以下に訳したのは、アメリ・ラモン(Amélie Lamont)が始めたオープンソースのガイドGuide to Allyship ( https://guidetoallyship.com/ )です。2021年8月4日時点での内容を訳出していますが、オープンソースという特性上、内容が変更されることもあります。
allyというのは最近日本語でもカタカナで「アライ」として使われるようになってきている言葉で、当事者ではないけれどマイノリティ・グループを支援し、一緒に差別の是正を目指すひとのことを指します。このガイドでは、きちんとマイノリティ・グループの支援ができるちゃんとしたアライになるための心得が語られています。
これを訳したいと思ったのは、「差別には反対している」と言いながらその振る舞いが実際にはマイノリティたちへの無自覚の攻撃になっていて、結果的に相手をひどく疲弊させているようなひとをいくつか立て続けに見て、「たぶん私たちはまだちゃんとアライになるための作法を知らないのだ」と感じたためでした。あとは、このガイドを見ていただければわかりますが、失敗してしまったときの謝りかたの話などもあり、「差別に反対したいけれど下手なことを言ったりしたりして自分が責められるのが怖くて、何もできない」というひとへの手助けになると思ったというのもあります。
訳者としては、このガイドがアライとなりたいひとたちの手助けになったり、あるいはマイノリティ当事者の側がアライに「こんなふうにしてほしい」とわかりやすく伝えるためのツールになったりしたなら、と思っています。
アライになるためのガイド
こちらは、いまよりもっと思考と行動の伴ったアライになるためのオープンソースの入門ガイドです。
このガイドを使ったり引用したりしたいかたは、こちらのライセンスをご確認ください(https://guidetoallyship.com/license/)。
このガイドが役に立ったというかたは、よかったらお茶をご馳走ください(https://www.buymeacoffee.com/amelie/)。
アライになるためのガイドへようこそ。
よりよいアライになるための旅へはさまざまなところから歩み出すことができますが、このガイドもそうしたたくさんのスタート地点のひとつだと思ってください。またこのガイドは、何から何まで行き届いているようなものを目指してはいませんし、完璧なものを目指してもいません。私よりもはるかに事情に詳しくて、この手の教育をライフワークとしてきたひともたくさんいます。
最近の出来事や悲劇を思い返すと、「アライ」という言葉を耳にする機会が多かったようです。たくさんのひとが「アライ」になりたいと思っていて、そしてそれよりもたくさんのひとがアライであるために果たさなければならない義務を果たせずにいます。
ここで私は「アライ」という言葉をゆるく使っていますが、それは自らを「アライ」と任ずるひとたちがこの言葉を頻繁に使い過ぎていたり、しばしば濫用していたりしているようだったからです。現在はそのように誤って使われている言葉ではありますが、だからといって違う言葉を使ったりしても、混乱を招くだけでしょう。このガイドを読む際には、「アライ」についてのあなたの定義がここで紹介する定義と一緒ではないかもしれないということに注意してください。
すでにこの世の中にはたくさんの素晴らしいガイドが出回っていますし、私もそうしたガイドが存在しているということはわかっています。そんななかでこのガイドが独特なのは、これがオープンソースである(誰でも加筆できます)ということと、人種差別だとかトランスジェンダー差別だとかジェンダー差別だとかといった具体的なところには踏み込まず、しかもあえて踏み込まないようにしているということです。
このガイドは、これさえ読めば十分というものにはなりえませんし、なるべきでもありません。どこかの段階で、あなた自身が責任を持ち、自分自身の教育を進める必要が生じます。このガイドを読み終わったら、ぜひそこからさらに学んでいくための方法を見つけるようにしてください。
最後に付け加えると、このガイドは、「アライになるとは」ということを考えるあらゆるひとたちが、アライであることによってもたらされる物事が持つさまざまな側面を、その正負ともによりよく理解できるようにするための資料となっています。アライは、構造的な抑圧によって日々その生活を脅かされているような人々と協働する際の、自分の役割を理解しているものなのです。
アライであるということの責任を、軽く考えないでください。
2016年の夏のことでしたが、黒人である私が人種差別主義者に責め立てられているなか、アライだと思っていたひとがそばにいたのに、ただ眺めているだけだった、ということがありました。さらに残念なことに、その日、私はこのひとに差別の状況においてアライが生み出しうる力について話したばかりでした。それでもいざ行動すべきときが来たら、そのひとは自分の安寧を守るほうを優先したのでした。
私は狼狽えてしまい、何が起きているのか理解できませんでした。私たちの会話がうまく噛み合っていなかったのだろうか? そのひとは何が芳しくいかなかったのだろうか? そのとき、にわかにわかったのです。
アライを名乗るのは実際にアライになるよりはるかに簡単なことなのだ。アライを名乗れば見た目は立派になれるのだ。特に、実際には何も行動に移さないということについて疑問を突きつけられるようなことがなければ。
多くの自称「アライ」は衣服みたいに言葉や思想を身につけていて、その衣服は流行が過ぎるとあっさりと脱ぎ捨てられてしまうのです。
蔑ろにされているコミュニティのひとたちも、そのせいで目をつけられることになるそのアイデンティティを、そんなふうに簡単に脱ぎ捨てられたらどんなによかったでしょう。
私は「アライ」という言葉をゆるく使っていると上で述べました。実のところ、私個人はこの言葉をもう使っていません。とはいえ、この言葉はより良いアライになろうと努めているひとたちの最初の一歩としては良いものだと心から思っています。また、どうしたらこの言葉のもっと良い定義を与えられるだろうと検討する機会にもなると思います。(私が見たなかで)もっとも優れた「アライ」の定義は、ロクサーヌ・ゲイ(Roxane Gay)による『マリ・クレール』の記事「黒人の命を粗末にさせないということ」(“On Making Black Lives Matter”)にあるものです。そこで彼女はこう述べています。
黒人にアライは必要ない。私たちが必要としているのは、人々がその場から去ったり距離を置いたりせずに立ち上がり、抑圧から生じる問題を自分自身の問題として引き受けることである。
私たちが必要としているのは、人々がこうしたことを、たとえ自分の人種、エスニシティ、ジェンダー、セクシュアリティ、能力、階級、宗教、その他のアイデンティティのあらわれのゆえに抑圧されるというのがどういうことかを自分自身は十分に理解できなかったとしても、それでもするということである。
私たちが必要としているのは、人々が良識を用いて社会正義への参加の仕方を理解することである。
要約しましょう。アライになるというのは、必ずしも抑圧されるとはどういうことなのかを十分に理解するということではありません。そうではなく、権利を求める運動を自らのものとして引き受けるということなのです。
蔑ろにされているコミュニティに属すひとは、抑圧を通じて形成されるそのアイデンティティ(複数のアイデンティティが関わることもあります)という重荷を、思い立ったときに簡単に脱ぎ捨てるというわけにはいきません。そのひとは、それが良いことであろうと悪いことであろうと、その重みを毎日いつでも背負うのです。アライは、この重荷を自分も一緒になって運び、絶対に手を離さないようにしなければならないのだ、ということを理解しています。
誰にだってアライになるポテンシャルがあります。アライは、自らが支援している蔑ろにされ抑圧されたコミュニティの一員ではありませんが、それでもそうしたコミュニティの人々の困難をさらによく理解しようと、毎日いつでも確固たる意志のもと努力します。
アライは抑圧される人々よりも多くの特権を持つことがあり、そうした特権を自覚しているので、抑圧された人々の声のすぐ隣で発せられる力強い声となります。
アライであるというのは大変な活動です。
多くのアライ志望者は、「なんとか主義者」とか「なんとか嫌悪」とか(人種差別主義者、性差別主義者、トランス嫌悪、同性愛嫌悪、など)と呼ばれることになりかねない失敗を自分がしてしまうことを恐れています。けれど、アライである以上、あなたもまた抑圧構造の影響下にあります。これはつまり、アライである以上、捨て去るべきことと学ぶべきことがたくさんあって、そのときに失敗があるのは織り込み済みだということです。これを事実としてしっかりと受け止める必要がありますし、そのうえでだんだんとうまくやっていくよう日々努力しようとしなければなりません。
アライである以上は、日々、自分の失敗をしっかり受け止めたうえで率先して自らを教育する必要があります。
自分の言葉や振る舞いが構造的な抑圧によってどうしようもなくかたちづくられ、影響されているということを認めまいとするなら、自ら率先して自分の失敗への道を舗装することになるでしょう。
自分自身に目を向けないというのはアライに見られて良いありかたではありません。そんなことをすると、自分が助けたいと思っている人々への抑圧に手を貸すことになります。もしこのことを理解しようとせず、それでも「アライ」を名乗るならば、あなたは実質的に羊の皮を被った狼となります。あなたは弱者コミュニティに忍び込み、そして「信頼」を得ているがゆえに、大っぴらに「なんとか主義者」や「なんとか嫌悪」であるような人々が持つよりもはるかに強い力を発揮することになります。
社会が一晩では変わらないのと同じように、あなたも一晩では変わりません。そこで、あなたが学び、成長し、アライとしての役割に踏み出すにあたって考慮しておくべき、いくつかの重要な「すべきこと」と「すべきでない」ことを挙げておきます。
すべきこと
すべきでないこと
(プレスリー・ピッゾ(Presley Rizzo, https://github.com/presleyp)の加筆。この節への言及の際にはプレスリーをクレジットすること)
失敗は織り込み済みとはいえ、それを挽回するときに進むべき最善の道とはどのようなようなものなのでしょうか?
【注記】この節は、アライであるとはどういうことなのかについての自身の定義を紹介するカイラ・リード(https://mobile.twitter.com/iKaylaReed/status/742243143030972416?utm_source=guidetoallyship, @iKaylaReed)のツイートに基づく内容を含んでいます。こちらの定義も、この節を読んでいくうえで助けになる素晴らしいものとなっています!
あなたが持っている特権というのは分厚いブーツで、あなたが誰かの足を踏んづけても、誰かがあなたの足を踏んづけても何も感じないで済むのに対し、抑圧された人々はサンダルしか持っていない、というように想像してみてください。もし誰かが「痛っ! 足踏んでるよ」と言ってきたら、どう反応しますか?
抑圧についてふだん考えるときと比べて、誰かの足を本当に踏んづけるという場合についてははっきりと考えることができるでしょうから、多くのありがちな反応の何が問題かはすぐわかるでしょう。
実際には、誰かの足を踏んづけてしまったときの正しい反応というものをたいていのひとは自然と理解しているので、マイクロアグレッションをおこなってしまったときの反応の仕方について、それをもとにして学ぶことができます。
公正で公平な仕方で反応するというのは誰かが勝手に決めたルールを学ぶだとか、玄関マットになるだとかといったことではありません。本当のところは、その場にいる全員の尊厳と敬意とを回復し、維持することなのです。傷つけられた側のひとも、あなたも、どちらも。そうは言っても、こうした問題はこの社会では大いに非難されることになるので、いざそのときになると、このことを思い出すのは難しいものです。だからこそ、私が述べてきたことは、状況を捉え直し、「自分を守らないと」と感じないで済むための役に立つかもしれません。
お気づきかもしれませんが、自分の知らない何かを正されたとき、そのことに感謝し、学ぶ機会を得たのだと受け入れるようにしたほうが、間違ってしまったと恥じるよりも楽に対処することができます。エゴを捨てられるというのは、ものすごく重要な、育んでいくべきスキルなのです。
まずは自分の気持ちを和らげるために「教えてくれてありがとう」と伝えることから始めてみましょう。そのように伝えたあとで、自分の置かれている状況について考える時間がいくらか必要だというのなら、それも構いません。ただ覚えておいてほしいのは、これは相手の心の持ちようを変えるためではない、ということです。相手は、抑圧されているということについて腹を立てていてもっともなはずなのですから。
失敗をして、それを謝りたいとします。何から始めたらよいでしょう?
謝るためにはまず、謝罪とは何かをわかっていないといけません。
謝罪というのは、自らを有責とする社会契約です。謝罪はほかのひとたちに、あなたが責任を取り、自分がしたことがもたらした結果を受け止め、今後はもっときちんと振る舞うようにするつもりでいるということを告げるものです。
駄目な謝罪というのは、プライドとエゴを守るためのパフォーマンスです。その存在意義は、謝罪した側の気分を良くし、また外面も保ちつつ、そのひとの意図を擁護することにあります。
ちゃんとした謝罪というのは、プライドとエゴを捨てた、心からの振る舞いです。謝罪する側がどのような意図であったのであれ、損害を受けた側を関心の中心にします。
苦痛はその原因と結果が比例しないことがあるものだと考えてください。極端なことをせずとも甚大な損害を与えることはできるのです。たまたま誰かをミスジェンダリングしてしまったというだけでも苦痛を与えることがあります。誰かの足を踏んづけてしまうだけで苦痛を与えるように。
謝罪は物事をすっきり解決させる魔法ではありませんし過去の失敗を取り繕ってもくれませんが、それでもちゃんとした謝罪というものを織りなすいくつかの特徴を挙げることはできます。
ちゃんとした謝罪というのは、適切な場所、時間の、適切な場面においてなされるものです。
自分がどのような状況で謝罪をしたいと思っていて、それが自分だけでなく謝罪を受ける相手にどのように影響するのかをよく考えてください。
ここで状況といっているのは、あなたの心理状態(自分の身を守らないと感じる? 動揺している? 緊張している? 落ち着いている?)も含んでいますし、あなたが入っていこうとしている物理空間(プライベートな場所なのかパブリックな場所なのか)も含みますし、謝罪の手段(電話、オンライン、テキストメッセージ、対面)も含みます。
ちゃんとした謝罪というのは、謝罪を受けた相手が同意したときに成立するものです。
あなたがいますぐ謝罪をしたいと思ったからといって、相手がそれに対して心の準備ができているとは限りません。ゆっくり消化する余裕が必要なひともいますし、その場合にはそれを尊重すべきです。相手がもしまたあなたと交流を持ちたいと仮に思ったなら、それを知らせてくれることもあります(し、そうでないこともあります)。
ちゃんとした謝罪というのは、謝罪をしたからといって自分の望む結果になるとは限らないと覚悟しつつなされるものです。
謝罪を受けた相手は二度とあなたと交流しないことを選ぶかもしれません。謝罪をしたあとにそのようになることもありますし、謝罪をすることさえできずにそうなることもあります。あなたはそのこととどうにかして折り合いをつけなければなりません。相手に押し付けたり、侮辱を与えたりして謝罪を受け入れさせるというのではいけません。
こうしたことに関して私たちが自分に与えることのできるもっとも素晴らしい贈り物のひとつは、ほかのひとが自分のために始末をつけてくれると期待するのをやめ、自分のなかで始末をつける方法を学んでいく、ということです。
ちゃんとした謝罪というのは、謝罪した側が自分の行為の責任をすべて引き受けているということを知らせるものです。
謝るというのは要するに、自分のエゴを捨てたうえで、自分が相手を気にかけていて状況を改善したいと思っていると表明することなのです。ちゃんとした謝罪は、謝罪を受けている当人を関心の中心におくものです。またちゃんとした謝罪においては、苦痛をもたらした行為をはっきりと名指すことで、自分がそれをしてしまったのだと率直に認めるのでなければなりません。
このガイドはオープンソースで、要するに誰でも加筆できます。私自身はクィア・ブラック・フェムですが、このガイドは私の声だけからできているわけではありません。
あなたが自分は何かしらの蔑ろにされているコミュニティの一員であると認識していて、このガイドに加筆したい場合には、こちらのGitHubリポジトリ(https://github.com/almnt/guide-to-allyship?utm_source=guidetoallyship)にプルリクエストを送ってください。
もしGitHubユーザーではないけれど加筆したいというひとがいたら、guidetoallyship [to] byamelie [dot] co までメールをお願いします。
このガイドは無償で作成され、自由に共有できる資料として提供されています。ここに含まれる内容を利用する際には、このサイトをクレジットするのを忘れないようにしてください。
このガイドがもし役に立ったなら、どうぞ支援と思ってお茶でもご馳走いただけると嬉しいです(https://www.buymeacoffee.com/amelie?utm_source=guidetoallyship)。