法話ライブ at  京都道場  2014年6月28日

聖書 第2回

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=rXxQYKsFOow

イエスが教え始める前に40日と40夜の断食をしましたのは、有名な話ですね。

ブルースにもなっています。

(注:Muddy Waters - Forty Days and Forty Nights 1956年 試聴 

断食の後に空腹になられた、と書いてあります。なんかこれ、当たり前ですね(笑)

すると、悪魔が出てきます。

お釈迦様も悟りを開かれる前に悪魔が出てきて誘惑しました。

よく似ていますね。

お釈迦さまも日蓮上人も、明けの明星に悟りを開くのですが、通常、心が覚醒する前は大変な葛藤を体験します。

「葛藤無くして悟りなし」なんです。悪魔が何を意味しているかというと、そうした葛藤の象徴

なんですね。多くの人は、そこで修行を挫折してしまうことが多いのですが、、、。魔(我)の囁きを聞いてしまうんですね。もっとも、魔はいつも囁いてはいるのですが。

悪魔は、「腹減っただろ。その石をパンに変えてみろよ」と言いました。

するとイエスは、「人はパンのみに生くるにあらず」(人はパンだけで生きているわけではない)と返事した。「いや、おかずも欲しい」。あっ、これはジョークね(笑)

人はパンだけで生きているわけではなく、

「神の口から出る言葉によって生きている」と答えられました。

どういう意味なんでしょうか?

神道とユダヤ教と密教には、共通点があります。

「言葉は霊である」ということです。いわゆる言霊信仰です。

念仏も、阿弥陀さまの名前(六字の名号)のパワーを基本としています。

で、神道には、元々文字というものがありませんでしたが、

密教だと、サンスクリットが聖なる言葉(真言)とされています。

それで作法の中で、木の棒でサンスクリット文字を書いたりします。

念仏は広義には密教ですから、真言宗の作法は浄土宗の中にも入っています。

それで、儀式の中で「キリーク」と言うサンスクリット文字を水の中で書き、

その霊を入れる、ということをやります。

※注:キリークは千手観世音菩薩を象徴する呪文(種子真言、種字)

千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、願い事をすべて叶えて下さるという観音様。また、聖観音の変化した姿で広大無限の慈悲を持ち、広範囲にわたって微細に人々を救うと言われていて、悩みを救い願いを全て叶えてくれる万能の菩薩。

ユダヤ教の場合は、特に文字が大事なんです。

それで神様の名前は決して言ってはいけないのです。

エホバ(ヤハウェ YWHW)。

ゲッセマネという所でイエスが捕まります。捕まる直前に「ヤハウェ!」と言ってしまいました。

するともう、みんながヒエー!っとびっくりしてひっくり返った。これはユダヤ教徒にとって、死刑になるほどの罪なんです。

言霊というのは言葉→霊と書きます。

しかし、逆転して考えたほうが、これの本質がわかります。

まず宇宙は一切大霊です。

霊が元になって、すべての存在があるわけです。

そして、霊と存在と言葉、この三つは一体なんです。

つまり、霊から存在も言葉も生まれてくるわけです。

「人が神の言葉によって生きている」というイエスのことばは、人が神様の霊によって生かされている、という意味でもあるし、また、霊は必ず言葉として表れるという意味でもあります。

ユダヤ教では言葉が無いところで、霊があるとは考えません。

かならず言葉がある、と捉えます

仏教文化では言語道断とか無称光とか、「言葉で表せない」という表現が出てきます。

「そんなことは言語道断だ」、というのは、元来、「言葉で表現できない」という意味です。

イエスは悪魔に、「あなたが悪魔を拝むんだったら、地上のものを全部あげて、この世界の王者にしてあげよう」と言われます。

しかし、イエスは「ただ神にのみ仕えよ」と返事しました。

これが意味するとことは、一体この世を本尊とするのか、神を本尊とするのか? というテーマです。本尊というのは、自分が生まれる前にいたところであり、自分が死んでいくところです。

─────

神様は必ず支えてくれるというのなら、飛び降りて見ろ」と言われたら

神を試みてはならない」という有名な言葉で返しました。

この3つのことで悪魔は去っていきました。

悪魔とは何なのでしょう。

キリスト教の場合は霊か肉かと分けます。肉は現象、物のこと。

物を追い求めるのか、霊を求めるのか。

肉体は悪魔に属すると言ったりします。

誤解が生じて、肉体を全部否定するガチガチのカトリックの人がいるんですね。

冬でも夏の服しか着ないとか、板の上でしか寝ないとか、そういう徹底した人がいます。

自分で鞭打ったりする人も映画「ダ・ヴィンチ・コード」で出てきました。

肉体を徹底的に否定するようなことをして、非常に深い霊的体験をする人もいます。

一歩間違えると危ないところに行くこともあります。

仏教でも苦行をして 一歩間違えて魔境に入る人もいます。

お釈迦様の生まれた時にヒンズー教の偉い人がやってきて

「王様になるなら、世界を治めるような立派な人になるし、

出家したら世界に教えを広げる人になる」と言いました。

お父さんは焦って、絶対出家させないように頑張ったのだけど…

ご存知のように、結局は出家しました。

イエスの物語は我々のことです、そう捉えると我々が道を踏み外すとき、どういう誘惑があるのか、

悪魔の試みについては何を意味しているのか考えておきたいと思います。

肉体を否定すると一歩間違えたら危ない、非常に不健康なところに行ったりします。

その後に教えを述べられます。

ペトロとアンドレという最初の弟子を作りました。

彼らは漁師だったんですが、魚をとっていたら「あなた達を人間を取る漁師にしてあげよう

と言う言葉で二人の弟子を釣りました(笑)

これも何を意味しているのか謎ですね。

キャッチセールスウーマンじゃあるまいし、ついてきたということは、うまく感応があったんでしょう。

何か意味があるんでしょうが、イエスの言葉はいまいち分かりにくい。

分かりにくいからかえって心に残って読み継がれるという面もあるのでしょう。

分かりやすかったら「あ、そうか」で終わります。

分かりにくいから繰り返し読むわけです

意識はそんなに考えずに、そのまま受け取るかもしれませんが、無意識は考えます。

色んな所に行きながら、人々にヒーリングをやってバンバン治すから人が集まってきました。

彼らと山の上に登って、最初の非常に有名な説教をしました。これが山上の垂訓です。

義に飢え渇いている者は幸いです

人生の真実に飢え渇いている人、というのは相当な人ですよ。

通常はお金や地位といった物、現象に飢え渇いています。

憐れみ深い人たちは幸いである。彼らは憐れみを受けるであろう

人のことで泣ける人という人は神様に理解してもらえます。

宇宙は、すべて作用と反作用です。

だから、

人の痛みがわかるということは自分の痛みが理解されるということです。

人の痛みを理解せずに、誰も私の痛みを分かってもらえない、と文句を言うわけにはいきませんね。

如来様、神様がいて自分がいて他人がいて、この3つがつながります。

如来様とつながることによって他人とつながるのか、

他人とつながることによって如来様とつながるのか、

これは同時なんです。

不即不離というか、利他は即ち他力を受けるんです。

タオサンガの56体系の気のワークにも入っています。

念仏三昧で一切の救いを祈ることは、自らの救いを受けることに即つながります。

人の痛みもわからないで自分の痛みを分かってもらうのは無理かもしれないですね。

心の広い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう

ここはすんなり解釈できます。

これはまさに弁栄上人が語られたことです。

水たまりに泥が入っていると月は映らないけれど、水が澄んでいると月は映るでしょう、

そのように自分の心が浄化されてくると如来様のお姿が心に映ってくるとおっしゃりました。

コンスタンティヌス帝のニカイア公会議だとかいい加減な会議をやって、

聖書の重要な部分はずいぶんと削除されてしまったと思います。

輪廻転生のところなどは削除されました。

輪廻転生を認めるカタリ派という一派がありました。

女性もリーダーだったり、夫婦で伝道師やっていたということがありました。

輪廻転生も認めた、キリスト教の原型のようなところがあったようです。

フランスが中心だったのですが、みんな教会に焼き殺されました。

残念ながら教会になったキリスト教というのは相当違う部分があります

神様を見るなんて一般のキリスト教のイメージには無いでしょう。

でもイエスはここで、はっきりと「神を見る」と言っているわけです。

見神という、神を見ることは宗教において重要なテーマです。

イスラム教のスーフィーにしても自我を脱却して神を見るという、見神を大事にします。

念仏においても、同様です。

弁栄上人が最も大事にされたのは自我を脱却して仏を見る見佛です。

見神と同じテーマですね。

イエス様も神を見た人です。

平和を作り出す人は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう

平和を作り出すとはどういう意味でしょう。

気の世界から言うと、気の働きで二人の気を融合させることができます。

二人の心と心をつないだりとかもできます。

もっと大きな規模ですることによって、調和的な空気にする、そういうことだと思います。

これは浅い部分で、もっと深い意味があるとは思いますが。

最後に、未来を予言して言っているところです。

義のために迫害されてきた人たちは幸いである。天国は彼らのものである

真理を言うほど、本当のことであればあるほど、その人のためにあるほど、我は反発します。

我が望んでいることと、幸せというのは逆というのが面白い。

人生というのは、人間界というのは本当に面白くできていますね。

我に気がつく、我を認識するためには当然、我で我を考えても分かりません。

我を超えた世界、智慧に触れなければ分かりません。

智慧が成長すると、我も成長します。

成長する我に乗っ取られることもあるし、だまくらかされることもあります。

人間界は本当にうまくできていると、つくづく思います。

我が望むことが幸せなんだ、となんとなく思うじゃないですか。

本人がいいならみたいな。

その場はいいけれど、その人の未来を考えると間近な未来でもいい結果をもたらしません。

そのことを言っても、我で以って反発するということが起きます。そういうことがままあります。

それが見えるようになるかどうか、というのがその人にとって大事なことですけど、

見えるようになるために、義、真実に飢え渇いていないといけないですね。

真実に飢え渇いていたらどうなんだろう、と振り返ります。

その振り返りが大事です。

山上の垂訓は、全部がお互いに一つのものの側面だと思います。

心の貧しい人は、という表現が絶妙ですね。

自らが何も得ようとしない人が心の貧しい人ですから。

自らのもの、というのは「自分はこの人よりこの部分が優れている」とか「この部分が勝っている」とかそういう部分が少しでもあったら心の貧しい人ではありません。

心の貧しい人とは、自らを最低に置く人、と言う意味です。

そうすると智慧がいただけて天国が宿る。

本当に幸せな方向に往けるわけです。

心の貧しい処に置ける、というのはすごいことです。

上からやってこないと下に置けないですから

そうでなければ自分が上に行っちゃいますから。

私のために人々があなたがたを罵り、また迫害し、

あなた方に偽ってさまざまな悪口を言う時、あなた方は幸いである

これは未来を予言しているわけです。

イエスのためにすごく悪口を言われるわけです。

自分の我を否定されるというのは我は腹が立つから

いろいろ悪く言います。

喜べ、喜べ、天においてあなた方の受ける報いは大きい。

あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである。

迫害なき宗教革命というのは無いですからね。

だからややこしいのですが。

日蓮上人も迫害されたし、法然上人に至っては弟子が死刑になっています。

日蓮上人は自身が死刑で殺されそうになったのですが、刀が切れたか雷が鳴ったかで死刑を免れました。

(注:竜口の法難 日蓮上人処刑の寸前に上空に月のように大きな光る物体が突如として天空に現れた。このとき、日蓮聖人を斬首する役目をおった太刀取り人の握っていた太刀が折れた。

これは、『法華本門宗要鈔』の記述なので誇張されているが、日蓮聖人を処刑できなかった事実として、語りつがれてきた。)

観音経に「観音様を拝んだり、観音経をあげていると、誰かが斬ろうとしても刀が切れて切れなくなる」と書いてあります。

観音経は法華経の一部ですから、日蓮上人は「これだ!」と思って、ますます邁進していかれました。

イエスはことごとく律法を破るわけです。

それで最後は殺されてしまいます。

神様の名前を言ってはいけない、というのに言って、みながびっくりしたりしました。

だけど、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と言いました。

紙に書いてあることではなくて、神の真意を伝えることが律法だと言っているわけです。

法然上人も同じですね。

誰もが律法でガチガチに縛られている中において、イエスの絶対的な自信というのは神を体験しているからこそ出てくるものですね。

この自信が、2000年たった今でも我々に訴えかけてくる源です。

この世が誰もが否定しても、神の体験は否定できないですから、

是非そこの所に我が道を開いて、お互いいきたいと思います。