「恐れ」

心の片付け方シリーズ

マルコの福音書6章14-16節

2018年6月17日

大野キリスト教会 牧師 中澤信幸

メッセージのポイント

イエス・キリストを恐れることなく、救い主として自分の歩みに招くべし

イントロダクション

テレビ番組で「今から家に一緒に行ってもいいですか」という番組があります。皆さんだったら、どういうふうに答えますか?今、突然誰かが「あなたの家に行ってもいいですか?」と言ったとしたら。

多くの人は、「いや、困ります。今来られても、家が片付いていないから」と答えるでしょう。どうしても、となったら、「ちょっと待ってください。とりあえず片付けますから」と言って、見えるところだけ片付けます。散らかっているものは奥の部屋に突っ込みます。バタンと扉を閉めます。それから、さぁどうぞ、ということになります。

あるいは、違う理由をつけて断る人もいるでしょう。「ごめんなさい、お迎えしたいのですが、急な用事ができてしまったので」とかなんとか言いながら。

今日のテーマは恐れです。ただ単に、怖い、という意味での恐れではありません。あんなジェットコースター怖いな、とか、暗い道で向こうから大きな人が来た、とかいう怖さではありません。

むしろ、本当のことを知られてしまったらどうしよう、大変なことになる、という恐れです。いま、いきなりあなたの家に行きます、と言われたら。中学校のときの抜き打ち検査、そんな日に限って、友だちから漫画を借りていたりします。どうしよう。底板の下に隠して、ドキドキしている、という恐れです。

シリーズのイントロダクション、歓迎

先々週から、「心の片づけ方」というテーマで聖書を学んでいます。一回目は驚きでした。神の恵みに驚かされ続けたい、とお話ししました。先週は、花の日でもあったので、感謝でした。祈りなくして感謝なし、よいことをしてくださる神を知る中で感謝することをお伝えしました。

そして、今日の恐れです。心の中に、誰かに見られたら困る物がある。そういう恐れです。今いきなり家に来られたら困る、今クレジットカードで何を買っているか見せろと言われたら困る。インターネットで何を検索しているか、見られたら困る。私のココロの思いは、人には見せられない。そんなことは恐ろしい。

自分の中の隠し事、後ろめたいこと、それが暴かれるかもしれない、という恐れ。誰もが、ひとつやふたつ、そういうことを抱えていることでしょう。いったい、どのようにしたら良いのか、聖書の語りかけを聞きましょう。

みなさんとご一緒に礼拝できることを心からうれしく思います。はじめての方、歓迎します、ようこそいらっしゃいました。久しぶりの方も、お顔を見れて嬉しく思います。親子室で礼拝している方もいます。インターネットでメッセージを聞いている方、こちらからは顔が見えませんが、神さまがあなたとともにいてくださいます。今日も、ごいっしょに聖書の語りかけを聞きましょう。

イエス・キリストを恐れるヘロデ

今日の聖書箇所は、マルコの福音書6章です。ここで恐れを抱いているのは、ヘロデという人物です。彼は、この地域一帯を収める権力者でした。しかし、絶大な権威を誇るヘロデのような者ですら、イエス・キリストのうわさを聞いて、恐れを抱いた、というのです。

イエス・キリストの存在は、すでに多くの人の知るところとなっていました。一方で、その評価はいろいろでした。生まれ郷里では、「あれはヨセフの家の長男ではないか」という評価でしかありませんでした。しかし、周囲の町で弟子たちが不思議な業を行うと、その主であるイエスに対する称賛は大きなものになります。偉大な人物だと評価する人たちからは、バプテスマのヨハネがよみがえったのだ、と言われていました。また、旧約聖書の預言者の中のひとりだという人もいました。さらに、待望のメシヤとともに現れる預言者エリヤなのだという人もいました。

ヘロデも、イエス・キリストのことについて、報告を聞いていました。驚くべき御業、権威ある教え、それを聞くたびに、ヘロデはこう確信していきました。16節「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」ただバプテスマのヨハネが生き返った、というのではありません。あのヨハネです、自分にとっていわくつきの。あのヨハネは、私が首をはねたヨハネです。

ヨハネを処刑したヘロデ

どういうことでしょう?ヘロデとヨハネの関係は、こういうものでした。ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロデヤを奪い取りました。自分の妻としました。バプテスマのヨハネは、その関係がふさわしくないと指摘します。それで、ヘロデはバプテスマのヨハネを捕らえ、牢に入れました。

と同時に、ヨハネの指摘は正しいことを知ってもいました。その教えに喜んで耳を傾けてもいました。牢の中であっても、ヨハネを保護していました。

一方で、妻のヘロデヤは、自分たちの関係を咎められていることでヨハネを恨み、殺したいと望んでいました。

そんな中、ヘロデの誕生日の祝いの席が設けられました。多くの権威者たちが集まりました。盛大なお祝いです。ヘロデヤの娘サロメが優雅に踊って見せたので、ヘロデもみなも大喜びでした。気を良くしたヘロデは、なんでも望むものを与えよう、たとえ国の半分だって、と娘に誓いました。

娘は母ヘロデヤに相談します。ヘロデヤは、これを最大のチャンスと考えました。娘に「バプテスマのヨハネの首」と言わせます。

王は困りました。そんなことはしてはいけない、と知っていました。自分たちの関係を咎められて、牢に入れていることだって本当は。しかも、それに加えて、首をはねるだなんて。心を痛め、苦悩しました。しかし、国の半分でもあげようと誓った手前、多くの人たちがその誓いを聞いていた手前、実行せざるを得ない、と覚悟を決めます。そして、兵をやってヨハネを処刑したのでした。

このヨハネです。イエス・キリストは、このヨハネが生き返った者なのだ。それで、ヘロデは言い知れぬ恐怖に怯えていたのでした。

秘め事が暴かれることへの恐れ

恐れについて、少し考えてみましょう。恐れとはやましさや、後ろめたさからくるものです。自分のしたこと、していることについて、よくないという自覚があります。ひとたび、そのことを指摘されれば、罰を受けなければいけません。

だから、悪しきことを、人にはわからないように隠しています。表向き、正しい人を装っています。裁かれて罰を受けたくない。正しい人だと知られていなければいけない。罪に問われるようなことはしていない。

人に見られてはいけないもの、知られてはいけないことは、隠します。奥のクローゼットに突っ込みます。押入れの奥深くにしまい込みます。こちらの部屋は入ってはいけない、と扉をしめて、鍵をかけます。

えっ、今から家に来るのですか。ちょっと待ってください。まずいものは全部片付けますから。そこでお茶を飲んでください。ジロジロいろんなものを見ないでください。トイレ行くのですか。ちょっと待ってください。他の部屋の扉は開けないでください。

本当の姿を知られてはならない、隠さなければならない、いつもビクビクしながら警戒しています。恐れを心に抱いて生活しなければいけません。

心のうちに秘め事、隠し事があるとき、人はいくつか典型的な行動を取ります。

ひとつは、それに気付かれないように、よいことで隠すことです。私はこんなによいことをしていますよ、悪くありませんよ、ということです。

ふたつめは、距離を取ることです。親しくなろうとしないでください、かまわないでください、私は心を開きませんよ、ということです。

みっつめは、他の人の悪いことに目を向けることです。あの人を見てごらんなさい、ひどいですよね、ということです。

よっつめは、正当化することです。しかたないこと、あの人もしている、この人もしている、と開き直ることです。

イエスを招き入れた取税人レビ

では、5つめの選択肢があることを示しましょう。マルコの福音書2章に取税人レビのことが記されています。取税人というのは、ローマに対する税金を集める役割の人です。支配されている立場のイスラエルが、支配している側のローマに税金をおさめる。とても屈辱的なことです。取税人はその片棒をかつぐ、非国民だと後ろ指を指されていました。罪人扱いでした。社会的にも、そういう人たちが集まってきて、友だちづきあいをしていました。

イエス・キリストは、取税所に座っているレビに目を留めました。そして、「わたしについてきなさい」と語りかけました。レビは立ち上がり、躊躇することなく、イエスに従うことにしました。これまでの生活をあとにして、イエス・キリストとともに新しい生活をしようと決めたのです。

その後、イエスは、レビにこう言いました。あなたの大切な人たちといっしょに食事をしようではないか。これは、困ったことです。レビの友人たちと言えば、同じ取税人仲間、水商売の遊女たちなど、悪い遊び仲間ばかりです。イエスにそんな友人たちを知られるわけにはいかない…「立派な方々と一緒に食事をされたらいかがですか」「いい人たちをお願いしてなんとかごまかそう」しかし、レビはそうしなかったのです。

レビは、いつものとおり、自分の友人たちを食卓につかせました。明らかに、律法学者たちや、立派な家庭の食卓とは雰囲気が違います。そこに、イエス・キリストを招きました。こんな人たちと付き合っているのか、と責められるかもしれない。あなたはいままでどれほど悪いことをしてきたのか、とばれてしまうかもしれない。

しかし、レビはイエスをさばき主として恐れ、自分の現実を隠すことはしませんでした。かえって、イエスを自分の現実に招き入れました。恥ずべき、隠したい、やましい自分の現実にイエス・キリストを招き入れたのです。このとき、イエス・キリストは、さばく方ではなく、救う方として迎え入れられたのでした。

秘め事に対する5つめの選択肢

これが、第5番目の選択肢です。ごまかすのでもなく、拒否するのでもなく、人に目を向けるのでもなく、正当化するのでもなく。自分のありのままの状況に招き入れることです。そして、解決してもらうことです。

イエスは言いました。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。病人は「具合の悪いところはどこですか」「ありません」とは言いません。なぜでしょう?助けが必要だからです。

心の奥の押し入れに突っ込んで、扉をしめて、鍵をかけて、何もありません、ではない。ひっちゃかめっちゃかで、醜く、目も当てられないような私の現実。それこそ、隠すべきものではなく、いっしょに片付けてもらうべきものです。

まとめ

ヘロデは、イエス・キリストを恐れました。自分がヨハネを処刑したことをさばかれると恐れていました。キリストは、確かに力あるお方です。しかし、その力は、罪人を救うための力です。恐れるのではなく、私たちの現実にお招きすべき方です。今日、イエス・キリストがあなたのところに行こうと言われたら、素直にお迎えしようではありませんか。