「ひだかゆあです」
「う、うん。わたしは」
「にしきのはとり。おかあさんからききました」
「……あぅ」
その子は、突然うちにやってきた。
私は4歳くらいまで別のところに住んでいたけど、そっちの記憶はほとんどない。
パパの仕事の関係で引っ越した後の今の家が私の家で、この町が私の故郷だ。
その子の家とは引っ越してすぐに親同士が仲良くなったらしかった。
その日はその子の両親が忙しくて、しばらくうちで預かることになったんだけど……
「きょうはおねがいします」
「え……あっ、あの……」
私の部屋のその子は、クッションの上にちょこんと姿勢正しく座っていた。
まだ小学校にも入る前なのに、その佇まいはどこか薄ら寒くすらあった。
じぶんのへやを唐突に侵した異物が嫌で一度は逃げ出したけど、
ママからの『結愛ちゃんと仲良くしなさいよ』という言葉を思い出した私は、
用意されていたお菓子の籠を一生懸命抱えて、意を決し。もう一度部屋に戻った。
「ゆ、ゆあちゃんっ。あのね、おかしね」
「いりません」
たったの一言で、私のちっぽけな勇気は叩き折られた。
「……っ」
怖くて怖くて泣きたくなった。
目の前の女の子は、私と同じ女の子じゃない。
だって……あんな、虫みたいな目で私を見てくるんだから。
「………………」
それでも私と、私の後ろを見つめているその子から、今度こそ私は逃げようとして。
「やだ……あっ!?」
お菓子を持ってくる時に落としていた、袋に入ったおせんべい。
それを思いっきり踏んづけた私はみっともなく転ぶ……ことは、なかった。
「……おもいです」
腰を打つ痛みの代わりに伝わってきたのは、身体の暖かさで。
まるでそれが分かっていたみたいに、その子が私の背中にいた。
「ゆあちゃん……!? ごめ、ご、ごめん」
また座り直したその子の額は赤くなっていた。床で打ったんだろう。
……流石に、そこまで私が観察できていたとは思えないから。思い出の中の脚色だ。
「いいです」
「で、でも……」
「いいです」
どうすればいいか分からず慌てる私と、ただそう繰り返すその子。
私が狼狽えていた間にも、散らばったお菓子をせっせと籠へと戻してしまう。
向き合い、まざまざと突きつけられるうちに、またさっきの気持ちがぶり返してきた。
「……っ。こ、わい」
遅れて、その子が瞬きした。
その言葉が自分に向けられたものだと気づいたんだろう。
「ちがいます」
「う、っ」
縫いつけられたように動けなくなった。
そうじゃないの、そんなつもりでいったんじゃないの。
でも、その子が口を開こうとすると、さっきの感情がまた呼び起こされる。
ごめんなさい、ごめんなさい。思っても乾いた口から声は出ない。
いやだ、やめて、たすけて。わたしをみないで。いわないで。
このこが、こわい――
「わたしはせかいいちかわいいです」
「………………え?」
「おかあさんとおとうさんがそういっています。だからわたしはかわいいです」
心臓が掴まれたような衝撃は、次第に引いていった。代わりに……
「あふ」
「?」
「あはっ、あはははは!」
あまりのギャップに、私はおかしくなって大笑いしてしまった。
それからもう一度その子を見たら、そこには私と同じ女の子がいた。
分かりにくいけど、私が笑っているのにその子も驚いていた……うん、驚いてたんだ。
「どうしてわらうんですか」
「だ、だって……ゆあちゃん、かわいい」
「わたしはかわいいです」
「もうっ!」
もう一度、私はお菓子をその子に勧めた。
また断られたけど、私が一緒に食べたいと伝えたらようやく受け取ってくれた。
それからは、家事を済ませたママも部屋に来て、私たちの様子を見守っていた。
ママはあのコンポで私と結愛に女の子向け雑誌の付録のCDを聴かせてくれた。
今の私じゃたまにしか聴かなくなった、甘々なアイドルソングだ。
「かわいい」
「わたしのほうがかわいいです」
「このこがかわいいの!」
ずっとずっと言い合っていた気がする。
「――あったかしらねえ、そんなこと。羽鳥ちゃんのママから聞いたような気はするけど」
「小さかった私が覚えてるのに、おばさんが忘れてどうするんですか……」
「いやーもうこの歳になると何から何まですっ飛んじゃってね! アハハハ!」
私の家と結愛の家の付き合いはあれから10年以上続いている。
両親の帰りが遅くなりがちな私は、こうして夕食をごちそうされるのも珍しくなかった。
「たしか、結愛と羽鳥さんが5歳だったよね。
あの頃から1年くらい、僕も遥香もお互いの親戚のことで色々と忙しくていたんだ」
「そうそう、でも結愛に寂しい気持ちはさせたくなかったから。
羽鳥ちゃんにはほんと感謝してるわ! もちろん、ママとパパにもね」
「いえ……幼稚園は馴染めずにやめちゃいましたから、私。
小学校も、結愛と最初は同じクラスだったから楽しくやれたと思ってます」
「汀良さんはその時にだっけ」
「はい、小学校で」
「懐かしいわね~思い出したり思い出さなかったりしてきた」
「…………はっきりしてくれよ、ははっ」
――会話の間。
「……だってしょうがないじゃないの~。じゃあ私も昔話しちゃうから」
おばさんとおじさんが話し出したところで、リビングの空席を盗み見る。
結愛がいたら、あそこでおばさんに素早く突っ込んでいたんだろう。
その晩のおばさんのカレーは、結愛好みの甘口じゃなくて私の好きな辛口だった。
「えっへん。見てくれましたか、さっき送った旅行の計画!」
「見た見た、いいんじゃねえの?」
「うん」
翌日の汀良との帰り道。今日は舞衣も一緒だった。
いつになく私は上の空で、舞衣の話にもあまり乗れていない自覚があった。
目を背ければ、あの年から強調されるようになった海抜の表示が胸を刺した。
「あすちゃんは部活が終わったら確認してくれるそうです。
きちんとした相談はこれからですけど、今年は私のお姉さんがついてきてくれます」
《え、あのすっっっごい可愛いおねーさん!? にひひ、やったー!》
……足が止まる。
「へ―、あれ? お姉ちゃんこれから就活じゃなかったっけ?」
「大学3年生ですのでもう少し先ですね。お母さんは急かしてますけど……はーちゃん?」
肩が震えだしていたことに、私はまだ気づいていなかった。
「あ、あのさ。
やっぱり、私。不参加じゃダメ、かな」
「……はー」
「今年はバンドに集中ってか、全振りしたくて。
それだけじゃなくって、親から成績が落ちてることも言われてて……」
私の態度にまごつく舞衣を押しのけるように、汀良が私の前に立った。
「そんなんでバンドに集中できんのかよ」
「っ……!」
「別に、行きたくないならそれでいいけどさ。
そんなテンションのお前と行っても、お前も私たちも楽しくないだろうしな」
「あ、あのっ、てらちゃん」
「……でも。お前がそんな風にずっとうじうじしてるの、結愛が観たら――」
「結愛の気持ちなんて、私には分かんないでしょ!!」
張り裂けそうなほど大きな声だった。
自分でもそんな風に思えるほどで、そう思えた時にはもう遅かった。
「……っ、ご、ごめん。私、先帰るね……っ」
2人が呼びかける声や、握ろうとする手を振り切り、私は走り出した。
私は弱いから、ぼたぼたと流れる涙を堪えることもできやしない。
あの時も、私と違って。結愛はちっとも泣かなかったのに。
見上げた空は高かった。
日はとっくに沈み、私には視えなくなっていた。