ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第10号 気候の変と日英万博時のターニングポイント

 日本はつい先週まで、洪水が溢れていると思っていたら、今週は洪水と猛暑の同時多発ダブルパンチ、そして熱中症犠牲者が多数出ているということで、急遽『暑中御見舞』版を送ることにしました。

 当地英国は何故か今年は今頃寒くて、おまけに二ヶ月くらい雨がまったく降りません。旱魃です。そういえば、昨年12月、本年初めが40年振りの記録的豪雪でした。そして4月になってもまだ雪が降りました。英国の厳冬を撮った写真を添えますので、バーチャルイメージで気分だけでも涼しさを味わって下さい。

 イングランドの北西東部地区の水源地は、詩人ウイリアム・ワーズワースの館庭園や、絵本ピーターラビットの作者ベアトリックスポッター女史の農園住居のある湖水地帯(LAKE DISTRICT)です。ここには大中小20ケ所以上の湖水が散在しています。

 この地域はイングランドのカンブリヤ州と言います。この州名はどこかで聞き憶えございませんか?

 そうです、地質学ではおよそ4億7千万年前から5億年前の古生代最古の地質時代の名称の起源になった場所です。

 1833年ケンブリッジ大のセジュウィック教授が英国イングランドとウェールズの境界線地域の砂岩石灰岩地層と同じだったのでウェールズの古名をとって名付けました。地層からは三葉虫軟体動物海藻類の化石が見られます。湖水地帯はここからいくつかの運河を掘って、イングランド中部の西半分に含まれる数多くの他州の住民にも水道水を供給している重要な水源地であり、観光地でもあります。ところがいま旱魃で水位が段々低くなり大型遊覧船が運航停止し、魚も減少して、更に困惑しているのはアヒル、鴨、白鳥などの水鳥の親子たちと、湖水漁夫と各地域の水道会社と消防です。目下芝生の撒水禁止で、違反すると罰金です。 更に困ってるのはゴルフ場です。

 カンブリヤ州は湖水と山岳地帯とが一緒になっている風光明媚な所で、強いて言うと信濃の国長野県に似ていると言えます。日本アルプスほど高い山と火山温泉はありませんが、狭い山道をくねくねドライブしながら湖水巡りをしたり、レール巾38cmの山岳鉄道で家族連れ観光などで賑わっています。これでも小客車十輌連結で二百人の大人子供の乗客を運びます。中には屋根なしの貨車にベンチ席だけもありますから、雨が降ってきたら傘か雨合羽が必要です。ただしこの地帯は冬季は雪で閉鎖されます。生涯湖水地帯を愛した詩人ウィリアム・ワーズワースは詩の中でこう表現をしています。

 湖水地帯を訪れずして

 英国を訪れたと言うなかれ

 五月六月湖水を囲む丘陵山々は

 水仙とタンポポの黄金の世界と

 化してまぶしく目を奪う

 異国からの旅人たちよ、

 この土地の乙女たちが美しく

 まぶしく見え出したら

 すぐ帰国したがいい

 この地域軽井沢にも似ているのではないかというほど、ここは別荘地としても有名です。特に企業の幹部達が退職してから、ここへ移住して住みたがるのです。しかし環境保護意識の強い英国島民は、孤島国Jとは違う政治社会政策をとっています。

 湖水帯地域入り口の南端にあるウィンダミア湖や、ケズウィック湖の周囲はホテル観光施設があるが、奥の更に大きいウルスウォーター湖の周りには家一軒建物一軒も見当たらないのです。

 大中小20数湖あるうちの限られた湖水だけに宿泊施設のある町村があります。しかし80%の湖水の周りには、家もいかなる建物も一軒も見当たらないのです。小村落町は丘陵山の途中にはあり、BB民宿のような宿泊施設やパブはあるのですが、湖水の周りには農家や建物は全然ないのです。それは厳しく建築許可を出さない行政指導がなされているからで、自然の景観を護る意識が昔から発達しているからです。

 もしも、これが四方海洋孤島国J内であったら、またたく間に湖水の周りに人家レジャーセンター、ホテルビルが建ち並ぶことでしょう。

 もし新築許可が出るようであったら、今頃は湖水の周囲は建物が林立しているはずですが、それをさせないようおよそ数十年前から法整備しているのです。すでに周囲に建物のある湖水でも、既存の建物以外には新築許可は出さない政策も守っています。ですから、退職後ここに住みたい人々は、既存の建物の譲渡物権を探すのです。この地域は昔から石煉瓦を造る青緑色の岩石素材の産地としても有名で、この素材を利用した置時計や書物の左右両側にたてて固定する支石置物などの土産物が売られているが、石煉瓦造りの家は数百年長持ちしています。イングランドの北半分は石煉瓦造りの家屋が多く、南側は焼き煉瓦の家屋が多いが、その境界線ゾーンは、ほぼヨークシャーとランカシャーの州の間です。

 もしも、これが四方海洋孤島国J内であったら、またたく間に湖水の周りに人家レジャーセンター、ホテルビルが建ち並んでいることでしょう。

 

 英国湖水地帯は天然の貯水池であり、つまり、水道水の供給水源地としてイングランド国民30%の生命線なのです。

 ここは夏場は孤島国Jジャパンから観光客も多く訪れる自然観光スポットでもあります。ところが訪れる湖水は、国内外から観光客の押し寄せる湖水に限ります。時間的制約もあり、宿泊設備もない事もあって、奥の山中の自然そのものである数多い平穏静寂な名水湖地帯には、なかなか踏み込めないのです。

 北は1966年以来、ここを孤島国Jから訪問された友人知人商社時代のお客さんをご案内して百回以上回ってきています。そして北が撮影した8mmビデオの本数も実に沢山持っています。この天然貯水湖が、水道水に使われるようになった歴史も古く、産業革命時代から二百年近くなるのですが、英国は運河やトンネルを掘るモグラ技術は中世以前から発達していたので、全土に運河を蜘蛛の巣のように張り巡らして来ました。

 あの巨大なストーンヘンジの岩石も、掘削し運搬して来るのに、紀元前から海路河川を利用していたのですから、運河堀りに夢中になるのは、自然の成り行きだったのでしょう。今でも水上船を住家にしている粋な人々がいます。

 今から18年位前に、リバプールで万国庭園博覧会が開催された時、ここに日本政府は日本庭園を建設しました。隣は中国政府が中国庭園を建設しました。この庭園万博の開会式のテープカットはエリザベス一世女王によって行われました。建設工事は会期の二年前から開始され、孤島国Jは当時の建設省は箱根庭園の庭師集団を送り込み、二年掛かりの建設工事が行われました。

 北はその庭師のお世話をすることになりました。また会期の8月中には日本週間が行われ、外務省も支援し、NHKが着物と踊りの一大イベントショーを披露しました。日本週間のテープカットは、当時オクスフォード大学に『欧州の中世の運河交通』というテーマで研究留学中の浩宮徳仁皇太子殿下でした。大イベントショーは、秋吉久美子女史主演のダンシングドラマで、和太鼓団が加わり、宝塚と都踊りを合併させたような催しものでした。実はこの万博会期前年から、北はNHKの万博イベント準備委員会の現地エイジェントを依頼されていました。万博会場内アリーナの舞台には池之坊専永宗匠さんが来て、自ら活けた岩石に花枝葉のオブジェが飾られ、ダンシングチームメンバー全員が和装で、これらの着物のデザイン制作を担当したのが、着物の老舗鈴屋チェーンの小泉京子社長でした。またこの日本週間のため、外務省朝日新聞NHKが、『ミス着物大使』を全国から公募し、数千名(たしか4千人を越えたと聞いた)余りの応募者から10名を選出し、庭園万博日本週間に派遣して来ました。

 その十名のリーダー格がたまたま、当時日本在住の英国人画家マーガレット・スミス・フランシスでした。マーガレット・スミスは、北の親しい旧友でした。スミス一家はリバプールの近くの350ヘクタールの大農場主の長女で、もともと英国のウィンチェスター大学の油絵科と声楽家科を出て、しばらく絵の教員をしていたが、日本画や墨絵に惚れ込んで一念発起し、孤島国Jに行き墨絵師の二人に師事し、洋画と日本画を折衷した独特の画風で、二科展に初めて外人画家として二回当選し、東京は神宮前にアトリエを構えて制作に励んでいました。やがてNHKのラジオ放送局の英国生活に関する番組のレギュラーになっていました。その頃、マーガレット・サッチャー首相が北京政府を訪問した後、東京に立ち寄った折に、マーガレット・スミスは、マーレット首相を担当ラジオ番組でインタビューしました。またマーガレット・スミスはNHK・TVの外国人のど自慢大会に出演し、美空ひばりの『悲しい酒』だったと思うが、銀賞を獲得した事がありました。

 彼女の生まれ故郷で開催されている万国庭園博覧会と言う事で、英人女性ながら、和服も似合い日本語も話せるし。日英の架け橋役にはうってつけだと言う事で『ミス着物大使』のリーダーに選ばれたようです。

 もう一人このミス着物大使に恵美子さんという日本女子大出の女性が居ました。恵美子さんは大学時代夏休みには、毎年ホームステイでこの地区の農家の家庭に来て滞在していました。そして北の家にも来て、今米国に住む長女と同年代でもあり親友同志になっていました。この恵美子さんが、その後ハーバードに留学し、たしかTBSのスポーツニュース番組かのアシスタントを務めていましたが、ウィンブルドンテニスの松岡修造さんと結婚しました。

 庭園万博期間中の日曜日昼、たまには会場を離れて息抜きも必要かとおもい、皆さんをねぎらうために北の家の裏庭でささやかなバーベキューパーティーを開きましたが、そのとき参加されたのは、NHKの幹部方々と、マーガレット・スミス、鈴屋小泉京子社長、池坊専永宗匠などでした。そこで、こんな事がおきていました。まだ画家マーガレットは独身でした。裏庭が暑かったので、しばし我が家のラウンジに引っ込んで涼んでいた時、TVを観ながら、マーガレットと、小泉京子社長と、北が雑談している途中、京子社長が突然吹き出して笑い転げました。マーガレットが社長に向って、日本語で「ほらニホンでは袖すりあうのも たしょう(多少)の縁と言いますでしょう」 とまじめな顔して言ったのです。『袖振り合うのも多生(たしょう)の縁』 との相異にマーガレットが気がつかずに話しかけてるのに、京子社長は、この説明をするのは困難と思ったようです。

「おほほ! マーガレットさんて 本当に面白い 英国の人だわねえ! 」

「マーガレットさんが 結婚する時は 私が白無垢をプレゼントして上げるわ」と言い出した。

 外交辞令のリップサービスではない事が、ずーっと後になって証明されることになったのです。

『フライデー』だったか 『フォーカス』 だったか忘れたが、マーガレットから雑誌が届いた。開いて見たら、明治神宮での彼女の白無垢姿が目に飛び込んで来た。その相手と言うのが、サム・フランシスであったのです。Sam Francisは、『色の魔術師』ともいわれる天才画家です。

 隙間御時間がある時に、パソコンで『Sam Francis』と『Margaret Francis』を別々に打込んで検索して貰った方が、今ここで北が説明するより、速くお分かり戴けるので、一度是非覗いて見て下さい。

 1994年9月初め、北が末期癌のサムをカリフォル二ヤのサンタモニカの自宅に見舞った時の、写真を今回は掲載します。長い入院生活に飽きたサムは死期を悟ってだと思うが、「もう自宅に帰りたい」と主張して24時間看護婦つきでアトリエのある自宅の寝室にもどっていたのです。しかしその苦しさの余りの唸り声は夜中でも、応接ラウンジや別室にまで聞こえてきて、どうにも聞くに堪えなかったのですが、どうしようもないもどかしさを感じた。マーガレットは、延命のため藁をも掴む気持ちで、北に「貴方が懇意にしている日本医科大の丸山先生のマルヤマワクチンを取り寄せて戴けないかしら?」と突然言い出したのです。

 丸山千里先生のワクチンの事は、彼女が東京在住時代から知っていたのにはわけがあります。それから更に、日本の漢方薬についても彼女は研究して居て、入手を頼まれたのです。

 以前北はロンドンで開催された国際ワクチン学会会議の時、たまたま丸山先生の研究所チームから、通訳として先生に付き添って欲しいと依頼され 三日間ほどアテンドした事があり、以来北が帰国する度に、先生はホテルへ奥様と訪ねて来られました。そのこともマーガレットは知っていたのです。ホテルオークラロビーで、丸山先生御夫妻とマーガレットを偶然紹介したことがあった事を彼女は記憶にとどめていたようです。ロンドンの国際ワクチン学会会議で、昼休みに、イタリヤ人の医師が会場の外の廊下に出て来た途端、丸山先生にお話ししたいことがあるとして、急ぎ歩み寄ってきて、北に通訳して欲しいと言いました。「私の母親が、末期癌でもう手の施しようがありません。すこしでも延命させる方法は無いかと思いいろいろ研究しましたが、丸山先生のワクチンが延命に効果あると言う事を知りまして この学会で丸山先生に是非お会いしたいと思って参加しました。まことに恐縮な御願いではございますが、もし出来ましたら丸山先生のワクチンを、分けて戴けないでしょうか?」と申し出たのです。丸山先生は即座に快諾し、持参されて来たワクチンを、沢山分けて差し上げた上で、使用法を更に詳しく説明されました。

 マーガレットの懇願もあり、英国に戻った北は早速、日本医科大丸山ワクチン研究所の藤田所長に連絡をとって依頼しました。しかし残念ながら、北が手配中に、サムは亡くなってしまいました。

 マーガレットとサムは、個性の強い芸術家同志で絵の作風についてお互いに持論があり、結婚前には、度々激しいぶつかり合いをしていたことは、彼女がよく語っていました。最初は結婚なんて考えもしなかった彼女はサムの作品にずけずけ物言いを続けました。しかし、バツイチのサムは、先妻との間に息子もあり、結婚後はその息子を育てる事になりました。サムと対立する作品の批評と議論の中で、逆にマーガレットに知性的魅力を感じ始めたようです。

 サンタモニカの邸宅は、実は昔はチャールズ・チャップリンの別宅であったと言います。そこを手にいれて、しばらくしてサンフランシスコ地震が起きて、建物が大部分壊れてしまい、再建しましたが、この夫婦は作家活動は、別々にしたいと、同じ屋敷内に、別々に大きなアトリエを構えていました。北はここでも、双方のアトリエのビデオ撮影をして来ました。またサム・フランシス没後、ロスのビバリーヒルズで開催された『サム・フランシス遺作大展覧会』と『サム・フランシス美術館』開館時のビデオ撮影もばっちりしてあります。

『サム・フランシス遺作大展覧会』の映像は圧巻です。どれも 2メーター、3メーターの巨大なサイズの作品ばかりで、その色彩の絶妙な組み合わせに、世界中から来たファンや絵画関係者達が、圧倒されて絶賛していました。マーガレット・フランシスとサム・フランシスの間に男児が生まれたのですが、大変な未熟児で、最初彼女がリバプールの実家に里帰りした時に、首にかけたネットの袋の中に、それはそれは小さい青いというか緑がかった皮膚のベイビーで、これでちゃんと育つのかしらと、不安でした。えらい月足らずで生まれて、病院では特殊な保育器の中で育てたといいます。アウグスタスと名づけられて、今はリーズ大学で、美術を学んでいます。果たして親を乗り越えられるか?

 マーガレットの作風は、これまた大胆で、山河湖水海空の自然を題材にしていますが、故郷リバプールの海空丘、湖水地帯を題材にしている独特な作風です。ブラックバーン美術館でのマーガレット大作品展覧会も、北がビデオ撮影したが、そのビデオカメラをレンタカーの後部トランクにいれたまま空港のレンタカー会社に返してしまい後から気がついて何べんもかけあったが「そのようなカメラは、見つかりません」の一点張りで諦めざるをえませんでした。今になっては、もう二度と撮り直しが出来ないからカメラよりも、中のフィルムカセットが戻らない事の方が残念無念です。

 画家マーガレットが、NHKラジオでマーガレット・サッチャー首相を東京でインタビュー放送したのは、ファーストネームが同じマーガレットであると言うことが、きっかけだったと話していました。

 欧米の場合は、人の名前は新旧聖書に出てくる聖人とか、登場人物とかギリシャ神話やラテンローマの歴史にちなんで命名され、洗礼を受けるケースがほとんどですから、同じファーストネームやミドル(セカンド)ネームが多いのです。

 イスラム教徒も同様で、コーランに基づく歴史的な命名が多い。ですから、同じマーガレットやメアリーやクリスがいっぱい存在するが、やはり同名だとそれこそ 『多少』ではなく『多生』の縁のような同属意識親近感が生じるらしいのです。

 これは四方海洋孤島国JにはないKIN 意識です。『KIN』と言う言葉は、孤島国Jでは馴染みが薄いのですが、しかし国境陸続大陸民族においては紀元前の歴史から代々重要な意味を持ってきています。

 その意味は、和訳すれば一族、家族、血縁、親族、親類 という単純なことになってしまうので、軽くなってしまうのです。しかし和訳語では、その歴史的重みは、全然滲み出て来ないのです。

 中国人の場合、家族名において、永鐘武胡周江鄭とか同族語が多いのは、韓国人の場合も 李朴金姜とかいうようによく似ています。これを 『同KIN名』 『同KIN族』というべきでしょう。大抵姓名は漢字三文字までです。これでKINのルーツが分かるというのです。

 ところが、四方海洋島孤島国Jには、もともと文字文化がなかったということもあり、 やがて『苗字帯刀を許される』ということになり、一般人には苗字が、なかった時代が長く続いていたのです。ようするに文字を自分でかってに使用することをタブー化してしまったのです。孤島国Jには紀元前から文字文化が無かっただけに、中国大陸からの文字文化を知ってから、文字を有難いものだとして、文字は神に近い上位者からつけて戴くものであるという観念が固定化して来たものです。裏返して見れば、これはコンプレックス現象です。

 苗字を自分で選んで付けられるようになったのは、長い歴史から見れば最近の維新時代で、孤島国J民にとっては『命名文字文化の改革開放』だったのです。そこが、四方海洋島孤島国J民とアーリアン・インド・ユーラシヤ国境陸続大陸民族とのIDENTITY意識の大格差であり大隔差となってしまっていたのです。

 リバプールの万国庭園博覧会に政府主導で参加を決めたのは、実は翌年が、『つくば万国科学技術博覧会』が孤島国Jで開催される事に決定しており、その準備が進められていたのです。

 リバプールは航空機が出現する前は、『世界産業革命の発祥地マンチェスター』と『世界の工場マンチェスター』の輸出入の玄関口といわれていました。リバプールは貨物は勿論、客船でも世界最大の海港でした。リバプール市と内陸マンチェスター市は同じランカシャー州に属し、この両都市間には4本の運河があり、4つの異なる民間運河会社が輸出入の貨物を運搬していました。

 1830年9月15日に開通した世界最初の公式鉄道はリバプール・マンチェスター間ですが、その鉄道に乗った孤島国Jの人間は誰だったのかを、北は追跡研究してきています。これについては、まだ調査途中なので、また別な機会に発表します。

 この世界初の公式鉄道が開通する前、鉄道建設法案は議会で何度も潰されました。最後の国会では一票差で否決されました。その猛反対運動をしたのが、上述の運河会社でした。運搬事業を、鉄道に奪われることを懸念していたからです。もう一つ、線路の脇に建つ人家の住人も、未知なる機関車というものに不安と恐れを感じて居たのでした。しかし最終的には智恵者が、鉄道株を、運河会社に持たせる事を提案し、今度は法案が無事通過しました。開通式典に参列した首相はウェリントン公でした。その後、鉄道網は意外に短時間に英国全土に網の目のように拡がって、欧州米国にも拡大しました。その拡大に鉄道国債融資により貢献したのが、世界最大の財閥ロスチャイルド家でした。

 リバプール万国庭園博覧会の最中ロンドンでG7がおこなわれ、サッチャー首相が、『小さい政府』と『国営企業の民営化』 を提唱しました。確かその時レーガン大統領もG7に参加していました。しかし『民営化』といっても、なんでもかんでも民営化がいいと言ったのではありません。英国は結局BBC放送と、郵便局は民営化はしませんでした。民営国営民営を繰り返しながら、国家の舵とりをするのが、政府と議会の役目であり、そこに主権在民と公僕の精神がうまく連携作動してこそ、民主主義であるべきですが、このリバプールの万国庭園博覧会の時が、実は世界のターニングポイントでもあったのです。

 戦後産業革命を再復活させようとしたのが、マーガレット・サッチャー首相だったのです。そしてそれは、成功したと言えるのです。

 多くの世界企業が、英国に資本を持ってゆき、英国工場を建設しましたが、そのために英国中央政府、地方政府はインフラ整備、受け入れ環境整備に相当の投資をして、何も無かった野原(グリーンベルトとかグリーンゾーンという)に、工業団地やタウンを作り、学校公園レジャーセンターや町造りもして、外国企業を誘致したのです。もちろんそれは雇用の増進と、経済の活性化が最大の目的でした。しかしそれだけでなく、外国資本を呼び込んで工業生産性を挙げる事で、英国からEU欧州中東アフリカその他への製品輸出を増やす効果が出て来る事を読み込んでいました。

 そして、グリーンゾーンの中に外国工業生産工場も誘致する猛運動もしました。グラント制度という、生産工場建設奨励支援金も、国内企業外国企業の差別なく、その地区の開発度合に応じ等級別に分けて、高度開発地域、准高度開発地域、開発途上地域、未開発地域と分類して、15%から40%の返済不要資金を提供し、またそれ以外に従業員工員の訓練期間二年の給与を政府(中央委地方)負担としたり、税制上の恩典を与えたりしました。

 この時、英国議会では右派発言で有名な政治家が英国内工場建設起業には、外国企業と国内企業の差別をつけないで、平等に起業奨励支援金(GRANT)を提供する制度を適用するという政策に対し、『一体この国の政府は、どこの国の政府なのか?』と皮肉たっぷりに批判を繰り返し、喰ってかかりました。これは、口頭では極右愛国主義者や、一般大衆受けする喝采を受けましたが、サッチャー首相は、毅然と信念を通すというあの態度を貫きました。やがて右派政治家は沈黙して、何もいわなくなりました。それは結局英国の産業新興効果がある事が、証明されたからです。リップサービスで、大衆受けすることだけ唱える政治は、政治ではない。良薬口に苦い事も、甘い飴も双方うまく配合して、実行効果を生み出すのが政治で、それにはリーダーシップが大切であるということを証明して見せたのがサッチャーリズムで会ったと思います。

 鉄の女宰相も、辛口ばかりで、実効性の効果が出なかったら、今頃『ただの辛口気取りの無能首相だった』ということになっていたでしょう。だが、結果はちゃんと出したから、今でも功績評価は高いのです。

 しかしサッチャリズムは、競争原理を取り入れて、労働組合を抑制し効率を高める貢献をしたが、その反面強者、弱者を仕分けして弱者への対策にはケアー仕切れなかったという批判もあり、トニー・ブレイヤーは、その弱者対策の修正を図る事を公約として保守党から政権を労働党に変えさせたのです。そしてやった事は、彼の有名なスピーチは『EDUCATION AND EDUCATION AND EDUCATION』と『教育』を連呼し、『教育改革』を叫び続けました。そしてこれは、改革実行に踏み切りました。そのため、学校の夏休みが、それまで小中学校は戦後二ヶ月だったのを、一ヶ月に短縮させました。米国から毎夏英国に来ていた孫娘達が、前の年まで英国の同年代の友達と、たっぷり遊べたのが、英国の生徒学生の夏休みが、一ヶ月短縮されて7月はまだ授業があるので、遊べないし会えないという変化があって、アメリカ孫娘たちは、手持ち無沙汰で困惑し、会えるのは週末だけということになって、手持ち無沙汰そうでした。それから、ブレイヤーは成人中高年の職業訓練教育にも力をいれました。ここに二大政党政治の効用を見せられた感じです。そして本年また、ブラウン労働党からカメロン保守党政権に代わりました。

 それにくらべ、孤島国Jの政治は前政権党も、現政権党共に、孤島国J国民にとって景気対策経済対策何か消化不良で、便秘症で、消費税についても、欧州の付加価値税(VAT)と混同していて、理解が行き届いていない政治家がほとんどである。

 人間の生命権にかかわる食品には一切課税しないという政治思想のある英国のVATに対し、食品にも何にでも全部一律に5%課税している孤島国Jの政治は、これ政治思想がない、おざなりの法であります。

 では英国ではなぜ食品は全て無税にしているのか?孤島国Jの政治家も、考えた事がない。国民は欧州の付加価値税の仕組みに無知である。それは政府も官僚も教えないからです。政治家の人々でも、この知識がなさそうです。これでは、いい政治が出来るわけが無いでしょう。政治を志す人々煮はもっと欧米国の政勉強していただかないと、素人衆愚政治国Jになってしまう。

 欧米の高速道路は、最初から全路線無料で、料金所なんてどこにもありません。

 孤島国Jは戦後高速は減価償却終わった時点で無料化すると言う法律をつくっておきながら、天下り公団が道路族なんて言う政治家と組んで、いつのまにか無料化を、道路拡張のためと称して、うやむやにしてしまった歴史があるのですが、それも気のいい孤島国民Jは、忘却とは忘れ去る異なりというか、知らない世代が増えすぎている。そこがこの奇妙な名前の族や天下りには、都合のいい事だったわけです。先進国で、こんな国家は孤島国Jしかないのです。リバプール万国庭園博覧会の行われた時に、ロンドンに首脳が集まったG7席上、サッチャー首相が主唱した『小さい政府』は 孤島国Jこそが、一番考えねばならない課題でした。

 前回『クオバディス孤島国ジャパン? (その四)』で述べた屋上屋の行政組織は、英国流サッチャリズムで言えば、最も無駄が多く、能率の悪い物であるということになります。

 サッチャー首相が、言おうとした事は、『市町村行政機関を強化拡充して中央政府と直結する組織にすれば、その間にある中間政府は不要になるということである。末端の市町村行政組織を、格上げして強化し、中央政府と直結すれば、迅速かつ効率的な決め細かな行政を行う事ができる』と言ったわけです。

 例えば市町村議会があって、区議会があって、都議会があって、中央政府があるという今の行政組織は、サッチャーさんならどうするかは、瞭然でしょうしょう。

 サッチャーさんは、グレーターロンドン議会政庁、グレーターマンチェスター議会政庁を全面廃止しました。マンチェスター市庁でいうなら、東京にたとえると区議会には区内市町村代表が区会代議員となります。マンチェスター政庁の場合、九十九の地方衛星市町村単位地区があり、議会代議員は99人で、議長一名、全部で100名の地方議員が存在しています。その上に都庁府庁に当たるグレーターロンドン政庁、グレーターマンチェスター政庁が会ったのですが、廃止しました。職員は全部他の公職ないし民間へ移しました。懸念された混乱は一切起きませんでした。そのロンドンテームズ河のウェストミンスターブリッジの、内側にあるのが国会議事堂、橋向外側にあるのが歴史的な偉容を誇る建物でしたが、大阪の地主が買取りました。そこに全日空ホテルが入る予定もありました。しかし英国議会では、この歴史的ビルを外国の買手に売り渡すについて大反対の声が上がり、一部分割してロンドン大学に譲渡したが、結局メイン部分は日本のバイヤーに渡ることになりました。それはもう世界に誇れる凄く立派な伝統的ビルです。思い出すのは、北がビッグベン時計台塔からウエストミンスター橋を歩いて、この旧グレーターロンドンビルに向って歩いていたら、肩掛けカバンをぶら下げた東洋紳士が同じこのビルに向って歩いて行きます。ふとその横顔を見たら共産党の志位委員長でした。私にはそのとき孤島国Jから来た男性三人の旅行者を伴って案内していましたが、気づいたのは、私だけでした。

 庭園万国博覧会の日本週間が終了して、NHKの一人が「一度自分は英国の運河の旅をして見たいと、常々考えてきた。これは自分の生涯の夢です。北さんリバプールからロンドンまで船で運河の旅をすると、時間はどのくらいかかりますか?調べてもらえませんか?」「少なくとも一週間から10日かかります。」 と言ったら、NHK休暇とろうかいろいろ悩んでいたが、結局「一週間は無理ですね。諦めます、代わりにスコットランドを週末に見たい」 というので、マーガレットに頼んで案内役について行って貰うことにしました。

 汽車でマンチェスタービクトリヤ駅に帰着するので迎えに出たら、週末スコットランド三日間の旅に、すっかり御満悦でにこにこしながら、マーガレットとプラットフォームに降りて来ました。

 カンブリヤ州湖水地帯は2001年最大の家畜口蹄症の被害に見舞われた所です。

 当時口蹄病(FOOT&MOUTHDESEASE)とも言っていたが、これともっとも格闘した首相は労働党のトニー・ブレイヤー首相でした。牛豚羊、始末した数は宮崎県の十倍以上です。宮崎県の対策も、この英国の対策をそっくり踏襲した感じがします。しかし、これはいつまた、どこで再発するか、予知できません。目に見えない強敵を相手にするだけに、実に厄介です。油断がもっとも怖い。四方海洋孤島国Jでは、『喉元過ぎればの健忘症』『熱しやすく冷めやすい=熱中冷却症』『口諦症』『考諦症』となりやすい悪しき習性をいましめないと、軽佻軽薄な品性とみなされるのです。

     

 リバプールといえば幕末グラバーが最も利用した港です。特に日本の生糸は幕末明治にかけてドル箱商品で、産業革命の世界の工場マンチェスターへ輸出するには、まずリバプール港を通るしかなかったのです。ここで一旦荷卸しして、鉄道で運ぶか、そのまま貨物船は運河を伝わってマンチェスターまで来てから、荷卸しするかの方法しか無かったのです。

 鉄道が開通しても、やはり貨物は運河の方が、楽であり運賃が安いという点もあって、運河はまだ利用されていました。鉄道は旅客運搬の車輌が多く、貨車はすくなかったのです。しかも途中で二回は。水と石炭を補給する場所に停車する必要もありました。それなら運河で積み換えずに来てしまった方がより便利だということです。

 横浜港からリバプールに向う蒸気船はほとんど山梨、、長野、新潟、群馬、栃木の養蚕からとれた絹の生糸が積まれ、明治大正時代は、生糸成金が多く誕生しました。そしてマンチェスター生糸取引場では、世界の生糸相場を決めていました。その見上げる黒板に、ぶら下がっている表札にはMAEBASHIというブランド名が記されているのを、北は1966年に偶然に発見しました。そこは昔生糸取引所であったビルで、そこにはかつて日本から運ばれた生糸が取り扱われていた痕跡をとどめていました。グラバーが注文して、幕末英国から日本へ送られた物資や大砲、鉄砲、機械類はほとんどが、リバプール港から積み出されました。リバプールに本社がある世界最大のP&Oラインという汽船会社の蒸気船が使われました。

 1869年(明治2年)レセップス技師によりスエズ運河が、開通してからは、輸送量は急増しました。スエズ運河は紅海から地中海に繋がる全長160kmの運河で、1956年アラブ連合が国有化したものです。

◆(なお、機会がございましたら、『北 広次郎』と『柴原徳光』をインターネットに打ち込んでクリックし索引してみて下さい)

  北 広次郎(エッセイスト名) と 柴原徳(作詞詩人名)