「欲望」

心の片付け方シリーズ

マルコの福音書7章14-23節

2018年7月1日

大野キリスト教会 牧師 中澤信幸

メッセージのポイント

心のうちに聖霊を住まわせることで、私たちの思いが神に向けて整えられる

イントロダクション

部屋が片付かないことには、いくつかの理由があるようです。物が多すぎる、収納するスペースがない、片付けをする習慣が身についていない、など。しかし、断捨離でものを処分しました。これはここ、それはあそこと収納スペースを整えました。ほら、見違えるようになりました。ということになっても、片付いた部屋を維持できるかどうか、はまた別の問題です。

というのは、片付けたそばから散らかしていく人がいるからです。それは誰でしょう。ある時はペットです。あるときは自分です。あるときは家族でしょう。せっかく片付けたのに、すぐにまた、元の散らかった部屋に戻ってしまいます。部屋をきれいに片付けておきたいならば、散らかす厄介な存在をどうにかしなければなりません。

「心の片づけ方」というシリーズで、マルコの福音書を学んでいます。一週目は驚き、神の恵みに驚かされて生きること。二週目は感謝、祈りなくして感謝なし。三週目は恐れ、キリストを恐れず自分の現実に招くこと。今日も、心の片づけ方をご一緒に見ていきます。今日のテーマは、心をかき乱すものを手なずけることです。片付けたそばから散らかしていくものを飼いならし、心の安定を保つことについてお話しします。

パリサイ人と律法学者たちが大切にしていたもの

イエスのもとに、パリサイ人、律法学者たちが来ました。彼らは、立派な振る舞いをする人物たちでした。数々の神の教え、律法を守ることに取り組んでいたからです。

昔モーセの時代、神が十の戒めを石の板に書き記し、与えました。民は、神が与えた律法を整えるようになりました。解釈の余地のある部分は口頭の伝承で補い、それも含めて律法であるかのように、守り行ってきました。

その一つが、きよめのしきたりです。神の前にきよく歩むべし、ということが、いくつもの規定で補足されるようになりました。例えば、食事の前に手を洗い、身をきよめることは、衛生上の理由からだけではなく、宗教上も必要とされることとされていました。ですので、さまざまなものが売られている市場から帰ってきたならば、身を洗ってきよめてから食事をするのが常でした。また、杯や水差し、銅器なども、衛生上の理由以上に宗教上の理由から洗い清められる必要がありました。

パリサイ人たちは、このようなものを厳格に守ることを、自分たちの存在理由だと考えていました。このことのゆえに人々に尊敬されてきました。律法学者たちは、解釈の必要な現実問題に答えを与え、人々に律法を守ることを徹底させる役割を担っていました。

弟子たちへの非難に対する応答

そんな彼らが、イエス・キリストの弟子たちの行動を見ました。弟子たちは、なんと手を清めずに、パンに手を伸ばしていました。これは、彼らの目から見たら、ありえない、重大な律法違反です。弟子たちの行動を非難して、イエス・キリストに尋ねました。「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか」

それに対して、イエス・キリストが応答します。パリサイ人、律法学者たちの律法を守ろうとする姿勢の中に、三つの過ちを指摘しました。このいずれのことも、私たちにも起こりうることです。信仰に熱心であろうとしたとき、神の教えを守ろうとしたとき、キリスト教が宗教になり、聖書が生活のルールブックになるとき、陥りやすい過ちです。

ひとつめの過ちは、パリサイ人たちが神に対する思いを失っていることでした。

7章6-7節 「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」

パリサイ人たちも、律法学者たちも、熱心でした。しかし、それでありながら神に対する思いを失ってしまっていたのです。神を抜きにして、自分たちのものさしや基準で、宗教的なきよさを求めることに終始します。人間の教えになってしまっていたのです。

ふたつめの過ちは、パリサイ人たちが優先順位を間違えていることでした。

神が与えた律法よりも、自分たちが守るように定めた付随的な教えのほうを重要視するようになってしまっていました。たとえば、コルバンのことが例に出されます。

7章10-12節 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。

彼らは、ひとたび神に捧げられたもの、コルバンは何事があっても融通されたはならない、と教えました。たとえ、家族、父や母の緊急の必要であっても、捧げ物を取り消してはならない、と言ってきたのです。神が定められた、より本質的な「父と母を敬え」を後回しにして、彼らが後から決めた補足的なルールを優先してしまっていました。

みっつめの過ちは、パリサイ人たちが 見当違いな理解をしていることでした。

7章14-15節みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。

きよめとは、外面的な儀礼をしたかどうか、で判断されるものではありません。事実、食べ物を食べることについて、食べ方や清め方によってきよさが判断されることはないのです。すべての食物は神が与えられたゆえにきよいものです。と同時に、その人のうちに神を敬う思いがなければ、何の、どんな儀式をしたとしても、神の前にきよいとされることはありません。

異邦人もユダヤ人もなく

このことがマルコの福音書に記されていることには、意図があります。この福音書を読む教会にも、異邦人たちの扱いをめぐる理解の不足があったことでしょう。これから、イエス・キリストの宣教は、異邦人に向かっていきます。それに先駆けて、神の民だけが律法をもつ選びの民として優れているのではないことが示されるのです。律法をもたぬ異邦人もまた、変わらぬ神の恵みの中に導かれます。使徒の働きで、ペテロがみた幻と同じです。あらゆる動物が敷布に乗せられて天から降りてきた、屠って食べなさい、それはできません、神がきよいとしたものをきよくないと言ってはならない、というやりとりがあった。そのことをとおして、異邦人とユダヤ人の間に神の恵みの区別はないのだ、ということが明らかにされました。

ユダヤ人は律法を守っているからきよい、異邦人は神の律法を持たないから汚れている、そのような区別はキリストにおいて既に意味を持ちません。神は人を外面的なもので分け隔てすることなく、その内面を見て取り扱われるのです。

心の内にあるもの

では、心の内を外側から入ってくるものが汚すことはないとして、反対にどのようにして心の内をきよくすることができるのでしょうか。

キリストは、人の心のうちから出てくるものが人の歩みを汚すのだ、と言われました。そして、人の心の内から出るものを特徴づけて、13個あげました。それを4種類に分けて紹介しましょう。

ひとつは、神を抜きにして自己中心に考えようとすることです。この箇所では、悪い考え、高ぶり、愚かさと記されています。本来、神を中心にし、神にある自分の歩みとは、どういうものかを考えるべきです。しかし、神を抜きにして、私の都合のよい歩みとはどのようなものか、考えるようになってしまっています。神より自分を上において高ぶった結果、愚かな選択をしてしまうことすらあります。

ふたつめは、本来あるべきでない関係で心を満たそうとしてしまうことです。ここには不品行、姦淫、好色という言葉で書かれています。性的な逸脱を表す事柄です。聖書が性的な逸脱を語る時、ただ単に性的な快感、快楽を欲して行動することだけを戒めているのではありません。むしろ、本来神が与えられた結婚関係の中で味わわれるべき性の充足を、結婚外の関係の中に求めてしまう。一番深い結びつきによる充足を、向かうべきでない人との表面的な関係に求めてしまうことを戒めています。

みっつめは、物質的なものを手に入れ、豊かな生活を誇ろうとすることです。ここでは、盗み、貪欲と示されています。神が生活に十分なものを与え、満ち足らせてくださっていることを理解せず、自分にとって必要なものを、自分の手で得ようとします。少々の物では飽き足らず、都合よく自分の手に入るように仕向け、その暮らし向きを誇ろうとします。人の欲はとどまることを知りません。

よっつめは、他人をおとしめて優位に立とうとすることです。ここでは、殺人、よこしま、欺き、ねたみ、そしりと表現されます。人と人とは 助け合い、協力し合い、お互いの生活を成り立たせるために良いパートナーであるべきです。しかし、お互いを競争相手とみなし、あるいは自分の生活に邪魔な存在だと見なし、自分の生活を良いものにするために、人に危害を加えることすら企ててしまいます。

心の中をちらかしまくるもの

大きく分けるとこの四つの物が、様々な形で心の中にうごめいています。どれも、本来はよいものであるはずなのに、神から目をそらし、本来の形を失う中で、人の歩みに悪い影響を色濃くもたらしています。

悪い知らせのひとつは、私たち人間の誰もが、例外なくこれを住まわせていて、自由ではないということです。程度の差はあれ、誰もが心の内にうごめく厄介な存在に支配されています。聖書はこれを罪と呼び、本来あるべき姿から的外れな状態になっていることを示しています。

さらに、もうひとつの良くない知らせは、誰もそれをコントロールすることができない、ということです。律法学者やパリサイ人たちのように、事細かな律法、教え、戒めをもってしても、心の内にうごめくこれらのものをコントロールすることはできません。正しくあろうとする、すぐそのそばから、心のうちで暴れる罪の性質が、厄介にもふさわしくない行動を生み出していくのです。

聖霊を心のうちに住まわせることで

それでは、果たして、心のうちを乱されまくってしまうとき、私たちの歩みがふさわしく整えられることはないのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス・キリストは、十字架により人々の罪を赦し、これらのふさわしくない罪の思い、行動をすべて無きものにされました。

あわせて、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と語りました。教会に当てられた書簡には、「聖霊を心のうちに住まわせなさい」と言われています。神の霊が心の内に働くとき、悪しき思い、ふさわしくないものは、神の取扱いの中で変えられていきます。

聖霊によって、自己中心的な考え方は、神の御心を求めるものに変えられます。結果として、私たちの中に思慮深さをうむことにもなるでしょう。

聖霊は、性的な親密さを違うものに求めてしまうことについても取り扱い、本来大切にすべき関係を育むように導きます。結果として、その関係の中に、この上ない喜びを見出すことができるでしょう。

聖霊は、物質を手に入れ、その生活を誇ろうとする思いについても、それを作り変えます。既に手にしているものを喜び、満足する心になります。また、それを喜んで分け与える思いへと導かれていきます。

聖霊は、他人をおとしめて利用する思いを、人々を尊重し、尊敬する思いへと作り変えます。思いを整え、他者を尊重し、自分に与えられているもので自分の歩みを全うするように導きます。

まとめ

このようにイエスキリストがもたらす聖霊との歩みによって、私たちの心の内が作り変えられ、歩みが作り変えられます。外面的な教えや戒めによってではなく、心の内を作り変えられて、神の前にきよいものとされるのです。あなたもそのような歩みを願いませんか。神のみことばのとおりに、実現することを待ち望みましょう。