聖書 第18回 悪魔と向き合う時代        

(マタイ伝

法話ライブ at  東京道場  2014年12月20日

法話:遠藤喨及 書き起こし:純佑

https://www.youtube.com/watch?v=tQV0iJfSlVE


聖書の登場人物を全部自分だと思って考えてみましょう。

そういう訓練をすると、外にいる人達も全部自分だと見る視点ができてきます。

 

最初に出てくるのがヨハネというキリストの先達の方です。

道を用意してくれる。

 

お母さんのマリアが純粋無垢の象徴です。

無垢の心から生まれてくるものの本来性の象徴がイエスです。

それも自分の中にあります。

 

悟りを開かれていくということと、それによってどんなことでも叶うようになる、という二本立てなのです。

だから人が惹きつけられるのです。

 

宗教の表に見える部分は捻じ曲げられています。

霊のことを求める人はこの世のことを諦めて修行に入るという暗い話になってしまいます。

恋に敗れて修道院に入りますとか、よく聞く話じゃないですか。

それは意図的に捻じ曲げられています。

 

今日の指圧クラスのテーマは「あなたが悪魔だったら」でした。

自分が悪魔で社会の仕組みを握っているとしたらどういうことをするのか、

何を目的としているのか、ということ。

それももうひとりの自分として考えていくと、この世の中がどうしてどうなるか、と分かります。

難しいですけど。

本当に分かってくるのはかなり想像力が自由になる必要があります。

 

イエスが40日と40夜、荒野で修行して伝道に行く前に悪魔が出てきます。

「この世をお前が全て支配できるようにする」と取引を持ちかけられました。

欲望を刺激するわけです。

 

お釈迦様が悟りを開く前は欲望も刺激するのですが、「こんな修行をして何になるんだね」とささやかれました。

 

みなさんには、そういう囁きが聞こえることは無かったですか?

「サンガなんかやって何になるのだろう」

「何をしてるのだろう」と。

 

生活が物質的に豊かになるとか、直接的な見返り、労働的な対価とかがあるわけではありませんから。

 

お釈迦様の場合は「命あっての修行じゃないか」とささやかれるわけです。

食べるものも食べず、寝るものも寝ないでひたすら「この場は死んでも離れない」と座っていますから。

 

なぜ悪魔は出てくると思いますか。

伝道の旅に出る前、悟りを開く前になぜ出てくるのか。

 

悪魔にとって一番困るのは我々が霊的に向上することです。

物質的な世界に行けば行くほど悪魔は喜びます。

目的は霊的に落とすことです。

 

霊的に落とすにはどんな方法があるでしょうか。

たとえば貧しい状態にすれば霊的なことを考えなくなります。

明日のパンを何とかしなければ、となります。

病気になって体が思うようにならなければ修行どころではなくなります。

不安に陥れたら修行どころではなくなる。

目の前に生活に追われるようになる

 

もうひとつの方法はセーフティネットを壊す。

コミュニティ、共同体があれば何も心配いらないわけです。

みんながお互いにガツガツしなければ安心なのです。

タイなんかはそういうコミュニティがあると思いますけど

家に遠い親戚とか居候していたりする。

だからマイペンライ*でそんなに働かないでも生活できる。

(注) ไม่เป็นไร タイ語で気にしない、大丈夫という意味。

タイ人の気質を表す言葉とされる。

 

タイ経済を牛耳っているのは中国系の華僑です。

もとのタイ人はそういうノリです。

そんなに不安になりようがないでしょう。

誰かがどうにかしてくれるし、自分に余裕があるときには助けるし。

 

ところが、孤立すればするほど、明日どうしよう、誰もいない、頼れるのはお金だけ、というようになっていくほど霊的な世界から遠ざかります。

 

もし社会的システムを握っているとしたら、

そのために法律を変えて、教育を変えて、と色々な手段を使って

そのように人の気持ちを変えていくということをするわけです

 

一番困るのは悟りを開かれること。

一番困るのは何も失うことがない、というぐらいの

安心感に満ちて、お互いの幸福に責任を持ち合うコミュニティを作られることです。

 

今、それが逆になっています。

世界中、どこの村でも都市でも街でも、日本はもちろんヨーロッパでさえ街の中心にはお寺や教会といた霊的なものがありました。

 

門前市というのは、都市の一部にお寺があって、参詣する人が多いから市ができたというより、もともと精神的なものが中心なのです。

 

どんな所でも神社や仏閣が必ずあって、それが人の心を霊的世界と結びつけていました。

そこに初めて人は安心感が持てるわけです。

 

怖くないほど、人は霊的世界に進みやすくなります。

怖くないほど、人のことを気づかえるようになります。

 

自分の利害に関係ないことには責任を保つ必要がない、と言う状態になってしまっています。

自分の利害にあることは責任をもつというのは責任とは言いません。

責任は利害とは関係ありませんから。

 

本来責任を持つということは、人を幸福にするための責任です。

関わった以上、本来はお互いに責任があるのです。

 

目の前にいる人が楽しくなるように、

その人が向上するように、

その人が幸せな気持ちになるように、

自然にお互い気遣えるというのが人間の本来性です。

そうでないと本当は人間は生きていけないですから。

 

もともとは人間は凄いクリエイティブなのです。

僕が今ロビンソン・クルーソーみたいになったら生きていけないかもしれませんが、本来は原始生活だったら、一人が何でもクリエイトしていかないと生きていけないでしょう。

 

お互いに責任を持ちあわないと、共同体がなかったら、人間は弱いから生きていけません。

一番弱い人たちを支えるものでないと、共同体として精神的には機能しません。

 というのは、自分の未来、自分がもしそうなったら、という無意識の不安を呼び起こしてしまうからです。

弱い人を支えることがないということは、自分に対して破滅的なんです。

自分もそうなるんだな、という緊張を生み出してしまいます。

 

その緊張を生み出すために弱い人を切り捨てるシステムができれば、

本来の人間とは真逆の状態になっていきます。

我々にとっては、それが当たり前と思ってしまっています。

 

宗教の一番の刷り込みというのは宗教的にさせないことです。

 たとえば、霊的世界に行けば物質的には諦めなければならないという脅し。

そういう脅しをかけられたら人間は縛られてしまいます。

 

それで明るく、ハッピーになれる人はいるのでしょうか。

霊的に非常に深い体験をしてしまえば関係ないから、ハッピーになれる人もいます。

 

逆にそういう人は物事が成就するようになっていきます。

イエスみたいに奇跡を起こせる。

だったら自分に縛りを掛ける必要はないじゃないですか。

 

本当は悟りを求めれば求めるほど物質的な縛りから解放されて、

物事が自由になっていきます。

 

ところが、どちらに行かなければならない、と刷り込むのです。

これがすごく我々を縛っているのではないでしょうか。

 

おそらく宗教者も縛っているし、人々を宗教的にさせないように縛っています。

 

考えてみたら恐ろしいことですね。

ローマ教会が人を縛るために国教になったわけです。

国教になったあたりでキリスト教は縛りをかけられてしまった。

 

中世になって魔女狩りや異端審問で、恐ろしい火炙りなど悪魔の仕業のようなことを

やっていました。まともに記録を読めないくらいです。

 

イスラム教徒やユダヤ人に対して、弾圧という言葉では生ぬるいくらいのことをしてきました。

 

一方では、エックハルトのように非常に深い霊的な体験をする人もいました。

エックハルトは当然のように殺されました。

一説によれば石をまわりに囲まれて出られないようにしたそうです。

エックハルトの本を隠し持っているだけで火炙り、とかそういう世界でした。

 

仏教にしても権力と結びつくことで形骸化していきました。

キリスト教のように残虐なことや宗教戦争はありませんでしたが

人が霊的な世界に往かないようにカルトをたくさん作りました。

 

カルトも一見自然発生的に見えますが、意図的に作られたものです。

「宗教は怖い」となり、ますます霊的な方向に人が往かなくなる。

 

オウム真理教もおそらくそうでしょうね。

そうでなかったらあそこまで大量の資金があって、あそこまでドラマチックにいかなかったと思います。

あれは人の心に非常に強烈なインプットをしました。

「宗教は怖い、霊的な世界に行かないように」

 

振り返ってみて我々自身のどこに一番の問題があるのか。

自分の利害に関係ないことは責任を持たない。

利害って大体物質的利害でしょう。

利害関係がないのに責任を持つのはバカみたい、そう思っていないですか。

 

本来の責任は人を幸せにするというところにあります。

なぜ責任がそんなに大事かというと

霊が宿るというのは責任を引き受けることによって、なのです。

 

生まれてきたということは責任があるのです。

それを見つけて、それを果たせたら一番幸せな人生で納得して死ねるでしょう。

それを果たしていなかったら、人は納得して死ねるのでしょうか。

ただ時間を使ってしまって何が納得できるのか。

 

本当は霊的な方向に行くというのは全然重い話ではありません。

霊が宿ったら幸せになれる。

悟りに向かって心が開くほどイエス様のように物事を実現する自由性が得られる。

心が全てだと言っているじゃないですか!

 

もし物質の方に行ったらポジティブになりようがありません。

物質はすべて朽ちるからです。

物質は朽ちることを無意識に知っているから、物質の利害の方に行ったら明るくなりようがありません。

それを越えて無限に広がっていく、無限に豊かになっていく、無限に美しくなっていくものとつながってそこに向かっていく。

一切をそこに向かわせるために、自分の生まれてきた責任を果たす。

そうであれば、この話は全然暗くないのです

 

人を貶めるシステムができていますが、そのせいかというと、そうではありません。

体に悪いと知っていながら食べ物を売るとか、

体に悪いと知っていながら患者にワクチンを打つとか、

仕事だからという名目で原発を稼働するとか。

 

みんながちょっと目覚めたつもりで文句を言っていることは、全部そういう人たちに支えられて起きています。

 

目の前の人一人を楽しませることや、何かを分かち合うとか、

責任を取るという生き方をしていなかったら

同じ仕事をしたら同じことをやっているでしょう

 

宇宙の構造的に、一人が霊的な方向に往くということは

他を往かせないといけないようになっています。

 

自分だけが悟りを開くとか、自分だけが明るい世界に往くとか

そういうことはできないようになっています。

 

だからお釈迦様が悟りを開いたあと50年間一日も法話を休まなかった。

2ヶ月一人で過ごされた時以外は。

 

イエスも伝道のみの生活をしていました。

必ずそうなんです。

 

最後にイエスの弟子たちが逃げた後の話です。

ユダもサタンが入ったとでてきます。

ユダは自分の霊を裏切るという象徴です

こういう道に行くべきだ、と分かっていながらやらない。

我々の中のユダがそういう行動をする。

優柔不断なピラトが自分で決断せずに

オレは手を洗うから、お前たちがイエスを十字架に架けるか決めてくれ、

お前たちの子孫が責任をとれと言った。

奥さんもイエスを十字架にかけてはいけない、という夢を見て止めましょうと言われて分かっていたのに止めなかった。

ピラトも自分たちの中にないですか?

本当に生きていることに責任をもっていれば、これはこうすべきである、とできる力を持っている。

 

なぜピラトが力を持っている登場人物として現れたかというと、本当は自分の人生は自分で決められるという象徴です。

それを人のせいにするわけです。

人のせいにしたら外に力を与えて自分の力は放棄したのと同じです。

 

弟子たちというのは私達です。

怖くて逃げるわけです。

 

狭き門より入れ。

滅びに至る門は広く、その道は広々とし、そこを通って入る者が多いからだ。

命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか!

それを見いだす者は少ない

 

逃げたくなることもあるでしょう。

逃げてどうするのか、と言ってもお釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空みたいに逃げられるものじゃないです

いつかはつきつけられる日が来ますから。

 

イエスのように全部引き受ける。

イエスは世界のカルマを引き受けた象徴として出てきます。

自分の身がズタズタになっても全部引き受ける気持ちで正面から道を進んでいく。

 

一説によると3時間、一説によると9時間、日没までおびただしい血を流しながら死んでいきました。

最後は足を折られるかどうかというところまでいきました。

 

当時は十字架にかけられたものは、まだ生きていたら向こう脛を追って心臓麻痺を起こして殺す、ただし、日没まではやってはいけないという法律がありました。

それまでは苦しめなければいけないということです。

両脇の人はそれをやられた、と聖書にあります。

 

それぐらいのものを引き受けるつもりでいれば魂が復活して、

弟子たちがイエスと同じの力を授けられる。

弟子たちの服の上を歩いただけで人々が癒やされる、という描写が出てきます。

イエスと同じ力を得て、世界の人々に神の愛を伝えていく。

イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

と言って去っていきます。

 

聖書の登場人物は全部自分のことです。

イエスのように自分の人生を全うするのかしないのか

2000年の間、人は繰り返し読んできました。

我々も読む度に心の中と向き合う、ということが無意識の中で起こります。

それで聖書は廃れることがないのです。

 

悪魔の話があまり深められなかったのですけど、そういった存在が明らかになるというのは面白い時代だと思います。

 

悪魔がキリストが悟りを開く前に現れたように、我々の前に姿を現してきたということは

今はのるかそるかのターニングポイントです。

人類がみんな滅びてしまうのか、みんなが霊的に覚醒して自由になって、光り輝く存在になっていくのか。

そういうところにいます。

ある意味こんなにワクワクする時代はありません。

 

外のものが原因ではなく、無責任な我々がそれに力を与えている。

だから仏法僧に生きる、霊的な世界に生きるということを、何かの門に入って発現するのでなければならない。

我々は肉体を必要としているように、サンガが必要なのです。

霊的な世界から見るサンガと物質的な世界から見るのは全然意味が違います

 

物質的な意味のサンガはサンガではありません。

次の一瞬をクリエイトしていく、豊かさを広げていく、光を広げていくのが本当のサンガです。

サンガをクリエイトするところに初めてサンガはあります。

命が生きていて初めて存在する、生きていないものは存在していないのと一緒です。

(完)