ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第30号

 『英国の中国への香港返還のために動いた人々』

              (日本英国中国の結びつき)

 北 広次郎も英国のマンチェスター地区のポップミュージシャンに作詞を提供したりしてスタジオ録音をしたりしてたこともあり、また当時ブラッセルに在住していた、中京地区のアルテフィルハーモニックオーケストラと西尾合唱団の指揮者兼音楽監督をしている田中瑞穂氏(インターネットで索引可。過去にバルセロナオリンピック年のスペインセビリヤ万博、韓国大田市万博、愛知デザイン万博、愛地球万博等でも指揮をしている)が、北広次郎の作詞12作品に作曲しており、ちょうどいい勉強にもなった。

 その後ロスチャイルド家のシャルロッテ・ソプラノ音楽芸術特使が、その作品中の志摩半島の御木本パールアイルランドで書いた作詩・田中瑞穂作曲の『エリザベートと真珠の珠(たま)』を、銀座ヤマハホールで日本語歌詩のまま唱い絶賛を博している。2011年3・11の東北大津波地震福島原発事故の後、開催したチャリティー・コンサートでは北広次郎作詞田中瑞穂作曲の『さすらいびと』を日本語でシャルロッテ音楽文化特使によって日本人以上の哀歓と望郷の念をこめて唱われた。この歌は災害によって、故郷を離れて避難生活を送ってる人々の心情を唱って居るものである。

 東京銀座ヤマハホール公演には、在京の外国大使夫妻も来られていたが、終演後、当時北京大学美術教授であった中国改革開放の立役者の小平先生の御長女が大きな花束を抱えてステージに上がってきて祝辞を述べた光景が実に印象的であった。これは当日予期してなかったハプニングで、最初舞台上にあがってこられ自己紹介をうけるまでは、どこの御婦人か分からなかったのである。

 ほどなくして1997年チャールス皇太子、マーガレットサッチャー首相、ブリットン香港総督が出席しての中国への香港返還式典が挙行された。その日北広次郎は、英国から大阪出張中で、仕事が終わってからその晩元伊藤忠商事の方の行きつけの道頓堀のこざっぱりした小バーに招待を受けたが、10人ほどの小カウンターバーに腰掛けてスコッチを飲んでいたら、隣に外資銀行マンのロンドン生まれの英国人の若中年男と、オーストラリヤ人のフィアンセ女性が座っていた。彼女も銀行員で、二人とも香港駐在勤務中に知り合った仲で結婚寸前の旅行で、今はメルボルンから日本旅行にきているといった。ところが、その英国人男性が、TVで香港返還式典の実況放送を真剣な面持ちでジーッと観入っていたが、突然酒盃をママさんのいるカウンターの中の壁際の、天井に近い位置の棚に設置されたTVのスクリーンに向けて乾杯の仕草をしながら、『あれは英国なんだ』と繰り返し口走っていた。その彼の両頬にはとめどなく涙の大粒が数珠状に繋がり、零れ落ちて行くのが見えた。その瞬間、彼の胸底に落雷を受け周辺には激しい空震が走ったようであった。

 しかしこの大返還劇を演出した仕掛け人達は、むしろ英国側に居た事はインターネットで北 広次郎のミスターヨーロッパで更に触れています。

 そして香港返還に深く関わっていた『中国改革開放の父』である小平先生は、晩年御病床にあった小平先生は、残念な事に香港返還日の寸前に他界されてしまった。その小平先生の御長女が、東京銀座ヤマハホールで私が開催させて戴いたシャルロッテ・ド・ロスチャイルド・コンサート(ノーベル平和賞受賞マザーテレサ追悼記念コンサート)の終演直後、前列客席から大きな花束を抱えて、ステージに上がって来られた夜の事がいまだに鮮明に脳裏に刻印されている。それはまだ香港返還前の事であり、全く想定外の出来事であった。

 しかし中国への香港返還は、英国政治史開闢以来初の女性首相マーガレット・サッチャー首相と、1948年現代イスラエル国を再建したエドムンド(ニックネーム:エディ)・ロスチャイルド第五代当主(その御息女ソプラノ歌手のシャルロッテ女史は私 北の20年来の友人)が最終的に表裏一体で演出したものです。マーガレット・サッチャー首相の御主人デニスは、ロスチャイルド商業銀行頭取でした。サッチャー首相の跡を継いだジョン・メイジャー首相も元はロスチャイルド銀行員であり、保守党員になった。今の香港上海銀行HSBCは99年間英国が香港を借款してた時代のアジヤ最大の金融活動の一大拠点で、その発祥から大株主がロスチャイルド家であった。英国の香港返還は、世界を変える一大転換事象であった。

 そして香港返還後 やがて北京オリンピック・ロンドン・オリンピックに繋がるが、その発端になったのは、日本の長野オリンピック招致のときから始まっていた。 オリンピックと世界万博はセットになって繋がってゆくケースが多い。典型的な例を見ると、1952年である。特に発展途上国では、その傾向が顕著である。アジヤではまず日本、韓国、そして中国が、このプロセスを踏んで来ている。

 この1992年はスペイン・バルセロナ・オリンピックが開催された。しかしそれだけではない。同年スペイン・セビリヤ市では世界万国博覧会が開催された。 しかし同年は、まだそれだけではない。コロンブスがバルセロナ港を帆船隊組んで出発し、大西洋を西進横断して、米国大陸沿岸の島にたどり着いたのが1492年のことで、『米国大陸発見年』から丁度5百年経た年であった。バルセロナではその大航海時代の五百年祭ヨットレースを開催した。

 その頃コロンブスは地球が円球状いという説をかなり確信をもっていたので、その大陸は最初インドだと思い込んでいた。マルコポーロの『東方見聞録』の紹介により、黄金の孤島国『ジパング(JAPAN)』にもたどり着けると思っていたという説もある。しかしまだここが 新大陸という認識がなかった。

 今は『アメリカ大陸』というが、本来なら『コロンブス大陸』とか『コロンボ大陸』と名ずけられて、しかるべきものであった。では何故 『アメリカ大陸』という呼称になってしまったのか?というと、AMERIGO VESPUCCI(アメリゴ・ベスプッチ)が二番手の海洋探検隊として米国大陸沿岸にたどり着いて上陸したという事で、『アメリゴ(アメリカ)大陸』が採用されてしまった。

 これは微妙なところである。世間には、何事も最初の発見者や発明者や紹介者が、いろんな屁理屈をつけられて、いつの間にか飛ばされて後発者達が『漁夫の利を』得てしまう矛盾不合理がまかり通ってしまう不条理が起きる。その典型例がコロンブスのケースで、それが『コロンブスの卵』にもなった。

 コロンブスは 再度米国へ航海していて、ほとんど欧州を留守にしていたので、留守中にますます人々には忘れられ無視されてきた。それに、陸路隊商隊がインドから持ち帰る金銀財宝や胡椒など香辛料を持ち帰る事への期をかけた物欲の塊の、探検隊帆船建造に投資した貴族や商人の投資達は、コロンブスがアメリカ・インデイアンの道具や植物やら、あまり金目のないガラクタしか持ち帰って来なかった事に落胆してバルセロナの晩餐会の席上、コロンブスを非難した。これに憤懣やるかたないコロンブスはテーブル上に『コロンブスの卵』を立て、『誰かが先行した後の二番煎じはたやすい。』と言う抗議をぶつけて晩餐会の席を蹴って会場から去った。

 香港返還の当日晩、TV画面には、豪華船クイーンエリザベス号が香港沖に停泊し、香港の夜景のネオンの輝きと、次々に連続して打ち上げられる花火の閃光色の彩なす映像が、99年借款の歴史的終焉を、時空に放射する歓声と、哀愁と、ノスタルジャーが交錯する映像が映し出されていた。

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 最後に GOOGLE か YAHOOに 北広次郎 を打ち込んで ミスターヨーロッパを 検索して見て下さい。こちらは日本語でありますが。

 北 広次郎が松本零士さんと対談のインタビューです。

 次のU-tube サイトを見てみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=gk2PvOeHMBE 

http://www.youtube.com/watch?v=MK9J2CYVUC4&feature=related 

http://www.youtube.com/watch?v=5vBPnrHKcUA&feature=related 

http://www.youtube.com/watch?v=gWdvWKy1Xng&feature=related 

http://www.youtube.com/user/AOYAMAMUSICKOJI?feature=watch#p/u/6/2qPj_erx-2Y 

http://www.youtube.com/user/AOYAMAMUSICKOJI?feature=watch#p/u/10/qc2xlDY9DpY

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北 広次郎 英国

Nori Kojiro Kita

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