購読ゼミ第六回レジュメ                       2024年8月31日
                                作成:濵田恒太朗

『動きすぎてはいけない』P40の1行目からP46の14行目まで

ドゥルーズ哲学 P40
・私たちの思考のフレームから分離した事物それ自体の世界(あるいは自然)を描こうとする傾向を顕著に有している
→ドゥルーズ哲学についての説明。

ポストポスト構造主義の先駆者としてのドゥルーズ P41
・事物それ自体の非意味的切断において、看取しようとする

・(半面では)接続するよりも切断、差異よりも無関心=無差別、関係よりも無関係

・根本的にバラバラな世界にあって、再接続を、差異の再肯定を、再関係づけを模索することが、もう半面
→そして、著者の考える
ポストポスト構造主義の要

切断されつつの再接続、これを「個体化 individuation」論において考察するのが、本稿の第二の課題である。個体化とは、事物がひとつのまとまりとして存在するようになることである。P.43
→「個体化 individuation」論とは、「事物がひとつのまとまりとして存在するようになること」を論ずること
→「個体化 individuation」論において「切断されつつ再接続」することを考察する

→ひとつのまとまりとして存在するようになるということは切断されつつも再接続することによって接続されていくということ
→接続されることで事物はまとまりとして存在するようになり、その事物の存在を認識することができる
→細胞や分子のレベルにおいても結合しているということは、接続している
→接続だけではなく、人間の体の中の細胞やさらに小さな単位でのまとまり、かたまりにおいても、死滅したり、変化したり切断ということも起こっている
→しかしながら、切断と見なされるものが起こった後にも、事物として、個体として存在している以上は、また接続を行っている

→こうした人間の体の中で起こっている営みも、切断されつつ再接続するということだと言えるか

第一の課題(P.31−32)
ドゥルーズ(&ガタリ)の生成変化論において、非意味的切断を改めて重視することである。これは、従来の解釈においては十分に行われてこなかった。なぜか?
→一方で、多くの論者は、接続の原理を優先し、先の切断B=<リゾームの途中での有限化>を明視せず、接続の拡大を目的化しがちであった。
→切断よりも接続
→本書とは逆の立場、方向性

ドゥルーズの特徴
・形而上学への傾き

・構造をバラしながら別のしかたで再構成すること ー(他から切断された)個体の新しく仮の状態を作ることー への積極性であると考えられる
→<複雑的な外部性における個体化>を、事物それ自体の経験において問うことになる。

形而上学(けいじじょうがく)とは、
→存在そのものや宇宙の根本原理を探求する哲学の一分野である。 物事の本質や真理、実在といった抽象的な概念を扱い、物理的な現象を超えた領域を考察する。 形而上学は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスに始まり、その後の西洋哲学に大きな影響を与えてきた。

愛の拡大を自称する管理社会=福祉の拡大が、私たちの孤独を奪っていく。P.44
→私たちは生まれてくるときも、死んでいくときも孤独な存在だというような表現は目にすることがあるが、実際にそうだ
→何事かを選ぶにも、最終的には自分自身であって、自分以外の誰か何かが存在しているとしても、その存在は自分に替わりうる自分ではなく、あくまでも他人である
→孤独であるという営みは、何事からも切断された状態である
→一方で、「管理社会=福祉の拡大」は、私たちに常に接続した状態を強いる

→愛の拡大というのは、管理するということに対する皮肉
→気にかけているずっと見守っているという状態として使った表現か?
→社会で生きていく中で、他者との関わりの中で生きているが、極論は誰もがみんな孤独な存在である
→家族や友人、仲間という関係性、意味的な接続があることによって、その孤独を意識しなくても生きていくことができる

→でも、孤独は常に生きている以上は常に存在しているし、そのことを認識しておくことも必要だ

→管理社会においては、人間が一つの個体として存在していること、一つの個体として選ぶということすらも許されない、認められない可能性を孕んでいる

→人間の尊厳がもはや管理される対象として、接続されていることによって個としての認識が薄れていくと言えるのではないか

すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性 finitude」のために、あちこちを乱走している切断である。特異な有限性のために偶発する非意味的切断は、「すぐれてクリティカルな体験」に劣らず、何らかの「本能」や「共同幻想」とされるものを、ズタズタに破砕する。P46
→非意味的切断と呼ばれるべきものがどういうものであるのかを述べている
→管理社会においては、描かれる共同幻想のようなものがあるのではないか
→すべてが最適化され、合理化された社会においては、何も起きない
→非意味的切断が起こることによって、再接続、非意味的接続も可能になるのではないかと思った

                                       以上