ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第40号

   北 広次郎プロフィール

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(作詞家筆名;柴原徳光)

(国際技術ビジネスコンサルタント、工業ジャーナリスト、幕末から現代にかけての欧州日本関係史研究家、世界産業革命史研究家、ミスターヨーロッパ欧州体験エッセイスト、他方で詩人作詞家でもある)

略歴

東京外国語大学ロシヤ科国際関係課程卒

大学在学中のフランス語英語スペイン語イタリヤ語通訳翻訳

元日本工作機械協会早坂力(つとむ)会長翻訳通訳秘書

「追加説明」

 大学在学中から日本工作機械協会会長早坂力(ツトム)氏の非常勤翻訳通訳秘書兼助手となる。早坂先生は戦後の機械分野のJIS規格書編纂主幹者で、北広次郎はその助手として編纂を手伝う。 また早坂先生は終戦直後の荒廃した日本には、欧米の高度な工作機械技術を導入せねば、日本の復興が出来ないという信念のもとに、欧米先進国の優れた工業技術ライセンスを精力的に続々と日本の工業界に導入した。 戦争の終わった廃墟から出発し、戦後日本を工業技術立国へ変革するため、日本国内欧米を献身的に東奔西走し多大な貢献を成し遂げた敬虔なカソリック信者であった。その功績は欧州でも評価されフランス政府からはレジオンドヌール勲章を授与されている。今日の日本が工業技術立国となりえたのは、今は故人となられた早坂力先生の強靭な意志と、そのたゆまぬ実行力があったからであるとはっきり明言できるのである。

 事実早坂先生の導入した高度技術機械は日本津々浦々の大手中小企業の物造りの生産工場で実際に使用され、数多の工業製品を生産し、日本国内市場はもちろん 海外にも輸出されて来た。

 早坂先生の存在は一般には余り知られてないが、日本の戦後史のなかで、工業界では知る人ぞ知る燦然と輝いている星である。 早坂先生が居なかったら、日本の工業技術立国化は、二十年は後れていたといっても過言ではない。工作機械士でもある早坂先生は、日本国中を工業技術振興を目的とする講演のため日本国中を行脚旅行をされていたが、北広次郎はその講演の原稿を作る翻訳助手をつとめた。欧米の工作機械学会専門誌を毎月とりよせていて、そこから新技術を発表してる重要部分を翻訳し、先生の講演原稿を準備起草するのが北広次郎の仕事であった。又輸入した先進技術機械の日本国内工場における、来日する据付技術者達と受入れ側技術者達の技術説明操作運転指導講習会などのフランス語、英語、イタリヤ語の通訳のため、北広次郎は関西、中京、関東から北海道の工場まで派遣された。

 早坂先生は日本国内の機械メーカーに技術ライセンスを導入するための、数十頁から時には百頁を越す機械技術仕様書の和訳、又当時の通産省への提携申請用の仕様書翻訳、欧米メーカー幹部が訪日した際の契約交渉ミーテイング通訳などを、北広次郎に委任していたので、かなり多忙であった。 又日本のメーカーのみならず、伊藤忠 丸紅、日棉(当時)等の商社工作機械部に早坂先生の代理で翻訳仕様書をたびたび届けることも仕事の一部であった。

 

 早坂力先生の指示で行った技術提携先は沢山あったが、その数例を挙げると、三菱造船(現三菱重工)とイタリヤミラノのインノチェンテイ(INNOCENTI)社間の超大型ミーリング・ボーリング(Milling and Boring)複合工作機(石油タンカー船の巨大エンジンケーシングを切削しながら同時に穴刳穿孔する加工機)のアンダーライセンス(under Licence)で日本国内製造する契約 とその前哨となる、室蘭日本製鋼所への第一号機輸入設置稼動開始業務、東芝機械(当時の芝浦機械)と フランス メカビヤ(Mecavia)社からのインターナル グラインデイング(Internal Grinding)機械の設置とアンダーライセンス国内製造業務、大阪機工(OKK)とフランス ラモ(Ramo)社と旋盤技術提携によるアンダーライセンス。

北広次郎:商社丸紅時代のプロフィール

 最初ははジャーナリズム希望であったが、その年からジャーナリズム界では10月1日前の大学生青田買い就職禁止の申合わせが出来たため、たまたま友人達の誘いがあって入社試験のもっとも早い商社丸紅(当時)丸紅飯田)繊維化学機械部も入社試験を受けて翌年4月からの採用決定通知を受ける。

 大学卒業後商社で機械販売担当。しかし当時高度な技術機械は欧米先進国からの輸入がほとんどであって、当時まだ技術レベルの低かった和製機械は、日本政府が国民の税金から支払う戦争賠償か円借款のいわゆる紐付きでもっぱら発展途上国のみに輸出していた。早坂先生の薫陶を受けて鍛えられた経験で、技術導入の逆版で、戦後日本でまだ誰も挑戦していなかった欧米先進国への和製機械の輸出を北広次郎は目標として目指す事を心に決める。

 1966年7月渡英し、世界産業革命発祥地であり繊維工業史の主流であった英国マンチェスターに事務所を構え、戦後日本の初挑戦事業として、念願の日本製繊維機械輸入業務(日本から見ると輸出)業務を開始する。そしてやがてこれを商社傘下の 機械販売兼アフターケヤー管理目的の現地国独立法人化事業案を提議して、本社の認可を得て、米英仏伊などに現地会社丸紅テクマテックス社現地法人を設立し、現地国人のセールスマン、技術者、経理マン、事務員を雇用し、現地国人主体の企業化への転換を図る。当時まだ日系企業では 海外では海外支店や海外出張所方式をとっていて、このような現地法人化政策をとるところはなかったが、この先例を創った以後他の日系企業では商社もメーカーも海外独立法人子会社化がブームになってきた。

 戦後日本復興の牽引車となったのは、繊維産業であったが、これは安価な労働賃金による(綿絹人絹などの天然繊維素材から作る)日本製繊維製品が米国繊維産業界を圧迫してるとして、米国繊維工業界から猛烈な抗議を受けた米合州国議会は米国政府を動かし始め、やがて日米貿易摩擦問題になっていた。日本製繊維製品のボイコット運動も起き、ダンピング法を絡め日本品輸入禁止法制を強行するのは時間の問題となっていた。これは米国だけにとどまらず、やがて欧州諸国も追随線としていた。 北が欧州に渡った頃、日本製品不買運動の起きていた。1966年1967年、北がまだ未熟な段階の日本製繊維機械を欧米に売込もうと四苦八苦していた頃、時の池田隼人首相が欧州諸国を歴上したが、今でも鮮明に記憶してるが、フランスの一流新聞が一斉に報道した見出しは『日本からトランジスターラジオのセールスマン来たる!!』であった。

 しかし当時日本の外貨稼ぎの目玉商品は、まだ繊維製品であった。日本のまだ低い技術力による繊維機械を欧米の繊維工場に輸出しようと言う、北の試みは『石油を中近東に売込もうとするようなものだ』とか『ワインをフランスに売りに行くようなものだ』とか言われ『無謀極まりない無駄事だ!!』と、当時非難する者が多くいた。しかし、その度に早坂力先生の下で欧米製工作機械輸入と技術提携ライセンス製造を促進するアシスタント役を務め、日本各地の工場で欧米技術者と日本人現場技術者に、技術通訳翻訳者として、間に立って接してきた経験が、勇気を奮いたたせ、背中を押される気がした。当時怖いもの知らずでもあったが、『日本人技術者の探究心と研究心は、今のマイナスをプラスに変える時代が来る』と思っていた。それは敬虔なカトリッククリスチャンの早坂力先生の思考法と実践法をたっぷり目のあたりにして来た結果であったからである事は間違いなかった。

 北が1960年代から、1970年代ににかけて、戦後それまでは日本製機械は後進国輸出専門であった流れを、欧米先進国にも水路を開く挑戦を始めたのは、日本孤島国にとっては初めてのことであった。 そ国内製造などがあるれが貿易摩擦の根源となった繊維製品を作る紡績機械織物機械染色加工機械をもって行ったというのは、皮肉に見えるかもしれない。しかし高速稼動による生産性(能率利益性)を向上させられる和製新技術機械は、欧米繊維工場の生産効率をも上げる事に寄与したので、その頃日本政府が欧米に対し繊維製品の自主規制政策をとった事もあるが、技術力の結集の効果も大きかった。日本の新技術機械は、また皮肉にも最初日本国内の繊維工場では、疑心暗鬼で採用されなかった。所が、勇敢な先見性ある欧米工場が先に目をつけはじめ、かなり採用するようになってから、日本の工場の幹部が海外の工場を見学しに出張して来て、和製機械の稼動実態を見て驚いて、日本に飛んで帰ってから採用を始めたという皮肉な珍現象が起きた。国境陸続大陸国と、四方海洋孤島国の相異がここにも現れていた。このような現象はその後、日本では他の業界分野でも起きている。戦後日本は正直言って輸出を始めた当初の産業機械類は故障も不具合も多発し海外工場ではクレームも出て困惑する日々が続いた。商社の親しい先輩がロス支店長時代、今メーカーは言わないが、日本製自動車を十五台ほど試験的にロスの高速に持ち込んで試走テストを行なったが、走り出してから、全てエンジンから煙が噴出し始め、全台がエンコした。米国への日本製乗用車輸出計画はものの見事に失敗し、即撤退を決めた事があった。

 繊維機械も海外客先工場現場の憤懣の声を聞ききながら当分は『おしん』の心境で改善改良を重ねる事を余儀なくされたが、雑貨品消費物資輸出一辺倒時代から、まだよたよた歩きながら日本製繊維機械輸出へ転じ始めてから、それがじょじょに繊維品貿易摩擦の怒声に対する沈静緩和剤消火剤になって行った。日本人技術者が日本製繊維機械を海外現地工場へ持ちこんで、現地工場の能率的生産性を高めることに現場の外国人技術者や工員さと共に日々働いたことは、やがて自然に連帯感とか一体感が生じ、貿易摩擦の憎しみや敵愾心や相互無理解や誤解も溶解し始める現象を感じるようになった。それは当然の成り行きであったかもしれないが、海外国の工場経営者達の日本を見る目もじょじょに変化して来た。

 テクマテックス丸紅社が欧米市場に日本から輸出した繊維機械やその関連機械器機のメーカーは下記の通り。豊田自動織機製作所(トヨタグループ発祥親会社)、ニッサン自動車(合併前はプリンス自動車で現在はフランスルノー社の傘下)、三菱重工(産業機械部)、村田機械製作、大阪機工(OKK)、鳥居鉄工、東芝機械(プラスチック合成樹脂射出成型機)、津田駒工業、河本製機、日立製作所、島津製作所、明電舎、京都機械、和歌山鉄工、福島製作所、豊和工業、網太工業(魚網製造機)等。 1960年代まだ、メイドインジャパン機械は欧米レベルに達していなかったので、発足当初はクレーム続きに悩まされたが、メーカー各社の改造改良努力に支えられ、70年代以後じょじょに欧米市場でも認知され始めた。後にプラント輸出で技術協力も含めて日本の繊維グループメーカーは東レ、テイジン、カネボウ、クレハ、旭化成、東洋紡、大和紡、豊田紡、ユニチカニチボウ{現ユニチチカ}、福井精錬など挙げて行くと際限がない。

 丸紅傘下子会社丸紅テクマテックス社を創立し社長を勤め、軌道に乗ったのを見届け、1980年丸紅を退社し、現地で独立し、技術工業ジャーナリスト兼国際技術貿易コンサルタントとなる。多くの日系企業の欧米進出の指導手助けを行う。新技術ライセンスの国際間紹介導入など。

 又世界中の各国に繊機機械、建設機械、木工機械、病院医療用繊維製品製造機械、合成樹脂プラスチック射出成型機械、タバコ製造機械食品機械、化学機械、工作機械、各種検査機械、など海外販売サービス事業に従事。その後丸紅グループ傘下の丸紅テクマテックス(Marubeni-Tekmatex)社を欧米他海外拠点国に創立し、そのMARUBENI-TEKMATEXグループの社長に就任。

 その後、英国通商商業省傘下の英国北西部工業開発協会の顧問に招かれて、日系工業の英国工場駿出工場建設を初め多くの日本企業英国工場建設招聘に貢献することになる。

北 広次郎の海外文化活動のプロフィール

 日欧文化交流、文化展覧会開催に関与、日英教育交流、日英留学生交換、工業ジャーナリストとして、日本工業新聞依頼により欧州お工業地に関する記事掲載、現地邦字月刊誌に欧米体験エッセイ連載、作詩活動、文化展並びにチャリテイーコンサート開催(東京サントリーホール、銀座ヤマハホール他)、大学日本文化講演講師、工業ビジネス関係講演会講師。

 英国工業誘致協会依頼による日系企業進出調査ミッションへの欧州工業地域事情講演会講師、ドキュメンタリーエッセイ集『ミスターようろっぱ』(新声社)『ヨーロッパからこんにちは』(芙蓉書房)出版。

 もし隙間御時間がございましたら、文化面活動については

YAHOO・GOOGLE HOTMAILの検索欄に柴原徳光なる筆名と又は別に北広次郎の四文字を記入してクリッされますと若干の追加解説が見られます。

(作詞家筆名;柴原徳光) (東京外国語大学校歌作詞等)

北 広次郎(詩人名:柴原徳光) (英国)

Yours faithfully.

Very best regards

Nori Kojiro Kita

Nkita Consulting(UK/EU)

norionplanets@gmail.com

Skype Name: norikitaskype77