最高の人生を歩め!


法話ライブ at  京都道場  2016年10月1日

法話:遠藤喨及

書き起こし:純佑

動画URL:

https://www.youtube.com/watch?v=WLp_EvzutOY


1)宇宙の理法に生きる

タオサンガの戒とは何でしょう?

本来仏教の戒とは、外部から「どうしろ」と決めつけるべきものではないのですね。

「戒体発得」と言って、戒の本体である宇宙の理法に生きるのが、修行者本来の姿ですから。

宇宙大霊との合一から顕れる想いを抱き、行動をし、言葉を口にするのが、三密加持した修行者としてのあるべき姿です。

それは、外から「ああしなさい、こうしなさい」というのではなく、自然に発現してくるべきものです。

だけど、人間はそう簡単にいきません。

なのでタオサンガでは、わかりやすい指針を持つようにしています。

その一つは三業の一致です。

三業とは身口意、つまり行動と言葉と想いですね。

自分が言ったことを行わない、という人が多いです。

「言葉に責任を持たない」ということが往々にしてありますよね。

2)人生を全うするためには、絶対に避けて通れないこと

実は、言葉というのは霊なんです。

もし我々が、言葉のない世界に住んでいたら、認識はありません。

認識がなければ世界がないのと同じです。

我々はその辺を、なめてかかっているというか、厳しく追求していませんね。

だから、言葉と想いとをバラバラにするんですね

もし、言ったことを行動として表さなかったら、それは人生に対する裏切りです。

すると自分自身の言葉に信用を持たなくなる。

そうなったら物事を実現できない人生になるんですよ。

もし、思っていないことを口にしたり、やりもしないことを言ったら、絶対に気持ちが悪いはずです。

これは、人生を全うするためには、絶対に避けて通れない、とても大事なことです。

3)どこまで人生を十全に生きているか?

一体、どこまで人生を十全に生きているのでしょうか?

十全に生きる、ということは、無限の潜在力を発揮するということです。

なぜ潜在力は無限かというと、自己の根底は阿弥陀様だからです。

潜在力が無限なのに、自分は三宝に責任を取るのが難しい、などと口にする人もいる。

それでは、如来様の無限性を否定することになります。

如来様の無限性を否定する心とは、一体どんな境地なんでしょうか?

心の境地は死後に自分の世界として顕われる世界です。

それに、自分で限界を作ることは、狭く限定した、十全でない人生を生きることになります。

4)自分の人生を十全に生きる

そもそも、我々が世界を認識しているのは、阿弥陀様が「我=わたし」というフィルターを通して認識しているのです。

もしかしたら、個人的な想いで世界を認識していると思っているかもしれません。

でも実際には、自分の我という「識」を通して、宇宙大霊の如来が認識している世界なのですよ。

だから識を変えたら世界が全部変わるんです。

どれだけ世界を狭く認識していることでしょうか?

自分(我)の既成概念が、世界をどれだけ狭くしていることでしょう?

人生の指針は、自分の人生を十全に生きるために必要なものです。

5)人間としての責任は?

指針のもう一つは、三宝受持です。

三宝は仏法僧ですが、この受持とは何でしょうか?

普通は、教えを頂いて受け取る、と解釈してしまいます。

でも受持というのは、そんな浅い話ではないんですね。

「仏法僧」が輝き、また広がるように、と責任を持って実践することです。

責任という言葉も誤解されているので、話がややこしいですね。

なぜ、義務のように「負わせられる」というイメージなんでしょうか。

実はこれ、仕事に対するイメージから来るんです。

だって今、仕事といえばお金のためになっているでしょう。

お金にしばられている。

でも本当は、人間の仕事はそんなものではないのです。

もっと霊的で、もっと可能性に満ちたもののはずです。

動物の仕事は、食べ物を取ってきたり等、生存に関することです

でも動物でも高等になってくると、鳥が水場でバシャバシャしたりなど、遊ぶのです。

本当は、人間だって高度になればなるほど、生存やお金よりももっと大きな意義を持って生きるようになるのです。

受持は、お金が絡んでいるから責任がある、というわけではないです。

お金をもらっていないから責任はない、とか、お金もらっているから責任がある、

とかの分け方って変でしょう。

だって人間としての責任は?を考えたら、意味がわかるじゃないですか?

6)英語のResponsible(責任)は、神にRespond(応える)こと

「人間としての責任」とは、自他の人生の幸福に責任を持つこと。

最も意味があり、最も幸福であり、最も潜在力を発現する人生。

自分にも他人に対しても、これの実現に努めること。

これが基本なんですね。

なぜかというと、人生、命というのは与えられたものですから、、、。

如来様は、「オマエ、最高の人生を歩めよ」と私らを人生に送り出したはずでしょう?

それに対して我々は応えなければなりません。

だって、英語のResponsible(責任)は、Respond(応える)から来ているんですよ。何に応えるのでしょうか? 神様に、ですよ。

それが使命なのです。

「最高に命を使いなさい」という使命なです。

それをしなければ責任放棄となり、それは人生に対する裏切りなのです。

責任を持つことによって、人生に大霊、如来様が宿ります。

自分の言葉にも行動にも如来様が宿るのです。

7)真言の修行をしている者が言葉を裏切ったら、修行そのものが成りたたない

我々は念佛をやっているわけでしょう。

念佛というのは、阿弥陀様の名前を唱える、真言を唱える行でしょう。

言葉をもって修行している我々が、言葉を裏切ったら、修行そのものが成りたたないじゃないですか。

”責任を持つ”、受持する、ということの本当の意味は、大霊を宿すということですよ。やりたくもない義務を負うということではありません。

8)責任を持てば、存在に如来様が宿る

自分の今の言葉、表情、想い、行動、全部は、本来一切衆生という、

他のためにあるんです。

本来は、自分のためというのは無いのです。

それに気がつかないと、自分にフォーカスしてしまうんです。

そして自己愛、自己撞着、自己中にまみれていきます。

そこには健康も、明るい未来もありません。

一切が個別の存在ではなく、因縁だけが実在だ、ということが分かれば、

自分のあらゆる想い、言葉に責任を持つようになります。

そして責任を持てば、存在に如来様が宿ります。

9)一切は自己の心中だからこそ

「他者」と思っている一切は、全て自分の心のなかに入っている存在です。

だから、相手の存在を自分の心のなかに入れるということが、”空に生きる”ということです。そして一切は自己の心中だからこそ、自分が他者の幸福に責任を持つのです。

この”「他者の幸福に責任を持つ」という生き方がタオサンガだ”という言葉。

また「三宝受持」や、”他者とコミュニケーションする場に責任を持つこと”など、、、。実は、今になって言い出したことではないのです。

2003年の講義録の中にも見つけることができるのです。

10)”今それを求めても無理だろう”と思った、、、

ただし講義の中では言っていても、最近までは、修行メンバーにそのような生き方を求めることはありませんでした。

それは、“とてもじゃないけど、今それを求めても無理だろう”と思ったからです。

でも、ヘレン・ケラーの「お互いの幸福に責任を持つようにならない限り、世界は変わらない」という言葉を読んだ頃から、それまではっきりと打ち出さなかった受持を、徐々に明確に打ち出すようになったのです。

なぜなら、三宝を受持せず、他者を自分の意識の外に追い出してしまい、「オレ、関係ないよ」とするなら、そこに宿るのは不健康な邪気だからです。

11)自分は未来に何を選ぶのか?

三宝受持をすれば、自らに如来様を宿し、如来様が発現する人生を送ることになりますし、また、お浄土の門が開かれることになります。

しかし受持しなければ、自らにカルマを宿し、カルマが展開する人生になります。

また生まれ変わっても、この先も輪廻の旅を続けることになります。

ならば、もはや曖昧にせず明確にしなければならない、、、。

少なくとも、自分が選択した生き方によって、自分の未来がどうなるのかを、はっきりと伝えておいて差し上げるのが、少なくともその事実を知った者の責任であろう、と。

耳が痛い人もいるだろうし、言われたくない人もいることでしょう。

”そんなことを言われるぐらいなら、そんなものを求められるぐらいならサンガをやめる”という人も出てくることでしょう。

でも、”食べたら確実にガンになる”とわかっているものを、目の前で食べる人に何も言わないで過ごすなどということは、どうしてもできません。できるはずもない。

だから言わざるを得ないのです。

”果たしてご自分はどちらを取るのでしょうか?

宇宙大霊の融合摂取を受けるのか、それともカルマを背負うのか?”と。

、、、お互い、自分が未来に何を選ぶのか? という方向性だけはしっかりと見極めていたいと思います。

                            (合掌)