法話ライブ at  東京道場  2014年7月19日

聖書 第3回

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=3wczIIf5buI

マタイの福音書より

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです

これに対する解釈ですが、律法の本質というのは神様の御心ではないか、

本質しか生きるすべはない、本質しか教えるつもりはない、という解釈もできます。

色々な捉え方ができます。

「エルサレムの神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

と言っちゃったりします。

(注:当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王のもとで46年かけて建てられた壮大な神殿だった。)

ダダっ子のようで僕は好きなんですけど。

法然聖人とダブるところがあってそういう解釈もできます。

法然聖人も戒律についてイエスと同じようなことをおっしゃるわけです。

念仏さえ何をやってもいい、と悪いことをする人がいっぱい出ました。

悪いことをしたほうがいいという解釈する人もいました。

本質をつかむ人もいれば、いい加減な解釈をする人もいました。

比叡山から一人で下りてきた法然上人ですが、あっという間にその教えが広がりましたから、

いろんな人達がでていました。

法然上人の教えが広がることが旧来の仏教に取っては非常に気に食わないことだったので、迫害したい。その口実になるわけです。

「あいつらこんな悪いことをやっているから許せん」というふうに。

最終的には弟子は死罪になって本人は島流し、言ってみたら犯罪者になるわけです。

昔の島流しといえば死罪につぐ刑です。

しかも75歳でした、あの時代の75歳です。

親鸞上人は35歳でした。

二人の性格の違いが出ていて面白いです。

法然上人は「自分は都でのみ念仏を広めてきたので辺鄙なところで念仏を広められるのはありがたい御恩だ」「国に怒るな、親鸞も怒るな」という風におっしゃいました。

年齢の違いよりも、性格の違いだと思いますね。

そういうことを髣髴とさせます。

仏教の戒律を破ること以上にユダヤ教の律法を破るというのは大変なことです。石打ちの刑とかいくらでもありますから。

神様のいうことを聞かないと皆殺しにしたとか旧約聖書に書いてあります。

子供を殺す話とかもあります。象徴的な話ではあるのですが。

そのために言ったのかもしれませんし。

あるいは律法を破るためではなく、本質を説きたいから言った。

だから律法を守りなさいと両方のことを上手く言ったということかもしれません。

あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義に勝っていなければ、決して天国に入ることは出来ない

パリサイ人というのは「俺達は律法を守ってるぜ」と言って偉そうにして他の人を見下している、そういう人たちなんですけど、その人達なんかよりよっぽど利他をしていなければ天国に入ることは出来ないという話です。

義というのは利他のことですから、神様の御心に叶う、愛ある行為をしていなければ、天国に入ることは出来ないということです。

昔の人々に殺すな。殺す者は裁判を受けねばならないと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。

兄弟に向かって愚か者と言う者は、議会に引き渡されるであろう。

また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

有名な言葉が出てきます。

「みだらな思いで女性を見るものは、すでに心の中で姦淫の罪を犯している」

「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。

五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」

これを言葉の通り解釈する人たちは多いし、それによって罪悪感が起こります。

そういうのを利用して人をコントロールする人もいます。

統一教会は青少年の罪悪感を使うんです。

キレイな女性がいたら見ますよ(笑)

本当は逆に解釈しなければいけないですね。

徹底的な他力の思想なんです。

どうせこういうことはムリなんだ、神様の愛にすがるしか無いんだと。

親鸞にしても法然上人にしても「どんなに戒律があっても、自分の中に逆のものがあるんだから」という話でしょう。

特にこういうところなんかは仏教の浄土教を理解して初めてキリスト教は理解できると思います。

いわゆる神秘主義の人は仏教の三昧じゃないかというくらい、霊的、宗教的に素晴らしい深い体験をするんです。

みんな神父さんでしたからね。特に徹底する人は毛布一枚敷かずに固いものの上でしか寝ないとか、肉体的に大変な苦しみに耐えることにエネルギーを使うことで修行として捉えています。

修道士の人たちはそういう生活をしていたんですね。

徹底した他力の思想というのは自分のネガティビティ、否定すべきものを無くすということです。

自分の中には全て邪なものしかない、逆なんです。

だから神様仏様の愛、慈悲が他力としてすばらしくありがたく感じるわけです。

自分がちょっとでも偉かったらそうなれないですからね。

誤解しやすいのですが。

ありえないのですが、そういったネガティブなものや欲望が全くなかったとします。

無かったら逆に尊くないです。ネガティブなものがあってなおかつそちらの方に走らずに頑張ることに尊さがあるのですよ。

何もなかったらロボットと一緒じゃないですか。

ネガティブなものとポジティブなものと誰の心の中にもあります。

イエス様でも恐らくそうでしょう。

自分自身のことを説いているのです。

イエスを神の子ととしてしまったために、「神の子だからこうならなければいけない」とか誤解してしまいます。

そうじゃないとダメ、と罪悪感を持つ。

ローマカトリックは「ユダヤ教の原罪と結びついて罪の意識を感じさせる」という間違ったキリスト教の解釈になっていきました。

これは人を縛ったということで非常に残念なことですね。

背後には非常にネガティブな勢力があってそのように作ったんだと思います。

聖書も随分改ざんされていて、恐らく元は本質が書いてあったと思います。

ただ福音書ができたのはイエスの死後100年後ですから、まだそういう勢力は働いていなかったかもしれません。

死海文書とか幻だと言われていたものが発見されてそこに全然別のことが書いてあったりします。

「ダヴィンチ・コード」なんかマグダラのマリアがイエスの奥さんだったという話です。

「古い時代の人々に対して,『あなたは偽りの誓いをしてはならず,主に対して自分の誓いを果たさなければならない』と言われたのをあなた方は聞いた。」

これはユダヤ教の言葉です。

「だが,あなた方に告げるが,いっさい誓うな。

天にかけても誓うな。それは神のみ座だからだ。

地にかけても誓うな。それは神の足台だからだ。

エルサレムにかけても誓うな。

それは偉大な王の都だからだ。

あなたの頭にかけても誓ってはならない。

あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからだ。」

他力の思想の秘密がここに書いてあります。

親鸞上人も同じことを言うでしょう。

お釈迦様の時代にアングリマーラという100人も斬り殺した人がいるでしょ。う

悪いカルトのグルの信者になっちゃって、グルの奥さんが彼を誘惑したけど、マジメだから断ったんです。

奥さんは怒ってグルに「あなたの弟子が私を誘惑した」と言いました。

グルは怒って「お前が悟る方法を教えてやろう。100人の人々を殺してその指を切り取って、首飾りにすれば、お前は悟れる」と命じました。

オウム真理教と変わりませんね。

それで辻斬りを始めた。

最後の100人目にお母さんが来てどうしようかと思っていたら、

「最近出た辻斬り、あなただと知っていた。私を殺しておしまいにしなさい」と言いました。

お釈迦様がやってきて、どうしたかというと教団に連れ帰ったんです。

犯罪者をかくまったので非難轟々ですよ。

お釈迦様は非難されても動じない。

毎日彼を托鉢に行かせました。

でも町の人は彼に家族が殺されたりしているので、血だらけで帰ってきました。

懴悔して修行して人々も彼を許すんです。

それで悟るんです。そういう話です。

お釈迦様はそういう感動的なところがよくあります。

一方、イエスは駄々っ子でカッコいいです

ヒンドゥー教の中で戦うのとユダヤ教の中で戦うのではユダヤ教の中で戦うほうが大変です。

話を戻すと、親鸞上人がアングリマーラの話を持ちだして

あなたは自分は人を殺さないと思っているだろうし、私も思っている。

だけど因縁があったら人を殺すかもしれない。因縁がないから殺さないだけだ。

因縁の問題であって、自分が殺そうと思って殺せるわけじゃないし、

自分が殺さないと思っても殺さないようにできるわけではない、

という風におっしゃいました。

だからイエスは「決して誓うな、髪の毛一本も黒くも白くも出来ない。」とおっしゃった。

全部神様の計らい、因縁なんだということです。

絶対他力の思想なんです。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

悪人に手向かうな。」

他力だから起こったことをそのまま受け止めよ、戦うなということです。

「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」

これも他力に任せよう、因縁に任せようということです。

エスは暴風雨を止めたり奇跡を起こして、自然現象を変えたりしてますけど、内容は他力思想なんですね。

「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

もし、だれかが、あなたを強いて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 」

もうとにかく任せるということです。

求めるものには与えて借りようとするものには断るなと。

他力の思想として伝えようとしているのは分かりますけど、極端ですよね。

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」

これも有名な言葉ですね。

観無量寿経に無縁の慈悲と言う言葉が出てきます。

(注:「佛心とは大慈悲心これなり。無縁の慈(悲)をもって諸の衆生を摂(取)す」)

縁のある者だけを救うだけじゃなく、縁のないものまでも思いが広がるように、ということ。

これも思い出しますよね。

「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。」

「兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。」

タオサンガのセンターに新しく来た人が来ても、なんか仲良しクラブみたいに自分たちだけ楽しそうにして、新しい人のことはあまり気にしないということがあります。

センターに来るということは縁がある人じゃないですか。

やっぱり自分が迎えられたように迎えてあげる、それは最低限の事だと思いますけどね。

そうでなければ「自分が受けたことはどうなっちゃうの?」ということです。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。」

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」

仏教で言っていることがいっぱいでてきますね。仏教で陰徳と言います。

陰徳と陽徳というのがあります。

陽は日の当たるということですから、陽徳はこの人がやってる、立派だな、ということが見て分かるということです。

陰徳と言うのは見られないところでやってることです。

ただ陰徳をやってる人は陽徳もやり、陽徳をやってる人は陰徳もやっている。

陰徳なくして陽徳は成立はしません。

見た目だけ、陽徳だけやる、それじゃ続かないでしょう

実際には水面下で相当のことをやっていてちょっと表に映ると言う感じじゃないですかね。

100くらいあって1くらいが見えると言う感じじゃないですか。

見える1だけやろうとするのは止めなさい、とイエス様は言っているわけです。

「天にましますわれらの父よ、御名があがめられますように。」

どうやったらみんなが崇められるのかと言ったら

自分にすごく良くしてくれた人がいてその人が神様を信じていたら、

神様という素晴らしい存在がいらっしゃるんだな、と感じることが出来る。

そのためにマザーテレサも利他的な行為をしたわけでしょう。

利他は神様をつなげるための行為なんです。

受けた方が神様が自分をケアしてくださる存在なんだな、と想像させるためにするわけです。

私が何かやりました、ちょっと褒められました。そういう話じゃなくて。

自分が褒められたって全然嬉しくないわけです。

その人が神様がいらっしゃるという風に思ってくれるのが一番嬉しいのです。

念仏者にとっては利他をして阿弥陀様が実在するんだな、と予感してくれるのが一番ありがたい。そのためにやっているのです。

「御国(みくに)がきますように。」

それによってその人の心がお浄土を予感できる、ということです。

この辺は弁栄上人がよく読み込まれて、美天国と言う表現をされたりしています。

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」

如来様の大愛がそのままその人の行為となって表れる。

つまり、それを受けた人が如来様の大愛を表してくれたら、それが一番利他の甲斐がある、やってよかったと思う。

ありがとう、あんたは偉い、それで終わりだったら何の意味もないですね(笑)

その人が阿弥陀様の実在を感じてくださって、同じように他の人にケアをして、他の人に阿弥陀様を感じてもらう。

それが一番の目的であって、一番それがありがたいことです。

そうでなかったら、ね…

自分が受けたもの、ケアされたものを人に表すということが一番大事です。

新しい人たち、今いる人達に対してもですけど、そういうことがなければ何の意味もないです。

まさにイエス様がこの時から言われていることです。

後半は意味が分かりにくいです。

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」

まあ、あの時代だからかな、とか別の意味があるのかなと思ったりします。

食物は何を象徴しているのでしょうか、霊的な栄養のことでしょうか。

「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」

これはカルマでしょうか、懴悔でしょうか。

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」

これはあの時代のローマに支配されていた、それを暗に言っているのかとか色々考えるんですけど、聖書は色々悩むことが多いです。

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 」

これ、分かっていても腹が立っているとあとあとまで残ったりします。

だんだん解(ほど)ける時があります。まあいいや、みたいなね。

それがないと、人を許さないと自分が許されないという縛られた状態ではあります。

如来様の大愛のつながりということから来るのか、時期なのか、いずれにしても解けたほうが助かりますね。

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」

功徳を積みなさい。

功徳を積んでいれば、つまり利他をしていれば困ることはない。

功徳というのは湧いてくるものですから。

いいことあった、というのではなくて湧いてくるんです。

湧いてくるからそれに反応していいことが起きる。

それが一番の喜び、一番の宝です。

聖書を読んでいると、どう考えても仏教だよな、と思えてきます。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。

一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。

あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 」

キリスト教では「自分は貧しくなければならない。お金のことを考えたら神様に愛されない」

という風になりがちです。

マタイ伝ではなかったかもしれませんが「神に仕えたら全部入る」と言う言葉が出てくるんです。

つまり宇宙大霊がすべての根本ですから、そこから頂いたら日常のことも問題なく叶えられていく。

そちらに行かなくて目先の方に行くからどちらも得られない。

どっちも得られるか、どっちも得られないか、なんです。

むりくり頑張れば富を得られるかもしれません。でも失う物も多い。

大霊の方に往けば一挙両得、私としては一挙両得作戦(笑)をお勧めしたいところです。

聖書では微に入り細に入り人のことを説いてくださっています。

もう一度聖書のほんとうの意味を掘り起こしていくと、仏教のことを説いているところもあるし、

仏教のことを補正して説明しているところもあるので非常にありがたいと思います。

(合掌)