お浄土の実態がわかるとき

法話ライブ at  京都道場  2012年12月8日

法話:遠藤喨及

書き起こし:たく

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=lW4hpgouh4Q


注:法話は、約1000年前、源信が経典を元に霊界について述べた、「往生要集」(岩波文庫)をテキストに行われました。

1)

源信の霊界物語も、やっと地獄から天上界まできましたね。

まあ結局、”お浄土に至らなければ、どの世界にいても空しいんだ”、

っていうことを、ここでは延々繰り返し述べています。

ちょっと説教おやじっぽいというか、

酔って同じ話を何度もする人みたいにくどいというか、、、。

だいたい経典の類いというのは、同じ言葉を何度も繰り返すんですよね。

なぜかというと、聞き手の無意識に浸透させるためなんです。

なので、ちょっと飛ばして86Pまでいきましょう。

2)

86Pの7行目

いまだ真覚(しんかく)を得ざる時は、常に夢中に処(お)る。故に仏説いて、生死の長夜(じょうや)となしたまへり。

「覚」と言うのは悟りのことです。

だから、「まだ本当の悟りを得ていない時は、常に夢をみているようなものだ」

、と言っているんです。

では、悟りを得た状態と、そうでない状態の違いは何か?

我々は、眠りから覚めて起きてる時は、「これは私、あいつがいて、こいつがいて、、、」なんていうふうに、目の前のできごとを唯一の現実だと思ってますよね。

覚めてくると、そうじゃなくなってくるわけです。

それまでの認識が思い込みだった、と気づくことになる。

でも、いくら言葉でそう言われても、この思い込みはなかなかなくならない。

まず、「自分」っていうのがいるじゃないですか。

これはどうやって自分だと思うようになったか?

赤ん坊として生まれて、皮膚感覚があるでしょう?

つまり触覚が土台になって、自分という認識が生まれるんです。

触覚がなかったら、自分という認識はないです。

赤ちゃんの時は、目を開けていても見えてないんですね。

つまり認識というのは、そこになにかしらのイメージを投映することで生まれている。

そして触覚が生じる前は、当然自分という認識がない。

赤ちゃんは、触覚があるといってもまだ認識していない。

それは、過去のイメージという投映の材料がないからです。

それが、外からの刺激によって感覚が発達していって、やがて視覚によって母親がわかったりして、いろいろな反応が生まれてくる。

もし外からの刺激が皆無で育ったとしたら、どうでしょう?

何の認識もないまま生きることになりますよね。

たとえ生存に必要な食べ物、空気、水とかがあったとしてどうなるか?

実際フランスで、全く触らないで育てた猿たちの実験があったんです。

どうも、みな早く死んじゃうらしいですね。

ひどい実験ですよね。

針金かなんか使って母親らしきものを置いておいたのと、ちゃんとスキンシップ有りで育てたのと三パターンをやったとか、、、。

フランスでは、もっとひどい実験がありました。

猿の首をすげ替えるという実験があったんです。

一週間ぐらい生きていたらしい。食べたり飲んだりはできた。

でも、立てなかった、と。

ところでゴリラなんて、手話を教えると300語ぐらい言葉を覚えるらしいですね。

それで手話を教えたら、ゴリラが何を言ったかというと、「ぼくは●歳の時にお母さんを殺されて、それから独りで生きてきた。」なんて内容だった。

彼らは、ちゃんと自分を主語にして物語を話すそうです。

これはね、動物園にゴリラを閉じ込めている人間は、監禁罪で逮捕されなきゃいけない。

3)

脱線から戻ります。

つまり、外からの刺激によって、我々は「自分」の存在を認識するんです。

またこれは別の実験ですけど、小学生でものすごい悪ガキがいて、この子をずっとカメラで撮影し続けるんです。

そうすると、見られてるっていうだけで、その子の素行が変わってくるんです。

つまり、自分は関心を持たれている、っていうのが彼の心を変えたんですね。

成長過程では、外からの刺激によって「私」が作られる。

この時にどんなものが外から入ってきたかによって、「私」が影響を受ける。

ネガティブなもの、ポジティブなもの、いろいろありますけど。

さて、Aさん(夢中にいる人)にとって自分とは、

「成長過程で外からの刺激によって作られたもの」です。

けれどBさん(真覚を得た人)にとってAさんは、目に見えるAさんそのものではなくて、「Aさんが自分に感じさせてくれるもの」なんです。

Bさんにとって、「Aさんそのもの」という存在はないんです。

本当はどっちもお互いにそうなんですよ。

Bさんだって、自分認識は、成長過程で外からの刺激によってできた。

つまりどこにも実体がないということ。

本質本性というのは、どこにも実体がない。

4)

生まれる前から、連綿と続いて来たいろんなつながり(縁)があって、

その中から出てきた一つのが自分という認識(=存在)です。

それはまた、先祖とか過去生といった中でも存在してるんですけど、

そのような連綿とした「繋がり」(=縁)とか「流れ」があるだけで、

何か固定的な実体というものがあるわけではない。

その原則は普遍的なものであって、変わらない。

にもかかわらず、覚めるまで、人は固定的に存在する個体というものがある、

と思っている。

その時々にしか成立していず、実体がないのに、

その時々の「自己認識」を、自分という存在だと思っている。

また、あれがアイツで、という風に、相手のことも、

それが実体だと思い込んでいる。

それを、”夢の中にいるようなものだ”と、言っているのです。

覚を得たら、変化そのものが本質であることがわかってきて、

”自分はこうだ”とか、“こいつはこうだ”とか、そういう、自分を縛ってきた自己イメージとか、人へのイメージとかを瞬間消すことができるようになってくるわけです。

もっとも、相手に対して警戒心が必要な場合は、消せないですけど。

普通だって、それまで見えていたつもりだったけど、それは自分の思い込みだったんだ、というのがわかったりすることがある。

また単純に、「嫌な奴だと思ってたのが、意外にいい奴だった」とかもあるじゃないですか。

5)

人間って記憶ですら、自分のイメージで作りますからね。

子どもの頃の記憶ですらそうですよ。

兄弟間で親のイメージってずいぶん違いますし。

アメリカではアダルトチルドレンという臨床心理の概念が流行った頃、

ひどい話がいくつかあったそうです。

それは、自分が子どもの頃、親にレイプされたとかいって、親子間で訴訟が起こるようになったことです。

それで、その根拠が自分の記憶だけで、後になって事実無根だったっていうのがわかるケースもけっこうあったんです。

自分が記憶を捏造してるという。

もっとひどいのが、「この子のお父さんが、誰々を殺しているのを見た」とか、

そういう証言によって、刑務所に入った人が実は無実だった、っていうケースとかもあるそうです。

これは、いかに人は思い込むかっていう話です。

そもそも実体がないものだから、人間はいか様にでも思い込める。

そもそも相互に思い込みを共有することで成立している。

そして他者と共有ができないものは「妄想」になるし、共有できれば「正しい認識」ということになります。

戦争中なんか「鬼畜米英!        」なんて言って、みんなでそう思い込んでいた時は、いかにもそれが正しい認識だった。

けど、戦後はそうじゃないから、今の人は「その頃の日本人はなんてヘンなことを考えていたんだろう」と、みなそう思います。

もっとも当時にしても、そんな政府のスローガンを、みんながみんなが共有していたわけじゃないですけどね。

だけど今の日本には、「中国人は日本と戦争したがっている」と本気で思うような、現実が見えない人たちもいるわけです。だから、思い込みは、関係性を悪くする毒のあるものだと思います。

6)

クリント・イーストウッドが「硫黄島」(第二次世界大戦中の激戦地)というハリウッド映画を撮りました。

出演者はほぼ日本人で、日本人側から観た「硫黄島の闘い」(第二次世界大戦中の激戦地)をテーマに作った戦争映画なんです。

だから言葉は全部日本語で、アメリカ人は字幕みてる。

今でも語り草になってるぐらいのいい映画ですけどね。

米軍の予定では二、三日で占領できるつもりだったのが、アメリカは大変苦戦した。

結局、三ヶ月もかかって、補給のない日本軍が結果的には敗れるんですが、

日本側の死傷者よりもアメリカ側の死傷者の方が多かったほどの激戦だったんです。

指揮官の栗林中将という人が、圧倒的な物量差の中で闘ったんですが、

戦上手の上、アメリカのハーバード大学での留学経験があったので、ある程度、米軍の考えが読めたんですね。

他にも、乗馬の名手でオリンピックで金メダルを取ったバロン西っていう人も、

大佐として従軍していたんです。

2人とも欧米人とも親交があったから、捕虜の傷を手当したりもしていた。

でも逆に、米軍に投降した日本兵が、虐殺されたりしたんです。

これらは全部事実なんですけど、

表の歴史で語られてきたのは、それとは逆ですね。

米軍は正義で日本軍は残虐だった、というイメージです。

実際に第二次対戦以降の戦争では、どちらも人間性を失って、

残虐なことをしていたんです。

まあようするに歴史は、勝者側が世界に刷り込む妄想みたいなものなんです。

7)

同じことでも、見る側によってかなり変わりますしね。

そもそも我々は、学校の歴史の授業で特定のイメージを刷り込まれているんですよ。

最近のフェイスブックで見たニュースですが、アメリカ人が胸にプラカードを下げてるんです。「コロンブスはアメリカ大陸を発見していません」っていう。

他のプラカードにはさらに「ネイティブアメリカン、いわゆるインディアンたちは、漂流しているコロンブスたちを発見した。」

このプラカード、実はアメリカの歴史教科書を皮肉っているんです。

なぜなら、アメリカの教科書には「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」と書いてあるんです。小学校ではそう教わるわけです。

でも逆に、先住民族側から見たら、われわれの先祖は漂流してる人を助けて食べ物あげて世話した。なのに元気にした途端に、彼らに殺され始めた。

この二つの歴史観って、真逆じゃないですか。

そもそも人類の歴史は戦争の歴史です。

だから勝った方が作るのが歴史です。

現実は全然別ものなんです。

8)

本文に戻ります。次にQ&Aというのが出てくる。

86P 9行目

問ふ もし無常、苦、空等の観を作(な)さば、あに小乗の自調自度(じじょうじど)に異ならんや

質問は、「“無常”といったら永遠のものは存在しない。

”空”といったら実体はない。

そういう話だけど、それは小乗仏教のような小さな悟りの話ではないんですか?」、と。

この「実体がない」というのは、

そのことをただ頭の中で繰り返し自分に言い聞かせても、わからないのです。

で、どうしたらわかるか?

ひたすら他者の苦しみを救済しよう念仏し祈っている。

すると、自分が忘れ去られる。

身体感覚がなくなって、一切に広がる空性というものを体験する。

そういう体感の中でわかってくることなんです。

で、現実としての思い込みの代わりに、空性の果てに何が出てくるかというと、

阿弥陀様の大霊とか、お浄土の実体というものが、心の中から現れてくるわけです。

9)

原始仏教には、お浄土とかの概念がないですから、瞑想し、ひたすら自分の欲望を捨てていく、という話になるんですね。

ところが大乗仏教になると、そういう「欲をどうする」とかのレベルの話はしない。

大乗仏教の経典で、維摩経というのがあります。

この経典のスターは、維摩居士という人で、

お釈迦さまのお弟子さんたちを、法論でみんな論破しちゃうんです。

たとえば舎利弗(シャリホツ)が、維摩居士に「おまえ、なんで女性と口をきいてるんだ」と言うんです。

でも維摩に、「どこに女性の実体があるんだい。それはあんたの思い込みじゃないか」(一切は空で実体がないから)と、逆に言い返されたりするんですね。

維摩経は、いわゆる大乗仏教のエッセンスを説いたお経ですから、「男性とか女性とかの相対にこだわるのは変だ。男女などの性差にこだわるのはおかしい」と説いているのです。

10)

さて、法華経には下記の有名な言葉があります。

86P最後の行

大慈悲を室となし 柔和(にゅうわ)・忍辱(にんにく)を衣とし諸法の空を座となして ここに処(お)りて為に法を説け

さきほど、「ひたすら他者の救済を祈る念仏修行の中で、自分が忘れ去られる、そして空性体験をする」と言いました。

大慈悲、柔和、忍辱って何でしょうか?

そもそも人に、法にを目覚めてもらおう、と思ったら、これは並大抵のことじゃないですからね。

「おまえ、なんでわからないんだ!」って叩いたってわかるもんじゃない。

逆に、土下座したって、わかってくれるわけじゃない。

あの手この手を使って、いろんな「方便」(手だて)を使って、

悟りの世界、本当の実体の世界に往ってもらおうとするんです。

それはもう、ものすごい下座の心で忍耐心がいることだから、これを「忍辱」(にんにく)と言います。

これは、ひたすら相手のために、自分のいろんな気持を抑えながら、お付き合いしていくってことですよね。

「柔和」っていうのはつまり、相手のその時々の状態に、柔軟に対応していくってことです。

これで駄目(わかってもらえなかったら)なら、次はあの手でいこう、とかね。

それに人は、今日と明日で変わるし、その時その時で調子良かったり、悪かったりもする。押し付けでなく、相手を主体に考えたら、そういう風になります。

だから常に、「柔和・忍辱を衣とし」ということなんです。

それでなきゃできないことだから。

小さな自分も相手もなく、お浄土の本性から、相手の仏性が顕われてると心に想って、常にそれを土台として、法を説きなさい、と。

だから、実体がないとか、空とか、そういう話をしていても、

少しも小さな話(小乗仏教的な話とか、単なる哲学的な話)ではないのです。

「空」といっても、それは慈悲の心を妨げるものではない。

菩薩の悲願、一切の人々が本当の喜びの世界に生きてほしいという悲願、

これが消えることはないんです。

11)

87P 6行目

問ふ かくの如く観念(かんねん)すれば何の利益かある?

「ここで観念しろ!」とかは、時代劇や刑事物に出てくるセリフですけど、「観念」というのはイメージのことです。

明治時代に入ってから、英語を日本語に訳したときに、仏教用語とかいろんなものを持ってきて訳語にしました。それで、元々の意味がわからなくなっちゃったのが多いんです。

観念の本質はイメージなんですよ。そして大乗仏教の修行の基本は、仏様のすがたや形をイメージすることなんです。

それでここでは、「仏さまをイメージすることでどんな利益(ごりやく)があるのか?

と質問しているのです。

12)

次に出てくるのは、「人間界の本質は三つある。無常、苦と不浄だ」と。

人間には必ず終わりがある。

終わりがあるだけならいいけど、

終わりに向かって肉体レベルが落ちていくというのが、

何とも心憎い天の配剤ですね。

でもこれは、自然の配慮でもあるんですよね。

”先は終わり”ってわかっていながら、肉体レベルが上がっていったら、

“まだまだうまいもん喰いたいな”、とかなりそうだけど、

普通は、だんだん執着がなくなっていくものなので、

終わりが近づいたら肉体レベルが落ちて、あなたもうそろそろ観念しなさいよ、という、そういうメッセージがあります。

で、”こっちも、そんなに欲しくなくなったから、まあいいや”、とかの気にさせてあげよう、という自然の配慮なんですよね。

もっとも逆に、若いうちに白血病とかで苦しむのも、人生に真剣に向き合わそうという、ある種の配慮ですが、、、。

例えば、働きざかりなのに「明日死刑ね」とか、「あんたの病気では、もう明日は終わりかも」と言われたり、三日後とか、十年後だったとしても、死ぬことを宣告された方は、ずっと頭の中にありますよね。

でも実際のところ、人間っていうのは、みんないつか死ぬ運命を負っているんですよね、期限を宣告されてないだけで。

そこを、とりあえず自分は死をないことにして、というかなるべく考えないように生きている。

これがもし、「何年何月何日に死ぬ」とわかってるとすると、おそらくそれはずっと頭の中にあって、それで生き方がずいぶん変わるんじゃないかと思いますけどね。

どうして自分の死がいつ来るかわからないようにしてあるのかな、って思います。

もしも寿命がそれぞれ決まってて、「あと何年何ヶ月で死ぬ」とかわかってて、歳を死から逆算して数える世界だったら・・・と思います。

普通の会話で、年齢を聞くのでなく、「あなたは、あとどれぐらいで死ぬ予定ですか?」、「僕は、あと十年三ヶ月です」となって、“あ、この人の人生、あと十年なんだ、、、」とか思ったりね。

そうしたら、みんな人生観変わるでしょうね。

「あいつ許せない」と思うような相手がいても、

「あと十年で死ぬ」とわかってたら、「ま、いいか」とかなるんじゃないですか?

 なんでそんなふうに人間を作らなかったのか、な。

「あと三十年の寿命」とわかっているから、三十年ローンの家買うのなんか控えちゃうとか、ね。

13)

まあ、それぞれの個人の寿命はわからなくても、あと二億五千万年したら、誰も地球には住めなくなるんです。大陸が全部つながっちゃって、海流がなくなって、もう生物は住めない。

ただ、ね。我々がいろいろ努力して文化を作ったり、心を成長させたりしたものは、宇宙の無意識の中に全部入るんです。

だから仮に「人類滅亡」となっても、いつか違う生命態が誕生した時に、やがては全て継承されていくことになるんです。

心のものは一つも無駄がないんですよ。

物質的にどんなものを築いたって、ピラミッドみたいに壊れたら終わりですけど。

本書に出てくる「無常」っていうのは、そういう話です。

14)

そもそも、なぜ無常について語れるかといったら、

それは、無常じゃないものが根底にあるからでしょう。

つまり永遠のものね。

無常、死については、永遠性とつながってはじめて明るく語れるんです。

そうでないと暗いイメージになってしまうから、死について語ると、「縁起でもない」とか言われちゃって、それは禁忌なんです。

永遠のお浄土という根底が実際にあって、そことつながらない限り、死は禁忌になってしまいます。

いわゆる人間界っていうのは無常です。

けど、お浄土というのは快楽(けらく)、喜び、幸せ、全てが無限に向上していくという世界です。

それが前提にあって、はじめて「人間界は無常だ」って言えるんです。

だって、もし全てが無常だったら、無常だなんて言えないでしょう。

概念というのは、相対があってはじめて成立するのですから。

だから、この世しか信じていない人に、”人生は無常だ”という話をしたら、なんとなく気分の悪そうな顔をするんですよ。

以前は、こういうワークをやったら、「私、やめます。」とか言って怒って指圧クラスに来なくなっちゃった人もいましたよ。怒らなくてもいいのにな。まあ、時代も変わって来て、最近はそういう人は少ないかも知れないけど。

死後の世界はわからないけど、とにかく、死はないことにして生きるという人生観と、

わからないけど、何となく、死後の世界は素晴らしい、と思ってる人生観。

後者は気楽なんですよね。

どちらがいいのかといったら、やっぱり気楽な方がいいな、と僕なんかは思いますけどね。

15)

際限のない喜びがある世界が前提にあれば、仏教の「苦」という概念にしたって、これは人間界特有の苦しみという意味なんだ、とはわかりますよね。

普通は「苦しみ」と言ったって、せいぜいが彼女に振られたとか、競馬であり金すったとかで、それは人間でいること、存在していることに対する本質的な苦しみとは、また別次元の表層的な意味での苦しみ、なんです。

で、実は、人間界で得られる喜びとか幸福というのは、、そういった表層的な苦しみが「ない」状態だけを言うんですよね。

飢えた→食べれるようになって幸せだ、とか、、、。でも、それが当たり前になると、もう幸せを感じなくなるんです。

人間界で感じる幸福というのは、不幸を脱したときだけに感じるもので、それは本質的な幸福とは言わないんです。

浄土的な、幸せ感というのは、幸せ感がどこまでも深く大きくなって行くのですから、人間界の幸せ感とは、まるでレベルが違うのです。

というか、人間界で感じる幸福を幸福とは言わないぐらいです。

なぜなら、人間界で感じるのは不幸を前提として感じる幸福だからです。

だから、人間界以上の喜びというのがあるのが、なかなかわからないんです。

お釈迦様が「人生は苦である」と言ったのは、「人間であることは、苦である」という意味なんです。

それは、苦を一瞬でも忘れられている状態を、世間では幸せだと言っているからです。

つまり人間界で感じる幸福は、苦がなければ感じられないものです。

人間界の幸福は、苦を前提にして存在し得ている幸福感ということです。

だから、「人生は苦である」と言われたんですね。

16)

不浄もそう。人間界では、トイレもいかないといけないし、

「あんな美人でもトイレ行くんだな」とか。

でもその不浄を、見ないふりしてるでしょう。

実際、人体にはたくさん細菌がありますから。

それで、人間なんてそういいもんじゃないんだよ、と。

経典で語っている「不浄」は、お浄土の穢れの一切ない美しさ、

どこまでも美しさが、深まっていくお浄土を前提にしたとき、

人は、初めて人間界の不浄について語れるんです。

なぜなら、人間界で感じる美しさは、

不浄という相対概念がなければ成り立たないんです。

人間界の美しさは、その時々だけのものであり、

それ自体で独立して存在している本質的な美しさ、ではないんです。

17)

さて、90ページからは、いよいよお浄土の十の素晴らしさについて語られている部分に入ります。

90P 5行目

今、十の楽を挙げて…

お浄土に生まれてどうなるかというと、

92P 11行目

初めて開く時、所有の歓楽、前に倍すること百千なり。

歓楽(歓びと快楽=けらく)、喜びと気持ち良さが、これまでの千倍、百倍になる、と。

これね。

なぜ、お浄土が快楽と言えるかというと、

念仏三昧をやっていて肉体感覚が消えていく。

そもそも、触覚が認識の実体なんですけど、その触覚が薄まって肉体感覚が消えると、それに伴って、霊的な快楽が出てくるわけですよ。歓喜光に打たれたら、喜びが湧いて湧いてしょうがない状態にだって、なる。

だから、肉体が消失した後の世界が、喜びと快楽なんだな、ってわかるんです。

(合掌)