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【Her.(1)】
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 日差しは高く、教室のカーテンの隙間から私の頬を撫でる。

 その光は今の私にも暖かく届くし、だからこそ目を背けたくなった。

 今日も午前中はほとんど寝ていたからか、次の教科も思い出せない。

 昼休みはまだなはず。のろのろと教科書を準備しようとして、結局やめる。

 嫌いな梅雨も過ぎた頃には期末テスト期間もすぐ終わり、

 そうこうしているうちに高校2年生の夏休みの始まりが見え始めていた。

 部活だの遊びだの、クラスの皆が自由に過ごせる高校最後の夏に向けてはしゃぐ中、

 私だけが1年早く受験生になったみたいに重い顔をしている。鏡を見なくても分かる。

 私の周りの時間は飛ぶように過ぎていた。

 3月のあの日からずっと置いてけぼりの私の気持ちを、まるで無視するみたいに。

「――はー! おりゃー!」

 また微睡みの中に沈もうとしていた私の背中を、全力で釘打つ肘。

「っだ。……ちょっと、阿澄。何してくれてんの」

 はー、というのは掛け声じゃない。

 この私・西木野羽鳥(にしきの はとり)のあだ名だった。

「だってだって~、はーが朝から死にそうな顔してるんだも~ん」

「……朝? 今、3限終わりかそこらじゃ」

「何言ってんのまだ2限前だよ! あっははのは、しっかりしてよはー!」

「最悪……」

 笑い方が馬鹿みたいなこいつは、同じクラスの夢路阿澄(ゆめじ あすみ)。

「ひっひっひ、口では嫌々言ってても顔はすっかり元気じゃん」

「気持ち悪い言い方しないで」

「ガーン!? 私だって傷つくんだぞ、このこの~!」

「ひゃっ!? ちょ、も、もう……!」

 高校1年生の頃、私と阿澄はクラスにできた5人グループの友達同士だった。

 ……実を言うと、そのグループの中でも阿澄は私にとって割と苦手な子だった。

「……ふうっ、復讐完了。ほらほら、授業始まるよー!」

 颯爽と自分の席に戻っていく阿澄の背に私は呆れかえる。

 それでも、口元はさっきよりも少しだけ綻んでいるのが自分でも分かった。

 2年になり、5人が同じクラスになることはなかった。

 私と阿澄は理系選択で、たまたま同じクラスになることができた。

 阿澄はことあるごとに私にうざくて仕方ない絡みをするようになったし、

 不思議なことに、今の私はその絡みをあまりうざいと思わなくなっていた。

「それでですね、今年は海にしようと思うんです!」

「ふーん」

 地獄のような(寝てたから関係ないけど)午前もクリアして、お昼休み。

 他のクラスからこっちの教室にやってきた友達と一緒にお弁当を食べていた。

 私は売店のパンでいいのに、そいつが自分のを押し付けてくるから仕方なくだけど。

「もう……はーちゃん、聞いてますか?

 お昼くらい、音楽よりも私の声に耳を澄ましてくれないと」

 ACROSSをイヤホンで聴いていた私の耳に無理やり入り込む、甘ったるい声。

「聞いてるよ、一応ね。

 なんで私に一々相談するの、阿澄や汀良とでも勝手に進めてればいいじゃん」

「それじゃいやなんです! 旅行はちゃんとみんなで納得――」

「みんな?」

 何気なく返したつもりの言葉が、とんでもない間違いだったことに私はすぐに気づいた。

 友達……西園寺舞衣(さいおんじ まい)の目はまさに私に怯え始めようとしていたし、

 周りにいた皆の会話も一瞬止まっていた。そのくらい、私は冷たい返事をしていたんだ。

「……その。ごめん、舞衣」

「ううんっ、私こそすみません。

 ……はーちゃんの希望もしっかりと聞いて、それから計画したいんです」

「分かってる。いいと思うよ、海。

 舞衣は行くならダイエットしないとって思うけどさ」

「も、もー! 気にしてること言わないでください!」

 1年の頃は、舞衣はそのグループの中でも付き合いやすい方だった。

 とにかくとにかく優しくて、その優しさに甘えていると思うことさえあった。

 ただ、最近は段々と舞衣との距離感が難しいなと感じることが多くなっていた。

 舞衣は不器用なところがあって、それが私への気遣いによく表れるようになったから。

 ……バンドメンバーから無理やり読まされた小説を思い出す。

 主人公は仲のいい5人組でよく過ごしていた。主人公の名前には色彩がなかったけど、

 友達はそれぞれ名前に赤とか青とか白とか黒とか色を持っていて、皆すごく個性的で。

 完成されたグループの中で、本当に気の合う友達同士として仲良く過ごしていた。

 主人公は色々あってそのグループからいなくなるんだけど、

 その先はあまり興味が持てなかったし、適当に流し読みしただけになった。

 いなくなった理由とかも、私たちには全く関係のないことだったし。

 細かい部分はともかく、被っている構図はあった。

 主人公がグループの中からなんであれいなくなってしまったことと、

 その結果、残りの4人ではグループが成り立たなくなりつつあることだ。

 もちろん、クラス替えの影響もあったと思う。

 でも、それ以上に。あの子は私たちのかけがえのない中心だったんだ。

「とっとと帰ってこないかなあ、あいつ」

 いつもの帰り道。

 日向汀良(ひむかい てら)は、不意にそんなことを言い出した。

「………………」

「だってよ~、例の新作も新作じゃなくなっちゃったしさ~。

 あいつとやるためにわざわざ手つけてない積みゲーだけでメモリが埋まるんだっての」

「それは買いすぎでしょ」

「ラッシュがあったんだよ! ゲーマー魂に嘘はつけねえんだ。

 しょうがないしさぁ、今度バンド練ない休みの日でもはーが手伝えって」

「やだ。汀良とゲームするの面白くないし」

「奇遇だねーあたしもつまんないわあいつとじゃないと」

「じゃあもう一人でやってな」

「うおおん! 頼む、この通り!」

 汀良は小学校からの友達で、阿澄や舞衣よりも付き合いがかなり長い。

 私は汀良のことはよく知っているつもりだし、それは向こうからも同じだろう。

 汀良は、私の前でもあの子のことを普通に気にせずに話してばかりだった。

 それを丁寧にできるポジションは中々いないし、正直ありがたかった。

「はぁ……ってか、今汀良のくせにボケ側に回ってない? ほら、とっとと突っ込んでよ」

「えっ何に!? ないボケにいきなり突っ込めって言われてもあたし無理だよ!?」

「なんだ、調子出てきたじゃん」

 2人分の影が、アスファルトへと長く伸びていく。

 少し前まで3人分だったはずの後ろを振り返り、私はまた歩き出した。

 汀良と別れてすぐ。

 色々な香りがごちゃ混ぜになった店先から出てきた、観るだけで安心できるエプロン姿。

「……あら、羽鳥ちゃん! おかえりなさい、今日はバンドなかったの?」

「こんばんは。メンバーが風邪引いちゃって」

 私の家はもっと先だけど、そのお花屋さんは私のもう一つの家だった。

 おかえりという言葉に、たまに本当にただいまと返してしまうこともあるくらいには。

「夏風邪? なら納豆とかいいわよ、羽鳥ちゃんも気をつけないとね。

 今度おっきなとこでライブするんでしょ? 私も観に行っちゃうから」

「え。おばさんが、ですか?」

 意外な言葉だった。

 日高遥香(ひだか はるか)さんは私のバンド活動をいつも応援してくれているけど、

 私たちの世代の音楽は『耳にうるさくて、ごめんね』と言っていた記憶があったからだ。

「うん、たまたま休み取れそうだし。パパも一緒にね……っとと」

 店内から電話の音が鳴り、おばさんは話もそこらで戻っていった。

 私はおばさんの意気込みの中にある意味を噛み砕き、何とも言えない気分になる。

 あの子は私たちのライブを必ず聴きに来てくれた。

 つまり、おばさんが代わりにそうしようとしているんだろう。

 私の家の目の前のパン屋の駐車場に停まっていた、一目で分かる車。

 私は小走りで駆け寄っていき、コンコンとガラスをノックした。

「おじさん、こんばんは」

「おや、こんばんは羽鳥さん。

 この時間帯は珍しいね、今日の学校の授業はどうだった?」

「いきなりそれ聞くのやめてくださいよ。もうテスト終わったんですから」

 運転席に座っていたスーツ姿の日高博人(ひだか ひろと)さん。

 今日もおばさんのためにパンやケーキを買って帰っているらしかった。

「ああ、悪いね。僕の学校ではまだちょうど期間中でさ。

 どうしようかな……よし。気分を害してしまったお詫びってことで」

 おじさんはわざとらしく考える仕草をした後、

 二つあったパン屋の紙袋のうちの一つを丸々私へと手渡した。

「やだ、こんなに食べたら太っちゃいますよ……じゃなくて。いいんですか?」

「なに、羽鳥さんのお父さんとお母さんの分もね。

 つい買いすぎてしまってたんだ、いつもお世話になっていますと伝えてくれるかな」

「……はい」

 私が来た道をおじさんの車が走っていく。

 私は、目の前まで帰ってきていた私の家に向かって……ではなく。

 おじさんからもらったパンを抱えたまま、道なりに歩き出していた。

 街灯に今更電気がつく。

 何でもない、ただの交差点。

 どこにでもありふれている場所。

 私はこの場所であの子と別れて。それきりになった。

 

 2020年、7月初め。

 結愛がいなくなってから、もう4か月が過ぎようとしていた。

【Her.(2)】