ユーモアクラブより転載。

北広次郎エッセイ集 ミスターヨーロッパだより

第29号

 『国際関係舞台表裏先駆けの歴史』

 (北広次郎はロンドン国際特許大係争の生き証人)

  産業・工業・商業・貿易・著作権・商標・知的財産などに関係される方々は、お時間を割いてご参考までにご一読ください。

 北広次郎が何故国際特許裁判に絡むようになったのかは、北広次郎が丸紅にいた頃ロンドンの最高裁法廷に2年かかって20回余り、チェコスロバキヤ国営機械公団に対抗し、英国最大の民間企業ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)(デュポンに匹敵する大化学会社で起源はロスチャイルドに関係あり)と日産自動車と丸紅株式会社を北広次郎が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行ない実質勝訴した。

 万一これに敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で、北広次郎が世界市場に始めて売り込み、工場で大量に使用させていた水噴射式超高速自動織機に関する国際特許係争であったが、しかし裁判中は敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かあった。

 ウエストミンスターブリッジのビッグベン時計台の英国国会議事堂があるテームズ河畔近くのストランドにあるロンドン最高裁判所法廷には、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられた。いかめしい歴史的建造物のロンドン最高裁は、前は通る事はあっても、一生中に入ることはありえないと思っていたが、まさかこれほど通う詰めることになるとは、それまで夢想だにしていなかったのである。この英国最高裁ビル前が、TV画面に映し出され、ニュースキャスターが並み居る群集の前で、判決のニュースを告げる度に、当時が思い出される。

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 当時これ以外にも、他の多くの国際特許問題に関係をさせられた。証拠集めに海外に出張を重ね、多くの法廷弁護士団に会見し、サポート書類を提出し、特許技術内容を説明し、国際特許法の勉強も、否応なく、学ばざるを得なくなった。

 以後、商社メーカー間では、国際特許部長という異名がつけられる。これは戦後初の日本の大中小機械メーカーの代表取締役の委任状を預かり、これら企業を束ねて代表し、北広次郎が自ら丸紅傘下で創立し、代表取締役を勤めた丸紅テクマテックス社グループ(英仏伊米タイ国など世界各国に創立した)。インターネットで索引可能の、戦後成長を始めた日本工業界企業を、海外の特許係争攻勢から防衛するための闘いの連続であった。そのような体験から北広次郎が得た教訓は、『出る釘は打たれる』『世界に売れる優れた生産機械ほど特許攻勢ににさらされる』、『猿真似模倣国ジャパンという汚名のそそぎかた』 『どんなに長い暗闇の隋道(トンネル)にも、やがて明かりの見える出口がある』ということであった。

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 その頃ホンダ、ソニーもまだ小さなトランジスターラジオを売り出して間も無いころで、世界ではまだ無名だった時代である。当時日本の特許庁も発足してから間もない頃で、正直言って後進性が免れなかったので、海外で国際裁判やっても、あまり頼りにならない事が多くて、毎回悔しい思いをした。

 英国のある電気関係の発明家の特許が、申請後四年以内に全欧州諸国、米国、カナダ、豪州、インド、香港などで認定発効されたのに、十年経過しても日本の特許庁には認定せず放置されていた理由は、戦後発足した日本の特許庁の未熟さもあったが、庁職員の人数が少なく、科学工業技術の専門家にいたってはなおさら致命的に少ないため審査が滞っていたのもで海外からの激しい非難をうけていた。

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 また日本の司法制度にも欠陥があったし、今でもある。最近の例だが、日本メーカーのコピー機の内部のトナーカセット装置で、欧米では自社製の新品交換を系列代理店に強いて来たし、違反者代理店には、その部品の供給を停止する意地悪を強いてきた。さもないと保証をしないとかいってこれを海外でも強要した。しかし、この新品交換カセット代が本体器に近い価格であるため、家庭用はそこそこでいいが、使用頻度の多い店舗事務所では、その交換経費が年間馬鹿にならない。そこで、トナーカセットをリサイクルする業者がふえてきた。しかし日本メーカーは、リサイクル業者を排除しようとした。

 これに関しては、北広次郎自身も、試してみて、リサイクル品でも、十分遜色なく機能する事を体験した。この問題では北広次郎自身も現地消費から相談を受けていて、リサイクル業者団体にアドバイスしてロンドン・ダウニング街10番地首相官邸に嘆願状提出した。

 官邸から本件理解したので関係部門で、早速調査審議するという回答を貰った。リサイクル業者が居ないと、一回使用したカセットは毎回新品で入れ替えせねばならないから、その廃品回収でごみの山を築くので環境に悪い。それにリサイクル業者締め出しは独法禁止法に触れるということを訴え続けた。そしてリサイクル業は合法と認められて、多くのこれに携わる業者の人々の職が救われた。しかし、その後日本でおきたリサイクル業者対世界的大手メーカーの法廷争いでは、全く欧米とは正反対の判決結果が出され、大手メーカーの勝訴となって、リサイクル業者を違法としたのである。

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 この日本のケースを知って、北広次郎が思い出したのは、ロス疑惑の三浦事件であった。たしかグアム島で三浦は、妻と愛人の二人の保険金殺人にかかわったとして、時効制度のない米国警察に逮捕された三浦は、ロスに転送されて獄房の中で首吊り自殺をした。その時、それ以前日本での裁判で、三浦の弁護をした弁護士が『一旦日本国内で既に無罪が確定してる三浦をロス警察がグアムで逮捕し、ロスへ移送して裁判かけるのはけしからん』とTVマスコミで抗議していたが、この日本の弁護士の国際的司法知識の希薄さには呆れた。

 おしなべて『国際的司法』となると、八方海洋孤島国ジャパンの攘夷的鎖国性が露呈してくる。そしてどちらかというと、日本の司法も、裁判は正義を追及する場所という看板は掲げていても、国際特許などでは国内大手企業向きであるし、政権の政治の色が見え隠れする。

 欧州は五百年の司法裁判制度の積み重ねの歴史があるが、大岡越前裁き式恣意裁判時代を経て、日本は明治維新の西欧の六法全書の翻訳を日本に採用して、まだ140年の歴史で、終戦後のマッカーサー体制下の再成新制スタートからして、まだたった半分の70年である。

 音楽著作権JASRACにしても、スタートして歴史が浅い。私の高校一年先輩のM氏は早稲田仏文で、西条八十先生のゼミにいたが、卒業の時に、出来たジャスラック(JASRAC)に就職したその契機は、実に単純であった。JASRACの初代会長に就任する事になった西条八十先生にくっついて行くところなら、どこでもいいという軽い気持であって、JASRACって一体何をする所なのか、全く知らなかった。そして入ってみて全国のキャバレーやバーやパチンコ屋を毎晩巡回し、『音楽著作権使用料を支払うよう』にと督促してあるく変な取立屋の仕事だと段々気がつい来た。しかし『レコードとカセットテープ買うた時に、もう金払うたんや。何で又金払わにゃならんのや?そんなん二重取りやんか。そんな馬鹿げたことをわざわざ言いに来たんか 帰れ!』とどこでも厄介者扱いで追い出される始末。

 後にM氏はジャスラックの国際部長になってから、3日間のロンドンでの世界音楽著作権国際会議に列席するために来英することになり、その時ロンドンに駐在していた北広次郎に、『英語がこころもとないので、同席してくれ』と懇願されて、商社の3日間仕事放り出して、お付き合いしたことがあるが、会場では音楽著作権、公演権めぐり、プレーヤー再生機器メーカーからとるべきだとか、レコードメーカーからとるべきだとか、双方に分担させべきだとかどこから徴収すべきかの論議が沸騰していた。そしてここで、英国音楽著作権協会グリーガード氏と知り合うことになる。ロンドンの世界音楽著作権国際会議のとき、次の世界大会は北京で開催が決まっていた。

 しかし当時の北京政府は、まだ音楽著作権国際協定加盟には消極的になれない事情があった。中国の人口13億人からすると、一曲がヒットすると一晩にして一億枚のシングルが売れて印税で億万長者が誕生することになり、それが共産社会主義思想の体制下で国是にそぐわないので、まだ正式加盟は先延ばしにしたいという空気があった。そこで英国は、まず英国香港政庁の支配下にある香港から、手をつける事から着手し、海賊版の取締りから、音楽著作権使用権の啓蒙教育と使用権料の徴収から初めようとしていた。しかし、戦後日本にJASRACが創設された直後と同様、知的財産権の認識が全く一般には無い所では、それは最初からすんなり行く筈がなかった。

 これは音楽ばかりではなく、技術工業品や、ブランド商標権でもどうようであった。警察の協力と司法当局裁判においてのコラボで、やっと香港ではその機能が作動し始めたのである。

 そして中国本土にも、それが浸透し始めるのは、香港返還が大きな役割を果たした事になる。しかし完全浸透になるまでは、まだまだ時間がかかってるが、その象徴的事件は、北京オリンピック開催前の、デイズニーランドのコピーキャラクターの出現であり、日本のポップ音楽のコピーであった。中国政府もコピー商品の取締りを強化するようになったのは、英国の香港返還と世界特許同盟への正式的加盟強化には、英国の香港返還がこれを強く後押しをした。小平先生の押し進めた『改革開放政策』から、香港返還後、中国は世界の工場となり、北京オリンピック、上海万博をも成し遂げた。世界第二の経済(工業)大国に躍進し、AU(ゴールド)保有量は、昨年米国を越えたとも言われる。

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特許商標登録に関する国際協約について

 北広次郎は1960年代から機械技術の国際特許にかんして、職業柄多く関与させられてきたが、また国際的商標登録面でも、多くの企業の相談を受けてきた。しかしここでも、八方海洋孤島国ジャパンと、欧米大陸国の矛盾を感じたことがしばしばある。最近中国台湾が、京都北海道東京大阪讃岐など、都道府県町村名を勝手に自国内で商標登録してしまい、独占的使用権を握ろうとしたケースがある。日本人が台湾で讃岐うどん店を出店しようとして讃岐(さぬき)名を使おうとしたら、先に登録者がいて、使えないという事が起きた。

 特許商標登録に関する国際協約では、都道府県町村名は商標登録には受付けられない規約がある。終戦後の孤島国日本も、そういう知識も意識もない時代があった。今でもといえるかもしれない。トヨタ自動車の発祥の母体会社は、創立者の豊田佐吉翁の愛知県刈谷市の豊田自動織機製作所であるが、近くに豊田市がある。そもそもこの市は、豊田家の名前をとって始まった市名であるが、都道府県町村名は商標名社名として、国際規約では認められないので、通した。自分が作った市名が足を引っ張ってしまったという珍しいケースである。豊田家でも、発祥当初は、ここまで世界的大企業になろうと予測出来た人はいなかった。

 その資本金は豊田佐吉翁が発明した自動織機を、隣の三重県志摩半島の御木本幸吉の養殖真珠の五重の塔とともに、『二吉(二人の吉)』はロンドン万博に出品した。これが日本の近代技術の曙になった。その佐吉翁発明の自動織機の技術に目を付けた、英国マンチェスターのPlatt-Brothersという繊維機械製造会社が、佐吉の製造パテントを買取ったPlatt-Toyoda Loomというブランド名の織機を英国で生産開始した。その織機が1960年後半から1970年代初めに、スペインのバルセロナから行く田舎地方のラッサ・サバデル地区にある繊維工場で、まだ使われていたのには驚いた。その豊田佐吉がロンドン万博に出品してPlatt社にライセンスを与える提携をしたのは明治の初めの事であるから、それから80年近く使用されてたことになる。

 その時代物の織機を、ついに私がニッサン自動車製のウォータージェット(水噴射式)織機で、入れ替えたのであるが、後にカルロス・ゴーン氏がニッサン社長に就任してから、ニッサンの繊維機械部門はトヨタグループ発祥母体会社豊田自動織機製作所に売却されたから、時代はがめぐりめぐって奇しき御縁である。

 この時豊田佐吉翁が受取ったロイヤリティー資金がトヨタ自動車の資本金となった。ニッサン(日産)自動車も、実は戦前英国のAustin(オースチン)日本支社であった。ブランド名はダットサン(DATSUN)といった。ホンダも英国に関係がある。創立者本田宗一郎氏翁は、英国マン島のオートバイレースに参加して、初回は途中エンコで、完走できず棄権した。数年後エンジン改良に改良を重ね、再度レースに挑戦して見事優勝し、以後連続優勝を重ねて、今日の世界のホンダに成長した。

 それに刺激された同郷の親戚が、『本田が優勝するくらいなら、俺たちだって出来ないはずはない』とこぞってマン島レースに参加して、鈴木、川崎、ヤマハが追いかけて世界に出た。ヤマハはもっとユニークなのは、其の前にオルガンピアノのコピー品造りに挑戦してきた歴史がある。ヤマハはオートバイや競艇ボート、漁船のエンジンばかりでなく、日本製楽器の分野で、世界市場に進出を果たした。1950年代後半から1970年代、私が居た丸紅ロンドンで小松製作所のブルドーザーや加藤製作所の建設機械の輸入を始めた時、小松を商標登録することを、依頼されたが、石川県の小松空港の小松市が存在するので、コマツは商標登録できなかった。かといって今更社名やブランド名を大松、中松に変える事はもう出来ない。そこで、これはそのまま商標登録はせずに使うことにした。

 ニッサンが吸収合併した会社にプリンス自動車という会社があった。そこのスカイラインはもう幻の車であるが、今でも名車といわれてる。そのスカイラインを欧州に輸出しようとしたが、ドイツにPRINZ(英語ではPRINCE)という車があったために登録できない。そこで、『ミカド(MIKADO)』という日本の古名を商標登録し登録し、欧州に輸出を開始した。これには更に後日談がある。

 北広次郎はプリンス自動車の製造してたプリンス・ウォーター・ジェットルーム(水噴射式織機)と、トヨタグループ発祥本体で母体会社の豊田自動織機製作所の綿紡績機械を抱えて1966年7月、蒸気機関の世界産業革命の発祥地英国マンチェスターに乗り込んだのである。当時『プリンス』という商標権は。先に申請したタバコに火を点けるライター製造の日本のプリンスライター社が有していた。そのためプリンス自動車は、プリンスライター社に年間六百万円の商標使用権を支払い続けて来た。しかし後にプリンス自動車は石原洵社長時代ニッサン自動車に吸収合併される事になって、『ニッサン・ダットサン』の商標に統一されて、プリンスライター社への社名商標『プリンス』の使用廃止となり、名称使用権年間六百万円の支払いは停止された。その後多くの日系企業からの商標登録、海外現地会社設立登記の為、現地国での社名登録に関して、多くの問合せや相談が北広次郎に持ちかけられて来た。

 最近特許は日本でもなく、米国でもなく、まず欧州EUに真っ先に申請する方が得策とされるようになっている。これならEU特許申請は。一度の申請でEU圏内27ヶ国が一遍に取得できるからです。

 国際特許に関する御問合せは、1966年以来長らく欧州法廷にて実践的実戦体験を積み重ねてきた経験もあり、御相談事があれば、下記住所にコンタクトされれ場アドバイスを差し上げます。

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北 広次郎

Nori Kojiro Kita

Nkita Consuting(EU/UK/USA/Middle-East/South-America)

E-mail: norionplanets@gmail.com

Tel: UK+44-161-903-9808