ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第23号

 『早坂力先生の偉業・田舎工場、現地法人化・工業関係、英国北西部工業開発協会 顧問時代』

 当時私は20年近く英国北西東部・日本人会会長と又ロンドン以外の英国地域日本人会留学生研究生会の名誉会長をして来ました。

 また英国通商工業省傘下の英国北西部工業開発協会の顧問を任命されて、日系企業の英国現地工場建設誘致運動を英国国政府の為に行う運動に協力していました。

 その前触れに来英する日系企業調査団の為に現地企業工場案内したり、また、英国工業事情、生活事情、教育事情を講演したりして来ました。

 マーガレット・サッチャー首相政権時代、ニッサン自動車英国工場進出のために、だいぶ協力しました。その背景には、ニッサン自動車繊維機械部の高速ウオータージェット織機や、トヨタの発祥母体会社豊田自動織機の紡績機械や、三菱重工の化合繊射出成型撚糸機、村田機械製所の繊維糸ワインダー機、津田駒工業のエアジェットルームなどの契約販売据付サービスの仕事を推進してきたからです。

 私が大学を出て丸紅機械部に入社し、英国ロンドン・マンチェスター駐在派遣なったのは、それまでは後進的発展途上国向けに限り、又戦争賠償の物資や技術レベルの低い機器に絞った現物輸出で精一杯であったため、まだ戦後のそれまでの日本は欧米最先端先進技術工業機械は、専ら輸入一辺倒に頼っていました。

 私は大学生時代アルバイトでフランス語英語の通訳をやっており、大学から推薦されて日本工作機械協会会長、早坂力氏の私設翻訳秘書となりました。この敬虔なカソリック信者早坂先生の私設秘書になった事が、その後の私の運命を180度変えることになるとは、当時全く気づいていませんでした。

 

 早坂先生は後にフランス政府から、戦後日本への工作機械技術ライセンス提携導入の功績により、レジオンドヌール勲章を授与されました。

 

 私の仕事は先生の与える欧米先進国の工作機械専門雑誌中から、最先端技術新技術新機種の論文や記事を和訳し、日本工作機械協会会長として全国講演会行脚をする講演原稿を作成するというのが最初の仕事でした。

 毎日事務所に行く必要はなく、下宿か学校図書館で雑誌の指定された頁を和訳して先生に届けるという仕事でした。そしてやがては、外国の機械メーカーの社長や幹部が訪日し、その方々の商談通訳したり、夫人連れの社長や役員を観光案内したり、技術提携の会議の通訳したり、機械据付中の地方工場へ出向き、欧米技術者と日本人技術者との間の通訳をしたり、技術研修会の通訳をしたり、外国語日本語の書類の作成を手伝ったり致しました。

 その時の経験が、機械技術国際特許、技術輸入提携国産化などの知識を増大させました。これが後、ロンドン最高裁法廷で、私がニッサン自動車、丸紅、英国最大企業(ICI)を代表し、チェコ国営機械公団ELITEXーKOVOと三国間のからむ国際特許大係争を二年間闘って、実質勝訴する結果に導くロードマップの道標になりました。

 早坂力先生は、戦後焼野原の焼跡の掘立小屋からスタートした日本国を、工業技術立国へ押し上げ自立させた貢献者である、とはっきり明言できます。工作機械とは、機械を造る機械です。もっとも基礎的機械工業です。

 今インド、中国、韓国、台湾その他新興国が、例えば新幹線技術に例をとると、最初海外国際特許ノウハウのライセンス技術提携により国産化し、そしてそれに自国改善改良化を加算加味して、やがていいとこ取りの改良特許や更新ノウハウやNOVELTY PATENT(新案改良特許)に浄化発展してゆく。

 このプロセスは戦後の日本も新興国だった時代に経験してきましたが、早坂力先生が正にそれを、日本のみならずアジヤの開拓的先導者として、身をもって実践力で示して来ました。

 今現在アジヤ新興国が、やってるのは、正に1945年の終戦後、早坂力先生が、1955年代から1960年代にかけて、実践を持って教えてきた工業進化論そのものであります。

 そして、早坂先生の下で先進機械の輸入一辺倒時代から、ライセンス国産化時代に入り、次のSTEPは、新興国から先進技術国への逆流時代を、私は早坂先生から予知予見させられていました。

 

 そして私は、それまで日本は戦後諦念から敬遠していた、先進国向けの機械輸出への進化的移行の仕事を自ら希望して始動しはじめたのでした。

 当時まだ日系企業は、海外では日本本社の海外支店、事務所・出張所の形体を取っていました。

 それは税法上問題、為替管理上の問題、組織上の問題、いろいろな事情があっての事ですが、しかし私は工場地帯の或田舎地方の工場現場での、作業服の油くさい泥臭い仕事をしてましたから、ふつう、銀行証券保険の金融マンや商社マンの海外駐在員と言えば大都会の高層ビルのオフィスで、仕事してる姿を、想像され勝ちですが、私は違っていました。

 仕事先は地方の機械音のうるさい繊維工場現場です。 そこで私は丸紅参加の現地法人化を稟議提案して、許可を取り現地会社設立をはかりました。

 

 先ず欧州でやったのは、大都会にある日本本社の現地国首都の都会の支店から、抜け出して田舎地方都市に現地独立法人会社設立することでした。

 

 それで丸紅テクマテックス会社は、ロンドンでなくマンチェスターに設立して、自ら社長に就任しました。その後丸紅テクマテックス・イタリヤ会社、(TEKMAR=ミラノ)や 丸紅テクマテックス・フランス会社(リヨン)にそれぞれの現地国会社を設立して歩きました。

 

 現地土着化政策で、この方が地方工場顧客達が、設置組み立て据付、部品供給やアフターサービスにおいて安心感を抱いてくれるから、更に機械販売が増加する現因になると、田舎地方の現場工場で感じていたからです。

 この読みはあたりました。それで面白かった事は、他商社やメーカーさん 金融関係の日系企業間に、現地法人化現象や子会社化現象が置きだして、やがてそれがブームになりました。

 マンチェスターで英国北西東部日本クラブを開設したのは、その延長線上にいつかは起こるべくして起きた事でした。日本人駐在も地方に増えてくると、子供さんに日本語を教える日本語補修学校も、先生を見つけきて作ってやらなければならない。カラオケ大会を開いたり、運動会を開いたり、日本映画上映会を開いたり、やがて現地英国人も入れて日本人の生活や文化紹介の映画上映をしたりしました。

  家族大会を年に数回開くのに現地日系企業の協力も得られるようになりました。大学や教会や地方ロータリクラブ・ライオンズクラブから、日本文化やビジネスについの講演会の講師にまねかれるようになりました。

 

 また若者独身者会が出来て、私は独身でもないのに名誉会長にされて、その頃ベルギーのブラッセルに住んでいた田中瑞穂指揮者も、私同様独身でもないのにマンチェスターにしょっちゅう飛んできて、私の詩の作曲を担当しながら、この独身会に誘い込まれていました。

 日本人独身会は昼間は週末屋内で、夜は市内のディスコに繰り出す。

 この日本人独身会は多くのカップルが結ばれました。それは良いいことなんですが、私の日本人秘書が日本から派遣されてきた独身技術者青年にもっていかれてしまいました。しかも同じ会社の派遣員青年達に二回知らない間に奪取されて、日本にもっていかれたのです。

 訓練してやっとこれから本格的に仕事に身を入れて働いて貰おうとしてる矢先に、家内と話してると「まさか」が「まさか」でなく的中する。「えっ 、又?!」その会社の社長が日本での結婚式で仲人してと言ってくる。

「すみません、うちの社員は英国へ仕事しに行ってるのか? 何しに行ってるのか?またまた御社の女性を連れ帰ってきてしまいました。真に何と申しあげたらいいのでしょうか? 」だって。

 この独身会はギターの上手いのやらピアノ弾きもいて、北 広次郎作詞、田中瑞穂作曲の 『マンチェスター物語』 『ジプシーの歌』 『風が転がる夜の街』などをよく合唱していました。

 

 マンチェスターのプロのポップグループが、私に日本語、英語、フランス語、イタリヤ語とにかく多国語をいれたレゲポップを作り、日本調の録音をしたLPを創りたいので協力してくらないかと、ユダや人の舞台俳優兼歌手のプロヂューサーに誘われ、週末毎晩夜間夜中過ぎまで録音につき合わされた時期がありました。

 

 日本クラブの近くのビルの地下スタジオで、そこにある録音機器は全部日本製でした。ボーカルはかなりオクターブが高い女性が一人。後は男ですが普段は大きなデイスコやクラブを巡業してました。このポップグループと創った歌は沢山あります。

 独身会の連中は、週末や祭日二次会は夜ほとんどこのグループバンドが出演してるデイスコへ行って踊り明かしました。私もまだ若かった?から、彼らと遅くまで付き合いましたが。  

 それでも日本に帰った者もいるし、ニューヨークに転勤になったり、いろいろなカップルが生まれました。

 しかし揉めたこともありました。原理教の信者だった日本人女性と恋仲になったある青年がいました。その女性が信者仲間から妨害があって、日本人会の家庭で隠したが、その家の前へ英国人まじえての信者達があつまって 「お前の家に隠してるのを知ってるぞ、ここへ出せ」と集団で大声で怒鳴るのです。やっと彼らから隠し通して日本へ送り返しました。その頃出来た歌の一つが 『マンチェスター物語』でした。