唱題行について
唱題は日蓮正宗の信心の上で最も重要な行であります。しかるに池田学会流に染まった多くの人が本来の唱題行から離れた祈祷の行をやっているように思われます。即ち唱題と祈りとを混同して、自分の願望の叶うことをひたすらに念じながら題目を唱えるのが唱題と考えているようですが、これでは祈祷行以外の何ものでもないではありませんか。唱題とはそのようないい加減なものでは断じてありません。最大事の仏道修行そのものなのであります。
三大秘法の本門の御本尊に向かい御本尊を信じて唱題するのを本門の題目といいますが、大切なのはその際の一念です。「命已に一念にすぎざれば」 (持妙法華問答抄 平成新編御書 299㌻)とありますように、命といっても一念の連続です。一念とは瞬間、瞬間の己心をいいます。したがって唱題という行をする時の一念がいかなるものであるかが極めて大切なのであります。
言うまでもなくその一念とは「信」の一念でなければなりません。御本尊を久遠元初自受用無作三身如来即日蓮大聖人の御当体であることを信ずる、あるいは御本尊は日蓮大聖人の尊極の御境地・御内証そのものであることを信ずる等の「信」の一念であります。六道に迷う我が願望の叶うことを念ずるのは祈祷であり、この祈祷の一念と「信」の一念とは明らかに違うのです。
「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云々、
「日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり___ 一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり」 (義浄房御書 新編御書 669㌻)
この御文について第六十五世日淳上人は次のように御指南されています。
「此の御文を拝すれば、大聖人の御内証の仏界は一心欲見仏不自惜身命であらせられ、そのところが自受用無作の三身・妙法の当体にましますところをうかがうことができます。時々念々作々発々の振舞いそのところに、ひたすら仏を見んとする一心が仏であるぞと仰せられたものと拝せられます」
唱題の一念とはまさしく、このような信心の一念でなければならぬのであります。
御本尊に唱題する本来の目的は、御本尊に境智冥合してわが己心に仏界を涌現するにあります。故に「観心の本尊」と仰せです。本尊抄の「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」(新編御書 646㌻)について、日寬上人は「我が己心を観ずるとは、即ち本尊を信ずる義なり。十法界を見るとは、即ち妙法を唱うる義なり。いわく、ただ本尊を信じて妙法を唱うれば、本尊の十法界全くこれ我が己心の十法界なるが故なり」 (文段)と説かれています。また「我等一心に本尊を信じ奉れば本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華經と唱え奉るは我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり」 (文段)、「信行具足をまさに本門の題目と名ずくるなり」 (文底秘沈鈔)と仰せです。
唱題という行に信が同時に具わってこそ本門の題目であり、このような強盛な唱題により我が身が御本尊と境智一体となれる(=即身成仏)ことを強調しておられます(この「信」が邪信・狂信ではなく富士の正義(しょうぎ)に照らし正信でなければならぬのは言うまでもありません)。
しかるに南無妙法蓮華經と口で唱えていても、我が願望の叶うことを祈る欲念は六道の迷心そのものであって、仏を見たてまつらんとする信心の一念とは全く異なります。この祈祷の一念が生じている時は、信心の一念は滅しています。同時に二念は生じえないからです。すなわち自分の願望を叶えてほしいという一念が生じている瞬間は、御本尊とは冥合していません。したがって唱題の初めから終わりまで自分の願いのみを祈っているのでは、ついに信心の一念なき行になってしまい、御本尊と境智不冥合のままに終って、本来の唱題行とはほど遠いものになりかねません。いうなれば祈祷の行、祈願の行ということになってしまい、本門の題目の修行とは到底いえないのです。願いの叶うことを祈りつつ唱題せよという御指南は、御書のどこにもございません。 「願いを具体的に込めて唱題せよ」とはまさに邪師の妄言なのです。
勿論、大聖人は祈祷を否定してはおられません。「法華経をもていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし」 (祈禱抄 新編御書 622㌻)と仰せです。又、祈願しつつ唱題するのが謗法であるとも言えません。たとえ発心が真実でなくとも正境に縁することだけでも功徳がはなはだ多いからです。しかしそれは初信の人に対し〝与えて〟言っているのであり、信心十年、二十年の人の唱題行としてはあまりにもお阻末に過ぎましょう。
大聖人が祈りについて言及される際には「申す」と表現されています。
「たヾ嘆く所は露命計(ろめいばか)りなり。天たすけ給へと強盛に申し候」(経王殿御返事 新編御書686㌻)
「何なる世の乱れにも、各々をば法華経・十羅刹(らせつ)助け給へと、湿(しめ)れる木より火を出だし、乾(かわ)ける土より水を儲(もう)けんが如く強盛に申すなり」 (呵貢謗法減罪抄 新編御書 718㌻)
「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」 (祈禱抄 新編御書 630㌻)
これ等の御文の如く、祈りと題目を唱えることとは明確に区別しておられます。「申し」ながら唱題することは到底できることではありません。このことからも唱題と祈祷・祈念とはきちんと立て分けていくべきことがお分かりでしょう。故に当宗の勤行では四座の観念のところで祈念するのが原則です。
六道の欲念からの願いを御本尊にひたすらに祈る祈祷行の唱題を、数にとらわれながら盛大に行なって信心強盛と錯覚し、本米の仏道修行たるべき唱題行にはるかに及ばぬ域で自己満足している多くの人々の姿を見るにつけ、まことに悲しく、勿体ないと思うのであります。
「但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華經と唱え候ひて」
(松野殿御返事 新編御書 1169㌻)
「信心強盛にして唯余念なく南無妙法蓮華經と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり」
(本因妙抄 新編御書 1679㌻)
これらの御文の「余念なく」に注目しましょう。「信の一念」でないのは「余念」であります。「信」を込めれば「余念」はなくなります。この「信の一念」の正しい取り方について、六巻抄の最後にある日寛上人の甚深の御指南を拝しましよう。
「此(かく)の如き三宝〈注=(仏宝)南無日蓮大聖人、(法宝)南無本門戒壇の大本尊、 (僧宝) 南無日興上人師・日目上人師・嫡々付法歴代の諸師〉を一心に之を念じて唯当(まさ)に南無妙法蓮華經と称(とな)乃(すなわ)ち一子を過ごすべし」 (当家三衣抄)
このような「信」をしっかり込めて唱題に励むことが大切です。そして妙法仏界に冥合しゆく功徳の中に、宿命の転換・生命力の湧現・諸天の加護等の一切の果報が具わっていることを強く確信すべきです。正宗七百年間一貫して唱題はこのようになされてきたことをゆめゆめ忘れてはいけません。 唱題は無上の尊い仏道修行そのものである故に、正しく厳格にそして真剣に行じなければなりません。御本尊の仏力・法力はまことに甚深無量であります。
以上
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註、この「唱題行について」の文は、注文を受けた福島源次郎著「蘇生への選択」(平成元年十月刊)を発送する際、必ず同封された一文である。
「福島さんの名前は書かないのですか?」
と、私(小川)がたずねると
「石田(次男)先生も小冊子を出されているが、版権よりも一人でも多くの人に読んでもらいたい『コピーは自由です』とされている。私(福島)も同じ考えで名前を書かなかった。それに名前を入れると学会幹部から回収指示が出されるかもしれないからね」
いま日蓮大聖人御聖誕八百年を真近に控えて唱題行の大切さはいうまでもない。「本門の題目」とは何かに思いをいたし、信心修行の一助となれば幸いと思い、「唱題行について」の一文をご紹介する次第である。
なお、文中引用の御金言は「日蓮大聖人御書全集」から「平成新編日蓮大聖人御書」の頁に改めた。
令和2年6月23日
政教分離を考える会
日蓮正宗善福寺信徒 小川頼宜 磯村千恵子