聖書 第10どのような気持ちで霊的修行するか                        

(マタイ伝第 20章~

法話ライブ at  京都道場  2014年10月4日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

動画URL: http://youtu.be/BM9PzF8AQ-E


聖書は進むにつれてますます謎が深まってきます。

イエスが「もうすぐ殺されちゃう」とちらっと言ったりします。

膨大な喩え話をしますが、わかりにくい。

行動も不可解なことが多いです。

キリスト教の方は聖書をどう解釈されてるのかな、と思います。

マタイ伝20章からです。

 

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。

彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。

それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。

そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。

そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。

五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。

彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。

そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。

もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。

 イエスは大工の子で日雇い人夫みたいなこともやってたと思いますから、聞く人も非常に身にしみて聞こえたと思います。

当時も日雇いで仕事にあぶれた人も多かったと思います。

今でも山谷の方に行くと、仕事を待っている人のところに手配師みたいな人が来て、仕事にあぶれた人は残るというのがありますけど。

そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。

自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

神様が後に悔い改めた人でも先に往かせる。

これは浄土教のテーマでもあります。

一生念仏を唱えていた人がいる一方、最後に十念を唱えて往生した人がいる。

後のものが先になる。

これはよくある話ですけどね

サンガをやっていると身近に感じる話です。

後からくる人ほど早くわかる、ということがあります。

イエスはこういう喩え話だけ、ぱっとして終わっちゃうんです。

聖書にもこれしか書いてないです。

我々サンガをやっていて浄土教の教えを学んでいますから、

後のものが先になるというのは、如来様の慈悲というのは全く同じである、ということと推測できます。

いわゆる人間の常識を根底からひっくり返すような前提になっているということを学んでいます。

そうでなかったら面白く無いですけどね。

霊的世界が人間世界と同じように長年やってきた人が偉そうな顔をして、新参者は小さい顔をして、というようになっていたらつまらないです

量子力学もそうですけど時間も強弱もなく飛び越えている。

浄土教の言葉で横超と言います

横からパッと来て飛び越えちゃうこと。

さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、

「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。

彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。

そして彼は三日目によみがえるであろう」。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

偉い人は自分たちの仲間なのに、ローマからもらった権力にすぎないのに、仲間に権力を振るっている。

ユダヤ人は当時はローマに支配されていたでしょう。

昔からそうですけど、植民地を直接支配すると憎しみが自分たちに向くので、

現地の言うことを聞く人に良い給料を渡して支配させる構造を作るんです。

イギリスのインド支配もそうでした。

ローマ時代からそういうことをやっていました。

日本はそういうところが下手で植民地という発想がなかった。

同化政策でみんな日本人だというふうにして、それでいて差別構造を持つという

わけの分からないやり方でした。

2000年前から支配している人たちは慣れているわけです。

新参者というか、日本は非常にヘタを打って未だに憎まれている。

今植民地支配していたところで憎まれているところは少ないでしょう。

未だにインドがイギリスを憎んでいるとかあまり無いじゃないですか。

歴史の表に表れていないけど植民地になったところは長年酷いことが色々ありました。

ビルマにしてもフィリピンにしても。

今も支配のやり方も、実はそうなんですよ。

各国の政府の背後に隠れている人が、政治家を操って、法律を変えさせて支配する、という構造になっています。

あなたがたの間ではそうであってはならない。

かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない。

本当はそうなんですよね。

偉くなりたい、というのは精神的に、という意味です。

普通、逆をやってしまいます。

オウムなんかも非常に純粋な面があった一方、階級社会になっていました。

ステージと言ってステージが上がると女の子でも偉そうにして、それには「ははーっ」とひれ伏さないといけない。

猿の階級というのも非常に厳しい絶対的なもので、人間が階級を作りたがるのはそれの名残なんですね。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、

自分に仕えられるのは望んでいなくて、仕えるために来たんだと。

 お釈迦様もそうでしたし、本物の人はそうです

仕えられて喜んでいるというのはおかしい

霊的な修行をしている者としては

本当は逆でないといけないんです。

お客様になっちゃうのもおかしいです。

お客様になるということは、自分が偉くなってしまうということでしょう。

それではいけません。

さて、過ぎ越しの祭のお祭りでイエスの一行が行きます。

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。

もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。

そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。

イエスがロバに乗ってエルサレムに入城すると群衆がわーっと来るというシーンがあります。

キリストに関する映画は見たことがないのですが、このシーンの予告編は見たことが有ります。

それだけの話しなのですが、なぜかこの情景が残るんです。

映画のシーンになるくらい。

なぜ残るか考えたのですが、律法の言葉が成就するために来たことをイメージさせるためだと思います。

エルサレム入城.jpg

キリストのエルサレム入城 シャルル・ル・ブラン 1689年頃

「見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。

王とは霊的な王という意味です。

ロバは人間の荷物を背負わされて一つも文句を言わない、そういう存在です。

イエスが人々のカルマを背負ってエルサレムに向かって十字架にかけられる。

そういう物語を作っていく最初のシーンだと思います。

自分がどうなるかわかっているので、群衆が来て服をロバの下に敷いたりしても本当は嬉しくないと思います。

なぜ自分がロバに乗っているか、というのを人々のイメージにインプットしています。

人々に仕えなさい、人々を背負って行きなさい、そういうことを言っています。

無量寿経に菩薩の定義として、人々を背負って、求められなくても友になる、とあります。

イエスのそういう菩薩的な姿を描いています。

門前町のお祭りの時みたいに、人が来るところには商売人が来て色々なものを売っていたりします。

イエスは宮にはいられた。

そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。

そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

そのとき宮の庭で、盲人や足なえが御下にきたので、彼らをおいやしになった。

エックハルト先生がどんでん返しの解釈をしてくださっています。

恐らく他のところも謎を説いてくださっているのでしょうが、異端とされていたのでローマ教会に本を焼かれてあまり残っていません。

我々が念仏などの修行をするときに、これをやったら何かあるのではないか、と思いながらやっていないですか、ということです。

何かを引き換えに神様と取引するような思いで修行することの象徴として、強盗と書いています。

そんなことはしてはいけないと。

どれほど何をしたとか、何を犠牲にしたとかは一切関係ない。

他力というのは一方的に届けられるもの、しかも不可知であり誰にも分からない。

そういうように期待してやるものではない、と解説してくださっています。

あそこまで深い悟りがあると離れ業的な解釈ができるのですね。

その次の部分は解釈してくださっていません。

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。

そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。

そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。

すると、いちじくの木はたちまち枯れた。

恐らく色即空のような二律背反的な合一性があると思います。

物語として覚えてしまう、そこに意味があると思います。

弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。

イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。

恐らくイエスはそれくらいの力を持っていたのでしょう。

また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。

人間の持っている祈り、念力、心の力は恐らく世界を変えうるでしょう。

キリスト教にはそれを示すという非常に大きな意味があります。

仏教は空の思想が土台ですから、哲学的に

インド文化では現実はすべて幻想ですから、外の世界を変えようとは思わない。

あとになって密教が入ってきて現実を変えていこうという働きがでてきました。

空海、弁栄上人、日蓮は奇跡的な力を起こしたりしました。

お釈迦様ももちろん神通力が有りました。

キリスト教のここでイエスが言っているようになんでも出来たのなら、

十字架にかからないということも出来たでしょう。

この二律背反性を象徴させたのかな、と思います。

本当だったらどんなことでも出来たのに、なぜ十字架にかかったのかと。

人間が我を滅ぼすことの厳しさを示して終わっていこうとしたのか。

いろいろな解釈が成り立ちます。

記録を調べてもイエスは存在した証拠がないという説もあります。

当時北アフリカ一帯に、処女のお母さんから産まれて奇跡を起こして十字架にかかって死んで3日後に甦るというストーリーはありました。

その物語で作ったという説もあります。

ただ、十字架にかけられて死んだという裁判記録は残っているんです。

それを決めたピラトという人のやりとりも残っています。

実際にいたかどうかは、どちらでもいいと思いますけど。

もしいなかったら、こんなに悩んでいるところが残っているかな、という気もします。

もしくは、こういうのに近い人がいたか。

イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。」

取税人はローマに代わって当時のユダヤの国の人達から税金を取るから、憎まれて当然ですね。一番軽蔑されていた人たちです。

「後のものが先になり」

「最も高いものは最も仕えるものでなければならない」

「山すら動かすことが出来る。」

二律背反の中にして、なおかつ中道に立つ。

この離れ業的な精神的境涯を残すことが必要だったのでしょうね。

なんでも出来るというところだけに立っていると、恐らく我も上がってきますから。

なんでもできながら、同時にそれすら超えた所に立つ、というものを教えとして残したかったのだろう、と思います。

(完)