聖書 第17苦しみを引き受けて光を顕す道                

(マタイ伝28章)

法話ライブ at  東京道場  2014年12月13日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=O1sijhU9Irk


(Ustream不調のため後半からです)。

コミュニティの破壊は昨日出た話ですが、一番顕著なのは日本中、商店街が全部シャッター街、ゴーストタウンになったことです。

地域コミュニティの経済が破壊され、みんな大型店に行くようになりました。

元々は商店街は大型店を作らないという法律で守られていました。

あれは小泉・竹中時代に法律を変えたためです。

(大規模小売店舗法。略称は大店法。2000年に廃止された)。

何のために変えたのかというと、目的はコミュニティの破壊と人々の孤立です。

小泉さんがそう思ってやったわけではなく、その背後の話です。

一人ひとりが孤立すればするほど、霊的な世界に向かわなくなります。

孤立すればするほど、不安になればなるほどお金に頼るようになります。

貧しくなればなるほど、人は支配されてしまいます。

なおかつ、伝統的な宗教や修行に対して

みんながネガティブになるようにいろんな事があります。

表面だけ見てると、自然現象が起こったり、バカなやつがあんなことをしたとか思うかもしれません。オウムはバカだからとか、そういうふうに見ます。

どれほどあれで修行という言葉がインフレを起こしたか。

どれほど宗教というものが貶められたか。

これはオウム以前からですけど。

我々が霊的に発達することが一番してほしくないことなのです。

逆にだからこそ、我々の霊性を向上させるべき時代になってきました。

本当はそこの所に気が付かないといけません。

外の世界に文句をいう事自体が同じ土俵に入っているということです。

前々回の、「疑問を持つ」、ということについて

本物の師匠、道に対して疑問を持つということ。

偽物の師匠、道に対して疑問を持つということ。

前回は、本物の師匠なのに、エゴが受け入れられなくて疑問に転化したのか、偽物の師匠に対して、霊的な直感で、おかしいと思った疑問なのかを、どうやって区別をつけたら良いか分からないと言いました。

モノサシは、その時、自分のエゴに対してちゃんと向き合っているか、

自分を正当化していないかどうか、です。

自分を正当化したうえでの疑問は、エゴが転化したものです。

自分の中の問題が分析してクリアにしたうえでの疑問であれば、それは正しい直感に基づいた疑問である可能性が高いです。

ただ、自分が心の中を分析してクリアにするということ、は行動して乗り越えるということです。

乗り越えたら、その疑問は消えるのです

疑問が消えるというのは、そのときは別の状況になっているということです。

状況が変わらなかったとしたら、疑問は我の転化したものです。

心のそういう動きというのは必ず状況を変えるのです

外の状況が変わらないということは自分の我を優先した結果です。

イエスを見よ!ということです。

イエスはあれほどの苦しみを負って自ら霊的に復活しました。

十字架を背負わない者は私の弟子ではない、

といって自ら十字架にかかっていくわけです。

もちろん本人も嫌だったわけです。

滝のような汗を流したり、オレはこんなに苦しんでいるのに、と文句を言ったりします。

でも、役割を引き受けて、壮絶な苦しみを見せて死ぬわけです。

男の弟子たちは逃げてしまいました。

女性たちは最後まで付き添っていましたが。

責任を引き受ける、という覚悟のうえでの修行でなければ、それはニューエイジ・スピリチュアリズムとあまり変わりません。

スピリチュアリズムと変わらなければ表面的なところで結果を求めるだけですから。

そういうことを繰り返していくのがスピリチュアリズムのワークショップを渡り歩く人たちじゃないかと思います。

そういう人は多いと思います。

如来様と向き合うということは自分の我、カルマと向き合うということです。

対面と直面はセットなので、避けようがありません。

それが人の道だから。

自分と一切が含み合っているのが宇宙の真実だから。

ひところ、自分探しというのが流行りました。

あれが流行った頃には、みんな「自分は何なのか」、「自分は何をやっているんだろうか」

なんとなくそう感じていました。

孤立すればするほど、人はそう思います。

自分しかいなければそう思います。

本当は自分というのは一切ですから。

ここからここまでが自分、と限定してしまった場合は自分は無いのと一緒なのです。

外の世界が関係なくなってしまいますから。

そういう時に人は自分を見失ってしまいます。見失わされてしまいます。

コミュニティを失い、人との関わりを失った時に自分がなくなってしまうのです。

神戸の少年が「透明なボク」という言葉を残しました。

(1997年の神戸連続児童殺傷事件。犯行声明で酒鬼薔薇と名乗った。)

そういった世界のネガティビティを背負っている人たちが引きこもりの人たちでしょう。

我々が苦しみから逃げるほど、ネガティビティはどこかに行きます。

外の世界に文句を言うこと無く全部引き受ける。

盲目的に引き受けることなく、表面的世界の裏の原因まで見抜いた上で引き受けて光を現して

イエスのように物事を実現していくパワーと愛を人生に発現していく。

それを死後の復活物語として表されています。

復活まで3日というのは象徴的です。

3というのは神話などでよく出てきます。

デートも3回断られたら諦める(笑)

3回言われたら応じるわ、という人もいるらしいですから。

3日たったら白い不思議な姿をした青年が立っていてイエスが復活されました

福音書によってところどころ説明が異なりますが、

新たな自分が生まれ変わっているということで全く純粋無垢な青年なり霊的な存在が現れて復活を伝えるのです。

弟子の中には穴の空いた手のひらの跡に指を入れられないと信じない、と言うものもいました

後でイエスが後ろに立っていて、入れてみろと言ったり、面白いですね。

君たちに私の力を全部授けるから、と言って丘の上に連れて行きます。

弟子たちは何を表しているのでしょうか

十字架を引き受けていくならばイエスと同じ力を授けられるということです。

本来持っていますから。

イエスが天に登っていくのを見届けます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

と言って去っていきます。

我々の内なるイエスが復活して現れてくるには逃げてはだめです。

(完)