: 1906/7/21-1911/9/18,内相: 1906/4/26-1911/9/18)頑としてこの要求を退けた。

その理由とするところは,

--------------------

フリーメイソンの目的とする社会事業は,政府の監督下にある公然の結社でも充分その目的を達成することができる。

然るにフリーメイソンの政治上の目的は,ロシアにおいて19世紀の初め禁止された時以来今日まで,毫も変更されていない。

--------------------

というにあった。

このストルイピンは1911年9月14日,ユダヤ人ヘルシコウィチ・ボグロフ(通称ドミトリー・モーテル)(1887/2/10-1911/9/25)によって暗殺された。

このユダヤ人は秘密警察の一員に潜り込み,ある劇場で皇帝の目前でストルイピンを射殺したのである。

この暗殺によって誰が利益を得たかは特に書く必要がない。

(以上3項,ウイヒテル博士(1872-1921)著『フリーメーソンと世界革命』の邦語訳第111112頁)

■ロンドンから革命日100万ポンドをロシアに送る

なお英国のモーニングポスト(1772-1937)在露通信員であったヴィクター・マースデン(1866-1920)『ロシアにおけるユダヤ人及び半血・改宗ユダヤ人』(露語原著? 英露訳本?)にも,

--------------------

1905年に100万ポンドのカネが反乱費としてロンドンから,ロシアに送られた。

ロシア政府は英国が送金したことを発表した1人の官吏の行為について,謝罪せざるを得なかった。

このカネは全世界にわたるユダヤ人に檄を飛ばしてロンドンで集金し,そこからロシアに送ったもので,

英国から送ったのではない云々。

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と書かれている。

いかに前世紀末のユダヤ解放策の第1案に対する同士が世界に散在しているかが分かる。

その後1907年頃から,バルカン支那大陸に革命とか一国対一国の戦争があり,

火薬の臭いはしてきたが,

終に1914年に世界大戦は勃発した。

この第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)には,世界革命(又は複数の国々での革命)が伴い,

ただに地図の塗り替えが行われたばかりでなく,

国際政局・経済・文化・思想の各方面にわたって,一大変革がもたらされ,

しかもその治まりが無理をしてあるために,今回の大戦を巻き起こしているのである。

しかして第1次世界大戦には,ユダヤ・フリーメイソンが陰にも陽にも大活躍をしているのであるから,

今世紀における一大事件として特に1章を設けて,ユダヤ・フリーメイソンとの関係を説く。

第2章 第1次世界大戦

現大戦は第1次世界大戦の第二幕

第1次世界大戦(1914-1918)は20年前に終わりを告げ(原著初版出版は1941年7月)

今や第2次世界大戦の幕が開かれつつある際に,

第1次世界大戦の原因や様相を研究するなどは,暇人のやることなどと考えると,

大いなる錯誤に陥るので,

実は人類の実演する大連鎖劇の第1幕と第2幕の関係である。

第1幕の精神が分からなければ,第2幕は分からぬ,

したがって現今,相手役の腹が分からずに舞台に現れてヘマばかりを演出することになる。

故に煩瑣(はんさ)いとわず本章を精読せられることを希望する。

右述べた第1幕の精神のことについて,今から13年前の英国議会において,

ロバート・セシル卿(1864-1958)という国際連盟(1920-1946)に熱心な人が英国民に警告して曰く,

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先般の世界戦争が終わってここに10年経ったが,未だその戦争の本当の原因が分からぬではないか。

本当の原因が分からぬとすれば,いつ何時,再び大戦争が起こらぬとも限らぬ。

これが起こらぬと断言することができるか。

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誠に正直な議論である。

第1次世界大戦の真の原因大戦終わってなお言わる

普通に歴史家・評論家の説く前大戦の原因というのは,

英独の海上争覇戦であるとか,

汎ゲルマニズムの東進と,汎スラヴィズムの南進との衝突であるとか,

1870年・71年の独仏戦争(1870/7/19-1871/5/10)の戦い直しとかがよく挙げられる。

これらは決して間違いではなく,その何れもが原因の中にあると思う。

けれどもこれらの諸原因による闘争を我慢するものはさせ,一挙に総合してあれだけの大戦争に組み立てたのには,

天意ばかりでなく人為的な努力が払われている。

それはユダヤ・フリーメイソンの人々の実際の活躍とその告白で明瞭である。

先ずその客観的事実から言えば,

既に述べたユダヤ解放のため,東ヨーロッパ,殊にユダヤ人の虐待されているロシア・ドイツ・オーストリア3国の政治状態変革である。

しかして1907年第2インターナショナルシュツットガルトで会議した通り,

かかる変革は戦争によらなければ不可能であるから,

戦争の起こる種子を培養しこれを宣伝しなければならぬ。

それで表面上の幾多の抗争の種子は,フリーメイソンたる政治家の手で培養され,

(まき)は積まれた,

これに火を付けたのはユダヤ人とフリーメイソンとであった。

オーストリア皇嗣の暗殺は確かに薪に点火

薪を積み重ねる表面の仕事を叙するのは1巻の書物を要し,

またこのほうのことは他に説く人が多いから,

ここにはこれを省略して,火を付けたところから説くことにする。

前述の如く,今世紀初めからバルカン方面の形勢は複雑化し,

三国同盟(1882-1915)三国協約は対立したが,

特にオーストリアは1878年に占領したボスニア・ヘルツェゴビナ併合する(1908/10/8)に及んで,

ますますセルビアとの間の関係は面倒になってきた。

1914年6月下旬,オーストリアの皇儲(こうちょ)フェルディナンド大公(1863/12/18-1914/6/28)公妃(1868/3/1-1914/6/28)とともに,新領ボスニアに旅行し,

28日その首都サラエボに赴いた。

サラエボは人口約6万の小都会で,

そのうち約5千人はユダヤ人であるところのユダヤ色濃厚の町である。

これが世界大戦爆発の火花の一閃(いっせん)したところである。

その皇儲暗殺の経緯につきフリーメイソン活躍の次第が,オーストリアのウイヒテル博士の著『フリーメーソンと世界革命』の中に詳報されているから,

これを左に摘録する。

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1912年5月23日,ベオグラードに創設せられたセルビア・フリーメイソンの最高会議が,

1914年5月31日,フランクフルト・アム・マインに開催したドイツ・グランドロッジの会合で承認を受けた。

その4週間後の6月28日,オーストリア皇儲フランツ・フェルディナンド大公は,サラエボにおいて

セルビア・フリーメイソン結社員のために暗殺された。

■暗殺は実行の2年前フリーメイソンにて決定

この結社員らは大セルビア秘密結社ナロードナ・オドブラナ(国民軍)(Narodna odbrana)

(セルビアのフリーメイソンはこの政治的秘密結社との結合により,その力を増した)

の援助を受けてこれを実行した。

爆弾投擲(とうてきしゃ)に武器を交付し,その用法を教授したタンコーシッチ少佐(1880/9/20-1915/11/2)も,

暗殺者にブローニングの拳銃及び爆弾を手交したチガトウイツ(チガノウィツ,Milan Ciganović (1888-1927/9/1) ?)も,

ともにフリーメイソン結社員であった。

この両人はナロードナ・オドブラナの指揮者でもあった。

ベオグラードロッジは,大セルビア秘密結社ナロードナ・オドブラナの本部のある家屋内でその集会を催した。

暗殺者中カブリノウィツ(1895/1/20-1916/1/21)はその自白によると,同じくフリーメイソン結社員であった。

暗殺のための費用は,フリーメイソン結社員カジミロウィツ(セルビア人でベオグラード・ロッジの代表者(?))が1914年4月中,仏英両国に旅行して調達した。

これらは全て公文書に記録された事実である。

最後にサラエボの裁判の際,多数の証人は,オーストリア皇儲の暗殺は既に1912年に仏国グランドロッジが決定したことで,

ただ実行者がいなかったためにまだ実行されずにあったことが確かめられた。

今,当時の訴訟調書中,フリーメイソンに関係ある部分を速記録から抜粋してみよう。

■セルビアの暗殺犯人訊問裁判記録

当時の自由主義(フリーメイソン的)な新聞は,この訴訟について全く記載しなかったり,

あるいは記載しても,真相の分からないように切り詰めて書いただけであった。

この暗殺事件に関するロッジの代表者は,セルビア人のカジミロウィツであった。

彼について,被告爆弾投擲者カブリノウィツは次のように述べた。

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[カブリノウィツ] (カジミロウィツ)フリーメイソン結社員で,しかもその領袖株の1人だったと思う。

彼は暗殺を決定した後,全世界に旅行した。

彼はオーフェンペスト(ブダペスト(?)),露国及び仏国にも行った。

予がチガノウィツ(1888-1927/9/1)に,一件はどうなっているかと聞くごとに,

彼は「カジミロウィツが帰って来たなら……」と言うのを常とした。

当時チガノウィツはまた予に向かい,

フリーメイソン結社員は,既に2年前(1912年)オーストリア皇儲に死刑の宣告を与えたが,

この判決の執行者がいなかったのだと語った。

その後,彼が予にブローニングの拳銃と弾薬を渡した時に,

「かの男は昨晩,オーフェンペストから帰って来た」と言った。

予は,この人が吾人の要件と関連して旅行し,且つ外国で或る一定の人々と商議したことを知っている。

[裁判長] (なんじ)の話すことは,作り話ではないか。

[カブリノウィツ] これは全くの事実で,ナロードナ・オドブラナに関する貴方の書類より百倍も本当である。

[弁護人プレムジッツ] 汝はロジツの書を読んだことがあるか。

[カブリノウィツ] 予は彼のフリーメイソンに関する論文を読んだ。

[プレムジッツ] その書類はベオグラードに分配されたか。

[カブリノウィツ] 予は植字工としてこの書の活字を組んだ。

[プレムジッツ] 汝は神あるいは何か或る物を信ずるか。

[カブリノウィツ] 否。

[プレムジッツ] 汝はフリーメイソン社員か。

[カブリノウィツ] (狼狽して暫く沈黙す。次いでブレムジッツに向かい,彼を見て)

彼方(かなた)はなぜ,それを予に聞くのか。

予は,それについては答えることはできない。

[プレムジッツ] タンコーシッチ(1880-1915)は,フリーメイソン結社員か。

[カブリノウィツ] (再び狼狽して沈黙す)なぜ,それを尋ねるか。

(暫く沈黙して後)そうです。それからチガノウィツも,……

[裁判長] それで汝もフリーメイソン結社員だということになる。

何となれば,フリーメイソン結社員は同結社員以外の者に対しては,決して自分がフリーメイソン結社員なることを言わないから。

[カブリノウィツ] そのことは聞いて下さるな,そのことについては答えません。

[裁判長] 問いに答えぬ者は,この問いに対し肯定する者である。

[カブリノウィツ] ……

■フリーメイソンは殺人を許す

[裁判長] 動機についても少し述べよ。

汝が殺意の決心をする前に,タンコーシッチ(1880-1915)及びチガノウィツ(1888-1927/9/1)が,フリーメイソン結社員だということが分かったか。

汝及び彼らがフリーメイソン結社員だということが,汝の決心に影響したか。

[カブリノウィツ(1895-1916)] 然り。

[裁判長] 汝は彼らから暗殺実行の任務を受けたか説明せよ。

[カブリノウィツ] 予は誰からもその任務を受けなかった。

フリーメイソンは,予の決心を強めたという点において予の行為と関係がある。

フリーメイソンでは殺人は許されている。

チガノウィツは予に,フランツ・フェルディナンド大公(1863/12/18-1914/6/28)は既に1年前に死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁判長] 彼はそのことを直ぐに汝に語ったか,それとも汝が実行しようと言った後に語ったか。

[カブリノウィツ] 我々はその以前において,フリーメイソンについて話したが,

彼は我らが確かに殺害の決心をするまでは,我らに対してこの死刑の判決についてはちっとも話さなかった

[裁判長] 汝はチガノウィツと,フリーメイソンについて話したことがあるか。

[ガヴリロ・プリンツィプ(1894/7/25-1918/4/28)] (ユダヤ人,当の下手人) (大胆に) なぜ予にそれを尋ねるか。

[裁判長] 予はそれを知らんと欲するが故に尋ねるのである。

汝は彼と,このことについて話したか,否か。

[プリンツィプ] 話した。彼は彼がフリーメイソン結社員だということも予に語った。

[裁判長] 彼がフリーメイソン結社員だということを,いつ汝に話したか。

[プリンツィプ] 予が殺害実行の費用について彼に問うた時に,彼はそれを言うた。

且つ彼は或る一定の人と話をして,この人からその費用を受けると語った。

また他の機会において,彼は予に,オーストリア皇儲はフリーメイソンの或るロッジで死刑の宣告を受けたことを語った。

[裁判長] そして,汝は! 汝も多分,フリーメイソン結社員だろうね。

[プリンツィプ] 何のためにそんなことを尋ねられるか,(ちょっと間を置いて)予は結社員ではない

[裁判長] カブリノウィツはフリーメイソン結社員か。

[プリンツィプ] 予はそれを知らないが,あるいはそうかも知れない。

彼は話のついでに,或るロッジに入会するはずだと予に語ったことがある。

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以上の裁判記録によっても,暗殺の計画はフリーメイソンから出ていることは極めて明瞭である。

ただ暗殺実行者を得られなかったために,1年以上を経過してしまった。

そこで不思議なる方法で,カブリノウィツ,プリンツィプその他の者に暗殺の考えを起こさせ,

彼らを使って,長らくの間準備した行為を実行させたのである。

その詳細についてはここに述べることができぬが,

ただ調書に基づき,暗殺者らにブローニング・弾薬・金子(きんす)・弾薬を交付したチガノウィツは,

他の者らと同じく,ボスニア生まれで,ベオグラードの鉄道下級従業員であったことを挙げるにとどめよう。

彼はフリーメイソン結社員タンコーシッチ少佐からカネを受け取った。

少佐は豊富にカネを持っていて,自ら武器を購入した。

オーストリアのフリーメイソン新聞は,皇儲暗殺の報を得ても,これに関しその新聞紙上に何も掲載しなかったが,

仏国フリーメイソン新聞アカシアは,この暗殺をもって英雄的事業だと称賛した。

パリにおいては既に1901年(1910年の誤記)に,オーストリア皇室に近く凶変があると予言する者があった。

同時にドイツのホーエンツォルレルン王朝(ヴィルヘルム2世(1859-1941,在位: 1888-1918)のこと)も1910年には終わりを告げるといわれた。

しかし予言の時期は事実よりも5年過早ではあったが,

これによって,この事実に対する努力の始まった時期をば,大よそうかがい知ることができる。

パリの有名な女予言者テーベ夫人(注: タブイ?)(Madame de Thèbes,1860-1937)は,

社会各方面の人士と交際して,その予言の資料を得て,毎年12月に預言書(1914年版1916年版1917年版1925年版)を発表した。

1910年の発表(1912年12月発表の1913年版?)で,「オーストリア皇儲は即位しない。その代わりに,今では皇位継承者ではない青年が即位することになる」といった。

しかしてオーストリア皇室の凶変が,予言した1913年に行われなかった時に,

この予言夫人は一向平気で,「今年は行われなかったが,来年(1914年)前半期には必ず実現する」と予言した。

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以上は,「フリーメーソンと世界革命」邦訳の第88頁乃至第96頁摘載であるが

(原著 Friedrich Wichtl (1872-1921) 著 "Weltfreimaurerei - Weltrevolution - Weltrepublik"-[1919年版][1921年版])

誠に善くこの世界大戦爆発の点火とフリーメイソンとの関係を説いている。

戦後の1930年2月2日サラエボ町には,暗殺者を謳歌(おうか)するような記念碑が除幕されている。

当時世界に飛んだベオグラード発,連合通信(AP通信(1846-)(?))の所報は次のようである。

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1914年6月28日サラエボで,時のオーストリア皇太子フェルディナンド大公殿下(1863/12/18-1914/6/28)を暗殺し,

終に欧州大戦の直接原因を作った無名の一学生ガブリエル・プリンツィプの記念碑がサラエボのちょうど暗殺地点を見下ろす家に作り付けられ,

2日,その除幕式を挙行した。

碑面には,「この歴史的地点において,プリンツィプ自由を宣言す」と刻み込まれており,

約500名の人々が列席して,盛大な除幕式を行い,

「ダルマチアの青年一同」よりとして立派な銀の花輪が捧げられた

(昭和5年(1930年)2月4日 東京日日新聞夕刊)

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この除幕式には国際連盟から事務総長エリック・ドラモンド氏(1876-1951)(ユダヤ系,その後,ロード・バースと改名(1937年にパース伯爵を継承))が列席したとの説がある。

いかにフリーメイソン系からプリンツィプを称賛し,世界大戦をもって自由解放の大事業と目したかがうかがわれる。

なお,サラエボ事件を終わるに当たり注意すべきは,右諸報道中に,

犯人の1人チガノウィツ(1888-1927)が鉄道下級従業員であり,

カブリノウィツ(1895-1916)が活版の植字工であり,

当の下手人プリンツィプ(1894-1918)が無名の一学生となっている。

これらの報道を見て,フリーメイソン結社がこの種の青年から成立するかのような錯誤を起こすと困るから一言する

思うにフリーメイソン結社が1912年に,オーストリア皇儲の暗殺を決議したが,

敢然下手人となる会員がないため,以上のようなにわか仕立てのメイソンを急造したのではないか,

フリーメイソンの会費など相当高くて,学生や労働者の支弁できるものでなく,

また入会までに相当教養の出来上がった紳士が入会するのが多くはないか,

もっともロンドンのオックスフォード大学や米国の大学などには,外国から行って入会する若者もある様子だから,一概には申せぬが,

サラエボの犯人たるメイソンの多数に学生・労働者のあることで,誤解を起こさないように念のため述べておく,

寧ろ各国の上層階級・大学教授などの中に多数の会員を有することに注意すべきであろう。

さて,右オーストリア皇儲及び同妃暗殺につき,オーストリア政府は7月23日,セルビアに対し要求を提出して,

48時間以内に回答を求めた。

この最終通牒に対しセルビアは25日に回答を送ったが,

他の要求は受け入れたが,

犯人の審問及び反オーストリア運動鎮圧に,オーストリア代表者が参加することは拒絶したのであった。

ここにおいていよいよ7月28日,オーストリア・セルビア両国は事実上,戦争状態に入ったが,

これより先,スラブ民族として後見役のかたちであったロシアは,

かねてからセルビアと親善関係を結んで,君府(コンスタンティノープルのこと(?))をその手に収め,黒海を経て地中海に進出せんとするいわゆる汎スラヴィズムから,

セルビアを援助するため,オーストリア抑圧の意味で動員令を発した。

ドイツは三国同盟(1882-1915)の義務で,オーストリア援助のため動員をした。

フランスは三国協商(露仏同盟(1892-1917)・英露協商(1907-?)・英仏協商(1904-))の義務上,ロシアを助けドイツを抑えるために動員した。

ここに全く一触即発の危機に迫ったが,

ドイツのカイゼルは露国皇室と婚姻関係にある(アレクサンドラ・フョードロヴナ(1872-1918)のこと?)ので,

最後の努力として,ニコライ2世(1868/5/18-1918/7/17,在位: 1894/11/1-1917/3/15)に動員軍隊を復員すべく忠告したが,最早及ばず,

終にドイツはロシアの動員を理由として,8月1日ロシアに宣戦し

フランスは8月3日英国は8月4日参戦してあの大戦争になった。

ロシアの態度硬化の裏には,

フランス大統領ポアンカレ(1860-1934,任期: 1913-1920)が首相ビビアーニ(1863-1925,任期: 1914/7/13-1915/10/29)を伴ひ(両名ともフリーメイソン結社員)

危機の最中7月20日,にわかに軍艦フランス号に搭乗して露都に赴き,露仏交歓を行い,大観兵式に臨み,

また23日,出発前には,人を退け,両元首のみ差し向かいの話し合いを行い,

もって不退転の決意を固めたることが大いなる力ありと見らる

(仏国駐露大使パレオローグ(1859-1944)『大戦間のロシア帝国』第I巻第18頁参照)

■第1次世界大戦とユダヤ解放との関係諸文献

この大戦の眼目の中に,前世紀末(19世紀末)以来の東ヨーロッパのユダヤ人解放の問題が包蔵せられあることは,既に繰り返し説述したところであるが,

今,開戦後実現せる幾多の事実を列挙して,終にロシア革命(1917/3/8-1923/6/16)を決行せる真相の把握に資する

1914年9月,イスラエル・ザングウィル(1864-1926)(注: 最初,解放第2論(本書第5編第6章の冒頭で説明)を持せし,英国ユダヤの有力者)は英国外務省から,

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英国は同情をもってユダヤ解放問題を注視しつつあり,

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との保証を受領し,

なお外務大臣エドワード・グレー(1862-1933)個人よりも重ねて,

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ユダヤ解放問題の重要性を完全に理解しているから,この意味における改革を援助すべきいかなる機会をも見逃すことはせない

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との保証を得た

(ユダヤ人スピール(1868-1966)『ユダヤ人と大戦』第126頁)

なおザングウィル氏が米国ユダヤ同族に訴えた檄文の中にもこの点に触れ,

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サー・エドワード・グレーの予に与えてくれた保証は決して,政治家がよく苦しい時に出すものと同一視すべきでない,

これは真剣に英国の考えるところである

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との意味を明らかにしている。

次には1915年10月8日発行の全世界ユダヤ同盟の機関紙ユニヴェル・イスララエリット(1844-1937)に,

フランスユダヤ中央協会の名前で,世界各国のユダヤ同志に飛ばした檄の要点は,

既にフランス革命(第5編第2章)のところにおいて記述したが,

さらにその文の中にある。

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今回大戦の起こりとその性質とにつき,これが真相を同族間に吹聴するの義務を課する,

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と述べ,さらに,

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フランス大革命は西ヨーロッパのユダヤ人を解放した,

連合国側(注: 今回の大戦の英仏側)の勝利は,ヨーロッパの残りのユダヤ人を解放するのである。

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と明記している(ユダヤ人スピール著『ユダヤ人と大戦』第136頁)

これに類するユダヤ側自身の戦争目的に関する告白は入手しているが,

ロシア革命と直接関係が多いから,後章に挙げることとし,

ここにユダヤ反対者自動車王ヘンリー・フォード(1863-1947)所見を発表してみると,

1921年2月17日のニューヨーク・ワールド(1860-1931)にフォード氏と同誌記者との会見記が次のように掲げられている。

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[記者] いわゆる国際的ユダヤ組織に関し,米国公衆に示すべきことありとの考えを持たれたのはいつ頃からなりや。

[フォード] 数年前からであるが,特に深くこれを感じたのは約5年前である (中略)

各方面から研究するに,戦争のため利益を占め,今もなお利益を占めつつある者は,

国際的金融業者たるユダヤ人と,これに関係する数人の外国人である。

国際ユダヤ人というのはすなわち,ドイツ系ユダヤ人・フランス系ユダヤ人・英国系ユダヤ人・米国系ユダヤ人である。

[記者] 国際的ユダヤ人は,いかにして世界戦争を起こさしたと思わるるか。

[フォード] 国民的熱情を喚起せしめてである。

詳しく言えば,宣伝によりて,甲国民と乙国民とを争わしめたのである。

すなわち,戦争前には軍需品の製造により,戦争中は国債により,戦後には今現に行われている通り利権獲得闘争において,

彼ら危険団体は利益を収めつつある。

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またロンドンで発行するジューイッシュ・ワールド(1873-1934)という雑誌(週刊新聞(?))の1922年1月5日号に,

フォードの言として次の如く掲げられている。

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国際的ユダヤ人と戦争との直接関係あることを自分に納得せしめたのは,ユダヤ人自身である。

自分は1915年の2月に,この戦争(第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11))をやめさせたいというので,

米国からわざわざ平和船というものを造ってヨーロッパにやったのであるが,

その中に自分も乗って行った。

ところが最も名の知れたユダヤ人が2人乗り込んでいて,

海に出て200海里経たないうちに,その2人がユダヤの力の強いことについて物語っていた。

それはすなわち,我々ユダヤ人は世界のカネを支配している,

戦争を終局せしめ得る者は我々でなければならぬ,

またいつまでもこの戦争を長引かしておくこともできる,

いかなる他の者にもこの戦争を終息せしめることはできない,

としきりにユダヤ人の力を宣伝していた。

これによって自分は,大戦争の製造者がユダヤ人だとの確信を得たのである云々。

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これはユダヤ人の豪語に基づき反ユダヤ主義のフォードが判断したのであるが,

さらにユダヤ人の自白を掲げると,

1919年1月16日(休戦条約(1918/11/11)成立後,約2ヶ月目)の同じ英国ユダヤ雑誌ジューイッシュ・ワールドに,

--------------------

ユダヤ民族がヨーロッパにあの戦争をやらせたのは,これで莫大なカネを巻き上げるためばかりではない。

そのカネをもって,さらに第2のユダヤ世界戦争を始めさせるためである。」

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次に1928年の初め,センチュリー・マガジン(1881-1930)という雑誌にマルカス・ラヴェージ(1884-1965)というユダヤ人の寄稿で,

次のような露骨な暴露をやっている。

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我々は戦時においては愛国の義務を怠るのである。

何となれば,我々は本来の性質から伝統から,平和主義であるからだ。

しかし我々は世界戦争の大立案設計者で,

そして戦争の利益は一番余計受けるのである。(中略)

我々は先般の世界大戦の楽屋にいたばかりではなく,ほとんど全ての近世戦争の影に働いた

そしてロシア革命(1917/3/8-1923/6/16)ばかりでなく,君たちの歴史にある大きな革命の陰には必ず我々がいたのだ。

我々はかくて,君達の公的・私的の生活に互いの反目混乱失望とを与えてきた。

今まだ,それをやっているのであるが,

恐らく何人も,我々がいつまでそれをやっていくかを物語れないであろう。

(第7編第5章中にも同様の記述)

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次は英国オックスフォードにおいて,ジョージ・ピット・リバーズ(George Pitt-Rivers,1890-1966)という人の発表した「ロシア革命の世界的意義」(The World Significance of the Russian Revolution [1920])という本の序文を,

ユダヤ人のオスカー・レヴィ博士(Oscar Levy,1867-1946)というのが書いたが,

その中に次のような強烈な文句がある。

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ユダヤ人は神の選民という神話をもって,極めて偏狭な個人的民族精神を作り出した。

ユダヤ人は世界大戦を仕出かした。

ユダヤ人はあたかもフス派ロラード派ルター(1483-1546)新教ピューリタン清教などを鼓吹したように,

社会主義過激主義を鼓吹した。

ユダヤ人は師弟の関係・主従の関係を破壊し,これに代えるに俸給制度という横暴手段を作り出した。(中略)

ユダヤ人は世界の救い主たる使命を持っていると称しているが,

今や世界の火付人足,腐敗係・破壊係・撲殺係たるに過ぎないのである。

(上の「」を用いて記されている引用と思しき文章というのは,概ね,次の文章の要約です。)

The World Significance of the Russian Revolution, Prefatory Letter, pp. v - viii

https://archive.org/details/TheWorldSignificanceOfTheRussianRevolution/page/n1/mode/2up

/ http://bit.ly/3tnjym6

......Nor could or would I deny that there is some evidence, some prima facie evidence of this antagonistic attitude in your pamphlet.

You point out, and with fine indignation, the great danger that springs from the prevalence of Jews in finance and industry, and from the preponderance of Jews in rebellion and revolution.

You reveal, and with great fervour, the connection between the Collectivism of the immensely rich international Finance

―the Democracy of cash values, as you call it―

and the international Collectivism of Karl Marx (1818-1883) and Trotsky (1879-1940)

―the Democracy of and by decoy-cries. . . .

And all this evil and misery, the economic as well as the political, you trace back to one source, to one "fons et origo malorum"―the Jews.

Now other Jews may vilify and crucify you for these outspoken views of yours;

I myself shall abstain from joining the chorus of condemnation!

I shall try to understand your opinions and your feelings, and having once understood them

—as I think I have—

I can defend you from the unjust attacks of my often too impetuous Race. (p. v - p. vi) 

But first of all, I have to say this:

There is scarcely an event in modem Europe that cannot be traced back to the Jews.

Take the Great War that appears to have come to an end, ask yourself what were its causes and its reasons: you will find them in nationalism.

You will at once answer that nationalism has nothing to do with the Jews, who, as you have just proved to us, are the inventors of the international idea.

But no less than Bolshevist Ecstasy and Financial Tyranny can National Bigotry (if I may call it so) be finally followed back to a Jewish source

―are not they the inventors of the Chosen People Myth, and is not this obsession part and parcel of the political credo of every modem nation, however small and insignificant it may be?

And then think of the history of nationalism.

It started in our time as a reaction against Napoleon (1769-1821);

Napoleon was the antagonist of the French Revolution;

the French Revolution was the consequence of the German Reformation;

the German Reformation was based upon a crude Christianity;

this kind of Christianity was invented, preached and propagated by the Jews:

therefore the Jews have made this war! . . .

Please do not think this a joke:

it only seems a joke, and behind it there lurks a gigantic truth, and it is this, that all latter-day ideas and movements have originally sprung from a Jewish source, for the simple reason, that the Semitic idea has finally conquered and entirely subdued this only apparently irreligious universe of ours.

It has conquered it through Christianity, which of course, as Disraeli (1804-1881) pointed out long ago, is nothing but "Judaism for the people." 

The Ideal of Democracy contained in this appeal of the Jews to the people was their successful battle cry, their most wonderful propaganda work, their "Dieu le veult," that finally forced the world to follow them.

With it they have inspired―or, if you will, infected―Lollards and Hussites, Protestants and Puritans, Socialists and Bolshevists alike.

Now Democracy, as we all know, declares―or pretends to proclaim―everybody free and equal:

it was therefore bound to destroy the bond, feudal or patriarchal, between lord and serf, master and servant,

and it replaced it, had to replace it, by another bond (a bond it had to invent for the occasion) that of wages and salaries. (p. vii, l. 4) 

Democracy, as we all know, abolished slavery―that natural slavery in which the master took an interest in his slaves,

because they were part and parcel of his most valuable property;

but it reintroduced it in the form of Wage Tyranny, by means of which the "freed" serf could be freely exploited and even squashed out like a lemon without any harm being done to the Master's interests.

Thus ended this glorious liberty principle of the Reformation and the Revolution:

the finest theory that has ever been invented for the most miserable of all practices, that have ever defiled this world.

No doubt the Jews are responsible for this, as they are responsible for everything,

because they are the spiritual fathers of Democracy and therefore of plutocracy.

But now let me ask you this one question:

"Have they perchance introduced these theories into this country?

Were Cromwell (1599-1658) and his Ironsides (クロムウェルの手下のこと) Jews?

Was the Puritan Revolution (1642-1649) inspired by an English Trotsky?

Was Charles I. (1600-1649) beheaded at the bidding of a Jewish commissary of the people? . . .

Why, there were no Jews in this country before Cromwell.

The Roundheads of the Great Rebellion (1642-1651), it is true, chanted and rechanted the Hebrew psalms,

but their poetry alone and not the poets themselves had up to this time been admitted to England.

The Christians did the wonderful thing all by themselves, just to prove to the world, what good Jews they could be if "the Spirit moved them!"

And when Jews were once admitted, they and the Christians alike became the victims as well as the exploiters of this Puritanism, this democracy, this idealism, this plutocracy.

The Scotch and American financier succeeded as well as his brother of the original Puritan faith.

The Christian usurer took his pound of flesh with the same gusto as did his colleague of the Jewish persuasion.

And as to the factory system, that destroyed and destroys the soul and body of men as well as the bounty and beauty of the land;

it has been and is carried on by blonde and flat-nosed Jews―at least in this country―

as successfully as by their dark and sharp-featured brethren on the Continent of Europe. (p. viii, l.5) 

All this "tu-quoque" argument is, of course, no excuse whatever for the Jews.

There is no doubt that the Jews regularly go one better or worse than the Gentile in whatever they do,

there is no further doubt that their influence to-day justifies a very careful scrutiny, and cannot possibly be viewed without serious alarm.

The great question, however, is whether the Jews are conscious or unconscious malefactors.

I myself am firmly convinced that they are unconscious ones, but please do not think that I wish to exonerate them on that account. . . .

A conscious evildoer has my respect, for he knows at least what is good,

an unconscious one―well: he needs the charity of Christ―a charity which is not mine―to be forgiven for not knowing what he is doing.

But there is in my firm conviction not the slightest doubt that these revolutionary Jews do not know what they are doing;

that they are more unconscious sinners than voluntary evildoers.

I am glad to see that this is not an original observation of mine,

but that you yourself have a very strong foreboding about the Jews being the victims of their own theories and principles. . . .

On p. 39 of your pamphlet you write:

"It may be that the Jews have always been instrumental in bringing about the events that they most heartily disapprove of;

that maybe is the curse of the Wandering Jew."

If I had not the honour, as well as the pleasure, of knowing you personally,

if I were not strongly aware of your passionate desire for light and your intense loathing of unfairness, this sentence,

and this sentence alone, which tells the truth, will absolve you in my eyes from the odious charge of being a vulgar anti-Semite.

No, you are not a vulgar, you are a very enlightened, critic of our Race.

For there is an anti-semitism, I hope and trust, which does the Jews more justice than any blind philo-semitism, than does that merely sentimental "Let-them-all-come Liberalism," which in itself is nothing but the Semitic Ideology over again.

And thus you can be just to the Jews, without being " romantic " about them. (p. ix, l. 4) 

You have noticed with alarm that the Jewish elements provide the driving forces for both communism and capitalism, for the material as well as the spiritual ruin of this world.

But then you have at the same time the profound suspicion that the reason of all this extraordinary behaviour may be the intense Idealism of the Jew.

In this you are perfectly right.

The Jew, if caught by an idea, never thinks any more in water-tight compartments, as do the Teuton and Anglo-Saxon peoples,

whose right cerebral hemisphere never seems to know what its left twin brother is doing:

he, the Jew, like the Russian, at once begins to practise what he preaches,

he draws the logical conclusion from his tenets,

he invariably acts upon his accepted principles.

It is from this quality, no doubt, that springs his mysterious force—that force, which you no doubt condemn,

but which you had to admire even in the Bolshevists.

And we must admire it, whether we are Jews or whether we are Christians, for have not these modem Jews remained true to type,

is there no parallel for them in history,

do they not go to the bitter end even in our day,

do they not take the Cross upon their shoulders,

as once did their great Brother in Race?

Their brother in Race as well as in Revolution,

He, against whom the accusation, as found in the Gospel of St. Luke xxiii, 6, ran, "He stirreth up the people teaching throughout all Jewry, beginning from Galilee to this place." . . . .

Who stirred up the people during the late war in Germany?

Who pretended to have again the truth, that truth about which Pontius Pilate once shrugged his shoulders?

Who pleaded for honesty and cleanliness in Politics, that honesty which brings a smile to the lips of any experienced Pro-consul of to-day?

Writers, who were mostly Jews: Fried, Fernau, Latzko, Richard Grelling―the author of " J'Accuse."

Who was killed, and allowed himself to be killed for these very ideas and principles? (p. x, l. 1) 

Men and women of the Jewish Race:

Haase, Levine, Luxemburg, Landauer, Kurt Eisner, the Prime Minister of Bavaria. . . .

From Moses to Marx, from Isajah to Eisner, in practice and in theory, in idealism and in materialism, in philosophy and in politics,

they are to-day what they have always been:

passionately devoted to their aims and to their purposes, and ready, nay, eager, to shed their last, drop of blood for the realisation of their visions.

"But these visions are all wrong," you will reply. . . .

"Look where they have led the world to.

Think, that they have now had a fair trial of 3,000 years standing.

How much longer are you going to recommend them to us and to inflict them upon us? And how do you propose to get us out of the morass into which you have launched us,

if you do not change the path upon which you have led the world so disastrously astray?"

To this question I have only one answer to give, and it is this: "You are right."

This reproach of yours, which―I feel it for certain―is at the bottom of your anti-Semitism, is only too well justified, and upon this common ground I am quite willing to shake hands with you and defend you against any accusation of promoting Race Hatred:

If you are anti-Semite, I, the Semite, am an anti-Semite too, and a much more fervent one than even you are. . . .

We have erred, my friend, we have most grievously erred.

And if there was truth in our error 3,000, 2,000, nay, a 100 years ago,

there is now nothing but falseness and madness, a madness that will produce an even greater misery and an ever wider anarchy.

I confess it to you, openly and sincerely, and with a sorrow,

whose depth and pain an ancient Psalmist, and only he, could moan into this burning universe of ours. . . .

We who have posed as the saviours of the world,

we, who have even boasted of having given it "the" Saviour,

we are to-day nothing else but the world's seducers, its destroyers, its incendiaries, its executioners. . .  .

We who have promised to lead you to a new Heaven, we have finally succeeded in landing you into a new Hell. . . .

There has been no progress, least of all moral progress. . . .

And it is just our Morality, which has prohibited all real progress, and―what is worse―which even stands in the way of every future and natural reconstruction in this ruined world of ours. . . .

I look at this world, and I shudder at its ghastliness:

I shudder all the more, as I know the spiritual authors of all this ghastliness. . . . (p. xi, l. 8) 

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これはユダヤ人でありながら,随分思い切ったことを書いたので,

同族から責められ,肉親の姉から絶縁するぞと脅迫された模様である。

また1922年12月ハヌカーというユダヤの祭りの時に,フランス国ディジョン市ユダヤラビ アダム・ドレフュスという坊さんが説教して,

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我々は祖父母などから,このような悲しむべき状態が長く続くものではない,

将来ユダヤ王国が建設されて,エルサレムが再び栄華を誇るに至るのだ,と言い聞かされていたが,

何となく夢を見るような心地で,救世主の再来を待つような心もとない気がした。

然るに世界の状態は一変した。

それは世界大戦である。

光輝ある勝利の曙光がまだ見えない中から,

既にドイツ流の圧迫は終わりを告ぐべきであるということが,我々には見え透いてきた。

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■ユダヤ人は世界征服の入口に立てり

少し後へ戻るが,1919年2月,ヨーロッパロシアで内乱(1918/5-1922/11)の際,討ち死にした赤軍狙撃歩兵第11大隊長 ユダヤ人ズンデルという少佐が,左の意味の秘密文書を懐中していたのが発見された。

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ユダヤ民族大勝利の鐘は響き渡った。

今までの夢は現実となり,吾人は世界征服の入口に立った。

世界戦争は我らを強め,我らに頭をもたげしめた

我らは全くロシア国民を征服し,彼らに首かせをはめ終わった。

我らは諸国の祭壇を壊し,諸国の帝冠を蹴落とした。

さはあれ,心を許すな。

敵人は素より赤軍の強者らにも。

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これらの文書を通読する時は,世界大戦はユダヤ人の目から見て,

何のために始められたものか,

またその結末は彼らにとっていかなる程度の成功であったか,

さらにその未完成な部分をいかに完成すべく第二幕の仕事が残されたか,

察することができる。

1914年8月に始まり,1918年11月に休戦になったあの長期戦(1914/7/28-1918/11/11)の間には,

いろいろな作戦も,経済戦も,宣伝戦も,思想戦も,外交戦も行われたのであるが,

本書の主題とする研究からすると,

次の諸事件は大戦の主眼から見て,是非とも説述する必要がある。

すなわちロシアの第1革命(1905-1907)・第2革命(2月革命(1917/3)と10月革命(1917/11))パレスチナの復興(フサイン=マクマホン協定(1915),バルフォア宣言(1917/11/2)など)オーストリア革命(1918-19)ドイツ革命(1918-19)国際連盟の創立(1920/1/10)がそれである。

以下,章を改めてこれを述べる。

第3章 ロシア革命とユダヤ

ロシア人革命に適せず

前数章に述べたところによって,日露戦争前からユダヤ・フリーメイソンは,

ロシア革命(第1革命(1905-1907))狂奔し,

日露戦争(1904/2/6-1905/9/5)最中にその第1矢を放ったこと,を理解せられたと思う。

ロシアにも昔から幾度か反乱はあったが,大事には至らなかった。

それは一体の純ロシア人は革命というようなことには不向きであった。

それは教育の不徹底というか,知らしめざる方針によってかは別問題として,

文字を解しないのが大多数であって,

日露戦争の時などは,日本軍では兵卒一人一人に郷里から新聞が追送されたようだが,

ロシア軍では幹部が一新聞を読むと,兵卒はその周囲に寄ってこれを聞くのであった。

のみならず性質は純朴のが多く,辛抱強く,諦めが宜しかった。

有名なニチエウォーという言葉があって,「構いません」という意味だが,

およそ一日に何回かこの言葉を発言するであろう。

筆者がかつて露人と一緒に馬車を駆って,雪解けの道を走った時,

行き違いの自動車のために,したたか泥をズボンにかけられた。

渋面を作って汚れを見守っていると,

傍らの露人が,ニチエウォー,暫くそのままにしておくとそのうちに乾く,

それから泥を落とすと容易に取れますぜ,と忠告した。

その時考えさせられたのは,露人のこの悠長なる性質こそ,

帝政の圧迫にも,過激派の暴政にも耐え,運を天に任せ,神に信心してこの世を送る哀れむべき愛すべき国民かなと感じた。

であるから,余程強烈な指揮者がなければ革命は起こらないのである。

■ロシア国内にユダヤ人居住区域限定の必要

この如き純朴なるロシア人に向かっては,商売は極めて容易である。

悪らつなる方法を用いないで出来る。

某大学の露語教授K氏は,世にもまれな善良なる紳士であったが,

ロシア人相手ならば自分でも商売は出来る,かつて在露中相当に儲けた,と述懐した。

いわんや生き馬の目を抜くような商売上手であり,かつ経典公許によっていかなる方法を問わず他民族の財産を回収するを天命と心得るユダヤ人にとっては,

赤子の手をひねるよりも容易にロシア人のカネを巻き上げられる。

ロシア農村から東に流れてきた露人の実際談を聞くに,

ユダヤ人に居住の自由を許した地方では,村の中央で交通の便利なところに,ユダヤ人は僅かに身を入れ,

商品の外には寝台と食卓を置くに足るぐらいの小店舗を開き,

日用必需の品物を考えてこれを取りそろえ,しかも同族の援助によって極めて安価に卸しを受け,

他の店よりは格外の安売りをする,

村人はたちまちこれに殺到して,見る見る小店舗は発展し,数年ならずして相当の成功を見て,また他に移動する,

中には日曜礼拝の準備のため,土曜日にロウソクその他の買入に行くと,

ユダヤ人は手をポケットに入れ,今日はユダヤ教の安息日であるから仕事はしない,

必要を持って行き,そばにある伝票に書いておくことを請求する,

無学の農民は怪しげな筆跡で,例えば,ロウソク1ダースと記入し去る,

次に勘定に行くと,まぁ,あまり少額だからまとめてと言う,

終に半年・1年になって請求を見ると,1ダースの1はいつしか6とか10に改書せられ,金高は予想外にかさみ,

抗議を申し入れても承知せず,現金で払えなければ証書で可なりとして,金銭貸借の形式に替わり,

往々現金の用立てにも応じ,高利金融業者となり,

土地・不動産の抵当を要求して,非ユダヤ人の財産は加速度的にユダヤ人の手に移行することが往々ある,

これすなわち,帝政時代(1721-1917)からユダヤ人には居住地域を指定し,もって無知な農民を保護するのやむを得なかったのである云々。

これは,ユダヤ人の露国に対する憤慨の種子であって,

革命(第1革命(1905-1907)・第2革命(2月革命(1917/3)と10月革命(1917/11)))に訴えてもユダヤ人を全露の隅々まで解放せんとするに至った一原因である。

■ナポレオン1世も反ユダヤ勅令を発布す

付記

この農民搾取の方法はナポレオン1世(1769-1821)当時まで,フランスにおいてもほぼ同様のことが行われたのであって,

ナポレオン1世は1806年5月30日に勅令を出して曰く,

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予の接手した報告に寄れば,

フランス帝国の北部諸州においては,ユダヤ人が高利貸し専業となし,

法外な利息を搾取蓄積して,該地方の農民を困窮状態に陥れるものもあり。

よって我らは彼らユダヤ人の不正なる貪欲のために哀れむべき窮状に陥った農民を救済せざるべからず。

(ドリュモン(Édouard Drumont,1844-1917)『ラ・フランス・ジュイーヴ』第1巻314頁)

("La France Juive" 第1巻

https://archive.org/details/lafrancejuiveess01drumuoft/page/n5/mode/2up

/ https://bit.ly/3fQq4yM 

"La France Juive" 第2巻

https://archive.org/details/lafrancejuiveess00drumuoft/page/n5/mode/2up

/ http://bit.ly/3TtjnAb )

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前述の如く露人は純朴で革命に不向きであり,忍耐力が強く,神を信じ,宗教上の権威を有する皇帝に忠実にして,容易に革命宣伝にあおり立てられないから,

終に第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)当時には食糧難を製造し,

筆者が実見したる革命勃発半年以前において,既にパン屋の店頭に「リヤード」と称し何百人の民衆が一列縦隊を作って長蛇陣となっていた。

ビールは飲ませず,日本の酒に比すべきウォッカも禁じ,一面においては武器弾薬整備の資金も英国ユダヤ方面からの供給を中止して,不足を来たし,

兵卒をして塹壕(ざんごう)の中に立って何のために戦うかを考え出すようにさせ,

多数の宣伝員を送って軍を崩壊せしめた。

その有力なる役割を務めたのは,1920年頃より極東共和国(1920-22)の外務大臣を務めたるユーリン(Yurin,1888-1935。元はポーランドの革命家)こと,本名ジバルトースキー(Dziewałtowski)と呼ぶユダヤ人であった。

■チンメルワルド会議

この大戦間のこれに至る革命準備も,決してロシア国内からばかりではなく,世界各国から来たのである。

先ず挙げるのは国際的な努力である。

既述の如く第2インターナショナル(1889-1914)としては一応,大戦勃発をもって機能を失った。

何となれば,各国の社会党は戦争を是認し,軍事予算の可決に参加したからである。

しかし子細に観察すると,必ずしも然らずである。

開戦前の(1914年(?))7月下旬露都ペトログラードにおいては,同盟罷業(ストライキ)が起こった。

これに対して領袖連は窃かにこれを慰撫して,

一先ず戦争には参加せよ,そして我々の仕事は後からだ,と言うて罷業を終息せしめた。

シュツットガルトの決議(1907)が2段に分かれ,

戦前の罷業・平和運動と,戦争中の革命運動との2つを保存しているが,

実行は正にこの如く形式を離れずに進んでいる。

第二インターナショナル シュツットガルト大会(1907年8月18日~24日)での決議

Resolution adopted at the Seventh International Socialist Congress at Stuttgart

https://www.workers.org/marcy/cd/sambol/bolwar/bolwar07.htm

/ http://bit.ly/3UO5gGN

The Congress confirms the resolutions adopted by previous international congresses against militarism and imperialism 

and declares once more that the struggle against militarism cannot be separated from the Socialist class struggle in general.

Wars between capitalist states are, as a rule, the outcome of their competition on the world market,

for each state seeks not only to secure its existing markets, but also to conquer new ones.

In this, the subjugation of foreign peoples and countries plays a prominent role.

These wars result furthermore from the incessant race for armaments by militarism,

one of the chief instruments of bourgeois class rule and of the economic and political subjugation of the working class.

Wars are favored by the national prejudices which are systematically cultivated among civilized peoples in the interest of the ruling classes 

for the purpose of distracting the proletarian masses from their own class tasks as well as from their duties of international solidarity.

Wars, therefore, are part of the very nature of capitalism;

they will cease only when the capitalist system is abolished 

or when the enormous sacrifices in men and money required by the advance in military technique and the indignation called forth by armaments, drive the peoples to abolish this system.

For this reason, the proletariat, which contributes most of the soldiers and makes most of the material sacrifices is a natural opponent of war

which contradicts its highest goal―the creation of an economic order on a Socialist basis which will bring about the solidarity of all peoples.

The Congress, therefore, considers it as the duty of the working class and particularly of its representatives in the parliaments to combat the naval and military armaments with all their might,

characterizing the class nature of bourgeois society and the motive for the maintenance of national antagonisms,

and to refuse the means for these armaments.

It is their duty to work for the education of the working-class youth in the spirit of the brotherhood of nations and of Socialism while developing their class consciousness.

The Congress sees in the democratic organization of the army, in the substitution of the militia for the standing army,

an essential guarantee that offensive wars will be rendered impossible and the overcoming of national antagonisms facilitated.

The International is not able to determine in rigid forms the anti-militarist actions of the working class

which are naturally different in different countries and for different circumstances of time and place.

But it is its duty to coordinate and increase to the utmost the efforts of the working class against war.

In fact, since the International Congress at Brussels (1891) the proletariat has employed the most diverse forms of action with increasing emphasis and success in its indefatigable struggles against militarism

by refusing the means for naval and military armaments and by its efforts to democratize the military organization

―all for the purpose of preventing the outbreak of wars or of putting a stop to them,

as well as for utilizing the convulsions of society caused by war for the emancipation of the working class.

This was evidenced especially by the agreement between the English and French trade unions following the Fashoda Affair (1898) for the maintenance of peace and for the restoration of friendly relations between England and France;

by the procedure of the Social-Democratic parties in the German (1863-) and French parliaments (1905-1969) during the Morocco crisis (1905);

the demonstrations arranged by the French and German Socialists for the same purpose;

the concerted action of the Socialists of Austria and Italy who met in Trieste in order to prevent a conflict between the two countries;

furthermore, by the energetic intervention of the Socialist workers of Sweden in order to prevent an attack upon Norway;

finally, the heroic, self-sacrificing struggle of the Socialist workers and peasants of Russia and Poland in order to oppose the war unleashed by czarism, to put a stop to it, and to utilize the crisis of the country for the liberation of the working class.

All these efforts are evidence of the growing power of the proletariat and of its increasing ability to secure the maintenance of peace by resolute intervention.

The action of the working class will be all the more successful the more that its spirit is prepared by a corresponding action and the labor parties of the various countries are spurred on and coordinated by the International.

The Congress is convinced that, under the pressure of the proletariat, by a serious use of arbitration in place of the miserable measures of the governments,

the benefit of disarmament can be secured to all nations,

making it possible to employ the enormous expenditures of money and energy,

which are swallowed up by military armaments and wars, for cultural purposes.

If a war threatens to break out, it is the duty of the working classes and their parliamentary representatives in the countries involved, supported by the coordinating activity of the International Socialist Bureau (1900-1919?),

to exert every effort in order to prevent the outbreak of war by the means they consider most effective, which naturally vary according to the sharpening of the class struggle and the sharpening of the general political situation.

In case war should break out anyway, it is their duty to intervene in favor of its speedy termination and with all their powers to utilize the economic and political crisis created by the war to rouse the masses and thereby to hasten the downfall of capitalist class rule.

International Socialist Congress at Stuttgart,

August 18-24, 1907

Vorwarts Publishers (1876-), Berlin, 1907, pp. 64-66.

1914年の5か月は終わり,翌年になっても社会運動的には大いなる変化もなかったが,

終にその9月9日から12日にわたり,10か国の社会主義の大物は,スイスの首都ベルン郊外のチンメルワルド(Zimmerwald)のささやかな宿屋に人目を避けて会合することができた。

この時も議論は2つに分かれ,

レーニン(1870-1924)及びその一派の者は,速やかに戦争を中止することに努力し,

且つ,これと同時に国内戦を開始すること(つまり革命を目指すということ)を民衆に慫慂(しょうよう)せねばならぬ(革命的祖国敗北主義),と主張したが,

大部分の者は,国内戦開始の可否は各国それぞれの事情によって決せられるべきもので,

会議出席者の権限外にあるものと認め,

これに賛成しなかった。

猛烈な討論を繰り返した数頁にわたる長い決議をなし,

「全世界の無産者,団結せよ」と結んでいる。

右チンメルワルドの会議の宣言は期待に沿うことができず,多くの国の社会民主主義はこれを承認しなかった。

そこで翌1916年2月5日から8日にかけて,スイスの首都ベルンで会議を催し,

露・独・オーストリア・仏・伊等9か国の代表が参加した。

この際もロシアからはレーニンが参加し,多の5・6名はことごとくユダヤ人であった。

そして第2回の大規模な会議を招集することを決議した。

なお5月1日のメーデーを期し,各国一斉に反戦示威運動を行う申し合わせを決した。

▼キーンタール会議

第2回のチンメルワルド国際社会党会議は,今度は場所をちょっと変えてキーンタールで,

1916年4月24日から30日まで開いた。

参列代表者は40名,ロシア側からは相変わらずレーニン,ジノーウィエフ(Zinoviev,1883-1936)(ユダヤ)トロツキー(1879-1940)(ユダヤ)アクセルロド(Akselrod,1850-1928)(ユダヤ)マルトフ(1873-1923)(ユダヤ)等の剛の者であり,

フランスからはユダヤ人軍需大臣アルベール・トーマ(1878-1932)(後に国際連盟の労働事務局長)などが出て,

穏健派と目せられていた。

(アルベール・トーマは,Nina Berberova (1901-1993)の"Les Francs-maçons russes du xxe siècle" [1990],p. 189,note 39によると,フリーメイソンとのこと(?))

レーニンやドイツのリーブネヒト(Liebknecht,1871-1919)らが穏健派の人々を罵った言葉の中には,

「君らは裏切者だ,王の僕[しもべ]だ」というのがある。

裏切者という言葉は誰にも分かるが,王の僕だというのがなぜ悪罵(あくば)であるかは,

既に述べたユダヤの宗教の部にあるイザヤ書第60章第10節の「彼らの王らは汝に仕えん」を想起しなければならぬ。

(日本語の聖書にはそう訳してあるが,他の国語に訳したものの中には,「彼らの王らは汝の僕とならん」とある。

すなわち王がユダヤの下僕となるべきなのに,ユダヤがいつまでも王の下僕となって国家のために働くのは反対ではないかという悪罵である。)

イザヤ書 第60章

60:1 起きよ,光を放て。

あなたの光が臨み,主の栄光があなたの上にのぼったから。

60:2 見よ,暗きは地をおおい,やみはもろもろの民をおおう。

しかし,あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ,主の栄光があなたの上にあらわれる。

60:3 もろもろの国は,あなたの光に来,もろもろの王は,のぼるあなたの輝きに来る。

60:4 あなたの目をあげて見まわせ,彼らはみな集まってあなたに来る。

あなたの子らは遠くから来,あなたの娘らは,かいなにいだかれて来る。

60:5 その時あなたは見て,喜びに輝き,あなたの心はどよめき,かつ喜ぶ。

海の富が移ってあなたに来,もろもろの国の宝が,あなたに来るからである。

60:6 多くのらくだ,ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい,シバの人々はみな黄金,乳香を携えてきて,主の誉を宣べ伝える。

60:7 ケダルの羊の群れはみなあなたに集まって来,ネバヨテの雄羊はあなたに仕え,わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。

こうして,わたしはわが栄光の家を輝かす。

60:8 雲のように飛び,はとがその小屋に飛び帰るようにして来る者はだれか。

60:9 海沿いの国々はわたしを待ち望み,タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来,また彼らの金銀を共に載せて来て,あなたの神,主の名にささげ,イスラエルの聖者にささげる。

主があなたを輝かされたからである。

60:10 異邦人はあなたの城壁を築き,彼らの王たちはあなたに仕える。

わたしは怒りをもってあなたを打ったけれども,また恵みをもってあなたをあわれんだからである。

60:11 あなたの門は常に開いて,昼も夜も閉ざすことはない。

これは人々が国々の宝をあなたに携えて来,その王たちを率いて来るためである。

60:12 あなたに仕えない国と民とは滅び,その国々は全く荒れすたれる。

60:13 レバノンの栄えはあなたに来,いとすぎ,すずかけ,まつは皆共に来て,わが聖所をかざる。

またわたしはわが足をおく所を尊くする。

60:14 あなたを苦しめた者の子らは,かがんで,あなたのもとに来,あなたをさげすんだ者は,ことごとくあなたの足もとに伏し,あなたを主の都,イスラエルの聖者のシオンととなえる。

60:15 あなたは捨てられ,憎まれて,その中を過ぎる者もなかったが,わたしはあなたを,とこしえの誇,世々の喜びとする。

60:16 あなたはまた,もろもろの国の乳を吸い,王たちの乳ぶさを吸い,そして主なるわたしが,あなたの救主,また,あなたのあがない主,ヤコブの全能者であることを知るにいたる。

60:17 わたしは青銅の代りに黄金を携え,くろがねの代りにしろがねを携え,木の代りに青銅を,石の代りに鉄を携えてきて,あなたのまつりごとを平和にし,あなたのつかさびとを正しくする。

60:18 暴虐は,もはやあなたの地に聞かれず,荒廃と滅亡は,もはやあなたの境のうちに聞かれず,あなたはその城壁を「救」ととなえ,その門を「誉」ととなえる。

60:19 昼は,もはや太陽があなたの光とならず,夜も月が輝いてあなたを照さず,主はとこしえにあなたの光となり,あなたの神はあなたの栄えとなられる。

60:20 あなたの太陽は再び没せず,あなたの月はかけることがない。

主がとこしえにあなたの光となり,あなたの悲しみの日が終るからである。

60:21 あなたの民はことごとく正しい者となって,とこしえに地を所有する。

彼らはわたしの植えた若枝,わが手のわざ,わが栄光をあらわすものとなる。

60:22 その最も小さい者は氏族となり,その最も弱い者は強い国となる。

わたしは主である。

その時がくるならば,すみやかにこの事をなす。

諸代表の試みた報告演説によって,労働者の反政府的運動の最も広く進展しているところはドイツであることが分かった。

決議文の作成に当たり,極端説を唱えたのはレーニン,ラデック(1885-1939)(ユダヤ)ローザ・ルクセンブルグ(1871-1919)(ユダヤ女)及び彼ら一味の党友連で,

彼らは総同盟罷工とか,怠業又は武装的反乱といった断然たる手段により,戦争中止のために戦うべきことを提議した。

然るにロシア及びドイツから来た他の代表すなわち敗北派メキシエウィキ(メンシェビキ?)らはそうした過激な手段に反対し,

ただ当該地方における労働者らの承認する場合に限り,同盟罷工を認容した。

若干の決議案決定ののち,長文の宣言書を作成可決した。

宣言は表題からが,「破産せしめられ,殺戮せられつつある諸国民に与う,―万国の無産者団結せよ」というので,

戦争を葬れとか,相当強烈なる文句があって,

大分伏せ字を用いざるを得ないようなものであるから,これを省略する(宣言文は次の通り)

John Riddell編 "Lenin's Struggle for a Revolutionary International: Documents" [初版1984年],第774~779頁

The Kienthal manifesto 18

18 Balabanoff (Angelica,1878-1965) , Die Zimmerwalder Bewegung 1914-1919, pp. 45-49

Proletarians (無産階級) of all countries, unite!

Two years of World War (第1次世界大戦。1914/7/28-1918/11/11) !

Two years of devastation!

Two years of bloody sacrifice and raging reaction!

Who is responsible?

Who is behind those who threw the burning torch into the powder keg?

Who wanted this war and prepared it for so long?

The ruling classes (支配階級)!

In September 1915, amid the unrestrained passions of war,

we Socialists (社会主義者) from the belligerent and neutral countries joined hands across the bloody chaos

and united together in Zimmerwald.

Our manifesto explained,

"The ruling powers of capitalist society, who held the fate of the nations in their hands;

the monarchical as well as the republican governments;

the secret diplomacy;

the mighty business organizations;

the bourgeois parties;

the capitalist press (資本家らの配下にある報道機関);

the church

all these bear the full weight of responsibility for this war

which arose out of the social order fostering them and protected by them,

and which is being waged for their interest."

"Every nation," said Jaurès (1859/9/3-1914/7/13) a few days before his death,

"rushed with a burning torch through the streets of Europe."

***

Millions of men have sunk into their graves,

millions of families have been made to mourn,

and millions of women and children have been turned into widows and orphans.

Ruins have been heaped upon ruins and irreplaceable achievements of civilization have been destroyed.

Yet after all this, the war is at a dead end.

In spite of untold millions of victims on all fronts, there are no decisive gains.

To move these fronts even slightly the governments would have to sacrifice more millions of men.

Neither victors, nor vanquished―or rather, all are vanquished, all bleeding, all ruined, and all exhausted.

That will be the balance sheet of this gruesome war.

That is how the ruling classes will be able to establish that their fantastic dreams of global imperialist rule have not been fulfilled.

(「そのことというのは,どのようなことで支配階級というのが次のことというのをはっきりさせられるかを示すのである。

すなわち,世界規模の帝政という彼らの空想的な夢というのが未だ実現されてないことをである。」

⇒ 社会主義者らの主張というのは,未だ世界規模の帝政が実現されていないからこそ,戦争当事国の全てが敗者になるということ?

戦争当事国の全てが敗者に見えるというのであれば,寧ろ,世界規模の帝政(世界金権独裁)は実現しているということでは?)

Once again it has been shown that the only Socialists who have served the interests of their peoples are those

who, in spite of persecution and slander, have opposed the nationalist hysteria

and demanded an immediate peace without annexations.

Therefore join us in our battle cry: "Down with the war! Long live peace!"

Workers in town and country:

The governments, the imperialist cliques, and their press tell you that

it is necessary to hold out in order to free the oppressed nations.

Of all the methods of deception that have been used in this war, this is the crudest.

For some, the real aim of this universal slaughter is

to maintain what they have seized over centuries and conquered in many wars.

Others want to divide up the world over again, in order to increase their possessions.

They want to annex new territories,

tear whole peoples apart

and degrade them to the status of common serfs and slaves.

Your governments and press tell you that the war must be continued in order that militarism may be destroyed.

Do not be deceived!

Militarism in a nation can only be abolished by that nation itself and this must be done in all countries.

Your governments and press also tell you that the war must be continued so that it may be the last war.

This is also a deception.

Never has war done away with war.

On the contrary, it arouses the desire for revenge.

Violence begets violence.

Thus after each sacrifice your tormentors will demand further ones.

Neither do the bourgeois peace zealots offer a road leading out of this vicious circle.

There is only one effective way to prevent future wars:

the seizure of political power by the working classes (労働者階級) and the abolition of capitalist property.

Lasting peace can only result from victorious socialism.

Proletarians! Who is it that preaches to you the policy of "holding out until victory"?

It is preached by the masterminds who are responsible for the war

―the venal press,

the war contractors,

the war profiteers,

the social patriots who parrot the bourgeois war slogans, and

the reactionaries (反革命勢).

They are secretly pleased with the death on the battlefields of those

who just yesterday threatened the rulers' privileges

―the Socialists, the trade unionists (労働組合員), and all who sowed the seeds of socialism in town and field.

These are the politicians who demand we hold out!

They control governmental power;

they dominate the lying press, which poisons the people;

they have the freedom to agitate for the continuation of the war

and for increasing the toll of bloody sacrifice and devastation.

But you are the victims.

You have only the right to starve and to keep silent.

You face the chains of the state of siege,

the fetters of censorship,

and the stale air of the dungeon.

***

You, the people, the working masses, are sacrificed in a war which is not your war.

You, toilers from town and country, are in the trenches, in the front lines;

while behind the lines you can see the rich and their accomplices, the shirkers, hiding in security.

For them, war means the death of others!

While they conduct their class struggle against you more intensely than ever before,

they preach to you about "civil peace."

While they relentlessly exploit your suffering and misery,

they try to incite you to betray your class duty 

and tear out of your heart your greatest strength, your hope of socialism.

Social injustice and class rule are even more evident in war than in peace.

In peacetime the capitalist system robs the worker of the joy of life.

In wartime it robs the worker of everything, including life itself.

Enough killing! Enough suffering!

***

Likewise, enough of devastation!

Today and in the future these accumulated ruins will fall upon you, the toilers.

Hundreds of billions are today thrown into maw of the god of war.

Thus they are lost to the people's welfare, to cultural activities, and to social reforms,

all of which could improve your lot in life, promote people's education, and lessen misery.

And tomorrow heavy new taxes will fall upon your stooped shoulders.

Therefore, let us put an end to the squandering of your labor, your money, and your energy!

Join the struggle for an immediate peace without annexations.

***

Working men and women in all the belligerent countries must turn

against the war and its consequences, against misery and deprivation, against unemployment and inflation.

They must raise their voices to demand restoration of the civil liberties that have been swept away,

and in favor of social legislation (社会立法) and of the demands of the working classes in town and in country.

Let the proletarians of the neutral countries aid the Socialists of the belligerent states in their difficult struggle

and oppose the expansion of the war with all their strength.

Let the Socialists of all countries act according to the decisions of the international congresses,

which declared it the duty of the working class to make every effort to bring about a speedy end to the war.

Exercise the maximum pressure possible upon your deputies, your parliaments, and your governments.

Demand that

the representatives of the Socialist parties reject at once every form of support to the war policies of the governments.

Demand that

the Socialist members of parliament vote against all war credits (戦時国債) from now on.

Use every means at your disposal for a quick end to the human slaughter!

Immediate cease-fire, that is your slogan! Peoples subjected to ruin and murder: rise up and fight!

Courage! Remember that you are the majority and that if you so desire the power can be yours.

The governments should know that

in all countries hatred against the war and the desire for social retribution are growing,

and so the hour of peace among the peoples of the world is approaching.

Down with the War!

Long live peace―immediate peace, without annexations!

Long live internationalist socialism!

MAY 1, 1916

The Second International Socialist

Zimmerwald Conference

ロシアにおけるユダヤ人アルベール・トーマの活躍

アルベール・トーマ(1878-1932,フリーメイソン(?))(ユダヤ人)は開戦直前,大統領とともにロシアを訪問したヴィヴィアニ(Viviani,1863-1925)(フリーメイソン)とともに,

キーンタールの会議直後の(1916年)5月5日には露都に達した。

翌日は皇帝ニコラス2世(1868/5/18-1918/7/17)に謁見を賜ったが,

数日前まで,万国の無産者団結の決議文を作っていながら,何食わぬ顔で皇帝に謁見するので,

自らも運命のいたずらに感じてか微笑をたたえ,次のような独り言をしたことが,

当時両名を宮廷に帯同したフランス大使パレオローグ氏(1859-1944)の手記(前掲)第1巻第261頁に現れている。

--------------------

『ああ,トーマ! 今やお前は全露の専制ツァール陛下と差し向かいになるのだ!

宮廷に入って,もし驚くことがあるとすれば,それはお前がそんなところにいるということ,そのことだ。』

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第2巻第249頁第250頁

"Good old Thomas!" he cried,

"so at last you’re going to stand face to face with His Majesty the Tsar Autocrat of all the Russias!

When you reach his palace, what will surprise you most will be to find yourself there."

--------------------

と我が身に申したそうである。

(ちなみに記す,同じアルベール・トーマが資格こそ異なれ,

皇紀2588年(1928年),ご大典ののち入京し謁見を賜った時の感想,果たして如何であったか。

今は故人となった,筆者の知人であるトーマにこれを問う道はないが,

既に家族制度の盛んなる日本には,失業者を出す効果少なきに落胆して欧州に帰ったはずの彼は,

必ずや余程勉強しなければ日本に革命は起こせないことを認めたことと思う。)

当時,ヴィヴィアニ(フリーメイソン)及びトーマ(ユダヤ(フリーメイソンでもあった(?)))のもたらした公式の任務は次の如きものであった。

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(1) ロシアの軍事資源の調査及びその拡充を図ること。

(2) ロシアから,前年(1915年)12月の約束通りフランスへ40万の兵を派遣することをさらに要請すること。

しかしてそれは4万人ずつの梯団とすること。

(3) 参謀本部がルーマニアに対し一層便宜を与えるよう,外務大臣(セルゲイ・サゾーノフ(1860-1927,任期: 1910/10/11-1916/7/20))に要請すること。

(4) ポーランドに対して厚意を示すべき精確な約束を露国政府から与えさせること。

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第2巻第249頁

While they were taking their meal Viviani told me the object of their mission:

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"We have come," he told me in substance:

"(1) to ascertain the military resources of Russia and try to develop them;

(2) to insist on the dispatch of 400,000 men to France by successive batches of 40,000, in accordance with the promise Doumei (?) claims to have obtained last December;

(3) to bring pressure on Sazonov to induce the Russian General Staff to be more accommodating with regard to Rumania;

(4) to persuade the Imperial Government to give a firm and definite undertaking in favour of Poland."

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まだ他に,労働問題・社会問題の実情調査に関する秘密の任務があるべきこと,

及び,ロシアのフリーメイソンとの秘密連絡任務のあるべきことは,当然のことと思う。

すなわち皇帝に謁見に行く車中でトーマが大使パレオローグとの対話中に,

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[トーマ] (沈思黙考ののち)ペトログラードにいる間に会いたい人物が若干あるのだ。

そしてそれは,極めて目立たないように。

それらの人に会わずにフランスへ帰っては,僕は党に対し面目がなくなるのだ。

その一人はブルツェフ(1862-1942)というのだ。

[大使] エー!!

[トーマ] 彼は戦争中,中々よくやっている。

露仏の同志に対して愛国的な約を守ってくれた(ブルツェフも,フリーメイソンかユダヤ人ということ(?))

[大使] それは知っているが,彼は常に皇帝を暗殺しようと固く決心していることも僕は知っている。

そこで今僕が君をお連れしようというのは,誰のところへか考えてみてくれたまえ。

僕は君がブルツェフに会うことには乗り出せない。

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パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第2巻第250頁

After some moments' thought, Albert Thomas said in a wheedling tone;

"There are several people I should very much like to meet during my stay in Petrograd.

Very discreetly, of course!

But I should find myself in trouble with my party if I returned to France without seeing them.

The first is Bourtzev."

"Oh!"

"He's behaved very well during the war;

he adopted a very patriotic tone towards the French and Russian comrades."

"I know. That's the very argument I used to secure his return from Siberia when the Government gave me that ticklish job last year.

But I also know that he still has the idée fixe of assassinating the Emperor. . . .

Just remember to whom I shall be presenting you in a moment or two.

Look at that fine crimson livery on the box.

You'll realize that I'm not particularly attracted by your idea of meeting Bourtzev."

"So you think it impossible?"

"Wait till the end of your visit. We'll talk about it again."

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ロシアことにポーランド地方におけるユダヤの苦難

それはさておき,前記公式任務の(4)項 ポーランド問題には,多分にユダヤ問題を含むことを看破しなければならぬ。

前既に述べた如く,ロシアではユダヤ人の居住区域を定め,任意に居住を許さなかった。

ロシアに600万人ユダヤ人が居住し,世界最大のユダヤ人口を擁したが,

その過半数はポーランド(1721年から1916年まではロシア帝国の一部)に限定されて住まっていた。

そのポーランドがこの前の大戦(1914/7/28-1918/11/11)の時には,独露両軍の攻防進退の戦場になり,

しかも,免れがたきスパイ問題で全部落が,或る時は独軍から,次は露軍から追放される。

それにはユダヤ人の結束の固さが原因をなすものである。

彼らは,容易に同族の中から犯人を検挙させまいとする。

これは平時においても,ニューヨークのイーストサイドの如く,

ユダヤ人の密集居住するところへ警察官が犯人を追跡してきて,街の角で見失ったとして,

住民に,これこれの風体のものが今ここを通ったはずだがと聞くと,

同族の犯人が東へ逃げたのであるならば,そんな男はこちらへ急ぎ足で行ったと,西のほうを指して教えるそうであって,

ユダヤへ逃げ込まれたら逮捕は至難だそうである。

戦争になると刑は重いから,同族は余計庇護したくなる。

官憲は是非逮捕しようとする。

そこで,昔からある部落の連帯責任組織にするのやむなきに至るのではないか。

ともかく犯人を突き出さないことにユダヤ人の美点と欠点とあって,

結果は非常な苦難をなめていることは事実であろう。

前記の仏国大使パレオローグ氏(1859-1944)は,ユダヤ問題についてはその手記3巻を通じて,是々非々主義で行っているようであるが,

自分の駐在国であるロシアのポーランド方面ユダヤの惨状については,1915年3月30日の手記に次のように書いている。

--------------------

戦争の当初からポーランド及びリトアニアのユダヤ人は,惨酷なる苦難に遭った。

去る8月には,国境地帯から集団をもって追い立てられ,一物を携帯する暇もなく立ち退かなければならなかった。

暫くすると,そこからまた追放が始まって,前と同様に不意に,急激に,簡単にやられ,漸次東のほうへ追いやられた。

グロドノ外8都市のユダヤ人全部がだんだん国の内部へ向け追いやられた。

追放の景況は,至る所官憲のにこやかな監視の下で,暴行・略奪が伴うのである。

全部では10万人ぐらいに上る哀れむべきユダヤ群衆が,コザック部隊に駆り立てられて,

あたかも家畜のように雪の上を彷徨するのであった。

停車場内に放置されたり,市街の入口に風に吹きさらされて囲い込まれたりして,

飢餓と疲労と寒気で死にそうになっている。

それらの群衆の志気を引き立てるものといえば,

道々遭遇する憎悪と,軽侮と,間諜・反逆の疑いの目だけである。

ユダヤの悲哀史の中を通して,今回以上残忍な移動はなかったであろう。

そのくせ露軍の中には,よく戦う24万のユダヤ兵がいるのだ。

(パレオローグ大使手記第1巻第335・336頁)

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第1巻第315頁

Tuesday, March 30,  1915.

Ever since the war began the Jews of Poland and Lithuania have been passing through the most terrible trials.

In August they were compelled to leave the frontier zone en masse and given no time to remove any of their belongings.

After a short respite the expulsions have begun again in the most summary, hasty, and brutal manner.

All the Israelite inhabitants of Grodno, Lomza, Plotsk, Kutno, Lodz, Pietrokov, Kielce, Radom, and Lublin have successively been driven into the interior in the direction of Podolia and Volhynia.

Everywhere the process of departure has been marked by scenes of violence and pillage under the complacent eye of the authorities.

Hundreds of thousands of these poor people have been seen wandering over the snows, driven like cattle by platoons of Cossacks, abandoned in the greatest distress at the stations, camping in the open round the towns, and dying of hunger, weariness, and cold.

And to fortify their courage these pitiful multitudes have everywhere encountered the same feelings of hatred and scorn, the same suspicion of espionage and treason.

In its long and grievous history Israel has never known more tragic migrations.

And yet there are 240,000 Jewish soldiers fighting, and fighting well, in the ranks of the Russian army!

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■ブンドの通告・アメリカのユダヤデー

しかして前世紀末(19世紀末)にユダヤ解放3策の論議せられたるのち,

その第1論者の筋書きに即応した労働運動の本拠ブンド(1897-1948)が,ポーランドのウイルナに設置せられありしことを回想するとき,

作戦の必要より,急きょ追い立てられ,

これにユダヤ人に対する平素の反感軽侮(神の選民と自称する民族に対する)が加わりて,常軌を逸したるユダヤの取扱いをなすことが,

いかに革命的労働団体ブンドを刺激せしやは察するに難からず。

果たせるかな,ブンドは既に1915年初めより,右ポーランドユダヤの惨状について,細字をもってして5頁にわたる痛烈なる抗議的通告文を発して,

世界のユダヤ人の間に奮起を求めた。

その全文は1915年1月22日,29日のユニベル・イスラエリット(1844-1940)に掲載せられているが,

前記大使の手記なぞと比較にならない強い文字をもって詳報したものであるが,

長きに過ぎ且つ誇張に見えるからこれを掲げない。

(スピール(1868-1966)『ユダヤ人と大戦』第169~174頁)

これらの事柄はますます世界のユダヤをして,ロシア政体を破壊してユダヤ解放を決行せざるべからざる如く世論を喚起したるや明らかである。

殊に米国においてウィルソン大統領(1856-1924,任期: 1913/3/4-1921/3/4)などの奔走は,

露国の革命(1917/3/8-1923/6/16)に拍車をかけたことも確かであろう。

1916年2月7日のパリ発行ル・タン紙(1861-1942)の所報によれば,

ウィルソン大統領は上院の決議に基づき,大戦に苦しむユダヤ人のために,米国市民に次のような通告を発した。

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現在戦争に参加している諸国の中には,900万人のユダヤ人がいて,

その大部は食糧・住居・衣類に事を欠いていることに鑑み,

またその中の数100万人は予告も受けずに,その住居から追放され,日常必需の品物を調達するあたわずして,飢餓・疾病と筆舌に尽くしがたい苦難にさらされているに鑑み,

また米国市民は,米国に多数の善良な市民を与えた人種に属する戦争犠牲者を救助するの意志を有することは確かなりと認むるにより……云々

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右告示の結果,1月27日をもって,米国民のユダヤデーが設けられ,

それが大統領の要望した救助事業のために当てられたところ,1100万フランの収入を上げ得た。

(同前第270・271頁)

右ユダヤデーは,億万長者のカーネギー(1835/11/25-1919/8/11)が発起人となってニューヨークに開催したもので,

各政党及び国家的諸団体の代表者が参加した。

ニューヨーク市は,500万ドル支出させられた。

米国の最も有力な名士が,文書をもってこれに参加した。

副大統領トーマス・マーシャル(1854-1925)(注: ユダヤ人)は電報を寄せて,

自ら出席できるならば肉声をもって一国の代表者として演説するつもりであった,

その一国とは,ユダヤ人が,財産が没収されたりする心配なく,

子も孫も思う存分,商業界でも社会事業でもまた政界でも息のつける国アメリカのことであると言い表した。

英国キリスト教会のグリーア僧正(David H. Greer (1844-1919)?)はこの会合に顔を出し,

自分が感動を受けたのは感情からではなく,キリスト教寺院がユダヤ人に対して犯した罪科の罪滅ぼしを公然にする必要に駆られたのである,

人類はユダヤ人に対して債務を負った,(中略)

予は米国人に,この人道的感情について訴えるのである,

米国人は由来,人類の不幸については,それがいかなる世界の隅々からの声でも,これに同情してきたのである,

キリスト教会の名において,米国人の人道的権威の名において,予は大洋の彼方で苦難に遭っているユダヤの老若男女を救うべきことを訴える。

(1916年2月10日ユダヤ解放36頁以下)

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[注: ]

1938年末チェコ事件の直後から,米国ではこれと同様に,ユダヤ僧とキリスト教の牧師とが一緒にラジオでヨーロッパユダヤに同情する演説をし,

新聞紙上に異教講演者両方の写真を掲載したりしていたのは,

前大戦当時からの同一筆法であることを目撃して帰って来た。

ただし宣伝の対象物が変わってきた。

前の大戦の時は,ロシアユダヤの惨状が種子であったが,

今度はドイツユダヤがヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)に苦しめられるところが種子である。

狙い所は,宣伝の力で世界各国の同情をドイツから離し,ナチドイツを破壊しようとすることは,

前ロシアに対する場合と軌を一にすると見られる。

日本の有識者間に現れつつある盲目的ユダヤ同情は,本運動の表れとも見られる。

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この会合で30分経たぬに,出席者4名から40万ドルが提供され,

会合の終わりまでには150万ドル集まった。

婦人たちは宝石を外して,申込所に持って来た。

その年(1916年)の11月初めには,米国合衆国は仏貨にして3000万フランを寄付した。

仏国ユダヤも協同の精神により馳せ参じ,

1916年2月初めすなわちウィルソン大統領の告示の1か月後に,

ユダヤ犠牲者救護仏国協会が告文を出して,35万フランを集めた。

これは誠に少額であって,役には立たぬと,ユダヤ人スピール(1868-1966)は書いた。

もちろんユダヤ富豪エドワード・ロスチャイルド男爵(1868-1949)は個人で,ペトログラードの委員に宛てて50万フランを送金した。

(注: これらのカネの行方は,救済か革命資金か詳らかでない)

これら人道的な運動と同時に,大きな労働者・社会主義者の運動が米国に起こった。

アメリカン・フェデレーション・オブ・レーボア(1886-)及び社会党(1901-1972)執行委員会の連合組織によって,

米国政府をして速やかに,ロシアのユダヤ人虐待を中止せしむること,

並びに世界デモクラシーの最高峰に立つ米国政府として,将来の永久平和の希望事項の中には,

ユダヤ人に対するあらゆる圧迫を廃棄することを挿入すべきであると主張した。

なお,右のフェデレーション・オブ・レーボアのほうは,各国の労働団体に向かって右の努力を求め,

この(げき) は各国労働団体の受納するところとなった。

英国労働党(1900-)及び英国トレードユニオン組合(1871-)は,英国政府が各連合国及び中立国に或る圧力を加えて,

各国がユダヤ人に政治的・民族的市民権を与え,

且つ,ユダヤ人と同様に圧迫されている他の少数民族にも,これを及ぼすよう尽力すべく要請した。

■イスラエル・ザングウィルのアメリカユダヤへの飛檄

この如く各国のユダヤ人・労働党・社会主義者等が群起して,ロシアを攻撃した原動力には,

英国の有名な軟派文士で集産主義者たるイスラエル・ザングウィル(1864-1926)が第1次世界大戦の開戦後に,

米国を初め世界各国のユダヤ人団体に呼びかけた書簡とその効果とを黙殺することはできぬ。

すなわちその要旨は次の通りである。

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(前略) 英国の外務大臣エドワード・グレー卿(1862-1933。1912年にガーター勲章受章)が予に対して,

露国のユダヤ人解放を促進すべき好機があったら必ずこれを捉えることを忘れないとの保証を与えたことは,

露国ユダヤの歴史に一転機を与えたもので,

従来ただ風説であった事柄を,希望に満ち基礎堅固な政治的根拠に置き換えたものだ。

グレー卿の保証は,従来よく政治史に見るところの,苦しい時の気休め的な宣言ではなく,

英国風の最も純真な態度を表したものであることを確言して憚らない(はばからない)

故に予が米国及び他の中立国のユダヤ人に希望してやまないのは,

諸君が,この大戦に帝政ロシアが我々側に参戦したことは前途に暗影を投げたと言うので,

この不撓不屈の島国イギリスに対する同情を減却せられないことである。

実に英帝国は現在においても,過去においても一再ならず人道のために尽くしてきたが,

恐らく露国を開花し……ドイツをも開花するであろう。

(ザングウィル著『世界のための戦争』第320頁)

ザングウィル著"The War for the World" [1916],第320頁の注記1

1 To this and other neutral Jewries I issued the following appeal in the early days of the war:

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"Although the most monstrous war in human history was 'Made in Germany,'

and although Germany's behaviour in war is as barbarous as her temper in peace,

I note with regret that a certain section of Jewry in America and other neutral countries seems to withhold sympathy from Britain and her Allies.

In so far as these Jews are German-born, their feeling for Germany is as intelligible as mine for England.

But in so far as they are swayed by consideration for the interests of the Russian Jews

(to whom Germany and Austria are offering equal rights)

let me tell them

that it were better for the Jewish minority to continue to suffer, and

that I would far sooner lose my own rights as an English citizen,

than that the great interests of civilization should be submerged by the triumph of Prussian militarism.

And in saying this I speak not as a British patriot but as a world-patriot,

dismayed and disgusted by the inhuman ideal of the Gothic Superman.

I am well aware that Germany's Press agents paint Germany as the guardian of civilization,

an angel fighting desperately against hordes of savages imported from Africa and Asia.

But if we are using black forces it is for a white purpose;

she is using white forces for a black purpose.

But it is not even certain that

the Jews of Russia will continue to suffer, once England is relieved from this Teutonic nightmare.

The assurance I have been privileged to obtain from Sir Edward Grey

that he will neglect no opportunity of encouraging the emancipation of the Russian Jews,

marks a turning point in their history, replacing as it does windy Russian rumours by a solid political basis of hope.

Nor is this the mere utterance of a politician in a crisis.

I am in a position to state that it represents the attitude of all that is best in English thought.

It is with confidence, therefore, that I appeal to American and other 'neutral' Jews not to let the shadow of Russia alienate their sympathies from the indomitable island 

which now, as not seldom before, is fighting for mankind,

and which may yet civilize Russia and Germany!"

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■アメリカユダヤ,コングレスの回答

米国のユダヤ人はこの書簡を受けてコングレスを開き,

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我々は中立国の立場にあるので仕事をするのに都合が宜しい。

こと苟くも(いやしくも)ユダヤ人解放という問題に属するならば,我々は政治上,経済上,財政上並びに社会問題上で責任を取る。

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という回答をイスラエル・ザングウィルに与え,同時に世界各国のユダヤ同胞に同文通牒を出した。

かくて,それまで参戦に賛成しなかった労働団体までも,首領ゴムパース(Gompers,1850-1924)というユダヤ人らの活躍により参戦に傾き始めたのである。

筆者は1917年3月中旬頃は,西部戦線のフランス中央軍司令部にいた。

15日夕,情報部の食卓に集まると,特別な料理と美酒が並べてある,何事かと尋ねると,

参謀連が答えるには,ロシア革命は成立し皇帝譲位が出来ためでたいことになったから,祝杯を挙げるのだ,

筆者は甚だ不めでたいなと言うと,

君は帝政日本(大日本帝国(1868-1947))の人だから革命を嫌うのかと尋ねる,

否,共和制のほうが良い国はそれにするが良かろうが,今はその問題ではない,

聞くところによれば,来月は仏軍は大規模な攻勢を執る準備中である,

その際には露軍は北方から陽攻でも行って,敵(ドイツ軍)の兵力を北の方へ牽制せねばならぬ,

然るに今ロシアに革命(1917/3/8-1923/6/16)を起こせば,それが出来なくなる,

不詳なことを言うが,来月の攻勢は恐らく甘く行くまい,

これが不めでたいのだ,と答えると,

なおも露国皇后(1872/6/6-1918/7/17)がドイツ皇室出の関係で,最も危険なる高等スパイであるとか種々の議論が筆者と参謀連との間に交わされたが,

中央政府から特にその軍司令部に配属されていた一外交官の消息通が,口を筆者の耳たぶに寄せ,

貴官の言うところに理があるのだが,なぜか今回,英国がロシアの革命を急いだとつぶやいた,

ますます迷路に入った筆者は,そのまた理由はと問い返すと,

これより以上は聞いてくれるなとのことで,

狐につままれた心地でとしていたが,

あとに至って,エドワード・グレー卿(1862-1933)のユダヤ解放確約や,イスラエル・ザングウィル(1864-1926)のロシア開化予言と,米国の参戦準備完了との関係等を知悉するに及んで,

疑問は初めて氷解することができた。

(上記「一外交官の消息通」というのは,『四王天延孝回顧録』[1964年出版]では,「元全権公使騎兵少尉サンルネ・タイアンデイエ翁」と明記されています。

彼の年齢について,四王天氏の認識が当時68歳のようで,その点の食い違いがあるのですが,

Georges SAINT-RENÉ-TAILLANDIER (1852/9/17-1942/4/8)のことと思われます。)

四王天延孝(1879-1962)著 『四王天延孝回顧録』 [1964],第53頁

[ロシア革命を急いだのは英国なりとの秘話]

その年(1917年)3月15日の夕食時に,将校食堂に出てみると,

いつにない上等ブドウ酒が何本も林の如く立てられているから,

参謀の1名に何事のお祝いかを尋ねると,

ロシアの革命が成就した報道が来て,めでたいので祝杯を挙げるのだと言うから,

それはそうかも知れないが,軍としては甚だめでたくないと思うがなと漏らすと,

件の参謀は,あなたは帝政日本の将校であるから,ロシアに革命が成立し帝王政治の崩壊するのをめでたくないと言うのか,と切り込んできたから,

決して左にあらず,予は他国の政体変革などを苦慮することは毛頭ない。

帝政の適する国で人民がこれを欲する国には,いつまでも帝政をやらせるが良し,

共和制の適する国で人民が望むなら,共和制に改めるも良かろう。

自分の不めでたいと気遣うのは,作戦上の理由からで政治上からではない,

聞けば,諸君は近く,ドイツ軍に対して攻勢に出るのではないか,

そうなればこれと呼応して,連合予国たるロシアは北のほうからドイツ軍の背後に向かって少なくとも陽攻を加えて,ドイツ軍の力を南のほうに移動させない方策に出なければならぬと思う,

然るにその露国に革命が起こり,軍の統帥関係や組織に大変革が起こったとすれば,

露軍は当分の間,作戦行動は不随意となり,ドイツ軍は安心して仏軍の攻勢に対抗し得るから,

近く行われるであろう諸君の作戦が成功せないのを心配するのだと述べた。

これに対して他の参謀から,

しかしロシアの皇后(1872/6/6-1918/7/17)はドイツ系で,ツアルスコイセロというところに頑張り,諸情報を集めてこれを送信しているそうで,

これを片付けなければ,やはりこちらの作戦はできぬのだと述べた。

予はそれなら,皇后だけ幽閉するなり無電の働きを止めるなり,方法は他に幾らもあろうではないか,

とにかく時機の選定が宜しくなかったと強弁した。

この問答を最も熱心に聞いていたのは,

食卓長の右側に特別に敬意を払って占位させられている元全権公使騎兵少尉サンルネ・タイアンデイエ翁(68歳)(Georges SAINT-RENÉ-TAILLANDIER (1852/9/17-1942/4/8) ? ただ1917/3/15には,満64歳)であった。

翁はしばしば,パリに往復し,政界の裏面にも通じている人である。

翁は低声で予に述べた。

四王天さん,あなたの言うことは事実上の見地から見れば,誠にごもっとものことであり,正しいと自分も思う,

しかし今回のことは,なぜか英国がロシア革命を急いだのであると言うから,

予は自分の耳を疑い,どこの国かと聞き直すと,英国と答え,

不思議なことを聞くものかな,その理由はと言うと,

不明である,これ以上聞かないでくれと言うので,

その話は打ち切りとした

(2年後に,他の方面から研究したところにより,この謎は解けた)

それから約1か月後の4月中旬,仏軍の中央は,予定の攻撃に出た。

突撃開始の前夜,乞うて第一線師団の有名なモルダック師団長(1868-1943)と同車し,

準備陣地に向かい暗黒の中を進んだ。

ドイツ軍も攻撃を感づき,頼りに照明弾を打ち上げて上空から光り物を雨と注いだ。

そのおかげで砲兵隊の馬が驚き,狂奔して,弾薬車を引いたまま前線からパニック状態で駆けてきて,

危うく予らの自動車にぶつかるところだったが,辛うじて衝突は免れたが,転覆してしまった。

師団長は助手台に乗り,これを一等席だと誇って,予に後ろの座席を譲ってくれていたのであった。

万一,右の弾薬車と衝突したならば,予が安全で師団長が助手台で大負傷をしていたわけであった。

ロシアに革命を起こすだけならば,時機は幾らも繰り上げられたのだが,

米国参戦の準備が出来ないと戦場のバランスが狂ってしまうので,時機をうかがっていたものであろう。

既に1915年中頃,ロシアの4大軍需工業家の一人 超大富豪プチロフ(Aleksei Putilov,1866-1940。1896年にFrench Cosmos Lodgeで入会したフリーメイソン(?))が数人の要人と晩さんを共にしたのち語り出した時局談は,

その列席者の一人パレオローグ仏国大使(1859-1944)の手記に左の如く伝えられている。

プチロフ曰く,

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ロシアの帝政も間もなく終わりを告げるであろう。

最早滅びたも同然だ。

しかし帝政はロシアの屋台骨であり,国家結合の唯一の連接具である。

が革命は不可避になった。

ただ爆発の機会の問題だ云々。

(パレオローグ著『帝政露国』第1巻第371頁)

パレオローグ著 "La Russie des Tsars pendant la grande Guerre" 第1巻第371頁

https://archive.org/details/larussiedestsars01palo/page/370/mode/2up

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Mercredi, 3 juin 1915.

Je dîne, ce soir, dans l'intimité, avec le plus important métallurgiste et financier de la Russie, le richissime Poutilow.

J'ai toujours grand plaisir et profit à rencontrer cet homme d'affaires, dont la psychologie est originale;

il possède à un très haut degré les qualités maîtresses d'un business-man américain:

l'esprit d'initiative et de création, le goût des vastes entreprises, un sens exact du réel et du possible, des valeurs et des forces;

il reste Slave néanmoins par certains aspects de sa nature intime et par une profondeur de pessimisme que je n'ai encore observée chez aucun Russe.

Il est un des quatre industriels qui siègent dans le conseil supérieur des munitions, institué au ministère de la Guerre.

Ses premières impressions sont déplorables;

ce n'-est pas seulement un problème tecimique, un problème de travail et de fabrication, qu'il s'agit de résoudre;

c'est tout l'organisme administratif de la Russie qu'ii faudrait réformer de fond en comble.

Le dîner s'achève sans que nous ayons épuisé le sujet.

A peine les cigares allumées, on rapporte du Champagne et nous devisons de l'avenir.

Poutilow donne libre cours à son pessimisme;

il se complaît à me dépeindre la suite fatale des catastrophes prochaines, le sourd travail de décadence et de dislocation qui mine l'édifice russe:

― Les jours du tsarisme sont comptés;

il est perdu, irrémédiablement perdu;

or, le tsarisme est la charpente même de la Russie et le seul lien de son unité nationale...

La révolution est désormais inévitable;

elle n'attend plus qu'une occasion pour éclater.

Cette occasion sera une défaite militaire, une famine en province, une grève à Pétrograd, une émeute à Moscou, un scandale ou un drame de palais, peu importe!...

Mais la révolution n'est pas le pire malheur qui menace la Russie.

Qu'est-ce qu'une révolution, au sens exact du mot?

C'est la substitution violente d'un régime à un autre.

Une révolution peut être un grand bienfait pour un peuple, si, après avoir détruit, elle sait reconstruire.

A ce point de vue, les révolutions d'Angleterre et de France me semblent avoir été plutôt bienfaisantes.

Chez nous, la révolution ne peut être que destructive parce que la classe instruite ne représente dans le pays qu'une minorité infime, sans organisation ni expérience politique, sans contact avec les masses.

Voilà, selon moi, le plus grand crime du tsarisme:

il n'a voulu admettre, en dehors de sa bureaucratie, aucun foyer de vie politique.

Et il y a si bien réussi que le jour où les tchinovniks disparaîtront, c'est l'État russe tout entier qui se dissoudra...

Ce seront sans doute les bourgeois, les intellectuels, les «cadets», qui donneront le signal de la révolution, en croyant sauver la Russie.

Mais, de la révolution bourgeoise, nous tomberons tout de suite dans la révolition ouvrière et, bientôt après, dans la révolution paysanne.

Alors, commencera une effroyable anarchie, une interminable anarchie... dix ans d'anarchie!...

On reverra l'époque de Pougatchew et peut-être pis encore!

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ここでかかる空気をますます革命の実行に導いたアメリカ方面のユダヤ人の努力を叙することは,

英米ユダヤ合作の真相を理解するに必要と考える。

■日本公債応募者シフ再びロシア革命に尽力す

1916年2月14日,ニューヨークのイーストサイド(ユダヤ細民居住地)内において,ロシア革命団体の会議を開き,

62名の正式代表が顔を合わせた。

そのうちの50名は日露戦争(1904/2/6-1905/9/5)の時の革命運動に体験ある闘士であった。

その中には長年,ニューヨークのユダヤ銀行団クーン・ローブ(1867-1977(?))と連絡ある者もいた。

僅か12名が新顔であった。

各代表の多数は誰も考えるとおりインテリで,一部は暴力団・ギャング式の者であった。

第1回会合では,明治38年(1905年)の時の計画を踏襲することに傾いた。

当時集まっていた情報では,ロシア人は既に,18か月続いた戦争に飽いた

殊に禁酒令(1914-1925)で政府の評判はすこぶる悪いし,

不用意に開いた議会は,政府反対のため,いかなる武器をも用いる準備が出来ているというように,

形勢は革命に有利となった。

そこで再び扇動政策をやることに決した。

ここに資金の問題が起こった。

ロシアから来ている者は貧乏だし,数100名の宣伝者をロシアに送るには相当のカネがいる。

幸いなことには,ロシア革命に同情する金持ちがいるから心配は無用だ,

カネはいるだけ出る,と発言した者がある。

(「ロシア革命に同情」というのは,第1革命(1905/1/29-1907/6/19)ではロシア帝国の左傾化が思うほどには進まなかったことについて同情ということ)

その金持ちとはクーン・ローブの親方 ユダヤ人の日本勲二等ヤコブ・シフ君(1847-1920)だと分かったので,

会衆歓呼して喜んだ。

数週間のうちに,より抜きの宣伝員が工作に取りかかった。

最初はロシアの都会の郊外から始め,まだバラックにいる予備兵に働きかけた。

戦線に向かうのを拒んで帝政崩壊を促したのは,これらの部隊の1つであった。

1917年3月19日の革命完成の日に,臨時政府(1917/3/17-11/8)外務大臣ミリュコフ(1859-1943)(親英派のフリーメイソン結社員)の下に,右ユダヤ人ヤコブ・シフから次の電報が来た。

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我々の同族ユダヤ人に無慈悲な迫害者であった専制暴君に対する偉大なる成功について,

貴下を通じてロシア国民諸君に祝意を表し,

貴下及び同志諸君の新政府,今後のご成功を祈る,万歳。

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ヤコブ・シフ氏自身の告白するところによれば,

この仕事の準備のため,宣伝員に渡したカネが1200万ドルであったという(英国パトリオット紙)

■革命直前の状況,革命の勃発

いよいよ3月革命(1917/3/8-12)の前の3月3日の前記仏国大使(パレオローグ(1859-1944)の手記("An Ambassadors Memoirs" 仏英訳本が初版1924年発行)を見ると,

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軍から帰ってくる傷兵・病兵・休暇兵らは,甚だ不穏な意見を述べる。

彼らは信仰を失い,無神論を吐く(注: 既記宗教破壊の努力参照)

だんだん不敬,背信まで来たる。

これらの連中はインテリやユダヤ人のところへ出入りしたことが分かった。

田舎町の至る所に活動写真が設備され,そこで見せられる人さらい・強盗,暗殺などの光景は,

単純な百姓出の兵卒の頭にいろいろな影響を与えた(テオフハーン僧正(Феофан (Ильменский) (1867/10/8-1918/12/24)(?))の言)

([「テオフハーン僧正」について] テオフハーンがヴャトカの司教に就任したのが,グレゴリオ暦で1917/3/11(ユリウス暦で同年2/26)だとすると,

パレオローグの手記の日付はユリウス暦で記されていて,四王天氏はそのことに気づいてない?

それとも,テオフハーンは実質的に見ると,1917/3/3(グレゴリオ暦)には,ヴャトカの司教と称しても問題なかった?

それか,そもそもテオフハーンというのは,Ильменский (1867-1918)のことではない?

確かにヴャトカの教区ということを文字通りに受け取れば,Никандр (1872-1933)という司教に行き当たりますが,

ただ,しかしながら,この人物についてはテオフハーンの名であったことがうかがわれません。

しかもИльменскийはボルシェビキに迫害され処刑されたようであり,このことというのは1917/3/3付の手記での記述からうかがわれる人物像に合致します。)

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第212頁

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.12314/page/n209/mode/2up?q=theophanes

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Saturday, March 3, 1917.

I have just been told of a long conversation

which took place recently between the Empress (ニコライ2世皇后,1872-1918) and Monsignor Theophanes (Феофан (1867/10/8-1918/12/24)(?)), the Bishop of Viatka.

This prelate is a creature of Rasputin, but the way he spoke to his sovereign shows that he has a sensible and independent mind.

The Tsarina first asked him about the attitude of his flock towards the war.

Monsignor Theophanes replied that the spirit of patriotism had not waned in his diocese which lies west of the Urals:

of course the public was suffering from so long a trial;

there was grumbling and criticism,

but men were willing to put up with many more losses and much more privation in the cause of victory.

He could reassure the Empress on that point.

But in other respects he had much to worry and grieve him;

he had observed that the demoralization of the people was making alarming progress every day.

The men who returned from the army, sick, wounded, or on leave, were giving utterance to scandalous opinions;

they openly professed unbelief and atheism and did not even shrink from blasphemy and sacrilege.

Anyone could see at once that they had been in touch with intellectuals and Jews.

The cinemas, which had now spread to every little provincial town, were now another cause of degeneration.

Melodramatic adventures and scenes of robbery and murder were too heady for simple souls such as moujiks:

they fired their imaginations and turned their heads. 

It was thus that the bishop accounted for the unwonted number of sensational crimes of violence which have been recorded in recent months not only in the diocese of Viatka but the neighbouring dioceses of Ekaterinburg, Tobolsk, Perm and Samara.

In support of his statements, he showed the Empress photographs of looted shops, sacked houses and mutilated corpses, all of them obviously showing the handiwork of audacious criminality.

He then castigated a wholly modern vice―morphia-taking―of which the masses in Russia had not even heard until quite recently.

The evil had come from all the military hospitals with which the country is dotted.

Many doctors and chemists had got into the habit of taking morphia;

through them the use of the drug had spread among officers, officials, engineers and students. 

Before long the hospital attendants had followed their examples, and their case was far more pernicious

because they had made men of the people their companions in debauchery.

When they did not take morphia themselves they sold it to others;

everyone in Viatka knew the cabarets where this trade was carried on.

The police had good reasons for shutting their eyes to it . . .

Monsignor Theophanes ended thus:

"The remedy for all these evils should be sought, I think, in strong action by the clergy.

But I confess with grief to Your Majesty that the general demoralization has not spared our priests, particularly in the country districts.

A few are real saints but the majority are abandoned and degraded.

They have no influence with their parishioners.

The religious education of the people must begin all over again, and to that end the moral ascendancy of the clergy must be restored to them.

The first step is to suppress the sale of the sacraments.

The State must pay the priest a stipend sufficient to live upon and then he must be forbidden to accept any money save that given voluntarily for his church or the poor.

The wretched condition to which the sviat chenik is reduced, as things are now, compels him to resort to a scandalous sort of trading which deprives him of all prestige and dignity.

I anticipate great disasters to our holy church unless its supreme guardian, our revered and pious Tsar, reforms it as soon as possible . . ."

In the mouth of one of Rasputin's (1869/1/21-1916/12/17) bishops, these words are an edifying prediction.

I have heard from another source that

Monsignor Vladimir (1869/10/2-1936/2/5), Archbishop of Penza, and Monsignor Andrew (1873/1/7-1937/9/4), Bishop of Ufa, two prelates

who would not consent to throw in their lot with Rasputin and are among the most distinguished members of the Russian clergy,

have expressed exactly the same opinions as Monsignor Theophanes.

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それがすなわち米国のユダヤ財閥ヤコブ・シフ(1847-1920)らの養った宣伝員の働きの表れである。

また3月6日の手記には,

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ペトログラードにはパンと焚き物がなくなり人民は困ってきた。

リテーニーの街のパン屋の前に前夜から長い列を作った貧民の顔を見ると,険悪な空気が漂っていた。

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第213頁

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.12314/page/n211/mode/2up

/ http://bit.ly/3tDHykQ

Tuesday, March 6, 1917.

Petrograd is short of bread and wood, and the public is suffering want.

At a bakery on the Liteiny this morning I was struck by the sinister expression on the faces of the poor folk who were lined up in a queue,

most of whom had spent the whole night there.

Pokrovski (1865-1930), to whom I mentioned the matter, did not conceal his anxiety.

But what can be done!

The transport crisis is certainly worse.

The extreme cold (43°(6.1℃? それとも,-43℃か-6.1℃?)) which has all Russia in its grip has put more than twelve hundred engines out of action,

owing to boiler tubes bursting,

and there is a shortage of spare tubes as a result of strikes.

Moreover, the snowfall of the last few weeks has been exceptionally heavy and there is also a shortage of labour in the villages to clear the permanent way.

The result is that at the present moment fifty-seven thousand railway wagons cannot be moved.  

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但し,当時,モーニングポスト(1772-1937)の特派員で露都にいた英人マースデン(1866-1920。『シオンの議定書』の露英訳者)の発表には,

列の仲にはユダヤ人の顔は見えないと記している。

しかし,列の中で宣伝を務めるユダヤ人はいたことを他の情報から聞き及んでいる。

3月8日の手記には,

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終日ペトログラードは騒がしかった。

群衆は所々で叫んでいる,『パンと平和を与えろ』。

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第213頁

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.12314/page/n211/mode/2up

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Thursday, March 8, 1917.

There, has been great agitation in Petrograd all day.

Processions have been parading the main streets.

At several points the mob shouted for "Bread and peace!" 

At others it sang the Working Man's Marseillaise.

In the Nevsky Prospekt there have been slight disorders.

I had Trepov (アレクサンドル・トレポフ(1862-1928)?), Count Tolstoi (Толстой, Дмитрий Иванович,1860-1941), Director of the Hermitage (1764-), my Spanish colleague, Villasinda (Luis Valera (1870-1926)(?)), and a score of my regular guests to dinner this evening.

The occurrences in the streets were responsible for a shade of anxiety which marked our faces and our conversation.

I asked Trepov what steps the Government was taking to bring food supplies to Petrograd, as unless they are taken the situation will probably soon get worse.

His replies were anything but reassuring.

When I returned to my other guests, I found all traces of anxiety had vanished from their features and their talk.

The main object of conversation was an evening party which Princess Leon Radziwill (カタジナ・ラジヴィウ(1858-1941)(?)) is giving on Sunday:

it will be a large and brilliant party, and everyone was hoping that there will be music and dancing.

Trepov and I stared at each other.

The same words came to our lips;

"What a curious time to arrange a party!"

In one group, various opinions were being passed on the dancers of the Marie Theatre (1860-) and whether the palm for excellence should be awarded to Pavlova (1881-1931), Kchechinskaia (1872-1971) or Karsavina (1885-1978), etc.

In spite of the fact that revolution is in the air in his capital, the Emperor (1868/5/18-1918/7/17), who has spent the last two months at Tsarskoie-Selo, left for General Headquarters this evening.

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とあるが,

故意に組織した交通労働者の同盟罷業や鉄道の機関車の破裂などが,

我々の米や木炭に相当するものの輸送を妨げ,欠乏に拍車をかけたのである。

3月12日,終に革命は勃発し,15日には議会側と革命党たる労兵会(ここでは,Petrograd Soviet (1917/3/12-1924) のこと)とは妥協成立し,

皇帝の退位等6か条の要求が生まれたが,

この第6か条には,早速「法律の前には,人種の平等なることを宣言すべし」とあって,

ユダヤ解放のゴールに達した。

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第221~225頁

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.12314/page/n219/mode/2up

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Monday, March 12, 1917.

At half-past eight this morning, just as I finished dressing, I heard a strange and prolonged din which seemed to come from the Alexander Bridge.

I looked out: there was no one on the bridge, which usually presents such a busy scene.

But, almost immediately, a disorderly mob carrying red flags appeared at the end which is on the right bank of the Neva, and a regiment came towards it from the opposite side.

It looked as if there would be a violent collision, but on the contrary the two bodies coalesced.

The army was fraternizing with revolt.

Shortly afterwards, someone came to tell me that the Volhynian regiment of the Guard (1817-1917) had mutinied during the night, killed its officers and was parading the city, calling on the people to take part in the revolution and trying to win over the troops who still remain loyal.

At ten o'clock there was a sharp burst of firing and flames could be seen rising somewhere on the Liteiny Prospekt which is quite close to the embassy.

Then silence.

Accompanied by my military attaché, Lieutenant-Colonel Lavergne, I went out to see what was happening.

Frightened inhabitants were scattering through the streets.

There was indescribable confusion at the corner of the Liteiny.

Soldiers were helping civilians to erect a barricade.

Flames mounted from the Law Courts.

The gates of the arsenal burst open with a crash.

Suddenly the crack of machine-gun fire split the air: it was the regulars who had just taken up position near the Nevsky Prospekt.

The revolutionaries replied.

I had seen enough to have no doubt as to what was coming.

Under a hail of bullets I returned to the embassy with Lavergne who had walked calmly and slowly to the hottest corner out of sheer bravado.

About half-past eleven I went to the Ministry for Foreign Affairs, picking up Buchanan (George Buchanan (1854-1924)) on the way.

I told Pokrovski (1865-1930) everything I had just witnessed.

"So it's even more serious than I thought," he said.

But he preserved unruffled composure, flavoured with a touch of scepticism,

when he told me of the steps on which the ministers had decided during the night:

"The sitting of the Duma has been prorogued to April and we have sent a telegram to the Emperor, begging him to return at once.

With the exception of M. Protopopov (1866/12/18-1918/10/27), my colleagues and I all thought that a dictatorship should be established without delay;

it would be conferred upon some general whose prestige with the army is pretty high, General Russky (1854/3/18-1918/10/18) for example."

I argued that, judging by what I saw this morning, the loyalty of the army was already too heavily shaken for our hopes of salvation to be based on the use of the "strong hand,"

and that the immediate appointment of a ministry inspiring confidence in the Duma seemed to me more essential than ever, as there is not a moment to lose.

I reminded Pokrovski that in 1789 (フランス革命(1789-1805)), 1830 (フランス7月革命(1830)) and 1848 (1848年のフランス革命), three French dynasties were overthrown

because they were too late in realizing the significance and strength of the movement against them.

I added that in such a grave crisis the representative of allied France had a right to give the Imperial Government advice on a matter of internal politics.

Buchanan endorsed my opinion.

Pokrovski replied that he personally shared our views, but that the presence of Protopopov in the Council of Ministers paralyzed action of any kind.

I asked him:

"Is there no one who can open the Emperor's eyes to the real situation?"

He heaved a despairing sigh.

"The Emperor is blind!"

Deep grief was writ large on the face of the honest man and good citizen whose uprightness, patriotism and disinterestedness I can never sufficiently extol.

He asked us to call in again at the end of the day.

When I returned to the embassy the situation had become much worse.

One piece of bad news followed another.

The Law Courts had become nothing but an enormous furnace;

the Arsenal on the Liteiny, the Ministry of the Interior, the Military Government building, the Minister of the Courts' offices, the headquarters of the Detective Force, the too, too famous Okhrana, and a score of police-stations were in flames;

the prisons were open and all the prisoners had been liberated; 

the Fortress of SS. Peter and Paul was undergoing a siege and the Winter Palace was occupied.

Fighting was in progress in every part of the city.

At half-past six I returned with Buchanan to the Ministry for Foreign Affairs.

Pokrovski (1865-1930) told us that in view of the gravity of the situation the Council of Ministers had decided to remove Pokrovski from the Ministry of the Interior and appoint General Makarenko (1861-1932) "provisional director."

The Council at once reported accordingly to the Emperor and also begged him to confer extraordinary powers immediately on some general, authorizing him to take all the exceptional measures the situation requires, and particularly to appoint other ministers.

He also informed us that in spite of the ukase of prorogation, the Duma met at the Tauris Palace this afternoon.

It has set up a permanent committee with the object of serving as intermediary between the Government and the mutinous troops.

Rodzianko (1859-1924), who is president of this committee, has telegraphed to the Emperor that the dynasty is in the greatest danger and the slightest hesitation will be fatal to it.

It was pitch dark when Buchanan and I left the Ministry for Foreign Affairs; not a lamp was lit.

Just as my car was emerging from the Millionaia, opposite the Marble Palace, we were stopped by a military mob.

Something was happening in the barracks of the Pavlovski Regiment.

Infuriated soldiers were shouting, yelling and fighting on the square.

My car was surrounded.

There was a violent demonstration against us.

It was in vain that my chasseur and chauffeur tried to explain that we were the ambassadors of France and England.

The doors were opened and our position was on the point of becoming dangerous when a non-commissioned officer, perched on a horse, recognized us and in a voice of thunder proposed a "cheer for France and England!"

We came out of this unpleasant predicament to the accompaniment of a storm of cheering.

I spent the evening trying to obtain information as to what the Duma was doing.

It was a very difficult matter as shooting and burning were in progress in all quarters.

At length certain reports came in which substantially agreed.

The Duma, I was told, was doing everything in its power to organize a Provisional Government (1917/3/16-11/8), restore order to some extent and secure the food supplies of the capital.

The swift and complete defection of the army has been a great surprise to the leaders of the liberal parties and even the working-class party.

As a matter of fact, it faces the moderate deputies, who are trying to direct and control the popular movement (Rodzianko (1859-1924), Miliukov (1859-1943), Shingarev (1869/8/18-1918/1/20), Maklakov (1869-1957), etc.) with the question whether it is not too late to save the dynastic régime.

It is a formidable problem, as the republican idea, which is favoured in labour circles in Petrograd and Moscow, is foreign to the spirit of the country and it is impossible to foretell how the armies at the front will receive the occurrences in the capital.

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第234~236頁

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.12314/page/n231/mode/2up

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Thursday, March 15, 1917.

Gutchkov (1862-1936) and Shulgin (1878-1976) left Petrograd at nine o'clock this morning.

Thanks to the aid of an engineer attached to the railway service, they were able to get a special train without arousing the suspicions of the socialist committees.

Discipline is gradually being re-established among the troops.

Order has been restored in the city and the shops are cautiously opening their doors again.

The Executive Committee of the Duma (1917/3/12-9/19) and the Council of Workmen's and Soldiers' Deputies (1917/3/12-1924) have come to an agreement on the following points:

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(1) Abdication of the Emperor (1868/5/18-1918/7/17,在位: 1894/11/1-1917/3/15);

(2) Accession of the Tsarevitch (アレクセイ・ニコラエヴィチ,1904/8/12-1918/7/17);

(3) The Grand Duke Michael (1878/12/4-1918/6/13) (the Emperor's brother) to be regent;

(4) Formation of a responsible ministry;

(5) Election of a constituent assembly by universal suffrage;

(6) All races to be proclaimed equal before the law.

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The young deputy Kerensky (1881-1970), who has gained a reputation as an advocate in political trials, is coming out as one of the most active and strong-minded organizers of the new order.

His influence with the Soviet is great.

He is a man we must try to win over to our cause.

He alone is capable of making the Soviet realize the necessity of continuing the war and maintaining the alliance.

I have therefore telegraphed to Paris, suggesting to Briand (1862-1932) that an appeal from the French socialists to the patriotism of the Russian socialists should be sent through Kerensky.

But the whole of the interest of the day has been concentrated on the little town of Pskov, half-way between Petrograd and Dvinsk.

It was there that the imperial train, which failed to reach Tsarskoie-Selo, stopped at eight o'clock yesterday evening.

The Emperor, who left Mohilev on March 13 at 4-30 a.m., decided to go to Tsarskoie-Selo,

the Empress having begged him to return there at once.

The news he had received from Moscow did not alarm him unduly.

Of course it may be that General Voyeikov (Воейков,1868-1947) kept part of the truth from him.

About three o'clock in the morning of March 14, as the engine of the imperial train was taking in water at the station of Malaia-Vichera, General Zabel, commander of His Majesty's Railway Regiment, took it upon himself to awaken the Emperor to tell him that the line to Petrograd had been closed and that Tsarskoie-Selo was in the hands of the revolutionary forces.

After giving vent to his surprise and irritation at not having been better informed, the Emperor is said to have replied:

"Moscow will remain faithful to me.

We will go to Moscow!"

Then he is reported to have added, with his usual apathy:

"If the revolution succeeds, I shall abdicate voluntarily.

I'll go and live at Livadia; I love flowers."

But at the station of Dno it was learned that the whole populace of Moscow had adhered to the revolution.

Then the Emperor decided to seek a haven of refuge among his troops and selected the headquarters of the armies of the North, commanded by General Russky (1854/3/18-1918/10/18), at Pskov.

The imperial train arrived at Pskov at eight o'clock yesterday evening.

General Russky came to confer with the Emperor at once and had no difficulty in demonstrating that his duty was to abdicate.

He also invoked the unanimous opinion of General Alexeiev (1857/11/3-1918/7/25) and the army commanders, whom he had consulted by telegraph.

The Emperor instructed General Russky to report to Rodzianko (1859-1924), the President of the Duma, his intention to renounce the throne.

This morning Pokrovski (1865-1930) resigned his office as Foreign Minister;

he did so with that calm and unaffected dignity which makes him so lovable.

"My work is over," he said to me.

"The President of the Council and all my colleagues have been arrested or are in flight. 

It is three days since the Emperor showed any sign of life and, to crown everything, General Ivanov (1851/8/3-1919/1/27), who was to bring us His Majesty's orders, has not arrived.

In the circumstances it is impossible for me to carry out my duties;

I am leaving my post and handing over its duties to my administrative deputy.

In this way I avoid breaking my oath to the Emperor, as I have not entered into any sort of communication with the revolutionaries."

During the evening, the leaders of the Duma have at last succeeded in forming a Provisional Government (1917/3/16-11/8) with Prince Lvov (1861-1925) as president;

he is taking the Ministry of the Interior.

The other ministers are Gutchkov (1862-1936) (War), Miliukov (1859-1943) (Foreign Affairs), Terestchenko (1886-1956) (Finance), Kerensky (1881-1970) (Justice), etc.

The first cabinet of the new régime was only formed after interminable wrangling and haggling with the Soviet.

The socialists have certainly realized that the Russian proletariat is still too inorganic and ignorant to shoulder the practical responsibilities of power;

but they are anxious to be the power behind the scenes, so they have insisted on the appointment of Kerensky as Minister for Justice

in order to keep an eye on the Provisional Government.

その日皇帝(ニコライ2世(1868/5/18-1918/7/17,在位: 1894/11/1-1917/3/15)のこと)は退位した。

あとを混乱状態に陥れないための方法を講じたが,

議会側から出たユダヤ人青年弁護士ケレンスキー(1881-1970)司法大臣として猛威を振るい,

直宮(じきみや)たる皇弟ミハエル(1878/12/4-1918/6/13)その他帝室側が首班に立つのを妨げ,

17日の協議の際の如きは,席上で烈火の如く憤り,皇弟ミハエルが寸時考慮の時間を与えよとて別室に退かんとするや,

急きょ行く手を遮って,細君に相談をせないでもらいたいと申し入れ,

ミハエル殿下が帰り来たって自分も退位に決したと宣言すると,

ユダヤ人ケレンスキーは他の人々の首を垂れて心配する中で,「殿下は人間の中の最も尊い人である」と叫んだ。

王らを下僕とせんとするユダヤ精神,自然の発露か?

フランス革命(1789-1795)においてもルイ16世(1754-1793)を終に断頭台に上らせ,その遺骸を焼いた残灰(ざんかい)を風のまにまに四散して,いわゆる抹殺したると同じく,

ユロフスキー(1878-1938)らのユダヤ人12名ばかりで廃帝ニコラス(ニコライ2世)ウラル山下エカテリンブルグにて一家族全部とともに鏖殺(おうさつ)し,パラパラ死体として付近の山中に焼き,これに硫酸を処理して全然抹殺し去り,復辟(ふくへき)の心配を絶無にした。

ユダヤ人トーマの満悦,ケレンスキー支持

フリーメイソン結社員ミリウコフ(1859-1943)・同ルヴォフ(1861-1925)らの臨時政府員(臨時政府(1917/3/16-11/8)) は,機会あるごとに旧軍隊の解散を策してはいたが,

一方,英仏側連合軍とともに戦争を継続する意図は捨てなかった。

一部の将軍たちはブルシーロフ攻勢(1916/6/4-9/20)の如きことをやって軍隊の指揮を保持することに成功していた。

しかしユダヤ人ケレンスキー(1881-1970)は,革命を推し進めるためには戦争中止もやむを得ずとする意見を持し,

終にミリウコフなどと意見の不一致を招いた。

このユダヤ人ケレンスキーの意見を支持するためフランスから再び飛び込んできたのは,

ユダヤ人アルベール・トーマ(1878-1932)であった。

この状況は革命とユダヤとの関係を観察する好資料であるから,これを前記フランス大使(パレオローグ(1859-1944))の手記から抄録する。

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1917年4月22日の夜11時,トーマ一行はフィンランド駅に着いた。

その列車には英・仏・スイスの亡命から帰国する多数の有力者が乗っていた。

停車場には赤旗が立てられ,群衆でいっぱいになっていた。

各種代表者は真紅の旗を立てて入口に列をなし,赤衛兵(1917-1918)が警察に代わっていた。

プラットフォームには赤ネクタイや赤たすきの暴漢連が居並んでいる。

列車の姿が見えると歓呼の嵐が起こったが,構内は薄暗い。

公式のあいさつ宜しくあって,大使はトーマを自分の自動車に乗せた。

この光景は前年5月トーマの露都入りの当時と全然違っているので,痛く彼の革命の琴線を打った。

彼は輝くまなざしで四隣に目を配って,幾度となく,

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誠に見事な,本格的な大革命だ!

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と繰り返した。

ホテルに着いてから,昨年以来の状況を話し,最近ケレンスキーとミリウコフの対立も物語って,

ミリウコフ外務大臣の政策を支持することが連合国の方針でなければならないことを主張した。

すると,トーマは,

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しかしロシアのデモクラシーを失望させてはいかん。

実はこれらの状況を知るために,自分はここに来たのだ。

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と反対した。

翌日アルベール・トーマは大使に,本国外務大臣リポ(1842-1923)からの賜暇帰国命令書を手交した。

翌々日,英大使(George Buchanan,1854-1924)・伊大使(アンドレア・カルロッティ,1864-1920)とトーマと会食し,相変わらずミリウコフ支持を説き,

連合国の力でソビエトに対抗せなければ大いなる錯誤に陥ることを述べ,

ケレンスキーを支持すれば正にソビエトの勝利は確実となり,軍は破壊し,国民の結束は崩れ,

ロシア国家は終わりを告げる旨結論したが,

アルベール・トーマは英国大使とともに極力ケレンスキー側に立って,

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ロシアのデモクラシーの力は全て,その革命の熱意に存する。

ソビエトとともに我々の信頼し得る政府を造るのは,ケレンスキーを措いて外にない。

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と力説した。

(注: ユダヤ人,ユダヤ人を支持す)

なおトーマは,『連合国作戦の関係は,どうでも宜しい,我々は重りを捨てて立ち上がろう』を繰り返した。

要するに,彼トーマは1911年の鉄道総罷業などのかつての革命家としての政策に対する過度の満足を捨てず,

この土地に来て民衆の嵐のような人気に接して,ますます昔の過誤を否定しなくなったらしい。

(パレオローグ著『帝政露国』(『ある大使の回顧録』のはず)第3巻第309~313頁)

パレオローグ著 ホルト訳 "An Ambassadors Memoirs" [1925年にロンドンで出版の仏英訳本],第3巻第309~313頁

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Sunday, April 22, 1917.

At eleven o'clock to-night Albert Thomas arrived at the Finland Station with an impressive escort of officers and secretaries.

From the same train stepped about a score of famous exiles, who have come from France, England and Switzerland;

so the station was decorated with red flags.

A dense crowd was massed at all the approaches.

Numerous delegations, carrying scarlet banners, were grouped at the entrance of the hall and the "Red Guard," which has replaced the civic police, lined the platform with the finest specimens of apaches, sporting red ties and scarves, of which the municipality can boast.

As soon as the train appeared, a storm of cheers burst forth.

But the station was badly lit;

a clammy and icy fog made the air thick;

there was a chaotic accumulation of luggage and boxes all over the place and almost invading the lines,

so that the return of the exiles was both triumphal and inauspicious.

Miliukov (1859-1943), Terestchenko (1886-1956) and Konovalov (1875-1949。元は,ケレンスキー(回顧録で1912年にフリーメイソン結社に入会したことを告白)らとともにロシア人民グラントリアン(1912-1917)のフリーメイソン) went with me to welcome the French mission.

After the official salaams, I led Albert Thomas towards my car, to the accompaniment of a general ovation.

This sight, a great contrast to what he had seen in May, 1916, touched him in his revolutionary fibres.

His eyes sparkled as he glanced about him.

More than once he said to me:

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"Now we see the revolution in all its grandeur and beauty!"

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At the Hôtel de l'Europe, where a suite had been reserved for him, we had a talk.

I informed him of all that has happened since he left France;

I told him how much worse the situation has become in the last fortnight;

I described the dispute that has arisen between Miliukov and Kerensky,

and concluded by emphasizing the considerations that in my opinion compel us to support the Minister for Foreign Affairs because he stands for the policy of the Alliance.

Albert Thomas listened carefully and then countered;

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"We must be extremely careful not to offend the Russian democracy.

The very reason for my coming is to look into all this.

We'll resume the conversation to-morrow."

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***

Monday, April 23, 1917.

I had Miliukov, Terestchenko, Konovalov and Neratov (1863-1938), in addition to my personal staff, to luncheon to-day to meet Albert Thomas.

The three Russian ministers affected to be optimistic.

We discussed the formation of two parties in the Government which is becoming increasingly clear.

With his usual good temper and great broadmindedness, Miliukov gave his views about the differences of opinion that have arisen between Kerensky and himself.

Albert Thomas listened, questioned and said little except to express immense confidence in the Russian revolution and pay it an eloquent and admiring tribute.

When my other guests had left, Albert Thomas asked to have a talk with me privately in my own room.

There he said in serious but friendly tones:

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"Monsieur Ribot has given me a letter for you;

he left it to my discretion when I should hand it over to you.

I have much too high a regard for you not to give it you at once.

Here it is."

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It was dated the 13th April.

I read it, without the slightest surprise or emotion.* 

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*Cabinet du President du Consell. Ministre des Affaires étrèngires,

Paris, April 13, 1917

Monsieur l'Ambassadeur,

The Government has considered it a wise step to send the Minister of Munitions of War (ポール・パンルヴェ(1863-1933,軍需大臣: ①1917/3-11,②1925/4-10) to Petrograd on an extraordinary mission.

You told me that M. Albert Thomas, in view of the pleasant memories he left behind him in Russia and the influence he may be able to exert in certain quarters, would be well received by the Provisional Government, and particularly M. Miliukov.

In order that he may have a full and fair field for his activities, I should be glad if you would be good enough to return to France on leave, after settling with him the time of your departure.

You will hand over the business of the embassy to M. Doulect, who will carry it on as Chargé d'Affaires until the appointment of your successor (Joseph Noulens,1864-1944) .

It has seemed to the Government that your position of favour with the Emperor would make it more difficult for you to carry on your duties under the present government.

You will realize that in new circumstances a new man is required,

and you have told me, with a delicacy of feeling I highly appreciate, that you were ready to sacrifice yourself by laying aside all personal considerations.

I take this opportunity of thanking you for this proof of your disinterestedness, which does not surprise me in a man like yon,

and of telling you at the same time that we will not forget the great services you have rendered our country.

When you return to France, we will discuss together what sort of position we can find for you, and do everything in our power to meet your convenience and interest.

With the assurance of my highest regard,

Believe me.

Yours sincerely,

A, RIBOT

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When I had finished, I said to Albert Thomas:

--------------------

"There is nothing in this letter with which I do not agree and which I do not highly appreciate.

Until my departure, which it will be difficult for me to fix earlier than May 10th, I'll give you all the help in my power."

--------------------

He shook my hand warmly and replied:

--------------------

"I shall never forget how dignified your attitude has been, and it will be a pleasure to pay it a tribute in the telegram I am sending to the Government of the Republic to-day."

After drawing up a programme of visits and operations with me, he withdrew.

***

Tuesday, April 24, 1917.

I asked my English and Italian colleagues to lunch with Albert Thomas to-day.

Carlotti (1864-1920) declared himself entirely in agreement with me

when I maintained that we must support Miliukov against Kerensky

and that it would be a grave error of judgment not to place the political and moral authority of the Allied Governments in the scale against the Soviet.

I concluded with these words:

--------------------

"With Miliukov and the moderates of the Provisional Government we have still a chance of arresting the progress of anarchy and keeping Russia in the war.

Kerensky implies the sure and certain triumph of the Soviet, which means giving the rein to all the passions of the mob, the destruction of the army, the rupture of national ties and the end of the Russian State.

And if the disintegration of Russia is now inevitable, at least let us refrain from promoting it!"

--------------------

Supported by Buchanan, Albert Thomas pronounced emphatically in favour of Kerensky:

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"The whole strength of the Russian democracy lies in its revolutionary fervour.

Kerensky alone is capable of establishing, with the aid of the Soviet, a government worthy of our confidence."

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***

Wednesday, April 25, 1917,

Albert Thomas and I dined at the British Embassy this evening.

But he was in my room as early as half-past seven;

he had come to tell me of a long conversation he had with Kerensky this afternoon, the principal topic of which was the revision of "war aims." 

Kerensky had insisted strongly on the necessity of undertaking such a revision, in conformity with the resolution of the Soviet;

he thinks that the Allied Governments will lose all their credit with the Russian democracy if they do not publicly abandon their programme of annexations and indemnities.

"I confess," Albert Thomas said to me,

"that I am very much impressed by the force of his arguments and the warmth he puts into his advocacy."

Then, repeating the metaphor Cachin used a day or two ago, he summed up thus:

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"We shall be obliged to throw out some ballast."

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I argued contra that the Russian democracy was rather too inexperienced, ignorant and uneducated to start claiming to dictate to the democracies of France, England, Italy and America,

and that what is attacked is the whole policy of the Alliance.

He repeated:

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"It doesn't matter!

We must throw out some ballast!"

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It was now nearly eight o'clock, so we left for the British Embassy.

Among the other guests were Prince and Princess Sergei Bielosselsky (Sergei Belosselsky-Belozersky (1867-1951)と,Susan Tucker Whittier (1874-1934)), Princess Marie Troubetzkoi (1877-1958), M. and Madame Polovtsov.

Albert Thomas was extraordinarily pleasant and kind and made himself very popular by his wit, his animated and picturesque conversation and total lack of affectation.

Yet two or three times I thought that his candour would have benefited by being more discreet and less expansive and transparent.

For instance, he too obviously enjoyed expatiating on his past as a revolutionary, his part in the railway strike of 1911 and the emotional satisfaction he derives from finding himself here in an atmosphere of popular tempest.

Perhaps he only talks as he does to avoid any appearance of disowning his political antecedents.

第1革命(1905-1907)に尽力したる米国のユダヤ財閥ヤコブ・シフ(1847-1920)は,

臨時政府(1917/3/17-11/8)の歩みが意に満たず,

最早臨時政府は用なし,須くこれを倒し,もっと彼が完全に把握できる政権をもってこれに代えようと決心した。

人間は幾らでも居るのである,

すなわちロシア革命党(具体的に,社会革命党(1901頃-1921)のことではない(?))の最左翼の大部分はユダヤ人であった。

(現在の国際情勢では,ジョージ・ソロス(1930-)だのイーホル・コロモイスキー(1963-)だのといった国際ユダヤ金権勢の役割というのが,

当時のヤコブ・シフの役割に相当するように見えます。)

11月革命では新政府官吏の82パーセントがユダヤ人

これから11月革命(1917/11/7-1918)に及ぶのである。

上述の如く世界のユダヤ人の尽力により成立し,ユダヤ人を擁立した臨時政府臨時政府(1917/3/17-11/8)を誰が倒したかと言えば,

やはりユダヤ人である。

なにゆえに第2段階の革命をやったかと言えば,次の2つの観察が成り立つ。

その1は,革命の2段性の表れである。

第一には政治革命を行い,国体変革を行い,

第二には経済革命であって,共産革命にした。

初めは桃色で,次のは赤色である。

最初から共産革命をやろうとすると,ブルジョア(有産階級)インテリ(知識階級)が付いて来ないで失敗するから,

先ず君主の退位から始めて政体破壊をやり,次に本当の経済革命まで決行するのである。

1917年のは,この形式をとったとみる。

その2は戦争中止・敗戦主義の実行のためとみるので,これにはドイツ軍部も協力した。

すなわちスイスに頑張って終始一貫,革命の遂行に尽力していたレーニン(1870-1924)一派の極左派を,

有名な封印列車(Sealed train)で,人知れずドイツを通過させて(スウェーデン・フィンランド経由で)ロシアに送り込み,

レーニンが糸を引いていた労兵会の如き強烈な団体を強化してドイツに対する戦争を中止させるには,

戦争継続の意志のある臨時政府を倒さなければならなかった。

ドイツはこれによって,東部戦線の重荷を軽くして重点主義西部戦線に力を専らにすることになったのであるから,

レーニンによる革命は,ロシアの過激派とドイツ軍部との合作とも見られるのである。

その報いは翌年に至って,ドイツ軍自身の崩壊に現れてきた。

1917年11月7日,レーニン一派の革命は成立し,有名な命令第1号は発布され(命令第1号は3月革命の成立に伴って発せられたもので,11月革命の成立時に発せられたのは,"To the Citizens of Russia!"?)

対独戦争は中止のかたちとなり,

同月17日から,ポーランドのブレストリトーフスクに休戦会議が開かれるに至った。

11月7日に出来た労農政府は3月のと違って,ユダヤ人を主体とし,純露人・アルメニア人等は極めて少数で,

あたかもユダヤ政府が出来た観がある。

To the Citizens of Russia!

https://www.marxists.org/archive/lenin/works/1917/oct/25.htm

/ http://bit.ly/3TNJMcl

The Provisional Government has been deposed.

State power has passed into the hands of the organ of the Petrograd Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies

―the Revolutionary Military Committee, which heads the Petrograd proletariat and the garrison.

The cause for which the people have fought, namely,

the immediate offer of a democratic peace,

the abolition of landed proprietorship,

workers' control over production, and

the establishment of Soviet power—this cause has been secured.

Long live the revolution of workers, soldiers and peasants!

Revolutionary Military Committee of the Petrograd Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies

10 a.m., October 25, 1917.

***

Order No. 1 of the Petrograd Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies to the Petrograd District Garrison

https://www.marxists.org/history/ussr/government/1917/03/01.htm

/ http://bit.ly/3hOVvKc

March 1, 1917

To be immediately and fully executed by all men in the Guards, army, artillery and navy and

to be made known to the Petrograd workers.

The Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies has resolved:

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1. In all companies, battalions, regiments, batteries, squadrons and separate services of various military departments and on board naval ships

committees shall be immediately elected from among representatives of the rankers of the foregoing units.

2. In all units which have not yet elected their representatives to the Soviet of Workers' Deputies,

one representative from each company shall be elected.

All representatives, carrying appropriate identity cards, are to arrive at the building of the State Duma by 10 a. m., March 2, 1917.

3. In all their political actions, units are subordinated to the Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies and their own committees.

4. All orders issued by the Military Commission of the State Duma shall be carried out,

except those which run counter to the orders and decrees issued by the Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies.

5. All kinds of weapons, namely rifles, machine-guns, armoured cars and so forth,

shall be placed at the disposal and under the control of the company and battalion committees

and shall by no means be issued to the officers, not even at their insistence.

6. In formation and on duty, soldiers shall strictly observe military discipline;

however, off duty and formation, in their political, civic and private life,

soldiers shall fully enjoy the rights granted to all citizens.

In particular, standing to attention and obligatory saluting off duty shall be cancelled.

7. Likewise, officers shall be addressed as Mr. General, Mr. Colonel, etc., instead of Your Excellency, Your Honour, etc.

Rudeness towards soldiers of all ranks and, in particular, addressing them as 'thou' shall be forbidden.

Any violation of this rule and all cases of misunderstanding between officers and soldiers shall be reported by the latter to the company committees.

----------

This order shall be read out in all companies, battalions, regiments, ship crews, batteries and other combat and non-combat detachments.

Petrograd Soviet of Workers' and Soldiers' Deputies.

英国モーニングポスト紙の通信員ヴィクター・イー・マースデン(1866-1920)著の『ロシアにおけるユダヤ人及び半血・改宗ユダヤ人』(露語原著? 英露訳本?)に従えば,

ソビエト政府の官吏レーニン(半血)以下545人中に,ユダヤ人は447名を算し,実に82パーセントを占めている。

ユダヤ人の凱歌

これらユダヤ人の成功を誇り,簡単にこれを自白せる文書は多々あるが,その2・3を挙げると,

1919年4月12日,ロシアのハリコフ発行のデル・コンムニスムという過激派の機関新聞に,

コーハンというユダヤ名前で次の記事が載っていた。

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ユダヤ人はロシアの革命を準備し,これを仕組んだ。

ユダヤ人は真の無産階級万国主義者で国家を持たない。

トロツキー(1879-1940)を我々の師とし君として立てることは,ロシアの無産階級の義務であって,

また最も安全な途である。

いかなる程度まで過激主義とユダヤ主義とが一致するかを示すために,過激派は赤色の星を採用した。

この星はユダヤの記章であって,またシオンの記章でもある。

勇敢なユダヤ人は社会主義前衛である。

資本家は無産階級に頭を下げ,ユダヤ人の涙は血の汗となって,彼らの身体から流れるであろう。

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翌1920年4月30日,レーニン政府の陸軍省がキエフから第12軍に下した命令の第8項に次の文句があった。

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ユダヤ民族は共産主義のために著しい熱心を表し,

これに対してポーランドの奴輩は,反ユダヤ精神を発揮しつつある。

軍は須くユダヤ仲間にあらゆる援助を与うべし。

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これらユダヤ人の告白の断片的なものを通読しただけでも,労農政権の成立とユダヤ人との関係が分かる。

然るに日本には,英文などをもってするユダヤの宣伝が入りやすいので,

労農政府の成立がユダヤの尽力によったことを知らない人が多い。

もっともその後,反ユダヤ思想の台頭のため,

目ぼしい位置からユダヤ人を下がらせ要路の実権だけを握らしていたり,

功労者トロツキーことブロンシュテインを追放したり,その他の有力ユダヤ人を処刑したことなどは,

幾分事情が変わったやに見えるが,

立国の本義に変化はないことを確言し得る。

存続への努力

今から,成立した労農政府を存続せしめるため,いかにユダヤ人が努力を払ったかを述べて前説を確かめる。

戦勝国側でも,健全なる分子は労農政府の崩壊を乞い願ったのである。

その一例として連合軍総司令官たりしフォッシュ元帥(1851-1929)が1927年8月21日,ロンドンにおいて,

新聞記者との会見において述べたところは次の如くであった。

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予はロシアがいつまでも,ボルシェビキの方式をそのまま存続させることは困難であると思う。

しかし現在の政権そのものはまだ相当長く続くであろう。

それは,ロシア人がこれを打倒するには,あまり無関心であるからだ。(中略)

1919年2月に予は大使会議の席上で,

もし労農ロシアを取り巻く諸国が充分な弾薬や軍需品を手に入れ得るならば,

喜んでボルシェビキの脅威を叩き潰し終わったであろう。

然るに各国は既に戦争に飽いたという口実で,予の提案を拒んだ。

(1927年8月22日,エキセルシオル紙(1910-1940))

Excelsior 22 août 1927

LE MARÉCHAL FOCH DIT LA NÉCESSITÉ DE L'UNION FRANCO-ANGLAISE

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Il parle en outre des relations de la France avec l'Allemagne et de l'avenir du régime soviétique.

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LONDRES, 21 août.

— Le Referee publie une interview accordée à son correspondant par le maréchal Foch et dans laquelle le maréchal passe eu revue les principaux problèmes politiques actuels.

L'avenir du régime soviétique

Interrogé au sujet de la Russie, le maréchal a déclare:

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— Je ne crois pas que la Russie conservera indéfiniment le régime, bolchevik, mais je crois que les Soviets garderent le pouvoir longtemps,

du fait que les Russes sont trop apathiques pour le combattre eux-mêmes.

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Le maréchal fil ensuite allusion aux premiers jours du « léninisme » et annonça a son interlocuteur qu'en février 1919 il avait déclaré à la conférence des ambassadeurs que,

si seuiement les divers Etals entourant la Russie recevaient des munitions et des moyens militaires suffisants ils se chargeraient volontiers de détruire, une fois pour toutes, la menace bolchevique.

L'offre du maréchal Foch fut repoussée sous le prétexte que tout le monde était las de la guerre.

— Le seul moyen de résistes à l'influence du communisme, poursuivit le maréchal, c'est que la France et la Grande-Bretagne n'agissent pas séparément, mais  à l'unisson.

Les relations avec l'Allemagne

En ce qui concerne l'Allemagne le maréchal déclara:

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Là, comme ailleurs, la seule politique possible est une union entre la France et l'Angleterre et la stricte observation des traités.

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Les relations avec l'Allemagne

On ne devrait permettre à aucune question intérieure d'empêcher la grande association franco-anglaise,

qui a débuté sur les champs de bataille, de poursuivre sa collaboration, car l'Entente cordiale est la seule sécurité contre la guerre que possède le monde,

et il est de l'intérêt de l'Angleterre,

pour des raisons économiques, politiques et géographiques, de s'intéresser autant que la France à la sécurité de la France.

Je ne vois pas de raison, dit aussi le maréchal, pour que les relations entre la France et l'Allemagne ne deviennent amicales, et nous ne sommes pas les derniers à le désirer,

mais je ne vois cependant pas comment le sentiment d'inquiétude pourrait être effacé en France,

et comment le rapprochement entre les deux pays pourrait se faire aussi longtemps qu'un esprit de conciliation ne sera pas visible en Allemagne, et aussi longtemps que ce pays refusera de dissoudre les associations militaires,

de détruire ses arsenaux qu'il maintient en violation du traité, et tant qu'il n'aura pas achevé la destruction de ses fortifications interdites.

Le désarmement

Sur la question du désarmement,

le maréchal trouve que cette question est une utopie, puisque nul ne peut se mettre d'accord à ce sujet.

― Si la France et l'Angleterre étaient toujours restées unies,

dit le maréchal Foch, la dernière guerre n'aurait jamais eu lieu.

Si l'Entente cordiale est demain ce qu'elle est aujourd'hui, la paix mondiale sera assurée pendant de longues années, car il n'y a pas de pays qui oserait défier une telle hégémonie combinée.

Le maréchal termina cette interview en répétant qu'il avait bon espoir dans l'avenir de la France et en ajoutant

« que la paix mondiale ne serait pas troublée tant que les deux grands alliés seront les gardiens des traités de paix ».

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オムスク政府の崩壊とユダヤ

右フォッシュ元帥のいわゆる各国の口実の陰には実は,

連合国の内部にユダヤ・メイソンの内奥者があって,各国政府の政策を制肘(せいちゅう)したためであって,

我がシベリア出兵が虻蜂取らずに終わったのもその影響で,惜しみても,なお余りあることである。

左記は,当時関係のあった外交官らの語るところで,真相に触れており,

将来,政治史や戦史を研究する者の参考にすべきことと信じ,左にこれを摘録する。

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ウラル方面から西進したコルチャーク政府軍(コルチャ-ク(1874/11/16-1920/2/7)が率いた白軍)が,1918年秋において,

北露のムルマンスクアルハンゲリスク方面より南進した英仏軍や,

南露から北進したユデーニチ軍(ユデーニチ(1862-1933)が率いた白軍)に呼応して,

ウラル戦線を西方に進めんとする計画が,オムスクにいた英国軍事委員会ノックス(Alfred Knox,1870-1964)の耳に入るや,

その配下の一大尉ユダヤ人サンダーソンは,こと重大とみて,急きょ極東に旅行し,

上海天津ハルビンその他ユダヤ人の多数居住する都市で,ユダヤ人の間に,左の意味の秘密宣伝をした。

『吾人ユダヤ人の義務は一方,過激派にコルチャック軍の計画を伝えてこれに備えしむるとともに,

他方,各国政府を動かして,是非ともコルチャック軍の前進を制肘するの策に出なければならぬ。

然らざれば過激派は崩壊してしまう。

したがって,(もし過激派が崩壊するようなことがあると)当然起こるべきユダヤ人虐殺のため,600万のユダヤ同胞を失い,

イスラエル民族が今日まで努力してきた使命を果たし得ない結果になるであろう。』

この如き宣伝の行われた結果,各地ユダヤ人の熱狂的秘密運動は功を奏し,

英国先ず,コルチャーク軍援助を打ち切り,ノックス将軍,真っ先に引き上げ,

各国も撤退し,日本軍も後退するのやむなきに至り,

これによってオムスク政府(1918/11/3-1920/1/5。反ボルシェビキ政府)の崩壊を促すに至った。

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デーニキン軍の敗戦とユダヤ

また南露のオデッサ付近の反過激軍デニーキン軍(デニーキン(1872-1947)が率いた白軍)の敗退は,フランスのユダヤ人に負うところ多い,

との左の説も参考にすべきである(出所同前(当時,著者の四王天氏と関係のあった外交官ら(?)))

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1919年2月初めから,デニーキン軍の一部がオデッサ付近で赤衛軍に対し,南から対抗していた時には,

フランス軍の一部隊がこれと協同作戦をした。

当時のフランス軍の参謀長フリーデンベルグ(Henry Freydenberg,1876-1975)はユダヤ人で,情報収集のためと称して,

日々,オデッサの一カフェに出入りして,過激派の代表グリゴーリエフ(Grigoryev,1884/2/21-/1919/7/27)らと会合した。

然るに赤衛軍の攻撃がいよいよ真面目になると,仏軍は,戦車に至るまで戦場に遺棄して第一線を退いたが,

終に3月21日,がぜん総撤兵を行うこととなり,

その予告をデニーキン軍に与えてから僅か48時間内に,軍艦にまで乗せて全部撤退した。

これがため,デニーキン軍は戦線に穴が開き,士気は衰え,

殺到した赤軍の包囲を受けて回復すべからざる打撃を受けた。

右フランス軍のユダヤ人参謀長は,退却の際,後衛区処すると称して踏みとどまったが,

終に赤衛軍に移ってしまったという。

なお,オデッサの仏国領事エノ(エミル・エノ(?)) 及びその妻はともにユダヤ人で,

右ユダヤ参謀長の政治的作戦には多大な貢献をしたそうである。

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■ユダヤ言論機関の悲鳴

次はユダヤ自らが労農政府崩壊防止のため,焦燥して,左の悲鳴を上げた告白である。

すなわち1922年7月28日発行,全世界ユダヤ同盟の機関雑誌ユニベル・イスラエリット(1844-1940)の社説に,

「現下の諸問題」と題してユダヤ人の立場を論じたが,

その末段の左の一節を読んでも,

いかに世界のユダヤ人が労農政権の崩壊を恐れていたかを明らかに認めることができる。

また彼らがいかに労農政権の成立に努力したかを,ユダヤ人の筆を通して読むことができる。

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吾人が一たび目を東ヨーロッパに転じて,逆境に立つロシアを見るとき,

我々は一抹の不安を感ぜざるを得ない。

飢餓に悩んでいる広大な地域に何が起こっているか,

今日の幹部は今や結束が緩み,分裂の端を発しようとしている

極左党たる我々の純血ユダヤ民族の一団は,赤軍の一部を確実に引き付け得たが,

カネと食糧とはともに窮乏した。

重大なる変化の来るのは,あまり遠い将来のことではないと考え得る。

来るべき危機すなわち政変においては,ロシアのユダヤ同胞はいかなる運命に逢着するであろうか。

いかなる虐殺(ポグロム)を覚悟せねばならぬか。

いかなる予防法を講じ得るか。

いかなる救護を準備すべきか。

過激派革命の生んだ惨禍を繰り返して,全てを転覆してしまわなければならぬ。

然るに,これに対処する我々の行動能力は貧弱である。

またドイツの反社会主義者を風靡(ふうび)しつつある反ユダヤ主義猖獗(しょうけつ)なる勢力を無視し得るであろうか。

ドイツ前皇帝(ヴィルヘルム2世(1859-1941,在位: 1888/6/15-1918/11/18)(?))ルーデンドルフ将軍(1865-1937)らは,

熱烈にドイツ連邦(ドイツ帝国(1871-1918)(?))の失敗全部をユダヤ人の罪に帰しつつある。

万一,帝政主義者がプロシアを回復するに至ったならばどうであろうか。

今日の時局は誠に懊悩(おうのう)の秋なるかな。

L'Univers israelite 28 Juillet 1922 

LES PROBLÈMES DE L'HEURE  

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La disparition du docteur Armand Bernard survient au moment où les préoccupations les plus graves assaillent de toute part le judaïsme.

Jamais les conseils de notre regretté ami n'auraient été plus efficaces;

jamais le frère et l'héritier spirituel de Bernard Lazare n'aurait été plus utile qu'aujourd'hui.

Son activité était celle d'un juif dévoué aux misères des juifs;

son intelligence lucide, son grand cœur, son énergie, sa volonté, tout en lui conspirait au soulagement des éternels opprimés.

Il n'est plus, et nous pleurons l'ami, le conseiller, le militant indomptable, l'homme de tous les grands devoirs... (1) 

(1) Nous souscrivons à l'hommage rendu par notre collaborateur au docteur Armand Bernard;

mais nous ne pouvons pas ne pas exprimer ici le regret que ni sa mort,

ni ses obsèques n'aient été religieuses. — N. d. l. R. 

On aurait vu très bien ce maître du scalpel se rendant en Palestine pour y fonder une école de chirurgie moderne et ne la quitter, rentrant en France, qu'après en avoir assuré le développement certain.

Là-bas, il eût laissé le souvenir du sionisme tel que d'aucuns le comprennent en France et qui n'est peut-être pas le sionisme le plus absolu.

Ses avis sur la question palestinienne étaient écoutés dans les milieux les plus nettement sionistes.

Ils eussent été, à l'heure présente, particulièrement précieux.

En effet, le mandat britannique sur la Palestine vient de subir une modification ainsi relatée par les journaux:

« Le conseil de la Société des Nations a reconnu que les stipulations de l'article 14,

qui concerne la protection des Lieux-Saints, ne sauraient, sans engager dangereusement l'avenir, être maintenues dans leur forme actuelle dans le corps du mandat.

A la suite de l'intervention de M. Viviani et du délégué brésilien,

le texte nouveau sur lequel l'accord s'est établi réserve pour la chrétienté les prérogatives de garde des Lieux-Saints, dans l'éventualité d'une cessation du mandat. »

N'insistons pas sur le caractère de l'intervention dans une question religieuse de M. René Viviani, athée déclaré et représentant d'un Etat fortement libre-penseur.

M. Viviani ne s'est pas converti, que l'on sache; c'est donc un intérêt politique qui l'inspire.

Ce ne peut être que le désir d'écarter de Jérusalem la prépondérance juive.

Quoi qu'il en soit, la Société des Nations a choisi entre l'Etat juif et la Croisade;

elle a décidé que si la Grande-Bretagne renonce à la Palestine, une autre puissance, la chré ienté,

aura « les prérogatives de garde » des Lieux-Saints.

Il serait intéressant de savoir si cette garde sera religieuse ou militaire.

Espérons qu'il y a place pour tous entre le désert et la Méditerranée.

Espérons...

L'espoir apparaît moins facile lorsque nous tournons les yeux vers l'Europe orientale, vers la Russie martyre.

Que se passe-t-il là-bas, dans l'immense territoire de la Faim?

Les maîtres de l'heure ne sont plus d'accord;

des scissions se produisent;

un groupe de purs, d'extrémistes extrêmes, a pu attirer une partie des troupes rouges;

tout fait défaut en même temps, les vivres et l'argent.

Il est permis de penser que des changements essentiels ne tarderont pas.

Que deviendront les juifs russes dans la crise prochaine?

Quels pogromes ne faut-il pas redouter?

Quelle action préventive pouvons-nous tenter?

Quels secours préparer?

Tout est à craindre dans le bouleversement qui va redoubler les horreurs nées de la dernière révolution;

et nos moyens d'action sont si médiocres!

Faut-il négliger la fureur antisémite qui dévore la réaction allemande?

Tout ce qui jure par Ludendorff et l'ex-empereur attribue aux juifs les malheurs du Reich.

Si jamais les hobereaux redeviennent les maîtres de la Prusse et de l'Allemagne...

L'heure présente est pleine d'angoisse.

ALSATICUS.

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また1923年6月14日のロンドン・タイムズ紙(1788-)に「今日の露国」という記事が載っているが,

その結論に左の文句がある(インターネット上に,特に英国新聞・雑誌の類は無料では見当たらず)

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ソビエト政府内の惨殺者・撲殺者たるユダヤ人らは,彼ら自身,不安の念に襲われているのであるから,

彼らが人民委員で陪審的にやって行くのは,情状酌量すべきものがある。

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右の記事がタイムズに現れると,ユダヤ人はこれが対策を講ずる必要を感じ,

ユダヤ代議士協会がロンドンで会議を開いた。

そこでユダヤ人ベトラム・ヤコブは,ユダヤ民族は極力,ソビエト政体を支持して,労農政権の崩壊から起こる危険を避けねばならぬと主張した。

すると彼は,ダヴィクトル・ゴールドスミスという首領から叱られ,

且つユダヤ字の諸新聞から,彼の不謹慎な動議は真相を暴露する恐れがあると攻撃された。

然るに6月21日のジューイッシュ・ワールド(1873-1934)だけは大胆にも,

ロシア人は数百万人のユダヤ人を人質として取っている,と告白し,

なお次のように付け加えた。

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これらのユダヤ人は労農政権が崩壊したならば,真実,血の海にたたき込まれることは何らの疑いはないのである。

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以上の諸情報とユダヤ人の告白とを総合すると,次の如き観測が下される。

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労農政権の成立はユダヤ人の努力なること。

極左党たるユダヤ人が赤軍を握れること。

労農政権は内実,非常なる危険に瀕したこと。

これが崩壊を食い止めて今日まで存続させているのはユダヤ人の努力であること。

フォッシュ元帥(1851-1929)の述べた通り,

各国(日本を含む)ユダヤの宣伝により口実を設けて過激派討伐軍を撤退したること。

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なお,これを今日の時勢について考えると,

いろいろ理屈を並べて,危険に瀕したユダヤ・フリーメイソンの支配する国々の肩を持つことは,

ちょうど,往年,労農政権討滅の好機を逸したのと同一轍を踏むのではないかということになる。

第4章 オーストリア・ハンガリー革命とユダヤ

オーストリア,ハンガリーは世界第三位のユダヤ人国

1918年10月24日(ヴィットリオ・ヴェネトの戦い(1918/10/23-11/3))以後,オーストリアは全然敗退して,

その軍隊は崩壊を急いだ。

オーストリア内のチェコ・スロバキアは,

その民族指導者ユダヤ系マサリク博士(1850-1937)ウィルソン大統領(1856-1924)の良友で,

1918年1月8日,ウィルソンの発した有名な14か条の起案は,

マサリク博士に負うところ多しと称せらるるほどであるから,

同地方がいち早く平和提議に耳を貸し,

要すればデモクラシー実現のため,革命に訴える心構えを生ずるのは自然である。

またハンガリーにおいても,ユダヤ人多数を擁し,フリーメイソンも相当発達しているのであるから,

ここに革命の芽さし(芽挿し(?))の現れるのも良く分かる。

伯爵カーロイがユダヤの傀儡で新体制熱心

その運動について是非一人を指摘しなければならぬのは,伯爵カーロイ(1875-1955,ハンガリー首相: 1918/10/31-1919/1/11,ハンガリー初代大統領: 1919/1/11-3/21)である。

ユダヤの狙いは最初は,ブルジョア革命で行くが,国柄から言って,

貴族の中にユダヤの傀儡(かいらい)となれる人を求め,これをおだてて決起させ,これに権力をつけて革命に持って行かせることとし,

その光栄ある選に当たったのがカーロイ伯爵である。

伯爵は名門ではあるがあまり頭は良くない。

そしてユダヤ人の言うところに善く共鳴した。

それで伯爵の応接間はいつもユダヤ人の種子切れになったことがないと評されたぐらい,親猶的であった。

前述ウィルソンの14か条(1918/1/8)に刺激されて,革命の準備成り,

皇帝カロル(カール1世(1887-1922,在位: 1916/11/21-1918/11/12))に退位を迫る運動に取りかかることになった時,

その実行係となり首都ウィーンに乗り込む役割は,

カーロイ伯(注: カーロリと書くがカーロイと読むけれど,以下カーロリと記す(原著者のこの注記にかかわらずカーロイで統一))が引き受けることになった。

1918年10月26日,かの伯爵は皇帝にを賜り,

世界の情勢とハンガリーの実情とを申し上げて退位を奏請したが,聞き入れるところとならす,

空しくブダペストに引き上げた

列車が停車場に着く前,ハンガリーの革命党(ハンガリー共産党(1918/11/24-1948/7/22)の前身?)は予め豚や牛の血をバケツに入れ,白旗とともに駅前に携え,

楽隊を並べて伯爵を待ち受けた。

伯が列車から降りて来て,談判は不調に終わった時のかねての合図を,待ち受けた革命党員にすると,

ソレと言って,革命党員は白旗を血のバケツの中に浸し,

伯爵を迎えるに仏国国歌マルセイエーズ(最後の7番は歌われておらず,6番まで)を奏せしめ,

初めの部分の「流血の旗は立てられたり」という文句のところで,

文字通り鮮血淋漓(りんり)たる赤旗をバケツの中から引き出して,これを掲揚した。

フランス国歌 ラ・マルセイエーズ

1.

Allons enfants de la Patrie,

Le jour de gloire est arrivé!

Contre nous, de la tyrannie,

L'étendard sanglant est levé!

L'étendard sanglant est levé!

Entendez-vous, dans les campagnes,

Mugir ces féroces soldats?

Ils viennent jusque dans nos bras

Égorger nos fils et nos compagnes!  

[ 繰り返し ]

Aux armes, citoyens!

Formez vos bataillons!

Marchons! marchons!

Qu'un sang impur abreuve nos sillons!  

2.

Que veut cette horde d'esclaves,

De traîtres, de rois conjurés?

Pour qui ces ignobles entraves,

Ces fers dès longtemps préparés?

Ces fers dès longtemps préparés?

Français, pour nous, ah! quel outrage!

Quels transports il doit exciter!

C'est nous qu'on ose méditer

De rendre à l'antique esclavage!

(上の1の繰り返し部分)  

3.

Quoi! ces cohortes étrangères

Feraient la loi dans nos foyers!

Quoi! ces phalanges mercenaires

Terrasseraient nos fiers guerriers!

Terrasseraient nos fiers guerriers!

Grand Dieu! par des mains enchaînées

Nos fronts sous le joug se ploieraient!

De vils despotes deviendraient

Les maîtres des destinées!

(上の1の繰り返し部分)  

4.

Tremblez, tyrans et vous perfides,

L'opprobre de tous les partis,

Tremblez! vos projets parricides

Vont enfin recevoir leurs prix!

Vont enfin recevoir leurs prix!

Tout est soldat pour vous combattre,

S'ils tombent, nos jeunes héros,

La terre en produit de nouveaux,

Contre vous tout prêts à se battre!

(上の1の繰り返し部分)  

5.

Français, en guerriers magnanimes,

Portez ou retenez vos coups!

Épargnez ces tristes victimes,

À regret s'armant contre nous.

À regret s'armant contre nous.

Mais ces despotes sanguinaires,

Mais ces complices de Bouillé,

Tous ces tigres qui, sans pitié,

Déchirent le sein de leur mère!

(上の1の繰り返し部分)  

6.

Amour sacré de la Patrie,

Conduis, soutiens nos bras vengeurs!

Liberté, Liberté chérie

Combats avec tes défenseurs!

Combats avec tes défenseurs!

Sous nos drapeaux, que la victoire

Accoure à tes mâles accents

Que tes ennemis expirants

Voient ton triomphe et notre gloire!

(上の1の繰り返し部分)  

7.

Nous entrerons dans la carrière

Quand nos aînés n'y seront plus;

Nous y trouverons leur poussière

Et la trace de leurs vertus.

Et la trace de leurs vertus.

Bien moins jaloux de leur survivre

Que de partager leur cercueil,

Nous aurons le sublime orgueil

De les venger ou de les suivre!

(上の1の繰り返し部分)  

10月30日,ハンガリー革命党の勝利に帰し,

その数日後には,ウィーンにおいて共和政体が宣言された。

(カール1世は1918年11月3日に帝国連邦化を宣言し,同月11日に「国事不関与」を宣言。)

ユダヤ人ベラ・クーン等赤色革命に乗り込む

カーロイ伯(1875-1955,ハンガリー首相: 1918/10/31-1919/1/11,ハンガリー初代大統領: 1919/1/11-3/21)らの実行した革命は,

ロシアの3月革命(1917/3/8-12)に比較すべき桃色革命,政治革命であって,

到底,ユダヤ人らの考えている赤色革命の企図を満足せしめるものではなかった。

果然,5か月を間して本格的な革命(オーストリ革命(1918-1920)とは別に,ハンガリー革命(1918-1920))が行われた。

今度は仮面を剥いで,ユダヤ人自身が陣頭に立って現れた。

すなわち翌年(1919年)3月21日,ソビエトロシアで体験を重ねたユダヤ人ベラ・クーン(1886-1938)一派の共産党員がハンガリーに政権を執り,第二革命を実行した

当時,カーロイ伯爵が辞職の宣言を書くべきところ,

青年ユダヤ人ケリとクンフイの2名が執筆し,これに署名を求めると,

伯は自ら筆を執らなかったが,伯の秘書のユダヤ人シモニーとオスカーがいて,

シモニーのほうが伯に代わって署名をした。

ケリとクンフイの両ユダヤ人がその家を離れた頃,伯は思い直し,辞職宣言を撤回すると言い出したが,

この時遅し宣言書は,既にラジオをもって全世界に放送されてしまった。

1時間経つと,レーニン(1870-1924)の友ベラ・クーン及びその友人がいよいよ獄中から出て来た。

ベラ・クーンというユダヤ人は戦争前には,無名の新聞記者で,

頭の丸い坊主頭で,耳が広く先がとがり,目は大きく飛び出しそうで,唇は厚く,口は大きく裂け,あごはないような形で,

トカゲに似た人相であったと伝えられる。

カーロイ伯が臨時政府(1918/11/16-1919/3/21)を造って数週間後に,ベラ・クーンは少佐と称して首府に乗り込んできたのであった。

彼はハンガリー・ソビエト(1919/3/21-8/6)を作ると,

前の官吏たちはただ戦争の終息と,秩序の回復を望むだけで,将来の政治をいかにするかを考える余裕はなかった連中であるから,

それら官吏やブルショアは何らの抵抗を試みることなく,ベラ・クーンの独裁に服した。

ベラ・クーンは大きな土地は国有にし,生産物は生産組合の手によって処分させるべきものとの規定を出した。

性教育などに力を用い,3・4か月の間に首府には,処女なるものは無くなったと取沙汰されるまでに乱脈となった。

反革命運動は起こり,外国から封鎖も行われ,農民の怠業も始まって,ますます生産の減退を来たし,

終に8月初め,首府はルーマニア軍に占領され

ベラ・クーンらは辞職し,僅か5か月足らずに,ハンガリーを荒らして国外逃走のやむなきに至った。

(『カン・イスラエル・エ・ロア』第145~198頁参照)

このベラ・クーンは,数年前,スペイン革命(1931。その後,内戦(1936-1939))の渦中において活躍したと伝えられる。

フランコ政権(1939-1975)確立後,またまた逃走したことであろうが,

旅券偽造に巧みなるかの一味のことなれば,避難ユダヤに混入して日本に渡来しあらざれば幸いである。

第5章 ドイツ革命とユダヤ

■ロシア革命後は,ドイツはユダヤの御用済み

前既に説けるが如く,ドイツにおいてはカイゼルのユダヤ利用論に災いされ,

ラテナウ(1867/9/29-1922/6/24)バリン(1857/8/15-1918/11/9)などのユダヤ人が重用されて,国政の要部や経済・交通の重任に当たり,

初めの間は実際ドイツの抗戦力を高め,ロシア崩壊の仕事に便益を与えて協力の実を示したが,

ロシア既に倒れて次はドイツ,オーストリアを屠って(ほふって),前世紀末からのユダヤ解放策を完成する段取りとなると,

既にドイツに協力の必要はなくなり,これよりは寧ろ物資の欠乏を招くよう,

ユダヤ式唯物経済統制を行って人民の窮乏を来たし,

米国の参戦によって連合国を強化し,ドイツの長期戦争を不可能ならしめる策に出た。

ブレストリトーフスクのロシア・ドイツ休戦

ドイツの統帥部としては,かくて即決の必要に迫られ,

レーニン(1870-1924)らの政府とブレストリトーフスク休戦条約締結(1918/3/3)のための会議を開き,

未だその終了を見ざるに拘わらず,ロシア領土内にとどめた約90師団のうち,僅か30師団余りをとどめ,

主力を5条の鉄道によって西部戦線(1914-1918)に送り,一挙に英米仏の連合軍を撃破しようとした。

がこれより先,ドイツ社会党(1863-)は,

恐らく国政に参加しカイゼルの信頼を受けたユダヤ同胞らの裏面的援助を受けて暗躍を続け,

着々,国内に革命工作を進めたのである。

1916年,スイス国内におけるインターナショナル会議の際の報告にも明らかなる如く,

ロシアよりは寧ろドイツ国内のほうが革命工作は進んでいた。

加うるに1917年11月17日(1917/12/22(?))からのブレストリトーフスク休戦会議においては,

差し当たり決めた覚書の中に,ロシア側から決して,ロシア領内にあるドイツ軍に対して赤化宣伝を行わないと確約してあるに拘わらず,

翌年2月25日にはドイツ参謀本部から,トロツキー(1879-1940)ことブロンシテインというユダヤ人に抗議書を提出しなければならぬほど,

赤化宣伝を始めた。

トロツキーらは抗議は承ったろうけれども,本気に取り締まる意志がないのみか,ますますこれを強化したらしい。

一たび西部戦線に向けて送り出したドイツ軍を再びロシアに逆走してくる気遣いのないことは,

万々承知の上であろう。

ドイツ軍の思想悪化

翌1918年3月12日にはプロシア陸軍大臣(ヘルマン・フォン・ステイン,1854-1927。陸軍大臣: 1916/11/4-1918/10/9)は,左の意味の秘密訓令を出すに至った。

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近来,戦線から帰還する軍人が拳銃・手榴弾等を国内に持ち込むことがしばしば発覚され,

治安維持上に多大な注意を払わなければならなくなった。

各軍においては,目立たない方法によってこれら違法を取り締まり,

入浴・検疫等の機会を利用して,右武器弾薬等を没収するに努めよ。

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同年3月下旬より,ドイツが英仏連合軍に対する大規模な攻勢は,最初の突破に成功したが,

1週間後には膠着(こうちゃく)状態に陥り,

兵力の補強を要するため,ロシアに残した兵力のうちから,さらに2・3師団を引き抜き,これを西方戦場(1914-1918)に送ろうとすると,

そのある師団では,ロシアのユダヤ宣伝が大いに行き渡っていたと見えて,

抗命・上官抵抗などの不軍紀行為が行われた事実がある。

同年9月頃には,フランス軍正面では既に,一大隊ぐらいの兵力が,将校会報のため不在に乗じて,団体降伏の挙に出たものがある。

■ヒトラーの述懐

これら軍隊内における不軍紀問題とユダヤ人との関係については,兵卒としてのヒトラー(1889/4/20-1945/4/30,バイエルン陸軍義勇兵: 1914/8/2-1918/11/11(西部戦線でのドイツ降伏))の左の体験記は大いに参考となる。

すなわち,『我が闘争』第7章 革命の中程に,

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自分は10月7日に負傷し (中略) 誕生日の頃であったベルリン付近のベーリッツ病院に後送された。

ソンム戦場(1916/7/1-11/18)の泥の中から立派な建物に入り,真っ白な寝台に寝かされた。

何たる境遇の変化か,初めの間は何となく寝苦しいようであったが,次第に慣れた。

しかしこの環境の変わりは,不幸にして別の方面にも及んでいた。

戦場における軍隊精神は,ここでは幅が利かなかった。

戦場ではかつて無かったことが,ここで初めて耳に入った。

すなわち卑怯がかえって褒められるのだ!

戦場では臆病者はどこまでも臆病者であって,一般から軽蔑され,勇者は尊敬せられるのである。

然るに病院では,全く反対とも言い得るようであった。

扇動者は大きな声でまくし立てて,善良な兵隊を滑稽扱いにし,

卑怯者の意志の薄弱なことを模範的にした。

つまらぬ奴原(やつばら)が会話を指導していたが,

その1人は病院に入りたいばかりに,手に刺鉄条網(とげてつじょうもう,してつじょうもう)で引き裂いたことを自慢していた。

そんな見苦しい負傷に拘わらず彼は相当長期入院していて,退院しそうにもない。

そんな擦過傷が入院する時にも,麗々しく病院列車で来た。

こんな奴が宣伝して,戦場で散った勇士以上の勇敢な意義ある行為かのようにしゃべり立てた。

多数の者がこれに聞き入っている。

ある者は立ち去って行くが,中にはこれに賛成する奴もあった。

自分はこれらの話を聞いて胸が悪くなったが,なぜか病院はそんな宣伝者をそのままにした。

歩行ができるようになってから,許可を得て,ベルリンに行ってみると,窮乏は目立ってひどかった。

あの大都市が食糧難で苦しんでいた。

不満は至る所にみなぎった。

兵隊の足繁く行く家庭の空気は,病院と同じようであった。

怪かしな兵隊らは故意に,そういうところへ足を運んで宣伝をしたらしい。

ミュンヘンに行ってみると,状況はもっとひどかった。 (中略) 

補充隊に編入されてみると,本部や事務室はユダヤ人があふれていた。

ほとんど全ての書記はユダヤ人で,全てのユダヤ人は書記になっていた。

神の選民と称するユダヤ人が,かくも多く後方勤務に服しているのに一驚を喫し

戦線には極めてまれに見るユダヤ人と率を比較してみた。

経済的に見ると,状況は一層悪かった。

この方面では,ユダヤ人は無くてはならぬ人になっていた。

網を張っていた蜘蛛はそろそろドイツ民族の血を吸い始めた。

戦争による社会の歪曲に乗じて国民の自由な生活にとどめを刺す方式を見出した。

すなわち極端な中央集権・統制の必要を感じ,

1916年から17年にわたる冬から,ほとんど全ての産業は事実上ユダヤ財政の監督下に置かれていた。

しかし国民の怨嗟(えんさ)は誰に向けられたか?

その頃,自分は考えさせられた。

適当に方向を変えないと,間もなくドイツの崩壊が来るぞと。

ユダヤ人はドイツ全国民の皮を剥ぎ,搾取しながら国民の怨みをプロシア人に向けてあおった。

この宣伝は戦線では分かっていたが,後方には影響はなかった。

人はプロシアの崩壊がバイエルンに何か起こすことも,

またバイエルンのほうが没落すればプロシアを深淵に引き込むことも考えなかった。

自分はこれらのやり方にひどく心を痛めた。

それは,ユダヤ人の天才的猾知(かっち)が,本目的達成のために一般の注意を他に向けさせるためのものに過ぎなかったのだ。

プロシアとバイエルンが互いに口汚く論争し合っている間に,ユダヤ人は革命を仕組み,

プロシアとバイエルンと双方ともに骨抜きにしてしまった。 (中略) 

マルキシストの首領らと協調の手を差し伸べたドイツの皇帝は,カイザー・ウィルヘルム2世(1859-1941,在位: 1888/6/15-1918/11/9)をもって嚆矢(こうし)とする。

彼らは片手でカイザーと握手している時,既に他の手は匕首(ひしゅ,あいくち)を捜していた云々。

***

アドルフ・ヒトラー著 『我が闘争』 [1925] 「第7章 革命」の途中から章末まで(第209225頁)

......Am 7. Oktober 1916 wurde ich verwundet.

Ich kam glücklich nach rückwärts und sollte mit einem Transport nach Deutschland.

Es waren nun zwei Jahre verflossen, seit ich die Heimat nicht mehr gesehen hatte,

eine unter solchen Verhältnissen fast endlose Zeit.

Ich konnte mir kaum mehr vorstellen, wie Deutsche aussehen, die nicht in Uniform stecken.

Als ich in Hermies im Verwundeten-Sammellazarett lag,

zuckte ich fast wie im Schreck zusammen,

als plötzlich die Stimme einer deutschen Frau als Krankenschwester einen neben mir Liegenden ansprach.

Nach zwei Jahren zum erstenmal ein solcher Laut!

Je näher dann aber der Zug, der uns in die Heimat bringen sollte, der Grenze kam,

um so unruhiger wurde es nun im Innern eines jeden.

Alle die Orte zogen vorüber, durch die wir zwei Jahre vordem als junge Soldaten gefahren waren:

Brüssel, Löwen, Lüttich, und endlich glaubten wir das erste deutsche Haus am hohen Giebel und seinen schönen Läden zu erkennen.

Das Vaterland!

Im Oktober 1914 brannten wir vor stürmischer Begeisterung, als wir die Grenze überfuhren, nun herrschte Stille und Ergriffenheit.

Jeder war glücklich, daß ihn das Schicksal noch einmal schauen ließ, was er mit seinem Leben so schwer zu schützen hatte;

und jeder schämte sich fast, den andern in sein Auge sehen zu lassen. (p. 210, l. 2) 

Fast am Jahrestage meines Ausmarsches kam ich in das Lazarett zu Beelitz bei Berlin.

Welcher Wandel!

Vom Schlamm der Sommeschlacht in die weißen Betten dieses Wunderbaues!

Man wagte ja anfangs kaum, sich richtig hineinzulegen.

Erst langsam vermochte man sich an diese neue Welt wieder zu gewöhnen.

Leider aber war diese Welt auch in anderer Hinsicht neu.

Der Geist des Heeres an der Front schien hier schon kein Gast mehr zu sein.

Etwas, das an der Front noch unbekannt war, hörte ich hier zum ersten Male:

das Rühmen der eigenen Feigheit.

Denn was man auch draußen schimpfen und „masseln“ hören konnte,

so war dies doch nie eine Aufforderung zur Pflichtverletzung oder gar eine Verherrlichung des Angsthasen.

Nein! Der Feigling galt noch immer als Feigling, und sonst eben als weiter nichts;

und die Verachtung, die ihn traf, war noch immer allgemein, genau so wie die Bewunderung,

die man dem wirklichen Helden zollte.

Hier aber im Lazarett war es schon zum Teil fast umgekehrt:

Die gesinnungslosesten Hetzer führten das große Wort und versuchten mit allen Mitteln ihrer jämmerlichen Beredsamkeit,

die Begriffe des anständigen Soldaten als lächerlich und die Charakterlosigkeit des Feiglings als vorbildlich hinzustellen.

Ein paar elende Burschen vor allem gaben den Ton an.

Der eine davon rühmte sich, die Hand selber durch das Drahtverhau gezogen zu haben, um so in das Lazarett zu kommen;

er schien nun trotz dieser lächerlichen Verletzung schon endlose Zeit hier zu sein,

wie er denn ja überhaupt nur durch einen Schwindel in den Transport nach Deutschland kam.

Dieser giftige Kerl aber brachte es schon so weit,

die eigene Feigheit mit frecher Stirne als den Ausfluß höherer Tapferkeit als den Heldentod des ehrlichen Soldaten hinzustellen.

Viele hörten schweigend zu, andere gingen, einige aber stimmten auch bei.

Mir kroch der Ekel zum Halse herauf, allein der Hetzer wurde ruhig in der Anstalt geduldet.

Was sollte man machen?

Wer und was er war, mußte man bei der Leitung genau wissen und wußte es auch.

Dennoch geschah nichts. (p. 211, l. 2) 

Als ich wieder richtig gehen konnte, erhielt ich Erlaubnis, nach Berlin fahren zu dürfen.

Die Not war ersichtlich überall sehr herbe.

Die Millionenstadt litt Hunger.

Die Unzufriedenheit war groß.

In verschiedenen, von Soldaten besuchten Heimen war der Ton ähnlich dem des Lazaretts.

Es machte ganz den Eindruck, als ob mit Absicht diese Burschen gerade solche Stellen aufsuchen würden, um ihre Anschauungen weiterzuverbreiten.

Noch viel, viel ärger waren jedoch die Verhältnisse in München selber!

Als ich nach Ausheilung aus dem Lazarett entlassen und dem Ersatzbataillon überwiesen wurde, glaubte ich, die Stadt nicht mehr wiederzuerkennen.

Ärger, Mißmut und Geschimpfe, wohin man nur kam!

Beim Ersatzbataillon selber war die Stimmung unter jeder Kritik.

Hier wirkte noch mit die unendlich ungeschickte Art der Behandlung der Feldsoldaten von seiten alter Instruktionsoffiziere,

die noch keine Stunde im Felde waren und schon aus diesem Grunde nur zu einem Teil ein anständiges Verhältnis zu den alten Soldaten herzustellen vermochten.

Diese besaßen nun einmal gewisse Eigenheiten, die aus dem Dienst an der Front erklärlich waren,

den Leitern dieser Ersatztruppenteile indessen gänzlich unverständlich blieben,

während sie der ebenfalls von der Front gekommene Offizier sich wenigstens zu erklären wußte.

Letzterer selbst war von den Mannschaften natürlich auch ganz anders geachtet als der Etappenkommandeur.

Aber von dem ganz abgesehen, war die allgemeine Stimmung miserabel;

die Drückebergerei galt schon fast als Zeichen höherer Klugheit, das treue Ausharren aber als Merkmal innerer Schwäche und Borniertheit.

Die Kanzleien waren mit Juden besetzt.

Fast jeder Schreiber ein Jude und jeder Jude ein Schreiber.

Ich staunte über die Fülle von Kämpfern des auserwählten Volkes und konnte nicht anders,

als sie mit den spärlichen Vertretern an der Front zu vergleichen.

Noch schlimmer lagen die Dinge bei der Wirtschaft.

Hier war das jüdische Volk tatsächlich „unabkömmlich“ geworden. (p. 212, l. 2) 

Die Spinne begann, dem Volke langsam das Blut aus den Poren zu saugen.

Auf dem Umwege über die Kriegsgesellschaften hatte man das Instrument gefunden,

um der nationalen und freien Wirtschaft nach und nach den Garaus zu machen.

Es wurde die Notwendigkeit einer schrankenlosen Zentralisation betont.

So befand sich tatsächlich schon im Jahre 1916/17 fast die gesamte Produktion unter der Kontrolle des Finanzjudentums.

Gegen wen aber richtete sich aber nun der Haß des Volkes?

In dieser Zeit sah ich mit Entsetzen ein Verhängnis herannahen, das, nicht zur richtigen Stunde noch abgewendet, zum Zusammenbruch führen mußte.

Während der Jude die gesamte Nation bestahl und unter seine Herrschaft preßte, hetzte man gegen die „Preußen“.

Genau wie an der Front geschah auch zu Hause von oben gegen diese Giftpropaganda nichts.

Man schien gar nicht zu ahnen, daß der Zusammenbruch Preußens noch lange keinen Aufschwung Bayerns mit sich bringe,

ja, daß im Gegenteil jeder Sturz des einen den anderen rettungslos mit sich in den Abgrund reißen mußte.

Mir tat dies Gebaren unendlich leid.

Ich konnte in ihm nur den genialsten Trick des Juden sehen, der die allgemeine Aufmerksamkeit von sich ab- und auf andere hinlenken sollte.

Während Bayer und Preuße stritten, zog er beiden die Existenz unter der Nase fort;

während man in Bayern gegen den Preußen schimpfte, organisierte der Jude die Revolution und zerschlug Preußen und Bayern zugleich.

Ich konnte diesen verfluchten Hader unter den deutschen Stämmen nicht leiden und war froh, wieder an die Front zu kommen, zu der ich mich sofort nach meiner Ankunft in München von neuem meldete.

Anfang März 1917 war ich denn auch wieder bei meinem Regiment.

***

Gegen Ende des Jahres 1917 schien der Tiefpunkt der Niedergeschlagenheit des Heeres überwunden zu sein. (p. 213, l. 2) 

Die ganze Armee schöpfte nach dem russischen Zusammenbruch wieder frische Hoffnung und frischen Mut.

Die Überzeugung, daß der Kampf nun dennoch mit einem Siege Deutschlands enden würde,

begann die Truppe immer mehr zu erfassen.

Man konnte wieder singen hören, und die Unglücksraben wurden seltener.

Man glaubte wieder an die Zukunft des Vaterlandes.

Besonders der italienische Zusammenbruch des Herbstes 1917 hatte die wundervollste Wirkung ausgeübt;

sah man doch in diesem Siege den Beweis für die Möglichkeit, auch abseits des russischen Kriegsschauplatzes die Front durchbrechen zu können.

Ein herrlicher Glaube strömte nun wieder in die Herzen der Millionen und ließ sie mit aufatmender Zuversicht dem Frühjahr 1918 entgegenharren.

Der Gegner aber war ersichtlich deprimiert.

In diesem Winter blieb es etwas ruhiger als sonst.

Es trat die Ruhe vor dem Sturme ein.

Doch während gerade die Front die letzten Vorbereitungen zur endlichen Beendigung des ewigen Kampfes vornahm,

endlose Transporte an Menschen und Material an die Westfront rollten und die Truppe die Ausbildung zum großen Angriff erhielt,

brach in Deutschland das größte Gaunerstück des ganzen Krieges aus.

Deutschland sollte nicht siegen:

in letzter Stunde, da der Sieg sich schon an die deutschen Fahnen zu heften drohte, griff man zu einem Mittel, das geeignet erschien,

mit einem Schlage den deutschen Angriff des Frühjahrs im Keime zu ersticken, den Sieg unmöglich zu machen:

Man organisierte den Munitionsstreik.

Wenn er gelang, mußte die deutsche Front zusammenbrechen und der Wunsch des „Vorwärts“,

daß der Sieg sich dieses Mal nicht mehr an die deutschen Fahnen heften möge, in Erfüllung gehen.

Die Front mußte unter dem Mangel an Munition in wenigen Wochen durchstoßen sein;

die Offensive war damit verhindert, die Entente gerettet;

das internationale Kapital aber zum Herrn Deutschlands gemacht, das innere Ziel des marxistischen Völkerbetruges erreicht. (p. 214, l. 2) 

Zerbrechung der nationalen Wirtschaft zur Aufrichtung der Herrschaft des internationalen Kapitals

― ein Ziel, das dank der Dummheit und Gutgläubigkeit der einen Seite und der bodenlosen Feigheit der anderen ja auch erreicht ist.

Allerdings hatte der Munitionsstreik in bezug auf die Aushungerung der Front an Waffen nicht den letzten gehofften Erfolg:

er brach zu frühzeitig zusammen, als daß der Munitionsmangel als solcher

― so wie der Plan vorhanden war ―

das Heer zum Untergange verdammt hätte.

Allein um wieviel entsetzlicher war der moralische Schaden, der angerichtet war!

Erstens: Für was kämpfte das Heer noch, wenn die Heimat selber den Sieg gar nicht wollte?

Für wen die ungeheuren Opfer und Entbehrungen?

Der Soldat soll für den Sieg fechten, und die Heimat streikt dagegen?

Zweitens aber: Wie war die Wirkung auf den Feind?

Im Winter 1917/18 stiegen zum ersten Male trübe Wolken am Firmament der alliierten Welt auf.

Fast vier Jahre lang war man gegen den deutschen Recken angerannt und konnte ihn nicht zum Sturze bringen;

dabei war es aber nur der Schildarm, den dieser frei zur Abwehr hatte, während das Schwert bald im Osten, bald im Süden zum Hiebe ausholen mußte.

Nun endlich war der Riese im Rücken frei.

Ströme von Blut waren geflossen, bis es ihm gelang, den einen der Gegner endgültig niederzuschlagen.

Jetzt sollte im Westen zum Schild das Schwert kommen, und wenn es dem Feinde bisher nicht glückte, die Abwehr zu brechen, nun sollte der Angriff ihn selber treffen.

Man fürchtete ihn und bangte um den Sieg.

In London und Paris jagte eine Beratung die andere.

Selbst die feindliche Propaganda tat sich schon schwer;

es war nicht mehr so leicht, die Aussichtslosigkeit des deutschen Sieges nachzuweisen.

Das gleiche jedoch galt an den Fronten, an denen dösiges Schweigen herrschte, auch für die alliierten Truppen selber. (p. 215, l. 1) 

Den Herrschaften war die Frechheit plötzlich vergangen.

Auch ihnen begann langsam ein unheimliches Licht aufzugehen.

Ihre innere Stellung zum deutschen Soldaten hatte sich jetzt geändert.

Bisher mochte er ihnen als ein ja doch zur Niederlage bestimmter Narr gelten;

nun aber stand vor ihnen der Vernichter des russischen Verbündeten.

Die aus der Not geborene Beschränkung der deutschen Offensiven auf den Osten erschien nunmehr als geniale Taktik.

Drei Jahre waren diese Deutschen gegen Rußland angerannt, anfangs scheinbar ohne auch nur den geringsten Erfolg.

Man lachte fast über dieses zwecklose Beginnen;

denn endlich mußte ja doch der russische Riese in der Überzahl seiner Menschen Sieger bleiben,

Deutschland aber an Verblutung niederbrechen.

Die Wirklichkeit schien dieses Hoffen zu bestätigen.

Seit den Septembertagen 1914, da sich zum ersten Male die endlosen Haufen russischer Gefangener aus der Schlacht von Tannenberg auf Straßen und Bahnen nach Deutschland zu wälzen begannen,

nahm dieser Strom kaum mehr ein Ende

― allein für jede geschlagene und vernichtete Armee stand eine neue auf.

Unerschöpflich gab das Riesenreich dem Zaren immer neue Soldaten und dem Kriege seine neuen Opfer.

Wie lange konnte Deutschland dieses Rennen mitmachen?

Mußte nicht einmal der Tag kommen,

an dem nach einem letzten deutschen Siege immer noch nicht die letzten russischen Armeen zur allerletzten Schlacht antreten würden?

Und was dann?

Nach menschlichem Ermessen konnte der Sieg Rußlands wohl hinausgeschoben werden, aber er mußte kommen.

Jetzt waren alle diese Hoffnungen zu Ende:

der Verbündete, der die größten Blutopfer auf dem Altar der gemeinsamen Interessen niedergelegt hatte,

war am Ende seiner Kraft und lag vor dem unerbittlichen Angreifer auf dem Boden.

Furcht und Grauen schlichen in die Herzen der bisher blindgläubigen Soldaten ein.

Man fürchtete das kommende Frühjahr.

Denn wenn es bisher nicht gelang, den Deutschen zu besiegen, da er nur zum Teil sich auf der Westfront zu stellen vermochte,

wie sollte man jetzt noch mit dem Siege rechnen, da die gesamte Kraft des unheimlichen Heldenstaates sich zum Angriff gegen den Westen zusammenzuballen schien? (p. 216, l. 3) 

Die Schatten der Südtiroler Berge legten sich beklemmend auf die Phantasie;

bis in die flandrischen Nebel gaukelten die geschlagenen Heere Cadornas trübe Gesichte vor,

und der Glaube an den Sieg wich der Furcht vor der kommenden Niederlage.

Da ― als man aus den kühlen Nächten schon das gleichmäßige Rollen der anrückenden Sturmarmeen des deutschen Heeres zu vernehmen glaubte und in banger Sorge dem kommenden Gericht entgegenstarrte,

da zuckte plötzlich ein grellrotes Licht aus Deutschland auf und warf den Schein bis in den letzten Granattrichter der feindlichen Front:

im Augenblick, da die deutschen Divisionen den letzten Unterricht zum großen Angriff erhielten, brach in Deutschland der Generalstreik aus.

Zunächst war die Welt sprachlos.

Dann aber stürzte sich die feindliche Propaganda erlöst aufatmend auf diese Hilfe in zwölfter Stunde.

Mit einem Schlage war das Mittel gefunden, die sinkende Zuversicht der alliierten Soldaten wieder zu heben,

die Wahrscheinlichkeit des Sieges aufs neue als sicher hinstellen zu lassen und die bange Sorge vor den kommenden Ereignissen in entschlossene Zuversicht umzuverwandeln.

Nun durfte man den des deutschen Angriffs harrenden Regimentern die Überzeugung in die größte Schlacht aller Zeiten mitgeben,

daß nicht der Verwegenheit des deutschen Sturmes die Entscheidung über das Ende dieses Krieges zukomme,

sondern der Ausdauer seiner Abwehr.

Mochten die Deutschen nun Siege erringen soviel sie noch wollten,

in ihrer Heimat stand die Revolution vor dem Einzug und nicht die siegreiche Armee.

Diesen Glauben begannen englische, französische und amerikanische Zeitungen in die Herzen ihrer Leser zu pflanzen,

während eine unendliche geschickte Propaganda die Truppen der Front emporriß.

„Deutschland vor der Revolution!

Der Sieg der Alliierten unaufhaltbar!“

Dies war die beste Medizin, um dem schwankenden Poilu und Tommy auf die Beine zu helfen. (p. 217, l. 1) 

Nun konnten Gewehre und Maschinengewehre noch einmal zum Feuern gebracht werden,

und an Stelle einer in panischem Schrecken davonjagenden Flucht trat hoffnungsvoller Widerstand.

Dieses war das Ergebnis des Munitionstreiks.

Er stärkte den Siegesglauben der feindlichen Völker und behob die lähmende Verzweiflung der alliierten Front ― in der Folge hatten Tausende von deutschen Soldaten dies mit ihrem Blute zu bezahlen.

Die Urheber dieses niederträchtigsten Schurkenstreiches aber waren die Anwärter auf die höchsten Staatsstellen des Deutschlands der Revolution.

Wohl konnte auf deutscher Seite zunächst die sichtbare Rückwirkung dieser Tat scheinbar überwunden werden,

auf der Seite des Gegners jedoch blieben die Folgen nicht aus.

Der Widerstand hatte die Ziellosigkeit einer alles verlorengebenden Armee verloren,

und an seine Stelle trat die Erbitterung eines Kampfes um den Sieg.

Denn der Sieg mußte nun nach menschlichem Ermessen kommen,

wenn die Westfront dem deutschen Angriff auch nur wenige Monate standhielt.

In den Parlamenten der Entente aber erkannte man die Möglichkeit der Zukunft und bewilligte unerhörte Mittel zur Fortführung der Propaganda zur Zersetzung Deutschlands.

***

Ich hatte das Glück, die beiden ersten und die letzte Offensive mitmachen zu können.

Es sind dies die ungeheuersten Eindrücke meines Lebens geworden;

ungeheuer deshalb, weil nun zum letzten Male ähnlich wie im Jahre 1914 der Kampf den Charakter der Abwehr verlor und den des Angriffs übernahm.

Ein Aufatmen ging durch die Gräben und Stollen des deutschen Heeres,

als endlich nach mehr als dreijährigem Ausharren in der feindlichen Hölle der Tag der Vergeltung kam.

Noch einmal jauchzten die siegreichen Bataillone,

und die letzten Kränze unsterblichen Lorbeers hingen sie an die siegumwitterten Fahnen.

Noch einmal brausten die Lieder des Vaterlandes die endlosen Marschkolonnen entlang zum Himmel empor,

und zum letzten Male lächelte die Gnade des Herrn seinen undankbaren Kindern. (p. 218, l. 3) 

***

Im Hochsommer des Jahres 1918 lag dumpfe Schwüle über der Front.

Die Heimat stritt sich. Um was?

Man erzählte sich vieles in den einzelnen Truppenteilen des Feldheeres.

Der Krieg wäre nun aussichtslos, und nur Narren könnten noch an den Sieg glauben.

Das Volk besäße kein Interesse mehr am weiteren Aushalten,

sondern nur mehr das Kapital und die Monarchie

― dies kam aus der Heimat und wurde auch an der Front besprochen.

Sie reagierte zunächst nur sehr wenig darauf.

Was ging uns das allgemeine Wahlrecht an?

Hatten wir etwa deshalb vier Jahre lang gekämpft?

Es war ein niederträchtiger Banditenstreich,

auf solche Weise den toten Helden das Kriegsziel im Grabe zu stehlen.

Nicht mit dem Rufe „Es lebe das allgemeine und geheime Wahlrecht“ waren die jungen Regimenter einst in Flandern in den Tod gegangen,

sondern mit dem Schrei „Deutschland über alles in der Welt“.

Ein kleiner, aber doch nicht ganz unbedeutender Unterschied.

Die aber nach dem Wahlrecht riefen, waren zum größten Teil nicht dort gewesen, wo sie dieses nun erkämpfen wollten.

Die Front kannte das ganze politische Parteipack nicht.

Man sah die Herren Parlamentarier nur zu einem Bruchteil dort, wo die anständigen Deutschen,

wenn sie nur gerade Glieder besaßen, sich damals aufhielten.

So war denn die Front in ihren alten Beständen für dieses neue Kriegsziel der Herren Ebert, Scheidemann, Barth, Liebknecht usw. nur sehr wenig empfänglich.

Man verstand gar nicht, warum auf einmal die Drückeberger das Recht besitzen konnten,

über das Heer hinweg sich die Herrschaft im Staate anzumaßen.

Meine persönliche Einstellung war von Anfang an fest:

Ich haßte das ganze Pack dieser elenden, volksbetrügerischen Parteilumpen auf das äußerste.

Ich war mir längst darüber im klaren,

daß es sich bei diesem Gelichter wahrlich nicht um das Wohl der Nation handelte,

sondern um die Füllung leerer Taschen. (p. 219, l. 3) 

Und daß sie jetzt selbst bereit waren,

dafür das ganze Volk zu opfern und wenn nötig Deutschland zugrunde gehen zu lassen,

machte sie in meinen Augen reif für den Strick.

Auf ihre Wünsche Rücksicht nehmen,

hieß die Interessen das arbeitenden Volkes zugunsten einer Anzahl von Taschendieben opfern,

sie aber erfüllen konnte man nur dann,

wenn man bereit war, Deutschland aufzugeben.

So aber dachten noch immer die weitaus meisten des kämpfenden Heeres.

Nur der aus der Heimat kommende Nachschub wurde rapid schlechter und schlechter,

so daß sein Kommen keine Verstärkung, sondern eine Schwächung der Kampfkraft bedeutete.

Besonders der junge Nachschub war zum großen Teil wertlos.

Es war oft nur schwer zu glauben,

daß dies Söhne desselben Volkes sein sollten, das einst seine Jugend zum Kampf um Ypern ausgeschickt hatte.

Im August und September nahmen die Zersetzungserscheinungen immer schneller zu,

trotzdem die feindliche Angriffswirkung mit dem Schrecken unserer Abwehrschlachten von einst nicht zu vergleichen war.

Sommeschlacht und Flandern lagen demgegenüber grauenerregend in der Vergangenheit.

Ende September kam meine Division zum drittenmal an die Stellen,

die wir einst als junge Kriegsfreiwilligen- Regimenter gestürmt hatten.

Welch eine Erinnerung!

Im Oktober und November 1914 hatten wir dort die Feuertaufe erhalten.

Vaterlandsliebe im Herzen und Lieder auf den Lippen war unser junges Regiment in die Schlacht gegangen wie in den Tanz.

Teuerstes Blut gab sich da freudig hin im Glauben,

dem Vaterlande so seine Unabhängigkeit und Freiheit zu bewahren.

Im Juli 1917 betraten wir zum zweiten Male den für uns alle geheiligten Boden.

Schlummerten doch in ihm die besten Kameraden, Kinder noch fast,

die einst mit strahlenden Augen für das einzige teure Vaterland in den Tod hineingelaufen waren. (p. 220, l. 2) 

Wir Alten, die mit dem Regiment einst ausgezogen, standen in ehrfürchtiger Ergriffenheit an dieser Schwurstätte von

„Treue und Gehorsam bis in den Tod“.

Diesen Boden, den das Regiment drei Jahre vorher gestürmt,

sollte es nun in schwerer Abwehrschlacht verteidigen.

In dreiwöchigem Trommelfeuer bereitete der Engländer die große Flandernoffensive vor.

Da schienen die Geister der Verstorbenen lebendig zu werden;

das Regiment krallte sich in den schmutzigen Schlamm

und biß sich hinein in die einzelnen Löcher und Krater und wich nicht und wankte nicht und wurde

so wie schon einmal an dieser Stelle immer kleiner und dünner, bis der Angriff des Engländers am 31.

Juli 1917 endlich losbrach.

In den ersten Augusttagen wurden wir abgelöst.

Aus dem Regiment waren einige Kompanien geworden:

die schwankten schlammüberkrustet zurück, mehr Gespenstern als Menschen ähnlich.

Allein außer einigen hundert Meter Granatlöchern hatte der Engländer sich nur den Tod geholt.

Nun, im Herbste des Jahres 1918, standen wir zum drittenmal auf dem Sturmboden von 1914.

Unser einstiges Ruhestädtchen Comines war jetzt zum Kampffeld geworden.

Freilich, wenn auch das Kampfgelände das gleiche war, die Menschen hatten sich geändert:

es wurde nunmehr in der Truppe auch „politisiert“.

Das Gift der Heimat begann, wie überall, so auch hier wirksam zu werden.

Der jüngere Nachschub aber versagte vollständig - er kam von zu Hause.

In der Nacht vom 13. zum 14. Oktober ging das englische Gasschießen auf der Südfront vor Ypern los;

man verwendete dabei Gelbkreuz,

das uns in der Wirkung noch unbekannt war,

soweit es sich um die Erprobung am eigenen Leibe handelte.

Ich sollte es noch in dieser Nacht selbst kennenlernen.

Auf einem Hügel südlich von Wervick waren wir noch am Abend des 13. Oktober in ein mehrstündiges Trommelfeuer von Gasgranaten gekommen,

das sich dann die ganze Nacht hindurch in mehr oder minder heftiger Weise fortsetzte. (p. 221, l. 1) 

Schon gegen Mitternacht schied ein Teil von uns aus, darunter einige Kameraden gleich für immer.

Gegen Morgen erfaßte auch mich der Schmerz von Viertelstunde zu Viertelstunde ärger,

und um sieben Uhr früh stolperte und schwankte ich mit brennenden Augen zurück,

meine letzte Meldung im Kriege noch mitnehmend.

Schon einige Stunden später waren die Augen in glühende Kohlen verwandelt,

es war finster um mich geworden.

So kam ich in das Lazarett Pasewalk in Pommern, und dort mußte ich ― die Revolution erleben!

***

Es lag etwas Unbestimmtes, aber Widerliches schon lange in der Luft.

Man erzählte sich, daß es in den nächsten Wochen „los“ gehe

― ich vermochte mir nur nicht vorzustellen, was darunter zu verstehen sei.

Ich dachte in erster Linie an einen Streik, ähnlich dem des Frühjahrs.

Ungünstige Gerüchte kamen dauernd aus der Marine, in der es gären sollte.

Allein auch dieses schien mir mehr die Ausgeburt der Phantasie einzelner Burschen als Angelegenheit größerer Massen zu sein.

Im Lazarett selbst redete wohl jeder von der hoffentlich doch bald herbeieilenden Beendigung des Krieges,

allein auf ein „Sofort“ rechnete niemand.

Zeitungen konnte ich nicht lesen.

Im November nahm die allgemeine Spannung zu.

Und dann brach eines Tages plötzlich und unvermittelt das Unglück herein.

Matrosen kamen auf Lastkraftwagen und riefen zur Revolution auf,

ein paar Judenjungen waren die „Führer“ in diesem Kampf um die „Freiheit, Schönheit und Würde“ unseres Volksdaseins.

Keiner von ihnen war an der Front gewesen.

Auf dem Umweg eines sogenannten „Tripperlazaretts“ waren die drei Orientalen aus der Etappe der Heimat zurückgegeben worden.

Nun zogen sie in ihr den roten Fetzen auf.

Mir war es in der letzten Zeit etwas besser ergangen.

Der bohrende Schmerz in den Augenhöhlen ließ nach;

es gelang mir langsam, meine Umgebung in groben Umrissen wieder unterscheiden zu lernen. (p. 222, l. 1) 

Ich durfte Hoffnung hegen, wenigstens so weit wieder sehend zu werden, um später irgendeinem Berufe nachgehen zu können.

Freilich, daß ich jemals wieder würde zeichnen können, durfte ich nicht mehr hoffen.

So befand ich mich immerhin auf dem Wege der Besserung, als das Ungeheuerliche geschah.

Meine erste Hoffnung war noch immer,

daß es sich bei dem Landesverrat nur um eine mehr oder minder örtliche Sache handeln konnte.

Ich versuchte auch einige Kameraden in dieser Richtung zu bestärken.

Besonders meine bayerischen Lazarettgenossen waren dem mehr als zugänglich.

Die Stimmung war da alles andere eher als „revolutionär“.

Ich konnte mir nicht vorstellen, daß auch in München der Wahnsinn ausbrechen würde.

Die Treue zum ehrwürdigen Hause Wittelsbach schien mir denn doch fester zu sein als der Wille einiger Juden.

So konnte ich nicht anders als glauben, daß es sich um einen Putsch der Marine handle, der in den nächsten Tagen niedergeschlagen werden würde.

Die nächsten Tage kamen, und mit ihnen die entsetzlichste Gewißheit meines Lebens.

Immer drückender wurden nun die Gerüchte.

Was ich für eine lokale Sache gehalten hatte, sollte eine allgemeine Revolution sein.

Dazu kamen die schmachvollen Nachrichten von der Front.

Man wollte kapitulieren.

Ja, war so etwas überhaupt auch nur möglich?

Am 10. November kam der Pastor in das Lazarett zu einer kleinen Ansprache;

nun erfuhren wir alles.

Ich war, auf das äußerste erregt, auch bei der kurzen Rede anwesend.

Der alte, würdige Herr schien sehr zu zittern, als er uns mitteilte,

daß das Haus Hohenzollern nun die deutsche Kaiserkrone nicht mehr tragen dürfe,

daß das Vaterland „Republik“ geworden sei,

daß man den Allmächtigen bitten müsse, diesem Wandel seinen Segen nicht zu versagen und unser Volk in den kommenden Zeiten nicht verlassen zu wollen.

Er konnte dabei wohl nicht anders, er mußte in wenigen Worten des königlichen Hauses gedenken, wollte dessen Verdienste in Pommern, in Preußen, nein, um das deutsche Vaterland würdigen,

und ― da begann er leise in sich hineinzuweinen ― in dem kleinen Saale aber legte sich tiefste Niedergeschlagenheit wohl auf alle Herzen,

und ich glaube, daß kein Auge die Tränen zurückzuhalten vermochte. (p. 223, l. 4) 

Als aber der alte Herr weiter zu erzählen versuchte und mitzuteilen begann,

daß wir den langen Krieg nun beenden müßten,

ja, daß unser Vaterland für die Zukunft, da der Krieg jetzt verloren wäre und wir uns in die Gnade der Sieger begäben,

schweren Bedrückungen ausgesetzt sein würde,

daß der Waffenstillstand im Vertrauen auf die Großmut unserer bisherigen Feinde angenommen werden sollte

― da hielt ich es nicht mehr aus.

Mir wurde es unmöglich, noch länger zu bleiben.

Während es mir um die Augen wieder schwarz ward,

tastete und taumelte ich zum Schlafsaal zurück,

warf mich auf mein Lager und grub den brennenden Kopf in Decke und Kissen.

Seit dem Tage, da ich am Grabe der Mutter gestanden, hatte ich nicht mehr geweint.

Wenn mich in meiner Jugend das Schicksal unbarmherzig hart anfaßte, wuchs mein Trotz.

Als sich in den langen Kriegsjahren der Tod so manchen lieben Kameraden und Freund aus unseren Reihen holte,

wäre es mir fast wie eine Sünde erschienen, zu klagen

― starben sie doch für Deutschland!

Und als mich endlich selbst

― noch in den letzten Tagen des fürchterlichen Ringens ―

das schleichende Gas anfiel und sich in die Augen zu fressen begann und ich unter dem Schrecken,

für immer zu erblinden, einen Augenblick verzagen wollte, da donnerte mich die Stimme des Gewissens an:

Elender Jämmerling, du willst wohl heulen, während es Tausenden hundertmal schlechter geht als dir.

Und so trug ich denn stumpf und stumm mein Los.

Nun aber konnte ich nicht mehr anders.

Nun sah ich erst, wie sehr alles persönliche Leid versinkt gegenüber dem Unglück des Vaterlandes.

Es war also alles umsonst gewesen.

Umsonst all die Opfer und Entbehrungen,

umsonst der Hunger und Durst von manchmal endlosen Monaten, vergeblich die Stunden, in denen wir, von Todesangst umkrallt, dennoch unsere Pflicht taten, und vergeblich der Tod von zwei Millionen, die dabei starben. (p. 244, l. 1) 

Mußten sich nicht die Gräber all der Hunderttausende öffnen, die im Glauben an das Vaterland einst hinausgezogen waren, um niemals wiederzukehren?

Mußten sie sich nicht öffnen und die stummen,

schlämm- und blutbedeckten Helden als Rachegeister in die Heimat senden, die sie um das höchste Opfer,

das auf dieser Welt der Mann seinem Volke zu bringen vermag,

so hohnvoll betrogen hatte?

Waren sie dafür gestorben, die Soldaten des August und September 1914,

zogen dafür die Freiwilligen-Regimenter im Herbst desselben Jahres den alten Kameraden nach?

Sanken dafür diese Knaben von siebzehn Jahren in die flandrische Erde?

War dies der Sinn des Opfers, das die deutsche Mutter dem Vaterlande darbrachte,

als sie mit wehem Herzen die liebsten Jungen damals ziehen ließ, um sie niemals wiederzusehen?

Geschah dies alles dafür, daß nun ein Haufen elender Verbrecher die Hand an das Vaterland zu legen vermochte?

Hatte also dafür der deutsche Soldat im Sonnenbrand und Schneesturm hungernd, dürstend und frierend,

müde von schlaflosen Nächten und endlosen Märschen ausgeharrt?

Hatte er dafür in der Hölle des Trommelfeuers und im Fieber das Gaskampfes gelegen,

ohne zu weichen, immer eingedenk der einzigen Pflicht, das Vaterland vor dem Einfall des Feindes zu bewahren?

Wahrlich, auch diese Helden verdienten einen Stein:

„Wanderer, der du nach Deutschland kommst, melde der Heimat,

daß wir hier liegen, treu dem Vaterlande und gehorsam der Pflicht.“

Und die Heimat ― ?

Allein ― war es nur das einzige Opfer, das wir zu wägen hatten?

War das vergangene Deutschland weniger wert?

Gab es nicht auch einer Verpflichtung der eigenen Geschichte gegenüber?

Waren wir noch wert, den Ruhm der Vergangenheit auch auf uns zu beziehen?

Wie aber war diese Tat der Zukunft zur Rechtfertigung zu unterbreiten?

Elende und verkommene Verbrecher!

Je mehr ich mir in dieser Stunde über das ungeheuere Ereignis klar zu werden versuchte,

um so mehr brannte mir die Scham der Empörung und der Schande in der Stirn. (p. 225, l. 3) 

Was war der ganze Schmerz der Augen gegen diesen Jammer?

Was folgte, waren entsetzliche Tage und noch bösere Nächte ― ich wußte, daß alles verloren war.

Auf die Gnade des Feindes zu hoffen, konnten höchstens Narren fertigbringen oder ― Lügner und Verbrecher.

In diesen Nächten wuchs mir der Haß, der Haß gegen die Urheber dieser Tat.

In den Tagen darauf wurde mir auch mein Schicksal bewußt.

Ich mußte nun lachen bei dem Gedanken an meine eigene Zukunft, die mir vor kurzer Zeit noch so bittere Sorgen bereitet hatte.

War es nicht zum Lachen, Häuser bauen zu wollen auf solchem Grunde?

Endlich wurde mir auch klar, daß doch nur eingetreten war, was ich so oft schon befürchtete, nur gefühlsmäßig nie zu glauben vermochte.

Kaiser Wilhelm II. hatte als erster deutscher Kaiser den Führern des Marxismus die Hand zur Versöhnung gereicht,

ohne zu ahnen, daß Schurken keine Ehre besitzen.

Während sie die kaiserliche Hand noch in der ihren hielten, suchte die andere schon nach dem Dolche.

Mit dem Juden gibt es kein Paktieren, sondern nur das harte Entweder-Oder.

Ich aber beschloß, Politiker zu werden.

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物資の欠乏

また国内における物質の欠乏と銃後思想の大崩壊については,

同年夏,フランス戦線で戦死したドイツ兵の懐中した母よりの左の如き手紙が立証した。

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ベルリンでは今や,無いものばかりだ。

スープも1週間に1回ぐらい,それもバターがなく悪質のヘットだから,まずくてのどを通らない。

いつまで戦争が続くのか。

進めと言われても進むな。

好機会があったらサッサと帰って来い。

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銃後の弛緩

これはユダヤ人の家庭からであるかどうかは明らかでないが,

当時,その兵の心中を察したらば,誠に暗涙を催させられた。

ドイツ軍人としての良心は祖国のため勇往邁進(ゆうおうまいしん)を要求するであろうし,

母からの手紙は退却・逃亡を要求してくるのである。

この内部撹乱については,ユダヤ人がその主たる原因の物資欠乏を故意に引き起こし,

それに得意の宣伝を加えたことと思う。

それは,シュツットガルトのインターナショナル会議(1907。「第3章 チンメルワルド会議」中に決議文を記してあります)以来,正に計画されていたことで,

彼らとしては当然である。

キール軍港の暴動,皇帝蒙塵

この如き情勢下において(1918年)10月末,同盟の隣国オーストリア=ハンガリー革命を見たことは一層,ドイツ革命を促進したことは疑いなく,

終に翌11月3日,キール軍港水兵の暴動起こり

9日,ベルリンに及び

カイザーの蒙塵を見るに至り(10日のヴィルヘルム2世のオランダへの亡命),ドイツ革命成就し,

2日後の11月11日,世界大戦の武力闘争はコンピエーニュの森において終息の休戦ラッパとなった。

***

■革命後のドイツ大官にユダヤ人

かくて革命成立後,ユダヤ人が台頭して要路に立つに至ったのは,自然の勢いである。

当時ドイツ政府及びプロシアその他の連邦政府(・州政府)国務大臣の椅子を占めたユダヤ人を列挙すると,

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[ドイツ政府(Kabinett Ebert (1918/11/9-1919/2/13) ?)]

外務大臣 ハーゼ(1863/9/29-1919/11/7)(キール軍港暴動指導者,独立社会党首領)

外務次官 カウツキー(1854-1938)(同右党員,元チェコのユダヤ人)

新聞局長 コーヘン(Max Cohen (1876-1963) ?) 

司法次官 コーン(1869-1934)

司法次官 ヘルツフェリト(Joseph Herzfeld (1853-1939) ?) 

大蔵大臣 シノフェル(Eugen Schiffer (1860-1954) (?))

大蔵次官 ベルンスタイン(1850-1932)

内務大臣 プロエス(共和国(1918-1933)憲法草案者)

内務次官 フロエント(Friedrich Freund,1861-1924)

[プロシア政府(1918-1947。プロシア革命内閣(1918/11/25-1919/3))]

司法大臣 ローゼンフェリト(Kurt Rosenfeld,1877-1943)

司法次官 ハイネマン(Hugo Heinemann,1863/2/18-1919/8/2)

大蔵大臣 シモン(Hugo Simon,1880-1950)

内務大臣 ヒルシュ(Paul Hirsch,1868-1940)

農商務大臣 ブラウン(1872-1955) 

文部次官 ブッシ(Felix Busch (1871-1938) ?) (大成金で,ユダヤ人メンデルスゾーン女婿)

[バイエルン共和国]

大統領 アイスナー(1867/5/14-1919/2/21)

大蔵大臣 ヤッフェ(Edgar Jaffé,1866/5/14-1921/4/29)

商工大臣 ブレンタノ(Lujo Brentano (1844-1931) (?))(半ユダヤ人)

(運輸大臣のHans Unterleitner (1890-1971) もユダヤ人(?))

[ザクセン共和国(1918-1952。Kabinett Lipinski (1918/11/15-1919/1/21))]

国務大臣(人民委員評議会議長?) リビンスキー(1867-1936)

国務大臣(経済大臣(?)) シュワルツ(1876-1929)

[ヴュルテンベルク共和国(1918-1945。Kabinett Blos I (1918/11/11-19193/7))]

国務大臣(宗教大臣?) ハイマン(1870-1939)

国務大臣(財務大臣を拒絶して,シュツットガルト労働者評議会議長?) タールハイメル(1884-1948) 

[ヘッセン共和国(1918-1945。Kabinett Ulrich I (1918/11/11-1919/2/21))]

(内務大臣) フルダ(Heinrich Fulda,1860-1943)

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前記ヒトラーの『我が闘争』中に述べた帰還軍人扇動のやり口は,

本編第3章「ロシア革命」の部(革命直前の状況,革命の勃発)においてフランス大使手記中に述べてある傷兵・病兵・休暇兵らが,

インテリやユダヤ人のところへ出入りして思想の悪化を来したことと全く同様であることに注意すべきである。

***

■大戦間ドイツのユダヤ懐柔とその失敗

ドイツ革命(1918-19)を終わるに先立ち,是非とも叙述しなければならぬことは,

第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11),ドイツがユダヤ懐柔に力を尽くしたるに拘わらず,

上述の如く,ユダヤ人のために革命で倒された事実である。

これは現今,日本においても,ユダヤ人懐柔を真剣に考えている人士も朝野にあるようだから,

参考のためにユダヤ人の文献を借りてやや詳説する。

仏国ユダヤ人アンドレ・スピール(1868-1966)はその著『ユダヤ人と大戦』(1917年発行)第96頁に,

英国ユダヤ人イスラエル・ザングウィルの著『世界のための戦争』の左の一節を引用している。

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然り近年のドイツは,ロシアの如く滑稽なユダヤ人虐待を行っていない。

それは,ロシアよりはユダヤ人の数が少なくて脅威を感じないのと,

また1つにはポーランド(ドイツ帝国の傀儡国家となるはずだったポーランド王国(1916-1918))及びロシアからドイツを通り抜けて米国へ移住するユダヤが多数で,

これがドイツの汽船会社に多大な利益を与えるからである。

アンドレ・スピール『ユダヤ人と大戦』第96頁

Si, dans les dernières années, l'Allemagne n'a pas traqué le Juif à la manière russe,

c'est que le nombre de ses Juifs n'était pas pour elle une menace,

et que le courant d'émigration juive (Juifs polonais et russes) qui passait sur l'Allemagne sans s'y arrêter apportait d'immenses profits à ses compagnies de navigation (1).

Mais dès que les circonstances lui montrent qu'il y a intérêt non seulement à mépriser mais à opprimer le Juif, le Germain n'hésite pas.

Dans le pays du pragmatisme nécessité n'a pas de loi.

Avant la guerre, déjà le Juif russe était considéré en Prusse comme Polonais,

et comme Polonais soumis à toutes sortes de vexations.

1. Les officiers de ses navires ne se faisaient, d'ailleurs, pas faute de maltraiter ces pauvres émigrants.

Et il était impossible aux émigrants d'éviter le passage sur les navires allemands,

car l'Allemagne leur interdisait le passage sur son territoire à moins qu'ils ne pussent prouver qu'ils étaient munis d'un billet de passage pour un de ses navires (Zangwill, The War for the World).

Voir dans l'Information du 20 mars 1916 un curieux article où Pierre Mille évalue à 30 ou 40 millions par an les recettes apportées au Lloyd Allemand et à la Hamburg Amerika Linie par les 3 ou 400 000 Juifs polonais et russes qui s'embarquent annuellement dans les ports allemands pour l'Amérique.

C'est ce fret humain qui permet aux armateurs allemands de concurrencer et de ruiner les compagnies françaises et anglaises de navigation.

On peut donc affirmer que si les armateurs anglais et français veulent, après la guerre, retrouver leur prospérité de jadis, ils doivent demander avec insistance à leurs gouvernements d'engager le gouvernement russe à cesser les persécutions juives,

cause indiscutable de ce mouvement d'émigration juive à travers l'Allemagne.

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また同書103頁には,

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ユダヤのイディッシュ語は多数のドイツ語源を交えていること,

ユダヤ人がロシアで虐待され,ポーランドでボイコットを受けていることから考えて,

ドイツ人は容易にユダヤ人の同情を集め得ると信じた。

アンドレ・スピール『ユダヤ人と大戦』第96頁

En somme, parce que le yiddish contient un grand nombre de mots d'origine germanique et,

parce que les Juifs avaient été persécutés par les Russes et boycottés par les Polonais,

les Allemands avaient cru qu'ils acquerraient facilement les sympathies juives.

Mais ils constatèrent bientôt que les Juifs tenaientaudessus de tout à leurs traditions, et à leurs souvenirs (3),

bref à leur personnalité ethnique, et ne voulaient ni se laisser germaniser, ni devenir entre leurs mains un instrument de germanisation (4).

3. « Traditions et souvenirs peuvent tranquillement subsister pourvu qu'on se rappelle qu'ils appartiennent à l'histoire et au passé »,

avait dit Guillaume II (ヴィルヘルム2世(1859-1941)のこと) aux Polonais en 1902 (Cité par M. Muret, l'Orgueil allemand, p. 85).

4. Notre travail était imprimé et nous en corrigions les épreuves quand les empires centraux annoncèrent, le 5 novembre 1916,

leur prétendue déclaration d'autonomie de la Pologne russe.

Il résulte des rares informations parvenues en France au 3 décembre 1916,

qu'à part la petite minorité juive qui s'est associée à la minorité polonaise dirigée par le germanophile Studnicki (1867-1953),

les Juifs ont gardo l'attitude qu'ils avaient adoptée avant cette proclamation, c'est-à-dire une réserve absolue

(Echo de Russie, 15 sept e m b r e 1916).

Univ. israél., 10 novembre 1916, p. 167.

La ville de Varsovie, sur 800.000 à 900.000 habitants, contenant au moins 300.000 Juifs,

le fait que 3.000 personnes en tout ont assisté à la manifestation organisée à Varsovie par le général gouverneur à l'occasion de la proclamation du 5 décembre,

prouve abondamment l'état d'esprit des masses juives.

Il est à noter que 250.000 personnes avaient pris part à la manifestation organisée à Varsovie le 3 mai 1916 pour commémorer la Constitution polonaise de 1791.

La protestation lancée par les Polonais résidant en France et dans les pays neutres porte de nombreuses signatures juives

(Polonia, 11, 18, 25 novembre 1910).

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その他数か所に記載するところによれば,

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ドイツはポーランドの自治とともに,ユダヤ人の社会的地位を改良すべき約を与えた。

また事実上独軍のポーランド侵入に当たっては,ユダヤ解放者の立場に立った。

すなわち市街の爆弾攻撃を行う前には,ユダヤ解放を約束したユダヤ文の宣伝ビラを飛行機からまき,

または間諜を使って諸所に貼り出させ,ユダヤ人をドイツ側に引き付けようとした。

そして占領当初には愛想の限りを尽くした。

ポーランドのロッズ市(Łódź,ウッチ)に入った時には,カイゼル自らユダヤ寺院に臨幸したことを全世界に宣伝させた。

またドイツの占領地守備軍は,ワルシャワの市会職員に15人のユダヤ人を加えることを許し,

且つ同市の秩序維持に任ずる民警にはポーランド人と同様にユダヤ人を採用した

(もちろん高級な位置には,ポーランド人を用いた)

ドイツ政府はポーランドの国家主義者が,ポーランド語をもって唯一の国語と定められたしと請願したのを許さないで,

ユダヤ人のイディッシュ語またはヘブライ語を用いるのを許した。

またワルシャワにポーランド大学(ワルシャワ大学(?))の開設を許すと同様に,ユダヤ人の民間大学をウイルナに設けることを許した。

ドイツのこれらの懐柔策は初めは相当に成功したが,

あとになると,ユダヤ人は何者よりも,自己の伝統と過去の追憶に固執することが分かり,

ユダヤ人はこれを同化して掌中に収め得る民族でないことを了解して,その方策を変更することとなった。

すなわちユダヤとドイツの神聖同盟は極めて短命であった。

ベルリーナ・ターゲブラット(Berliner Tageblatt,1872-1939)は,ポーランド及びロシアから約3・4百万のユダヤ人をトルコに送るべく宣伝した。

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すなわち前世紀末(19世紀末)以来,ユダヤ解放のため,ロシア・オーストリア・ドイツの東欧中欧対策上,これに革命を行うと決心したユダヤは,

アンドレ・スピールの述べた如く,一時の懐柔,傘下に集めるなどの方法で,ユダヤの意志を翻させ得るものでないことを悟るべきである。

重ねて,ユダヤ利用・ユダヤ懐柔の不得策を叫んで本章を終える。

第6章 パレスチナの復興

アインシュタインの演説

ユダヤ民族の実際運動の中で,パレスチナがユダヤ人の手に戻ったということは実に大きな問題である。

しかし,あの蕞爾(さいじ)たる地中海東岸の小区域が誰の手に帰しようと大したことには考えない人もある。

それは,前に述べた前世紀末におけるユダヤ解放の3策(第5編第6章)中第2が敗れ,第1と第3が残ったその片割れであり,

世界大戦真因の1つにも数えられることを読破した人の目から見れば,容易ならざる問題である。

有名なるアインシュタイン(1879-1955)というユダヤの博士は,

皇紀2582年(1922年11月17日~12月29日)に日本を訪問して,相対性原理の講演をやり,

帰途,上海で民族大会やフリーメイソンの大会に臨み,

日本の元外務大臣某氏にフリーメイソンの勲章ようの感謝の徽章を日本の総領事を仲介にして送ったりしたが,

さらにパレスチナに渡ってユダヤ大学を訪問し,

同地でパレスチナの将来について注目すべき演説をフランス語とヘブライ語でした。

その中に次の意味の文句がある(1923年ユニベル・イスラエリット(1844-1940)所報)

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「パレスチナは土地狭く,気候は荒く,地味は磽确(こうかく)であって,

到底世界から多数のユダヤ同胞を呼び入れるわけには参らぬ。

しかしながら経済的に価値の少ないようなこの土地も,精神方面から見れば大したものである。

なぜなれば,これは神様が必ずこれをユダヤ人に返すという,いわゆる『約束の土地(第5編第6章で前述)であって,

この約束が果たされれば他の預言者をもって,お約束の幾多の預言もまた実現することになるからである云々」

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今回の大戦前ユダヤ人この問題を重視す

この如く重要視されたのみならず,1939年3月3日に,英国のユダヤ雑誌ジューイッシュ・クロニクル(1841-)が今度の大戦(第2次世界大戦(1939/9/1(1941/12/08)-1945/8/15))を予告した文句の中に,

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パレスチナ問題は漸次発展して,いかなる常識ある人々も戦慄しないでは見ていられないような進展をするであろう。

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と書いたぐらい,重きを置いているのである。

ゆえにこの前の世界大戦(第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11))の際にはユダヤの勢力隆々たる英国としては,

早速にも敵国トルコの領土たるパレスチナを占領して,

これを回教徒の手より奪取して,ユダヤ民族に還付したかったのであろうが,

1915年ガリポリ半島への英仏連合上陸作戦(1915/2/19-1916/1/9)は失敗に終わり,対トルコ戦は進捗しなかった。

その後,米国ユダヤ界の激励鞭撻によって,

英国外務大臣バルフォア(1848-1930,外相: 1916/12/10-1919/10/24)宣言を出して(1917/11/2,第5編第6章で前述)

パレスチナ内にユダヤの国家[ナショナル・ホーム]を建設することになり,

戦争末期に至りて漸く,英国ユダヤ人パターソン大佐(1867-1947)の指揮するユダヤ人部隊を編成し,

祖国復興の一念に燃ゆる闘士を駆って困難な砂漠作戦を遂行して,トルコの手から取り返すことができた。

右バルフォアの宣言は1917年11月2日付であって,

労農ユダヤ政府成立に先立つ5日である(10月革命(1917/11/7))

恐らくユダヤ人としては同日付けをもって,ユダヤ解放第1論者と第3論者を満足させ,

同時に凱歌を上げたかったであろう。

しかし5日間の差は,先ず同時と見て宜しかろう。

■イギリスの二重約束

今,バルフォア宣言を述べるに先立ち記さなければならぬことは,

英国の二重政策(バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定(1915)がパレスチナについて矛盾していることから二枚舌外交,さらにサイクス・ピコ協定(1916)を合わせて三枚舌外交)である。

Joseph Mary Nagle Jeffries (1880-1960), The Palestine Deception [1923], pp. 38 - 42

BROKEN FAITH WITH THE ARABS.   MCMAHON LETTERS DISCLOSURES.

You have seen how the Declaration of all the Balfours (1917/11/2) was composed and how the British Army in Palestine for over two years did not publish it,

and what happened in Palestine as a result.

Now let us descend into the real depths and watch how the British Government originally broke its word.

It did so by publishing that Declaration at all.

It had given pledges to the Arabs previously guaranteeing the independence of the country in which it now sought to establish the Zionist "National Home."

So that the "National Home" was preceded and followed by broken pledges;

this pledge and the Anglo-French pledge of 1918.

These pledges are contained in the letters which were sent to the Shereef of Mecca (now King Hussein (1853-1931) of the Hedjaz) by Sir Henry McMahon (1862-1949),

when the entry of the Arabs into the war on our side against the Turks was negotiated.

Sir Henry McMahon was High Commissioner in Egypt at the time, and was acting in the name of Great Britain.

The McMahon letters were never published by the late Government.

They are State Papers, and as such were by Government regulations not to be divulged.

In this matter the Government kept faith with itself, at least.

The correspondence is long, and within the limits of a newspaper it is not possible to publish it all.

I shall quote the relevant portions.

It should be understood that the Shereef Hussein was acting on behalf of the Arab people.

It will be seen he was a good bargainer and, indeed, the Arabs were no less anxious to be subsidised by Britain than they were to be set free by Britain.

But if he bargained, we made an agreement and are obliged to keep it, having drawn or intended to draw our own advantages from it.

The Shereef stood out for his boundaries from the start, and was well advised, in view of the Balfour Declaration mentality of our Government. (p. 39, l. 2) 

On July 14th, 1915, the Shereef sent a formal letter to Sir Henry McMahon, declaring:

<<--------------------

Whereas the whole of the Arab nation without any exception has decided in these last years to live, and to accomplish their freedom and grasp the reins of their administration both in theory and practice . . .

for these reasons the Arab nation sees fit to limit itself, as time is short, to asking the Government of Great Britain, if it should think fit, for the approval through its deputy or representative of the following fundamental propositions . . .

until such time as it finds occasion for making the actual negotiations:—

Firstly, Great Britain will acknowledge the independence of the Arab countries, in every sense of the word independence, to be bounded on the north by Mersina-Adana up to the 37th degree of latitude, on which degree falls Biridjik (Birecik), Ourfa (Şanlıurfa), Mardin, Midiat (Midyat), Amadia Island, up to the borders of Persia.

On the east by the frontiers of Persia up to the Gulf of Basra.

On the south by the Indian Ocean, with the exception of the colony of Aden, which is excepted from these boundaries.

On the west by the Red Sea and the Mediterranean Sea up to Mersina.

-------------------->>

There were several other clauses,

giving us economic priority,

guaranteeing the Arab State material and moral aid against attacks from within or without,

defining attitude in case of either party entering upon aggressive action,

securing supply of funds and munitions to the Arabs,

fixing the duration of the proposed treaty between Britain and the Arabs to fifteen years, and others again.

But what matters in this present report is the first clause, since it contains the boundaries of the proposed Arab State.

On August 30th Sir Henry McMahon replied:

<<--------------------

We have the honour to thank you for your frank expression of the sincerity of your feeling towards England.

We rejoice that your Highness and your men are of one opinion that Arab interests are British interests and British Arab.

And in this intent we confirm to you the terms of Lord Kitchener's (1850/6/24-1916/6/5) message, which reached you by the hand of ―― (a certain Arab gentleman) . . .

in which our desire for the independence of the Arabs and the Arab countries . . has been stated. . .

As regards the question of boundaries, it would appear to be premature to consume our time in discussing such details in the heat of war and while in many portions of them the Turk is up till now in effective occupation:

especially as we have learned to our surprise and regret that some of the Arabs in these very parts, far from assisting us, are neglecting this, their supreme opportunity,

and are lending their arms to the German and the Turk, to the new despoiler and the old oppressor. . . .

-------------------->>

The Shereef Hussein was much too practised and shrewd to be moved by these considerations.

He replied on September 9th to "His Excellency the Most Exalted, the most Eminent the British High Commissioner in Egypt;

may God grant his success ":

<<--------------------

. . . It is necessary to make clear to your Excellency our sincerity towards the illustrious British Empire and our confession of preference for it in all cases and matters and under all forms and circumstances . . (p. 39 - p. 40) 

Nevertheless, your Excellency will pardon me and permit to say clearly that the coldness and hesitation which you have displayed in the question of the limits and boundaries by saying that the discussion of these at present is of no use and is a loss of time, etc., might be taken to infer an estrangement or something of the sort.

-------------------->>

In lengthy Oriental phrases the Shereef stuck out for his boundaries,

and said that if any Arabs were still under Turco-German orders it was only because of the delay in the present negotiations.

In reply he received from Sir Henry McMahon a communication of the utmost importance, dated October 25th.

<<--------------------

"I regret," said Sir Henry McMahon, "that you should have received from my last letter the impression that I regarded the question of the boundaries with coldness and hesitation.

This was not the case, but it appeared to me that the moment had not yet arrived when they could be most profitably discussed.

However, from your last letter I realised that you regard this question to be of vital and urgent importance, and have therefore lost no time in informing the Government of Great Britain of the contents of your letter, and it is with great pleasure that I communicate to you on their behalf the following statement which I am confident you will receive with satisfaction:

<<<<--------------------

1. The districts of Mersina and Alexandretta and portions of Syria lying to the west of the districts of Damascus, Homs, Hama , and Aleppo cannot be said to be purely Arab and should therefore be excluded from the desired boundaries.

2. With these modifications, and without prejudice to certain treaties enacted between ourselves and some Arabian chiefs, we accept these boundaries.

-------------------->>>>

And as regards those portions of the territories therein in which Great Britain is free to act without detriment to the interests of her Ally, France,

I am empowered in the name of the Government of Great Britain to enter into the following covenant (the Arabic word is mawathik) and reply to your letter as under:—

<<<<--------------------

1 . Subject to the above modifications.

Great Britain is prepared to recognise and support the independence of the Arabs within the territories included in the limits and boundaries proposed by the Shereef of Mecca.

2. Great Britain guarantees the safety of the Holy Places against any foreign aggression and will recognise their individuality. 

3. When the situation admits.

Great Britain will give the Arabs her advice and will assist them to establish what may appear to be the most suitable forms of government in these various territories.

4. On the other hand, it is understood that the Arabs have decided to seek the advice and guidance of Great Britain only,

and that such European advisers and officials as may be required for the formation of a sound form of administration will be British.

5. With regard to the Vilayets (provinces) of Baghdad and Basra, the Arabs will recognise that the established position and interests of Great Britain necessitate special measures of administrative control

in order to secure these territories from foreign aggression, to promote the welfare of the local populations, and to safeguard our mutual economic interests."

-------------------->>>>

-------------------->>

To this Sir Henry McMahon added that if there were minor points an opportunity for discussing them might be found later;

he had kept to the essentials. (p. 40 - p. 41) 

On November 5th the Shereef replied accepting-.

He said:

<<--------------------

In order to facilitate an agreement and render a service to Islam . . .

we renounce our insistence on the inclusion of the Vilayet of Mersina and Adana in the Arab kingdom.

But the provinces of Aleppo and Beyrout (Beirut) and their sea coasts are purely Arab provinces,

and there is no difference between a Moslem and a Christian Arab (there are many Christians in these districts);

they are descendants of one forefather.

-------------------->>

Five clauses followed, dealing with Irak and the position of Arabia in face of Turkey.

The letter ended:

<<--------------------

We know that our lot in this war (第1次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11) will be either a success which will guarantee to the Arabs a life becoming their past history or destruction in the attempt to obtain their objects.

Were it not for the determination I see in the Arabs to attain these objects, I should have preferred to seclude myself upon a mountain height;

but they, the Arabs, have insisted that I should guide the movement to this end.

May God keep you safe and victorious, as we devoutly hope and desire.

-------------------->>

The accord was almost at hand.

Sir Henry McMahon wrote on December 14th:

<<--------------------

I am gratified to observe that you agree to the exclusion of the Vilayet of Mersina and Adana (Alexandretta is in this district) from the boundaries of the Arab territories. . . .

With regard to the Vilayets of Aleppo and Beyrout, the Government of Great Britain has taken careful note of your observations,

but as the interests of our Ally France are involved, the question will require careful consideration, and a further communication on the subject will be addressed to you in due course.

-------------------->>

On New Year's Day, 1916, the Shereef penned his final letter to the "excellent, energetic and magnanimous Minister."

He made his position upon the Syrian districts clear:

<<--------------------

As regards the northern parts and their coasts we have already stated in our previous letter what were the utmost possible modifications,

and all this was only done so as to fulfil those aspirations whose attainment is desired by the will of the Blessed and Supreme God.

It is the same feeling and desire which impelled us to avoid what may possibly injure the alliance of Great Britain and France and the agreement made between them in the present war and calamities;

yet we find it our duty that the Eminent Minister should be sure that at the first opportunity after this war is finished we shall ask you (which we now avert our eyes from to-day) for what we now leave to France at Beyrout and on its coasts. 

-------------------->>

The Government, satisfied with this shelving, gave Sir Henry McMahon final instructions,

and he was able to tell the Shereef, "I have received orders from my Government to inform you that all your demands are accepted, and that all you ask for will be sent (presumably money and munitions)."

Such is the McMahon correspondence.

The pledges in it were formally confirmed in 1918, when the Turks tried to get the Arabs to enter into a separate treaty with them on the understanding that Turkey would recognise the independence of the Arab countries.

King Hussein cabled the news of this offer to the British Government.

Our Foreign Minister, then Mr. Balfour, replied through the British representative at Jeddah, thanking King Hussein for the loyal information, and declaring:

"His Britannic Majesty's Government, in agreement with the Allied Powers, confirms its previous pledges respecting the recognition of the independence of the Arab countries." (p. 42, l. 5) 

In my next article it will be my task to show how deeply these letters pledge us,

how the establishment of a Jewish National Home breaks them,

and how, realising this, Mr. Churchill last year made a disastrous effort to show they had never been given,

and, failing in this, threw them into the waste-paper basket of the Colonial Office (1854-1966).

英国はトルコに勝つために,その主権下に立つパレスチナのアラビア人を扇動し,これを反トルコ作戦に利用するため,

戦後にはパレスチナをアラビア人に与えると約束してしまったのである。

ゆえに宣言の文句にも書きにくいところがあり,

それが後日,長年月にわたって,ユダヤ-英国-アラビアの間に紛争を引き起こすことになったのである。

(ファイサル1世(1883-1933,上のフサイン=マクマホン協定を結んだフサイン(1853-1931)の三男で,初代シリア王・初代イラク王)と,ワイツマン(シオニスト)との間の会談での合意(1919/1/3)によって,一応の見せ掛け上,バルフォア宣言実施の合意があるにはあった。

ファイサル1世は,その後,1920年7月に,英仏によって)

■バルフォア宣言

バルフォア宣言(1917/11/2,第5編第6章で前述)は左の文言である。

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英国皇帝の政府は,パレスチナの中にユダヤ民族のため,国家[ナショナル・ホーム]を造ることに好意を表し,

且つこの目的達成を容易ならしむべき全ての努力を払う。

ただしパレスチナにある非ユダヤ人団体の市民権及び信教上の権利を害し,

又は他の諸国に居住するユダヤ人の享有する権利及び政治的現状に対して不利益となるべき

いかなる措置をも執ることなきはもちろんなり。

バルフォア宣言 (第5編第6章に記したものを再掲)

Foreign Office,

November 2, 1917.

Dear Lord Rothschild (1868-1937),

I have much pleasure in conveying to you on behalf of His Majesty's Government the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations,

which has been submitted to and approved by the Cabinet:

"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people,

and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object,

it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice

the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine 

or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country."

 

I should be grateful if you would bring this Declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

Yours sincerely,

(signed) Arthur James Balfour.

--------------------

すなわちこれは神様の約束の通りに,パレスチナ全部がユダヤ人の手に帰るのではなく,

パレスチナの中に造るのであり,

しかもただし書をもってパレスチナの回教徒・キリスト教徒の権利を害せざる約束をしてしまった。

また最後のただし書は,パレスチナが復興したからといって,

世界に散在するユダヤ人がその居住国から追い出されたり,又は外国人扱いを受けてはたいへんであるから,

かなり広い意味に取れる文字を用いて,各国内で受けている権利を擁護しているのである。

この宣言は,戦後の1920年4月サンレモ会議で連合国中の主なる代表者の同意を得て,

1920年8月10日セーヴルにおける連合国の対トルコ条約(セーヴル条約)の中にこれを条文として取り入れられた。

その後,パレスチナの統治は,英国の委任統治ということに連合国大使会議(英・仏・伊・日(及びオブザーバーの米)ということ(?))で決定した。

初代総督は,ロイド・ジョージ(1863/1/17-1945/3/26)の懐刀と評されたところのユダヤ人ハーバード・サミュエル(1870-1963)である。

英国軍艦に乗り,パレスチナ随一の港たるヤッファに上陸したが,

陸戦隊に護衛され王者の礼をもってエルサレムに向かった。

パレスチナのユダヤ人らが初めて同族の支配者の下に立ったのは,さぞ喜ばしかったであろうし,

また,回復された聖地の初代総督然たるサミュエルの得意も思いやられる。

然るに,あまり行き過ぎで同族の便宜ばかり計るという批難が起こり,アラビア人の反抗は高まった。

元々英国が謀略をもってアラビア人を利用してパレスチナをトルコの手から奪取し,

成功の暁においてこれをユダヤ人に渡すが如きは背徳の行為であると憤るのに理由があり,

また,動もすれば条文にはパレスチナの中にとあるのに,

パレスチナ全部をユダヤのものとしようと仕向けるのは不都合だと怒るのも無理はない。

かくて出発点から紛争が絶えず,1925年4月バルフォア(1848-1930)がユダヤ大学(ヘブライ大学(設立自体は1918年であるが,スコーパス山キャンパスの開講は1925/4/1)(?))の開校式に英国から渡航した時には,

諸方で投石されたり,身辺の危険もあるので長居をせずに帰った。

かくてパレスチナにおけるユダヤ人とアラビア人との衝突は年中行事の如く繰り返され,

時には英軍が機関銃を持ち出したり,砲を並べたり,トーチカのような防御工事に立てこもる場合もあった。

筆者が皇紀2598年(1938年)8月下旬エルサレムの飛行場リッダ(ロッドの現地読み)に着陸する頃には,

形勢が大いに悪化して戒厳令が敷かれたと伝えられる頃であった。

着陸してから勤務員のアラビア人に情況を尋ねると,

大したことはない,

我々とそこにいるギリシャ人のようなキリスト教徒(ギリシャ正教信者ということ(?))とは仲良く暮らせるが,

ただユダヤ人だけが悪いのだと,

上役のユダヤ人もいるのをはばからず大声で語っているのであった。

我が邦のユダヤびいきの新聞など(今だと,読売・朝日・毎日・産経・日経のこと(?))は,ユダヤ通信社(ロイターAFPAPUPIなどのこと(?)) の通信をそのまま受け入れて,

アラビア人の文化程度が著しくユダヤ人に劣るので起こる衝突であると報じたものであって,

成立当初からの経緯も研究せずに論評する嫌いがあった

文化の程度に差異のあるのは事実であろうが,他に前述のような幾多の理由もある。

なおキリスト教徒としては,中世紀(西洋史では古代ローマ帝国(BC27-476)の末期の5世紀から,東ローマ帝国(395-1453)滅亡の15世紀の中頃)に幾たびか,十字軍(1096-1303)を起こして,

聖地擁護の戦争までしている由緒深き土地であり,

回教徒(イスラム教成立は610)もまた,メッカメジナ(メディナ,マディーナとも)に次ぐ聖地(638年以降)としてみている所であるから,

ユダヤ人だけ威張らせるわけには行かぬと力むのである。

その年には,フランス領でジュネーブ湖畔エビアンで,非公式国際会議(1938/7/6-15)が開かれ,

またロンドンにはユダヤ人とアラビア人の双方から代表を集めて,英国政府の下で会議も開いたが

アラビア側からバルフォア宣言の如き背信的宣言を取り消さなければ,ユダヤ代表らと同席をしないという強硬な態度が表明され,

結局不成功であった。

要するに,英国のパレスチナ委任統治は何か公明を欠く点があるためか,成績が悪く,

毎年の国際連盟委任統治委員会の評判は宜しくなかった。

終にパレスチナを三分して,北西部をユダヤに,東南部をアラビア人に,エルサレムを含む中部の回廊を英国委任統治領の緩衝地帯とする案などが,

その年の冬には報道されたが,

終に決着を見ずして今次の大戦になった。

前述の如くパレスチナ問題は第二次世界大戦の原因をもなすのであるから,

後章において,さらにその後英国がバルフォア宣言類似の宣言を発したり,パレスチナを英国の純然たる属領化する計画等を合わせて重ねて説くことにする。

■大ユダヤ国論

なお付言すべきは,パレスチナの復興は,前に述べたシオン運動の実際化で,

近世における本運動の指導者ヘルツル博士(1860-1904)が熱心に唱道した「ユダヤ国(同名本の著述がある)建設の一段階である。

しかしこれは,決してユダヤ国の全貌ではなくて,

差し当たり必要な小ユダヤ国であって,真のユダヤ国すなわち大ユダヤ国はこの地球全部のことである(現在一般的に知られるところとしては,そこまで大きくない(?))

1920年春,米国のペンシルバニア・ホテル(1919/1/25-)において,ユダヤ人会合のあった時,

当時の海軍大臣ダニエル(1862-1948,任期: 1913/3/5-1921/3/4)が演説をして,

--------------------

「諸君は今,あまりに声を大にして天下に呼号する時は,

各種の障害に遭遇して,大ユダヤ国の建設はもとより小ユダヤ国の建設すら不可能になるかも知れぬ」

--------------------

との意味の注意をしたことが伝えられている。

すなわちユダヤ建国を単に小パレスチナ復興と見るべきではない。

マルクス(1815-1883)の友人で協力者であった近世社会主義の先覚たるドイツユダヤ人モーゼス・ヘス(1812-1875)は,

シオン運動の方面にも先覚として知られている人物である。

彼の説ではやはり,ユダヤの建国はパレスチナのほかにはないと力説し,左の如く説いている。

--------------------

パレスチナへのユダヤ民族の復帰は急激にはやれぬ。

緩徐に,逐次に染み込まなければならぬ。

それにしても,新ユダヤ国はユダヤ人の全部を収容するわけには行かぬ。

ユダヤ人の大部分は養子先の諸外国に居住を続けるのである。

しかしそれらのユダヤ人は共通の祖国パレスチナから必要なる圧力を受けるので,

ユダヤ中心地を創設することは,ユダヤ人に生命と統一を与えるのである

(バルック・ハガニ(Baruch Hagani,1885-1944)著『政治的シオニズムとその創立者』(Le sionisme politique et son fondateur Théodore Herzl (1860-1904))第245頁)

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すなわちパレスチナは,そこだけ見れば小ユダヤ国であるが,

世界中に広がり各国に根を張ったユダヤ人の中枢となり,圧力という指揮命令を発する所であるから,

大ユダヤ国の中心となるのである。

パレスチナ問題を他人のことと考えていると,いずくんぞ知らん

目の前にある極東ユダヤ人協会などの総本部になることに気が付かなければならぬ。

第7章 国際連盟の創立

ヘルツル博士の文明国民会議論

前数章においてしばしば述べたるヘルツル博士(1860-1904)は,有名なる「ユダヤ国[ユーデン・シタート]において述べて曰く,

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「予は,ユダヤ人問題が社会問題又は宗教問題の如き観を呈するに拘わらず,

これを社会問題とも宗教問題とも認めない。

ユダヤ人問題は民族問題である。

これを解決せんがためには,何はさておき,これを世界的政治問題に変形しなければならぬ。

そうしてこの全世界的な政治問題は,文明国民の会議で解決しなければならぬ」

Theodor Herzl著,Jacob de Haas訳 「A Jewish State」[1904年出版(原著出版は1896年)]

I believe that I understand Anti-Semitism, which is really a highly complex movement.

I consider it from a Jewish standpoint, yet without fear or hatred.

I believe that I can see what elements there are in it

of vulgar sport, of common trade jealousy, of inherited prejudice, of religious intolerance, and also of pretended self-defence.

I think the Jewish question is no more a social than a religious one, notwithstanding that it sometimes takes these and other forms.

It is a national question,

which can only be solved by making it a political world-question to be discussed and controlled by the civilized nations of the world in council. (p. 5, l. 2) 

We are a people—One people.

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右のいわゆる文明国家間の会議において解決することとは,

ただ博士が奮起の原因なしたドレフュス事件(1894)の如き消極的なユダヤ解放にとどまるや,

はたまた積極的に大ユダヤ国を建設して,永劫,かかる問題を根絶せしめんと企てたるやは,

論議の余地ある問題と思う。

しかしながら,彼の死後10余年を経て成立した国際連盟(1920-1946)の動向,並びに,尽力したユダヤ人の熱意等を考える時は,

軽々にこれを消極的なものとし,国際連盟は大ユダヤ国を夢見ざりしと断定することはできない。

■アルベール・コーヘンの国際連盟の目的論

殊にその成立後において,アルベール・コーヘン(1895-1981)という有力なユダヤ人が,パリでルヴュー・ジュイーブ(La Revue juive)を西暦1925年に発行し,

その創刊号において,大胆にも左の如き言説を発表せるにおいておやである。

すなわち論説欄において,「国際連盟論」と題して,

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「国際連盟とは,我々ユダヤ民族が1800年前に世界に離散せしめられて以来,民族生活の基礎根底をなしてきた事柄を,

これから政治的に解決する機関である云々。」

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民族生活の基礎根底をなしてきた事柄とは何であるかと言えば,

ヘルツル博士のいわゆる民族問題で,神選民族が神意のまにまに世界を統一するというのである。

これが偽らざる告白である。

で,もし後述のフリーメイソンによる創立相談会における草案が実現して,

連盟が,真に国家主権の上に立つ超国家機構として成立し,しかして実際現れた通りのユダヤ人幹部をもって組織され,

これが20年そこそこの短期間に崩壊しないで,1世紀・2世紀永続したと仮定すれば,

必ずヘルツル博士の素描した大ユダヤ国の出現となったであろうと思われる。

しかして,前の大戦後に現れた幾多のユダヤ文献を渉猟すると,

大戦そのものを引き起こす際には,既に戦争の終わりに連盟を造ってこれを形付ける底意が決まっていたように見られるものがある。

第1次世界大戦は「戦争に対する戦争なり」との文句はしばしば散見したが,

1925年の連盟総会の席上,フランス代表ポール・ボンクール(1873-1972)は,

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過般の戦争において,戦場の華と散った幾百万の勇士は,戦争を殺さんがために己を殺したではないか」

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と熱弁を振るい,

数百の参列者(ユダヤ・フリーメイソン多数あり)から,嵐の如き拍手を受けたのを目撃した。

実際においては戦死者の多数は祖国のためと思って死んだので,

右の如き理想をもって倒れた者は少ないであろう。

しかし戦争の計画者はかかる深慮を持して,永久平和機構創立のため,千万の死傷者を作ったのであろう。

いやしくも独立した主権と,歴史伝統と誇りを持つ国家は,

事なき日に一片の申し合わせを行って国際的な組合に頭を突っ込み,各種の義務を負わされ,行動の自由を失うことを好んであるものはない。

あれだけの長年月を戦争に苦しみ,人命と財宝を消費させられ,世界の人々ことごとく戦争はこりごりしたという機会に乗じて,

永久平和の店を開いたことは,

商売上手のユダヤ人らの正に考えそうなことである。

事なき日に禁酒を勧誘してもなかなか応じないが,

飲み過ぎ,宿酔(しゅくすい)で苦悩したり,病臥の時に勧める時は,

案外容易にとりあえず禁酒を誓う場合と似通う点がある。

されば,講和条約が成立して各国が晴れやかな気分に立ち戻り,各国ごとに戦後の復興などが着々進行し始めてから,連盟の話を持ち出しても,

各国は気乗り薄で成立の望みはないと見て,

フリーメイソン結社員(?)ウィルソン米国大統領(1856-1924,任期: 1913/3/4-1921/3/4)は米国の不文律を破って,任期中に米国を離れて自ら首席全権としてヴェルサイユ会議(1919-1920)に臨んだ。

そしてロイド・ジョージ(1863/1/17-1945/3/26)クレマンソー(1841-1929)らは,

対独講和条約(1919/6/28調印)の無事成立すら利害錯綜する多数連合国の間に困難な事情があるのに,永久平和の機構(国際連盟(1920/1/10-1946/4/20)のこと)の約定を挿入することは困る,

一先ず対独条約だけこしらえて調印をし,第二段の仕事として永久平和機構の審議に入るを得策とすることを主張したが,

ウィルソンは自己の出馬はこれが眼目であるからと,遮二無二,同時審議を固執して,ともかく粗製でも出来上がった。

■最初の創立相談はオーストリア皇嗣暗殺3周年記念日

されば,最初の国際連盟の入口の側の石垣には,

「国際連盟の創立者 米国合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン君に敬意を表す」と彫り込んで,

日々花輪を供えておった。

ゆえに深く事情を知らない人々は,ウィルソンが最初からの提唱者と思うが,

いずくんぞ知らん,1917年6月28日に,パリのカデー街16番地にある大陸フリーメイソンの総本部大東社[グラントリアン]に,

世界の有数なフリーメイソンが参集して,

第33階級に上り詰めたアンドレ・ルベー(1877-1938)というユダヤ人が議長席に着いて,戦争終結に関する会議を開き,

是非とも国際連盟[ソシエテ・デ・ナッション](後日のと同じ文字)を創立することになり,

その規約草案は13か条からなって,現行の26か条に比し半数ではあるが,骨子は大体似通ったものである。

ただ超国家が現在よりも露骨で,加入国の国家主権が著しく侵害せられそうに読めた。

これらの骨子が予め準備され,

平和会議の際,ウィルソンによって無理押しに提唱され,成立させられたのである。

草案を秘密結社から持ち出して来ては各国の加入に難色も起こるから,

表紙を取り替え,ウィルソン名義にしただけであると見られる。

なお注意すべきは,右フリーメイソン結社の会議の日次である。

これは,大戦の直接原因となったオーストリア皇太子(1863/12/18-1914/6/28)暗殺の満3年の忌日に当たる1917年6月28日である。

犯人の大東社系フリーメイソン結社員プリンツィプ(1894/7/25-1918/4/28)凶行の跡に碑を建て,

「プリンツィプこのところにおいて自由を宣す」と書いたことなどと照合すると,

前述の大戦の目的既に国際連盟の創立を考えの中に持っていたように見えるのである。

■国際連盟高級幹部ほとんどユダヤ人

成立後における人事関係を見るに,最初の事務総長はサー・エリック・ドラモンド(1876-1951)とすると,名指しでユダヤ・メイソンと目されている英国人に持って行った。

そして連盟華やかなりし時代における大幹部の中には,左の如くユダヤ系の人々が顔をそろえた。

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事務次長   アヴェノル(Joseph Avenol,1879-1952)(後に事務総長)

政治部長   マントウ(Paul Mantoux,1877-1956)

経済部長   ソルター(Arthur Salter,1881-1975)(蒋介石政府顧問)

軍縮部長   マダリヤガ(Salvador de Madariaga,1886-1978)

情報部長   コメール(Pierre Comert,1880-1964)

交通部長   ハース(Robert Haas,1891-1935)(蒋介石政府顧問)

衛生保健部長   ライヒマン(Ludwik Rajchman,1881-1965)(同上)

労働事務局長   アルベール・トーマ(Albert Thomas,1878-1932)

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■口に平和を唱えつつ,密かに落とし穴を造る

国際連盟の事業は上述の如く,永久平和の建設であるから,

実質上の規定の最初の条項たる規約第8条に軍縮条項を挙げ,

ユダヤ経典(イザヤ書を含む旧約聖書はユダヤ経典に含まれるということ(?))のいわゆる剣を打ち替えて(すき)となし,槍を打ち替えて鎌となしを鼓吹し,

しばしば軍縮に関する会議も開催したが,

ヴェルサイユ条約(1919/6/28調印)をもってドイツ軍の軍備を徹底的に削減し,これを受諾せしめる時にはドイツの(の軍備)を標準として必ず切り下げるということを約したが,

列国は一向縮減せず,その理由としては,ドイツその他の情勢が真に平和的空気になっておらぬことをもってした。

国際連盟規約 第8条〔軍備縮少〕

一 連盟国ハ,平和維持ノ為ニハ其ノ軍備ヲ国ノ安全及国際義務ヲ協同動作ヲ以テスル強制ニ支障ナキ最低限度迄縮少スルノ必要アルコトヲ承認ス。

二 連盟理事会ハ,各国政府ノ審議及決定ニ資スル為,各国ノ地理的地位及諸般ノ事情ヲ参酌シテ,軍備縮少ニ関スル案ヲ作成スヘシ。

三 該案ハ,少クトモ10年毎ニ再審議ニ付セラルヘク,且更正セラルヘキモノトス。

四 各国政府前記ノ案ヲ採用シタルトキハ,連盟理事会ノ同意アルニ非サレハ,該案所定ノ軍備ノ限度ヲ超ユルコトヲ得ス。

五 連盟国ハ,民業ニ依ル兵器弾薬及軍用器材ノ製造カ重大ナル非議ヲ免レサルモノナルコトヲ認ム。

仍テ連盟理事会ハ,該製造ニ伴フ弊害ヲ防遏シ得ヘキ方法ヲ具申スヘシ。

尤モ連盟国中其ノ安全ニ必要ナル兵器弾薬及軍用器材ヲ製造シ得サルモノノ需要ニ関シテハ,相当斟酌スヘキモノトス

六 連盟国ハ,其ノ軍備ノ規模,陸海及空軍ノ企画並軍事上ノ目的ニ供用シ得ヘキ工業ノ状況ニ関シ充分ニシテ隔意ナキ報道ヲ交換スヘキコトヲ約ス。

イザヤ書 第2章

2:1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。

2:2 終りの日に次のことが起る。

主の家の山は,もろもろの山のかしらとして堅く立ち,もろもろの峰よりも高くそびえ,すべて国はこれに流れてき,

2:3 多くの民は来て言う,「さあ,われわれは主の山に登り,ヤコブの神の家へ行こう。

彼はその道をわれわれに教えられる,われわれはその道に歩もう」と。

律法はシオンから出,主の言葉はエルサレムから出るからである。

2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い,多くの民のために仲裁に立たれる。

こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて,すきとし,そのやりを打ちかえて,かまとし,国は国にむかって,つるぎをあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない。

2:5 ヤコブの家よ,さあ,われわれは主の光に歩もう。

2:6 あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。

これは彼らが東の国からの占い師をもって満たし,ペリシテびとのように占い者となり,外国人と同盟を結んだからである。

2:7 彼らの国には金銀が満ち,その財宝は限りない。

また彼らの国には馬が満ち,その戦車も限りない。

2:8 また彼らの国には偶像が満ち,彼らはその手のわざを拝み,その指で作ったものを拝む。

2:9 こうして人はかがめられ,人々は低くされる。

どうか彼らをおゆるしにならぬように。

2:10 あなたは岩の間にはいり,ちりの中にかくれて,主の恐るべきみ前と,その威光の輝きとを避けよ。

2:11 その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ,おごる人はかがめられ,主のみ高くあげられる。

2:12 これは,万軍の主の一日があって,すべて誇る者と高ぶる者,すべておのれを高くする者と得意な者とに臨むからである。

2:13 またレバノンの高くそびえるすべての,バシャンのすべてのかしの木,

2:14 またすべての高い山々,すべてのそびえ立つ峰々,

2:15 すべての高きやぐら,すべての堅固な城壁,

2:16 タルシシのすべての船,すべての麗しい船舶に臨む。

2:17 その日には高ぶる者はかがめられ,おごる人は低くせられ,主のみ高くあげられる。

2:18 こうして偶像はことごとく滅びうせる。

2:19 主が立って地を脅かされるとき,人々は岩のほら穴にはいり,また地の穴にはいって,主の恐るべきみ前と,その威光の輝きとを避ける。

2:20 その日,人々は拝むためにみずから造ったしろがねの偶像と,こがねの偶像とを,もぐらもちと,こうもりに投げ与え,

2:21 岩のほら穴や,がけの裂け目にはいり,主が立って地を脅かされるとき,主の恐るべきみ前と,その威光の輝きとを避ける。

2:22 あなたがたは鼻から息の出入りする人に,たよることをやめよ,このような者はなんの価値があろうか。

連盟提案者の一人フリーメイソン結社員レオン・ブルジョア(1851-1925)の如きすら,

軍縮を断行して平和の空気を造ると唱えるのは原因結果の転倒である,

平和の空気を造って,しかして後,軍縮は行い得るを主張した。

ドイツとしては列国はなぜ条約通り軍縮を履行せぬかと迫り,

終には、やむを得ずロカルノ条約(1925/12/1調印),欧州7か国間の不侵略条約(German–Estonian Non-Aggression Pact (1939/6/7調印)のこと?)などをにわか作りにこしらえて,

平和の空気を製造したことにして,軍縮を実現しようとしたが,

なかなか実現困難であった。

要するに国際間に互いに誠意の認むべきなく,殊に連盟に対する信用も充分ならずして,

ユダヤ経典トーラー(旧約聖書トーラー(律法)・ネビーイーム(預言者)・ケスービーム(諸書)の3つのうち,トーラーでなく,ネビーイームに属する(?))エレミヤ書第9章に,

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彼らの舌は毒矢の如し,口に平和を唱えつつ窃かに落とし穴を造る

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という神のユダヤ民族に対する叱責の文句がまざまざ見られるような感を与えた。

かくして一大事業たる軍縮が実現し得られなかったことは,その弱体化を来す大原因をなしたと見られる。

また米国ウィルソン(1856-1924,大統領任期: 1913/3/4-1921/3/4)が提唱したに拘わらず連盟に加わらず,

日本は,満州事件(満州事変(1931/9/18-1932/2/18)(?))の如き,国際連盟の幹部が蒋介石政府(①1928/10/10-1931/12/15,②1943/8/1-1948/5/20)を支援し,「窃かに落とし穴を造り」つつかえって日本を侵略者・有罪者と判決するに及んで,連盟を脱退し(1933/3/27)

その後,独(1933/10/19)・伊(1937/12/11)もまた脱退するに至って,全く弱体化を急テンポにし,

1938年当然連盟の扱うべきチェコ問題も如何ともし難く,

ミュンヘン会談(1938/9/29-30)と称する連盟以外の機構で扱わなければならぬことになり,

ここに存在の理由を失い,翌39年には欧州大戦勃発(ドイツによるポーランド侵攻(1939/9/1))を見て,終に崩壊の一途をたどることになった。

エレミヤ書 第9章

9:1 ああ,わたしの頭が水となり,わたしの目が涙の泉となればよいのに。

そうすれば,わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる。

9:2 ああ,わたしが荒野に,隊商の宿を得ることができればよいのに。

そうすれば,わたしは民を離れて去って行くことができる。

彼らはみな姦淫する者,不信のともがらだからである。

9:3 彼らは弓をひくように,その舌を曲げる。

真実ではなく,偽りがこの地に強くなった。

彼らは悪より悪に進み,またわたしを知らないと,主は言われる。

9:4 あなたがたはおのおの隣り人に気をつけよ。

どの兄弟をも信じてはならない。

兄弟はみな,押しのける者であり,隣り人はみな,ののしって歩く者だからである。

9:5 人はみな,その隣り人を欺き,真実を言う者はない。

彼らは自分の舌に偽りを言うことを教え,悪を行い,疲れて悔い改めるいとまもなく,

9:6 しえたげに,しえたげを積み重ね,偽りに偽りを積み重ね,わたしを知ることを拒んでいると,主は言われる。

9:7 それゆえ万軍の主はこう言われる,「見よ,わたしは彼らを溶かし,試みる。

このほか,わが民をどうすることができよう。

9:8 彼らの舌は殺す矢のようだ,それは偽りを言う。

その口ではおのおの隣り人におだやかに語るが,その心では彼を待ち伏せる計りごとを立てる。

9:9 主は言われる,これらのことのために,わたしが彼らを罰しないだろうか。

わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。

9:10 山のために泣き叫び,野の牧場のために悲しめ。

これらは荒れすたれて,通り過ぎる人もない。

ここには牛,羊の鳴く声も聞えず,空の鳥も獣も皆逃げ去った。

9:11 わたしはエルサレムを荒塚とし,山犬の巣とする。

またユダの町々を荒して,住む人もない所とする」。

9:12 知恵があって,これを悟ることのできる人はだれか。

主の口の言葉をうけて,それを示す人はだれか。

この地が滅ぼされて荒野のようになり,通り過ぎる人もなくなったのはどういうわけか。

9:13 主は言われる,「それは彼らの前にわたしが立てたおきてを彼らが捨てて,わたしの声に聞き従わず,そのとおりに歩かなかったからである。

9:14 彼らは強情に自分の心に従い,また先祖の教えたようにバアルに従った。

9:15 それゆえ万軍の主,イスラエルの神はこう言われる,見よ,わたしはこの民に,にがよもぎを食べさせ,毒の水を飲ませ,

9:16 彼らも,その先祖たちも知らなかった国びとのうちに彼らを散らし,また彼らを滅ぼし尽すまで,そのうしろに,つるぎをつかわす」。

9:17 万軍の主はこう言われる,「よく考えて,泣き女を呼べ。

また人をつかわして巧みな女を招け。

9:18 彼らに急いでこさせ,われわれのために泣き悲しませて,われわれの目に涙をこぼさせ,まぶたから水をあふれさせよ。

9:19 シオンから悲しみの声が聞える。

それは言う,『ああ,われわれは滅ぼされ,いたく,はずかしめられている。

われわれはその地を去り,彼らがわれわれのすみかをこわしたからだ』」。

9:20 女たちよ,主の言葉を聞け。

あなたがたの耳に,その口の言葉をいれよ。

あなたがたの娘に悲しみの歌を教え,おのおのその隣り人に哀悼の歌を教えよ。

9:21 死がわれわれの窓に上って来,われわれの邸宅の中にはいり,ちまたにいる子どもらを絶やし,広場にいる若い人たちを殺そうとしているからだ。

9:22 あなたはこう言いなさい,「主は言われる,『人の死体が糞土のように,野に倒れているようになり,また刈入れする人のうしろに残って,だれも集めることをしない束のようになる』」。

9:23 主はこう言われる,「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。

力ある人はその力を誇ってはならない。

富める者はその富を誇ってはならない。

9:24 誇る者はこれを誇とせよ。

すなわち,さとくあって,わたしを知っていること,わたしが主であって,地に,いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。

わたしはこれらの事を喜ぶと,主は言われる」。

9:25 主は言われる,「見よ,このような日が来る。

その日には,割礼をうけても,心に割礼をうけていないすべての人をわたしは罰する。

9:26 エジプト,ユダ,エドム,アンモンの人々,モアブ,および野にいて,髪の毛のすみずみをそる人々はそれである。

これらの国びとはみな割礼をうけていない者であり,イスラエルの全家もみな心に割礼をうけていない者である」。

先に第1インターナショナル(1864-1876)の歴史の部において述べたる通り,

崩壊の場面に立ち至ると,体面上一時本部を米国に移すとの理由で消滅するのである。

往年,某歴史家は,国際連盟事務次長(1920-1926)であった新渡戸博士(1862-1933)に向かって,

今の連盟(1920/1/10-1946/4/20)は何年後に崩壊の見込みか,と質問したので,

博士は質問の理由を問い返したところ,

歴史家は,ナポレオン戦争(1803-1815)後の神聖同盟(1815/9/26)は,一種の連盟であったが程なく潰れた,

今度のも,何れ長続きは済まいから,それを聞きたい,と述べると,

新渡戸博士は,ともかく歴史家は目を後ろ向きに付けている,宜しく前を見られよ,

今度のは潰れない仕組みになっているから崩壊などの見込みはない,

永久平和の機構である,と答えた趣,博士から聞いた(皇紀2588年(1928年))

(1938年のチェコ問題まで)僅かに10年余りで歴史家の言が実現したのは奇しき(くしき)ことであるが,

ユダヤの宗教の部に述べた如く,幹部たるユダヤ人連中が世界をユダヤのものと独占する如き偏見に捕らわれていれば,

崩壊は寧ろ当然と言うべきであろう。

ただし今次大戦勃発前,既に連盟増強乃至改造の議があり,

これがためには,是非ともまた一戦を必要とする議もあり,

ルーズベルト大統領(1882/1/30-1945/4/12(死因は脳卒中とされる),任期: 1933/3/4-1945/4/12),また更に強固なる永久平和機構再建の意志ありと伝えらるから,

来るべき平和会議の際,この問題(永久平和機構は,これが国際ユダヤ勢の世界支配の道具とされれば,崩壊を免れないという問題)の再燃するや,いささかの疑いなきところである。

(国際連盟の創設について)これ比較的長文を草して参考とした所以である

(次編第6章 支那事変と欧州戦争の関係の部において,米国大統領ルーズベルトの来るべき平和会議に関する抱負において明らかにこれを把握すべきである)

【10/23/2022 3:13 AM   第7編の初めから内容確認を再開。】

第7編 現代のユダヤ運動 (p. 291)

第1章 序論

今や世界は大動乱の最中である。

この渦の中で挙措を誤らず,天与の大使命にまい進するには,

地面・水面ばかりに現れた現象を見詰めるのでなく,

地下・水中・上空の動きを知らなければならぬ。

前編までに説き来たったところは,その観測の予備作業であって,

実際必要なのは,これから説かんとするところである。

以下述べるところは素より,今世紀に入って直ぐ起こった事件の直接延長であって,因果関係に結ばれているが,

前編は第1次世界大戦を中心とし,その結末までを説き,

本編においては第2次世界大戦の序幕から皇紀2600年(1940年)の終わりまで,

すなわちユダヤの5700年末つ方までのユダヤ運動を叙するのである。

生きた歴史であって新鮮な材料であるけれども,現代活躍の人士の言行に関することが多いので,

書物としては現れないで,情報の範囲にとどまるものが少なくない。

しかしこれを除外するときは全貌が分からなくなるので,これを取り入れた。

後日,補足・修正を要するものもあると思うから,予めこれを諒とせられたい。

第2章 フリーメイソンの東洋政策

ロシア,支那,インドを1ブロック

(第1次)世界大戦(1914-1918)も片付き,国際連盟(1920-1946)も成立した後,

レーニン(1870-1924)が支那に着眼し,

これが赤化をもって世界赤化の上に一大巨歩を占めんとする企図を蔵したことは,

しばしば耳にしたことであるが,

筆者が国際連盟に使いしている間に,

消息通であるフリーメイソン系の外人の口を通し,さらに今ではフランスの極右に立つ元共産運動者ドリオ氏(1898/9/26-1945/2/22)の発表により,

また邦人消息通(特に名を秘す)の発表等の中,

一致するところを総合すれば,フリーメイソンが第1次世界大戦後,東洋に対し執る政策は,

左の如く定められたものと認められる。

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ロシアと支那とを打って一丸とする経済ブロックを造る。

次にこれにインドを加えて露支印を1つのブロックとする。

その順序を誤ってロシアからインドへ先に進出してはならぬ。

何となれば,ロシアからインドへ向かうことには英国との関係で困るから,これは第二弾の仕事とする。

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その主旨とするところは,かくてロシアの1億6千万・支那の4億・インドの3億5千万の大人口を包含するときは,世界総人口の半ばに達し,

しかも人類開拓の宝庫を広大なる地域に包蔵するのであるから,

このブロックを形成し得れば,天下のこと,半ば成れりというべきである。

日本が僅か数10年の努力をもって大陸の東端に手をかけるに至った程度である。

今にしてこれを島国に送還せざれば,将来に禍根を残すに至ると考えたのは彼らとしては当然である。

右の方針と,日満支ブロックまたは東亜共栄圏を日本の肝煎りで造ることなどは,

到底,氷炭相容れざること明らかである。

国際連盟の支那開発調査

フリーメイソンとユダヤの合作品たる国際連盟が支那開発に力を入れ,奥地の調査に千万元を使い,

最初,人道上悪疫防止の補助をするとて,衛生保健部長ライヒマン博士(1881-1965)(ユダヤ人)南京政府(1925-1948)へ遣わし,

経済部長ソルター(1881-1975)・交通部長ハース(Robert Haas)の如きユダヤ人を相次いで南京に送って,文化開発の名義で工作を行い,

ソビエトロシアからは,ユダヤ人がボロージンやガロンなどを派遣して,広東の軍官学校を指導し,

支那の武力を涵養してフリーメイソン蒋介石(1887-1975)の支那統一を助け,

日本排撃の準備工作に取りかかった。

"10,000 Famous Freemasons" [2007] by William R. Denslowからの引用

Chiang Kai-shek (蒋介石) 

Although some sources state that this famous Chinese Nationalist leader is a member of "Pagoda Lodge" under the jurisdiction of the Grand Lodge of Mass.,

the grand secretary of Massachusetts does not have any record of his membership.

"Internationales Freimaurer Lexikon" [1932] by Eugen Lennhoff & Oskar Posner からの引用

Tschiangkaischek (蒋介石), 第1600頁

chinesischer General und Staatsmann, * 1887,

siegreicher Generalissimus des Kuomintang gegen die Nordarmee,

1928 bis 1931 Haupt der Nanking-Regierung,

Gefolgsmann von Sunjatsen (孫文),

ist Mitglied der Pagoda Lodge (Großloge von Massachusetts).

Sein Adjutant Yatming gehört der International Lodge in Peking (der gleichen Obedienz) an.

Sunjatsen (孫文), 第1537頁

chinesischer Staatsmann, * 1868 (1866(?)), t 1925,

schwärmerisch verehrter Führer der revolutionären Bewegung,

Mitglied der (geheimen) „Hung-Gesellschaft“ (s. d.),

Protestant,

1911 nach der Militärrevolution von Hankau erster Präsident der chinesischen Republik,

auf welches Amt er freiwillig verzichtete,

seit 1918 in Kanton an der Spitze des Kuomintang,

war Freimaurer.

第1次世界大戦には,我が邦には幾多の約束をして英国側に立たしめ,

東洋・南洋からドイツ勢力を駆逐せしめたのみならず,

艦隊を地中海まで出動させて,危険な作戦を手伝わせ,

しかしてヴェルサイユ会議(1919-1920)ワシントン会議(1921-1922)等において漸次に山東省などの皇国の権益を返納させ,

9か国条約を作って日本の大陸への進出を制肘し,さらに前述の大政策に基づいて満州からすら日本を排撃する手段を弄した。

ユダヤ人シムブソンの誘惑

支那政府の顧問であった英系ユダヤ人レノックス・シンプソン(Bertram Lenox Simpson (1877-1930) ?)が筆者と会談の際,

日支間に幾多の懸案があるけれども,貴国が大国の襟度をもって山東省を支那に返してやれば,

他の諸懸案は一時に氷解して,明朗なる共栄状態になり得ると慫慂したから,

これに対して,山東を還付すると直ちに,旅順・大連返還を要求する腹が見え透いているから,

日本政府もおいそれと山東は還付すまいと答えた。

その後,日本はユダヤ人シンプソン等の考え通り山東を還付したから,

日支親善の実が挙がるかと思ったが,こと志と違った

張学良の放言

皇紀2589年(西暦1929年)6月,浜口内閣(1929/7/2-1931/4/14)成立の当初,

奉天にあった張学良(1901-2001,1928年に関東軍に暗殺された張作霖(1875/3/19-1928/6/4)の子)はその機関紙東三省日報をして,左の意味の排日記事を公表した。

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浜口内閣に要望す!

浜口,もし真面目に日支親善を乞い願い,排日の種子を無くせようと思うならば,

須く左に列挙する諸条項を熟読して,速やかにこれを実行に移せ

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旅順・大連租借地の返還

南満州鉄道の還付

鉄道・商租その他目下交渉中の諸案件即時打ち切り

領事裁判権その他一切の不平等条約撤廃,並びに平等条約の締結

朝鮮の独立(1910年から朝鮮併合下)及び台湾の返還(1895年から台湾割譲下) 

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誠に実行不可能を承知の上の大胆な挑戦的・侮辱的論説である。

これは学良一個の考えを超越した事柄で,フリーメイソン結社員蒋介石とも相通じ,

したがって世界のフリーメイソンの意志を代表した発表と見られるのである。

すなわち皇国日本を大陸から駆逐する大政策の動きである。

世界の有識者,殊にユダヤ,フリーメイソンの研究を重ねたる人の目には,

日本を敵としてユダヤが策謀を巡らしつつあることを警告したものがある。

その1人は,ドイツの海軍少佐アルフレッド・シュトッス(Alfred Stoß (1885-1944))である。

既に満州事変勃発(1931/9/18の柳条湖事件のこと)に先立つこと3年,すなわち皇紀2588年(西暦1928年)ご大典の年の3月,

ミュンヘンの『世界戦闘』[ウェルト・カンフ(Der Weltkampf)]という雑誌に「ユダヤと日本の戦い」という題で一文を寄せ,

ユダヤ人らは欧米を団結して日本を攻撃させようとしている,

そしてその動機は支那問題に端を発することを予告したが,

さらに皇紀2594年(1934年)すなわち皇国が連盟を脱退した後において,

豊富な材料をもってこれを補足し,単行本として発行し(佐竹麟太郎氏の訳による日本語版が存在)

左の如き文句をも用いて日本の立場を全面的に擁護している。

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世界は今やその基礎を揺り動かされ,貪欲なる策略によって歪められている。

元来,全く防御のために生まれた民族(日本)が,今,「世界」(ユダヤ)の攻撃が自己に迫りつつあるのを見て,

他の民族の領土を占領するのやむなきに立ち至ったのは,

実に世界の歪曲によるのだが,

日本の真意は東洋民族の自由回復にある。

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誠に世界大戦の渦中に投ぜんとする今日においても,この通りである。

第3章 満州事変

不戦条約とユダヤ

上述の如くフリーメイソンの勢力下にある英米等は,ワシントン会議(1922)に引き続き9か国条約を締結して,

日本勢力の大陸に及ぶのを妨げんとしたが,

さらに米国側から一般的平和工作に見せかけて,ケロッグ=ブリアン条約(署名: 1928年,発効: 1929年),すなわち世にいわゆる不戦条約を作った。

その発意は,知らない人は平和思想を抱く政治家から出たと思っているが,

実は米国シカゴに住むユダヤ人の弁護士レーヴィンソン(Salmon Levinson,1865-1941)が発案者で,

これを条文に書いてやったのが,米国の国際法学者で国際連盟にも来ていたショットウェル博士(James T. Shotwell,1874-1965)である。

それについては,上海のユダヤ雑誌イスラエルス・メッセンジャーも,これは世間周知のはずだと報じている。

ショットウェル博士はその後日本を訪問し,東京の日比谷公会堂において演説をして,

この平和の基石たる立派な条約も,締約国にしてこれを遵守する誠意と熱意が欠けてくれば,一片の反故紙に等しくなると予告して帰ったが,

9か国条約・不戦条約などを国際連盟で問題にするようになったのも皆,

フリーメイソンやユダヤ人らが予め「落し穴」を掘っていておいて,目隠しを施した武士を導いたかたちになっている。

あの小学教育から軍隊教育まで徹底的に排日抗日の教育を行ったのは,

世界フリーメイソンの一大支援の下に初めて可能であったと思う。

ギリシャ・ブルガリア国境守備兵射撃事件

柳条湖で皇紀2591年(1931年)9月18日に事件(柳条湖事件)が起こったと伝うが,

あれは1つの突発したことではなく,陰陽電気が鬱積して,ある程度に達すると火花がほとばしるのと同様である。

西暦1925年秋,ギリシャとブルガリアの国境守備兵の間に射撃が始まり,

ギリシャ軍はブルガリア軍を攻撃してその領土内に侵入した。

ブルガリアはたちまち国際連盟に提訴した。

連盟はとりあえず,ギリシャ軍に現位置に帰るよう指示して,

英仏伊3国の武官が現地に調査に行って原因を明らかにし,危うく開戦になるところを妨止した。

調査の結果は,両国守備兵の間に怪しげなる者が行動して,ギリシャの守備兵を射撃した。

そこで,ギリシャ兵は向かい合いのブルガリア兵が射撃したと思うて,ブルガリア兵に向かって射撃する。

ブルガリア兵はギリシャ側から不法にも射撃したというので応戦したから,戦闘行為が成立した。

それも国交平常の時なら,事もないであろうが,

緊張している時にかかる悪戯者が焚き付けた実例がギリシャ・ブルガリアの国境で起こったのである。

常時うがった消息通がヨーロッパで批評し合ったのは,

その頃,連盟も権威行われず,存在の理由が疑われ出したところであるから,

秘密結社の一派の者が,いかがわしき人物を買収して,両軍の間に配置して紛争を製造し,

ブルガリアには戦線を撤しておいて,直ちに連盟に提訴させ,

連盟の介入によって処理をして,

世間に対して,連盟なかりせば当然,2か国間の戦争に進展すべかりしものを防止したことを宣伝して,

連盟の効能を発揮するための計画的陰謀であっらしいとの説があった。

連盟の大小幹部のいかがわしき群小の中には,左様な小策を弄する者が絶無とは申せまい。

満州事変の起因に右と同様な事情があったとは申さないが,あり得ないことではないかと思う。

しかして支那側が直ちに国際連盟に提訴し,

新京の如きは煙炎天にみなぎりつつありというような予想情況を訴えて,

列国人に日本人が不法野蛮な行為に出たとの第一印象を与え,

日本に対してもギリシャ軍に対したと同様に原駐地に帰還を要求したのであって,

連盟の力によって日本を抑えあわよくば満州国内における日本の権益を縮小せしめ,

少なくとも衝突の矢表に立った鉄道守備隊を撤廃させるつもりでなかったかを疑うのである。

然るに現地の状況,著しくギリシャ-ブルガリアと異なり,

僅かに一条の鉄道線路によって数百キロメートルの間に散在する万余の守備兵に対する支那兵は,20万の大軍であり,

機先を制せなければ,往年の尼港事件(1920/3-5)の惨禍を至る所に演出するから,

沿線にある支那軍武装解除の手を緩めなかった。

ここに6年前の連盟の打った同じ手を繰り返すことが不可能になった。

当時,南京政府に顧問であった連盟の部長ユダヤ人ライヒマン博士(1881-1965)は,こと志と違い

フリーメイソン兄弟蒋介石の連盟に対する提訴も効果なく,しきりに焦慮したかたちであった。

彼は上海郊外の真茹の無電台(無線電信局)に居を移し,寝台を運び込み,

連日連夜4日間に暗号をもって,約400通の短波による電報を往復して,

指導要領の変更を協議せざるべからざる立場に陥りたる事実がある。

■フリーメイソン王正廷の演説

国際連盟が介入して満鉄を支那に返還せしむべく,少なくとも先ず日本の鉄道守備兵を支那の守備兵に交代せしめるぐらいのことは,フリーメイソン仲間において協議成立済みであったろうと思われることは,

左の事実に照らし理解できる。

満州事変に先立つ7か月(1931/2前後),南京政府の外務大臣にしてフリーメイソン結社員王正廷(1882-1961)は,

郷里の浙江省慈渓県において左の意味の演説を行った。

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今年は中国が利権回収の年である。

内河航行権租界の撤回を行い,満州においては南満鉄道の守備兵を撤去せしめる。

日本は必ずこれに反対するであろうが,

軍略を練り兵器弾薬を準備し,敢然一戦を交ゆる決意をもって当たれば,

日本は必ず屈服すべし。

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しかして王正廷は口に豪語を放言するが,

心中では日本軍を満州から撃退するの不可能なことは,百も千も承知のことにて,

その可能性は当時,日本朝野に満鉄放棄論・売却論まで論議され,

外交当局も,王の同志然たる最も弱腰な人によって指導せられありと判断した結果に外ならないと思われる。

ちなみに記す,

王正廷はフリーメイソンの特徴として共通なるユダヤ人崇拝者の1人で,

かねて上海において,ユダヤ民族の祝祭の機会にこれに手書を寄せ,その文中に

I highly admire the Jewish race.

の1句をもって深くユダヤ民族を賞賛する旨を明らかにした

(イスラエルス・メッセンジャー所載)

(参政党神谷宗幣議員(1977-)もユダヤ崇拝者に見えるけれど,やっぱり彼もフリーメイソン?)

なお,満州事変の予備工作として,支那側は満州国内居住の邦人に対する各種の圧迫を加え,

殊に鮮人に対しては,万宝山事件(1931/7/2)その他各所に虐待を被らしめ,

中村大尉射殺事件(1931/6/27)まで惹起して,電圧を火花の散るところまで高めたのであった。

事実の経過は省略するが,

最後の時期に日本が大いなる襟度をもって連盟よりの調査団派遣(1932/2)を受諾するに至ったこと,

ここにその構成員の中の最も重要なる役割を演じた事務総長ハース(Robert Haas)は,

連盟の交通部長を務めているフランス生まれのユダヤ人で,

フリーメイソン蒋介石の顧問として南京政府の役人であったことを指摘する。

かつフランス側委員の訴うるところを聞くと,

調査団員の中で,彼ハースを説破して日本に対する公正穏健なる報告にまとめるのが一番困難であったとのことである。

満州事変勃発前後の経緯について,かくフリーメイソン(王正廷,蒋介石),ユダヤ(レーヴィンソン,ライヒマン,ハース)の活躍がうかがわれ,

それで出来た調査報告に基づいて連盟が審議し,

予め張っておいた9か国条約・不戦条約等の二段構えの網で日本をからめ取らんとしたが,

神国日本は網を破って連盟脱退をした。

当時,松岡全権を向こうに回し日本を有罪にしようと検事の格で争ったのに,

チェコスロバキアの大統領ユダヤ人ベネシュ(1884-1948)

スペインの大使(元連盟の軍縮部長,後にスペイン赤化内乱の指導者の1人)ユダヤ人マダリアガ(Salvador de Madariaga,1886-1978)であったことは著名なことである。

普通の裁判事件ならば,裁判官が一方の身内や兄弟であったら,

他の一方はこれを忌避して裁判を受けないのが本当である。

連盟が交代に,蒋介石のところへ部長連を派遣して種々の工作をやらせ,その使嗾で起こり,

その差し金で訴訟を起こしたのを取り上げて裁判するなどは甚だ失当なことで,

日本の脱退(1933/3/27)は誠に当然のことである。

皇紀2593年(西暦1933年),皇国は連盟を脱退すると,調査団団長でありフリーメイソンとみられた英人リットン卿(1876-1947)は人に語って曰く,

「これで日本がドイツと同様,世界の袋だたきに遭う準備ができた。」

フリーメイソンの目的の部において説いた如く,

彼ら結社は,皇国の如き堅固な天壌無窮に栄え行くべき国体を持った国を倒さなければ,世界共和国は出来ないのであるから,

種々の手段・方法を巡らし,多数の力を集めて叩き潰そうとするのである。

満州事変(1931/9/18-1932/2/18)の如きはその一階段であって,

これよりさらに支那事変(1937/7/7-1945/8/15)に発展させ,世界大戦(1941/12/08-1945/8/15)まで持って行くことになった。

第4章 第2次世界大戦の序幕(その1)(支那事変)

蒋介石の第2次世界大戦予言

満州事変が今回の支那事変の一大動機を形成したことは争うべからざる事実である。

しかしてその満州事変がいかに国際秘密力の多大な尽力により準備され指導されたかを説いた。

満州事変の年(1931年)の1月元日午前,蒋介石(1887-1975)は上海において,

ある秘密会合の席上,次の意味の演説をした。

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支那は今や非常な危険に直面している。

危険とはやがて来るべき第2次世界大戦のことである。

この大戦には英・仏・独・伊も米・ソも,ことごとく参戦するに至るであろう。

もちろん支那も日本も参加する。

この大戦の際に,英国はその皇室を失うかも知れぬ。

しかし何というても,一番大きな損害を受けるのは我が支那であろう。

がこの大犠牲を払わなければ,支那民族の自由の獲得は出来ないのであるから,

今よりこれを覚悟し,これを準備しなければならぬ。云々

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当時視察のため上海におり,その夜,蒋と同列車で南京に旅行したが,

秘密会合での演説であるから,これを知るに由なかった

然るに程経て,ユダヤ系の雑誌から知り得たのである。

右の演説中に注意すべき点は,もちろんという字で,いかにも日支が真っ先に戦わせられることを想像される。

蒋はフリーメイソンであるから知り得たであろうが,

英国皇帝の危険を当時から承知していたとすれば,

彼も相当上級のフリーメイソン幹部になっているのではないか。

その年,9月18日に満州事件(柳条湖事件)が起こったが,それは序幕のまた序幕ぐらいであった。

第3インターナショナルの日本・ドイツ各個撃破決議

次に第2次世界大戦の骨組みとして挙げるのは,

西暦1935年(我が連盟脱退後2年)7月25日,モスクワにおいて,

第3インターナショナルの大会における決議である。

その意味次の通りである。

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第1は,共産党の180度転向で,ファッショ反対・人民戦線の結成に関するもの

第2は,日独に対する宣戦布告である。

すなわち「吾人の敵は日本,ドイツ及びポーランドである。

英・米・仏の3大資本国と提携して,日・独・波を各個に撃破すること。」

第3は,支那事変の直接指令のようである。

すなわち,「日本赤化のために,支那利用に最も力を用ゆること」

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右の決議中にポーランドを挙げたのは奇異であるが,

当時,ポーランドは英仏依存から脱してドイツ依存に移ったから,これをドイツとともに倒そうとしたのであろう。

事実も,最先に各個撃破せられてしまった。

日本赤化のため,支那利用を謀る

第3にある日本打倒といわずして,日本赤化といったのには大いなる意義がある。

すなわち,武力戦では到底,日本を負かすことはできないから,

赤化手段によって日本を内部から崩壊させようとするのである。

これがためには,4億の人口を要する支那の損害を構わず,いくらでも日本に対抗させて,

日本に消耗戦をやらせ,これを切り崩そうという戦法と見える。

日本としては余程,朝野ともにこの点に着眼して,億兆一心の固めをしなければならぬ。

かくも明瞭に日・独を各個に撃破すると宣言しているのに,

両国とも徒らに手をこまねいて安閑としているわけには行かぬ。

そこで,交渉は進められ,翌年(1936年)11月6日(11月25日(?)),防共ということで,日独両国は結束することになったのは当然である。

西安事件,復旦大学の日支戦予想

然るにその翌月すなわち皇紀2596年(1936年)12月12日,西安事件が起こった。

すなわちこれで,抗日戦開始の段取りが確定したのである。

この事件を仕組んだのは,蒋介石(1887-1975)の政治顧問といわれる英人ドナルド(William Henry Donald,1875-1946)というユダヤ系脱走船員で,

初めは満州に来て張学良(1901-2001)の英語の教師をした男と伝わっている。

彼は,張学良が西北地区で,共産軍に対抗の任務を受けながら,怠業しているから,

自ら出馬してこれを督励すべきを蒋介石に慫慂して,西安に赴かしめ,

これと同時に,元の教え子張学良に連絡して画策し,

蒋が西安付近の温泉に滞在中を襲い,護衛兵全部を殺し,蒋1人をにし,

これを脅迫して終に親日政策放擲,近く抗日戦開始,連ソ容共(国共合作)政策を執ることに一礼を入れさせた。

そこで蒋介石はドナルド及び栄美齢(1898-2003)両者のを受け,

凱旋将軍の如き礼をもって歓呼の中に南京に帰還した。

しかし蒋介石自ら発表した『西安半月記』には死を決し,頑として張の要求を拒絶し,彼を説破した如く書かれあるやに伝えられるが,

それは蒋を英雄化するための文学的作品であろう。

これから支那の対日戦備が着々と進捗し始めたことは確実である。

皇紀2597年(1937年),すなわち事変勃発の年の3月,

上海郊外,復旦大学教授連の機関雑誌『文摘』には,日支戦争未来記が掲載せられた。

それには多数の数字を羅列して日支両国国力の比較をし,

結論としては,日本は交戦年を重ぬれば物資の不足が原因となって,人民に不平不満が起こり,

終には権力者に対する反抗となって内部から瓦解する,

したがって最後の勝利は支那に帰するというのである。

またその頃,米国の一学者が支那に旅行して,有名な馮将軍(1882-1948)に面会すると,

将軍曰く,支那は近く抗日戦を開始するが,これには3年の準備が完了している,

実は1年経過すれば,日本は物資の欠乏から紛糾が起こって内部崩壊を起こすから,3年は必要はないけれども,

念のために予備を取って3年とした,

遠からず始める,ということを豪語した。

このことはその学者から直接聞いたことで確実である。

右復旦大学教授会の発表も,馮将軍の豪語も符節を合するが如く,

望みを日本の内部崩壊に属している(しょくしている)点は,

モスクワ大会決議の第3から出発していることが観取される。

然るに1年は愚か,3年を過ぎ,日本はますます結束が固いので,

この上は,他に戦争の拡大によって日本を疲弊させる外,方法無きに至った。

事変前上海の国際会合

(1937年)同年6月23日,すなわち盧溝橋事件(1937/7/7)に先立つこと,2週間前に,

上海海軍特別陸戦隊司令官大河内少将(1886-1958)は,上海に国際会議を開催した。

その会議には英・米・仏等の外交官と日支両国の代表が集まった。

会議の要件は,5年前の上海事件(第1次上海事変)の際,3月(5月(?))に停戦協定が出来たが,

今これが蹂躙され,どうもすれば再び上海が兵火の災いを受けんとするので,

その当時,掛かり合いになった外国の外交官も招いたのである。

日支間のことは直接話し合えばよいことではないかと,なぜか渋ったが,終にやむなく出席した。

問題は2つで,第1は,呉淞砲台は壊れたまま修築せざるという取決めにかかわらず,

支那側は着々これを修築中との情報があるが如何。

第2は,支那軍隊が上海に来ると争乱が起こるから,

砲弾弾着距離から計算して,太倉-嘉定の線から上海寄りには接近しないことになっているのに,

蒋介石の中央軍(国民革命軍の主力部隊(?))は警察隊に変装して続々東進するもの数万に及ぶとの情報があるが如何というのであった。

これに対して,支那側の代表愈上海市長(1898-1960)は,

呉淞砲台の修築云々は全然,事実無根であることを責任をもって即答できるが,

中央軍が続々東進中云々は何とも一存をもって答えかねる,

何れ中央政府へ照会の上,回答する,とのことで散会したが,終に事変勃発まで何らの回答無く,

8月9日,大山海軍大尉虹橋飛行場正門側において射殺することによって回答した。

盧溝橋事件前2週間,支那側が着々戦備を修めたることは,右の事実によっても明白にして,

単なる突発的衝突にあらざることを認めなければならぬ。

■盧溝橋事件

皇紀2597年(1937年)7月7日夜,北支の盧溝橋において,支那軍隊の皇軍に対する不法射撃によって,

事変の火蓋は切られた。

(西洋ではあの橋を,イタリア・ヴェニス生まれのユダヤ商人で,(1271-1368)フビライ(1215-1294)の惟幕(帷幕の誤字?)に参ったマッフェオ・ポーロ(fl. 1252-1318)マルコ・ポーロ(1254-1324)を記念するため,

マルコ・ポーロ橋と呼んでいる

(マルコはマッテオの倅ではなく甥で,マルコの父はニッコロ(fl. 1230-1300))

その橋の傍らで,また日支衝突が起こったのも奇縁か)

数年前から,海南島対岸の北海における薬屋殺し(1936/9/3),上海の中山水平射殺事件(1935/22/9)成都大毎記者2名殺害等の事件(1936/8/24)が,

相当長い時を隔てて,ところを変えて起こったけれども,

それらはただ,好機を待つ間に時々行う抗日意思表示・日支親善妨害工作に役立つのであるが,

前年末の西安事件(1936/12/12)以来の出来事であり,しかも軍隊が射撃したのであるから,

本物に発展すると直感せざるを得なかった。

然るに日本は事件不拡大・現地解決の方針を採り,

支那側も宋軍司令官(宋哲元,1885-1940)(馮治安,1896-1954)(張自忠,1891-1940)両師団長ら皆,日本軍司令官に謝罪し,

軍隊の移駐を行って無事解決を見るの形勢を呈したが,

下級者の間にうなづかざる者あり。

豊台において電線修理兵を射撃し(この日本兵襲撃というのは豊台でではなく廊坊での廊坊事件(1937/7/25-26)。豊台で引き起こされた日本兵襲撃は大紅門事件(1937/7/13))

北京広安門において日本の一部隊を急襲し(広安門事件,1937/7/26)

終には通州においては居留民約300名を老若男女の別なく一夜のうちに鏖殺するの(通州事件,1937/7/29)不祥事件続出し

終に我が軍の天津攻撃(平津作戦(1937/7/28-30))となり,永定河以西への掃討となり,

支那軍の上海攻撃(1937/8/14)となり,

盧溝橋事件(1937/7/7)北支事変・日支事変・支那事変(1937/7/7-1945/8/15)と改名するのやむなきに至った。

(元来,マルコ・ポーロ橋畔で射撃を開始したのは軍司令官・師団長らの命によったのではもちろんなく,

恐らく共産系の不良分子の所為であり,

また現地解決を不可能に導いたのも共産系の悪宣伝とその実行によるとみられる。

今回もまた,満州事件の端緒の際,引例したギリシャ=ブルガリア国境守備隊射撃事件が想起される。)

その後,皇軍は寡弱の兵力を持って支那の大軍を撃破し,

首都南京を占領し,長江を遡って武漢三鎮を奪取して,蒋政権を四川の一角に追い込み,

他面,広東を占領し,海南島を抑え,蒙彊に軍を進めた

もし英・米・仏・ソの執拗なる援蒋工作さえなければ,

とっくに支那は平定して日支共栄の幸福を享受し得るはずであるが,

仏を除く援蒋諸国の有形無形の援助,未だなお継続せられつつあるは,誠に遺憾の極みである。

ここにおいて,ドイツ海軍少佐の予言せる通り,

皇国はユダヤ支配の諸国と戦っているので,蒋介石とだけ戦っているのでない次第となった。

支那友の会

援蒋各国が国家権力をもってフリーメイソン蒋介石(1887-1975)を援助する外,

民間において,はたまた言論界において抗日援蒋を敢行している事実は枚挙に暇ないが,

そのうち筆者が短期の欧米旅行中,目立ったもの2・3を挙げると,

それらの国には,「支那友の会」というのがあり,

主として共産分子及びユダヤ人から成っていて,

何でも支那を利し,日本を害する行為を考えて実行していた。

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ロンドンおいては,数10名の行列を作り,旗を高揚し,

これに,「日本品を買うなかれ」「支那の品物を買え」などと宣伝して,市街を練り歩いていた。

サンフランシスコでは,日本向けくず鉄を積み込む労働者の出勤を埠頭に要し,

ピケット線を張りて,追い返す。

支那人の女学生に行列を作らせ,「女こどもを爆殺する武器の原料を日本に送るな」という旗をもって宣伝させた。

パリでは,大使官邸の近隣に「支那友の会本部」を設け,親日人士を嫌がらせた。

ブラッセルでも日本品ボイコットの会合を催さんとしたが,愛国者のために流会にされた。

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言論界においては,「日本軍」の代名詞として「侵略者」の文字を使用して毒づくくらいは幾ばくなるを知らないが,

120万の読者を有する英国ユダヤ系新聞デーリー・ミロア(デイリー・ミラー(1903-)(?))が,

偽装日本兵が支那人の屍体をつるして銃剣術の目標としたる写真を撮影し,

これに皇軍誹謗の注を加えたことがある。

米国のケントその他のユダヤ雑誌は,支那戦場における由々しき皇軍誹謗記事を満載した。

パリでは,支那で日本の爆弾が女こどもを惨殺する如き,イカサマ映画を撮影してこれを首都で公開した

(もっともロケーションの同じ場面が長過ぎ,

死んだはずの子どもが倒れているのに飽きて起き上がり,叱られて再び倒れる失敗も暴露し,

観客の笑いの種となった)

皇国の出先官憲は,最後において勝利を占めるものとして関心を深めていない。

欧州大戦(1939/9/1-1945/5/8)勃発の今日(1941年の出版時(?))においては,かかる運動は下火となったであろうが,

かくの如く共産・ユダヤ分子が反日・援蒋の努力をした事実は消滅するものではない。

第5章 第2次世界大戦の序幕(その2)(欧州大戦)

ヴェルサイユ条約の破綻

今次欧州大戦の原因は1・2にとどまらないが,

ヴェルサイユ条約(1919)が禍根を作っておいたのみならず,軍備条項等の運用また意の如くならず,

ドイツをして敢然立って,これを破棄するのやむなきに至らしめ,

しかもこれに対して初期に何ら対抗手段を講じ得なかったことなどは,

何人の目にも第一に映ずるところである。

筆者が第1次世界大戦後より観測した第2次大戦必至論の根拠は,前項の如き見易きものではなく,

第1次世界大戦はその立案者において,一半の目的を達したばかりで,

露・オーストリア・独の3大帝冠は失わしめたが,

世界革命中道にして退避側線に入り,国際連盟も思うに任せず

パレスチナもアラビア人との衝突によって真の目的を達しておらぬから,

早晩,第2次大戦を招来し,その間に第2の世界革命を行って,

残りの帝冠を落とし,経済組織に大変革を起こさしめるに努めるであろうと判断したのである。

また皇紀2593年(1933年)ヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)がドイツにおいて政権を獲得したことは,

世界のフリーメイソン及びユダヤ民族をして戦慄せしめたはずであって,

是非,ヒトラーを倒すことを念願し,最初数年の間は経済力をもってドイツを倒さんとし,

全世界的ボイコットを用い真剣に対独封鎖を計ったが,

効果少ないので終に武力をもってドイツを壊そうと計るようになり,

本格的に戦争指導に乗り出すことになった。

■オーストリア併合よりチェコスロバキアの危機

ドイツと軍事的に対抗する力を有する主なる国は,英・仏・ソ・米・伊等であろうが,

米は,ドイツとともに倒さんとする日本を抑えるために必要な武力であるし,

伊は,ファッショであって,誘惑は試みるがこれをドイツ反対の陣営に引き入れるのは困難であるから,

結局,英・仏・ソの3国を主たる勢力とするが,

さらに向背明らかならざる諸国を英仏陣営に引き入れ,包囲陣を完成する必要上,

英国すなわち,ユダヤ,メーソン側は黄白の力により宣伝の力によりて,

ポーランド・チェコ・オーストリア・ルーマニア・トルコ・ギリシャ等を懐柔して,

武力戦・経済封鎖戦に勝利を占めんと企てるに至った。

もしドイツが何らなすところなく時日空過したならば,

必ずや堅固なる包囲の中に陥り,軍事的に,経済的に手も足も出ないことになったであろう。

そこで機先を制して皇紀2598年(1938)3月にオーストリア合邦を断行して,敵陣営を唖然たらしめた。

次いで起こったズデーテン地方のドイツ人虐待問題から,チェコとの間に紛争が漸次激化していき,

9月末には真に一触即発まで行った。

■ソ連の豹変,イギリスのためらいは極東の顧慮説

然るに最後の瞬間,ソ連の気が変わって(?),形勢一変し,英・仏とチェコでは到底勝ち目なく,

いわゆるミュンヘン会議(1938/9/29-30)が成立して英仏の顔を立て,ドイツの無流血勝利となりズデーテンへの進出となり,

チェコスロバキア大統領ユダヤ人ベネシュ(1884-1948)らの国外逃避となった。

かくて大動揺を来したチェコは半年の後,ドイツの併合するところとなった。

なぜにわかにソ連が変心し,英・仏がミュンヘンで折れたかは明確ではないが,

現地において見聞したところを総合すると,

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チェコの大事件については,智(「チェコ」のこと(?),一般的にはチリ?)・仏・ソ3国の間で隔意なき意見交換を遂げる約束であったのにかかわらず,

とかく智・仏両国の間だけで話が進み,ソ連は除外されがちであったから,

ソ連がにわかに手を引いたのである

(事件直後共産党機関紙所報)

ソ連の変心によって一番迷惑したのはチェコであるが,

乗りかけた船であるからやろう,

しかし飛行機が2000台ほかないから,英仏2国で3000台出してもらいたい,

それが可能ならドイツと一戦交えよう,と提議したが,終に不調に終わり,

やむなくミュンヘンにおけるその場逃れの平和となった

(ベネシュ大統領の信頼せるチェコ大官某談)

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しかし欧州外交界で聞知した内密談によると,

当時英国側は考えるに,日本は支那と開戦後1年を経過したが,

一向に弱体化しないでしきりに南支をうかがう形勢が観取される。

もし欧州大乱になると,日本は無遠慮に英国勢力(メイソンを含むということ)を極東から駆逐することになる。

ドイツを袋だたきにするのは,少し日本が弱ってからでなければ危ういとの説が勝ちを制して

チェンバレン(1869-1940)弱腰になったとのことである。

この最後の説が基礎となって,その他の説明が出たのかも知れぬ,

暫く後日の確報を待つが,数年来の日独各個撃破の世界秘密力(国際秘密力)の方針に照らして考え合わせると,

首肯せられる点があるのである。

ともかくチェコ併合後,戦雲はますます濃厚となり,

英仏両国は外交代表の外,軍事専門委員をもモスクワに派遣して,鳩首凝議対独戦争の議を進めた。

ドイツもまた,かかる形勢においてはヴェルサイユ条約(1919)以来,となっているダンツィヒの帰属問題を解決し,

同条約によって東プロシアを分離したポーランド回廊問題の解決に乗り出し,

少なくとも回廊内を通ずる自動車道路をもって東プロシアを本国と連絡し得るよう交渉し,

一時,妥協の成立を思わしめるものがあったが,

英国は米国の支持を得て,しきりにポーランドを激励し,

有事の場合には英国はポーランドを援助するの約を結び(イギリス-ポーランド相互援助条約,1939/8/25)

ここに大戦必至の形勢は確立した。

これより先,ドイツはイタリアと同盟条約を結び(鋼鉄協約,1939/5/22),日本もこれに参加すべく半年の長きにわたって交渉が進められたが,日本敢えて立たんとせず,

ドイツは急転直下,敵側にあったソ連と不侵略条約(独ソ不可侵条約,1939/8/23-1941/6/22)を締結して,陣容を強固にし,

ポーランド問題の解決にまい進したが,平和的解決の目的を達せず,

ダンツィヒその他におけるドイツ人遭難事件等の続出を見て,

9月1日ポーランド侵入となり,9月3日英仏の対独宣戦布告となった。

(2014年のマイダン革命前後以降,ウクライナがロシア系住民を虐待・虐殺してきており,

このことというのがロシアのウクライナへの派兵を招いたのと同様に,

ドイツの侵攻について,チェコでばかりでなくポーランドででも,ドイツ人に対する虐待があったということがうかがわれます。

こういったことというのが,メディアにより侵略側とレッテル貼りされる国のリーダーらのうちの保守勢を偽装するメイソン勢に開戦を正当化させ,

さらには,そういった侵略国とされる国の国民の狂気を呼ぶということでしょうか。

ただウクライナでの虐殺等の事実と同様に,チェコやポーランドででの虐殺等の事実も人類が容易には知れないよう秘匿されている(?)。

といいますか,日中戦争開戦直前の日本についても似たようなところがあって,北京・上海などで虐殺事件が多発したということです。)

■ユダヤ人ディミトロフの活躍

以下,この開戦に至る間におけるユダヤ側の開戦促進に関する若干の事実を明らかにして,

本戦争がユダヤ戦争の一種たることを明らかにし,今後の発展においてこれを知らずして盲進するの危険を指摘せんとする。

オーストリアは,チェコスロバキア・ハンガリーを包含するオーストリア=ハンガリー帝国(18671918)時代には,

ユダヤ人口225万を有する世界における第3位の大ユダヤ居住地であって,

その勢力は各界に深く侵入していた。

第1次世界大戦もオーストリアが主役となって起こったのである。

ヒトラーの『我が闘争』[マイン・カンフ]をひもとくとき,

先ず注意されるのは彼の子ども心に映じたユダヤ問題である。

日本婦人を(クーデンホーフ光子,1874-1941)とする伯爵クーデンホーフ・カレルギー(1894-1972)がフリーメイソンに加盟し,

ユダヤ女優(Ida Roland,1881-1951)を妻とし,その使嗾を受けて,汎ヨーロッパ運動を展開したのも,

オーストリア首都ウィーンからである。

日支事変(1937/7/7-1945/8/15)勃発の起点たるユダヤ人マルコ・ポーロ橋畔における射撃事件の9日前,すなわち6月28日

(先回の大戦勃発の動機たるオーストリア皇太子暗殺記念日

兼国際連盟創立相談のフリーメイソン大会記念日)

にウィーンにおいて,万国キリスト教徒のユダヤ親善協会

(International Christians Association for the Approach to the Jews)

(International Missionary Council's Committee on the Christian Approach to the Jews?)

の会合が開催され,

英国聖公会派からはカンタベリー大僧正一派の者が参加したと伝えられ,

その大僧正は,7月7日のマルコ・ポーロ橋事件の演説を,ロンドンのアルバート・ホールで行った時には,

日本に対する誹謗を浴びせたと伝えられる。

元来,左様なユダヤ勢力の盛んな国であるのみならず,国際連盟が戦後にオーストリアの財政問題については肝煎りをしていたのであるから,

ますますユダヤの威力は伸びていたと見られる。

故に一民族・一国家を唱えるヒトラーには好意を寄せない分子が多いはずである。

この国が独・伊両国の間に介在していることは甚だ不利であることは明らかである。

自らオーストリアに生まれドイツ軍隊で育ったヒトラーが敢然としてオーストリア合邦(1938/3/12)の挙に出たことは,

国防問題・民族問題からも,またユダヤ問題からも適当なことであった。

その年(1938年)ニュルンベルクにおけるナチス党大会(この年,特に「大ドイツの大会」)には,

初めてオーストリアから,ハーケンクロイツ旗を立てて多数の参列者が押し寄せるのを見た。

当時既に数か月にわたって,チェコのズデーテン問題がかまびすしくなっていたところ,

第3インターナショナルは,その事務総長ユダヤ人ディミトロフ(1882-1949)を飛行機に乗せてチェコの国内に送って共産党大会に出席して,

ドイツの要求を拒絶せよ,チェコの背後にはソ連あり,とたき付けた

チェコスロバキアの大統領ベネシュ(1884-1948)はユダヤ人で,これらの声援を得て,ドイツに対抗したことは言うまでもない。

フランスユダヤの活躍

仏国においても,ズデーテン問題をもってドイツと開戦するや否やについて議論もあったが,

極力開戦論を主張し,ミュンヘン会議(1938/9/29-30)片の付く最後の瞬間まで,ドイツ討たざるべからずと息巻いたのは,

植民大臣ユダヤ人マンデル(ロートシルト)(Georges Mandel (出生名: Louis George Rothschild),1885-1944)であった。

この人は後に内務大臣になり,今回の欧州大戦(ポーランド侵攻(1939/9))にも相変わらず,ドイツに対する開戦主張者であって,

敗北後その責めを問われ牢獄にありと伝えられる。

仏領インドシナ方面に援蒋物資が盛んに運ばれた頃は,植民大臣としての彼が大活躍をしたことが宣伝された。

チェコ問題の危機に際し,ヒトラーはベルリンで,チェンバレン英首相(1869-1940)はロンドンで各々ラジオを通じて相当強烈な演説をしたが,

必ず緩和した語調をもって,我々は事を好むのではない,相互の話合いによって平和に解決することが望ましい,というような余地を存しているのであるが,

仏国放送局はその仏訳の時に,左様な部分を省略して強烈な部分だけを伝えるから,

国民の大部は対独開戦熱をあおられるばかりであった。

然るにフランス人の中にも,英独語の分かる者は幾らでもいて,

直接,ヒトラーらの肉声を聞き,そして仏訳も聞いてみると大事な部分が省略してあるので,

放送局に詰問した人がある。

放送局は,外務省の方針だと言うので,

克明な人がわざわざ外務省の誰の方針かと調査をしてみると,

情報局長のコメール(Pierre Comert,1880-1964)というユダヤ人であることが分かった。

危機が一段落つくと,彼は徒らに国交を危うくしたという非難を受けて,ドナウ川問題の委員に左遷された。

すると外務省に抗議を申し込みに行ったのが2名ある。

何れも政界随一の有力で将来大統領をもって擬せられたフリーメイソンでユダヤであるレオン・ブルム(1872-1950)エドワール・エリオ(1872-1957)(両名ともに元総理大臣)である。

そしてコメールを外務省のアメリカ局長に取り立てさせ,

米国の駐仏大使ユダヤ系のブリット(1891-1967)と接触して,次の大戦勃発のために画策さしたことになった。

■共産党の反ドイツ狂奔

フランスの共産党(1920-)は皇紀2595年(西暦1935年)モスクワ大会以後,特に対独開戦に狂奔した。

政治問題に関係の薄い会合においても,散会に先立って緊急動議を提出して,

いかなることを決議しても,ナチスドイツがいる間は目的は達し得ない,

必ず彼らに蹂躙される,

最も早い機会にドイツを討滅することを決議すべし,と主張する。

提案者の顔ぶれは例外なく,共産系の者であった。

フランスの反共産・反ユダヤ

ミュンヘン会議(1938/9/29-30)が済み,一時的でも平和の空気が取り戻された時,

フランスの民衆は,なぜに数日前まであの剣電(剣林)弾雨の危機が迫ったか,

誰があのところまで国際政局を持って行ったか,を静かに考えた。

衆口一致して,共産党が第2次世界大戦をこしらえ,第2次世界革命をその間に実施しようとするのだと唱え,

共産党の不都合を鳴らし,公認政党を取り消し,弾圧を加うべしと怒号する者が出た。

これにおいて共産党は悲鳴を上げ,

それは共産党全部ではない,

幹部たるユダヤ人が世界大戦を作ろうとしているので,平党員の与り知るところではない,

と弁明に努め出した。

そのため,フランスの各地(ストラスブールディジョンパリ郊外等)で,ユダヤ人圧迫が起こり,

飾り窓は壊され,殴り倒されたのもある。

リールではピストルの射撃まで起こった。

この運動はもっと拡大するかも知れなかったが,

11月7日の共産革命記念日(同時にユダヤ政権がモスクワに出来たユダヤの記念日)に次の事件が突発した。

■グリュンシュパン事件

11月7日の朝,1人のポーランド国籍ユダヤ少年グリュンシュパン(17歳)(1921/3/28-1960(?))がパリのドイツ大使館に現れ,

重要書類手渡しを理由として,大使に面会を求めたが拒絶され,

三等書記官ラット男爵(29歳)(1909/6/3-1938/11/9)に面会し,謀略をもって,差し出した書面を読ませ,

その隙に乗じて自動拳銃を5発発射して,重傷を負わせ,数日後に客死させた。

これは,ドイツの国論をひどく刺激し,同国内のユダヤ圧迫に一層拍車をかけた。

殊に犯人が犯意を述べた中に,

1つには,自分の親戚がドイツ国内で虐待されていることもあるが,

1つには,全世界ユダヤ同胞のドイツに対する憤懣(ふんまん)の意思表示であると豪語したことは,

ますますドイツ人を怒らした。

もしドイツ大使自身が面会して射殺でもされたら,

折角ミュンヘンで解決した欧州大戦の危機は,

外交官暗殺によって独・仏間,独・ポーランド間の焼け付く問題となって,

終に戦乱まで持って行かれたかも知れぬ

あたかも盧溝橋事件(1937/7/7)宋哲元軍司令官(1885-1940)らの謝罪によって解決しかけたのを,

その後の続発事件で終に本格的日支戦争に拡大したと同様になったかも知れぬ,

僅か17歳の少年が全然自己の発意で大胆な行為に出たのではなく,

必ず背後に一大計画の伏在したことを思わしめられるのである。

■第2次大戦は国際連盟改造強化を狙う

前既に述べたる如く,世界のユダヤ・フリーメイソン社会は,

その作品たる国際連盟が日に日に権威を失墜し,

到底所期の如く,世界支配の機関として役立ち得ないことを観取して,

これを改革・強化するために第2次世界大戦を起こすに苦心せしことは従来予想されたが,

西暦1939年ジュネーブ発行の『アクション・ナショナル』第203号に,新平和協会の活動が報ぜられ,

その中にニューヨークの英国教会大僧正テンプル博士の左の言が引用されている。

(「ニューヨーク」が「ヨーク」だったら,「英国教会大僧正テンプル博士」はWilliam Temple (1881-1944)?

ネット上に他には,原文の「紐育の英国教会大僧正テムプル博士」と思しき人物,見当たらず。)

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国際連盟の権威を回復するためには恐らく,再び慘憺(さんたん)たる大戦をやらなければなるまい(中略)

我々及び次の代の人々までこの犠牲に供せられるであろう。

何となれば,この前,国際連盟を創立するためにも大戦が必要であったと全く同様に,

今度これを増強するためにもまた,一戦をしなければならぬからだ云々。

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また皇紀2600年(西暦1940年)初め,米国大統領フランクリン・ルーズベルト(1882/1/30-1945/4/12,任期: 1933/3/4-1945/4/12)が側近に漏らした言として伝えられるところによると,

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今次大戦の後に来るべき大平和会議には,

ルーズベルトは,ナポレオン戦争(1803-1815)後にメッテルニヒ(1773-1859)の演じた役割を引き受け,

今度こそは真の永久平和の機構をその際に作るのである。

前回のヴェルサイユ会議にウィルソン大統領(1856-1924,任期: 1913/3/4-1921/3/4)は,国際連盟を持ち込むことには成功したが,

反対党の議員を連れなかったので,上院の反対にあって批准が出来ず,

国際連盟も弱体になったから,今度は反対党も連れて行く

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決心をつけている(リベレーション(?)1940年3月7日号より)

しかして右のテンプル博士もルーズベルト大統領もともに,フリーメイソン側の人物であるから,

彼らが戦争を通じて平和機構を作ろうとする考えは一致しており,

前回同様,現在の戦争は「戦争に対する戦争」という仕組みで始められたことが推察される。

仮説の平和かく乱者を日本とドイツと見立て,これを崩壊させようとしていることも明らかである。

金経済維持のための大戦か

またヴェルサイユ条約(1919/6/28調印)によりて,天文学的数字と称せられる1300余億の償金を課せられ数十年間にわたって戦債償却に没頭せなければならなくなったドイツとしては,

金本位の旧経済体制を脱却し,

金貨はなくとも国民の精神と知識と労力とを動員して物を造り,これで賄っていくことに考えざるを得なくなり,

あるブロック内においてはバーター制度勃興して,漸次,金を媒介としない世界経済が広まってきた。

これをこのまま放置するときは,

折角ユダヤが3200年も前から,神の如くに崇敬して手段を選ばず安全な土地に蓄積し,今や大西・太平両大洋によって保護されている米国内にある200億の金を見返りに,

エクスポート・インポートバンク(1934-)を発券銀行として世界共通貨幣を発行して,世界を金権支配で行こうとする大計画が画餅に帰してしまう

金は装飾品の役だけになって,貨幣としての価値はなくなる。

ユダヤを敵とするドイツとしてはまた,そうさせないというのでなければ,ユダヤ支配の下に屈伏せなければならなくなるから,

極力これを脱しようとするのが当然である。

この点ばかりから考えても,ユダヤはドイツ流の世界観・経済観が流行しない間にこれを潰してしまおうと考えるのも当然である。

今回の大戦の原因には,確かに右の要素が含まれている。

皇紀2583年(西暦1923年),日本に渡来したソ連の要人ユダヤ人ヨッフェ(1883-1927)が国を出る前に,

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我々は今は破壊ばかりやっていくが,建設をやる時には米国の資本でやるのである。

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と語ったことを現在想起することは誠に意義あることである。

この如き理由で,現在の戦争はユダヤ・フリーメイソンの大画策に基づくことが客観的に認められるが,

なおこれを裏書する実際の運動と彼らの告白の若干を左に拾ってみる。

アメリカ大使半ユダヤ人ブリットの活躍

先ず駐仏の米国大使ブリット(1891-1967,駐ソ大使: 1933/12/13-1936/5/16,駐仏大使: 1936/10/13-1940/7/11)の1936年8月赴任以後ことから始める。

ウィリアム・ブリットは,アメリカのユダヤ銀行クーン・ローブ(1867-1977)の特別使節で,

出来るだけ早くヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)に対する戦争を起こす工作のために任命されたと取沙汰された。

彼の経歴はヴェルサイユ会議(1919/1/18-1920または1923/7)の時,ウィルソン大統領(1856-1924)随員としてパリに来た28歳の青年外交官で,母がユダヤ人である。

その後,政府から視察のためモスクワに派遣され,暫くいて外交界を去り,

ハリウッドの大映画会社の取締役となり,次いで肖像画の画家をやり,新聞記者も務めた。

1933年ヒトラーのナチ政権が出現すると,外交界に返り咲きをした。

米国がルーズベルト大統領(1882/1/30-1945/4/12,任期: 1933/3/4-1945/4/12)になって,

初めてソ連を承認し大使を交換することになると,

ブリットは初代の大使に任命され,モスクワに赴いて,ユダヤ外相リトヴィノフ(1876-1951,外相: 1930/7/21-1939/5/3)と折衝するようになった。

然るに予期に反して,その年9月にはその位置を去った(?)が,

それ以来,ルーズベルト大統領の側近において最もその信頼を受ける一人となった。

1936年8月,駐仏大使としてパリに赴いた。

ワシントンにいる間にルーズベルト大統領の当選のため,忠勤を抜きん出たので,

彼は海外にありながら,国務省に大臣の椅子を与えられている(?)

ブリット大使がパリに赴く時には,反ユダヤのドイツに向かって戦争を始めさせるべく,

フランスを鞭撻指導する役目を与えられたらしい。

実にドイツはユダヤの最高資本主義にとっては,誠に厄介な存在であるからだ。

ブリットは自分がこうと決心したことは決して隠さず,平時における最も意義ある戦争誘発者になった。

1938年5月28日にフランス各地でこの前の大戦に仏国内で戦死した米国兵の追悼祭が行われた時,

シュレンヌの式場においてブリットは一場の演説をした。

その中で次の意味のことを言うた。

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勇士らが陣没した世界大戦から20年経たない今日において,

我々は彼らの墓がやがて爆弾や砲弾で掘り返されぬとは言い切れない。

……米国人は戦争が避け得られることを承認するわけには参らぬ云々。

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すなわち半ユダヤ人ブリットは,今次戦争勃発の1年ばかり前に,天下公衆に戦争を予告している。

その後,彼は,ユダヤ=英=仏の戦争誘発者仲間とともに,最も力強い最も不吉な役割を務めている。

見方によっては,今回の戦争の開始には半ユダヤ人ブリットが大部分の負担をしたことになる。

1938年ミュンヘン会議(1938/9/29-30)の最中に,ルーズベルトは幾度かブリットと直接電話をしているが,

米国言論界もブリットが国務省を通じて,神速な報告を大統領に送ったと報じているし,

ミュンヘン平和協定成立後も,彼は直に陰から,戦争誘発工作を再開したと見られている。

■ブリットのポーランド使嗾

1939年春(秋(?))のポーランド危局の際には(ポーランド侵攻(1939/9/1-10/6)) ,

罪深い戦争計画を最高度に発展させるのに好機会が彼に与えられた。

戦争が始まりドイツ軍がワルシャワを占領して外務省の文庫から多数の有要な書類を押収した中から,

右半ユダヤ人ブリット(1891-1967)が今次大戦の主要な周旋役をした事実が判明してきた。

すなわち

1938年11月19日には,賜暇帰国中のブリットはワシントンにおいて,

ポーランド大使イェジ・ポトツキー伯爵(Jerzy Józef Henryk Potocki,1889-1961)と長時間懇談を遂げた。

伯爵がポーランド外務大臣(Józef Beck,1894-1944,外相: 1932/11/2-1939/9/30)への報告によれば,ブリットとの会談は専ら戦争の話だけであって,

ブリットは英国が未だ充分に戦争準備が出来ていないことに不平を述べた。

英・仏・米の3デモクラシー国はドイツに対抗するには,まだまだ莫大な軍備を増さなければならぬと説き,

且つドイツとヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)に対する大いなる憎悪を吐露した。

戦争の見込みについて問われたブリットは答えて曰く,

恐らくドイツとソ連との間に突発するであろう,

そしてドイツが充分弱った時にデモクラシー諸国がドイツにかかってこれを降伏せしめるであろう,

故にソ連はドイツを機動的戦場に引き寄せなければならぬ,

そしてデモクラシー諸国はベルリンとモスクワとに勝つのである,と率直に語った。

またこの如き戦争に米国が参加するかとの問いに対しては,

ルーズベルト(1882/1/30-1945/4/12)の信任を受け,友達の間柄にある半ユダヤ人ブリットは答えた。

もちろんのことだ,但し英仏がうまく動き出してからのことだ。

その後暫く経ってブリットは同じポトツキー伯に対して語ったのは,これよりも一層明白であった。

すなわち1939年1月14日,伯との会談の際に,

米国は戦争の際には欧州のデモクラシー国 英仏の側に立つべきことを明白に述べ,

なお彼は,ルーズベルトは,もし英仏が枢軸諸国と平和的妥協をなさんとする傾向があれば徹底的にこれに反対し,

また東南諸国(バルカン諸国)をドイツ・イタリアに向かって対抗せしめるつもりである,と語った。

右報告の2日後にポトツキー伯はさらに次の報告をポーランド外務大臣に出した。

すなわち

ブリットとの会談で,ルーズベルト大統領が現欧州危局に対して取るべき絶対正確な意見をつかみ得たと信ずる,

ブリットはこれをパリの外務省に説明し,また欧州諸国の人々との会談にもこれを引用するであろう,

半時間にわたりブリットの説明した要領は次の通りである。

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(1) ルーズベルト大統領の指導下における外交政策の振興。

ルーズベルトは徹底的に,厳重に全体主義諸国を排撃する。

(2) 米国の陸・海・空における戦争の準備には加速度的に12億5千万ドルを投じてこれを実行する。

(3) 大統領の根本的意見は,英仏両国が全体主義諸国家との一切の妥協を打ち切らねばならぬ,

英仏は全体主義諸国家との間に,領土の変更を目的とするいかなる交渉にも立ち入らざるを要する,というにある。

(4) 米国が孤立政策を一擲し,戦争の場合には英仏側に立って,有効に攻勢に出ることの精神的保障。

米国は全ての必要なる資材・財政的援助及び原料を英仏側に提供する用意あり。

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これによりこれを見れば,半ユダヤ人ブリットは組織的に克明に対独戦争を準備していたのである。

このポトツキー伯爵との会見後7か月半で,ブリットのユダヤ戦争の種子が芽を出したのである。

■ユダヤ人が英仏を結合させた

ポーランド大使との会見後,暫くすると,

ブリット(1891-1967)は任地パリに帰任して,3か月留守にした職務を執った。

その間,彼の主なる努力は,全ての方法を尽くして,反ユダヤのドイツに対する計画戦争を勃発させることに向けられた。

1939年3月14日,パリ駐剳(ちゅうさつ)のポーランド大使ウカシェヴィチ(Juliusz Łukasiewicz,1892-1951,駐仏大使: 1936/7/20-1939/11/7,駐ソ大使: 1934/4/12-1936/7/20)が,

ブリットに向かって,

英国の外交政策対内政策に制せられ過ぎて困るように見える,

これがため,ポーランドの立場は実に苦しい,と訴えた。

そこでブリットは,ポーランドに英国との同盟を提案した。

彼は直ちにこの同盟を促進することをチェンバレン首相(1869-1940)に運動すべく,

ロンドン駐箚の米国大使ケネディ(1888-1969,駐英大使: 1938/3/8-1940/10/22)に働きかけた。

ブリットはさらに一歩を進めて,

英国政府の責任を問う意味で,同政府の注意を喚起するようケネディ大使に要求した。

この工作の上に必要な圧力を加え且つ成功のチャンスを増すために,

ブリットはポーランド大使に向かって,

米国は,どうしても英国をして動かざるを得ざらしめるある方法を持ち合わせていることを強調した。

ブリットは真剣にこれらの手段を動員することを考慮した。

ロンドンにいるケネディ大使は,半ユダヤ人ブリットのそういう命令を実行して成功を収めた。

3月30日には,チェンバレン首相は下院において,英国はポーランドに保証を与える準備のあることを言明した

4月6日,ポーランド外相ベック(1894-1944,外相: 1932/11/2-1939/9/30)は,ロンドンにおいて英国との協定(公式の協定はその後1939/8/25)に署名をした。

半ユダヤ人にして欧州におけるユダヤ=アメリカ最高財閥の代表たるブリットは,

米国合衆国の名において,墓地に戦争に導くところの外交政策を動かし始めたのである。

すなわち,その頃から,ポーランドは英国との同盟のおかげをもち,また米仏2国で確と背後を保証されたから,

ドイツに向かって絶対に強硬な態度を採り,挑戦的な口調をもって談判が出来ると信じたのである。

これで平和的解決が不可能となった。

9月3日,英仏はドイツに戦を宣言した

ブリットは米国の世論をドイツに対して沸き立たしめるため,あらゆる機会を逸しない。

1939年9月17日,ブリットは米国の駐ポーランド大使ドレクセル・ビドル(1897-1961,駐ポーランド大使: 1937/6/2-1943/12/1)との電話にも,そのことが表れている。

すなわちビドル大使はワルシャワが危ういと見て,初めからポーランドを去ってルーマニア(当時ルーマニア王国(1881-1947)で,第2次大戦では枢軸国側で参戦)のクゼルノーウィッツ(現ウクライナのチェルニウツィー(?))の一ホテルに陣取っていたところ,

ブリットから電話が来て,大統領ルーズベルト(1882/1/30-1945/4/12)に即刻報告を提出するよう言いつけられた。

その報告とは,ポーランドにおいてドイツ人が残虐行為をほしいままにしているという飛報を送って,

ドイツに対する強烈なる憎悪心を米国世論の間に巻き起こすためのものであった。

ブリットは同僚ビドル大使に,報告の中にはその意味であらゆる仮想のことも取り入れ,

もって米国大統領及び外務大臣がこれを利用し得るようにせられよと勧告した

[注: 日本軍誹謗の捏造悪宣伝なども,かかるユダヤ式悪辣さで世界に誤り伝えられることを観察できる]。

なお,右ポトツキー伯爵が1939年1月12日付,次の秘密報告をポーランド外務次官に提出しているのを見ると,

ユダヤ人側が盛んに米国民を反独に導きつつある状況が判然と分かる。

すなわち,

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現今米国における民情は,ファシズム,殊にヒトラー(1889/4/20-1945/4/30)個人に対する反感が日増しに募り行くことが目立つ。

宣伝は主としてユダヤ人の手に握られている。

ラジオ・フィルム・新聞・雑誌がほとんど100パーセント,ユダヤに属する。

宣伝には,宗教的迫害とユダヤ人収容所等を取り扱っていて,

極めて雑ぱくではあるが,ドイツはかなり嫌な唾棄すべきものとして表している

[注: 筆者が本報告書の1か月前,ニューヨークの一流映画館で実見したるところ,正にこの通りにて,

スクリーンに現れるヒトラーの写真は,二目と見たくないように歪曲した顔で怒髪天を衝き

観衆一同がシー! シー! と叫び,早く引っ込めと怒号するようなものであった]

これらの宣伝は民衆に対しては大きな効果を奏し,

ヒトラー及びナチをこの世の中の最大の悪魔で,最大の危険物とみなすように思い込ませる。

米国の状態はあたかも豪華な会堂のようなもので,

各種各様の演説家が雄弁を振るうもあり,

ドイツ・チェコから流れ込むユダヤ移民群もあって,

彼らは寸毫の容赦もなく,弁舌をもって様々な讒言(ざんげん)を並べて,民衆を憤激させている。

彼らは全体主義国家と比較して,米国の自由なことを称揚している。

この宣伝戦は,巧みに指導されているが,主としてナチを目標としていて,

同じ独裁国のソ連を全く除外していることは誠に面白いことである。

ソ連を表す場合があっても,友誼的に取り扱い,

あたかもソ連はデモクラシー諸国と一緒に歩くものとして表している。

巧妙な宣伝のおかげで米国大衆の同情は,全然スペインの赤(?)のほうに集まっている。

右の宣伝の外に,人為的に戦争宣伝もこしらえた

人民には欧州の平和はただ一本の糸でつながれているようなもので,一戦は避け得られぬことを鼓吹している。

その他,米国大衆には世界大戦勃発の場合には,これに参加して自由とデモクラシー擁護のため,有効に戦わねばならぬと教えつつある。(中略)

しかのみならず,ドイツにおけるユダヤ人待遇の苛酷なことや,国外追放問題は,

ますますナチスドイツに対する憎悪の火をかき起こすことになる。

この運動には全てのインテリユダヤが参加している。

例えば,バーナード・バルーク(1870-1965)や,ニューヨーク州知事レーマン(1878-1963)や,最高裁陪席判事

フェリックス・フランクファーター(1882-1965)や,財務長官モーゲンソウ(1891-1967)

その他ルーズベルト(1882/1/30-1945/4/12)の個人的親友たちである。

彼らは,ルーズベルトが民権(特に参政権(?))宗教的自由言論の自由のチャンピオン(擁護者)となって,将来の動乱の発頭人(ほっとうにん)を処刑することを乞い願っている。

米国政府において最高の位置を占めているこのグループの人々らは真正のアメリカニズムの代表者として,デモクラシーの擁護者として現れたいのだが,

本来,国際ユダヤ社会と切ることのできない絆でつながれている。

この国際ユダヤにとっては,眼中自己民族の利益の外に何物もないのだが,

大統領を民権擁護の理想的位置に据えたことは,実に天才的な手を打ったものと言わざるを得ない。

この方法によって西半球上に,憎悪と敵対の竈(かまど)を設けて,世界を2つの相対立する陣営に分けるのである。

全ての問題は神秘的な方法で行われる。

基礎はルーズベルトの掌中に置かれ,米国の対外策を活発にすることに役立ち,

また同時に将来戦のため,莫大な軍備の予備を設けるためにも都合が宜しい。

その将来戦にユダヤ人が本気で持って行こうと試みているのである。

国内問題については,米国に日ごとに増大する反ユダヤ主義を民衆の注意から回避させることは容易であろう。

それは,米国民の個人的自由と信仰とをファッショの攻撃に対して擁護せよ,と宣伝すれば足りるからである。

イェジ・ポトツキー(1889-1961)

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右は米国ユダヤが,英国とポーランドとを鞭撻し両国を結び付け,

ポーランドをドイツに逆らわせて欧州戦争を勃発させた楽屋内を暴露した貴重な材料であるが,

ここにまた英仏を結合させてフランスを前衛に立て,戦争を行わすに至った裏面にも,

ユダヤ人の活躍があることを示す左の事実がある。

大戦勃発に大いなる責任あるユダヤ人の1人は,オーストリア・ガリツィア出身のポリヤコフ(Vladimir Poliakoff (Poliakov) (1880-1956))という男で,

新聞界ではオーギュル(Augur)文名(文名というより,単に筆名(?)) で通っている。

彼は,ベルギー・アントウェルペンのカトリック新聞ラ・メトロポール(1894-1974)のロンドン通信員で,

英国大新聞デイリー・テレグラフの編集局員を兼ね,

ギリシャの一新聞のロンドン通信員も務めている。

1935年までは英仏両国の政治関係はまだ,同盟に向いて熟していなかった。

幾度か両国は他人行儀に,相手を犠牲にして政治経済の利益を己に収めようとした。

然るに影武者連中が英仏両政府の後ろに控えて対独戦争開始に骨を折っていて,

終に両国の接近は絶対に必要だと言うことを鼓吹した。

これが終に英仏協商(1904/4/8)の締結まで進んだのである。

いかにして英仏協商まで持っていったかについてワルシャワ発行のユダヤ字新聞デル・モメントの1939年第58号は,

ユダヤ勢力が世界政策にいかなる底力を持っているかをきらめかした。

その標題は,「何人が英仏協約の真の作者であるか。対ヒトラー戦争を計画したユダヤ人がニューヨーク・タイムズに暴露せらる」という意味ありげなものであった。

今,その長文中から一部分を摘訳すると,

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英仏の外交官らはドイツ軍備の点について何らの意見の一致を見出し得なかった。

英国から絶えず外交官がパリに行くかと思うと,仏国からも引きも切らず外交官がロンドンに出張するが,

結局何もまとまらなかった。

ところが,がぜん奇跡的に英仏協商が出来上がった。

そこでニューヨーク・タイムズは直ちに,フレデリック・バーシャルという社員をロンドンに特派して,

その真相を探訪にやった。

バーシャルは英国外務省の高級者に会見して,英国の外交官がこんな巧妙な協定に骨を折ったのかと尋ねると,

ただ黙って微笑を浮かべているだけだ。

そこで,それなら仏国の外交官が幾らかこの計画に力を入れたのかと聞くと,

英国の役人は相変わらず微笑するだけだ。

が外務大臣の名で話すことのできるその役人は終に口を開いた。

曰く,巧妙な計画を考えたのは英国外交官でも仏国外交官でもない,

実は英国外務省に幅の利く1人の政治記者である。

その計画のことをその記者の名前の頭文字を取って,『ピー計画』と名づけたのだ。

役人は終に頭文字だけでなく名前を全部言ってしまった。

バーシャルは早速ピー君に会見を申し込んでみたが,こと面倒と見て,中々承知しなかったところ,

名前の秘密は決して暴露しないという条件で会見したのである。

故にバーシャルはニューヨークタイムズの記事には,どこまでもピー計画の作者は一政治記者でピーが頭文字に付くんだとだけ発表した。

然るにこれだけ糸口を得たニューヨークの外交界では,ピーの付く記者を全部研究した末,

モールゲンジャーナル新聞(Jewish Morning Journal (1901-1971) (?)) の編集長ユダヤ人フイシマン(Jacob Fishman (1878-1946) (?))が,

『ピー』とはロシア系ユダヤ人ポリヤコフというてオーギュルという文名(筆名)でニューヨーク・タイムズにも書き,ロンドン・タイムズの同人でもあることをすっぱ抜いた

フイシマンの言うところでは,ポリヤコフはシオン運動の頭目ワイズマン博士(1874-1952,初代イスラエル大統領: 1948-1952)の親友で,

彼のために幾たびも政治的な重要な運動をしてやったことがある(中略)

かくてヒトラー政策にとって非常な痛手たる英仏2大国の協定を,1人のロシア系ユダヤ人が仕組むことになったのである。

ユダヤ政治記者が重要な国際問題の解決に,このような役目をすることはこれが初めてではない。

米国ではウォルター・リップマン(1889-1974)はこの前の大戦間,ウィルソン大統領(1856-1924)の片腕で,

有名な14か条(1918/1/8)のポイントにはリップマンの手が触れている。

そしてヴェルサイユ会議の時には,ウィルソンはこの若いユダヤ人を連れて行った

[注: 14か条の件は,オーストリア=ハンガリー革命(オーストリア革命(1918/11))のところで述べた。

現在,リップマンはルーズベルト大統領のブレーントラストの1人である]

また不戦条約すなわちケロッグ=ブリアン条約(署名: 1928年,発効: 1929年)などと言うが,

実際の発案者はシカゴの弁護士ユダヤ人レーヴィンソン(1865-1941)であって,

今日となっては最早,これを秘密にする必要はないのだ。

然らば我々ユダヤ人は,これらの事柄について何を考うべきか,

我々は全て答うべきことは知っているはずだ……云々。

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右はユダヤ字新聞の告白で,いかにポリヤコフが対独戦争のために英仏両国の協定を作らしたか,

またそれ以外においても,ユダヤの政治記者らがヨーロッパの政治外交の問題に介入して,各種の問題を起こすかがよく認識されるのである。

■世界大戦に関するユダヤの予告

ユダヤが現在の戦争勃発に力を入れた事実は,今後さらに幾らでも摘発されてくるであろうが,

今から,ユダヤ自身の純然たる告白を若干挙げてみる(初めの2つは再録)

皇紀2578年(西暦1918年)11月11日,コンピエーニュの森第1次世界大戦の休戦ラッパが鳴ってから2か月後の2579年(西暦1919年)1月16日,

ロンドンで発行のユダヤ機関雑誌ジューイッシュ・ワールドに,次の放言が載っている。

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ユダヤ民族がヨーロッパにこの戦争をさせたのは,これで莫大なカネを巻き上げるためばかりではない。

そのカネをもってさらに,第二のユダヤ世界戦争を始めさせるためである。

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前述べた如く現欧州戦争(1939/9/1-1945/5/8)がユダヤ人の努力に負うところ,すこぶる多いのと,

太平洋方面に戦乱が波及して第2次世界大戦に発展せんとしつつある現時において,

第二のユダヤ世界戦に関する右の放言を回想することは誠に感慨無量である。

次は皇紀2588年(西暦1928年)初め,米国のセンチュリー・マガジン誌(1881-1930)に,ユダヤ人マルカス・ラヴェージ(Marcus Eli Ravage,1884-1965)の寄稿で,

他民族との論争と見え,随分激越な文句で次の如く論じた。

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我々は戦時においては愛国の義務を怠るのである。

何となれば,我々は本来の性質から伝統から,平和主義であるからだ。

しかし我々は世界戦争の大立案設計者で,

そして戦争の利益は一番余計受けるのである(中略)

我々は先般の世界大戦の楽屋にいたばかりではなく,ほとんど全ての近世戦争の影に働いた

そしてロシア革命(1917/3/8-1923/6/16)ばかりでなく君たちの歴史にある大きな革命の陰には必ず我々がいたのだ。

我々はかくて,君らの公的私的生活に互いの反目混乱失望とを与えてきた。

今又,それをやっているのであるが,

恐らく何人も,我々がいつまでそれをやっていくかを物語れないであろう。

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皇紀2598年(西暦1938年)6月3日,ニューヨーク発行,米国ユダヤ機関雑誌アメリカン・へブルー(1879-)の記事を要約する。

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ヒトラーは今,波の上にまたがっている。

じきに彼は波に飲まれるのだ。

彼は,昔,エジプトで神の選民ユダヤ人を圧迫したファラオの先例を忘れたか。

出エジプト記第1章

1:1 さて,ヤコブと共に,おのおのその家族を伴って,エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。

1:2 すなわちルベン,シメオン,レビ,ユダ,

1:3 イッサカル,ゼブルン,ベニヤミン,

1:4 ダン,ナフタリ,ガド,アセルであった。

1:5 ヤコブの腰から出たものは,合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。

1:6 そして,ヨセフは死に,兄弟たちも,その時代の人々もみな死んだ。

1:7 けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み,ますますふえ,はなはだ強くなって,国に満ちるようになった。

1:8 ここに,ヨセフのことを知らない新しい王が,エジプトに起った。

1:9 彼はその民に言った,「見よ,イスラエルびとなるこの民は,われわれにとって,あまりにも多く,また強すぎる。

1:10 さあ,われわれは,抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり,戦いの起るとき,敵に味方して,われわれと戦い,ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。

1:11 そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき,重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

1:12 しかしイスラエルの人々が苦しめられるにしたがって,いよいよふえひろがるので,彼らはイスラエルの人々のゆえに恐れをなした。

1:13 エジプトびとはイスラエルの人々をきびしく使い,

1:14 つらい務をもってその生活を苦しめた。すなわち,しっくいこね,れんが作り,および田畑のあらゆる務に当らせたが,そのすべての労役はきびしかった。

1:15 またエジプトの王は,ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい,他のひとりは名をプアという者にさとして,

1:16 言った,「ヘブルの女のために助産をするとき,産み台の上を見て,もし男の子ならばそれを殺し,女の子ならば生かしておきなさい」

1:17 しかし助産婦たちは神をおそれ,エジプトの王が彼らに命じたようにはせず,男の子を生かしておいた。

1:18 エジプトの王は助産婦たちを召して言った,「あなたがたはなぜこのようなことをして,男の子を生かしておいたのか」。

1:19 助産婦たちはパロに言った,「ヘブルの女はエジプトの女とは違い,彼女たちは健やかで助産婦が行く前に産んでしまいます」。

1:20 それで神は助産婦たちに恵みをほどこされた。そして民はふえ,非常に強くなった。

1:21 助産婦たちは神をおそれたので,神は彼女たちの家を栄えさせられた。

1:22 そこでパロはそのすべての民に命じて言った,「ヘブルびとに男の子が生れたならば,みなナイル川に投げこめしかし女の子はみな生かしておけ」。

我々ユダヤ民族はこれを踏みつける人々のかかとに必ず食いつく

ヒトラーに対する反動の力は動員された。

英・仏・ソ(フランス・ソ連は他の欧州諸各国に先立って,メイソンにより革命が引き起こされた国)のコンビネーションは,

成功に狂喜しているヒトラーの無敵の進軍を阻止する。

この3か国ではユダヤ人が1人ずつ最も重要な位置を占めている。

この3人の手が数百万の人命を活殺する。

その3人とは,

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仏国前総理大臣 レオン・ブルム(1872-1950,首相: [i]1936/6/4-1937/6/22,[ii]1938/3/13-1938/4/10(,[ii]1946/12/16-1947/1/16))

ソ連外務大臣 リトヴィノフ(1876-1951,外相: 1930/7/21-1939/5/3)

英国陸軍大臣 ホア・ベリシャ(1893-1957,陸相: 1937/5/28-1940/1/5) 

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である。

この3人が組んで,鬼のような独裁者ヒトラーを墓穴に押し込むのである。

ヨーロッパは粉々に砕かれるであろう。

その硝煙が消え休戦ラッパが鳴り渡ると,英・仏・ソの国歌が調和よく合奏され,

最後にユダヤ国歌のエリエリが凱旋歌となって終わりを告げるのである。

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然るに前記3人は何れも(本書発行の1941/7の時点で)退場し様子が変わってきているから,

この予言は外れそうになり,

焦慮を重ねていることが見える。

次は皇紀2599年(西暦1939年)3月3日,すなわち現欧州戦勃発の半年前に,

ロンドン発行のジューイッシュ・クロニクル(1841-)というユダヤ雑誌に左の意味の記事が現れた。

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パレスチナ問題は漸次発展して,いかなる常識ある人々も戦慄しないでは見られないような進展をするであろう。

ユダヤ人問題は未だかつて世界になかった圧力ある且つ先鋭な形式と事実とをもって,

人々の眼前に現れるであろう。

世界の人々といろいろ思い思いの対策を講ずるであろうが,

地球上の各民族は到底,脱逸できないことになる。

ユダヤ人問題は全ての外交界に七頭怪蛇の頭で現れて,

国際的に小康を得ようとする全ての途を塞いでしまう。(中略)

我々ユダヤ人は世界の政治家や平和の天使等がいかに熱心になろうとも,

世界を平和にしておかないであろう。

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これで中立国をだんだん無くして世界大戦に導く腹がよく読めるのである。

次は皇紀2600年(1940年)1月付,上海のユダヤ大財閥サスーン(1881-1961)のハウスにいる清水清五郎(?)という人の書いて配布した文書の中に次の文句がある。

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英・仏・独の戦は直接には,他に政治的原因があるにせよ,

ヒトラー総統のユダヤ排斥が間接原因の一部にあり,

パレスチナ問題が糸を引いてその源泉となっていると見ることができるのであります。

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誠によく前掲ユダヤ雑誌の2つの所論と合致するもので,

現戦争がユダヤ戦争であることを了解せしむるものである。

欧州戦争はユダヤ戦争なりとの告白

なお明瞭にユダヤ人の口からユダヤ戦争ということを赤裸々に述べたものを挙げると,

皇紀2599年(西暦1939年)9月9日ブラッセルで発行するラブニール・ジュイフ(ユダヤの将来)(L'Avenir Juif (?))と名づけるユダヤ新聞が次の記事を載せている。

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パレスチナ(イスラエル)のユダヤ通信社は左の布告を公表した。

英国皇帝の政府はヒトラーのドイツに宣戦を布告した。

ナチスドイツから大英帝国に押しつけた戦争は,これ我々ユダヤの戦争である。

我々は全力を挙げて,英軍・英官憲を助けなければならぬ云々。

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右の文中にあるドイツが戦争を英国に押しつけたことは真実でないにしても,

現戦争がユダヤの戦争であることを淡泊に告白したことは面白い。

なおユダヤ人は今回の戦争を聖戦と唱えつつあることが,

ロンドンの労働新聞デイリー・ヘラルド(1912-1964)7450号に報じられた。

その新聞は今次戦争におけるユダヤ人の参加問題を取り扱い,ユダヤの称賛を行った後,次の如く書いた。

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ユダヤ人はこれを聖戦と認めている。

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ユダヤ系労働新聞がかく放胆に告白せることは,前記「我々ユダヤの戦争」と対照し,

ますます明らかに今次戦争とユダヤとの関係を看破する好資料である。

フリーメイソンの対ファッショ決議

上述の如くユダヤ民族が本大戦の起動力となり,ナチス攻撃に奮起した以上,

ユダヤの傀儡たるフリーメイソンが,無関心たり得ないのは明らかである。

既にフリーメイソンはヒトラーが政権に就いた年より態度を明らかにしている。

すなわち1933年,フランスのグラントリアン総会決議録第138頁に,

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フリーメイソンはファッショと戦うために,デモクラシー国家全部を結合する機関である。

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また同上第133頁に,

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ファッショに対する戦争並びに共和制擁護のため,

デモクラシーの全力を集中することに積極的に努力すること。

(右2つの引用文は,エー・ジー・ミッシェル(A. G. Michel,生没年不詳)著 『フリーメイソンに抱き締められたる仏国』(La France Sous L'étreinte Maçonnique)第76頁より)

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右フリーメイソンの決議文を読み,しかしてフリーメイソン幹部たるルーズベルト大統領(1882/1/30-1945/4/12,任期: 1933/3/4-1945/4/12)などの対枢軸国に関する意見発表などを読む時は,

そこに一脈相通ずるところあるを肯定しうる。

また世局の動きもこれに順応しつつある。

ただこれを制して彼らの思うままにせしめないのは,日独伊の毅然(きぜん)たる態度によるのである。

第6章 支那事変と欧州戦争との関係

国際秘密力は日本の内部崩壊を期待,少なくとも欧州戦不介入を望めり

前数章に叙述するところのユダヤ・フリーメイソンの言動を考え,

且つ支那事変(1937/7/7-1945/8/15)発生以来の世界の動きを熟視するときは,

次の如き判断に到達せざるを得ず。

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国際秘密力は日独両国を各個に撃破するに決し,その順序は日本を先にし,ドイツを後にす。

勃発の時機は欧州戦乱(1939/9/1-1945/5/8)をユダヤ紀元第58世紀の初頭に選び(ドイツがポーランドに侵攻したグレゴリオ暦1939/9/1は,変換すると,ユダヤ歴では5699/12/17(?))

それより起算して2年前に支那を日本に当たらしめ(日中戦争開戦となった盧溝橋事件は,1937/7/7)

先ず1~2年の間に日本に内部崩壊を起こさしめ,

万一,これが目的を達せざる場合においても,支那を助けて日本を消耗せしめ,少なくとも不介入の態度を出でざらしむ。

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日を独伊より分離しなし得れば英米陣営に誘致まで考えたるか

事実として現れたるは,欧州戦の勃発は,ユダヤ紀元5699年12月20日で(グレゴリオ暦では1939/9/4(?)。英仏によるドイツへの宣戦布告は1939/9/3)

ソ連のノモンハン休戦(1939/9/15に停戦合意)が5700年1月2日(グレゴリオ暦で1939/9/15)

引き続きポーランドへの進軍となり(ソ連によるポーランド侵攻が1939/9/17)

本格的にポーランド各個撃破をドイツの手を借り遂行して,

第3インターナショナル1935年7月25日大会の第二決議の一部目的を達成した。

(私のほうで,ここにいう「第二決議」というのが,コミンテルンの編纂と思しき当大会議事録『VII Congress of the Communist International』の第565頁以降のどの決議を指すのか,よく分かりませんでした。

ただ例えば,第590頁中に次の記述が含まれていて,コミンテルンはドイツ・日本に加えて,ポーランドを敵視していたようです。

他の決議にかかる記述によると,それらの3国に以外に,ハンガリーやイタリアをファシスト国としているようであり,

当時ソ連の政体を支配していたユダヤ人ら(?)が,少なくともそれら5国を敵視するよう扇動していたことがうかがわれます。)

『VII Congress of the Communist International』 [1939] 第590頁中にある記述

At the time when a new war between the imperialist states is approaching ever more closely,

the might of the Workers’ and Peasants’ Red Army of the U.S.S.R. is constantly gaining in importance in the struggle for peace.

Under the circumstances of a frantic increase in armaments by the imperialist countries,

especially on the part of Germany, Japan and Poland,

all those who are striving to preserve peace are vitally interested in strengthening and actively supporting the Red Army.

また前に述べたる如く上海復旦大学の教授連,馮将軍(1882-1948)軍閥連は,

日本の内部崩壊が開戦後,1~2年を出でないことを信じていたらしい。

然るに日本の経済力・団結力は案外強固で,長期交戦の余裕綽々たるものあるを見るに至ったから,

第二案の方策を採り,英国が援蒋に手薄になるに及んで,

米国をもって肩代わりを行わしめ,且つ通商航海条約の廃棄(1939/7/26)をもって日本を経済的に脅威し,

外米輸入の妨害まで考えて豊葦原の瑞穂国に食糧難まで考慮せざるを得ざらしめ,

あわよくばシオン議定書第7議定にうたっているが如く,

欧州が思うようにならなくなったならば,日本・支那・米国の大砲をもってこれに対するの方針に基づき,

日本を独伊の陣営より離反させて,依然として英米依存を続けしめ,

機を見て英米陣営に引き入れようと画策したのではないか。

『シオンの議定書 mickythemiracle版』

92 アメリカや中国,日本の火器

我らの組織というのはヨーロッパのゴイ政府どもを抑制する。

この我らの組織というのを,次の(1)(2)の通り一言に要約することができる。

(1)すなわち我らというのは,それらヨーロッパのゴイ政府どものうちの1つに対して,我らの強さをテロリストの攻撃により思い知らせることだろう。

(2)また仮りにも我らというのが,それらヨーロッパのゴイ政府どもの全てに対して,我らに対する一斉蜂起がありうることを許容するとする。

そうとするなら,我らはアメリカ中国日本の火器を使って応酬することになるのである。

■ルーズベルトの任務,日本を支那大陸より撤退させる

米国が皇紀2600年(西暦1940年)1月26日より日本との通商上,無条約国となった頃,

大統領ルーズベルト(1882-1945,任期: 1933/3/4-1945/4/12)がその政策につき側近に語ったところとして,米国から伝えられたところによると,

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ルーズベルト大統領は,ナポレオン(1769-1821)失脚後ウィーン会議(1814-1815)においてメッテルニヒ(1773-1859)の述べたような平和機構を作り上げるところの国際平和会議において,

大立者たらんとしている。

彼の漏らしたところによると,メッテルニヒは約100年間,世界の平和維持に貢献しただけだが,

今度は永久平和の機構を作り上げる

先般の世界大戦の後始末には,ウィルソン大統領(1856-1924,任期: 1913/3/4-1921/3/4)もやはり永久平和機構のことを考えたが,

ヴェルサイユ会議(1919-1920)に臨むのに,随員に自党(民主党)のものばかり連れて行ったため,

折角尽力した国際連盟(1920-1946)も上院の反対にあって批准されずに終わった。

今回はその過ちを繰り返さないで,共和党の上院議員も連れて行く。

秋の大統領選挙には,自分は当選せなくともよい。

必ず自分を右平和会議の米国首席全権に任命する人を出す。

ルーズベルトは欧州戦争(1939/9/1-1945/5/8)の処理を欧州大陸だけにとどまらしめるのではない。

彼の側近者の聞知したところを総合すると,

ルーズベルトの任務は,欧州戦争が片付いて英仏が支那を助けに来る時まで,支那が日本に屈伏するのを妨げるため,

米国の国力を使うことにある。

故に来たるべき平和会議は欧州から支那事変にまで拡大するのであって,メッテルニヒのかつて用いた手法に従い,

日本を支那大陸から撤退せしめることによって結末を付ける腹を決めている云々。

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"10,000 Famous Freemasons" [2007] by William R. Denslowからの引用

Franklin D. Roosevelt

Thirty-first President of the United States, b. Jan. 30, 1882 in Hyde Park, N.Y.

Graduate of Harvard in 1904, and attended Columbia U. Law School, 1904-07.

Practiced law in New York City from 1907-33.

Was member of N.Y. state senate, 1910-13, when he resigned to become assistant secretary of the Navy, 1913-20.

Elected to governorship of New York two terms, 1929-33.

Was Democratic nominee for vice president in 1920.

Became president in 1933, serving until his death in 1945.

Elected to four terms, he was the only president ever to serve more than two terms.

A member of Holland Lodge No. 8, N.Y.C., he received his degrees, Oct. 10, Nov. 14, Nov. 28, 1911.

Received the 32° AASR (NJ) at Albany, N.Y. Feb. 28, 1929, while governor of N.Y. Member of Cypress Shrine Temple, Albany, N.Y; Tri-Po-Bed Grotto, Poughkeepsie, N.Y;

Greenwood Forest Tall Cedars of Lebanon, Warwick, N.Y.

In 1930 he was appointed representative of the Grand Lodge of Georgia near the Grand Lodge of New York.

He was present and took part in the degree, when his son Elliott was raised Feb. 17, 1933 in Architect Lodge No. 519, N.Y.C., and was made and honorary member of that lodge on this occasion.

He was at the time president-elect.

On Nov. 7, 1935 two more sons, James and Franklin D. were raised in this lodge, and their father was present.

He was an honorary member of Washington Centennial Lodge No. 14 (March 15, 1933), and Stansbury Lodge No. 24, Nov. 21, 1919, both of Washington, D.C., as well as Capitol Forest No. 104 of the (p. 2435) Tall Cedars in that city (March 31, 1933).

He was elected an honorary member of Almas Shrine Temple, Washington, D.C. on March 23, 1934.

Made honorary member of Tri-City Chapter No. 103, National Sojourners, Londonville, N.Y., on Feb. 18, 1931.

During his years as president, he received many delegations of Freemasons at the White House. On April 13, 1934 he became the first honorary grand master of the Order of DeMolay. d. April 12, 1945.

この如き20年来確定されたフリーメイソンの東洋政策に日本が屈伏して,大陸から総退却すれば,

日米間の暗雲は一掃され(四王天氏は,日本を一旦中国大陸におびき寄せることというのもまた,フリーメイソンの東洋政策とまでは考えなかった(?))

日米親善は出来ようけれども,

そうなれば,日本は日清戦争(1894-1895)前の小島国に立ち戻ることで,必ず内部崩壊を免れ得まい。

それが,世界共和国建設を目的とするフリーメイソンの狙い所であり,

世界をユダヤ律法によって支配せんとするユダヤの希望するところであろう。

ヤーネル提督の放言

皇紀2599年(西暦1939年)8月,米国極東艦隊(United States Asiatic Fleet (1902-07,1910-42))の司令長官ヤーネル提督(1875-1959)が,離任帰国の際,

人に語ったところの左の放言は,全く右ルーズベルトの決意と符節を合するので,

決して偶然の一致ではなく,

フリーメイソンを元首とする米国の一派が固く決定していることと思う。

すなわち,

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自分としては今,米本国へ転任して帰ることはうれしいけれども,

ジャップの最後の一兵が支那大陸からたたき出されていく姿を見送れないのが誠に残念である。

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米国首脳部がこの如き考えで財政的に,軍事的に,はたまた精神的にフリーメイソン蒋介石(1887-1975)を助け,

日本へは輸出禁止を行ってこれを弱めんとする敵性行為を強化していくならば,

日本が伝統的親米政策維持の希望を捨てると否とにかかわらず,

不幸なる結果を生ずるや明らかである。

また数年来,ドイツに対する米国の憎悪心の涵養が,英独戦争(1940/7-1941/5)によって助長され,

特に英国の危急迫るに従い,米独衝突の危険は日に増大すると見られる。

現下の状況は,宣戦の布告なき戦争が既に戦われつつある。

一朝,米独干戈に訴えることになれば,日本も同盟の義務によって立たざるを得ず,

ここに第2次世界大戦が成立することとなり,

長年暗黒なる秘密力が待望したる大動乱となるのである。

しかしてなぜに世界の大動乱を作るかといえば,既述の如く,

これによって第2次世界革命を作り全世界を疲弊の極みに陥れ,

然る後,金権によるユダヤ支配にまい進し,

エルサレムと称するヨーロッパ・アジア・アフリカの交差点たるパレスチナ(イスラエル)のを本拠とし,

その首都エルサレムを六合(りくごう)の中心とし,

差し当たり国際連盟の本部をこれに移し,

終にユダや純血族のを復活して永久平和の世界国を作らんとするにあり,

皇紀2584年(1924年)筆者が国際連盟に赴く途中,既に船中にて,

将来の本部はエルサレムに定まるべき旨,連盟の関係幹部より聞き得たるところである。

その後,連盟本部はジュネーヴ湖(レマン湖)畔に新たに建築を見て,

エルサレム移転が夢想であったように感ぜしめたが,

皇国盾を突きて脱退され(1933/3/27),独・伊も後を追うて連盟を去り(独: 1933/10/19,伊: 1937/12/11)

今や米国へ移転を伝えられるが,

それは戦乱の間であって,結局は東大陸に帰ってエルサレムに落ち着く筋書きかも知れぬ。

■パレスチナに関するイギリス・イスラエル密約

皇紀2600年(西暦1940年)6月20日,ユダヤは英国と秘密条約をロンドンにて調印して,パレスチナ(イスラエル)をその一属領とすることが伝えられた

(ユダヤと英国との秘密条約によって実質的に,イスラエル建国のためパレスチナの一部をユダヤに譲渡したということ?)

戦後発効の約束であるから,実現性についても疑わしき点もあるが,

参考までにこれを抄訳すると,右条約に署名したのは,

英国側はチャーチル首相(1874-1965,任期: 1940/5/10-1945/7/26,1951/10/26-1955/4/5)外相(エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵),1881-1959,任期: 1938/2/21-1940/12/22)及び国璽尚書(クレメント・アトリー,1883-1967,任期: 1940/5/11-1942/2/15)で,

ユダヤ側はワイズマン教授(1874-1952,初代イスラエル大統領: 1948-1952),シエルトック(シェルトック(?))らである。

条約の前文には1917年バルフォア宣言の精神に基づき,ユダヤ人に土地を与える事柄を永遠に確立するために,

秘密条約を締結したと記している。

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この条約は5か条からなり,

第1条には,ユダヤ自由国(イスラエルということ(?))政府を完全な自由と主権を有する全英帝国の一部として承認し,

これをドミニオンに編入すること,

ユダヤ自由国は英国皇帝をもってユダヤ王と認むと規定し,

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第2条には,ユダヤ自由国の領土は大体において現在のパレスチナ国境内の全ての領土であるが,

アラビア人だけ住んでいる東南隅のネゲウ地方トランスヨルダン移管すること,

その代償として,これに相当する領土をシリア及びエチオピアの高原地方から割譲させること等,

領土の範囲を定め,

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第3条には,直ちにシオン固有の軍を建設する,これがため英国は教育係人員・器材を供給すること,

平和条約成立後5年間は,英国がユダヤ自由国の保護に任ずること,

及びこれが必要上追って定むる艦隊及び空軍の根拠地を占領することを規定し,

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第4条には,英蘭銀行(イングランド銀行)保証の下に,英国=シオニスト協会を創立し,過渡時代の諸問題を取り決めること,

(British Zionist Federationと呼ばれる団体があるようですが,ただ,こちらの設立は1899年となっています)

及び,英国=シオニスト通商条約を締結して,英猶両国の経済問題を律することを規定し,

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第5条には,英国政府はこの条約実施のためには,可能な範囲におけるあらゆる努力を尽くすべきこと,

及び,この条約は平和会議の終了と同時に効力を生ずること,

並びに,この条約は将来の平和条約本文の一部をなすべきことを定め,

シオニストユダヤ自由国建設のため必要なる事項は,今より直ちに着手すべきことを約束している。

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この条約の可能になるのは現在の戦争で英国が勝った場合に限るので,

独伊の地中海作戦(1940-1943)が成功すれば,この条約は画餅に終わるであろうが,

ともかく彼らユダヤと英国とは右条約に見るような目的をもって進みつつあることは確からしい。

過去数千年のユダヤの歴史を見ると何か成功しそうになっては躓き(つまづき)

賽の河原(さいのかわら)を繰り返し来たったことは既に述べたが,

今回は神国日本を向こうに回しての画策であるとすると,その転落は一層確実でなければなるまい。

第8編 日本の対ユダヤ・対フリーメイソン策

第1章 概説

新参者日本は先輩の体験を聞け

必ず経過する5つの階段

放逐は解決とならず

祖国を与えよ

親イスラエル学者ベロックの解決案

第2章 親イスラエル主義

ユダヤ利用の危険

同祖論を警戒せよ

キリスト教徒賀川のユダヤ弁護論

八紘一宇の履き違い

第3章 反ユダヤ主義

感情的,宗教的

経済的根拠

政治かく乱には日本が最も敏感に反対すべきはず

血液問題は今は第二義に置く

フリーメイソンは禁止すべし

第4章 まつろはしむ

結言

引用書目

(☆を付したのは,著者がユダヤ人

∴を付したのは,著者がフリーメイソン)

☆Bible (英,仏文及び邦訳)

☆The Babylonian Talmud (English Edition) 1 - 10

☆The Jewish Encyclopedia (1 - 12)

☆The Encyclopedia of Jewish knowledge

Hilaire Belloc: The Jews.

Encyclopedia Britanica.

Nelsons Encyclopedia.

☆The Treasure of the Talmud.

Jewish Life in Modern times: Israel Cohen (1879-1961).

Le livre de l'Apprenti (manuel d'instruction initiatique, rédigé à l'usage des FF. ... du 1er degré)

☆∴Protocols des Sages de Sion: Mgr Jouin

Protocols des Sages de Sion: Roger Lambelin

Protocols of the Learned Elders of Zion.

☆Albert Cohen: Paroles Juives.

☆Albert Cohen: Revue Juive.

Andre Spiré (1868-1966): Les Juifs et la Guerre (スピール著『ユダヤ人と大戦』).

Henry Coston: Les francs-maçons célèbres.

Jérôme et Jean Tharaud (1874-1953): Quand Israël est roi.

The Fritsch: Handbuch der Judenfrage.

Wichtl (1872-1921): フリーメーソンと世界革命

Drumont: La France Juive (I. II.) 

Bible history.

Nesta Webster: World Revolution.

Nesta Webster: Secret Societies and Subversive movements.

Maurice Paléologue (1859-1944): La Russie des Tsars (I. II. III.) 

☆E. Cohen: La Question Juive Devant le Droit International Public.

The Bent: Anglo-Saxons from Palestine.

Michel (生没年不詳) : La France sous l'étreinte Maçonnique

☆Stekloff: History of the first International.

Shadwell: The Socialist Movement. (I. II.) 

スピリドーウィチ(1873-1952)著 ボルシェヴィズム発達史() 

☆Kallen: Zionism and World Politics.

☆M. Beer: Fifty Years of International Socialism.

Ruppin (1876-1943): The Jews in the Modern World.

R. Lamberlin: L'Imperialismo l'Israel.

ルッピン(1876-1943)現今之ユダヤ種族

H. Chamberlain: La Genèse du XIXe siècle.

Olivier: Pologne, Pologne.

K. Bergmeister: Der judische Weltverschworungsplan. (Die Protokolle der Weisen von Zion vor dem Strafgerichte in Bern) 

A. Hitler: Mein Kampf.

箕作元八(1862-1919)著 フランス大革命史() 

∴A. Robbions: English speaking Freemasonry.

古垣鐵郎著 国際連盟と世界の平和

Paul Copin-Albancelli (1851-1939): La Guerre Occulte

Paul Copin-Albancelli: Comment Je suis entré dans la Franc-maçonnerie et Comment j'en suis sorti?

∴J. Rouseau: Contrat Social.

I. Zangwill (1864-1926): The War for the World.

☆B. Mirsky: Les Juifs et la Revolution russe.

改造社編 社会科学大辞典

☆フリッツカーン原著 人種及文明国人としてのユダヤ人

☆フーゴー・ヴァレンチン原著 反ユダヤ思想及運動

☆Jewish World

☆Jewish Chronicle

☆Univers Israelite

La Vieille France

Welt Dienst

Liberation

☆Opinion

☆Israels Messenger.

H. de Vries de Heekelingen (1880-1942): Israël, son passé, son avenir.

☆M. Friedlander: The Jewish Religion

☆Abrahams: Judaism

愛宕北山著 世界の秘密

∴The History of Freemasonry in Shanghai and North China

∴Dans l'Atelier

Le Complot Germano-Bolcheviste.

付録 第1 支那ユダヤの悲劇

付録 第2 英イスラエル帝国主義の秘密政治機関とみられるフリーメイソン

1 イギリスフリーメイソン略説

2 イギリスフリーメイソンの首領としての貴族,王,王族

3 フリーメイソンとユダヤの結合

4 イギリスフリーメイソンの紋章はユダヤ式で一ユダヤ人の考案になる(挿図)

5 イスラエル・イギリス帝国主義の秘密政治機関とみられるフリーメイソン(実証)

6 新ヨーロッパより排斥されるフリーメイソン

付録 第3 シオンの議定書

訳者注

(1) 本議定書の経緯並びにその真偽については,本文第5編第7章を熟読玩味せられたい。

(2) 20年ほど前に初めてこれを読んだ時,数年前これをある論評のために所々再読した時に比して,

今回この世界動乱に渦中で,公表のため三読したときとで,

だんだん胸の打ち方が深刻になっていくことを告白する。

これを読む者は,単に興味本位や,ユダヤに反対せんがための材料としてでなく,

よく真面目に世界の現状及び歴史と対照してこれを考察し,

我々の政治・経済及び思想に関する三省の資料とし,

将来の大いなる参考とすることをお勧めする。

殊に将来,ユダヤが彼らの王ダヴィデの皇統を無窮に伝えようとする点に注目をすれば,

いかに我が国体の尊厳であるかを賛嘆するに至るであろう。

(3) 本書はその原文がフランス語であった点に顧み,

フランス文3種を基準とし,外に英露文各1種及び邦文5種を必要に応じて渉猟したが,

議定書と名づけながら,実は講演原稿のようで,決して法的に議定したものはないと認められるから,

字句の末に拘泥せず,原文に忠実というよりも寧ろ分かりよい書き表し方を採った。

議定書のそもそもの言い出し初めから,善言美辞の言い回し方を捨ててかかっているのであるから,

その点を尊重して,平たく訳出した点をお断り致しおく。

(4) 原文に「我々」というだけで意味がハッキリ浮かんで来ないところには,

「我々ユダヤ」と訳出したところもある。

(5) 第1議定の初めから,ゴイという字が毎回出ているが,

これは我々非ユダヤ人を指すので,ゴイムとはその複数を指すのである。

第1議定

第2議定

第3議定

第4議定

第5議定

第6議定

第7議定

第8議定

第9議定

第10議定

第11議定

第12議定

第13議定

第14議定

第15議定

第16議定

第17議定

第18議定

第19議定

第20議定

第21議定

第22議定

第23議定

第24議定